思えば最後に家から足を踏み出したのはいつ頃だったろうか。窓の外を覗くことくらいはたまにやっていたので、少し前に初雪が降ったらしいことは知っていたが、よもやここまで積もっているとは思っていなかった。籠る事前に、雪かきの必要が無いようにと家の周辺や屋根にいろいろと魔法を施しておいたのは正解だったのだとしみじみ思う。そうでなければ今頃は雪の重みで屋根が崩れていたか、ドアが開かなくなっていたかという状況に陥っていただろう。
アリスの膝下辺りまで積もった雪は、見渡す限りの範囲では汚れること無く純白を保っているようだった。こんな辺境の地にまで足を踏み入れるような物好きはほとんどいないだろうから、当たり前かもしれない。まだ凍ってはいないらしいその雪の上を、アリスはしばらくの間履いていなかった編み上げブーツで踏みしめてゆく。飛んでいっても良いのだが、なんとなく歩きたい気分だった。雪の上を歩くのなんて随分と久しい。
「にしても、今日は晴れてくれて良かったわ。さすがに吹雪の中をわざわざ行く気にはなれないものね」
きんと透き通った空を見上げながらそう呟くと、アリスの肩の上辺りを滑るように飛んでいた上海が、同調するようにうんうんと頷いてみせた。上海は小さな身体に似つかわしくない大きなバスケットを抱えている。アリスがいつも人里へ買い出しに行く時に使っているものだ。
さくさくと軽い音が、これまた白い木立の中に反響することもなく消えてゆく。雪が降ってはいないとはいえ時期相応に寒いが、アリスはいつもの服装に薄いマフラーを巻いただけという軽装だ。自分周辺の空気の温度を変化させることくらいは魔法使いにとっては簡単な上に、アリスはあまり暑い寒いに敏感な方ではなかった。生まれ持った身体ではなく貰い受けた身体なのだから仕方が無いのかもしれない。別に今のままでも不自由はしないから良いとしても、その割に舌や指先が鋭敏だったり器用だったりするのは何故だかよく分からないのだが。
便利と言えば便利な身体よね、とアリスは胸の中で小さく独りごちた。おそらく神綺なりの心遣いのつもりなのだろう。神綺の手元に居た頃から、自分は人形作りや菓子作りを好んでいたから。
(会いたいな)
創造主であり母である彼女の顔や、青くもなければ銀色でもない方のメイドの顔を思い浮かべていたら、ふとそんな言葉が頭をよぎったことにアリスは少しだけ驚いた。とは言っても表情を変えたわけではないので、外から見ればそうとは分からないのだろうが。
自分が誰かに会いたいだなんて思うのは、こう言っては何だがなかなかに珍しい。けれども思えば幻想郷へ来て以来、彼女達とは顔を合わせていない。もう十年近くになるのだろうか。その十年で互いに何が変わったというわけでもないだろうから、年数にあまり意味は無いのかもしれないが。
幻想郷にいる方の昔からの知り合いの顔も浮かんできたが、生憎とアリスは少しばかり彼女のことが苦手だったので、早々と脳内から消し去った。嫌いではないが出来れば顔を合わせたくはない相手である。昔から、彼女の側にいると何かろくでもない目に遭わされるのだ。もしかしたら意図的にそうしているのかもしれない。
(まあ、花のある所に行くわけでもなし。大丈夫よね)
そう内心で呟いてから、アリスは今度こそ彼女の顔をさっぱりと忘れることにした。魔法使いの類に漏れず出不精の気があるとはいえ、久々の買い出しはなるべくなら楽しい気分で済ませたい。一ヶ月半をかけて制作した新作の人形も、ようやっと昨夜完成したのだから、きっと悪いことは起こらないはず。今日は夕食を済ませたら、作り溜めていた菓子でも手土産に久々に神社にでも行ってみようか。ただ何ぶん、そのためには夕飯の食料の調達が第一なのだ。パンと調味料と紅茶だけではまともな食事は作れない。
もうすぐ魔法の森を抜ける。この時のアリスはまだ、珍しく楽観的だった。
