瘴気がうっすらと漂う魔法の森がある。そこに、この森によく馴染んでいる黒のスカート、白いブラウスという服装の人間がいた。名前を、霧雨魔理沙という。
魔理沙はキノコ採取にきていた。キノコは魔理沙の実験材料であり、魔法の源である。この濃い瘴気が漂う森で、キノコは生物の想像をはるかに超えた多様性を実現していた。それはこの濃い瘴気のせいなのか、それともまた別の要因なのかは分からなかったが、キノコを研究する魔理沙にとっては絶好の研究場所でもある。
魔理沙はどこかに新種のキノコがいないかと、地面に目を光らせる。少しだけ湿気を含んだ柔らかい腐葉土を踏み歩き、注意深く観察する。そうしていると、枯れた木の根もとにふと目にとまった。そこには土色のキノコが生えており、魔理沙は自然としゃがんでそのキノコに手をかけた。それは大きな笠を持ち、よく見ると土色の中に、ところどころ白い斑点があった。地味な色だが、これは以前に見かけた魔力増大に関係する種の一つだった。
貴重なサンプルだ、と魔理沙は喜びつつ、辺りを探る。近くにまだ何本か生えていないか確認する。残念ながら、辺りには他には何も無かった。
魔理沙は時計を取り出し、時間を確かめる。もうこの森に侵入し一時間ほどが経っていた。瘴気に耐えられる限界の時間だった。魔理沙は急いで空へと飛びあがる。行きは歩いて森の中を進み、帰りは空を飛んで帰る。それがいつもの日課だ。
空に上がると、大きく深呼吸をした。肺の中に溜まっている、瘴気を入れ替える様に大きくゆっくりと息を吐く。薄ら暗い森とは違い、空は雲ひとつな青空だった。冬の終わりかけ、桜がつぼみをつけはじめたこの季節には、魔理沙の格好は少々肌寒い。魔理沙は汗が乾いて、身体が冷えないうちに家へ帰りたいと思いつつ、魔理沙は箒に乗ったまま空を飛んでいく。
家に帰りシャワーを浴びた後、魔理沙は採取したキノコを瓶に保存した。それを戸棚へ入れると、レポートをつける。森のどの辺にあり、どんな環境だったか、キノコの大きさ、感触など採取した状況を事細かに記録する。こうして集めた資料は、かなりの枚数に達していた。厚さにして、魔理沙の身長の半分ほどある。まとめて本にすれば、多少は場所を取らないだろうが、元より需要の少ない研究分野、というよりは魔法使いは基本的に研究分野が異なるのでキノコの研究など魔理沙ぐらいしかやっていない事もあり、魔理沙はさらさら本にする気もなかった。
こうして午前中が過ぎていく。麦飯と椎茸の味噌汁、金平ゴボウという簡単な昼食を取ったあと、魔理沙は博麗神社へ出かけた。目的は、午後の暇つぶしと、お茶菓子目当てだ。
「何、また来たの?」
神社の巫女、博麗霊夢は魔理沙をちらりと目にすると、いきなり毒を吐く。それに微笑みながら魔理沙は神社の境内に降り立った。
「遊びに来たぜ」
「茶菓子を食べに来た?」
「それもある」
霊夢は呆れたように溜め息をつく。魔理沙は境内に置いてある賽銭箱の前に腰かけて、霊夢に話しかける。
「今日も良い天気だな」
「良い天気すぎて、何かが起きそう」
「何かって?」
「異変、みたいな何か」
霊夢は淡々と答える。元から何に対してもあまり興味を持たない霊夢だったが、ここ最近はそれに一層、拍車がかかったような話し方をしていた。
魔理沙は暇つぶしに賽銭箱をのぞきこむ。予想通り、中には何も入っていなかった。それをいじってやろうと、魔理沙が霊夢の方を振り返ると、霊夢は手に新聞を持ち、それをじっと眺めていた。魔理沙も気になって、霊夢の方へ歩み寄る。
「新聞、読めるんだ?」
「新聞くらい読めるわよ」
「何か面白い事が書いてある?」
「予感的中よ。異変ではないけれど」
霊夢が微笑みながら新聞をつきつけてくる。最初は乗り気じゃなかったのに、部屋の掃除を始めてみると楽しくなってきた、というような表情をしている。
「どれどれ……」
魔理沙が覗き込むと、それは文々。新聞の一面だった。そこには大きな美しい字でこう書かれている。
『弾幕最強決定戦のお知らせ』
魔理沙はその記事に心が躍る。
「実に楽しそうなイベントだ。霊夢は」
そこまで言って、霊夢は即答する。
「もちろん出場よ。こんなに妖怪が集まる事なんて滅多にないから、ここで博麗の巫女の力を見せつけてあげないと」
自信気な霊夢を見て、魔理沙は少しだけ疑問に思った。いつもならこんなに張りきらない、いや張りきりはするのだが、霊夢の張りきる、は、外面は面倒くさいと言いつつも、心の内では静かに闘志を燃やすタイプだ。今の霊夢は中も外もアツアツの肉まんのようだった。
「珍しいな、そんなにやる気を出して。何かあったのか?」
「んん、別に」
とぼける様に答える霊夢を見て、魔理沙はますます怪しいと感じた。霊夢の手から新聞を取り上げ、よく読んでみる。すると、下の方に賞金あり、と書かれていた。参加費を集めて、その参加費を優勝者の賞金とする、と書いてある。
「現金な奴だなあ」
魔理沙がぽつりと独り言を言うと、霊夢は何食わぬ顔で魔理沙に話しかける。
「あら、これは妖怪の皆が博麗神社に賽銭を入れてくれたのと一緒なの。だから、私は賽銭を回収するため、この大会に出るのよ」
「うへえ、何と言う屁理屈。でも、この大会、私が出場するから、その考え方はおかしいな」
「どういうこと?」
挑発的に微笑む霊夢に、魔理沙も挑発的な笑顔で応えた。
「優勝するのは、この私だ」
この大会を提案したのは、紅魔館のレミリアスカーレットだった。取材に来ていた文に対し、地底の妖怪や命蓮寺の妖怪の実力を見てみたい、という希望があったらしい。その時はこんなイベントなど全く考えず、ただ言ってみただけという事らしかった。
「そうですね、幻想郷の妖怪の交流も含めて、やってみるのもいいかもしれません」
文は新聞のネタのために、この提案を守屋神社の神様に吹っ掛けてみた。
「面白い。やろう」
ここ最近の騒動の中心である、守屋神社の神、神奈子らしい素早い決断だったと言える。こうしてトントン拍子に話は進み、守屋神社主催、舞台は紅魔館という奇妙な大会が行われる事となった。紅魔館の住人は参加費免除の代わりに場所を提供した。
文は号外を出し、幻想郷中にこの事を宣伝した。
ある者は自分が優勝して皆を驚かすために。
ある者は花が咲くまでの暇つぶしに。
ある者は地上の解放感に浸りたくて。
ある者は永遠のひと時を華やかに過ごすために。
ある者はその賞金で美味しい物をたくさん食べるために。
たくさんの参加者が、様々な想いを胸に抱きこの祭りに参加した。近年稀に見るこのように大規模な祭りに、妖怪たちは胸を高鳴らせた。
大会は満月の夜、トーナメント方式で行われる事になった。それは、魔理沙や霊夢が大会の存在を知った、二週間後だった。
「当日参加か。大雑把な事務だな」
「紅魔館らしい、といえばらしいわね」
そんな事を言いつつ、霊夢と魔理沙は神社の縁側に腰かけ、お茶を楽しんでいた。
魔理沙は口に出して優勝する、と言ったものの心の中では力不足を実感していた。多分、このままでは優勝は難しいだろう。
そんな事を思いつつ、霊夢に尋ねる。
「霊夢は修行しないのか? いくら博麗の巫女でも、全く何もしないと負けるかもしれないぜ」
「気が向いたら」
お茶を飲みながら、霊夢は素っ気なく答える。霊夢は誰かに強制されないと努力をしない。それなのに天性の才能で数々の異変を解決してきた実力者だ。霊夢なら、何もしなくても優勝してしまうかもしれない、と魔理沙は思った。
「そうか、霊夢らしいな」
「そうよ、だいたい遊びに修行なんて必要ないでしょう? 大会っていっても、どうせ宴会とかの延長みたいなものなんだし」
「言われてみれば、そうかもな。妖怪は、戦いの雰囲気に酔いたいだけなのかもしれない」
霊夢はそれに返事はせず、ぼうっと空を見上げていた。魔理沙もつられて空を見上げる。
大会は非常に魅力的だった。弾幕ごっこなら負ける気もあんまりしないし、何より魔理沙自身が楽しいと思える遊びの一つだ。
「お茶、片づけるわね」
「ああ」
魔理沙がそう言うと、霊夢がお盆を拾い上げた。魔理沙は二つの湯呑をその盆の上に置く。
「大丈夫か? 私が運ぼうか?」
魔理沙がそう言うと、霊夢はにっこりと笑って答えた。
「これくらい、どうってことないわよ」
と言ってくるりと背を向けた時に、霊夢がちゃぶ台の足に小指を引っ掛けた。何事も無かったかのような表情で、足だけ引きずって奥へ消えていった霊夢を笑いながら見届けた魔理沙は、再び空を見上げた。
透き通ったこの青い空は、魔理沙のこの心臓の高鳴りを一層高めてくれるように思えた。
魔理沙はとある木造の家の前に来ていた。こぎれいに手入れされたその家は、まるでお伽噺に出てくる人形の家を彷彿とさせる。
目の前の木製の扉をノックする。跳ねるような軽い音を立てて扉が開かれた。
「あら、魔理沙、どうしたの?」
扉をあけて出てきたのはアリスマーガトロイドだった。
「あがっても?」
「いいわよ」
アリスの部屋に入ると、そこにはたくさんの人形が置いてあった。そして、窓際では上海人形が可愛らしく窓を拭いていた。
魔理沙がテーブルにつくと、アリスは紅茶を用意してくれた。ありがとう、と礼を言って紅茶に口をつける。バニラの甘い香りがする、珍しい紅茶だった。
「バニラの香りがする……美味しいな、これ」
「たまたま手に入ったから、買ってみたの」
アリスは謙虚にそう言うと、人形に椅子を引かせ、席に座る。そうして、テーブルに肘をつき、じいっと魔理沙を見つめた。
「それで、今日は何しに来たの?」
「大会の事、知ってるか?」
「ええ、知っているわ。それがどうかしたの?」
「出場しないのか?」
「興味無い」
その淡白な言葉に魔理沙は少し肩透かしを食らった。
「なんだ、出ないのか」
「今は、ね。所詮、あのうるさい神社と吸血鬼の戯れでしょ。付き合ってあげる義理もない」
「だけど、パチュリーや新しくやってきた妖怪も参加するんだぜ。楽しいお祭りになりそうじゃないか」
「私は誰かの用意したステージで踊る事は嫌いなの。踊るんだったら、路上でやるわ」
魔理沙はふうん、と言って紅茶に口をつける。魔理沙としては、またアリスやパチュリーと弾幕ごっこをしてみたい、という望みも少しはあった。ふと窓を見ると、上海人形が一生懸命窓を拭いている。さっきと同じ所をずっと拭いていた。
「じゃあ、修行に付き合ってくれないかな?」
「修行? 魔理沙、優勝する気なの?」
「当然。そのためには、新しい魔法が必要だ。だから付き合って欲しい」
アリスは渋い顔をして、どうしようかと悩んでいた。
「そんな事をするぐらいなら、出場するわよ」
「じゃあ、一緒に出場しよう」
「でも、ね」
「よし、一緒に出るか」
魔理沙は腰にかけた、革のポーチから紙を出す。それは、参加用紙だった。
「さあ」
「さあ、じゃないわよ。誰が出場するって……」
「まあ、そう言わずに。そうだ、魔界からも参加者がいるらしいぜ」
