紅魔館のそば、湖の近くに茂る木の枝に氷精が一人座っていた。
特に何をするわけでもなく、水面に映った少し欠けた月を静かに眺めている。
おもむろに人差し指を上に向け、小さな氷を形成した。
透明に、しかし月明かりを受け様々な色を作り出すそれを、彼女は弾くように湖に落とす。
ポチャンという音と共に細やかな波紋がゆっくりと広がり、鏡の如くはっきりと映っていた月の姿を歪ませた。
だがその様子を見ても、氷精の表情は何も示しはしなかった。感情が抜け落ちたかと思わせるほどに。
水の中に存在するまやかしの月から、今この空間に現実に存在している月へ視線を移す。
春の太陽に負けないほど優しい色を持っている、仄かに輝く遙か上空の月に、そしてその周りに居る子どものような星の欠片にそっと手を伸ばす。
絶対に届かない遠くの宝石を掴もうと、手を握っては空を切るばかり。
何度か繰り返し満足したのか、それとも無駄な行為だと諦めたのか、伸ばしていた手を自分が座っている枝の上に戻した。
静寂ばかりが支配する夜の闇に、氷精は溶け込んでいた。
草を踏み鳴らして走ってくるような音が耳に届く。
段々と近付いて来る足音の方に氷精は目を向けた。
動物でもやってきたかと思ったが、それにしては音がいやに人間らしく、忙しない息遣いも聞こえてきた。
鳥目という訳ではないのだが、夜特有の薄暗さに阻まれ、その人物を特定するのに多少時間がかかった。
見えたのは月の光を纏ったような綺麗な金髪の頭に赤いカチューシャ、まるで人形を思わせるような服装。
七色の人形遣い、アリス・マーガトロイドである。
見知った人物だったため、氷精は強張っていた身体の警戒を解いた。
だが知り合いとは言っても声を掛けようとはしない。
夜も更け、必死に走る相手を引き止めようとは思わなかったのだ。
そのまま通り過ぎるだろうと、また湖に視線を戻した。
この間、いやそれ以前から氷精は声など発していない。
しかし何を思ったのか、今まで走っていた人形遣いは速度を落とし、息を整えつつ氷精が居る木の下まで歩いてきた。
氷精は彼女が自分の存在に気付いたのかと思ったが、人形遣いは氷精を見上げることなく木の幹に背を預け、そのままずるずると座り込んだ。
木の上から人形遣いの様子を見る。
座り込んでしばらくすると彼女は膝に顔を埋め、嗚咽を漏らしながら肩を小刻みに震わせていた。
そして氷精は気付いた。
彼女は何処かに行こうとして走っていたのではなく、泣くために一人になれる場所を求めて走っていたのだと。
何故この場所なのだろう、と氷精は思った。
泣きたいのなら自分の家の方が良いだろうし、第一氷精が住む湖だと知っていない訳でもない。
自分が居るとは思わなかったのだろうか、と疑問は増えるばかりだった。
紅い館の吸血鬼が運命でも弄ったのだろうかなんてことも考えたが、そんなつまらないことなどしないだろうと自然と結論が出た。
考えていても仕方が無い。
とにかく、彼女は此処に来て、自分の目の前で泣いている。氷精はその現実だけに目を向けることにした。
氷で出来た羽根を静かに羽ばたかせ、座っている枝からふわりと浮き上がり、人形遣いとは木を挟んで反対側の地面に降り立つ。
音を立てなかったからか、彼女はまだ自分の存在に気付いていない。
氷精は彼女と同じ木の幹に寄り掛かり、尋ねた。
「何で泣いてるの?」
ガサッ、と草の擦れる音がする。
いきなり声が聞こえたから驚いたのだろう。
その所為か質問の答えは返って来ない。
ガサガサと擦れる音も鳴り止まない。
声の主が何処に居るのか気にしているのだと気付くと、氷精は背を預けている木の幹をコツコツ、と軽く叩いた。
途端に草の音が止む。
代わりに何かを拭うような音が聞こえた。
そして、
「…誰よアンタ」
