ある日。魔理沙は紅魔館に向かって空を飛んでいた。
本が10冊近く詰まった袋を背負うように持って。
パチュリーに本を返すために飛んでいた。
とても重いけど、とても時間がかかるけど、返しきる。
そう思いながら飛んでいた。
本を返す理由。単純そうで複雑な理由。
魔理沙はパチュリーに惹かれ、恋してしまったから。
もう、こうするしかないから……
紅魔館の地下にある大図書館。
魔理沙は両手で本が詰まった袋を持って、机を挟んでパチュリーと向かい合っていた。
箒は図書館の入り口のあたりに立てかけてある。
「返すぜ。これら全部」
そう言うなり、魔理沙は袋を机の上にできるだけ静かに置いた。
そして、本を次々と取り出し、机の上に積み上げていった。
「これも……これも。これも返ってきた」
机の向かい側、椅子に座るパチュリーが返された本をあらため、使役している小悪魔に頼み、本棚に戻させる。
2日前から繰り返されている光景だった。
「それじゃ、私はこれで……失礼するぜ」
「待って」
言葉少なに立ち去ろうとする魔理沙をパチュリーが呼び止めた。
「いったいどうしたのよ、最近」
「ど、どうした、って?」
本を返し続けていることに決まっているではないか、と魔理沙は自答した。
「急にこんなことをし始めちゃって……何が狙いなの?」
ぎくり、とした。何かある、と疑われている。しかも少しとげのある言い方。
もっとも、そう思われない方がおかしいのだが、いざ直接聞かれると魔理沙は返答に困った。
「そ、それは……」
ふと、パチュリーと目が合った。
パチュリーは、じっと魔理沙を見上げてくる。
疑問に満ちた瞳で見つめられ、魔理沙はますます言葉に詰まった。
「べっ別に、いいだろ? ほら、お前だって本が返ってきて、その、嬉しいはずだろ?」
「まあ……」
結局、魔理沙は逃げの一手に走った。いや、今の魔理沙では逃げざるを得なかった。
「じゃっ、じゃあなっ」
そう言い終えないうちに、魔理沙は身をひるがえし、出口へと向かった。
これ以上の詮索はまずいと思ったのか、パチュリーは、もう何も言わなかった。
魔理沙は、どもってばかりで、まともにパチュリーと会話を交わせなかった自分を責めた。
ああいう情けない姿を見せたくないから、長居をしたくなかったのだ。
後悔に次ぐ後悔。それが魔理沙の心を押しつぶし始めていた。
一体、魔理沙は何を考えているのだろうか。
魔理沙が帰った後、パチュリーはそんなことを考えだした。
初めは、珍しいこともあるものだ、という程度にしか思わなかった。
もっとも、数冊ほど本が返ってきたことは、これまでにも何度かあった。
その時は、魔理沙が気まぐれを起こしたのだろうと簡単に推測できたのだ。
しかし今回は別だ。
魔理沙が同じ日に2度、3度と図書館を訪れ、本を返却していくと、さすがにパチュリーは困惑した。
しかも、魔理沙が本を借りていった様子も無い。
2日目、そして、今日の3日目とそんなことが続くと、理由が知りたくてたまらなくなった。
日ごろの因縁から、何か企んでいるのではないかと推測し、それに合わせて少し厳しい聞き方をしたのだが。
普段では考えられない魔理沙の慌てようにパチュリーの方が驚いた。
よほど重大なわけを探ろうとしてしまったのだろうか。
だとすると。
魔理沙には、やましい心は一切無いと考えたらどうか。
つまり、単純に仲直りをしたいのかもしれない、と。
そして、その理由が重大なのかと考えれば。
しかし、それだったら黙々と本を返していくだけでなく、もう少し気をきかせると思うのだが。
「仲直り……か」
ここまで考えた辺りから、パチュリーの思考は脇道にそれだした。
パチュリー自身も若干驚いていたが、パチュリーは魔理沙に対して、それほど悪い印象を持っていなかった。
初対面で宣言した通り、魔理沙は図書館の本を、借りるという名目で次々と持っていった。
一度持っていかれたら本は返ってこないと確信していたパチュリーは、そこかしこに魔法の罠を仕掛け、小悪魔をけしかけ、時にはパチュリー自ら戦うなどして対抗したが、結局は、いつも魔理沙に本を持っていかれてしまうのだ。
魔理沙がやっていたことは本を借りるどころか、盗み、もっといえば強盗であり、憎らしくないわけは無いのだが、堂々と正面から乗り込んできて、あらゆる対抗策をかいくぐり、してやったり顔で本を持ち去っていく様は、なんとなく憎みきれなかったし、感心もした。
これは魔理沙の、ある種の不思議な魅力なのかもしれない。
だからだろうか。魔理沙に対する認識が、いつの間にか「黒いの」から「魔理沙」に変わってしまっていたのも。
また、感心してしまうほど魔理沙は強い。
少なくとも戦いに関しての魔法の力はパチュリーを上回っていた。
初対面、つまり霊夢と共に館に乗り込み、戦いを挑んできた時のこと。
咲夜は霊夢に、パチュリーは魔理沙に当たったのが、パチュリーはあっさりと敗れてしまった。
パチュリーが繰り出す弾幕を次々と魔理沙にかわされ、至近距離でスペルカードを叩き込まれてしまったのだ。
咲夜の方もほぼ同様であったらしいのだが、それはともかく。
魔理沙との戦いで、その強さは才能だけでなく、尋常でない努力によるものだとパチュリーには分かった。
でなければ長年魔道書を読みふけり、魔法の研究をしてきたパチュリーに勝てるわけがない。
見かけとは裏腹、パチュリー並みの努力家であるのだ。
図書館に居ながらでも耳に入る程の魔理沙の活躍からもそれは明らかだった。
それに……
「……様、パチュリー様。どうなされたのですか?」
ふいに小悪魔に声をかけられ、パチュリーは現実に引き戻された。
無理も無い、とパチュリーは思った。
全く何もせず、何事か考えこんでいるパチュリーの様子は、小悪魔からすれば相当に違和感があったに違いない。
「……何でもないわ。少し疲れていただけ」
パチュリーはため息をつくと椅子から立ち上がった。
なぜ、魔理沙のことだけで、こんなにも考えこんでしまったのだろうか。
それに、本来考えていたことから逸脱し、魔理沙の長所ばかりを思い浮かべてしまっていた。
何ともいえない、もやもやした気分を紛らわすためパチュリーは本棚へと向かった。
夕焼けに照らされながら、魔理沙は箒に乗り、帰宅の途についていた。
もうすぐ日が暮れてしまう。今日はこれ以上の返却は無理だろう。
沈んでゆく太陽を見て魔理沙はそう思った。
夜は大勢の妖怪が出没するので、荷物を運んでいる魔理沙自身が危険であるし、パチュリーの本に何かあったらそれこそ一大事だ。
紅魔館の門番の美鈴は、本来は昼夜問わず襲い掛かってくるが、それは問題無かった。
最初こそ門番の務めを果たそうとしてきたが、本が詰まった袋と、魔理沙の決意めいた表情を見て事情を察したのだろうか、何も言わず通してくれた。