「え? 本当に?」
アリスが一瞬興味を示す。魔理沙はそれを見逃さなかった。
「何せ、これは多分幻想郷始まって以来の盛大な祭りになるからな。その余波に浮かれて、色々な世界から参加者がやってくるのさ」
「そう……でもどうして当日参加で参加者なんか分からないのに、幻想郷始まって以来、なんて言えるの?」
「それは実に簡単な事だ」
魔理沙が胸を張って、威張るように言った。
「私がこうやって参加者を増やしているから、さ」
そうして、ポーチから参加用紙の束を自信気に出した。そこには懐かしい名前も書いてある。
アリスは呆れたような、けれど胸の中に渦巻く好奇心を抑えている、そんな表情を浮かべていた。
「自分でハードルをあげるなんて、どうかしているわね。でも、魔界の連中が参加するのなら、いいかもしれないわ」
アリスは不敵に笑って、参加用紙の白紙の名前欄の所に自分の名前をサインした。
窓を拭いていた、上海人形が今度はテーブルの上の空のティーカップを台所に下げていった。
実に奇妙な話だと、紫は思った。祭りは参加者が多いほど盛り上がる。それは分かるが、あくまで一般参加である魔理沙がわざわざ敵を増やす意味があるのだろうかと。
「優勝する気、あるのかしら?」
神社に顔を見せに行ったついでに、紫は霊夢に尋ねてみた。
「私に聞かないでよ」
「そんなに参加者を集めて、自分の優勝が遠くなるだけなのに」
「魔理沙は自分を追い詰めないと頑張る事が出来ないタイプだからじゃない?」
「それは霊夢、あなたよ」
霊夢はとぼけたように、そうかしら、と呟いた。
「ところで紫は参加するの?」
「もちろんよ。純粋に、お祭りとして楽しむわ」
「よかった、その発言を聞いて、あんたも妖怪だってことが再認識できたわ」
「何を今さら……」
二人で他愛もない会話を繰り広げる。すると噂をしていた魔理沙が現れた。
「お、珍しい。紫がここに居るなんて」
「あら、魔理沙。参加者は集まった?」
魔理沙は照れながら、なんだ知ってたのか、と言った。そうして霊夢の横に腰を下ろす。黒い帽子を膝の上に置いて、視線をそれに落としたまま話し続ける。
「だいぶ集まったぜ。命蓮寺の連中も、騒霊三姉妹も皆参加だ」
「わあ、すごい」
紫がわざとらしくそう言うと、魔理沙は不満げな表情になる。
「なんだよお、なんか文句でもあるのか?」
「別に。ただ優勝が遠くなるんじゃないかなあって思って」
「そりゃ覚悟の上だ。でも、大丈夫。私は弾幕戦にはとっても強いから」
「そのセリフ、月の上でも聞いたわよ?」
「げえ、何で知ってるんだ」
「あまり八雲紫をなめないで頂戴」
紫が笑いながらそう言うと、霊夢もまた、笑って月の上での思い出を話していく。そんな二人に、魔理沙はもういいだろう、とか止めてくれ、と恥ずかしそうに叫ぶのであった。
霊夢が人里へ買い出しを終えてふらふらと帰る途中、偶然に慧音に出会った。ちょうど寺子屋が閉まる時間だったのか、夕日が沈む中、慧音は子どもたちを寺子屋から送り出す所だった。
「久しぶりね」
「霊夢、か。久しぶりだな」
霊夢が知り合いに声をかけるのはとても珍しい事だった。なにぶん、妖怪の方からコンタクトを取られる事が多く、自分から話しかける事が少なかった、という事情もある。
「買い出しか? 何なら手伝ってやるぞ」
重そうに荷物を持っている霊夢に、慧音は優しく提案した。
「ううん、いいわ。これくらいどうってこともない」
慧音はそれもそうだな、と微笑む。その時、ふと、足元から声がした。
「あ、最近私たちの事を見てるお姉ちゃんだ」
霊夢と慧音が声の方を見下ろすと、寺子屋の生徒が霊夢の方を指さしそう言った。
「何の事かな? 先生に教えてくれる?」
慧音が座って、その子に目線を合わせる。しばらく子どもの話を聞いていた慧音は首を縦に振り、もう日が沈むから帰りなさいと優しく言った。女の子は慧音に手を振りながら、赤く染まる道を迷いなく走っていった。
「子どもに色目を使うとは、気でもふれたか?」
慧音がそう言うと、霊夢はまさか、と薄く笑う。
「そんなんじゃないわよ。ただ、こうして人里に降りるついでに、博麗の巫女の名前を売っておこうと思って」
「そのために子どもに取り繕うのか? まどろっこしい作戦だな」
「ふふ、急がば周れよ。信仰とお賽銭回復のために、出来る事からコツコツと、ね」
「ふうん……意外だな、霊夢がそんな事をするなんて」
「私だって、体裁ぐらい気にするわよ。ちょっぴり、ね」
慧音は霊夢のちょっぴりという単語を気にいった。今までどことなく冷たい印象のあった霊夢の、年相応の反応というのが慧音には新鮮に聞こえたのだ。
「ちょっぴりって、あなた、えらく乙女な言葉を使うのだな」
「慧音には関係ないわ」
霊夢は素っ気ない態度で返事をする。
「そう言えば、霊夢は大会に参加するのか?」
「ええ。もちろん。慧音は?」
「私は仕事だ。もし参加するんだったら、妹紅の様子を報告してくれないかと思ってね」
「覚えていればね。そう言えば、永遠亭の連中も出てくるの?」
「ああ、そうらしい。この前薬を届けに来た背の高い兎がぼやいていたよ。師匠と姫様の我儘に付き合わされるって」
「ふうん……」
霊夢はしばらく突っ立ったまま、ぼうっと暗い空を見上げていた。慧音はその霊夢にどこか寂しさを感じた。
なんだろうか、この余裕を持ちすぎた空気は。
慧音が感じたそれは、人生に悟りを見出し、全ての物事を受け入れる覚悟を持った人々の持つ、あの独特の空気と同じだった。
例えば妹紅や輝夜のような、そんな雰囲気を霊夢から感じ取った。
「慧音はさ、自分の今の職業を生まれ変わってもやりたいと思う?」
突然の質問に、慧音は少し答える事を躊躇った。
「藪から棒に変な質問をするんだな。しかし、まあ、そうだな……上手くは言えないが、生まれ変わったら別の道を行くだろう」
「へえ、意外ね。慧音は真面目だから、教師を選ぶかと思ったけど」
「そんなもの、なってみないと分からないだろ。それに、大事な事はそこじゃない」
「何?」
「それは、生きがい、かな」
「生きがい?」
「別に教師じゃなくても良いんだ。どんな職業であれ、ただ今の自分に満足していればいいのだと思うよ」
「随分と自己満足的な意見ね」
「所詮、人間は自己満足のために生きている。誰かを助けることだって、結局は自分の心を満足させるための方便にすぎないんだ。乱暴な言い方だけど、それが全て悪い事だとは思わない。他人の心を埋める事は、自分の心を埋める事と一緒だ」
「自己満足……」
霊夢は美味しい食べ物をゆっくりと味わうかのように、その言葉を何度も繰り返した。
「これは持論だがな、人って言うのは、幸せをコピー出来る能力がある。それは他人に分け与える時に発揮されるものだから、自分の幸せを与える分には、どんどん分け与えるべきだと思う。随分と性善説よりの、理想論かもしれないが、間違ってはいないと思うよ。私は過去に、失ってしまった幸せを取り戻そうと、他人から幸せを奪っていた奴らを知っているが、どいつも途中でくたばった。私からしてみれば、本末転倒な気がしないでもなかったね。どうだ納得したか?」
慧音が優しく尋ねると、霊夢は何かを悟ったように、にこりと微笑んだ。
「そうね、素晴らしい回答をしてくれた慧音にだけは教えてあげる」
「何を?」
「その日に、ビッグイベントがある、と思うの。それは多分、歴史の一ページに加えられるような、そんな瞬間が。これは巫女の勘なんだけど、ほら、私の勘ってよく当たるじゃない。今回出場したのは、それもあるのよ」
「金だけではなかったんだな」
「こんなに妖怪が集まって、異変の一つや二つぐらい起きてもおかしくないでしょう? どうせ歴史を編集するぐらいなら、見た物をそのまま歴史にしちゃいなさいよ」
「ふうむ。その場で歴史を編集する、か。面白い考えだ」
慧音は霊夢の言った事が気にいった。確かに霊夢の勘はよく当たる。それは信じても良いだろう。歴史の編集は、大会の途中で抜け出せばいい。
何よりも、その歴史的瞬間に居合わせる、という言葉が、慧音の胸を熱くさせた。
歴史家が、その歴史の一部になれる事などあまり無いのだから。
「よし、分かった。ただしあまり長居はできないぞ」
「分かったわ。でも、その瞬間はいつ来るかまでは分からないけどね」
霊夢はそう言って歩き始めた。もう空は一番星が輝き始め、夕日の赤が黒い空に溶ける様に揺らいでいた。
そうこうしているうちに、二週間が過ぎていった。魔理沙は参加者集めの傍ら、かなりの訓練を積んだ。霊夢は相変わらずお茶を飲み続けた。
そして大会当日の、夕日もすっかり沈んでしまった頃。
紅魔館では妖精メイドが忙しそうに会場設営をしている。
「おはよう、咲夜。もう準備は出来たかしら?」
「おはようございます。お嬢様。準備はもうすっかりと。後は会場の周りの屋台の組み立てだけです」
「よろしい」
先ほど起床したレミリアは嬉しそうに笑う。その顔つきは、本当に久しぶりに見る、心からの嬉しい顔だった。
「そんなに楽しみにしておられたとは、露も知りませんでした」
「あら、そう。私も自分を隠すのが上手くなったのね」
従者の咲夜が、それは無いなあと言ったような表情をする。レミリアはそれに気付かずに、窓から門の所を見下ろした。
「……こんなに参加者が?」
レミリアは群がる群衆を眼下に見つめ、感心するようにそう言い放った。
「はい。予想以上に多かったので、設営にも時間がかかりました」
窓の外には様々な参加者が集まっていた。地底や命蓮寺の者はもとより、魔界や天上界、妖精、さらにはあの四季映姫まで来ていた。
「これは派手な大会になりそうね」
レミリアの顔が一層綻んだ。
「私は参加を取りやめるわ。喘息の調子がよくない」
ふと後ろから声がした。レミリアと咲夜が振り返ると、そこには軽く咳をするパチュリーの姿があった。
「ビビっただけじゃなくて?」
茶化すようにレミリアが言うと、パチュリーは否定しなかった。
「それもある。もうね、予想外だわ、こんなに参加者がいるなんて」
「でしたら観る側に徹すると?」
「まあ、そうなるわね」
パチュリーは、明らかに不満そうなレミリアをちらりと見るとダメな物はダメだと念を押した。
「今日は駄目。こんなに観客がいる前で、中途半端な魔法は使えないわ」
パチュリーはじゃあ、後はよろしくと言って、廊下の角に消えていった。
「咲夜」
レミリアが叫ぶ。すると今まで何も無かった咲夜の手元に、参加用紙が握られていた。
「もうパチュリー様の名義で書いておきました」
咲夜がすかさずフォローを入れる
「よろしい。さすが私のメイドね」
レミリアは満足そうにうなずいた。
「ところで、霊夢はちゃんと出場しているかしら?」
「はい。一番最初に、出場の用紙を提出しておりました」
レミリアはふうん、と言って明るい月を見上げる。
「意外ね」
呟くようにそう言うと、咲夜も頷いた。
「何か大きなことをしでかすつもりですかね」
