立地が悪いと思うのだ。
どうしようもないことだけれど、これは死活問題だった。
霊夢は金欠だ。随分前から、まともな食事にありつけていない。収入は異変解決と賽銭寄付だけなのだから。
異変などそう頻繁に発生する訳がない。加えてこの土地。どうしてこう極端な場所に建てなければならなかったのか。
寄付をしてくれる人間が参拝しに来るには厳しい道のりだ。寄付をしない人間に限って、ここへ来るのに苦労しない。寄付をしない妖怪はいくらでもやって来る。
散々なもの。泣き言も吐きたくなる。
しかしよくよく考えてみれば、霊夢は怠け者だった。修行不足。努力度も関心・意欲・態度に含めます。異変解決はこなせたから、といって優遇してくれる神様はいなかったらしい。
勿論、多少生活が苦しくなったからといって怠惰性は治らなかった。栄養不足で更に気力を削がれるのだ。
裕福でいられたのはいつまでだったか。今はすっかり貧乏だ。
そんなことを考えて、霊夢は今日も怠惰に暮らす。酔生夢死も悪くない。
金が無いなら無いなりに、高望みしないのがモットーです。
いい天気だから、掃除をした。境内だけは綺麗である。もし参拝客が来たら悪いから、まあその程度の仕事はこなすのだ。
秋だった。神社を囲む鎮守の森から、紅葉が風に流れて降りてくる。みんな掃き集めて、燃やして焼き芋でもしたい。焼き芋を買う金はないので、焼くだけだった。
ぱちぱちと爆ぜる紅葉と木の枝を眺めながら、燻る煙の匂いを嗅いで、今日も彼女は生きています。
もうすぐ寒くなる季節。まだ秋が深くて涼しい程度の気温だけれど、寒くなったら暖房が欲しい。去年は毛布と布団の二枚重ねで乗り越した。今年の夏が暑かった分、冬が負けじと寒くなろうとしないでほしい。
暖房は香霖堂で外界のを取り扱っている。何でも、ものの数分で部屋中がすっかり暖まってしまうということだ。いいなあ、いいなあとは思うけれど、それは金持ちの道楽だから。魔理沙の家に何故かそれがあることは、考えてはいけないのだ。
火が燃え尽きた頃に、いつものように魔理沙降臨。秋空の逆光を受けながら、黒い面影が颯爽と境内に降り立った。
「焼き芋でもしてたのか」
「そんな金があるのなら、冬に備えて毛布をもう一枚買ってくるわ」
「霊夢かわいそう」
「そう思うんなら昼ご飯でも奢ってよ」
「お茶を一杯、くれるなら」
「茶葉だけなら幾らでもあるわ」
そうだ、腹など最初から減ってくれなければ、ひもじいなんて思いも起こらないだろうに。どうかお茶だけで生きられる体にして下さい。
二人でお茶を飲んで昼を過ごした。魔理沙が帰ってから、昼ご飯を奢ってもらっていないことを思い出した。その頃には午後二時を回っていた。
急須からすっかり薄くなった葉を取り出して、新しいのを入れた。お湯を注ぐと、濃い緑色が鮮やかに湯気を立たせた。
ぼんやり縁側から空を見ていた。赤蜻蛉が空一杯に舞っている。時間と共に、空が赤くなるのと共に、蜻蛉は溶けて見えなくなった。
秋だねえ、と後ろから声。空は群青に染まり出している。振り向くと、萃香が瓢箪を傾けていた。
「泊まっていくの」
「うん。帰るの面倒だし」
「食事は出ないよ」
「お腹空いた」
「諦めましょう」
夜は酒を飲んで過ごした。萃香がいれば酒には困らない。飲料だけで満たされた腹は、不満げに鳴っていた。
就寝。酔った萃香はすぐ眠った。霊夢は何だか寝付けない。
縁側に座ってお茶を飲む。濃い味だ。秋の夜空は雲一つなかった。星も全く見えなかった。
更けていく夜の空気は段々冷えて、気持ちのいい風が境内の砂を巻いている。
「ああ、お腹空いた」
やっぱりご飯は欲しいです神様。もう直接お金下さい。そんなことを考えながら眠りに就いた。
そして霊夢は神社になった。
寒さで目を覚ます。昨晩は毛布にしっかり包まって寝た筈なのに、いやに寒さが身に染みた。
寝惚け眼で体を起こそうとするが、動かせない。布団に接する部分が、塗り固められたように、全く体を動かせないのだ。
視界が段々はっきりしてきた。開眼一番、早朝の薄くなった群青の空が見えた。その下には山脈が続いている。裾野には広大な森林。
霊夢は目線が高いことに気が付いた。周りの木々のてっぺんが自分の視線と同じくらいの位置にある。そうして、目の運動はできることも分かった。
足元を見る。境内だった。両端に狛犬もいる。紅葉が一晩のうちにまたばら撒かれて、所々に赤や黄色の点が目立った。
今自分のしている行為がおかしいことは霊夢にも分かった。寝ていたのに、立っている。大体、何が起こったのか分かった気がする。
それがどうしてなのか、驚愕や疑問の気持ちは湧かず、異常に冷静な自分を感じた。現状を受け入れている自分も、心の中にいた。
私は神社になったらしい。博麗神社になってしまったらしい。
空の群青は段々薄まってきていた。その代わりに山の端から、白っぽい光がちらつき始めた。
夜明けである。
前方の鳥居が、朝日を浴びて影を境内に伸ばしている。影が砂場を四角く切り取った。これは門だ、霊夢は思った。
新しい世界の夜明け。新しい世界の扉が、私の前に開いていた。
ハロー、ワールド。私の神社としての命が始まったことを、それらは知らせてくれていた。