それっきり、魔理沙が通ろうとしても、昼寝から起き出してこなくなったのだ。
レミリアに首を切られなければいいのだが、と魔理沙は少し心配していた。
夕日から目をそらして魔理沙が考えるのは、やはりパチュリーのことだった。
初めて会った時から惹かれていたのかもしれない、と。
図書館に足を踏み入れたとき、まず余りの本の多さに目を引かれた。
日ごろの悪い癖から、持ち去りたい、と真っ先に思った。
その次に、目の前に立ちはだかってきた、か弱そうな少女、パチュリーに目を奪われた。
なんとなく意地悪したくなる外見。すぐにそう思ってしまった。
戦いでは、パチュリーの繰り出す多彩な魔法に目を見張った。
かろうじてかわしきり、強力な一撃を与えた魔理沙が勝利したが、単純で直線的な魔法ばかりの魔理沙に比べ技量では圧倒的に上。
後に聞いた話によると、パチュリーは100年以上生きている生まれつきの魔法使いだという。
仮にパチュリーの持病が無ければ、どうなっていたか分からない。
こうして魔理沙はパチュリーに心惹かれ、こうして魔理沙はパチュリーの本を盗んでいった。
正面から戦っても勝てる以上、振り切るだけならば容易だった。
パチュリーの悔しがる可愛い顔を見て、物欲が満たされたのとは別の、よく分からない充実感を得て、それで満足していた。
そして、魔理沙が自分の気持ちに気づいたとき。
魔理沙は自分の浅はかさを呪った。
もはやパチュリーとの関係は修復できないと思ったからだ。
意地悪したくなる、か弱そうな見た目は、そばにいて守ってあげたくなる姿でもあると、ようやく気づいた。
非常に長く綺麗な髪も、幼げな大きな目も、パチュリーの魅力を引き立てている。
無論、外見だけではない。
魔理沙を圧倒的に上回る知識や技量に憧れた。
いつも本ばかり読んでいる様子からはもちろん、どんどん強化されていく魔理沙への対抗策から、長年に渡って蓄えられたのであろう図書館の大量の魔道書からも伝わってくる、努力家の一面が魔理沙に似ている気がして親しみが湧いた。
決して生半可な想いではない、外見も内面も両方好きだという気持ち。
それゆえに後悔の念も強かった。
関係を戻すためには。償うためには。
考えに考え、思いついたことは、魔理沙の魔法と同様、単純で直線的。
本を返す、ということだけだった。
それだけでどうにかなる話とは思えない。
魔理沙は、こんなことしか思いつかない自分を嘆いた。
だが、やらなければ何も始まらない、と魔理沙は自分に言い聞かせ、やり遂げなければならないと強引に決意して不安を抑えこんだ。
報われない、と分かっているのに。
魔理沙は風を切り、空を飛び続ける。
魔理沙はため息をついて思った。
あまり余計なことは考えてはいけないと。
それで返す気が失せてしまったら。何よりパチュリーが困る、と。
気になる。気になって仕方がない。なぜ、どうして本を返すのか。
あの一件から数日。激しい雨が降っている日。
魔理沙が来るはずがない日。
パチュリーは本を読んでいた。が、内容はほとんど頭に入っていなかった。
他でもない、魔理沙のことが頭に浮かぶ。
ここしばらく、ずっとこの調子だった。
魔理沙の言う通りのはずなのに。自分は何も考えず喜んでいればいいのに。
読書ですらこうなのだから、新しい魔法の開発などとてもおぼつかなかった。
今日こそ聞こうと思っていたのに、とパチュリーはため息をついて思った。
パチュリーは次に魔理沙が訪れたときに、わけを聞こうと思っていた。
と言うより、次しかない。逃せば次にいつ会えるか分からない。
なぜなら、あと数冊で全ての本が返ってきたことになるのだから。
この雨が明日も続けばいい。
少しは片付いた反面、どことなく寂しくなった部屋の中、魔理沙はベッドに横たわり、そんなことを考えていた。
後もう少しで全て返し終わる、ということは昨日の内に分かっていた。
急げば昨日中の返却も不可能ではなかっただろう。
が、そう把握すると急に魔理沙は臆した。
本を返し終えたことをきっかけに、パチュリーがその理由を今度こそ問い詰めてくるだろうと思ったからだった。
そうなると自分は何と答えればいいのか。
本当のことを伝えるのが、怖い。
何を言い出すかと思えば、などと失笑でもされたら。恥ずかしさのあまり泣き崩れてしまうかもしれない。
かといって、はぐらかし切れるとも思えない。
考える時間が欲しかった。数冊だけ残したのはそのためだった。
そして今日の雨。
パチュリーの元へ向かえない、という口実には十分だった。
ここまで毎日図書館に通っていた以上、何でもない日に1日でも休めばパチュリーは余計に不審がるに違いない。
魔理沙の考えは未だまとまらない。今後まとまるとも思えない。
けど、雨が降っていればこのまま考え続けられる。パチュリーに会わなくて済む。
この雨がずっと続けばいい……
魔理沙は寝返りをうった。軽くため息。
自分一人では無理だ。
誰でもいい、話を聞いてほしい。
誰か……
はた、と思い当たった。いる。一人だけ。
むしろ今まで考えつかなかった方が不思議だった。
二人でもどうにかなるかは分からないが……少なくとも、真面目に話を聞いてくれるはずだ。
思い浮かんだ人物はもう一人いたが、やめておこう、と魔理沙は思った。
からかわれるだけに決まっている。
翌日。昨日とはうって変わってからりと晴れた日。
日もだいぶ昇ったころ、魔理沙は博麗神社の境内に降り立った。
本が詰まった袋を手に。
霊夢なら、きっと話を聞いてくれる。
霊夢なら、きっと勇気をくれる。
魔理沙は博麗神社を訪れることに決めたのだった。
庭には霊夢の姿はない。今ごろお茶でも飲んでいるのだろう。
魔理沙は神社の縁側まで歩いた。
思えば、ここには長らく足を運んでいない。
久々に訪れた自分に対し、霊夢はどんな顔をするのだろうか、と魔理沙は思った。
「霊夢ー」
魔理沙は障子越しにそう呼びかけた。返事はない。
「霊夢ー? いないのか?」
更に呼びかける。やはり返事はない。
その時、障子の向こうから物音がした。やはり霊夢はいる。
「開けるぞ?」
障子を一気に引いた。
「あら、魔理沙。遅かったじゃない」
霊夢の声ではない。
魔理沙の目の前には。
「ア、アリス? どうして?」
相談相手の候補から外したはずのアリスがいた。
その後ろで笑っているのが霊夢だった。
「ふふふ。試したかったのよ。魔理沙がどんな顔をするか」
魔理沙達は挨拶もそこそこにちゃぶ台を囲んだ。
霊夢は手際良く湯飲みにお茶を注ぎ、魔理沙らの前に置いていく。
やはり自分が来ることは予測されていたらしい、と魔理沙は思った。
「どうして私が来ることが分かったんだよ。アリスは先回りしてるし、霊夢だってアリスから聞いたってわけじゃなさそうだし……」