少し間を置き、低めの声で質問が返って来た。
だんまりを決め込まれるよりは随分マシだ。
氷精は一言
「あたい」
と返した。
何処からか迷い込んだ人間なら分からないだろうが、幻想郷に住んでいる彼女なら分かるだろうと思って出した答えだ。
「何でアンタが此処に居るのよ」
予想通り人形遣いは氷精の存在を認識したようだ。
だが再び向けられた質問の内容からすると、彼女は興奮状態なのか頭がパニックを起こしているらしい。
いつもの冷静さがあったなら、この場所に氷精が居るのは至極当たり前のことだと理解するだろうに。
「あたいはいつも此処に居るじゃない」
もっともな返答をする。それもそうだ、住んでいるのだから。
「あんたは何で此処に来たの?」
同じような、しかし違う意味の質問を返す。
すると先程までの怒気を含んだ声が途切れ、辺りが静寂に包まれる。
このままでは堂々巡りになる。
そう思い氷精は、半ば隠れるようにして凭れていた木から身を剥がし、人形遣いの方へ歩き出す。
あらためて見ると人形遣いの背中は、落とすと砕ける氷のような、儚く、脆く、壊れやすいモノのように映った。
近くまで来て、氷精は人形遣いの横に腰を下ろす。
人形遣いは隠すように再び膝に顔を埋めた。
その様子をしばらく見つめ、氷精は彼女の月明かりと同じ色の金髪をそっと、梳くように撫でた。
彼女の身体がビクッと反応する。
しかし手は止めず、
「言いたくないなら言わなくて良いよ。でも、泣きたいなら泣いて、話したくなったら話して。あたいは、此処に居るからさ」
そう呟いた。
人形遣いは顔を少し持ち上げ
「…アンタには関係ないわ」
と突き放すように冷たく言い放ち、氷精の手を叩いた。
相手が怒って自分から離れていくようにするために。
いつもの氷精ならば頬を膨らませ不貞腐れて、または怒って何処かに一直線に飛んでいってしまう。
だが此処に居る氷精は、動こうとはしなかった。
「今関わってるじゃない」
何も無かったかのように返す。
予想外の反応に、人形遣いは驚きのあまり目を見開き、そして氷精の方に顔を向けた。
普段見ている子供のような顔ではなく、自分よりも年上ではないかと感じさせる雰囲気が漂う顔で、氷精は人形遣いに優しく笑いかけている。
氷精の目は昼間の青く透き通った色ではなく、奥に影を持つ蒼に変わっていた。
不意に二人の目が合う。
その深い水底に存在しているような、吸い込まれそうなほど蒼い瞳に、不思議と人形遣いは冷たさを感じなかった。
氷精の瞳の中には人形遣いの姿が映っている。
いつもの堂々とした態度も、冷静に判断を下す荘厳さも感じられない。
ただ、一人の弱い生き物を映し出していた。
今にも崩れそうな自分の姿を、人形遣いは氷精の目を通して見つめていた。
氷精は黙って人形遣いに目を向けていた。
先程一人で居た時のように。
たまに風が吹いて彼女の青い前髪を揺らす。
夜の風はひんやりと冷気にも似た冷たさを持ち、少女達の頬を撫でていく。
その自然の行為は、氷精には心地良さを、人形遣いには肌寒さを与えた。
人形遣いは身震いし、両肩を抱くように両手で包み込む。
そして
「アンタが近くに居る所為で寒いわ。どっか行きなさいよ」
と、先程まで忘れていたいらつきに任せて、原因が氷精ではないと分かっていながらも今一度彼女に冷たく言い放つ。
すると氷精は無言のまま立ち上がって木々の間を縫うように飛んでいった。
人形遣いは呆気に取られた。
自分で突き放しておいてなんだが、すんなりと自分から離れていくとは思っていなかったからだ。
氷精がまた、何かしら理由を付けて自分のそばに居てくれることを期待していたのかもしれない。
しかし、今は一人になった。
一人になりたいと思っていたはずなのに、本当に一人になると寂しさが重く圧し掛かり潰されそうになる。
