上空で、燃え滾る紅と白刃の流星が激突した。
炎塊と見間違うほどに巨大な火花が散り、耳を塞ぎたくなるほどの轟音がさんざめく。
紅と白は真正面からぶつかり、しばし互いに道を譲るまいと額をかち合わせる。
やがて白の方が根負けしたように、進行方向をわずかに右へずらした。障害物を失った白はあっさりと紅の横を通り過ぎ、しかし再びぶつかり合うべく、先ほどよりも加速しながら突っ込んでいく。
紅は喜びを露わにするように輝きを増し、超高速で飛んでくる流星を迎え撃った。
再度、轟音。
今度は衝突によって両者が止まることはなく、紅も負けじと突撃を敢行した。
轟音。轟音。轟音。轟音。轟音。轟音。轟音。轟音。
繰り返される、リズミカルな激突音。まるで連続して拍手を叩いてるかのように一定のリズムを刻んでいる。
一回交差するごとに閃光が瞬き、それに応じて広々とした空間が悲鳴を上げる。
ここが空であれば何の被害もなかっただろう。けれどここは、どれほど広くても室内だった。
長年に渡って集められた本が余波によって宙を舞い、あるいは光弾が直撃して無様に床へ放り出される。
それらを収めていた本棚もまた、紅と白が幾度となくぶつかったことで廃棄物へと変化していく。
そして一際光り輝いた紅白は、とうとう二度目の真正面からの衝突を行った。
一瞬、視界を白に染め上げるほどの光が辺りを包み込んだ。
パラパラと頭上から埃が降り注ぐ。けれどそれは頭に積み重なることなく、突如掲げられた日傘によって遮られた。
ちらりと視線を横に向けると、そこには予想したとおりの人物がいた。
彼女は自分が見つめられていることに気づき、自然に柔和な笑みを浮かべた。
「お嬢様、傘はご入用ですか?」
「助かるわ。埃が混入した紅茶なんて飲みたくもないし。ただ、それよりも……」
次なる台詞を言う前に、それが飛んできた。
本だった。黒い装丁で題名には金糸で縫われた文字が刻まれている。
本来『読書』という用途で用いられる書物は、上で行われている遊びの被害を受けてまったく違う用途で使われていた。
高速でこちらの顔面直撃コースを飛ぶ本。それはもはや弾幕と相違なかった。
しかし――。
「こっちをなんとかしてもらいたいんだけど」
ひょいっと首を傾げることで回避した。
当然の反応である。この身は吸血鬼と呼ばれる最強の種族、これくらいは造作も無い。
自分でも惚れ惚れするほどのグレイズ回避だったが、それを隣に座っている魔女が、渋い顔で咎めた。
「避けないでちょうだいよ。あれも貴重な書物なんだから顔面で受け止めるくらいしなさい」
「馬鹿を言うんじゃない。そんなことしたら、この可愛らしいお鼻が潰れてしまうじゃないの」
「レミィに可愛さなんて似合わないわ。悪魔の王が愛らしくてどうするの」
「それもそうかぁ。なら今度は――おっと、危ない危ない」
続けざまに襲い掛かる本やら木のくずやらを椅子に座ったまま避ける。
せっかくのティータイムだというのに、実にやかましくてかなわない。そう考えながら親友の姿を確認すると、彼女は自分が座る椅子の周囲に防壁を張っていた。
うちの知識人はケチなんだよなぁ、と思いつつ駄目元で頼んでみた。
「ねえパチェ。その防壁、こっちにもちょうだい」
「嫌よ面倒くさい。自分で蝙蝠化するなり気化するなりしなさい」
「前者はまだしも、後者は死ぬ一歩手前なんだけど。それにあれも結構疲れるのよ?」
「あらそうなんですか。気軽に使われてるので、ナイフを投げる程度の手間だと思ってましたわ」
「私はナイフ使わないから例えが分からない。まあ、だいたい疲れる」
そんなことを言い合っていると爆音と飛来物が収まり、シンと静まり返った。
上空を見上げると、紅と白は向かい合うように浮遊していた。その距離はおよそ三十メートルといったところか。
おそらくはこれが最後の激突。両者は練り上げるように魔力を集中し、突撃の時を楽しげに待っているかのようである。
その緊張は、彼女たちの下で高みの見物をしている自分たちにも存分に伝わる。
吸血鬼は反射的に喉を潤し、魔女は鋭く目を細め、従者は修理にかかる費用の試算に頭を悩ませる。
そして。
――二人の少女はまったく同時に駆け、最後の衝突を決行した。
帰ってきた少女たちは、それぞれ対照的な表情を浮かべていた。
まず、ボロボロの姿だがにこやかに笑う妹、フランドール・スカーレットが嬉しそうに報告してきた。
「やったよ、魔理沙に勝った! すごく久しぶりに!」
喜びが堪えきれないのか、小さくジャンプしながら拳を強く握りこんでいる。
その愛らしさに、咲夜が一足早く頭を撫でた。するとフランドールは恥ずかしそうにそれを甘受する。
実の姉としてはあまり面白くない光景だが、フランドールが笑っているので良しとしよう。
対して、フランドールと同じようにボロボロで、けれどその表情は浮かない少女。
黒白の魔法使い、霧雨魔理沙が相棒の箒を杖のように使いながら歩いてきた。
そして老婆のように深々と息を吐くと、疲れ果てたように椅子にどっしりと腰を下ろした。
「あー……負けた。ちくちょう、昨日昼寝なんてしてなければ……」
それは誰が聞いても負け惜しみだった。
だが我が友人はその言葉に反応し、しかもどこか心配するような声色で問いかけた。
「昨日の夜は眠れなかったの?」
「いんや、昨夜はぐっすり寝れた。ただまあ、それくらいシビアな勝負だったというだけだぜ。毎回だが」
「……ちっ。あの魔導書に仕掛けたトラップは効かなかったのね」
「おいちょっと待て。今聞き逃せない単語が聞こえたんだが」
「気のせいよ。――小悪魔」
魔女がぼそっと、この図書館に住んでいる司書を呼ぶ。
すると、鮮やかな赤髪をたなびかせた女性がすっと紫の魔女に歩み寄った。
この図書館の管理を一手に担う、ほぼパチュリー専属の小悪魔である。
「なんでしょうか、パチュリー様」
「ここの片付けはどのくらいかかりそう?」
「んー……今回の弾幕ごっこで本棚がだいぶ破損したので、かなりの時間がかかると思います。二、三ヶ月は確実に」
「わかったわ。二、三日で終わらせなさい」
「話を聞いてましたか!? 三ヶ月かかるって言ってるのに三日で終わらせろって無茶にも程がありますよ!」
「あなた、サボることもしっかり計算して出すでしょ。だからこれくらいかなと思って」
「いくらなんでも信用しなさすぎですよ! ひどいですひどいです!」
いやんいやん、と顔を手で覆いながら泣き真似をする小悪魔。
だが、そんなものは冷血な魔女の心にはまったく届かなかった。
「じゃあ正直に言いなさい。破損の補修と整理整頓、あと掃除。どれくらいかかる?」
「……パチュリー様の『名前』を貸していただければ、半月ほどで」
「いいでしょう。今すぐ始めなさい」
「はーい。あ~あ、せっかく久しぶりに書庫の整理でもしようと思ってたのになぁ」
そう愚痴りながら、小悪魔はとぼとぼと去っていった。
パチュリーはその背中をコンマ一秒ほど見送り、そして再び魔理沙に視線を向けた。
その口調は、大切な聖域を荒らされたにも関わらず、どこか嬉しげだった。
「さて、魔理沙。話は分かるわよね?」
「……おう。『許可なく図書館で弾幕ごっこを行った場合、研究の助力をする』だったか。だけど今回はフランが誘ってきたんだぜ。あいつにも責任があるんじゃないか?」
そう呟いた魔理沙がフランドールを見やる。
すると机の上に並んでいたお菓子を頬張っていたフランドールは、不思議そうに首をかしげた。
その頬には、手にしたシュークリームから洩れ出た生クリームがべっとりとついていた。
「なぁに、魔理沙? また遊んでくれるの?」
「いや、そういうわけじゃない。というかちょっとこっちに来い。拭いてやる」
「はーい!」
言うやいなや、フランドールが魔理沙の膝にポンと座った。
そしてそのまま、体全体を魔理沙に押し付けるようにして寄らせる。
魔理沙も特に嫌がる様子も見せず、自分のハンカチでフランドールの顔を優しく拭いていった。
妹の安心しきった表情。魔理沙の呆れたような、けれどどこか母性を思わせる笑み。
「……むー」
思わず唸ってしまう。
その姿はまさしく、レミリアが理想としていた姉妹像だったからだ。
レミリアも「あんなことしたいなー」と常々思っているのだが、いかんせんフランドールと体格が同じなのだ。
残念ながら、あのように甘えさせるのはできなかった。
「お嬢様」
「ん、何よ咲夜……ってぶわぁ!? な、なんで抱きしめるの!?」
「いえ、なんだか羨ましそうな顔をしていましたので。違いましたか?」
「違うから! どちらかというと逆!」