お茶を少しすすると、魔理沙はさっそく聞いた。
「噂になってたわよ。黒い魔法使いが重そうな荷物を持って、何度も魔法の森と紅魔館を行き来してるって」
霊夢が答える。
「しかも、その荷物は紅魔館から運び出してるんじゃなく、魔法の森から運んでいる、ともね」
アリスもそう言った。
確かに、あの格好で魔法の森と紅魔館を何度も往復していれば目立つに決まっている。
それに、霊夢は顔が広いし、アリスは自分と同じく魔法の森に住んでいる。
そんな話が聞こえてきていても不思議ではない。
「まあ、ここにだってしばらく訪れてなかったしな。何かおかしいって分かってたってことは分かった」
魔理沙はまたお茶を少しすすった。
「でも答えにはなってないぜ?」
「あら、そこまで分かれば十分よ」
アリスは澄まし顔で答えた。
「え……」
まさか。そんなことは。
「好きなんでしょ。パチュリーのこと」
とっくにお茶を飲み込んでいたのが救いだった。でなければ吹き出していたに違いない。
「ど、どうしてそこまで?」
「さっきからそればっかね。魔理沙」
お茶を飲んでいた霊夢は、湯飲みを置いてそう言った。
「荷物の中身は本。それしかありえないわ。毎日、日に何度も、それに他のことには目もくれず、魔理沙が紅魔館に届けている物なんて。その袋の中身だって」
魔理沙はそばの袋に目をやった。
「そうだ」
「一見、何の得にもならなそうな面倒なことを魔理沙が続けているなんて。相当な理由があるに決まっているわ」
「そして昨日の雨」
今度はアリスが言い出す。
「あの日、貴方は考えるしかなかったはずよ。今まで考えてこなかった分、ね」
「なんでそう言えるんだよ」
魔理沙は口を挟んだ。少し癇に障ったからだった。
「だって魔理沙のことだもの。返し終えて、その後どうするか、なんてろくに考えてなかったんでしょ?」
しかし、アリスにそう言われると返す言葉もなかった。
「それで思い悩んで……霊夢に相談しようと決めた。そう踏んだのよ」
霊夢は頷いた。霊夢も同じようなことを考えていたらしい。
「私にしか話したがらないだろうし、アリスには黙っておくつもりだったんだけど……向こうから来ちゃったんだから仕方ないわよね?」
自分のことを良く知るこの二人だからできる、あまりに正確な的中。
さすがにこの袋の分で最後とは分からなかったようだが。
「こんな面白そうなことを霊夢にだけ話そうだなんてずるいわよ。ね、私にも聞かせて?」
もう霊夢だろうが、アリスだろうが、二人だろうが構いはしなかった。
魔理沙は洗いざらい全てを吐き出した。
二人が知っていそうなことから、知らないであろうことまで。これまでのいきさつから、一人で抱え込んでいた悩みまで。一から十まで全てを話した。
この二人なら、真剣に聞いてくれて、そして応えてくれると確信したからだった。
「……全部私のせいなんだ。私のせいでパチュリーが迷惑して……私自身のせいで、こんなどうにもならないことになって……」
全てを語ったことで自分の置かれている状況を再確認してしまった魔理沙は、後悔と自責の言葉をくどくどと続けていた。
「……こんなに好きなのに……届かないなんてっ……」
これで本当に最後だった。
霊夢とアリスはしばらく黙ったままだった。重苦しい空気が部屋を包む。
やがて霊夢が口を開いた。
「そんなの……分からないわよ。伝えてみなきゃ」
それはそうだ。だが、それが難しい。考えただけでも未知の恐怖に身が固くなる。
そもそも、パチュリーが真面目に捉えてくれる保障もない。
「受け入れてくれると思うのか。こんな私を」
「それこそ、伝えなければ分からないわよ」
霊夢は少し間を置いた。
「パチュリーは魔理沙のこと……まだ許してないかもしれないけど、でも、これ以上魔理沙への印象が良くなるとも思えないわ。本を返し終えたときこそチャンスよ。伝えなければ分からないこと、お互いにたくさんあるはずよ」
「伝えなければ……本を返し終えたときがチャンス……」
魔理沙は何かが吹っ切れそうな気がしてきた。
「アリスは、どう思うんだ?」
「私も今日しかないと思うわ。ただし、あくまで魔理沙らしく、ね」
「私らしく……?」
唐突に自分らしさがどうこう、などという話を持ち出されて魔理沙は困惑した。
第一、最近の自分は全く自分らしくなんて……
「これまで本を返してきたのだってそうよ。単純だけど、ひたむきで、まっすぐで……まあ、派手じゃないけど。そういうのを貫けばきっと伝わるわよ」
「私らしくて……けど、派手じゃない……」
何かが吹っ切れた。そんな気がした。
「なあ、もう一つだけ聞いていいか? そうしたら行くから」
魔理沙は今すぐにでもここから飛び出したかったが、どうしても聞きたいことがあった。
「霊夢はともかく、どうしてアリスはここまでしてくれたんだ? いや、私と霊夢だけじゃまだ力不足だったかもしれないけどさ」
アリスは少しの間考えたようだった。
「……別にいいじゃない。魔理沙は私の助言を聞けて、えっと、嬉しかったはずでしょ? パチュリーに告白する気になれて」
「えっ……」
どこかで聞いたことがあるような台詞だ。と言うより、前に魔理沙がパチュリーに言ったこととそっくりだった。
それ自体はただの偶然だとは思うけど、でも、もしかしたらアリスは……
「気にしないで。魔理沙とパチュリーのこと、はっきりさせたいのは貴方自身だけじゃないって、それだけのことだから」
魔理沙の表情が強張ったのが分かったのか、アリスはそう言った。
「……分かった」
「意外と敏感なのね。魔理沙って」
霊夢が口を挟む。
「ああ、お前らのエスパーっぷりがうつったみたいだ」
だが、少なくとも今回はそんなものは頼りにならない。
頼るのは二人の力を借りた自分自身だけ……例によって返却日は未定だ。返しきれる気がしない。
魔理沙はすっかり熱の取れたお茶を飲み干した。
「ありがとな。行ってくるぜ」
魔理沙は袋を掴んで立ち上がると神社を出た。
戸口に立てかけておいた箒に飛び乗ると、紅魔館に向かって空を駆けた。
元々は積極的で前向きな性格だ。きっかけさえ掴めば立ち直るのはあっという間だった。
もう迷わない。もう逃げない。
考えてみれば、これほどのチャンスは他にない。
向こうから切り出してくるのなら、言い出しやすいに決まっている。
怖れることはない。失うものもない。
断られても、本を返し終える以上、後腐れはほとんどない。
もとより見込みは薄い。
未練などすぐになくなるだろうし、パチュリーと顔を合わせることすらなくなるだろう……
いや、今は目の前のことだけでいい。
小細工などいらない。そんなのはきっと逆効果だ。
自分らしく、単純に、まっすぐに、そして最後くらい派手にいこう。
失笑を買われて派手に散ったとしても構わない。
