一つ、散り行く花を目にしては。
一つ、去り行く蝉を目にしては。
一つ、枯れ行く葉を目にしては。
一つ、融け行く雪を目にしては。
死生の是非を問い、己が命を秤に懸けん。
九寸五分の恋、命を賭す御願が、其の三。
例えば斯様な物語。
一.
「本来ならば、此度このような大仰なる儀を挙げる事は、稗田家の威信に関わる事のように思われるかと存じ上げます。けれども、第九代御阿礼の子の名を冠するこの稗田阿求の、我儘を押し通される事にどうかご理解を頂きたく思います。何故なら彼女は私にとって無二の人でありました。幼少の頃より色々と世話を焼いて頂き、彼女が居ない生活などは到底考えられないほどに、彼女は私の生活の中に溶け込んでいたのです。その彼女が、先日自ら命を断ちました。私は生涯この大事件を忘れぬよう、そして彼女に敬意と愛情とを表明する為に、今は亡き彼女の存在が、来たる未来の中で人々の記憶から永劫忘れられぬように、このような儀を挙げたいと思った次第で御座います。どうか、今は何も云わず、彼女の死を悼んでくれますよう、切に願っております。そうして今一度、先立つ不幸と、先立たれる不幸とを、皆様の胸中にて、考えて頂きたく思います」
私は稗田家の家人を一か所に集め、その真中で利発そうな目に、少しの涙も湛える事なく話し終えた阿求様を眺め遣りながら、この葬儀の為に用意された大掛かりな飾り付けや、今は亡き女に手向けた絢爛豪華な花束の数々に目を配っていた。阿求様が仰られるように、稗田家に努める下女に対して、これほどまでに大仰な準備をする事は、少なくとも未だ若輩者の域を出ない私にとっては、異例と称して間違いない事態であった。
葬儀に参列した人々は皆厳かな面持ちで、席へとお戻りになる阿求様の小さな体躯を見詰めていた。あまり若い者が居ない事もあり、私は何だか心細い心持ちだったが、間もなく坊主の読経やら何やらが終わり、私はこの辛気臭い葬式の場より脱出する事が出来た。私には、隣に座る父の厳しい表情の意味が微塵も理解出来なかったし、また理解しなくても好かろうという思いがある。そんな私にとって、この場は窮屈以外の何物でもなかったのである。
そうして葬式が恙無く行われた晩に、私は父の部屋へ呼び出された。稗田家に仕える下女の一人が死んだのだから、多少は役割の整理をしなければならないとみえて、私はその為に呼び出されたらしかった。事実、屋敷に仕える者達は、口々に自殺した彼女の穴を埋める事になる者は誰になるのか、と頻りに話し合っているのをよく目にする。屋敷内でも特に雑用を任されている者共の話からは、出世の契機が訪れたのやも知れぬという不謹慎な言葉も耳にした。私もその雑用を任されている一人ではあるが、出世だの何だのという事には何等の興味もなく、また不謹慎な口を叩く者達を告発する必要も感じられなかったので、やはり父の呼び掛けに答えるべく、稗田家の長い廊下を黙って父の部屋まで歩いて行った。
「失礼致します」
そう云って、父の部屋を塞ぐ襖を開け放つと、中には葬式の時より寸分も変わらぬ表情をしている父の姿があった。腕を組み、部屋の中に踏み入った私を見詰めたまま、微動だにしない。これは何か重大な事が告げられるな、と私は頭の片隅に思い浮かべると同時に、先刻耳にした出世絡みの話を思い出した。
「座りなさい」
一言ぴしゃりと云われ、不審に思いながらも座布団の上に腰を下ろすと、やはり父は何も云わぬまま、私の顔をじっと眺めているばかりで、一向に用件を切り出そうとはしなかった。よもや危篤に陥った事でも知らされるのではなかろうか、と一瞬思い浮かび、背筋が凍り付くかと思われたが、目の前に座り、太く屈強な腕を組んで、まるで山の如く座している父に限って、そんな事はあるまいと思うと、やはり父が如何なる用件で私を呼び出したのかは、見当も付かなかった。
「……実は、お前に話さなければならない事があってね」
「存じ上げております。如何なる内容なのかは、少々判りかねますが」
「ふむ。その前に、尋ねたい事が一寸あるのだが、好いかね」
「なんなりと。答えられる質問であれば、お答え致します」
「お前は、この稗田の屋敷を好いているかい」
重く塞がれた唇を漸く開いてくれたかと思ったら、父の質問はあまりに私の予想の範疇より逸脱していた。と云うのも、私は稗田家に仕える父と母の間に生まれ、そのまま稗田家に仕えていたから、この屋敷が好きか否かと問われると、何だか答えに迷ってしまうのである。
「と、云われましても、私は生まれた頃より稗田家にお勤めしている訳ですから、最早答えは決まっているようなものではないですか。私が否と答える道理もありますまい」
「そうかも知れないが、言葉にしなければ判らない事もあるよ。どうかね、此処は一つ、正直に答えちゃくれないかね」
正直に答えてくれ、と云う父の言葉とは裏腹に、私は正直な答えなど決して返すまいと心に決めていた。私にとってはこの環境こそが当然であり、それ以外の場所で生きる事など考えられなかったので、やはりこの屋敷での暮らしが好きか否かと問われると、何だか曖昧な答えしか出て来ない。詰まる所、正直に云えば判らないのである。が、父はもう還暦を迎え、白髪も大分目立つようになった老人であるだけに、その顔に寄せられた皺や年相応の外見を見ると、何だか曖昧な答えを返す事が、段々可哀想になって来てしまい、父の望む答えを返さなければ、という気が大きくなって行く。私は一呼吸置いて、思索を巡らせると、父が望んでいるであろうと思われる言葉を紡いだ。
「勿論、私は此処に生まれ、此処で育ちましたし、お父様もお母様も好くして下さいました。嫌う理由など何一つありません。私は稗田のこの屋敷を好いております」
「そうかい。では、何故お前はこの屋敷に勤めるのかね。若い者には若い者の夢があるだろう。ともすれば、この屋敷はお前を縛り付けているのだからね」
「そんな事を思った事はありません。お父様がそうして来られたように、誠心誠意稗田家の為に仕える事が、私の幸せなのです。そうする事で、お父様やお母様から頂いた御恩を、初めて返せましょう」
「それじゃ最後の質問だよ。――阿求様の事を、どう思うかね」
父の言動の妙は、益々私を困らせた。幾ら稗田に仕えていると云っても、私は所詮雑用を任された取るに足らない人間であるのだし、これまでも阿求様に直接関わった事はない。遠目から眺める折はままあるにしろ、やはり話した事はないのだから、云ってしまえばお互いに関心を持った事がない者同士、如何なる感情も生まれようがなかった。私は阿求様の事を、丁重に扱わなければならぬ人程度にしか思っていなかったので、それまで流暢に動いていた舌も、父の質問によって封じられてしまった。こうなっては正直に云うより他になかった。
「私は今まで阿求様と直接関わった事は御座いませんし、遠目から眺めるだけで、それ以上の事はしようとも思いませんでした。ただ、お守りすべき人、とのみ思っております」
「正直でよろしいね。実は、今日呼び出したのは、他ならぬ阿求様の事なんだよ」
「はあ」
「今日行われた葬儀で亡くなられた人の事を知っているかい」
「いえ、時折見掛けるばかりで、詳しくは存じ上げません」
「あの人は、生まれた頃より阿求様の世話を任せられていたお方だ。阿求様とは誰よりも長い付き合いのあるお方でね、それはそれはお優しい方だった。若くして、色々とやりたい事もあるだろうに、何時でも阿求様の事だけを一番にお考えになさる人だったよ。……本当に、惜しい人を亡くしてしまった」
父の言葉には次第に涙が交じり始めた。克明に刻まれた目尻の皺には、涙の一滴が灯りを受けてきらと光っている。私は何と云って好いのか判らず、ただ「御愁傷様です」と云ったばかりであった。父は一頻り咽び泣いた後、改めて私の顔を見詰め直して、本題を切り出した。既に屋敷は静まり返っている。先刻までは頻りに聞こえた誰某が歩く音などは、何処にも聞こえなかった。背後の襖の向こうには、きっと暗黒があるばかりであろう。
「悪いね、みっともない姿を見せてしまって」
「いえ、そんな事は」
「色々と時間を掛けてしまって済まないが、今晩お前を呼び出したのは、他ならぬ阿求様のお世話をする役割を、お前に担って欲しいという話をする為だったんだよ。これは父としてだけでなく、稗田家の総意から決定されたのだが、無論当人の意思を優先するようになっている。どうだね、請け負ってくれるかい」
父はそう云うと、じっと私の顔をまた見詰めた。老人の眸には確かに期待の光が灯されているように思われる。私はその一瞬間に、幾つ物を考えたのか判らなかった。何故、突然そんな重役を私に頼むのか、阿求様と殆ど面識がない私が任命されるべきでないだとか、兎角色々な事を考えた。即決する事が出来るはずもなく、私は悩みながら押し黙ってしまった。変に私を急かさない父の態度は、殊更焦燥感を与えるもので、金槌で頭を殴られたような感覚に陥ったまま、私は中々混乱から抜け出せずにいた。
「質問を返すようで失礼かと存じますが、何故私のような男をそのような重大な役割に任命するのでしょうか」
「尤もな疑問だね。お前も知っての通り、僕は給仕やら雑用やらの人間を統制する役割を担っているだろう。云わばこの稗田家に仕える人間を最も多く知っているのが僕だ。その僕が、最も適正だと判断した者がお前なのだよ。これは決して贔屓などではないし、況してや僕の独断で行った事でもない。私の推薦を上が受け入れてくれた結果だ。お前は礼儀正しく素行も好い。そして何より我を持っている。僕が考えるには、その我が一番重要なのだが……これは知らなくても好いね。兎も角、そういう訳なんだ。どうだい、やってくれるかね」
父が途中で切った我の意味は判然としていなかったが、私は特にそれを追究するでもなく、黙って座っているだけだった。どんな返答を返すべきかと迷っているものの、「はい」という言葉はその迷いの中にはない。どうすれば上手くこの場から脱する事が出来るのか、という点に於いてのみ私の頭は回転しているのである。
「私などは……本当に取るに足らない男で御座いますから、他に適任は幾らでも居るでしょう」
「いいや、僕の見た限りでは、お前以上の適任はいないよ。自信を持って好い。お前は本当に出来た息子だよ」
「しかし」
「厭なら厭と云っても好いんだ。僕が勝手に進めてしまった話だから。何もお前の意思を蔑ろにするつもりではないんだよ」
私にはその時の父の言葉が、脅迫に用いられるような強い言葉に思われて仕方がなかった。恐らく傍から見ても父思いに映るであろう私にとっては、父の期待を裏切る事など出来るはずもない。私は何としてもうんと云わなければならない心持ちがした。元より、父の申し出を断る事は、例えどんなに尤もらしい理由を付けようとも、私には出来ない。そう思うと、先刻交わした問答が途端に馬鹿らしくなって、私は父に気付かれぬように嘆息を零すと、首肯した。
「判りました。元より断る理由など無かったのですが、如何せん大きな責任を負わなければならないのみならず、お父様の尊厳にも関わりのある話でしたので、つい躊躇してしまったのです」
「そうか、受けてくれるかい。僕はこれほど嬉しい事はないよ。お前が御阿礼の子の世話をするんだ。一生誇りに思う事が出来る。お前も同じ心境で居てくれれば好いのだが……」
「ええ、勿論です。一時は身に余る光栄に思えたので戸惑ってしまいましたが、考えてみれば、稗田家に勤める者として
、これ以上の栄誉もありません。今すぐに飛び上がって喜びたいくらいです」
「そうか、そうか。お前は本当に好い子だね。これからも、今までと同じお前でいておくれ」
父はそう云って、温厚な性格には似付かぬ逞しい腕を私に向かって延ばすと、力の限り抱き締めた。私はこれから一変するであろう自分の生活を憂えると同時に、父の期待に応える事が出来たという満足感で、善し悪しの付かぬ曖昧な感じを抱いたまま、父の抱擁に身を委ねていた。
やがて、話を終えて父の部屋から出ると、庭先に面した廊下からは、一寸先も見えぬ闇があった。月明かりさえ遮る分厚い雲が、天を覆っている光景でさえ見えぬ。絢爛なる光を鏤めた夜空は、ただ漆黒に染まっていた。思わず身震いしてしまうほど、冬の空気は冷たく、時折戦ぐ夜気を孕んだ風は、殊更この身を苛めた。私は袂に両腕を入れて、身を縮めながら父の部屋を後にすると、静謐なる稗田の屋敷の長い廊下を、一人歩いて行った。
二.
「幾ら御聡明と云えど、未だ多感な年頃であります上、先日はあのような事件もありましたので、充分にお気を使われますようお願い致します」
そう云われたのが、父から阿求様の世話を任されたあの晩の翌日の事であった。私は対して心の準備をする間もなく、否応なしに阿求様の居られる座敷へ通されると、その襖の前で再三に渡って注意を受けた。その度に私は「へえ」だの「判りました」だの云っていたが、実の所阿求様という人の事を全く知り得ない私には、何だか別世界の如く思われて、この期に及んで何ら危機感を感じる事が出来なかったのである。
「それでは、阿求様の事を宜しくお願い致します。手に余る用件であれば、私共がお受け致しますので、その都度お呼び下さいませ。しつこいかと思われますでしょうが、どうか、充分にお気を使われますようお願い致します」
説明を終えて、廊下を歩いて行く家人の背中を眺めると、私は一人阿求様が居られる座敷の前で、茫然と立ち尽くしてしまった。幾ら阿求様の人格を知らぬと云えど、阿求様の評判は痛いくらいに耳にする。年の項僅か十と余年を数えるばかりの若い娘であれど、その博識なる知識は大海の如く、柔らかき物腰は戦ぐ春風の如く、麗しき御姿は咲き誇る華の如く、と私も聞いた事がある。
斯く御高名な阿求様にお会いするのは初めてであるし、緊張するのも無理はないと、父にも云われていたが、それでも自分が粗相をしてしまうのではないかと思い浮かべただけで、目に見えぬ重圧の影は、今更になって私の背中を絶えず圧し始めた。が、此処まで来た以上は進まねば父に申し訳が立たぬ。私はよしと一人心中で意気込むと、深呼吸をしてから襖の向こうへ呼び掛けた。
「阿求様、失礼しても宜しいでしょうか」
「構いません。どうぞお入りになって下さい」
細い声が襖の向こうから聞こえて来ると、私は襖に手を掛け、静かに開けた。部屋の中には、壁に沿って置かれる書架と、活けられた花が隅の棚に一つ、部屋の中心でぱちぱちと音を立てる囲炉裏の前に小机を置き、その前に阿求様は礼儀正しく独座していた。私は廊下に膝を着き、深々と頭を下げながら、まずは身の周りの世話をする事になった旨を説明しようとした。
「話は聞いています。迷惑を掛ける事もままあるでしょうが、どうか御勘弁下さいね」
射んとして引いた弓の弦は、当てを外されて虚しく戻った。矢は私の足元に落ちるばかりである。先手を打たれた私は、一瞬呆気に取られてしまって、柔らかく微笑みになる阿求様の慈顔に、釘付けとなってしまった。
「如何されました。何処かお身体の具合が好くありませんか?」
「い、いえ、そのような事は決して。用がありましたら、何なりと申し付けて下さいませ」
「はい。そのようにさせて頂きます。改めて、宜しくお願いします」
「こちらこそ、私などでさぞ不服かと存じますが、どうぞ宜しくお願い致します」
「そんな事はありません。貴方の話は貴方の父方から好くお聞きしています。大変好く出来た息子だと、そのように」
そう云って微笑みになった阿求様は、居住いを正すと畏まる私に向けて深々とお辞儀をすると、再び「宜しくお願いします」と云った。私は何だか父が何時の間にやら阿求様に私の事をお伝えしていた事実や、阿求様が頭を下げているという事態に戸惑ってしまって、情けない事に碌な言葉も返す事が出来ないでいた。
「どうか余り畏まらないで下さいね。私など、幼い小娘に過ぎませんから」
「いえ、阿求様には他の追随を許さぬ英気が溢れております。だからこそ、尊敬の意を表明致したく、このような言葉使いを用いているので御座いますから」
「皆さんそう仰います。ところで、そんな所に膝を着いていては殊更寒いでしょう。どうぞ遠慮なさらずにお入り下さい。そこから入る風は、囲炉裏で暖まっていた私には、些か寒くって」
着物の袂を口元に当て、楚々とした苦笑を浮かべる阿求様は、逆の手で座布団を引っ張って来ると、御自身の前にそれを置き、手招きをした。知らぬ間に迷惑を掛けていた事を、刹那の内に理解した私は、まるで尻に焼き鏝でも当てられた人の如く飛び上がって、挨拶もしないまま阿求様の前に座ってしまった。焦慮する頭の内では、己が非礼を自覚する間もなく、私がようようそれに気付いたのは、阿求様が遂に声を上げてお笑いになられた時であった。
「申し訳御座いません。これは、とんだ失礼を……」
「お気になさらないで下さい。まさか、私もそこまで驚くとは思わなかったものですから」
「見ての通り、未だ初心の域より脱け出す事も叶わぬ若輩者ですが……」
「いいえ。けれど、その前に」
そう云うと、阿求様は静かに立ち上がった。私はやはり阿求様の挙動を眺めるばかりで、柔らかい座布団の上から動く事も出来ずにいる。やがて、阿求様は私の横を通り抜けて、襖の前に立った。私は心の内で「しまった」と舌打ちをした。阿求様は例の如く穏やかに微笑みになっている。そうして襖に手を掛けると、こう云った。
「襖を閉め忘れていますね」
すと閉じられる襖を見、元の位置にお戻りになる阿求様を見、私は憤死せんばかりに恥じ入った。身体中の血液が、滝を登ろうとする鯉の如く、我が身の内を駆け上がって行くかの如く思われる。俯せた顔を恐る恐る阿求様の方へ向けると、阿求様はその幼い体躯に似付かぬ大人寂びた笑みを浮かべて、「お気になさらず」と、やはり穏やか且つ静かに云った。返す言葉がないとはこの事であろうと、私は心中に呟いた。
三.
