―――コン、コン。
「あ、は~い!」
穏やかなノックの音と、それに重ねたかのような応答の声。
その声こそが、今一番聞きたかった声。僅かな記憶の中にある、懐かしい響き。
ドアの開錠音は、まるで何かを発表する前に鳴り響くドラムロールのように、その生まれたばかりの心を高ぶらせる。
「どちらさま?」
ドアが、開いた。
ドアノブに手を掛けたまま、大妖精は固まる。目の前には、誰もいないように見えた。
だが、ほんのちょっとだけ、視線を下に向けると―――
「……え?」
身体だけでなく、その思考をも完全に凍結せしめる程の、信じ難い事実。
今から三年前の嵐の翌日に拾い、毎日可愛がり、手入れも欠かさず、皆に自慢して回り、一緒に本を読んだり眠ったり。
やがて現れた落とし主へと涙を堪えて返却したかと思えば、その日の夜にお菓子を届けに来てくれて、結局堪えたのが無駄になるくらいに泣き腫らして。
すぐにもう一度会いに行ったらやっぱり動く様子は無くて、それでもきっと心はある筈と、きっとまた会いに来てくれると大妖精が片時も忘れる事無く信じ続けた、
上海人形。
「……えっ……えぇっ!?」
口を『え』の形に開けたまま、大妖精は凍りつくしか出来なかった。
目の前にいるのは確かに、自分があれほど可愛がった人形―――記憶が確かなら、上海という名前だった筈だ。
あの日、彼女が実際に動く様子を目の当たりにした大妖精でも、再びこうして上海がそれなりの歳月を経てやって来たという事実が信じられない。
しかし彼女が一番驚いたのは、こうして上海が戸口に立っている事ではなくて、
―――上海が、眩しいくらいの笑顔である事。
―――その口が、開いた事。
「あっ……あの……お、お久しぶりです!」
―――そして、言葉を発した事。
(……私は、夢を見ているの?)
呆然と立ち尽くす。何かの間違いかと疑いそうになる。
人形である上海が、笑い、自分に対して言葉を発する。確かに、またいつかこうして会いに来てくれる事を夢見ていたし、信じてもいた。
だけど、本当にその日が来るなんて。しかもあの時と違って、彼女は見る限り自分の意思で話をし、さらに笑っている。
大妖精の中の常識では、人形というものは笑わないし、言葉を発する事も出来ない筈なのに。
「わ、私、ちゃんと覚えてます!あなたに拾ってもらったことも、毎日一緒に過ごしたことも……で、その、えっと……」
繋ぐ言葉が見つからないのは、上海だって同じだ。
薄ぼんやりとした記憶の中で、確かに自分は目の前の大妖精と共に、僅かではあるが日々を過ごした。
生みの親以外の相手とこんなに接した事も無ければ、可愛がられた事も無かった上海にとって、その思い出は忘れ得ぬもの。
そしてとうとう、自らの心で、言葉で、その大好きな人と話をする事が出来るようになった。
何を話していいか分からない。伝えたい事なんていっぱいありすぎて、出来立ての思考回路は早くもショートしそうだ。
「………」
「……あの……」
やがて、互いに黙り込んでしまった。目の前の事実を認識するのに時間が掛かり、口にまで神経を回せない大妖精。
初めて喋るその口で、何から話せばいいのか分からなくなってしまった上海。
暫しの沈黙。上海は、何も言わない大妖精に段々と不安を感じ始めていた。
(……もしかして、私の事なんて、もう……)
―――その不安を吹き飛ばしたのは、自分に向かって伸びてきた大妖精の細い腕だった。
(え……)
ぎゅっ、と包まれる柔らかい感触。自分が抱き締められていると理解するのに少々の時間を要したのは、やはり自分で考える事に上海が慣れていない所為だろうか。
―――言葉が見つからないなら、抱き締めればいい。
「……おかえりなさい……」
一瞬の内に考え抜いた挙句、大妖精の口をついて出た言葉はそれだった。
掠れるようなその涙声は、上海の心の奥底に刻まれた、あの日の声と同じもの。
『……あの本、ずっとあのままにしておくから……またいつか、一緒に読んでくれる?』
ああ、そうだ。約束したっけ。
「……また、一緒に……本、読んでくれますか?」
笑顔のままで、上海はそっと囁いた。また一緒に過ごせる。嬉しくてたまらない。
大妖精はそれに答える代わりに、上海を抱き締めるその腕にもう少し力を込めた。
―――人形は笑わない。そんな事、誰が決めたのだろう。
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「それでは、行ってきます!」
「ええ、気をつけてね。あと、あんまり迷惑かけちゃ駄目よ」
鈴の音のような、それでいて元気な声が、森の木々に木霊する。
まるで、子供を見送る母親のような台詞を口にしながら、アリス・マーガトロイドは手を振った。
森の中の一軒家、アリスの自宅。その玄関口に立ち、今まさに森の中へと姿を溶け込ませようとする小さな影を、彼女は見送っている。
ふわふわと飛んでいく、人と言うにも、妖精と言うにも小さなその姿。それもその筈、今アリスが送り出したのは、人形なのだから。
彼女の名は上海。『上海人形』。人形師たるアリスが作り出した人形にして、彼女の最高のパートナー。
長きに渡るアリスの研究が実を結び、”心を吹き込まれた”人形。彼女は自らの思いのままに動き、考え、そして笑い、怒って、話す。
人形に心を持たせるなどという魔法の習得は当然並大抵の努力では成し得ない。研究が完成する三年前、とある出来事がきっかけとなり、彼女の研究を大きく躍進させた。
もっとも、その”出来事”は彼女の精神的な面でプラスとなったに過ぎない。躍進したのは結果論であり、実際に手助けとなった訳ではない。だが、アリスは必ずこう言うだろう。
『上海がああして笑って暮らせるようになったのは、あの子のおかげなのよ』
やがて見えなくなった上海人形の後姿。それでも戸口に立って見送るアリスの表情は、まるで本当の母親のように優しいものだった。
・
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森を抜けると、冬の柔らかな日差しが目を刺すので、上海は思わず立ち止まった。
人形だって、眩しいと感じる。手で日を避け、少し空を見上げてみた。雲の少ない青空。今日もいい天気だ。
