※作品集79『紅い体験版』の続編です。前作読了後にこちらを読んでいただけると作者は喜びます。
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このパチュリー・ノーレッジには夢がある。
「ねえ魔理沙。人や妖怪が満ち足りた生を送るために必要なものは何だと思う?」
『キノコ』
恋人の時間。子供の笑顔。幸福の象徴であるが、昨今それは酷く得難く失いやすい。
「それを皆が平等に手に入れられる場所があったとしたら?」
『独占する』
私は人々の幸福を祈りたい。彼らに笑顔を。愛に時間を。誰もが幸せを享受できる楽園を作り上げたいのだ。
「貴方なら、そこにどんな名前をつけるかしら?」
『菌糸町』
名付けてパチュリーランド。床だけ鏡で出来たミラーハウスをはじめとする夢一杯のアトラクションと、げっ歯類をモチーフにした生々しいマスコットキャラが出迎える、金で買える快楽がギッシリ詰まった魅惑のテーマパークである。
「貴方に子供の笑顔の価値が分かるはずもなかったわね」
『こっちの台詞だぜ……』
通信機を挟んでため息をつきあう。夢を解さぬ女である。その湿った副都心にどんな幸せがあるというのだ。
「その趣味は1%も理解できないけれど、まあいいわ。それより日の光も遠くなってきたようね。そろそろ出迎えのある頃よ」
『ああ、なんといっても異変だからな』
我が現在位置は霧雨邸。家主の魔理沙は地の底にいる。
発端は神社の間欠泉だ。狩猟生活者特有の殺伐を常とする巫女の目尻が緩んだあの日、博麗神社には温泉成金へと続く道が確かに存在した。突然の間欠泉の出現に文句などあるはずもなく、霊夢はまっすぐその道を歩いた。里の大工に温泉宿の建築を依頼し、宿の繁盛と客の健康を祈って八雲家からマッサージチェアを強奪した。が、計画はすぐに陰りを見せた。間欠泉は湯だけでなく、地霊をも吐き出しはじめたのだ。これでは温泉宿どころの話ではない。哀れ霊夢は裕福な妖怪に的を絞った狩猟生活に舞い戻っていくのだが、悲哀といえばむしろ資材と職人の手配を済ませてしまった里の大工の親父であり、世間の同情がもっぱら彼に集まる当然を前に、霊夢のご機嫌は日に日に悪化していくばかりであった。
〝これは異変よ〟
都合が悪くなると即座に異変扱いするのは如何なものか。だがその経緯に若干の私怨を感じさせるものの、確かに博麗の直感に狂いはなく、地霊の湧き出す間欠泉は地下に端を発する異変であったのだ。
そうとなれば私がとる道は一つである。此度の異変、解決に向かうは日暮れには不貞寝を決め込む最近の霊夢ではなく、むしろ魔理沙の方だろうと踏んだ私は自らそのサポートをかってでた。無論目的は世界の為だ。行き来の難しい地下世界、手付かずの土地は必ずある。そこに夢を叶えるテーマパークを建てることは、幻想郷全ての幸福に繋がるだろう。地下不可侵の了解も問題ではない。メキシコ北端の金網を見よ。夢の国への入国のためなら、人は命すら賭すものである。地下であろうと客は来る。
そんな訳で夢のタッグが完成した。異変を解決すべく汗水たらして地下を目指す魔理沙と、彼女の自宅でニルギリを飲みつつ楽園の下見をする私。通信機を搭載したオプションを挟んで互いの夢を嘆きあう今この瞬間は、そうした紆余曲折の果てにある奇跡の一つなのである。ちなみにこの通信オプションは私の手作りだ。動画と音声だけでなく、魔力とそれを利用した現象行使の送受信が可能な優れものである。妖怪は地下に立ち入らない。幻想郷では割りとポピュラーなこのルールに則る名目で、肉体労働を魔理沙一人に押し付けたのだ。魔力の提供くらいは行ってしかるべきだろう。彼女の双肩には幻想郷と桃色のテーマパークの未来が圧し掛かっているのだから。
「こちらから見る限り、接敵の兆候はないわね。……どう、肉眼で何か見える?」
『いや、何の変哲もない洞穴だな。ちょっと前に進行方向を〝冥道〟と示す標識があったくらいだ。なあ、冥道って何だ?』
「パン屋よ」
『……ほんとか? 向こうからやってくるのは香ばしさとは無縁の死臭や金切り声なんだが』
「ベーカリーのウリは、死臭や金切り声に負けないくらい、ふっくらモチモチの店長よ」
『店長の質感はどうでもいいだろう。パンで勝負しろよ』
「私に言わないで頂戴。苦情は店に直接お願いするわ」
『まあ、そりゃそうだが……』
冥道とは即ち地獄である。間欠泉から地霊が湧き出すこの異変、原因は当然地獄であろう。
今回の件について、魔理沙にはただ異変が起きたとしか伝えていない。実行役に必要な初期情報はその程度で十分だろうという判断だ。解決に更なる情報が必要であれば、核心に近づくにつれ自ずと理解するであろう。……だが、それともう一つ、魔理沙に情報を制限している理由がある。地霊が湧いた数日後より、間欠泉からは更に紅い霧が噴き出しはじめたのだ。紅霧といえばウチのレミィの代名詞。愛犬と穏やかに紅茶を啜りあう最近のレミィが異変に加担しているとは考え難いが、短慮なる者が紅霧の噴出を知れば異変の黒幕をレミィと断ずるだろう。魔理沙がその例だとは言わないが、紅霧の存在を知る者が少ないに越したことはない。
「それにしても敵がいないわね」
『ああ。けど良く見てみろよパチュリー。あ、これ解像度は上がるか? その壁のとこ、弾幕の跡じゃないか?」
「……本当ね」
まばらな弾痕。この場所で過去に弾幕を張ったものがいる。喧嘩っ早い住民同士によるものか、或いは……。
『まさか霊夢に先を越された?』
「考えにくいわ。夢潰えたショックから立ち直るにはまだ早いもの」
それを惰弱と蔑むことはできない。温泉成金などという傍から見れば酷く曖昧なドリームとはいえ、夢見た者の心に張られた根は太い。無残に引き抜かれた荒廃を前に、忘れろなんて言えるはずがない。
『じゃあこの跡は……』
「待って。あそこに誰かいない?」
岩陰の向こう、昼なお暗い洞穴にあって一際闇の濃い風の澱みに、ちらりと人影が見えた気がした。
『ん……確かに誰かいるな。良く見つけたなパチュリー』
「流石に人間よりは夜目が利くわよ」
それもそうだ、と魔理沙は笑って暗がりを目指す。闇を微塵も恐れず何処にでも首を突っ込んでいくところが、この人間の稀有な美点だろう。無論それが自他の益に繋がるかどうかは全く別の話であるが。
『さあ見つけたぜ。異変の黒幕はお前か?』
魔理沙の駆けつけた闇には一人の少女が座っていた。いや、一人ではない。丸く隆起した岩肌に腰掛けた少女は怪しげな桶を手にしており、そこからさらに一人の少女が顔を覗かせていた。
「ステージ1も始まっていないのに、黒幕が登場するわけないでしょう」
少女とアルコール、そして様式美をこよなく愛する神主がそんな手抜きをする訳がない。
『いや、そうでもないよ』
「なんですって?」
桶を抱えた少女が否定する。馬鹿な。こんなところに異変の黒幕が?
『ホラ見ろパチュリー。地下探索型ダンジョンのラスボスが最下層にいるとは限らないんだぜ』
勝ち誇る魔理沙。冗談ではない。パチュリーランド予定地の下見は1ミリも進んでいないというのに……!
『いやいやそっちじゃない。あんたらの言う異変とやらの黒幕は私じゃないよ』
『何だと? じゃあ何がそうでもないんだ』
『私の否定はその前さ。〝ステージ1は始まっていない〟これが違う。ここは既に一面終盤。私は1ボスの黒谷ヤマメ、こっちは中ボスのキスメだ』
よろしくな、とヤマメは桶をくるりと回す。桶の縁にしがみついて上目遣いにこちらを見ていたキスメがそれに合わせて顔を引っ込めると、桶の中は空っぽだった。なるほど、小柄な妖怪が桶に入っていたわけではないらしい。おそらくは桶自体も彼女の一部。釣瓶落としの類だろうか。
「道中の敵もなく、中ボスはボスの膝の上。変わったステージ構成ね」
『耳が痛いね。見たところあんたは人間かな。どうやら本来のお客のようだ。出来ることなら弾幕で出迎えてやりたいところなんだけどね』
タイミングが悪い、とヤマメは再度キスメを回す。
『おい、確かに私は人間だが皮肉を言ったのは私じゃないぞ。さっきのは……』
『分かるよ。その丸いのが地上と繋がっているんだろ? 地上には支援者の妖怪がいる。……支援者は風邪でも? 呼吸の浅い話し方だ』
『妖怪も風邪なんて引くのか?』
『そりゃあ引くさ。どんな大妖怪だって、人に遅れをとることもあればウイルスに侵されることもある』
『なるほど。でも風邪じゃあないと思うぜ』
風邪ではない。埃っぽい図書館にあって、喘息の発作を起こさないための呼吸法である。……気休めではあるが。
「……それよりも貴方。ヤマメと言ったわね。随分と事情に詳しいじゃない」
『そりゃあ詳しくもなる。何せあんたたちは三組目だ』
「……既に二組も?」
通信機を前に思案する。誰だ。霊夢ではない。あの愛すべきハンターの傷は深い。では誰だ。紅い霧が脳裏を過ぎる。まさか本当にレミィが……? 仮にそうだとしてももう一組……?
『むう……先を越されたか。誰だ一体?』
魔理沙にも心当たりはないらしい。ということは妖夢や早苗でもないのだろうか。
『あんたたちの知り合いじゃないかな。近い匂いがするよ』
近い匂い……?
『最初に来たのは……腕が8本の妖怪か。あれは空気の乾いたいい夜だった。己が頬を引き伸ばし鼻と乳首を抓みながらタンバリンを打ち鳴らして、キレイな声で電波ソングを撒き散らす拳法の達人が会心の笑顔で駆け寄ってきたのさ』
「いるか。そんな知り合い」
流石に全力で否定する。一体何の達人だ。食うに困った芸人だってもう少し思慮深く体を張るだろう。そしてそんなクリーチャーに近い匂いがするだと……?
『またスゴいのとエンカウントしたな……あ、もしかして道中誰もいなかったのはそいつが大暴れして……?』
それならば無理もない。ヤマメやキスメの心の傷も浅くはなかろう。名誉の負傷である。しばしの休息を誰が責められようか。
『いや、狂乱が治まれば中々理性的な妖怪だった。気の毒に、心の病だろう。気休めだがクスリを出してやったよ』
『おお、いいことするなあ、お前』
世界にはまだまだ未知の妖怪がいる。地下の生態は驚きの連続だろうと内心期待していたのだが、まさか地上からの来訪者に度肝を抜かれるとは思わなかった。やはり旅は為になる。紅魔館に帰ったらレミィたちに話してやろう。
『大暴れは次の客さ。なんて妖怪なのかな。蝙蝠羽を生やした幼女でね。紅くてちっこくて良く跳ねる。地上の異変について幾つか話したら満足したのか、紅い槍をブチ撒けて地下深くに向かっていったよ』
『おい、それって……』
間違いなくレミィだろう。紅魔館が幻想郷にやってくる前に地下に移ったらしいヤマメは吸血鬼という種を知らないようだが、彼女が口にした傍若無人はレミィの仕業以外の何物でもない。
『お前んちのご主人様だよな』
『ほう』
間欠泉より噴き出す紅霧はやはりレミィによるものだったか。とするとレミィは異変の核まで乗り込んだ上でそれに加担しているのだろうか。いや、そうとも限らない。異変という物語自体を乗っ取ってしまったのかもしれないし、異変の黒幕にレミィが利用されている可能性もある。真相はこの目で確認するまで何も分からないだろう。
「他人の空似でしょう。イキのいいクリオネじゃないかしら」
『無茶言うな。そんなアグレッシブな流氷の天使がいるか』
「未知の肯定こそが魔術の第一歩よ、魔理沙。貴方はその身を魔法に捧げたのではなかったのかしら」
『何で明らかなクロから目を背けて、規格外の生命を想定せねばならんのだ』
「規格外ならタンバリンのリズムと共に現れたばかりでしょう。そうやって視野を狭めると魔法の幅も狭まるわよ」
『むぅ……』
適当にごまかしたが、レミィの地下来訪は確実だ。だが一体何の目的があって地下を目指しているのか。自分に害のない限り、異変を解決してやろうなんて精神構造はしていない筈だ。とすると暇潰しか、或いは輪をかけて生産性のない戯れだろうか。もしかしたら先行した八手の妖怪を追ってのことかもしれない。
「既に一面は終盤。未知の八手とクリオネに先を越された。得た情報はこれだけよ。……以降も彼らの戦跡を追うことになるかもしれないわね」
『あくまでクリオネで通す気か』
「しつこいわね。それじゃあ間を取ってクリオネ・スカーレットにしておいてあげるわ。略してクリオネ」
『……それでいいや』
うむ。
『んで、どうするんだ。ヤマメといったか。綽々としてるが弾幕(や)らないのか』
『そうしてやりたいが今はキスメがこの調子だ。やめておこう』
キスメは桶の縁から怖々とこちらを見ている。何かに怯えているのだろうか。
『なんだ。そんなに手酷くレミ……オネにやられたのか』
『いや、キスメは紅い方とは会ってない。その前の電波ソングがやってきた時からこの様子でね。どうもトラウマになってるみたいだ』
『そりゃあ仕方がないな。それ程の達人に出会ってしまえば誰だってそうなる。夜道で出会いたくない妖怪ナンバーワンだ』
『悪い奴じゃあなかったんだけどねえ』
『本物の変態ってのは人当たりがいいものさ』
幼い外見ではあるがキスメも立派な妖怪である。それをこうまで怯えさせるとは、タンバリンの達人にも注意が必要かもしれない。
『感染症の類なら何とかしてやれるが、心の傷が相手じゃどうしようもない。せめてこうして抱いてやるしかないのさ』
『それは邪魔をして悪かったな。先を急がせて貰うが、お大事にな』
箒に跨り魔理沙は先に進もうとする。が、
「ちょっと待って。……ヤマメ、あなた感染症なら治癒できるのかしら」
まだこちらの用が済んでいない。暗鬱としたステージ1がパチュリーランドの用地として向かないことは明らかだが、ヤマメとキスメは使えそうだ。各ステージの目的は二つ。用地の選定と従業員の青田刈りである。
『治すばかりじゃあないが、そういう能力だからね』
病を操る程度の能力。精神関係はお手上げらしいが、能力の範囲は感染症、ホルモン異常、投薬の副作用といったところだろうか。
「その能力を見込んで相談があるわ」
『ん?』
「今に地下には博愛の楽園が出来上がる。あなたにそこの医務室を任せたいのだけど、どうかしら」
『博愛? 抽象的だね』
「詳細は直接見て貰いたいわ。……キスメ、あなたにはヤマメの助手をお願いできるかしら」
『キスメにもやらせる気?』
「他者との接点は心の傷の薬になるわ。あなたと二人三脚なら効果も一入じゃないかしら」
『ふむ……』
最近のテーマパークは医療施設が欠けると営業許可が下りない。異変の黒幕までの道中、病に精通している者がいれば是が非でもスカウトしようと考えていたのだが、まさかイキナリ出会えるとは。
「今なら桶のヌメりに良く効くクリーナーを進呈するわよ」
『はは。前向きに考えておこう。ほら、急ぐんだろ? 今地下はお祭りだ。行ってきなって。その間にキスメと話して結論を出しておくよ』
「そう。それじゃ期待しているわ。……魔理沙」
行きましょう、と魔理沙に先を促す。勧誘は焦らず諦めず。爽やかな粘着気質が勝利の鍵である。
『んじゃ今度こそお大事にな』
言って、魔理沙は風のように飛び立った。流石に日頃速度を誇るだけのことはある。既にステージ1は小さく遠い。
『博愛の楽園だって?』
「愛は正義よ」
『ルビはエロスだろ?』
「何か不都合でも?」
医療班の獲得をもって一面クリア。レミィの目的と珍奇な先行者の存在が気になるが、このまま先を目指すしかあるまい。願わくば、彼らの蹂躙がパチュリーランド建国に支障のない範囲であることを。
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『さて、状況に変わりがないわけだが』
「……そのようね」
見渡す限りの暗い闇。変化といえば、潜るにつれ次第に緑がかる周囲の岩壁くらいのもので、広がる景色はヤマメのいたステージ1と大差がない。
「暗い緑はドレライトかしら。……幻想郷で過去に火山活動が活発だったという話は聞かないけれど、何処か遠方からマグマの侵食を受けたことがあるのかもしれないわね」
『岩の色なんてなんだっていいさ。問題はそこじゃないぜ』
代わり映えしないのは景色だけではない。既に相当な距離を飛んでいるのだが、ステージ1に引き続き一向に敵が現れないのだ。
『見かけたのは砕けた岩に妖精一体。その妖精も襲ってくるでもなく黙々と腹筋を鍛えるばかりで、本当にこの先のパン屋に異変の黒幕がいるかどうかも怪しいもんだ。……というか、もしかして地上ではもう異変は終わってるんじゃないか』
「異変が収まった様子はない。黒幕の健在は間違いないわ」
魔理沙の地下へのダイブに前後して、小悪魔には博麗神社近くの間欠泉に飛んでもらっている。間欠泉に異常があればすぐに私に連絡が入る段取りだ。紅霧の発生を伝えてくれたのも小悪魔である。
『でもヤマメの話じゃ既に二人も先行してるんだろう。なあ、もうそいつらに任せておけばいいんじゃないか』
「いいわけないでしょ。その手で解決せずして何が自機よ。大体先を行ったタンバリンの達人とクリオネが異変の深部を目指している保障なんて何処にもないでしょう」
何よりパチュリーランドの下見がまだでしょう。
『達人の方は知らんが、クリオネは異変のことを知っていたらしいじゃないか』
「異変の知識だけなら豆腐屋だって持ってるわ。異変の存在を知ると同時に解決に向かうばかりが人じゃない。縦しんば目的が一緒だとして、無敗を貫きラスボスを撃破できるとも限らないでしょう」
そして辿りついた先で、輪をかけて厄介な傍迷惑を撒き散らさないとも限らないでしょう。
『いや、あいつなら最後までいけるだろうさ』
『!?』
突如、落ち着いた声が通信に割り込んだ。慌てて辺りを見回す魔理沙。合わせて私も目を凝らす。どうやらぼんやりとした緑はすぐ先で途切れ、続いて大きな橋が架かっているようだ。
『保障なら私達がするさ。なあパル?』
『どうかしらね』
声の主は橋の中ほどからこちらを見ていた。欄干に背中を預けた長身の女と、その横にちょこんと腰掛けた少女の二人組。共に金髪。一人はノッポで更に鬼。欄干に腰掛けた少女の方は一見種族不明であるが、尖った耳を見る限りペルシャ人だろうか。
「……なるほど。あなた達がクリオネに倒された2ボスと中ボスというわけ」
トップスピードで二人のもとまで飛んできた魔理沙の裏から問いかけた。
『クリオネ? あのちんまいののことかい? んー、一割正解ってところかな』
『落第点もいいとこだな』
『まずそのクリオネとやらと私達は弾幕(や)り合ってないし、そもそも私達は2ボスと3ボスさ。私が勇儀。こっちがパルスィだ』
『また二人同時か。手抜きじゃないのか。3コマチだな』
平日朝十時にレンタルビデオを借りに来る小町は、最早幻想郷において怠惰の単位となりつつある。現在のレートは1コマチ=2%の減俸である。
『小野塚か。あいつの上司も我慢強いね』
小町の乱行は地下にも伝わっているらしい。
『知ってるか、人間? あいつはスゴいぞ。入庁時の履歴書に書き殴った〝好きな言葉〟が〝お先に失礼します〟だからな』
『重役出勤してきた挙句、誰よりも早く家路につくのかよ……』
正直すぎる。政権交代を機に仕分けされてしまわないか、心配になってくる女である。
『しかし詳しいな。知り合いなのか』
『昔ちょっとね。ま、ともかく乱暴者は大好きだ』
『何の話だ』
『弱点は炒った豆だよ』
『唐突にオフィシャルトークに戻すな……』
パルスィの髪を指先で弄りながら飄々と話す勇儀の額には逞しい一角が。誰がどう見ても鬼であるが、レミィとやり合っていないということは、キスメと同様達人の毒気に当てられたのだろうか。ジャグラーだかアスリートだかよく分からんが、やはり達人も要注意ということか。
「……で、手合わせもしていないのに随分と買ってるのね」
『そりゃあね。あのくらいになればパルを見れば分かる』
「へえ。〝相手の強さが分かる程度の能力〟かしら」
香霖堂の店主に近い能力である。パチュリーランドの人事課に是非欲しい逸材だ。
『いんや。パルの能力は嫉妬さ。度が過ぎると涙目になるから分かりやすい』
からからと笑って人差し指でパルスィの耳を撫でる勇儀。どうやら勇儀の解説に気分を害した様子のパルスィは、つん、とそっぽを向いて勇儀の指を振りほどくと踵で勇儀の爪先を踏み躙るが、勇儀は気にした風もなくパルスィの肩を引き寄せた。
『残念。あんたはパルメーターに引っかからないみたいだね』
『乙女の涙を気圧計みたいに……』
なるほど。確かにレミィと魔理沙との実力には少なからず隔たりがある。魔理沙を見るパルスィの瞳に潤む様子はなかった。
『……ちょっと、あんまり見ないでくれる』
オプション越しの凝視に気付いたか、パルスィは半歩勇儀に隠れた。
『いいや見るぜ。売られた喧嘩は相手の目を見て買うもんだからな』
そして、無論魔理沙はいい気はすまい。ワケの分からん基準ではあるが、面と向かって閾値以下を宣言されたのだ。
『んー、別にそういうわけじゃない。いや、ちんまいのの前に珍しい生き物が来てね。なんと耳から幼女の腕を出し入れする芸人だ。そいつと中々面白い勝負が出来た。今はその余韻が心地良いんだ。誰彼遣り合おうって気分じゃあない』
勿論売られれば買うがね、と勇儀は実に楽しそうである。
『いいぜ。買ってもらおうじゃないか』
「待ちなさい魔理沙」
前のめりの魔理沙を止める。相手は鬼である。下手に刺激して真剣勝負でも挑まれたら面倒なことこの上ない。
『何だよパチュリー。少し早いが3ボス戦だ。手間が省けるだろ』
鬼の特性は吸血鬼に近い。明確な弱点が存在する代わりに魔力、身体能力が全体的にブーストされた種族である。正面からぶつかれば相当に骨が折れるし、下手に弱点を突いて倒しきれなければ、それこそ面倒なことになる。リスクは回避すべきだ。パチュリーランド下見の継続こそが現在の最優先事項なのだから。
「やめておきなさい。鬼のタフネスは萃香で知ってるでしょ。萃夢想と違ってこの後道は長いんだから、避けられる消耗は避けておくのよ」
『平気だ。任せとけ。恋符の一発で片付けてやるぜ』
魔理沙は既にカードのセットに入っている。その目は二人に喰い付いたままで、北風の説得は逆効果のようだった。
「……そう。確かに一撃でしょうね。底をついた体力に追い討ちをかけるのだから」
『うん?』
闇に馴染んだ目で見れば勇儀は傷だらけである。打撲傷に擦過傷、火傷に切創と満身創痍だ。ぼろぼろの体で、しかし顔だけは酷く満足げな勇儀は、不器用に貼られた絆創膏を撫でてはまた笑う。
『なに、掠り傷さ。気になるなら剥がしたっていい』
『ばか。だめよ』
首筋の絆創膏に指をかけた勇儀をパルスィがハタいた。良く見れば絆創膏は急所に集中している。それは一見すると奇妙な怪我である。
「変わった傷跡ね。火傷や切り傷は急所に集中しているのに、打撲や擦り傷は関節をはじめ四肢に集まっている。……本当に面白い勝負だったのかしら」
それは複数による狩の痕だ。素手、或いは鈍器などを持つ者が四肢を狙って動きを封じ、本命の火器や刃物による攻撃をサポートしたのだろう。得物と役割の非効率に若干の不思議はあるが、その精密な傷跡を見れば勇儀の相手が相当の連携をもって襲いかかったことが窺い知れる。傷のないパルスィを見れば多対一は明らかだ。そんなものを楽しいと笑うのならば、目の前の鬼は正に鬼神かマゾヒストか。
『良く見てるね。地上の妖怪は』
これまでの会話から分かっていたことではあるが、やはり勇儀たちは今回の支援形態を良く知っている。とすればやはり勇儀の相手は地上からのバックアップを受けたプレイヤーキャラクターの位置づけにある者だった可能性が高いが、一体誰が斯様な傷を付けられるのか。通信機はもともと着色した魔力を送るものと限定して設計している。畢竟その活用は現場の人間に委ねられ、プレイヤーサイドは自機+支援者という二人組みでありながらも、それは単に火力を上乗せしただけの単体突入に他ならないのである。攻撃の色にバリエーションは加わるが、攻撃主体はあくまで一人。攻撃の方法によって狙う箇所を絞る意味は極めて薄く、むしろ単調な攻めは相手に見切られやすくなるはずなのだ。それは仮に腕が複数あっても同じこと。たった一つの脳と胴に接続されている以上、手数の有利を制限するだけである。
「そこの鋼の粘菌術師が猪突過ぎるのよ」
『おい、キノコの侮辱は許さんぞ』
「安心して。侮辱されたのはキノコじゃないわ」
『ならいいが』
複数者による攻撃の分散でなければデメリットにしかなり得ぬ攻撃の跡。ハンデのつもりか。それとも何か意味のある行為なのか。
『面白いさ。ああ、本当に。二人組みなんだろう? どっちも本来の動きが出来ていないようだったが、それを補って余りある連携だった。大陸の武術かな、様式化された円と線で回避と攻撃が一体になってる。あれは支援者のクセに合わせて動いてた感じだったね。支援者も相方を傷つけないギリギリの火力に調整していたようだし、いいコンビだったよ』
大陸の武術……勇儀の表現からして拳法の類だろうか。誰だ。大陸からといえば藍だろうか。だが当時の彼女はどちらかというと、魔力と権謀術数でマクロな崩壊を導く妖怪だったはずだ。現在もそうである保証はないが、正面切ってバチバチ殴りあうイメージは薄い。
『いつになく夢中でね。頭の中真っ白さ。見境なく大暴れしそうになったところで杯の酒をぶっかけられたよ』
こんぐらっちゅれーしょん、と勇儀は肩を竦める。
「呆れたわね。そんな時でも酒を手放さないの」
『酒は命の水さ』
「豆腐屋の先代も同じこと言ってたわね」
『粋の分かる人間だね。長生きするよ、保障する。鬼は嘘をつかないんだ』
「去年肝硬変で急逝したわ」
『そ、それはウイルス性だろう。うん、ヤマメの管轄だ。鬼の保障は対象外だったはずだ』
本当ですよ? と何故か敬語でパルスィに言い訳する勇儀。パルスィはやれやれと息をつくと、漸く勇儀の爪先を解放した。
『……で、なんだ。傷は深いと。そういうわけか』
気勢を殺がれた魔理沙は行き場を失ったスペルカードをぶらぶら弄んでいる。
『ええ』『いや』「ええ」
微ハモ。
『2/3か。……やれやれ、仕方ないな。怪我人を倒すのは趣味じゃないからな』
実際戦える体ではないだろう。あちこちに付いた傷は決して浅くなく、鬼の体にそれだけの傷を残す攻撃の苛烈さを物語る。今の勇儀は遣り合えたとて一撃二撃。それも全力は望めまい。もしこの傷が勇儀でなく魔理沙にあったならば、勇儀は間違いなく戦いを求めてはこない筈。おそらくは先行したレミィもそんな理由で去っていったのだろう。妖怪の生は長い。次の機会を気長に待つだけの時間はあるのだ。
「弾幕ごっこはまた今度。今の火急は人材発掘よ」
『またそれか。さっきの二人で十分だろう』
「……! ッチュリーランッ! ッチュリーランッ!」
魔理沙の机に鎮座ましました、でっかいキノコの模型をガタガタ揺らして熱意をアピールする。一面に続いて集客力のない土地ばかりだったのだ。せめて人材確保だけでも成功させねばステージの意味がないではないか。
『分かった分かった。早くしろよ』
「むふぅ」
手間をかけさせよる。
「ねえ勇儀。怪我が治ったら思う存分戦いたくはないかしら」
『おお、いいね。別に怪我は大した事ない。相手次第だが、今すぐだっていいさ』
「少しは爪先の心配をしなさい……それからパルスィ、あなたもこの能天気な鬼ばっかり欲望を満たして嫉ましいでしょう? 彼女とペアルックで同じ満足が得られる仕事があるんだけど、どうかしら」
ぴくん、とパルスィの耳が反応したのを見逃さない。
『別に服はどうでもいいけど……考えておくわ』
グッと心で小さくガッツポーズをとる。言うまでもなく彼女ら二人の業務はバウンサー。オシャレなペアルックは揃いのダークスーツである。歌舞伎町が裸足で逃げ出す愉悦を暴利で提供するパチュリーランド、招かれざる客もあるだろう。そんな時こそ彼女らの出番だ。相手の力量に比例して楽しく仕事に励む勇儀に、そんな彼女やその相手に遺憾なく嫉妬パウアを発揮するパルスィ。正と負の用心棒達はいかなる時もレジャーランドの平穏を守る、頼もしい存在となるに違いない。
「時期が来たら連絡する。楽しみにしていて頂戴」
彼女らは快楽の番人。プレジャーランドの最終兵器である。
『やれやれ、終わったか?』
「ばっちり」
『困ったオーナーだぜ……まあいい。それじゃ次を目指すとするか』
「ええ、そうね」
収穫はあった。もうこの橋上に用はない。
『それじゃな勇儀にパルスィ。私達は先に進むが……ああ、一応聞いておくか。なあ、地上で起きてる異変について何か知っているか? 間欠泉から地霊が湧いてるらしいんだが』
紅霧についてはまだ伏せてある。
『はは。聞くことは皆一緒だね。それじゃあ答えも揃えよう。〝その辺の管理は地霊殿の奴らだね〟』
『聞いたかパチュリー。パン屋の名前が判明したぞ』
『だから商いはしてないんだって』
『〝ベーカリー地霊殿〟死臭とイースト菌が混在する、ふっくらモチモチの親父の園か。……ワケが分からんな。そんな魔窟で生計を立てようとする肝の太さには頭が下がるが』
そういやそんなことも言ったか。前言の補強にもう少し煽っておこう。
「客のニーズなんぞ知ったことかと言わんばかりのネーミングが潔いわね」
『まったくだ。パン釜に遺骨が混じっていても、ちっとも不思議じゃない』
ぶるりと魔理沙が身を震わせる。きっと頭の中では、弾力感のあるオッサンが細長いイースト菌を手に、焼き場で大はしゃぎしているのだろう。
『どうして地上の奴らは、この話題になると人の話を聞かないのかね』
『表面はカリッと、中はもっちりの中年男性だぞ。人の話なんて聞いてる場合か』
魔理沙はもう少し人を選んで話を聞くべきである。
「それじゃ行きましょうか。その地霊殿とやらに」
『ああ……なんだかドキドキしてきたぜ』
「今からそれじゃ、もたないわよ」
『あ、ああ、そうだな。……流石だなパチュリー。冷静だ』
「当然よ。魔女はパーティの誰よりもクールでいるものよ。――さ、急ぐわよ。二組も先行しているんだから」
さあさあ、と言葉で魔理沙の尻を叩く。と、
『二組じゃあない。先に行ったのは紅くてちんまいのだけさ』
勇儀から新情報が。
「あら、貴方の相手はどうしたのよ。こんぐらっちゅれーしょん、じゃなかったの」
『試合に勝って勝負に~ってやつかな。向こうも大した怪我はないがね。服も破れてたし、後から来た紅いのに促されて帰っていったよ』
「……そう」
どういうことだ。勇儀の相手はレミィに促されて大人しく帰ったという。知った仲なのだろうか。
「貴重な情報ね。助かるわ」
『とはいえ急ぐことに変わりはないだろ』
ま、そうだ。重要なのは先行者の素性ではない。明るく楽しい歓楽街の下見である。
『タンバリンの達人は三面で脱落。ふふん、体験版レベルだぜ』
「そうね。けどそもそも目的が違うのかもしれないわ」
体験版レベルで済む目的……。或いは体験が目的? ……先に進もう。今考えても詮無いことだ。
「行くわ。それじゃあ二人とも、また連絡するわ」
『おし、飛ばすぜ。それじゃな。タンバリンの達人にも、また会ったらよろしくな』
勇儀にパルスィ、そして大人から子供まで楽しめるアミューズメントマシンのような名前がすっかり定着した謎の達人に別れを告げて、風のように橋を抜けていく。
「アレとか……アレとか?」
高速に流れる景色の裏で、ネタ作りに定評のある幾人かの心当たりが、脳裏に浮かんでは消えていった。
∇
見渡す限りのステンドグラス。歩く床さえ極彩色の廊下は荘厳よりも怪しさが際立つ。日の差さぬ地下において如何にして採光しているのか、館はほの赤く揺らめいている。
『おい。何処にパン屋があるんだよ』
旧都と呼ばれる町並みを抜けて、辿り着いた地霊殿。ノックと称してドアをブチ抜いた魔理沙を迎える住人の姿は未だない。勿論ベーカリーを名乗る看板もない。
「兼業によるリスク分散は農家の特権じゃないわ。昼間はパン屋。夜は火葬場。パン釜の効率的な活用は、社会的信用と引換えに店主に大いなる自由を与えたというわ」
失職ともいう。
『信用に加えて店まで失ってるのかよ。分散どころかかき集めてるじゃないか、リスク』
「実利主義の悲しい結末よ。きっと奥で不貞寝しているから慰めに行きましょう」
『ああ。悪いのは店長じゃない。融通のきかない保健所だ』
もし本当に不貞寝しているとすれば、それは保健所ではなくレミィの仕業だろう。おそらくは妖精や護衛で満載だった地霊殿。魔理沙の歩く廊下に彼らの気配は微塵も感じられず、目に付くのは弾幕ごっこの残滓と思しき抉れた内装と破片ばかりだ。二面、三面と肩透かしを喰ったレミィのこと、さぞかし盛大に暴れたのだろう。吸血鬼のトップスピードに耐えられなかったステンドグラスが、黒い穴となってところどころに口を開けていた。
「魔理沙。そこ」
幾度目かの角を曲り、辿り着いた大広間。その手前のドアから微かに魔力が染み出している。
『広間はダミーか。魔法使いを煙に巻こうなんざ十年早いぜ』
