「何よ……この赤すぎるほど真っ赤な変な液体は。これホントに飲める物なの?」
「ローズヒップとハイビスカスのハーブティーよ。今日この日のためにちょっと趣向を凝らして、咲夜に用意させたんだけど…お気に召さなかったかしら?」
「なんつ~か……お前等に似合いすぎるほど似合う色合いだな。どれどれ…うわっ、何か酸っぱいぞ、これ……」
「文句言わないで。ビタミンたっぷりでとっても身体にいいのよ。魔理沙は仮にも人間なんだから、もう少し健康に気を使いなさい」
「お子様味覚のあんたが言うな。よし、取敢えず私も……何なのよこれ。うぅ、凄く酸っぱい!もうスコーンで味誤魔化すしかないわねぇ…」
「あらあら、霊夢もなの…?ま、すぐに慣れるわよ。私も最初の頃はとてもこんなの飲めなかったんだから…」
すっかり夜も更け、かすかに肌を刺すような寒気すら立ち込める広い屋敷のこれまた広い庭園に、年頃の少女三人の何気ない談笑の声が響く。
深夜の屋外であるということを除けば、ごくごく有り触れた茶会の風景。いや…ただもうひとつ普通のそれとはあまりにも違っているものがある。
この少女達はかつて、この紅く広い屋敷を舞台にした戦いの只中で、互いに鎬を削り合った敵同士なのだ。
幻想郷の歴史の中でもまだ記憶に新しい、この世界が紅く毒々しい霧と夏場とはとても思えない寒気に覆われた異変…後に紅霧異変と呼ばれるその出来事の中心にいたのが、この三人の少女。
幻想郷唯一の神社である博麗神社の巫女・博麗霊夢、東洋出身ながらに西洋の黒魔術に長けた人間の少女・霧雨魔理沙、そしてこの只管に赤い煉瓦造りの巨大な洋館・紅魔館の主である吸血鬼の姫、レミリア・スカーレットである。
この日霊夢と魔理沙はそのレミリアの誘いで、いつかの紅霧異変以降紅魔館でほぼ定期的に行われている夜の茶会に招かれていた。あのころの切迫した空気は一体何処へやら、今の三人の間にあるのは年相応の少女としての和合の空気だけだ。
聞くところによるとこの茶会、彼女達以前にも数名ほど人間の里からお呼ばれした人物がいるというのだから、此方としてはただただ驚かざるをえない。
それだけ主たるレミリアが、いや紅魔館の住人達が、自分達を受け入れた幻想郷の人妖達へ歩み寄る姿勢を…
少しずつではあるが、見せ始めているということであろうか…。
と、その時。まるで何かを思い出したように椅子から立ちあがり、口を開いたのはレミリアである。
「そうだわ…霊夢、魔理沙。今日貴女たちを呼んだのは、二人に是非とも会って欲しい娘がいるから」
「会って欲しい娘?誰よ。あの時にここの住人全員にご挨拶はしたつもりだけど?」
「私も。ついでに言うとこの館の部屋も全部回った気がするぜ。何だよ、まだ誰かいるってか?」
「いいから。そこで暫く待ってて」
「ちょっ、レミリア!何処行くのよもう…!」
レミリアがとある少女の手を引いて再び霊夢と魔理沙の前に現れたのはその数分後だった。数ヶ月前には見なかった顔の少女…。霊夢も魔理沙も思わず少女を食い入るように見つめてしまう。
背格好は大体レミリアと同じ位か。美しい金髪をサイドテールにし、薄いピンクのブラウスの上に赤いベストとスカート、レミリアのそれと似たデザインのフリルが付いた帽子を目深に被り、その背中には木の枝に虹色の宝石をぶら下げたような特異極まりない一対の翼を持った少女…。
「フランドール。私の妹よ」
「何よ…。姉妹のくせに全然似てないわね」
「あら、そう思う?…ほらフラン、お客様よ。ちゃんとご挨拶なさい」
レミリアがそう促すも、フランと呼ばれた少女はすぐさま姉の陰に隠れてしまう。そしてじっと此方の様子をそこから窺っている。
「あ…あぁ、ごめんなさいね。この娘ったら人見知りが激しくて……。何しろ地下にずっと引き篭もっていたから、他の人や妖怪に触れた事が全くといっていいほどないのよ」
「引き篭もっていた?閉じ込められていたの間違いじゃないの?」
「失礼ね。私がそんな事するように見える?」
「十分見える。っていうか、お前ならやりかねないな」
「なるほど、私ってまだそんな風に思われているのね…って、あら…フラン?」
