1
太陽が今にも地平線に沈もうとしている頃。
僅かに地平にへばりついたそれは、人里全体と、空高くに浮遊する宝船を紅く染め上げていた。
「おや、そこにいるのは早苗じゃないか。こんなところで会うとは奇遇だな」
そう、商店街の一角で東風谷早苗に話しかけたのは、八雲藍だった。
「こんにちは」
そう挨拶してきた藍に、つられて早苗も挨拶を返す。
だが、早苗の方こそ、藍とこのような場所で遭遇することに意外な気持ちを抱いた。
早苗は人間である。
彼女は今、ネギの頭を覗かせた買い物袋を持って、豆腐屋の店頭に並べられた商品を吟味していた。買い物中であった。
だから、彼女が人里に出現しても不思議はない。
しかし八雲藍は妖獣だ。人類とは、あまり友好的にある種ではない。
それに、彼女が今手にしている物は、早苗には何かの測量器具に見えた。
どう見ても買い物客には見えないのだ。
もしもこの式が人里に危害を加えるつもりならば、私が阻止しなければいけない。
だけど、豆腐屋の店主なども、藍の姿を見ても平然としている辺り、どうも違うようだ。
早苗は思いきって質問する。
「藍さんは、人里に何の用ですか?」
藍は、
「ああ、仕事だよ」と微笑んだ。
「それより、早苗はこの豆腐屋に用か? ここの油揚げは逸品だぞ。外界にだってここのにかなう物は無いだろうな」
「いえ、私は豆腐を買いに」
「そうか。でも豆腐だって美味しいよ。なあ、おやっさん!」
そう呼ばれた豆腐屋の店主は、うれしそうに言った。
「ええ、藍様にはいつも御贔屓にして頂いてますぜ」
「その割には、どんなに大量に買っても、少しも値引きしてくれないのが玉に瑕だがね」
「あいたたた、これは厳しい!」
「おや、もうこんな時間か。私はこれで失礼する」
そうやって藍は早苗と、苦笑する店主にお辞儀をして飛び去った。
「守矢の巫女様は、いつものでよろしいんですかい?」
店主にそういわれて、早苗ははっと我に返る。いつの間にか、藍の飛行する姿に見とれていたのだった。
「ええ、それを二丁お願いしますね」
「はいよっ」
店主は威勢良く答え、早苗が飛行して帰っても崩れないよう、高野豆腐を丁寧に包み始めた。
早苗は、がま口から小銭を取り出しつつも、首を傾げた。
「藍さんのお仕事って何だろう?」
包み終えた店主は、早苗に豆腐を渡しながら、
「ありゃま。早苗様は幻想郷縁起、読んでねえのかい? 稗田の阿求ちゃんが書いてる」
「ええ」
「藍様は変な測量器具見たいなの持ってただろ? あれで結界を調べて、修復してるらしいんですわ。ええと、ナントカ大結界とかいうやつ」
「博麗大結界ですか?」
「ああ、それそれ。藍様はそれで毎日幻想郷中を駆け巡っているみたいですぜ。ありがたいこって」
「そうなんですか」
しかし、藍は紫の式のはずである。早苗の知る限り、主人である紫がそのような事をしたという話は聞かない。
彼女は一体何をやっているのだろうか?