躊躇うことなく開ける。入室に際し家人に許可を求める概念が著しく欠如した魔理沙の脳は、STGのみならずRPGの主人公にも対応したデュアルコアプロセッサ搭載型の海賊品だ。『蹴破らないだけ紳士的』とは彼女を良く知るガラクタ屋の嘆息である。
『手を上げな。動くと撃つぜ。元気出せ』
不法侵入と異変の解決、そして失業者の慰撫を同時に行う魔理沙は、椅子にかけて読書をしていた少女の肩を優しく叩きながら、彼女の顔面2センチの距離で八卦炉を構えた。取調室にて容疑者をライトで執拗に照らす刑事を髣髴とさせる魔理沙の表情は極めて明るい。
『おお? 何だ女の子じゃないか。やるなあ、若い身空で大胆な商売に打って出たもんだ。一度の失敗なんて気にするなよ。斬新な切り口に社会がついてこれないこともある。結果が全てじゃない、大事なのは温泉だ。お前が異変の黒幕か? 覚悟しろよ青瓢箪』
生来ものぐさな魔理沙はしかし、二兎を追えるほど器用でもない。魔理沙としては彼女を慰めつつ本来の目的を果たそうとしているのだろうが、その行為はどう見ても緩急をつけた恫喝である。
「あなた少し霊夢に似てきたわね」
異変により温泉が湧く少し前、霊夢のマイブームは婚喝とやらであった。婚喝とはもともと幻想郷の外の風習で、独身者が己に比して倍の所得を最低条件とした生涯の奴隷を狩り求める行為を指すという。医者や会社役員といった裕福であり、かつ金を使う時間のない異性が好んで狩られる傾向にあるとか。
〝妖怪退治と婚喝はハントという意味で同義である〟と、巫女は己が神事に婚喝を組み込んだ。霊夢はXX染色体で構成される正真正銘の少女である。通常であれば上記の条件を備えた男性を求めるところだろうが、ここは幻想郷である。この地の雄といえば、アンティークの薀蓄を半裸で語りだす雑貨屋の店主や、その長い生涯の七割をネコミミをつけて過ごしたという凄腕の半人剣士など、玄人向けのユニットばかり。自然、霊夢の狩りの対象は人間や妖怪の少女に絞られた。セオリーどおり、薬師や貴族階級の少女が狙い撃ちされた訳だが、その手口は今の魔理沙と同様緩急をつけた巧妙なものだったという。容姿端麗に加え天賦の才に恵まれた霊夢である。その婚喝はかなりいいところまでいったこともあるとか。
満ち足りたのか飽きたのか、いつの間にか霊夢主催の婚喝パーティ(単身、相手の自宅に乗り込んでいくだけ)は開催されなくなっていったが、その時の彼女の話術は後に金融機関の取立てマニュアルに例示される程鮮やかなものだったという。
『心外だぜ』
八卦炉を一際少女に近づける魔理沙。だが、突然の闖入者による狼藉に対し、少女に驚く様子はない。
『……霧雨魔理沙にパチュリー・ノーレッジ、ですか。お待ちしていましたよ』
「……どうして名前を?」
私は魔理沙の姓まで口にしてはいない。私の名前など『パ』の字も出ていない。まさか『パン屋』の『パ』から持ってきたわけでもあるまい。……咲夜にパチュリーランドの構想を語ったことがある。彼女づてに話を聞いたレミィが教えた可能性もあるが、態々そんなことを言い出すだろうか。
『申し遅れました。私は古明地さとり。あなた方が今土足で踏み込んでいる地霊殿の所有者です。そしてこちらが……』
『おお!?』
『……古明地こいし。妹になります』
さとりと名乗った少女のすぐ傍、ベッドの端にちょこんと座った少女がいた。つい先程までそこには誰もいなかったはずだ。魔理沙も私も、部屋に入った瞬間にエリアのサーチは行っている。視認だけでなく魔力による照査にも、引っかかったのは一人だけだったのだ。
「……さとり? さとりといえば……」
だが違和感はむしろ最初から姿を晒していたさとりの方が強い。さとりといえば和製テレパスとして文献に名高い妖怪だ。そのリーディングに特化した精神感応は、言語的思考のみならず想起される映像や音声、香りや触覚まで正確に読み取るという。彼女の前で衣服を剥ぎ取られた者のとる反応は二種類。即ち忌避か排斥か。多数の後者による有形無形の外圧の末、さとりの妖怪は最も嫌悪される対象として地下に追いやられたということだ。そんなエピソードから連想されるさとりの妖怪のイメージと、目の前で静かに本を嗜むさとりという少女の姿は酷くかけ離れ重ならない。無論、地上で手に入る情報は地上の者に都合よく加工されている。伝承されるさとりの醜悪を鵜呑みにしていた訳ではないが、心などという汚水槽を直視して生きてきた妖怪が、その精神を歪めずにいられるとは思えない。妖怪の外見はその心性に大きく依る。……外因による美貌の欠損はやむを得ない種族である、と過去の私は推測していた。
『ご想像のとおりですよ、パチュリーさん。ですが、ご安心を。今あなたの心を読んでいる訳ではありません。遥か遠くから通信機を介して話す相手の心までは、さとりの力も及びませんよ』
言って、さとりは口元を薄く歪めた。なるほど、つまりはこう言いたい訳だ。
――安全な高みにいようと、地下にいる人間の心に浮かぶあなたもまた、まる裸なのです。
先の違和感は薄れた。それなりの陰湿を備えた少女のようだ。が、さして嫌味な印象はない。うっすらと笑えど、幸薄げに細められた目に挑発の色は見当たらず、心を弄ぶ性悪な妖怪というよりは、相手の反応を楽しむ趣味の悪い少女といった風だ。……まあ、それも世間に好まれる属性とは言えまいが。
『ええ、そのとおりですよ霧雨魔理沙さん』
『何も言ってないぜ』
『違います。脳内の電流は関係ありません』
『唐突な単語だな』
『ええ、よく言われますよ』
『そうだろう。脈絡がない』
『違いますよ。気味が悪いと』
さとりは心の声と現実の発声と、相手の嫌がる方を選択して返事をしている。うむ。趣味が悪い。
『……面倒だな』
『だから吹っ飛ばそう、ですか。なるほど、レミリア・スカーレットは貴方を正確に評価していますね』
構えた八卦炉がぴくりとブレた。
『おい、フルネームが飛び出したぞ。何が流氷の天使だ。やっぱり暴れてたのは暇を持て余した吸血鬼じゃないか』
「そのようね」
『悪びれもしない』
「今日は喘息の調子がいいから……」
『分かった分かった。私の家でロイヤルフレアは止めろ。キノコは熱に弱いんだ』
はじめからそう言えばいいのである。
『やれやれ……それで、こっちのお嬢さんがさとりだって? 心を読むと?』
『ええ、単純な暗唱ではパラレルに思考が可能です。九九はあまり意味がありませんよ』
『見た目よりおしゃべりな妖怪だな』
『心と口と、両方の声に反応しなくてはいけませんからね。あなた方の倍でちょうどいいのです』
『……気分のいいもんじゃないな』
『そう、思うままを口にする。それが一番楽でしょう』
再び口の端を上げて、さとりは手にした本を閉じた。
『それで、弾幕ごっこですか? ああ、返事は結構ですよ。貴方の心と、レミリア・スカーレットが既に答えています。バラージジャンキーの面目躍如ですね』
「気をつけなさい、さとり。弾幕中毒者且つスペル泥棒よ」
魔理沙の目指す魔法使いとは青魔法の導師に違いない。
『敵の気遣いかよ。役に立つ支援者だな』
『……お気遣いは要りませんよ。私の弾幕は鏡のスペル。貴方の心に傷を付けた爪が再現されるだけですから』
『よくもまあ、いやらしいことばかりするもんだぜ。そっちの妹さんも同じクチかい? ……って、あれ、何処いった?』
『ここにいますよ』
魔理沙が目を向けた先、少し前まで確かにこいしが腰掛けていたベッドはもぬけの殻だった。さとりの声に目を遣ると、椅子に掛けたさとりの後ろで、彼女の首に手を廻したこいしが微笑んでいる。ゆるりと廻された妹の手を撫でるさとり。
『……こいしの能力は無意識の操作です。私のそれとは違いますが、対戦相手に好まれる類の弾幕ではないでしょうね』
『おねえちゃん酷い』
笑って口を尖らせるこいし。なるほど。自他の無意識を操るならば、誰にも悟られずに移動も可能だろう。そして……。
「……ここもパスよ魔理沙。異変の黒幕を聞き出したらさっさと行くわよ」
精神分析によれば、無意識とは精神の九割以上を占める深淵の総称だ。心を林檎に例えれば、意識とはほんの薄皮一枚にも満たない表層の一部分に過ぎない。残るほぼ全域にあたる解析不能のブラックボックスを人は無意識とラベルしたのだ。アニマやアニムス、シャドウといった元型や、人生の理想形の青写真たる自己などを内包した無意識とは、昼なお暗い深海じみた人の心の闇である。無論悪い意味ではない。そも、闇に善悪などない。極彩色の精神活動の源泉を覆う真っ黒いベールこそが無意識だ。ベールの内側を解明し尽くした時、人は彼らが進化と呼ぶ種族単位の覚醒を見るのだろう。
その心の、いや人間の大部分を占める無意識を自在に操る能力となれば、心を覗く姉以上に性質が悪い。存在に紗をかけて魔力のサーチから逃れるなんて可愛いものだ。額面どおりの能力者ならば、シャドウの反転、ペルソナの剥奪、グレートマザーやオールドワイズマンの偽装、破壊など、およそ思いつく限りの思考と人格の蹂躙が可能なはず。弾幕ごっこであれば精神を直接蝕まれることはなかろうが、己がシャドウを投影された弾幕など張られたりしたら、トラウマでは済まないだろう。
……他人の薄皮を読み取る姉に、無防備な柔らかい果肉を素手で掴む妹。能力のいやらしさで言えば最悪の姉妹だ。無論、能力なんてものは他人から見ればどれもいやらしい反則技なのだろうが、魔理沙のようなストレートな勝負を好む少女にとっては相性最悪と言って差し支えないだろう。
『まてまて、またか? 二人を見ろよ。怪我の一つもない。勝負に支障のある状態じゃなし、あちらさんだって素通りはさせないだろ』
「……確かに傷一つないわね」
レミィが通過したならその暴風に巻き込まれたはずなのだが。まさか無傷でレミィに勝利した? いや、それは難しいだろう。レミィの能力は運命の掌握。魔理沙と違い、古明地姉妹との相性は抜群に良いはずだ。さとりが心を読むならレミィは未来を読む。心を覗かれ行動を読まれても、その上でとったさとりの動きをレミィは既に知っている。そして互いの行動を読みあった上でならば、身体能力の差が大きく響いてくるだろう。……そもそもあの自他の運命を面白おかしく自分好みに改変できるレミィの能力だ。誰が何をしようと、その運命の糸はレミィに都合の良い結果に結びついてしまうのだ。
――縁日の紐くじを思い浮かべて欲しい。ここぞとばかり孫を甘やかすじいさんの年金から捻出された硬貨と引き換えに、一本の紐くじを手に取る少年。その目は紐の先に結ばれた最新式のゲーム機に釘付けである。馬鹿でかい籠の中、散らばるゲーム機やぬいぐるみ、サッカーボールなどに括り付けられた紐の群れは、ある一点で集約され束となって籠の外に吐き出されている。数十の紐が纏まる一点は太く絡み合い、さらにそれを覆う布などがあって、少年の手元にある紐が籠の中の何処から伸びたものなのかは杳として知れない。
夢にまで見た最新のゲーム機。ショーウィンドウの中で輝くピアノブラックは、手の届かぬ望みの象徴として少年の瞳に眩しく映ったものだ。それが、ある。目の前に、そしてひょっとしたらその手の中に。
〝手に入るかもしれない。いや、手に入れてみせる。ゲーム機の値段は良く知っている。ガラス越しのゼロの数に、両親は目を剥いたものだ。この夜を逃せばもう二度と入手のチャンスは訪れないだろう。そして祖父の懐具合も知っている。この手の紐の代価であった大粒の硬貨は、自分を喜ばせようと、決して豊かとはいえない彼の年金暮らしの中から捻出されたものだ。……外せない。いや、外すわけがない。この世に神がいるのなら自分と祖父の願いを聞き届けぬ筈がない。今夜は年に一度の神社の祭り。この時、この場所でこれ程の密度を以って編まれた願いを聞き逃すような神が、今日まで信仰の対象であり続けたわけがないのだから〟
早鐘のように響く心臓の音を遠くに聞きながら、祈るように紐を引く少年。瞬きを忘れたその瞳に飛び込む光景は、自らが引いた紐に吊り上げられ、ゲーム機の陰から高らかに名乗りを上げた玉ネギの赤い網袋が雄雄しく浮上してくる惨劇であった。
――ここにいるぞぉ!
誇らしげに少年の手に舞い降りたユリ科ネギ属の火の玉ボーイは、そう言わんばかりのずっしりとした重みを備え、孫の涙にうろたえる祖父の錯乱気味の打擲にも、その存在を微塵も揺るがせることはない。そして、ああ――その夢の潰える様をにんまりと眺める屋台のオヤジ! そう、はじめからゲーム機に繋がる紐などないのだ。ゲーム機をはじめとする高額な景品から伸びた紐は、集約点、即ち布で覆われ子供たちの目につかないところで途切れているのだ。子供たちの手に届く紐の対にあるは、干物や駄菓子といった嗜虐的な品ばかり。全てはオヤジの掌の上だったのだ。
既にお分かりだろう。この屋台のオヤジが即ちレミィの能力なのである。しかもこのオヤジは少年が紐を引いた瞬間に、ゲーム機と根菜を摩り替えることすら出来る匠の者だ。つまり相手がどんな選択をしようと、運命の糸をレミィが握っている以上、その結果はレミィの思いのままなのだ。いや、意識すらしているかどうか。彼女の能力は、彼女がそう願うより前に、彼女好みの未来を用意している節がある。
心のピーピングも無意識の改変も、全てはレミィの喜ぶ結果に終わるだろう。その未来がレミィ好みに向かうならば彼女の敗北という結果もあろうが、負けず嫌いの吸血鬼のこと、己が敗北に繋がる紐を引かせるなどそうはあるまい。……レミィを打ち倒すなら間接的な攻撃は無意味だ。効果を期待できるは純粋火力のみ。運命の糸を引き千切る強力無比な一撃だけが、彼女に致命傷を与え得るだろう。目の前の姉妹はどちらかというと搦め手で相手を追い詰めるタイプだ。無論致命傷など求めない弾幕ごっこであれば、そこまでの火力は必要ないが、レミィに対する相性の悪さは覆らない。正直、無傷で追い返したとは考えづらいのだが……。
『素通りですか。構いませんよ?』
『んー?』
『間欠泉による異変ならば、うちのペットの仕業でしょう。ここ地霊殿より更に深く、更に熱い地の底まで潜る覚悟があるのなら、道を譲るも吝かではありません』
『聞きわけがいいな。どういう風の吹き回しだ?』
『私が望んで異変を起こさせている訳ではありませんからね。不法侵入者は撃退しますが、目的が更に地下深くというなら止めはしません』
なるほど。黒幕の飼い主が裏で糸を引いているとも限らない。こんな地下の奥の奥に居を構えている理由の一つが俗世を倦んでのことならば、ペットによる異変など迷惑以外の何ものでもなかろう。
『そうやってレミリアも通したのか?』
そう、無血開城ならば無傷にも合点がいく。
『いえ、彼女とは弾幕(や)り合いましたよ。少しだけですがね』
『その割には綺麗な顔だ』
『違います。今この館にいるのは私だけですよ』
いつの間にか再び位置を変えていたこいしの頬を撫でるさとり。椅子にかけたさとりの足元で、彼女の太腿に頭を預けるこいしは猫のように目を細めた。
『楽しかったね、おねえちゃん?』
『……そうね。けど、あれきりよ』
『珍しいよね。おねえちゃんより私が動物に好かれるなんて』
『あの子は蝙蝠じゃなくて悪魔よ。それに……』
さとりは妹と話すときは心の声に応えていない。親愛の表現なのか、それともこいしの無意識がリーディングをシャットアウトしているのか。そういえばこいしの胸の瞳は閉じたままだ。あれが外部からの接触を拒否しているのだろうか。
『それに?』
『……こいしのことが好きとも限らない。結局ペットにはならなかったんだし、あんまり近づいちゃだめよ』
『嫉妬?』
『ばかね』
……ああ、ぼんやりと理解した。おそらくレミィとさとりは戦闘になったのだろう。屋敷で大暴れするレミィをさとりが止めぬ訳もない。すぐ隣のホールあたりで、弾幕ごっこは始まったはずだ。前述のとおり、さとりはレミィと相性が悪い。見かねたこいしが加勢に現れ……レミィの心に浮かんだのはフランドールの顔だろう。その顔が笑っていたか、それとも泣いていたのか、さとりに尋ねる気は起きないが、兎も角レミィの心は〝妹〟でいっぱいになった筈だ。〝地下〟深く、〝巨大な屋敷〟に住まうは〝疎まれた姉妹〟。共感を覚えるほど殊勝な性格でもないが、蹴散らす気が薄れることもあるだろう。興醒めというやつだ。その感情の褪せる様をリアルタイムで眺めたさとりも同様の思いを抱いたことだろう。結果、弾幕ごっこはそこでお開き。レミィはその足で更に地下深くへ、姉妹は破壊を免れた部屋でのんびりというわけだ。壊れた屋敷の修繕に無頓着なあたり、紅い姉妹に似ているかもしれない。おそらくここ地霊殿にも咲夜のように骨を折る者がいるのだろう。
「何を言われたのか知らないけど、あまり真に受けないことよ。レミィは気まぐれだから」
『……けど、と続きそうな声ですね』
「……」
『ロイヤルフレア、殺人ドール、崩山彩極砲』
「え?」
『いえ、霧雨魔理沙さんにお答えしたんですけどね。私は相手の心に傷を付けた弾幕を使う。レミリア・スカーレットの場合は……まあ、あの性格ですからトラウマにはなっていないようですが、それでも忘れられないスペルはあるようです。面白い子ですね。その使い手たちは今や残らず彼女の周りにいる。……それも運命ですか?』
「……さあね。言ったでしょう。彼女は気まぐれなのよ。何をどう考えているかなんて分かりっこないわ」
運命かどうかなど輪をかけて理解の外だし興味もない。アカシックレコードの解析に挑む魔術師もないではないが、私はその手合いとは違う。むしろそんなものの解析は百害あって一利なしと吐き捨てるクチだ。色とりどりの料理に美酒。客はただ舌鼓を打っていればいいのである。この鳥は誰が絞めた。この酒の化学成分は。そんな知識は食卓の色を損ねるだけだ。好んで聞き求める輩の気が知れない。
『まあ、兎も角レミリア・スカーレットはこの三つのスペルを攻略していきました。事前の催眠術も含めれば四つの弾幕ですが、それ以上争うこともなく彼女は私のペットのところへ行きましたよ。もともと弾幕ごっこが目的のようでしたしね』
『こいしとも弾幕(や)りあったのか?』
『……いえ』
やはりこいしとレミィの戦闘はなかったようだ。規定の弾幕ごっこを終えてさっさと次に行ったというレミィ。彼女にしては毒のないことだとは思うが、それは自分達以外の『姉妹』に慣れていないということだろう。想起される自分と妹との関係を直視することへの不慣れ。……なるほど。さとりは自らのスペルを鏡と評したが、ならばレミィの戦意を殺いだ相似もまた彼女のスペルということだろうか。事実、さとりとこいしはそれにより今宵の災厄を無傷でいなしている。免れた喪失を鑑みればスペルと呼んで差し支えない効果といえよう。
『なんにせよついてないな。悪魔との勝負に負けるってことは、何かを失うってことだぜ』
魔導の基本ではある。レミィが基本に忠実であるかどうかは兎も角。
『そういえば勝負の前に一つ賭けをしましたね。弾幕を攻略された以上は彼女の勝ちなのでしょうが、大したことではありません。あれが悪魔の契約というなら、また随分と可愛らしい』
『小さな契約大きな代価。それが悪魔の手口だぜ』
『なに、ささやかな契約です。騙す意図がないことも確認しています。問題はないでしょう』
『そう祈るぜ』
魔理沙のその言葉は本心なのだろう。さとりは素直に礼を言うと魔理沙の目を見る。
『さて、それでどうするのですか。望むならお通しすることは前言のとおりです。それとも、弾幕(や)りますか』
胸の眼が魔理沙を貫く。確かにさとりは鏡だ。動くと撃つ。撃つと動く。攻撃の意図を内からつき返す。主体性の欠落とは別種の依存、向き合う者が隠し持つ刃でその首を落とす陥穽の妖異が、さとりという妖怪なのだろう。
『……やめておくぜ。時間も惜しいしな』
『何故? 彼女は貴方の血縁ではないでしょう?』
『長居は無粋って、分かるだろ?』
『解せませんね。レミリア・スカーレットといい貴方といい、〝妹〟といえばフランドール・スカーレットだ。レミリア・スカーレットは兎も角、貴方が彼女を想起し且つ戦意を失う理由がない』
『パチュリーもうるさいしな』
『ああ、なるほど。そういうことですか、〝お姉さん〟』
『ぐっ……あのな……』
堪えきれずさとりの声に応えかける魔理沙。
「止めておきなさい。彼女と問答するなんて自殺行為よ」
その無謀を引き止める。言葉こそがさとりの武器、会話こそが彼女の戦場なのだから。魔理沙にそのフィールドは荷が勝ちすぎる。挑むなら弾幕ごっこで。それが博麗の敷いた共存の道である。
『むぅ……いいけどな。……ほら、どっちだって?』
『今来た廊下を真っ直ぐ。右に二度曲がった先の中庭に灼熱の穴があります』
『Uターンじゃないか』
『そういう造りなのですよ』
無駄な造形だ。美しい。
『案内が要りますか?』
『結構だぜ。行くぞパチュリー』
ドアに手を伸ばす魔理沙。
「待ちなさい」
『なんだよ。……またアレか?』
勿論アレだ。
『ふむ。風俗店への勧誘ですか』
「失礼ね。レジャーランドよ」
『貴方の相棒はそう思っていないようですが』
「そこが彼女の思慮の浅いところね」
『幼女と菌類に囲まれた酒池肉林をレジャーランドと? ほう、粘菌手帳のポイントが溜まるとそんなサービスが。おやおや、靴下だけ残すとは趣味がいい』
このキノコ女、勝手に欲望をブレンドした上で誤解を招く妄想を――!
「それは彼女の副都心、菌糸町よ。犯増悶に連結した欲望の街とパチュリーランドを一緒にしないでほしいわね。我がパチュリーランドは夢の叶う国。靴下だけ履いた幼女から、幼女の脱いだ靴下まで、あらゆるニーズに応える魅惑の総合商社よ」
『眩暈がしますね。侍らせる幼女つきのお化け屋敷に、缶ビールを手放さないマスコットキャラですか』
「さとり、貴方にはそのお化け屋敷のトリを飾ってほしいのよ。恐怖のシメに客のトラウマを再現する貴方がいれば、お化け屋敷はグッと盛り上がる」
可愛らしく怯える幼女を励まし、また励まされて辿り着いた闇の終わり。天に伸びる蜘蛛の糸のように眩しく輝く光の扉。様々な怪異を潜り抜け、旅の伴侶となった幼女と微笑みあって手をかけた地獄の出口で、突如真顔で朗読される中学時代に綴ったポエムの一節。
〝僕は鳥になりたい。この翼の蝋が熔け落ちるまで、君のもとへと飛び続けたい。君は僕の太陽だから……forever my son(sunの誤字と思われる)〟
凍りつく客の笑顔。今この瞬間まで共に地獄の終焉を喜び合っていた幼女から注がれる生暖かい視線は客のトラウマを直撃し、その背中を流れる油汗はかつての高揚と交じり合い最高級の戦慄を彼に味わわせることだろう。これぞ恐怖。これぞお化け屋敷。パチュリーランドのホーンテッドマンションはその名を高く轟かせるに違いない。
『……少し面白そうね』
うっとりと頬を上気させるさとり。見込んだとおりの淑女である。
『そうでしょう。そしてこいしにはその幼女役をやってもらいたいのだけど……』
またもいつの間にか移動していたベッドの上のこいしを見る。が、こいしは笑みを作ったまま動かない。
『なあ、こいしももう少し自己主張したらどうだ。無意識だかなんだか分からんが、さっきからぱっぱと移動するばかりで全然喋ってないじゃないか。恥ずかしいのか? 自分の家だろう?』
魔理沙がそう言うのも無理はない。無意識を操るとはいえ、こいしにはあまりに存在感がない。気付けば姿を消し晒し、発言もさとりに向けた僅かなものだけ。顔だけ見れば楽しげだが、それも何処かおぼろげで確信がもてない。
『自己主張、ですか。なるほど、伝えておきましょう』
『さとり? こいしのことだぞ?』
『ええ。風俗街のお化け屋敷についても同様に伝えましょう。私の分も含めて回答はその後に。あの子の意見も聞いてあげないとね』
『いやだからな。今ここで聞けばいいだろ?』
それは当然の疑問。だが、ああ――やはりここは紛れもない地獄だったのだ。
『妹はここにはいませんよ。言ったでしょう? 今この館にいるのは私だけ、と』
想起「テリブルスーヴニール」。さとりの妖怪は出会いがしらの催眠術で相手の心を覗き込むという。催眠術とは心の操作。……リーディングに特化だと? 化け物め。プロジェクションさえもこの手並みである。
「……本当に趣味がいいわね」
『ええ。よく言われますよ』
魔理沙の前で微笑むこいしは幻覚だ。さとりの催眠術。恐るべきはオプション越しに地上にいる私にまで及ぶその手腕だ。オプションを通す情報は全て魔法によるフィルタリングをかけている。生半な干渉など弾き返すし、この私が攻撃や侵食に気付かないはずがない。音や光ではない。無論魔力そのものでもない。一体何を媒介に地上にいるこの私に催眠術をかけたのか。
『心にフィルターはかけられないでしょう? ……パチュリー・ノーレッジさん』
心を読んだ……? まさか、ここは。
『ここは地上で、魔理沙の家だ。……ですか』
「……」
さとりに纏わる文献が脳裏を過ぎる。
〝それは心を弄ぶ魔性の怪――〟
「……ふん。引っかからないわよ?」
『さて……。いや、流石に〝魔女〟ですね。ですが思ったでしょう? けど、と。まさか、と。その空隙を喰らうのがさとりの妖怪なのですよ』
文献を記した者に賞賛を。確かマキューだかムキューだか親しみのある響きの少女だったと記憶している。
『さあ、先を急ぐのでしょう? やはり案内が必要ですか?』
「結構よ。行くわよ魔理沙」
先程とは正反対に魔理沙を急かす。
『先の件はこいしに伝えておきますよ』
『……結局こいしは何処にいるんだ』
『さあ……? レミリア・スカーレットと別れてすぐにふらふらとどこかへ出かけていきましたが、行き先までは把握していません』
割りと放任主義らしい。そのあたりはレミィと真逆だ。
「話が伝わるならそれでいいわよ。……けどさとり、さっきのこいしが幻視なら貴方が動かしていたのよね」
『そうですが、それが?』
「別に、やっぱり似ているかなってだけ」
甘えた声を出してさとりの膝に頭を乗せていたこいし。それは健康なシスコンが胸に抱く、幸せのカタチに他ならない。
『最近は一緒にお風呂も入ってくれなくなってしまいまして。姉としては少々寂しいのですよ』
「欲求不満はパチュリーランドで解消することをオススメするわ」
胡乱で気味が悪く、そして実に正直な少女さとりに、魔理沙を介してパチュリーランドのパンフレットを渡すと、釈然としないと言わんばかりの魔理沙を促し、中庭に続くドアを開けさせる。
『あー、良く分からんが、またな、さとり。今度は本物のこいしを呼んでくれよ』
『……また会おう、ですか。……変わった人間ですね』
裏のなさは時に何よりも人を驚かせる。前言を修正しよう。魔理沙のような人間こそが、さとりの妖怪を突き崩すのかもしれない。
『普通だぜ』
言って、歩き出す。異変の核は更に地下。おそらくは鬼にもさとりにも劣らぬ脅威が待ち受ける地獄の底だ。
∇
『なあ、なんでさとりは催眠術でこいしの姿なんか見せたんだろうな』
最早恒例となった無人の道中を突き抜けながら魔理沙が尋ねてきた。
『幻視じゃあ弾幕ごっこに役立つわけでもなし、意味がないだろ』
「意味ならあったでしょ。魔理沙、貴方理解して言ったんじゃなかったの?」
『んん? 何のことだ?』
〝今度は本物のこいしを呼んでくれ――〟その台詞が聞きたくて、さとりは魔理沙の言う無意味を行ったのだ。誰からも嫌われた自分。そんな自分とは違う妹。一つ屋根の下に住まう、けれど姉と同列に疎まれる謂れのない少女が存在すると、あの健康なシスコンは愛する妹を主張していたのだ。
「そこもレミィとは真逆ね」
あの愛すべき吸血鬼も大概健やかな妹フェチだが、彼女はむしろ独占欲が先行する。好きなモノはその手に収めて極力人目に晒さない。加えて極度の過保護だ。まあ、幸福の定義は姉にもよるし妹にもよる。どちらが良いとは一概には言えないだろう。
『まあ、どうだっていいんだけどな』
額の汗を拭いながら魔理沙は深部を目指す。地霊殿の中庭から既に数十分。闇を抜けた先に待っていたのは正に灼熱地獄といった景色で、オプション越しに見るだけで熱さで気が狂いそうになる。なるほど、溶岩の出所はここか。
『むしろ気になるのはアレだな、さとりの崩山彩極砲。あの細い腕でどれだけの威力が出るんだって話だ。な?』
その割りに魔理沙は元気だ。魔法によりある程度の耐熱処置をしているようだが、それにしても灼熱の地の底にあってなお失せない気力は賞賛に値するだろう。
「……腕の太さは関係ない。まともに当たれば粉砕骨折じゃ済まないでしょうね」
だからもう少し彼女の会話に付き合うことにした。沈黙は暑さを倍にするものだ。
『げ、そうなのか。それじゃもしかして本家の美鈴よりもいい威力が出たりするのか』
「そこまではどうかしらね。けどアレもれっきとしたスペルである以上、腕力とは無関係に定められた効果を発揮する。威力を左右するというなら寧ろ魔力と理解度かしら。まあそれも前者の影響は微々たるものだし、後者が本家に勝る筈もない。……85%ってところかしらね。美鈴の」
『魔力の影響は薄いのか? 最重要項目に聞こえるがな』
「本気? そりゃあある程度は影響するけどね。例えば魔理沙、貴方のマスタースパーク。純粋な魔力の絶対量でいえば貴方の数十倍は有するアリスが撃ったなら、その威力は正しく比例するのかしら」
魔理沙の文机にちんまりと座った人形をつつき、その製作者の名前を出す。
『……そんな気はしないな。寧ろ弱くなるイメージだ。というか私とアリスにそんな差はないだろ』
「あるわよ。魔力はね。でも魔砲の威力が下がるというのは正解。なぜならマスタースパークは〝魔理沙のスペル〟だから」
『ワケが分からん』
「嘘。言語化が面倒なだけでしょ」
他人のスペルを使っても、いいとこ五割の出力だろう。スペルユーザーならそのあたりはなんとなく感じているはずだ。チルノであっても。
『いいじゃないか。教えてくれよ』
「困った生徒ね。ま、いいわ……単純な面を言えばマスタースパークは〝魔理沙が高火力を発揮するために最適化されたスペル〟だから。術式の回路や魔力の触媒は全て〝魔理沙〟が抵抗なく熱線に変換できるもので出来ているのよ」
『んー……つまりキノコから抽出した魔力や、八卦と熱力学の二束草鞋はアリスのお気に召さないと?』
「そういう言い方も出来るってこと。スペルカードはただ結果を詰め込んだだけの紙切れじゃないわ。結果を導く数式や、そもそもその結果を求めた動機など術の一切合切が込められているからこそ、大掛かりな弾幕をも瞬時に展開できるのよ」
『なるほど。確かに魔法の森でキノコを採取する苦労が、あの温室育ちに理解できるとは思えんな』
弾幕はジグソーパズルだ。その価値は作成の意思と辛苦を伴ってはじめて輝く。額の中に飾られた誰かによる完成品など、継ぎ接ぎだらけの風景画に過ぎない。
『ふむ。ま、大体アリスに極太レーザーは似合わないしな』
ありがとよ、と魔理沙は額の汗を拭った。優しい医薬品の如く、魔理沙の半分は黒色で出来ている。その上生地は厚ぼったい魔女仕様だ。暑くないわけがない。
「似合うかどうかは兎も角、好悪は重要ね。望む結果の不一致は術式の初手を狂わせる。形式化されてはいてもスペルの効果に影響するわ」
『つまりスペルカードは持ち主の一部というわけだ。吸血鬼の足を切り取って私の足と交換しても、私が100メートルを0.5秒で駆け抜けるアスレチックウィッチにクラスチェンジすることはないと』
「ええ。寧ろ二度と歩くことは出来ないかもしれない。これは術者固有の能力をスペルに反映させていた場合ね。私や魔理沙に〝咲夜の世界〟は使えない」
自らのエゴで時空の連続性まで否定する、あのスペルの出鱈目さについては割愛しよう。口にすれば必ず愚痴に終わるからだ。
「弾幕ごっこにおいてさとりを賞賛するならこの点ね。彼女はスペルに纏わる一切を知らずとも再現する。85%ね。嗜好の相違や理論の無知、果ては行使し得ない能力の存在までも無視して〝想起〟出来る。……心を読むといっても、文字通り相手の思考を文章化して受信したり、視覚的に俯瞰している訳ではないのでしょうね。彼女は目に映る心を咀嚼する妖怪。トラウマという恐怖を媒介に他人の一部を舐め、啜り、噛み砕いているからこそできる真似よ。ま、スペルカードという定型だからできるんでしょうけど」
『嫌な表現だな。また会う気が失せてくるぜ』
「だから妹の姿を見せたのよ」
『それが理解できん』
「健康なシスコンが発揮する浪花節というところかしら」
『素晴らしい。また会う日が楽しみだな』
それもどうだろう。
『そうだ。シスコンといえばこないだな……ん?』
「何よ。レミィがどうしたの」
『いや誰もレミリアのことだなんて言ってないが……なあ、いつの間にか猫がいるんだが』
「猫なんて何処にでもいるでしょう」
尻尾の数に拘らなければマヨヒガなんて秘境にもいる。
『灼熱地獄にだぞ? しかもこの私のスピードについてきてる。……生意気だな。猫っぽくない名前をつけてやろうか』
「また? そういやオマリーは元気?」
『オマリーは根性無しだ。三日でいなくなった』
「エサがキノコオンリーじゃ、猫でなくとも逃げ出すわ」
「フン」