そんなことを怖れていたのが今までの自分だ。
償いとか、パチュリーとの関係がどうとか、そんな重苦しいことはこの際忘れよう。
本を返すなんてことしか思いつかなくて良かったのだ。
そして、伝えなければ始まらない、と魔理沙は自分に言い聞かせ、伝えなければならないと自然に決意して不安を抑えこんだ。
踏み出さなければ何も見えてこない、と分かったから。
紅魔館の地下にある大図書館。
魔理沙は小悪魔の先導でパチュリーの元へ向かっていた。
言うまでもなく、両手で本の詰まった袋を持って。
魔理沙の胸はいやおうなく高鳴っていた。
魔理沙は決意を再確認する。
伝えるんだ、想いを。はっきりさせるんだ、何もかも。
やがて、いつものごとく、魔理沙はパチュリーと机越しに向かい合った。
魔理沙は出来る限り平静を装った。
「返すぜ」
そう言うと、魔理沙は机に置いた袋から本を取り出し、机に積み上げていった。
「これで全部……だよな」
「……ええ」
いつもの通り、静かだが冷ややかさは感じられないパチュリーの声。
ここまでは、ほぼいつも通り。しかし。
パチュリーは返された本を大して確認せずに小悪魔に渡しているようにも見えた。
小悪魔が去ると、パチュリーは椅子から立ち上がり、机を回り込んで魔理沙の近くに寄ってきた。
それに合わせて魔理沙はパチュリーの方を向く。
隔てるものなしに、二人は向かい合った。
パチュリーの顔が近い。
少しは治まっていた鼓動が再び大きな音を立て始める。
自分の顔が上気しているのがわかる。
昨日、パチュリーも色々と考えたのだろうか、と魔理沙は回らない頭で思った。
「今日こそ、教えてくれるわよね」
パチュリーは静かに聞いた。
「どうして、本を返してくれたの?」
言った。パチュリーがついに。その言葉を待っていた。
もう、迷わない。
「それは……」
もう、逃げない。
前に踏み出したいから。想いを伝えたいから。何より……
「パチュリーのことが、好きだから……」
だから、そう言えた。
パチュリーはあからさまに驚いている。
少なくとも、冗談か何かとは思われていないようだった。
「好きだって気づいてしまったんだ。パチュリーのこと、全部。私、今までお前の……パチュリーの本を盗んでて、とても迷惑かけて……それで、好きになったから返します、許してください、なんて勝手だと思うだろ? でも、こうするしかないと思って、こんなことを……」
パチュリーは、いつの間にか何かを考えこんでいる顔つきになっていた。
二人の間に言葉はなくなる。
静寂が二人を包み込む。
「別に、無理しなくていいぜ。私はパチュリーに本を返せて……こうして告白できただけで十分……」
「……良くないわよ」
パチュリーは静かに口を開いた。
「魔理沙。貴方は良くても私は良くないわ」
「う……」
「迷惑もいいところよ……私、とても困ったんだから」
「……」
魔理沙は押し黙るしかなかった。
やはりだめか、という思いが全身を支配する。
当然だ。許してくれるだなんて最初から思っていなかった。
「図書館に乗り込んできて、本を盗んで……邪魔をされるだけなら……まだしも」
パチュリーが大きく息を吸う音が聞こえた。
「本を返してくるようになってからは……私、何も手に付かなくなって……私、魔理沙のことばかり考えて……」
今度は魔理沙の方が驚き、考えこんだ。
パチュリーは今……
「それって……」
「負けたわ。私も魔理沙のことが好き……今、はっきりと分かったの」
パチュリーは今。
「何でも一直線で、今回だって本を返すなんてことしか考えつかなくて……でも、立派にやり遂げて、まっすぐ想いをぶつけてきて……そんな貴方の気持ちに負けた……好きよ。魔理沙」
夢じゃない、と自分の鼓動が教えてくれる。
嘘じゃない、とパチュリーの瞳が教えてくれる。
パチュリーも自分のことを……
「パチュリー……」
とても嬉しくて、どこか気が抜けて、まぶたの裏に涙が溜まり始める。
もう時間がない。
「どうしてっ、どうして許せるんだよっ……私をっ……」
魔理沙は涙声でたずねた。
「……まだ、許したわけじゃないわ」
「なら、どうしてっ……」
パチュリーの顔が揺らぐ。
「ちゃんと責任とってくれたら……ね」
責任とは何のことだろうか。
今はもう、そんなことはどうでも良かった。
涙が溢れる……
「パチュリーッ……」
パチュリーをかき抱き、泣いた。
「はあ……また失敗か」
焦げくさい煙が立ちこめる中、しりもちをついた格好で床に座り込んでいる魔理沙がそう言うと、向き合うように座っているパチュリーは無言でうなずいた。
あれから数日。魔理沙は未だに、ため息続きの日々から逃れられていなかった。
パチュリーが言う責任とは、魔理沙のせいで遅れていた魔法の研究、開発を手伝うことだった。
パチュリーが動揺していて研究に打ちこめていなかったことはもちろん、必要な本が欠けていたこともあったらしい。
パチュリーと一緒に本を読める日が来るなんて思いもしていなかった魔理沙は、喜んで図書館に籠もったのだが。
「やっぱり、私、足手まといになってないか?」
さっきの実験など、魔理沙の影響を受けたか、派手な爆発が起きてしまった。
「言ったでしょ。どっちにしろ、私一人じゃ辛いって」
「どうせなら二人より三人の方が……とか言いたいところだけど、小悪魔があの調子じゃあな」
小悪魔は、不幸にも魔理沙がパチュリーを抱きしめているという衝撃的な光景を見てしまったらしく、未だにトラウマを引きずっているようだ。
二人が近寄るたびに顔を赤らめ、言動もしどろもどろになる始末で、とても研究には関われなかった。
「それに、魔理沙の力がないと出来ないこと、きっとあると思うから」
「まあ、一人じゃどうにもならないことってあるよな。他人の力を借りなきゃいけないとき」
魔理沙は霊夢とアリスのことを思い浮かべた。
たっぷりお礼をしなくてはいけない、と魔理沙は思った。
一言だけじゃ全然足りないだろうし、特にアリスには言わないといけないこともあるし、やはり借りっ放しは気分が悪い……返そうかな。他にも色々と。悪くないかもしれない。
そんなことを魔理沙が考えていると、パチュリーは再び口を開いた。
「他人の力を借りるのはいいけど……それを活かせるかは結局自分次第なのよね。この研究だって……」
パチュリーは言葉を途切った。
「魔理沙はどうやって活かしたのよ。あの日、本を返すのが遅れたのは、きっと誰かの力を借りに行っていたからなんでしょ?」
あの二人のほかにも、察しの良いのが一人……魔理沙はもう気にもしなかった。
「全部まとめて、まっすぐぶつけただけ。結構どうにかなるぜ?」
「……今回は?」
「どうにもならないだろうな」
「……やっぱり」
二人はしばらく笑い合うと、ひときわ大きなため息をついた