「……赤ちゃんプレイをご所望ですか。いいでしょう、主の命令とあらば百年の恥辱にも見事耐えてみせましょう」
「だから違うってば! 咲夜の胸になんて興味ないんだから!」
そう言い放つと、咲夜は愕然とした表情で固まっていた。
そんなことよりもフランドールたちである。
魔理沙はもうフランドールの頬を拭き終わっており、パチュリーとの会話を再開していた。
その膝には先ほどと変わらずフランドールが座っている。まるで本当に赤ちゃんだな、と思うほど安らいだ表情だった。
「まあ、責任は私が背負ってやってもよかろう。フランに請求しても仕方がないことだし」
「話が早くて助かるわ。じゃあ今回は、これとこれとこれの蒐集を頼むわ」
「あー? ……おい、マナリーフなんて龍の住処にしかないって代物だろ。それにこいつはたしか『ぱーそなるこんぴゅーた』だったか? 香霖に聞いたことがあるが、そうそう流れ着かない珍しい物だぜ」
「そうよ、ここに引き篭もってたら到底手に入らない伝説級ばかり。だからこそ欲しいのよ」
「毎度思うんだが、もっと常識的なものにしてくれよ……」
魔女の無理難題に頭を抱える魔理沙。
そんな彼女の苦悩を察したのか察していないのか、フランドールが名案と言わんばかりに声高々と提案した。
「私も手伝うよ、魔理沙! 二人ならきっと見つけられるし!」
「あー、それはすごく嬉しい提案だがねぇ……」
「ね、いつ行く? どこ行く? 魔理沙となら世界の果てまでだって大丈夫よ!」
その旅路を想像しているのか、フランドールはうっとりと夢うつつな表情に移り変わった。
魔理沙が困ったように口端を上げながら、こちらに視線を向けてくる。
おそらく、なんとか妹を止めてくれと言いたいのだろう。
妹を諫めるべく重い口を開く――その前に、フランドールの様子をつぶさに観察した。
(ずいぶん、落ち着いてるわね)
魔理沙の膝の上でリラックスするように座っている。
その顔はいたって穏やか。以前ならば、自分の要求を押し通すために剣呑な視線を送るぐらいはしただろうに。
こちらの返答を待つ姿に不穏な影は見当たらない。ただ期待を寄せるように、輝く瞳を姉に寄せるだけだ。
そういえば、とつい昨日見た妹の部屋を思い出した。
相変わらず埃っぽいものの、大袈裟に破損した遊び道具が転がっているようなことはなかった。
その他食事風景や弾幕ごっこにおける行動などを詳細に思い浮かべ……ようやく、口を開いた。
「事前に行く場所を報告して、日の入りの二時間後に出発。行動中は常識を守りながら魔理沙の言葉に従って、日の出の一時間前までに帰宅すること」
「……それで?」
「これら全てが守れるなら、許可しましょう」
レミリアはゆっくりとカップに口を付けた。
深い甘みのある、嗜好品が入った紅茶が舌の上で転がる。ごくりと嚥下すると、体の芯が少しだけ熱を帯びた。
そしてクッキーに手を伸ばしたところで、レミリアは自分を驚愕の眼差しで見つめる四人の姿を認めた。
皆は一様に目を見開き、まるで信じられないものを目撃したかのようだった。
なんとなく居心地が悪くなり、仕方なく声を上げた。
「どうしたのよ。なにかおかしいこと、言った?」
「……ああ。まさしく、言ったぜ」
「貴女がどうしちゃったのよ、レミィ。妹様に毒でも盛られた? その毒、私にも貰えないかしら」
「それはありえません。妹様は台所に入ったことすらないのですから。だからこれは天変地異の前触れかと」
硬直から解き放たれた三人が口々に好き勝手なことを口にする。
その表情は徐々に変化し、二人の魔女は訝しむように、メイド長は真っ青になった。
ただ一人、妹のフランドールだけが先ほどから同じ顔でこちらをじっと見つめている。
震える小さな口から、鈴の音のような声が漏れた。
「……お姉さま。それって本当?」
「レミリア・スカーレットの名と誇りにかけて約束するわ。ただし、一度でも約束を破ったら二度目はないわよ」
「――うん! ありがとう、お姉さま!」
魔理沙の膝からポンと飛び降りると、そのまま机を跨いで抱きついてきた。
その勢いに椅子ごと倒れてしまうが、フランドールはそんなことは気にも止めず、満面の笑みで頬ずりしてきた。
ちょっと早まったかな、と脳裏に過ぎらないでもなかったのだが。
「お姉さま~、大好き!」
「……はいはい、喜んでもらえて私も嬉しいわ」
この笑顔を見ると、そんなことを言う気には到底なれなかった。
「じゃあさ、今度の日曜日はどう!?」
「おいおい、ちょっと落ち着けよフラン。計画はしっかり決めないと怪我の元だぜ」
それからしばらく、上機嫌な妹につられて和やかなお茶会が続いた。
レミリアたちはたびたびこうして集まり、他愛のない話や紅魔館の外で発生している出来事について語り合っている。
誰かが『お茶会しましょう』と誘うのではなく、自然と開催されて自然と解散しているのだ。
メンバーは時間によって異なるが、おおよそ現在のメンバーで固定されていた。
レミリア・スカーレット。フランドール・スカーレット。十六夜咲夜。パチュリー・ノーレッジ。そして、霧雨魔理沙。
そしてお茶会において中心的な役割を担っているのが、部外者である霧雨魔理沙だった。
何しろ、彼女以外は基本的に紅魔館から外出しないのだ。
かろうじてメイド長である咲夜は買出しの際に里へ行くが、それも必要最低限の時間しかかけない。
必然、話の起点は霧雨魔理沙に依存することになる。
彼女もそれを理解しているのか、紅魔館に来る際は何かしらの話の種を用意していた。
退屈を嫌うレミリアにとっても、このひと時は最近の愉しみとなっている。
「魔理沙魔理沙! この『むえんづか』ならたくさんあるんだよね? ここにしよ!」
「まあそこは第一候補だけど。だけどまずはその周辺をだな」
「あんまり危険な場所に連れていかないでよ。妹様に掠り傷でも負わせたら千本ナイフだからね」
「……そこは少なからず興味がある。今度私も行ってみようかしら」
「お前はやめとけ。喘息で倒れたら十中八九あいつらのお仲間入りだから」
今はフランドールのお出かけ計画で話題が持ちきりである。
この時ばかりは咲夜もメイドとしての仮面を外し、一個人として存分に会話へ参加している。
これもまた、このお茶会の良い所だ。
メイド長としての役割を一時でも忘れ、こうして楽しんでもらえれば主としても気が楽になるのだ。
ひとり頷きながら、最後まで残しておいたショートケーキの苺を食べる。
甘みも酸味も素晴らしい。さすがは自慢のメイド長が選んだ一品である。
と悦に入ったのもつかの間、眉根に皺を刻んだ魔理沙がこちらを見ていた。
「おい、レミリア」
「なにかしら」
「本当にいいんだな?」
いやに真剣な面持ちで問われる。
何を、とは聞かない。なにしろ、ここにいる全員が分かっているのだから。
それは魔理沙の膝にいるフランドールも同様で、幾分不安そうな表情になっている。
彼女に言い聞かせる意味合いを込めて、力強く頷いた。
「当然。これでも私は魔理沙、あなたを信頼しているのよ」
「――なら、そいつに応えなきゃならないな。あとで日時と場所をリストアップした紙を渡すぜ」
「ええお願い。最初は優しくしてあげてね」
「了解した……ふわぁ」
言い切った魔理沙は、突然大きな欠伸をした。
目尻に小さな涙が浮かび、そのまま目を閉じてフランドールの頭に頬を乗せた。
どうやら眠くなってきたらしい。先ほどあれだけ激しい弾幕ごっこをしたのだ、それも仕方のない話である。
対して、フランドールは体力が有り余っているようだった。
自分を抱きしめる魔理沙の腕を、それこそ人形の腕を動かすようにして遊んでいる。
それをさせるがままにして、魔理沙が申し訳なさそうに苦笑いをした。
「あー、部屋を貸してもらえるか? 一眠りしたいんだ」
「咲夜。どこかに綺麗な部屋はあったかしら」
「一応客人用に、三つは定期的に掃除をしています」
「案内してやって」
「了解しました」
咲夜の姿が一瞬で消え去り、すぐさま魔理沙の背後から現れた。
別に普通に立ち上がって普通に向かえばいいような気がするのだが。
そんなことを考えている間に、フランドールがどかされて魔理沙は立たされてた。
ふらふらと危なげに歩を進める魔理沙を、咲夜が支えながら図書館の入り口へと歩き出した。
――その後ろを、何故か破顔するフランドールがついていった。
「フラン。あなたまでどこに行くのかしら?」
「どこって、魔理沙の寝室よ。私も疲れちゃったし、『約束』もあるしね」
約束、という言葉に魔理沙が反応した。
眉間に皺を寄せて口をへの字にしているところから、彼女にはあまりいい話題ではなさそうだ。