そっぽを向く魔理沙の横を見れば、確かにいつの間にか黒猫が併走していた。ちょこまかと鋭角に蛇行しながら魔理沙の箒についてこれるのだから、見た目によらず相当な速度で走っていることになる。
「ま、名前はまた今度になさい。折角懐いているなら可愛がってあげたら?」
『意外な発言だな。パチュリーって猫好きだったか』
「勿論よ。猫について本も出したわ」
〝ぼくらのネコイラズ〟は、社会の汚れを嫌う中学生達がその純真と無邪気を殺鼠剤に込めて、痛快に大人達をやりこめるという、読後感爽やかな市街テロの指南書である。
『んー、ぴったりついてくるがこれ以上は寄ってこないな』
次の瞬間、魔理沙は両腕を突き上げて奇声を上げた。
『ニャーン! ……ダメだ。何がしたいのかサッパリ分からん』
「私は貴方が何をしたいのかがサッパリ分からないわ」
『猫にニャーンは基本だろう』
未知の基本だった。
『信じてないな。学術書にも載ってる正しい挨拶だぞ。本棚三段目の一番右の本だ』
「消えた粘菌記録問題?」
『あー、そっちの本棚じゃない。黒い方。姿見の近くにあるだろ』
「肉球のススメ?」
『それ』
――肉球のススメ 著:八雲藍
『貸してやろう。愛くるしい写真満載のフェイバリットブックだ』
「……いいわ。読まなくても中身は分かるもの」
『む……お勧めなんだけどな』
そういやいつだか紫に猫狂いの矯正を頼まれたが……そうか、本を出していたか。
『まあいいが……お? なんだオパーリン、第二形態か?』
「もう名付けたの……」
『見ろよパチュリー。飛行モードだ』
黒猫の背中には羽が生えていた。滑らかな体毛と同じ真っ黒な羽。
「いえ……羽じゃないわね」
ジグザグに走る小さな背中は凝視しづらいものがあるが、よく見れば黒猫の背はこんもりと膨らんでいる。
「あれは……鴉?」
黒い翼は猫の背中から直接生えているわけではない。黒猫の背中にはやはり真っ黒い鴉が乗っており、その速度と急激な方向転換に振り落とされることを避けるためか、鴉は翼を広げた滑空姿勢で猫の背中にぺったりと張り付いているのだ。
『鴉だな。言われてみれば確かに背中に鴉が乗ってる。……よし、お前らは二人で一つ。二人そろってオパーリンだ』
分離後はオパーとリンだろうか。リンは兎も角オパーを生涯の名とされる方は相当な忍耐力を強いられることになるだろう。
『カモンオパーリン! 湿った森で飼いならしてやるぜ!』
オマリーの出奔から何も学ばない魔理沙が再び動物に手を伸ばす。
『三食キノコ付きの豊かな老後を……おわ!』
対するは当然の謝絶。だがその形は意外なものだった。
『弾幕!?』
「そのようね」
『猫と鴉だぞ?』
「猫と雀なら前例があるでしょ」
どちらもぶんぶん二足歩行してくるが。
『むぅ……まあ、なんにせよいい度胸だ。この魔理沙さんに奇襲を仕掛けて無事に済んだ奴はいないんだぜ』
「ふむ。流石はさとりのペットね。スペルカードも使ってくるわよ」
『なに? こいつらさとりのペットなのか』
「地獄とはいえ弾幕を張れる畜生がそうそういる筈ないじゃない」
黒猫はその鋭角な走法で魔理沙の周囲を駆け巡り、足場となった空間に残留した弾幕がテンポをずらして爆散する。
――猫符 キャッツウォーク
『おお、やるな! だがまだまだだぜ』
頬を掠める弾に臆することなく魔理沙は黒猫を追いかける。本体に近づけば近づくほど回避が困難になるスペルにも関わらず、魔理沙のスピードは緩まない。
「ちょっと。追いかけてどうするのよ。あれがさとりのペットならステージと旅路の終点よ。いつもみたいに問答無用でレーザーでもブッ放したらどうなの」
正直拍子抜けである。ペットという単語から、その筋には堪らない豹柄や鰐皮で身を包んだ脚線眩しいコンパニオンが、遂に我がパチュリーランドに加わるのだろうかと期待に胸を膨らませていたのに、蓋を開ければモノホンのアニマルのご登場だ。マスコットキャラクターは既におしゃれラットが当確している。これ以上の募集をかけるつもりはなかったのだが……まあ仕方ない。見渡す限りの赤い海。ステージは灼熱の釜の底だ。どう見てもテーマパークには不向きの立地。せめて第二のキャラクターとしてマスタースパークに焼き払われた猫鴉を拾って帰るしかあるまい。
『まあ待てよ。もうちょっとで尻尾に手が届きそうなんだ』
弾幕を潜り抜けながら黒猫に手を伸ばす魔理沙。その手を潜り抜けながら弾幕を張る黒猫。スペルの性質のおかげだろう。その距離は少しずつだが縮まってきている。規則正しくステップを踏むキャッツウォークは、その軌道を容易に先読みできるのだ。
『よっ……ほっ……あと、もう、ちょい……ん?』
魔理沙の指が黒猫の尻尾に触れかけたその時、黒猫の背中の鴉が赤黒く輝きだした。
『うお! なんだ、眩し……アツっ!』
「スペル発動ね。猫符に上書き……いえ、重ね掛けしてくるわよ」
熱を伴う光は今や鴉だけでなく猫までもが放っている。二匹は正に一心同体。飴色のオブジェと化した翼の生えた猫は、進路を急速に変えると既存の弾幕に加えて馬鹿でかい『太陽』を四方にばら撒きはじめた。
――帰路 『八咫烏ウォーク』
一定だった速度に緩急をつけて、軌道の規則性をかなぐり捨てて、猫と鴉の動きは最早誰にも予測できない。
「ただの千鳥足じゃないの」
あっちにフラフラこっちにフラフラ、遂に電柱の傍で足を止めると、いつの間にか頭にネクタイを巻いたオパーリンは架空の総務課長に悪態をつきながらシャドーボクシングをはじめた。
『さとりさまのばかーっ!』
『ワンモアブラッシング!』
『分かるぞ。まあ飲め』
二秒で馴染んだ魔理沙が愛玩動物の悲哀を口実に酒を飲もうと、スカートから一升瓶を取り出した。
『あんたは地獄でも変わらないわね』
そして響く聞き慣れた声。
「……なるほどね」
猫たちの千鳥足は畜生故の理由のない奇行というわけではなかったらしい。彼らは目的を達したから歩を止めたのだ。
「……気の利いたガイドね。確かに魔理沙を誘導するなら挑発に限るわ」
電柱に見えた棒杭は千本の針山の一本。灼熱に揺らめく獄符の奥で、紅い親友が笑っていた。
∇
黒と橙が溶け混じった地獄の釜の底の底。黒猫を膝に、鴉を肩に乗せた悪魔が針山の頂で笑っている。何の冗談か、直径2メートルの『針』はコリント式に彫刻され、それを柱に組まれた四阿はギリシアの神殿を彷彿させる。中央で悪魔がかけるソファは一体何で出来ているのか。その蛇状のうねりはどう見ても革張りであるというのに、この灼熱の中で燃え上がりもしない。優雅に足を組みなおして悪魔が言う。
『炎熱のみぎり、遠路はるばるようこそ地獄へ。魔理沙に……遅かったじゃないパチェ』
「秋も終わりよ。深冷の候の間違いじゃないの」
『これが深冷?』
レミィの周囲に広がるは紅蓮。飴色に熔けた罪業が沸点を超えて、天地を赤黒く染め上げるこの世の果て。オプション越しに網膜が焼け付く程の灼熱の楽園である。
「業火に針山。地獄のテンプレートね」
そこで微笑む悪魔に黒猫、化け鴉。徹底されれば、なるほど絵にはなる。
『悪くないでしょう。そうね、ここを正式に紅魔館の避暑地に認定してもいいわね』
『お前は一度避暑地を辞書で引け』
今や魔理沙の額を流れる汗は滝のようだ。無理もない。彼女の立つ場はかつてのディーテの市。堕天使を永劫焼き尽くす赤熱の城塞である。
『しかし暑いな。この気温だとどんなキノコが育つんだ?』
だが我がパートナーは、そんな獄炎をものともしない鋼の粘菌術師である。彼女の湿った願望は地獄の火などで枯れはしない。
「残念だったわねレミィ。私たちに熱気なんて意味がないわよ」
〝たち〟の部分を強調して紅茶を啜る。良く冷えたニルギリは微かにレモンの香りがした。紅茶は出掛けにブチ破った紅魔館の窓の外に置かれていたクーラーボックスの中身である。喘息に良いとされる紅茶を絶やさぬ咲夜の気遣いに微笑み、総重量13.5キロを誇る半分嫌がらせで出来たクーラーボックスを小悪魔に持たせて、私は魔理沙の家にやってきたのだ。10リットル以上あった紅茶は飲めども尽きる気配もない。が、量に辟易させぬ味わいを長時間保つ咲夜の腕は流石である。
『残念? まさか。そうでなくては、でしょう?』
「……呆れた。やっぱりそのつもりなのね」
『当然でしょ。私に内緒で楽しそうなことを始めるからこうなるのよ』
「一応異変の解決よ。旅行に置いていかれた子供みたいなこと言われてもね」
レミィの行動は勇者の冒険の横取りである。その艱難辛苦に誰もが膝を折る世界の救済を買って出た勇気ある少年少女の悲壮な決意を、旅情の独占を企てた悋気と解したJTBのオヤジが魔王の城に先回りするようなものだ。しかもオヤジは魔王を肩と膝に乗せてご満悦である。デジカメと髭剃りを武器に単身躍りかかるオヤジの気迫が、何処をどう巡って魔王を手懐けたのかは不明だが、ともあれ終局を担当していたであろうボスたちは今、レミィの周りでさとりの放任主義を穏やかに毒づいている。
『あの気難しいオパーリンを良く手懐けたじゃないか。……まさか楽勝だったのか?』
仮にも6ボス同士だろう、と魔理沙が聞く。
『オパーリン? ああ、紹介が遅れたわね。飼主に構ってほしくて仕方ないと嘆くこの子達はお燐とお空。察しのとおり5ボスと6ボスね』
レミィは猫と鴉をひと撫でする。
『お燐は怨霊を管理する火車。お空は核融合を操る地獄鴉。可愛いでしょう?』
「ああ……、それは」
仕方ない。5ボスのお燐がレミィに敵わないのは仕方ない。怨霊と解し死体を攫う火車が吸血鬼と対峙して何をしろというのか。加えてどのシリーズにおいても5ボスと6ボスの差は顕著である。そして6ボスたるお空がレミィに勝てなかったというのも仕方がないだろう。地獄鴉とはそう強力な妖怪ではない。個体差はあれど総じて3ボスがせいぜいの種族である。その地獄鴉であるお空が6ボスを張っているのは、偏に核熱を操るというその能力故だろう。核の炎は神の火である。その凶悪なまでに神々しい光は出力に応じた終焉をばら撒く致死の福音。本来、地獄鴉などが手にする能力では断じてない。間違いなく後天性の能力だろう。確率的には時を操る人間のようなイレギュラーもないではないが、地獄の住人が神の火を宿して生まれることなどあるはずがない。それはペンギンが空を飛ぶようなものだ。折角水中に適した構造を獲得したというのに、わざわざ一度捨てた翼を得るなど、あり得ない以上に意味がない。
『核融合……! いいじゃないか。確か太陽もその魔法で出来ているんだよな。レミリアとの相性は最高だろう』
「馬鹿ね。ちっとも良くないわよ」
吸血鬼が太陽を嫌うのはそれが夜と対の概念だからである。重水素からなる核融合のエネルギーそのものが吸血鬼退治に覿面ならば、東欧は今頃焦土と化しているだろう。
「折角の神の火も地獄鴉が使うことにより属性は真っ黒。ホロコーストには最適でしょうけど吸血鬼との相性は最悪よ」
『ふむ。黒といえば北方水気の象徴だ。土剋水。黄泉色の吸血鬼に勝てる道理はないか』
そんなシンプルなものでもないが。
「ともかく核の炎はレミィとの相性が良いとは言えない。……まあ、気の遠くなるような熱量を操るのだから、半端な能力に比べれば十分実戦的と言えるのだけど、それでも吸血鬼相手に必殺の手段ではない。となれば後は自力の勝負。地獄鴉が吸血鬼に勝てるはずがない」
愛読する初版女神異聞録に例えれば、お空は無理矢理メギドラオンを覚えさせたレベル41ヤタガラスである。敵性対象の効率的な排除には最高の性能を誇り、一撃で敵部隊を壊滅させる過剰な火力は、射程範囲に踏み入ったが最後、骨も残さず融解させる核熱無双を見せ付けるだろう。その最速最強の核弾頭は正に一騎で総軍を破る秘奥の一手。殲滅兵器としての使い勝手ならば右に出るものはない。
この物語の特異性を語るならばそこだ。地霊殿の6ボスとは最も手際よく多数を倒せる者なのである。他の6ボスたちとは毛色が違う。
「妖々夢はレベル58モトかしらね。永夜抄はレベル88スクルド。風神録はレベル89インドラね」
『ああ、幽々子もそんなところあるわね。神奈子はレベル96シヴァでもいいんじゃない』
「うーん、シヴァはね……」
メギドラオン持ちは比較対象としては適当でないだろう。
『で? 我らが紅魔郷は?』
「レベル77ベルゼブブってところかしら」
『あら、レベル99ルシファーじゃないの』
「ふふ、そこまではどうかしらね」
適当な配役である。皆メギドラオン程の広範囲超火力を有してはいないが、個々のステータスはヤタガラスを遥かに上回る。倒す相手の数を競うならお空に勝てる者はないが、ハイレベルな一対一を演じるなら話は別ということだ。
『で、紫はアレだろ?』
レミィに僅かに遅れて原典を理解した魔理沙がニヤリと笑う。
『レベル66ニャルラトホテプ』
誂えたようなポジションである。
「違いないわ。ところで……」
勝手な評価に見向きもせず、今もレミィの肩と膝で悲哀を綴っているペットをちらりと見る。私はもう三日も撫でてもらっていない、私は一週間も別々に寝ている、などと飼主への不満を競い合う彼女らは、目の前で交わされる会話に一切興味を示さない。勝負事に無頓着なのだろう。弾幕ごっこで負かされた相手に思うところなどないのだ。彼女達にとっては友人や飼主との生活が全てなのだろう。
「そろそろ始めていいのかしら。咲夜もいるんでしょ」
レミィがつけているいかにもお子様向けの耳カバーからは、通信用の魔力を感じる。おそらく私の部屋からスペアの通信機を引っ張り出して転用したのだろう。通信機を持って此処にいるということは此度の異変のルールに則ってやってきたということだ。ならば通信機の向こうにはレミィを支援する者がいるはずである。
『勿論ですわパチュリー様。お元気そうでなによりです』
「今まで聞き耳を立てていたのかしら」
『良いメイドとは呼ばれるまで音を立てないものですわ』
涼しげな声が返ってくる。やはりレミィの支援者となれば咲夜である。普通は人間の咲夜が地下に潜りそうなものだが、おそらく二人の目的は異変の解決ではなくレミィの暇潰しだ。配役の逆転くらいは嬉々としてやる。
『そういえばパチュリー様に代引きのお荷物が届いていましたよ。商品名〝レジェンド・オブ・ユニコーン〟だそうです。妹様が開けたい開けたいと仰るのですが、開梱してもよろしいでしょうか』
「ああ先月買った三角木馬ね。開けていいわよ」
『いいわけねえだろ』
「ションボリ」
三人に突っ込まれる。皆妹様に甘い。過保護は子供の成長を妨げる一因だというのに。
『……ま、木馬はともかく、パチェは気が早いな。もう弾幕ごっこが待ちきれないのかしら』
「ええ。貴方達のお蔭で道中の戦闘はゼロよ。地上から魔理沙をこき使って悦に入ろうという、ささやかな楽しみを奪われ続けてきたのだから当然でしょう」
『コラ。人様を顎で使ったり風俗店のスタッフをスカウトしたり、楽しそうだなあオイ』
魔理沙の苦情を黙殺する。そう、苛立ちの種はもう一つある。人材の確保は順調だったものの、パチュリーランドの用地選定は目処も立っていないのだ。いくら進めど見渡す限り、地下は荒地と私有地ばかり。忍耐に定評のあるこの私にも我慢の限界は存在する。
『戦闘ゼロは私と咲夜のせいだけじゃないんだけど。ま、いいわ。悪魔ってのはそういうものだからね。遣る方のない貴方の思い、その捌け口になってあげましょう』
再度足を組みなおしてレミィは笑った。
「よく言うわ。レミィこそ、お空を倒してなおこんな地獄の釜にいるなんて、待ち焦がれた相手がいたんでしょう?」
わざわざお空とお燐に頼んで間欠泉から怨霊と紅い霧を吐き出し続けたのだ。こんな赤黒い地の底で。
「オールクリアおめでとう、レミィ。スタッフロールに手をかけないのはどうしてかしら。物足りなかった? まさか流れる人の名前が少なすぎるなんて癇癪起こしたわけでもないでしょう。ゲームは大人数で作れば良いというものではないわよ」
『物足りないなんてことはないわ。相性差がなければどうなっていたか分からない相手もいたし、そもそも弾幕ごっこなんてそんなものだしね。私がいつまでも此処にいた理由は一つ、貴方たちを待っていたのよ』
「……私たち、ね。霊夢とニャルラトホテプが先に来たらどうするのよ」
『来ないさ』
「どうして」
『パチェが魔理沙についたからね』
「……光栄ね」
乾いた口を紅茶で湿らせる。咲夜の紅茶は呆れるほど美味かった。
『随分評価してるじゃないか。この春本の虫を』
『良く知っているからね』
『ほう、それじゃ知ってるか? 今日のパチュリーはネオン街の下見にきたんだぜ』
『……それは初耳ね。けど魔理沙。貴方が気分を害する必要はないわ。私は貴方が霊夢に劣ると思ったことは一度もない』
『な、なんだよ。当たり前だろ……そんなの』
魔理沙は容易く頬を赤らめる。大人気ない密告にばつが悪いのか帽子のつばを引いて目を逸らした。
『魔理沙とパチェが組んだのなら最速で目的を達成する。私の勘は外れたのかしら』
「大外れよレミィ。貴方たちが先じゃないの」
『私たちは別よ。ね、咲夜』
確かにレミィと咲夜が組めば最速だろう。時間を操る吸血鬼の爆誕だ。論外にも程がある。
「それじゃ最初から私たちとの弾幕ごっこが目的だったと」
『ええ。まあ、道中面白そうな奴もいたから全てがそうというわけでもないけどね』
「ふうん。いいわ、始めましょ。手加減しないわよ。言ったけど、今欲求不満なんだから」
『ふふ、地霊殿6ボスお空の所持数に合わせてスペルカードは五枚にしましょうか』
「構わないわ」
魔理沙の意向を聞かずに了承する。彼女の答えなど聞くまでもないのだ。
『ああ、なんでもいいさ。こっちも我慢の限界だ。さっさと始めようじゃないか』
そう、弾幕ごっこによる異変の解決を胸に、こんな地の底まで肩透かしを喰ってきた彼女こそが、誰よりも忍耐を重ねてきたのだから。
『ああ、それとね。実は貴方たちが来る前に既に一枚カードを使っているのよ。だから私たちは後四枚。勿論そちらは気兼ねなく五枚使って頂戴』
使用済みのスペルカード。おそらくは周囲の惨状だろう。獄符「千本の針の山」を奇怪な四阿のために用いたということだ。
「結構よ。細かいことは気にしないでレミィ達も後五枚使ってくれて構わないわ」
誰よりも早く地獄の底に辿り着いたのだ。それくらいの特典はあって然るべきである。
『ああ、負けた言い訳にされたくないしな、パチュリー?』
「そうね……まあ、四枚でも五枚でも好きにしなさい」
勝負はやはりフェアがいい。それは互いにそう信じる条件こそが美しいということだ。
『そう? それじゃ後四枚選ぶわね』
『後で泣いても知らないぜ』
永遠に幼い紅い悪魔は、律儀で意地っ張りな様もかつてのままだった。
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『五枚か。まずはコレだろ』
「いいけど、ちゃんと相手にあったスペルを選びなさいよ」
『分かってるって。それじゃ次はコレだ』
「ソレ? ……じゃあコレも入れときなさい」
『本気か? そりゃ面白そうだな』
「あとはコレと……」
『ソレなら……コレか』
「いいわね。……弾幕は、」
『パワーだぜ』
∇
戦況は一方的だった。力も速度も相手が上で、ならばその慢心を突こうと智恵と技術を駆使するも、サポートの咲夜がそれを許さない。分かっている。レミィは運命の女神の寵児だ。彼女と戦うということは彼女の望むように戦うということなのだ。
『ああもう、邪魔だっての!』
ナイフに頬を浅く切られた魔理沙が五度目の舌打ちと共に〝針〟を蹴りつけた。無論針はびくともしない。それは直径2メートルの石柱。獄符「千本の針の山」の一本なのだから。
『くっそ、このための針山かよ! こりゃ確かにカード一枚分の嫌がらせだぜ』
「ホームの特権よ。一番にお空に辿り着けなかったのだから諦めなさい」
STR,AGI,INT,DEX,LUK何一つ相手を超えられない。加えて戦場はあちらに有利な仕様だ。巨大な溶鉱炉を思わせるステージ6の最奥は、レミィの手により紅い柱が林立する文字通り針の山となっている。灼熱の地の底から黒々とした天蓋までを貫く極太の柱は数メートルおきに点在し、飛行する魔理沙の進路を妨害しては彼女を苛立たせている。
そう、正確に魔理沙だけを妨害している。スピードを売りにする魔理沙ではあるが、彼女の誇る速度とはトップスピードにおける絶対速度である。トップスピードに乗った魔理沙は彗星の如く、少女の質量を以って星をも砕くと自負するものの、そこに辿り着くまでにはそれなりの魔力と助走が必要となる。あちらこちらに障害物のあるステージは魔理沙の本領を邪魔する枷にしかならないのだ。一方のレミィもスピードスターだが、あちらは寧ろ瞬発力や反射神経に優れる肉体派。トップスピードでは文や魔理沙に遅れをとることもあろうが、短距離の移動や回避行動、格闘戦などにおいてレミィは敵なしだ。化勁を極めた拳士すらテレフォンパンチで沈める速度は、それだけで吸血鬼という種族の出鱈目さを物語る。そんなレミィにとって石柱の森はなんらの障害にもなりはしない。寧ろ柱の側面を足場に高速で飛び回る彼女は環境を最大限利用している。反則スレスレの速度で跳ね回るレミィは容易く此方の死角を突いては弾幕を打ち込んでくる。それを紙一重で避ける魔理沙も尋常ではないが、今私が最も賞賛すべきはやはり博麗だろう。……弾幕ごっこでなく殴り合いなら勝負にすらなっていなかった。尤もレミィも魔理沙も弾幕ごっこでなければやり合う気にもならなかったろうが。
『どうしたの、動きが止まっているわよ』
最早声すら四方からかけられているように思えるが、それが不可能ではない支援者があちらにいる以上笑えない話だ。レミィの楽しみを殺がないよう最低限の手出ししかしないが、時空間の掌握は咲夜の十八番である。気の利く彼女は気分によって、相手の右頬を打つと同時に既に左の頬をも打っているという。敬虔なクリスチャンならば誰もが憧れる理想の隣人愛を、宗教宗派を問わず強制する余計なお世話の極みだが、そういう意味では彼女もまた最速の技を持つといえよう。
『は、まだまだ、これからだぜっ』
振り向きざまに弾幕をばら撒く魔理沙。弾は前方広範囲を覆う水符のレベル4だ。その性質は散弾銃。一発の威力は低いが無傷で逃がすことはない。が、水符はまたも空を切る。代わりに三方から襲い掛かるナイフが魔理沙の帽子を掠めていった。
『ちぃ、クリオネめ』
厄介なのはあちらの弾だ。咲夜が支援するレミィのショットは、レーザーの如く一点を貫く槍状の弾と、障害物に当たると数回反射する銀のナイフで構成されている。ナイフの弾速は発射時のレミィの移動速度に応じるらしく、速度の異なるナイフの群れは避け難いことこの上ない。更に針の山で反射を繰り返すナイフの軌道は、いつ何処で魔理沙と重なるか分かったものではなく、常に周囲を警戒せざるを得ない状況は精神的な疲労を募らせる。加えて円柱状の柱はナイフの反射角度の正確な計算を困難にする。それは小さな棘ではあるが、誤差数ミリの精度を求められるグレイズの多用を封じる効果を伴う毒を含む。
『くそ、見失った。金符にチェンジだパチュリー』
「このままじゃジリ貧よ。……魔理沙」
『……分かってる。……ああ、先に一枚切らせたかったんだけどな』
「相手は既に一枚カード使っている、でしょ?」
ならばこれは舞台で二枚目のスペルカード。
『よし、撃つぜ。まずは地の利を奪い取る』
勝機の見えぬ戦況を継続していたのは観察よりも意地のためか、ともあれ魔理沙は最悪のフィールドを被弾ゼロで突破する。
――恋符「ノンディレクショナルレーザー」
溢れ出した光が魔理沙を中心に放射状に広がっていく。それは幾筋かの光の房となり、すぐに五条のレーザーとなった。レーザーは高速で回転し、触れた柱を砕き散らす。
『荒っぽいわね。崩落でも起きたらどうするつもりかしら』
「旧地獄はそれほど柔な作りじゃないわ、レミィ」
獄符の欠片が眼下の灼熱に呑み込まれていく中、全ての柱を砕き針山を消却したレーザーは今やレミィ一人を追っている。が、全てを焼き切るレーザーもその軌道は単調な回転運動だ。如何に速度を上げようともレミィの体は捉えられない。レーザーの回転に合わせて隙間を旋回するレミィが零す。
『一枚目はノンディレクショナルレーザー。地形の不利を覆すか。まずは常道。けど意外ね。貴方達は初手から決着を狙ってくると思っていたわ』
『猪じゃないんだ。魔法使いは不利な戦いはしないんだぜ。その予想は……大当たりだ』
――原典「ノンディレクショナルレーザー」
荒れ狂う光の最中、躊躇うことなく二枚目のカードを切った。
『ちょっと! 同じスペルを二枚は……』
反則だろう。何より美しくない。だが、
『おいおい、良く見ろよ。何と何が同じスペルだって?』
『――』
二枚目のノンディレクショナルレーザーは恋符ではない。粘り気のある恋泥棒を自称する魔理沙が盗む以前の、この私のオリジナルだ。
『……っ!』
此方の意図を察したレミィが距離をとる。
「相変わらず感が良いわね。けど、もう遅い」
ゼロからのステップで音の壁を超えるレミィといえど、光の速さは追い越せない。
『ああ、勿論狙っているさ。初手から決着をな……パチュリー!』
「ええ……!」
魔力の風の吹き荒れる魔理沙の部屋で、私はスペルを形にする。開放のコードに鍵を掛け、通信機を介して地下に転送。解錠の条件は魔理沙との接触。展開座標を魔理沙本人に指定したスペルは、先の恋符と全くの同規模、同軸、同速、同火力で吸血鬼を追い詰める。ただし、回転だけは逆しまに。
『……咲夜っ』
二重のスペルがレミィを襲う。重なり合う二枚がそれぞれ逆回転するノンディレは碾き臼かミキサーか。なんにせよ交差するレーザーに死角はない。閉じるムーンライトレイを周囲にばら撒いているようなものだ。
「どう、レミィ。逃げ場はないわよ」
どれほどの速度を誇ろうと熱線の壁は抜けられない。物理的に回避不能なスペルはまさに……
「反則かしら? でも二枚とも普通のスペルよ。ちゃんと避ける余地のある、ね」
『お前はほんとにレミリアの友達なのか』
「勿論よ。互いの友誼を疑ったことなど一度もないわ」
『回避不能のスペルを使った後でいう台詞じゃないぜ』
「ええ、けど回避不能かどうかは相手によるでしょう」
人間が相手なら使わないようなスペルも相手が妖怪ならば躊躇うことはない。魔理沙と霊夢のところには来なかったようだが、怪しげなカメラを携えた天狗が取材に来たときなどは、皆物理的に回避不能なスペルを使って持て成したものだ。物理の壁に諦観しない者は割と多い。紅魔館にも、数名が。
『あれは無理だぜ。隙間がない。ドアのない部屋から外に出られるか?』
「……難しいでしょうね」
目を細める。周囲では今も、時計の針が重なるようにレーザーが交差を続けている。明滅する光の乱舞は通信機の此方からでも目が痛むほどだ。だから、そんな中で輝く刃が見えたのは、
人外の視力などではなく彼女についての知識のお蔭なのだろう。
――時符「トンネルエフェクト」
正真正銘、まっさらな空間から赤青二色のナイフが滲み出してくる。真っ赤な大玉を添えて殺到してくるナイフの群れは、物理の壁など明らかに無視して出現していた。そして響く声。
『隙間がない、なんて嘘。ないのは光が重なるその時その場所限りの安地。光が重なるその時その場所以外の安地は、それこそ無限に存在しますわ』
それに、知らず口もとが緩んだ。そう、紅魔館ではただの人間こそが、物理の壁を蹴り飛ばすのだ。
「9時方向、数70! 目視の暇はないわよ!」
『……!』
びく、と背筋を伸ばした魔理沙は一転、あらん限りの速度でその場を離脱する。幸い遮蔽物は全て破壊してある。初撃をかわす幸運さえ得られれば、後は速度で引き剥がせる。助走距離さえあれば投げナイフなどに追いつかれる魔理沙ではない。
『痛ってぇ』
「よく避けたわ」
顔を歪める魔理沙に賛辞を呈する。掛け値なしの本音である。
『いや痛いって言ってるじゃん』
「何処、肩? 痛いで済んだのなら重畳よ」
『おまえな、人の肩だと思って……っていうか何だあれ。っていうかどうやって?』
魔理沙は言う。突然ナイフに襲われたことも理不尽ならば、相手がナイフを飛ばせること自体が理不尽だ。だって今の二重のスペルは、逃げ場なんて何処にもなかったのだから。
『〝どうやって〟? ちゃんと宣言したでしょう? 時符「トンネルエフェクト」。波動関数に造詣は?』
ナイフに集中を解かれて霧散したレーザーの向こう、無傷のレミィの耳カバーから、咲夜の声が聞こえてくる。
『障壁のポテンシャルが有限である以上、あちらとこちらに違いなんてないのよ』
『何の話だ』
『寂しがりやの存在確率の話かしら』
『紅魔館のメイドは量子力学まで求められるのか』
『正式採用への必修科目ですわ』
原理など知ったことではないが、要はレーザーに触れる瞬間、レミィをレーザーの向こう側に『発生』させたのだろう。先のナイフの群れのように。咲夜流に言えば、レーザーの向こう側にあるレミリア・スカーレットの存在確率を染み出させたのだ。トンネルエフェクトとはそういう奇術であったはず。
『お嬢様が距離をとってくださったお蔭でレーザーとの接触は二秒に一度。その程度の間隔なら波動関数も丁寧に振動させられますわ』
『ご教授痛み入るが私はニュートンの信奉者でな。物理学はリンゴとハチミツでお腹いっぱいだぜ』
『貴方のリンゴも私のもの。古風な魔女におやつは、ない』
『おい聞いたかレミリア。お前んとこのメイドは人様のデザートまで食べるのか。教育がなってないぜ』
ドレスの埃を落としていたレミィは魔理沙の声に顔をほころばせた。
『咲夜は細いからね。太ももとかさ。もう少し食べた方がいいよ』
『お嬢様……』
『あら咲夜、心拍数が上がったわよ?』
「ああもう。魔理沙、こういう反応するに決まってるんだからレミィに振るんじゃないの」
甘ったるい会話が飛び交う前に、ぱんぱんと手を叩いて話題を元に戻す。
「で、結局こっちはスペル二枚を使って得た成果が獄符の破壊と時符の消費か」
必中の二重発動まで行って勝負がつかなかったのは痛いが、相手はレミィと咲夜である。一筋縄でいくとも思ってはいない。
『また派手に壊してくれたわね。折角さとりのペットに作ってもらったセットなのに』
『なに? お前のスペルじゃなかったのか』
『違うわ。営繕担当のペットがいるのよ。確か三毛猫のオマリー』
『うおお、こんなところにいたのかオマリー! というかそんな特技が!? 私のハウスは地獄以下かァ!』
「魔理沙うるさい」
なるほど。担当が大掛かりなアスレチックを作っていたから、地霊殿の補修をする者がいなかったというわけか。
『くそぅ、あのキツネ全然役立たないじゃないか。何が肉球のススメだ……ああ、そういやペットといえば、お燐とお空はちゃんとさとりのところに帰したんだろうな。さっきのレーザーに巻き込まれてたりしないよな』
『心配ないわ。二人はおやつを食べに地霊殿に昇って行った。今頃はさとりの膝でイエローケーキでも頬張っているでしょう』
『そうかい。安心したぜ』
『ええ。じゃ、そろそろ続きを始めましょうか』
言って、レミィはカードをとり出した。見せ付けるように提示されたカードの模様は真っ赤な十字に絡みつく鎖。
『おっと、大胆だな。いきなりスペルカードを切るか』
慌てて後ろに飛ぶ魔理沙。彼我の距離はざっと35メートル。レミィの手にするあのスペルなら回避の可能な距離ではあるが……。
『あら、つれないわね。けど残念。ほら咲夜、さっきのもう一回』
『貴方の未来も私のもの。古風な魔女に逃げ場は、ない』
口元を歪めたレミィがスペルカードを指でずらす。紅いカードはするりと傾き、重ねられた二枚目のカードが露になる。
「――! 魔理沙、三枚目発動!」
『あん? 三枚目ってどのスペルだ? 撃つならもっと引き付けてからだろ』
「これ以上何を引き付けるのよ! いいから早く! 宣言するのよ!」
『何だよ落ち着けパチュリー。だから三枚目ってどれのことだ。これか? オマリーに捨てられた私のことか?』
誰がそんな迂遠な嫌味を言うか。見ろ、そんな不毛なやり取りの間に、レミィはカードを開放しているじゃないか。
「貴方のスペルよ! どっちでもいいから早く!」
言い終えるより早く、レミィの手元が眩く光り、紅く巨大な鎖が幾条も飛び出してくる。まずい。あちらの意図が想像通りなら、既にこの瞬間被弾の条件を満たしている。
――運命「ミゼラブルフェイト」
それは魔狼をも捕らえる桎梏の紅。対象の因果を捕縛する鎖は地の果てまで相手を追い詰め、捕らえたが最後、一切の例外なく緊縛する。弾幕ごっこには最適の一枚だ。捕縛機能付きの自動追尾弾は、禍々しく金属音を撒き散らしながらも、その紅い軌道はひたすらに美しい。鎖を免れるにはそれ以上の速度で時間いっぱい逃げ回るしかないのだが……。
「撃たれた! 急いで間に合わないわよ!」
『なんだよ。確かに厄介なスペルだが、これだけ距離があれば回避できるぜ』
苛立ちが沸点を超える。どうしてこの脳菌はここまで察しが悪いのか。結果傷つくのは己が体だというのに――!