本が10冊近く詰まった袋を背負うように持って。
パチュリーに本を返すために飛んでいた。
とても重いけど、とても時間がかかるけど、返しきる。
そう思いながら飛んでいた。
本を返す理由。単純そうで複雑な理由。
魔理沙はパチュリーに惹かれ、恋してしまったから。
もう、こうするしかないから……
紅魔館の地下にある大図書館。
魔理沙は両手で本が詰まった袋を持って、机を挟んでパチュリーと向かい合っていた。
箒は図書館の入り口のあたりに立てかけてある。
「返すぜ。これら全部」
そう言うなり、魔理沙は袋を机の上にできるだけ静かに置いた。
そして、本を次々と取り出し、机の上に積み上げていった。
「これも……これも。これも返ってきた」
机の向かい側、椅子に座るパチュリーが返された本をあらため、使役している小悪魔に頼み、本棚に戻させる。
2日前から繰り返されている光景だった。
「それじゃ、私はこれで……失礼するぜ」
「待って」
言葉少なに立ち去ろうとする魔理沙をパチュリーが呼び止めた。
「いったいどうしたのよ、最近」
「ど、どうした、って?」
本を返し続けていることに決まっているではないか、と魔理沙は自答した。
「急にこんなことをし始めちゃって……何が狙いなの?」
ぎくり、とした。何かある、と疑われている。しかも少しとげのある言い方。
もっとも、そう思われない方がおかしいのだが、いざ直接聞かれると魔理沙は返答に困った。
「そ、それは……」
ふと、パチュリーと目が合った。
パチュリーは、じっと魔理沙を見上げてくる。
疑問に満ちた瞳で見つめられ、魔理沙はますます言葉に詰まった。
「べっ別に、いいだろ? ほら、お前だって本が返ってきて、その、嬉しいはずだろ?」
「まあ……」
結局、魔理沙は逃げの一手に走った。いや、今の魔理沙では逃げざるを得なかった。
「じゃっ、じゃあなっ」
そう言い終えないうちに、魔理沙は身をひるがえし、出口へと向かった。
これ以上の詮索はまずいと思ったのか、パチュリーは、もう何も言わなかった。
魔理沙は、どもってばかりで、まともにパチュリーと会話を交わせなかった自分を責めた。
ああいう情けない姿を見せたくないから、長居をしたくなかったのだ。
後悔に次ぐ後悔。それが魔理沙の心を押しつぶし始めていた。
一体、魔理沙は何を考えているのだろうか。
魔理沙が帰った後、パチュリーはそんなことを考えだした。
初めは、珍しいこともあるものだ、という程度にしか思わなかった。
もっとも、数冊ほど本が返ってきたことは、これまでにも何度かあった。
その時は、魔理沙が気まぐれを起こしたのだろうと簡単に推測できたのだ。
しかし今回は別だ。
魔理沙が同じ日に2度、3度と図書館を訪れ、本を返却していくと、さすがにパチュリーは困惑した。
しかも、魔理沙が本を借りていった様子も無い。
2日目、そして、今日の3日目とそんなことが続くと、理由が知りたくてたまらなくなった。
日ごろの因縁から、何か企んでいるのではないかと推測し、それに合わせて少し厳しい聞き方をしたのだが。
普段では考えられない魔理沙の慌てようにパチュリーの方が驚いた。
よほど重大なわけを探ろうとしてしまったのだろうか。
だとすると。
魔理沙には、やましい心は一切無いと考えたらどうか。
つまり、単純に仲直りをしたいのかもしれない、と。
そして、その理由が重大なのかと考えれば。
しかし、それだったら黙々と本を返していくだけでなく、もう少し気をきかせると思うのだが。
「仲直り……か」
ここまで考えた辺りから、パチュリーの思考は脇道にそれだした。
パチュリー自身も若干驚いていたが、パチュリーは魔理沙に対して、それほど悪い印象を持っていなかった。
初対面で宣言した通り、魔理沙は図書館の本を、借りるという名目で次々と持っていった。
一度持っていかれたら本は返ってこないと確信していたパチュリーは、そこかしこに魔法の罠を仕掛け、小悪魔をけしかけ、時にはパチュリー自ら戦うなどして対抗したが、結局は、いつも魔理沙に本を持っていかれてしまうのだ。
魔理沙がやっていたことは本を借りるどころか、盗み、もっといえば強盗であり、憎らしくないわけは無いのだが、堂々と正面から乗り込んできて、あらゆる対抗策をかいくぐり、してやったり顔で本を持ち去っていく様は、なんとなく憎みきれなかったし、感心もした。
これは魔理沙の、ある種の不思議な魅力なのかもしれない。
だからだろうか。魔理沙に対する認識が、いつの間にか「黒いの」から「魔理沙」に変わってしまっていたのも。
また、感心してしまうほど魔理沙は強い。
少なくとも戦いに関しての魔法の力はパチュリーを上回っていた。
初対面、つまり霊夢と共に館に乗り込み、戦いを挑んできた時のこと。
咲夜は霊夢に、パチュリーは魔理沙に当たったのが、パチュリーはあっさりと敗れてしまった。
パチュリーが繰り出す弾幕を次々と魔理沙にかわされ、至近距離でスペルカードを叩き込まれてしまったのだ。
咲夜の方もほぼ同様であったらしいのだが、それはともかく。
魔理沙との戦いで、その強さは才能だけでなく、尋常でない努力によるものだとパチュリーには分かった。
でなければ長年魔道書を読みふけり、魔法の研究をしてきたパチュリーに勝てるわけがない。
見かけとは裏腹、パチュリー並みの努力家であるのだ。
図書館に居ながらでも耳に入る程の魔理沙の活躍からもそれは明らかだった。
それに……
「……様、パチュリー様。どうなされたのですか?」
ふいに小悪魔に声をかけられ、パチュリーは現実に引き戻された。
無理も無い、とパチュリーは思った。
全く何もせず、何事か考えこんでいるパチュリーの様子は、小悪魔からすれば相当に違和感があったに違いない。
「……何でもないわ。少し疲れていただけ」
パチュリーはため息をつくと椅子から立ち上がった。
なぜ、魔理沙のことだけで、こんなにも考えこんでしまったのだろうか。
それに、本来考えていたことから逸脱し、魔理沙の長所ばかりを思い浮かべてしまっていた。
何ともいえない、もやもやした気分を紛らわすためパチュリーは本棚へと向かった。
夕焼けに照らされながら、魔理沙は箒に乗り、帰宅の途についていた。
もうすぐ日が暮れてしまう。今日はこれ以上の返却は無理だろう。
沈んでゆく太陽を見て魔理沙はそう思った。
夜は大勢の妖怪が出没するので、荷物を運んでいる魔理沙自身が危険であるし、パチュリーの本に何かあったらそれこそ一大事だ。
紅魔館の門番の美鈴は、本来は昼夜問わず襲い掛かってくるが、それは問題無かった。
最初こそ門番の務めを果たそうとしてきたが、本が詰まった袋と、魔理沙の決意めいた表情を見て事情を察したのだろうか、何も言わず通してくれた。