その場にいた全員が思わず唖然となる。一同が雑談に興じている間に、いつの間にやらフランと呼ばれた少女の姿は跡形もなく消えているではないか。
レミリアは勿論の事、霊夢も魔理沙もあっちをきょろきょろこっちをきょろきょろさせて、彼女の姿を探そうとする。
「も~う、フランったら何処行っちゃったのよう。アレほど簡単に外に出ちゃ駄目って言ったのに~…」
「外に出したのはお前だろ!っていうか、何で妹がどっか行っちまったくらいでそこまでテンパってるんだ?」
「あぁ、言い忘れたけどフランって精神面とか能力とか色々危険なのよ。だから今日も貴女達二人を信頼して細心の注意を払った上で…」
「あんたの妹は猛獣か!!」
本来ハイソなそれであるはずの茶会の席は一転して、一昔前の趣味の悪いスラップスティックコメディの様相を呈し始める。
騒ぎを聞きつけたメイド長の咲夜や門番兼庭師の美鈴も動員し、一同は広い庭園と館内をぐるぐると駆けずり回ったが…十五分ほど探して遂にフランドールは見つからなかった。五人は再び庭園に戻り、ある者はぜぇぜぇはぁはぁと大袈裟に肩で息をし、ある者は冷たい芝生の上に見っとも無くへたばり、またある者は立つ力をも失い椅子にその身を完全に預けてしまっていた。
「も~う、フランったら、何処行っちゃったのよぅ…」
「うぅ…申し訳ありません…、この私が監督を買って出るべきでしたぁ…」
「…元はといえばレミリア…アンタが妹を外に出すからでしょ。だからお茶会は室内でやれってさっきも……」
「あぁ~、どうしましょう…もし妹様が人間の里に降りたりなんかしたら、それこそ大変な事になりますよぅ…」
「あ~…、そりゃ大変だけど…取敢えず、彼方此方走り回ったから疲れたぜ。咲夜ぁ~、何でもいいから飲み物……」
よろよろしながら自分が座っていた椅子の方へ歩み寄る魔理沙。やっとそこへ辿りつくや否や、
彼女は突然にくいっ、くいっと衣服を後ろに引っ張られる感覚を憶える。何事か、と思って後ろを振返って見ると…。
「ん…何だよ、妹……」
「人…間……」
魔理沙のエプロンドレスの裾を、その小さな手で引っ張っていた少女…。先程までここにいた五人全員が血眼になって、
広い紅魔館を延々と探し回ったまさに悪魔の妹、フランドールだ。魔理沙の服に手をかけつつ、先程まで自分がキリキリ舞いさせていた面々を無邪気に見つめている。
「お姉様?咲夜?」
「妹様!今まで一体何処にいたんですか!!」
「フラン!もう…探したのよ?全くこの娘は……」
先程まで自分を探し回っていた面々の心配は全く意に介していないのか、幼い子供そのものの屈託のないぽえっとした表情を浮かべるフランドール。
先程まで姉と従者の方に向けられていたその紅く大きな瞳は何時の間にか、魔理沙の方へ向かっていた。紅い瞳の少女は食い入るように此方を見ている……。
思わず身体を強張らせてしまったが、その視線の意味をもう一度考えなおし、気の知れた仲間にそうするようにあくまで自然に構える。
「なぁ…妹、どうしたんだよ。さっきからじろじろこっち見て」
「人間…私の事、妹なんて…呼ばないで」
「あ、あぁ、ごめんごめん。お前の事は…じゃあ、何て呼べばいいかな」
「フラン」
「あぁ、私は魔理沙。霧雨魔理沙だ。宜しくな、フラン」
「うん。よろしくね、魔理沙」
年相応の少女らしい笑顔を、その小さな身体を、フランは魔理沙の胸に凭れさせる。今日初めて会ったばかりだというのにやたら仲睦まじい魔理沙とフランの様子を、まさにやれやれといった表情で見つめる四人の少女達。
「当の本人はかくれんぼのつもりだったのかも知れないわね…ま、それに付き合わされた私達は大変だったけど」
「でも、妹様が人間に懐くなんて珍しいですね。ひょっとしたらあの魔理沙が特別なんでしょうか?」
「でしょうね。私の気のせいかもしれないけど…魔理沙の身体からは、私達のそれに非常に近い何かを感じるわ……」
「お嬢様、私も…感じます。魔理沙から放たれる霊力、魔力…噎せ返るほど濃く赤みがかった、お嬢様のそれに似ていますよ」
四人がそんな会話をしていたところでいつの間にやら夜は明け、一先ずこの日のお茶会はお開きと相成った。魔理沙自身は自分が彼女達の話題の中心にいた事は露知らず、ただただ幼い吸血鬼の少女と戯れる自分を、自分なりに愉しんでいたのだった…。