「できるわけないでしょ! レミィの手元を見なさい! ああもう、さっさと撃たないと客間で日符を使うわよ!」
『馬鹿よせ! 分かった分かった! 撃つよ! 貸しイチだからな!』
「こっちの台詞よ!」
『ああもう、くそ、もったいない! 意味がなかったら恨むぞパチュリー!』
唾を飛ばしあった末に漸く箒に魔力が宿る。それは本当にギリギリのタイミング。渋りながらも切られたカードは、込められた効果を忠実に発揮するだろう。
「……ええ。切り抜けられたら感謝しなさいよ」
条件の一つは打ち砕いた。後は魔理沙の速度次第だ。
――彗星「ブレイジングスター」
――「デフレーションワールド」
迫る鎖の根元、発生源たるレミィに向けて、箒の魔女が加速する。それはただ速いだけの体当たりだが、突き破られた大気の壁が衝撃波となって大木を薙ぎ払う程の速度となれば、もはや星に穴を穿つに等しい威力を持つ。巻き起こる爆風から自らを保護する防御膜は摩擦と帯電から青白く輝き、長く尾を引くその光芒は黎明の彗星を思わせる。
『悪いなレミリア。このスペルで……ぐえっ』
その瞬間、魔理沙を目掛けて殺到していた鎖の群れは、既に彼女の体を捕らえていた。
『うぉっ、なんだこりゃ! 今の今まであの辺飛んでた鎖だろ!』
突如として自らを拘束した鎖を掴み、魔理沙は驚愕に叫んだ。無理もない。前触れなく縛鎖に捕われ、それはどれほど力を込めてもびくともしないのだ。未来を縛る運命の鎖。時間と因果のダブルバインドは人の子の力では破れない。だからこちらに――私がいるのだ。
「相手の二枚目を聞いてなかったの? 咲夜のデフレーションワールドは原因と結果を共存させるわよ」
デフレーションワールドとは過去と未来を現在に凝縮するスペルである。弾幕の始点と終点を全く同時に存在させる咲夜の技は、過程に与えられていたはずの回避の機会をすっ飛ばす。相手は点の攻撃を線、或いは面として叩きつけられるのだ。複数のリコシェ系の描く軌跡を射出と同時に発生されられては、回避も何もあったものではないだろう。そしてレミィのミゼラブルフェイトは因果の糸を辿って相手の魂を絡めとる。避け得ぬ鎖の未来を呼ぶなら、当然の結果として捕縛は完了している。
「いいからスペルを続けなさい。もっと速く。より強く」
今の状態は鎖が魔理沙を捉えた瞬間だ。時系列の圧縮により発動と同時に着弾する悪魔の鎖は確かに必中の連携だが、こちらの行動がキャンセルされるわけではない。悪魔の時計に著しく差をつけられつつも、こちらの時計もまた時を刻み続けている。それはスペルに込められた矜持であり、競われる美の結晶であるが、ともあれ我らの活路はそこにある。
『ああ……』
急かされたスペルの意図に気付いた魔理沙が口の端を上げた。
『オーラィ魔女殿。振り落とされるなよ』
片手で抑えた魔理沙の帽子が激しくはためく。運命の重圧から解き放たれようと、魔理沙はあらん限りの魔力を燃やす。
『行くぜレミリア! こんなもんで私を縛れると思うなよ!』
彗星の秒速は30キロメートルを超えるという。ならば絡みついた鎖が拘束の圧力をかける瞬間、魔理沙の体は30キロの彼方にあった。時の圧縮に先んじて発動された超速の魔法は、ここに縛鎖の結果を覆す。彗星の運動エネルギーは運命に喰らいつく鎖をついに凌駕し、鎖は牙を剥がされる。引き千切られた鎖の音が魔理沙の声に先行する異常。しかしその異常な速度を以ってしても、紅い悪魔は屈しない。
『……強引ね。美しさを競う弾幕ごっことしてはどうなのかしら』
人外の跳躍でブレイジングスターを遣り過したレミィが体ごと振り向いた。空振りに終わった突進に落胆することもなく降りてきた魔理沙に微笑みかける。
『美しいさ。弾幕はパワーだぜ』
そう、落胆することなど何もない。今の攻防は先の真逆。必中を期した相手の二重スペルをこちらは一手で破ったのだ。カードの残数はこちらが有利。勝負は振り出しに戻ったといえよう。
「これでカードの消費は三枚ずつね。地の利も消えたし、危ないんじゃないの、レミィ」
挑発にもレミィは微笑むばかり。返答は咲夜からだった。
『ええ。三枚で済めば、の話ですけど』
「……?」
違和感にふと、笑う悪魔の手元を見た。二枚重ねのカードのうち一枚は既に消えている。引き千切られたミゼラブルフェイトは完全に消滅している。そしてもう一枚のデフレーションワールドももう消える。鎖を失い、追撃してくるでもないレミィのもとでは、これ以上展開しても魔力の無駄である。
「……」
……そう、無駄な筈なのだ。咲夜といえば完璧で瀟洒に無駄のない女。ロストル式火葬炉でパンを焼くその合理性に隙はなく、氷室にモルグとルビを振る天然は彼女が生まれついてのプラグマティストであることの証左である。そんな咲夜が僅かとはいえ魔力の無駄を許すだろうか。目的のないスペルの稼動など、彼女は一秒たりとも認めないはず。ならばデフレーションワールドはミゼラブルフェイトの消失と同時にキャンセルされるべきなのだ。それ以上のスペルの維持は時間と魔力の無駄使いなのだから。それが、在る。カード、デフレーションワールドは今もレミィの手の中で滔滔と魔力の流出を続けている。……断言する。十六夜咲夜に無駄はない。ならばその手のスペルの意味は……?
「……そこ、は」
そうだ。レミィの笑うその位置だ。頭に何かが引っかかる。思い出せ。そこがどんな場所だったか。二重のノンディレクショナルレーザーで針山を散々に砕きぬいて、ただ広大なばかりの空間となった今では目星となるような何かなどないが、レミィがいるその場所だけは絶対に忘れてはならないポイントではなかったか。
「……あ、」
辿り着くまでに二秒。本当に腹が立つ。二秒もの間、悪魔は我らの間抜けを笑っていたのだ。
「魔理沙――!」
咲夜の「デフレーションワールド」とは置き去られた過去と予約済みの未来を今この瞬間に凝縮して再生する映写装置だ。そこで起きる事象であれば過去も未来も関係なく問答無用で発生させる。ああ、なんて愚か。漸くレミィの言葉を理解した。
――けど残念。ほら咲夜、さっきのもう一回。
――貴方の未来も私のもの。古風な魔女に逃げ場は、ない。
さっきの、が指すものは咲夜の前言などではなく……。
「――避けなさい!」
思わず手が前に出た。無論魔理沙は遥か地下。私の手は何を掴むこともない。それが今は無性に歯痒い。
『避ける……?』
運命の鎖をブレイジングスターによって引き千切った為、魔理沙とレミィの立ち位置は逆転している。ミゼラブルフェイトの回避と同時に当然攻撃の意図も併せた魔理沙はブレイジングスターの軌道をレミィ本人に向けていた。結果、レミィが鎖を放った場所には彗星の如く魔理沙が襲来し、華麗なムーンサルトでそれを避けたレミィは逆にかつて魔理沙が居た場所に移動していた。
『〝回避不能〟は魔理沙の台詞でしたか?』
咲夜の言葉が終わるや否や、一切の前触れ無しに巨大な光の円環が顕現した。
『おわっ……!』
それは二重に重なりそれぞれ逆向きに回るレーザーの嵐だったもの。かつて交差を繰り返すことにより必中を体現した対の刃は、その回転の始点と終点を圧縮されて二枚の円盤となって再誕する。なるほど。時の軛を忘れるほどに、回りまわれば果ては円環。雪印が誇る伝統バターの製法だ。尤も咲夜による円刃の材料は虎ではなく高出力レーザー。触れたが最後ただでは済まず、触れずに逃げる術もない。熱を持たず回転もせず。全ての運動エネルギーを凝縮された眩い円環は、ただそこにあるだけで全てを引き裂き焼き捨てる。……台風の目にいるレミィ以外は。先のレミィは存在確率の連続肯定により難を逃れたが、円盤状に圧縮された此度のレーザーには波動関数を揺らす隙間もない。
『ぐっ……なろぉっ……! こっちのスペルを利用しようってか!? 馬鹿にしやがって!』
希望を捨てよと地獄を飲み込む光を前に、魔理沙がカードを一枚切る。
「……それしかない、か」
かつて必殺を期して開放した二重魔法である。千本の針の山を喰い荒らしたそれを丸ごとそのまま過去から持ってこられた挙句、たった一席の安全地帯から蹴りだされた今や、失うものなく生き延びる手など我らにあろうはずもない。
――星符「ドラゴンメテオ」
刹那、レーザーの輪から掻き消えた魔理沙は遥かな上空に飛び上がっていた。
『ぐああっちぃ……ちくしょう、彗星に続いて回避に二枚も使っちまった!』
ステージ6の灼熱を防ぐため常に耐熱魔法を張っていたとはいえ、火傷で済んだのは僥倖である。
『……けどツキは落ちてないぜ? かつての灼熱地獄か。開けた地下空洞で助かったぜ』
焦げた前髪に顔を顰めて、そのまま魔理沙は八卦炉をレミィに向けて照準する。ドラゴンメテオは天から地を穿つ超出力レーザーだ。スペルの開放は魔理沙を一瞬で上空に運び、マスタースパークと遜色ない熱量を眼下の敵に叩きつける。
「良く避けたわ」
賞賛に値する機動性。私にはないものだ。
「けど……」
やられた。咲夜の狙いはスペルカードの空費だ。上昇転移による回避を主眼にしたドラゴンメテオでは、レミィを狙撃するにあたってベストの位置を選べない。回避のついでに放たれるレーザーが最速の悪魔を捉えることなど不可能である。スペルカード戦においてカードが底をつくということは即ち敗北を意味する。スペルカードを失っては美も強さも競うことなど叶わない。
『私からも贈るわ。良く避けたじゃない、魔理沙』
『レミリア……!』
再生したノンディレクショナルレーザーが命中するならそれでよし、そうでなくとも何らかのスペルカードを回避に回さざるを得ないのならば、レミィと咲夜はその一枚分勝利に近づくことになる。
『四枚目はドラゴンメテオ。さあ、あと一枚ね』
『にゃろう、舐めやがって。見てろよパチュリー、絶対あいつにブチ込んでやるからな!』
八卦炉から伸びる出力過剰のレーザーサイトが二重円環の中心を貫く。狙いはこの上なく正確。数秒後には超火力の光の滝がレーザーサイトを追うだろう。だがそれでは足りないのだ。速度に溢れ、時間と空間に背中を押され、運命にさえ愛された悪魔が相手となれば、正確なだけの射撃では掠り傷一つ負わせることはできないだろう。……ならば私がすべきは何だ。考えろ。前線を離れ弾幕に身を晒すリスクを魔理沙一人に押し付けたのなら、思考こそが我が責務。避け得ぬ攻撃を避け、当て得ぬ照準を定めて気炎を上げる相棒のために、私がとれる最良の一手とは。
「……続けて第五を開放」
『な、おいっ!?』
月の光を右手に集め、木々の息吹に投射する。
――屁理屈はさっきと同じだ。ドラゴンメテオが避けられるなら、避ける逃げ場を奪えば良い。今度はより徹底的に。
『最後の一枚だぞ!?』
「今使わずにいつ使うのよ。此処が分水嶺よ。……そのためのスペルでしょう」
言いながら脳裏で詠唱は終えている。右手に滾る静謐な雫。翠化した黄金色を通信機に叩きつけて地獄で咲けと散華させる。鼻につくフィトンチッドの毒の匂いは月下の森林浴を思い出させた。
『――っ! 無茶しやがる……通信機壊れても知らないぞ!』
「いいから貴方はさっさと魔力を充填して。一秒でも早くメテオを撃つのよ」
獄炎揺らめく灼熱地獄の釜の底に、清涼な風が一陣吹いた。次いで舞い散る二色の雪は、黄化と翠化に研ぎ澄まされた一辺100mmの
魔力の刃。刃は熱気に煽られながらも、螺旋を描いて世界を埋め尽くす。
――月木符「サテライトヒマワリ」
『これは……』
「翼を折らせてもらうわよ、レミィ」
降り頻る刃の細雪。逃げ場を奪う翠と黄金は、その実一枚一枚に破格の魔力を込めた散弾の雨だ。木がしなやかに、月が滑らかに磨き上げた刃は敵に触れると切創を与えた後に爆散する。吹き飛ばされた相手は次の刃、その次の刃と被弾の連鎖に巻き込まれるのだ。月木符の用途は空間の制圧。二色の刃はフットワークを殺す致死の粉雪である。
『足を止めたところをドラゴンメテオで狙い撃ち。悪くないわね』
既にノンディレクショナルレーザーは消失している。当然だろう。目標の魔理沙が圏外からの精密射撃を狙っている今、円環はレミィの逃げ場を削るだけだ。
『あちらの手札はこれで打ち止め。正真正銘最後の一手でしょう。……お嬢様』
『ええ。フィナーレよ。使いなさい、咲夜』
阻止も警戒も及ばぬ一瞬だった。魔理沙の魔力が溜まる寸前、レミィに促された咲夜は何の気負いも口上もなく、至極あっさりと宣言した。
――奇術「ミスディレクション」
誤誘導を冠する咲夜のスペルだ。本命から意識を逸らす必殺の虚像。だが……
『はっ、残すスペカを間違えたな! パチュリーが逃げ場を潰した今、求められるのはパワーだぜ。小手先の奇術で私のメテオは防げない。カードは四枚でいい、なんて余裕カマしたツケだぜレミリア!』
言い終えると同時、魔理沙の魔力が八卦炉を満たした。満を持して放たれる光はかつてない規模の極太レーザーだ。
『いっけぇ!』
全力を火砲に託して魔理沙が吼えた。瀑布の如く迸る星符は周囲の刃を誘爆させて、空を切り裂く隕石のようにレミィを目指して駆け下りる。
「……そういうことね。ミスディレクションは幻惑の花。わざわざ宣言されて見惚れる間抜けに見えるかしら?」
これで最後。ありったけの魔力をスペルに込める。今や刃は地獄の空を二色に染め上げ、その一枚だけで百の咎人を鏖殺する。
「貴方の敗因は驕りよレミィ。咲夜と組んで有頂天になるのも分かるけどね。相手の特性を侮った貴方の負けよ」
我が二つ名は動かない大図書館。自己を中心に広範囲を焼き尽くす全方位火力は、言うなれば固定砲台だ。一方の魔理沙の売りは高速機動と直線火力。二人が組めば互いの死角を補い合える。チェスでいえばナイトとクィーンを兼ねる駒だ。チェックの範囲に隙はない。
「詰みよ、レミィ」
七曜の魔女のありったけを受けて、最初に音を上げたのは通信機だった。核としたベリルが砕けたのか。胡桃を割るような音に遅れて地下からの声にノイズが混じりだす。映像も秒刻みで色を失っていく。が、構うことなどない。此処が地獄の終点だ。パチュリーランド従業員の確保を終えた今、この勝利を以って此度の異変は解決される。惜しむとすれば相棒の笑顔が見れぬことか。だが、顔を見れば毒づく二人だ。勝利の味は一拍おいて、酒で薄めるくらいが丁度いい。
『分かってないわね』
「……?」
不鮮明な映像に目を凝らせば、確実に迫る被弾を前に、レミィは冷や汗一つかいていなかった。
『咲夜がミスディレクションと言ったんだ。騙されるわ。ええ、パチェも魔理沙も絶対に引っかかるわよ』
レミィはそこにいない咲夜に寄り添うように目を閉じた。
「――っ!」
それを見て背筋が凍ったのは、果たして私だけだったのだろうか。
「魔理沙っ!」
『ああ!』
何かに背中を押されて壊れかけの通信機に更に魔力をブチ込んだ。まるで魔女の釜だ。ありったけの呪いと祈りを蝙蝠の血で煮込むのだ。
「ええ、そうでしょう。レミィは咲夜のことなら何でも分かるんでしょうよ!」
比翼のつがいの如く二人はいつも一緒である。互いの存在を100%理解しあっているのだろう。二重の揺籃で包みあうような信頼が、自分達に負けなどないと、揺らぐことなく二人を支えているのだ。
『仲がよろしくて結構だなあオイ!』
レミィと咲夜の間にある絶対の絆、相互理解。100%を誇る彼女らに対して、私と魔理沙のそれらはせいぜいが20%といったところだ。私は生え抜きの魔女である。粘り気のある芋泥棒が綴る粘菌記録などに興味はない。魔理沙にしても同じだろう。我が崇高なるパチュリーランドの意味を彼女は毛ほども理解できまい。
「けどね、20%で十分なのよ」
言って、強く魔理沙を意識する。……上級魔法の融合に秒を要しなくなったのはいつ頃からか。魔導演算概論における禁忌に手を染めてはや数年。属性間の合成魔法において我が手腕に並ぶ者はないだろう。灼熱の地の底で荒れ狂う木と月の符は今、新たな属性を加えて一際容赦なく地獄を蹂躙する。
「合わせて、魔理沙!」
『任せろパチュリー!』
叫ぶ。
――月木星符『ドラゴンヒマワリ』
驟雨の如く降り注ぎ世界を覆う黄緑の刃の一部が、ドラゴンメテオの極太レーザーへと変性していく。その強引極まりない置換は刃全体のせいぜいが20%。だが無限を思わせる刃雨の二割がうねる光の瀑布となれば、世界にその身を隠す場所などはない。
『文字通り、今度こそ逃げ場はないぜ!』
……はじめは1%も理解できない脳菌だった。だがこのパチュリーランドで働く仲間を探す地下探索は勇者の旅路。艱難辛苦を共にするクエストはパーティの絆を否応なく深めていくものだ。ツブれたパン屋のオヤジの慰撫や、旅行代理店による魔王の懐柔といったワケの分からん道のりは、私と魔理沙の心を確実に近づけていたのである。ラストダンジョンまできて漸く20%ってのはどうなんだという気もするが、そこはそれ。所詮魔女と粘菌術師、相互理解には限界がある。
『おっしゃあ! 喰らいなレミリア! 東大までフッ飛ばしてやる!』
それは別の植物であるが、その気概は悪くない。限界を超えて顕現した大口径レーザーの隊列は正に暴虐なる龍の如し。残る八割の刃を呑み込みいたるところで爆炎を散らす龍の群れは
、木のようにしなやかに、月のように滑らかに、そして夜空を駆ける流星のように激しく一途に想いを遂げる。今や眼下は光の海だ。仮借ない荒波に紅い悪魔が消えていく。
「どう、二割で十分でしょう?」
ドラゴンメテオの売りはその名に恥じぬ大火力だ。一たび触れれば引きずり込まれ、磨り潰される光の激流。今やそれが戦場全域を覆い尽くしている。絡み合う瀑布に隙間はなく、重なり合ったレーザーは互いの火力を増幅させる。逃げ場などない。ドラゴンメテオとサテライトヒマワリ、どちらも回避の余地ある弾幕の一つだが、遊びの凹凸がぴったり嵌ればそれは被弾必至の凶器と化す。先の未来を縛る鎖とは別の意味で必中の攻撃。そう、紛れもなく此処は地獄。術者の魔理沙を除き全てを焼き尽くすディーテの市だ。
『はっ……はあ……。最後のスペルも無駄だったな。ナイフ一本分の隙間もないぜ』
ブツブツと途切れる声で魔理沙が薄い胸をそらす。魔力を絞り尽くしたのだろう。荒い息で汗を拭う姿がコマ落ちで近づいてくる。どうやら無茶な駄目押しのせいで通信機が限界のようだ。脆弱と責めはしない。寧ろ良くもったといえるだろう。砂嵐に侵食される映像は流星群の奔流のみ。どれほど目を凝らしてもレミィの姿は見えなかった。勝利に笑う魔理沙がこちらを向いて何やら頬を染めている。
『あー、パチュリー』
「……何よ」
『いや、何だ。その……お、お前のおかげで――』
言の葉が音もなく切断された。最後となった帽子のつばを引いて必死に顔を隠す魔理沙の映像は、鮮明ならばその筋のアレに高く売れそうな乙女っぷりであった。
「馬鹿ね」
だから、つい笑ってしまった。
「私がこなけりゃレミィも大人しくしてたわよ」
引き戻された静寂の部屋で独り言ちる。窓からは夜を穿つ大きな満月。咲夜の紅茶で喉を潤す。かけた椅子の背もたれに頭を乗せて、親友の顔を思い浮かべた。ああ、そういや月満ちた夜にレミィを負かしたのは初めてではなかったか。
「さて、全く手のかかる。まずは神社で小悪魔と合流して、青田刈りしたパチュリーランドの仲間達に声をかけて、魔理沙も上がってきてるだろうし……それからまあのんびりと、ピチュったあの子を迎えに行ってやるとしますか」
達成感に口元が笑みを形作るのをぐっと堪える。間欠泉の異変も収まっていることだろう。
「どうせ咲夜が真っ先に向かっているんでしょうけど」
軽く伸びをして脱力する。魔力を使い果たし、身体も思ったより疲れているようだ。大きく息をついて軽く頭を振る。纏わりつく気怠さを振り切るように立ち上がろうとして、
「ほら、騙された」
ひやりとした小さな腕に、ふわりと背中から抱きしめられた。
∇
「……どういうこと。ミスディレクションってそんなスペルじゃないでしょう」
「んー、まあスペルというかテクニックというか。パチェも魔理沙もあっちの私に気をとられて、本命のこっちに気付かなかったでしょ?」
後ろから私の首に抱きつくレミィは上機嫌だ。私の苛立ちが楽しいのだろう。そういう性格である。
「だからそんなスペルじゃないでしょう。あっちだのこっちだの、存在確率を弄るなら別のスペルのはずじゃない」
だとしても釈然としない。あの地下の底から此処まで何キロ離れていると思っているのか。確かに咲夜は紅魔館にいるのだろうが、大深度地下にいるレミィを瞬時に地上に送るだなんて、それこそ人間技ではない。
「何かやったわね」
肩越しに私の目を覗き込んでくるレミィをじと、と睨む。
「そりゃやったわ。弾幕ごっこだもの。如何に美しく相手を叩きのめすか。そこに趣向を凝らすのは当然じゃない」
「……そう、五枚目を使ったのね。何よ、自分達はあと四枚でいい、なんて啖呵切っちゃって。結局四枚じゃ手詰まりだったんじゃない」
しかも私も魔理沙もスペルの宣言を聞いていない。まあ、通信機が壊れた後に宣言したのかもしれないが、それでは最後の合成スペルをかわす術がない。
「あ、酷いなパチェ。私のこと卑怯者だと思ってるでしょう」
「ええ。出来ないことは言わないでほしいわね。そりゃあ四枚でも五枚でも好きにしろとは言ったけど、負けそうになったらこっそり使うなんて潔くないわ」
「もう、私たち、五枚目なんて使ってないわよ」
「嘘」
「嘘じゃない」
「嘘よ」
「嘘じゃないって」
「使った」
「使ってない」
「馬鹿」
「馬鹿じゃない……なに、泣いてるの?」
「泣いてない!」
泣くか、ばか。
「あーもう。パチェは負けず嫌いだなあ。それじゃ種明かし。私が此処にいるのは、とあるスペルの効果です」
「ほら御覧なさい。スペルカードを使ったんじゃない」
「ええ、使ったわ。けどそれはパチェの言う五枚目じゃない。奇術「ミスディレクション」の後にスペルは一枚も使ってないわ」
「嘘」
「だから嘘じゃないって。順序を言うならそれこそ一枚目のスペルだよ」
「……え?」
一枚目といえば二重のノンディレクショナルレーザーを回避したトンネルエフェクトだ。まさかあの時波動関数の揺らぎとやらで、既に地上にレミィを発生させていたとでもいうのか。そんな馬鹿な。あの超長距離でそんな真似ができるというなら、それは万能が過ぎるというもの。人間の咲夜の所業では断じてない。
「ハズレを考えてる顔よ、パチェ」
「トンネルエフェクトではないというの」
「違う違う。それは二枚目でしょう」
ぱたぱたと手を振ってレミィは吹きだした。失礼な動作である。
「パチェの悪いところは人の話を聞かないところね」
「……それは貴方の短所でしょう」
「私はいいの、咲夜が聞いてるから。……言ったでしょ、パチェ。既に一枚使っているから残り四枚でお相手するわ、って」
だがそれは……いや、そうか。獄符「千本の針の山」はさとりのペットが作ったセットだ。一枚目のスペルを探る思考を、私は確かに放棄していた。
「……なるほどね」
肩の力が抜けた。首筋に絡みついたレミィの頭に、こつ、と自分の頭を軽くぶつける。
「で、何を使ったの?」
「禁忌「フォーオブアカインド」。混ぜろとフランが煩くてね。カード一枚分手伝ってもらったのよ」
「呆れた。支援者のスペルじゃないわ」
「紅魔仕様は支援者の切り替えが可能よ。体験版で言ったじゃないの」
「……体験版って何よ」
「どうせ完成品を買うから、なんて理由をつけて例大祭で本家に並ばなかったのがパチェの敗因ね。結局web体験版もやらずに完成品だけ買ってきたんでしょ」
「だから何の話よ!」
「勝負は体験版から始まっているのよ。情報収集を怠ったパチェの負け」
なんだか良く分からないがムカっ腹が立つ。なので、すぐそばにあるレミィの頬を抓ってみる。
「何よ。痛くないわ」
抓る。
「痛くない」
抓る。
「痛くないもん!」
抓る。
「むぎー!」
抓られた。痛ぇ。
「で、卑怯にも予めフォーオブアカインドを使っていたレミィは、四人のうち一人だけを残して地上に引き揚げていたというわけね」
「何で卑怯なのよう」
「卑怯よ。……どんな分かれ方してたの」
単純に力を四分割した上であの弾幕ごっこを演じたというなら、それは卑怯どころか恐ろしい話だ。
「んん? ああ、魔力は殆ど地下に置いてきた。後は適当ね。カリスマを集めた私とか、愛嬌を集めた私とか」
なるほど。今相手にしているレミィは普段よりも幼く感じる。なけなしのカリスマを他に集めた結果だろうか。
「地下に一人、此処に一人。後の二人は何してるのよ」
「一人は咲夜の膝で寝てたわ。もう一人はフランと美鈴と一緒におやつ食べてた」
「何処に居るのよ。カリスマを集めた個体は」
「んー、どっか行った」
駄目だこの吸血鬼。
「地下のがピチュったからね。しばらくしたらもとに戻すよ」
「ああ、結局最後の弾幕で被弾したのね。……それじゃ私たちの勝ちじゃない」
「魔理沙は今もそう思ってるでしょうね。けど私はここにいる」
ぐりぐりと頬を押し付けてくるレミィ。ひんやりした肌が気持ちいい。それが逆に癇に障る。
「勝敗なんてそんなものよ。数ある異変を解決して、倒したと思った相手は本当に負けているのかしら」
「哲学?」
「量子力学よ」
魔力の大半を有したレミィを退けたことに違いはない。それが相手の思惑通りだったというだけのことだ。今頃魔理沙は凱歌を歌いながら地上に引き返してきているのだろう。通信機が壊れていて良かったかもしれない。
「異変の解決を横取りして、主演の魔女を踊らせて。さぞかしいい気分でしょうね」
「否定しないわ」
レミィはふふんと笑う。その余裕がチリチリするのだ。
「性悪ね」
「そう?」
「底意地が悪い」
「そうかもね」
「鬼」
「いやいや」
「悪魔」
「そうね」
「いつもいつも何でもお見通しって顔で余裕ぶって」
「……」
止まらない。
「綺麗なメイドを侍らせて、豪奢な館で遊び暮らして」
ああ、さっきから情緒不安定だ。
「人でなし」
「ええ」
「エゴイスト」
「そうよ」
「マダムキラー」
「マダムキラー?」
「鬼」
「だから違うって」
「悪魔」
「……うん」
一際強く、ぎゅっと抱きしめられた。
「……おしまい?」
「……ええ」
「まだあるでしょ?」
「ないわよ」
やれやれと息をつくレミィ。そして出来の悪い学生を諭すように。
「人でなしのエゴイスト。マダムキラーで鬼悪魔。……そして貴方の親友でしょう?」
真っ白な封筒を渡される。
「……?」
封蝋を割って出てきたものは二枚綴りの上質紙だった。
「これは……」
「幸ある未来の共有こそが友情の最もアツい部分よ」
【賃貸人古明地さとり(以下、甲という)と、賃借人レミリア・スカーレット(以下、乙という)との間において、次のとおり契約する――】
「土地賃貸借契約書?」
対象物件は地霊殿本宅の一角。賃料は月に一度のこいしとの弾幕ごっこだ。
「……レミィ?」
これによればレミィは向こう20年に渡り、賃料の遅滞がない限りは地霊殿の一部を好きに使えるとのことだが……。
「パチェの好きにしていいわよ」
「好きにしていいって……」
そういやレミィと契約をしたと、さとりが言っていた気もするが。
「どう言い繕っても流刑地さ。人材はともかく、他に目ぼしい土地なんてなかったからね。少しばかり借りてきた。要らなきゃ魔理沙にでも又貸しするわ」
そう。地獄の底まで探しぬいて、遂に見つけられなかったパチュリーランドの建設用地。こうなったら開き直って神社の境内にでも快楽の殿堂をおっ建てようかと考えていたのだが……。
「ああ、レミィ。貴方こそ本当の理解者よ」
未来が薔薇色に光りだす。振り向いて、小さなレミィをかき抱いた。
「そうでしょう、そうでしょうとも」
満足げに抱きついてくるレミィの頬にキスをする。
「金地人。機は熟したわ。ええ、魔理沙になんて渡すものですか」
灼熱地獄の上に建つのは湿った副都心などでは断じてない。パチュリーランド、それは愛を育む魅惑のテーマパーク。金で買える快楽がギッシリ詰まったこの世の楽園である。
「今夜は飲むわよ。異変解決祝賀会と楽園建立の前祝よ!」
「そう言うと思ったわ。紅魔館に帰りましょう。咲夜が70年物を用意してるわよ」
「イヤッホゥ!」
小さなレミィを抱えてくるくる回る。ダボダボの服でそんなことするもんだから、引っ掛かった机上の本やキノコが凄まじい音を立てて散乱するが、そんなことは些事である。
「そうだ、パーティには魔理沙も呼んで頂戴」
彼女も間違いなく楽園の立役者だ。
「安心して。咲夜が今、魔理沙やさとり、パチェが青田刈りしたであろう風俗店の店員たち全員に声をかけているわ」
「流石ね。最速の手配だわ」
「ふふん、今夜は寝かさないわよ」
「ああ、素敵よレミィ」
レミィの手をとり、存分に散らかした霧雨邸のドアをくぐる。冷やりとした大気が火照った頬を撫でた。吐く息が白い。見上げた空では月が祝福に満ちていた。
タグ【紅魔式地霊殿】から前作に飛べます。
このパチュリー・ノーレッジには夢がある。
「ねえ魔理沙。人や妖怪が満ち足りた生を送るために必要なものは何だと思う?」
『キノコ』
恋人の時間。子供の笑顔。幸福の象徴であるが、昨今それは酷く得難く失いやすい。
「それを皆が平等に手に入れられる場所があったとしたら?」
『独占する』
私は人々の幸福を祈りたい。彼らに笑顔を。愛に時間を。誰もが幸せを享受できる楽園を作り上げたいのだ。
「貴方なら、そこにどんな名前をつけるかしら?」
『菌糸町』
名付けてパチュリーランド。床だけ鏡で出来たミラーハウスをはじめとする夢一杯のアトラクションと、げっ歯類をモチーフにした生々しいマスコットキャラが出迎える、金で買える快楽がギッシリ詰まった魅惑のテーマパークである。
「貴方に子供の笑顔の価値が分かるはずもなかったわね」
『こっちの台詞だぜ……』
通信機を挟んでため息をつきあう。夢を解さぬ女である。その湿った副都心にどんな幸せがあるというのだ。
「その趣味は1%も理解できないけれど、まあいいわ。それより日の光も遠くなってきたようね。そろそろ出迎えのある頃よ」
『ああ、なんといっても異変だからな』
我が現在位置は霧雨邸。家主の魔理沙は地の底にいる。
発端は神社の間欠泉だ。狩猟生活者特有の殺伐を常とする巫女の目尻が緩んだあの日、博麗神社には温泉成金へと続く道が確かに存在した。突然の間欠泉の出現に文句などあるはずもなく、霊夢はまっすぐその道を歩いた。里の大工に温泉宿の建築を依頼し、宿の繁盛と客の健康を祈って八雲家からマッサージチェアを強奪した。が、計画はすぐに陰りを見せた。間欠泉は湯だけでなく、地霊をも吐き出しはじめたのだ。これでは温泉宿どころの話ではない。哀れ霊夢は裕福な妖怪に的を絞った狩猟生活に舞い戻っていくのだが、悲哀といえばむしろ資材と職人の手配を済ませてしまった里の大工の親父であり、世間の同情がもっぱら彼に集まる当然を前に、霊夢のご機嫌は日に日に悪化していくばかりであった。
〝これは異変よ〟
都合が悪くなると即座に異変扱いするのは如何なものか。だがその経緯に若干の私怨を感じさせるものの、確かに博麗の直感に狂いはなく、地霊の湧き出す間欠泉は地下に端を発する異変であったのだ。
そうとなれば私がとる道は一つである。此度の異変、解決に向かうは日暮れには不貞寝を決め込む最近の霊夢ではなく、むしろ魔理沙の方だろうと踏んだ私は自らそのサポートをかってでた。無論目的は世界の為だ。行き来の難しい地下世界、手付かずの土地は必ずある。そこに夢を叶えるテーマパークを建てることは、幻想郷全ての幸福に繋がるだろう。地下不可侵の了解も問題ではない。メキシコ北端の金網を見よ。夢の国への入国のためなら、人は命すら賭すものである。地下であろうと客は来る。
そんな訳で夢のタッグが完成した。異変を解決すべく汗水たらして地下を目指す魔理沙と、彼女の自宅でニルギリを飲みつつ楽園の下見をする私。通信機を搭載したオプションを挟んで互いの夢を嘆きあう今この瞬間は、そうした紆余曲折の果てにある奇跡の一つなのである。ちなみにこの通信オプションは私の手作りだ。動画と音声だけでなく、魔力とそれを利用した現象行使の送受信が可能な優れものである。妖怪は地下に立ち入らない。幻想郷では割りとポピュラーなこのルールに則る名目で、肉体労働を魔理沙一人に押し付けたのだ。魔力の提供くらいは行ってしかるべきだろう。彼女の双肩には幻想郷と桃色のテーマパークの未来が圧し掛かっているのだから。
「こちらから見る限り、接敵の兆候はないわね。……どう、肉眼で何か見える?」
『いや、何の変哲もない洞穴だな。ちょっと前に進行方向を〝冥道〟と示す標識があったくらいだ。なあ、冥道って何だ?』
「パン屋よ」
『……ほんとか? 向こうからやってくるのは香ばしさとは無縁の死臭や金切り声なんだが』
「ベーカリーのウリは、死臭や金切り声に負けないくらい、ふっくらモチモチの店長よ」
『店長の質感はどうでもいいだろう。パンで勝負しろよ』
「私に言わないで頂戴。苦情は店に直接お願いするわ」
『まあ、そりゃそうだが……』
冥道とは即ち地獄である。間欠泉から地霊が湧き出すこの異変、原因は当然地獄であろう。
今回の件について、魔理沙にはただ異変が起きたとしか伝えていない。実行役に必要な初期情報はその程度で十分だろうという判断だ。解決に更なる情報が必要であれば、核心に近づくにつれ自ずと理解するであろう。……だが、それともう一つ、魔理沙に情報を制限している理由がある。地霊が湧いた数日後より、間欠泉からは更に紅い霧が噴き出しはじめたのだ。紅霧といえばウチのレミィの代名詞。愛犬と穏やかに紅茶を啜りあう最近のレミィが異変に加担しているとは考え難いが、短慮なる者が紅霧の噴出を知れば異変の黒幕をレミィと断ずるだろう。魔理沙がその例だとは言わないが、紅霧の存在を知る者が少ないに越したことはない。
「それにしても敵がいないわね」
『ああ。けど良く見てみろよパチュリー。あ、これ解像度は上がるか? その壁のとこ、弾幕の跡じゃないか?」
「……本当ね」
まばらな弾痕。この場所で過去に弾幕を張ったものがいる。喧嘩っ早い住民同士によるものか、或いは……。
『まさか霊夢に先を越された?』
「考えにくいわ。夢潰えたショックから立ち直るにはまだ早いもの」
それを惰弱と蔑むことはできない。温泉成金などという傍から見れば酷く曖昧なドリームとはいえ、夢見た者の心に張られた根は太い。無残に引き抜かれた荒廃を前に、忘れろなんて言えるはずがない。
『じゃあこの跡は……』
「待って。あそこに誰かいない?」
岩陰の向こう、昼なお暗い洞穴にあって一際闇の濃い風の澱みに、ちらりと人影が見えた気がした。
『ん……確かに誰かいるな。良く見つけたなパチュリー』
「流石に人間よりは夜目が利くわよ」
それもそうだ、と魔理沙は笑って暗がりを目指す。闇を微塵も恐れず何処にでも首を突っ込んでいくところが、この人間の稀有な美点だろう。無論それが自他の益に繋がるかどうかは全く別の話であるが。
『さあ見つけたぜ。異変の黒幕はお前か?』
魔理沙の駆けつけた闇には一人の少女が座っていた。いや、一人ではない。丸く隆起した岩肌に腰掛けた少女は怪しげな桶を手にしており、そこからさらに一人の少女が顔を覗かせていた。
「ステージ1も始まっていないのに、黒幕が登場するわけないでしょう」
少女とアルコール、そして様式美をこよなく愛する神主がそんな手抜きをする訳がない。
『いや、そうでもないよ』
「なんですって?」
桶を抱えた少女が否定する。馬鹿な。こんなところに異変の黒幕が?