「約束ってあれか? 今日じゃなきゃ駄目か?」
「今日じゃなきゃ駄目。せっかく勝てたんだし、賞品はすぐに貰いたいもの」
「……はぁ。咲夜、悪いけど一時間後くらいに来てくれないか? やり過ぎてないか確認してほしいんだ」
「分かったわ。うっかり死なないでね」
「りょーかい」
そう言って、フランドールたち三人は今度こそ出て行った。
レミリアは『約束』というのが気になったが、内容を知っていそうな人物は全員行ってしまった。
咲夜が帰ってきたら聞こう。そう思い、紅茶のカップに手を伸ばす。
すると、仏頂面のパチュリーが話しかけてきた。
「ねえレミィ。貴女、本当に毒でも盛られたの?」
「どういう意味かしら。まるで正気を疑われているようで不愉快なんだけど」
「疑ってるのよ。よりにもよって、貴女が妹様の外出を許可するなんて」
その話か、とレミリアは納得した。
たしかに今まで妹の外出を認めたのは片手の指の本数ほどもない。それも、出さざるを得ない状況下のみだ。
唯一の例外は、一度だけあった博麗神社での大宴会くらいか。
「パチェ。この頃フランを見て、どう思う?」
「どうって……以前よりはるかに安定しているのは明らかね。安易に物を壊さなくなったし、何より力の行使が少なくなった。でもそれは――」
「一時的なものの可能性が高い。まだ早すぎるんじゃないか?」
「……その通りよ。屋敷内なら私たちが抑止力になれるけど、外でどうなるかは『神のみぞ知る』だわ」
「私も同意見。でも、信じたくなるのよ。もうあの子も大丈夫なんじゃないかって」
この言葉に、パチュリーは悲痛そうに口を引き絞った。
彼女は親友だ。だからこそ今まで包み隠さず話してきた。これまでの経緯と、妹の狂気を。
――幾たびも『もう大丈夫じゃないか』と思い、ほんの少しだけフランドールを自由にしてみた。
結果は散々だった。ある時は本能のままに人間を殺し、ある時は人間の歴史に干渉して追われる立場となった。
最小の自由で、最大の被害を引き起こす。それが、妹のフランドールだった。
暴れるフランドールを再び拘束した後、しばらくの間深い絶望と後悔にさいなまれた。
またやってしまった、もう二度とあの子の手綱を放してはならない、と。
だが、それでもフランドールは大事な妹なのだ。いつまでも地下に閉じ込めたくはないのだ。
だからこそ小さな希望を見出してはそれを理由に解放し、また同じ失敗を繰り返す。
495年間、飽きるほどに見てきた現実だった。
この親友はその全てを理解しているからこそ、また繰り返そうとする自分を叱咤してくれる。
だけどこの無愛想で優しい親友は、こちらの心情を完全に理解して閉口してくれるのだ。
今度こそ。今度こそ、フランドールは暴走しないのではないかと。
以前起こした紅霧異変で出会った、あの強い人間が一緒ならば。たとえフランドールが暴走しても止めてくれるのではないか。
一人の姉として、そう願わずにはいられないのだ。
「……わかった。私も出来るだけサポートする」
「ありがとう、パチェ」
そう言ったところで、咲夜が戻ってきた。
「お嬢様、ただいま戻りました」
「ご苦労さま。ああちょうどよかった、咲夜に聞きたい事があったの」
「なんでしょうか?」
「『約束』って何のこと?」
すると咲夜は、滅多に見せない渋い顔をした。
「……あの二人は、一ヶ月ほど前から約束をしていたそうです。妹様が魔理沙に勝てれば、あるものをやると」
「なんだか煮え切らない返答ね。で、その内容は?」
「……私では判断がつかないので、ご自分で見られるのが確実かと。それでは失礼します」
そう言って一礼すると、咲夜の姿は一瞬で消え去った。
珍しい。彼女が逃げるようにして会話を打ち切るのは、ちょっと思い出せないくらいに珍しい。
意見を求めるように親友を見やる。
親友はただ首を横に振り、本に目を落とした。
「少し見てくるわ」
「報告、楽しみにしてるわ」
返ってきたのは、先ほどと違ってひどく冷ややかな声だった。
広々とした紅魔館の廊下をひとり、お供もつけずに歩いていた。
時折通りすがった妖精メイドたちがお辞儀をしてくるが、手を上げるだけで応えて、先に進む。
咲夜が言っていた部屋は、三階の突き当たりに位置していた。
客人専用というわけではなく、客が他の部屋を所望すればそこを掃除して使ってもらうくらいの気遣いは出来る。
まあ、そもそも『悪魔の館』と呼ばれる紅魔館に泊まる人間なんて相当の変人しかいないのだが。
廊下を歩くたびに靴が床を叩く音が響く。
三階まで上り、あとは真っ直ぐ進めばいい。そんな場所で、一度周囲を見渡した。
誰もいない。館にはたくさんの妖精メイドがいるのに、周りには彼女たちの気配がなかった。
淀んでいるな、という感想が零れた。
風通りは悪くないのだが、暗い雰囲気がここ一帯をすっぽりと包み込んでいる。
まるで侵入者を拒むかのような圧迫感のある空気が、館の主人であるレミリアにものしかかってきた。
四肢が束縛されたように硬直する。だが。
「――上等じゃない。主に向かって」
苦もなく、目に見えない鎖を引きちぎる要領で足を前に進めた。
途端にどこからか断末魔を思わせる悲鳴が聞こえてきた。幻聴かと最初は思ったのだが。
「ああ、ああああああああぁぁぁぁぁ!」
それは間違いだった。
今、自分の耳にはしっかりと誰かの悲鳴、いや嬌声が届いていた。
そこには苦痛の色も含まれているが、その裏側にはたしかに快楽がくすぶっている。
このような声を上げる人物が思いつかず首を傾げるが――すぐに、思い当たった。
「……魔理沙?」
その事実に驚愕し、思わず足が止まった。
彼女の悲鳴なんて聞いたことはないが、声質からしてまず間違いないだろう。
そして何より……この声の主がいるのは、この廊下の突き当たりにある部屋。つまりは、霧雨魔理沙とフランドールが寝ているであろう一室のようだった。
甲高い声は先ほどの一回限りであったが、吸血鬼の鋭敏な聴覚は今なおその人物の声を拾っている。
断続的に放たれるくぐもった声。零れ出る嬌声を手で無理やり押さえたのなら、こうなるのではないか。
――帰ろう。もうなにも知らないふりをして、部屋に帰って紅茶でも飲もう。
そんな思いとは裏腹に、足は勝手に前方へと動き出す。
灯火に誘われた蜻蛉のようだと頭のどこかで囁かれる。しかし熱が篭ったように思考がぼやけ、それが誰なのかなど分かりもしなかった。
いつしか、必要以上に呼吸していることに気がついた。
鼻から深く空気を吸い、肺にまで行き渡ったらすぐさま口から吐き出す。
それは息苦しいから行っているのではなく、辺りに漂う鮮烈な『それ』を存分に取り入れるために、していた。
香りがするのだ。芳しい、花の蜜のような血の香りが――
もはや部屋に戻るなんていう選択肢は消し飛び、レミリアは赴くがままに向かった。
途中にあった扉など見向きもしない。足は真っ直ぐ突き当たりの部屋を求めて前に進んでいた。
そして、ある一室の前で立ち止まった。
鼓動がこれまでになく高鳴る。鼻だけでなく口でも『香り』を楽しむ。吐き出した息は、いやに熱を帯びていた。
固く閉じられた扉のドアノブに手を伸ばし、音を立てないよう慎重に回す。
カチャリ、と小さく確かな音が耳朶に触れた。そのままノブを押し込み、中の様子を確認できるほんの少しだけ開く。
――刹那、飛び込んできた光景に、心が真っ白に塗りたくられた。
まるで血で染まったかのような紅色の、壁紙。
純白のシーツが敷かれたベッド。
その上で、金色の髪を振りかざしながら絡み合う二人の少女――。
それは、紅色のカマキリに捕食される蝶を想起させた。
ベッドの上で、魔理沙がくせのある金髪を振り回し、目をがっちりと閉じたまま悶えている。
そんな彼女にのしかかる形で、妹のフランドールが魔理沙の首筋に喰らいついていた。
魔理沙は声を洩らさないよう歯を食いしばっていた。苦悶する額からは止めどない汗が流れ落ち、白いシーツがそれを存分に吸っている。
対してフランドールは、そんな彼女を玩ぶように、丹念に丹念に血を啜っていた。
それほど長くない牙の先端を肌に突き刺し、小さな毛細血管から吸い取る。
吸血鬼の本能で動脈の位置くらい分かるだろうに、一気に飲み干すことを拒んでいるようだった。
一秒という極めて短時間で吸血を中断し、肌からかすかに滲み出た血液を舌で舐めとる。
それをひたすら繰り返すことで、通常では考えられないほどの長い時間、フランドールは吸血していた。
レミリアはしばしそれを放心したように眺めていたが。
ごくり、と。
(……!?)