早苗はふと、疑問に思った。
2
藍が主の屋敷に帰還したのは、日が暮れた後のことだった。
この時間ではもう、橙はマヨヒガに帰ってしまったあとだろう。
彼女は主の居るであろう部屋に行き、自らの帰還を告げた。
「紫様、ただいま帰りました」
「ご苦労様。入りなさい」
許可がない限り、決して開くことのない襖が音もなく動く。
その先は、橙ですら見たことのない紫の仕事部屋であった。
今の紫は帽子をかぶらず、髪を頭のすぐ後ろで一つにまとめている。
仕事をしているときだけこの髪型をするのだが、彼女のこの姿を見たことのある者は、藍を除いては白玉楼の主くらいしかいない。
「で、どうだった?」
紫はとある空間を一心に見つめている。真剣そのものの表情で、帰ってきた藍へは振り向きもせずに話しかけた。
部屋は明かりがない為にとても暗く、多数に開いているスキマ空間の向こう側から、怪しい紫色の光が、青白い紫の顔を下方から照らしていた。
「やはり、現行結界の保守強化のみの対応では無理があります」
「具体的には?」
「おそらく、三日以内に幻想郷内で何かしらの歪みが」
「そう。やはりこの対応パッチをあてないと、幻想郷の維持は困難、か」
「はい、それに、魔理沙の好奇心をそれとなく抑制する事にも限界があります。これ以上は、あの宝船への探求心を押さえ切れそうにありません」
人里でも、道行く人の話はあの空飛ぶ船のことで持ち切りなのを藍は知っている。
「でもね、藍。さっきようやく、スキマ空間での結合テストが終わったのだけれど。パッチにバグがあったわ」
「え? 単体テストでは問題無かったはずですが?」
「そのあと、緊急に術式を付け加えたでしょ。例の、ナズーリン問題で」
藍はそっとため息をつく。
「それでは、パッチ完成はまだ先ということに……」
「ええ、一番厄介そうなのは、咲夜が新参の面子と弾幕ごっこをすると、彼女に犬耳が生えてしまう現象。後は、なぜか魔界との空間同期がやたら不安定になる問題がある程度ね」
「また咲夜に関する身体変化系のバグですか」
「そうなの、不思議よね。彼女の能力が時空に関係してるからかしら? そんなにヤワな次元の結界では無いのだけれど」
確かにそうだ。と、藍は頷いた。藍は、今の幻想郷では二番目に博麗大結界に精通している存在であった。
「なるほど。で、いつ頃完成しそうですか?」
「そうね、ざっと一週間」
「そんなに!」
紫は悪びれたように頬を引っ掻く。
「で、すめばいいなあ、と……」
「……」
藍は目頭を押さえる。このままでは間に合わない。
「いっそのこと、最終テストを省略したらいかがでしょうか。そうすれば五日は短縮できます」
紫は頭を振る。
「駄目よ。紅霧異変後対応パッチの失敗を忘れたの?」
実は紅霧異変直後に、深刻な問題が大結界について発生していたのだった。
それは、ともすれば結界そのものが崩壊しそうな深刻なものであり、かつ緊急に改修をおこなう必要があった為、そのときは三つ行うべきテストのうち、最後のテストを行わないまま追加術式を博麗大結界に組み込んだのだった。
結果から言えば、大結界は守られたものの、幻想郷内でバグが生じてしまった。
魔界が二つに増え、夢幻館という名の館が消滅し、とある人間の胸囲が激しく変動した。
とりあえずの策として、関係者の記憶を改竄したものの。結局そういった諸々の悪影響について、八雲家は今の今まで根本的な解決策を見いだすことはできていなかった。
「ならば、私も術式の構築に参加します」
「それも却下よ。今の貴方に対して、術式構築の進行状況を連携する時間すらも惜しいわ」
「ですが、紫様。貴方はもうかれこれ二ヶ月近くも、一日二時間くらいしか寝てないじゃないですか」
しかも、この一週間は完全に徹夜のようである。それに比べて藍は、紫の指示とは言え、毎日通常通りに睡眠をとっていた。
「ですが、今のままでは、あまりに――」
「結界術式の保守の複雑さは私もよく知っているわ。あの作業に、寝ぼけた頭の者を使わすほど私は間抜けじゃない。それに」
ここにきて、初めて紫は藍の方へ顔を向ける。藍は絶句した。
「橙はいつも貴方が作る朝御飯を楽しみにしているのよ。貴方は毎朝、彼女を笑顔で迎えるという尊い仕事があるでしょう。それともあなたは橙を、疲れきった顔で出迎えて、何も知らないあの子を不安にさせる気?」
藍の見るところ、紫の瞳が月兎のように真っ赤に充血しきっている。それに加えて、