『ホラ見ろパチュリー。地下探索型ダンジョンのラスボスが最下層にいるとは限らないんだぜ』
勝ち誇る魔理沙。冗談ではない。パチュリーランド予定地の下見は1ミリも進んでいないというのに……!
『いやいやそっちじゃない。あんたらの言う異変とやらの黒幕は私じゃないよ』
『何だと? じゃあ何がそうでもないんだ』
『私の否定はその前さ。〝ステージ1は始まっていない〟これが違う。ここは既に一面終盤。私は1ボスの黒谷ヤマメ、こっちは中ボスのキスメだ』
よろしくな、とヤマメは桶をくるりと回す。桶の縁にしがみついて上目遣いにこちらを見ていたキスメがそれに合わせて顔を引っ込めると、桶の中は空っぽだった。なるほど、小柄な妖怪が桶に入っていたわけではないらしい。おそらくは桶自体も彼女の一部。釣瓶落としの類だろうか。
「道中の敵もなく、中ボスはボスの膝の上。変わったステージ構成ね」
『耳が痛いね。見たところあんたは人間かな。どうやら本来のお客のようだ。出来ることなら弾幕で出迎えてやりたいところなんだけどね』
タイミングが悪い、とヤマメは再度キスメを回す。
『おい、確かに私は人間だが皮肉を言ったのは私じゃないぞ。さっきのは……』
『分かるよ。その丸いのが地上と繋がっているんだろ? 地上には支援者の妖怪がいる。……支援者は風邪でも? 呼吸の浅い話し方だ』
『妖怪も風邪なんて引くのか?』
『そりゃあ引くさ。どんな大妖怪だって、人に遅れをとることもあればウイルスに侵されることもある』
『なるほど。でも風邪じゃあないと思うぜ』
風邪ではない。埃っぽい図書館にあって、喘息の発作を起こさないための呼吸法である。……気休めではあるが。
「……それよりも貴方。ヤマメと言ったわね。随分と事情に詳しいじゃない」
『そりゃあ詳しくもなる。何せあんたたちは三組目だ』
「……既に二組も?」
通信機を前に思案する。誰だ。霊夢ではない。あの愛すべきハンターの傷は深い。では誰だ。紅い霧が脳裏を過ぎる。まさか本当にレミィが……? 仮にそうだとしてももう一組……?
『むう……先を越されたか。誰だ一体?』
魔理沙にも心当たりはないらしい。ということは妖夢や早苗でもないのだろうか。
『あんたたちの知り合いじゃないかな。近い匂いがするよ』
近い匂い……?
『最初に来たのは……腕が8本の妖怪か。あれは空気の乾いたいい夜だった。己が頬を引き伸ばし鼻と乳首を抓みながらタンバリンを打ち鳴らして、キレイな声で電波ソングを撒き散らす拳法の達人が会心の笑顔で駆け寄ってきたのさ』
「いるか。そんな知り合い」
流石に全力で否定する。一体何の達人だ。食うに困った芸人だってもう少し思慮深く体を張るだろう。そしてそんなクリーチャーに近い匂いがするだと……?
『またスゴいのとエンカウントしたな……あ、もしかして道中誰もいなかったのはそいつが大暴れして……?』
それならば無理もない。ヤマメやキスメの心の傷も浅くはなかろう。名誉の負傷である。しばしの休息を誰が責められようか。
『いや、狂乱が治まれば中々理性的な妖怪だった。気の毒に、心の病だろう。気休めだがクスリを出してやったよ』
『おお、いいことするなあ、お前』
世界にはまだまだ未知の妖怪がいる。地下の生態は驚きの連続だろうと内心期待していたのだが、まさか地上からの来訪者に度肝を抜かれるとは思わなかった。やはり旅は為になる。紅魔館に帰ったらレミィたちに話してやろう。
『大暴れは次の客さ。なんて妖怪なのかな。蝙蝠羽を生やした幼女でね。紅くてちっこくて良く跳ねる。地上の異変について幾つか話したら満足したのか、紅い槍をブチ撒けて地下深くに向かっていったよ』
『おい、それって……』
間違いなくレミィだろう。紅魔館が幻想郷にやってくる前に地下に移ったらしいヤマメは吸血鬼という種を知らないようだが、彼女が口にした傍若無人はレミィの仕業以外の何物でもない。
『お前んちのご主人様だよな』
『ほう』
間欠泉より噴き出す紅霧はやはりレミィによるものだったか。とするとレミィは異変の核まで乗り込んだ上でそれに加担しているのだろうか。いや、そうとも限らない。異変という物語自体を乗っ取ってしまったのかもしれないし、異変の黒幕にレミィが利用されている可能性もある。真相はこの目で確認するまで何も分からないだろう。
「他人の空似でしょう。イキのいいクリオネじゃないかしら」
『無茶言うな。そんなアグレッシブな流氷の天使がいるか』
「未知の肯定こそが魔術の第一歩よ、魔理沙。貴方はその身を魔法に捧げたのではなかったのかしら」
『何で明らかなクロから目を背けて、規格外の生命を想定せねばならんのだ』
「規格外ならタンバリンのリズムと共に現れたばかりでしょう。そうやって視野を狭めると魔法の幅も狭まるわよ」
『むぅ……』
適当にごまかしたが、レミィの地下来訪は確実だ。だが一体何の目的があって地下を目指しているのか。自分に害のない限り、異変を解決してやろうなんて精神構造はしていない筈だ。とすると暇潰しか、或いは輪をかけて生産性のない戯れだろうか。もしかしたら先行した八手の妖怪を追ってのことかもしれない。
「既に一面は終盤。未知の八手とクリオネに先を越された。得た情報はこれだけよ。……以降も彼らの戦跡を追うことになるかもしれないわね」
『あくまでクリオネで通す気か』
「しつこいわね。それじゃあ間を取ってクリオネ・スカーレットにしておいてあげるわ。略してクリオネ」
『……それでいいや』
うむ。
『んで、どうするんだ。ヤマメといったか。綽々としてるが弾幕(や)らないのか』
『そうしてやりたいが今はキスメがこの調子だ。やめておこう』
キスメは桶の縁から怖々とこちらを見ている。何かに怯えているのだろうか。
『なんだ。そんなに手酷くレミ……オネにやられたのか』
『いや、キスメは紅い方とは会ってない。その前の電波ソングがやってきた時からこの様子でね。どうもトラウマになってるみたいだ』
『そりゃあ仕方がないな。それ程の達人に出会ってしまえば誰だってそうなる。夜道で出会いたくない妖怪ナンバーワンだ』
『悪い奴じゃあなかったんだけどねえ』
『本物の変態ってのは人当たりがいいものさ』
幼い外見ではあるがキスメも立派な妖怪である。それをこうまで怯えさせるとは、タンバリンの達人にも注意が必要かもしれない。
『感染症の類なら何とかしてやれるが、心の傷が相手じゃどうしようもない。せめてこうして抱いてやるしかないのさ』
『それは邪魔をして悪かったな。先を急がせて貰うが、お大事にな』
箒に跨り魔理沙は先に進もうとする。が、
「ちょっと待って。……ヤマメ、あなた感染症なら治癒できるのかしら」
まだこちらの用が済んでいない。暗鬱としたステージ1がパチュリーランドの用地として向かないことは明らかだが、ヤマメとキスメは使えそうだ。各ステージの目的は二つ。用地の選定と従業員の青田刈りである。
『治すばかりじゃあないが、そういう能力だからね』
病を操る程度の能力。精神関係はお手上げらしいが、能力の範囲は感染症、ホルモン異常、投薬の副作用といったところだろうか。
「その能力を見込んで相談があるわ」
『ん?』
「今に地下には博愛の楽園が出来上がる。あなたにそこの医務室を任せたいのだけど、どうかしら」
『博愛? 抽象的だね』
「詳細は直接見て貰いたいわ。……キスメ、あなたにはヤマメの助手をお願いできるかしら」
『キスメにもやらせる気?』
「他者との接点は心の傷の薬になるわ。あなたと二人三脚なら効果も一入じゃないかしら」
『ふむ……』
最近のテーマパークは医療施設が欠けると営業許可が下りない。異変の黒幕までの道中、病に精通している者がいれば是が非でもスカウトしようと考えていたのだが、まさかイキナリ出会えるとは。
「今なら桶のヌメりに良く効くクリーナーを進呈するわよ」
『はは。前向きに考えておこう。ほら、急ぐんだろ? 今地下はお祭りだ。行ってきなって。その間にキスメと話して結論を出しておくよ』
「そう。それじゃ期待しているわ。……魔理沙」
行きましょう、と魔理沙に先を促す。勧誘は焦らず諦めず。爽やかな粘着気質が勝利の鍵である。
『んじゃ今度こそお大事にな』
言って、魔理沙は風のように飛び立った。流石に日頃速度を誇るだけのことはある。既にステージ1は小さく遠い。
『博愛の楽園だって?』
「愛は正義よ」
『ルビはエロスだろ?』
「何か不都合でも?」
医療班の獲得をもって一面クリア。レミィの目的と珍奇な先行者の存在が気になるが、このまま先を目指すしかあるまい。願わくば、彼らの蹂躙がパチュリーランド建国に支障のない範囲であることを。
∇
『さて、状況に変わりがないわけだが』
「……そのようね」
見渡す限りの暗い闇。変化といえば、潜るにつれ次第に緑がかる周囲の岩壁くらいのもので、広がる景色はヤマメのいたステージ1と大差がない。
「暗い緑はドレライトかしら。……幻想郷で過去に火山活動が活発だったという話は聞かないけれど、何処か遠方からマグマの侵食を受けたことがあるのかもしれないわね」
『岩の色なんてなんだっていいさ。問題はそこじゃないぜ』
代わり映えしないのは景色だけではない。既に相当な距離を飛んでいるのだが、ステージ1に引き続き一向に敵が現れないのだ。
『見かけたのは砕けた岩に妖精一体。その妖精も襲ってくるでもなく黙々と腹筋を鍛えるばかりで、本当にこの先のパン屋に異変の黒幕がいるかどうかも怪しいもんだ。……というか、もしかして地上ではもう異変は終わってるんじゃないか』
「異変が収まった様子はない。黒幕の健在は間違いないわ」
魔理沙の地下へのダイブに前後して、小悪魔には博麗神社近くの間欠泉に飛んでもらっている。間欠泉に異常があればすぐに私に連絡が入る段取りだ。紅霧の発生を伝えてくれたのも小悪魔である。
『でもヤマメの話じゃ既に二人も先行してるんだろう。なあ、もうそいつらに任せておけばいいんじゃないか』
「いいわけないでしょ。その手で解決せずして何が自機よ。大体先を行ったタンバリンの達人とクリオネが異変の深部を目指している保障なんて何処にもないでしょう」
何よりパチュリーランドの下見がまだでしょう。
『達人の方は知らんが、クリオネは異変のことを知っていたらしいじゃないか』
「異変の知識だけなら豆腐屋だって持ってるわ。異変の存在を知ると同時に解決に向かうばかりが人じゃない。縦しんば目的が一緒だとして、無敗を貫きラスボスを撃破できるとも限らないでしょう」
そして辿りついた先で、輪をかけて厄介な傍迷惑を撒き散らさないとも限らないでしょう。
『いや、あいつなら最後までいけるだろうさ』
『!?』
突如、落ち着いた声が通信に割り込んだ。慌てて辺りを見回す魔理沙。合わせて私も目を凝らす。どうやらぼんやりとした緑はすぐ先で途切れ、続いて大きな橋が架かっているようだ。
『保障なら私達がするさ。なあパル?』
『どうかしらね』
声の主は橋の中ほどからこちらを見ていた。欄干に背中を預けた長身の女と、その横にちょこんと腰掛けた少女の二人組。共に金髪。一人はノッポで更に鬼。欄干に腰掛けた少女の方は一見種族不明であるが、尖った耳を見る限りペルシャ人だろうか。
「……なるほど。あなた達がクリオネに倒された2ボスと中ボスというわけ」
トップスピードで二人のもとまで飛んできた魔理沙の裏から問いかけた。
『クリオネ? あのちんまいののことかい? んー、一割正解ってところかな』
『落第点もいいとこだな』
『まずそのクリオネとやらと私達は弾幕(や)り合ってないし、そもそも私達は2ボスと3ボスさ。私が勇儀。こっちがパルスィだ』
『また二人同時か。手抜きじゃないのか。3コマチだな』
平日朝十時にレンタルビデオを借りに来る小町は、最早幻想郷において怠惰の単位となりつつある。現在のレートは1コマチ=2%の減俸である。
『小野塚か。あいつの上司も我慢強いね』
小町の乱行は地下にも伝わっているらしい。
『知ってるか、人間? あいつはスゴいぞ。入庁時の履歴書に書き殴った〝好きな言葉〟が〝お先に失礼します〟だからな』
『重役出勤してきた挙句、誰よりも早く家路につくのかよ……』
正直すぎる。政権交代を機に仕分けされてしまわないか、心配になってくる女である。
『しかし詳しいな。知り合いなのか』
『昔ちょっとね。ま、ともかく乱暴者は大好きだ』
『何の話だ』
『弱点は炒った豆だよ』
『唐突にオフィシャルトークに戻すな……』
パルスィの髪を指先で弄りながら飄々と話す勇儀の額には逞しい一角が。誰がどう見ても鬼であるが、レミィとやり合っていないということは、キスメと同様達人の毒気に当てられたのだろうか。ジャグラーだかアスリートだかよく分からんが、やはり達人も要注意ということか。
「……で、手合わせもしていないのに随分と買ってるのね」
『そりゃあね。あのくらいになればパルを見れば分かる』
「へえ。〝相手の強さが分かる程度の能力〟かしら」
香霖堂の店主に近い能力である。パチュリーランドの人事課に是非欲しい逸材だ。
『いんや。パルの能力は嫉妬さ。度が過ぎると涙目になるから分かりやすい』
からからと笑って人差し指でパルスィの耳を撫でる勇儀。どうやら勇儀の解説に気分を害した様子のパルスィは、つん、とそっぽを向いて勇儀の指を振りほどくと踵で勇儀の爪先を踏み躙るが、勇儀は気にした風もなくパルスィの肩を引き寄せた。
『残念。あんたはパルメーターに引っかからないみたいだね』
『乙女の涙を気圧計みたいに……』
なるほど。確かにレミィと魔理沙との実力には少なからず隔たりがある。魔理沙を見るパルスィの瞳に潤む様子はなかった。
『……ちょっと、あんまり見ないでくれる』
オプション越しの凝視に気付いたか、パルスィは半歩勇儀に隠れた。
『いいや見るぜ。売られた喧嘩は相手の目を見て買うもんだからな』
そして、無論魔理沙はいい気はすまい。ワケの分からん基準ではあるが、面と向かって閾値以下を宣言されたのだ。
『んー、別にそういうわけじゃない。いや、ちんまいのの前に珍しい生き物が来てね。なんと耳から幼女の腕を出し入れする芸人だ。そいつと中々面白い勝負が出来た。今はその余韻が心地良いんだ。誰彼遣り合おうって気分じゃあない』
勿論売られれば買うがね、と勇儀は実に楽しそうである。
『いいぜ。買ってもらおうじゃないか』
「待ちなさい魔理沙」
前のめりの魔理沙を止める。相手は鬼である。下手に刺激して真剣勝負でも挑まれたら面倒なことこの上ない。
『何だよパチュリー。少し早いが3ボス戦だ。手間が省けるだろ』
鬼の特性は吸血鬼に近い。明確な弱点が存在する代わりに魔力、身体能力が全体的にブーストされた種族である。正面からぶつかれば相当に骨が折れるし、下手に弱点を突いて倒しきれなければ、それこそ面倒なことになる。リスクは回避すべきだ。パチュリーランド下見の継続こそが現在の最優先事項なのだから。
「やめておきなさい。鬼のタフネスは萃香で知ってるでしょ。萃夢想と違ってこの後道は長いんだから、避けられる消耗は避けておくのよ」
『平気だ。任せとけ。恋符の一発で片付けてやるぜ』
魔理沙は既にカードのセットに入っている。その目は二人に喰い付いたままで、北風の説得は逆効果のようだった。
「……そう。確かに一撃でしょうね。底をついた体力に追い討ちをかけるのだから」
『うん?』
闇に馴染んだ目で見れば勇儀は傷だらけである。打撲傷に擦過傷、火傷に切創と満身創痍だ。ぼろぼろの体で、しかし顔だけは酷く満足げな勇儀は、不器用に貼られた絆創膏を撫でてはまた笑う。
『なに、掠り傷さ。気になるなら剥がしたっていい』
『ばか。だめよ』
首筋の絆創膏に指をかけた勇儀をパルスィがハタいた。良く見れば絆創膏は急所に集中している。それは一見すると奇妙な怪我である。
「変わった傷跡ね。火傷や切り傷は急所に集中しているのに、打撲や擦り傷は関節をはじめ四肢に集まっている。……本当に面白い勝負だったのかしら」
それは複数による狩の痕だ。素手、或いは鈍器などを持つ者が四肢を狙って動きを封じ、本命の火器や刃物による攻撃をサポートしたのだろう。得物と役割の非効率に若干の不思議はあるが、その精密な傷跡を見れば勇儀の相手が相当の連携をもって襲いかかったことが窺い知れる。傷のないパルスィを見れば多対一は明らかだ。そんなものを楽しいと笑うのならば、目の前の鬼は正に鬼神かマゾヒストか。
『良く見てるね。地上の妖怪は』
これまでの会話から分かっていたことではあるが、やはり勇儀たちは今回の支援形態を良く知っている。とすればやはり勇儀の相手は地上からのバックアップを受けたプレイヤーキャラクターの位置づけにある者だった可能性が高いが、一体誰が斯様な傷を付けられるのか。通信機はもともと着色した魔力を送るものと限定して設計している。畢竟その活用は現場の人間に委ねられ、プレイヤーサイドは自機+支援者という二人組みでありながらも、それは単に火力を上乗せしただけの単体突入に他ならないのである。攻撃の色にバリエーションは加わるが、攻撃主体はあくまで一人。攻撃の方法によって狙う箇所を絞る意味は極めて薄く、むしろ単調な攻めは相手に見切られやすくなるはずなのだ。それは仮に腕が複数あっても同じこと。たった一つの脳と胴に接続されている以上、手数の有利を制限するだけである。
「そこの鋼の粘菌術師が猪突過ぎるのよ」
『おい、キノコの侮辱は許さんぞ』
「安心して。侮辱されたのはキノコじゃないわ」
『ならいいが』
複数者による攻撃の分散でなければデメリットにしかなり得ぬ攻撃の跡。ハンデのつもりか。それとも何か意味のある行為なのか。
『面白いさ。ああ、本当に。二人組みなんだろう? どっちも本来の動きが出来ていないようだったが、それを補って余りある連携だった。大陸の武術かな、様式化された円と線で回避と攻撃が一体になってる。あれは支援者のクセに合わせて動いてた感じだったね。支援者も相方を傷つけないギリギリの火力に調整していたようだし、いいコンビだったよ』
大陸の武術……勇儀の表現からして拳法の類だろうか。誰だ。大陸からといえば藍だろうか。だが当時の彼女はどちらかというと、魔力と権謀術数でマクロな崩壊を導く妖怪だったはずだ。現在もそうである保証はないが、正面切ってバチバチ殴りあうイメージは薄い。
『いつになく夢中でね。頭の中真っ白さ。見境なく大暴れしそうになったところで杯の酒をぶっかけられたよ』
こんぐらっちゅれーしょん、と勇儀は肩を竦める。
「呆れたわね。そんな時でも酒を手放さないの」
『酒は命の水さ』
「豆腐屋の先代も同じこと言ってたわね」
『粋の分かる人間だね。長生きするよ、保障する。鬼は嘘をつかないんだ』
「去年肝硬変で急逝したわ」
『そ、それはウイルス性だろう。うん、ヤマメの管轄だ。鬼の保障は対象外だったはずだ』
本当ですよ? と何故か敬語でパルスィに言い訳する勇儀。パルスィはやれやれと息をつくと、漸く勇儀の爪先を解放した。
『……で、なんだ。傷は深いと。そういうわけか』
気勢を殺がれた魔理沙は行き場を失ったスペルカードをぶらぶら弄んでいる。
『ええ』『いや』「ええ」
微ハモ。
『2/3か。……やれやれ、仕方ないな。怪我人を倒すのは趣味じゃないからな』
実際戦える体ではないだろう。あちこちに付いた傷は決して浅くなく、鬼の体にそれだけの傷を残す攻撃の苛烈さを物語る。今の勇儀は遣り合えたとて一撃二撃。それも全力は望めまい。もしこの傷が勇儀でなく魔理沙にあったならば、勇儀は間違いなく戦いを求めてはこない筈。おそらくは先行したレミィもそんな理由で去っていったのだろう。妖怪の生は長い。次の機会を気長に待つだけの時間はあるのだ。
「弾幕ごっこはまた今度。今の火急は人材発掘よ」
『またそれか。さっきの二人で十分だろう』
「……! ッチュリーランッ! ッチュリーランッ!」
魔理沙の机に鎮座ましました、でっかいキノコの模型をガタガタ揺らして熱意をアピールする。一面に続いて集客力のない土地ばかりだったのだ。せめて人材確保だけでも成功させねばステージの意味がないではないか。
『分かった分かった。早くしろよ』
「むふぅ」
手間をかけさせよる。
「ねえ勇儀。怪我が治ったら思う存分戦いたくはないかしら」
『おお、いいね。別に怪我は大した事ない。相手次第だが、今すぐだっていいさ』
「少しは爪先の心配をしなさい……それからパルスィ、あなたもこの能天気な鬼ばっかり欲望を満たして嫉ましいでしょう? 彼女とペアルックで同じ満足が得られる仕事があるんだけど、どうかしら」
ぴくん、とパルスィの耳が反応したのを見逃さない。
『別に服はどうでもいいけど……考えておくわ』
グッと心で小さくガッツポーズをとる。言うまでもなく彼女ら二人の業務はバウンサー。オシャレなペアルックは揃いのダークスーツである。歌舞伎町が裸足で逃げ出す愉悦を暴利で提供するパチュリーランド、招かれざる客もあるだろう。そんな時こそ彼女らの出番だ。相手の力量に比例して楽しく仕事に励む勇儀に、そんな彼女やその相手に遺憾なく嫉妬パウアを発揮するパルスィ。正と負の用心棒達はいかなる時もレジャーランドの平穏を守る、頼もしい存在となるに違いない。
「時期が来たら連絡する。楽しみにしていて頂戴」
彼女らは快楽の番人。プレジャーランドの最終兵器である。
『やれやれ、終わったか?』
「ばっちり」
『困ったオーナーだぜ……まあいい。それじゃ次を目指すとするか』
「ええ、そうね」
収穫はあった。もうこの橋上に用はない。
『それじゃな勇儀にパルスィ。私達は先に進むが……ああ、一応聞いておくか。なあ、地上で起きてる異変について何か知っているか? 間欠泉から地霊が湧いてるらしいんだが』
紅霧についてはまだ伏せてある。
『はは。聞くことは皆一緒だね。それじゃあ答えも揃えよう。〝その辺の管理は地霊殿の奴らだね〟』
『聞いたかパチュリー。パン屋の名前が判明したぞ』
『だから商いはしてないんだって』
『〝ベーカリー地霊殿〟死臭とイースト菌が混在する、ふっくらモチモチの親父の園か。……ワケが分からんな。そんな魔窟で生計を立てようとする肝の太さには頭が下がるが』
そういやそんなことも言ったか。前言の補強にもう少し煽っておこう。
「客のニーズなんぞ知ったことかと言わんばかりのネーミングが潔いわね」
『まったくだ。パン釜に遺骨が混じっていても、ちっとも不思議じゃない』
ぶるりと魔理沙が身を震わせる。きっと頭の中では、弾力感のあるオッサンが細長いイースト菌を手に、焼き場で大はしゃぎしているのだろう。
『どうして地上の奴らは、この話題になると人の話を聞かないのかね』
『表面はカリッと、中はもっちりの中年男性だぞ。人の話なんて聞いてる場合か』
魔理沙はもう少し人を選んで話を聞くべきである。
「それじゃ行きましょうか。その地霊殿とやらに」
『ああ……なんだかドキドキしてきたぜ』
「今からそれじゃ、もたないわよ」
『あ、ああ、そうだな。……流石だなパチュリー。冷静だ』
「当然よ。魔女はパーティの誰よりもクールでいるものよ。――さ、急ぐわよ。二組も先行しているんだから」
さあさあ、と言葉で魔理沙の尻を叩く。と、
『二組じゃあない。先に行ったのは紅くてちんまいのだけさ』
勇儀から新情報が。
「あら、貴方の相手はどうしたのよ。こんぐらっちゅれーしょん、じゃなかったの」
『試合に勝って勝負に~ってやつかな。向こうも大した怪我はないがね。服も破れてたし、後から来た紅いのに促されて帰っていったよ』
「……そう」
どういうことだ。勇儀の相手はレミィに促されて大人しく帰ったという。知った仲なのだろうか。
「貴重な情報ね。助かるわ」
『とはいえ急ぐことに変わりはないだろ』
ま、そうだ。重要なのは先行者の素性ではない。明るく楽しい歓楽街の下見である。
『タンバリンの達人は三面で脱落。ふふん、体験版レベルだぜ』
「そうね。けどそもそも目的が違うのかもしれないわ」
体験版レベルで済む目的……。或いは体験が目的? ……先に進もう。今考えても詮無いことだ。
「行くわ。それじゃあ二人とも、また連絡するわ」
『おし、飛ばすぜ。それじゃな。タンバリンの達人にも、また会ったらよろしくな』
勇儀にパルスィ、そして大人から子供まで楽しめるアミューズメントマシンのような名前がすっかり定着した謎の達人に別れを告げて、風のように橋を抜けていく。
「アレとか……アレとか?」
高速に流れる景色の裏で、ネタ作りに定評のある幾人かの心当たりが、脳裏に浮かんでは消えていった。
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見渡す限りのステンドグラス。歩く床さえ極彩色の廊下は荘厳よりも怪しさが際立つ。日の差さぬ地下において如何にして採光しているのか、館はほの赤く揺らめいている。
『おい。何処にパン屋があるんだよ』
旧都と呼ばれる町並みを抜けて、辿り着いた地霊殿。ノックと称してドアをブチ抜いた魔理沙を迎える住人の姿は未だない。勿論ベーカリーを名乗る看板もない。
「兼業によるリスク分散は農家の特権じゃないわ。昼間はパン屋。夜は火葬場。パン釜の効率的な活用は、社会的信用と引換えに店主に大いなる自由を与えたというわ」
失職ともいう。
『信用に加えて店まで失ってるのかよ。分散どころかかき集めてるじゃないか、リスク』
「実利主義の悲しい結末よ。きっと奥で不貞寝しているから慰めに行きましょう」
『ああ。悪いのは店長じゃない。融通のきかない保健所だ』
もし本当に不貞寝しているとすれば、それは保健所ではなくレミィの仕業だろう。おそらくは妖精や護衛で満載だった地霊殿。魔理沙の歩く廊下に彼らの気配は微塵も感じられず、目に付くのは弾幕ごっこの残滓と思しき抉れた内装と破片ばかりだ。二面、三面と肩透かしを喰ったレミィのこと、さぞかし盛大に暴れたのだろう。吸血鬼のトップスピードに耐えられなかったステンドグラスが、黒い穴となってところどころに口を開けていた。
「魔理沙。そこ」
幾度目かの角を曲り、辿り着いた大広間。その手前のドアから微かに魔力が染み出している。
『広間はダミーか。魔法使いを煙に巻こうなんざ十年早いぜ』
躊躇うことなく開ける。入室に際し家人に許可を求める概念が著しく欠如した魔理沙の脳は、STGのみならずRPGの主人公にも対応したデュアルコアプロセッサ搭載型の海賊品だ。『蹴破らないだけ紳士的』とは彼女を良く知るガラクタ屋の嘆息である。
『手を上げな。動くと撃つぜ。元気出せ』
不法侵入と異変の解決、そして失業者の慰撫を同時に行う魔理沙は、椅子にかけて読書をしていた少女の肩を優しく叩きながら、彼女の顔面2センチの距離で八卦炉を構えた。取調室にて容疑者をライトで執拗に照らす刑事を髣髴とさせる魔理沙の表情は極めて明るい。
『おお? 何だ女の子じゃないか。やるなあ、若い身空で大胆な商売に打って出たもんだ。一度の失敗なんて気にするなよ。斬新な切り口に社会がついてこれないこともある。結果が全てじゃない、大事なのは温泉だ。お前が異変の黒幕か? 覚悟しろよ青瓢箪』
生来ものぐさな魔理沙はしかし、二兎を追えるほど器用でもない。魔理沙としては彼女を慰めつつ本来の目的を果たそうとしているのだろうが、その行為はどう見ても緩急をつけた恫喝である。
「あなた少し霊夢に似てきたわね」
異変により温泉が湧く少し前、霊夢のマイブームは婚喝とやらであった。婚喝とはもともと幻想郷の外の風習で、独身者が己に比して倍の所得を最低条件とした生涯の奴隷を狩り求める行為を指すという。医者や会社役員といった裕福であり、かつ金を使う時間のない異性が好んで狩られる傾向にあるとか。
〝妖怪退治と婚喝はハントという意味で同義である〟と、巫女は己が神事に婚喝を組み込んだ。霊夢はXX染色体で構成される正真正銘の少女である。通常であれば上記の条件を備えた男性を求めるところだろうが、ここは幻想郷である。この地の雄といえば、アンティークの薀蓄を半裸で語りだす雑貨屋の店主や、その長い生涯の七割をネコミミをつけて過ごしたという凄腕の半人剣士など、玄人向けのユニットばかり。自然、霊夢の狩りの対象は人間や妖怪の少女に絞られた。セオリーどおり、薬師や貴族階級の少女が狙い撃ちされた訳だが、その手口は今の魔理沙と同様緩急をつけた巧妙なものだったという。容姿端麗に加え天賦の才に恵まれた霊夢である。その婚喝はかなりいいところまでいったこともあるとか。
満ち足りたのか飽きたのか、いつの間にか霊夢主催の婚喝パーティ(単身、相手の自宅に乗り込んでいくだけ)は開催されなくなっていったが、その時の彼女の話術は後に金融機関の取立てマニュアルに例示される程鮮やかなものだったという。
『心外だぜ』
八卦炉を一際少女に近づける魔理沙。だが、突然の闖入者による狼藉に対し、少女に驚く様子はない。
『……霧雨魔理沙にパチュリー・ノーレッジ、ですか。お待ちしていましたよ』
「……どうして名前を?」
私は魔理沙の姓まで口にしてはいない。私の名前など『パ』の字も出ていない。まさか『パン屋』の『パ』から持ってきたわけでもあるまい。……咲夜にパチュリーランドの構想を語ったことがある。彼女づてに話を聞いたレミィが教えた可能性もあるが、態々そんなことを言い出すだろうか。
『申し遅れました。私は古明地さとり。あなた方が今土足で踏み込んでいる地霊殿の所有者です。そしてこちらが……』
『おお!?』
『……古明地こいし。妹になります』
さとりと名乗った少女のすぐ傍、ベッドの端にちょこんと座った少女がいた。つい先程までそこには誰もいなかったはずだ。魔理沙も私も、部屋に入った瞬間にエリアのサーチは行っている。視認だけでなく魔力による照査にも、引っかかったのは一人だけだったのだ。
「……さとり? さとりといえば……」
だが違和感はむしろ最初から姿を晒していたさとりの方が強い。さとりといえば和製テレパスとして文献に名高い妖怪だ。そのリーディングに特化した精神感応は、言語的思考のみならず想起される映像や音声、香りや触覚まで正確に読み取るという。彼女の前で衣服を剥ぎ取られた者のとる反応は二種類。即ち忌避か排斥か。多数の後者による有形無形の外圧の末、さとりの妖怪は最も嫌悪される対象として地下に追いやられたということだ。そんなエピソードから連想されるさとりの妖怪のイメージと、目の前で静かに本を嗜むさとりという少女の姿は酷くかけ離れ重ならない。無論、地上で手に入る情報は地上の者に都合よく加工されている。伝承されるさとりの醜悪を鵜呑みにしていた訳ではないが、心などという汚水槽を直視して生きてきた妖怪が、その精神を歪めずにいられるとは思えない。妖怪の外見はその心性に大きく依る。……外因による美貌の欠損はやむを得ない種族である、と過去の私は推測していた。