再び飛び始める上海は、やがて湖の傍に出る。彼女の足取りに迷いは一切見えない。
宙を浮いているのに足取りなんて言葉を使うのもおかしいのかも知れないが、言葉のあやという奴だ。
湖畔に見える小さな家。自我を持ってからというもの、何度も何度も通い詰めた場所だ。勿論、今日もまた。
上海は玄関のドア前に立つと、寸分の躊躇いも見せずにドアを三回ノックした。
こん、こん、こんと軽やかな音が三度鳴ったかと思うと、
「は~い、今行きま~す」
すぐに中から返事があり、上海は少し驚いた。もしかしたら、来客―――自分が来る事を既に予測していたのかも知れない。
さらに、返事があってすぐに足音が近づいたかと思うと、ドアが開いた。自らが予想していたよりも遥かに早い、外開きのドアの開放に慌てて上海は一歩後ろへ飛びずさる。
出迎えた人物―――湖の大妖精は、上海の姿を見るなりその表情を緩ませた。
「わ、上海ちゃんいらっしゃい!待ってたよ!」
「こ、こんにちは」
待っていた、との言葉に上海は何だか気恥ずかしい思いで頭を下げる。人形なのに顔が赤くなっているかも知れないと、上海は少し心配になった。
「さ、あがってあがって!新しい本、いくつか借りてきてるから……いっしょに読も?」
「あ、は、はい!おじゃまします」
上海がなかなか顔を上げられない内に、大妖精は彼女を中へと促していた。慌てて頷き、上海は靴を脱いで中へ。
きちんと靴を揃え、床に下りる。大妖精の姿を求めて視線を走らせると、彼女は本棚をごそごそと探っていた。
やがて一冊の文庫本を取り出す。表紙を見て、ひっくり返して裏表紙も観察。もう一度表紙を見てから満足そうに頷き、上海に笑顔で向き直る。
「うん、じゃあ今日はこれ。パチュリーさんがおすすめしてくれたんだけど、推理小説だって」
「ミステリかぁ……推理小説なんて言うと、やっぱり密室殺人みたいな難しい事件が起こるんでしょうか?」
「あ、でもこの本はそういうのじゃなくって……自分の住んでいる町を舞台に、身近な謎を解き明かす内容なんだって」
「面白そうですね、それ。身近な謎と言えば、私がこうして大妖精さんや色んな人とお話できるのも、割と謎ですよね」
くすくすと笑う上海に、大妖精も柔らかい笑みを返した。
「確かにそうだけど、それはほら、アリスさんの努力の賜物だから。人のがんばりはミステリを超えちゃうんだよ。
でも私達の周りには、さっき言ったみたいな密室殺人とか、そういう難しいトリックでも簡単にできちゃいそうな人いっぱいいるよね。咲夜さんとか」
「それを超える謎を考えるのが、ミステリ作家さんのお仕事ですよ、きっと」
「あ、かっこいいこと言った!何だか上海ちゃんも作家さんみたい」
褒められ、上海は恥ずかしさを堪えられずに、その小さな両手で顔を隠してしまう。
上海は無意識の内に、相手の話を聞いて、自分の頭で考えて、自らの口と声でそれに答えを返す。
人や妖怪にしてみれば当たり前の事でも、人形の身でそれが出来るのは現在、かのメディスン・メランコリーを除けば上海ただ一人。
こうして楽しく会話をしていると、時々上海は自分が人形である事を忘れてしまいそうになる。
忘れかけて思い出す度に、上海は自分の頭で考え、自らの意思で動き、誰かと話をする喜びを与えてくれたアリスに感謝するのだ。
そして、物言えぬ人形だった頃から、今と変わらないくらいの愛情を注いでくれた、目の前の大妖精にも。
「それじゃ、早速読もうか……ほら、作家さんも早く」
「恥ずかしいですよ、もう」
上海が照れるさまが可愛らしかったので敢えてそう言いながら、大妖精は椅子に座りながら上海を手招き。
大妖精が本をテーブルに置いて最初のページを開くと、上海もやってきてその膝の上へ。
目線はきちんと本の活字を追える位置にある。
「いつもごめんなさい、乗せてもらっちゃって。その……重く、ないですか?」
「そんな事ないって、すごく軽いよ!むしろ乗せてた方が落ち着くかも……あ、見える?大丈夫?」
「大丈夫ですよ、読めます」
「じゃ、スタートね。めくるの早かったら言ってね」
「はい」
それだけの会話を最後に、二人は黙々と活字を追い始めた。大妖精はやや遅めのスピードで読み進め、上海が読み切らぬ内にページをめくってしまわぬよう気遣っている。
上海を拾ったばかりのあの時から、こうして二人で本を読んでいた。以前は大妖精が自分のペースで読み進めていたが、今は気をつけながらゆっくり。
しかし大妖精はそれが不便だとは全く感じていない。むしろ、こうして一緒に物語を楽しめる事が何よりも嬉しかった。
―――アリスに心を吹き込まれてからというもの、度々上海はこうして、大妖精の家を訪れるようになっていた。
やる事と言えば、終始他愛も無い話で盛り上がるか、一緒に読書をするかで、稀にどこかへ遊びに行くことを除けば、まるで変わり映えしない。
けれど、それで良かった。あの日、大雨の後に見る影も無くぐしょぐしょの泥まみれで雨水を滴らせていた、ただの人形だった上海。
そんな彼女を可哀想だと拾い、綺麗に手入れしてこれ以上無いくらいに可愛がってくれた大妖精の傍にもう一度いられる。それは自らの意思で、しかも会話まで出来るし、リアクションも返せる。
それだけで、上海は幸せだった。
・
・
・
壁にかけられた時計は、午後五時半を指している。
上海がやって来てからずっと、ぱらり、ぱらりというページを繰る音だけがBGMだったこの部屋に、ぱたん、という軽い音が鳴り響く。
それは、読了したその本を閉じた音だった。
「あ~、終わったぁ……面白かった?」
読み終えたその本を片手に、凝り固まった背筋を思いっきり伸ばす大妖精。
膝上の上海は首だけを後ろに向け、頷く。
「はい、とっても!最初はこんな人が探偵さんで大丈夫かなって思ってたんですけど……」
「あはは、私も。食べてばっかだし、すぐ物忘れしちゃうし……でも、謎解きは完璧。普段のぐうたらを差し引いてもかっこいいよね」
「みんなが幸せになる解決法を考える、っていうのも……あ、そういえば。今何時ですか?」
笑い合いながら本の感想を語り合う最中、思い出したように上海が尋ねる。
しかし、大妖精が答えを返そうと時計へ視線を走らせるのと同時に、彼女も時計を見やった。