「霊夢が? それはそれで面白いわね」
レミリアは身体の奥にある、原始的な感情を感じつつ、武者震いをする。
観客席がどんどんと埋まる。魔理沙と霊夢は一緒に観客席の中ほどの場所に座った。
闘技場は屋外だった。舞台のように段々になった観客席の前に、広々とした草原が広がっている。挑戦者はこの草原で戦うのだ。観客席の端には二本のポールが立てられており、ここから張られた結界が弾幕を防ぐ仕様になっていた。
「これってさあ、上から降ってくる弾幕はやばいんじゃないか?」
魔理沙が不安げに空を見上げる。明るい満月が魔理沙の顔を青く染める。
「大丈夫よ。あの二本のポールからは、この観客席を覆う程の結界を張っているから」
「誰が? あれって正面だけだろ?」
「この大会は守屋神社主催よ」
魔理沙は、ああ、と納得したような表情になった。
「神奈子が上空に結界を張ったのか」
「ええ。そうじゃないと楽しめないじゃない」
「ここに入る時に静電気が走ったような感触がしたのも、この結界の所為か」
魔理沙は月以外何も見えない上空を再び見上げた。霊夢はよく分かったわね、と感心していた。
「当たり前だろ」
魔理沙がそう呟くと、誰かの声が聞こえた。
「ほら、魔理沙。つめてよ」
声をかけてきたのはアリスだった。周りを見ると、だいぶ観客も集まって席が無くなりかけていた。
「あら、霊夢、お久しぶり」
「アリスも参加するんだ?」
「魔理沙の口車に乗せられて」
顔はしっかりと霊夢の方を向いていたが、アリスの意識は四方八方に向けられており、その仕草から霊夢は、まるで懐かしい面々との再会を待っているようだ、と思った。
霊夢はそんな事だから、魔理沙の口車に乗せられるのよ、と思いつつ、会場を包む柔らかい風に身を預けていた。
その後、司会と進行役を務める文が登場し、ルールの説明が行われた。と言っても、いつもの弾幕戦と同じだ。観客側には被害が絶対に及ばぬよう、厳重に結界を張ったということらしかった。
そして神奈子とレミリアが挨拶をし、選手宣誓にやる気の無いパチュリーと、それとはまったく正反対のテンションの早苗が登場し、会場をにぎわせた。
「ではでは、時間が惜しいですから、早速一回戦の組み合わせにいきますよお」
文がマイク片手に楽しそうに叫ぶ。そして用意された白い箱から、二枚の紙切れを引いてきた。
「ねえ、あれって仕組んでると思う?」
隣でアリスが訊いてくる。太鼓のような音が鳴る間に、霊夢と魔理沙は同時に答えた。
「無いな」
「無いわね」
「じゃあん!!」
文が二枚の紙を手にした。紙だと一瞬思ったそれは、お札だった。
「このお札は皆さんの整理番号とリンクしています。私が読みあげても良いのですが、それじゃあ私の楽しみがありませんから、私はこれを開かずに、お札を投げますよ。このお札の行きつく先が、第一回戦の対戦者となります」
霊夢はここで初めて気がついた。文もこの大会の参加者だったのだ。もうなんでもありね、と隣でアリスが呟いた。
「あ、ちなみにこの二枚の札は紅魔館と守屋神社がそれぞれ一枚ずつ作っていますから、不正とかは多分無いでしょう。では行きますよお、それっ」
文が思いっきり振りかぶる。二枚の札はゆっくりと、そしてふらふらと漂うように観客席の方へ向かう。
妖怪達が騒ぎ出す。一体誰の所へいくのだ、私か、いや、私だ……
霊夢は他人事のように、ぼうっと二枚の行方を見ていた。すると、一枚の赤い札と視線があった。
札と視線が合う、とは奇妙な感じだったが、他に表現のしようがなかった。とにかく、霊夢はその札を見て、やばい、と思ったのだ。
それは何もしていないけれど、紫にじろりと見つめられるのと同じ気持ちだった。
札がまっすぐにこちらへ向かってくる。まさか、まさかよね、と心が焦る。汗が止まらない。
札がまっすぐこちらへ来る。霊夢はぎゅっと目を閉じた。
手の中に何かが握りこまれた。恐る恐る目を開けてそっと手を開いてみる。
中には、先ほどの札が握りこまれていた。
嘘ぉ、と霊夢は声にならないほどの小さな独り言をつぶやいた。
ふと隣を見ると、アリスがとんでもない顔をしていた。そりゃあそうよね、一番がまさか私になるなんて、と霊夢は考えた。
だがどうも違うらしい。
「ええ……」
アリスはここ最近で一番驚いた、という顔をしていた。霊夢はおやっと、違和感を覚えた。
そこで、ふと隣の魔理沙に声をかけようとして、霊夢はすぐ隣に視線を向ける。
「ねえ、魔理……」
そこまで言って、目の前の現実に顔が引きつった。
魔理沙は瞬き一つせず、驚いた表情で固まっていた。その手の中には、もう一枚の札があった。霊夢はそれを見て、言葉が出ない。
「……最初から、飛ばすわね……」
アリスがかろうじてコメントした。
「な、なんとお! 初戦にして決勝戦! 異変解決の幻想郷コンビが初戦で火花を散らすううぅぅう!」
文が叫ぶと、会場のボルテージは一気に最高潮に達した。無理もない。下馬評最強の異変解決巫女と、その長年の友人が共に火花を散らすのだ。
こんな熱い試合を、しかも初戦で見せてくれる。幻想郷の妖怪は否応なしに盛り上がる。
霊夢と魔理沙はおもむろに立って、観客席からステージに移動する。霊夢がふと魔理沙の顔を確認すると、魔理沙は武者震いをしているような、そんな雰囲気が読み取れた。
これもまた、数奇な運命の悪戯って言うのかしら、と霊夢は柄にでもない事を思ってしまう。
「あ、あ、あ……マイクはいいわね? よし」
霊夢は参加者達の熱い視線を一斉に浴びてステージに立つ。すでにステージに上がった魔理沙の方を向いて、にやりと笑う。
「まさか、一番、最初になるとはね」
「いやあ、これはもう運命だな。きっと」
二人は互いに互いをほめる様にして嬉しそうにそう言った。弾幕ごっこ恒例の、ちょっとした挨拶だった。
「では注目の第一回戦、行きますよう……」
文が実に楽しそうに輝いていた。
「はじめ!!」
「よし、じゃあ。始めるか」
そう言って、霊夢は魔理沙に向けて弾幕を。
撃たなかった。
黒々とした観客席の方を向いて、じっとしている。
十秒、三十秒、一分と霊夢は立ち尽くす。
時間が経つにつれ、観客席がざわついてきた。どうしたんだ、という叫び声も聞こえる。
「静かに」
二分ほど経った後に、霊夢が、長い沈黙を破って声を出す。会場はその声に静まり返った。
「結論から、言いますと」
霊夢は笑顔のまま、何一つ変わらない、あっけらかんとした口調だった。
「博麗霊夢は、巫女を引退します」
会場は、先ほどよりもさらに静まり返った。
「霊夢!」
最初に動き出したのは八雲紫だった。紫は霊夢の側に飛んでいくと、会場の結界を突き破った。そして霊夢の肩を持って、驚きと、少しばかりの焦燥感を漂わせながら霊夢をまくしたてた。
「あなた、どれくらい進んでいるの?」
「……」
「一体、いつから見えなくなってきたの?」
「一カ月ぐらい前よ」
「今は?」
「もう片目は死んだ。残った方も、半分くらいしか見えていない」
紫は怒りに狂った表情で、霊夢は平手で殴った。パチンと甲高い音が鳴る。
「どうして何も言わなかったの!!」
「……」
霊夢は答えなかった。ただその瞳には紫の姿は映っていなかった。
「皮膚の感覚も鈍くてね、それぐらいのビンタだと、何も感じなくなっちゃった」
「何で、もっと、早く言わないのよお……」
紫は一変して、ぐしゃぐしゃの泣き顔になる。
「これが私の決めた事だから」
騒がしくなる客席に、霊夢はマイクを持って
「うるさい!!」
と叫ぶ。
「それで、次の巫女なんだけど……」
霊夢はゆっくりと横を向いた。
「この、霧雨魔理沙、よ」
霊夢は笑う。魔理沙も笑う。
会場は静まり返る。異様な空間が、そこにはあった。
「さて、博麗の巫女になるのはいいけれど、そのためには私よりも強くないといけない。まさに下剋上、というわけよ。覚悟はいい、魔理沙?」
「もちろんだぜ」
ゆっくりと空へ昇る二人。それを見守る、群衆。紫はもう知らないと怒りながら、スキマの中へと帰っていった。
「動きなさいよ、全力でやってあげるから」
「なら、早く撃てよ。動いてやるから」
魔理沙が挑発すると、霊夢はいきなり弾幕を張った。
壮絶な量の弾幕が群衆の目を埋めていった。
赤に染められた大きな弾に、ち密に計算された針状の弾が動く。そして、それを紙一重で避けつつ、速さのある鋭い弾を魔理沙が撃ち続けていた。
近年稀に見る、霊夢の本気の弾幕戦だった。
霊夢は雪のように軽やかにその身をひるがえし、見る者の心を奪うかのような鮮やかな色の扇状に広がる弾幕を撃つ。魔理沙はそれを撃ち払うように、星型に彩られた奇抜な弾幕を放つ。
霊夢は高らかにスペルカードを掲げ叫んだ。
「霊符『夢想封印』!」
魔理沙も待っていましたと言わんばかりに、宣言する。
「恋符『マスタースパーク』!」
お互いに一歩も引かない、長い試合だった。
沈みゆく夕日のごとく、静と熱を帯びた赤。
生命の鼓動を現すかのようにそのエネルギーを発散させるオレンジ。
暗い夜空にさんざめき、淡い色を放つ、彗星のような白。
水素のように透き通った青。
満月のように、ワルツを踊る妖精のごとく神秘に満ち満ちた黄。
月の光を優しく受け止め、春を告げるウグイスを呼び込むように薄く光る桜色。
そのどれもが美しい。
妖怪達は、その弾幕を目に焼き付ける様に凝視していた。
霊夢の引退。
誰もが、予想していた事だった。
しかし誰もが、頭の中で考えていただけだった。
地震が起こる事はみんな知っている。
地震がこれから起こると言われても実感はわかない。
招待された観客達は、時代の境目を、この目にきっちりと焼きつけんと、この世紀の一戦の弾幕の美しさ、優雅さを決して忘れえぬように、と。
そして、博麗霊夢の最後の弾幕戦を見届け、新たな巫女に、喝采を送ろうと。
誰もが、そう思った。
空気が震え大地がうごめくかのような衝撃の中、妖怪たちは二人の人間を見守った。
満月の夜は、二人の表情を明るく照らす。
後日、文が特ダネとしてこのニュースを最高速度で幻想郷にかけ巡らした。これで新聞大会優勝間違いないと、確信した文は霊夢と魔理沙にたんまりとお礼をすると約束した。
「こりゃあ、嘘だったら大事だな」
「冗談でも、そう言う事は言わない方がいいわよ?」
霊夢が釘をさすように魔理沙に忠告する。
あの試合から十日ほど経っただろうか。やっと霊夢と魔理沙の周りも落ち着いてきた頃だった。
それまでは、いろいろな妖怪たちが霊夢に話を聞こうと、躍起になって博麗神社に押し寄せてきた。だが、それを魔理沙が阻止する。
「博麗神社に妖怪が乗り込もうとは、いい度胸してるな」
小さな八卦炉から繰り出される、特大のマスタースパークを潜り抜けた猛者だけが博麗神社へと到達できた。
そんな猛者の一人、レミリアは布団の中で横たわる霊夢とのお茶を楽しんでいた。
「ここへ来たのは、私が初めてのようね」