いつしか風も止み、静か過ぎて耳が痛くなった。そんな静寂を破ろうと口を開いたが、出てきたのは
「馬鹿みたい…」
自分にしか聞こえないような小さな声だけだった。
自分の都合で他人に当たって怒らせて、一人になったら寂しいなんて
「まるで子供じゃない…」
人形遣いは再び膝を抱えた。
申し訳なさと恥ずかしさが膨らんで、膨らんで。
忘れたくても消えてはくれなかった。
自分が呟いた言葉によって寂しさがひとまわり、ふたまわりと大きくなった。
何気なく湖に目をやる。
水面に映った月も、自分と同じ一人ぼっちなんだと感じた。
ずっと此処に居るわけにもいかないため、もう自分の家に帰ろうかと思案していると、肩に何かが掛けられた。
触ってみると柔らかな感触が指先に伝わる。
一体誰が、と隣を見やる。
そこには、つい先程飛んでいった青い少女が立っていた。
相変わらず優しげに笑っている。
その氷精の姿を見ただけで、人形遣いは泣き出したい気持ちになった。
「これで寒くないでしょ?」
氷精はそう言ってまた人形遣いの隣に座った。
この毛布を自分のために取りに行ってくれたことが、人形遣いには嬉しかった。
だが、何故氷精は怒らないのかとも思った。
馬鹿と言われただけでもすぐ怒るはずのこの氷精が、何故冷たい態度ばかりとっている自分のそばに来るのだろうか。
その疑問は不意に口から出た。
「…何で怒らないの?何で戻って来たのよ」
膝を抱えるのをやめ、問い詰めるように氷精に身体を近付ける。
自分でも分かるくらいに声が震えている。
人形遣いは耐えるように肩に掛けられた毛布を握り締めた。
対して氷精はキョトンと、呆気に取られた顔をしている。
そして
「何であたいが怒るの?」
逆に聞き返した。
次は人形遣いが呆気に取られる番だった。
この氷精には驚かされてばかりだ。
「何でって、私酷い態度ばかりとって…」
人形遣いが悔いるように答えると、氷精は、あっ、と気付いたように表情を変えた。
まるで今までのこと全く気にしていなかったと言っているように。
そしてそのことを肯定するように言った。
「あたいが勝手に近くに来たんだし、あんたは悪くないわ。だから怒る理由もない」
誤魔化すような小さな笑みの後に、
「それと、あたいは」
人形遣いと自分の間の地面に人差し指を向けて
「此処に居るって言ったじゃない」
そう続けた。
氷精のあどけなくも大人びた笑みに安心感を、彼女の居るひんやりとした空気にさっきは無かった心地良さを、人形遣いは得た。
暗に『そばに居る』と告げられたことに幾分間を置いて人形遣いは理解した。
その瞬間、彼女の押し留めていた感情の器に音を立てて亀裂が入る。
人形遣いの眼からひとしずくの水滴が零れ落ちる。
今まで我慢していたのだ、氷精の前で泣かないように。
それが一度、少しでも出てきてしまったならばもう、止まりはしない。
熱を持った雫がボロボロと溢れ出てくる。
拭っても拭っても止まらない。
それどころか勢いを増して人形遣いから出ていった。
彼女は歯を食いしばる。
それでも嗚咽は漏れていく。
自分自身のことなのに、対処の仕方がまるで分からなかった。
「ひっ…ぅ……うう…」
情けなく見えるだろうか。
みっともなく見えるだろうか。
泣くところは見せたくない、見て欲しくない。
地面に手を着き、俯きながら人形遣いの中で色んな思いが鬩ぎ合う。
その時、一瞬顔に影が降りる。
彼女は泣きながらも小さな異変に顔を上げかける。
すると彼女の身体が何かに包まれた。
毛布などの物ではなく、それは包み込む力が段々と増していく。
…人形遣いの正面に移動してきた氷精に、抱き締められていた。
決して暖かいとは言えない体温だが、人形遣いにはどの生き物よりも暖かく感じた。
背中に回された氷精の細い腕も頼もしく思えるほどだった。