「紫様、目の隈がすごいことになってますよ」まさに、狸もかくや、という隈の濃さであった。
「あらやだ。私にも術式を施さないと」いつの間にやら手に取っていた手鏡で、素早く自分の顔色を確認した紫は、そういって手近なスキマ空間に自分の顔を突っ込む。
しばらくして顔を元に戻すと、彼女の表情には、疲労の色は全く感じさせない顔色になっていた。
「どう?」
ニッコリと微笑む藍の主。
その様子を見ても、藍の表情は冴えない。
「その術は目の隈を消せても、肝心の疲労は消せないじゃないですか」
その言葉を、紫は何を今更、といった顔で受け止めた。
「皆はわたしのことを幻想郷の管理者、と呼んでいるわ。でもね。私はそれと同じくらい自分のことを、少女、と自認しているのよ」
そうなのだ。
藍の主は、自分の仕事をしているときの表情を、他者に、特に博麗の巫女などに見られることをとても嫌がっているのだ。
自分の疲れ切った顔を、好意を寄せている相手に見せることなど言語道断、とでも言うかのように。
彼女のそんな性格もあってか、幻想郷一般では、紫と仕事はかけ離れたイメージの言語形態として通用している。
紫は腕を組み、少しの間考え込んだ後、
「わかったわ。とりあえず、今できてるパッチを当てるから。それで対応なさい」
「了解しました」
「現状でも、霊夢と魔理沙、あと早苗とかなら大丈夫でしょう。ただし、咲夜は決して新参の連中と弾幕ごっこさせないこと。これは絶対よ」
「この藍、全力を尽くす所存です」
「魔界での時空同期の不調がちょっと気になるけど、霊夢だって無闇に魔界などには行かないでしょう」
3
「紫様!」
五日後、慌てて同じ部屋に駆け込んできた藍に対し、紫は疲労の色をそれはもう色濃く見せながらも、微笑んで見せる程度の体力は堅持できていた。
「あら、藍。丁度、咲夜の犬耳問題が解決したわ。でも、そのかわり、同じ条件下では彼女の語尾に『にゃん』がつく可能性が高いけど」
「それはそうと、魔界との空間同期の問題はどうなっているでしょうか?」
「ああ、そっち? 今って、幻想郷は宝船の話題で持ち切りじゃない? だから、人の行き来がなさそうな、魔界関係は後回しにしているわ」
「実は、あの宝船ですが。内部が、魔界とつながっているらしく」
紫が着ている衣服が、肩からわずかにずれる。
藍は思わず土下座した。主人の目をまともに見られなくなったのだ。
「申し訳ありません。私の調査が行き届かないばかりに!」
紫はというと、ふらふらと歩み寄り、手を差しのばして藍を立ち上がらせた。
「……霊夢達は、まだ内部に到達してないの?」
「はい、幸運なことに。ですが、彼女達が侵入を果たすのも時間の問題です」
今度こそ、がっくりとうなだれる。
紫は、藍にも聞こえるか聞こえないかといった、かすれた声で囁いた。
「分かったわ……とりあえず藍、ちょっと外界へ行ってリアルゴールドとマックスコーヒーを三ダース程まとめ買いしてきてちょうだい」
藍は無言で頷く。
「あと、咲夜は絶対に、今回の弾幕ごっこに参加させちゃ駄目よ」
「分かっています」
(咲夜、今日の紅茶の銘柄は何かしら?)
(はいお嬢様、今宵は特級のダージリンでございますニャン)
(え、さくや、いまなんて……)
(私としたことが変な口調を……にゃん)
このようなやりとりの後、紅魔館の主の鼻腔でちょっとした紅霧異変が起こるであろう事は藍にも容易に想像することができた。
「それと多分、何かしら結界が変なことになるから、その辺の補修もしっかりね」
「万事、この藍にお任せください!」
一礼をして部屋を辞した藍は。この、誰も知らない、誰にも知られてはいけない闘いに向けて、決意を新たにするのだった。「私がやるしかない……!」
4
一ヶ月後、幻想郷では命蓮寺という名の寺が、無事に建立していた。
結界の中に新しく来た寺の連中も、大事もなく幻想郷の皆に溶け込んでいる様子である。
その日、台所にて朝食を用意していた藍は、ここずっと閉じられっぱなしだった襖が開く気配を感じた。
割烹着姿のまま、とるものもとりあえず、現場に走る。
はたしてそこには、幽鬼のような表情で立ち尽くす主の姿があった。
「紫様!」
「パッチは完成。追加術式の大結界への組み込みも、すべて無事終了したわ」
「お疲れ様で、御座います――!」
万感の思いと幾千の感謝の言葉があったが、藍は、実際にはこれしか口に出せなかった。