誇らしげに胸を張るレミリアに対し、霊夢は興味がなさそうに反論した。
「咲夜に時間を止めてもらって来たくせに、偉そうなこと言わないの。それに、訪問者はあんただけじゃないわ。紫や幽々子、それに白蓮なんかも訪れたわね」
「まあ、そんな事はどうだっていいのよ」
「気にしてるくせに」
「うるさい。それよりも、本当に魔理沙に務まるのかい?」
「強さは申し分なし。知識は私がこれから教えるわ」
「そうかい……」
しばらくの沈黙。
「霊夢は、これでいいのか?」
「いいのよ」
レミリアには分からない。
「寂しくない?」
「魔理沙がいるもの」
あの頑固な霊夢を、素直にさせた魔理沙。
「……これも時間の流れってやつかな。私は張り合いの無くなった霊夢を見ると、無性に悲しくなるよ。そうさな、例え霊夢が死んでしまっても、今の霊夢になら素直に涙を流せる気がする」
別に悲しいわけじゃない。
これはきっと虚しさだ、とレミリアは思う。
たぶん、霊夢が成長してしまった事が。
自分が置いて行かれた事が。
霊夢はもう、私たちとは違うのだ。
「もう、弾幕ごっこはお終いよ」
そう言って笑った霊夢の顔は、全てを受け入れた女の顔になっていた。
少女は少しだけ大人になって。
レミリアは、その事が少しだけ寂しかった。
あの試合は魔理沙が辛勝を納めて終わった。そして、割れんばかりの拍手の後、霊夢は急いで永琳の手で治療を受けた。
結果は、五感の全般的な低下と、体中に残った麻痺だった。特に目の損傷がひどく、もう視力はほとんどないと言う事だった。
「もうほとんど五感が機能していないわ。よく死ななかったわね」
エイリンが呆れたようにそう言った。
「これでも一番ましな方よ」
さらりと霊夢は言ってのけた。永琳はあほらしい、と言った様子で診断書をつけていく。
「こんなになるまで、戦う必要があったのかしら?」
「いいのよ。私は納得している」
「まあ、それならいいんだけど。でも安心して。一つだけ死んでいない感覚があったから」
「何それ?」
霊夢が首をかしげると、永琳は視力テストの結果を持ちだした。どれくらい視力が落ちているか、最初にテストしたものだった。
「分かる? 霊夢。あなた、目がほとんど見えていないはずなのに、視力テストは2.0よ。素晴らしい第六感ね」
皮肉交じりに永琳が言っても、霊夢は全く気にしない。
「あら、そう」
「見えないなら、見えないってちゃんと言ってちょうだい。あなた、視力検査で適当に答えたでしょう。困るんだけどなあ、そんな嘘をつかれると」
永琳がじろりと霊夢を睨む。霊夢は素知らぬ顔だった。
「まあ、結果的には嘘じゃないから良いんじゃない? 私はちゃんと、適当な選択肢を選んだわけだし」
屁理屈を言い出す霊夢を見て、巫女をやめたものの、この人は相変わらず博麗霊夢なのだ、と永琳は改めて思ったのだった。
診察を終え、永遠亭に戻ると輝夜が珍しく玄関で出迎えてくれた。
「姫様、そんな事をなさらなくても」
「いいのよ、永琳も疲れているだろうし」
そんな事を言いつつ、輝夜は永琳のかばんを持つ。すると不意に、輝夜が永琳の方をじっと見て質問した。
「霊夢は、元気だった?」
「ええ、相変わらずですよ」
「……顔」
「はい?」
「顔は、変わっていたかしら?」
「……はい。とても、キレイな表情をしていました」
輝夜はそう、と短くそれだけを言って、奥へと消えていった。
また一人、少女から大人へとその階段を上がる。
その一歩すら踏む事が出来ない輝夜にとって、霊夢はどう映るのだろうか。
でもね、と永琳は思う。
やっぱり霊夢は霊夢なのだ。
どんなに人が変わろうとも、私たちは変わらない。
だから、この世界も変わらない。
変わるのは世界ではない。自分なのだ。
「だから、霊夢はやっぱり、博麗霊夢なのよ」
そう独り言をつぶやいた。
大会の方は、完全に博麗の巫女に土俵を持って行かれたおかげで、誰もその後を戦おうとしなかった。
あまりにも美しすぎた二人の戦いを見て、妖怪たちは、勝てない、と思ってしまった。弾幕戦において、相手の心を折れさせたら勝ち、というルールがある。これのお蔭で、この後に、例え自分の最高のパフォーマンスを披露しても、自分が空しくなるだけだ、という一種のジレンマに襲われた。
こうして大会はそのまま流れ解散となり、主催者側の守屋神社と紅魔館は博麗神社を恨んだ、わけではなく、もうここまでやられると手の出しようがないとほめちぎった。
「いや、大したものだ。霊夢は最後まで、博麗の巫女だったんだねえ」
妖怪たちのたくらみは、巫女によって阻止される。長い間続けてきた、妖怪と人間のルールを、霊夢は巫女をやめるその一瞬まで守ったのだ。
「という話だけど、真相は?」
アリスが霊夢と魔理沙に質問する。霊夢は布団に入ったまま、魔理沙はその霊夢を支えるような形で質問を受けた。
「実際は、適当に魔理沙に任せといて、私は人里に降りる予定だったんだけどね」
「こんな面白そうな大会があるから、ド派手に宣伝しても良いんじゃないかと思って。そうすれば私にも拍が付くし」
アリスは何とまあ、と呆れた。
「つまり魔理沙は、この大会で皆に新博麗の巫女を、お披露目するためにわざわざ色々な所へ宣伝しに行ったと……」
「そうじゃなきゃあ、ライバルなんて増やさないよ」
じゃあ、魔理沙が負けた時は、という質問をアリスはあえてしなかった。それは多分、質問しても魔理沙は、私が勝つのは当たり前だと言うに決まっているからだ。
「霊夢も無茶をしたわね。そのまま戦っていなければ、こんなにひどい事にはならなかったのでしょう?」
アリスは指を落ち着きなく動かしながら、霊夢に質問した。
「それはそうなんだけど、私の本気に魔理沙がどこまでついてこれるか見たくってね」
「例え死ぬような思いをしても?」
霊夢を試すような目でアリスが質問を重ねた。
「魔理沙なら、私が死ぬ前に倒してくれると信じていたし」
霊夢がよどみなく、はっきりとそう言った。隣で魔理沙が笑いつつ
「照れるな、そんな素直に言われると」
と顔を赤らめた。
アリスはそんな二人を見て、納得したような気持ちになった。
きっとこの二人の中では、終わった事なのだろう、とアリスは思う。
二人の中で、一体どんなやり取りがあったのか、あの戦いの中、二人は一体どんな事を考えながら弾幕を張っていたのか。
それは私たち第三者が思うよりもはるかに多種多様な想いが込められていたのだと思う。
巫女としての責任を、その責務を、命を張って全うした霊夢。
その霊夢を救い出すことで、博麗の巫女の最初の任務を成し遂げた魔理沙。
多分、そう言った事も、全て終わったのだな、と二人を見ながらアリスは思った。
「霊夢は元気かしら?」
紫が今日も現れた。魔理沙は面倒くさそうに追い払う。
「お前、午前中にもきただろう? 早く帰れよ」
「もう、そんなに無碍に扱わなくても良いのに」
そんな事を言いながら魔理沙は紫を追い払った。何せ紫はここ毎日、しかも一日二回訪ねてくると言う、親ばかぶりを発揮していた。
自分の式が泣いているぜ、と魔理沙は思う。
「そんな事はどうだっていいのよ」
「またか」
「ねえ魔理沙」
「何だよ、冷やかしなら帰れよお」
「霊夢をよろしくね。あの子はああ見えて、地に足のついた生活をした事が無いから」
紫が真剣な目をしてそう言った。
「……分かってるよ」
「期待しているわ」
紫は再びスキマの中へと消えていった。
魔理沙は痛いほど分かっているつもりだった。霊夢が、自由を愛する霊夢が、その自由を失った。身体は思い通りに動かず、巫女としての力も失い、もはや霊夢は何をするにも他人の力を得ないといけない。
生きていく事すらも、霊夢は一人ではできない。
その事を痛感しているのは、魔理沙自身なのだから。
霊夢は神社の奥の方で、布団の中で寝ていた。
「調子はどう?」
「まあまあよ」
霊夢の体はひどくぼろぼろだったが、永琳のお蔭でなんとか持っていた。今の霊夢には、舌、目の神経がなく、かろうじて皮膚と耳と鼻の神経が残っただけだった。
それに全体的な筋力の衰えもある。霊夢はもう、一人では立ち上がれないほどに衰弱していた。
「私は、正直言って死んでも良いのよ。私が死ぬかどうかは、魔理沙にかかっているのならば、私は死ぬ自由を選択する。生も死も、私が決める事よ」
あの日、巫女になると決めた日、霊夢は魔理沙にそう宣言した。
そんな自由と引き換えに、霊夢は何か大切な物を手に入れたのだろうか。
魔理沙には、分からない。
魔理沙が、あの試合を長引かせれば長引かせるほど、霊夢の神経は死んでいく。それを覚悟の上で魔理沙は戦った。
霊夢は本当に、全力だった。自分の死に、一切の恐れをなさず、身体の限界まで戦っていた。
相当な、重圧だった。
手は震え、汗は引き、危うく八卦炉を落っことす所だった。
けれど魔理沙は乗り切った。
新旧の巫女が並んでいる。魔理沙は優しい手つきで、霊夢の肩を持つ。霊夢も、魔理沙によりかかり、ゆっくりと身体を起こす。
「ほら、魔理沙。今日も桜が見たい」
「またかよ。私だって、霊夢を支えるのは結構重労働なんだぜ?」
「いいから、ほら。どうせ午後から巫女としての修行があるんでしょう?」
「だから今は休みたいんだけどな」
そんな事を言いつつ、魔理沙は霊夢を支えて立ち上がらせた。霊夢もぐっと力を込めて、その二本の足で立ち上がる。
そして、部屋のふすまを開けて、庭に出る。
「私はね、おんぶにだっこされて生きていくのは嫌だった。けど、魔理沙に引きとめられてね。今になって思うのは、これもありだなって」
霊夢がぽつり呟いた。
弱音ではなく、信頼。
だから魔理沙は霊夢の想いに応えたかった。
彼女が自由を捨ててまで、残った物ならば。
いや、違うな。
手に入れたのだ。この体温のぬくもりを。
だからこの手は一生、離さない。
「ほら、霊夢、今日も桜が綺麗だ」
あえて返事はしなかった。
「あら、本当ね」
閑散とした庭を見て、霊夢がそう言った。
多分、霊夢も知っているのかな、と魔理沙は思う。この庭の桜はもう散ってしまって、桜の木は青々とした緑の葉を揺らしている。
それでも、きっと、霊夢は一年中桜が見たい、と言い続けるのだろう。
それが霊夢の最後に見た、景色なのだから。
魔理沙はキノコ採取にきていた。キノコは魔理沙の実験材料であり、魔法の源である。この濃い瘴気が漂う森で、キノコは生物の想像をはるかに超えた多様性を実現していた。それはこの濃い瘴気のせいなのか、それともまた別の要因なのかは分からなかったが、キノコを研究する魔理沙にとっては絶好の研究場所でもある。
魔理沙はどこかに新種のキノコがいないかと、地面に目を光らせる。少しだけ湿気を含んだ柔らかい腐葉土を踏み歩き、注意深く観察する。そうしていると、枯れた木の根もとにふと目にとまった。そこには土色のキノコが生えており、魔理沙は自然としゃがんでそのキノコに手をかけた。それは大きな笠を持ち、よく見ると土色の中に、ところどころ白い斑点があった。地味な色だが、これは以前に見かけた魔力増大に関係する種の一つだった。