氷精は膝立ちで人形遣いを抱き締めていて、ちょうど人形遣いの顔の横に氷精の顔がある。
氷精の表情は隠れていて見えない。
人形遣いの表情も彼女からは見えないだろう。
それだけで気持ちが軽くなったように人形遣いは感じた。
ほう、と息を漏らす。
すると氷精が背中に回していた片手を、幼子をあやすようにポン、ポン、と軽い手付きで動かし始めた。
人形遣いは中心からじんわりと暖かくなっていく感覚に浸る。
親に甘える子供にでもなったかのようだ。
氷精の肩に顎を置き、ゆっくりと体重を預けた。
しっかり支えようとしているのか、氷精の腕に力が篭る。
その力に安心し、人形遣いはそのまま目を閉じた。
先程とは違い、氷精によって冷やされた水滴が一筋、彼女の頬を伝った。
「落ち着いた?」
耳元で呟かれる。
その声で人形遣いは我に返った。
どれほど経ったのかは分からないが、随分長い時間が過ぎたように感じた。
体勢は先程と同じで今も氷精に抱き締められたままだ。
「ん…大丈夫。ありがと…」
人形遣いがそう答えると、氷精はゆっくりと身体を離した。
そうして見えた氷精の顔は、やはり優しげに笑っていた。
その笑顔が眩しくて、人形遣いは僅かに目を細める。
しかし段々と、自然に力が抜けて彼女はやんわりと微笑んだ。
つられて笑った訳ではないのだが、これもいつもと様子が違う氷精の仕業なのだろうか。
なんてことを考えながら人形遣いは自分の隣に座り直す氷精を見ていた。
氷精は湖の方を向いて、何故泣いていたのか問い詰めてこない。
人形遣いが自分から話すのを待っているかのように。
ここでずっと黙っているという選択肢も良いのかもしれない。
だが人形遣いも湖の方に目を向け、
「…話、聞いてくれる?」
話すことを決めた。
僅かに人形遣いに視線を向け、氷精はまた湖に目を向ける。
そして
「話してくれるなら」
そう返した。
「私が人形を作ってるのは知ってる?」
人形遣いは氷精に尋ねた。
今更知らない訳もなく、氷精は首を縦に振る。
それを確認して人形遣いは話を続けた。
「人形って言ったら、動かない置物みたいに思われることが多いわ。子供の遊び道具とかね。でも私はそんな人形じゃなくて、生きてる人形を作りたいの」
はっきりとした声で話す様子は、いつも見ている人形遣いそのものだ。
先程までの弱気な彼女は夢ではないかと錯覚させられる。
そんなことを思いながら、氷精は
「生きてる人形って?」
疑問を口にした。
「言葉の通り、生命を持った人形って意味よ。自分で動いて、自分で考えて、自分で話して…。私やあなたみたいな生き物としての人形ってとこかしら」
分かりやすい説明を織り交ぜて話す彼女は、真剣に自分の考えを聞いてもらいたいのだと氷精は理解した。
別にふざけて聞く気も無いが、相手を蔑ろにしないためにも少しばかり彼女との距離を縮めるために身体を動かした。
そして話を促すために
「それで?」
短いながらも言葉を紡いだ。
人形遣いも話を繋ぐ。
「日々創作。どうすれば完全自律が組み込めるのか本を読んで研究したり、思い付く魔法を人形に施してみたり」
苦笑しながら続ける。
しかし、次の
「でも、ダメだった」
この一言が妙に響いた。
人形遣いは虚ろな目で近くにあった小石を拾い、湖に投げた。
ポチャンと小さな音が聞こえ、すぐにシンと静まり返る。
「どれだけ調べても、どれだけ魔法を使っても、自分で動いてはくれなかった」
淡々とした口調で話す彼女が痛々しい。
「一瞬浮き上がるだけで、後は糸が切れたみたいに落ちるのがほとんど。何度やっても結果は同じだった」
ここまで話して人形遣いはゆっくりと顔を伏せた。
思い出された記憶が辛かったのか、それは彼女にしか分からない。