自分が唾を飲み込んだ音で、ようやく我に返った。
それと同時に、魔理沙の血を啜ることに夢中だったフランドールが不意に顔を上げ、こちらを見やった。
初めて目線が合った。ここでまた、レミリアは驚愕した。
爛々と真紅に輝くフランドールの瞳には、溢れんばかりの愛欲が渦巻いていたのだ。
レミリアにとって、それは妹の隠していた秘密を暴いてしまったかのような衝撃だった。
精神が未熟で色恋を理解できず、魔理沙に懐いていたのも近所のお姉さんに抱く好意だと思っていた。
それが、自分の知らないところで大人の階段を上っていた、そんな気すらしてくる。
フランドールは興味を失ったようにふいっと視線を下げ、つつーっと魔理沙の首に舌を這わせた。
途端、魔理沙の全身がこれでもかと伸ばされ、閉じられた目蓋からは汗とも涙とも判断がつかない水滴が零れ落ちた。
禁忌の場面を目撃し、目を見開いたまま立ち尽くすレミリア。
そんな彼女の後ろにクスクスと笑う人物がいた。
「あらお姉さま。天狗みたいな覗きとは、いいご趣味だわ」
「っ!?」
咄嗟に振り返ると、そこには歯に赤黒いものを付着させながら笑みを浮かべる、フランドールが立っていた。
レミリアは息を呑み、意味もなく口を開閉させる。
そんな姉の様子がよほどおかしいのか、ますます口端を吊り上げるフランドール。
絶句するレミリアを余所に、フランドールはいたって普通に話を切り出した。
「さて、何か聞きたいことはあるのかしら? お姉さま」
「……あなたは、分身の方ね。今楽しんでる方が本体かしら」
「その定義に意味はあるの? あっちも私、こっちも私。それだけで充分じゃない」
「そうね。じゃあ次の質問。――フラン、あなたいったい何をやってるの」
放心状態から抜け出したレミリアは、鋭い眼差しで実の妹を射抜いた。
けれどフランドールは大した痛痒も感じた様子はなく、せり上がる愉悦を堪えるように答えた。
「見れば分かるでしょう? お楽しみタイム。せっかく貰った賞品だもの、たっぷり味わわないともったいないわ」
「……それが『約束』? どういうことなの?」
「魔理沙と前に約束したのよ。私が魔理沙に弾幕ごっこで勝てば、血を吸わせてくれるって。それから毎日挑んだんだけど、なんでか勝てなかったの。だけど、今日。今日ようやく勝って、頂いてるってわけ」
フランドールは、うっとりとした表情で自らの歯に付いた血液を舐め取った。
その魅惑的な仕草に、何故か強い不快感を覚えた。自分の宝物を足蹴にされたような、そんな気分だ。
「……血は『与えて』いないでしょうね」
「もちろん。魔理沙は残念ながら、普通の人間よ。まあいずれは彼女の方から求めさせてあげるけど」
「眷属になればあなたに逆らうことはなくなる。地に堕ちた魔法使いで満足?」
「いずれ私の元を去るのなら、それも一興ね。私はお姉さまほど諦めが良くないもの」
咲夜の顔が脳裏に浮かんだが、すぐに打ち消した。
今はあの魔法使いのことを考えなければならない。もし必要なら彼女を紅魔館から追い出さ――
「駄目よ、それは許さない」
「がっ!?」
フランドールがこちらの喉を鷲掴みにしてきた。
身体能力による超スピードではなく、体を自然に潜り込ませるようにした虚をつく行動。
突然のことに体が反応せず、あっさりと喉を押さえられて持ち上げられた。
呼吸を塞がれる行為は吸血鬼にとって致命的ではない。それでも、レミリアの次なる行動を邪魔するには充分だった。
徐々に食い込んでいく指に手をかけ、なんとか握りつぶされることだけは阻止する。
だが、こちらの必死の抵抗に反して、フランドールは場に似合わない朗らかな笑顔で言った。
「お姉さまも『約束』したでしょう? 言いつけを守れば、魔理沙とお出かけしていいって。嘘つきは嫌いよ」
「ふ、フラン……あなた!」
「私ね、お姉さまも含めてみんなが大好きなのよ。小悪魔も、美鈴も、パチュリーも、咲夜も、お姉さまも」
フランドールの、真紅の瞳が少しずつ盛り上がり……ぽろり、と水滴が頬を伝った。
涙だった。唇は歪みに歪み、満面の笑みを演出しているというのに、そのすぐ上では悲しみにくれる瞳が向けられる。
ひどくアンバランスではあるものの、どこかフランドールらしいとも思った。
「だからお願い……お姉さまたちを、殺したくないの」
「フラン――」
呟いた直後、フランドールの腕がしなって振り回された。
瞬間的に発生した強い重力が体を軋ませ、それからすぐに解き放たれたと思ったら全身を凄烈な衝撃が駆け巡った。
如何な吸血鬼とて、瞬間的に傷が治るわけではない。どうやら後頭部を相当強打したらしく、べっとりとした熱の塊がそこから抜け出るような感覚だけが知覚できた。
そして明滅する視界の情報から、自分は床に叩きつけられたのだとかろうじて分かった。
朦朧とする意識の中、フランドールの声が耳を打つ。
「もう行かなきゃ。そろそろ咲夜が来る頃だし、最後にたくさん感じてもらわないと」
「ま、待ちなさ……フラ……」
精一杯伸ばした手は届かず、声すらも背中に消されるのみ。
もう一人のフランドールも入室し、そのまま魔理沙の体に齧り付いた。
魔理沙の嬌声が一段と高まる。もはや、声を押さえることもできないようだ。
レミリアはなんとか体を起こそうと腕を床に突き立てるが――あえなく、崩れ落ちた。
(……フラン)
遠のく紅魔館の床を無為に眺めながら、最後の抵抗とばかりに思考する。
――自分はまた、早まってしまったのだろうか。
魔理沙への吸血行為は、まだ許せる。本人の了承もあったようだし、血も与えていないのだから。
だが、彼女への執着が心配だった。あれがいつか過ちの元になるのではないかと。
先の言葉を思い出す。紅魔館の皆を殺したくないのだと。
――それはつまり、『約束』を破れば家族であろうと殺すということではないか?