私は阿求様の世話役になるにあたって、幾つかの約束事を父から与えられた。元々、父の仕事は給仕や雑用に指示を出すばかりではなく、阿求様の世話役の教育も兼ねていたらしく、それもあって阿求様とは度々接する機会があったとみえて、私に説明している間も手慣れた様子であった。私の前に阿求様の世話をしていた女性も、きっとこうして父から色々と教えて貰っていたのだろうと思うと、何だか不思議な感慨が湧いて来るようであった。
父は然して特別な事も、あの日云った我の意味の講釈も私にはしなかった。ただ、阿求様の呼び掛けには出来得る限り迅速に対応し、常に礼儀正しく粗相の無いように気を付ける事とのみ聞かされて、またしても私ははあと頷くばかりであった。何故世話役が一人なのかという事も尋ねてみたが、その理由も極めて単純且つ明快で、阿求様のお勤めの邪魔にならぬように、阿求様の部屋の周辺にはなるべく人を少なく配置するのだという。成程阿求様の部屋は静けさに満ち満ちていたし、人々の話し声などはその余韻すら響いて来ないようであったと思われる。
初日の情けない私の体たらくを思い出すと、愧赧の念を感じずには居られなかったが、それから二三日も経過すると大分私の方にも落ち着きが出始めた。冷静になって阿求様という人物を観察すると気付く事が幾多もある。今まで無関心であった私も、次第に阿求様に興味を持ち始めた。が、だからと云って、使用人としてあるまじき詮索などは決してする事なく、飽くまでも阿求様を観察した感想を元に、自分の中で色々な推測を立てるのみである。
例えば、阿求様の担われている使命というのは、誰もが知っている通りであるけれども、阿求様御自身は、それを鼻に掛けた様子もなく、その荘厳なる響きを思わせる使命とは相反して、とても人当たりの好い女性である。そのお姿や声の質から判じても、少女と称されて相違ないであろうが、誰彼の目から見ても彼女は立派な貴婦人だと判じる事と思う。阿求様の一挙手一投足は全て気品に満ち溢れ、誰某から聞いた阿求様の風評も間違いではないと思われた。
しかし、余りにも大人寂びている所為で、私には時折阿求様が酷く憐れなように思われる。阿求様を華と形容するのなら、その前に「活けられた」と付け加えなければならない心持ちがする。生まれた頃より己が使命を自覚し、自由という誰しもが持つ至高の権利を放擲し、役目を終えれば桜の花よりも尚早く散って行かねばならぬ。それは正に、活花の在り方と酷似している。枯れた活花は、人々の心を魅了する事は出来ない。
かと云って、私の心の内にある憐憫の小さき焔を、阿求様の前にて灯す事はしなかった。私は一貫して阿求様の世話をするという役目に徹しようと心に決めていた。それ以上でもそれ以下でもなく、舞台の上にあるように、一つの役割に徹していれば、余計な口を叩く事もあるまい。私は舞台の上で活躍するような主役ではなく、小さな脇役の一人なのだと自覚している。
と、丁度そこまで考えた時に、阿求様が手を鳴らす音が聞こえたので、私は新たに与えられた自室を出て、隣の阿求様の部屋の前に立った。
「如何なさいましたか」
「新しい墨を持って来て頂きたいのです。丁度切らしてしまって」
「判りました。少々お待ち下さい」
阿求様が墨を切らしたと云うのは、これで早くも二三度目のように思われる。幻想郷縁起なる膨大な量の文を書いておられるのだから、私は然して気にも留めなかったが、今回は幾らか早いような心持ちがした。前回阿求様に新しい墨汁を届けたのは、つい昨晩の事である。一日中執筆に勤しんでいたにしても、墨汁の注文は早かった。
しかし、余計な詮索をすまいとしているのは、他ならぬ私自身が心に刻んだ戒律故である。私はそんなものなのだろう、と勝手に納得して、大人しく新たな墨汁を取りに向かった。
「お待たせして、申し訳御座いません」
「有難う御座います。どうぞお入りになって下さい」
そう云われ、襖を開けると、例の如く小机の前に座していた阿求様は、微笑を湛えて私の方を見た。手元には幻想郷縁起の原稿と思われる紙が何枚かと、硯が一つ、そして筆が置いてある。お勤めの最中だったろう事は容易く見通せたので、私は早々に立ち退こうと考え、阿求様に墨汁を手渡すと、踵を返した。
「今日は殊に冷えますね。囲炉裏があるとは云え、襖が開かれる度に凍て付いた風が流れ込むように思えます」
「今日は御覧の通り、雲が空を覆っていますから。今に雪でも降り出しそうな気色です」
「雪が降ったら、更に冷え込むでしょうね。貴方のお部屋はお寒くありませんか」
「時折隙間風が何処ぞから侵入して来る事もありますが、呻吟するほどのものではありません」
「そうですか。でしたら、一寸お茶でも如何ですか。私も丁度休憩を取ろうと思っていたんです」
「いえ、阿求様の御休憩に、私などが邪魔する訳には……」
「好いんです。一人で居ても退屈で、――無理にとは申しませんが……」
途中まで朗らかな口調で話していた阿求様の声音には、途端に翳りが差した。何だか急に身体を小さくして、手をごそごそと動かしている。その様子はまるで稚児のようであった。怒られるか怒られまいかの判断を付ける事が出来ず、怯ず怯ずとしている幼い子供のような姿である。そうして年長の者を誑かす愛嬌のある姿である。私はつい同情心を擽られない訳には行かなかった。
「阿求様にそう仰って頂けるのであれば、私としては断る理由などありません」
「好いんですか? 本当に、無理に付き合わせるつもりはないんです。だから、はっきり断ってくれても好いんですよ」
「いえ、実を云うと、阿求様からお呼びされるまでの間は暇で仕様がないのです。それに、私の役目は阿求様のお世話で御座いますから、阿求様がお望みになられる事ならば、喜んで致しましょう」
「……そう云って貰えて光栄です。大変恐縮ですけれど」
「恐縮だなどと、とんでも御座いません。私の方こそ、阿求様の御休憩の相手となれて大変恐縮な心持ちなのです」
私が出来得る限り自然な笑みを浮かべると、阿求様は例の如く柔和な微笑みを浮かべた。そうして座布団を差し出して「どうぞお座り下さい」と云う。阿求様が一体何を考えて私を休憩の共にしたのだか、私には見当も付かなかったが、何にせよ自らの仕事に徹さなければならぬのは、私個人の目的のみならず、私を推薦してまでこの役目に就かせたがった父の名誉に関連しているからこそでもある。元々、私は阿求様の申し出をお断りする権利など持っていない。それを上手い具合に隠そうとしているのは、全て阿求様に余計なお気を使わせぬようにしているからである。
「さて、こうしてお誘いしたまでは好かったのですが、いざとなると何をすれば好いのか困りますね」
「ははは、全くその通りです。碁盤か何かでもあれば、お相手致しましたが」
「碁は、貴方のお父様に手痛く遣られました。以来、一局遣りましょうと云われても逃げてばかりです」
「そのような事がお有りだったのですか。ああ見えて、父は勤勉な方ですから」
「そうですね。以前、私が碁で駄目なら将棋を遣りましょうと云った事があるんですが……」
「どうなりました。私が覚えている限りでは、父は将棋の経験はないように思います」
「ええ。それで少し手解きをした後、実際に指してみて、完勝しました」
「大変悔しがったでしょう」
「それはもう大変。もう一回お願い致します、と何度云われた事か」
「ははは、今度、この話を使ってからかってみましょう。面白いものが見れそうです」
「けれど、その後が凄いんです。それから少し経って、またお相手して貰ったのですが、強くって強くって、しのぎを削る対局になったんですよ。余りに強かったので、後でどうしてそんなに強くなったんですかと尋ねたら、阿求様に一矢報いるべく勉強に勉強を重ねたんですと仰られていました」
「ははあ、やけにお部屋に居る事が多い時期がありましたが、成程そういう事情があったんですね」
案外にも、阿求様は父の事を好く知っていた。阿求様の話の中に登場する父の姿は容易に想像される。待ったと云って次の手をああでもないこうでもないと、頭を抱えながら悩む父の姿は、私の知る所でもあったからである。
「思えば、懐かしい思い出です。全てが順風満帆に進んでいるように錯覚していた折の事ですから」
陽気な座談には、途端に沈鬱なる空気が入り混じり始めた。阿求様の唇は微かに笑んでいるけれども、眸には確たる憂いが秘められて、その矛盾した表情は、暗然として頼りなく思われた。先日の葬式を思い出して、私は何と声を掛けたら好いものか判らず、結局無言で居る事にした。
「――今度、碁でも将棋でも、私のお相手になって頂けますか。久方振りに指したくなってしまいました」
「私で好ければ、喜んでお相手致します。甚だ力不足かと思いますが……」
「そんなに謙遜なさらくても好いのに、――お父様が仰っていましたよ。息子は僕よりも強いと」
「いいえ、僕などは未だ精進の足りない身ですから」
「謙虚なんですね」
謙虚と評価されたものの、私は心の内では謙虚とは違うと思った。謙虚とは才ある者への評価である。それは私には当て嵌まらない。私は命令に従うだけの、云わば従僕であり、そういう類の者は謙虚である振りを装わなければならぬ。主に向かって、自分が如何に優れているかを論じた所で、不愉快を与えるばかりである。私はそれを熟知しているからこそ、自分を前面に押し出さないように努めている。故に、真の意味で私は謙虚ではない人間であった。
私は自分と阿求様とを天秤に懸けた時、張り合うまでもなく軽い存在なのだと自覚している。というのも、私には命を賭してするべき事もなく、また命を賭すまでの必要性を感じた物事が、今までの生涯の中で一度も無い。私はただ無欲なだけであった。一方で人は貪欲であらねばならぬと思う。強欲では無く、生きる理由足り得るものを貪欲に探し求める事で、人生というものは彩りを華やかにするものだと心得ている。それだから、私は阿求様に謙虚と評されて、何だか自分が惨めな心持ちがした。まるで舞台の脇役どころではなく、それを見る観客の一員であるような気さえした。
「私が謙虚ならば、阿求様は御立派です。それも、私とは到底比べるべくもない程に」
「そんな大袈裟なものではありません。私は私に出来る事をしているだけですから」
阿求様は寂しそうに笑っている。その縁由たるものは判らない。が、それでも私には阿求様の御心が僅かに理解出来るような心持ちがした。全く違った境遇ではあるものの、同じ稗田家に生まれた者として、不思議な共感があったのかも知れない。私は父に稗田家を好いているかと尋ねられた時、好きだと答えた。けれども、それは本当の答えではなく、父が望む答えを最も曖昧にして答えただけである。自白するなら、私はあの時判らないと答えようとした。稗田家に生まれたからこそ、此処に仕える事が自らの使命なのだと思うからである。ともすれば、それは束縛に他ならない。
私達は等しく稗田と云う家に縛り付けられ、囚われている。その中で私と阿求様とにある差異は、きっと縄で縛られているか鎖で縛られているかくらいのものだったろう。しかし、それが何よりも大きい差であるのだろう事は、明白である。だからこそ、私は自分の言葉が或る意味で残酷な同情にならぬよう、阿求様との関係に一本の境界線を引いている。そうして、阿求様も同じ事をしていると思う。
私達は互いに引き合った二重の境界線の外から、上辺だけの付き合いをしているに過ぎなかった。そうして、それ以上の関係にはならざるものと信じている。それが最も善き事なのだと、自分に云い聞かせる如く、私は阿求様と接しているのと同様に、阿求様とて私に深く関わろうとはしていないように見える墨汁の一件も、御休憩の共に選ばれたのも、全ては幼いながらの寂しさ故とでも、無聊を慰める為だとでも、幾通りも言訳は付く。それでも時折見える多少の綻びには目を瞑らねばならない。そうすれば、阿求様は自らその綻びを補修して下さるであろう。
そうして、もしも綻びを目にして、後先の事を考えぬままに付け込んだなら、恐らく私の我は崩壊する。同時に、私達の上下関係は、いとも容易く崩れ去るに違いない。私が最も恐れているのは、断崖から足を踏み出す如く、自ずから先の判らぬ未来へと落下する事である。眼下に広がる海面には、目に見えぬ岩石が落ちる私を待ち受けているやも知れぬ。そういう事を思うと、私は自然と臆してしまうのである。一か八かの賭けをするくらいならば、刺激の乏しい生活の方が余程好いに違いない。私はそう信じている。
四.
深々と細雪が降り出して、世は赫奕たる太陽が幅を利かせる時分だと云うのに、空に浮かぶ分厚い雲は地上に暗翳を投じるばかりであった。稗田家の庭園には、平たい雪の層が僅かに見られる。廊下に出れば、室内との温度差に、意識せずとも身体が縮み上がった。そうして、私は茶葉が切れたらしい阿求様の元へ、新たな茶葉を持っていくべく、この冷たい廊下を歩んでいるのであった。
「阿求様、茶葉をお持ち致しました」
阿求様の部屋の前に差し掛かり、私は茶葉を隣に置いて、跪いてから呼び掛ける。すると、間もなく「どうぞ」と阿求様の細い声が返って来て、そこで漸く私は襖を開けて、阿求様の居られる室内に入る事が許されるのである。
「有難う御座います。そこに置いておいて下さい」
阿求様は、やはり例の如く小机の前に座って、筆を片手に持ち、白い紙と向き合っていた。私はその内容を一度たりとも見た事はないが、小机の横に重ねられた紙の束を見る度に、空恐ろしい心持ちがする。それが一枚二枚と積み重なって行く度に、阿求様の命の刻限は酷薄なる音を刻み、やがて積むべき紙が無くなった時に、阿求様はその使命を終え、次代へとそのお命を受け渡すのである。
話には聞いていたものの、実際に阿求様と関わって一つ月を数えるくらいの時間が経過してからは、私の考えも随分と様変わりした。阿求様を縛り付ける運命の鎖が、とてつもなく理不尽な類の如く思われて、時には断ち切って遣りたいと思う折さえあった。しかし、その度に私はこの口が余計な言を漏らさぬように、意識して唇の動きを封じるのである。でなければ、私達の間に存在する境界線は次第に薄れて行き、やがて消えてしまうに違いなかろう。それが私の我の崩壊する時であり、決して破らぬと定めた戒めが解かれたる時なのである。
「外は寒かったでしょう。貴方も暖かいお茶をお飲みになりませんか」
「阿求様は丁度御休憩の時分でしたか」
「ええ、丁度休憩しようと思った折なんです」
私達は冗談めいた事を云い合って、互いに笑い合った。近来、私は何かと阿求様の元へ出向いては、こうして休憩の相手になる事がある。阿求様とて、一つ所に留まっているのは心苦しい思いをなさる年頃であろうし、頼まれれば私としては断る訳には行かなかった。――が、それが建前上の理由でしか無い事も、既に自覚の域に入っている。それでも尚、そこから目を逸らしているのは、私が初めに踏み込まれざる線を、自分の足元にしかと引いたからである。それは理性の一線であり、感情を自らの胸中から動かぬように打ち付けた楔でもあった。
「近頃は益々寒さに拍車が掛かるようで、筆を執る手が冷たくって敵いません。こうして暖かい湯呑を包み込んでいると、何だか離し難く思います。こうしていると、手から暖かさが伝わって来るようで」
小さな手の平で湯呑をすっかり包み込んで、阿求様は苦笑しながらそう云った。私は「全くです」と云って、阿求様の淹れて下さった茶を、喉に通す。程好い苦味が舌に感じられて、喉が暖まる感覚が明確に感じられた。
「こう寒いと、人肌が恋しくなりますね。人里でも、互いに寄り添い合って歩いている人を好く見掛けます」
「そうですか。何とも羨ましい限りです。――貴方はそういう間柄の人が居ますか」
「いえ、私は生まれてこの方恋愛というものをした事がないのです。一体どういう心持ちなのだか、問うて見たい心持ちになる事が多々ありますが、中々どうして、幸せそうな顔を見るとそんな気も失せて来るもので……」
そう云うと阿求様は袂を唇に当てて、ふふと淑やかに笑った。阿求様の楚々たる容貌は、実際の年齢よりも大分大人びて見える。私は往来を憚りなく歩き、賑やかに話している女を見る度に、阿求様の様子を頭の中に思い描いて、その五年十年先の容貌を想像しては、きっと美しいお姿をして居られるのであろうと、父親染みた思いを抱く事があった。実際阿求様ほどの器量の持ち主ならば、世の男共が放って置く訳がない――そこまで考えた時、私は唐突に自分の思考を打ち切った。"あるやも知れぬ"程度の未来を想像すると、決まって私の胸中には不愉快が募るからである。
「年端の行かぬ小娘の言分ですけれど、貴方は器量の好い男性だと思いますし、きっと女性も放って置かないでしょう」
「そんな事はありません」
「そう謙遜なさらくて好いのに。――実は告白された事もあるんでしょう」
好奇に輝く阿求様の眸は、楽しそうに細められていた。私が阿求様の世話役となって一月が漸く過ぎ去ったが、だからこそ疑問に思う事がある。私の前に阿求様の世話役を務めていた女性が自殺して、私が世話役の任に就いた時から、阿求様からは亡き人への悲しみが見られない。葬式の時の悲痛な表情を知っているからこそ、それは私の中に大きな疑問として根付いている。しかし、今日に至るまで、阿求様の口から私は亡き人の事を聞いた覚えがなく、また亡き人を思わせるような話も聞いた事がない。私は興味津々といった感じに光る阿求様の瞳裏に、もしかしたなら、悲しみの影があるのかも知れぬと思ったが、幾ら見詰めてみても、阿求様からその影を感ずる事は出来なかった。
「そう虐めないで下さい。本当にそんな経験は無いのです」
「もしかしたら、素敵な恋愛譚が聞けると思ったんですが、それは胸の内に秘められているんですね」
「そう責められたら、恥ずかしくって仕方がありません。どうぞ勘弁して下さいませ」
悪戯に言葉を弄する阿求様にそう云って、私は熱い茶を一口飲んだ。阿求様は楽しげに笑っている。「残念です」などと云いながら、小さな唇に湯呑を宛がって、白い咽喉をごくりと云わせている。
「私はこの通り、身体も心も未成熟な小娘ですから、自分で出来ない分、他人の話が楽しくて」
「薊の花も一盛りと云いましょう。まだその時ではないのです」
「その薊の花も一盛りというのは、どんな意味なんですか?」
「おや、阿求様にもお判りにならない事があるようですね」
「もう、そんな意地悪をなさらないで下さい」
先刻のお返しとばかりに云うと、阿求様は心持ち頬を膨らませて、唇を尖らせた。その稚児みたような可愛らしい仕草が、私を油断させたに違いなかった。常にぴんと張っていた緊張の糸は、僅かに撓みを見せて、その僅かでしかない撓みに付け込んで、私の口は軽々しく言葉を発する。頭の中にそれは出来ていた。平生ならば、私はそれを口に出す前に推し留める事が出来たはずである。しかし、この時の私はどうしようもなく愚かしく、無神経であった。この過ちを阻止するには、私の気は余りにも緩み過ぎていたのである。
「ははは、これは申し訳御座いません。――薊は華やかさに欠けますが、それはそれは美しい花を咲かせます。それと同様に、阿求様もお年頃になれば、お美しくなられるでしょうという事です」
私は先刻、"あるやも知れぬ"程度の未来を想像する事を厭ったはずであるのに、この時の私はその"あるやも知れぬ"程度の未来の話を想像だけに留まらず、言葉として云ってしまった。途端に室内の気温が下がったように思われたのは、思い違いではなかろう。自らの失敗に気付き、阿求様の表情を窺ってみれば、そこには桜の如く儚く、雪華の如く脆く、荒廃した大地を疾駆する風の如く虚しい表情をした阿求様が、音も無く笑っていた。
それが芸術の織り成すものであるならば、これほど美しいものは無い。この刹那を写し取れたならば、どんな名画にも勝る美しい写真が出来上がろう。しかし、眼前に座すのは阿求様である。寂しい笑顔に憂いを湛え、唇に緩やかな弧を描き、白磁の肌には確かに血が通う。私はこの一瞬間にどれほどの事を恐れたのだか判らない。阿求様が次に発するであろう言葉は、きっと聞くに耐えない響きがある。"あるやも知れぬ"程度の未来が、痛烈な勢いを以て阿求様の胸に突き立てられたのは最早目の逸らしようもない現実の出来事である。責は私にある。償い方は無い。私は否が応にも次ぐ言葉を耳に入れねばならぬ。
「そうですね。私も薊の花のように、美しくなれたら好いと思います。きっと……」
阿求様はその先の言葉を紡がなかった。その先に続く言葉は、何通りも考えられる。しかし、私は阿求様のあの微笑みの中に、確かにあの葬式の日に見た悲しみの影を捉えた心持ちがした。目にすればその悲痛なる思いが私の中に流れ込んで来るかの如く思われる。耳にすれば脳髄が悲愁に震える。私はいっそこの場から逃げ出したくなった。阿求様は湯呑を口に付けた。私は膝に手を付いたまま、何をするともなく畳の目を数えていた。深々と降る細雪の音さえ聞こえてきそうなほど、静寂に包まれた室内の中で、確かに私達は互いに引いた境界線を、自らの足で踏み付けた。
五
私は一人自室の中で思案に暮れていた。先日の出来事は私達の間に突如引き起こされた事件に違いなく、それによって移ろう二人の間の世情は変える事など出来ようはずもない。悪意なき軽率なる発言は、既にこの胸の内より飛び出でて、阿求様のお耳に届いてしまった。犯してしまった過ちを消し去る術がこの世にあったなら、私はどれほどそれを渇望したか判らない。しかし、どうにもならぬ現実を、今一度直視する事で、私は再び手で頭を抱えるのである。
やがて、私は暫く頭を抱えて、浮かんでは消えて行く泡沫の如き思考の一切合財を何処ぞに打ち遣りたくなった。そうして、少し風に当たって頭を冷やそうぐらいの心積もりで、部屋を出た。が、私の予想していた庭の景色の中には、縁側の廂の下にて座る阿求様の姿があり、図らずも一瞬間我を失った私は、「あら」と云った阿求様を前にして、黙しているより他になく、雨あられの如く私を叩き付ける思考の弾丸に、すっかりやられてしまった。
「これは、阿求様が居るとは知らず、失礼致しました」
私と阿求様の視線が数瞬交錯した後、私は漸くそう云った。阿求様は例の微笑みを浮かべられたまま、やはり例の如く「お気になさらないで下さい」と云った。
「今日は、何時もよりは幾らか寒いようですね」
袂に両腕を入れて、小さく身を縮めている阿求様は、そう云って苦笑した。私は一緒になって縁側に座る事も出来ず、かと云ってこのまま立ち尽くしているのも滑稽だったから、やはり立ち尽くしている以外の選択肢が思い浮かばなかったので、その場で呆けていた。内心折もあろうにと思う事もあったが、過ぎた事を悔やんでも仕方があるまいと、大人しく庭の風景を観察し続けた。
昨日降り出した細雪は、一晩を掛けて大きな粒となり、庭園の全体を白く染め上げ始めている。天に蓋をしたような曇天からは、絶えずひらひらと雪が舞い落ちて、大地に薄き層を作り始めていた。吐息は外界に触れれば間もなく白い霧に変わる。阿求様は如何程の時間を此処で過ごしていたのか、白い霧を吐き出しながら、白磁の頬には朱色が差していた。
「陽が落ちるのも大分早くなりましたから、これからは本格的に冷え込むでしょう。お身体にお障りにならないよう、御自愛下さいませ。阿求様の身に病気が罹ろうものなら、お家の一大事です」
「有難う御座います。けれど、もう少しだけ、此処に居させて下さい。少し、外の風に当たりたくって……」
「阿求様がそうお思いになるのでしたら、私は何も云いません。私などが御一緒してしまって、甚だ恐縮ではありますが」
「そんな事は……そうだ、貴方も此方にお座り下さい。立ち尽くしたままではお疲れになる事でしょう」
「いえ、私の方は何等の心配も要りません。生まれが男ですから、幾らか丈夫なのです」
正直に告白するなら、私はこの時本心からそう云った訳ではなかった。ただ私達を繋ぐ一本の糸が、少し捻じれた為に、私は阿求様と接する事を恐れていたのである。一旦軽々しい口を聞いたこの唇は、最早私にとってすら、信頼の行くものではない。しかし、私の方に何等の考えがあろうと、阿求様は平生の如く「そうですか」と漏らすばかりである。私は依然変わらず、阿求様から少し離れた場所で、庭先の風景に目を向けていた。
本格的な冬を間近にして、白銀の世界に至る兆候を見せる景色には、立ち枯れた木の寂しい枝を、殊更目立たせる如く浮かび上がらせていた。春には色鮮やかな桜だの躑躅だのを咲かせ、夏には青々しく瑞々しい葉を煙らせる光景も、冬となると寂しくなる。枯れ枝は風に揺られてかさかさと音を立て、重苦しい冬の曇り空も、閑寂たる景観に拍車を掛けているように思われた。春や夏と比べると、この風情も些か物足りない。私は早くも冬の雪景色の鑑賞に飽きて来ていたが、阿求様が居られる手前、部屋に引き返す事も出来なかった。
「寂しいですね」
突然発せられた言葉は、自分の事を仰っているのか、景色の事を仰っているのか、私には判然たる分別も付かなかった。そうであるからには、いい加減な言葉を返す訳にも行かないので、私は「はあ」と云ったばかりである。
「冬の景色は、春や夏と比べると、随分と心細く思われます」
「そうですね。冬に咲き誇る花でもあれば、そのように思う事もないのでしょうが」
「けれど、冬に咲き誇る花があるとしたら、その花は憐れだと思いませんか?」
「憐れ、ですか」
「――冷たい風に耐え、降り積もる雪に耐え、尚その花が咲き誇っているのは、憐れだと、私は思います」
そう語る阿求様の横顔は、冬の寂然たる風景に殊更映える憂いを秘めているように思われた。ともすれば、それは諦観の表情であるようにも見える。私はその表情の意味を完全に理解する事が出来なかった。その表情は、人間の細かな感情の機微すら浮かび上がらせる精巧な絵画の如く、尋常から懸け離れているように思われた。そして、その形容を裏付ける如く、阿求様は人生という尺の中の、ほんの刹那に輝くお方であった。
「年中咲き誇れる花ならそうでないのかも知れませんが、そうでなければ、冬にしか咲かない花ならば、きっと憐れです。他の草木に先立たれ、他の草木が茂る頃には先立たねばならず、その上苦痛に耐えなければならなくて……そんな運命は、定めて悲しかろうと思います」
そう話した時の阿求様は、あたかも蒙古の象徴を目にする如く、怯えた稚児のような表情をしていた。涙さえ零れ落ちそうな愛らしい眸は、何処か遠くを眺めているようで、その実私の想像の付かない所を見詰めている。膝の上に重ねられた手は、何時の間にか握られて、冬の寒さから身を守るように縮んだ身体は、殊更小さく見えた。その時の阿求様からは、普段の全てを包み込むような寛厚なる様子は消え失せて、物憂く顔は慈顔などではなく、悲壮に塗れていた。
その尋常ならざるお姿と、普段のお姿との差異が、殊更私に黙す事を許さなかった。何事か声を掛けねばなるまいと、自ずからなる焦燥に駆られ、頭の中に浮いては消える言葉の断片を繋げようと四苦八苦する。けれども、どれを取っても塵芥の如く陳腐な言葉に思われて、具体的な言葉は遂に形成される事はなく、結局私の口から出る言葉は、阿求様の例え話に則った、曖昧なものであった。
「そう考えなければ、意味合いもまた、変わりましょう」
阿求様の視線が庭園から私に映る。後に引く事は出来そうになかった。
「冬にのみ咲き誇る花は、私達を勇気付けて下さいます。孤独に耐え、積雪に耐え、それでも咲き続ける花は、成程憐れかも知れませんが、少なくとも私は、そのような花がありましたら、勇気付けられるような心持ちが致します。所詮は人の考え方次第で左右されるもの。病は気からと申しますように、現実がどうあれ明るく物事を考えた方が、或いは幸せなのかも知れません。ですから、阿求様も……」
寂しき庭に、颯と風が吹く。不意に阿求様の方を見てみると、阿求様は真剣に私の口上を拝聴していた。私は何だか急に気恥ずかしくなって、加えて余計な事を云ってしまったかと思い、そこで言句を切った。
「これは、差し出がましい口を。申し訳御座いません」
「いいえ、謝る必要なんて。お気遣い、有難う御座います」
「何事かお悩みの様子でしたので、つい長口上をしてしまいました。さあ、お身体がお冷えになります。そろそろ御自室にお戻り下さいませ」
「はい。でも、もう少しだけ、宜しいでしょうか」
阿求様はそう云って立ち上がった。私と比べて、頭三つ分は身長が低い阿求様は、お立ちになるとますます儚くなるように思われた。一度微風が吹けば、たちまちその小さく華奢な体躯は何処ぞへ飛ばされてしまうのではないかと余計な心配が頭を過る。思えば、阿求様は不思議な方であった。例えば、阿求様の言葉には何時も強い芯を感じさせる何かと、儚く崩れ落ちてしまいそうな弱々しい何かとが、背中を付け合わせて存在しているようで、かと思えば案外に冗談を弄して人をからかう事もある。そんな阿求様の事を、恐らく私は一分も理解してはいなかった。私には時折阿求様の顔に差す影の意味も、ふと浮かべる寂しげな笑みの意味も、風前の灯火の如く消えてしまいそうな居住いの意味も、判らなかったのである。
しかし、そんな阿求様の出で立ちに隠されていた正体は、先日の事件の日に、燃ゆる蝋燭の焔に照らされたかの如く、私の前へひらりと姿を現した。それは瞬きをするほど僅かな瞬間であったのかも知れぬ。が、私は確かに阿求様の心中を、窺い見たと確信を持っている。あの時、私達は自身の前に引いた境界線を、踏み付けたという確信があればこそ、私達は後へは引けぬ互いの領域に踏み入ったに違いない。
「先日、亡くなられた人の事を御存知でしょうか」
「詳しくは存じませんが、どのような人であったかは、父から聞いております」
阿求様は僅かに頬を綻ばせた。悲しげな笑みである。私は大切な人を失った故の悲しみであろうと判じた。
「彼女とも、同じ話をした事があります。――彼女は、貴方とは違う事を仰っていました」
「何と申されたのですか」
「……彼女は」
僅かばかり足元に落ちた視線が、元の通り私を見上げた時、私は途端に阿求様との会話が、恐ろしくなった。その光に宿るのは悲境の景観であり、その唇より発せられるのは悲曲の旋律である。そうして笑うとも泣くとも付かぬ曖昧な表情は、煢独の淵源たるものを僅かに照らし出す。私は遂に露知らずにいた阿求様の御心の片隅に足を踏み入れて、そこにどろりと渦巻く闇の中を垣間見た。その瞬間、私は境界線などではなく、大地の裂け目たる断崖から飛び降りたに違いなかった。重力に引っ張られるがままに、事態は変動して行く。その巨大なる力を前にして、私の抵抗など無に等しかった。
「その花を憐れと思うなら、その花よりも辛い苦痛をこの身に受けて、せめてその境遇が安らかに感じられますように致しましょう。――そう云っていました。私がその意味を知ったのは、皮肉にも彼女が自ら命を断った後でしたが……」
口腔から出る吐息は、白い煙となって霧散して行った。それと共に、私の思い描いた言葉の数々も消えて行く心地がする。絶壁に打ち付ける波の白き飛沫が眼前に四散する。阿求様の眸からは一滴の涙が落ちた。微かな嗚咽が長い廊下に反響する。降り積もる雪の結晶は、庭園に立ち並ぶ樹木をことごとく白く染め上げた。相変わらず分厚い雲の向こうから、夕陽は一条の光さえ地上にもたらさない。人里の喧騒は遠くに棚引いて行くようであった。
私は阿求様に掛ける言葉も見付からず、かと云って放って置く事など出来るはずもなく、「御自室にお戻りください」と口にしたばかりであった。阿求様は涙に滲む声音で「済みません」と云う。襖が閉じられる前に、言葉を掛ける事は出来なかった。
六.