氷精は堅く握られた人形遣いの手を、横から伸ばした己の片手で黙って上から包み込むように握り締める。
人形遣いは俯いたまま
「今日も失敗して…結果が良い方向に行かないのが、悔しくて堪らなくて…」
自分が泣いていた一番の理由を吐き出した。手が小刻みに揺れている。
また、我慢しているのだろう。
氷精は自分の空の片手をそっと見つめた。
冷気を集め密度の高い氷の結晶を手の中に作り出す。
それは一片の曇りもなく、研磨された水晶のような整った形を持っていた。
その氷を人形遣いの目の前に出し、
「これ、綺麗でしょ」
そう言って見ることを促す。
少しだけ顔を上げ、確認した後に人形遣いは頷いた。
だが、それが何だと言うように人形遣いは氷精に視線を送る。
「あたいがこれ、簡単に作ったと思う?」
氷精は苦笑し、人形遣いはどういうことか分からず首を傾げた。
そのまま氷精は続ける。
「練習したんだよ、何度も。始めはすぐ割れちゃったりしてさ、形さえ保てなかったんだから。それからずっと練習して割れなくはなったけど、今度は氷の中に空気の泡ができて白く濁っちゃった。」
ここまで聞いて人形遣いの頭に何かが引っ掛かった。
これはまるで…
「同じでしょ?」
人形遣いの身体がビクッと跳ねる。
図星なのだ。
今の自分と、氷精の姿が被って見えた。
しかし今自分の目の前にある氷は白く濁っていない。
ということは。
「それからまたずーっと練習したんだ。それで」
氷精は氷を真上に投げる。
「こんな風に作れるようになったの」
そう言って落ちてきた氷を掴んだ。
その氷は先程までの形ではなく、人形遣いが普段つれている上海という人形を模している。
一瞬の内に何が起こったかなど理解できないが、細部に亘る精密なまでの再現率に人形遣いは息を呑んだ。
すると氷の上海人形が目の前に差し出される。
氷細工に見入っていたが、すぐに人形遣いは氷精に向き直った。
氷精は当たり前のように微笑んで言う。
「手、出して」
彼女の小さな口から零された声を拾い、人形遣いは素直に従い、氷精に触れていない方の手をおそるおそるといった風に持ち上げた。
その上に小さく、透明な上海人形が乗せられる。
氷独特の鋭い冷たさが肌に突き刺さるようで、手から温もりが少しずつ奪われていく。
だが痛みに襲われることはなく、寧ろこの氷の人形に温かみさえ感じられた。
手を顔の近くまで持ってきて、人形遣いはさらに氷像を見つめる。
「生きてるみたい…」
無意識の内に言葉が出ていた。
自分が作った上海人形が氷の中に閉じ込められているようだ。
そう思った後、手の上に僅かながらできた水溜まりに目が行き、己の熱が上海人形を徐々に溶かし始めていることを知った。
「ごめん、溶けてきちゃった」
氷精に返そうと手を近づける。
しかし氷精は受け取らず、手を翳したと思うと氷を瞬時に霧状にして夜の空へと散りばめた。
人形遣いはいきなりの行動に声も出せず、驚きを露わにしているであろう顔で氷精へと向く。
氷精は苦笑して
「氷はずっと存在するなんてできないの。溶けるか砕けるか、消えていく術しか存在しない」
空を仰ぐ。
散らばった氷の粒子が光を反射し、煌めいていた。
「上海が溶けるとこなんて見せたくなかっただけ、自分で作っといてなんだけど」
そう言うと再び湖に目をやった。
その横顔は何だか寂しそうにも見える。
人形遣いは何か掛ける言葉はないかと思案していると、
「上海は生きてるんじゃないの?」
唐突な質問が聞こえてきた。
湖を向いたまま氷精が口に出したらしい。
すぐに人形遣いは
「上海は私が指令として出したことはやってくれるけど、それは自分の意思じゃない。だから生きてはいないわ」
と、きっぱり返す。
だが氷精は続けてこう言った。
「心があっても?」
時が止まった。
今彼女はなんと言っただろうか。
心?