数時間が経った。下でがさごそ音がする。萃香が起きてきたらしい。
霊夢は空の移り変わりと影の移動を眺めていた。生まれてからずっと目の前にあった景色なのに、今になってようやく、真っ向から対峙することができた。
霊夢は初めて、自分は幻想郷に受け入れられたのだろうと感じた。
人間だったときにこの光景を見られなかったのは、皮肉のようだ。神社になって自然に還る。考えてみれば当たり前か。この体は殆ど木でできているのだから。
「霊夢、霊夢どこ」
萃香が呼んでいる。私はここにいるよ。
「ここだよお」
「えっ、どこよ」
「私はここにいるよお」
何だか楽しくなってきた。愉快な気分だった。私は今、萃香を体で包み込んでいるのだ。自分が凄く大きい存在になったみたいだ。実際、大きくはなったのだけれど。
萃香は境内に出てきた。そして霊夢の体をじろじろ見つめだした。
「霊夢どこ? いい加減出てきてよ」
「ここにいるってば」
彼女ははっとして、神社の屋根の千木に目を映した。丁度、この千木の二つの出っ張りが霊夢の目になっていた。
それから近寄って来て、瓢箪を賽銭箱横の柱にぶつけた。
「いたっ」
「やっぱり。まさか霊夢、神社になっちゃったの」
「そうみたい」
「食べてすぐ寝ると牛になるって言うけど、霊夢はお茶ばっかり飲んで寝るから、神社になっちゃったのね」
「そういうこともあるかも」
暢気と言われるだけはある。誰に言われたかは思い出せない。
「馬鹿! 何で神社なんかになっちゃったのよ!」
萃香は泣き出してしまった。瓢箪の蓋が外れて、酒が境内の砂に滲んだ。
霊夢も何だかいたたまれなくなって、空を見上げた。すると、黒い影が遠くから飛んで来るのが見えた。あのスピードは魔理沙に違いない。
その通りだった。魔理沙降臨。泣いている萃香を見つけて、心配そうな顔を作った。
「おい萃香、どうしたんだ」
「魔理沙ぁ、ひぐ、れ、霊夢がね。霊夢が」
「霊夢がどうした?」
「神社になっちゃったよお! 魔理沙。霊夢がぁ」
傍観している霊夢にとっては異様な会話だった。可笑しくて、つい笑ってしまった。
「ん? 霊夢?」
「だからね、霊夢は神社になっちゃったのよ」
「馬鹿な」
「霊夢の馬鹿ぁ」
二人に見つめられ、視線を泳がせたつもりの霊夢だったが、実際どこも動いてはいないので意味がなかった。
「こ、この馬鹿野郎!」
魔理沙は急に叫んでから、何が「馬鹿野郎」なのか自分でもよく分からなかったらしく、首を捻った。
霊夢も二人の様子を見て、首を捻りたくなった。何にそこまで必死になっているのだろう。たかが神社になったくらい、どうってことないではないか。
「大丈夫よ、二人とも。別に死んだ訳じゃないし」
「いや、それ生きているっていうのか?」
「霊夢、もうお酒飲めなくなっちゃったの?」
「ああ、煩いわねえ。大丈夫だって。私の人生は終わってしまったみたいだけど、神社生が始まったと考えればいいのよ」
「うわあああああん」
遂に魔理沙も泣き出してしまった。
何がそんなに悲しいのだろう。私はここにいるのに。むしろ存在感は増しただろう。この凛々しい鰹木を見よ。
そう思ってみるけれど、二人が零した涙は、私の足元に落ちて、それは確かに冷たかった。本物の涙だった。
蹲って泣いている萃香と魔理沙。霊夢の体はそれらを包み込んで、なお広く大きい。その余剰は、寂しかった。
何だかとても申し訳ない気持ちになった。
「あの……ごめんなさい。私が神社なんかになっちゃったから」
「霊夢ぅ」
「酷いぜ、霊夢。私に一言相談もせずに、勝手に……」
「ごめんなさい。でもね、私も別になりたくてなった訳じゃないのよ。朝起きたらこの有様」
「私が目を離さなかったら、霊夢は助かったかもしれないのに。うぅ、ぐす、ごめんね霊夢」
「泣かないで。私は大丈夫だから。神社になっても、ちゃんと生きているからね」
霊夢は心配していなかった。自分はこれからどうなるのか、そんなことはどうでもよかった。
ただ、朝日を柱から屋根までいっぱいに浴びられるこの心地よさがあれば、どうにでもなるような気がした。空はすっかり水色に変わっていた。
赤蜻蛉が遠くを飛んでいる。鎮守の森がざわめき始めた。樹木は霊夢に寄り添って、柔らかい葉がくすぐったかった。
「あんたらはこれからどうするの」
「誰か呼んでこなくっちゃ」
魔理沙はそう言って、秋空に飛び立っていった。
萃香は鼻を啜りながら、朝酒をしている。涙が引っ込んだかと思うと、鼻水が出て、鼻水が引っ込んだかと思うと、涙が溢れる。
ずっと霊夢の柱に寄りかかっていたけれど、泣き疲れてまた眠ってしまったらしい。寝息が静かな午前の境内に流れていた。
雀が数匹、頭にとまった。頭は屋根で、髪は多分鰹木の部分だろう。
目を動かせるといっても、左右真横までくらいしか見えず、つまり前方百八十度が私の世界だった。
毎日遠くの山と裾野の、季節の変化を眺めて暮らすのも悪くない。空は見る度に微妙に色を変えている。中々面白いな、と思う。
暫くして、魔理沙はアリスを連れて戻ってきた。
「そんなこともあるのね」
なんて言って、アリスは微笑んでくれた。彼女は私と似ているんだ、と常々霊夢は感じている。諦観は裏返せば楽観主義とも言える。そんな性格でいいじゃない。