▽
往々にして、悪い予感は当たるものである。
「……どうして人里なんかにいるのよ」
不快感を隠そうともせず渋い表情を作るアリスを見ても、風見幽香は気分を害したふうもないようだった。むしろ持参の日傘をくるくると回して、愉快そうに口の端をきゅっと持ち上げて笑う。
「私の前だといつも貴女はそんな顔ね。普段は人形みたいにつんとすましてる癖に」
「普段じゃなくて、害のない相手の前だけよ」
そう答えながら、アリスは自らの迂闊さを呪いたい気分になっていた。思えば人里ともなれば当然のように多くの店が並んでいるわけで、その中にはもちろん花屋もあるわけで、そして野生の花が咲かない時分、退屈さを紛らわそうと花の妖怪がその店を訪れている可能性だって十二分にあったわけで----------ともかく、それでも最低限の買物だけを済ませて、さっさと家路に着いていれば会うことはなかっただろうに。久しぶりなのだから少しくらい寄り道をしようだなんて、目的もなくふらふらと里を歩いていたのがいけなかったのだ。
アリスと幽香の二人の間にはおよそ五尺ほどの距離が開いていて、回りには誰もいない。会話をするにしては中途半端な距離だが、アリスはこれ以上この間隔を詰める気には到底なれなかった。もし幽香が一歩踏み出して来ようものなら後ずさることも厭わない所存である。
見たところ幽香は気配を抑えているようだが、ひょっとすると里の人間や暇な妖怪が近付いてこないように何らかの仕掛けを施しているのかもしれない。冬場には珍しい晴れた日とあって人通りはそれなりに多いはずなのに、誰も二人の付近を通ろうとはしないからだ。それとももしかして、人間達は自分達の里に人外の存在を感じて無意識の内にそれを避けようとしているのかもしれなかった。こちらにしてみればこう見えても、そこまで妖怪じみてはいないつもりではいるが。
幽香は上海のぶら下げているバスケットの中身をちらりと一瞥して、随分買い込んだのねえと呟いた。そうは言っても、少なくとも冬が終わる頃までは次の買い出しには出ないつもりだから、それを考えると少なすぎるくらいなのだが。
「今夜はオニオングラタンスープ? その割にはパンが無いけれど」
「生憎、パンは家にあるのよ。堅くならないうちにさっさと帰らせてくれないかしら?」
「無粋ね。昔からの知人とのお喋りする時間くらいは常に取っておくものよ」
知人ねえと捻くれた口調でこぼして、アリスは気付かれないように小さく溜め息を吐いた。総じて強い妖怪が苦手なアリスは、中でもこの妖怪のことが一番苦手であった。いや、あの隙間妖怪も結構良い線を行っているが、あちらは多少のちょっかいをかけてきても黙ってさえいえば無害なのだから別にいい。問題は目の前の妖怪の方。まだ魔界に住んでいた頃、この妖怪に酷い目に遭わされた時の記憶はまだまだ鮮明だ。
花なら花らしく淑やかにしていれば良いのに、上品なのは見かけだけで中身があれなのだから質が悪い。そんなアリスの心情を知ってか知らずか、幽香は余裕さを漂わせながらゆったりと笑ってみせた。
「怖ぁい顔。別にこんな往来の真ん中で何をしようとも思ってないわよ?」
そこまで胡散臭いというわけではない彼女の言葉がいまひとつ信じられないのは、自分が彼女に対しての信頼というものを決定的に欠いているからだとアリスは思う。とはいえ彼女の言う通り、ここのような人間が多い場所で一悶着起こした所で報いを受けるのは幽香の方なのだ。顔見知り相手とは言え、霊夢は規律を破った相手を見過ごすようなことはしない。この妖怪は頭が切れるから、それを承知で何かしてくるようなことはないだろう。冷静に考えればそんな結論は簡単に出てくるはずなのに、それでも自分が幽香に近付きたくないのは単なる条件反射に過ぎないに違いない。刷り込みをかけられた雛鳥の気分だ。
