ざくり ざくり ざくり ざくり ざくり
ざくり ざくり ざくり ざくり ざくり
年末からの雪は解けることなく降り積もったままだ。が、しかし厚く積もった雪を除けて里から一本の細い道が、里外れの小高い丘の上へと続いている。丘の上には一軒の寺が建っていた。
寺の名は命蓮寺。
去年の冬、間欠泉騒ぎに乗じて地底から抜け出てきた妖怪達が肩身を寄せ合い暮らす寺だ。妖怪が住む、それだけであれば道など通す必要は無かった。妖怪であれば空を飛べばよし、人間はよほど物好きでもなければ好きこのんで妖怪の家にまでは出向かないからだ。
が、この寺はその謂われが基となり、春の建立以降、里との往来が途絶えたことはなかった。里との往来を支える謂われこそ、元は宝船から出来ているというものだった。
ーー実際のところ宝船から出来ているとはいえ乗っていたのは毘沙門天の代理でしかないのだから大したことはないんだけどね。里の人にしてみればそういった内情は気にならないということかしら、それとも鰯の頭ではないけど信じればといったところかしら?
内心の呟きに答えを出さず、雪の照り返しに目を細めながらアリスは漸くのことでたどり着いた山門を見上げる。まだまだ墨痕真新しい山門は、柱の木目も鮮やかに訪れるものを分け隔て無く迎えていた。それは比喩ではなく実際にアリスが山門を見上げている間も、人も妖怪も途切れることなく山門を行き来していた。
また行き来だけでなく、山門を潜ろうとして両脇に軒を連ねる出店に足を止める者も相当にいた。出店といっても一軒二軒といった数ではなく、参拝者目当ての出店が山門両脇に陣取り、ちょっとした門前市の様相を呈している。門前の各店からは湯気が幟旗のように揺らめき、その匂いで参拝客を呼び込んでいた。
ある店はなみなみと注がれた出汁に所狭しと浮かべたおでんで、ある店はこれでもかと高々と重ねた蒸籠の饅頭で、ある店はぐらぐらと煮えたぎる赤い鍋で煮込んだ麺で、ある店ではほくほくと薫る石焼きの芋で、ある店は門前という場所を考慮することなくいつも通り炭火での焼き鳥で。
プラス5 プラス5 プラス5 プラス5 プラス5
プラス5 プラス5 プラス5 プラス5 プラス5
ちらりと軒先に目をやれば甘酒の看板。乾いた喉を潤してくれそうな麹の甘い匂いがふわりと鼻孔をくすぐった。が、アリスはそれら出店から立ち上る誘惑を、今朝見た体重計の数字を口ずさむことでなんとか振り切る。
クリスマス以降何かと宴会続きだったからなあと、自己申告でちょっぴりだけ、客観的にはプラス5キロを落とすべくわざわざ歩いているのだ。ここで甘酒など飲んでしまえばここまでの道のりが、と自分を奮い立たせる。それにしても戒律と出店って無関係でいいのかしらと取り留めのないことを考えながら山門を潜ろうとし
「っ」
前に気がつかず、ぶつかる。
「ごめんなさい」
「注意深い君にしては珍しいね。何か考え事かい?」
聞き慣れたその声に視線を上げると、着膨れた森近霖之助がこちらに向き直るところだった。細身に分類される霖之助もこの寒さが堪えるのか胴回りが倍にもなるかというほどに着込んでいた。
「こういう場合でも、あけましておめでとう、でいいのかしら?」
「今年も香霖堂をお引き立て頂けますように、と付け加えて里を練り歩いてくれれば、なお良いんだけどね」
「ちんどん屋は他所を当たった方がいいわ。正月でもモノクロな店主の店とかね。もっともああいった本を持ってる人はお断り、って看板が立ってるでしょうけど」
「あぁ、暮れはどうにも彼女達が迷惑をかけたね。ついでにいっておけば、あれも売り物だよ。子供の目に触れない場所に置いてあるだけなんだがよく見つけたね」
「いつもの事よ」