貴重なサンプルだ、と魔理沙は喜びつつ、辺りを探る。近くにまだ何本か生えていないか確認する。残念ながら、辺りには他には何も無かった。
魔理沙は時計を取り出し、時間を確かめる。もうこの森に侵入し一時間ほどが経っていた。瘴気に耐えられる限界の時間だった。魔理沙は急いで空へと飛びあがる。行きは歩いて森の中を進み、帰りは空を飛んで帰る。それがいつもの日課だ。
空に上がると、大きく深呼吸をした。肺の中に溜まっている、瘴気を入れ替える様に大きくゆっくりと息を吐く。薄ら暗い森とは違い、空は雲ひとつな青空だった。冬の終わりかけ、桜がつぼみをつけはじめたこの季節には、魔理沙の格好は少々肌寒い。魔理沙は汗が乾いて、身体が冷えないうちに家へ帰りたいと思いつつ、魔理沙は箒に乗ったまま空を飛んでいく。
家に帰りシャワーを浴びた後、魔理沙は採取したキノコを瓶に保存した。それを戸棚へ入れると、レポートをつける。森のどの辺にあり、どんな環境だったか、キノコの大きさ、感触など採取した状況を事細かに記録する。こうして集めた資料は、かなりの枚数に達していた。厚さにして、魔理沙の身長の半分ほどある。まとめて本にすれば、多少は場所を取らないだろうが、元より需要の少ない研究分野、というよりは魔法使いは基本的に研究分野が異なるのでキノコの研究など魔理沙ぐらいしかやっていない事もあり、魔理沙はさらさら本にする気もなかった。
こうして午前中が過ぎていく。麦飯と椎茸の味噌汁、金平ゴボウという簡単な昼食を取ったあと、魔理沙は博麗神社へ出かけた。目的は、午後の暇つぶしと、お茶菓子目当てだ。
「何、また来たの?」
神社の巫女、博麗霊夢は魔理沙をちらりと目にすると、いきなり毒を吐く。それに微笑みながら魔理沙は神社の境内に降り立った。
「遊びに来たぜ」
「茶菓子を食べに来た?」
「それもある」
霊夢は呆れたように溜め息をつく。魔理沙は境内に置いてある賽銭箱の前に腰かけて、霊夢に話しかける。
「今日も良い天気だな」
「良い天気すぎて、何かが起きそう」
「何かって?」
「異変、みたいな何か」
霊夢は淡々と答える。元から何に対してもあまり興味を持たない霊夢だったが、ここ最近はそれに一層、拍車がかかったような話し方をしていた。
魔理沙は暇つぶしに賽銭箱をのぞきこむ。予想通り、中には何も入っていなかった。それをいじってやろうと、魔理沙が霊夢の方を振り返ると、霊夢は手に新聞を持ち、それをじっと眺めていた。魔理沙も気になって、霊夢の方へ歩み寄る。
「新聞、読めるんだ?」
「新聞くらい読めるわよ」
「何か面白い事が書いてある?」
「予感的中よ。異変ではないけれど」
霊夢が微笑みながら新聞をつきつけてくる。最初は乗り気じゃなかったのに、部屋の掃除を始めてみると楽しくなってきた、というような表情をしている。
「どれどれ……」
魔理沙が覗き込むと、それは文々。新聞の一面だった。そこには大きな美しい字でこう書かれている。
『弾幕最強決定戦のお知らせ』
魔理沙はその記事に心が躍る。
「実に楽しそうなイベントだ。霊夢は」
そこまで言って、霊夢は即答する。
「もちろん出場よ。こんなに妖怪が集まる事なんて滅多にないから、ここで博麗の巫女の力を見せつけてあげないと」
自信気な霊夢を見て、魔理沙は少しだけ疑問に思った。いつもならこんなに張りきらない、いや張りきりはするのだが、霊夢の張りきる、は、外面は面倒くさいと言いつつも、心の内では静かに闘志を燃やすタイプだ。今の霊夢は中も外もアツアツの肉まんのようだった。
「珍しいな、そんなにやる気を出して。何かあったのか?」
「んん、別に」
とぼける様に答える霊夢を見て、魔理沙はますます怪しいと感じた。霊夢の手から新聞を取り上げ、よく読んでみる。すると、下の方に賞金あり、と書かれていた。参加費を集めて、その参加費を優勝者の賞金とする、と書いてある。
「現金な奴だなあ」
魔理沙がぽつりと独り言を言うと、霊夢は何食わぬ顔で魔理沙に話しかける。
「あら、これは妖怪の皆が博麗神社に賽銭を入れてくれたのと一緒なの。だから、私は賽銭を回収するため、この大会に出るのよ」
「うへえ、何と言う屁理屈。でも、この大会、私が出場するから、その考え方はおかしいな」
「どういうこと?」
挑発的に微笑む霊夢に、魔理沙も挑発的な笑顔で応えた。
「優勝するのは、この私だ」
この大会を提案したのは、紅魔館のレミリアスカーレットだった。取材に来ていた文に対し、地底の妖怪や命蓮寺の妖怪の実力を見てみたい、という希望があったらしい。その時はこんなイベントなど全く考えず、ただ言ってみただけという事らしかった。
「そうですね、幻想郷の妖怪の交流も含めて、やってみるのもいいかもしれません」
文は新聞のネタのために、この提案を守屋神社の神様に吹っ掛けてみた。
「面白い。やろう」
ここ最近の騒動の中心である、守屋神社の神、神奈子らしい素早い決断だったと言える。こうしてトントン拍子に話は進み、守屋神社主催、舞台は紅魔館という奇妙な大会が行われる事となった。紅魔館の住人は参加費免除の代わりに場所を提供した。
文は号外を出し、幻想郷中にこの事を宣伝した。
ある者は自分が優勝して皆を驚かすために。
ある者は花が咲くまでの暇つぶしに。
ある者は地上の解放感に浸りたくて。
ある者は永遠のひと時を華やかに過ごすために。
ある者はその賞金で美味しい物をたくさん食べるために。
たくさんの参加者が、様々な想いを胸に抱きこの祭りに参加した。近年稀に見るこのように大規模な祭りに、妖怪たちは胸を高鳴らせた。
大会は満月の夜、トーナメント方式で行われる事になった。それは、魔理沙や霊夢が大会の存在を知った、二週間後だった。
「当日参加か。大雑把な事務だな」
「紅魔館らしい、といえばらしいわね」
そんな事を言いつつ、霊夢と魔理沙は神社の縁側に腰かけ、お茶を楽しんでいた。
魔理沙は口に出して優勝する、と言ったものの心の中では力不足を実感していた。多分、このままでは優勝は難しいだろう。
そんな事を思いつつ、霊夢に尋ねる。
「霊夢は修行しないのか? いくら博麗の巫女でも、全く何もしないと負けるかもしれないぜ」
「気が向いたら」
お茶を飲みながら、霊夢は素っ気なく答える。霊夢は誰かに強制されないと努力をしない。それなのに天性の才能で数々の異変を解決してきた実力者だ。霊夢なら、何もしなくても優勝してしまうかもしれない、と魔理沙は思った。
「そうか、霊夢らしいな」
「そうよ、だいたい遊びに修行なんて必要ないでしょう? 大会っていっても、どうせ宴会とかの延長みたいなものなんだし」
「言われてみれば、そうかもな。妖怪は、戦いの雰囲気に酔いたいだけなのかもしれない」
霊夢はそれに返事はせず、ぼうっと空を見上げていた。魔理沙もつられて空を見上げる。
大会は非常に魅力的だった。弾幕ごっこなら負ける気もあんまりしないし、何より魔理沙自身が楽しいと思える遊びの一つだ。
「お茶、片づけるわね」
「ああ」
魔理沙がそう言うと、霊夢がお盆を拾い上げた。魔理沙は二つの湯呑をその盆の上に置く。
「大丈夫か? 私が運ぼうか?」
魔理沙がそう言うと、霊夢はにっこりと笑って答えた。
「これくらい、どうってことないわよ」
と言ってくるりと背を向けた時に、霊夢がちゃぶ台の足に小指を引っ掛けた。何事も無かったかのような表情で、足だけ引きずって奥へ消えていった霊夢を笑いながら見届けた魔理沙は、再び空を見上げた。
透き通ったこの青い空は、魔理沙のこの心臓の高鳴りを一層高めてくれるように思えた。
魔理沙はとある木造の家の前に来ていた。こぎれいに手入れされたその家は、まるでお伽噺に出てくる人形の家を彷彿とさせる。
目の前の木製の扉をノックする。跳ねるような軽い音を立てて扉が開かれた。
「あら、魔理沙、どうしたの?」
扉をあけて出てきたのはアリスマーガトロイドだった。
「あがっても?」
「いいわよ」
アリスの部屋に入ると、そこにはたくさんの人形が置いてあった。そして、窓際では上海人形が可愛らしく窓を拭いていた。
魔理沙がテーブルにつくと、アリスは紅茶を用意してくれた。ありがとう、と礼を言って紅茶に口をつける。バニラの甘い香りがする、珍しい紅茶だった。
「バニラの香りがする……美味しいな、これ」
「たまたま手に入ったから、買ってみたの」
アリスは謙虚にそう言うと、人形に椅子を引かせ、席に座る。そうして、テーブルに肘をつき、じいっと魔理沙を見つめた。
「それで、今日は何しに来たの?」
「大会の事、知ってるか?」
「ええ、知っているわ。それがどうかしたの?」
「出場しないのか?」
「興味無い」
その淡白な言葉に魔理沙は少し肩透かしを食らった。
「なんだ、出ないのか」
「今は、ね。所詮、あのうるさい神社と吸血鬼の戯れでしょ。付き合ってあげる義理もない」
「だけど、パチュリーや新しくやってきた妖怪も参加するんだぜ。楽しいお祭りになりそうじゃないか」
「私は誰かの用意したステージで踊る事は嫌いなの。踊るんだったら、路上でやるわ」
魔理沙はふうん、と言って紅茶に口をつける。魔理沙としては、またアリスやパチュリーと弾幕ごっこをしてみたい、という望みも少しはあった。ふと窓を見ると、上海人形が一生懸命窓を拭いている。さっきと同じ所をずっと拭いていた。
「じゃあ、修行に付き合ってくれないかな?」
「修行? 魔理沙、優勝する気なの?」
「当然。そのためには、新しい魔法が必要だ。だから付き合って欲しい」
アリスは渋い顔をして、どうしようかと悩んでいた。
「そんな事をするぐらいなら、出場するわよ」
「じゃあ、一緒に出場しよう」
「でも、ね」
「よし、一緒に出るか」
魔理沙は腰にかけた、革のポーチから紙を出す。それは、参加用紙だった。
「さあ」
「さあ、じゃないわよ。誰が出場するって……」
「まあ、そう言わずに。そうだ、魔界からも参加者がいるらしいぜ」
「え? 本当に?」
アリスが一瞬興味を示す。魔理沙はそれを見逃さなかった。
「何せ、これは多分幻想郷始まって以来の盛大な祭りになるからな。その余波に浮かれて、色々な世界から参加者がやってくるのさ」
「そう……でもどうして当日参加で参加者なんか分からないのに、幻想郷始まって以来、なんて言えるの?」
「それは実に簡単な事だ」
魔理沙が胸を張って、威張るように言った。
「私がこうやって参加者を増やしているから、さ」
そうして、ポーチから参加用紙の束を自信気に出した。そこには懐かしい名前も書いてある。
アリスは呆れたような、けれど胸の中に渦巻く好奇心を抑えている、そんな表情を浮かべていた。
「自分でハードルをあげるなんて、どうかしているわね。でも、魔界の連中が参加するのなら、いいかもしれないわ」
アリスは不敵に笑って、参加用紙の白紙の名前欄の所に自分の名前をサインした。