それからというもの、魔理沙は頻繁にフランドールのところへ足を運ぶようになった。それ以前にもこの紅い屋敷には、地下の黴臭い図書館に隙間無く陳列された魔道書目当てに何度も何度も訪れてはいた。
そこで本を借りていく…もとい強奪していくたびに、ここの一角に鎮座ましましている紫色の魔女の悲愴と憤怒に満ちた視線を、背中に幾度も受け続けたが…。いつしかそれは目的と呼べるものでは無くなった。
一番の目当てはそこに住まうブロンドの少女。彼女と過ごす時間に変わっていき、魔道書はそのついでに…その証として持っていくという感じになったのだ。
ある時は中庭。ある時は大図書館。そしてまたある時は娯楽室。悪魔の棲む家と呼ばれ、里の人間や古参の妖怪からも決して好かれもしないが嫌われもしない紅魔館も、魔理沙にとっては居心地のいい場所であった。恐らくそれはあの少女が…フランドールがいるおかげだろう。
彼女がそこにいればそこが紅魔館でなくても…例えば迷いの竹林でも妖怪の山でも太陽の畑でも、同じように魔理沙にはその眼に映る全てが鮮やかに彩られて見えていた事だろう。ただフランは住家たる紅魔館から出歩いたりしなかったので実質そこしかなかっただけの話である。
庭園の柔らかい芝生。ビリヤードのキュー。ハードカバーの英語の本。数少ない窓から眺める霧の湖…。
見るもの、触れるもの、何もかもが新鮮なそれに思えた…。ただ、傍らに一人の少女がいるというだけで。そう言えば、いつか二人はこんな話をした事があった。
「ねぇねぇ、魔理沙」
「どうしたんだよ、フラン」
「魔理沙には…将来の夢とか、ある?」
「夢?おいおい、随分唐突に聞くんだな」
「だって、聞きたいんだもん。ねぇ、魔理沙って夢とかあるの?」
「ん~、そうだな。私はもっと魔法を極めてみたい。そしていつかは幻想郷のみならず外の世界にもその名を轟かせる、伝説の大魔法使いになるつもりだよ」
「伝説の…大魔法使い……?」
「あぁ。……そういうフランの夢ってなんだ?」
「魔理沙…驚いたりしない?」
「まぁな。今までレミリアやら咲夜やら、ここの奴等には沢山驚かされて来たんだ、今更驚かねぇよ」
「私…魔理沙の、お嫁さんになりたい」
「えっ。なあ…フラン。一応聞くけど、それ本気で言っているのか?」
「うん、本気だよ。だって…私、魔理沙が…好きだし」
「あ~…そりゃ分かってるけどさ。一応、私もフランも女だぜ?二人の間に恋愛なんて、成立するかな…」
「する」
「はは…そうはっきり言い切られちゃ否定出来ないな。まぁフランなら、きっと…なれるんじゃないか?そこまで本気で、私を思ってくれるんならさ」
「うん、なる。絶対…なるよ…」
童心に戻って一緒に遊んだり、狭くとも新鮮な幻想郷の風景を楽しんだり、柄にも無く互いの夢を語り合ったり。
ささやかではあるが、それなりに楽しい、幸せな日々。そんな日々は長く続けば続いた分、
いざ終わりを迎えた時…実にあっという間に過ぎたように思えるものだ。
今日もまたいつものようにそこを訪れた魔理沙。だが今日は、いつもと様子が違っていた。
紅魔館に立入れば真っ先にやってくるはずのフランドールが今日に限って姿を顕さなかったのだ。何度か名前を呼んでみても返事はなく、一体どうしたものかとあれこれ考えていると…。
突然、後ろの方に一つの気配を感じた。
「……レミリア」
「魔理沙。今日も、フランに会いに来たのね」
「あぁ。アイツ、今日は一体どうしたんだ?普通だったら居の一番にすっ飛んで来てるのにさ」
レミリアは何も言わずに後ろを向き、ゆっくりと歩き始める。どうやら付いて来いという意味だろう。すぐに魔理沙も彼女を追って歩みを進める。
過去に何度も訪れていながら、今日初めて踏み入るフランドールの部屋…。そこの扉を開き、思わず、息を呑んでしまった。
自身の身体と釣合わない大きなベッドの上に横たわるフランの表情は苦悶に歪み、全身の毛穴という毛穴からは脱水症状を起こさないのが不思議なほど大量の汗が噴出して、純白のシルクのシーツを濡らしていた。