「あ、もうこんな時間。すみません、遅くまでお邪魔して」
「そんな。私としてはずっといてくれていいんだけどね。さすがにそれはアリスさんに迷惑かかちゃうし」
上海が膝から降りたので、大妖精も立ち上がる。
戸口へ向かう上海を見送るべく先に玄関まで行き、ドアを開けた。
途端に冬の冷たい風が吹き込んできて思わず軽い身震いをしてしまったが、顔には出さない。
既に太陽は山の向こうへ姿を殆ど隠しており、辺りは暗かった。
「それじゃ、気をつけて。またいつでも来てね」
「はい、お邪魔しました!」
寒さも厭わず見送る大妖精に手を振り返し、上海は大妖精の家を離れる。
少し飛んでから振り返ると、大妖精はまだ手を振っている。上海もそれに応えてまた手を振る。
そんな事を五度、六度と繰り返してから、ようやく上海は家から離れ、森の中へ。
普段から薄暗い森の中。夜ともなれば視界は非常に悪いが、幸いにも森は彼女にとっては庭のようなもの。
行きと同じ迷いの無い足取りで、程無くしてアリスの家へと帰り着く。
少し風が強くなり、ごうごうという唸り声のような音が上海の耳を叩く。
身を震わせはしないが、強い風がぶつかる感触に言いようの無い不安を覚え、上海は素早く玄関のドアを開けた。
「た、ただいま帰りました~」
何かに追われているかのような素早いドアの開閉での帰宅。しかし、家主は家の奥にいた為それを不審がる事は無かった。
「おかえりなさい。今日は何したの?」
にこやかにアリスが出迎える。上海にとって何よりも安心をもたらすその言葉に、先の不安はすっかり消し飛んだ。
「今日ですか?ずっと読書してました、いっしょに」
「あら、いいわね。どんな本読んだのかしら?面白いなら私にも教えて欲しいな」
「えっとぉ……ぐうたらで常識を一切持たないけど、推理力はバツグンの探偵さんが活躍するミステリものです。すごく面白かったですよ」
「へぇ~……おかしな探偵さんもいたものね。もっと詳しく教えてくれるかしら、核心に触れない範囲で」
「えぇ、ちょっと難しい注文ですよ。う~ん、どっから話せば……」
笑いながら上海をせっつくアリスと、困った顔で上手な紹介の仕方を考える上海。
ゆっくりと廊下の奥へ消えていく二つの背中。冬の寒さを感じさせない、温かな雰囲気がそこにはあった。
・
・
・
・
・
―――数日が経って。
「上海?ちょっといいかしら~?」
「なんですか?」
風の冷たい日だった。昼下がり、家のどこにいるのか分からない上海を呼ぶアリスの声が、家中に響き渡る。
一拍置いて出てきた上海に、アリスは少し困った顔をして言った。
「悪いんだけれど、お使いに行ってもらっていいかしら。ちょっと今、新しい魔法の研究で手が離せなくって」
「いいですよ、お任せ下さい!」
即座に頷く上海に、アリスはお使いの内容を記したメモ書きを手渡す。
「ここに書いてある物を買ってきて欲しいの、お願いね。夜までに帰ってきてくれれば大丈夫だから」
「分かりました!」
メモをしっかりとスカートのポケットに入れ、財布を受け取った上海は玄関のドアを開けた。
途端に吹き込んできた冷たい風にも顔色一つ変えず、彼女はもう一度主を向く。
「それでは、行ってきます!」
「気をつけてね」
手を振り返すアリス。上海が森の中へ消えて行くのを見届けてから、彼女は素早く玄関を閉めた。
「……今日は寒いわね……」
一方で家を出た上海は、とりあえず、といった体で里へ。大抵の場合、買い物と言えばここだ。
預かったメモ書きを開いてみると、内容は夕食の材料から何に使うのかよく分からない物―――魔法の研究に使うのだろうか―――まで、多岐に渡っており、彼女は少し戸惑った。
分かりやすい物から潰していこうとあちこちの店を周り、一つずつ必要な物を揃えていく。
里を奔走する事、数時間。
「えっと、これで全部かな……」
すぐには見つからない物もあったが、全ての店を周る前にはどうにかメモに書かれた物を全て揃えた上海。
時計が無いので正確な時刻は分からないが、既に空はオレンジとダークブルーのグラデーションを描いており、まるでカクテルのよう。もう夕方だ。
夜に近づいている事もあってか辺りはますます冷え込み、里の大通りも人影はまばら。時折吹く冷たい風に身を震わせつつ、家路に着く人々。
そんな最中にあっても、普段通りの上海は買い物袋の中身を確認する。メモと照らし合わせても、不足は無い。
種類そのものは多けれど、かさばる品が無いのでどうにか持参した買い物袋一つに全ての品物を収める事が出来た。
「……ん~、ちょっと重いなぁ。早く帰らなきゃ」
ひとりごちて、上海は里を後にした。行きよりも若干スローなペースで空をふわふわと飛び、森を目指す。
道中、ちらりと買い物袋の中身を覗いてみる。一番上に入っていたのは小さめの金槌。袋を重くしている一因だ。
(アリス様、こんなもの何に使うんだろう。カナヅチの魔法って……?)
とりとめも無い事を考えながら、ひたすら森の方向へ向かう上海だったが、次の瞬間、その場でぴたりと硬直する事となる。
(……あっ!)
森から里へ向かう場合、必然的に湖の傍を通る。逆もまた然り。
上海の前方、距離にして二十メートル程か。どうやら家路に着くらしい大妖精の姿を見つけたのだ。
当然ながら、彼女は上海に気付く様子を見せない。
(……あいさつしてかなくちゃ)
偶然の出会いに、上海は胸を躍らせた。彼女が忙しく無さそうなら、少しくらい立ち話も出来るだろうか―――そうも考えた。
視界を横切るように歩いている大妖精に、一旦はそう考えながらそのまま近づいていく上海。
しかし、心を吹き込まれてそれなりの月日を生きてきたせいか。はたまた、曲がりなりにも悪戯好きの妖精にカテゴライズされる大妖精といつも一緒にいたからか。
上海の心にほんのちょっぴり、悪戯してやろうという冒険心にも似た感情が芽生えてきた。
くすくすと笑い、彼女は軽く進路を変えて大妖精の後をつける。
(後ろから、そっと……)
少しずつスピードを上げ、距離を詰めていく。幸い飛行なので足音なんかでバレる心配は無さそうだ。
じりじりと狭まる二人の距離。とうとう後一メートル程後ろまで来た所で、上海は迷う事となる。
(……で、何しよう……?)