「おい、おい、失礼するよ。聞いているかね」
父がそう云いながら私の部屋の襖を開けたのは、阿求様から罪の告白を受けた翌日であった。否、私が罪と判ずるのは、甚だ失礼であるかも知れぬ。阿求様はあの告白を罪とは云わなかった。しかし、阿求様の浮かべられた表情の細部に至るまでが、あの告白が懺悔だったのだと物語っている。この推断を失礼だと自らに云い聞かせているのは、単なる逃避でしかなかった。昨日踏み越えてしまった断崖から真直線に落ちれば、もう元の場所に戻る事は出来ないのである。
「どうしたんだね。部屋の隅で塞ぎ込んで、それじゃ身体を悪くするよ」
父はそう云いながら、座布団の上に腰を下ろした。私は部屋の壁に寄り掛かって、何をするともなく呆けていたが、父を前にしてそれを続ける訳にも行かず、徐徐として父の正面に座った。
「顔色が悪いね。何かあったかい」
「いえ……」
「いえ、じゃ何も判らない。一体どうしたんだね。此処は一つ、僕に話して見ちゃくれないか」
心配そうに私の顔を覗き込んで来る父の優しい顔を見ると、私は何だか無性に泣きたくなった。昨日の出来事を全て打ち明けて、どうして私の心が酷く落ち着きを失っているのか問い詰めたくなった。が、暗黙の内に私には箝口令を敷かれているように思われて、どうしてもそれが出来ぬ。開かない扉を必死に叩き続けているかの如く自分の煩悶が虚しい事のように思われる。私はやはり「いえ」と云う事しか出来なかった。
「好し、判った。お前が何も話すまいと云うなら、それでも好い。しかし、その体たらくで阿求様の事をお任せする訳には行かない。それは判るね。これでは阿求様のお心にも悪影響が出てしまう」
大きく息を吐いて、父はそう云った。私はその言葉の意味を充分に咀嚼するまでに、多大な時間を費やす事となったが、やがて理解出来ると、何故だか父がとんでもない事を云っているように思われた。が、だからと云って話すべき事など何一つとして浮かばなかった。父はじっと構えながら私の正面に座っている。私は俯いて畳を見詰めながら、膝頭に置いた手を強く握り締めた。
「……お父様が仰った我の意味を教えて下さい」
今にも消え入りそうな声で、私は尋ねた。父は何も云わない。全てを理解した風体で、大きく息を吐いている。私は最早自分の事ですら訳が判らなかった。一体何をどうしたいのか、その答えが払えば消えそうな霧の中に隠れているにも関わらず、払えないまま怖気付いているようなものである。この懊悩の謎が解ける瞬間が、とてつもなく恐ろしい。父はそんな私の様子を全て見透かしているかの如く、穏やかに話し始める。
「好かろう、これ以上の追究は止めるとしよう。けれども、この話はきっとお前の在り方に影響を与えるに違いない。それが善きか、悪しきかは判らない。どうだね、それでも聞くかい」
「はい。聞きたいと思っております。私は一人で考え続けた所為で、自分の気が狂っているのではないかと疑っていたのです。どうか私の為に教えて下さいませ」
「うん、うん。お前の心持ちは好く判った。何も一人で苦しむ事は無かったんだよ。何時でもこの父なり何なりに頼ってくれても構わなかったんだ。これからは一人で抱え込まないと約束出来るね」
「ええ、ええ、きっとそうします。私は孤独の恐ろしさを、昨晩以上に感じた日はありません」
私の眸からは既に涙が零れていた。父は私の肩に両手を置いた。
「好いかい、好くお聞き。僕は決してお前を騙そうとした訳じゃない。お前なら出来ると思ったからこそ、阿求様の世話役に推薦したんだよ。どうか理解しておくれ。僕はお前を苦しめるつもりなどなかった」
「ええ、ええ、承知しております。全ての責は私にあるのです。私が弱かったばかりに、こうして泣いているのです」
「自分を責めちゃ行けない。お前が悪い訳じゃないんだ。始めから僕が全て話していれば好かったんだ」
父は懐から手巾を出すと、私の顔を滅茶苦茶に拭いて、父の顔が好く見えるようにした。私は何時になく真摯な眼差しを向ける父の顔の内に、昨日から探求し続けた疑念の答えの影の尾を見た心持ちがした。
「お前は何時だって自分を崩さなかった。悪い意味じゃなく、どんな人物と接しようとも、お前の核たるものは、決して揺るがなかった。僕との間でさえそうだったろう。これは僕の推測に過ぎないが、お前は僕という存在を一歩退いた所から見ていたに違いない。思えば、妻が死んでから、お前は余り人に懐かなくなったね。僕はあの猛烈な痛みを二度と感じないように、お前が無意識に編み出した処世術なのだとそれを解釈している。一歩他者から退く事で、物事を半ば強引に客観視しようとしているんだ。少なくとも僕の見立てでは、そうしているように思われる。
しかし、だからこそ僕は、お前を阿求様の世話役に推薦したんだ。阿求様がお役目を果たした後にどうなるか、お前も知っているだろう。幾ら次代御阿礼の子にその魂が受け継がれるとは云え、阿求様の生はそこで終わってしまう。必ずこの世の全てに別れを告げる時は来る。僕はその悲しみに耐え得る人間を、次の世話役にしようと思った。というのも、お前の前に阿求様のお世話をしていた人は、阿求様を想うが故に、その命を断ったんだよ。これは稗田家の中でも、極一部の人間にしか知らされていないが、彼女の遺書には確かにそういう一節があった」
父はそう云ってから「黙っていて済まなかった」と云った。私は案の定と思うより他にない。父の見立ては、此処に来て当てが外れてしまった。私が流している涙は、きっと前の世話役の女性が流した涙と同一のものに違いなかった。
「僕は二度とそんな人間を出してはいけないと思った。阿求様の為にも、世話役に就く人の為にも、そんな事は絶対に避けなくてはならない事だと思った。しかし、情を捨て切って、仕事だと割り切れる人間はそうそう居ない。誰であれ憐れな者には情が移る。況して残酷な運命を与えられた阿求様の身を、嘆かぬ者は無いとさえ思った。が、その中でお前だけは違うと思った。お前ならばきっと上手く出来ると思った。今思えばこれが最大の間違いだ。誰であれと云ったはずなのに、お前だけは例外なのだと考えてしまった。父の落ち度だ。どうか許しておくれ。
僕の云った意味は判るね。するとお前に云った我の意味が浮き彫りになる。我とは、自分の在り方だ。僕はお前の処世術を、決して崩さぬようにして欲しかったんだ。良かれと思ってした事だったが、実際お前はこうして苦しんでいる。どうか父を許しておくれ。僕は何もかも見誤ったんだ。実の息子の事さえ完全に理解していなかった。その結果、こうしてお前に残酷な仕打ちをしてしまった。いっその事恨んでくれても構わない。それだけの事をしたんだ。――ああ、しかし、どうか僕を許して欲しい。僕は紛れも無くお前を愛しているよ。妻に先立たれた今、僕にはお前しか居ないんだ」
何時の間にか、父も大粒の涙を流し、その太い腕で流れる涙を拭っていた。私は繰り返し「許します」と云った。そうして「恨んだりなどしません」と云った。喉の奥から湧き上がって来る嗚咽の所為で、そのことごとくが碌に形を成さなかったが、親子共々泣きながら互いの言葉を肌で感じている心持ちがする。
「お前はもう辞めろと云われても、辞める事など出来はしないだろう。僕に出来る事なら何でもするつもりだが、きっとお前は自分で解決しようとするに違いない。しかし、しかし、決して死なないでくれ。僕はそれが何より恐ろしい」
私は泣きながら幾度も頷いた。父の為に、この運命を受け入れなければならないと思った。空の如く広大で、雲の如く無情で、海の如く穏やかに、この運命を受け入れなければならないと思った。例え空が怒れる雷雲に包まれて、船の主柱さえ容易に圧し折るような風が吹き荒れる海を渡らなければならなくとも、その苦行に耐えねばならない。相反する感情の挟撃に遭おうが、我を守り通さねばならぬ。それが如何に難儀な事か知りながら、尚も耐えねばならぬ。天より降り注ぐ那由多の矢がこの身を貫こうとも、さらばと捨て切らねばならぬ。
私は必死になって自分に言い聞かせた。致し方がない。父の為である。――が、それでも心が落ち着く事は一向になかった。
七.
それから半月ほどが経過したが、薄ら寒い冬の気候は、未だこの地上に遍満し、暖かな陽気の春が到来するには、多分に時間を要するであろうと思われる時分、私は阿求様に連れ添って、人里に行かねばならぬと聞かされた。詳しく事情を尋ねると、阿求様が執筆なさっている幻想郷縁起の資料となる話を聞きに赴かねばならぬらしい。
相手は直接の見識は無いけれども、御高名を好く耳にする博麗の巫女なのだと云う。彼女は稗田家の屋敷で話すのが厭らしく、それで人里の茶屋を待ち合わせ場所に指定したのだった。博麗の巫女と云えば、気難しい気性だと聞くし、私も幻想郷縁起の為ならば致し方ないと思い、阿求様に同行する事にした。時刻は昼を跨いでいる。南中に位置する太陽の燦たる光は、白く染まった賑やかな人里の往来を、一層明るく照らし出していた。
――私はあの日強く自分に云い聞かせた言葉を、一度として忘れた事はなかった。父の云った我を決して崩さぬように一生懸命努めていた。が、それでも私の胸の内に巣食う矛盾した思いは、絶えず闘争を続けて止まなかったし、私自身完全に自分を騙し切れていなかった。その度に、二つの思いを載せた天秤は、右に振れたり左に振れたり、落ち着く気色を見せない。詰まる所、私は一生懸命になって自分をひたすら誤魔化しているに過ぎなかった。それでも以前よりは心安く居られたが、阿求様の挙動の一つ一つを目にする度に、弱音を吐きたくなった。
故に阿求様に用を頼まれる度に、私は人知れず苦しんだ。特にその阿求様の外出にお供しなければならないと聞いた時には、背筋に寒気さえ走ったほどである。が、それでも私はあの断崖から落ちる訳には行かぬ。現在の私は、断崖より飛び出た何時折れるとも知れぬ木の枝に、縋り付いているに過ぎなかった。それほどまでに、現在の私は不安定な状態だったのである。
「阿求様、お出掛けになる準備は宜しいですか」
「はい。私の方は大丈夫です。貴方は如何ですか」
「恙無く。それでは参りましょう。約束の刻限まで今少しです」
阿求様は百花の乱れ咲く様を全体に描き出した打掛を羽織り、私は稗田家の家紋が入れられた紋付羽織を父に着せられた。何でも稗田家に恥のないように、服装から草履まで立派な物を身に付けなさいとの事である。何だか、自分には随分と勿体ないように思われて、私はこの紋付羽織を着ている間、始終恐縮な心持ちであった。しかし、それも外に出て少し経ってみれば、然して気にもならなかった。
「済みません、少し外出するだけの用事に付き合わせてしまって」
稗田家の屋敷より出発して、人々の雑踏に私達が紛れ込んだ後、阿求様は唐突にそんな事を云って、申し訳なさそうに顔を俯けた。私は阿求様のそういう悄然たる姿を見せられる度、何だか胸中の奥底で煮え立つ熱湯から立ち上る湯気の如く得体の知れない感情を感ずる。が、それは無論恋情という淡く切ない感情などではなかった。してみると、私にはその感情がどういう位置に落ち着くべきだか皆目見当も付かぬ。ただそれを感ずる度に、私は阿求様を自然の体で見る事が出来なくなる。私の我の存亡が危ぶまれる。故に、それは私にとって忌憚すべき感情に他ならなかった。
「これも私の仕事の一つで御座いますから」
「そうですか? 煩わしいと思った事はありませんか?」
「誇りに思った事は数多あれど、そのような事は寸毫もありません」
「……そう云われると救われます」
阿求様は黙って微笑した。私はこんなやり取りを繰り返す度、自分が機械の類の如く思われる。そうして、そうであらねばならなかった。私は機械になりたかった。機械の如く無感情になりたかった。そうすれば、こうして阿求様の隣を歩く事で、雑念に惑わされる事はない。しかし現実の私は、阿求様の言葉一つに心を揺さぶられる脆弱な存在である。
「約束の場所はあの茶屋ですね」
阿求様がそう云って指差した所には、一般的な茶屋が入口に暖簾を掲げているのが見えた。行きましょうと進む阿求様に付いて行き、茶屋に入ると、主人が快く出迎える。私達は主人に軽く会釈をして、案内された席に向かった。そう広くない店内には、一人の客の姿しか見えず、白袖と紅袴を身に付けた装いの人が、博麗の巫女であろう事は、容易に予想された。
「待たせてしまって済みません」
阿求様は席に着くなり、対面に座す博麗の巫女に謝罪した。見れば阿求様と同じくらいの年頃に見える少女が仏頂面で座っている。肩を露出した出で立ちと、艶やかな黒髪を結う大きなリボンが印象的な少女であった。私は一礼して、阿求様の後ろに立つと、二人のやり取りを眺め始めた。
「遅いわよ。待ちくたびれちゃったわ」
「御迷惑お掛けします。お詫びにお茶でも奢りますよ」
「じゃあお言葉に甘えるわ。色々話す事もあるし、きっと喉も渇くだろうから」
博麗の巫女は、存外砕けた話し方をする少女であった。噂とは大分違っていたので、私は阿求様の後ろで密かに面食らっていたが、当の博麗の巫女は私になど興味は無いらしく、澄ました顔で主人に茶を持って来させている。
「それでは、早速お話を聞かせて貰っても宜しいでしょうか」
「好いわよ。何から話して欲しいの?」
それからは、私には理解出来ぬ話が始まった。人の名らしきものが出て来たり、能力が何だの容姿はこんなのだの、写真を出して話し合っている。どうも妖怪の話しらしかったが、熱心に耳を傾けている阿求様とは違って、私はやはり突っ立っているだけであった。
阿求様は、博麗の巫女から話を聞く度に、手元に置いた紙に色々な事を書いて行く。始めは白雪の如く真白だった紙が、半刻もすれば文字に埋め尽くされていた。未だかつて、私は阿求様の仕事ぶりを拝見する事が無かったので、普段とは違ったその真剣な面持ちが、一種奇妙に思われた。時には無邪気に笑い、時にはこちらが驚くほど大人びた微笑を湛えるにも関わらず、この場に居る阿求様は、寺子屋で勉強に励む子供と何ら変わりがなかった。本当に、普通の子供達と大差ない。私はそんな事を思うと、あまりに下らない自分の考えが、馬鹿馬鹿しくなってしまった。
「まあ、今回はこんな所かしら。他に聞きたい事があるなら聞くわよ」
「いえ、これで満足です。どうも貴重なお話を有難う御座います」
「どう致しまして。私もただで遣っている訳じゃないし、――それよりも私はあんたが心配だわ」
「心配、ですか」
博麗の巫女は相も変わらず、愛嬌に欠ける表情をしている。阿求様は心持ち声音を暗くして、上目使いに博麗の巫女を見遣った。
「後ろの殿方は、新しい世話役じゃないの」
そう云われ、私は博麗の巫女と丁度視線を合わせた。漆黒の眼からは、彼女の意思は何一つとして汲み取れなかったが、何を云わんとしているのかは、何となく判った。だからこそ、阿求様の面持ちは先刻よりも浮かないのであろう。阿求様は黙って頷いたばかりである。
「話は聞いたわよ。あんたは、本当にあれで好かったの?」
その問い掛けに、阿求様の肩が小さく跳ねる。さながら、今まで隠していた事が、此処に来て露呈するのではないかと恐怖を感ずる幼子の如く、不安げにしているであろう事は、僅かに震える背中を見ても明白である。私は心臓が大きく脈打つような心持ちがした。博麗の巫女の無機質な表情が、物の怪の類の如く思われる。彼女こそ、私がなりたいと望んだ理想の姿だと、私は咄嗟に感じ取った。私情に流されず、事実を事実として受け止め、斟酌など毫も考えていない。
が、私は自ら望んだ姿がこの博麗の巫女なのだ、と思うと、同時に空恐ろしくも感じられるのであった。こうも無遠慮に、決して軽くない事実を当人に突き付ける事が出来る彼女に、果たして人の暖かき血潮が流れているのだろうかと疑った。私は本当に彼女のようになりたいのか、と自問すれば、ただちに否と答えが返って来る。すると、今度は自分の立ち位置が判らなくなる。阿求様が何を望んでいるかなど、元より私には図りかねる問題であった。
「私は……」
「決して悪気があって云う訳じゃないけれど、ともすれば、あんたが殺した事には変わりない」
「殺しただなんて、そんなつもりは……」
「阿求」
鋭い声音が阿求様の言葉を制す。私はこのやり取りに掣肘を加えるべきかどうか迷った。博麗の巫女がこれ以上阿求様を責めるのなら、私はすぐに二人の間に割って入るつもりであったが、あの無感情とさえ思われた博麗の巫女は、存外にも優しい顔付をしていた。その表情は、あの日我の意味を説いた父の姿と、何処か似ているような心持ちがした。
「責めてる訳じゃない。況してや同情するつもりなんて毛頭ないわ。今のあんたの考えを聞かせて欲しいだけなのよ。私は博麗の巫女で、あんたは御阿礼の子なんだから」
長い沈黙が店内を領する。阿求様は俯いて何事も話さなかった。私は元より突っ立っているばかりである。博麗の巫女だけが、鋭い眼差しで阿求様を見詰めていた。善意も悪意も感じられぬ無垢なる眼差しである。博麗の巫女が云った所の意味は私には判らない。
「……済みません。少しの間、席を外して貰えますか」
私に目を向けぬまま、阿求様はそう仰った。私は黙って盲従するしかないと心得ている。間もなく「判りました」と云って、店を出た。
入口の暖簾を潜れば、往来を白く染める雪の層に、様々な足跡が付いている光景が現れる。今日は太陽から降りる白光が、雪に反射して上も下も眩く思われる好天気であった。一歩足を踏み出せば、さくりと小気味好い音が鳴って、新たな足跡が往来に出来上がる。私は茶屋の庇の下に立って、何をするともなく、人里の景色を眺めていた。遠くから、雪遊びに興じているのか、幼い歓声が聞こえて来る。遠くに聳える山々の稜線は、ことごとく白く煙り、何処までも果てなく続くかと思われる銀世界が少しばかり恨めしい。私は茶屋の壁に寄り掛かって、白い吐息を吐き出した。
八.