『ご想像のとおりですよ、パチュリーさん。ですが、ご安心を。今あなたの心を読んでいる訳ではありません。遥か遠くから通信機を介して話す相手の心までは、さとりの力も及びませんよ』
言って、さとりは口元を薄く歪めた。なるほど、つまりはこう言いたい訳だ。
――安全な高みにいようと、地下にいる人間の心に浮かぶあなたもまた、まる裸なのです。
先の違和感は薄れた。それなりの陰湿を備えた少女のようだ。が、さして嫌味な印象はない。うっすらと笑えど、幸薄げに細められた目に挑発の色は見当たらず、心を弄ぶ性悪な妖怪というよりは、相手の反応を楽しむ趣味の悪い少女といった風だ。……まあ、それも世間に好まれる属性とは言えまいが。
『ええ、そのとおりですよ霧雨魔理沙さん』
『何も言ってないぜ』
『違います。脳内の電流は関係ありません』
『唐突な単語だな』
『ええ、よく言われますよ』
『そうだろう。脈絡がない』
『違いますよ。気味が悪いと』
さとりは心の声と現実の発声と、相手の嫌がる方を選択して返事をしている。うむ。趣味が悪い。
『……面倒だな』
『だから吹っ飛ばそう、ですか。なるほど、レミリア・スカーレットは貴方を正確に評価していますね』
構えた八卦炉がぴくりとブレた。
『おい、フルネームが飛び出したぞ。何が流氷の天使だ。やっぱり暴れてたのは暇を持て余した吸血鬼じゃないか』
「そのようね」
『悪びれもしない』
「今日は喘息の調子がいいから……」
『分かった分かった。私の家でロイヤルフレアは止めろ。キノコは熱に弱いんだ』
はじめからそう言えばいいのである。
『やれやれ……それで、こっちのお嬢さんがさとりだって? 心を読むと?』
『ええ、単純な暗唱ではパラレルに思考が可能です。九九はあまり意味がありませんよ』
『見た目よりおしゃべりな妖怪だな』
『心と口と、両方の声に反応しなくてはいけませんからね。あなた方の倍でちょうどいいのです』
『……気分のいいもんじゃないな』
『そう、思うままを口にする。それが一番楽でしょう』
再び口の端を上げて、さとりは手にした本を閉じた。
『それで、弾幕ごっこですか? ああ、返事は結構ですよ。貴方の心と、レミリア・スカーレットが既に答えています。バラージジャンキーの面目躍如ですね』
「気をつけなさい、さとり。弾幕中毒者且つスペル泥棒よ」
魔理沙の目指す魔法使いとは青魔法の導師に違いない。
『敵の気遣いかよ。役に立つ支援者だな』
『……お気遣いは要りませんよ。私の弾幕は鏡のスペル。貴方の心に傷を付けた爪が再現されるだけですから』
『よくもまあ、いやらしいことばかりするもんだぜ。そっちの妹さんも同じクチかい? ……って、あれ、何処いった?』
『ここにいますよ』
魔理沙が目を向けた先、少し前まで確かにこいしが腰掛けていたベッドはもぬけの殻だった。さとりの声に目を遣ると、椅子に掛けたさとりの後ろで、彼女の首に手を廻したこいしが微笑んでいる。ゆるりと廻された妹の手を撫でるさとり。
『……こいしの能力は無意識の操作です。私のそれとは違いますが、対戦相手に好まれる類の弾幕ではないでしょうね』
『おねえちゃん酷い』
笑って口を尖らせるこいし。なるほど。自他の無意識を操るならば、誰にも悟られずに移動も可能だろう。そして……。
「……ここもパスよ魔理沙。異変の黒幕を聞き出したらさっさと行くわよ」
精神分析によれば、無意識とは精神の九割以上を占める深淵の総称だ。心を林檎に例えれば、意識とはほんの薄皮一枚にも満たない表層の一部分に過ぎない。残るほぼ全域にあたる解析不能のブラックボックスを人は無意識とラベルしたのだ。アニマやアニムス、シャドウといった元型や、人生の理想形の青写真たる自己などを内包した無意識とは、昼なお暗い深海じみた人の心の闇である。無論悪い意味ではない。そも、闇に善悪などない。極彩色の精神活動の源泉を覆う真っ黒いベールこそが無意識だ。ベールの内側を解明し尽くした時、人は彼らが進化と呼ぶ種族単位の覚醒を見るのだろう。
その心の、いや人間の大部分を占める無意識を自在に操る能力となれば、心を覗く姉以上に性質が悪い。存在に紗をかけて魔力のサーチから逃れるなんて可愛いものだ。額面どおりの能力者ならば、シャドウの反転、ペルソナの剥奪、グレートマザーやオールドワイズマンの偽装、破壊など、およそ思いつく限りの思考と人格の蹂躙が可能なはず。弾幕ごっこであれば精神を直接蝕まれることはなかろうが、己がシャドウを投影された弾幕など張られたりしたら、トラウマでは済まないだろう。
……他人の薄皮を読み取る姉に、無防備な柔らかい果肉を素手で掴む妹。能力のいやらしさで言えば最悪の姉妹だ。無論、能力なんてものは他人から見ればどれもいやらしい反則技なのだろうが、魔理沙のようなストレートな勝負を好む少女にとっては相性最悪と言って差し支えないだろう。
『まてまて、またか? 二人を見ろよ。怪我の一つもない。勝負に支障のある状態じゃなし、あちらさんだって素通りはさせないだろ』
「……確かに傷一つないわね」
レミィが通過したならその暴風に巻き込まれたはずなのだが。まさか無傷でレミィに勝利した? いや、それは難しいだろう。レミィの能力は運命の掌握。魔理沙と違い、古明地姉妹との相性は抜群に良いはずだ。さとりが心を読むならレミィは未来を読む。心を覗かれ行動を読まれても、その上でとったさとりの動きをレミィは既に知っている。そして互いの行動を読みあった上でならば、身体能力の差が大きく響いてくるだろう。……そもそもあの自他の運命を面白おかしく自分好みに改変できるレミィの能力だ。誰が何をしようと、その運命の糸はレミィに都合の良い結果に結びついてしまうのだ。
――縁日の紐くじを思い浮かべて欲しい。ここぞとばかり孫を甘やかすじいさんの年金から捻出された硬貨と引き換えに、一本の紐くじを手に取る少年。その目は紐の先に結ばれた最新式のゲーム機に釘付けである。馬鹿でかい籠の中、散らばるゲーム機やぬいぐるみ、サッカーボールなどに括り付けられた紐の群れは、ある一点で集約され束となって籠の外に吐き出されている。数十の紐が纏まる一点は太く絡み合い、さらにそれを覆う布などがあって、少年の手元にある紐が籠の中の何処から伸びたものなのかは杳として知れない。
夢にまで見た最新のゲーム機。ショーウィンドウの中で輝くピアノブラックは、手の届かぬ望みの象徴として少年の瞳に眩しく映ったものだ。それが、ある。目の前に、そしてひょっとしたらその手の中に。
〝手に入るかもしれない。いや、手に入れてみせる。ゲーム機の値段は良く知っている。ガラス越しのゼロの数に、両親は目を剥いたものだ。この夜を逃せばもう二度と入手のチャンスは訪れないだろう。そして祖父の懐具合も知っている。この手の紐の代価であった大粒の硬貨は、自分を喜ばせようと、決して豊かとはいえない彼の年金暮らしの中から捻出されたものだ。……外せない。いや、外すわけがない。この世に神がいるのなら自分と祖父の願いを聞き届けぬ筈がない。今夜は年に一度の神社の祭り。この時、この場所でこれ程の密度を以って編まれた願いを聞き逃すような神が、今日まで信仰の対象であり続けたわけがないのだから〟
早鐘のように響く心臓の音を遠くに聞きながら、祈るように紐を引く少年。瞬きを忘れたその瞳に飛び込む光景は、自らが引いた紐に吊り上げられ、ゲーム機の陰から高らかに名乗りを上げた玉ネギの赤い網袋が雄雄しく浮上してくる惨劇であった。
――ここにいるぞぉ!
誇らしげに少年の手に舞い降りたユリ科ネギ属の火の玉ボーイは、そう言わんばかりのずっしりとした重みを備え、孫の涙にうろたえる祖父の錯乱気味の打擲にも、その存在を微塵も揺るがせることはない。そして、ああ――その夢の潰える様をにんまりと眺める屋台のオヤジ! そう、はじめからゲーム機に繋がる紐などないのだ。ゲーム機をはじめとする高額な景品から伸びた紐は、集約点、即ち布で覆われ子供たちの目につかないところで途切れているのだ。子供たちの手に届く紐の対にあるは、干物や駄菓子といった嗜虐的な品ばかり。全てはオヤジの掌の上だったのだ。
既にお分かりだろう。この屋台のオヤジが即ちレミィの能力なのである。しかもこのオヤジは少年が紐を引いた瞬間に、ゲーム機と根菜を摩り替えることすら出来る匠の者だ。つまり相手がどんな選択をしようと、運命の糸をレミィが握っている以上、その結果はレミィの思いのままなのだ。いや、意識すらしているかどうか。彼女の能力は、彼女がそう願うより前に、彼女好みの未来を用意している節がある。
心のピーピングも無意識の改変も、全てはレミィの喜ぶ結果に終わるだろう。その未来がレミィ好みに向かうならば彼女の敗北という結果もあろうが、負けず嫌いの吸血鬼のこと、己が敗北に繋がる紐を引かせるなどそうはあるまい。……レミィを打ち倒すなら間接的な攻撃は無意味だ。効果を期待できるは純粋火力のみ。運命の糸を引き千切る強力無比な一撃だけが、彼女に致命傷を与え得るだろう。目の前の姉妹はどちらかというと搦め手で相手を追い詰めるタイプだ。無論致命傷など求めない弾幕ごっこであれば、そこまでの火力は必要ないが、レミィに対する相性の悪さは覆らない。正直、無傷で追い返したとは考えづらいのだが……。
『素通りですか。構いませんよ?』
『んー?』
『間欠泉による異変ならば、うちのペットの仕業でしょう。ここ地霊殿より更に深く、更に熱い地の底まで潜る覚悟があるのなら、道を譲るも吝かではありません』
『聞きわけがいいな。どういう風の吹き回しだ?』
『私が望んで異変を起こさせている訳ではありませんからね。不法侵入者は撃退しますが、目的が更に地下深くというなら止めはしません』
なるほど。黒幕の飼い主が裏で糸を引いているとも限らない。こんな地下の奥の奥に居を構えている理由の一つが俗世を倦んでのことならば、ペットによる異変など迷惑以外の何ものでもなかろう。
『そうやってレミリアも通したのか?』
そう、無血開城ならば無傷にも合点がいく。
『いえ、彼女とは弾幕(や)り合いましたよ。少しだけですがね』
『その割には綺麗な顔だ』
『違います。今この館にいるのは私だけですよ』
いつの間にか再び位置を変えていたこいしの頬を撫でるさとり。椅子にかけたさとりの足元で、彼女の太腿に頭を預けるこいしは猫のように目を細めた。
『楽しかったね、おねえちゃん?』
『……そうね。けど、あれきりよ』
『珍しいよね。おねえちゃんより私が動物に好かれるなんて』
『あの子は蝙蝠じゃなくて悪魔よ。それに……』
さとりは妹と話すときは心の声に応えていない。親愛の表現なのか、それともこいしの無意識がリーディングをシャットアウトしているのか。そういえばこいしの胸の瞳は閉じたままだ。あれが外部からの接触を拒否しているのだろうか。
『それに?』
『……こいしのことが好きとも限らない。結局ペットにはならなかったんだし、あんまり近づいちゃだめよ』
『嫉妬?』
『ばかね』
……ああ、ぼんやりと理解した。おそらくレミィとさとりは戦闘になったのだろう。屋敷で大暴れするレミィをさとりが止めぬ訳もない。すぐ隣のホールあたりで、弾幕ごっこは始まったはずだ。前述のとおり、さとりはレミィと相性が悪い。見かねたこいしが加勢に現れ……レミィの心に浮かんだのはフランドールの顔だろう。その顔が笑っていたか、それとも泣いていたのか、さとりに尋ねる気は起きないが、兎も角レミィの心は〝妹〟でいっぱいになった筈だ。〝地下〟深く、〝巨大な屋敷〟に住まうは〝疎まれた姉妹〟。共感を覚えるほど殊勝な性格でもないが、蹴散らす気が薄れることもあるだろう。興醒めというやつだ。その感情の褪せる様をリアルタイムで眺めたさとりも同様の思いを抱いたことだろう。結果、弾幕ごっこはそこでお開き。レミィはその足で更に地下深くへ、姉妹は破壊を免れた部屋でのんびりというわけだ。壊れた屋敷の修繕に無頓着なあたり、紅い姉妹に似ているかもしれない。おそらくここ地霊殿にも咲夜のように骨を折る者がいるのだろう。
「何を言われたのか知らないけど、あまり真に受けないことよ。レミィは気まぐれだから」
『……けど、と続きそうな声ですね』
「……」
『ロイヤルフレア、殺人ドール、崩山彩極砲』
「え?」
『いえ、霧雨魔理沙さんにお答えしたんですけどね。私は相手の心に傷を付けた弾幕を使う。レミリア・スカーレットの場合は……まあ、あの性格ですからトラウマにはなっていないようですが、それでも忘れられないスペルはあるようです。面白い子ですね。その使い手たちは今や残らず彼女の周りにいる。……それも運命ですか?』
「……さあね。言ったでしょう。彼女は気まぐれなのよ。何をどう考えているかなんて分かりっこないわ」
運命かどうかなど輪をかけて理解の外だし興味もない。アカシックレコードの解析に挑む魔術師もないではないが、私はその手合いとは違う。むしろそんなものの解析は百害あって一利なしと吐き捨てるクチだ。色とりどりの料理に美酒。客はただ舌鼓を打っていればいいのである。この鳥は誰が絞めた。この酒の化学成分は。そんな知識は食卓の色を損ねるだけだ。好んで聞き求める輩の気が知れない。
『まあ、兎も角レミリア・スカーレットはこの三つのスペルを攻略していきました。事前の催眠術も含めれば四つの弾幕ですが、それ以上争うこともなく彼女は私のペットのところへ行きましたよ。もともと弾幕ごっこが目的のようでしたしね』
『こいしとも弾幕(や)りあったのか?』
『……いえ』
やはりこいしとレミィの戦闘はなかったようだ。規定の弾幕ごっこを終えてさっさと次に行ったというレミィ。彼女にしては毒のないことだとは思うが、それは自分達以外の『姉妹』に慣れていないということだろう。想起される自分と妹との関係を直視することへの不慣れ。……なるほど。さとりは自らのスペルを鏡と評したが、ならばレミィの戦意を殺いだ相似もまた彼女のスペルということだろうか。事実、さとりとこいしはそれにより今宵の災厄を無傷でいなしている。免れた喪失を鑑みればスペルと呼んで差し支えない効果といえよう。
『なんにせよついてないな。悪魔との勝負に負けるってことは、何かを失うってことだぜ』
魔導の基本ではある。レミィが基本に忠実であるかどうかは兎も角。
『そういえば勝負の前に一つ賭けをしましたね。弾幕を攻略された以上は彼女の勝ちなのでしょうが、大したことではありません。あれが悪魔の契約というなら、また随分と可愛らしい』
『小さな契約大きな代価。それが悪魔の手口だぜ』
『なに、ささやかな契約です。騙す意図がないことも確認しています。問題はないでしょう』
『そう祈るぜ』
魔理沙のその言葉は本心なのだろう。さとりは素直に礼を言うと魔理沙の目を見る。
『さて、それでどうするのですか。望むならお通しすることは前言のとおりです。それとも、弾幕(や)りますか』
胸の眼が魔理沙を貫く。確かにさとりは鏡だ。動くと撃つ。撃つと動く。攻撃の意図を内からつき返す。主体性の欠落とは別種の依存、向き合う者が隠し持つ刃でその首を落とす陥穽の妖異が、さとりという妖怪なのだろう。
『……やめておくぜ。時間も惜しいしな』
『何故? 彼女は貴方の血縁ではないでしょう?』
『長居は無粋って、分かるだろ?』
『解せませんね。レミリア・スカーレットといい貴方といい、〝妹〟といえばフランドール・スカーレットだ。レミリア・スカーレットは兎も角、貴方が彼女を想起し且つ戦意を失う理由がない』
『パチュリーもうるさいしな』
『ああ、なるほど。そういうことですか、〝お姉さん〟』
『ぐっ……あのな……』
堪えきれずさとりの声に応えかける魔理沙。
「止めておきなさい。彼女と問答するなんて自殺行為よ」
その無謀を引き止める。言葉こそがさとりの武器、会話こそが彼女の戦場なのだから。魔理沙にそのフィールドは荷が勝ちすぎる。挑むなら弾幕ごっこで。それが博麗の敷いた共存の道である。
『むぅ……いいけどな。……ほら、どっちだって?』
『今来た廊下を真っ直ぐ。右に二度曲がった先の中庭に灼熱の穴があります』
『Uターンじゃないか』
『そういう造りなのですよ』
無駄な造形だ。美しい。
『案内が要りますか?』
『結構だぜ。行くぞパチュリー』
ドアに手を伸ばす魔理沙。
「待ちなさい」
『なんだよ。……またアレか?』
勿論アレだ。
『ふむ。風俗店への勧誘ですか』
「失礼ね。レジャーランドよ」
『貴方の相棒はそう思っていないようですが』
「そこが彼女の思慮の浅いところね」
『幼女と菌類に囲まれた酒池肉林をレジャーランドと? ほう、粘菌手帳のポイントが溜まるとそんなサービスが。おやおや、靴下だけ残すとは趣味がいい』
このキノコ女、勝手に欲望をブレンドした上で誤解を招く妄想を――!
「それは彼女の副都心、菌糸町よ。犯増悶に連結した欲望の街とパチュリーランドを一緒にしないでほしいわね。我がパチュリーランドは夢の叶う国。靴下だけ履いた幼女から、幼女の脱いだ靴下まで、あらゆるニーズに応える魅惑の総合商社よ」
『眩暈がしますね。侍らせる幼女つきのお化け屋敷に、缶ビールを手放さないマスコットキャラですか』
「さとり、貴方にはそのお化け屋敷のトリを飾ってほしいのよ。恐怖のシメに客のトラウマを再現する貴方がいれば、お化け屋敷はグッと盛り上がる」
可愛らしく怯える幼女を励まし、また励まされて辿り着いた闇の終わり。天に伸びる蜘蛛の糸のように眩しく輝く光の扉。様々な怪異を潜り抜け、旅の伴侶となった幼女と微笑みあって手をかけた地獄の出口で、突如真顔で朗読される中学時代に綴ったポエムの一節。
〝僕は鳥になりたい。この翼の蝋が熔け落ちるまで、君のもとへと飛び続けたい。君は僕の太陽だから……forever my son(sunの誤字と思われる)〟
凍りつく客の笑顔。今この瞬間まで共に地獄の終焉を喜び合っていた幼女から注がれる生暖かい視線は客のトラウマを直撃し、その背中を流れる油汗はかつての高揚と交じり合い最高級の戦慄を彼に味わわせることだろう。これぞ恐怖。これぞお化け屋敷。パチュリーランドのホーンテッドマンションはその名を高く轟かせるに違いない。
『……少し面白そうね』
うっとりと頬を上気させるさとり。見込んだとおりの淑女である。
『そうでしょう。そしてこいしにはその幼女役をやってもらいたいのだけど……』
またもいつの間にか移動していたベッドの上のこいしを見る。が、こいしは笑みを作ったまま動かない。
『なあ、こいしももう少し自己主張したらどうだ。無意識だかなんだか分からんが、さっきからぱっぱと移動するばかりで全然喋ってないじゃないか。恥ずかしいのか? 自分の家だろう?』
魔理沙がそう言うのも無理はない。無意識を操るとはいえ、こいしにはあまりに存在感がない。気付けば姿を消し晒し、発言もさとりに向けた僅かなものだけ。顔だけ見れば楽しげだが、それも何処かおぼろげで確信がもてない。
『自己主張、ですか。なるほど、伝えておきましょう』
『さとり? こいしのことだぞ?』
『ええ。風俗街のお化け屋敷についても同様に伝えましょう。私の分も含めて回答はその後に。あの子の意見も聞いてあげないとね』
『いやだからな。今ここで聞けばいいだろ?』
それは当然の疑問。だが、ああ――やはりここは紛れもない地獄だったのだ。
『妹はここにはいませんよ。言ったでしょう? 今この館にいるのは私だけ、と』
想起「テリブルスーヴニール」。さとりの妖怪は出会いがしらの催眠術で相手の心を覗き込むという。催眠術とは心の操作。……リーディングに特化だと? 化け物め。プロジェクションさえもこの手並みである。
「……本当に趣味がいいわね」
『ええ。よく言われますよ』
魔理沙の前で微笑むこいしは幻覚だ。さとりの催眠術。恐るべきはオプション越しに地上にいる私にまで及ぶその手腕だ。オプションを通す情報は全て魔法によるフィルタリングをかけている。生半な干渉など弾き返すし、この私が攻撃や侵食に気付かないはずがない。音や光ではない。無論魔力そのものでもない。一体何を媒介に地上にいるこの私に催眠術をかけたのか。
『心にフィルターはかけられないでしょう? ……パチュリー・ノーレッジさん』
心を読んだ……? まさか、ここは。
『ここは地上で、魔理沙の家だ。……ですか』
「……」
さとりに纏わる文献が脳裏を過ぎる。
〝それは心を弄ぶ魔性の怪――〟
「……ふん。引っかからないわよ?」
『さて……。いや、流石に〝魔女〟ですね。ですが思ったでしょう? けど、と。まさか、と。その空隙を喰らうのがさとりの妖怪なのですよ』
文献を記した者に賞賛を。確かマキューだかムキューだか親しみのある響きの少女だったと記憶している。
『さあ、先を急ぐのでしょう? やはり案内が必要ですか?』
「結構よ。行くわよ魔理沙」
先程とは正反対に魔理沙を急かす。
『先の件はこいしに伝えておきますよ』
『……結局こいしは何処にいるんだ』
『さあ……? レミリア・スカーレットと別れてすぐにふらふらとどこかへ出かけていきましたが、行き先までは把握していません』
割りと放任主義らしい。そのあたりはレミィと真逆だ。
「話が伝わるならそれでいいわよ。……けどさとり、さっきのこいしが幻視なら貴方が動かしていたのよね」
『そうですが、それが?』
「別に、やっぱり似ているかなってだけ」
甘えた声を出してさとりの膝に頭を乗せていたこいし。それは健康なシスコンが胸に抱く、幸せのカタチに他ならない。
『最近は一緒にお風呂も入ってくれなくなってしまいまして。姉としては少々寂しいのですよ』
「欲求不満はパチュリーランドで解消することをオススメするわ」
胡乱で気味が悪く、そして実に正直な少女さとりに、魔理沙を介してパチュリーランドのパンフレットを渡すと、釈然としないと言わんばかりの魔理沙を促し、中庭に続くドアを開けさせる。
『あー、良く分からんが、またな、さとり。今度は本物のこいしを呼んでくれよ』
『……また会おう、ですか。……変わった人間ですね』
裏のなさは時に何よりも人を驚かせる。前言を修正しよう。魔理沙のような人間こそが、さとりの妖怪を突き崩すのかもしれない。
『普通だぜ』
言って、歩き出す。異変の核は更に地下。おそらくは鬼にもさとりにも劣らぬ脅威が待ち受ける地獄の底だ。
∇
『なあ、なんでさとりは催眠術でこいしの姿なんか見せたんだろうな』
最早恒例となった無人の道中を突き抜けながら魔理沙が尋ねてきた。
『幻視じゃあ弾幕ごっこに役立つわけでもなし、意味がないだろ』
「意味ならあったでしょ。魔理沙、貴方理解して言ったんじゃなかったの?」
『んん? 何のことだ?』
〝今度は本物のこいしを呼んでくれ――〟その台詞が聞きたくて、さとりは魔理沙の言う無意味を行ったのだ。誰からも嫌われた自分。そんな自分とは違う妹。一つ屋根の下に住まう、けれど姉と同列に疎まれる謂れのない少女が存在すると、あの健康なシスコンは愛する妹を主張していたのだ。
「そこもレミィとは真逆ね」
あの愛すべき吸血鬼も大概健やかな妹フェチだが、彼女はむしろ独占欲が先行する。好きなモノはその手に収めて極力人目に晒さない。加えて極度の過保護だ。まあ、幸福の定義は姉にもよるし妹にもよる。どちらが良いとは一概には言えないだろう。
『まあ、どうだっていいんだけどな』
額の汗を拭いながら魔理沙は深部を目指す。地霊殿の中庭から既に数十分。闇を抜けた先に待っていたのは正に灼熱地獄といった景色で、オプション越しに見るだけで熱さで気が狂いそうになる。なるほど、溶岩の出所はここか。
『むしろ気になるのはアレだな、さとりの崩山彩極砲。あの細い腕でどれだけの威力が出るんだって話だ。な?』
その割りに魔理沙は元気だ。魔法によりある程度の耐熱処置をしているようだが、それにしても灼熱の地の底にあってなお失せない気力は賞賛に値するだろう。
「……腕の太さは関係ない。まともに当たれば粉砕骨折じゃ済まないでしょうね」
だからもう少し彼女の会話に付き合うことにした。沈黙は暑さを倍にするものだ。
『げ、そうなのか。それじゃもしかして本家の美鈴よりもいい威力が出たりするのか』
「そこまではどうかしらね。けどアレもれっきとしたスペルである以上、腕力とは無関係に定められた効果を発揮する。威力を左右するというなら寧ろ魔力と理解度かしら。まあそれも前者の影響は微々たるものだし、後者が本家に勝る筈もない。……85%ってところかしらね。美鈴の」
『魔力の影響は薄いのか? 最重要項目に聞こえるがな』
「本気? そりゃあある程度は影響するけどね。例えば魔理沙、貴方のマスタースパーク。純粋な魔力の絶対量でいえば貴方の数十倍は有するアリスが撃ったなら、その威力は正しく比例するのかしら」
魔理沙の文机にちんまりと座った人形をつつき、その製作者の名前を出す。
『……そんな気はしないな。寧ろ弱くなるイメージだ。というか私とアリスにそんな差はないだろ』
「あるわよ。魔力はね。でも魔砲の威力が下がるというのは正解。なぜならマスタースパークは〝魔理沙のスペル〟だから」
『ワケが分からん』
「嘘。言語化が面倒なだけでしょ」
他人のスペルを使っても、いいとこ五割の出力だろう。スペルユーザーならそのあたりはなんとなく感じているはずだ。チルノであっても。
『いいじゃないか。教えてくれよ』
「困った生徒ね。ま、いいわ……単純な面を言えばマスタースパークは〝魔理沙が高火力を発揮するために最適化されたスペル〟だから。術式の回路や魔力の触媒は全て〝魔理沙〟が抵抗なく熱線に変換できるもので出来ているのよ」
『んー……つまりキノコから抽出した魔力や、八卦と熱力学の二束草鞋はアリスのお気に召さないと?』
「そういう言い方も出来るってこと。スペルカードはただ結果を詰め込んだだけの紙切れじゃないわ。結果を導く数式や、そもそもその結果を求めた動機など術の一切合切が込められているからこそ、大掛かりな弾幕をも瞬時に展開できるのよ」
『なるほど。確かに魔法の森でキノコを採取する苦労が、あの温室育ちに理解できるとは思えんな』
弾幕はジグソーパズルだ。その価値は作成の意思と辛苦を伴ってはじめて輝く。額の中に飾られた誰かによる完成品など、継ぎ接ぎだらけの風景画に過ぎない。
『ふむ。ま、大体アリスに極太レーザーは似合わないしな』
ありがとよ、と魔理沙は額の汗を拭った。優しい医薬品の如く、魔理沙の半分は黒色で出来ている。その上生地は厚ぼったい魔女仕様だ。暑くないわけがない。
「似合うかどうかは兎も角、好悪は重要ね。望む結果の不一致は術式の初手を狂わせる。形式化されてはいてもスペルの効果に影響するわ」
『つまりスペルカードは持ち主の一部というわけだ。吸血鬼の足を切り取って私の足と交換しても、私が100メートルを0.5秒で駆け抜けるアスレチックウィッチにクラスチェンジすることはないと』
「ええ。寧ろ二度と歩くことは出来ないかもしれない。これは術者固有の能力をスペルに反映させていた場合ね。私や魔理沙に〝咲夜の世界〟は使えない」
自らのエゴで時空の連続性まで否定する、あのスペルの出鱈目さについては割愛しよう。口にすれば必ず愚痴に終わるからだ。
「弾幕ごっこにおいてさとりを賞賛するならこの点ね。彼女はスペルに纏わる一切を知らずとも再現する。85%ね。嗜好の相違や理論の無知、果ては行使し得ない能力の存在までも無視して〝想起〟出来る。……心を読むといっても、文字通り相手の思考を文章化して受信したり、視覚的に俯瞰している訳ではないのでしょうね。彼女は目に映る心を咀嚼する妖怪。トラウマという恐怖を媒介に他人の一部を舐め、啜り、噛み砕いているからこそできる真似よ。ま、スペルカードという定型だからできるんでしょうけど」
『嫌な表現だな。また会う気が失せてくるぜ』
「だから妹の姿を見せたのよ」
『それが理解できん』
「健康なシスコンが発揮する浪花節というところかしら」
『素晴らしい。また会う日が楽しみだな』
それもどうだろう。
『そうだ。シスコンといえばこないだな……ん?』
「何よ。レミィがどうしたの」
『いや誰もレミリアのことだなんて言ってないが……なあ、いつの間にか猫がいるんだが』
「猫なんて何処にでもいるでしょう」
尻尾の数に拘らなければマヨヒガなんて秘境にもいる。
『灼熱地獄にだぞ? しかもこの私のスピードについてきてる。……生意気だな。猫っぽくない名前をつけてやろうか』
「また? そういやオマリーは元気?」
『オマリーは根性無しだ。三日でいなくなった』
「エサがキノコオンリーじゃ、猫でなくとも逃げ出すわ」
「フン」
そっぽを向く魔理沙の横を見れば、確かにいつの間にか黒猫が併走していた。ちょこまかと鋭角に蛇行しながら魔理沙の箒についてこれるのだから、見た目によらず相当な速度で走っていることになる。
「ま、名前はまた今度になさい。折角懐いているなら可愛がってあげたら?」
『意外な発言だな。パチュリーって猫好きだったか』
「勿論よ。猫について本も出したわ」
〝ぼくらのネコイラズ〟は、社会の汚れを嫌う中学生達がその純真と無邪気を殺鼠剤に込めて、痛快に大人達をやりこめるという、読後感爽やかな市街テロの指南書である。
『んー、ぴったりついてくるがこれ以上は寄ってこないな』
次の瞬間、魔理沙は両腕を突き上げて奇声を上げた。
『ニャーン! ……ダメだ。何がしたいのかサッパリ分からん』
「私は貴方が何をしたいのかがサッパリ分からないわ」
『猫にニャーンは基本だろう』
未知の基本だった。
『信じてないな。学術書にも載ってる正しい挨拶だぞ。本棚三段目の一番右の本だ』
「消えた粘菌記録問題?」
『あー、そっちの本棚じゃない。黒い方。姿見の近くにあるだろ』
「肉球のススメ?」
『それ』
――肉球のススメ 著:八雲藍
『貸してやろう。愛くるしい写真満載のフェイバリットブックだ』
「……いいわ。読まなくても中身は分かるもの」
『む……お勧めなんだけどな』
そういやいつだか紫に猫狂いの矯正を頼まれたが……そうか、本を出していたか。
『まあいいが……お? なんだオパーリン、第二形態か?』
「もう名付けたの……」
『見ろよパチュリー。飛行モードだ』
黒猫の背中には羽が生えていた。滑らかな体毛と同じ真っ黒な羽。
「いえ……羽じゃないわね」
ジグザグに走る小さな背中は凝視しづらいものがあるが、よく見れば黒猫の背はこんもりと膨らんでいる。
「あれは……鴉?」
黒い翼は猫の背中から直接生えているわけではない。黒猫の背中にはやはり真っ黒い鴉が乗っており、その速度と急激な方向転換に振り落とされることを避けるためか、鴉は翼を広げた滑空姿勢で猫の背中にぺったりと張り付いているのだ。
『鴉だな。言われてみれば確かに背中に鴉が乗ってる。……よし、お前らは二人で一つ。二人そろってオパーリンだ』