背中を押して驚かせる、くらいのつもりだったが、いざやるとなると捻りが無い。
弾幕で驚かすのは危ない気もする。買い物袋の中身を使う事も考えたが、お使いの品物なのでそれは駄目だと思い直した。
一メートルの距離を保ちつつ、暫し迷った挙句に上海は買い物袋をそっとその場に置いた。
(今日、結構寒い……らしいし、これなら驚くかな)
手ぶらになった上海は一気に大妖精との距離を詰める。
「……えいっ!」
次の瞬間、彼女はその小さな手を大妖精の首の後ろ、服の襟元から背中へ思いっきり突っ込んだ。
考え抜いた挙句の、上海人形にとっての初めての悪戯だった。
だが、その刹那―――
「きゃああああああっ!!?」
上海の予想を遥かに超える大きな悲鳴が、夕暮れ時の湖畔に木霊した。
少しびっくりする程度だと思っていたのに、思っていたよりずっと激しい反応。上海は驚き、思わず手を引き抜いていた。
当然驚いたのは大妖精も同じで、半ばパニック状態のまま大慌てで後ろを振り向く。
「なっ、なっ、なに……あ、えっ?」
一瞬何をされたのか分からなかった事による不安のせいか、怯えた表情をしていたその顔が、瞬時に和らいだ。
すぐ後ろにいたのは、あまりに見慣れた相手だったからだ。
「なぁんだ、上海ちゃんだったの。おどかさないでよ、もう……いきなり冷たかったから、つららでも入れられたのかと思ったよ」
安堵した表情で笑う大妖精。この後、すぐに彼女の弁解か、ばつの悪そうな顔での謝罪が返ってくる―――そう思っていた。
しかし、上海は何の反応も示さない。それどころか、その顔からは一切の表情が消え失せていた。
その場で浮遊したまま硬直し、ただ、呆然と自分の両手を見つめている。
明らかに様子がおかしい。そう思った大妖精は上海の顔を覗き込み、尋ねてみた。
「……どうしたの?」
するとようやく彼女は大妖精に話しかけられている事に気付いたようだった。
「あっ、そ、その……な、何でもありません!いきなりごめんなさい!」
だが、普段ならいくらでも会話を続けようとする上海なのに、慌てて一礼すると傍にあった買い物袋を引っ掴んで素早く飛び去ってしまうのだった。
「ちょ、ちょっと!」
事情の飲み込めない大妖精は静止しようと手を伸ばしたが、上海の姿はすぐに視界から消えてしまった。
「……どうしたんだろう……?」
夕焼けの残光も溶け行く湖畔に一人残され、大妖精は首を傾げるばかり。
・
・
・
いつの間にか陽も落ち、森は宵闇に包まれようとしている。
動くもの全てを飲み込もうとする闇から逃れるかの如くに木々の間を駆け抜け、上海は家へと帰り着いた。
そのままゆっくりとドアを開ける。無言。
普段なら、彼女は挨拶を欠かさない。
「上海?おかえりなさい」
ドアの開閉音で気付いたらしく、廊下の奥からアリスが出迎えた。
その顔は笑顔で、大事な人形が無事に帰ってきたという安堵感が見て取れた。
「お使いご苦労様、ありがとうね。重かったでしょ」
上海がいつの間にか床に置いた買い物袋は、中身がぎっしり詰まっている事が傍目でも分かる。
その労を労いつつ、中身を確かめようと袋に手を伸ばしかけたアリスだったが―――
「……どうしたの?さっきから黙りこくって」
上海が何も言わない、微動だにしない、眉一つ動かさないのが気にかかり、手を引っ込めるとそちらを向いて尋ねる。
何かあったのだろうか、と少し不安になったアリスは、床に棒立ちの上海と目線を合わせるべく膝立ちになる。
「ほら、どうしたのよ。何か言って、ね?」
その頬に優しく手を触れたその時、上海の口がようやく動いた。
「……アリス様」
「なあに?別に何言われたって怒ったりなんかしないから、言ってごらんなさいな」
安心させるようにあくまで笑って言うアリスに向かって、上海は両手をゆっくりと差し伸べるように伸ばした。
「……その……私の手を、握ってみてくれませんか」
「え……こうかしら?」
首を傾げつつも、彼女は言われた通りにその小さな手を握り締めた。大きさが大分違うので、殆ど包み込むようにして握っていた。
すると上海は、普段とは明らかに違う暗いトーンのまま言葉を続ける。
「……冷たい、ですよね」
「ん~……まあ、確かに冷たいけれど、仕方ないわ。こんだけ寒い中をお使いに行かせたんだから。ごめんね、苦労かけちゃって」
その小さな手を温めるように自らの手の中で揉み込んでやるアリスだったが、上海の表情は尚も失われたまま。
「……きっと、アリス様の手はあったかいんでしょうね」
「……?」
上海の真意が読めず、困惑した表情を見せるアリス。
何が言いたいの、と問おうとしたが、それには及ばなかった。上海は、再び口を開く。
「……でも、私には……それが、わかりません。自分の手の冷たさも、アリス様の手の温かさも」
「!!」
アリスは瞬時にはっとした表情になり、上海の手を見た。作り物の、人形の手。
いくら心を吹き込まれ、自分達と何ら変わらないように物を考えて行動すると言っても、あくまでその存在は”人形”の域を出られない。
当然ながら、感覚器官など仕込まれてはいない。心を吹き込む自律魔法に付随して与えられた視覚や嗅覚等のごくごく基本的な部分を除けば、精々触覚くらいだ。
熱さも冷たさも、痛みも、人形である上海には分からない。
―――そして、それらの事実は、自身が慕って止まない大好きな相手に気付かされたも同然。
「さっき、お買い物から帰る途中に、たまたま大妖精さんに会いました。ちょっとイタズラしようと思って、背中に手を入れてみたんです。
そしたら、とてもびっくりしてました。つららを入れられたかと思った、って」
淡々と語る上海。アリスは息を詰まらせそれを聞いている。
「……私は知りませんでした。自分の手が、つららのように冷たい事を。やっぱり、私は人形なんですね。
いくら心を手に入れたとしても、誰かの手の温もりを知ることも出来なければ……」
上海はそこで一度言葉を切り、アリスの手から引き抜いた自らの両手を合わせてみる。手と手がぶつかる感触。それだけ。
「……誰かに温もりを与える事も出来ません。自分の手を合わせてみても何も感じられない。誰が触っても冷たい私の手。
自分自身が”ヒトノカタ”に過ぎない事を、半分忘れてました。今日、大妖精さんに会って……それをはっきりと思い出しちゃいました」
それから、寂しそうな笑み。自嘲のようにも見えた。
だが、自らの両手に落としていた視線を上げた上海は、我が目を疑う。
ぽろり、ぽろりと大粒の涙をこぼす、生みの親の姿がそこにはあった。
「……そっか。やっぱり上海も、そう思うよね。
冷たい風が吹いたら身を震わせて。誰かの手を握れば、お互いの温もりを感じあえる。羨ましいわよね」
アリスも知っていた。玄関を開けた時、吹き込んだ冷たい風。自分が寒いと思っても、上海は顔色一つ変えない。
当然だ。人形は寒さなど感じはしない。
「私だって、あなたに分けてあげたかった……ストーブの心地よさや、誰かと『今日は寒いね』なんて笑い合える喜びを。
けど、今の私には……心を吹き込むだけで精一杯。
私がもっともっと、すごい魔法使いになれれば……きっと、あなたにもっとたくさんのものをあげられたのにね」
確かにそうなのだ。さらに高度な魔法を駆使すれば、人形により多くの感覚を与えて、限り無く人間や妖怪に近付ける事も可能だろう。
今のアリスには、それは出来ない。人形に心を吹き込むだけでも相当なもの。血の滲むような努力と、長年の願いの賜物。さらに上を目指すのは並大抵では無い。
明瞭だった彼女の言葉は、段々と涙声に取って代わられていく。
「全部、私が未熟なのがいけないの。ごめんね……だっ、だめなご主人さま、で……」
「ちっ……違います!!そんなつもりで言ったんじゃ!!」
我知らず、上海は叫んでいた。それと同時に、己の迂闊さを海よりも深く呪う。
アリスがいなければ、”人形に過ぎない”自分自身がこうして主と会話したり、大妖精の元へ遊びに行ったりも出来ない。
それどころか、人形としてこの世に生んでくれたのも、他ならぬアリス自身。
自分にとっての文字通りの生みの親相手に、自身の果てない望みをぶつけるのは―――それは、暴言以外の何者でも無い。
アリスの未熟さを責めているようにしか思えぬ己の発言を、今すぐ取り消したかった。だが、もう遅い。
上海が思いっきりぶつけたその想いは、受け止めたアリスの身に余り、涙へと姿を変えてこぼれ落ちる。
「いいの」
アリスは立ち上がり、袖でぐしぐしと涙を拭ってから、気丈に笑ってみせる。
それから、上海の手を取った。
「今やってる研究も、人形に関する魔法の一環なの。きっと、あなたのためになるわ」
「……アリス、さま……」
自分の名を呼ぶ人形の頭を、安心させるように空いた手で撫でてやり、彼女はその手で床の買い物袋を持ち上げた。
「大丈夫、任せてね。人形師アリス・マーガトロイドの名にかけて……いつかきっと、あなたを私達と同じ存在にしてみせるからね」
「………」
上海の手を引き、アリスは廊下の奥へ。手を引かれるままについて行く上海の表情は、まるで思い詰めたような、泣きたいような、後悔するような―――あらゆる感情がない交ぜになった顔。
多くの色を混ぜ過ぎたら、何も見えない黒になる。沢山の感情を混ぜ過ぎた上海の顔は、無表情。
それはまるで、意思の無い人形の頃に戻ったかのようだった。
・
・
・
・
・
―――さらに、一週間が経過した。
自宅の窓からぼうっと湖面を眺めて、大妖精は小さなため息を、一つ。
(………)
それから彼女は窓を離れると、玄関へ。
ドアを開け、視線を森の方向へ投げる。遠くに鬱蒼と生い茂る木々の緑が見えるだけで、動く影は見受けられない。
(……最近、来ないなぁ)
勿論、上海の事である。
これまでは、二、三日に一度は来ていた上海が、もう一週間以上来ていない。
(……飽きちゃったのかな?)