それっきり、魔理沙が通ろうとしても、昼寝から起き出してこなくなったのだ。
レミリアに首を切られなければいいのだが、と魔理沙は少し心配していた。
夕日から目をそらして魔理沙が考えるのは、やはりパチュリーのことだった。
初めて会った時から惹かれていたのかもしれない、と。
図書館に足を踏み入れたとき、まず余りの本の多さに目を引かれた。
日ごろの悪い癖から、持ち去りたい、と真っ先に思った。
その次に、目の前に立ちはだかってきた、か弱そうな少女、パチュリーに目を奪われた。
なんとなく意地悪したくなる外見。すぐにそう思ってしまった。
戦いでは、パチュリーの繰り出す多彩な魔法に目を見張った。
かろうじてかわしきり、強力な一撃を与えた魔理沙が勝利したが、単純で直線的な魔法ばかりの魔理沙に比べ技量では圧倒的に上。
後に聞いた話によると、パチュリーは100年以上生きている生まれつきの魔法使いだという。
仮にパチュリーの持病が無ければ、どうなっていたか分からない。
こうして魔理沙はパチュリーに心惹かれ、こうして魔理沙はパチュリーの本を盗んでいった。
正面から戦っても勝てる以上、振り切るだけならば容易だった。
パチュリーの悔しがる可愛い顔を見て、物欲が満たされたのとは別の、よく分からない充実感を得て、それで満足していた。
そして、魔理沙が自分の気持ちに気づいたとき。
魔理沙は自分の浅はかさを呪った。
もはやパチュリーとの関係は修復できないと思ったからだ。
意地悪したくなる、か弱そうな見た目は、そばにいて守ってあげたくなる姿でもあると、ようやく気づいた。
非常に長く綺麗な髪も、幼げな大きな目も、パチュリーの魅力を引き立てている。
無論、外見だけではない。
魔理沙を圧倒的に上回る知識や技量に憧れた。
いつも本ばかり読んでいる様子からはもちろん、どんどん強化されていく魔理沙への対抗策から、長年に渡って蓄えられたのであろう図書館の大量の魔道書からも伝わってくる、努力家の一面が魔理沙に似ている気がして親しみが湧いた。
決して生半可な想いではない、外見も内面も両方好きだという気持ち。
それゆえに後悔の念も強かった。
関係を戻すためには。償うためには。
考えに考え、思いついたことは、魔理沙の魔法と同様、単純で直線的。
本を返す、ということだけだった。
それだけでどうにかなる話とは思えない。
魔理沙は、こんなことしか思いつかない自分を嘆いた。
だが、やらなければ何も始まらない、と魔理沙は自分に言い聞かせ、やり遂げなければならないと強引に決意して不安を抑えこんだ。
報われない、と分かっているのに。
魔理沙は風を切り、空を飛び続ける。
魔理沙はため息をついて思った。
あまり余計なことは考えてはいけないと。
それで返す気が失せてしまったら。何よりパチュリーが困る、と。
気になる。気になって仕方がない。なぜ、どうして本を返すのか。
あの一件から数日。激しい雨が降っている日。
魔理沙が来るはずがない日。
パチュリーは本を読んでいた。が、内容はほとんど頭に入っていなかった。
他でもない、魔理沙のことが頭に浮かぶ。
ここしばらく、ずっとこの調子だった。
魔理沙の言う通りのはずなのに。自分は何も考えず喜んでいればいいのに。
読書ですらこうなのだから、新しい魔法の開発などとてもおぼつかなかった。
今日こそ聞こうと思っていたのに、とパチュリーはため息をついて思った。
パチュリーは次に魔理沙が訪れたときに、わけを聞こうと思っていた。
と言うより、次しかない。逃せば次にいつ会えるか分からない。
なぜなら、あと数冊で全ての本が返ってきたことになるのだから。
この雨が明日も続けばいい。
少しは片付いた反面、どことなく寂しくなった部屋の中、魔理沙はベッドに横たわり、そんなことを考えていた。
後もう少しで全て返し終わる、ということは昨日の内に分かっていた。
急げば昨日中の返却も不可能ではなかっただろう。
が、そう把握すると急に魔理沙は臆した。
本を返し終えたことをきっかけに、パチュリーがその理由を今度こそ問い詰めてくるだろうと思ったからだった。
そうなると自分は何と答えればいいのか。
本当のことを伝えるのが、怖い。
何を言い出すかと思えば、などと失笑でもされたら。恥ずかしさのあまり泣き崩れてしまうかもしれない。
かといって、はぐらかし切れるとも思えない。
考える時間が欲しかった。数冊だけ残したのはそのためだった。
そして今日の雨。
パチュリーの元へ向かえない、という口実には十分だった。
ここまで毎日図書館に通っていた以上、何でもない日に1日でも休めばパチュリーは余計に不審がるに違いない。
魔理沙の考えは未だまとまらない。今後まとまるとも思えない。
けど、雨が降っていればこのまま考え続けられる。パチュリーに会わなくて済む。
この雨がずっと続けばいい……
魔理沙は寝返りをうった。軽くため息。
自分一人では無理だ。
誰でもいい、話を聞いてほしい。
誰か……
はた、と思い当たった。いる。一人だけ。
むしろ今まで考えつかなかった方が不思議だった。
二人でもどうにかなるかは分からないが……少なくとも、真面目に話を聞いてくれるはずだ。
思い浮かんだ人物はもう一人いたが、やめておこう、と魔理沙は思った。
からかわれるだけに決まっている。
翌日。昨日とはうって変わってからりと晴れた日。
日もだいぶ昇ったころ、魔理沙は博麗神社の境内に降り立った。
本が詰まった袋を手に。
霊夢なら、きっと話を聞いてくれる。
霊夢なら、きっと勇気をくれる。
魔理沙は博麗神社を訪れることに決めたのだった。
庭には霊夢の姿はない。今ごろお茶でも飲んでいるのだろう。
魔理沙は神社の縁側まで歩いた。
思えば、ここには長らく足を運んでいない。
久々に訪れた自分に対し、霊夢はどんな顔をするのだろうか、と魔理沙は思った。
「霊夢ー」
魔理沙は障子越しにそう呼びかけた。返事はない。
「霊夢ー? いないのか?」
更に呼びかける。やはり返事はない。
その時、障子の向こうから物音がした。やはり霊夢はいる。
「開けるぞ?」
障子を一気に引いた。
「あら、魔理沙。遅かったじゃない」
霊夢の声ではない。
魔理沙の目の前には。
「ア、アリス? どうして?」
相談相手の候補から外したはずのアリスがいた。
その後ろで笑っているのが霊夢だった。
「ふふふ。試したかったのよ。魔理沙がどんな顔をするか」
魔理沙達は挨拶もそこそこにちゃぶ台を囲んだ。
霊夢は手際良く湯飲みにお茶を注ぎ、魔理沙らの前に置いていく。
やはり自分が来ることは予測されていたらしい、と魔理沙は思った。
「どうして私が来ることが分かったんだよ。アリスは先回りしてるし、霊夢だってアリスから聞いたってわけじゃなさそうだし……」