そういえば、体が温まってきていた。神社に充満していた朝の寒気を、日差しは暖めてくれたらしい。
「霊夢はこれからどうしたいの」
「ずっとここで寝ていたいな」
「もう、人間に戻れなくてもいい?」
「いいわ。もう、いいのよ」
だってこんなにいい気持ち。心配してくれる魔理沙や萃香には悪いけれど、もう私は、神社でいいわ。
マネーラックに苦しめられることもない。ずっと日向ぼっこしていられるもの。
「そんなこと言うなよお」
「私とお酒飲もうよお」
小さくなった二人が、私の足元、つまり石階段に座って泣きついた。いや違う、霊夢が大きくなったのだ。
体が温まってきたからか、心も暖かくなったらしい。霊夢は不思議な気分になった。
「二人とも、アリスも、中へ入んなさい。外にずっといる訳にはいかないでしょう」
何だろう、これは。不思議な気持ちだ。小さな彼女たちを包み込んでしまいたい。私の大きな体で受け止めてあげたい。
これが母性というものだろうか? 霊夢にはよく分からなかった。
「中にいたら、霊夢と話ができないじゃない」
「そんなことはないわ。体の中から聞こえる声が、私の耳に響かない道理がある?」
三人はしぶしぶ玄関から入った。私の体の中へ。足音が響く。人間だった頃の心臓の鼓動に似ている。
霊夢はそこでふと思った。もしかしたら、やっぱり私には命が既に無くなっていて、誰かが中に暮らすことで、命が生まれるのかも知れない。
そうだね、私はもう神社という、建物だものね。自分の中に心臓を自覚して、霊夢は急速に体温が上がるのを感じた。
私に命が吹き込まれた瞬間だった。
私の役割は、神社なのだ。伊達に神社の格好をしている訳ではない。もう私は神社として生きるさだめなのだろう。
もしかしたら、博麗神社も、そうだったのかも知れない。元は誰か人間で、私と同じく神社になった。前代の巫女かも。そして私と入れ替わった? じゃあ、私が神社になった代わりに、その誰かは消えてしまったのかなあ。いや、でも博麗神社は喋らなかったよ。私は喋れるのに、どうしてだろう。
博麗の巫女は、代々神社になる宿命なのだろうか。そんなことをふと思った。
「おーい」
萃香の声。多分、居間にいるのだろう。ここはどの器官になるのだろうか。違う、中にいる人が心臓になるのだから、居間は今、心臓だ。
「聞こえてるよ」
「どこも変わらないね、やっぱり。霊夢になっちゃっても、この神社は変わらない」
もしかしたら、霊夢は考えた。もしかしたら、私は神社そのものになった訳ではなくて、幽霊か何かになってこの神社に取り憑いているのかも。でもそれっておかしいじゃない? 取り憑けたなら、離れることも自由にできなくっちゃいけないわ。
結局、詳しいことなど分からない。分かっても仕方のないことだろう。
今は何時頃かなあ。霊夢の思考はマイペース。
空はすっかり赤景色。夕日の赤じゃなく、蜻蛉の赤で染まっていた。今日の空は低く見える。私の背が伸びたからかな。
「あっ」
不意に叫ぶ。一つ大事なことに気付いた。
「どうした霊夢」
「境内に落ち葉が溜まっているの。掃除をしてくれないかしら」
「そんなもん。気楽だなあ、もっと深刻に事態を考えようとは思わないのか」
それを言うなら境内掃除のほうが深刻だ。いつ参拝客が来るとも分からないのだから。
私は神社のままでも応対できる。むしろ客が来たときに眠りこけているなどという、人間だったときの失態はせずに済む。寝ていても分からないからね。
「お願いよお」
「しょうがないわねえ。魔理沙に萃香、どうせ暇なんでしょうから、やってあげましょう」
「これはいいアリス」
やっぱりアリスはいいアリスだった。三人は入ったときと同じようにしぶしぶ境内に現れた。体温が下がる。心臓が消えたのだ。
冷えていく体に、悲しみを感じた。やっぱり、誰かが住んでくれなきゃ建物は成立しないのね。まあ、神社は本来神様のための建物なんだろうけれど、この三人の方が、暖かいもの。
箒で掃き集められた落ち葉が、霊夢から見て右側の狛犬の傍に山を作っている。
焼き芋でもしたらどうか、と霊夢は提案した。三人は首を振る。金が無いのだと言う。焼き芋くらい、と思って、そういえば自分も芋を買う金が無かったことを思い出す。
あれ? 思い出す、なんておかしい。いつものことだったじゃないか。昨日までのことだろう。
もしかして、私の人間だったときの感覚、記憶が薄れてきているのだろうか。いや、記憶は確かな筈だ。
そうか、神様は、私が巫女のくせにあまりに俗物的だったから、神社なんかにしてしまったのかも知れない。
自分では金なんてどうでもいい、と考えていたつもりが、やはり心の裏ではそんな思いもあったのだ。お腹空いた、金が欲しい、贅沢したい、エトセトラ。
神社になったことで、およそ人間が感じる欲望というものが薄まってきたのに違いない。
私のマネーラック・ライフは終わったのだ。いよいよ霊夢は人間から開放された実感が湧き上がるのを思った。
蜻蛉が屋根にたくさんとまっている。集めた落ち葉は燃えていた。煙が赤い空に溶けていった。
神社になって初めての夜。あるいは昨夜には既に神社だったのかも知れないけれど、分からないので今夜を記念する。