「追い出すような羽目になってしまって、御免なさい」
茶屋を先に出て来たのは、博麗の巫女であった。店の中に居た時と同様に、彼女は顔色一つ変えぬまま、私に挨拶をして去って行こうとしたが、博麗の巫女が阿求様に問うた事の意味が、どうしても知りたくなってしまい、私は思わず彼女の背中を呼び止めた。
「無粋かも知れませんが、私が店から出る前の問いには、どんな意図があったんですか」
博麗の巫女は静かに振り返ると、その場に立ちながら話し始めた。その表情は、最早あの優しげな影さえ見えず、元の如く冷たく機械的なものに戻っている。私は彼女の漆黒の眸が、私を恫喝しているが如く思われた。超然として躊躇する様子もなく、博麗の巫女は云う。
「私は人に仇成す妖怪を退治する為の巫女。阿求は幻想郷縁起を編纂するべく生まれた御阿礼の子。互いに運命に縛られた者同士だからこそ、私は問うたのです。貴方にもきっと判ります。貴方の前の方は、好く御存知でした」
それは先刻博麗の巫女が阿求様にそうしたような、事実の提示であった。彼女はそれから、私の返事も待たぬまま、青く眩しい空に飛び立つと、何処かへ去ってしまった。私は一人取り残されながら、茫然として抜けるような冬の青空を見詰めていた。漸く要領を得る事が出来たと思う。あの問い掛けの意味が、私の頭の内で徐々に整頓されて行った。
博麗の巫女の事情は、私の知り得ぬ範疇である。幾ら想像で推測を立てようが、それは虚飾以外の何物でもない。が、私と阿求様に関して云えば、推測は推断に至る。私の前任の葬儀を執り行った時、阿求様は何と仰られたろうか。記憶の糸を辿って行く内に、私は自身の内から答えを見出した。それは、最早稗田家から逸脱した、私個人の本心である。
不意に涙が零れ落ちそうになる。かつて阿求様の世話役を務めた彼の女性は、こんな心持ちで死んで行ったに違いない。確信染みた思いを以て、私は葬儀の日、阿求様が仰った言葉を反芻した。――今一度、先立つ不幸と、先立たれる不幸とを、皆様の胸中にて、考えて頂きたく思います。阿求様は、確かにそう仰った。それは自問であり、亡き彼女への餞であり、そして後任を務める者に提示した命題でもあった。今まさに、私はそれを問われているのである。
「済みません。お待たせさせてしまって。もう用事は済みました」
ところへ、阿求様が茶屋の暖簾を潜って出て来る。瞼が心持ち腫れている。それでも無理に笑顔を形作ろうとしている様子が痛々しい。紫苑の髪の毛が、風に靡き、陽光を跳ね返す。白い肌は殊更白く、一色に染まった人里の往来の中で、今に消えて無くなってしまいそうなほど、危うく思われた。
私は今ほど、自分の立ち位置を憎んだ事は無かった。もしも私が阿求様の兄であったなら、同じ運命を共有する立場であったなら、阿求様は私にその胸の内に秘めた猛々しい思いの数々を、私の前で開かしてくれたやも知れぬ。が、所詮私は稗田家に仕える一介の男でしかなく、そして阿求様には全てを一思いにぶち撒ける相手が居なかった。そして今、阿求様は泣き腫らした瞼を、私の前で見せながら、未だ不器用な微笑を湛えている。――許されよ、私はそう心中に何度も呟いた。これから見せる罪証を、勝手に創り出した免罪符で覆い隠してしまえるように、何度も同じ言葉を心中で繰り返した。
次の瞬間には、私の腕は阿求様の小さな体躯をすっかり包み込んでいた。阿求様の華奢な肩に顎を乗せ、阿求様の頭を胸に押し当てた。これが白日を憚る行いであったなら、私は愚者に違いない。しかし、最早私は断崖から飛び出た木の枝に掴まっている余裕など持っていなかった。私は遂に、絶壁に打ち付けては白き飛沫を散らしている海の中へ、飛び込んだのである。雷鳴が轟き、荒々しい大波が帆船さえ容易に飲み込む恐ろしい嵐の中へ、この身一つで飛び込んだのである。
「どうされたんですか? 少しだけ、苦しいです……」
私の胸の辺りから、か細い声が聞こえて来る。私は益々阿求様を抱き締める腕に力を込めた。洟を啜る音が、微かに聞こえる。私の腕の中に収まってしまう小さな身体が、とてつもなく愛おしく思われた。父より我の意味を説かれ、自らに戒めを与え続けて半月、私の心の底に蟠った思いは、容易く弾け飛んだ。知らず眸から涙が零れ落ちる。阿求様の打掛に黒い斑点模様が付けられる。人里の往来の中で、私達だけが浮世に在らざる存在かの如く、辺りは静けさに満ちていた。風の颯々たる音さえ聞こえぬ。人々の雑踏の音など毫もない。遠くから聞こえていたはずの幼い歓声は、天に吸い込まれて行った。
「阿求様、私はもう何も隠したり致しません。私はもうこれ以上は耐えられないのです。胸の内に罪悪感が募って行く度に、いっそ張り裂けて欲しいくらいに胸が痛みます。誰に対しても興味を持たずに済むような人間に、博麗の巫女様のような人間になれたらどんなに好かったか知れません。しかし、私には無理でした。私にはあの人のように振る舞う事は出来ないのです。阿求様の運命を知りながら、黙然として過ぎる時を見詰め続ける事は、出来ないのです」
堰を切ったかの如く流れ出る感情の奔流は、止まる事を知らぬまま、次々と心の内より吐き出されて行く。阿求様の両手は、私の着物を掴み、震えている。
「どうして、泣いて、いるんですか」
途切れ途切れに紡がれる言葉の端に、確かに嗚咽の音が混じる。時折小さく跳ねる阿求様の背中を、私は出来る限り優しく包み込んだ。阿求様は「どうして」と云いながら、私の着物を握る手に、更に力を込める。
「どうして泣かずに居られましょう。阿求様、私はもう貴方に何も隠しません。全てお話したつもりです。あの人が亡くなった時、阿求様がどんな心持ちで居たかさえ判るような気が致します。そして、亡き人の思いさえ判る気が致します。それを想い、阿求様の運命を想い、それで私が、どうして泣かずに居られましょうか……」
次第に「う、う」という泣き声を噛み殺したような、小さな声が腕の中から聞こえて来る。小刻みに震える身体が、縋り付くように擦り寄せられる。一度離してしまえば、二度と掴めぬ心持ちがする。私は誰よりも強く在ろうとし、その実誰よりも大きな不安を胸に抱いた小さき少女を、如何なる魔手からも守りたいと思った。この小さくか弱い少女を雁字搦めにし、苦しめている運命の鎖を、今度こそ本当に断ち切って遣りたいと思った。
「私は、たった一度であっても、確かに願ってしまったんです。いずれ先立たなければならないのなら、せめて私より先に逝ってくれれば、幾らか安き心を得る事が出来ると、確かに願ってしまったんです。私は彼女に謝りたい。この罪を償う事が出来るのなら、地獄の千年万年などちっとも恐ろしくありません。私は、彼女に許されたいんです。そして、もう、二度と、こんな思いを、したくは、ないんです。どうか、どうか、信じて下さい。私は……」
阿求様はやっとの思いでそう告白すると、私の着物に縋り付いて天上界にさえ轟くような大きな泣き声を上げた。恥や外聞などは、既に私達の中には無かった。私はこの余りに厳酷なる運命を憂い、嘆き、憎んだ。阿求様は永劫拭えぬ罪悪の意識に身を焼かれ、一心に彼女に謝りたいと願い続けた。しかし、運命に抗う力が私には無く、阿求様は輪廻の先に、新たな御阿礼の子として生まれ変わらなければならぬ。この世に神など居はしない。私はこの憐れな人間に、その御言葉さえ聞かせてくれず、その御手さえ差しのべてくれず、その後光さえ見せぬ神に怒りさえ覚えた。
だからこそ、私はこの悲劇を喜劇に変えたいのなら、自ら行動しなければならないと思った。例えそれが絵空事のような理想論であったとしても、この堅磐が如く強固で峭刻なる運命の壁を乗り越えたいと、本気で考えていたのである。幻想郷と云われる世界が、斯くも酷なものならば、私は更なる幻想の世界の存在を信じたかった。運命のしがらみもなく、誰もが幸せに暮らせるような、――そんな小さな子供が考えるような事を、私は切に願っていた。
「阿求様。このまま遠くへ逃げてしまいましょう。運命も使命も何もかもを打ち遣って、誰にも知られぬ場所で暮らしましょう。輪廻に見放されるその日まで、私はこの命が尽き果てるまで付き添います……」
阿求様を包んだ腕を離し、阿求様を真直ぐに見詰めながら、私はそう云った。涙に濡れた愛くるしい眸が見開かれ、私の着物を掴んだ手が、するりと落ちる。晴れ渡る大空を流れる雲が太陽に懸かり、地上に降り注ぐ影が次々と純白の世界を染めて行く。阿求様はやがて雪の上へ膝を着いた。さくりと小気味好い音が鳴る。そうして私を見上げた阿求様は、泣きながら笑んでいた。本当に嬉しそうに、本当に悲しそうに、悲喜のどちらをも表する如く、笑い、泣いていた。
「有難う御座います……」
九.
「拝啓 今時分は、桜花欄間たる桜の華が、乱れ咲いている頃かと思われます。冬の時日と比較して、定めて陽気な気候が、人里を包み込んでいるでしょう。
私は春の訪れに吹く風に、揺られながらその花弁を散らす桜の華が好きです。沈黙を保つ桜の木が、風に吹かれた時に、一時に同一の方向へ揺れる百枝から、まるで雪の如く花弁が舞い散る様は、永劫見物し続ける事が出来ると思えるくらいに、その様子が好きでした。貴方が暮らす幻想郷には、今まさにそんな光景が、至る所にあるかと存じます。今年の桜は満開に華を開いたでしょうか。叶う事なら、私も小さな猪口を片手に持ち、満開に華開く桜の木々の連なりの下で、皆様と諧謔を弄しながら、酒気に頬を赤く染められて、花見などをしてみたいと思っておりました。しかし、誠に勝手ながら、私はこの春を共に迎える事が出来ず、輪廻転生へと至る冥途の長き道のりを、一人彷徨しなければなりません。そんな私にとっては、再び来たる来世の幻想郷にて、咲き誇る花々を拝見するのが一番の楽しみです。
こうして手紙を貴方に差し出した理由は、此処に記さずとも見当が付くかと思われます。私は初めから、この手紙に感謝と謝辞とを、纏綿として整理の付かぬ感情を整える為に書くつもりです。憂世に生きていた頃には考える事さえ許されざる事をも、同時に記そうと心に決めております。見苦しく未練がましい内容が続いてしまうかと思われますが、貴方ならば、如何に取るに足らぬ閑文字であったとしても、一字一句に目を通して下さるであろうと信じて、誠に僭越ながらこのような手紙を書きました。私の身勝手は重々承知しておりますが、どうか拝見して下さるようお願い申し上げます。
思えば、私は定めて身勝手な人間であったように思います。貴方の前任を務めて下さった彼女に、謝りたいと云っておきながら、私は未だ逃れられぬ稗田の使命に従う事を決め、今頃貴方の生きる世を去って、冥途の道を歩んでいるのでしょう。自分の薄情は痛烈な程に感じておりますし、好くして下さった貴方にも悪い事をしたと思っています。私は愚直なまでに貴方の言葉を信頼しておりました。だからこそ、その誘惑に負け、何もかもを打ち遣って遠く離れた地で暮らせたなら、どれほど幸せだったろうか、と思わない日はありませんでした。
しかし、結果として私は稗田の、引いては御阿礼の子の使命を全うすべく、自ら此岸より立ち去る事を選択したのです。無論私なりの考えはありましたが、先立たれた者の心苦しさを理解しているからこそ、貴方には申し訳なく思います。御阿礼の子として生まれた以上、この結末は避け得ぬ事だと思う人は大勢居たでしょう。またそう思わなければならない事情とて、貴方は痛いくらいに理解していたかと存じますけれども、貴方だけは私の身体を縛す運命の鉄鎖を千切ろうとしてくれました。私の実に短い十余年の人生の中で、私を憐れなる宿命から救い出そうとした人は、後にも先にも貴方以外には居りません。故に私は、殊更その甘く優しい誘惑の言葉に、心が揺れ動きそうになる事が、度々あったのです。
それは出来ません。私がそう云った日の事を覚えているでしょうか。私は貴方の着る着物の繊維の一筋も、それが私の涙で濡れた感触さえ、鮮明に記憶しています。貴方も私と同様に、あの日の事を忘れ難く鮮烈なる過去と捉えているのなら、恐らく私の言葉をも同時に覚えているかと存じます。今更白状したとて、何等の変化も望めぬ事だと思いますが、敢えて此処で私の本心を暴露するならば、私はあの時、貴方が仰いましたように、誰にも知られぬ遠く離れた地で、貴方と共に生きたいと確かに思いました。私が十にも足らぬ年の項であったのなら、きっと何も考えず、貴方の大きく温かい手を取って、純白に染め上げられた世界を、何処へなりとも走って行きました。
ならば、何故そうしなかったのか。貴方はそう思うかも知れません。複雑且つ難儀なる縁由が、私の心の内に根差しているのかと疑うかも知れません。しかし、私は極めて単純な理由で、貴方の誘惑を断ったのです。私を含め、九代続いた稗田の使命は、幾星霜もの時日を掛けて続けられて来ました。先代も、そうしてその先代も、自らの使命を心得て、如何なる誘惑にも打ち勝って来たからこそ、私は貴方の居る世に生を授かったのです。それなのに、私一人が誘惑に負け、古人の遺志を無碍にする訳には行きません。
もしも私が貴方の誘惑に負け、貴方の言葉通りの人生を歩もうとしたのなら、私は累々と堆積し続けた御阿礼の子の歴史に幕を引いた罪悪感に押し潰されて、到底心安く往生する事は出来なかった事でしょう。私一人が御阿礼の子ではなく、長年に渡って続いて来た御阿礼の子の歴史そのものが、私の人生なのです。その使命を放擲する事は、恐らく死と同義であり、この世に認められる如何なる罪も超越した大罪なのです。それを自覚していながら、私は貴方の差し出した手に、縋る事は出来ません。只その優しさを、冥途を巡る中で自分の糧にしたいと思います。貴方のあの言葉があったからこそ、稗田阿求は存在し得たのです。でなければ年端も行かぬ小娘である私は、この背中に圧し掛かる恐ろしい宿命の重圧に到底耐えられなかったに違いありません。
そして、私の過ごした一生が、如何に悲しかろうとも、私が生きた意味は決して無ではありません。例え遺した物が運命に因る産物であったとしても、私は私以外に遺せぬものを遺して逝きました。それは只の自惚れかも知れず、独り善がりの全く勝手な思い込みかも知れませんが、私はこの手紙を書き記している間も、それを信じて止みません。叶うなら貴方にも私の吐露した心情が、真実であった事を信じて欲しいと思います。私は決して死にたがりの人間ではありません。浮世を生きる大勢の人間がそうであるように、私とて生きたがりの人間なのです。そうして、私を生きたがりの人間足らしめた原因の一つには、貴方の存在が確実に関わっているのです。
深々と、静かに穏やかに細雪が舞い散る日、貴方は冬にのみ咲き誇る華は、自分に勇気を与えてくれると仰いました。私は貴方と過ごした日常の中で、特にその時の事を明らかに覚えております。私と貴方との立場では、感ずる事に違いはあると思いますが、それでも私には貴方のような物の考えが、とても羨ましいものの如く思われました。私はあの例え話の中で、冬にのみ咲き誇る華でした。そうして貴方はそれを見守る人でした。そこに思惟の相違が生ずるのは至極当然の事でありますが、それでも私はその時ほど自分の弱さが露呈された時は無いと思っています。
そうして、その時から私は自分の弱さを克服したいと常々考えておりました。彼女を見す見す死なせてしまった事も私の弱さが要因です。彼女は一時露見した私の、元より傷付いた弱き部分を癒す為に自ら命を断ったのです。彼女の遺した文には、それを裏付ける文章が連綿として綴られておりました。全て私の為にした行為だと明確に示されておりました。しかし、彼女の思惑に反して、私が感じたのは途方も無い悲しみであり、取り返しの付かぬ喪失感でした。私は彼女が死してまで尽くしてくれたのにも関わらず、その想いを無駄にしてしまったのです。
幾度悔もうとも、悔やみ切れる事はありません。生ある限り、死ある限り、私は自分の犯した罪を自覚し、彼女への謝罪をこの胸に呟き続けるのです。それで罪が購えるとは毛頭思いません。これは私に課せられた罰であり、二度とその出来事を忘れぬ為の戒めです。極楽にも地獄にも行く事を許されぬ女の、聞き苦しい言訳です。決して私は許されてはならないのです。先立たれる者と、先立つ者の悲しみの大小など、論じた所で意味はありません。先立つ者には先立つ者の悲しみがあり、先立たれる者には先立たれる者の悲しみがあります。その時の私はその事に気付いておらず、その結果、自分の境遇がまるで如何なる不幸にも勝る憐れなものだと思い込み、彼女を死なせてしまったのです。
故に、私は二度と同じ過ちを繰り返したくないと、貴方に申し上げました。それには、やはり私自身が強くなるより他には無かったのです。それが貴方の誘惑を断った理由です。私は貴方の甘美なる誘惑に、突き動かされそうになる自らの弱さを打ち倒す為に、貴方の誘惑を断ったのです。
果たして、私の行いは間違っていたのでしょうか? 御阿礼の子の使命を貫き通し、貴方の言葉を直向きに信じ続け、貴方を勇気付けられるような存在になれたなら、というのは私の勝手な自己満足でしかなかったのでしょうか? 既に死んでいるであろう私には、それが判りません。この魂がこの世を離れる間際まで、私は不安で不安で仕方がありませんでした。私には先立つ者としての悲しみがあり、貴方には先立たれる者としての悲しみがあったかと思います。そうしてそうあって欲しいなどと、厚かましい事を考えております。それは迷惑でしかなかったのでしょうか? 私が貴方に想いを告げる手段は、間違っていたのでしょうか?
――などと、この手紙に書いた所で、既に浮世に居ない私にとっては意味の無い事でしょう。ただ、死ぬ前に書き記したこの手紙を貴方が読んで下さり、そうして私の疑問に一つ一つ答えてくれたなら、それに勝る恩倖はありません。その想いがどんな形であれ、私はそれだけで満足なのです。今、私はこの文を書きながら、一つ一つ貴方の言葉を想像しています。貴方は勝手な私を怒るでしょうか、貴方はこの手紙を卑劣な手段と捉えるでしょうか、貴方は私を怨むでしょうか、貴方は私を憐れむでしょうか、――そう考えてみましても、私の想像上の貴方は、何時も判然たる言葉で私の不安を薙ぎ払って下さいます。「そんなはずがありません」と、丁寧で優しい声音で紡いで下さる貴方の姿が、容易に想像されるのです。
薊の花も一盛りと仰った親愛なる貴方へ、成長した私の姿を見せる事が出来ないのが、至極残念です。まるで実の兄のような貴方と将棋や囲碁を指せなかった事が誠に悔やまれます。私を救い出そうとして下さった貴方に、直接謝罪と感謝とを伝えられない事が実に遺憾千万です。思い出して見れば、私の人生には心残りばかりです。その全てを此処に挙げるとなると、枚挙に暇がなく、到底この手紙に全てを書き遺すのは無理でしょう。既に紙は全て文字で埋まろうとしています。もう一枚書く猶予もありません。これを書き終えれば、間もなく私は転生の儀を行う所存ですから、これは遺書とも云えるのかも知れません。そうして紛れも無く私が貴方に送る最後の言葉です。どうか心に留めて置いて下さい。
私は愚昧のような存在であったかと存じますが、私にとって貴方は本当に好い兄でした。貴方が私の世話役を解任されてからでさえ、私は片時も貴方の事を忘れた事はありません。今まで私などの世話を焼いて下さり、誠に有難う御座いました。そして、どうか先立つ不孝をお許し下さい。
最後に、私は愚かな自分の本心を、此処に記します。これは冗談の一種であり、決して真面目な心持ちで書くのではありません。私は本当に、一寸貴方をからかってみようくらいの心積もりで書くのです。先述した色々な事柄を見ての通り、私がこれから書くであろう事を、本気で書いたなどとゆめゆめ思わぬようにして下さい。そうして、次に書く言葉に対して、これほどまでに注意するように書いている私の心情を察して下さい。私は馬鹿な小娘です。今際の際まで、自分の弱さを捨て切る事が出来ませんでした。そして、その弱さを貴方に押し付けています。それでも、貴方を勇気付けられる華になりたいと思ったのは本当なのです。だからこそ、私は愚かな生きたがりの人間です。しかし、どうか御理解下さい。私がそれを、この手紙に書くという事は、確実に私の成長を表しているのです。この手紙に書くというだけで、それは二度と叶う事がない願いとなり、そしてこの手紙に最も必要のない閑文字となるのですから。
――了
一つ、去り行く蝉を目にしては。
一つ、枯れ行く葉を目にしては。
一つ、融け行く雪を目にしては。
死生の是非を問い、己が命を秤に懸けん。
九寸五分の恋、命を賭す御願が、其の三。
例えば斯様な物語。
一.