(……フラン)
確証はない。だが、ありえないとは言い切れない。
その行為が元来より存在する狂気ゆえか、あるいは強すぎる魔法使いへの想いか。
判断がつかない。当然だ、今までも妹の心を推し量ることなど出来なかったのだから。
となると、今回も以前と同じように小さな希望に過ぎないのだろうか。
(……フラン)
現世を追われた者が辿り着く最後の地、幻想郷。
ここで大きな問題を起こせばレミリアのみならず、紅魔館そのものが存亡の危機に立たされる。
フランドールをどうにかしない限り、永遠の安息は訪れないのかもしれない。
(……フラ……ン)
だが、それでも。
それでもたった一人の肉親を切り捨てることなんて――
(……フラ……ン…………)
彼方より響く幼い哄笑を耳にしながら。
レミリアは、意識を手放した。
「ああ、素敵よ魔理沙ぁ……私にすら壊せない、最高の――」
炎塊と見間違うほどに巨大な火花が散り、耳を塞ぎたくなるほどの轟音がさんざめく。
紅と白は真正面からぶつかり、しばし互いに道を譲るまいと額をかち合わせる。
やがて白の方が根負けしたように、進行方向をわずかに右へずらした。障害物を失った白はあっさりと紅の横を通り過ぎ、しかし再びぶつかり合うべく、先ほどよりも加速しながら突っ込んでいく。
紅は喜びを露わにするように輝きを増し、超高速で飛んでくる流星を迎え撃った。
再度、轟音。
今度は衝突によって両者が止まることはなく、紅も負けじと突撃を敢行した。
轟音。轟音。轟音。轟音。轟音。轟音。轟音。轟音。
繰り返される、リズミカルな激突音。まるで連続して拍手を叩いてるかのように一定のリズムを刻んでいる。
一回交差するごとに閃光が瞬き、それに応じて広々とした空間が悲鳴を上げる。
ここが空であれば何の被害もなかっただろう。けれどここは、どれほど広くても室内だった。
長年に渡って集められた本が余波によって宙を舞い、あるいは光弾が直撃して無様に床へ放り出される。
それらを収めていた本棚もまた、紅と白が幾度となくぶつかったことで廃棄物へと変化していく。
そして一際光り輝いた紅白は、とうとう二度目の真正面からの衝突を行った。
一瞬、視界を白に染め上げるほどの光が辺りを包み込んだ。
パラパラと頭上から埃が降り注ぐ。けれどそれは頭に積み重なることなく、突如掲げられた日傘によって遮られた。
ちらりと視線を横に向けると、そこには予想したとおりの人物がいた。
彼女は自分が見つめられていることに気づき、自然に柔和な笑みを浮かべた。
「お嬢様、傘はご入用ですか?」
「助かるわ。埃が混入した紅茶なんて飲みたくもないし。ただ、それよりも……」
次なる台詞を言う前に、それが飛んできた。
本だった。黒い装丁で題名には金糸で縫われた文字が刻まれている。
本来『読書』という用途で用いられる書物は、上で行われている遊びの被害を受けてまったく違う用途で使われていた。
高速でこちらの顔面直撃コースを飛ぶ本。それはもはや弾幕と相違なかった。
しかし――。
「こっちをなんとかしてもらいたいんだけど」
ひょいっと首を傾げることで回避した。
当然の反応である。この身は吸血鬼と呼ばれる最強の種族、これくらいは造作も無い。
自分でも惚れ惚れするほどのグレイズ回避だったが、それを隣に座っている魔女が、渋い顔で咎めた。
「避けないでちょうだいよ。あれも貴重な書物なんだから顔面で受け止めるくらいしなさい」
「馬鹿を言うんじゃない。そんなことしたら、この可愛らしいお鼻が潰れてしまうじゃないの」
「レミィに可愛さなんて似合わないわ。悪魔の王が愛らしくてどうするの」
「それもそうかぁ。なら今度は――おっと、危ない危ない」
続けざまに襲い掛かる本やら木のくずやらを椅子に座ったまま避ける。
せっかくのティータイムだというのに、実にやかましくてかなわない。そう考えながら親友の姿を確認すると、彼女は自分が座る椅子の周囲に防壁を張っていた。
うちの知識人はケチなんだよなぁ、と思いつつ駄目元で頼んでみた。
「ねえパチェ。その防壁、こっちにもちょうだい」
「嫌よ面倒くさい。自分で蝙蝠化するなり気化するなりしなさい」
「前者はまだしも、後者は死ぬ一歩手前なんだけど。それにあれも結構疲れるのよ?」
「あらそうなんですか。気軽に使われてるので、ナイフを投げる程度の手間だと思ってましたわ」
「私はナイフ使わないから例えが分からない。まあ、だいたい疲れる」
そんなことを言い合っていると爆音と飛来物が収まり、シンと静まり返った。
上空を見上げると、紅と白は向かい合うように浮遊していた。その距離はおよそ三十メートルといったところか。
おそらくはこれが最後の激突。両者は練り上げるように魔力を集中し、突撃の時を楽しげに待っているかのようである。
その緊張は、彼女たちの下で高みの見物をしている自分たちにも存分に伝わる。
吸血鬼は反射的に喉を潤し、魔女は鋭く目を細め、従者は修理にかかる費用の試算に頭を悩ませる。
そして。
――二人の少女はまったく同時に駆け、最後の衝突を決行した。
帰ってきた少女たちは、それぞれ対照的な表情を浮かべていた。
まず、ボロボロの姿だがにこやかに笑う妹、フランドール・スカーレットが嬉しそうに報告してきた。
「やったよ、魔理沙に勝った! すごく久しぶりに!」
喜びが堪えきれないのか、小さくジャンプしながら拳を強く握りこんでいる。
その愛らしさに、咲夜が一足早く頭を撫でた。するとフランドールは恥ずかしそうにそれを甘受する。
実の姉としてはあまり面白くない光景だが、フランドールが笑っているので良しとしよう。
対して、フランドールと同じようにボロボロで、けれどその表情は浮かない少女。
黒白の魔法使い、霧雨魔理沙が相棒の箒を杖のように使いながら歩いてきた。
そして老婆のように深々と息を吐くと、疲れ果てたように椅子にどっしりと腰を下ろした。
「あー……負けた。ちくちょう、昨日昼寝なんてしてなければ……」
それは誰が聞いても負け惜しみだった。
だが我が友人はその言葉に反応し、しかもどこか心配するような声色で問いかけた。
「昨日の夜は眠れなかったの?」
「いんや、昨夜はぐっすり寝れた。ただまあ、それくらいシビアな勝負だったというだけだぜ。毎回だが」
「……ちっ。あの魔導書に仕掛けたトラップは効かなかったのね」
「おいちょっと待て。今聞き逃せない単語が聞こえたんだが」
「気のせいよ。――小悪魔」
魔女がぼそっと、この図書館に住んでいる司書を呼ぶ。
すると、鮮やかな赤髪をたなびかせた女性がすっと紫の魔女に歩み寄った。
この図書館の管理を一手に担う、ほぼパチュリー専属の小悪魔である。
「なんでしょうか、パチュリー様」
「ここの片付けはどのくらいかかりそう?」
「んー……今回の弾幕ごっこで本棚がだいぶ破損したので、かなりの時間がかかると思います。二、三ヶ月は確実に」
「わかったわ。二、三日で終わらせなさい」
「話を聞いてましたか!? 三ヶ月かかるって言ってるのに三日で終わらせろって無茶にも程がありますよ!」
「あなた、サボることもしっかり計算して出すでしょ。だからこれくらいかなと思って」
「いくらなんでも信用しなさすぎですよ! ひどいですひどいです!」
いやんいやん、と顔を手で覆いながら泣き真似をする小悪魔。
だが、そんなものは冷血な魔女の心にはまったく届かなかった。
「じゃあ正直に言いなさい。破損の補修と整理整頓、あと掃除。どれくらいかかる?」
「……パチュリー様の『名前』を貸していただければ、半月ほどで」
「いいでしょう。今すぐ始めなさい」
「はーい。あ~あ、せっかく久しぶりに書庫の整理でもしようと思ってたのになぁ」
そう愚痴りながら、小悪魔はとぼとぼと去っていった。
パチュリーはその背中をコンマ一秒ほど見送り、そして再び魔理沙に視線を向けた。
その口調は、大切な聖域を荒らされたにも関わらず、どこか嬉しげだった。
「さて、魔理沙。話は分かるわよね?」
「……おう。『許可なく図書館で弾幕ごっこを行った場合、研究の助力をする』だったか。だけど今回はフランが誘ってきたんだぜ。あいつにも責任があるんじゃないか?」
そう呟いた魔理沙がフランドールを見やる。
すると机の上に並んでいたお菓子を頬張っていたフランドールは、不思議そうに首をかしげた。
その頬には、手にしたシュークリームから洩れ出た生クリームがべっとりとついていた。
「なぁに、魔理沙? また遊んでくれるの?」
「いや、そういうわけじゃない。というかちょっとこっちに来い。拭いてやる」
「はーい!」
言うやいなや、フランドールが魔理沙の膝にポンと座った。
そしてそのまま、体全体を魔理沙に押し付けるようにして寄らせる。
魔理沙も特に嫌がる様子も見せず、自分のハンカチでフランドールの顔を優しく拭いていった。
妹の安心しきった表情。魔理沙の呆れたような、けれどどこか母性を思わせる笑み。