分離後はオパーとリンだろうか。リンは兎も角オパーを生涯の名とされる方は相当な忍耐力を強いられることになるだろう。
『カモンオパーリン! 湿った森で飼いならしてやるぜ!』
オマリーの出奔から何も学ばない魔理沙が再び動物に手を伸ばす。
『三食キノコ付きの豊かな老後を……おわ!』
対するは当然の謝絶。だがその形は意外なものだった。
『弾幕!?』
「そのようね」
『猫と鴉だぞ?』
「猫と雀なら前例があるでしょ」
どちらもぶんぶん二足歩行してくるが。
『むぅ……まあ、なんにせよいい度胸だ。この魔理沙さんに奇襲を仕掛けて無事に済んだ奴はいないんだぜ』
「ふむ。流石はさとりのペットね。スペルカードも使ってくるわよ」
『なに? こいつらさとりのペットなのか』
「地獄とはいえ弾幕を張れる畜生がそうそういる筈ないじゃない」
黒猫はその鋭角な走法で魔理沙の周囲を駆け巡り、足場となった空間に残留した弾幕がテンポをずらして爆散する。
――猫符 キャッツウォーク
『おお、やるな! だがまだまだだぜ』
頬を掠める弾に臆することなく魔理沙は黒猫を追いかける。本体に近づけば近づくほど回避が困難になるスペルにも関わらず、魔理沙のスピードは緩まない。
「ちょっと。追いかけてどうするのよ。あれがさとりのペットならステージと旅路の終点よ。いつもみたいに問答無用でレーザーでもブッ放したらどうなの」
正直拍子抜けである。ペットという単語から、その筋には堪らない豹柄や鰐皮で身を包んだ脚線眩しいコンパニオンが、遂に我がパチュリーランドに加わるのだろうかと期待に胸を膨らませていたのに、蓋を開ければモノホンのアニマルのご登場だ。マスコットキャラクターは既におしゃれラットが当確している。これ以上の募集をかけるつもりはなかったのだが……まあ仕方ない。見渡す限りの赤い海。ステージは灼熱の釜の底だ。どう見てもテーマパークには不向きの立地。せめて第二のキャラクターとしてマスタースパークに焼き払われた猫鴉を拾って帰るしかあるまい。
『まあ待てよ。もうちょっとで尻尾に手が届きそうなんだ』
弾幕を潜り抜けながら黒猫に手を伸ばす魔理沙。その手を潜り抜けながら弾幕を張る黒猫。スペルの性質のおかげだろう。その距離は少しずつだが縮まってきている。規則正しくステップを踏むキャッツウォークは、その軌道を容易に先読みできるのだ。
『よっ……ほっ……あと、もう、ちょい……ん?』
魔理沙の指が黒猫の尻尾に触れかけたその時、黒猫の背中の鴉が赤黒く輝きだした。
『うお! なんだ、眩し……アツっ!』
「スペル発動ね。猫符に上書き……いえ、重ね掛けしてくるわよ」
熱を伴う光は今や鴉だけでなく猫までもが放っている。二匹は正に一心同体。飴色のオブジェと化した翼の生えた猫は、進路を急速に変えると既存の弾幕に加えて馬鹿でかい『太陽』を四方にばら撒きはじめた。
――帰路 『八咫烏ウォーク』
一定だった速度に緩急をつけて、軌道の規則性をかなぐり捨てて、猫と鴉の動きは最早誰にも予測できない。
「ただの千鳥足じゃないの」
あっちにフラフラこっちにフラフラ、遂に電柱の傍で足を止めると、いつの間にか頭にネクタイを巻いたオパーリンは架空の総務課長に悪態をつきながらシャドーボクシングをはじめた。
『さとりさまのばかーっ!』
『ワンモアブラッシング!』
『分かるぞ。まあ飲め』
二秒で馴染んだ魔理沙が愛玩動物の悲哀を口実に酒を飲もうと、スカートから一升瓶を取り出した。
『あんたは地獄でも変わらないわね』
そして響く聞き慣れた声。
「……なるほどね」
猫たちの千鳥足は畜生故の理由のない奇行というわけではなかったらしい。彼らは目的を達したから歩を止めたのだ。
「……気の利いたガイドね。確かに魔理沙を誘導するなら挑発に限るわ」
電柱に見えた棒杭は千本の針山の一本。灼熱に揺らめく獄符の奥で、紅い親友が笑っていた。
∇
黒と橙が溶け混じった地獄の釜の底の底。黒猫を膝に、鴉を肩に乗せた悪魔が針山の頂で笑っている。何の冗談か、直径2メートルの『針』はコリント式に彫刻され、それを柱に組まれた四阿はギリシアの神殿を彷彿させる。中央で悪魔がかけるソファは一体何で出来ているのか。その蛇状のうねりはどう見ても革張りであるというのに、この灼熱の中で燃え上がりもしない。優雅に足を組みなおして悪魔が言う。
『炎熱のみぎり、遠路はるばるようこそ地獄へ。魔理沙に……遅かったじゃないパチェ』
「秋も終わりよ。深冷の候の間違いじゃないの」
『これが深冷?』
レミィの周囲に広がるは紅蓮。飴色に熔けた罪業が沸点を超えて、天地を赤黒く染め上げるこの世の果て。オプション越しに網膜が焼け付く程の灼熱の楽園である。
「業火に針山。地獄のテンプレートね」
そこで微笑む悪魔に黒猫、化け鴉。徹底されれば、なるほど絵にはなる。
『悪くないでしょう。そうね、ここを正式に紅魔館の避暑地に認定してもいいわね』
『お前は一度避暑地を辞書で引け』
今や魔理沙の額を流れる汗は滝のようだ。無理もない。彼女の立つ場はかつてのディーテの市。堕天使を永劫焼き尽くす赤熱の城塞である。
『しかし暑いな。この気温だとどんなキノコが育つんだ?』
だが我がパートナーは、そんな獄炎をものともしない鋼の粘菌術師である。彼女の湿った願望は地獄の火などで枯れはしない。
「残念だったわねレミィ。私たちに熱気なんて意味がないわよ」
〝たち〟の部分を強調して紅茶を啜る。良く冷えたニルギリは微かにレモンの香りがした。紅茶は出掛けにブチ破った紅魔館の窓の外に置かれていたクーラーボックスの中身である。喘息に良いとされる紅茶を絶やさぬ咲夜の気遣いに微笑み、総重量13.5キロを誇る半分嫌がらせで出来たクーラーボックスを小悪魔に持たせて、私は魔理沙の家にやってきたのだ。10リットル以上あった紅茶は飲めども尽きる気配もない。が、量に辟易させぬ味わいを長時間保つ咲夜の腕は流石である。
『残念? まさか。そうでなくては、でしょう?』
「……呆れた。やっぱりそのつもりなのね」
『当然でしょ。私に内緒で楽しそうなことを始めるからこうなるのよ』
「一応異変の解決よ。旅行に置いていかれた子供みたいなこと言われてもね」
レミィの行動は勇者の冒険の横取りである。その艱難辛苦に誰もが膝を折る世界の救済を買って出た勇気ある少年少女の悲壮な決意を、旅情の独占を企てた悋気と解したJTBのオヤジが魔王の城に先回りするようなものだ。しかもオヤジは魔王を肩と膝に乗せてご満悦である。デジカメと髭剃りを武器に単身躍りかかるオヤジの気迫が、何処をどう巡って魔王を手懐けたのかは不明だが、ともあれ終局を担当していたであろうボスたちは今、レミィの周りでさとりの放任主義を穏やかに毒づいている。
『あの気難しいオパーリンを良く手懐けたじゃないか。……まさか楽勝だったのか?』
仮にも6ボス同士だろう、と魔理沙が聞く。
『オパーリン? ああ、紹介が遅れたわね。飼主に構ってほしくて仕方ないと嘆くこの子達はお燐とお空。察しのとおり5ボスと6ボスね』
レミィは猫と鴉をひと撫でする。
『お燐は怨霊を管理する火車。お空は核融合を操る地獄鴉。可愛いでしょう?』
「ああ……、それは」
仕方ない。5ボスのお燐がレミィに敵わないのは仕方ない。怨霊と解し死体を攫う火車が吸血鬼と対峙して何をしろというのか。加えてどのシリーズにおいても5ボスと6ボスの差は顕著である。そして6ボスたるお空がレミィに勝てなかったというのも仕方がないだろう。地獄鴉とはそう強力な妖怪ではない。個体差はあれど総じて3ボスがせいぜいの種族である。その地獄鴉であるお空が6ボスを張っているのは、偏に核熱を操るというその能力故だろう。核の炎は神の火である。その凶悪なまでに神々しい光は出力に応じた終焉をばら撒く致死の福音。本来、地獄鴉などが手にする能力では断じてない。間違いなく後天性の能力だろう。確率的には時を操る人間のようなイレギュラーもないではないが、地獄の住人が神の火を宿して生まれることなどあるはずがない。それはペンギンが空を飛ぶようなものだ。折角水中に適した構造を獲得したというのに、わざわざ一度捨てた翼を得るなど、あり得ない以上に意味がない。
『核融合……! いいじゃないか。確か太陽もその魔法で出来ているんだよな。レミリアとの相性は最高だろう』
「馬鹿ね。ちっとも良くないわよ」
吸血鬼が太陽を嫌うのはそれが夜と対の概念だからである。重水素からなる核融合のエネルギーそのものが吸血鬼退治に覿面ならば、東欧は今頃焦土と化しているだろう。
「折角の神の火も地獄鴉が使うことにより属性は真っ黒。ホロコーストには最適でしょうけど吸血鬼との相性は最悪よ」
『ふむ。黒といえば北方水気の象徴だ。土剋水。黄泉色の吸血鬼に勝てる道理はないか』
そんなシンプルなものでもないが。
「ともかく核の炎はレミィとの相性が良いとは言えない。……まあ、気の遠くなるような熱量を操るのだから、半端な能力に比べれば十分実戦的と言えるのだけど、それでも吸血鬼相手に必殺の手段ではない。となれば後は自力の勝負。地獄鴉が吸血鬼に勝てるはずがない」
愛読する初版女神異聞録に例えれば、お空は無理矢理メギドラオンを覚えさせたレベル41ヤタガラスである。敵性対象の効率的な排除には最高の性能を誇り、一撃で敵部隊を壊滅させる過剰な火力は、射程範囲に踏み入ったが最後、骨も残さず融解させる核熱無双を見せ付けるだろう。その最速最強の核弾頭は正に一騎で総軍を破る秘奥の一手。殲滅兵器としての使い勝手ならば右に出るものはない。
この物語の特異性を語るならばそこだ。地霊殿の6ボスとは最も手際よく多数を倒せる者なのである。他の6ボスたちとは毛色が違う。
「妖々夢はレベル58モトかしらね。永夜抄はレベル88スクルド。風神録はレベル89インドラね」
『ああ、幽々子もそんなところあるわね。神奈子はレベル96シヴァでもいいんじゃない』
「うーん、シヴァはね……」
メギドラオン持ちは比較対象としては適当でないだろう。
『で? 我らが紅魔郷は?』
「レベル77ベルゼブブってところかしら」
『あら、レベル99ルシファーじゃないの』
「ふふ、そこまではどうかしらね」
適当な配役である。皆メギドラオン程の広範囲超火力を有してはいないが、個々のステータスはヤタガラスを遥かに上回る。倒す相手の数を競うならお空に勝てる者はないが、ハイレベルな一対一を演じるなら話は別ということだ。
『で、紫はアレだろ?』
レミィに僅かに遅れて原典を理解した魔理沙がニヤリと笑う。
『レベル66ニャルラトホテプ』
誂えたようなポジションである。
「違いないわ。ところで……」
勝手な評価に見向きもせず、今もレミィの肩と膝で悲哀を綴っているペットをちらりと見る。私はもう三日も撫でてもらっていない、私は一週間も別々に寝ている、などと飼主への不満を競い合う彼女らは、目の前で交わされる会話に一切興味を示さない。勝負事に無頓着なのだろう。弾幕ごっこで負かされた相手に思うところなどないのだ。彼女達にとっては友人や飼主との生活が全てなのだろう。
「そろそろ始めていいのかしら。咲夜もいるんでしょ」
レミィがつけているいかにもお子様向けの耳カバーからは、通信用の魔力を感じる。おそらく私の部屋からスペアの通信機を引っ張り出して転用したのだろう。通信機を持って此処にいるということは此度の異変のルールに則ってやってきたということだ。ならば通信機の向こうにはレミィを支援する者がいるはずである。
『勿論ですわパチュリー様。お元気そうでなによりです』
「今まで聞き耳を立てていたのかしら」
『良いメイドとは呼ばれるまで音を立てないものですわ』
涼しげな声が返ってくる。やはりレミィの支援者となれば咲夜である。普通は人間の咲夜が地下に潜りそうなものだが、おそらく二人の目的は異変の解決ではなくレミィの暇潰しだ。配役の逆転くらいは嬉々としてやる。
『そういえばパチュリー様に代引きのお荷物が届いていましたよ。商品名〝レジェンド・オブ・ユニコーン〟だそうです。妹様が開けたい開けたいと仰るのですが、開梱してもよろしいでしょうか』
「ああ先月買った三角木馬ね。開けていいわよ」
『いいわけねえだろ』
「ションボリ」
三人に突っ込まれる。皆妹様に甘い。過保護は子供の成長を妨げる一因だというのに。
『……ま、木馬はともかく、パチェは気が早いな。もう弾幕ごっこが待ちきれないのかしら』
「ええ。貴方達のお蔭で道中の戦闘はゼロよ。地上から魔理沙をこき使って悦に入ろうという、ささやかな楽しみを奪われ続けてきたのだから当然でしょう」
『コラ。人様を顎で使ったり風俗店のスタッフをスカウトしたり、楽しそうだなあオイ』
魔理沙の苦情を黙殺する。そう、苛立ちの種はもう一つある。人材の確保は順調だったものの、パチュリーランドの用地選定は目処も立っていないのだ。いくら進めど見渡す限り、地下は荒地と私有地ばかり。忍耐に定評のあるこの私にも我慢の限界は存在する。
『戦闘ゼロは私と咲夜のせいだけじゃないんだけど。ま、いいわ。悪魔ってのはそういうものだからね。遣る方のない貴方の思い、その捌け口になってあげましょう』
再度足を組みなおしてレミィは笑った。
「よく言うわ。レミィこそ、お空を倒してなおこんな地獄の釜にいるなんて、待ち焦がれた相手がいたんでしょう?」
わざわざお空とお燐に頼んで間欠泉から怨霊と紅い霧を吐き出し続けたのだ。こんな赤黒い地の底で。
「オールクリアおめでとう、レミィ。スタッフロールに手をかけないのはどうしてかしら。物足りなかった? まさか流れる人の名前が少なすぎるなんて癇癪起こしたわけでもないでしょう。ゲームは大人数で作れば良いというものではないわよ」
『物足りないなんてことはないわ。相性差がなければどうなっていたか分からない相手もいたし、そもそも弾幕ごっこなんてそんなものだしね。私がいつまでも此処にいた理由は一つ、貴方たちを待っていたのよ』
「……私たち、ね。霊夢とニャルラトホテプが先に来たらどうするのよ」
『来ないさ』
「どうして」
『パチェが魔理沙についたからね』
「……光栄ね」
乾いた口を紅茶で湿らせる。咲夜の紅茶は呆れるほど美味かった。
『随分評価してるじゃないか。この春本の虫を』
『良く知っているからね』
『ほう、それじゃ知ってるか? 今日のパチュリーはネオン街の下見にきたんだぜ』
『……それは初耳ね。けど魔理沙。貴方が気分を害する必要はないわ。私は貴方が霊夢に劣ると思ったことは一度もない』
『な、なんだよ。当たり前だろ……そんなの』
魔理沙は容易く頬を赤らめる。大人気ない密告にばつが悪いのか帽子のつばを引いて目を逸らした。
『魔理沙とパチェが組んだのなら最速で目的を達成する。私の勘は外れたのかしら』
「大外れよレミィ。貴方たちが先じゃないの」
『私たちは別よ。ね、咲夜』
確かにレミィと咲夜が組めば最速だろう。時間を操る吸血鬼の爆誕だ。論外にも程がある。
「それじゃ最初から私たちとの弾幕ごっこが目的だったと」
『ええ。まあ、道中面白そうな奴もいたから全てがそうというわけでもないけどね』
「ふうん。いいわ、始めましょ。手加減しないわよ。言ったけど、今欲求不満なんだから」
『ふふ、地霊殿6ボスお空の所持数に合わせてスペルカードは五枚にしましょうか』
「構わないわ」
魔理沙の意向を聞かずに了承する。彼女の答えなど聞くまでもないのだ。
『ああ、なんでもいいさ。こっちも我慢の限界だ。さっさと始めようじゃないか』
そう、弾幕ごっこによる異変の解決を胸に、こんな地の底まで肩透かしを喰ってきた彼女こそが、誰よりも忍耐を重ねてきたのだから。
『ああ、それとね。実は貴方たちが来る前に既に一枚カードを使っているのよ。だから私たちは後四枚。勿論そちらは気兼ねなく五枚使って頂戴』
使用済みのスペルカード。おそらくは周囲の惨状だろう。獄符「千本の針の山」を奇怪な四阿のために用いたということだ。
「結構よ。細かいことは気にしないでレミィ達も後五枚使ってくれて構わないわ」
誰よりも早く地獄の底に辿り着いたのだ。それくらいの特典はあって然るべきである。
『ああ、負けた言い訳にされたくないしな、パチュリー?』
「そうね……まあ、四枚でも五枚でも好きにしなさい」
勝負はやはりフェアがいい。それは互いにそう信じる条件こそが美しいということだ。
『そう? それじゃ後四枚選ぶわね』
『後で泣いても知らないぜ』
永遠に幼い紅い悪魔は、律儀で意地っ張りな様もかつてのままだった。
∇
『五枚か。まずはコレだろ』
「いいけど、ちゃんと相手にあったスペルを選びなさいよ」
『分かってるって。それじゃ次はコレだ』
「ソレ? ……じゃあコレも入れときなさい」
『本気か? そりゃ面白そうだな』
「あとはコレと……」
『ソレなら……コレか』
「いいわね。……弾幕は、」
『パワーだぜ』
∇
戦況は一方的だった。力も速度も相手が上で、ならばその慢心を突こうと智恵と技術を駆使するも、サポートの咲夜がそれを許さない。分かっている。レミィは運命の女神の寵児だ。彼女と戦うということは彼女の望むように戦うということなのだ。
『ああもう、邪魔だっての!』
ナイフに頬を浅く切られた魔理沙が五度目の舌打ちと共に〝針〟を蹴りつけた。無論針はびくともしない。それは直径2メートルの石柱。獄符「千本の針の山」の一本なのだから。
『くっそ、このための針山かよ! こりゃ確かにカード一枚分の嫌がらせだぜ』
「ホームの特権よ。一番にお空に辿り着けなかったのだから諦めなさい」
STR,AGI,INT,DEX,LUK何一つ相手を超えられない。加えて戦場はあちらに有利な仕様だ。巨大な溶鉱炉を思わせるステージ6の最奥は、レミィの手により紅い柱が林立する文字通り針の山となっている。灼熱の地の底から黒々とした天蓋までを貫く極太の柱は数メートルおきに点在し、飛行する魔理沙の進路を妨害しては彼女を苛立たせている。
そう、正確に魔理沙だけを妨害している。スピードを売りにする魔理沙ではあるが、彼女の誇る速度とはトップスピードにおける絶対速度である。トップスピードに乗った魔理沙は彗星の如く、少女の質量を以って星をも砕くと自負するものの、そこに辿り着くまでにはそれなりの魔力と助走が必要となる。あちらこちらに障害物のあるステージは魔理沙の本領を邪魔する枷にしかならないのだ。一方のレミィもスピードスターだが、あちらは寧ろ瞬発力や反射神経に優れる肉体派。トップスピードでは文や魔理沙に遅れをとることもあろうが、短距離の移動や回避行動、格闘戦などにおいてレミィは敵なしだ。化勁を極めた拳士すらテレフォンパンチで沈める速度は、それだけで吸血鬼という種族の出鱈目さを物語る。そんなレミィにとって石柱の森はなんらの障害にもなりはしない。寧ろ柱の側面を足場に高速で飛び回る彼女は環境を最大限利用している。反則スレスレの速度で跳ね回るレミィは容易く此方の死角を突いては弾幕を打ち込んでくる。それを紙一重で避ける魔理沙も尋常ではないが、今私が最も賞賛すべきはやはり博麗だろう。……弾幕ごっこでなく殴り合いなら勝負にすらなっていなかった。尤もレミィも魔理沙も弾幕ごっこでなければやり合う気にもならなかったろうが。
『どうしたの、動きが止まっているわよ』
最早声すら四方からかけられているように思えるが、それが不可能ではない支援者があちらにいる以上笑えない話だ。レミィの楽しみを殺がないよう最低限の手出ししかしないが、時空間の掌握は咲夜の十八番である。気の利く彼女は気分によって、相手の右頬を打つと同時に既に左の頬をも打っているという。敬虔なクリスチャンならば誰もが憧れる理想の隣人愛を、宗教宗派を問わず強制する余計なお世話の極みだが、そういう意味では彼女もまた最速の技を持つといえよう。
『は、まだまだ、これからだぜっ』
振り向きざまに弾幕をばら撒く魔理沙。弾は前方広範囲を覆う水符のレベル4だ。その性質は散弾銃。一発の威力は低いが無傷で逃がすことはない。が、水符はまたも空を切る。代わりに三方から襲い掛かるナイフが魔理沙の帽子を掠めていった。
『ちぃ、クリオネめ』
厄介なのはあちらの弾だ。咲夜が支援するレミィのショットは、レーザーの如く一点を貫く槍状の弾と、障害物に当たると数回反射する銀のナイフで構成されている。ナイフの弾速は発射時のレミィの移動速度に応じるらしく、速度の異なるナイフの群れは避け難いことこの上ない。更に針の山で反射を繰り返すナイフの軌道は、いつ何処で魔理沙と重なるか分かったものではなく、常に周囲を警戒せざるを得ない状況は精神的な疲労を募らせる。加えて円柱状の柱はナイフの反射角度の正確な計算を困難にする。それは小さな棘ではあるが、誤差数ミリの精度を求められるグレイズの多用を封じる効果を伴う毒を含む。
『くそ、見失った。金符にチェンジだパチュリー』
「このままじゃジリ貧よ。……魔理沙」
『……分かってる。……ああ、先に一枚切らせたかったんだけどな』
「相手は既に一枚カード使っている、でしょ?」
ならばこれは舞台で二枚目のスペルカード。
『よし、撃つぜ。まずは地の利を奪い取る』
勝機の見えぬ戦況を継続していたのは観察よりも意地のためか、ともあれ魔理沙は最悪のフィールドを被弾ゼロで突破する。
――恋符「ノンディレクショナルレーザー」
溢れ出した光が魔理沙を中心に放射状に広がっていく。それは幾筋かの光の房となり、すぐに五条のレーザーとなった。レーザーは高速で回転し、触れた柱を砕き散らす。
『荒っぽいわね。崩落でも起きたらどうするつもりかしら』
「旧地獄はそれほど柔な作りじゃないわ、レミィ」
獄符の欠片が眼下の灼熱に呑み込まれていく中、全ての柱を砕き針山を消却したレーザーは今やレミィ一人を追っている。が、全てを焼き切るレーザーもその軌道は単調な回転運動だ。如何に速度を上げようともレミィの体は捉えられない。レーザーの回転に合わせて隙間を旋回するレミィが零す。
『一枚目はノンディレクショナルレーザー。地形の不利を覆すか。まずは常道。けど意外ね。貴方達は初手から決着を狙ってくると思っていたわ』
『猪じゃないんだ。魔法使いは不利な戦いはしないんだぜ。その予想は……大当たりだ』
――原典「ノンディレクショナルレーザー」
荒れ狂う光の最中、躊躇うことなく二枚目のカードを切った。
『ちょっと! 同じスペルを二枚は……』
反則だろう。何より美しくない。だが、
『おいおい、良く見ろよ。何と何が同じスペルだって?』
『――』
二枚目のノンディレクショナルレーザーは恋符ではない。粘り気のある恋泥棒を自称する魔理沙が盗む以前の、この私のオリジナルだ。
『……っ!』
此方の意図を察したレミィが距離をとる。
「相変わらず感が良いわね。けど、もう遅い」
ゼロからのステップで音の壁を超えるレミィといえど、光の速さは追い越せない。
『ああ、勿論狙っているさ。初手から決着をな……パチュリー!』
「ええ……!」
魔力の風の吹き荒れる魔理沙の部屋で、私はスペルを形にする。開放のコードに鍵を掛け、通信機を介して地下に転送。解錠の条件は魔理沙との接触。展開座標を魔理沙本人に指定したスペルは、先の恋符と全くの同規模、同軸、同速、同火力で吸血鬼を追い詰める。ただし、回転だけは逆しまに。
『……咲夜っ』
二重のスペルがレミィを襲う。重なり合う二枚がそれぞれ逆回転するノンディレは碾き臼かミキサーか。なんにせよ交差するレーザーに死角はない。閉じるムーンライトレイを周囲にばら撒いているようなものだ。
「どう、レミィ。逃げ場はないわよ」
どれほどの速度を誇ろうと熱線の壁は抜けられない。物理的に回避不能なスペルはまさに……
「反則かしら? でも二枚とも普通のスペルよ。ちゃんと避ける余地のある、ね」
『お前はほんとにレミリアの友達なのか』
「勿論よ。互いの友誼を疑ったことなど一度もないわ」
『回避不能のスペルを使った後でいう台詞じゃないぜ』
「ええ、けど回避不能かどうかは相手によるでしょう」
人間が相手なら使わないようなスペルも相手が妖怪ならば躊躇うことはない。魔理沙と霊夢のところには来なかったようだが、怪しげなカメラを携えた天狗が取材に来たときなどは、皆物理的に回避不能なスペルを使って持て成したものだ。物理の壁に諦観しない者は割と多い。紅魔館にも、数名が。
『あれは無理だぜ。隙間がない。ドアのない部屋から外に出られるか?』
「……難しいでしょうね」
目を細める。周囲では今も、時計の針が重なるようにレーザーが交差を続けている。明滅する光の乱舞は通信機の此方からでも目が痛むほどだ。だから、そんな中で輝く刃が見えたのは、
人外の視力などではなく彼女についての知識のお蔭なのだろう。
――時符「トンネルエフェクト」
正真正銘、まっさらな空間から赤青二色のナイフが滲み出してくる。真っ赤な大玉を添えて殺到してくるナイフの群れは、物理の壁など明らかに無視して出現していた。そして響く声。
『隙間がない、なんて嘘。ないのは光が重なるその時その場所限りの安地。光が重なるその時その場所以外の安地は、それこそ無限に存在しますわ』
それに、知らず口もとが緩んだ。そう、紅魔館ではただの人間こそが、物理の壁を蹴り飛ばすのだ。
「9時方向、数70! 目視の暇はないわよ!」
『……!』
びく、と背筋を伸ばした魔理沙は一転、あらん限りの速度でその場を離脱する。幸い遮蔽物は全て破壊してある。初撃をかわす幸運さえ得られれば、後は速度で引き剥がせる。助走距離さえあれば投げナイフなどに追いつかれる魔理沙ではない。
『痛ってぇ』
「よく避けたわ」
顔を歪める魔理沙に賛辞を呈する。掛け値なしの本音である。
『いや痛いって言ってるじゃん』
「何処、肩? 痛いで済んだのなら重畳よ」
『おまえな、人の肩だと思って……っていうか何だあれ。っていうかどうやって?』
魔理沙は言う。突然ナイフに襲われたことも理不尽ならば、相手がナイフを飛ばせること自体が理不尽だ。だって今の二重のスペルは、逃げ場なんて何処にもなかったのだから。
『〝どうやって〟? ちゃんと宣言したでしょう? 時符「トンネルエフェクト」。波動関数に造詣は?』
ナイフに集中を解かれて霧散したレーザーの向こう、無傷のレミィの耳カバーから、咲夜の声が聞こえてくる。
『障壁のポテンシャルが有限である以上、あちらとこちらに違いなんてないのよ』
『何の話だ』
『寂しがりやの存在確率の話かしら』
『紅魔館のメイドは量子力学まで求められるのか』
『正式採用への必修科目ですわ』
原理など知ったことではないが、要はレーザーに触れる瞬間、レミィをレーザーの向こう側に『発生』させたのだろう。先のナイフの群れのように。咲夜流に言えば、レーザーの向こう側にあるレミリア・スカーレットの存在確率を染み出させたのだ。トンネルエフェクトとはそういう奇術であったはず。
『お嬢様が距離をとってくださったお蔭でレーザーとの接触は二秒に一度。その程度の間隔なら波動関数も丁寧に振動させられますわ』
『ご教授痛み入るが私はニュートンの信奉者でな。物理学はリンゴとハチミツでお腹いっぱいだぜ』
『貴方のリンゴも私のもの。古風な魔女におやつは、ない』
『おい聞いたかレミリア。お前んとこのメイドは人様のデザートまで食べるのか。教育がなってないぜ』
ドレスの埃を落としていたレミィは魔理沙の声に顔をほころばせた。
『咲夜は細いからね。太ももとかさ。もう少し食べた方がいいよ』
『お嬢様……』
『あら咲夜、心拍数が上がったわよ?』
「ああもう。魔理沙、こういう反応するに決まってるんだからレミィに振るんじゃないの」
甘ったるい会話が飛び交う前に、ぱんぱんと手を叩いて話題を元に戻す。
「で、結局こっちはスペル二枚を使って得た成果が獄符の破壊と時符の消費か」
必中の二重発動まで行って勝負がつかなかったのは痛いが、相手はレミィと咲夜である。一筋縄でいくとも思ってはいない。
『また派手に壊してくれたわね。折角さとりのペットに作ってもらったセットなのに』
『なに? お前のスペルじゃなかったのか』
『違うわ。営繕担当のペットがいるのよ。確か三毛猫のオマリー』
『うおお、こんなところにいたのかオマリー! というかそんな特技が!? 私のハウスは地獄以下かァ!』
「魔理沙うるさい」
なるほど。担当が大掛かりなアスレチックを作っていたから、地霊殿の補修をする者がいなかったというわけか。
『くそぅ、あのキツネ全然役立たないじゃないか。何が肉球のススメだ……ああ、そういやペットといえば、お燐とお空はちゃんとさとりのところに帰したんだろうな。さっきのレーザーに巻き込まれてたりしないよな』
『心配ないわ。二人はおやつを食べに地霊殿に昇って行った。今頃はさとりの膝でイエローケーキでも頬張っているでしょう』
『そうかい。安心したぜ』
『ええ。じゃ、そろそろ続きを始めましょうか』
言って、レミィはカードをとり出した。見せ付けるように提示されたカードの模様は真っ赤な十字に絡みつく鎖。
『おっと、大胆だな。いきなりスペルカードを切るか』
慌てて後ろに飛ぶ魔理沙。彼我の距離はざっと35メートル。レミィの手にするあのスペルなら回避の可能な距離ではあるが……。
『あら、つれないわね。けど残念。ほら咲夜、さっきのもう一回』
『貴方の未来も私のもの。古風な魔女に逃げ場は、ない』
口元を歪めたレミィがスペルカードを指でずらす。紅いカードはするりと傾き、重ねられた二枚目のカードが露になる。
「――! 魔理沙、三枚目発動!」
『あん? 三枚目ってどのスペルだ? 撃つならもっと引き付けてからだろ』
「これ以上何を引き付けるのよ! いいから早く! 宣言するのよ!」
『何だよ落ち着けパチュリー。だから三枚目ってどれのことだ。これか? オマリーに捨てられた私のことか?』
誰がそんな迂遠な嫌味を言うか。見ろ、そんな不毛なやり取りの間に、レミィはカードを開放しているじゃないか。
「貴方のスペルよ! どっちでもいいから早く!」
言い終えるより早く、レミィの手元が眩く光り、紅く巨大な鎖が幾条も飛び出してくる。まずい。あちらの意図が想像通りなら、既にこの瞬間被弾の条件を満たしている。
――運命「ミゼラブルフェイト」
それは魔狼をも捕らえる桎梏の紅。対象の因果を捕縛する鎖は地の果てまで相手を追い詰め、捕らえたが最後、一切の例外なく緊縛する。弾幕ごっこには最適の一枚だ。捕縛機能付きの自動追尾弾は、禍々しく金属音を撒き散らしながらも、その紅い軌道はひたすらに美しい。鎖を免れるにはそれ以上の速度で時間いっぱい逃げ回るしかないのだが……。
「撃たれた! 急いで間に合わないわよ!」
『なんだよ。確かに厄介なスペルだが、これだけ距離があれば回避できるぜ』
苛立ちが沸点を超える。どうしてこの脳菌はここまで察しが悪いのか。結果傷つくのは己が体だというのに――!