人間は三つ子の魂で百まで過ごすって言うし諦めてるわ、と付け加える。それを聞いた霖之助は苦笑しつつ、一つ頷く。出店であれやこれやと買い物をしている里の人に目をやりつつ、多分彼女達もそうだろうね、と同意を返した。
「それにしても、君がこういったところに来るとはね。やはり同業の祭事には出るのが主義かい?」
「流行の先端を行くのが都会派よ。そういう貴方の方がよっぽど珍しいと思うけど? 今年は出不精返上なのかしら? それともなにか祈るようなことでもあったかしら?」
「宝船で出来た寺院だ。御利益位期待しても罰は当たらないだろう。それに彼女には君達以上に迷惑をかけたからね」
「あら、私も同じ迷惑を被ったと思うのだけど、扱いの差はどこにあるのかしら?」
「君があの子の側に立ってくれること、位かな」
「それは随分と」
「大きい違いだろ?」
そこまで言うと霖之助は行こうか、と短く告げ身を翻しアリスを境内へと誘う。出不精故だろうか耳当てもせずにいる霖之助の耳は霜焼けで赤くなっていた。足早に山門を潜る霖之助の背に対し、
「そう言えば世間じゃ初売りの投げ売りが持て囃されるそうだけど、病み上がりじゃ貴方のところは無いのかしら?」
アリスが屈託のない声で尋ねる。霖之助はその声に、玉砂利を踏みしめようと伸ばした足を止めると、
「親父さんからの躾でね、そういった節句働きはしないようにしているんだよ」
「あら、貴方が働いているように見える日があったかしら?」
「なに、働かない者にはその区別が付かないだけさ」
ひょいといつものように肩を竦める仕草をする霖之助の脇までたどり着くとアリスは少し顔を霖之助へと傾げ一言そうねと同意する。
「心配しない者には付かない区別が付けられるように、ね」
「君も一言多くなってきたね」
アリスは自分を見下ろす視線がどことなく、自分が誰かを見つめる視線に似た色を帯びているのに内心舌打ちをする。これは良くない傾向だ、と。松の内にはあっちから大挙してヒトが来るだろうから、あの子に移された癖がでないようにしないと、と独りごちる。が、そんなアリスの心情などお構いなしに霖之助は感心したように呟く。
「往来も凄かったが、大層な人の入りじゃないか」
見渡した命蓮寺の境内は外に積もった雪の量を感じさせないまでに掃き清められ、雪の名残はうっすらと庭木や玉砂利を覆う程度であった。
命蓮寺は山門をくぐり抜けると正面に本堂、その脇に聖達が暮らす一角があるだけの質素な構えとなっている。それだけを見ればとても元が船であったとは考えられないだろうほどにこぢんまりとしたものだった。
が、建立の手伝いをした早苗の話を聞いている霖之助にしてみれば、これほど馬鹿馬鹿しい建物は無いといえるほどに呆れた造りの寺だった。聖輦船それが命蓮寺の基となった船の名だが、先ほどまで霖之助達参拝者が登っていた小高い丘こそ聖輦船なのだから。
建築といえるものなのか、聖達は聖輦船を里外れのこの場所に着船させると、そのまま船体に土を被せてしまったのだ。そして操舵室などの一角を改修したのが、この命蓮寺という訳だから恐れ入ると、独りごちる。
「霊夢が見たら泣くわね、きっと」
「ああ、そういう意味じゃないんだ。いや、そういう意味かな?」
「何がよ」
「白蓮に聞いた話だとね、最初里の顔役から一同で参詣させて欲しいという話もあったそうだよ。まあ、それだと無理矢理になってしまうから、と断ったそうだけど」
「霊夢が聞いたら泣くわね、必ず」
アリスがざっと眺めただけでも顔役だけでなく馴染みの茶屋や道具屋といった店を構える者もいれば極々普通の家族連れまで、相当な数の参拝者が広い境内のあちらこちらで互いの姿を認めては挨拶を交わしていた。そして、その結果起こる事と言えば