「でも、もう無理。というか、限界」
「はい」
うんうん、と藍は頷いた。
「とりあえず雪を、いつものように幻想郷中に降らせたから。問題児達もそうそう変な行動を起こさないでしょ」
「あとのことは、私にお任せください」
「お願いね――」
「はい……」
「じゃ、寝る」
そういった直後、紫は意識を失い、床に倒れ込んだ。
彼女の意識は、既にここにない。
藍は、愛おしそうに彼女の身体を抱え上げると、静かに布団のある部屋へと移動し始めた。
「藍さま、おはようございます!」
橙の声だ。彼女は毎日、マヨヒガから藍の作る朝食を食べにこの時間にくるのだった。
「おはよう。朝ご飯はもうちょっとでできるよ。先に居間で待ってなさい」
合わせ味噌で仕立てた味噌汁の味を見る。よし、今日も上手くできた。
紫様の好みよりはやや薄味だが。あえて言わなければ誰も気がつかないだろう。肝心の紫様は当分食べない事でもあるし。
ちゃぶ台のまえでちょこんと座っている橙の前に、藍は御飯茶碗と味噌汁を配膳していく。
頂きます、と勢いよく言った橙の目に、隣の部屋で布団をかぶっている紫の姿が写った。
「あれ、ゆかりさまってば。今日は御屋敷にいるのに、ゆかりさまはやっぱり冬眠してるや。ゆかりさまって、なんで雪がふると決まって冬眠するんだろう?」
藍は橙に気がつかれないようにそっと吹き出し、微笑んだ。
「さあ、なんでだろうね」
紫は寝ている。
太陽が今にも地平線に沈もうとしている頃。
僅かに地平にへばりついたそれは、人里全体と、空高くに浮遊する宝船を紅く染め上げていた。
「おや、そこにいるのは早苗じゃないか。こんなところで会うとは奇遇だな」
そう、商店街の一角で東風谷早苗に話しかけたのは、八雲藍だった。
「こんにちは」
そう挨拶してきた藍に、つられて早苗も挨拶を返す。
だが、早苗の方こそ、藍とこのような場所で遭遇することに意外な気持ちを抱いた。
早苗は人間である。
彼女は今、ネギの頭を覗かせた買い物袋を持って、豆腐屋の店頭に並べられた商品を吟味していた。買い物中であった。
だから、彼女が人里に出現しても不思議はない。
しかし八雲藍は妖獣だ。人類とは、あまり友好的にある種ではない。
それに、彼女が今手にしている物は、早苗には何かの測量器具に見えた。
どう見ても買い物客には見えないのだ。
もしもこの式が人里に危害を加えるつもりならば、私が阻止しなければいけない。
だけど、豆腐屋の店主なども、藍の姿を見ても平然としている辺り、どうも違うようだ。
早苗は思いきって質問する。
「藍さんは、人里に何の用ですか?」
藍は、
「ああ、仕事だよ」と微笑んだ。
「それより、早苗はこの豆腐屋に用か? ここの油揚げは逸品だぞ。外界にだってここのにかなう物は無いだろうな」
「いえ、私は豆腐を買いに」
「そうか。でも豆腐だって美味しいよ。なあ、おやっさん!」
そう呼ばれた豆腐屋の店主は、うれしそうに言った。
「ええ、藍様にはいつも御贔屓にして頂いてますぜ」
「その割には、どんなに大量に買っても、少しも値引きしてくれないのが玉に瑕だがね」
「あいたたた、これは厳しい!」
「おや、もうこんな時間か。私はこれで失礼する」
そうやって藍は早苗と、苦笑する店主にお辞儀をして飛び去った。
「守矢の巫女様は、いつものでよろしいんですかい?」
店主にそういわれて、早苗ははっと我に返る。いつの間にか、藍の飛行する姿に見とれていたのだった。
「ええ、それを二丁お願いしますね」
「はいよっ」
店主は威勢良く答え、早苗が飛行して帰っても崩れないよう、高野豆腐を丁寧に包み始めた。
早苗は、がま口から小銭を取り出しつつも、首を傾げた。
「藍さんのお仕事って何だろう?」
包み終えた店主は、早苗に豆腐を渡しながら、
「ありゃま。早苗様は幻想郷縁起、読んでねえのかい? 稗田の阿求ちゃんが書いてる」
「ええ」
「藍様は変な測量器具見たいなの持ってただろ? あれで結界を調べて、修復してるらしいんですわ。ええと、ナントカ大結界とかいうやつ」
「博麗大結界ですか?」
「ああ、それそれ。藍様はそれで毎日幻想郷中を駆け巡っているみたいですぜ。ありがたいこって」
「そうなんですか」
しかし、藍は紫の式のはずである。早苗の知る限り、主人である紫がそのような事をしたという話は聞かない。
彼女は一体何をやっているのだろうか?