彼女を取り巻く妖精メイドも皆須らく大童しており、さながら野戦病院を思わせる光景がそこにあった。そんなフランの看護の最前線に立っているのは勿論メイド長の咲夜である。
「魔理沙。貴女がわざわざ来てくれたのは嬉しいけど…妹様はそれどころじゃないわ」
「どうしたんだよ!前ここに来た時はあんなに元気だったのに!!一体どうしちまったんだ…!!」
そんな…最後に彼女のもとを訪れてから、まだ二日くらいしか経過していないはずなのに。思わず我を失い咲夜に詰め寄る魔理沙にそっと告げたのはレミリアだ。
「さっき、永琳にも往診に来てもらったわ…。フランはどうやら、血液成分欠乏症を起こしているみたいなのよ」
「欠乏症…だって?」
「簡単に言えば、妹様は一日に必要な血の量があまりに多すぎて、今日までそれを満足に摂取できていなかった。普段私が一回に作る食事で提供する血の量では全然足りなかったの……私とした事が、迂闊すぎたわ」
「そんなに……」
魔理沙は唖然とした。自分が彼女に会いに行けば、フランはいつも満面の笑みで持って迎えてくれた。一緒に遊んでいるその時も苦しい表情を見せる事なんて一度たりとも無かった。
だけど…自分のいないところではいつもお腹を空かせ、それでもそんな姿を見せないようにしていた少女…。
「だけど…今最低一人分の人間の血さえあれば、フランは一先ず大丈夫なんだろう?そういえば人間の里に超が付くほど業付く張りの悪徳商人がいたな。噂じゃ何人か殺してるとも聞いているぜ。まぁ多分ドロドロで脂ぎって不味いそれかもしれないが、選り好みして何も口にしないよりかはいくらかましだろうさ。夜中にちょっと行ってそういう奴でも襲ってしまえば……」
「無理よ!!!」
半ば冗談混じりの魔理沙の“妙案”は、すぐさま怒号によって却下(デリート)される。
「それが出来るならとっくにそうしてるわ。だけど魔理沙…貴方は知らないと思うけど……私達吸血鬼は今、幻想郷の人間を襲って血を吸うなんて事が許されていないの。それは遥か昔、私達がここに来た頃の話よ…」
そっと、レミリアは語り始めた。ちょうど自分達が幻想郷にやって来た頃……後に幻想郷の歴史に吸血鬼異変として謳われる、決して忘れることは叶わないあの日の出来事を。
「外の世界で居るべき場所を失い、新天地を求めてここに来た私達は、既に幻想郷を根城にしていた妖怪達と揉めに揉めて…最初は優性そのものだったけど、最終的にはそれこそ木端微塵に敗れ去った。そして此方で一つの…しかし絶対の契約を結んで、やっとここにいる事を許されたのよ」
「契約……?」
「妖怪が食料となり得る外の世界の人間を提供する代わりに、私達は幻想郷の人間を襲わないという契約。今も当然その契約は生きているわ。だけど…」
一度レミリアは言葉を切る。息も絶え絶えのフランドールの顔をその目に見つめたまま、その続きは紡がれた。恐らく彼女の目には、傍らにいる妹以外、何も映ってはいないだろう…。
一連の出来事に間する事を魔理沙の方を一切向かずに語っていたのが、何よりの証拠だ。
「どうした事か、最近はさっぱり外の人間が入って来ないの。恐らく食料係の妖怪がサボっているだけかもしれない…。だけどその所為で、加えてフラン自身の力が強すぎる所為でこの通りよ。私は一日に一回、咲夜のそれを少量だけ受ける事でその生を繋いでいるけど…育ち盛りのフランは違うわ。ほぼ毎日丸々一人以上の人間の血を一滴残さず吸い尽くさないと、この小さいながらに強大な力を秘めた体を維持できないのよ」
「そんな……」
「わかったでしょう?結局妖怪、特に私達吸血鬼は誰かを殺す事でしか…人間に依存する事でしか今日を生きられない、惨めな存在なの……!!」
「お嬢様……」
「レミリア……」
魔理沙は勿論、咲夜も、他のメイド達も初めてであった。たった一人の妹の為にここまで激昂するレミリアを見る事を。
普段の尊大さが鳴りを潜め、ただひとりの妹思いの姉の姿を曝け出した主の姿を見る事を…。
魔理沙を始めとする誰もが彼女を刺激しないよう、そっとその場を離れる事しか出来なかった。
「くそっ!!」
ダンッ、という壁を打つ音。何処かしこから無尽蔵に集め、そして無造作に積んだものでゴタゴタとした家の中ではその音も殆ど響かず、そこに舞い散るのもただ綿埃だけ。