「そこの御両人、参拝するなら立ち止まらずにそのまま、そのまま真っ直ぐ前に進んで!」
アリスと霖之助が揃って声のした方へと顔を向けると、そこには村紗水蜜が仁王立ちをしていた。命蓮寺となった宝船、聖輦船の元船長、今無職。それでも潮の流れと人の流れは同じと言わんばかりに境内のそこここへ、そのまま進んで、話し込むならそちらへ回って、と玄関の屋根に仁王立ちで口に両手を当ててあれやこれやと声を掛けている。
その誘導の見事さに乗る形で霖之助とアリスは本堂へと続く人の流れに混ざり込む。と、村紗が二人の背後へと鋭く
「山門下の方! 周りの邪魔になるから日傘は畳んでください!」
注意の声を上げる。が、返ってきた答えは
「おや、ここは妖怪に優しい寺じゃなかったか?」
その揶揄するような返事と禍々しい空気に、自然と人の流れが山門下の日傘を避けるように淀み、何時しかそれは人垣へと変わっていく。山門を塞ぐような人垣が出来てしまったことに歯噛みをした村紗は、一刻も早く流れを取り戻そうと屋根から飛び降りると日傘の主へと駆け寄ろうとして、その顔を見て村紗は口を引き攣らせる。
「ふむ、顔に何か付いているか?」
「人並みに眉・目・鼻・口といったものが付いているかと思いますが」
「そこは人並み以上というべきだろう、咲夜」
「お嬢様は吸血鬼であらせられますので、人扱いするのもどうかと思いまして」
「容姿について、人と違うつもりはないが」
「では今晩から牛乳はコップ一杯で宜しいでしょうか?」
「容姿向上計画の一環だからな、一定のサイズになるまで許可できん」
「左様で御座いますか。ちなみに豆知識ですが、咲夜の忠誠心の半分程度はお嬢様の容姿で支えられておりますので」
「そこはカリスマというべきじゃないか? 世間体的に……、というか向上計画の結果咲夜の忠誠心はどうなる」
「維持できるように神頼みに来たのではありませんでしたか? ちなみに乳臭さを維持されるのでしたら一杯で十分かと思いますが」
「一応言っておくが、イライラにも効くからな、牛乳は」
流れるように繰り広げられる主と従者のやり取りに駆け出そうとした姿勢のまま固まる村紗に対して、霖之助は
「ああ、彼女達は何時もああだからね。用件だけ伝えた方が手短に済むよ」
「従者がまともになって欲しいって祈願に来たんじゃないかしらアレ」
「湖畔の吸血鬼か。まさか昼日中に来るとは思わなかった」
アリスの混ぜっ返しを他所に、苦り切った呻きを出した村紗に対し、レミリアは日傘をくるりくるりと回し、
「夜は霊夢のところで宴会をするつもりだからね。かといって流行の先端を無碍にするわけにもいくまい?」
「正月早々主が不在で、君の館は問題無いのかい?」
「お節を作る手間が省けますから問題ありませんわ」
「亭主元気で留守が良い、か」
「……そこ」
「どうなさいましたか? お嬢様」
「……いや、いい」
心なし萎れた日傘の主に対して、村紗は気を取り直し向き直る。何時しか山門下のレミリアを中心とした人垣は境内の中央にまで外輪を広げていた。入ろうとする者も、出ようとする者も掛け合いの内容とは裏腹の存在感に圧倒され、山門を潜ることが出来ずにいた。辺りの何かを伺うような、息を詰めた空気を肌で感じた村紗は、ここで何時までも喋っていては百害あって一利なしと霖之助の助言通り用件だけを手短に告げた。
「吸血鬼ならしかたないが、邪魔にならないよう正面からではなく、そこの脇から入って貰えないか?」
村紗は仁王立ちしていた左手で正面玄関を指差した後、すっとその指をさらに左へと降る。咲夜が指にそって視線を動かせば、村紗を挟んでその先に確かにこぢんまりとした日常用の玄関があった。レミリアは眉を顰め、しかし結局肩を一つ竦め、まあいいだろう、と同意する。