「本来ならば、此度このような大仰なる儀を挙げる事は、稗田家の威信に関わる事のように思われるかと存じ上げます。けれども、第九代御阿礼の子の名を冠するこの稗田阿求の、我儘を押し通される事にどうかご理解を頂きたく思います。何故なら彼女は私にとって無二の人でありました。幼少の頃より色々と世話を焼いて頂き、彼女が居ない生活などは到底考えられないほどに、彼女は私の生活の中に溶け込んでいたのです。その彼女が、先日自ら命を断ちました。私は生涯この大事件を忘れぬよう、そして彼女に敬意と愛情とを表明する為に、今は亡き彼女の存在が、来たる未来の中で人々の記憶から永劫忘れられぬように、このような儀を挙げたいと思った次第で御座います。どうか、今は何も云わず、彼女の死を悼んでくれますよう、切に願っております。そうして今一度、先立つ不幸と、先立たれる不幸とを、皆様の胸中にて、考えて頂きたく思います」
私は稗田家の家人を一か所に集め、その真中で利発そうな目に、少しの涙も湛える事なく話し終えた阿求様を眺め遣りながら、この葬儀の為に用意された大掛かりな飾り付けや、今は亡き女に手向けた絢爛豪華な花束の数々に目を配っていた。阿求様が仰られるように、稗田家に努める下女に対して、これほどまでに大仰な準備をする事は、少なくとも未だ若輩者の域を出ない私にとっては、異例と称して間違いない事態であった。
葬儀に参列した人々は皆厳かな面持ちで、席へとお戻りになる阿求様の小さな体躯を見詰めていた。あまり若い者が居ない事もあり、私は何だか心細い心持ちだったが、間もなく坊主の読経やら何やらが終わり、私はこの辛気臭い葬式の場より脱出する事が出来た。私には、隣に座る父の厳しい表情の意味が微塵も理解出来なかったし、また理解しなくても好かろうという思いがある。そんな私にとって、この場は窮屈以外の何物でもなかったのである。
そうして葬式が恙無く行われた晩に、私は父の部屋へ呼び出された。稗田家に仕える下女の一人が死んだのだから、多少は役割の整理をしなければならないとみえて、私はその為に呼び出されたらしかった。事実、屋敷に仕える者達は、口々に自殺した彼女の穴を埋める事になる者は誰になるのか、と頻りに話し合っているのをよく目にする。屋敷内でも特に雑用を任されている者共の話からは、出世の契機が訪れたのやも知れぬという不謹慎な言葉も耳にした。私もその雑用を任されている一人ではあるが、出世だの何だのという事には何等の興味もなく、また不謹慎な口を叩く者達を告発する必要も感じられなかったので、やはり父の呼び掛けに答えるべく、稗田家の長い廊下を黙って父の部屋まで歩いて行った。
「失礼致します」
そう云って、父の部屋を塞ぐ襖を開け放つと、中には葬式の時より寸分も変わらぬ表情をしている父の姿があった。腕を組み、部屋の中に踏み入った私を見詰めたまま、微動だにしない。これは何か重大な事が告げられるな、と私は頭の片隅に思い浮かべると同時に、先刻耳にした出世絡みの話を思い出した。
「座りなさい」
一言ぴしゃりと云われ、不審に思いながらも座布団の上に腰を下ろすと、やはり父は何も云わぬまま、私の顔をじっと眺めているばかりで、一向に用件を切り出そうとはしなかった。よもや危篤に陥った事でも知らされるのではなかろうか、と一瞬思い浮かび、背筋が凍り付くかと思われたが、目の前に座り、太く屈強な腕を組んで、まるで山の如く座している父に限って、そんな事はあるまいと思うと、やはり父が如何なる用件で私を呼び出したのかは、見当も付かなかった。
「……実は、お前に話さなければならない事があってね」
「存じ上げております。如何なる内容なのかは、少々判りかねますが」
「ふむ。その前に、尋ねたい事が一寸あるのだが、好いかね」
「なんなりと。答えられる質問であれば、お答え致します」
「お前は、この稗田の屋敷を好いているかい」
重く塞がれた唇を漸く開いてくれたかと思ったら、父の質問はあまりに私の予想の範疇より逸脱していた。と云うのも、私は稗田家に仕える父と母の間に生まれ、そのまま稗田家に仕えていたから、この屋敷が好きか否かと問われると、何だか答えに迷ってしまうのである。
「と、云われましても、私は生まれた頃より稗田家にお勤めしている訳ですから、最早答えは決まっているようなものではないですか。私が否と答える道理もありますまい」
「そうかも知れないが、言葉にしなければ判らない事もあるよ。どうかね、此処は一つ、正直に答えちゃくれないかね」
正直に答えてくれ、と云う父の言葉とは裏腹に、私は正直な答えなど決して返すまいと心に決めていた。私にとってはこの環境こそが当然であり、それ以外の場所で生きる事など考えられなかったので、やはりこの屋敷での暮らしが好きか否かと問われると、何だか曖昧な答えしか出て来ない。詰まる所、正直に云えば判らないのである。が、父はもう還暦を迎え、白髪も大分目立つようになった老人であるだけに、その顔に寄せられた皺や年相応の外見を見ると、何だか曖昧な答えを返す事が、段々可哀想になって来てしまい、父の望む答えを返さなければ、という気が大きくなって行く。私は一呼吸置いて、思索を巡らせると、父が望んでいるであろうと思われる言葉を紡いだ。
「勿論、私は此処に生まれ、此処で育ちましたし、お父様もお母様も好くして下さいました。嫌う理由など何一つありません。私は稗田のこの屋敷を好いております」
「そうかい。では、何故お前はこの屋敷に勤めるのかね。若い者には若い者の夢があるだろう。ともすれば、この屋敷はお前を縛り付けているのだからね」
「そんな事を思った事はありません。お父様がそうして来られたように、誠心誠意稗田家の為に仕える事が、私の幸せなのです。そうする事で、お父様やお母様から頂いた御恩を、初めて返せましょう」
「それじゃ最後の質問だよ。――阿求様の事を、どう思うかね」
父の言動の妙は、益々私を困らせた。幾ら稗田に仕えていると云っても、私は所詮雑用を任された取るに足らない人間であるのだし、これまでも阿求様に直接関わった事はない。遠目から眺める折はままあるにしろ、やはり話した事はないのだから、云ってしまえばお互いに関心を持った事がない者同士、如何なる感情も生まれようがなかった。私は阿求様の事を、丁重に扱わなければならぬ人程度にしか思っていなかったので、それまで流暢に動いていた舌も、父の質問によって封じられてしまった。こうなっては正直に云うより他になかった。
「私は今まで阿求様と直接関わった事は御座いませんし、遠目から眺めるだけで、それ以上の事はしようとも思いませんでした。ただ、お守りすべき人、とのみ思っております」
「正直でよろしいね。実は、今日呼び出したのは、他ならぬ阿求様の事なんだよ」
「はあ」
「今日行われた葬儀で亡くなられた人の事を知っているかい」
「いえ、時折見掛けるばかりで、詳しくは存じ上げません」
「あの人は、生まれた頃より阿求様の世話を任せられていたお方だ。阿求様とは誰よりも長い付き合いのあるお方でね、それはそれはお優しい方だった。若くして、色々とやりたい事もあるだろうに、何時でも阿求様の事だけを一番にお考えになさる人だったよ。……本当に、惜しい人を亡くしてしまった」
父の言葉には次第に涙が交じり始めた。克明に刻まれた目尻の皺には、涙の一滴が灯りを受けてきらと光っている。私は何と云って好いのか判らず、ただ「御愁傷様です」と云ったばかりであった。父は一頻り咽び泣いた後、改めて私の顔を見詰め直して、本題を切り出した。既に屋敷は静まり返っている。先刻までは頻りに聞こえた誰某が歩く音などは、何処にも聞こえなかった。背後の襖の向こうには、きっと暗黒があるばかりであろう。
「悪いね、みっともない姿を見せてしまって」
「いえ、そんな事は」
「色々と時間を掛けてしまって済まないが、今晩お前を呼び出したのは、他ならぬ阿求様のお世話をする役割を、お前に担って欲しいという話をする為だったんだよ。これは父としてだけでなく、稗田家の総意から決定されたのだが、無論当人の意思を優先するようになっている。どうだね、請け負ってくれるかい」
父はそう云うと、じっと私の顔をまた見詰めた。老人の眸には確かに期待の光が灯されているように思われる。私はその一瞬間に、幾つ物を考えたのか判らなかった。何故、突然そんな重役を私に頼むのか、阿求様と殆ど面識がない私が任命されるべきでないだとか、兎角色々な事を考えた。即決する事が出来るはずもなく、私は悩みながら押し黙ってしまった。変に私を急かさない父の態度は、殊更焦燥感を与えるもので、金槌で頭を殴られたような感覚に陥ったまま、私は中々混乱から抜け出せずにいた。
「質問を返すようで失礼かと存じますが、何故私のような男をそのような重大な役割に任命するのでしょうか」
「尤もな疑問だね。お前も知っての通り、僕は給仕やら雑用やらの人間を統制する役割を担っているだろう。云わばこの稗田家に仕える人間を最も多く知っているのが僕だ。その僕が、最も適正だと判断した者がお前なのだよ。これは決して贔屓などではないし、況してや僕の独断で行った事でもない。私の推薦を上が受け入れてくれた結果だ。お前は礼儀正しく素行も好い。そして何より我を持っている。僕が考えるには、その我が一番重要なのだが……これは知らなくても好いね。兎も角、そういう訳なんだ。どうだい、やってくれるかね」
父が途中で切った我の意味は判然としていなかったが、私は特にそれを追究するでもなく、黙って座っているだけだった。どんな返答を返すべきかと迷っているものの、「はい」という言葉はその迷いの中にはない。どうすれば上手くこの場から脱する事が出来るのか、という点に於いてのみ私の頭は回転しているのである。
「私などは……本当に取るに足らない男で御座いますから、他に適任は幾らでも居るでしょう」
「いいや、僕の見た限りでは、お前以上の適任はいないよ。自信を持って好い。お前は本当に出来た息子だよ」
「しかし」
「厭なら厭と云っても好いんだ。僕が勝手に進めてしまった話だから。何もお前の意思を蔑ろにするつもりではないんだよ」
私にはその時の父の言葉が、脅迫に用いられるような強い言葉に思われて仕方がなかった。恐らく傍から見ても父思いに映るであろう私にとっては、父の期待を裏切る事など出来るはずもない。私は何としてもうんと云わなければならない心持ちがした。元より、父の申し出を断る事は、例えどんなに尤もらしい理由を付けようとも、私には出来ない。そう思うと、先刻交わした問答が途端に馬鹿らしくなって、私は父に気付かれぬように嘆息を零すと、首肯した。
「判りました。元より断る理由など無かったのですが、如何せん大きな責任を負わなければならないのみならず、お父様の尊厳にも関わりのある話でしたので、つい躊躇してしまったのです」
「そうか、受けてくれるかい。僕はこれほど嬉しい事はないよ。お前が御阿礼の子の世話をするんだ。一生誇りに思う事が出来る。お前も同じ心境で居てくれれば好いのだが……」
「ええ、勿論です。一時は身に余る光栄に思えたので戸惑ってしまいましたが、考えてみれば、稗田家に勤める者として
、これ以上の栄誉もありません。今すぐに飛び上がって喜びたいくらいです」
「そうか、そうか。お前は本当に好い子だね。これからも、今までと同じお前でいておくれ」
父はそう云って、温厚な性格には似付かぬ逞しい腕を私に向かって延ばすと、力の限り抱き締めた。私はこれから一変するであろう自分の生活を憂えると同時に、父の期待に応える事が出来たという満足感で、善し悪しの付かぬ曖昧な感じを抱いたまま、父の抱擁に身を委ねていた。
やがて、話を終えて父の部屋から出ると、庭先に面した廊下からは、一寸先も見えぬ闇があった。月明かりさえ遮る分厚い雲が、天を覆っている光景でさえ見えぬ。絢爛なる光を鏤めた夜空は、ただ漆黒に染まっていた。思わず身震いしてしまうほど、冬の空気は冷たく、時折戦ぐ夜気を孕んだ風は、殊更この身を苛めた。私は袂に両腕を入れて、身を縮めながら父の部屋を後にすると、静謐なる稗田の屋敷の長い廊下を、一人歩いて行った。
二.
「幾ら御聡明と云えど、未だ多感な年頃であります上、先日はあのような事件もありましたので、充分にお気を使われますようお願い致します」
そう云われたのが、父から阿求様の世話を任されたあの晩の翌日の事であった。私は対して心の準備をする間もなく、否応なしに阿求様の居られる座敷へ通されると、その襖の前で再三に渡って注意を受けた。その度に私は「へえ」だの「判りました」だの云っていたが、実の所阿求様という人の事を全く知り得ない私には、何だか別世界の如く思われて、この期に及んで何ら危機感を感じる事が出来なかったのである。
「それでは、阿求様の事を宜しくお願い致します。手に余る用件であれば、私共がお受け致しますので、その都度お呼び下さいませ。しつこいかと思われますでしょうが、どうか、充分にお気を使われますようお願い致します」
説明を終えて、廊下を歩いて行く家人の背中を眺めると、私は一人阿求様が居られる座敷の前で、茫然と立ち尽くしてしまった。幾ら阿求様の人格を知らぬと云えど、阿求様の評判は痛いくらいに耳にする。年の項僅か十と余年を数えるばかりの若い娘であれど、その博識なる知識は大海の如く、柔らかき物腰は戦ぐ春風の如く、麗しき御姿は咲き誇る華の如く、と私も聞いた事がある。
斯く御高名な阿求様にお会いするのは初めてであるし、緊張するのも無理はないと、父にも云われていたが、それでも自分が粗相をしてしまうのではないかと思い浮かべただけで、目に見えぬ重圧の影は、今更になって私の背中を絶えず圧し始めた。が、此処まで来た以上は進まねば父に申し訳が立たぬ。私はよしと一人心中で意気込むと、深呼吸をしてから襖の向こうへ呼び掛けた。
「阿求様、失礼しても宜しいでしょうか」
「構いません。どうぞお入りになって下さい」
細い声が襖の向こうから聞こえて来ると、私は襖に手を掛け、静かに開けた。部屋の中には、壁に沿って置かれる書架と、活けられた花が隅の棚に一つ、部屋の中心でぱちぱちと音を立てる囲炉裏の前に小机を置き、その前に阿求様は礼儀正しく独座していた。私は廊下に膝を着き、深々と頭を下げながら、まずは身の周りの世話をする事になった旨を説明しようとした。
「話は聞いています。迷惑を掛ける事もままあるでしょうが、どうか御勘弁下さいね」
射んとして引いた弓の弦は、当てを外されて虚しく戻った。矢は私の足元に落ちるばかりである。先手を打たれた私は、一瞬呆気に取られてしまって、柔らかく微笑みになる阿求様の慈顔に、釘付けとなってしまった。
「如何されました。何処かお身体の具合が好くありませんか?」
「い、いえ、そのような事は決して。用がありましたら、何なりと申し付けて下さいませ」
「はい。そのようにさせて頂きます。改めて、宜しくお願いします」
「こちらこそ、私などでさぞ不服かと存じますが、どうぞ宜しくお願い致します」
「そんな事はありません。貴方の話は貴方の父方から好くお聞きしています。大変好く出来た息子だと、そのように」
そう云って微笑みになった阿求様は、居住いを正すと畏まる私に向けて深々とお辞儀をすると、再び「宜しくお願いします」と云った。私は何だか父が何時の間にやら阿求様に私の事をお伝えしていた事実や、阿求様が頭を下げているという事態に戸惑ってしまって、情けない事に碌な言葉も返す事が出来ないでいた。
「どうか余り畏まらないで下さいね。私など、幼い小娘に過ぎませんから」
「いえ、阿求様には他の追随を許さぬ英気が溢れております。だからこそ、尊敬の意を表明致したく、このような言葉使いを用いているので御座いますから」
「皆さんそう仰います。ところで、そんな所に膝を着いていては殊更寒いでしょう。どうぞ遠慮なさらずにお入り下さい。そこから入る風は、囲炉裏で暖まっていた私には、些か寒くって」
着物の袂を口元に当て、楚々とした苦笑を浮かべる阿求様は、逆の手で座布団を引っ張って来ると、御自身の前にそれを置き、手招きをした。知らぬ間に迷惑を掛けていた事を、刹那の内に理解した私は、まるで尻に焼き鏝でも当てられた人の如く飛び上がって、挨拶もしないまま阿求様の前に座ってしまった。焦慮する頭の内では、己が非礼を自覚する間もなく、私がようようそれに気付いたのは、阿求様が遂に声を上げてお笑いになられた時であった。
「申し訳御座いません。これは、とんだ失礼を……」
「お気になさらないで下さい。まさか、私もそこまで驚くとは思わなかったものですから」
「見ての通り、未だ初心の域より脱け出す事も叶わぬ若輩者ですが……」
「いいえ。けれど、その前に」
そう云うと、阿求様は静かに立ち上がった。私はやはり阿求様の挙動を眺めるばかりで、柔らかい座布団の上から動く事も出来ずにいる。やがて、阿求様は私の横を通り抜けて、襖の前に立った。私は心の内で「しまった」と舌打ちをした。阿求様は例の如く穏やかに微笑みになっている。そうして襖に手を掛けると、こう云った。
「襖を閉め忘れていますね」
すと閉じられる襖を見、元の位置にお戻りになる阿求様を見、私は憤死せんばかりに恥じ入った。身体中の血液が、滝を登ろうとする鯉の如く、我が身の内を駆け上がって行くかの如く思われる。俯せた顔を恐る恐る阿求様の方へ向けると、阿求様はその幼い体躯に似付かぬ大人寂びた笑みを浮かべて、「お気になさらず」と、やはり穏やか且つ静かに云った。返す言葉がないとはこの事であろうと、私は心中に呟いた。
三.