私の体は暖かかった。灯りが境内に伸びている。三人が食事をしているのだ。アリスが家から持ってきたものだ。
申し訳なさそうに三人は会話している。もう私は食欲とかそんなものに縛られない体なのだから、遠慮なんてしなくていいのに。
むしろ、ここにいてくれることは嬉しかった。体に染みる温度。霊夢の生を感じられる温度だ。
暖かさを抱いて霊夢は眠りに就いた。
足がくすぐったくて起きた。昨日ほど寒くはない。
足元にピンクがかった半円が見えた。屋根の下の骨組みが邪魔して、おそらくは円形であろうそれの半分しか見えなかったのだ。
傘だ。多分、紫の傘だろう。
エグザクトリイ。紫は数歩下がって千木を見つめた。丁度、昨日の萃香と同じように。
「紫、おはよう」
霊夢は驚かせようと大きな声で呼びかけたつもりだったが、紫の方は全くの無表情である。
畳んだ日傘でこつこつ地面を打っている。
「あの、紫?」
「……」
沈黙の返答。日傘に体重を乗せて、神社を隅々まで眺め回している。
「いやあ、なんかさ、ねえ? 私、神社になっちゃった」
「うわあああああん」
結局こうなる。神社になって初めて気付いた。幻想郷には泣き虫が多いらしい。
霊夢はそんな彼女にも、母性的な愛情を感じた。今までは正反対だったのに。紫の方が絶対母親向きだ。
母親の抱擁ではなく、建物の内包だから、母性的というより、建物的な愛情か。無駄な訂正をしておく。
「泣くな紫」
「だってえ、ぐすん、うえ、霊夢があ」
この茶番を何度繰り返せば、私は神社と認められるのだろうか。霊夢は頭を抱えたい気分だった。抱える頭はないけれど。
そんなこんなで本日はおよそ知り合いの全員がやって来た。
幻想郷中から集まった。
当然、宴会の流れである。
秋の夜はいいものだ。あの星空に静寂を添えれば最高のセンチメンタルだった。けれど勿論、そんな静かな風流を楽しむ趣向を、ここの住民は持っていない。
境内は満員御礼といった具合。体も熱かった。鼓動が大きい。足元の石段には、レミリアが縋って泣いている。もう一時間くらい泣きっ放しだ。
司会進行に抜擢された文の威勢のいい声が聞こえる。特に煩い。
「ここで、今夜の主役、神社になってしまった霊夢さんから一言!」
主役になってしまったらしい。彼女はマイクを差し出してきたが、どうしろと?
「いや、文。それはいらないから……ええ、皆さん。本日は私のためにこのような会を催していただき、まことにありがとうございます。ええ、何と言ってよいか、そのね、私も大変驚いたのでありますが、どうやらこの度神社となった次第であります」
相当おかしな挨拶になってしまったけれど、殆どの参加者は酔い潰れて、霊夢以上に意味の分からないことを叫んだりしていた。
人間だったときにはあれほど強く欲していた酒も、今は飲みたいと思わない。
何だか凄く寛大な性格になった気がする。境内も、後ろの森も、鳥居も、みんな纏めて包み込んでしまえそうだ。
私はここにいるよ。そう、大声で叫びたくなった。
もっと広く大きくなりたい。
みんなの心配事とか、悩みとか、全て私が包んで背負ってあげられそうな気がする。
群青の空みたいに、ここにいるみんなをこの温度で覆ってあげたい。きっと気持ちいい筈だから。
霊夢は夜に溶け込んだようだった。
広がって広がって、ほら、人間も妖怪もみんなに平等な愛情を。
神社、博麗霊夢の愛情を。
夜は更けていく。
朝が来て、夜が来る。それを幾度繰り返しただろう。
魔理沙はいつの間にかここに住むようになった。
紫が新しい巫女を連れてきた。まだほんの小さな女の子。
皮肉にも、霊夢が神社になってから参拝客が急増した。「喋る神社」として有名になった。
人々は「お寺様」という愛称で親しんだ。霊夢はずっと自分が神社であることを説明したけれど、遂に諦めてしまったらしい。
月日は流れていく。霊夢は毎日、境内の先の山々を眺めて暮らした。次代の巫女の話し相手になってやったりもした。
萃香はいつまでも子供の姿のままだった。萃香と女の子が境内を駆け回っている光景には、霊夢も楽しい気分になった。
ああ、神社生が始まってから、もうどれだけ時を過ごしただろう。私は随分生きた。柱も古びてきていた。自慢の鰹木も、少しずつ風化していった。
魔理沙も――
こんなこともあるだろう。
どうやらさよならの時間です。
「霊夢」
「私は傍にいるわよ。ずっと、これからも。ちゃんと貴女を包んであげているから」
鼓動が弱まっていた。魔理沙の心臓が、段々、温度を失っていく。私の体も、冷たくなっていく。
「お前の次の代も、優秀だぞ」
「魔理沙さん!」
女の子の声。幻想郷みんなして、目一杯可愛がっている次代の巫女さん。この子なら、きっと大丈夫。
「楽しかったよ、魔理沙」
「最後に、お参りをさせてくれ」
魔理沙はやっとのことで、境内に現れ、霊夢の足元に立った。ちゃりん、と賽銭の音。
魔理沙が微笑んだ気がした。
マネーラッカーも、やっぱり悪くなかったね。
鼓動が止んだ。私も、どうやら役割を終えたらしいし、さっさと眠りに就くとしよう。
グッバイ、ワールド。
参拝御礼。
どうしようもないことだけれど、これは死活問題だった。
霊夢は金欠だ。随分前から、まともな食事にありつけていない。収入は異変解決と賽銭寄付だけなのだから。