「そんな物騒なモノを正月早々持ち出されても敵わんからな」
楽しげに笑いながら地面に落ちた村紗の影へと、そう返事を返す。霖之助はその言葉に釣られて村紗の影を見ると、伸ばした左腕が一つの影を握っていることに気がついた。アリスが呆れたような声で霖之助の予想を裏付ける。
「柄杓なんて取り出して、ここで始めるつもりだったのかしら」
「指示に従わないお客にはケガの無いうちにお帰り頂くのも船長の勤めだからね」
「そういう訳だ、咲夜もとっとと仕舞え」
「お雑煮分のカロリーを消費しておきたかったのですが」
「あれだけ顎を動かしておいてまだ足りないのか……」
「先ほどのはあんこ餅分ですわ」
どこからともなく取り出されていたナイフが瞬き一つの間に再びどこかへと仕舞われる。張り詰めていた境内の空気がそのやり取りを聞き、ほっと緩む。
「じゃあ、行くぞ」
気がつけば霖之助の脇までやってきた日傘の主は、それを傾け霖之助に対してにやりと笑うとそう、促した。一瞬何か言い返そうとして、背後で再び鈍く光るものをちらつかせる咲夜に気付き、溜息をつくと畏まりましたお客様、と一杯の皮肉と共に霖之助も歩き出す。
「そうそう、あけましておめでとう。香霖堂に人形師」
「今年もよろしく、なのかしら? 吸血鬼」
「去年同様変わらぬご愛顧のほど、宜しくお願いするよ」
霖之助の苦り切った返事を合図に、人の流れから外れ玉砂利を踏みしめること二十歩、正面から参拝できないことを弦が悪いと捉えるか、それとも日頃見ない場所を見ることが出来るのだから良しとすべきかと霖之助が悩む間に玄関へとたどり着く。
そしてがらりと玄関戸を引き三和土へと足を踏み入れ、そこへ声が響く。
おぎゃあ
「あら、お嬢様の初鳴きですわ」
「いやいや、私はここにいるから」
ーーー
レミリア達が山門の下でやり取りをしている丁度その時、命蓮寺の一室では、板張りの床に置かれた藤籠をじっと見つめるモノ達がいた。金髪のモノと灰色の髪をしたモノだ。金髪のモノは酷く引けた腰付で籠を見つめており、灰色の髪のモノはそれを後ろから、半ば達観した目で見ていた。
「まさか何も考えずに預かってきたとは思わなかったよ、ご主人様。いくらなんでも聖と参拝者の前だからと良い格好をしようとしすぎじゃないか?」
呆れた声で灰髪のモノが声をかける。その声に、ご主人様と呼ばれた金髪のモノはびくりと肩をふるわすと
「ナズーリン。ちょっとの間です、何とかなるでしょう」
振り返ることなく返事を返す。が、半ば祈るようなその返事にナズーリンと呼ばれた灰色髪のモノは胡乱げな視線を返し、そして天井を見上げる。そこには何とかなるという期待を裏切るであろモノが潜んでいた。
太い梁から覗くのは一本の唐傘と空色の髪。先日、山の上の巫女からどめすてぃっくばいおれんすなるものを受けていると駆け込んできた唐傘の付喪神だ。
曰く、驚く人の心が食べたかっただけなのに、逆に食べられそうになった、とかなんとか。そんな飢えた傘がすぐ傍にいるのだ、これから起こるであろうことが容易に想像が付く以上、ナズーリンの口から出るのは溜息と愚痴しかなかった。
「まったく、ぬえのヤツじゃないがご主人様がその子をぶら下げてきた時点でさっさと逃げ出しておくべきだったと今は反省しているよ」
「ぇ」
「……そこまで泣きそうな顔をしないでも」
「な、泣いてなんかいませんよ!」
「……多分今起きると泣くだろうけど、あやすだけの自信があるのかい?」
「ぃぃぇ」
「随分と小声だね」