まあ、どうせただの世間話として終わるのだろうから、わざわざ再会を憂慮することもないだろう。引き蘢るのをやめてから初めてまともな会話を交わすとしては、あまり適していないような気もするけれど。
「てっきり冬場は冬眠でもしてると思ってたのに」
「どこぞの隙間でもないし、そんなことしないわよ。花が咲かなくてつまらない時期ではあるけれど」
「だから人里まで来て花を見てるの? 人間達も大変ね。第一、咲かせようと思えば貴女なら咲かせられるんでしょう」
「まあねえ。でも疲れるから嫌よ。第一、こんな時期じゃあどうしようもないでしょう。満足に水も吸えない、光も浴びられないような状況で、無理矢理咲かせても可哀想なだけだわ。あの子達も気の毒に」
最後の台詞を口にした時、幽香の視線は少しばかり離れた位置にある花屋へと向けられていた。妙齢の娘が店先に立ち、通りすがる里人達と時たま笑顔で会話を交わしている。そこまで五感に優れているわけでもないアリスには会話の内容までは聞き取れない。どちらにしろ幽香が指しているのはその娘ではなく、所狭しと並べられている花々の方なのだろうけど。
幽香の言うことはもっともなのだが、ではなぜ彼女自身は寒さに弱くないのだろうとアリスは小さく首を傾げた。アリスが言える立場でもないが、幽香の見てくれは普段と全く変わらない。アリスのように気温を操れるわけでもないだろうに、夏場と同じ出で立ちをしている彼女は人間の中に混ざるとだいぶ浮いて見える。
「ああそうだ、忘れてたわ」
思索に耽っていたアリスの前で、幽香は何かに気が付いたように表情を変えた。そう日差しが強いわけでもないのに持ち歩いていた白い日傘を畳むと、その先端で軽く足下の雪を叩く。何をするつもりかとうろんげにそれを見ていたアリスは、一寸置いて自分の足下から何かがにょきにょきと生えてきていることに気付いて慌てて一歩下がった。
「……花?」
膝辺りの丈まで伸びて止まったそれを見て、アリスは眉を顰めて不可解な表情を作る。細長い茎に奇妙な形をした白い花弁を付けたその花を、アリスは知らない。魔法に使うようなもの以外、あまり植物には明るくないのだ。アリスの驚いた顔が見られたことが愉快だったのか、幽香はくつくつと声を立てずに笑った。
「飾っておくのが一番賢明ね。お菓子にも紅茶にも向かないから」
「じゃあもう少しお茶に向いた花にしてくれれば良かったのに」
そう文句を言いながら、アリスは雪で濡れないようにとスカートを折り畳んでしゃがみ込んだ。目の高さより少し下にある花弁を眺めながら、おそるおそる手で触れてみる。手触りは何ということもないただの花だが、いかんせん形が変だ。細い切れ込みが幾多にも入った花弁を広げているその形は何かに似ているような気もしたが、どうにも思い出せない。
「何ていう花、これ」
「教えない。本当は、そのうち家にでも持って行くつもりだったんだけど」
「家に来るつもりだったの?」
それは勘弁してほしいなあと露骨に顔をしかめたアリスに、「冗談よ」とさらりと幽香は言ってのけた。本当に冗談なのかどうかは信用出来ないが。そもそも家に来られたりなんかしたら正式な客としてもてなさなくてはならないのだから、本気で勘弁してほしい。第一彼女はどうしてこっちの家の場所を知っているというのだろう。招いたことなど一度もなかったはずなのだが。
しばらくの間アリスは不自然に一輪だけ咲いたその花を見つめていたが、ぽん、という軽い音がしたために顔を上げてそちらを見た。閉じられていた幽香の日傘が先程までのように開かれて、彼女の足下に影を作り出している。もう帰るつもりなのか、アリスの方へ向けていた身体の向きを少しばかり傾けていた。
「もう用も終えたし、帰るわ。まだちょっと早いけど、まあ如月には違いないし良いわよね」