早苗はふと、疑問に思った。
2
藍が主の屋敷に帰還したのは、日が暮れた後のことだった。
この時間ではもう、橙はマヨヒガに帰ってしまったあとだろう。
彼女は主の居るであろう部屋に行き、自らの帰還を告げた。
「紫様、ただいま帰りました」
「ご苦労様。入りなさい」
許可がない限り、決して開くことのない襖が音もなく動く。
その先は、橙ですら見たことのない紫の仕事部屋であった。
今の紫は帽子をかぶらず、髪を頭のすぐ後ろで一つにまとめている。
仕事をしているときだけこの髪型をするのだが、彼女のこの姿を見たことのある者は、藍を除いては白玉楼の主くらいしかいない。
「で、どうだった?」
紫はとある空間を一心に見つめている。真剣そのものの表情で、帰ってきた藍へは振り向きもせずに話しかけた。
部屋は明かりがない為にとても暗く、多数に開いているスキマ空間の向こう側から、怪しい紫色の光が、青白い紫の顔を下方から照らしていた。
「やはり、現行結界の保守強化のみの対応では無理があります」
「具体的には?」
「おそらく、三日以内に幻想郷内で何かしらの歪みが」
「そう。やはりこの対応パッチをあてないと、幻想郷の維持は困難、か」
「はい、それに、魔理沙の好奇心をそれとなく抑制する事にも限界があります。これ以上は、あの宝船への探求心を押さえ切れそうにありません」
人里でも、道行く人の話はあの空飛ぶ船のことで持ち切りなのを藍は知っている。
「でもね、藍。さっきようやく、スキマ空間での結合テストが終わったのだけれど。パッチにバグがあったわ」
「え? 単体テストでは問題無かったはずですが?」
「そのあと、緊急に術式を付け加えたでしょ。例の、ナズーリン問題で」
藍はそっとため息をつく。
「それでは、パッチ完成はまだ先ということに……」
「ええ、一番厄介そうなのは、咲夜が新参の面子と弾幕ごっこをすると、彼女に犬耳が生えてしまう現象。後は、なぜか魔界との空間同期がやたら不安定になる問題がある程度ね」
「また咲夜に関する身体変化系のバグですか」
「そうなの、不思議よね。彼女の能力が時空に関係してるからかしら? そんなにヤワな次元の結界では無いのだけれど」
確かにそうだ。と、藍は頷いた。藍は、今の幻想郷では二番目に博麗大結界に精通している存在であった。
「なるほど。で、いつ頃完成しそうですか?」
「そうね、ざっと一週間」
「そんなに!」
紫は悪びれたように頬を引っ掻く。
「で、すめばいいなあ、と……」
「……」
藍は目頭を押さえる。このままでは間に合わない。
「いっそのこと、最終テストを省略したらいかがでしょうか。そうすれば五日は短縮できます」
紫は頭を振る。
「駄目よ。紅霧異変後対応パッチの失敗を忘れたの?」
実は紅霧異変直後に、深刻な問題が大結界について発生していたのだった。
それは、ともすれば結界そのものが崩壊しそうな深刻なものであり、かつ緊急に改修をおこなう必要があった為、そのときは三つ行うべきテストのうち、最後のテストを行わないまま追加術式を博麗大結界に組み込んだのだった。
結果から言えば、大結界は守られたものの、幻想郷内でバグが生じてしまった。
魔界が二つに増え、夢幻館という名の館が消滅し、とある人間の胸囲が激しく変動した。
とりあえずの策として、関係者の記憶を改竄したものの。結局そういった諸々の悪影響について、八雲家は今の今まで根本的な解決策を見いだすことはできていなかった。
「ならば、私も術式の構築に参加します」
「それも却下よ。今の貴方に対して、術式構築の進行状況を連携する時間すらも惜しいわ」
「ですが、紫様。貴方はもうかれこれ二ヶ月近くも、一日二時間くらいしか寝てないじゃないですか」
しかも、この一週間は完全に徹夜のようである。それに比べて藍は、紫の指示とは言え、毎日通常通りに睡眠をとっていた。