ナズーリンはさて、と改めて梁へと目をやる。赤子は泣くのが仕事というし、飢えた妖怪を見捨てるのも命蓮寺の座りが悪くなる、さりとてこのご主人様にはあやすことは出来ないだろうし、と駄目上司を前提とした推敲が繰り広げられる。
概ね開始10秒の時点で赤子が泣き出したら一緒に泣く派が大多数を占めている。だが、それがいい、いやそうじゃなくて、というナズーリンの懊悩を他所に、梁の上で影がじりっと動いた。
実のところ、唐傘の付喪神こと多々良小傘はナズーリンの危惧通り、このやり取りを注意深く見守っていた。
不思議と小声の方が逆に気になるのは人妖問わず、なのだろうか。唐傘の付喪神といえどももその類にあった。最初は寺の事は自分に関係無いと不貞寝を決め込んでいたのだが、あまりに間の抜けたやり取りに可笑しくなって声を掛けようとして、籠に収まった赤子にに気がついたのだ。
ごくり、と小傘は生唾を飲み込み、じっくりと様子を窺った。なにしろ山の神社では赤子だと安心しきって近づいたところを
ぽ ん
と、爆発でこちらが驚かされたのだ。妖怪でも腰が抜けることってあるんだ、などという場違いな感想すらもった出来事は昨日のことのように思い出せる。
まぁ、実際に昨日なんだけど、と小傘は溜息をつく。あの巫女曰く、新年の初驚かしですよー、だということだが。
籠の中の赤子を覆った布地がゆっくりと上下に揺れているのを確認し、ようやく小傘はそれが本物だと認める。
となると、これは思わぬところで御馳走にありつける、とにんまりと笑った。巫女風に言えば、お年玉というヤツだろうか。あれもしたいこれもしたいという内心の葛藤を押さえ込み、小傘は機を窺う。鼠はこちらを気にしているようだが、飛び出せばこっちのものだ。あの寅はこちらに気がついていないし、この勝負貰った、と自画自賛していると、ぱち、と赤子と目があった。
赤子が、ぱちりぱちりと瞬きを繰り返し、梁から少々身を乗り出していたこちらの姿を認めたのか、手をばたつかせ、あっあっと短く声を上げた。
その姿に小傘は意を決すると、するり、と梁から滑るように、赤子から顔が見えないようにした傘と共に赤子の頭上へと降りていく。そして、傘をぐるりと回し
「うらめしや~~~~~~~~~~~~~~」
おぎゃあ
「え?」
火が着いたようにような泣き声に、ナズーリンにすがるようにしていた星はがばりと振り返る。と、そこには畳に突っ伏した状態で小刻みに震えている唐傘が一本。両腕で体を支えるようにして身もだえていた。あっ! と星が思い至っても後の祭。慌てて振り返り直し、
「あれ?! ナズーリン、なんかさっきよりも距離を感じますよ!」
気がつけば、すがっていたはずのナズーリンが壁際まで下がっていた。
「気のせいだろう、ご主人様。それよりもご主人様の見せ場じゃないか、がんばってくれたまえ」
「そ、そうですね。ここは見せ場ですね」
ナズーリンの投げやりな励ましを受け、星はぺちぺちと両手で頬を景気付けに叩き、
「切羽詰まっている者を追い詰めるのが貴女の正義というならばその性根叩き直してくれましょう! 表に出なさい!」
びしり、と身悶える小傘に指を突きつけ
「そのまま戻ってこないつもりかね」
ナズーリンの指摘でへにょりと折れた。その隙にと小傘は玄関へと抜ける扉から身悶えしながら飛び去る。その後ろ姿を呆然と見送った星は、ぐっと腹に力を込めナズーリンに向き直ると
「そ、そうは言ってもですね、ナズーリン。駄目なものは駄目なんですよ」
「事ここにいたって開き直ってどーするというんだ、このご主人様は」
おぎゃあ おぎゃあ おぎゃあ おぎゃあ おぎゃあ
「ど、どうすれば」
「咲夜、なんとかしなさい」
「そ、そうです、咲夜なんとかしなさ、え?」
気がつけば部屋の入り口には顔をしかめた吸血鬼とその咲夜と呼ばれたメイドが立っていた。メイドは小首を傾げ