自分と一緒にいる事に飽きてしまったのか、と大妖精は少しだけ、その顔に暗い影を落とす。
だがすぐに顔を上げた。別に、飽きてしまっただけならいい。
(何か、あったのかな……)
それが心配だった。アリスと一緒にいるから大丈夫だろうとは思っていても、こうも姿が見えないと心配の一つも沸いてくる。
少なくとも、大妖精自身が感じる限りでは、上海は自分の所へ遊びに来る事をとても楽しみにしていたと思うから。
それなのに来ないというのは、それなりの理由がある。
(ちょっと、様子を見にいくだけなら……いいよね)
大妖精は靴箱の上に置いてあったマフラーを首に巻き、そのまま靴を履いて外へ出ると、玄関を施錠する。
いつもでは無いにしろ、アリスが時々難しそうな研究に没頭している姿を何度か見ている大妖精は、邪魔にならぬよう彼女の家へ訪問する事をなるべく控える事にしていた。
だが、こうも上海が姿を見せない事情を、生みの親であるアリスなら何か知っているかもしれない。
低空飛行で森の中へ。木にぶつからぬようスピードを一定に保ちつつ、彼女はアリスの家を目指す。
(……何もなければ、いいけど)
とりあえずそれが気がかりだった。上海の身に何も無い事が分かれば、それでいい。
十数分程のフライト。その果てに、大妖精は森の中にひっそりと佇む一軒家を発見した。
地面に降り立つと、積もった枯葉が重さに耐えかねてガサリと声を上げる。
ステップを上がってドアの前に立ち、小さなノックを二度、三度。
「は~い」
すぐに返事があり、同時に近づいてくる足音。どうやら研究の邪魔にはならずに済んだようだった。
やがてドアが開くと、中から顔を覗かせたアリスは少し驚いたような顔をしてみせる。
「あら、いらっしゃい。あなたが来るなんてちょっと珍しいわね」
「こんにちは。あの、お邪魔じゃありませんでしたか?」
大妖精は丁寧にお辞儀をしてから尋ねる。
「そんな、気を使わなくていいのよ。いつでもいらっしゃいな」
アリスが笑ってそう言うので、大妖精はひとまず安堵する。
邪魔にならなかったというのもそうだが、彼女が笑う余裕があるという事は、上海の身に重篤な事態が起こったという訳では無さそうだと分かったからである。
大妖精は『ありがとうございます』とお礼を述べ、それから本題を切り出す。
「あの、ちょっとお伺いしたいのですが……上海ちゃんは、今……?」
それを聞いたアリスは、少し困った顔になる。それから、廊下の奥をちらり。
顔を戻し、彼女はため息をついた。
「それがね。あの子、最近ふさぎ込んじゃって。いや、家にいる時は別段そういう訳でもないんだけれど……」
「え……な、何かあったんですか?」
感情を持つ以上、落ち込む事だってある。だが、アリスの口ぶりに漠然とした不安を感じ、大妖精は再び尋ねていた。
すると彼女は、一呼吸おいてから話を始める。
「……そうね、あなたにも話しておかなきゃならないわ。ちょっと長くなるかもしれないけれど……。
あなた、一週間くらい前かしら……上海に会ったわよね」
訊かれ、大妖精は記憶を辿るまでも無くそれに答えを返した。
「はい、よく覚えてます。上海ちゃんが私の背中に、手を入れてきたんです。寒さのせいで冷たかったから、ちょっと驚きました。
あの子がイタズラするなんて、珍しいなって思ったんですけど、その後すぐにいなくなっちゃって……それっきりです」
アリスは確認したとばかりに頷く。
「なるほど、あの子もそう言ってたわ……でもね、一つ違う所がある。あなたの驚きぶりは、ちょっとなんてものでは無かった。違う?」
「……ごめんなさい。本当は、すごく驚いちゃって……急に冷たい手を入れられたから、その……」
「まあ、それは仕方の無いことよ。誰だって驚く。けど、あの子はね……」
そこで一度言葉を切る。大妖精は固唾を呑んで、アリスの次の言葉を待った。
「……あなたが、とても驚いた事がショックだった。自分の手が、まるで氷柱のように冷たいだなんて、知らなかったのよ。
あの子は心があると言っても、人形。残念だけれど、あの子に手の温かさを授けてあげる事は、今の私には出来ない。
それに、北風に晒された自分の手の冷たさを知る術も無い。誰かに暖めてもらっても、それを感じられない」
息を詰まらせて、大妖精はその独白を聞いていた。
「あの子は……上海はね、自分自身の身体が、氷で出来ているように冷たいと思い込んでる。それこそ、頭のてっぺんからつま先まで。
その誤解を解いてあげたいけど、どうにも、ね。だって、温かさも冷たさも感じられないあの子の身体では、いくら言っても。
それに、あなたに寒い思いをさせたくないって言ってね、あなたと会いたがらないの……何度説得してもだめ。
今頃も、私が人形を保管している部屋に閉じこもって、あなたが帰るのを待ってるわ」
あの子は優しい子だから、と呟いて苦笑いのアリス。
一方で大妖精は、いつの間にか俯いていた。
「……わたしの……私の、せいで……」
ただ、驚いたという事を冗談めかして表現したかった。他意は無かった。
だが結果として、自身の放った言葉が、リアクションが、上海の心をナイフのように深く抉った。