「……むー」
思わず唸ってしまう。
その姿はまさしく、レミリアが理想としていた姉妹像だったからだ。
レミリアも「あんなことしたいなー」と常々思っているのだが、いかんせんフランドールと体格が同じなのだ。
残念ながら、あのように甘えさせるのはできなかった。
「お嬢様」
「ん、何よ咲夜……ってぶわぁ!? な、なんで抱きしめるの!?」
「いえ、なんだか羨ましそうな顔をしていましたので。違いましたか?」
「違うから! どちらかというと逆!」
「……赤ちゃんプレイをご所望ですか。いいでしょう、主の命令とあらば百年の恥辱にも見事耐えてみせましょう」
「だから違うってば! 咲夜の胸になんて興味ないんだから!」
そう言い放つと、咲夜は愕然とした表情で固まっていた。
そんなことよりもフランドールたちである。
魔理沙はもうフランドールの頬を拭き終わっており、パチュリーとの会話を再開していた。
その膝には先ほどと変わらずフランドールが座っている。まるで本当に赤ちゃんだな、と思うほど安らいだ表情だった。
「まあ、責任は私が背負ってやってもよかろう。フランに請求しても仕方がないことだし」
「話が早くて助かるわ。じゃあ今回は、これとこれとこれの蒐集を頼むわ」
「あー? ……おい、マナリーフなんて龍の住処にしかないって代物だろ。それにこいつはたしか『ぱーそなるこんぴゅーた』だったか? 香霖に聞いたことがあるが、そうそう流れ着かない珍しい物だぜ」
「そうよ、ここに引き篭もってたら到底手に入らない伝説級ばかり。だからこそ欲しいのよ」
「毎度思うんだが、もっと常識的なものにしてくれよ……」
魔女の無理難題に頭を抱える魔理沙。
そんな彼女の苦悩を察したのか察していないのか、フランドールが名案と言わんばかりに声高々と提案した。
「私も手伝うよ、魔理沙! 二人ならきっと見つけられるし!」
「あー、それはすごく嬉しい提案だがねぇ……」
「ね、いつ行く? どこ行く? 魔理沙となら世界の果てまでだって大丈夫よ!」
その旅路を想像しているのか、フランドールはうっとりと夢うつつな表情に移り変わった。
魔理沙が困ったように口端を上げながら、こちらに視線を向けてくる。
おそらく、なんとか妹を止めてくれと言いたいのだろう。
妹を諫めるべく重い口を開く――その前に、フランドールの様子をつぶさに観察した。
(ずいぶん、落ち着いてるわね)
魔理沙の膝の上でリラックスするように座っている。
その顔はいたって穏やか。以前ならば、自分の要求を押し通すために剣呑な視線を送るぐらいはしただろうに。
こちらの返答を待つ姿に不穏な影は見当たらない。ただ期待を寄せるように、輝く瞳を姉に寄せるだけだ。
そういえば、とつい昨日見た妹の部屋を思い出した。
相変わらず埃っぽいものの、大袈裟に破損した遊び道具が転がっているようなことはなかった。
その他食事風景や弾幕ごっこにおける行動などを詳細に思い浮かべ……ようやく、口を開いた。
「事前に行く場所を報告して、日の入りの二時間後に出発。行動中は常識を守りながら魔理沙の言葉に従って、日の出の一時間前までに帰宅すること」
「……それで?」
「これら全てが守れるなら、許可しましょう」
レミリアはゆっくりとカップに口を付けた。
深い甘みのある、嗜好品が入った紅茶が舌の上で転がる。ごくりと嚥下すると、体の芯が少しだけ熱を帯びた。
そしてクッキーに手を伸ばしたところで、レミリアは自分を驚愕の眼差しで見つめる四人の姿を認めた。
皆は一様に目を見開き、まるで信じられないものを目撃したかのようだった。
なんとなく居心地が悪くなり、仕方なく声を上げた。
「どうしたのよ。なにかおかしいこと、言った?」
「……ああ。まさしく、言ったぜ」
「貴女がどうしちゃったのよ、レミィ。妹様に毒でも盛られた? その毒、私にも貰えないかしら」
「それはありえません。妹様は台所に入ったことすらないのですから。だからこれは天変地異の前触れかと」
硬直から解き放たれた三人が口々に好き勝手なことを口にする。
その表情は徐々に変化し、二人の魔女は訝しむように、メイド長は真っ青になった。
ただ一人、妹のフランドールだけが先ほどから同じ顔でこちらをじっと見つめている。
震える小さな口から、鈴の音のような声が漏れた。
「……お姉さま。それって本当?」
「レミリア・スカーレットの名と誇りにかけて約束するわ。ただし、一度でも約束を破ったら二度目はないわよ」
「――うん! ありがとう、お姉さま!」
魔理沙の膝からポンと飛び降りると、そのまま机を跨いで抱きついてきた。
その勢いに椅子ごと倒れてしまうが、フランドールはそんなことは気にも止めず、満面の笑みで頬ずりしてきた。
ちょっと早まったかな、と脳裏に過ぎらないでもなかったのだが。
「お姉さま~、大好き!」
「……はいはい、喜んでもらえて私も嬉しいわ」
この笑顔を見ると、そんなことを言う気には到底なれなかった。
「じゃあさ、今度の日曜日はどう!?」
「おいおい、ちょっと落ち着けよフラン。計画はしっかり決めないと怪我の元だぜ」
それからしばらく、上機嫌な妹につられて和やかなお茶会が続いた。
レミリアたちはたびたびこうして集まり、他愛のない話や紅魔館の外で発生している出来事について語り合っている。
誰かが『お茶会しましょう』と誘うのではなく、自然と開催されて自然と解散しているのだ。
メンバーは時間によって異なるが、おおよそ現在のメンバーで固定されていた。
レミリア・スカーレット。フランドール・スカーレット。十六夜咲夜。パチュリー・ノーレッジ。そして、霧雨魔理沙。
そしてお茶会において中心的な役割を担っているのが、部外者である霧雨魔理沙だった。
何しろ、彼女以外は基本的に紅魔館から外出しないのだ。
かろうじてメイド長である咲夜は買出しの際に里へ行くが、それも必要最低限の時間しかかけない。
必然、話の起点は霧雨魔理沙に依存することになる。
彼女もそれを理解しているのか、紅魔館に来る際は何かしらの話の種を用意していた。
退屈を嫌うレミリアにとっても、このひと時は最近の愉しみとなっている。
「魔理沙魔理沙! この『むえんづか』ならたくさんあるんだよね? ここにしよ!」
「まあそこは第一候補だけど。だけどまずはその周辺をだな」
「あんまり危険な場所に連れていかないでよ。妹様に掠り傷でも負わせたら千本ナイフだからね」
「……そこは少なからず興味がある。今度私も行ってみようかしら」
「お前はやめとけ。喘息で倒れたら十中八九あいつらのお仲間入りだから」
今はフランドールのお出かけ計画で話題が持ちきりである。
この時ばかりは咲夜もメイドとしての仮面を外し、一個人として存分に会話へ参加している。
これもまた、このお茶会の良い所だ。
メイド長としての役割を一時でも忘れ、こうして楽しんでもらえれば主としても気が楽になるのだ。
ひとり頷きながら、最後まで残しておいたショートケーキの苺を食べる。
甘みも酸味も素晴らしい。さすがは自慢のメイド長が選んだ一品である。
と悦に入ったのもつかの間、眉根に皺を刻んだ魔理沙がこちらを見ていた。
「おい、レミリア」
「なにかしら」
「本当にいいんだな?」
いやに真剣な面持ちで問われる。
何を、とは聞かない。なにしろ、ここにいる全員が分かっているのだから。
それは魔理沙の膝にいるフランドールも同様で、幾分不安そうな表情になっている。
彼女に言い聞かせる意味合いを込めて、力強く頷いた。
「当然。これでも私は魔理沙、あなたを信頼しているのよ」
「――なら、そいつに応えなきゃならないな。あとで日時と場所をリストアップした紙を渡すぜ」
「ええお願い。最初は優しくしてあげてね」
「了解した……ふわぁ」
言い切った魔理沙は、突然大きな欠伸をした。
目尻に小さな涙が浮かび、そのまま目を閉じてフランドールの頭に頬を乗せた。
どうやら眠くなってきたらしい。先ほどあれだけ激しい弾幕ごっこをしたのだ、それも仕方のない話である。
対して、フランドールは体力が有り余っているようだった。
自分を抱きしめる魔理沙の腕を、それこそ人形の腕を動かすようにして遊んでいる。
それをさせるがままにして、魔理沙が申し訳なさそうに苦笑いをした。
「あー、部屋を貸してもらえるか? 一眠りしたいんだ」
「咲夜。どこかに綺麗な部屋はあったかしら」
「一応客人用に、三つは定期的に掃除をしています」
「案内してやって」
「了解しました」
咲夜の姿が一瞬で消え去り、すぐさま魔理沙の背後から現れた。
別に普通に立ち上がって普通に向かえばいいような気がするのだが。
そんなことを考えている間に、フランドールがどかされて魔理沙は立たされてた。
ふらふらと危なげに歩を進める魔理沙を、咲夜が支えながら図書館の入り口へと歩き出した。
――その後ろを、何故か破顔するフランドールがついていった。