お茶を少しすすると、魔理沙はさっそく聞いた。
「噂になってたわよ。黒い魔法使いが重そうな荷物を持って、何度も魔法の森と紅魔館を行き来してるって」
霊夢が答える。
「しかも、その荷物は紅魔館から運び出してるんじゃなく、魔法の森から運んでいる、ともね」
アリスもそう言った。
確かに、あの格好で魔法の森と紅魔館を何度も往復していれば目立つに決まっている。
それに、霊夢は顔が広いし、アリスは自分と同じく魔法の森に住んでいる。
そんな話が聞こえてきていても不思議ではない。
「まあ、ここにだってしばらく訪れてなかったしな。何かおかしいって分かってたってことは分かった」
魔理沙はまたお茶を少しすすった。
「でも答えにはなってないぜ?」
「あら、そこまで分かれば十分よ」
アリスは澄まし顔で答えた。
「え……」
まさか。そんなことは。
「好きなんでしょ。パチュリーのこと」
とっくにお茶を飲み込んでいたのが救いだった。でなければ吹き出していたに違いない。
「ど、どうしてそこまで?」
「さっきからそればっかね。魔理沙」
お茶を飲んでいた霊夢は、湯飲みを置いてそう言った。
「荷物の中身は本。それしかありえないわ。毎日、日に何度も、それに他のことには目もくれず、魔理沙が紅魔館に届けている物なんて。その袋の中身だって」
魔理沙はそばの袋に目をやった。
「そうだ」
「一見、何の得にもならなそうな面倒なことを魔理沙が続けているなんて。相当な理由があるに決まっているわ」
「そして昨日の雨」
今度はアリスが言い出す。
「あの日、貴方は考えるしかなかったはずよ。今まで考えてこなかった分、ね」
「なんでそう言えるんだよ」
魔理沙は口を挟んだ。少し癇に障ったからだった。
「だって魔理沙のことだもの。返し終えて、その後どうするか、なんてろくに考えてなかったんでしょ?」
しかし、アリスにそう言われると返す言葉もなかった。
「それで思い悩んで……霊夢に相談しようと決めた。そう踏んだのよ」
霊夢は頷いた。霊夢も同じようなことを考えていたらしい。
「私にしか話したがらないだろうし、アリスには黙っておくつもりだったんだけど……向こうから来ちゃったんだから仕方ないわよね?」
自分のことを良く知るこの二人だからできる、あまりに正確な的中。
さすがにこの袋の分で最後とは分からなかったようだが。
「こんな面白そうなことを霊夢にだけ話そうだなんてずるいわよ。ね、私にも聞かせて?」
もう霊夢だろうが、アリスだろうが、二人だろうが構いはしなかった。
魔理沙は洗いざらい全てを吐き出した。
二人が知っていそうなことから、知らないであろうことまで。これまでのいきさつから、一人で抱え込んでいた悩みまで。一から十まで全てを話した。
この二人なら、真剣に聞いてくれて、そして応えてくれると確信したからだった。
「……全部私のせいなんだ。私のせいでパチュリーが迷惑して……私自身のせいで、こんなどうにもならないことになって……」
全てを語ったことで自分の置かれている状況を再確認してしまった魔理沙は、後悔と自責の言葉をくどくどと続けていた。
「……こんなに好きなのに……届かないなんてっ……」
これで本当に最後だった。
霊夢とアリスはしばらく黙ったままだった。重苦しい空気が部屋を包む。
やがて霊夢が口を開いた。
「そんなの……分からないわよ。伝えてみなきゃ」
それはそうだ。だが、それが難しい。考えただけでも未知の恐怖に身が固くなる。
そもそも、パチュリーが真面目に捉えてくれる保障もない。
「受け入れてくれると思うのか。こんな私を」
「それこそ、伝えなければ分からないわよ」
霊夢は少し間を置いた。
「パチュリーは魔理沙のこと……まだ許してないかもしれないけど、でも、これ以上魔理沙への印象が良くなるとも思えないわ。本を返し終えたときこそチャンスよ。伝えなければ分からないこと、お互いにたくさんあるはずよ」
「伝えなければ……本を返し終えたときがチャンス……」
魔理沙は何かが吹っ切れそうな気がしてきた。
「アリスは、どう思うんだ?」
「私も今日しかないと思うわ。ただし、あくまで魔理沙らしく、ね」
「私らしく……?」
唐突に自分らしさがどうこう、などという話を持ち出されて魔理沙は困惑した。
第一、最近の自分は全く自分らしくなんて……
「これまで本を返してきたのだってそうよ。単純だけど、ひたむきで、まっすぐで……まあ、派手じゃないけど。そういうのを貫けばきっと伝わるわよ」
「私らしくて……けど、派手じゃない……」
何かが吹っ切れた。そんな気がした。
「なあ、もう一つだけ聞いていいか? そうしたら行くから」
魔理沙は今すぐにでもここから飛び出したかったが、どうしても聞きたいことがあった。
「霊夢はともかく、どうしてアリスはここまでしてくれたんだ? いや、私と霊夢だけじゃまだ力不足だったかもしれないけどさ」
アリスは少しの間考えたようだった。
「……別にいいじゃない。魔理沙は私の助言を聞けて、えっと、嬉しかったはずでしょ? パチュリーに告白する気になれて」
「えっ……」
どこかで聞いたことがあるような台詞だ。と言うより、前に魔理沙がパチュリーに言ったこととそっくりだった。
それ自体はただの偶然だとは思うけど、でも、もしかしたらアリスは……
「気にしないで。魔理沙とパチュリーのこと、はっきりさせたいのは貴方自身だけじゃないって、それだけのことだから」
魔理沙の表情が強張ったのが分かったのか、アリスはそう言った。
「……分かった」
「意外と敏感なのね。魔理沙って」
霊夢が口を挟む。
「ああ、お前らのエスパーっぷりがうつったみたいだ」
だが、少なくとも今回はそんなものは頼りにならない。
頼るのは二人の力を借りた自分自身だけ……例によって返却日は未定だ。返しきれる気がしない。
魔理沙はすっかり熱の取れたお茶を飲み干した。
「ありがとな。行ってくるぜ」
魔理沙は袋を掴んで立ち上がると神社を出た。
戸口に立てかけておいた箒に飛び乗ると、紅魔館に向かって空を駆けた。
元々は積極的で前向きな性格だ。きっかけさえ掴めば立ち直るのはあっという間だった。
もう迷わない。もう逃げない。
考えてみれば、これほどのチャンスは他にない。
向こうから切り出してくるのなら、言い出しやすいに決まっている。
怖れることはない。失うものもない。
断られても、本を返し終える以上、後腐れはほとんどない。
もとより見込みは薄い。
未練などすぐになくなるだろうし、パチュリーと顔を合わせることすらなくなるだろう……
いや、今は目の前のことだけでいい。
小細工などいらない。そんなのはきっと逆効果だ。
自分らしく、単純に、まっすぐに、そして最後くらい派手にいこう。
失笑を買われて派手に散ったとしても構わない。