その事実は彼女にとってあまりに重過ぎて。申し訳無くて、ただ申し訳無くて、いくら堪えても目に涙が浮かんでくる。
何をすれば許してもらえる?どうすれば分かってもらえる?分からない。
爪が食い込んで血が滲みそうなくらいに固く握られた拳が、ぶるぶると震えを帯びた。
その様子を見たアリスは、ゆるりと首を横に振った。
「違うの。私は、あなたを責めるつもりは毛頭無いわ。それだけは分かって欲しい」
「……でも!」
「そうだ。それなら、あの子に会ってくれないかしら」
「えっ?」
大妖精は瞬時に顔を上げた。
「で、でも、今、上海ちゃんは私に会いたがらないって……」
「大丈夫、任せて。あ、足音がしないように飛んでついて来てね」
アリスは唇に人差し指を当て、”静かに”のポーズ。大妖精が頷き、家の中へ入ったので彼女は玄関のドアを、音が立たぬよう閉めた。
それから普段通りの様子で廊下を歩いていく。大妖精が浮遊したままそれについて行く。
ダイニングを経由して、別の廊下へ。その先のドアの前で、二人は止まった。
(そっと降りて)
アリスは大妖精に耳打ち。言われた通りに大妖精は、音が立たぬようゆっくりと床に降り立つ。
そしてアリスは、そのドアを軽くノックした。
「上海、ちょっといい?取りたい物があるから、開けて欲しいのだけれど」
「……あの、大妖精さんは……」
「もう帰ったわよ。すごく心配してた」
「……今、あけます」
小さな足音。それを聞いたアリスは、大妖精にウィンク。
ガチャリという開錠音がしたので、アリスは大妖精をドアの前に立たせ、片手を彼女の背中に添え、もう片手でドアノブを掴む。
軽く息を吸い込んでから、一気にドアを開ける。同時に、大妖精の背中をドアの中へ押し込んだ。
「きゃあ!?」
「……えっ!?」
二つの驚きの声。どさり、と大妖精が部屋の中へ倒れこむ音がした。
そのままアリスは素早くドアを閉め、ぴったりと背中をそのドアに預けた。
(頼んだわよ。あなたなら、きっと……)
・
・
・
・
「え、あ、あれ……」
上海は、ひたすらにうろたえていた。アリスが確かに帰ったと言ったはずの、大妖精が目の前に現れたのだから。
心の底から大好きで、今一番会いたくない相手。
「んしょ、っと。上海ちゃん、久しぶり、かな……元気そうでよかったよ」
身体を起こし、正座の体勢で大妖精は笑いかける。
上海は一瞬―――ほんの一瞬、表情を明るくしかけた。だがすぐに首を振ると、大妖精との距離を取る。
「……だめ、です。こっちへ、来ないで……ください」
「どうして?私、嫌われちゃったかな」
「ち……違います!」
”嫌い”という言葉に、上海は過剰に反応していた。やはり、来て欲しくないなどというのは本心では無い。
「……私の身体は、とても冷たいです。まるで氷のように。大妖精さんが言ってましたから、間違いないです。
私に触れたら、あなたまで凍えてしまいます。だから、お願い……私に、触れないで下さい」
「そんなことないよ。こないだのは、私もちょっとオーバーに言い過ぎちゃった。本当にごめん。
寒かったんだから、仕方ないよ。私の手だってきっと冷たかった」
「……うそ、です」
「うそじゃないよ」
上海はゆるゆると首を振った。その言葉を信じたいが、信じてはいけない―――そんな悩みが見て取れる。
「……大妖精さんは、とっても優しいです。だから、私のことを思ってうそを言ってるに決まってます」
「そんなに、自分のことを悪く言わないで」
「でも……」
上海は、その小さな両手を合わせて見せた。まるで祈るようなポーズ。
「こうしてみても、私には自分の手の感触しか分かりません。温かいのかも、冷たいのかも分かりません。
アリス様や大妖精さんは、大丈夫だと言って下さいます。けど、本当は無理しているとしたら……。
いつも、私をひざの上に乗せて下さった大妖精さんは、本当はそのたびに、とても冷たい思いをしていたとしたら……」
上海は、ぶるぶると首を激しく振った。
「……そうだとしたら、私はどれほど悪いことをしてきたんだろう、って……」
「そんなことない」
「それが、私のことを思ってのうそだとしたら……怖いんです。私は、一番好きな人たちにずっと迷惑をかけながら生きていきたくはないんです。
あなたがこうして、私を思いやった言葉をかけてくれる。優しくしてくれる。それだけでいいんです。
そばにいられなくても、こうして私のことを考えてくれる方がいるってだけで、私は―――」
「―――このわからずやっ!!」
「!?」
聞いた事も無い、大妖精の怒鳴り声。上海の身体は一瞬にして硬直する。
次の瞬間には大妖精は立ち上がり、大股で上海の方へ歩いてくる。
慌てて後ずさり、距離をとる上海。それを詰めようとする大妖精。
十数秒のいたちごっこの末、大妖精は立ち止まった。それに合わせ、上海も動きを止めたその瞬間―――
「えっ?」
上海は、我が目を疑う。気付いたその瞬間には、大妖精の姿がすぐ目の前にあった。手を伸ばせば、触れられる距離。
大妖精が空間移動を使えるという事実を、上海は知らなかった。
(……!)