私は阿求様の世話役になるにあたって、幾つかの約束事を父から与えられた。元々、父の仕事は給仕や雑用に指示を出すばかりではなく、阿求様の世話役の教育も兼ねていたらしく、それもあって阿求様とは度々接する機会があったとみえて、私に説明している間も手慣れた様子であった。私の前に阿求様の世話をしていた女性も、きっとこうして父から色々と教えて貰っていたのだろうと思うと、何だか不思議な感慨が湧いて来るようであった。
父は然して特別な事も、あの日云った我の意味の講釈も私にはしなかった。ただ、阿求様の呼び掛けには出来得る限り迅速に対応し、常に礼儀正しく粗相の無いように気を付ける事とのみ聞かされて、またしても私ははあと頷くばかりであった。何故世話役が一人なのかという事も尋ねてみたが、その理由も極めて単純且つ明快で、阿求様のお勤めの邪魔にならぬように、阿求様の部屋の周辺にはなるべく人を少なく配置するのだという。成程阿求様の部屋は静けさに満ち満ちていたし、人々の話し声などはその余韻すら響いて来ないようであったと思われる。
初日の情けない私の体たらくを思い出すと、愧赧の念を感じずには居られなかったが、それから二三日も経過すると大分私の方にも落ち着きが出始めた。冷静になって阿求様という人物を観察すると気付く事が幾多もある。今まで無関心であった私も、次第に阿求様に興味を持ち始めた。が、だからと云って、使用人としてあるまじき詮索などは決してする事なく、飽くまでも阿求様を観察した感想を元に、自分の中で色々な推測を立てるのみである。
例えば、阿求様の担われている使命というのは、誰もが知っている通りであるけれども、阿求様御自身は、それを鼻に掛けた様子もなく、その荘厳なる響きを思わせる使命とは相反して、とても人当たりの好い女性である。そのお姿や声の質から判じても、少女と称されて相違ないであろうが、誰彼の目から見ても彼女は立派な貴婦人だと判じる事と思う。阿求様の一挙手一投足は全て気品に満ち溢れ、誰某から聞いた阿求様の風評も間違いではないと思われた。
しかし、余りにも大人寂びている所為で、私には時折阿求様が酷く憐れなように思われる。阿求様を華と形容するのなら、その前に「活けられた」と付け加えなければならない心持ちがする。生まれた頃より己が使命を自覚し、自由という誰しもが持つ至高の権利を放擲し、役目を終えれば桜の花よりも尚早く散って行かねばならぬ。それは正に、活花の在り方と酷似している。枯れた活花は、人々の心を魅了する事は出来ない。
かと云って、私の心の内にある憐憫の小さき焔を、阿求様の前にて灯す事はしなかった。私は一貫して阿求様の世話をするという役目に徹しようと心に決めていた。それ以上でもそれ以下でもなく、舞台の上にあるように、一つの役割に徹していれば、余計な口を叩く事もあるまい。私は舞台の上で活躍するような主役ではなく、小さな脇役の一人なのだと自覚している。
と、丁度そこまで考えた時に、阿求様が手を鳴らす音が聞こえたので、私は新たに与えられた自室を出て、隣の阿求様の部屋の前に立った。
「如何なさいましたか」
「新しい墨を持って来て頂きたいのです。丁度切らしてしまって」
「判りました。少々お待ち下さい」
阿求様が墨を切らしたと云うのは、これで早くも二三度目のように思われる。幻想郷縁起なる膨大な量の文を書いておられるのだから、私は然して気にも留めなかったが、今回は幾らか早いような心持ちがした。前回阿求様に新しい墨汁を届けたのは、つい昨晩の事である。一日中執筆に勤しんでいたにしても、墨汁の注文は早かった。
しかし、余計な詮索をすまいとしているのは、他ならぬ私自身が心に刻んだ戒律故である。私はそんなものなのだろう、と勝手に納得して、大人しく新たな墨汁を取りに向かった。
「お待たせして、申し訳御座いません」
「有難う御座います。どうぞお入りになって下さい」
そう云われ、襖を開けると、例の如く小机の前に座していた阿求様は、微笑を湛えて私の方を見た。手元には幻想郷縁起の原稿と思われる紙が何枚かと、硯が一つ、そして筆が置いてある。お勤めの最中だったろう事は容易く見通せたので、私は早々に立ち退こうと考え、阿求様に墨汁を手渡すと、踵を返した。
「今日は殊に冷えますね。囲炉裏があるとは云え、襖が開かれる度に凍て付いた風が流れ込むように思えます」
「今日は御覧の通り、雲が空を覆っていますから。今に雪でも降り出しそうな気色です」
「雪が降ったら、更に冷え込むでしょうね。貴方のお部屋はお寒くありませんか」
「時折隙間風が何処ぞから侵入して来る事もありますが、呻吟するほどのものではありません」
「そうですか。でしたら、一寸お茶でも如何ですか。私も丁度休憩を取ろうと思っていたんです」
「いえ、阿求様の御休憩に、私などが邪魔する訳には……」
「好いんです。一人で居ても退屈で、――無理にとは申しませんが……」
途中まで朗らかな口調で話していた阿求様の声音には、途端に翳りが差した。何だか急に身体を小さくして、手をごそごそと動かしている。その様子はまるで稚児のようであった。怒られるか怒られまいかの判断を付ける事が出来ず、怯ず怯ずとしている幼い子供のような姿である。そうして年長の者を誑かす愛嬌のある姿である。私はつい同情心を擽られない訳には行かなかった。
「阿求様にそう仰って頂けるのであれば、私としては断る理由などありません」
「好いんですか? 本当に、無理に付き合わせるつもりはないんです。だから、はっきり断ってくれても好いんですよ」
「いえ、実を云うと、阿求様からお呼びされるまでの間は暇で仕様がないのです。それに、私の役目は阿求様のお世話で御座いますから、阿求様がお望みになられる事ならば、喜んで致しましょう」
「……そう云って貰えて光栄です。大変恐縮ですけれど」
「恐縮だなどと、とんでも御座いません。私の方こそ、阿求様の御休憩の相手となれて大変恐縮な心持ちなのです」
私が出来得る限り自然な笑みを浮かべると、阿求様は例の如く柔和な微笑みを浮かべた。そうして座布団を差し出して「どうぞお座り下さい」と云う。阿求様が一体何を考えて私を休憩の共にしたのだか、私には見当も付かなかったが、何にせよ自らの仕事に徹さなければならぬのは、私個人の目的のみならず、私を推薦してまでこの役目に就かせたがった父の名誉に関連しているからこそでもある。元々、私は阿求様の申し出をお断りする権利など持っていない。それを上手い具合に隠そうとしているのは、全て阿求様に余計なお気を使わせぬようにしているからである。
「さて、こうしてお誘いしたまでは好かったのですが、いざとなると何をすれば好いのか困りますね」
「ははは、全くその通りです。碁盤か何かでもあれば、お相手致しましたが」
「碁は、貴方のお父様に手痛く遣られました。以来、一局遣りましょうと云われても逃げてばかりです」
「そのような事がお有りだったのですか。ああ見えて、父は勤勉な方ですから」
「そうですね。以前、私が碁で駄目なら将棋を遣りましょうと云った事があるんですが……」
「どうなりました。私が覚えている限りでは、父は将棋の経験はないように思います」
「ええ。それで少し手解きをした後、実際に指してみて、完勝しました」
「大変悔しがったでしょう」
「それはもう大変。もう一回お願い致します、と何度云われた事か」
「ははは、今度、この話を使ってからかってみましょう。面白いものが見れそうです」
「けれど、その後が凄いんです。それから少し経って、またお相手して貰ったのですが、強くって強くって、しのぎを削る対局になったんですよ。余りに強かったので、後でどうしてそんなに強くなったんですかと尋ねたら、阿求様に一矢報いるべく勉強に勉強を重ねたんですと仰られていました」
「ははあ、やけにお部屋に居る事が多い時期がありましたが、成程そういう事情があったんですね」
案外にも、阿求様は父の事を好く知っていた。阿求様の話の中に登場する父の姿は容易に想像される。待ったと云って次の手をああでもないこうでもないと、頭を抱えながら悩む父の姿は、私の知る所でもあったからである。
「思えば、懐かしい思い出です。全てが順風満帆に進んでいるように錯覚していた折の事ですから」
陽気な座談には、途端に沈鬱なる空気が入り混じり始めた。阿求様の唇は微かに笑んでいるけれども、眸には確たる憂いが秘められて、その矛盾した表情は、暗然として頼りなく思われた。先日の葬式を思い出して、私は何と声を掛けたら好いものか判らず、結局無言で居る事にした。
「――今度、碁でも将棋でも、私のお相手になって頂けますか。久方振りに指したくなってしまいました」
「私で好ければ、喜んでお相手致します。甚だ力不足かと思いますが……」
「そんなに謙遜なさらくても好いのに、――お父様が仰っていましたよ。息子は僕よりも強いと」
「いいえ、僕などは未だ精進の足りない身ですから」
「謙虚なんですね」
謙虚と評価されたものの、私は心の内では謙虚とは違うと思った。謙虚とは才ある者への評価である。それは私には当て嵌まらない。私は命令に従うだけの、云わば従僕であり、そういう類の者は謙虚である振りを装わなければならぬ。主に向かって、自分が如何に優れているかを論じた所で、不愉快を与えるばかりである。私はそれを熟知しているからこそ、自分を前面に押し出さないように努めている。故に、真の意味で私は謙虚ではない人間であった。
私は自分と阿求様とを天秤に懸けた時、張り合うまでもなく軽い存在なのだと自覚している。というのも、私には命を賭してするべき事もなく、また命を賭すまでの必要性を感じた物事が、今までの生涯の中で一度も無い。私はただ無欲なだけであった。一方で人は貪欲であらねばならぬと思う。強欲では無く、生きる理由足り得るものを貪欲に探し求める事で、人生というものは彩りを華やかにするものだと心得ている。それだから、私は阿求様に謙虚と評されて、何だか自分が惨めな心持ちがした。まるで舞台の脇役どころではなく、それを見る観客の一員であるような気さえした。
「私が謙虚ならば、阿求様は御立派です。それも、私とは到底比べるべくもない程に」
「そんな大袈裟なものではありません。私は私に出来る事をしているだけですから」
阿求様は寂しそうに笑っている。その縁由たるものは判らない。が、それでも私には阿求様の御心が僅かに理解出来るような心持ちがした。全く違った境遇ではあるものの、同じ稗田家に生まれた者として、不思議な共感があったのかも知れない。私は父に稗田家を好いているかと尋ねられた時、好きだと答えた。けれども、それは本当の答えではなく、父が望む答えを最も曖昧にして答えただけである。自白するなら、私はあの時判らないと答えようとした。稗田家に生まれたからこそ、此処に仕える事が自らの使命なのだと思うからである。ともすれば、それは束縛に他ならない。
私達は等しく稗田と云う家に縛り付けられ、囚われている。その中で私と阿求様とにある差異は、きっと縄で縛られているか鎖で縛られているかくらいのものだったろう。しかし、それが何よりも大きい差であるのだろう事は、明白である。だからこそ、私は自分の言葉が或る意味で残酷な同情にならぬよう、阿求様との関係に一本の境界線を引いている。そうして、阿求様も同じ事をしていると思う。
私達は互いに引き合った二重の境界線の外から、上辺だけの付き合いをしているに過ぎなかった。そうして、それ以上の関係にはならざるものと信じている。それが最も善き事なのだと、自分に云い聞かせる如く、私は阿求様と接しているのと同様に、阿求様とて私に深く関わろうとはしていないように見える墨汁の一件も、御休憩の共に選ばれたのも、全ては幼いながらの寂しさ故とでも、無聊を慰める為だとでも、幾通りも言訳は付く。それでも時折見える多少の綻びには目を瞑らねばならない。そうすれば、阿求様は自らその綻びを補修して下さるであろう。
そうして、もしも綻びを目にして、後先の事を考えぬままに付け込んだなら、恐らく私の我は崩壊する。同時に、私達の上下関係は、いとも容易く崩れ去るに違いない。私が最も恐れているのは、断崖から足を踏み出す如く、自ずから先の判らぬ未来へと落下する事である。眼下に広がる海面には、目に見えぬ岩石が落ちる私を待ち受けているやも知れぬ。そういう事を思うと、私は自然と臆してしまうのである。一か八かの賭けをするくらいならば、刺激の乏しい生活の方が余程好いに違いない。私はそう信じている。
四.
深々と細雪が降り出して、世は赫奕たる太陽が幅を利かせる時分だと云うのに、空に浮かぶ分厚い雲は地上に暗翳を投じるばかりであった。稗田家の庭園には、平たい雪の層が僅かに見られる。廊下に出れば、室内との温度差に、意識せずとも身体が縮み上がった。そうして、私は茶葉が切れたらしい阿求様の元へ、新たな茶葉を持っていくべく、この冷たい廊下を歩んでいるのであった。
「阿求様、茶葉をお持ち致しました」
阿求様の部屋の前に差し掛かり、私は茶葉を隣に置いて、跪いてから呼び掛ける。すると、間もなく「どうぞ」と阿求様の細い声が返って来て、そこで漸く私は襖を開けて、阿求様の居られる室内に入る事が許されるのである。
「有難う御座います。そこに置いておいて下さい」
阿求様は、やはり例の如く小机の前に座って、筆を片手に持ち、白い紙と向き合っていた。私はその内容を一度たりとも見た事はないが、小机の横に重ねられた紙の束を見る度に、空恐ろしい心持ちがする。それが一枚二枚と積み重なって行く度に、阿求様の命の刻限は酷薄なる音を刻み、やがて積むべき紙が無くなった時に、阿求様はその使命を終え、次代へとそのお命を受け渡すのである。
話には聞いていたものの、実際に阿求様と関わって一つ月を数えるくらいの時間が経過してからは、私の考えも随分と様変わりした。阿求様を縛り付ける運命の鎖が、とてつもなく理不尽な類の如く思われて、時には断ち切って遣りたいと思う折さえあった。しかし、その度に私はこの口が余計な言を漏らさぬように、意識して唇の動きを封じるのである。でなければ、私達の間に存在する境界線は次第に薄れて行き、やがて消えてしまうに違いなかろう。それが私の我の崩壊する時であり、決して破らぬと定めた戒めが解かれたる時なのである。
「外は寒かったでしょう。貴方も暖かいお茶をお飲みになりませんか」
「阿求様は丁度御休憩の時分でしたか」
「ええ、丁度休憩しようと思った折なんです」
私達は冗談めいた事を云い合って、互いに笑い合った。近来、私は何かと阿求様の元へ出向いては、こうして休憩の相手になる事がある。阿求様とて、一つ所に留まっているのは心苦しい思いをなさる年頃であろうし、頼まれれば私としては断る訳には行かなかった。――が、それが建前上の理由でしか無い事も、既に自覚の域に入っている。それでも尚、そこから目を逸らしているのは、私が初めに踏み込まれざる線を、自分の足元にしかと引いたからである。それは理性の一線であり、感情を自らの胸中から動かぬように打ち付けた楔でもあった。
「近頃は益々寒さに拍車が掛かるようで、筆を執る手が冷たくって敵いません。こうして暖かい湯呑を包み込んでいると、何だか離し難く思います。こうしていると、手から暖かさが伝わって来るようで」
小さな手の平で湯呑をすっかり包み込んで、阿求様は苦笑しながらそう云った。私は「全くです」と云って、阿求様の淹れて下さった茶を、喉に通す。程好い苦味が舌に感じられて、喉が暖まる感覚が明確に感じられた。
「こう寒いと、人肌が恋しくなりますね。人里でも、互いに寄り添い合って歩いている人を好く見掛けます」
「そうですか。何とも羨ましい限りです。――貴方はそういう間柄の人が居ますか」
「いえ、私は生まれてこの方恋愛というものをした事がないのです。一体どういう心持ちなのだか、問うて見たい心持ちになる事が多々ありますが、中々どうして、幸せそうな顔を見るとそんな気も失せて来るもので……」
そう云うと阿求様は袂を唇に当てて、ふふと淑やかに笑った。阿求様の楚々たる容貌は、実際の年齢よりも大分大人びて見える。私は往来を憚りなく歩き、賑やかに話している女を見る度に、阿求様の様子を頭の中に思い描いて、その五年十年先の容貌を想像しては、きっと美しいお姿をして居られるのであろうと、父親染みた思いを抱く事があった。実際阿求様ほどの器量の持ち主ならば、世の男共が放って置く訳がない――そこまで考えた時、私は唐突に自分の思考を打ち切った。"あるやも知れぬ"程度の未来を想像すると、決まって私の胸中には不愉快が募るからである。
「年端の行かぬ小娘の言分ですけれど、貴方は器量の好い男性だと思いますし、きっと女性も放って置かないでしょう」
「そんな事はありません」
「そう謙遜なさらくて好いのに。――実は告白された事もあるんでしょう」
好奇に輝く阿求様の眸は、楽しそうに細められていた。私が阿求様の世話役となって一月が漸く過ぎ去ったが、だからこそ疑問に思う事がある。私の前に阿求様の世話役を務めていた女性が自殺して、私が世話役の任に就いた時から、阿求様からは亡き人への悲しみが見られない。葬式の時の悲痛な表情を知っているからこそ、それは私の中に大きな疑問として根付いている。しかし、今日に至るまで、阿求様の口から私は亡き人の事を聞いた覚えがなく、また亡き人を思わせるような話も聞いた事がない。私は興味津々といった感じに光る阿求様の瞳裏に、もしかしたなら、悲しみの影があるのかも知れぬと思ったが、幾ら見詰めてみても、阿求様からその影を感ずる事は出来なかった。
「そう虐めないで下さい。本当にそんな経験は無いのです」
「もしかしたら、素敵な恋愛譚が聞けると思ったんですが、それは胸の内に秘められているんですね」
「そう責められたら、恥ずかしくって仕方がありません。どうぞ勘弁して下さいませ」
悪戯に言葉を弄する阿求様にそう云って、私は熱い茶を一口飲んだ。阿求様は楽しげに笑っている。「残念です」などと云いながら、小さな唇に湯呑を宛がって、白い咽喉をごくりと云わせている。
「私はこの通り、身体も心も未成熟な小娘ですから、自分で出来ない分、他人の話が楽しくて」
「薊の花も一盛りと云いましょう。まだその時ではないのです」
「その薊の花も一盛りというのは、どんな意味なんですか?」
「おや、阿求様にもお判りにならない事があるようですね」
「もう、そんな意地悪をなさらないで下さい」
先刻のお返しとばかりに云うと、阿求様は心持ち頬を膨らませて、唇を尖らせた。その稚児みたような可愛らしい仕草が、私を油断させたに違いなかった。常にぴんと張っていた緊張の糸は、僅かに撓みを見せて、その僅かでしかない撓みに付け込んで、私の口は軽々しく言葉を発する。頭の中にそれは出来ていた。平生ならば、私はそれを口に出す前に推し留める事が出来たはずである。しかし、この時の私はどうしようもなく愚かしく、無神経であった。この過ちを阻止するには、私の気は余りにも緩み過ぎていたのである。
「ははは、これは申し訳御座いません。――薊は華やかさに欠けますが、それはそれは美しい花を咲かせます。それと同様に、阿求様もお年頃になれば、お美しくなられるでしょうという事です」
私は先刻、"あるやも知れぬ"程度の未来を想像する事を厭ったはずであるのに、この時の私はその"あるやも知れぬ"程度の未来の話を想像だけに留まらず、言葉として云ってしまった。途端に室内の気温が下がったように思われたのは、思い違いではなかろう。自らの失敗に気付き、阿求様の表情を窺ってみれば、そこには桜の如く儚く、雪華の如く脆く、荒廃した大地を疾駆する風の如く虚しい表情をした阿求様が、音も無く笑っていた。
それが芸術の織り成すものであるならば、これほど美しいものは無い。この刹那を写し取れたならば、どんな名画にも勝る美しい写真が出来上がろう。しかし、眼前に座すのは阿求様である。寂しい笑顔に憂いを湛え、唇に緩やかな弧を描き、白磁の肌には確かに血が通う。私はこの一瞬間にどれほどの事を恐れたのだか判らない。阿求様が次に発するであろう言葉は、きっと聞くに耐えない響きがある。"あるやも知れぬ"程度の未来が、痛烈な勢いを以て阿求様の胸に突き立てられたのは最早目の逸らしようもない現実の出来事である。責は私にある。償い方は無い。私は否が応にも次ぐ言葉を耳に入れねばならぬ。
「そうですね。私も薊の花のように、美しくなれたら好いと思います。きっと……」
阿求様はその先の言葉を紡がなかった。その先に続く言葉は、何通りも考えられる。しかし、私は阿求様のあの微笑みの中に、確かにあの葬式の日に見た悲しみの影を捉えた心持ちがした。目にすればその悲痛なる思いが私の中に流れ込んで来るかの如く思われる。耳にすれば脳髄が悲愁に震える。私はいっそこの場から逃げ出したくなった。阿求様は湯呑を口に付けた。私は膝に手を付いたまま、何をするともなく畳の目を数えていた。深々と降る細雪の音さえ聞こえてきそうなほど、静寂に包まれた室内の中で、確かに私達は互いに引いた境界線を、自らの足で踏み付けた。
五
私は一人自室の中で思案に暮れていた。先日の出来事は私達の間に突如引き起こされた事件に違いなく、それによって移ろう二人の間の世情は変える事など出来ようはずもない。悪意なき軽率なる発言は、既にこの胸の内より飛び出でて、阿求様のお耳に届いてしまった。犯してしまった過ちを消し去る術がこの世にあったなら、私はどれほどそれを渇望したか判らない。しかし、どうにもならぬ現実を、今一度直視する事で、私は再び手で頭を抱えるのである。
やがて、私は暫く頭を抱えて、浮かんでは消えて行く泡沫の如き思考の一切合財を何処ぞに打ち遣りたくなった。そうして、少し風に当たって頭を冷やそうぐらいの心積もりで、部屋を出た。が、私の予想していた庭の景色の中には、縁側の廂の下にて座る阿求様の姿があり、図らずも一瞬間我を失った私は、「あら」と云った阿求様を前にして、黙しているより他になく、雨あられの如く私を叩き付ける思考の弾丸に、すっかりやられてしまった。
「これは、阿求様が居るとは知らず、失礼致しました」
私と阿求様の視線が数瞬交錯した後、私は漸くそう云った。阿求様は例の微笑みを浮かべられたまま、やはり例の如く「お気になさらないで下さい」と云った。
「今日は、何時もよりは幾らか寒いようですね」
袂に両腕を入れて、小さく身を縮めている阿求様は、そう云って苦笑した。私は一緒になって縁側に座る事も出来ず、かと云ってこのまま立ち尽くしているのも滑稽だったから、やはり立ち尽くしている以外の選択肢が思い浮かばなかったので、その場で呆けていた。内心折もあろうにと思う事もあったが、過ぎた事を悔やんでも仕方があるまいと、大人しく庭の風景を観察し続けた。
昨日降り出した細雪は、一晩を掛けて大きな粒となり、庭園の全体を白く染め上げ始めている。天に蓋をしたような曇天からは、絶えずひらひらと雪が舞い落ちて、大地に薄き層を作り始めていた。吐息は外界に触れれば間もなく白い霧に変わる。阿求様は如何程の時間を此処で過ごしていたのか、白い霧を吐き出しながら、白磁の頬には朱色が差していた。
「陽が落ちるのも大分早くなりましたから、これからは本格的に冷え込むでしょう。お身体にお障りにならないよう、御自愛下さいませ。阿求様の身に病気が罹ろうものなら、お家の一大事です」
「有難う御座います。けれど、もう少しだけ、此処に居させて下さい。少し、外の風に当たりたくって……」
「阿求様がそうお思いになるのでしたら、私は何も云いません。私などが御一緒してしまって、甚だ恐縮ではありますが」
「そんな事は……そうだ、貴方も此方にお座り下さい。立ち尽くしたままではお疲れになる事でしょう」
「いえ、私の方は何等の心配も要りません。生まれが男ですから、幾らか丈夫なのです」
正直に告白するなら、私はこの時本心からそう云った訳ではなかった。ただ私達を繋ぐ一本の糸が、少し捻じれた為に、私は阿求様と接する事を恐れていたのである。一旦軽々しい口を聞いたこの唇は、最早私にとってすら、信頼の行くものではない。しかし、私の方に何等の考えがあろうと、阿求様は平生の如く「そうですか」と漏らすばかりである。私は依然変わらず、阿求様から少し離れた場所で、庭先の風景に目を向けていた。
本格的な冬を間近にして、白銀の世界に至る兆候を見せる景色には、立ち枯れた木の寂しい枝を、殊更目立たせる如く浮かび上がらせていた。春には色鮮やかな桜だの躑躅だのを咲かせ、夏には青々しく瑞々しい葉を煙らせる光景も、冬となると寂しくなる。枯れ枝は風に揺られてかさかさと音を立て、重苦しい冬の曇り空も、閑寂たる景観に拍車を掛けているように思われた。春や夏と比べると、この風情も些か物足りない。私は早くも冬の雪景色の鑑賞に飽きて来ていたが、阿求様が居られる手前、部屋に引き返す事も出来なかった。
「寂しいですね」
突然発せられた言葉は、自分の事を仰っているのか、景色の事を仰っているのか、私には判然たる分別も付かなかった。そうであるからには、いい加減な言葉を返す訳にも行かないので、私は「はあ」と云ったばかりである。
「冬の景色は、春や夏と比べると、随分と心細く思われます」
「そうですね。冬に咲き誇る花でもあれば、そのように思う事もないのでしょうが」
「けれど、冬に咲き誇る花があるとしたら、その花は憐れだと思いませんか?」
「憐れ、ですか」
「――冷たい風に耐え、降り積もる雪に耐え、尚その花が咲き誇っているのは、憐れだと、私は思います」
そう語る阿求様の横顔は、冬の寂然たる風景に殊更映える憂いを秘めているように思われた。ともすれば、それは諦観の表情であるようにも見える。私はその表情の意味を完全に理解する事が出来なかった。その表情は、人間の細かな感情の機微すら浮かび上がらせる精巧な絵画の如く、尋常から懸け離れているように思われた。そして、その形容を裏付ける如く、阿求様は人生という尺の中の、ほんの刹那に輝くお方であった。
「年中咲き誇れる花ならそうでないのかも知れませんが、そうでなければ、冬にしか咲かない花ならば、きっと憐れです。他の草木に先立たれ、他の草木が茂る頃には先立たねばならず、その上苦痛に耐えなければならなくて……そんな運命は、定めて悲しかろうと思います」
そう話した時の阿求様は、あたかも蒙古の象徴を目にする如く、怯えた稚児のような表情をしていた。涙さえ零れ落ちそうな愛らしい眸は、何処か遠くを眺めているようで、その実私の想像の付かない所を見詰めている。膝の上に重ねられた手は、何時の間にか握られて、冬の寒さから身を守るように縮んだ身体は、殊更小さく見えた。その時の阿求様からは、普段の全てを包み込むような寛厚なる様子は消え失せて、物憂く顔は慈顔などではなく、悲壮に塗れていた。
その尋常ならざるお姿と、普段のお姿との差異が、殊更私に黙す事を許さなかった。何事か声を掛けねばなるまいと、自ずからなる焦燥に駆られ、頭の中に浮いては消える言葉の断片を繋げようと四苦八苦する。けれども、どれを取っても塵芥の如く陳腐な言葉に思われて、具体的な言葉は遂に形成される事はなく、結局私の口から出る言葉は、阿求様の例え話に則った、曖昧なものであった。
「そう考えなければ、意味合いもまた、変わりましょう」
阿求様の視線が庭園から私に映る。後に引く事は出来そうになかった。
「冬にのみ咲き誇る花は、私達を勇気付けて下さいます。孤独に耐え、積雪に耐え、それでも咲き続ける花は、成程憐れかも知れませんが、少なくとも私は、そのような花がありましたら、勇気付けられるような心持ちが致します。所詮は人の考え方次第で左右されるもの。病は気からと申しますように、現実がどうあれ明るく物事を考えた方が、或いは幸せなのかも知れません。ですから、阿求様も……」
寂しき庭に、颯と風が吹く。不意に阿求様の方を見てみると、阿求様は真剣に私の口上を拝聴していた。私は何だか急に気恥ずかしくなって、加えて余計な事を云ってしまったかと思い、そこで言句を切った。
「これは、差し出がましい口を。申し訳御座いません」
「いいえ、謝る必要なんて。お気遣い、有難う御座います」
「何事かお悩みの様子でしたので、つい長口上をしてしまいました。さあ、お身体がお冷えになります。そろそろ御自室にお戻り下さいませ」
「はい。でも、もう少しだけ、宜しいでしょうか」
阿求様はそう云って立ち上がった。私と比べて、頭三つ分は身長が低い阿求様は、お立ちになるとますます儚くなるように思われた。一度微風が吹けば、たちまちその小さく華奢な体躯は何処ぞへ飛ばされてしまうのではないかと余計な心配が頭を過る。思えば、阿求様は不思議な方であった。例えば、阿求様の言葉には何時も強い芯を感じさせる何かと、儚く崩れ落ちてしまいそうな弱々しい何かとが、背中を付け合わせて存在しているようで、かと思えば案外に冗談を弄して人をからかう事もある。そんな阿求様の事を、恐らく私は一分も理解してはいなかった。私には時折阿求様の顔に差す影の意味も、ふと浮かべる寂しげな笑みの意味も、風前の灯火の如く消えてしまいそうな居住いの意味も、判らなかったのである。
しかし、そんな阿求様の出で立ちに隠されていた正体は、先日の事件の日に、燃ゆる蝋燭の焔に照らされたかの如く、私の前へひらりと姿を現した。それは瞬きをするほど僅かな瞬間であったのかも知れぬ。が、私は確かに阿求様の心中を、窺い見たと確信を持っている。あの時、私達は自身の前に引いた境界線を、踏み付けたという確信があればこそ、私達は後へは引けぬ互いの領域に踏み入ったに違いない。
「先日、亡くなられた人の事を御存知でしょうか」
「詳しくは存じませんが、どのような人であったかは、父から聞いております」
阿求様は僅かに頬を綻ばせた。悲しげな笑みである。私は大切な人を失った故の悲しみであろうと判じた。
「彼女とも、同じ話をした事があります。――彼女は、貴方とは違う事を仰っていました」
「何と申されたのですか」
「……彼女は」
僅かばかり足元に落ちた視線が、元の通り私を見上げた時、私は途端に阿求様との会話が、恐ろしくなった。その光に宿るのは悲境の景観であり、その唇より発せられるのは悲曲の旋律である。そうして笑うとも泣くとも付かぬ曖昧な表情は、煢独の淵源たるものを僅かに照らし出す。私は遂に露知らずにいた阿求様の御心の片隅に足を踏み入れて、そこにどろりと渦巻く闇の中を垣間見た。その瞬間、私は境界線などではなく、大地の裂け目たる断崖から飛び降りたに違いなかった。重力に引っ張られるがままに、事態は変動して行く。その巨大なる力を前にして、私の抵抗など無に等しかった。
「その花を憐れと思うなら、その花よりも辛い苦痛をこの身に受けて、せめてその境遇が安らかに感じられますように致しましょう。――そう云っていました。私がその意味を知ったのは、皮肉にも彼女が自ら命を断った後でしたが……」
口腔から出る吐息は、白い煙となって霧散して行った。それと共に、私の思い描いた言葉の数々も消えて行く心地がする。絶壁に打ち付ける波の白き飛沫が眼前に四散する。阿求様の眸からは一滴の涙が落ちた。微かな嗚咽が長い廊下に反響する。降り積もる雪の結晶は、庭園に立ち並ぶ樹木をことごとく白く染め上げた。相変わらず分厚い雲の向こうから、夕陽は一条の光さえ地上にもたらさない。人里の喧騒は遠くに棚引いて行くようであった。
私は阿求様に掛ける言葉も見付からず、かと云って放って置く事など出来るはずもなく、「御自室にお戻りください」と口にしたばかりであった。阿求様は涙に滲む声音で「済みません」と云う。襖が閉じられる前に、言葉を掛ける事は出来なかった。
六.