窓を拭いていた、上海人形が今度はテーブルの上の空のティーカップを台所に下げていった。
実に奇妙な話だと、紫は思った。祭りは参加者が多いほど盛り上がる。それは分かるが、あくまで一般参加である魔理沙がわざわざ敵を増やす意味があるのだろうかと。
「優勝する気、あるのかしら?」
神社に顔を見せに行ったついでに、紫は霊夢に尋ねてみた。
「私に聞かないでよ」
「そんなに参加者を集めて、自分の優勝が遠くなるだけなのに」
「魔理沙は自分を追い詰めないと頑張る事が出来ないタイプだからじゃない?」
「それは霊夢、あなたよ」
霊夢はとぼけたように、そうかしら、と呟いた。
「ところで紫は参加するの?」
「もちろんよ。純粋に、お祭りとして楽しむわ」
「よかった、その発言を聞いて、あんたも妖怪だってことが再認識できたわ」
「何を今さら……」
二人で他愛もない会話を繰り広げる。すると噂をしていた魔理沙が現れた。
「お、珍しい。紫がここに居るなんて」
「あら、魔理沙。参加者は集まった?」
魔理沙は照れながら、なんだ知ってたのか、と言った。そうして霊夢の横に腰を下ろす。黒い帽子を膝の上に置いて、視線をそれに落としたまま話し続ける。
「だいぶ集まったぜ。命蓮寺の連中も、騒霊三姉妹も皆参加だ」
「わあ、すごい」
紫がわざとらしくそう言うと、魔理沙は不満げな表情になる。
「なんだよお、なんか文句でもあるのか?」
「別に。ただ優勝が遠くなるんじゃないかなあって思って」
「そりゃ覚悟の上だ。でも、大丈夫。私は弾幕戦にはとっても強いから」
「そのセリフ、月の上でも聞いたわよ?」
「げえ、何で知ってるんだ」
「あまり八雲紫をなめないで頂戴」
紫が笑いながらそう言うと、霊夢もまた、笑って月の上での思い出を話していく。そんな二人に、魔理沙はもういいだろう、とか止めてくれ、と恥ずかしそうに叫ぶのであった。
霊夢が人里へ買い出しを終えてふらふらと帰る途中、偶然に慧音に出会った。ちょうど寺子屋が閉まる時間だったのか、夕日が沈む中、慧音は子どもたちを寺子屋から送り出す所だった。
「久しぶりね」
「霊夢、か。久しぶりだな」
霊夢が知り合いに声をかけるのはとても珍しい事だった。なにぶん、妖怪の方からコンタクトを取られる事が多く、自分から話しかける事が少なかった、という事情もある。
「買い出しか? 何なら手伝ってやるぞ」
重そうに荷物を持っている霊夢に、慧音は優しく提案した。
「ううん、いいわ。これくらいどうってこともない」
慧音はそれもそうだな、と微笑む。その時、ふと、足元から声がした。
「あ、最近私たちの事を見てるお姉ちゃんだ」
霊夢と慧音が声の方を見下ろすと、寺子屋の生徒が霊夢の方を指さしそう言った。
「何の事かな? 先生に教えてくれる?」
慧音が座って、その子に目線を合わせる。しばらく子どもの話を聞いていた慧音は首を縦に振り、もう日が沈むから帰りなさいと優しく言った。女の子は慧音に手を振りながら、赤く染まる道を迷いなく走っていった。
「子どもに色目を使うとは、気でもふれたか?」
慧音がそう言うと、霊夢はまさか、と薄く笑う。
「そんなんじゃないわよ。ただ、こうして人里に降りるついでに、博麗の巫女の名前を売っておこうと思って」
「そのために子どもに取り繕うのか? まどろっこしい作戦だな」
「ふふ、急がば周れよ。信仰とお賽銭回復のために、出来る事からコツコツと、ね」
「ふうん……意外だな、霊夢がそんな事をするなんて」
「私だって、体裁ぐらい気にするわよ。ちょっぴり、ね」
慧音は霊夢のちょっぴりという単語を気にいった。今までどことなく冷たい印象のあった霊夢の、年相応の反応というのが慧音には新鮮に聞こえたのだ。
「ちょっぴりって、あなた、えらく乙女な言葉を使うのだな」
「慧音には関係ないわ」
霊夢は素っ気ない態度で返事をする。
「そう言えば、霊夢は大会に参加するのか?」
「ええ。もちろん。慧音は?」
「私は仕事だ。もし参加するんだったら、妹紅の様子を報告してくれないかと思ってね」
「覚えていればね。そう言えば、永遠亭の連中も出てくるの?」
「ああ、そうらしい。この前薬を届けに来た背の高い兎がぼやいていたよ。師匠と姫様の我儘に付き合わされるって」
「ふうん……」
霊夢はしばらく突っ立ったまま、ぼうっと暗い空を見上げていた。慧音はその霊夢にどこか寂しさを感じた。
なんだろうか、この余裕を持ちすぎた空気は。
慧音が感じたそれは、人生に悟りを見出し、全ての物事を受け入れる覚悟を持った人々の持つ、あの独特の空気と同じだった。
例えば妹紅や輝夜のような、そんな雰囲気を霊夢から感じ取った。
「慧音はさ、自分の今の職業を生まれ変わってもやりたいと思う?」
突然の質問に、慧音は少し答える事を躊躇った。
「藪から棒に変な質問をするんだな。しかし、まあ、そうだな……上手くは言えないが、生まれ変わったら別の道を行くだろう」
「へえ、意外ね。慧音は真面目だから、教師を選ぶかと思ったけど」
「そんなもの、なってみないと分からないだろ。それに、大事な事はそこじゃない」
「何?」
「それは、生きがい、かな」
「生きがい?」
「別に教師じゃなくても良いんだ。どんな職業であれ、ただ今の自分に満足していればいいのだと思うよ」
「随分と自己満足的な意見ね」
「所詮、人間は自己満足のために生きている。誰かを助けることだって、結局は自分の心を満足させるための方便にすぎないんだ。乱暴な言い方だけど、それが全て悪い事だとは思わない。他人の心を埋める事は、自分の心を埋める事と一緒だ」
「自己満足……」
霊夢は美味しい食べ物をゆっくりと味わうかのように、その言葉を何度も繰り返した。
「これは持論だがな、人って言うのは、幸せをコピー出来る能力がある。それは他人に分け与える時に発揮されるものだから、自分の幸せを与える分には、どんどん分け与えるべきだと思う。随分と性善説よりの、理想論かもしれないが、間違ってはいないと思うよ。私は過去に、失ってしまった幸せを取り戻そうと、他人から幸せを奪っていた奴らを知っているが、どいつも途中でくたばった。私からしてみれば、本末転倒な気がしないでもなかったね。どうだ納得したか?」
慧音が優しく尋ねると、霊夢は何かを悟ったように、にこりと微笑んだ。
「そうね、素晴らしい回答をしてくれた慧音にだけは教えてあげる」
「何を?」
「その日に、ビッグイベントがある、と思うの。それは多分、歴史の一ページに加えられるような、そんな瞬間が。これは巫女の勘なんだけど、ほら、私の勘ってよく当たるじゃない。今回出場したのは、それもあるのよ」
「金だけではなかったんだな」
「こんなに妖怪が集まって、異変の一つや二つぐらい起きてもおかしくないでしょう? どうせ歴史を編集するぐらいなら、見た物をそのまま歴史にしちゃいなさいよ」
「ふうむ。その場で歴史を編集する、か。面白い考えだ」
慧音は霊夢の言った事が気にいった。確かに霊夢の勘はよく当たる。それは信じても良いだろう。歴史の編集は、大会の途中で抜け出せばいい。
何よりも、その歴史的瞬間に居合わせる、という言葉が、慧音の胸を熱くさせた。
歴史家が、その歴史の一部になれる事などあまり無いのだから。
「よし、分かった。ただしあまり長居はできないぞ」
「分かったわ。でも、その瞬間はいつ来るかまでは分からないけどね」
霊夢はそう言って歩き始めた。もう空は一番星が輝き始め、夕日の赤が黒い空に溶ける様に揺らいでいた。
そうこうしているうちに、二週間が過ぎていった。魔理沙は参加者集めの傍ら、かなりの訓練を積んだ。霊夢は相変わらずお茶を飲み続けた。
そして大会当日の、夕日もすっかり沈んでしまった頃。
紅魔館では妖精メイドが忙しそうに会場設営をしている。
「おはよう、咲夜。もう準備は出来たかしら?」
「おはようございます。お嬢様。準備はもうすっかりと。後は会場の周りの屋台の組み立てだけです」
「よろしい」
先ほど起床したレミリアは嬉しそうに笑う。その顔つきは、本当に久しぶりに見る、心からの嬉しい顔だった。
「そんなに楽しみにしておられたとは、露も知りませんでした」
「あら、そう。私も自分を隠すのが上手くなったのね」
従者の咲夜が、それは無いなあと言ったような表情をする。レミリアはそれに気付かずに、窓から門の所を見下ろした。
「……こんなに参加者が?」
レミリアは群がる群衆を眼下に見つめ、感心するようにそう言い放った。
「はい。予想以上に多かったので、設営にも時間がかかりました」
窓の外には様々な参加者が集まっていた。地底や命蓮寺の者はもとより、魔界や天上界、妖精、さらにはあの四季映姫まで来ていた。
「これは派手な大会になりそうね」
レミリアの顔が一層綻んだ。
「私は参加を取りやめるわ。喘息の調子がよくない」
ふと後ろから声がした。レミリアと咲夜が振り返ると、そこには軽く咳をするパチュリーの姿があった。
「ビビっただけじゃなくて?」
茶化すようにレミリアが言うと、パチュリーは否定しなかった。
「それもある。もうね、予想外だわ、こんなに参加者がいるなんて」
「でしたら観る側に徹すると?」
「まあ、そうなるわね」
パチュリーは、明らかに不満そうなレミリアをちらりと見るとダメな物はダメだと念を押した。
「今日は駄目。こんなに観客がいる前で、中途半端な魔法は使えないわ」
パチュリーはじゃあ、後はよろしくと言って、廊下の角に消えていった。
「咲夜」
レミリアが叫ぶ。すると今まで何も無かった咲夜の手元に、参加用紙が握られていた。
「もうパチュリー様の名義で書いておきました」
咲夜がすかさずフォローを入れる
「よろしい。さすが私のメイドね」
レミリアは満足そうにうなずいた。
「ところで、霊夢はちゃんと出場しているかしら?」
「はい。一番最初に、出場の用紙を提出しておりました」
レミリアはふうん、と言って明るい月を見上げる。
「意外ね」
呟くようにそう言うと、咲夜も頷いた。
「何か大きなことをしでかすつもりですかね」
「霊夢が? それはそれで面白いわね」
レミリアは身体の奥にある、原始的な感情を感じつつ、武者震いをする。
観客席がどんどんと埋まる。魔理沙と霊夢は一緒に観客席の中ほどの場所に座った。
闘技場は屋外だった。舞台のように段々になった観客席の前に、広々とした草原が広がっている。挑戦者はこの草原で戦うのだ。観客席の端には二本のポールが立てられており、ここから張られた結界が弾幕を防ぐ仕様になっていた。
「これってさあ、上から降ってくる弾幕はやばいんじゃないか?」
魔理沙が不安げに空を見上げる。明るい満月が魔理沙の顔を青く染める。
「大丈夫よ。あの二本のポールからは、この観客席を覆う程の結界を張っているから」
「誰が? あれって正面だけだろ?」
「この大会は守屋神社主催よ」
魔理沙は、ああ、と納得したような表情になった。