上海は少しでも彼女から遠ざかろうと後ずさろうとする―――が、もう遅かった。
伸びてきた大妖精の手が、上海の左手首をがっちりと掴む。
そして肩も外れんばかりに強くその身体を引き寄せ、もう片方の手を肩に回す。
無理矢理にその小さな人形を、強く、強く抱き締めた。
「あっ……!」
思わず声が漏れた。久しく味わっていなかった、全身をきつく、だけど優しく包み込まれるその感触。
本当はこのままでいたい。だが上海はその腕から逃れようと身を捩る。
「だ、だめ、です……冷たい、から……」
「冷たくない」
ぴしゃりと言い放ち、大妖精はその腕に力を込める。その人形を決して離さぬよう。
上海が大人しくなったので、大妖精は今度は優しく言葉を紡ぐ。
「冷たくなんか、ないよ。全然」
「また、うそを……」
「うそじゃないって。なんなら、このまま一日中こうしてたっていいよ」
「……で、でも……きっと、このお部屋があったかいから……」
「……もう。上海ちゃんもけっこう意地っ張りだね」
くすりと笑ってそう言うと、大妖精はゆっくりと語り出した。
「冷たくなんかないし、むしろ、あったかいの。それはね、肌で感じられる部分じゃなくって……何て言うのかな。
う~ん……そう、心かな。こうしていると、心の中からとってもあったかくなれるの」
「……こころ?」
「そう。上海ちゃんも、何か感じない?外からは温かさも冷たさも感じられなくても、きっと……」
大妖精はそのまま、何も言わなくなる。
上海も目を閉じてみる。大妖精がこうして、自分を抱いてくれているという事実と、その感触。
そして、思い出す。これは、自分自身が物言わぬ人形だった頃にも感じた事がある。それも、一度や二度じゃない。
あの頃と変わらず、目一杯の愛しさを込めて。温もりも何も持たない人形の自分を抱き締めてくれる。
いつしか上海は、その腕から逃れようとは思わなくなった。
大妖精に抱かれている今この瞬間が、とても心地良い。ずっとこうしていたい。叶うなら、いつまでも。
懐かしさと、心地良さと、愛しさと。いつまでもこうしていたいと願う、この感情。感触。どう表現すればいいのだろう。
ああ、そうか。これが―――
「……あったかい……です……」
思わず、声に出していた。
それを聞き届けた大妖精は、尚も優しく言い聞かせる。
「ほら、ね?上海ちゃんだって、温かさを感じられるんだよ。だからもう、何も分からないなんて……そんな悲しいこと、言わないで」
上海は身を捩った。逃れようとしているのでは無い。その両腕を自由にしたかった。
そして、自分もまた、彼女の背中に腕を回したかった。
「はい……!」
胸の辺りから小さく、返事が聞こえた。小さな手が自分の背に回される感触が、大妖精にも分かる。
彼女の胸に顔を埋めたまま、上海はもう一度目を閉じた。
一度気付いてしまったら、止める間も無く心に溢れ出す”温かさ”。胸の奥が熱くなるその感覚に身を預けていると、何故か同時に胸が苦しくなる。
酸素はいらない人形の身なのに、呼吸が荒くなる。もしかしてと思い、上海は少し顔を離すと口を開いた。
「もし……私が人形じゃなかったら、今、私は泣いているんでしょうか……?」
すると、大妖精が顔を少し下に向け、上海を見た。絡み合う二つの視線。
「……泣きたい?」
「……はい」
暫し見つめ合ってから、彼女はにっこりと笑って言った。
「それは、いつかきっとアリスさんが何とかしてくれるよ」
その答えに安心した上海は、再び倒れ込むようにして大妖精の腕の中へ。
―――沢山の動かない人形に囲まれた部屋で、”一人と一体”ではない”二人”は、いつまでも互いの身体を抱き締めたまま動こうとしなかった。
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―――すっかり明るさを取り戻した上海に、アリスは心の底からの笑顔を見せた。
大妖精が帰宅しても喜びを抑えようとしない彼女に、上海は声をかける。
「アリス様、ちょっと、お願いがあるんですけど……」
「何かしら?何でも言って頂戴」
膝立ちになり、上海と目線の高さを合わせてやるアリス。上海は、少し恥ずかしげに両腕を伸ばす。
「あの、私を……抱きしめて、下さい」
「……え?あ、ええ……もちろん、いいわよ」
若干の戸惑いを見せたが、人形を抱くなんていつもの事。アリスも腕を伸ばし、抱え上げるようにして上海を抱き締める。
暫くそうしていた二人だったが、不意に上海が嬉しそうに呟いた。
「……アリス様も、あったかいです」
「えっ?」
アリスは驚きの声を上げる。確かに上海は、『あったかい』と言ったのだ。人形は温かさを感じられない筈なのに。
だが、ほんのちょっとだけ考えてからアリスは頷いた。
「私も、上海を抱いてると……あったかい。とってもね」
アリスからは見えないが、上海はその言葉に恥ずかしそうに、けれどとても嬉しそうに、笑った。
―――それから、数日後。
その日の昼頃、アリスの家のドアを叩く音。
「アリス・マーガトロイドさんですか?お荷物が届いておりますが……」
郵便配達人だった。アリスが出て、小包を受け取る。
配達人が次の配達の為に去った後、上海が寄って来て尋ねた。
「お荷物ですか?」
「ええ、差出人は……あっ!」
伝票を見たアリスが驚いた声を上げたので、上海もびくりと身を震わせる。
「ど、どうされました?」
不安げな面持ちで尋ねる上海。しかしそれとは対照的に、アリスは彼女へ笑顔を向ける。
「……正確には私じゃなくて、あなたへのお届け物ね。湖の大妖精からよ」
「え……えぇっ!?」
今度は上海が驚きの声を上げる番だった。
「ほら、あなたがお開けなさいな」
「は、はい……」
緊張の面持ちで、上海は小包を開封していく。
一番外の袋を開け、中から出てきた包装紙を解いていく。中身は結構小さいようだ。
最後の包装紙と思われる紙を開く。すると、中から出てきた物は―――
「わぁ……」
・
・
・
「……ねぇ、上海」
「なんですか?」
―――夜。さっきからずっと笑顔で部屋の中を飛び回っている上海に、アリスは苦笑いを向けた。
「あなたにとって、あの子からのプレゼントがとっても嬉しかったというのは分かるわ」
「はい」
返事を返す上海は、尚もにこにこ笑顔。
「そして、肌身離さず身に付けていたい、というのもよく分かる」
「はい、はい」
嬉しそうにうんうんと頷く上海。
「でもねぇ……」
するとアリスは、困ったようなため息をついてから言った。
「……部屋の中では、手袋を外しなさいな」
「いやです!」
笑顔を崩さず、上海は首を横に振った。
主の命に背いたわけだが、当のアリスはやれやれといった体で首を振り、こちらも苦笑いを崩さない。
大妖精からのプレゼント。それは、彼女の服装に合わせたであろう薄いライトブルーの毛糸で編まれた、ミトンの手袋だった。
きちんと上海のサイズに合わせてあるそれは、早速身に付けた上海の手にジャストフィット。
大妖精の手編みという事で嬉しさ数百倍の上海は、大喜びでずっと身に付けている。
外に出るならともかく、それなりに暖房も効いた室内でも身に付けている上海を見てのアリスの発言だったのだが、見事に却下。
あれほど喜んでいるのを、わざわざ外させる事も無い―――そう思い直し、アリスは手元を見た。
椅子に座る彼女の膝の上にも、手袋。大妖精は、アリスの分も編んでいた。
彼女はその技術に関心しつつ、それから、再び喜んであちこち飛び回る上海に視線を注ぐ。