魔法の森の奥深くにある自分の家に戻ってからも、魔理沙はずっと後悔しきりだった。後で咲夜から聞いた話だが、丁度フランドールは血液成分欠乏症を重篤化させて床に伏せった頃…。
ずっとうわ言のように、魔理沙の名前を絶えず呼び続けていたという。その事実は、魔理沙を打ちのめすには充分すぎた…。
こんな事、知らなければよかった。今まさに自分を求めている少女がのたうち苦しむ様をただ見ているしか出来ない自分が、あまりに痛すぎて仕方がない。
自分が人間だから?自分が惰弱な人間だから、今こうして何かを抉るような痛みを感じてしまうのか?
人間であって人間でない生き方…今日までそれを好んでしてきたのは何故だろう。そして、いつからだろう…。
気がつくと、魔理沙はあの日から今日までの日々をざっと思い返していた。人間の里の実家を飛び出し、まともな人間であれば近づきもしない魔法の森の瘴気の中に居を構え、連日連夜何かに見入られたかのように魔法の研究に明け暮れた自分。
全く、らしくない。魔法の世界に触れてから…いや、魔法の道具に関する事柄で父と大喧嘩して、その勢いで家を飛び出してから、人としての人生は捨てたも同然だった筈じゃないか。それ以前にこの幻想郷に生きている以上、自分はまともな人間には決してなり得ないことぐらい分かっていたはずなのに。
やっと物心ついた頃に魔法というものに触れ、そして憧れ、立派に成長したらいつか幻想郷屈指の大魔法使いになろうと思っていた、いやなるつもりでいた。
まぁ恐らくそれは人間である事を辞める事でもあるだろうが、一時期は人間の身を保ったままで、憧れの大魔法使いと呼ばれる存在となろうなんて、今思えば実に虫のいい事を考えたりもした。
既にそんな考えが人間のそれと遠く掛離れたものだという事に、やっと気づいた…気付くのがあまりに遅すぎたが。
(最悪…少なくとも私は人間としては、最悪の存在だ……)
実感した。こんな考えに至った以上、もうすぐ私は人では無くなるだろう。そんな自分でも…自分にしか出来ないことが…
自分がまだ人間であるうちに出来る事が、まだあるはず。ならば、迷ってはいけない…。その思いが、強く少女の背中を押す。
「もう、この体も捨て時かな……」
今宵も冷たく暗い夜空で、一際優しい光を投げかける星屑達。魔理沙は、彼等が好きだった。
…恐らくきっと、彼等を眺めるのも今夜で最後になるだろう…。少なくとも人間の目でそれを見るのは間違いなく最後になる。
そう思うと何故か、泣けてくる。とはいえ一体本当は何が悲しいのか、当の魔理沙自身にもとうと分からなかった…。
フランドールの身体の状態は目に見えて深刻だった。魔理沙が最後に彼女の元を訪れてからたった一日しか経過していないのに、欠乏症に伴う衰弱のスピードがあまりにも早過ぎたのだ。
既にその目は焦点が定まらず、その細さからは想像もつかない力も無いに等しく、しまいには一対の足でまともに立って歩く事さえ困難という状況にまでなってしまっていた。…見る影も無いという表現がぴったりと合うその有様に咲夜を初めとしたメイド達の顔にも、既に諦観の色が浮かんでいる。
妹様も、今夜が恐らく峠だろう…。誰もがそう考え始めたその時。
カチャッ。
「咲夜、いるか?」
「魔理沙…。妹様に会いに来たつもり?」
「へぇ…流石は紅魔館の従者。随分察しがいいんだな」
あれから咲夜ともすっかり顔馴染となった魔理沙。この分だと恐らく門番の美鈴も“妹様に会いに来たなら”と、今回ばかりは魔理沙をすんなりと通したのだろう。
「魔理沙…自分に出来る事は何もないという事、分かってて来ているんでしょう?だったら……」
「あぁ。だけど…。今ほんの少しでも…最低一人の人間の血があればいいんだろう。持ってきてやったぜ」
「嘘おっしゃい。貴女、何も持ってないじゃない……!?」
そう反論したあとで咲夜はハッと気付く。今ここにある、最低一人の人間の血…まさか。いや、私ではまずない。
いくら魔理沙の性格があんな感じだとはいえ、彼女が誰かの為に自分と同じ人間をその手に掛けるほど堕落してはいないことを咲夜は十分知っていた。だとすれば、勿論その答えは…。
(…駄目!)