「フラン。あなたまでどこに行くのかしら?」
「どこって、魔理沙の寝室よ。私も疲れちゃったし、『約束』もあるしね」
約束、という言葉に魔理沙が反応した。
眉間に皺を寄せて口をへの字にしているところから、彼女にはあまりいい話題ではなさそうだ。
「約束ってあれか? 今日じゃなきゃ駄目か?」
「今日じゃなきゃ駄目。せっかく勝てたんだし、賞品はすぐに貰いたいもの」
「……はぁ。咲夜、悪いけど一時間後くらいに来てくれないか? やり過ぎてないか確認してほしいんだ」
「分かったわ。うっかり死なないでね」
「りょーかい」
そう言って、フランドールたち三人は今度こそ出て行った。
レミリアは『約束』というのが気になったが、内容を知っていそうな人物は全員行ってしまった。
咲夜が帰ってきたら聞こう。そう思い、紅茶のカップに手を伸ばす。
すると、仏頂面のパチュリーが話しかけてきた。
「ねえレミィ。貴女、本当に毒でも盛られたの?」
「どういう意味かしら。まるで正気を疑われているようで不愉快なんだけど」
「疑ってるのよ。よりにもよって、貴女が妹様の外出を許可するなんて」
その話か、とレミリアは納得した。
たしかに今まで妹の外出を認めたのは片手の指の本数ほどもない。それも、出さざるを得ない状況下のみだ。
唯一の例外は、一度だけあった博麗神社での大宴会くらいか。
「パチェ。この頃フランを見て、どう思う?」
「どうって……以前よりはるかに安定しているのは明らかね。安易に物を壊さなくなったし、何より力の行使が少なくなった。でもそれは――」
「一時的なものの可能性が高い。まだ早すぎるんじゃないか?」
「……その通りよ。屋敷内なら私たちが抑止力になれるけど、外でどうなるかは『神のみぞ知る』だわ」
「私も同意見。でも、信じたくなるのよ。もうあの子も大丈夫なんじゃないかって」
この言葉に、パチュリーは悲痛そうに口を引き絞った。
彼女は親友だ。だからこそ今まで包み隠さず話してきた。これまでの経緯と、妹の狂気を。
――幾たびも『もう大丈夫じゃないか』と思い、ほんの少しだけフランドールを自由にしてみた。
結果は散々だった。ある時は本能のままに人間を殺し、ある時は人間の歴史に干渉して追われる立場となった。
最小の自由で、最大の被害を引き起こす。それが、妹のフランドールだった。
暴れるフランドールを再び拘束した後、しばらくの間深い絶望と後悔にさいなまれた。
またやってしまった、もう二度とあの子の手綱を放してはならない、と。
だが、それでもフランドールは大事な妹なのだ。いつまでも地下に閉じ込めたくはないのだ。
だからこそ小さな希望を見出してはそれを理由に解放し、また同じ失敗を繰り返す。
495年間、飽きるほどに見てきた現実だった。
この親友はその全てを理解しているからこそ、また繰り返そうとする自分を叱咤してくれる。
だけどこの無愛想で優しい親友は、こちらの心情を完全に理解して閉口してくれるのだ。
今度こそ。今度こそ、フランドールは暴走しないのではないかと。
以前起こした紅霧異変で出会った、あの強い人間が一緒ならば。たとえフランドールが暴走しても止めてくれるのではないか。
一人の姉として、そう願わずにはいられないのだ。
「……わかった。私も出来るだけサポートする」
「ありがとう、パチェ」
そう言ったところで、咲夜が戻ってきた。
「お嬢様、ただいま戻りました」
「ご苦労さま。ああちょうどよかった、咲夜に聞きたい事があったの」
「なんでしょうか?」
「『約束』って何のこと?」
すると咲夜は、滅多に見せない渋い顔をした。
「……あの二人は、一ヶ月ほど前から約束をしていたそうです。妹様が魔理沙に勝てれば、あるものをやると」
「なんだか煮え切らない返答ね。で、その内容は?」
「……私では判断がつかないので、ご自分で見られるのが確実かと。それでは失礼します」
そう言って一礼すると、咲夜の姿は一瞬で消え去った。
珍しい。彼女が逃げるようにして会話を打ち切るのは、ちょっと思い出せないくらいに珍しい。
意見を求めるように親友を見やる。
親友はただ首を横に振り、本に目を落とした。
「少し見てくるわ」
「報告、楽しみにしてるわ」
返ってきたのは、先ほどと違ってひどく冷ややかな声だった。
広々とした紅魔館の廊下をひとり、お供もつけずに歩いていた。
時折通りすがった妖精メイドたちがお辞儀をしてくるが、手を上げるだけで応えて、先に進む。
咲夜が言っていた部屋は、三階の突き当たりに位置していた。
客人専用というわけではなく、客が他の部屋を所望すればそこを掃除して使ってもらうくらいの気遣いは出来る。
まあ、そもそも『悪魔の館』と呼ばれる紅魔館に泊まる人間なんて相当の変人しかいないのだが。
廊下を歩くたびに靴が床を叩く音が響く。
三階まで上り、あとは真っ直ぐ進めばいい。そんな場所で、一度周囲を見渡した。
誰もいない。館にはたくさんの妖精メイドがいるのに、周りには彼女たちの気配がなかった。
淀んでいるな、という感想が零れた。
風通りは悪くないのだが、暗い雰囲気がここ一帯をすっぽりと包み込んでいる。
まるで侵入者を拒むかのような圧迫感のある空気が、館の主人であるレミリアにものしかかってきた。
四肢が束縛されたように硬直する。だが。
「――上等じゃない。主に向かって」
苦もなく、目に見えない鎖を引きちぎる要領で足を前に進めた。
途端にどこからか断末魔を思わせる悲鳴が聞こえてきた。幻聴かと最初は思ったのだが。
「ああ、ああああああああぁぁぁぁぁ!」
それは間違いだった。
今、自分の耳にはしっかりと誰かの悲鳴、いや嬌声が届いていた。
そこには苦痛の色も含まれているが、その裏側にはたしかに快楽がくすぶっている。
このような声を上げる人物が思いつかず首を傾げるが――すぐに、思い当たった。
「……魔理沙?」
その事実に驚愕し、思わず足が止まった。
彼女の悲鳴なんて聞いたことはないが、声質からしてまず間違いないだろう。
そして何より……この声の主がいるのは、この廊下の突き当たりにある部屋。つまりは、霧雨魔理沙とフランドールが寝ているであろう一室のようだった。
甲高い声は先ほどの一回限りであったが、吸血鬼の鋭敏な聴覚は今なおその人物の声を拾っている。
断続的に放たれるくぐもった声。零れ出る嬌声を手で無理やり押さえたのなら、こうなるのではないか。
――帰ろう。もうなにも知らないふりをして、部屋に帰って紅茶でも飲もう。
そんな思いとは裏腹に、足は勝手に前方へと動き出す。
灯火に誘われた蜻蛉のようだと頭のどこかで囁かれる。しかし熱が篭ったように思考がぼやけ、それが誰なのかなど分かりもしなかった。
いつしか、必要以上に呼吸していることに気がついた。
鼻から深く空気を吸い、肺にまで行き渡ったらすぐさま口から吐き出す。
それは息苦しいから行っているのではなく、辺りに漂う鮮烈な『それ』を存分に取り入れるために、していた。
香りがするのだ。芳しい、花の蜜のような血の香りが――
もはや部屋に戻るなんていう選択肢は消し飛び、レミリアは赴くがままに向かった。
途中にあった扉など見向きもしない。足は真っ直ぐ突き当たりの部屋を求めて前に進んでいた。
そして、ある一室の前で立ち止まった。
鼓動がこれまでになく高鳴る。鼻だけでなく口でも『香り』を楽しむ。吐き出した息は、いやに熱を帯びていた。
固く閉じられた扉のドアノブに手を伸ばし、音を立てないよう慎重に回す。
カチャリ、と小さく確かな音が耳朶に触れた。そのままノブを押し込み、中の様子を確認できるほんの少しだけ開く。
――刹那、飛び込んできた光景に、心が真っ白に塗りたくられた。
まるで血で染まったかのような紅色の、壁紙。
純白のシーツが敷かれたベッド。
その上で、金色の髪を振りかざしながら絡み合う二人の少女――。
それは、紅色のカマキリに捕食される蝶を想起させた。
ベッドの上で、魔理沙がくせのある金髪を振り回し、目をがっちりと閉じたまま悶えている。
そんな彼女にのしかかる形で、妹のフランドールが魔理沙の首筋に喰らいついていた。
魔理沙は声を洩らさないよう歯を食いしばっていた。苦悶する額からは止めどない汗が流れ落ち、白いシーツがそれを存分に吸っている。
対してフランドールは、そんな彼女を玩ぶように、丹念に丹念に血を啜っていた。
それほど長くない牙の先端を肌に突き刺し、小さな毛細血管から吸い取る。
吸血鬼の本能で動脈の位置くらい分かるだろうに、一気に飲み干すことを拒んでいるようだった。
一秒という極めて短時間で吸血を中断し、肌からかすかに滲み出た血液を舌で舐めとる。
それをひたすら繰り返すことで、通常では考えられないほどの長い時間、フランドールは吸血していた。
レミリアはしばしそれを放心したように眺めていたが。
ごくり、と。
(……!?)