「できるわけないでしょ! レミィの手元を見なさい! ああもう、さっさと撃たないと客間で日符を使うわよ!」
『馬鹿よせ! 分かった分かった! 撃つよ! 貸しイチだからな!』
「こっちの台詞よ!」
『ああもう、くそ、もったいない! 意味がなかったら恨むぞパチュリー!』
唾を飛ばしあった末に漸く箒に魔力が宿る。それは本当にギリギリのタイミング。渋りながらも切られたカードは、込められた効果を忠実に発揮するだろう。
「……ええ。切り抜けられたら感謝しなさいよ」
条件の一つは打ち砕いた。後は魔理沙の速度次第だ。
――彗星「ブレイジングスター」
――「デフレーションワールド」
迫る鎖の根元、発生源たるレミィに向けて、箒の魔女が加速する。それはただ速いだけの体当たりだが、突き破られた大気の壁が衝撃波となって大木を薙ぎ払う程の速度となれば、もはや星に穴を穿つに等しい威力を持つ。巻き起こる爆風から自らを保護する防御膜は摩擦と帯電から青白く輝き、長く尾を引くその光芒は黎明の彗星を思わせる。
『悪いなレミリア。このスペルで……ぐえっ』
その瞬間、魔理沙を目掛けて殺到していた鎖の群れは、既に彼女の体を捕らえていた。
『うぉっ、なんだこりゃ! 今の今まであの辺飛んでた鎖だろ!』
突如として自らを拘束した鎖を掴み、魔理沙は驚愕に叫んだ。無理もない。前触れなく縛鎖に捕われ、それはどれほど力を込めてもびくともしないのだ。未来を縛る運命の鎖。時間と因果のダブルバインドは人の子の力では破れない。だからこちらに――私がいるのだ。
「相手の二枚目を聞いてなかったの? 咲夜のデフレーションワールドは原因と結果を共存させるわよ」
デフレーションワールドとは過去と未来を現在に凝縮するスペルである。弾幕の始点と終点を全く同時に存在させる咲夜の技は、過程に与えられていたはずの回避の機会をすっ飛ばす。相手は点の攻撃を線、或いは面として叩きつけられるのだ。複数のリコシェ系の描く軌跡を射出と同時に発生されられては、回避も何もあったものではないだろう。そしてレミィのミゼラブルフェイトは因果の糸を辿って相手の魂を絡めとる。避け得ぬ鎖の未来を呼ぶなら、当然の結果として捕縛は完了している。
「いいからスペルを続けなさい。もっと速く。より強く」
今の状態は鎖が魔理沙を捉えた瞬間だ。時系列の圧縮により発動と同時に着弾する悪魔の鎖は確かに必中の連携だが、こちらの行動がキャンセルされるわけではない。悪魔の時計に著しく差をつけられつつも、こちらの時計もまた時を刻み続けている。それはスペルに込められた矜持であり、競われる美の結晶であるが、ともあれ我らの活路はそこにある。
『ああ……』
急かされたスペルの意図に気付いた魔理沙が口の端を上げた。
『オーラィ魔女殿。振り落とされるなよ』
片手で抑えた魔理沙の帽子が激しくはためく。運命の重圧から解き放たれようと、魔理沙はあらん限りの魔力を燃やす。
『行くぜレミリア! こんなもんで私を縛れると思うなよ!』
彗星の秒速は30キロメートルを超えるという。ならば絡みついた鎖が拘束の圧力をかける瞬間、魔理沙の体は30キロの彼方にあった。時の圧縮に先んじて発動された超速の魔法は、ここに縛鎖の結果を覆す。彗星の運動エネルギーは運命に喰らいつく鎖をついに凌駕し、鎖は牙を剥がされる。引き千切られた鎖の音が魔理沙の声に先行する異常。しかしその異常な速度を以ってしても、紅い悪魔は屈しない。
『……強引ね。美しさを競う弾幕ごっことしてはどうなのかしら』
人外の跳躍でブレイジングスターを遣り過したレミィが体ごと振り向いた。空振りに終わった突進に落胆することもなく降りてきた魔理沙に微笑みかける。
『美しいさ。弾幕はパワーだぜ』
そう、落胆することなど何もない。今の攻防は先の真逆。必中を期した相手の二重スペルをこちらは一手で破ったのだ。カードの残数はこちらが有利。勝負は振り出しに戻ったといえよう。
「これでカードの消費は三枚ずつね。地の利も消えたし、危ないんじゃないの、レミィ」
挑発にもレミィは微笑むばかり。返答は咲夜からだった。
『ええ。三枚で済めば、の話ですけど』
「……?」
違和感にふと、笑う悪魔の手元を見た。二枚重ねのカードのうち一枚は既に消えている。引き千切られたミゼラブルフェイトは完全に消滅している。そしてもう一枚のデフレーションワールドももう消える。鎖を失い、追撃してくるでもないレミィのもとでは、これ以上展開しても魔力の無駄である。
「……」
……そう、無駄な筈なのだ。咲夜といえば完璧で瀟洒に無駄のない女。ロストル式火葬炉でパンを焼くその合理性に隙はなく、氷室にモルグとルビを振る天然は彼女が生まれついてのプラグマティストであることの証左である。そんな咲夜が僅かとはいえ魔力の無駄を許すだろうか。目的のないスペルの稼動など、彼女は一秒たりとも認めないはず。ならばデフレーションワールドはミゼラブルフェイトの消失と同時にキャンセルされるべきなのだ。それ以上のスペルの維持は時間と魔力の無駄使いなのだから。それが、在る。カード、デフレーションワールドは今もレミィの手の中で滔滔と魔力の流出を続けている。……断言する。十六夜咲夜に無駄はない。ならばその手のスペルの意味は……?
「……そこ、は」
そうだ。レミィの笑うその位置だ。頭に何かが引っかかる。思い出せ。そこがどんな場所だったか。二重のノンディレクショナルレーザーで針山を散々に砕きぬいて、ただ広大なばかりの空間となった今では目星となるような何かなどないが、レミィがいるその場所だけは絶対に忘れてはならないポイントではなかったか。
「……あ、」
辿り着くまでに二秒。本当に腹が立つ。二秒もの間、悪魔は我らの間抜けを笑っていたのだ。
「魔理沙――!」
咲夜の「デフレーションワールド」とは置き去られた過去と予約済みの未来を今この瞬間に凝縮して再生する映写装置だ。そこで起きる事象であれば過去も未来も関係なく問答無用で発生させる。ああ、なんて愚か。漸くレミィの言葉を理解した。
――けど残念。ほら咲夜、さっきのもう一回。
――貴方の未来も私のもの。古風な魔女に逃げ場は、ない。
さっきの、が指すものは咲夜の前言などではなく……。
「――避けなさい!」
思わず手が前に出た。無論魔理沙は遥か地下。私の手は何を掴むこともない。それが今は無性に歯痒い。
『避ける……?』
運命の鎖をブレイジングスターによって引き千切った為、魔理沙とレミィの立ち位置は逆転している。ミゼラブルフェイトの回避と同時に当然攻撃の意図も併せた魔理沙はブレイジングスターの軌道をレミィ本人に向けていた。結果、レミィが鎖を放った場所には彗星の如く魔理沙が襲来し、華麗なムーンサルトでそれを避けたレミィは逆にかつて魔理沙が居た場所に移動していた。
『〝回避不能〟は魔理沙の台詞でしたか?』
咲夜の言葉が終わるや否や、一切の前触れ無しに巨大な光の円環が顕現した。
『おわっ……!』
それは二重に重なりそれぞれ逆向きに回るレーザーの嵐だったもの。かつて交差を繰り返すことにより必中を体現した対の刃は、その回転の始点と終点を圧縮されて二枚の円盤となって再誕する。なるほど。時の軛を忘れるほどに、回りまわれば果ては円環。雪印が誇る伝統バターの製法だ。尤も咲夜による円刃の材料は虎ではなく高出力レーザー。触れたが最後ただでは済まず、触れずに逃げる術もない。熱を持たず回転もせず。全ての運動エネルギーを凝縮された眩い円環は、ただそこにあるだけで全てを引き裂き焼き捨てる。……台風の目にいるレミィ以外は。先のレミィは存在確率の連続肯定により難を逃れたが、円盤状に圧縮された此度のレーザーには波動関数を揺らす隙間もない。
『ぐっ……なろぉっ……! こっちのスペルを利用しようってか!? 馬鹿にしやがって!』
希望を捨てよと地獄を飲み込む光を前に、魔理沙がカードを一枚切る。
「……それしかない、か」
かつて必殺を期して開放した二重魔法である。千本の針の山を喰い荒らしたそれを丸ごとそのまま過去から持ってこられた挙句、たった一席の安全地帯から蹴りだされた今や、失うものなく生き延びる手など我らにあろうはずもない。
――星符「ドラゴンメテオ」
刹那、レーザーの輪から掻き消えた魔理沙は遥かな上空に飛び上がっていた。
『ぐああっちぃ……ちくしょう、彗星に続いて回避に二枚も使っちまった!』
ステージ6の灼熱を防ぐため常に耐熱魔法を張っていたとはいえ、火傷で済んだのは僥倖である。
『……けどツキは落ちてないぜ? かつての灼熱地獄か。開けた地下空洞で助かったぜ』
焦げた前髪に顔を顰めて、そのまま魔理沙は八卦炉をレミィに向けて照準する。ドラゴンメテオは天から地を穿つ超出力レーザーだ。スペルの開放は魔理沙を一瞬で上空に運び、マスタースパークと遜色ない熱量を眼下の敵に叩きつける。
「良く避けたわ」
賞賛に値する機動性。私にはないものだ。
「けど……」
やられた。咲夜の狙いはスペルカードの空費だ。上昇転移による回避を主眼にしたドラゴンメテオでは、レミィを狙撃するにあたってベストの位置を選べない。回避のついでに放たれるレーザーが最速の悪魔を捉えることなど不可能である。スペルカード戦においてカードが底をつくということは即ち敗北を意味する。スペルカードを失っては美も強さも競うことなど叶わない。
『私からも贈るわ。良く避けたじゃない、魔理沙』
『レミリア……!』
再生したノンディレクショナルレーザーが命中するならそれでよし、そうでなくとも何らかのスペルカードを回避に回さざるを得ないのならば、レミィと咲夜はその一枚分勝利に近づくことになる。
『四枚目はドラゴンメテオ。さあ、あと一枚ね』
『にゃろう、舐めやがって。見てろよパチュリー、絶対あいつにブチ込んでやるからな!』
八卦炉から伸びる出力過剰のレーザーサイトが二重円環の中心を貫く。狙いはこの上なく正確。数秒後には超火力の光の滝がレーザーサイトを追うだろう。だがそれでは足りないのだ。速度に溢れ、時間と空間に背中を押され、運命にさえ愛された悪魔が相手となれば、正確なだけの射撃では掠り傷一つ負わせることはできないだろう。……ならば私がすべきは何だ。考えろ。前線を離れ弾幕に身を晒すリスクを魔理沙一人に押し付けたのなら、思考こそが我が責務。避け得ぬ攻撃を避け、当て得ぬ照準を定めて気炎を上げる相棒のために、私がとれる最良の一手とは。
「……続けて第五を開放」
『な、おいっ!?』
月の光を右手に集め、木々の息吹に投射する。
――屁理屈はさっきと同じだ。ドラゴンメテオが避けられるなら、避ける逃げ場を奪えば良い。今度はより徹底的に。
『最後の一枚だぞ!?』
「今使わずにいつ使うのよ。此処が分水嶺よ。……そのためのスペルでしょう」
言いながら脳裏で詠唱は終えている。右手に滾る静謐な雫。翠化した黄金色を通信機に叩きつけて地獄で咲けと散華させる。鼻につくフィトンチッドの毒の匂いは月下の森林浴を思い出させた。
『――っ! 無茶しやがる……通信機壊れても知らないぞ!』
「いいから貴方はさっさと魔力を充填して。一秒でも早くメテオを撃つのよ」
獄炎揺らめく灼熱地獄の釜の底に、清涼な風が一陣吹いた。次いで舞い散る二色の雪は、黄化と翠化に研ぎ澄まされた一辺100mmの
魔力の刃。刃は熱気に煽られながらも、螺旋を描いて世界を埋め尽くす。
――月木符「サテライトヒマワリ」
『これは……』
「翼を折らせてもらうわよ、レミィ」
降り頻る刃の細雪。逃げ場を奪う翠と黄金は、その実一枚一枚に破格の魔力を込めた散弾の雨だ。木がしなやかに、月が滑らかに磨き上げた刃は敵に触れると切創を与えた後に爆散する。吹き飛ばされた相手は次の刃、その次の刃と被弾の連鎖に巻き込まれるのだ。月木符の用途は空間の制圧。二色の刃はフットワークを殺す致死の粉雪である。
『足を止めたところをドラゴンメテオで狙い撃ち。悪くないわね』
既にノンディレクショナルレーザーは消失している。当然だろう。目標の魔理沙が圏外からの精密射撃を狙っている今、円環はレミィの逃げ場を削るだけだ。
『あちらの手札はこれで打ち止め。正真正銘最後の一手でしょう。……お嬢様』
『ええ。フィナーレよ。使いなさい、咲夜』
阻止も警戒も及ばぬ一瞬だった。魔理沙の魔力が溜まる寸前、レミィに促された咲夜は何の気負いも口上もなく、至極あっさりと宣言した。
――奇術「ミスディレクション」
誤誘導を冠する咲夜のスペルだ。本命から意識を逸らす必殺の虚像。だが……
『はっ、残すスペカを間違えたな! パチュリーが逃げ場を潰した今、求められるのはパワーだぜ。小手先の奇術で私のメテオは防げない。カードは四枚でいい、なんて余裕カマしたツケだぜレミリア!』
言い終えると同時、魔理沙の魔力が八卦炉を満たした。満を持して放たれる光はかつてない規模の極太レーザーだ。
『いっけぇ!』
全力を火砲に託して魔理沙が吼えた。瀑布の如く迸る星符は周囲の刃を誘爆させて、空を切り裂く隕石のようにレミィを目指して駆け下りる。
「……そういうことね。ミスディレクションは幻惑の花。わざわざ宣言されて見惚れる間抜けに見えるかしら?」
これで最後。ありったけの魔力をスペルに込める。今や刃は地獄の空を二色に染め上げ、その一枚だけで百の咎人を鏖殺する。
「貴方の敗因は驕りよレミィ。咲夜と組んで有頂天になるのも分かるけどね。相手の特性を侮った貴方の負けよ」
我が二つ名は動かない大図書館。自己を中心に広範囲を焼き尽くす全方位火力は、言うなれば固定砲台だ。一方の魔理沙の売りは高速機動と直線火力。二人が組めば互いの死角を補い合える。チェスでいえばナイトとクィーンを兼ねる駒だ。チェックの範囲に隙はない。
「詰みよ、レミィ」
七曜の魔女のありったけを受けて、最初に音を上げたのは通信機だった。核としたベリルが砕けたのか。胡桃を割るような音に遅れて地下からの声にノイズが混じりだす。映像も秒刻みで色を失っていく。が、構うことなどない。此処が地獄の終点だ。パチュリーランド従業員の確保を終えた今、この勝利を以って此度の異変は解決される。惜しむとすれば相棒の笑顔が見れぬことか。だが、顔を見れば毒づく二人だ。勝利の味は一拍おいて、酒で薄めるくらいが丁度いい。
『分かってないわね』
「……?」
不鮮明な映像に目を凝らせば、確実に迫る被弾を前に、レミィは冷や汗一つかいていなかった。
『咲夜がミスディレクションと言ったんだ。騙されるわ。ええ、パチェも魔理沙も絶対に引っかかるわよ』
レミィはそこにいない咲夜に寄り添うように目を閉じた。
「――っ!」
それを見て背筋が凍ったのは、果たして私だけだったのだろうか。
「魔理沙っ!」
『ああ!』
何かに背中を押されて壊れかけの通信機に更に魔力をブチ込んだ。まるで魔女の釜だ。ありったけの呪いと祈りを蝙蝠の血で煮込むのだ。
「ええ、そうでしょう。レミィは咲夜のことなら何でも分かるんでしょうよ!」
比翼のつがいの如く二人はいつも一緒である。互いの存在を100%理解しあっているのだろう。二重の揺籃で包みあうような信頼が、自分達に負けなどないと、揺らぐことなく二人を支えているのだ。
『仲がよろしくて結構だなあオイ!』
レミィと咲夜の間にある絶対の絆、相互理解。100%を誇る彼女らに対して、私と魔理沙のそれらはせいぜいが20%といったところだ。私は生え抜きの魔女である。粘り気のある芋泥棒が綴る粘菌記録などに興味はない。魔理沙にしても同じだろう。我が崇高なるパチュリーランドの意味を彼女は毛ほども理解できまい。
「けどね、20%で十分なのよ」
言って、強く魔理沙を意識する。……上級魔法の融合に秒を要しなくなったのはいつ頃からか。魔導演算概論における禁忌に手を染めてはや数年。属性間の合成魔法において我が手腕に並ぶ者はないだろう。灼熱の地の底で荒れ狂う木と月の符は今、新たな属性を加えて一際容赦なく地獄を蹂躙する。
「合わせて、魔理沙!」
『任せろパチュリー!』
叫ぶ。
――月木星符『ドラゴンヒマワリ』
驟雨の如く降り注ぎ世界を覆う黄緑の刃の一部が、ドラゴンメテオの極太レーザーへと変性していく。その強引極まりない置換は刃全体のせいぜいが20%。だが無限を思わせる刃雨の二割がうねる光の瀑布となれば、世界にその身を隠す場所などはない。
『文字通り、今度こそ逃げ場はないぜ!』
……はじめは1%も理解できない脳菌だった。だがこのパチュリーランドで働く仲間を探す地下探索は勇者の旅路。艱難辛苦を共にするクエストはパーティの絆を否応なく深めていくものだ。ツブれたパン屋のオヤジの慰撫や、旅行代理店による魔王の懐柔といったワケの分からん道のりは、私と魔理沙の心を確実に近づけていたのである。ラストダンジョンまできて漸く20%ってのはどうなんだという気もするが、そこはそれ。所詮魔女と粘菌術師、相互理解には限界がある。
『おっしゃあ! 喰らいなレミリア! 東大までフッ飛ばしてやる!』
それは別の植物であるが、その気概は悪くない。限界を超えて顕現した大口径レーザーの隊列は正に暴虐なる龍の如し。残る八割の刃を呑み込みいたるところで爆炎を散らす龍の群れは
、木のようにしなやかに、月のように滑らかに、そして夜空を駆ける流星のように激しく一途に想いを遂げる。今や眼下は光の海だ。仮借ない荒波に紅い悪魔が消えていく。
「どう、二割で十分でしょう?」
ドラゴンメテオの売りはその名に恥じぬ大火力だ。一たび触れれば引きずり込まれ、磨り潰される光の激流。今やそれが戦場全域を覆い尽くしている。絡み合う瀑布に隙間はなく、重なり合ったレーザーは互いの火力を増幅させる。逃げ場などない。ドラゴンメテオとサテライトヒマワリ、どちらも回避の余地ある弾幕の一つだが、遊びの凹凸がぴったり嵌ればそれは被弾必至の凶器と化す。先の未来を縛る鎖とは別の意味で必中の攻撃。そう、紛れもなく此処は地獄。術者の魔理沙を除き全てを焼き尽くすディーテの市だ。
『はっ……はあ……。最後のスペルも無駄だったな。ナイフ一本分の隙間もないぜ』
ブツブツと途切れる声で魔理沙が薄い胸をそらす。魔力を絞り尽くしたのだろう。荒い息で汗を拭う姿がコマ落ちで近づいてくる。どうやら無茶な駄目押しのせいで通信機が限界のようだ。脆弱と責めはしない。寧ろ良くもったといえるだろう。砂嵐に侵食される映像は流星群の奔流のみ。どれほど目を凝らしてもレミィの姿は見えなかった。勝利に笑う魔理沙がこちらを向いて何やら頬を染めている。
『あー、パチュリー』
「……何よ」
『いや、何だ。その……お、お前のおかげで――』
言の葉が音もなく切断された。最後となった帽子のつばを引いて必死に顔を隠す魔理沙の映像は、鮮明ならばその筋のアレに高く売れそうな乙女っぷりであった。
「馬鹿ね」
だから、つい笑ってしまった。
「私がこなけりゃレミィも大人しくしてたわよ」
引き戻された静寂の部屋で独り言ちる。窓からは夜を穿つ大きな満月。咲夜の紅茶で喉を潤す。かけた椅子の背もたれに頭を乗せて、親友の顔を思い浮かべた。ああ、そういや月満ちた夜にレミィを負かしたのは初めてではなかったか。
「さて、全く手のかかる。まずは神社で小悪魔と合流して、青田刈りしたパチュリーランドの仲間達に声をかけて、魔理沙も上がってきてるだろうし……それからまあのんびりと、ピチュったあの子を迎えに行ってやるとしますか」
達成感に口元が笑みを形作るのをぐっと堪える。間欠泉の異変も収まっていることだろう。
「どうせ咲夜が真っ先に向かっているんでしょうけど」
軽く伸びをして脱力する。魔力を使い果たし、身体も思ったより疲れているようだ。大きく息をついて軽く頭を振る。纏わりつく気怠さを振り切るように立ち上がろうとして、
「ほら、騙された」
ひやりとした小さな腕に、ふわりと背中から抱きしめられた。
∇
「……どういうこと。ミスディレクションってそんなスペルじゃないでしょう」
「んー、まあスペルというかテクニックというか。パチェも魔理沙もあっちの私に気をとられて、本命のこっちに気付かなかったでしょ?」
後ろから私の首に抱きつくレミィは上機嫌だ。私の苛立ちが楽しいのだろう。そういう性格である。
「だからそんなスペルじゃないでしょう。あっちだのこっちだの、存在確率を弄るなら別のスペルのはずじゃない」
だとしても釈然としない。あの地下の底から此処まで何キロ離れていると思っているのか。確かに咲夜は紅魔館にいるのだろうが、大深度地下にいるレミィを瞬時に地上に送るだなんて、それこそ人間技ではない。
「何かやったわね」
肩越しに私の目を覗き込んでくるレミィをじと、と睨む。
「そりゃやったわ。弾幕ごっこだもの。如何に美しく相手を叩きのめすか。そこに趣向を凝らすのは当然じゃない」
「……そう、五枚目を使ったのね。何よ、自分達はあと四枚でいい、なんて啖呵切っちゃって。結局四枚じゃ手詰まりだったんじゃない」
しかも私も魔理沙もスペルの宣言を聞いていない。まあ、通信機が壊れた後に宣言したのかもしれないが、それでは最後の合成スペルをかわす術がない。
「あ、酷いなパチェ。私のこと卑怯者だと思ってるでしょう」
「ええ。出来ないことは言わないでほしいわね。そりゃあ四枚でも五枚でも好きにしろとは言ったけど、負けそうになったらこっそり使うなんて潔くないわ」
「もう、私たち、五枚目なんて使ってないわよ」
「嘘」
「嘘じゃない」
「嘘よ」
「嘘じゃないって」
「使った」
「使ってない」
「馬鹿」
「馬鹿じゃない……なに、泣いてるの?」
「泣いてない!」
泣くか、ばか。
「あーもう。パチェは負けず嫌いだなあ。それじゃ種明かし。私が此処にいるのは、とあるスペルの効果です」
「ほら御覧なさい。スペルカードを使ったんじゃない」
「ええ、使ったわ。けどそれはパチェの言う五枚目じゃない。奇術「ミスディレクション」の後にスペルは一枚も使ってないわ」
「嘘」
「だから嘘じゃないって。順序を言うならそれこそ一枚目のスペルだよ」
「……え?」
一枚目といえば二重のノンディレクショナルレーザーを回避したトンネルエフェクトだ。まさかあの時波動関数の揺らぎとやらで、既に地上にレミィを発生させていたとでもいうのか。そんな馬鹿な。あの超長距離でそんな真似ができるというなら、それは万能が過ぎるというもの。人間の咲夜の所業では断じてない。
「ハズレを考えてる顔よ、パチェ」
「トンネルエフェクトではないというの」
「違う違う。それは二枚目でしょう」
ぱたぱたと手を振ってレミィは吹きだした。失礼な動作である。
「パチェの悪いところは人の話を聞かないところね」
「……それは貴方の短所でしょう」
「私はいいの、咲夜が聞いてるから。……言ったでしょ、パチェ。既に一枚使っているから残り四枚でお相手するわ、って」
だがそれは……いや、そうか。獄符「千本の針の山」はさとりのペットが作ったセットだ。一枚目のスペルを探る思考を、私は確かに放棄していた。
「……なるほどね」
肩の力が抜けた。首筋に絡みついたレミィの頭に、こつ、と自分の頭を軽くぶつける。
「で、何を使ったの?」
「禁忌「フォーオブアカインド」。混ぜろとフランが煩くてね。カード一枚分手伝ってもらったのよ」
「呆れた。支援者のスペルじゃないわ」
「紅魔仕様は支援者の切り替えが可能よ。体験版で言ったじゃないの」
「……体験版って何よ」
「どうせ完成品を買うから、なんて理由をつけて例大祭で本家に並ばなかったのがパチェの敗因ね。結局web体験版もやらずに完成品だけ買ってきたんでしょ」
「だから何の話よ!」
「勝負は体験版から始まっているのよ。情報収集を怠ったパチェの負け」
なんだか良く分からないがムカっ腹が立つ。なので、すぐそばにあるレミィの頬を抓ってみる。
「何よ。痛くないわ」
抓る。
「痛くない」
抓る。
「痛くないもん!」
抓る。
「むぎー!」
抓られた。痛ぇ。
「で、卑怯にも予めフォーオブアカインドを使っていたレミィは、四人のうち一人だけを残して地上に引き揚げていたというわけね」
「何で卑怯なのよう」
「卑怯よ。……どんな分かれ方してたの」
単純に力を四分割した上であの弾幕ごっこを演じたというなら、それは卑怯どころか恐ろしい話だ。
「んん? ああ、魔力は殆ど地下に置いてきた。後は適当ね。カリスマを集めた私とか、愛嬌を集めた私とか」
なるほど。今相手にしているレミィは普段よりも幼く感じる。なけなしのカリスマを他に集めた結果だろうか。
「地下に一人、此処に一人。後の二人は何してるのよ」
「一人は咲夜の膝で寝てたわ。もう一人はフランと美鈴と一緒におやつ食べてた」
「何処に居るのよ。カリスマを集めた個体は」
「んー、どっか行った」
駄目だこの吸血鬼。
「地下のがピチュったからね。しばらくしたらもとに戻すよ」
「ああ、結局最後の弾幕で被弾したのね。……それじゃ私たちの勝ちじゃない」
「魔理沙は今もそう思ってるでしょうね。けど私はここにいる」
ぐりぐりと頬を押し付けてくるレミィ。ひんやりした肌が気持ちいい。それが逆に癇に障る。
「勝敗なんてそんなものよ。数ある異変を解決して、倒したと思った相手は本当に負けているのかしら」
「哲学?」
「量子力学よ」
魔力の大半を有したレミィを退けたことに違いはない。それが相手の思惑通りだったというだけのことだ。今頃魔理沙は凱歌を歌いながら地上に引き返してきているのだろう。通信機が壊れていて良かったかもしれない。
「異変の解決を横取りして、主演の魔女を踊らせて。さぞかしいい気分でしょうね」
「否定しないわ」
レミィはふふんと笑う。その余裕がチリチリするのだ。
「性悪ね」
「そう?」
「底意地が悪い」
「そうかもね」
「鬼」
「いやいや」
「悪魔」
「そうね」
「いつもいつも何でもお見通しって顔で余裕ぶって」
「……」
止まらない。
「綺麗なメイドを侍らせて、豪奢な館で遊び暮らして」
ああ、さっきから情緒不安定だ。
「人でなし」
「ええ」
「エゴイスト」
「そうよ」
「マダムキラー」
「マダムキラー?」
「鬼」
「だから違うって」
「悪魔」
「……うん」
一際強く、ぎゅっと抱きしめられた。
「……おしまい?」
「……ええ」
「まだあるでしょ?」
「ないわよ」
やれやれと息をつくレミィ。そして出来の悪い学生を諭すように。
「人でなしのエゴイスト。マダムキラーで鬼悪魔。……そして貴方の親友でしょう?」
真っ白な封筒を渡される。
「……?」
封蝋を割って出てきたものは二枚綴りの上質紙だった。
「これは……」
「幸ある未来の共有こそが友情の最もアツい部分よ」
【賃貸人古明地さとり(以下、甲という)と、賃借人レミリア・スカーレット(以下、乙という)との間において、次のとおり契約する――】
「土地賃貸借契約書?」
対象物件は地霊殿本宅の一角。賃料は月に一度のこいしとの弾幕ごっこだ。
「……レミィ?」
これによればレミィは向こう20年に渡り、賃料の遅滞がない限りは地霊殿の一部を好きに使えるとのことだが……。
「パチェの好きにしていいわよ」
「好きにしていいって……」
そういやレミィと契約をしたと、さとりが言っていた気もするが。
「どう言い繕っても流刑地さ。人材はともかく、他に目ぼしい土地なんてなかったからね。少しばかり借りてきた。要らなきゃ魔理沙にでも又貸しするわ」
そう。地獄の底まで探しぬいて、遂に見つけられなかったパチュリーランドの建設用地。こうなったら開き直って神社の境内にでも快楽の殿堂をおっ建てようかと考えていたのだが……。
「ああ、レミィ。貴方こそ本当の理解者よ」
未来が薔薇色に光りだす。振り向いて、小さなレミィをかき抱いた。
「そうでしょう、そうでしょうとも」
満足げに抱きついてくるレミィの頬にキスをする。
「金地人。機は熟したわ。ええ、魔理沙になんて渡すものですか」
灼熱地獄の上に建つのは湿った副都心などでは断じてない。パチュリーランド、それは愛を育む魅惑のテーマパーク。金で買える快楽がギッシリ詰まったこの世の楽園である。
「今夜は飲むわよ。異変解決祝賀会と楽園建立の前祝よ!」
「そう言うと思ったわ。紅魔館に帰りましょう。咲夜が70年物を用意してるわよ」
「イヤッホゥ!」
小さなレミィを抱えてくるくる回る。ダボダボの服でそんなことするもんだから、引っ掛かった机上の本やキノコが凄まじい音を立てて散乱するが、そんなことは些事である。
「そうだ、パーティには魔理沙も呼んで頂戴」
彼女も間違いなく楽園の立役者だ。
「安心して。咲夜が今、魔理沙やさとり、パチェが青田刈りしたであろう風俗店の店員たち全員に声をかけているわ」
「流石ね。最速の手配だわ」
「ふふん、今夜は寝かさないわよ」
「ああ、素敵よレミィ」
レミィの手をとり、存分に散らかした霧雨邸のドアをくぐる。冷やりとした大気が火照った頬を撫でた。吐く息が白い。見上げた空では月が祝福に満ちていた。
ああ、冬扇さんだ。今回も楽しませていただきました。
眠気が飛ばされ夢中で読んでいました。
クリオネと粘菌術師の話がレミリアと魔理沙のガチバトルに変わってたぜ。
もうなんか上手く言葉に出来ませんが、夢中で読んでいて、いつの間にか読み終わってました。
それらに後押しされて、私の下ボタンを押す指が止まるはずもない。
地霊殿製品版、結構なお点前で。
そりゃお空は好物なのかもしれんが。
ギャグだけでなく協力スペルが熱いのが何とも言えぬ味わい。
素晴らしい作品でした
パチュリーランドの施設テスト体験には是非呼んでいただきたい
女神異聞録にえいこうくりからげりもとい栄光あれ
粘菌術師とか三角木馬とか、貴方の書き上げる紅魔館や魔理沙の会話にニヤニヤしました。
愛無く惨めな役を充てられてるだけのキャラが居ないのがすごく好きです。
今までとはちょっと違う(シリアスとは言わんけどw)雰囲気含め、
堪能させて貰いました。
うん、相変わらずいろいろと無茶苦茶で何よりです。
素晴らしい。実に素晴らしい。
相変わらず流石と言わざるを得ない。
誤字というか、「保障」の部分は「保証」の方が適切かと思われます。
でも、こんなにも満足してるのに物足りない
あなたの作品はいくら読んでも足りない
次の作品も楽しみにしてます
八雲家にお詫びに行ったときの淑女まスカーレット婦人はどこ行ったw
なんという懐かしいw
相変わらずぶっ飛んでるのに最後は上手くまとめるお手並みでした。
今回はギャグ分より2828分のほうが多いかな?
小食の自分じゃ、とても全部を平らげることなんてできない
一つだけ気になった点が
非想天則でレミリアはお空相手に勝利台詞で太陽は苦手……ともろに言ってますので相性最悪は確実かと
勝ったのにレミリアはボロボロの立ち絵で言ってますのでお空も太陽と認識されてます。
くだらなかったり、妙に格好良かったり、ほのぼのしたり、
これもミスディレクションなんでしょうか。
読みごたえがあり、すごく面白かったです。
いいものを読ませて貰いました、ありがとうございます。
腹筋ねじ切れたw
\もう適当に振り込むぞ!/
相変わらずのセンスの高いネタに加え、バトルが読めるとは思わなかった。
個人的には古明地姉妹の解釈で初めて恐ろしいものを感じました。
色々お腹いっぱいです。素敵な話をありがとうございます。
ところで、パチュリーランドは男性従業員の雇用予定はありますか?
カッコいいとか何事w
と言うか今作は良い意味で冬扇さんらしく無い作品に感じた。
例えば今までだと野球にしろ喫茶店にしろ前作のバトルにしろ、
それを行うまでの過程がメインとなっていて最初目的としていた
イベントの描写がほとんど無く、最後に結果を数行記してラストの
オチを持ってくるってパターンが多かったんだけど、今作では道中から
ラストバトルまできっちりと描かれていてモヤモヤするものなく最後まで
読めたので。
最近はここまで長い作品は少なくなりましたね~
でも残念ながらぐるぐる回る黄色い動物は狐の特権。
同じ油なら計251枚のホットケーキじゃなくて油揚げにしては?
それにしてもまさか、変態でしかなかったパチュリーのかっこいい姿を見られるとは・・・!
にしても読み応えのある、おなかいっぱいな作品でした。
名作を乙。GJ
100点じゃ足らんな。
でも皆なんか以前よりちょっと大人しくなってる気がする。
それでも十分壊れてるけどwww
そして、バトルも入れてしっかり締めるのは素晴らしいです。
(良い意味で)相変わらずの無茶苦茶っぷりを堪能しました。
言葉回しと、構えていても吹くギャグセンスが
秀逸です。
さすがです。
レミパチェがここに来るとは……w
豊富な語彙に彩られ、腹筋が崩壊するほど面白かったです。
弾幕ごっこの描写素晴らしく、絶賛以外出来ません。
楽しい時間をありがとうございました。