「意味が分からない。それに、無理矢理咲かせるようなことはしないんじゃなかったの?」
「たまには例外もあるわ。それ、すぐには枯れないように咲かせてあるしね」
「何でそんな、」
アリスがそう言い掛けた頃には、幽香は既にふいと向こうへ歩き出してしまっていた。その足取りは早くも遅くもない。
さようならも何も言わずに急に踵を返した彼女に少々面食らって、「ちょっと、幽香?」と声を掛けてみるも、振り返る気はまったくないらしい。妙なことに音も立てず雪の上を歩いていく彼女の姿は、真っ直ぐ歩いているだけのはずなのに自然と割れる人の間を行きながら、やがて通りの中へ消えていった。
昔から掴みどころの無い妖怪ではあったが、ここまで来ると本格的にわけが分からない。結局うるさいとまでは行かずともそれなりに賑やかな往来の中に、アリスと花だけが残された。チェック柄のカーディガンを着た背中を追う気にもなれず、立ち上がったままの姿勢でしばし途方に暮れる。
「……何なのよ、もう」
さすがにここに残していくわけにもいかないので、アリスは少しだけ迷った後に再びしゃがみ込み、花の根元部分を掴んでぷつんと摘み取った。
幽香に知られたら何か言われるかもしれないが、さすがにスコップを調達してまで根から掘り出してやる義理は無いだろう。本人曰く簡単には枯れないらしいから、家に着いたらすぐに水に浸けてやれば問題ないだろうか。どうやって家まで持って帰ろうかと悩んでから、結局食料を入れたバスケットは上海に持たせたままで、自分は花を手にして帰ることにする。
純白の花弁をそっと鼻に近付けてみると、奇天烈な見かけに反して芳しい甘い香りがした。
「これだから強い妖怪は苦手なのよ」
何考えてるか分からないもの----------とアリスが小さく漏らすと、上海は家を出た時と同じように従順に頷いてみせた。その動きがアリスが人形を操る上での選択肢の中にあるものだから、ということを差し引いても悪い心持ちはしない。いつまでもこうしているわけにもいかないのでアリスが立ち上がると、バスケットを抱えた上海がすぐさま近寄ってきて崩れたマフラーを整える。ありがとう、と礼を言ってから、帰りましょうかと今度は自分に向けて独りごちた。歩き出す前に一度、手の中にある細長い茎にちらりと目をやる。
(花の種類は……まあ、明日紅魔館にでも行って調べさせてもらえばいいか)
もしかしたら門番辺りが教えてくれるかもしれないが。アリスはそう考えながら、長らく止めていた足をゆっくりと踏み出した。多くの人間に踏まれて所々黒くなった雪は、それでも変わらず、花一輪分だけ重くなったアリスの体重を受け止める。
それにしても今日の幽香は妙に害が少なかった。いつもこうならありがたいのになあとぼやいて、アリスは変わらずに雪の積もっている帰路を辿ってゆく。
次からはもう少し、雪の中でも歩きやすいようなブーツを履いてこようと反省しながら。
fin.
あと、アリスは紫あたりにも好かれてそう。
トラウマ恐いw
大体は絡む相手が固定されているので、たまにはこういうのも見たくなります。
二次ではアリスは色々なタイプがありますが、自分からは少し距離を置いているけど周りからは自然に接してくる。本当はそんな感じじゃないかと思ってます。
なんか台無しだけど、タイトル見た瞬間「え?『バンゲリング・ベイ?』」って思った。
素敵な幽アリでした。
特別なこと言えないけどそれだけ作品として出来上がってるんだと思う。
素敵な幽香さんです。そしてトラウマかwww
サドっ気のある人に書かれやすい幽香ですが、実際どうなんでしょうね? 長生きした大妖怪だけに、超越した思考の持ち主なんでしょうけれど……
幽香のつかみどころのなさが、アリス視点で描かれることで一段と際立っていました
適度に短くて快適、快適。こんな風に、自分も文章を書きたいものです