「おい、おい、失礼するよ。聞いているかね」
父がそう云いながら私の部屋の襖を開けたのは、阿求様から罪の告白を受けた翌日であった。否、私が罪と判ずるのは、甚だ失礼であるかも知れぬ。阿求様はあの告白を罪とは云わなかった。しかし、阿求様の浮かべられた表情の細部に至るまでが、あの告白が懺悔だったのだと物語っている。この推断を失礼だと自らに云い聞かせているのは、単なる逃避でしかなかった。昨日踏み越えてしまった断崖から真直線に落ちれば、もう元の場所に戻る事は出来ないのである。
「どうしたんだね。部屋の隅で塞ぎ込んで、それじゃ身体を悪くするよ」
父はそう云いながら、座布団の上に腰を下ろした。私は部屋の壁に寄り掛かって、何をするともなく呆けていたが、父を前にしてそれを続ける訳にも行かず、徐徐として父の正面に座った。
「顔色が悪いね。何かあったかい」
「いえ……」
「いえ、じゃ何も判らない。一体どうしたんだね。此処は一つ、僕に話して見ちゃくれないか」
心配そうに私の顔を覗き込んで来る父の優しい顔を見ると、私は何だか無性に泣きたくなった。昨日の出来事を全て打ち明けて、どうして私の心が酷く落ち着きを失っているのか問い詰めたくなった。が、暗黙の内に私には箝口令を敷かれているように思われて、どうしてもそれが出来ぬ。開かない扉を必死に叩き続けているかの如く自分の煩悶が虚しい事のように思われる。私はやはり「いえ」と云う事しか出来なかった。
「好し、判った。お前が何も話すまいと云うなら、それでも好い。しかし、その体たらくで阿求様の事をお任せする訳には行かない。それは判るね。これでは阿求様のお心にも悪影響が出てしまう」
大きく息を吐いて、父はそう云った。私はその言葉の意味を充分に咀嚼するまでに、多大な時間を費やす事となったが、やがて理解出来ると、何故だか父がとんでもない事を云っているように思われた。が、だからと云って話すべき事など何一つとして浮かばなかった。父はじっと構えながら私の正面に座っている。私は俯いて畳を見詰めながら、膝頭に置いた手を強く握り締めた。
「……お父様が仰った我の意味を教えて下さい」
今にも消え入りそうな声で、私は尋ねた。父は何も云わない。全てを理解した風体で、大きく息を吐いている。私は最早自分の事ですら訳が判らなかった。一体何をどうしたいのか、その答えが払えば消えそうな霧の中に隠れているにも関わらず、払えないまま怖気付いているようなものである。この懊悩の謎が解ける瞬間が、とてつもなく恐ろしい。父はそんな私の様子を全て見透かしているかの如く、穏やかに話し始める。
「好かろう、これ以上の追究は止めるとしよう。けれども、この話はきっとお前の在り方に影響を与えるに違いない。それが善きか、悪しきかは判らない。どうだね、それでも聞くかい」
「はい。聞きたいと思っております。私は一人で考え続けた所為で、自分の気が狂っているのではないかと疑っていたのです。どうか私の為に教えて下さいませ」
「うん、うん。お前の心持ちは好く判った。何も一人で苦しむ事は無かったんだよ。何時でもこの父なり何なりに頼ってくれても構わなかったんだ。これからは一人で抱え込まないと約束出来るね」
「ええ、ええ、きっとそうします。私は孤独の恐ろしさを、昨晩以上に感じた日はありません」
私の眸からは既に涙が零れていた。父は私の肩に両手を置いた。
「好いかい、好くお聞き。僕は決してお前を騙そうとした訳じゃない。お前なら出来ると思ったからこそ、阿求様の世話役に推薦したんだよ。どうか理解しておくれ。僕はお前を苦しめるつもりなどなかった」
「ええ、ええ、承知しております。全ての責は私にあるのです。私が弱かったばかりに、こうして泣いているのです」
「自分を責めちゃ行けない。お前が悪い訳じゃないんだ。始めから僕が全て話していれば好かったんだ」
父は懐から手巾を出すと、私の顔を滅茶苦茶に拭いて、父の顔が好く見えるようにした。私は何時になく真摯な眼差しを向ける父の顔の内に、昨日から探求し続けた疑念の答えの影の尾を見た心持ちがした。
「お前は何時だって自分を崩さなかった。悪い意味じゃなく、どんな人物と接しようとも、お前の核たるものは、決して揺るがなかった。僕との間でさえそうだったろう。これは僕の推測に過ぎないが、お前は僕という存在を一歩退いた所から見ていたに違いない。思えば、妻が死んでから、お前は余り人に懐かなくなったね。僕はあの猛烈な痛みを二度と感じないように、お前が無意識に編み出した処世術なのだとそれを解釈している。一歩他者から退く事で、物事を半ば強引に客観視しようとしているんだ。少なくとも僕の見立てでは、そうしているように思われる。
しかし、だからこそ僕は、お前を阿求様の世話役に推薦したんだ。阿求様がお役目を果たした後にどうなるか、お前も知っているだろう。幾ら次代御阿礼の子にその魂が受け継がれるとは云え、阿求様の生はそこで終わってしまう。必ずこの世の全てに別れを告げる時は来る。僕はその悲しみに耐え得る人間を、次の世話役にしようと思った。というのも、お前の前に阿求様のお世話をしていた人は、阿求様を想うが故に、その命を断ったんだよ。これは稗田家の中でも、極一部の人間にしか知らされていないが、彼女の遺書には確かにそういう一節があった」
父はそう云ってから「黙っていて済まなかった」と云った。私は案の定と思うより他にない。父の見立ては、此処に来て当てが外れてしまった。私が流している涙は、きっと前の世話役の女性が流した涙と同一のものに違いなかった。
「僕は二度とそんな人間を出してはいけないと思った。阿求様の為にも、世話役に就く人の為にも、そんな事は絶対に避けなくてはならない事だと思った。しかし、情を捨て切って、仕事だと割り切れる人間はそうそう居ない。誰であれ憐れな者には情が移る。況して残酷な運命を与えられた阿求様の身を、嘆かぬ者は無いとさえ思った。が、その中でお前だけは違うと思った。お前ならばきっと上手く出来ると思った。今思えばこれが最大の間違いだ。誰であれと云ったはずなのに、お前だけは例外なのだと考えてしまった。父の落ち度だ。どうか許しておくれ。
僕の云った意味は判るね。するとお前に云った我の意味が浮き彫りになる。我とは、自分の在り方だ。僕はお前の処世術を、決して崩さぬようにして欲しかったんだ。良かれと思ってした事だったが、実際お前はこうして苦しんでいる。どうか父を許しておくれ。僕は何もかも見誤ったんだ。実の息子の事さえ完全に理解していなかった。その結果、こうしてお前に残酷な仕打ちをしてしまった。いっその事恨んでくれても構わない。それだけの事をしたんだ。――ああ、しかし、どうか僕を許して欲しい。僕は紛れも無くお前を愛しているよ。妻に先立たれた今、僕にはお前しか居ないんだ」
何時の間にか、父も大粒の涙を流し、その太い腕で流れる涙を拭っていた。私は繰り返し「許します」と云った。そうして「恨んだりなどしません」と云った。喉の奥から湧き上がって来る嗚咽の所為で、そのことごとくが碌に形を成さなかったが、親子共々泣きながら互いの言葉を肌で感じている心持ちがする。
「お前はもう辞めろと云われても、辞める事など出来はしないだろう。僕に出来る事なら何でもするつもりだが、きっとお前は自分で解決しようとするに違いない。しかし、しかし、決して死なないでくれ。僕はそれが何より恐ろしい」
私は泣きながら幾度も頷いた。父の為に、この運命を受け入れなければならないと思った。空の如く広大で、雲の如く無情で、海の如く穏やかに、この運命を受け入れなければならないと思った。例え空が怒れる雷雲に包まれて、船の主柱さえ容易に圧し折るような風が吹き荒れる海を渡らなければならなくとも、その苦行に耐えねばならない。相反する感情の挟撃に遭おうが、我を守り通さねばならぬ。それが如何に難儀な事か知りながら、尚も耐えねばならぬ。天より降り注ぐ那由多の矢がこの身を貫こうとも、さらばと捨て切らねばならぬ。
私は必死になって自分に言い聞かせた。致し方がない。父の為である。――が、それでも心が落ち着く事は一向になかった。
七.
それから半月ほどが経過したが、薄ら寒い冬の気候は、未だこの地上に遍満し、暖かな陽気の春が到来するには、多分に時間を要するであろうと思われる時分、私は阿求様に連れ添って、人里に行かねばならぬと聞かされた。詳しく事情を尋ねると、阿求様が執筆なさっている幻想郷縁起の資料となる話を聞きに赴かねばならぬらしい。
相手は直接の見識は無いけれども、御高名を好く耳にする博麗の巫女なのだと云う。彼女は稗田家の屋敷で話すのが厭らしく、それで人里の茶屋を待ち合わせ場所に指定したのだった。博麗の巫女と云えば、気難しい気性だと聞くし、私も幻想郷縁起の為ならば致し方ないと思い、阿求様に同行する事にした。時刻は昼を跨いでいる。南中に位置する太陽の燦たる光は、白く染まった賑やかな人里の往来を、一層明るく照らし出していた。
――私はあの日強く自分に云い聞かせた言葉を、一度として忘れた事はなかった。父の云った我を決して崩さぬように一生懸命努めていた。が、それでも私の胸の内に巣食う矛盾した思いは、絶えず闘争を続けて止まなかったし、私自身完全に自分を騙し切れていなかった。その度に、二つの思いを載せた天秤は、右に振れたり左に振れたり、落ち着く気色を見せない。詰まる所、私は一生懸命になって自分をひたすら誤魔化しているに過ぎなかった。それでも以前よりは心安く居られたが、阿求様の挙動の一つ一つを目にする度に、弱音を吐きたくなった。
故に阿求様に用を頼まれる度に、私は人知れず苦しんだ。特にその阿求様の外出にお供しなければならないと聞いた時には、背筋に寒気さえ走ったほどである。が、それでも私はあの断崖から落ちる訳には行かぬ。現在の私は、断崖より飛び出た何時折れるとも知れぬ木の枝に、縋り付いているに過ぎなかった。それほどまでに、現在の私は不安定な状態だったのである。
「阿求様、お出掛けになる準備は宜しいですか」
「はい。私の方は大丈夫です。貴方は如何ですか」
「恙無く。それでは参りましょう。約束の刻限まで今少しです」
阿求様は百花の乱れ咲く様を全体に描き出した打掛を羽織り、私は稗田家の家紋が入れられた紋付羽織を父に着せられた。何でも稗田家に恥のないように、服装から草履まで立派な物を身に付けなさいとの事である。何だか、自分には随分と勿体ないように思われて、私はこの紋付羽織を着ている間、始終恐縮な心持ちであった。しかし、それも外に出て少し経ってみれば、然して気にもならなかった。
「済みません、少し外出するだけの用事に付き合わせてしまって」
稗田家の屋敷より出発して、人々の雑踏に私達が紛れ込んだ後、阿求様は唐突にそんな事を云って、申し訳なさそうに顔を俯けた。私は阿求様のそういう悄然たる姿を見せられる度、何だか胸中の奥底で煮え立つ熱湯から立ち上る湯気の如く得体の知れない感情を感ずる。が、それは無論恋情という淡く切ない感情などではなかった。してみると、私にはその感情がどういう位置に落ち着くべきだか皆目見当も付かぬ。ただそれを感ずる度に、私は阿求様を自然の体で見る事が出来なくなる。私の我の存亡が危ぶまれる。故に、それは私にとって忌憚すべき感情に他ならなかった。
「これも私の仕事の一つで御座いますから」
「そうですか? 煩わしいと思った事はありませんか?」
「誇りに思った事は数多あれど、そのような事は寸毫もありません」
「……そう云われると救われます」
阿求様は黙って微笑した。私はこんなやり取りを繰り返す度、自分が機械の類の如く思われる。そうして、そうであらねばならなかった。私は機械になりたかった。機械の如く無感情になりたかった。そうすれば、こうして阿求様の隣を歩く事で、雑念に惑わされる事はない。しかし現実の私は、阿求様の言葉一つに心を揺さぶられる脆弱な存在である。
「約束の場所はあの茶屋ですね」
阿求様がそう云って指差した所には、一般的な茶屋が入口に暖簾を掲げているのが見えた。行きましょうと進む阿求様に付いて行き、茶屋に入ると、主人が快く出迎える。私達は主人に軽く会釈をして、案内された席に向かった。そう広くない店内には、一人の客の姿しか見えず、白袖と紅袴を身に付けた装いの人が、博麗の巫女であろう事は、容易に予想された。
「待たせてしまって済みません」
阿求様は席に着くなり、対面に座す博麗の巫女に謝罪した。見れば阿求様と同じくらいの年頃に見える少女が仏頂面で座っている。肩を露出した出で立ちと、艶やかな黒髪を結う大きなリボンが印象的な少女であった。私は一礼して、阿求様の後ろに立つと、二人のやり取りを眺め始めた。
「遅いわよ。待ちくたびれちゃったわ」
「御迷惑お掛けします。お詫びにお茶でも奢りますよ」
「じゃあお言葉に甘えるわ。色々話す事もあるし、きっと喉も渇くだろうから」
博麗の巫女は、存外砕けた話し方をする少女であった。噂とは大分違っていたので、私は阿求様の後ろで密かに面食らっていたが、当の博麗の巫女は私になど興味は無いらしく、澄ました顔で主人に茶を持って来させている。
「それでは、早速お話を聞かせて貰っても宜しいでしょうか」
「好いわよ。何から話して欲しいの?」
それからは、私には理解出来ぬ話が始まった。人の名らしきものが出て来たり、能力が何だの容姿はこんなのだの、写真を出して話し合っている。どうも妖怪の話しらしかったが、熱心に耳を傾けている阿求様とは違って、私はやはり突っ立っているだけであった。
阿求様は、博麗の巫女から話を聞く度に、手元に置いた紙に色々な事を書いて行く。始めは白雪の如く真白だった紙が、半刻もすれば文字に埋め尽くされていた。未だかつて、私は阿求様の仕事ぶりを拝見する事が無かったので、普段とは違ったその真剣な面持ちが、一種奇妙に思われた。時には無邪気に笑い、時にはこちらが驚くほど大人びた微笑を湛えるにも関わらず、この場に居る阿求様は、寺子屋で勉強に励む子供と何ら変わりがなかった。本当に、普通の子供達と大差ない。私はそんな事を思うと、あまりに下らない自分の考えが、馬鹿馬鹿しくなってしまった。
「まあ、今回はこんな所かしら。他に聞きたい事があるなら聞くわよ」
「いえ、これで満足です。どうも貴重なお話を有難う御座います」
「どう致しまして。私もただで遣っている訳じゃないし、――それよりも私はあんたが心配だわ」
「心配、ですか」
博麗の巫女は相も変わらず、愛嬌に欠ける表情をしている。阿求様は心持ち声音を暗くして、上目使いに博麗の巫女を見遣った。
「後ろの殿方は、新しい世話役じゃないの」
そう云われ、私は博麗の巫女と丁度視線を合わせた。漆黒の眼からは、彼女の意思は何一つとして汲み取れなかったが、何を云わんとしているのかは、何となく判った。だからこそ、阿求様の面持ちは先刻よりも浮かないのであろう。阿求様は黙って頷いたばかりである。
「話は聞いたわよ。あんたは、本当にあれで好かったの?」
その問い掛けに、阿求様の肩が小さく跳ねる。さながら、今まで隠していた事が、此処に来て露呈するのではないかと恐怖を感ずる幼子の如く、不安げにしているであろう事は、僅かに震える背中を見ても明白である。私は心臓が大きく脈打つような心持ちがした。博麗の巫女の無機質な表情が、物の怪の類の如く思われる。彼女こそ、私がなりたいと望んだ理想の姿だと、私は咄嗟に感じ取った。私情に流されず、事実を事実として受け止め、斟酌など毫も考えていない。
が、私は自ら望んだ姿がこの博麗の巫女なのだ、と思うと、同時に空恐ろしくも感じられるのであった。こうも無遠慮に、決して軽くない事実を当人に突き付ける事が出来る彼女に、果たして人の暖かき血潮が流れているのだろうかと疑った。私は本当に彼女のようになりたいのか、と自問すれば、ただちに否と答えが返って来る。すると、今度は自分の立ち位置が判らなくなる。阿求様が何を望んでいるかなど、元より私には図りかねる問題であった。
「私は……」
「決して悪気があって云う訳じゃないけれど、ともすれば、あんたが殺した事には変わりない」
「殺しただなんて、そんなつもりは……」
「阿求」
鋭い声音が阿求様の言葉を制す。私はこのやり取りに掣肘を加えるべきかどうか迷った。博麗の巫女がこれ以上阿求様を責めるのなら、私はすぐに二人の間に割って入るつもりであったが、あの無感情とさえ思われた博麗の巫女は、存外にも優しい顔付をしていた。その表情は、あの日我の意味を説いた父の姿と、何処か似ているような心持ちがした。
「責めてる訳じゃない。況してや同情するつもりなんて毛頭ないわ。今のあんたの考えを聞かせて欲しいだけなのよ。私は博麗の巫女で、あんたは御阿礼の子なんだから」
長い沈黙が店内を領する。阿求様は俯いて何事も話さなかった。私は元より突っ立っているばかりである。博麗の巫女だけが、鋭い眼差しで阿求様を見詰めていた。善意も悪意も感じられぬ無垢なる眼差しである。博麗の巫女が云った所の意味は私には判らない。
「……済みません。少しの間、席を外して貰えますか」
私に目を向けぬまま、阿求様はそう仰った。私は黙って盲従するしかないと心得ている。間もなく「判りました」と云って、店を出た。
入口の暖簾を潜れば、往来を白く染める雪の層に、様々な足跡が付いている光景が現れる。今日は太陽から降りる白光が、雪に反射して上も下も眩く思われる好天気であった。一歩足を踏み出せば、さくりと小気味好い音が鳴って、新たな足跡が往来に出来上がる。私は茶屋の庇の下に立って、何をするともなく、人里の景色を眺めていた。遠くから、雪遊びに興じているのか、幼い歓声が聞こえて来る。遠くに聳える山々の稜線は、ことごとく白く煙り、何処までも果てなく続くかと思われる銀世界が少しばかり恨めしい。私は茶屋の壁に寄り掛かって、白い吐息を吐き出した。
八.