異変などそう頻繁に発生する訳がない。加えてこの土地。どうしてこう極端な場所に建てなければならなかったのか。
寄付をしてくれる人間が参拝しに来るには厳しい道のりだ。寄付をしない人間に限って、ここへ来るのに苦労しない。寄付をしない妖怪はいくらでもやって来る。
散々なもの。泣き言も吐きたくなる。
しかしよくよく考えてみれば、霊夢は怠け者だった。修行不足。努力度も関心・意欲・態度に含めます。異変解決はこなせたから、といって優遇してくれる神様はいなかったらしい。
勿論、多少生活が苦しくなったからといって怠惰性は治らなかった。栄養不足で更に気力を削がれるのだ。
裕福でいられたのはいつまでだったか。今はすっかり貧乏だ。
そんなことを考えて、霊夢は今日も怠惰に暮らす。酔生夢死も悪くない。
金が無いなら無いなりに、高望みしないのがモットーです。
いい天気だから、掃除をした。境内だけは綺麗である。もし参拝客が来たら悪いから、まあその程度の仕事はこなすのだ。
秋だった。神社を囲む鎮守の森から、紅葉が風に流れて降りてくる。みんな掃き集めて、燃やして焼き芋でもしたい。焼き芋を買う金はないので、焼くだけだった。
ぱちぱちと爆ぜる紅葉と木の枝を眺めながら、燻る煙の匂いを嗅いで、今日も彼女は生きています。
もうすぐ寒くなる季節。まだ秋が深くて涼しい程度の気温だけれど、寒くなったら暖房が欲しい。去年は毛布と布団の二枚重ねで乗り越した。今年の夏が暑かった分、冬が負けじと寒くなろうとしないでほしい。
暖房は香霖堂で外界のを取り扱っている。何でも、ものの数分で部屋中がすっかり暖まってしまうということだ。いいなあ、いいなあとは思うけれど、それは金持ちの道楽だから。魔理沙の家に何故かそれがあることは、考えてはいけないのだ。
火が燃え尽きた頃に、いつものように魔理沙降臨。秋空の逆光を受けながら、黒い面影が颯爽と境内に降り立った。
「焼き芋でもしてたのか」
「そんな金があるのなら、冬に備えて毛布をもう一枚買ってくるわ」
「霊夢かわいそう」
「そう思うんなら昼ご飯でも奢ってよ」
「お茶を一杯、くれるなら」
「茶葉だけなら幾らでもあるわ」
そうだ、腹など最初から減ってくれなければ、ひもじいなんて思いも起こらないだろうに。どうかお茶だけで生きられる体にして下さい。
二人でお茶を飲んで昼を過ごした。魔理沙が帰ってから、昼ご飯を奢ってもらっていないことを思い出した。その頃には午後二時を回っていた。
急須からすっかり薄くなった葉を取り出して、新しいのを入れた。お湯を注ぐと、濃い緑色が鮮やかに湯気を立たせた。
ぼんやり縁側から空を見ていた。赤蜻蛉が空一杯に舞っている。時間と共に、空が赤くなるのと共に、蜻蛉は溶けて見えなくなった。
秋だねえ、と後ろから声。空は群青に染まり出している。振り向くと、萃香が瓢箪を傾けていた。
「泊まっていくの」
「うん。帰るの面倒だし」
「食事は出ないよ」
「お腹空いた」
「諦めましょう」
夜は酒を飲んで過ごした。萃香がいれば酒には困らない。飲料だけで満たされた腹は、不満げに鳴っていた。
就寝。酔った萃香はすぐ眠った。霊夢は何だか寝付けない。
縁側に座ってお茶を飲む。濃い味だ。秋の夜空は雲一つなかった。星も全く見えなかった。
更けていく夜の空気は段々冷えて、気持ちのいい風が境内の砂を巻いている。
「ああ、お腹空いた」
やっぱりご飯は欲しいです神様。もう直接お金下さい。そんなことを考えながら眠りに就いた。
そして霊夢は神社になった。
寒さで目を覚ます。昨晩は毛布にしっかり包まって寝た筈なのに、いやに寒さが身に染みた。
寝惚け眼で体を起こそうとするが、動かせない。布団に接する部分が、塗り固められたように、全く体を動かせないのだ。
視界が段々はっきりしてきた。開眼一番、早朝の薄くなった群青の空が見えた。その下には山脈が続いている。裾野には広大な森林。
霊夢は目線が高いことに気が付いた。周りの木々のてっぺんが自分の視線と同じくらいの位置にある。そうして、目の運動はできることも分かった。
足元を見る。境内だった。両端に狛犬もいる。紅葉が一晩のうちにまたばら撒かれて、所々に赤や黄色の点が目立った。
今自分のしている行為がおかしいことは霊夢にも分かった。寝ていたのに、立っている。大体、何が起こったのか分かった気がする。
それがどうしてなのか、驚愕や疑問の気持ちは湧かず、異常に冷静な自分を感じた。現状を受け入れている自分も、心の中にいた。
私は神社になったらしい。博麗神社になってしまったらしい。
空の群青は段々薄まってきていた。その代わりに山の端から、白っぽい光がちらつき始めた。
夜明けである。
前方の鳥居が、朝日を浴びて影を境内に伸ばしている。影が砂場を四角く切り取った。これは門だ、霊夢は思った。
新しい世界の夜明け。新しい世界の扉が、私の前に開いていた。
ハロー、ワールド。私の神社としての命が始まったことを、それらは知らせてくれていた。
数時間が経った。下でがさごそ音がする。萃香が起きてきたらしい。
霊夢は空の移り変わりと影の移動を眺めていた。生まれてからずっと目の前にあった景色なのに、今になってようやく、真っ向から対峙することができた。