自分が唾を飲み込んだ音で、ようやく我に返った。
それと同時に、魔理沙の血を啜ることに夢中だったフランドールが不意に顔を上げ、こちらを見やった。
初めて目線が合った。ここでまた、レミリアは驚愕した。
爛々と真紅に輝くフランドールの瞳には、溢れんばかりの愛欲が渦巻いていたのだ。
レミリアにとって、それは妹の隠していた秘密を暴いてしまったかのような衝撃だった。
精神が未熟で色恋を理解できず、魔理沙に懐いていたのも近所のお姉さんに抱く好意だと思っていた。
それが、自分の知らないところで大人の階段を上っていた、そんな気すらしてくる。
フランドールは興味を失ったようにふいっと視線を下げ、つつーっと魔理沙の首に舌を這わせた。
途端、魔理沙の全身がこれでもかと伸ばされ、閉じられた目蓋からは汗とも涙とも判断がつかない水滴が零れ落ちた。
禁忌の場面を目撃し、目を見開いたまま立ち尽くすレミリア。
そんな彼女の後ろにクスクスと笑う人物がいた。
「あらお姉さま。天狗みたいな覗きとは、いいご趣味だわ」
「っ!?」
咄嗟に振り返ると、そこには歯に赤黒いものを付着させながら笑みを浮かべる、フランドールが立っていた。
レミリアは息を呑み、意味もなく口を開閉させる。
そんな姉の様子がよほどおかしいのか、ますます口端を吊り上げるフランドール。
絶句するレミリアを余所に、フランドールはいたって普通に話を切り出した。
「さて、何か聞きたいことはあるのかしら? お姉さま」
「……あなたは、分身の方ね。今楽しんでる方が本体かしら」
「その定義に意味はあるの? あっちも私、こっちも私。それだけで充分じゃない」
「そうね。じゃあ次の質問。――フラン、あなたいったい何をやってるの」
放心状態から抜け出したレミリアは、鋭い眼差しで実の妹を射抜いた。
けれどフランドールは大した痛痒も感じた様子はなく、せり上がる愉悦を堪えるように答えた。
「見れば分かるでしょう? お楽しみタイム。せっかく貰った賞品だもの、たっぷり味わわないともったいないわ」
「……それが『約束』? どういうことなの?」
「魔理沙と前に約束したのよ。私が魔理沙に弾幕ごっこで勝てば、血を吸わせてくれるって。それから毎日挑んだんだけど、なんでか勝てなかったの。だけど、今日。今日ようやく勝って、頂いてるってわけ」
フランドールは、うっとりとした表情で自らの歯に付いた血液を舐め取った。
その魅惑的な仕草に、何故か強い不快感を覚えた。自分の宝物を足蹴にされたような、そんな気分だ。
「……血は『与えて』いないでしょうね」
「もちろん。魔理沙は残念ながら、普通の人間よ。まあいずれは彼女の方から求めさせてあげるけど」
「眷属になればあなたに逆らうことはなくなる。地に堕ちた魔法使いで満足?」
「いずれ私の元を去るのなら、それも一興ね。私はお姉さまほど諦めが良くないもの」
咲夜の顔が脳裏に浮かんだが、すぐに打ち消した。
今はあの魔法使いのことを考えなければならない。もし必要なら彼女を紅魔館から追い出さ――
「駄目よ、それは許さない」
「がっ!?」
フランドールがこちらの喉を鷲掴みにしてきた。
身体能力による超スピードではなく、体を自然に潜り込ませるようにした虚をつく行動。
突然のことに体が反応せず、あっさりと喉を押さえられて持ち上げられた。
呼吸を塞がれる行為は吸血鬼にとって致命的ではない。それでも、レミリアの次なる行動を邪魔するには充分だった。
徐々に食い込んでいく指に手をかけ、なんとか握りつぶされることだけは阻止する。
だが、こちらの必死の抵抗に反して、フランドールは場に似合わない朗らかな笑顔で言った。
「お姉さまも『約束』したでしょう? 言いつけを守れば、魔理沙とお出かけしていいって。嘘つきは嫌いよ」
「ふ、フラン……あなた!」
「私ね、お姉さまも含めてみんなが大好きなのよ。小悪魔も、美鈴も、パチュリーも、咲夜も、お姉さまも」
フランドールの、真紅の瞳が少しずつ盛り上がり……ぽろり、と水滴が頬を伝った。
涙だった。唇は歪みに歪み、満面の笑みを演出しているというのに、そのすぐ上では悲しみにくれる瞳が向けられる。
ひどくアンバランスではあるものの、どこかフランドールらしいとも思った。
「だからお願い……お姉さまたちを、殺したくないの」
「フラン――」
呟いた直後、フランドールの腕がしなって振り回された。
瞬間的に発生した強い重力が体を軋ませ、それからすぐに解き放たれたと思ったら全身を凄烈な衝撃が駆け巡った。
如何な吸血鬼とて、瞬間的に傷が治るわけではない。どうやら後頭部を相当強打したらしく、べっとりとした熱の塊がそこから抜け出るような感覚だけが知覚できた。
そして明滅する視界の情報から、自分は床に叩きつけられたのだとかろうじて分かった。
朦朧とする意識の中、フランドールの声が耳を打つ。
「もう行かなきゃ。そろそろ咲夜が来る頃だし、最後にたくさん感じてもらわないと」
「ま、待ちなさ……フラ……」
精一杯伸ばした手は届かず、声すらも背中に消されるのみ。
もう一人のフランドールも入室し、そのまま魔理沙の体に齧り付いた。
魔理沙の嬌声が一段と高まる。もはや、声を押さえることもできないようだ。
レミリアはなんとか体を起こそうと腕を床に突き立てるが――あえなく、崩れ落ちた。
(……フラン)
遠のく紅魔館の床を無為に眺めながら、最後の抵抗とばかりに思考する。
――自分はまた、早まってしまったのだろうか。
魔理沙への吸血行為は、まだ許せる。本人の了承もあったようだし、血も与えていないのだから。
だが、彼女への執着が心配だった。あれがいつか過ちの元になるのではないかと。
先の言葉を思い出す。紅魔館の皆を殺したくないのだと。
――それはつまり、『約束』を破れば家族であろうと殺すということではないか?
(……フラン)
確証はない。だが、ありえないとは言い切れない。
その行為が元来より存在する狂気ゆえか、あるいは強すぎる魔法使いへの想いか。
判断がつかない。当然だ、今までも妹の心を推し量ることなど出来なかったのだから。
となると、今回も以前と同じように小さな希望に過ぎないのだろうか。
(……フラン)
現世を追われた者が辿り着く最後の地、幻想郷。
ここで大きな問題を起こせばレミリアのみならず、紅魔館そのものが存亡の危機に立たされる。
フランドールをどうにかしない限り、永遠の安息は訪れないのかもしれない。
(……フラ……ン)
だが、それでも。
それでもたった一人の肉親を切り捨てることなんて――
(……フラ……ン…………)
彼方より響く幼い哄笑を耳にしながら。
レミリアは、意識を手放した。
「ああ、素敵よ魔理沙ぁ……私にすら壊せない、最高の――」
吸血がエロイのはカーミラ先生以来の伝統ですよね!
しかし、この魔理沙はフランの狂気を受け止めそうでいいなぁ。
そう思ってた時期が私にもry
最初ほのぼのでラストにシリアス、レミィとフランのやり取りに引き込まれてしまいました。
そして続きがないのが悔やまれる!