「ですが、今のままでは、あまりに――」
「結界術式の保守の複雑さは私もよく知っているわ。あの作業に、寝ぼけた頭の者を使わすほど私は間抜けじゃない。それに」
ここにきて、初めて紫は藍の方へ顔を向ける。藍は絶句した。
「橙はいつも貴方が作る朝御飯を楽しみにしているのよ。貴方は毎朝、彼女を笑顔で迎えるという尊い仕事があるでしょう。それともあなたは橙を、疲れきった顔で出迎えて、何も知らないあの子を不安にさせる気?」
藍の見るところ、紫の瞳が月兎のように真っ赤に充血しきっている。それに加えて、
「紫様、目の隈がすごいことになってますよ」まさに、狸もかくや、という隈の濃さであった。
「あらやだ。私にも術式を施さないと」いつの間にやら手に取っていた手鏡で、素早く自分の顔色を確認した紫は、そういって手近なスキマ空間に自分の顔を突っ込む。
しばらくして顔を元に戻すと、彼女の表情には、疲労の色は全く感じさせない顔色になっていた。
「どう?」
ニッコリと微笑む藍の主。
その様子を見ても、藍の表情は冴えない。
「その術は目の隈を消せても、肝心の疲労は消せないじゃないですか」
その言葉を、紫は何を今更、といった顔で受け止めた。
「皆はわたしのことを幻想郷の管理者、と呼んでいるわ。でもね。私はそれと同じくらい自分のことを、少女、と自認しているのよ」
そうなのだ。
藍の主は、自分の仕事をしているときの表情を、他者に、特に博麗の巫女などに見られることをとても嫌がっているのだ。
自分の疲れ切った顔を、好意を寄せている相手に見せることなど言語道断、とでも言うかのように。
彼女のそんな性格もあってか、幻想郷一般では、紫と仕事はかけ離れたイメージの言語形態として通用している。
紫は腕を組み、少しの間考え込んだ後、
「わかったわ。とりあえず、今できてるパッチを当てるから。それで対応なさい」
「了解しました」
「現状でも、霊夢と魔理沙、あと早苗とかなら大丈夫でしょう。ただし、咲夜は決して新参の連中と弾幕ごっこさせないこと。これは絶対よ」
「この藍、全力を尽くす所存です」
「魔界での時空同期の不調がちょっと気になるけど、霊夢だって無闇に魔界などには行かないでしょう」
3
「紫様!」
五日後、慌てて同じ部屋に駆け込んできた藍に対し、紫は疲労の色をそれはもう色濃く見せながらも、微笑んで見せる程度の体力は堅持できていた。
「あら、藍。丁度、咲夜の犬耳問題が解決したわ。でも、そのかわり、同じ条件下では彼女の語尾に『にゃん』がつく可能性が高いけど」
「それはそうと、魔界との空間同期の問題はどうなっているでしょうか?」
「ああ、そっち? 今って、幻想郷は宝船の話題で持ち切りじゃない? だから、人の行き来がなさそうな、魔界関係は後回しにしているわ」
「実は、あの宝船ですが。内部が、魔界とつながっているらしく」
紫が着ている衣服が、肩からわずかにずれる。
藍は思わず土下座した。主人の目をまともに見られなくなったのだ。
「申し訳ありません。私の調査が行き届かないばかりに!」
紫はというと、ふらふらと歩み寄り、手を差しのばして藍を立ち上がらせた。
「……霊夢達は、まだ内部に到達してないの?」
「はい、幸運なことに。ですが、彼女達が侵入を果たすのも時間の問題です」
今度こそ、がっくりとうなだれる。
紫は、藍にも聞こえるか聞こえないかといった、かすれた声で囁いた。
「分かったわ……とりあえず藍、ちょっと外界へ行ってリアルゴールドとマックスコーヒーを三ダース程まとめ買いしてきてちょうだい」
藍は無言で頷く。
「あと、咲夜は絶対に、今回の弾幕ごっこに参加させちゃ駄目よ」
「分かっています」
(咲夜、今日の紅茶の銘柄は何かしら?)