「お嬢様、なんとかするのはあの籠の子供でしょうか、それとも目の前の寅でしょうか?」
「な、泣いてなんかいませんよ!」
一体いつからという危惧と一方でこれでなんとかなる安堵が入り交じった視線を星は咲夜へと向けるが、
「実際のところ、赤ちゃんをあやしたことがないもので。ああいった小さい子ってどうにも苦手でして」
「え」
「いえ、お嬢様や妹様は大丈夫ですわ」
ばっちりです、とよく分からないことを告げ、主から胡乱な視線を返される。なおも泣き止まない赤子の声に顔をしかめたまま、じゃあどうするのよ、とぼやく主に対し、
「大丈夫ですわ、小さい子をあやすのが得意なのが、そこに」
咲夜の指を辿れば、肩を竦めたアリスが
「悪いけど、私末っ子だから赤ん坊の面倒は見たことがないのよ」
利かん坊の面倒なら現在進行形で押しつけられているけどね、と霖之助を睨もうとして、
「ふむ、女の子か」
ぺろん、とおしめを外した霖之助が呟く。
そこから先の動きはまさに流れ作業だった。まずアリスの弦が霖之助の両手を後ろ手に拘束し、咲夜のナイフが喉元へと突きつけられ、最後に厳かにレミリアの手が頭蓋骨へと添えられると
「なにか言い残すことは?」
「正月早々に、寺で殺生というのも考え物だけど」
「やむを得ませんわ」
一瞬で起きたことに理解が追いつかないナズーリンと星はあっけに取られていた。
「……泣き止ませるんじゃなかったのかい?」
「ああ、その前に軽く処刑だ。その後どうするかは三人で考えるとしよう。なに三人寄れば文殊の知恵というじゃないか」
「一応聞いておくが、君らにはおしめを替えるという発想は? ご覧の通り、気持ち悪くてないているようだが」
「……無かったな」
ふ、っと霖之助の拘束が解かれ、あっけにとられたままのナズーリンと星の脇にレミリア・咲夜・アリスと並んだ。
「手伝う気は」
「さらさらありませんわ」
「だったらせめて替えの布が欲しいんだが。籠に入っているかと思ったんだが無いのでね」
さすがに、僕の手ぬぐいでは拙いだろう? と霖之助が壁の花に問うと、すっと高価な布が差し出される。これは、と差し出したナズーリンに問う。
「なに、ご主人様の羽衣だ。術を掛けてあるから汚れの心配は無い。清潔そのものだ」
「え、ちょっと、あ、本当です。何時の間に取りました、ナズーリン!」
「ふむ、どこかでうっかり落とすだろうものを有効活用しようと思ったのだが、何か問題でもあるのかい?」
「問題というかですね」
「ふむ。ご主人様、考えてみて欲しい。ご主人様がこの羽衣を貸さないと言った場合だね、この赤子はおしめを替えることが出来ない訳だ。そうすると泣き続けるだろうなあ、そうなれば祈祷が済んだあの夫婦と聖が見るのは赤子一つあやせない駄目本尊という訳か。聖がみたらさぞ悲しむことだろうに。いやいや艱難辛苦を乗り越えることこそ毘沙門天の本懐ということなんだろうね」
流れ出すナズーリンの毒舌を聞き、非常に嫌そうな顔で横の咲夜を見上げた後、哀れみの視線で星の肩をレミリアが叩く。アリスからしてみれば、同類相哀れむ、といった光景でしかなかったが。
「なあ、そろそろその本尊が倒壊しそうな表情になっているんだが」
「ふむ、君は優しいね。できれば返してくれる時もそうだったら良かったんだけどね」
「なに、良い物を良い物だと認識できる良い機会を提供しただけだよ」
「ふん、ご主人様も君に少しばかり面の皮を貰えばいいんだがね」
悪態を突き合う間にも、霖之助は手際良くおしめを取り替えていった。その様はレミリアが強いて上げればと言われれば、咲夜がシーツを交換するときのような手際の良さだと評したくなるほどのものだった。