(……これがあれば、もう上海の手は冷たくならない、か)
上海を見ていると、自然と笑顔になる。アリスも、手袋を付けてみた。
(……いつかは、手袋が無くても温かく……手袋があればもっと温かい、そんな人形にしてあげたいな)
一人決意を固めながら、アリスはもう片方の手袋をすっぽりと手にはめる。
サイズはぴったり。とても温かかった。
・
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・
―――翌日。
「こんにちは!」
ノックの音にアリスがドアを開けると、大妖精の姿があった。
「あら、いらっしゃい。お迎えかしら?」
「はい、たまには」
見れば、大妖精も手袋をしている。しかも、上海のものと同じデザイン。
「そうだ。昨日、あなたの手袋、届いたわ。本当にありがとう……しかも、私の分まで」
真正面からお礼を言われ、大妖精は少し恥ずかしそうに赤面した。
「えへへ、いいんですよ。いつもお世話になってますし……上海ちゃん、喜んでくれました?」
「それはもう、喜ぶなんてものじゃないわよ。嬉しさの余り、寝るまで外さなかったのよ?」
それを聞いた大妖精もまた、嬉しそうに笑う。自分のプレゼントが喜んで貰えたとあれば当然だろう。
その時、玄関に上海もやって来た。その手には勿論、手袋。
「こんにちは。わざわざありがとうございます」
「いいんだよ、たまには一緒に行きたいなって」
するとここで、上海も大妖精の手元に気付く。
「あっ……その手袋、もしかして……」
「うん、上海ちゃんやアリスさんとおそろい!似合うかな」
恥ずかしげに笑う大妖精と、自分の手袋と見比べて嬉しそうな上海。ただ同じデザインの手袋をしているというだけなのに、こんなにも嬉しくなる。
「それではアリスさん、行ってきます」
「行って参ります!」
「はいはい、気をつけてね」
アリスに頭を下げる、大妖精と上海。彼女はそんな二人に手を振り、外まで出て送り出す。
二人の姿が森の木々で見えなくなるまで、アリスは優しい笑顔のまま手を振り続けた。
「……ねぇ、上海ちゃん」
見送ってくれるアリスの姿が見えなくなった頃、大妖精は隣の上海に声をかける。
「なんですか?」
上海がそれに返事をすると、大妖精は彼女の手袋に包まれたその手をとる。
「これなら、冷たくないよ?」
「……はい!」
眩しいくらいの笑顔で、上海は頷いた。
それから手を繋いだまま、二人は森の道をゆっくりと歩いていく。
温かい手袋に包まれた、手と手を繋ぐ。
妖精と人形。種の違う二人の手の温度差は―――
「あったかい、ですね」
「うん!」
―――ゼロ。
イイハナシダナー
ずっとまってましたよ!!
大ちゃんと上海に和まされつつアリスと上海の母娘のやり取りが胸に残ります。
頑張れアリス、その涙と気持ちがあれば上海に本物の温もりを与える日も遠くないよ!
最高でした
自分も、はや◯ね作品は読み漁ったクチです
久々に読みたくなりました
大ちゃん×上海×アリスの組み合わせが自分の中でジャスティスにナリマシタヨw
更に続くなら勿論ながら読みたいと強く思ってますよ^^b それでは失礼しますね。^^ノシ
ある意味けがれてる(悪い意味ではない)作品が多いなか、
この作品は童話みたいでほっこりしました。
しかしアリスはついで扱いなのか……
上海が初っ端から人語をすらすら喋る展開には驚きました。
アリスが凄くお母さんお母さんしてて良かったです。
人形故の葛藤と大妖精との友情、面白かったです。
互いのことを考えて悩んで、そしてまた手をつなぐ。
いいな幻想郷。(こればっか)
いまの握力は35くらい。
他の作品も読みましたが、あなたの大ちゃんは本当に最高です!
>途中のミステリ
やっぱりこれだったかwwwww
久々に読んでみよっと
ギガブレとか甘天使とかの題名につられて読んだのがきっかけですが、どれもこれも眩しすぎます><
「人形は笑わない?」では涙を枯らし、そのままこれを読んでまた目頭に熱いものが…w
清らかすぎて…醜い私にはもうだめです°・(ノД`)・°・
皆様有難う御座います。
>>1様
そのお言葉だけで、このお話を書いた疲れだとかそういうのは一瞬でクリーンナッププリンセス。
ご期待に副える代物であったのなら良いのですが。
>>2様
待っていて頂けたとは感謝のしようもありません。
これからも、次の投稿を誰かにいつも待って頂けるような書き手になりたいと願わずにはいられないのです。
>>4様
予想以上の人に読んで頂けてこちらも大歓喜。
アリスと上海の親子のような関係を描きたかったので、どうやら伝わっていたようで安心しました。
上海がアリス達とほぼ同等の存在になるまでの過程を……書いたら、一体どれ程の長編になってしまうのやら。
>>8様
清く正しい大妖精。いい子だよ!すっごくいい子だよ!
>>18様
これからもそう言って頂けるような作品を書けるよう頑張ります。
そして同志ハケーン。『総生島』を初めて読んで度肝を抜かれた事を未だに根強く覚えております。
>>アクセス様
いつもいつもいつもいつもいつもいつもいつも本当に有難う御座います。長いってばさ。
至って普通です。可愛いからオッケーなのです。またこの続き、書こうかなぁ。
>>23様
童話みたいな作品……理屈云々を抜きにしていい話だと思える、そんな作品を目指している節もあります。
>アリスはついで
んなこたーない。彼女も主役です。ですが、このお話では展開の都合上若干出番が少なくなってしまいました。反省。
続編があれば、沢山出してあげたい……あれば。
>>ずわいがに様
なんと、こちらの作品にもコメントを頂けますとは。土下座せんばかりの勢いで感謝。
実はそこ、ちょっぴり迷った所です。上海にまず言葉の練習をさせるか、いきなり喋らせるか。
前回作品のラストとの繋がりを意識した結果、こうなりました。アリスの魔法スゲー!ってことでどうか一つ。
今回の作品で、『やたら世話を焼きたがるお母さんorお姉ちゃん的アリス』という電波がビビビと。アリスの出番が今後増えそうです。
>>34様
たった一言なのに、何たる破壊力。空っぽの心に色々注がれました。
自分の一番好きなキャラを書いた作品でそう言って頂けるのって本当に嬉しいです。これからも大ちゃんを書きます。ええ何度だって。
>>感動する程度の能力様
素敵ですよね幻想郷。ああちくしょう、自分だって大ちゃんや上海と手を繋ぎた(ry
幻想郷だって色々大変な事もあるのでしょうけど、せめて大好きな相手と手を繋ぐくらいの安らぎはあって欲しいものです。
>>41様
なんと、他の作品まで。どうも有難う御座います。大ちゃんが好きすぎて色々辛いですが、これからもたくさん書きます。
夢水ファンいっぱいいてやれ嬉しや。完結してしまった今でも時々最初から全部読み返します。我がバイブル。
>>キャリー様
わお、あなたも音ゲーマー?それはともかく、どうも有難う御座います。すっごく嬉しい。
前作もそうですが、徹底的にファンタジー路線です。大ちゃんも上海もアリスも可愛いからしょうがない。
自分の作品で浄化される、みたいなコメントをよく頂くのですが、お塩小説とでも名付けようかしら。となると皆様は吸血鬼?亡霊?
冗談はともかく、これからも頑張ります。
いやぁ……、心が暖まりますね。ええ話や。いつか動ける人形が増えてたりしてねw
良いお話を有難うございました。