(はいお嬢様、今宵は特級のダージリンでございますニャン)
(え、さくや、いまなんて……)
(私としたことが変な口調を……にゃん)
このようなやりとりの後、紅魔館の主の鼻腔でちょっとした紅霧異変が起こるであろう事は藍にも容易に想像することができた。
「それと多分、何かしら結界が変なことになるから、その辺の補修もしっかりね」
「万事、この藍にお任せください!」
一礼をして部屋を辞した藍は。この、誰も知らない、誰にも知られてはいけない闘いに向けて、決意を新たにするのだった。「私がやるしかない……!」
4
一ヶ月後、幻想郷では命蓮寺という名の寺が、無事に建立していた。
結界の中に新しく来た寺の連中も、大事もなく幻想郷の皆に溶け込んでいる様子である。
その日、台所にて朝食を用意していた藍は、ここずっと閉じられっぱなしだった襖が開く気配を感じた。
割烹着姿のまま、とるものもとりあえず、現場に走る。
はたしてそこには、幽鬼のような表情で立ち尽くす主の姿があった。
「紫様!」
「パッチは完成。追加術式の大結界への組み込みも、すべて無事終了したわ」
「お疲れ様で、御座います――!」
万感の思いと幾千の感謝の言葉があったが、藍は、実際にはこれしか口に出せなかった。
「でも、もう無理。というか、限界」
「はい」
うんうん、と藍は頷いた。
「とりあえず雪を、いつものように幻想郷中に降らせたから。問題児達もそうそう変な行動を起こさないでしょ」
「あとのことは、私にお任せください」
「お願いね――」
「はい……」
「じゃ、寝る」
そういった直後、紫は意識を失い、床に倒れ込んだ。
彼女の意識は、既にここにない。
藍は、愛おしそうに彼女の身体を抱え上げると、静かに布団のある部屋へと移動し始めた。
「藍さま、おはようございます!」
橙の声だ。彼女は毎日、マヨヒガから藍の作る朝食を食べにこの時間にくるのだった。
「おはよう。朝ご飯はもうちょっとでできるよ。先に居間で待ってなさい」
合わせ味噌で仕立てた味噌汁の味を見る。よし、今日も上手くできた。
紫様の好みよりはやや薄味だが。あえて言わなければ誰も気がつかないだろう。肝心の紫様は当分食べない事でもあるし。
ちゃぶ台のまえでちょこんと座っている橙の前に、藍は御飯茶碗と味噌汁を配膳していく。
頂きます、と勢いよく言った橙の目に、隣の部屋で布団をかぶっている紫の姿が写った。
「あれ、ゆかりさまってば。今日は御屋敷にいるのに、ゆかりさまはやっぱり冬眠してるや。ゆかりさまって、なんで雪がふると決まって冬眠するんだろう?」
藍は橙に気がつかれないようにそっと吹き出し、微笑んだ。
「さあ、なんでだろうね」
紫は寝ている。
思いのほかギャグではなかった。が良い
誤字報告ありがとうございます。
>豆腐屋に様か?
やべえ、様か用かで悩んだ末に様にした記憶がうっすらと……
俺ヤバくね?
誤字の訂正についてですが、色々と私の健康度を高めてから直させてもう事とします。今なおすと多分確実に訂正漏れが発生すると思うし。
その間、お見苦しい文を載せてしまって大変申し訳ないです。
あとがきがw
バグで、人間の胸囲が激しく変動した。
誰のことですかwwww
うわああああああああ
デスマーチの悪夢がああああ
デスマ経験してる人には鬱になりそうなSSだ・・・
わかります。
>やかりさま
誰?
>咲夜の犬耳問題が解決したわ。でも、そのかわり、同じ条件下では彼女の語尾に『にゃん』がつく可能性が
違う状況下なのに現象が起きてますが?
>魔界が二つに増え
?
あくまで星蓮船での魔界は怪綺談での魔界の一部分(つまり同じ魔界)の筈ですが?
>違う状況下なのに現象が
あの場面は藍の危惧した想像。
>星蓮船での魔界は怪綺談での魔界の一部分
二つに増えそうだった魔界を、そういう形で一つに纏めたのが、紫のパッチだったって事でしょ。
仕事してるゆかりんはいいよね。それをひた隠しにするゆかりんもいいよね。
起きるエラーの内容が果てしなく馬鹿馬鹿しくて笑いました。リアル犬咲夜自重もいいけど、語尾が「にゃん」の咲夜もいいですね。
冬眠にしろ一日12時間以上の睡眠にしろ、それ相応のエネルギーの消費を意味してるんでしょうねぇ。
それにしても結界ww
お疲れさま、ゆかりん。
しかしこれは捨て置けねえなあ!