「追い出すような羽目になってしまって、御免なさい」
茶屋を先に出て来たのは、博麗の巫女であった。店の中に居た時と同様に、彼女は顔色一つ変えぬまま、私に挨拶をして去って行こうとしたが、博麗の巫女が阿求様に問うた事の意味が、どうしても知りたくなってしまい、私は思わず彼女の背中を呼び止めた。
「無粋かも知れませんが、私が店から出る前の問いには、どんな意図があったんですか」
博麗の巫女は静かに振り返ると、その場に立ちながら話し始めた。その表情は、最早あの優しげな影さえ見えず、元の如く冷たく機械的なものに戻っている。私は彼女の漆黒の眸が、私を恫喝しているが如く思われた。超然として躊躇する様子もなく、博麗の巫女は云う。
「私は人に仇成す妖怪を退治する為の巫女。阿求は幻想郷縁起を編纂するべく生まれた御阿礼の子。互いに運命に縛られた者同士だからこそ、私は問うたのです。貴方にもきっと判ります。貴方の前の方は、好く御存知でした」
それは先刻博麗の巫女が阿求様にそうしたような、事実の提示であった。彼女はそれから、私の返事も待たぬまま、青く眩しい空に飛び立つと、何処かへ去ってしまった。私は一人取り残されながら、茫然として抜けるような冬の青空を見詰めていた。漸く要領を得る事が出来たと思う。あの問い掛けの意味が、私の頭の内で徐々に整頓されて行った。
博麗の巫女の事情は、私の知り得ぬ範疇である。幾ら想像で推測を立てようが、それは虚飾以外の何物でもない。が、私と阿求様に関して云えば、推測は推断に至る。私の前任の葬儀を執り行った時、阿求様は何と仰られたろうか。記憶の糸を辿って行く内に、私は自身の内から答えを見出した。それは、最早稗田家から逸脱した、私個人の本心である。
不意に涙が零れ落ちそうになる。かつて阿求様の世話役を務めた彼の女性は、こんな心持ちで死んで行ったに違いない。確信染みた思いを以て、私は葬儀の日、阿求様が仰った言葉を反芻した。――今一度、先立つ不幸と、先立たれる不幸とを、皆様の胸中にて、考えて頂きたく思います。阿求様は、確かにそう仰った。それは自問であり、亡き彼女への餞であり、そして後任を務める者に提示した命題でもあった。今まさに、私はそれを問われているのである。
「済みません。お待たせさせてしまって。もう用事は済みました」
ところへ、阿求様が茶屋の暖簾を潜って出て来る。瞼が心持ち腫れている。それでも無理に笑顔を形作ろうとしている様子が痛々しい。紫苑の髪の毛が、風に靡き、陽光を跳ね返す。白い肌は殊更白く、一色に染まった人里の往来の中で、今に消えて無くなってしまいそうなほど、危うく思われた。
私は今ほど、自分の立ち位置を憎んだ事は無かった。もしも私が阿求様の兄であったなら、同じ運命を共有する立場であったなら、阿求様は私にその胸の内に秘めた猛々しい思いの数々を、私の前で開かしてくれたやも知れぬ。が、所詮私は稗田家に仕える一介の男でしかなく、そして阿求様には全てを一思いにぶち撒ける相手が居なかった。そして今、阿求様は泣き腫らした瞼を、私の前で見せながら、未だ不器用な微笑を湛えている。――許されよ、私はそう心中に何度も呟いた。これから見せる罪証を、勝手に創り出した免罪符で覆い隠してしまえるように、何度も同じ言葉を心中で繰り返した。
次の瞬間には、私の腕は阿求様の小さな体躯をすっかり包み込んでいた。阿求様の華奢な肩に顎を乗せ、阿求様の頭を胸に押し当てた。これが白日を憚る行いであったなら、私は愚者に違いない。しかし、最早私は断崖から飛び出た木の枝に掴まっている余裕など持っていなかった。私は遂に、絶壁に打ち付けては白き飛沫を散らしている海の中へ、飛び込んだのである。雷鳴が轟き、荒々しい大波が帆船さえ容易に飲み込む恐ろしい嵐の中へ、この身一つで飛び込んだのである。
「どうされたんですか? 少しだけ、苦しいです……」
私の胸の辺りから、か細い声が聞こえて来る。私は益々阿求様を抱き締める腕に力を込めた。洟を啜る音が、微かに聞こえる。私の腕の中に収まってしまう小さな身体が、とてつもなく愛おしく思われた。父より我の意味を説かれ、自らに戒めを与え続けて半月、私の心の底に蟠った思いは、容易く弾け飛んだ。知らず眸から涙が零れ落ちる。阿求様の打掛に黒い斑点模様が付けられる。人里の往来の中で、私達だけが浮世に在らざる存在かの如く、辺りは静けさに満ちていた。風の颯々たる音さえ聞こえぬ。人々の雑踏の音など毫もない。遠くから聞こえていたはずの幼い歓声は、天に吸い込まれて行った。
「阿求様、私はもう何も隠したり致しません。私はもうこれ以上は耐えられないのです。胸の内に罪悪感が募って行く度に、いっそ張り裂けて欲しいくらいに胸が痛みます。誰に対しても興味を持たずに済むような人間に、博麗の巫女様のような人間になれたらどんなに好かったか知れません。しかし、私には無理でした。私にはあの人のように振る舞う事は出来ないのです。阿求様の運命を知りながら、黙然として過ぎる時を見詰め続ける事は、出来ないのです」
堰を切ったかの如く流れ出る感情の奔流は、止まる事を知らぬまま、次々と心の内より吐き出されて行く。阿求様の両手は、私の着物を掴み、震えている。
「どうして、泣いて、いるんですか」
途切れ途切れに紡がれる言葉の端に、確かに嗚咽の音が混じる。時折小さく跳ねる阿求様の背中を、私は出来る限り優しく包み込んだ。阿求様は「どうして」と云いながら、私の着物を握る手に、更に力を込める。
「どうして泣かずに居られましょう。阿求様、私はもう貴方に何も隠しません。全てお話したつもりです。あの人が亡くなった時、阿求様がどんな心持ちで居たかさえ判るような気が致します。そして、亡き人の思いさえ判る気が致します。それを想い、阿求様の運命を想い、それで私が、どうして泣かずに居られましょうか……」
次第に「う、う」という泣き声を噛み殺したような、小さな声が腕の中から聞こえて来る。小刻みに震える身体が、縋り付くように擦り寄せられる。一度離してしまえば、二度と掴めぬ心持ちがする。私は誰よりも強く在ろうとし、その実誰よりも大きな不安を胸に抱いた小さき少女を、如何なる魔手からも守りたいと思った。この小さくか弱い少女を雁字搦めにし、苦しめている運命の鎖を、今度こそ本当に断ち切って遣りたいと思った。
「私は、たった一度であっても、確かに願ってしまったんです。いずれ先立たなければならないのなら、せめて私より先に逝ってくれれば、幾らか安き心を得る事が出来ると、確かに願ってしまったんです。私は彼女に謝りたい。この罪を償う事が出来るのなら、地獄の千年万年などちっとも恐ろしくありません。私は、彼女に許されたいんです。そして、もう、二度と、こんな思いを、したくは、ないんです。どうか、どうか、信じて下さい。私は……」
阿求様はやっとの思いでそう告白すると、私の着物に縋り付いて天上界にさえ轟くような大きな泣き声を上げた。恥や外聞などは、既に私達の中には無かった。私はこの余りに厳酷なる運命を憂い、嘆き、憎んだ。阿求様は永劫拭えぬ罪悪の意識に身を焼かれ、一心に彼女に謝りたいと願い続けた。しかし、運命に抗う力が私には無く、阿求様は輪廻の先に、新たな御阿礼の子として生まれ変わらなければならぬ。この世に神など居はしない。私はこの憐れな人間に、その御言葉さえ聞かせてくれず、その御手さえ差しのべてくれず、その後光さえ見せぬ神に怒りさえ覚えた。
だからこそ、私はこの悲劇を喜劇に変えたいのなら、自ら行動しなければならないと思った。例えそれが絵空事のような理想論であったとしても、この堅磐が如く強固で峭刻なる運命の壁を乗り越えたいと、本気で考えていたのである。幻想郷と云われる世界が、斯くも酷なものならば、私は更なる幻想の世界の存在を信じたかった。運命のしがらみもなく、誰もが幸せに暮らせるような、――そんな小さな子供が考えるような事を、私は切に願っていた。
「阿求様。このまま遠くへ逃げてしまいましょう。運命も使命も何もかもを打ち遣って、誰にも知られぬ場所で暮らしましょう。輪廻に見放されるその日まで、私はこの命が尽き果てるまで付き添います……」
阿求様を包んだ腕を離し、阿求様を真直ぐに見詰めながら、私はそう云った。涙に濡れた愛くるしい眸が見開かれ、私の着物を掴んだ手が、するりと落ちる。晴れ渡る大空を流れる雲が太陽に懸かり、地上に降り注ぐ影が次々と純白の世界を染めて行く。阿求様はやがて雪の上へ膝を着いた。さくりと小気味好い音が鳴る。そうして私を見上げた阿求様は、泣きながら笑んでいた。本当に嬉しそうに、本当に悲しそうに、悲喜のどちらをも表する如く、笑い、泣いていた。
「有難う御座います……」
九.
「拝啓 今時分は、桜花欄間たる桜の華が、乱れ咲いている頃かと思われます。冬の時日と比較して、定めて陽気な気候が、人里を包み込んでいるでしょう。
私は春の訪れに吹く風に、揺られながらその花弁を散らす桜の華が好きです。沈黙を保つ桜の木が、風に吹かれた時に、一時に同一の方向へ揺れる百枝から、まるで雪の如く花弁が舞い散る様は、永劫見物し続ける事が出来ると思えるくらいに、その様子が好きでした。貴方が暮らす幻想郷には、今まさにそんな光景が、至る所にあるかと存じます。今年の桜は満開に華を開いたでしょうか。叶う事なら、私も小さな猪口を片手に持ち、満開に華開く桜の木々の連なりの下で、皆様と諧謔を弄しながら、酒気に頬を赤く染められて、花見などをしてみたいと思っておりました。しかし、誠に勝手ながら、私はこの春を共に迎える事が出来ず、輪廻転生へと至る冥途の長き道のりを、一人彷徨しなければなりません。そんな私にとっては、再び来たる来世の幻想郷にて、咲き誇る花々を拝見するのが一番の楽しみです。
こうして手紙を貴方に差し出した理由は、此処に記さずとも見当が付くかと思われます。私は初めから、この手紙に感謝と謝辞とを、纏綿として整理の付かぬ感情を整える為に書くつもりです。憂世に生きていた頃には考える事さえ許されざる事をも、同時に記そうと心に決めております。見苦しく未練がましい内容が続いてしまうかと思われますが、貴方ならば、如何に取るに足らぬ閑文字であったとしても、一字一句に目を通して下さるであろうと信じて、誠に僭越ながらこのような手紙を書きました。私の身勝手は重々承知しておりますが、どうか拝見して下さるようお願い申し上げます。
思えば、私は定めて身勝手な人間であったように思います。貴方の前任を務めて下さった彼女に、謝りたいと云っておきながら、私は未だ逃れられぬ稗田の使命に従う事を決め、今頃貴方の生きる世を去って、冥途の道を歩んでいるのでしょう。自分の薄情は痛烈な程に感じておりますし、好くして下さった貴方にも悪い事をしたと思っています。私は愚直なまでに貴方の言葉を信頼しておりました。だからこそ、その誘惑に負け、何もかもを打ち遣って遠く離れた地で暮らせたなら、どれほど幸せだったろうか、と思わない日はありませんでした。
しかし、結果として私は稗田の、引いては御阿礼の子の使命を全うすべく、自ら此岸より立ち去る事を選択したのです。無論私なりの考えはありましたが、先立たれた者の心苦しさを理解しているからこそ、貴方には申し訳なく思います。御阿礼の子として生まれた以上、この結末は避け得ぬ事だと思う人は大勢居たでしょう。またそう思わなければならない事情とて、貴方は痛いくらいに理解していたかと存じますけれども、貴方だけは私の身体を縛す運命の鉄鎖を千切ろうとしてくれました。私の実に短い十余年の人生の中で、私を憐れなる宿命から救い出そうとした人は、後にも先にも貴方以外には居りません。故に私は、殊更その甘く優しい誘惑の言葉に、心が揺れ動きそうになる事が、度々あったのです。
それは出来ません。私がそう云った日の事を覚えているでしょうか。私は貴方の着る着物の繊維の一筋も、それが私の涙で濡れた感触さえ、鮮明に記憶しています。貴方も私と同様に、あの日の事を忘れ難く鮮烈なる過去と捉えているのなら、恐らく私の言葉をも同時に覚えているかと存じます。今更白状したとて、何等の変化も望めぬ事だと思いますが、敢えて此処で私の本心を暴露するならば、私はあの時、貴方が仰いましたように、誰にも知られぬ遠く離れた地で、貴方と共に生きたいと確かに思いました。私が十にも足らぬ年の項であったのなら、きっと何も考えず、貴方の大きく温かい手を取って、純白に染め上げられた世界を、何処へなりとも走って行きました。
ならば、何故そうしなかったのか。貴方はそう思うかも知れません。複雑且つ難儀なる縁由が、私の心の内に根差しているのかと疑うかも知れません。しかし、私は極めて単純な理由で、貴方の誘惑を断ったのです。私を含め、九代続いた稗田の使命は、幾星霜もの時日を掛けて続けられて来ました。先代も、そうしてその先代も、自らの使命を心得て、如何なる誘惑にも打ち勝って来たからこそ、私は貴方の居る世に生を授かったのです。それなのに、私一人が誘惑に負け、古人の遺志を無碍にする訳には行きません。
もしも私が貴方の誘惑に負け、貴方の言葉通りの人生を歩もうとしたのなら、私は累々と堆積し続けた御阿礼の子の歴史に幕を引いた罪悪感に押し潰されて、到底心安く往生する事は出来なかった事でしょう。私一人が御阿礼の子ではなく、長年に渡って続いて来た御阿礼の子の歴史そのものが、私の人生なのです。その使命を放擲する事は、恐らく死と同義であり、この世に認められる如何なる罪も超越した大罪なのです。それを自覚していながら、私は貴方の差し出した手に、縋る事は出来ません。只その優しさを、冥途を巡る中で自分の糧にしたいと思います。貴方のあの言葉があったからこそ、稗田阿求は存在し得たのです。でなければ年端も行かぬ小娘である私は、この背中に圧し掛かる恐ろしい宿命の重圧に到底耐えられなかったに違いありません。
そして、私の過ごした一生が、如何に悲しかろうとも、私が生きた意味は決して無ではありません。例え遺した物が運命に因る産物であったとしても、私は私以外に遺せぬものを遺して逝きました。それは只の自惚れかも知れず、独り善がりの全く勝手な思い込みかも知れませんが、私はこの手紙を書き記している間も、それを信じて止みません。叶うなら貴方にも私の吐露した心情が、真実であった事を信じて欲しいと思います。私は決して死にたがりの人間ではありません。浮世を生きる大勢の人間がそうであるように、私とて生きたがりの人間なのです。そうして、私を生きたがりの人間足らしめた原因の一つには、貴方の存在が確実に関わっているのです。
深々と、静かに穏やかに細雪が舞い散る日、貴方は冬にのみ咲き誇る華は、自分に勇気を与えてくれると仰いました。私は貴方と過ごした日常の中で、特にその時の事を明らかに覚えております。私と貴方との立場では、感ずる事に違いはあると思いますが、それでも私には貴方のような物の考えが、とても羨ましいものの如く思われました。私はあの例え話の中で、冬にのみ咲き誇る華でした。そうして貴方はそれを見守る人でした。そこに思惟の相違が生ずるのは至極当然の事でありますが、それでも私はその時ほど自分の弱さが露呈された時は無いと思っています。
そうして、その時から私は自分の弱さを克服したいと常々考えておりました。彼女を見す見す死なせてしまった事も私の弱さが要因です。彼女は一時露見した私の、元より傷付いた弱き部分を癒す為に自ら命を断ったのです。彼女の遺した文には、それを裏付ける文章が連綿として綴られておりました。全て私の為にした行為だと明確に示されておりました。しかし、彼女の思惑に反して、私が感じたのは途方も無い悲しみであり、取り返しの付かぬ喪失感でした。私は彼女が死してまで尽くしてくれたのにも関わらず、その想いを無駄にしてしまったのです。
幾度悔もうとも、悔やみ切れる事はありません。生ある限り、死ある限り、私は自分の犯した罪を自覚し、彼女への謝罪をこの胸に呟き続けるのです。それで罪が購えるとは毛頭思いません。これは私に課せられた罰であり、二度とその出来事を忘れぬ為の戒めです。極楽にも地獄にも行く事を許されぬ女の、聞き苦しい言訳です。決して私は許されてはならないのです。先立たれる者と、先立つ者の悲しみの大小など、論じた所で意味はありません。先立つ者には先立つ者の悲しみがあり、先立たれる者には先立たれる者の悲しみがあります。その時の私はその事に気付いておらず、その結果、自分の境遇がまるで如何なる不幸にも勝る憐れなものだと思い込み、彼女を死なせてしまったのです。
故に、私は二度と同じ過ちを繰り返したくないと、貴方に申し上げました。それには、やはり私自身が強くなるより他には無かったのです。それが貴方の誘惑を断った理由です。私は貴方の甘美なる誘惑に、突き動かされそうになる自らの弱さを打ち倒す為に、貴方の誘惑を断ったのです。
果たして、私の行いは間違っていたのでしょうか? 御阿礼の子の使命を貫き通し、貴方の言葉を直向きに信じ続け、貴方を勇気付けられるような存在になれたなら、というのは私の勝手な自己満足でしかなかったのでしょうか? 既に死んでいるであろう私には、それが判りません。この魂がこの世を離れる間際まで、私は不安で不安で仕方がありませんでした。私には先立つ者としての悲しみがあり、貴方には先立たれる者としての悲しみがあったかと思います。そうしてそうあって欲しいなどと、厚かましい事を考えております。それは迷惑でしかなかったのでしょうか? 私が貴方に想いを告げる手段は、間違っていたのでしょうか?
――などと、この手紙に書いた所で、既に浮世に居ない私にとっては意味の無い事でしょう。ただ、死ぬ前に書き記したこの手紙を貴方が読んで下さり、そうして私の疑問に一つ一つ答えてくれたなら、それに勝る恩倖はありません。その想いがどんな形であれ、私はそれだけで満足なのです。今、私はこの文を書きながら、一つ一つ貴方の言葉を想像しています。貴方は勝手な私を怒るでしょうか、貴方はこの手紙を卑劣な手段と捉えるでしょうか、貴方は私を怨むでしょうか、貴方は私を憐れむでしょうか、――そう考えてみましても、私の想像上の貴方は、何時も判然たる言葉で私の不安を薙ぎ払って下さいます。「そんなはずがありません」と、丁寧で優しい声音で紡いで下さる貴方の姿が、容易に想像されるのです。
薊の花も一盛りと仰った親愛なる貴方へ、成長した私の姿を見せる事が出来ないのが、至極残念です。まるで実の兄のような貴方と将棋や囲碁を指せなかった事が誠に悔やまれます。私を救い出そうとして下さった貴方に、直接謝罪と感謝とを伝えられない事が実に遺憾千万です。思い出して見れば、私の人生には心残りばかりです。その全てを此処に挙げるとなると、枚挙に暇がなく、到底この手紙に全てを書き遺すのは無理でしょう。既に紙は全て文字で埋まろうとしています。もう一枚書く猶予もありません。これを書き終えれば、間もなく私は転生の儀を行う所存ですから、これは遺書とも云えるのかも知れません。そうして紛れも無く私が貴方に送る最後の言葉です。どうか心に留めて置いて下さい。
私は愚昧のような存在であったかと存じますが、私にとって貴方は本当に好い兄でした。貴方が私の世話役を解任されてからでさえ、私は片時も貴方の事を忘れた事はありません。今まで私などの世話を焼いて下さり、誠に有難う御座いました。そして、どうか先立つ不孝をお許し下さい。
最後に、私は愚かな自分の本心を、此処に記します。これは冗談の一種であり、決して真面目な心持ちで書くのではありません。私は本当に、一寸貴方をからかってみようくらいの心積もりで書くのです。先述した色々な事柄を見ての通り、私がこれから書くであろう事を、本気で書いたなどとゆめゆめ思わぬようにして下さい。そうして、次に書く言葉に対して、これほどまでに注意するように書いている私の心情を察して下さい。私は馬鹿な小娘です。今際の際まで、自分の弱さを捨て切る事が出来ませんでした。そして、その弱さを貴方に押し付けています。それでも、貴方を勇気付けられる華になりたいと思ったのは本当なのです。だからこそ、私は愚かな生きたがりの人間です。しかし、どうか御理解下さい。私がそれを、この手紙に書くという事は、確実に私の成長を表しているのです。この手紙に書くというだけで、それは二度と叶う事がない願いとなり、そしてこの手紙に最も必要のない閑文字となるのですから。
――了
美人さん。
珍しく、もう一度推敲されるべきだったかと思われるところもありましたが、瑣末事にはこだわりません。
綺麗な話だ、と書こうとしたら既に上で言われていたので。
ほんとに綺麗な心をお持ちですね。次回作も楽しみにしております。
あとがきで止めを刺されました。
お見事です。
いや、ホント引きこまれました。いいものを読ませてくれてありがとう。
あなたが怖い。引き込まれるから。
あなたが怖い。魅せられるから。
読んでいて、本当に怖くなる。twinさんが。