そう叫んだつもりでいたが、何故か声は出てこなかった。その前に魔理沙が口を開いたのだ。
「じゃ…今まで世話になったな、咲夜。私がパチュリーの書庫から借りていった本は、悪いけどあんた等の手で回収しといてくれ」
「待ちなさい、魔理沙っ!」
フランドールの部屋の扉が低く重い軋み音を上げて開き、また閉ざされた。
(…魔理沙、貴女……)
何て事を。一度妹様が本気で人を襲ってしまえば、まともな死に方なんて出来ないのに……!!
咲夜の心の叫びは、広い紅魔館の何処にも響く事無く、ただそっと消えていった。
「フラン、遊びに来たぜ」
「ま…りさ……」
いつもそうするように、魔理沙は少女に声をかけた。目の前には既にボロボロに窶れ、横たわる少女…。愛らしい真っ赤なおべべも鮮やかな金髪も朱の大きな瞳も皆…魔理沙が好きだった彼女の全ては、その艶やかさも屈託無い仕草も、殆ど失われてしまっていた。
それでも少女は精一杯に、来訪者たる魔理沙に…心から愛する人に、自分にしか出来ない無垢な笑顔を見せようと必死になってくれている…。
「嬉し…い、な。今日も…来て、くれ…た……」
「まぁな。大事な人が怪我したり病気になったりしたなら、見舞いに行くのが普通だろ?」
「そう…なの……?」
「少なくとも人間なら、それが普通さ。それ以外でもきっと…いや、絶対そうだって思うぜ」
フランドールに対し、あくまでいつも通りに接するよう努める魔理沙。この場で深刻な話をするのは…とても性に合わないと思ったのだ。自分の言葉で、自分らしく…。それが本当の自分かどうかなど、今は関係なかった。
「なぁ…フラン。何か欲しいもの、あるか」
答えが既に分かっている問いを、敢えてフランに問う。
「血。人間の、血が…欲しい……」
ただ素直に自分の求めるそれをフランが口にするや否や、それを聞いた魔理沙の口元からフッという溜息が漏れる。お前なら、そう言うと思ったよとばかりに。
いや…その答えを待っていたと言うべきか…。
「しょうがないな……いいぜ、私の血をくれてやるよ」
フランは思わず、焦点を失いかけた瞳をカッと見開く。欠乏症の所為で上手く回らない頭でもその意味は充分理解できた。
「え…嫌だ。人間の…血は、欲しいけど……魔理沙の血は……」
「どうして?何で私じゃ駄目なんだ?」
フランは怯えていた。決して魔理沙の血が不味そうなそれだと思っているわけではない。今自分が必要とする量のそれを魔理沙から吸えば、彼女は確実に死ぬかもしれない。
その前に、彼女はちゃんと人の血を吸えるかどうか自信がなかった。その身に宿る力があまりにも強すぎて、過去に何度も人間を消し飛ばしてきた…それこそ一滴の血も残らぬほどに。もしかしたら、大好きな魔理沙も同じように…!!