そんなことを怖れていたのが今までの自分だ。
償いとか、パチュリーとの関係がどうとか、そんな重苦しいことはこの際忘れよう。
本を返すなんてことしか思いつかなくて良かったのだ。
そして、伝えなければ始まらない、と魔理沙は自分に言い聞かせ、伝えなければならないと自然に決意して不安を抑えこんだ。
踏み出さなければ何も見えてこない、と分かったから。
紅魔館の地下にある大図書館。
魔理沙は小悪魔の先導でパチュリーの元へ向かっていた。
言うまでもなく、両手で本の詰まった袋を持って。
魔理沙の胸はいやおうなく高鳴っていた。
魔理沙は決意を再確認する。
伝えるんだ、想いを。はっきりさせるんだ、何もかも。
やがて、いつものごとく、魔理沙はパチュリーと机越しに向かい合った。
魔理沙は出来る限り平静を装った。
「返すぜ」
そう言うと、魔理沙は机に置いた袋から本を取り出し、机に積み上げていった。
「これで全部……だよな」
「……ええ」
いつもの通り、静かだが冷ややかさは感じられないパチュリーの声。
ここまでは、ほぼいつも通り。しかし。
パチュリーは返された本を大して確認せずに小悪魔に渡しているようにも見えた。
小悪魔が去ると、パチュリーは椅子から立ち上がり、机を回り込んで魔理沙の近くに寄ってきた。
それに合わせて魔理沙はパチュリーの方を向く。
隔てるものなしに、二人は向かい合った。
パチュリーの顔が近い。
少しは治まっていた鼓動が再び大きな音を立て始める。
自分の顔が上気しているのがわかる。
昨日、パチュリーも色々と考えたのだろうか、と魔理沙は回らない頭で思った。
「今日こそ、教えてくれるわよね」
パチュリーは静かに聞いた。
「どうして、本を返してくれたの?」
言った。パチュリーがついに。その言葉を待っていた。
もう、迷わない。
「それは……」
もう、逃げない。
前に踏み出したいから。想いを伝えたいから。何より……
「パチュリーのことが、好きだから……」
だから、そう言えた。
パチュリーはあからさまに驚いている。
少なくとも、冗談か何かとは思われていないようだった。
「好きだって気づいてしまったんだ。パチュリーのこと、全部。私、今までお前の……パチュリーの本を盗んでて、とても迷惑かけて……それで、好きになったから返します、許してください、なんて勝手だと思うだろ? でも、こうするしかないと思って、こんなことを……」
パチュリーは、いつの間にか何かを考えこんでいる顔つきになっていた。
二人の間に言葉はなくなる。
静寂が二人を包み込む。
「別に、無理しなくていいぜ。私はパチュリーに本を返せて……こうして告白できただけで十分……」
「……良くないわよ」
パチュリーは静かに口を開いた。
「魔理沙。貴方は良くても私は良くないわ」
「う……」
「迷惑もいいところよ……私、とても困ったんだから」
「……」
魔理沙は押し黙るしかなかった。
やはりだめか、という思いが全身を支配する。
当然だ。許してくれるだなんて最初から思っていなかった。
「図書館に乗り込んできて、本を盗んで……邪魔をされるだけなら……まだしも」
パチュリーが大きく息を吸う音が聞こえた。
「本を返してくるようになってからは……私、何も手に付かなくなって……私、魔理沙のことばかり考えて……」
今度は魔理沙の方が驚き、考えこんだ。
パチュリーは今……
「それって……」
「負けたわ。私も魔理沙のことが好き……今、はっきりと分かったの」
パチュリーは今。
「何でも一直線で、今回だって本を返すなんてことしか考えつかなくて……でも、立派にやり遂げて、まっすぐ想いをぶつけてきて……そんな貴方の気持ちに負けた……好きよ。魔理沙」
夢じゃない、と自分の鼓動が教えてくれる。
嘘じゃない、とパチュリーの瞳が教えてくれる。
パチュリーも自分のことを……
「パチュリー……」
とても嬉しくて、どこか気が抜けて、まぶたの裏に涙が溜まり始める。
もう時間がない。
「どうしてっ、どうして許せるんだよっ……私をっ……」
魔理沙は涙声でたずねた。
「……まだ、許したわけじゃないわ」
「なら、どうしてっ……」
パチュリーの顔が揺らぐ。
「ちゃんと責任とってくれたら……ね」
責任とは何のことだろうか。
今はもう、そんなことはどうでも良かった。
涙が溢れる……
「パチュリーッ……」
パチュリーをかき抱き、泣いた。
「はあ……また失敗か」
焦げくさい煙が立ちこめる中、しりもちをついた格好で床に座り込んでいる魔理沙がそう言うと、向き合うように座っているパチュリーは無言でうなずいた。
あれから数日。魔理沙は未だに、ため息続きの日々から逃れられていなかった。
パチュリーが言う責任とは、魔理沙のせいで遅れていた魔法の研究、開発を手伝うことだった。
パチュリーが動揺していて研究に打ちこめていなかったことはもちろん、必要な本が欠けていたこともあったらしい。
パチュリーと一緒に本を読める日が来るなんて思いもしていなかった魔理沙は、喜んで図書館に籠もったのだが。
「やっぱり、私、足手まといになってないか?」
さっきの実験など、魔理沙の影響を受けたか、派手な爆発が起きてしまった。
「言ったでしょ。どっちにしろ、私一人じゃ辛いって」
「どうせなら二人より三人の方が……とか言いたいところだけど、小悪魔があの調子じゃあな」
小悪魔は、不幸にも魔理沙がパチュリーを抱きしめているという衝撃的な光景を見てしまったらしく、未だにトラウマを引きずっているようだ。
二人が近寄るたびに顔を赤らめ、言動もしどろもどろになる始末で、とても研究には関われなかった。
「それに、魔理沙の力がないと出来ないこと、きっとあると思うから」
「まあ、一人じゃどうにもならないことってあるよな。他人の力を借りなきゃいけないとき」
魔理沙は霊夢とアリスのことを思い浮かべた。
たっぷりお礼をしなくてはいけない、と魔理沙は思った。
一言だけじゃ全然足りないだろうし、特にアリスには言わないといけないこともあるし、やはり借りっ放しは気分が悪い……返そうかな。他にも色々と。悪くないかもしれない。
そんなことを魔理沙が考えていると、パチュリーは再び口を開いた。
「他人の力を借りるのはいいけど……それを活かせるかは結局自分次第なのよね。この研究だって……」
パチュリーは言葉を途切った。
「魔理沙はどうやって活かしたのよ。あの日、本を返すのが遅れたのは、きっと誰かの力を借りに行っていたからなんでしょ?」
あの二人のほかにも、察しの良いのが一人……魔理沙はもう気にもしなかった。
「全部まとめて、まっすぐぶつけただけ。結構どうにかなるぜ?」
「……今回は?」
「どうにもならないだろうな」
「……やっぱり」
二人はしばらく笑い合うと、ひときわ大きなため息をついた