霊夢は初めて、自分は幻想郷に受け入れられたのだろうと感じた。
人間だったときにこの光景を見られなかったのは、皮肉のようだ。神社になって自然に還る。考えてみれば当たり前か。この体は殆ど木でできているのだから。
「霊夢、霊夢どこ」
萃香が呼んでいる。私はここにいるよ。
「ここだよお」
「えっ、どこよ」
「私はここにいるよお」
何だか楽しくなってきた。愉快な気分だった。私は今、萃香を体で包み込んでいるのだ。自分が凄く大きい存在になったみたいだ。実際、大きくはなったのだけれど。
萃香は境内に出てきた。そして霊夢の体をじろじろ見つめだした。
「霊夢どこ? いい加減出てきてよ」
「ここにいるってば」
彼女ははっとして、神社の屋根の千木に目を映した。丁度、この千木の二つの出っ張りが霊夢の目になっていた。
それから近寄って来て、瓢箪を賽銭箱横の柱にぶつけた。
「いたっ」
「やっぱり。まさか霊夢、神社になっちゃったの」
「そうみたい」
「食べてすぐ寝ると牛になるって言うけど、霊夢はお茶ばっかり飲んで寝るから、神社になっちゃったのね」
「そういうこともあるかも」
暢気と言われるだけはある。誰に言われたかは思い出せない。
「馬鹿! 何で神社なんかになっちゃったのよ!」
萃香は泣き出してしまった。瓢箪の蓋が外れて、酒が境内の砂に滲んだ。
霊夢も何だかいたたまれなくなって、空を見上げた。すると、黒い影が遠くから飛んで来るのが見えた。あのスピードは魔理沙に違いない。
その通りだった。魔理沙降臨。泣いている萃香を見つけて、心配そうな顔を作った。
「おい萃香、どうしたんだ」
「魔理沙ぁ、ひぐ、れ、霊夢がね。霊夢が」
「霊夢がどうした?」
「神社になっちゃったよお! 魔理沙。霊夢がぁ」
傍観している霊夢にとっては異様な会話だった。可笑しくて、つい笑ってしまった。
「ん? 霊夢?」
「だからね、霊夢は神社になっちゃったのよ」
「馬鹿な」
「霊夢の馬鹿ぁ」
二人に見つめられ、視線を泳がせたつもりの霊夢だったが、実際どこも動いてはいないので意味がなかった。
「こ、この馬鹿野郎!」
魔理沙は急に叫んでから、何が「馬鹿野郎」なのか自分でもよく分からなかったらしく、首を捻った。
霊夢も二人の様子を見て、首を捻りたくなった。何にそこまで必死になっているのだろう。たかが神社になったくらい、どうってことないではないか。
「大丈夫よ、二人とも。別に死んだ訳じゃないし」
「いや、それ生きているっていうのか?」
「霊夢、もうお酒飲めなくなっちゃったの?」
「ああ、煩いわねえ。大丈夫だって。私の人生は終わってしまったみたいだけど、神社生が始まったと考えればいいのよ」
「うわあああああん」
遂に魔理沙も泣き出してしまった。
何がそんなに悲しいのだろう。私はここにいるのに。むしろ存在感は増しただろう。この凛々しい鰹木を見よ。
そう思ってみるけれど、二人が零した涙は、私の足元に落ちて、それは確かに冷たかった。本物の涙だった。
蹲って泣いている萃香と魔理沙。霊夢の体はそれらを包み込んで、なお広く大きい。その余剰は、寂しかった。
何だかとても申し訳ない気持ちになった。
「あの……ごめんなさい。私が神社なんかになっちゃったから」
「霊夢ぅ」
「酷いぜ、霊夢。私に一言相談もせずに、勝手に……」
「ごめんなさい。でもね、私も別になりたくてなった訳じゃないのよ。朝起きたらこの有様」
「私が目を離さなかったら、霊夢は助かったかもしれないのに。うぅ、ぐす、ごめんね霊夢」
「泣かないで。私は大丈夫だから。神社になっても、ちゃんと生きているからね」
霊夢は心配していなかった。自分はこれからどうなるのか、そんなことはどうでもよかった。
ただ、朝日を柱から屋根までいっぱいに浴びられるこの心地よさがあれば、どうにでもなるような気がした。空はすっかり水色に変わっていた。
赤蜻蛉が遠くを飛んでいる。鎮守の森がざわめき始めた。樹木は霊夢に寄り添って、柔らかい葉がくすぐったかった。
「あんたらはこれからどうするの」
「誰か呼んでこなくっちゃ」
魔理沙はそう言って、秋空に飛び立っていった。
萃香は鼻を啜りながら、朝酒をしている。涙が引っ込んだかと思うと、鼻水が出て、鼻水が引っ込んだかと思うと、涙が溢れる。
ずっと霊夢の柱に寄りかかっていたけれど、泣き疲れてまた眠ってしまったらしい。寝息が静かな午前の境内に流れていた。
雀が数匹、頭にとまった。頭は屋根で、髪は多分鰹木の部分だろう。
目を動かせるといっても、左右真横までくらいしか見えず、つまり前方百八十度が私の世界だった。
毎日遠くの山と裾野の、季節の変化を眺めて暮らすのも悪くない。空は見る度に微妙に色を変えている。中々面白いな、と思う。
暫くして、魔理沙はアリスを連れて戻ってきた。
「そんなこともあるのね」
なんて言って、アリスは微笑んでくれた。彼女は私と似ているんだ、と常々霊夢は感じている。諦観は裏返せば楽観主義とも言える。そんな性格でいいじゃない。
そういえば、体が温まってきていた。神社に充満していた朝の寒気を、日差しは暖めてくれたらしい。
「霊夢はこれからどうしたいの」
「ずっとここで寝ていたいな」
「もう、人間に戻れなくてもいい?」
「いいわ。もう、いいのよ」