フランの心配を察したのかどうかは分からないが、そっと魔理沙が口を開く。
「フラン。咲夜の作ってくれるスイーツ、好きか?」
「う…ん、好き……だよ。とっても……」
幽かに涙が混じった、消え入りそうなか細い声でフランは答える。
「なら、話が早いぜ。私の体がそれで出来ているって思えばいい。そいつらをいつもそうするように、首筋にガブリ…。簡単じゃないか」
フランにそっと背を向けて、細く柔らかい項を差し出す魔理沙。それを見つめ、“簡単じゃないか”という先程の言葉を、心の中でリフレインさせる。
ただ、これに食らい付けばいい。何も心配なんてしなくていい。
難しくなんか無い、力なんていらない、それはとても簡単な事…。
(魔理沙……!!)
ガブッ。
魔理沙の首とフランドールの双つの牙との距離…それが一気に零まで縮んだ。
「あっ!うぅっ……」
一瞬痙攣を起こして魔理沙の身体が小さく仰け反る。フランが突き立てた牙、首筋から止めど無く流れ出でる生の証。口腔を介してそれが全身に溢れていく感覚、枯渇した身体の中の力がそれを受けて再び懇々と湧き上がるような感覚……。
「あぁ、美味しい……!!」
自分はその力の所為でまともに人間の血を飲む事が出来なくて、毎日の食事で出る分では全然足りなくて、いつもお腹をくぅくぅ鳴らしていた。今日初めて、己自身の牙で人の血を飲んだフラン。生まれついての吸血鬼の身でありながら、血がこんなにも美味いものだとは全く知らなかった。
身体の中に流れ行く魔理沙の血を味わいながら、そっと思う。前にパチュリーから聞いた話では、昔外の世界の華僑と呼ばれた人々の間では、人が互いの血を啜る行為は何かを固く誓う事の証明であった。
私は魔理沙との間に、何を誓うのだろう。永遠に離れない事か、それとも彼女の分まで精一杯に生きる事か、あるいは…。色々な事柄が血の流れに沿って流れ込み、少女の中を満たして行く。
生まれて初めて味わった、生の人間の血。それも飛び切り美味な愛する人のそれにすっかり満足したフランドールは魔理沙の首から牙をそっと離し、その体を己の傍らに横たえる。与えた血の量が思いの外多過ぎたのか、仰向けの魔理沙は既に息も絶え絶えだ。
「どう…だい。私の血は美味かったか…フラン……」
「うん…、とっても。もうお腹いっぱい」
「はは、そいつは…よかった。これでやっと、お前は…助かる……」
お前は助かる。フランドールはその言葉の意味を、そっと心で反芻する。今に消えてしまいそうだった、しかし今はまた再び爛々と輝く自分の紅い瞳でじっと見つめた魔理沙は……笑っていた。魔理沙は、その瞳が好きだった。
「フラン。絶対、忘れたり…するなよ。お前達吸血鬼の…長い、命でも、この味に出会える…のは、たった一度しか、ないんだ。もう…二度と、お前は…この味に、触れられないんだよ。だから……」
僅かに残った力を振り絞り、魔理沙は…じっと、フランドールという少女を見つめ返す。
「私の…味、ずっと、憶えて…、おくん、だ、ぜ………」
やがて少女の両の瞳は閉ざされ、その声は時とともに途切れ途切れになり、暫くするとそれも……止んだ。
「魔理…沙……?」
返事は返って来なかった。嘘だ。こんな事あるわけない。仮にあるとしても絶対にあって欲しくない。
折角こうして元気を取り戻したのに。魔理沙が血をくれたお陰でやっと、その命を拾ったのに。これからも魔理沙と沢山の思い出を作って、何時かは知らないが吸血鬼の身にも必ず訪れるその時に“満足できた”と思える生き方をしたかったのに…。
それなのに、一番大好きな、一番大事な人だった魔理沙が…動かなくなった。
「魔理沙…起きてよ……一緒に遊ぼうよ……」
涙混じりの声で一生懸命声をかけても、幾度もその細い身体を揺さぶっても、魔理沙は何一つ反応を示さなかった。彼女は…とても満足そうな笑顔を浮かべたまま、その傍らでただ静かに横たわっているだけ。
自らの手で愛する人を殺めてしまったという事実。神ですら覆しようの無いそれだけがフランドールの中に残り、留まったまま…離れなくなる。
「嫌…嫌ぁ……!!」
今度こそ一人ぼっちになってしまった吸血鬼の少女の慟哭が、暗く冷たい部屋に残響しつづけた…。
それと首級の意味と使い方を間違えています。他のも合わせて何だか文章に背伸びしてる印象。
話の内容とか展開は嫌いじゃない