「神奈子が上空に結界を張ったのか」
「ええ。そうじゃないと楽しめないじゃない」
「ここに入る時に静電気が走ったような感触がしたのも、この結界の所為か」
魔理沙は月以外何も見えない上空を再び見上げた。霊夢はよく分かったわね、と感心していた。
「当たり前だろ」
魔理沙がそう呟くと、誰かの声が聞こえた。
「ほら、魔理沙。つめてよ」
声をかけてきたのはアリスだった。周りを見ると、だいぶ観客も集まって席が無くなりかけていた。
「あら、霊夢、お久しぶり」
「アリスも参加するんだ?」
「魔理沙の口車に乗せられて」
顔はしっかりと霊夢の方を向いていたが、アリスの意識は四方八方に向けられており、その仕草から霊夢は、まるで懐かしい面々との再会を待っているようだ、と思った。
霊夢はそんな事だから、魔理沙の口車に乗せられるのよ、と思いつつ、会場を包む柔らかい風に身を預けていた。
その後、司会と進行役を務める文が登場し、ルールの説明が行われた。と言っても、いつもの弾幕戦と同じだ。観客側には被害が絶対に及ばぬよう、厳重に結界を張ったということらしかった。
そして神奈子とレミリアが挨拶をし、選手宣誓にやる気の無いパチュリーと、それとはまったく正反対のテンションの早苗が登場し、会場をにぎわせた。
「ではでは、時間が惜しいですから、早速一回戦の組み合わせにいきますよお」
文がマイク片手に楽しそうに叫ぶ。そして用意された白い箱から、二枚の紙切れを引いてきた。
「ねえ、あれって仕組んでると思う?」
隣でアリスが訊いてくる。太鼓のような音が鳴る間に、霊夢と魔理沙は同時に答えた。
「無いな」
「無いわね」
「じゃあん!!」
文が二枚の紙を手にした。紙だと一瞬思ったそれは、お札だった。
「このお札は皆さんの整理番号とリンクしています。私が読みあげても良いのですが、それじゃあ私の楽しみがありませんから、私はこれを開かずに、お札を投げますよ。このお札の行きつく先が、第一回戦の対戦者となります」
霊夢はここで初めて気がついた。文もこの大会の参加者だったのだ。もうなんでもありね、と隣でアリスが呟いた。
「あ、ちなみにこの二枚の札は紅魔館と守屋神社がそれぞれ一枚ずつ作っていますから、不正とかは多分無いでしょう。では行きますよお、それっ」
文が思いっきり振りかぶる。二枚の札はゆっくりと、そしてふらふらと漂うように観客席の方へ向かう。
妖怪達が騒ぎ出す。一体誰の所へいくのだ、私か、いや、私だ……
霊夢は他人事のように、ぼうっと二枚の行方を見ていた。すると、一枚の赤い札と視線があった。
札と視線が合う、とは奇妙な感じだったが、他に表現のしようがなかった。とにかく、霊夢はその札を見て、やばい、と思ったのだ。
それは何もしていないけれど、紫にじろりと見つめられるのと同じ気持ちだった。
札がまっすぐにこちらへ向かってくる。まさか、まさかよね、と心が焦る。汗が止まらない。
札がまっすぐこちらへ来る。霊夢はぎゅっと目を閉じた。
手の中に何かが握りこまれた。恐る恐る目を開けてそっと手を開いてみる。
中には、先ほどの札が握りこまれていた。
嘘ぉ、と霊夢は声にならないほどの小さな独り言をつぶやいた。
ふと隣を見ると、アリスがとんでもない顔をしていた。そりゃあそうよね、一番がまさか私になるなんて、と霊夢は考えた。
だがどうも違うらしい。
「ええ……」
アリスはここ最近で一番驚いた、という顔をしていた。霊夢はおやっと、違和感を覚えた。
そこで、ふと隣の魔理沙に声をかけようとして、霊夢はすぐ隣に視線を向ける。
「ねえ、魔理……」
そこまで言って、目の前の現実に顔が引きつった。
魔理沙は瞬き一つせず、驚いた表情で固まっていた。その手の中には、もう一枚の札があった。霊夢はそれを見て、言葉が出ない。
「……最初から、飛ばすわね……」
アリスがかろうじてコメントした。
「な、なんとお! 初戦にして決勝戦! 異変解決の幻想郷コンビが初戦で火花を散らすううぅぅう!」
文が叫ぶと、会場のボルテージは一気に最高潮に達した。無理もない。下馬評最強の異変解決巫女と、その長年の友人が共に火花を散らすのだ。
こんな熱い試合を、しかも初戦で見せてくれる。幻想郷の妖怪は否応なしに盛り上がる。
霊夢と魔理沙はおもむろに立って、観客席からステージに移動する。霊夢がふと魔理沙の顔を確認すると、魔理沙は武者震いをしているような、そんな雰囲気が読み取れた。
これもまた、数奇な運命の悪戯って言うのかしら、と霊夢は柄にでもない事を思ってしまう。
「あ、あ、あ……マイクはいいわね? よし」
霊夢は参加者達の熱い視線を一斉に浴びてステージに立つ。すでにステージに上がった魔理沙の方を向いて、にやりと笑う。
「まさか、一番、最初になるとはね」
「いやあ、これはもう運命だな。きっと」
二人は互いに互いをほめる様にして嬉しそうにそう言った。弾幕ごっこ恒例の、ちょっとした挨拶だった。
「では注目の第一回戦、行きますよう……」
文が実に楽しそうに輝いていた。
「はじめ!!」
「よし、じゃあ。始めるか」
そう言って、霊夢は魔理沙に向けて弾幕を。
撃たなかった。
黒々とした観客席の方を向いて、じっとしている。
十秒、三十秒、一分と霊夢は立ち尽くす。
時間が経つにつれ、観客席がざわついてきた。どうしたんだ、という叫び声も聞こえる。
「静かに」
二分ほど経った後に、霊夢が、長い沈黙を破って声を出す。会場はその声に静まり返った。
「結論から、言いますと」
霊夢は笑顔のまま、何一つ変わらない、あっけらかんとした口調だった。
「博麗霊夢は、巫女を引退します」
会場は、先ほどよりもさらに静まり返った。
「霊夢!」
最初に動き出したのは八雲紫だった。紫は霊夢の側に飛んでいくと、会場の結界を突き破った。そして霊夢の肩を持って、驚きと、少しばかりの焦燥感を漂わせながら霊夢をまくしたてた。
「あなた、どれくらい進んでいるの?」
「……」
「一体、いつから見えなくなってきたの?」
「一カ月ぐらい前よ」
「今は?」
「もう片目は死んだ。残った方も、半分くらいしか見えていない」
紫は怒りに狂った表情で、霊夢は平手で殴った。パチンと甲高い音が鳴る。
「どうして何も言わなかったの!!」
「……」
霊夢は答えなかった。ただその瞳には紫の姿は映っていなかった。
「皮膚の感覚も鈍くてね、それぐらいのビンタだと、何も感じなくなっちゃった」
「何で、もっと、早く言わないのよお……」
紫は一変して、ぐしゃぐしゃの泣き顔になる。
「これが私の決めた事だから」
騒がしくなる客席に、霊夢はマイクを持って
「うるさい!!」
と叫ぶ。
「それで、次の巫女なんだけど……」
霊夢はゆっくりと横を向いた。
「この、霧雨魔理沙、よ」
霊夢は笑う。魔理沙も笑う。
会場は静まり返る。異様な空間が、そこにはあった。
「さて、博麗の巫女になるのはいいけれど、そのためには私よりも強くないといけない。まさに下剋上、というわけよ。覚悟はいい、魔理沙?」
「もちろんだぜ」
ゆっくりと空へ昇る二人。それを見守る、群衆。紫はもう知らないと怒りながら、スキマの中へと帰っていった。
「動きなさいよ、全力でやってあげるから」
「なら、早く撃てよ。動いてやるから」
魔理沙が挑発すると、霊夢はいきなり弾幕を張った。
壮絶な量の弾幕が群衆の目を埋めていった。
赤に染められた大きな弾に、ち密に計算された針状の弾が動く。そして、それを紙一重で避けつつ、速さのある鋭い弾を魔理沙が撃ち続けていた。
近年稀に見る、霊夢の本気の弾幕戦だった。
霊夢は雪のように軽やかにその身をひるがえし、見る者の心を奪うかのような鮮やかな色の扇状に広がる弾幕を撃つ。魔理沙はそれを撃ち払うように、星型に彩られた奇抜な弾幕を放つ。
霊夢は高らかにスペルカードを掲げ叫んだ。
「霊符『夢想封印』!」
魔理沙も待っていましたと言わんばかりに、宣言する。
「恋符『マスタースパーク』!」
お互いに一歩も引かない、長い試合だった。
沈みゆく夕日のごとく、静と熱を帯びた赤。
生命の鼓動を現すかのようにそのエネルギーを発散させるオレンジ。
暗い夜空にさんざめき、淡い色を放つ、彗星のような白。
水素のように透き通った青。
満月のように、ワルツを踊る妖精のごとく神秘に満ち満ちた黄。
月の光を優しく受け止め、春を告げるウグイスを呼び込むように薄く光る桜色。
そのどれもが美しい。
妖怪達は、その弾幕を目に焼き付ける様に凝視していた。
霊夢の引退。
誰もが、予想していた事だった。
しかし誰もが、頭の中で考えていただけだった。
地震が起こる事はみんな知っている。
地震がこれから起こると言われても実感はわかない。
招待された観客達は、時代の境目を、この目にきっちりと焼きつけんと、この世紀の一戦の弾幕の美しさ、優雅さを決して忘れえぬように、と。
そして、博麗霊夢の最後の弾幕戦を見届け、新たな巫女に、喝采を送ろうと。
誰もが、そう思った。
空気が震え大地がうごめくかのような衝撃の中、妖怪たちは二人の人間を見守った。
満月の夜は、二人の表情を明るく照らす。
後日、文が特ダネとしてこのニュースを最高速度で幻想郷にかけ巡らした。これで新聞大会優勝間違いないと、確信した文は霊夢と魔理沙にたんまりとお礼をすると約束した。
「こりゃあ、嘘だったら大事だな」
「冗談でも、そう言う事は言わない方がいいわよ?」
霊夢が釘をさすように魔理沙に忠告する。
あの試合から十日ほど経っただろうか。やっと霊夢と魔理沙の周りも落ち着いてきた頃だった。
それまでは、いろいろな妖怪たちが霊夢に話を聞こうと、躍起になって博麗神社に押し寄せてきた。だが、それを魔理沙が阻止する。
「博麗神社に妖怪が乗り込もうとは、いい度胸してるな」
小さな八卦炉から繰り出される、特大のマスタースパークを潜り抜けた猛者だけが博麗神社へと到達できた。
そんな猛者の一人、レミリアは布団の中で横たわる霊夢とのお茶を楽しんでいた。
「ここへ来たのは、私が初めてのようね」
誇らしげに胸を張るレミリアに対し、霊夢は興味がなさそうに反論した。
「咲夜に時間を止めてもらって来たくせに、偉そうなこと言わないの。それに、訪問者はあんただけじゃないわ。紫や幽々子、それに白蓮なんかも訪れたわね」
「まあ、そんな事はどうだっていいのよ」
「気にしてるくせに」
「うるさい。それよりも、本当に魔理沙に務まるのかい?」
「強さは申し分なし。知識は私がこれから教えるわ」
「そうかい……」
しばらくの沈黙。
「霊夢は、これでいいのか?」
「いいのよ」
レミリアには分からない。
「寂しくない?」
「魔理沙がいるもの」
あの頑固な霊夢を、素直にさせた魔理沙。
「……これも時間の流れってやつかな。私は張り合いの無くなった霊夢を見ると、無性に悲しくなるよ。そうさな、例え霊夢が死んでしまっても、今の霊夢になら素直に涙を流せる気がする」
別に悲しいわけじゃない。