だってこんなにいい気持ち。心配してくれる魔理沙や萃香には悪いけれど、もう私は、神社でいいわ。
マネーラックに苦しめられることもない。ずっと日向ぼっこしていられるもの。
「そんなこと言うなよお」
「私とお酒飲もうよお」
小さくなった二人が、私の足元、つまり石階段に座って泣きついた。いや違う、霊夢が大きくなったのだ。
体が温まってきたからか、心も暖かくなったらしい。霊夢は不思議な気分になった。
「二人とも、アリスも、中へ入んなさい。外にずっといる訳にはいかないでしょう」
何だろう、これは。不思議な気持ちだ。小さな彼女たちを包み込んでしまいたい。私の大きな体で受け止めてあげたい。
これが母性というものだろうか? 霊夢にはよく分からなかった。
「中にいたら、霊夢と話ができないじゃない」
「そんなことはないわ。体の中から聞こえる声が、私の耳に響かない道理がある?」
三人はしぶしぶ玄関から入った。私の体の中へ。足音が響く。人間だった頃の心臓の鼓動に似ている。
霊夢はそこでふと思った。もしかしたら、やっぱり私には命が既に無くなっていて、誰かが中に暮らすことで、命が生まれるのかも知れない。
そうだね、私はもう神社という、建物だものね。自分の中に心臓を自覚して、霊夢は急速に体温が上がるのを感じた。
私に命が吹き込まれた瞬間だった。
私の役割は、神社なのだ。伊達に神社の格好をしている訳ではない。もう私は神社として生きるさだめなのだろう。
もしかしたら、博麗神社も、そうだったのかも知れない。元は誰か人間で、私と同じく神社になった。前代の巫女かも。そして私と入れ替わった? じゃあ、私が神社になった代わりに、その誰かは消えてしまったのかなあ。いや、でも博麗神社は喋らなかったよ。私は喋れるのに、どうしてだろう。
博麗の巫女は、代々神社になる宿命なのだろうか。そんなことをふと思った。
「おーい」
萃香の声。多分、居間にいるのだろう。ここはどの器官になるのだろうか。違う、中にいる人が心臓になるのだから、居間は今、心臓だ。
「聞こえてるよ」
「どこも変わらないね、やっぱり。霊夢になっちゃっても、この神社は変わらない」
もしかしたら、霊夢は考えた。もしかしたら、私は神社そのものになった訳ではなくて、幽霊か何かになってこの神社に取り憑いているのかも。でもそれっておかしいじゃない? 取り憑けたなら、離れることも自由にできなくっちゃいけないわ。
結局、詳しいことなど分からない。分かっても仕方のないことだろう。
今は何時頃かなあ。霊夢の思考はマイペース。
空はすっかり赤景色。夕日の赤じゃなく、蜻蛉の赤で染まっていた。今日の空は低く見える。私の背が伸びたからかな。
「あっ」
不意に叫ぶ。一つ大事なことに気付いた。
「どうした霊夢」
「境内に落ち葉が溜まっているの。掃除をしてくれないかしら」
「そんなもん。気楽だなあ、もっと深刻に事態を考えようとは思わないのか」
それを言うなら境内掃除のほうが深刻だ。いつ参拝客が来るとも分からないのだから。
私は神社のままでも応対できる。むしろ客が来たときに眠りこけているなどという、人間だったときの失態はせずに済む。寝ていても分からないからね。
「お願いよお」
「しょうがないわねえ。魔理沙に萃香、どうせ暇なんでしょうから、やってあげましょう」
「これはいいアリス」
やっぱりアリスはいいアリスだった。三人は入ったときと同じようにしぶしぶ境内に現れた。体温が下がる。心臓が消えたのだ。
冷えていく体に、悲しみを感じた。やっぱり、誰かが住んでくれなきゃ建物は成立しないのね。まあ、神社は本来神様のための建物なんだろうけれど、この三人の方が、暖かいもの。
箒で掃き集められた落ち葉が、霊夢から見て右側の狛犬の傍に山を作っている。
焼き芋でもしたらどうか、と霊夢は提案した。三人は首を振る。金が無いのだと言う。焼き芋くらい、と思って、そういえば自分も芋を買う金が無かったことを思い出す。
あれ? 思い出す、なんておかしい。いつものことだったじゃないか。昨日までのことだろう。
もしかして、私の人間だったときの感覚、記憶が薄れてきているのだろうか。いや、記憶は確かな筈だ。
そうか、神様は、私が巫女のくせにあまりに俗物的だったから、神社なんかにしてしまったのかも知れない。
自分では金なんてどうでもいい、と考えていたつもりが、やはり心の裏ではそんな思いもあったのだ。お腹空いた、金が欲しい、贅沢したい、エトセトラ。
神社になったことで、およそ人間が感じる欲望というものが薄まってきたのに違いない。
私のマネーラック・ライフは終わったのだ。いよいよ霊夢は人間から開放された実感が湧き上がるのを思った。
蜻蛉が屋根にたくさんとまっている。集めた落ち葉は燃えていた。煙が赤い空に溶けていった。
神社になって初めての夜。あるいは昨夜には既に神社だったのかも知れないけれど、分からないので今夜を記念する。
私の体は暖かかった。灯りが境内に伸びている。三人が食事をしているのだ。アリスが家から持ってきたものだ。
申し訳なさそうに三人は会話している。もう私は食欲とかそんなものに縛られない体なのだから、遠慮なんてしなくていいのに。