人形に、上海に心があると言うのだろうか。
そう思い、人形遣いは動かない。
否、動けなくなった。
何故氷精はそんなことを言ったのか追求したくても声が出ない。
上海に心があることを暗に期待しているからだろう。
人形遣いは氷精の顔を見ることしかできなかった。
二人の間にしばし沈黙が続く。
そんな重苦しい空気を壊したのが、氷精から発せられる歌声だった。
あたたかな手から生まれた心を持たない人形
笑うことはなく
話すこともない
いつか聞いてほしいこの思いも
言葉にはならないけど
力の限りを振り絞って
生きていくことを知るから
人形はありがとうという言葉の意味を覚えた
でもまだ使うことも
話すこともない
いつか聞いてほしいこの思いも
言葉にはならなくても
力の限りを振り絞って
ありがとう、そう伝えていくから
氷精はここまで歌うと静かになった。
歌詞を忘れたのか、知らないのか、それとも意図的に止めたのか、それは彼女だけが知っている。
人形遣いはいつの間にか閉じられていた目を開く。
氷精の歌声は氷のように透明で、澄んだ水のように人形遣いの身体に染み渡った。
混乱と期待が混ざり合っていた心が落ち着いて、もっと歌を聞いていたいと懇願する。
それほどまでに、彼女の歌声に魅せられ、惑わされたのだ。
その後
「この歌さ、『doll』って言うんだって」
氷精が呟いた。
「doll…人形?」
外の世界の英語という言葉で、人形を表す単語らしい。
自分のスペルにも使われているものだったため理解が早かった。
「そう、人形。この歌聞いた時、すぐにあんたと上海のことだって思った」
鈴の音が鳴るように、小さくも明澄な氷精の声が夜の空間に響いている。
氷精と話したのは初めてではないのに、その声に人形遣いは引き込まれる感覚に陥った。
しかし氷精は気にせず続ける。
「家族として作られた人形は、自分を作ってくれた人があたたかいことを知っているし、何を望んでいるかも知っている。でも自分には感情を表す術はないし、話せる口もない。言葉として外には出せないけど、中には伝えたい思いを抱えている」
然も全てを知っているかのような口振りに、人形遣いは黙って聞いている以外に何もできずにいる。
しかし、期待だけは膨らんでいった。
「ある時、人形は自分を作ってくれた感謝、自分を家族にしてくれた感謝を伝えられる『ありがとう』という言葉を覚えることができた。でもまだ人形は使うことができなくて、その思いを仕舞ったまま。だけど、いつかはこの感謝の思いを聞いてほしい、知ってほしい。言葉として聞いてもらうことはできなくても、自分の持てる力を振り絞っていつかありがとうと伝わることを願っている」
一気に話して疲れたのか、氷精は草の上に仰向けになって寝転がった。
そんな彼女を見ながら、人形遣いは自分の胸に手を当てる。
希望にも似た期待が人形遣いの中で大きくなりつつあった。
「それは歌詞を解釈しただけなの?それとも…」
どうか自分の願いを肯定してほしい。
そんな思いで氷精の顔を身を乗り出して覗き込む。
彼女の顔は穏やかだった。
「上海の気持ちだよ」
この答えを聞いて人形遣いの胸に嬉しさが込み上げる。
氷精の言葉、何の確証もないはずなのにそれが真実のように思えた。
いつもの自分ならばただの推測だとか想像に過ぎないだとか否定して終わるのだろうが、今は信じたくて仕方が無かった。
「隠れてないで出ておいでよ」
突然氷精が木の陰に顔を向け、呼び掛ける。
他に誰か居たのだろうか。
そう思って人形遣いも木の陰に視線を移す。
そこに見えたのは、顔を半分だけ出している上海だった。
「上海、何で此処にっ…」
自分は命令していない。
人形である上海が一人で勝手に行動なんてしないはず。
しかし上海は此処に居て、呼ばれたためかゆっくりとこちらに近付いてきた。
表情もなく話もしない、いつも通りの上海。
だが少しおどおどしているようにも見える。
氷精の話のためか、期待からくる幻想か、どちらにしろいつもと違っていると感じた。
お互いの距離がだいぶ縮まってから、氷精が上海へと寝転がったまま手を伸ばした。
そして
「心配してたんでしょ」
と、上海に話しかけたのだ。
声こそ発することはなかったが、上海は氷精の手に触れ、会話するようにコクン、と頷いた。
これだけでも人形遣いには信じられない光景だった。
氷精は上海にも優しげに微笑んで、続けた。
「あんたも素直に行動すれば良いのに」
そう言うと上海が少し俯いた。
考え込んでいるようにも見えるが、すぐに人形遣いへと顔を向ける。
本当に生きているような動き。