これはきっと虚しさだ、とレミリアは思う。
たぶん、霊夢が成長してしまった事が。
自分が置いて行かれた事が。
霊夢はもう、私たちとは違うのだ。
「もう、弾幕ごっこはお終いよ」
そう言って笑った霊夢の顔は、全てを受け入れた女の顔になっていた。
少女は少しだけ大人になって。
レミリアは、その事が少しだけ寂しかった。
あの試合は魔理沙が辛勝を納めて終わった。そして、割れんばかりの拍手の後、霊夢は急いで永琳の手で治療を受けた。
結果は、五感の全般的な低下と、体中に残った麻痺だった。特に目の損傷がひどく、もう視力はほとんどないと言う事だった。
「もうほとんど五感が機能していないわ。よく死ななかったわね」
エイリンが呆れたようにそう言った。
「これでも一番ましな方よ」
さらりと霊夢は言ってのけた。永琳はあほらしい、と言った様子で診断書をつけていく。
「こんなになるまで、戦う必要があったのかしら?」
「いいのよ。私は納得している」
「まあ、それならいいんだけど。でも安心して。一つだけ死んでいない感覚があったから」
「何それ?」
霊夢が首をかしげると、永琳は視力テストの結果を持ちだした。どれくらい視力が落ちているか、最初にテストしたものだった。
「分かる? 霊夢。あなた、目がほとんど見えていないはずなのに、視力テストは2.0よ。素晴らしい第六感ね」
皮肉交じりに永琳が言っても、霊夢は全く気にしない。
「あら、そう」
「見えないなら、見えないってちゃんと言ってちょうだい。あなた、視力検査で適当に答えたでしょう。困るんだけどなあ、そんな嘘をつかれると」
永琳がじろりと霊夢を睨む。霊夢は素知らぬ顔だった。
「まあ、結果的には嘘じゃないから良いんじゃない? 私はちゃんと、適当な選択肢を選んだわけだし」
屁理屈を言い出す霊夢を見て、巫女をやめたものの、この人は相変わらず博麗霊夢なのだ、と永琳は改めて思ったのだった。
診察を終え、永遠亭に戻ると輝夜が珍しく玄関で出迎えてくれた。
「姫様、そんな事をなさらなくても」
「いいのよ、永琳も疲れているだろうし」
そんな事を言いつつ、輝夜は永琳のかばんを持つ。すると不意に、輝夜が永琳の方をじっと見て質問した。
「霊夢は、元気だった?」
「ええ、相変わらずですよ」
「……顔」
「はい?」
「顔は、変わっていたかしら?」
「……はい。とても、キレイな表情をしていました」
輝夜はそう、と短くそれだけを言って、奥へと消えていった。
また一人、少女から大人へとその階段を上がる。
その一歩すら踏む事が出来ない輝夜にとって、霊夢はどう映るのだろうか。
でもね、と永琳は思う。
やっぱり霊夢は霊夢なのだ。
どんなに人が変わろうとも、私たちは変わらない。
だから、この世界も変わらない。
変わるのは世界ではない。自分なのだ。
「だから、霊夢はやっぱり、博麗霊夢なのよ」
そう独り言をつぶやいた。
大会の方は、完全に博麗の巫女に土俵を持って行かれたおかげで、誰もその後を戦おうとしなかった。
あまりにも美しすぎた二人の戦いを見て、妖怪たちは、勝てない、と思ってしまった。弾幕戦において、相手の心を折れさせたら勝ち、というルールがある。これのお蔭で、この後に、例え自分の最高のパフォーマンスを披露しても、自分が空しくなるだけだ、という一種のジレンマに襲われた。
こうして大会はそのまま流れ解散となり、主催者側の守屋神社と紅魔館は博麗神社を恨んだ、わけではなく、もうここまでやられると手の出しようがないとほめちぎった。
「いや、大したものだ。霊夢は最後まで、博麗の巫女だったんだねえ」
妖怪たちのたくらみは、巫女によって阻止される。長い間続けてきた、妖怪と人間のルールを、霊夢は巫女をやめるその一瞬まで守ったのだ。
「という話だけど、真相は?」
アリスが霊夢と魔理沙に質問する。霊夢は布団に入ったまま、魔理沙はその霊夢を支えるような形で質問を受けた。
「実際は、適当に魔理沙に任せといて、私は人里に降りる予定だったんだけどね」
「こんな面白そうな大会があるから、ド派手に宣伝しても良いんじゃないかと思って。そうすれば私にも拍が付くし」
アリスは何とまあ、と呆れた。
「つまり魔理沙は、この大会で皆に新博麗の巫女を、お披露目するためにわざわざ色々な所へ宣伝しに行ったと……」
「そうじゃなきゃあ、ライバルなんて増やさないよ」
じゃあ、魔理沙が負けた時は、という質問をアリスはあえてしなかった。それは多分、質問しても魔理沙は、私が勝つのは当たり前だと言うに決まっているからだ。
「霊夢も無茶をしたわね。そのまま戦っていなければ、こんなにひどい事にはならなかったのでしょう?」
アリスは指を落ち着きなく動かしながら、霊夢に質問した。
「それはそうなんだけど、私の本気に魔理沙がどこまでついてこれるか見たくってね」
「例え死ぬような思いをしても?」
霊夢を試すような目でアリスが質問を重ねた。
「魔理沙なら、私が死ぬ前に倒してくれると信じていたし」
霊夢がよどみなく、はっきりとそう言った。隣で魔理沙が笑いつつ
「照れるな、そんな素直に言われると」
と顔を赤らめた。
アリスはそんな二人を見て、納得したような気持ちになった。
きっとこの二人の中では、終わった事なのだろう、とアリスは思う。
二人の中で、一体どんなやり取りがあったのか、あの戦いの中、二人は一体どんな事を考えながら弾幕を張っていたのか。
それは私たち第三者が思うよりもはるかに多種多様な想いが込められていたのだと思う。
巫女としての責任を、その責務を、命を張って全うした霊夢。
その霊夢を救い出すことで、博麗の巫女の最初の任務を成し遂げた魔理沙。
多分、そう言った事も、全て終わったのだな、と二人を見ながらアリスは思った。
「霊夢は元気かしら?」
紫が今日も現れた。魔理沙は面倒くさそうに追い払う。
「お前、午前中にもきただろう? 早く帰れよ」
「もう、そんなに無碍に扱わなくても良いのに」
そんな事を言いながら魔理沙は紫を追い払った。何せ紫はここ毎日、しかも一日二回訪ねてくると言う、親ばかぶりを発揮していた。
自分の式が泣いているぜ、と魔理沙は思う。
「そんな事はどうだっていいのよ」
「またか」
「ねえ魔理沙」
「何だよ、冷やかしなら帰れよお」
「霊夢をよろしくね。あの子はああ見えて、地に足のついた生活をした事が無いから」
紫が真剣な目をしてそう言った。
「……分かってるよ」
「期待しているわ」
紫は再びスキマの中へと消えていった。
魔理沙は痛いほど分かっているつもりだった。霊夢が、自由を愛する霊夢が、その自由を失った。身体は思い通りに動かず、巫女としての力も失い、もはや霊夢は何をするにも他人の力を得ないといけない。
生きていく事すらも、霊夢は一人ではできない。
その事を痛感しているのは、魔理沙自身なのだから。
霊夢は神社の奥の方で、布団の中で寝ていた。
「調子はどう?」
「まあまあよ」
霊夢の体はひどくぼろぼろだったが、永琳のお蔭でなんとか持っていた。今の霊夢には、舌、目の神経がなく、かろうじて皮膚と耳と鼻の神経が残っただけだった。
それに全体的な筋力の衰えもある。霊夢はもう、一人では立ち上がれないほどに衰弱していた。
「私は、正直言って死んでも良いのよ。私が死ぬかどうかは、魔理沙にかかっているのならば、私は死ぬ自由を選択する。生も死も、私が決める事よ」
あの日、巫女になると決めた日、霊夢は魔理沙にそう宣言した。
そんな自由と引き換えに、霊夢は何か大切な物を手に入れたのだろうか。
魔理沙には、分からない。
魔理沙が、あの試合を長引かせれば長引かせるほど、霊夢の神経は死んでいく。それを覚悟の上で魔理沙は戦った。
霊夢は本当に、全力だった。自分の死に、一切の恐れをなさず、身体の限界まで戦っていた。
相当な、重圧だった。
手は震え、汗は引き、危うく八卦炉を落っことす所だった。
けれど魔理沙は乗り切った。
新旧の巫女が並んでいる。魔理沙は優しい手つきで、霊夢の肩を持つ。霊夢も、魔理沙によりかかり、ゆっくりと身体を起こす。
「ほら、魔理沙。今日も桜が見たい」
「またかよ。私だって、霊夢を支えるのは結構重労働なんだぜ?」
「いいから、ほら。どうせ午後から巫女としての修行があるんでしょう?」
「だから今は休みたいんだけどな」
そんな事を言いつつ、魔理沙は霊夢を支えて立ち上がらせた。霊夢もぐっと力を込めて、その二本の足で立ち上がる。
そして、部屋のふすまを開けて、庭に出る。
「私はね、おんぶにだっこされて生きていくのは嫌だった。けど、魔理沙に引きとめられてね。今になって思うのは、これもありだなって」
霊夢がぽつり呟いた。
弱音ではなく、信頼。
だから魔理沙は霊夢の想いに応えたかった。
彼女が自由を捨ててまで、残った物ならば。
いや、違うな。
手に入れたのだ。この体温のぬくもりを。
だからこの手は一生、離さない。
「ほら、霊夢、今日も桜が綺麗だ」
あえて返事はしなかった。
「あら、本当ね」
閑散とした庭を見て、霊夢がそう言った。
多分、霊夢も知っているのかな、と魔理沙は思う。この庭の桜はもう散ってしまって、桜の木は青々とした緑の葉を揺らしている。
それでも、きっと、霊夢は一年中桜が見たい、と言い続けるのだろう。
それが霊夢の最後に見た、景色なのだから。
一話完結の話にしては、何かしら語られていない部分が多いですね
アリス、パチュリー、慧音、紫、の立ち位置がわからない
魔理沙の思惑がわからない。
そして何より霊夢のことがわからないーー
なにも、読めない
なのに、いやだからこそ、茶番なのですか。
そしてこれはまだ完結していない様子。
そちらに期待です
人比良氏の新作に書かれていた一節の引用だけれど、これが作品というものの真理だと思うんですよね。
加えて貴方は、貴方自身の書き手としてある程度の信念もお持ちだ。
向上の余地を多く残しながらも、楽しめました。
さっそくで悪いのだけれど、私は貴方のこれからの作品にも期待させてもらおうと思います。
流れ、キャラクター、ドラマ、ストーリー構成に必要なものはあれどそれを引き立たせる為の演出が不完全。
なので全体的に淡白な印象を受けます。
これに各キャラの心情を、作風を崩さずに描写できれば、味わいのある穏やかな作品に仕上がると思います。
この作風、話は結構興味惹かれたので、再投稿でもいいので完成されたものを読んでみたいです。
これは期待。
前のロボットのときとくらべてやけに荒さが目立ってしまったんだけど
こういうテーマは書き手によってかなり色が出るから面白い。
旧知を懐かしむ者
傍観を経験した者
幻想に残る事が出来る幸運な者
これらはいずれも自明の概念ですし、加えて神道国幻想の肖像という副主題。
明文化しないほうが有難味が出るというものです
「これが霊夢か?」と思いつつも、しかし最後まで読んでみればやはり霊夢は霊夢でした。
でもやっぱり切ないですよ……
ありがとう