むしろ、ここにいてくれることは嬉しかった。体に染みる温度。霊夢の生を感じられる温度だ。
暖かさを抱いて霊夢は眠りに就いた。
足がくすぐったくて起きた。昨日ほど寒くはない。
足元にピンクがかった半円が見えた。屋根の下の骨組みが邪魔して、おそらくは円形であろうそれの半分しか見えなかったのだ。
傘だ。多分、紫の傘だろう。
エグザクトリイ。紫は数歩下がって千木を見つめた。丁度、昨日の萃香と同じように。
「紫、おはよう」
霊夢は驚かせようと大きな声で呼びかけたつもりだったが、紫の方は全くの無表情である。
畳んだ日傘でこつこつ地面を打っている。
「あの、紫?」
「……」
沈黙の返答。日傘に体重を乗せて、神社を隅々まで眺め回している。
「いやあ、なんかさ、ねえ? 私、神社になっちゃった」
「うわあああああん」
結局こうなる。神社になって初めて気付いた。幻想郷には泣き虫が多いらしい。
霊夢はそんな彼女にも、母性的な愛情を感じた。今までは正反対だったのに。紫の方が絶対母親向きだ。
母親の抱擁ではなく、建物の内包だから、母性的というより、建物的な愛情か。無駄な訂正をしておく。
「泣くな紫」
「だってえ、ぐすん、うえ、霊夢があ」
この茶番を何度繰り返せば、私は神社と認められるのだろうか。霊夢は頭を抱えたい気分だった。抱える頭はないけれど。
そんなこんなで本日はおよそ知り合いの全員がやって来た。
幻想郷中から集まった。
当然、宴会の流れである。
秋の夜はいいものだ。あの星空に静寂を添えれば最高のセンチメンタルだった。けれど勿論、そんな静かな風流を楽しむ趣向を、ここの住民は持っていない。
境内は満員御礼といった具合。体も熱かった。鼓動が大きい。足元の石段には、レミリアが縋って泣いている。もう一時間くらい泣きっ放しだ。
司会進行に抜擢された文の威勢のいい声が聞こえる。特に煩い。
「ここで、今夜の主役、神社になってしまった霊夢さんから一言!」
主役になってしまったらしい。彼女はマイクを差し出してきたが、どうしろと?
「いや、文。それはいらないから……ええ、皆さん。本日は私のためにこのような会を催していただき、まことにありがとうございます。ええ、何と言ってよいか、そのね、私も大変驚いたのでありますが、どうやらこの度神社となった次第であります」
相当おかしな挨拶になってしまったけれど、殆どの参加者は酔い潰れて、霊夢以上に意味の分からないことを叫んだりしていた。
人間だったときにはあれほど強く欲していた酒も、今は飲みたいと思わない。
何だか凄く寛大な性格になった気がする。境内も、後ろの森も、鳥居も、みんな纏めて包み込んでしまえそうだ。
私はここにいるよ。そう、大声で叫びたくなった。
もっと広く大きくなりたい。
みんなの心配事とか、悩みとか、全て私が包んで背負ってあげられそうな気がする。
群青の空みたいに、ここにいるみんなをこの温度で覆ってあげたい。きっと気持ちいい筈だから。
霊夢は夜に溶け込んだようだった。
広がって広がって、ほら、人間も妖怪もみんなに平等な愛情を。
神社、博麗霊夢の愛情を。
夜は更けていく。
朝が来て、夜が来る。それを幾度繰り返しただろう。
魔理沙はいつの間にかここに住むようになった。
紫が新しい巫女を連れてきた。まだほんの小さな女の子。
皮肉にも、霊夢が神社になってから参拝客が急増した。「喋る神社」として有名になった。
人々は「お寺様」という愛称で親しんだ。霊夢はずっと自分が神社であることを説明したけれど、遂に諦めてしまったらしい。
月日は流れていく。霊夢は毎日、境内の先の山々を眺めて暮らした。次代の巫女の話し相手になってやったりもした。
萃香はいつまでも子供の姿のままだった。萃香と女の子が境内を駆け回っている光景には、霊夢も楽しい気分になった。
ああ、神社生が始まってから、もうどれだけ時を過ごしただろう。私は随分生きた。柱も古びてきていた。自慢の鰹木も、少しずつ風化していった。
魔理沙も――
こんなこともあるだろう。
どうやらさよならの時間です。
「霊夢」
「私は傍にいるわよ。ずっと、これからも。ちゃんと貴女を包んであげているから」
鼓動が弱まっていた。魔理沙の心臓が、段々、温度を失っていく。私の体も、冷たくなっていく。
「お前の次の代も、優秀だぞ」
「魔理沙さん!」
女の子の声。幻想郷みんなして、目一杯可愛がっている次代の巫女さん。この子なら、きっと大丈夫。
「楽しかったよ、魔理沙」
「最後に、お参りをさせてくれ」
魔理沙はやっとのことで、境内に現れ、霊夢の足元に立った。ちゃりん、と賽銭の音。
魔理沙が微笑んだ気がした。
マネーラッカーも、やっぱり悪くなかったね。
鼓動が止んだ。私も、どうやら役割を終えたらしいし、さっさと眠りに就くとしよう。
グッバイ、ワールド。
参拝御礼。
妖怪退治はどうした。
ほのぼのとかシュールとかより不気味さを感じる。
あと、そのままフェードアウトするのが残念だ。ラストでなにか衝撃的なものがほしかった。
この霊夢はもしかして、なるべくして神社になったのかなあ。
普段、あんまり表に出さない優しさを自覚したみたいで、こんな神社お参りしたい。
時間ふっとばしたあたりがちょっと物足りなくも感じましたが……。