これだけでも奇跡が起こったかのようだったが、その遥か上を行く出来事が起こった。
上海が人形遣いの胸に飛び込んだのだ。
人形として付けられた小さな手に力が篭り、人形遣いの服をしっかりと握り締めている。
その手には温かさこそ無いものの、必死にしがみ付く姿が子どものように感じられた。
「私、何もしてないのに…」
呆気に取られている人形遣い。
氷精はそんな二人を眺めながら、人形遣いの疑問に答えるように
「話せないから行動してるんだよ。上海なりの『ありがとう』なんじゃない?」
と言って笑った。
この時の氷精の笑顔は、人形遣いには少し無邪気さが混じっているように見え、またその無邪気さには「素直に喜びなよ」という意味も含まれている気がした。
人形遣いは今起こっていることが現実だと確認するように、自分の胸にいる上海人形を優しく、しかし強く抱き締めた。
それに答えるように上海の力も強くなる。
夢ではないのだと、人形遣いに認識させるには十分だった。
「っ……上海…、上…海ぃっ……」
止まっていた涙がまた、流れだした。
悲しさや悔しさによってではなく、嬉しさ故に流される雫は空の星よりも輝いて、地面に落ち滲み込んだ。
人形遣いは泣いている。空に浮く月よりも大きな喜びの中で。
人形はありがとうと言っている。親のようにあたたかな人形遣いの胸の中で。
二人の様子を、いつもの現実では起こり得ない、いつもと違う現実を氷精は眺めていた。
有り得ないことなどないのだ、この世には。
望めば望むだけ道があり、望めば望むほど得るものは大きくなる。
求めることこそ必然であり、必要なのだ。
氷精はそう考えている。
求め、望み続けた人形遣いとその人形が得た喜びは、おそらくどんな宝よりも価値のあるものだ。
その姿を目にすることができた自分は本当に運が良いと感じた。
二人から視線を外し、まだまだ暗い闇夜の空に、再び氷精は手を伸ばす。
一度ギュッと握り締めて、今度は上手く掴めたと思った。
そしてやんわりと微笑んだかと思えば
「今日は本当に良い夜ね」
そう小さく囁いた。
「分かってあげられなくてごめんね、上海」
落ち着いてから人形遣いは上海を離し、謝罪とともに頭を撫でていた。
上海はふるふると首を横に振る。
気にしてないよ、とでも言っているのだろう。
そんな上海に
「ありがと」
と返し、人形遣いは氷精に向き直った。
そして
「あなたも、ありがとね」
感謝の言葉を口にした。その顔は若干赤い。
氷精は起き上がり、
「どういたしまして」
素直に受け止める。もちろん笑顔で。
その後に続いたのは
「まだ完全自律目指すの?」
少々忘れかけていた目標。
すると人形遣いは
「まだ上海は完全に自律している訳じゃない。だからこれからも頑張って研究するわよ」
と力強く、そして氷精に負けないほどの笑顔で言い放った。
えらく強気で話す人形遣いが可笑しくて、
「良い結果を期待してるわ」
と氷精は笑いながら返事をした。
夜も更け、氷精はそろそろ帰った方が良いと人形遣いに促す。
すると人形遣いは指を遊ばせながら、ごにょごにょと言い淀んでいた。
「どうしたの?」
氷精は普通に尋ねただけなのだが、人形遣いの身体がビクッと過敏に反応する。
そして、顔を赤くしながら
「その…また、会いに来ても良い…かしら」
消えてしまいそうな声で聞いてきた。
しばし呆然として氷精は人形遣いを見つめる。
そんな視線に耐え切れず、人形遣いは薄明かりでもはっきりと分かるくらい真っ赤になって俯いた。
そんな中、我に返った氷精は
「…楽しみにしてる」
と嬉しそうに微笑んで言った。
人形遣いも顔を上げて嬉しそうに微笑む。
上海も人形遣いのそばでくるりと回っていた。
「それじゃ、帰るわね」
上海と一緒に家のある方向へと歩き出す。
すると後ろから
「気を付けてね、アリス」
短い言葉とともに聞こえた自分の名前。
人形遣いは思わず振り向いた。
先程と変わらない笑顔の氷精がいるだけだが、今日自分の名前を聞いたのはこれが初めてだ。
名前を呼ばれたことに喜びを感じ、人形遣いも
「ありがとう、チルノ」
氷精の名を呼んだ。
氷精は手を振って見送ってくれる。
今度はもっと名前で呼ぶことを心に決め、人形遣いは再び家の方へ足を向けた。
私はこう言うチルノ大好きです。
アリスとの絡みってのは、あんまり見たことないですが良いですね。続き期待してます。
だけどもチルノだった。
そして、どこまでも、少女だった。
ありがとう
お姉さんキャラとして描かれることの多いアリスと、子供っぽく描かれるチルノの立場を入れ替えたような感じが新鮮でした!