「なあ香霖堂」
「なんだい」
「その、なんだ。やけに手慣れているように感じるんだが」
「確かに手際が良いのよね。なんか、結構やり慣れているわよね貴方」
「魔理沙のおしめを替えていたのは僕だからね」
さらりと答えた内容に一同顔を見合わせる。これで一段落と、汚れたおしめを自分の手ぬぐいで包むと
「どうかしたかい? 不思議そうな顔で」
「そういえば、今の傍若無人っぷりで忘れてたけど、あれも一応生まれたばかりの頃があったかしらね」
「君の口からそういった表現がでるとは思わなかったよ」
「鏡を見ろ、って? 生憎と映らないんでね」
「実際僕で無くても良かったんだけど、なぜかあの頃から懐かれてね。それで奥方が僕に面倒をみるように、って言われてね。もっとも最初おしめを替えてたのを親父さんに見られたときは回し蹴り一発からの連打だったけどね」
その後、親父さんは奥方に吊されてたっけと、しみじみと言いながら顎の辺りをさする。それを聞いたアリスが当然の疑問を口にした。
「それじゃ、昔のというか赤ん坊の頃の魔理沙ってどうだったの?」
「まあ……、なんというか大人しくなったんじゃないかな?」
「は?」
聞き間違えかと一同顔を見合わせるが、霖之助の表情はいたって真面目だった。そっと女の子を持ち上げると、再び籠の中に収める。そしてあやすように、ゆっくりと額についた髪をなでた。
「生まれたばかりの子供は泣くことしかできないからね」
何かを懐かしむようなしんみりとした表情の霖之助に、そうかと一言レミリアは返す。
「そう、結構魔理沙には振り回されたよ。まあ、小さい時から僕を振り回してたんだ、君達位振り回すのは当然だろ」
「随分と言うわね」
「だからこの子も」
そこまで言って霖之助はそっと籠を持ち上げると、何時の間に立っていたのか入り口であっけにとられていた若夫婦へと籠を渡す。ほら、と霖之助が声を掛けると亭主がおっかなびっくりに受け取り、面倒をお掛けしましたと夫婦揃って頭を下げた。そんな二人に対して、気にすることはないと告げ、今しているおしめは毘沙門天の羽衣、きっと御利益がありますよ、と告げる。
霖之助は最後に籠の主に向かい、
「君は吸血鬼と毘沙門天を慌てさせたんだ、将来きっと大物になるよ。そして誰かを振り回したくなったら、その際はどうぞご贔屓に」
そういって締めくくった。
ーーー
陽はとうに暮れ、辺りはとっぷりと闇に沈んでいた。日中の賑わいが夢のように静まり返った境内を戸板一枚で隔てた本堂には、住人である一輪と霖之助が何を話すでもなく、座っていた。
レミリアと咲夜、そしてアリスは、山に陽が沈んだの見計らい、新年会のためと博麗神社へと飛び去っていた。そして山門もそれを合図に閉じられていた。霖之助もレミリア達に合わせて帰宅を申し出たものの、迷惑を掛けたのだからと強い留意を受け、気がつけば折れる形で一人命蓮寺に残る形となっていた。
ばち ばち ばちり ばちり ばち
ばちり ばち ばち ばち ばちり
昼に祈祷のために構えられていた護摩壇は、今では暖を取るために薪をくべる囲炉裏と化していた。ぼんやりと護摩壇とその奥に置かれた毘沙門天を眺めていた霖之助の視界の端で、吊されることなく宙に浮いていた鉄瓶が誰に持ち上げられるでもなくするすると一輪が用意した茶器へと注がれた。
本堂にしっとりと濃い緑の匂いが漂い、漸く霖之助の意識が引き戻される。
「ご苦労様、雲山」
「あ、ああ。浮いていたんじゃなくて、入道に持たせていたのか」
「おや、漸くしゃんとしたね客人」
「すまないね。ちょっと考え事をしていてね」
「ふん、考え事ね。姐さんの料理を上の空で食うたあふてえヤツだ! と、行きたいところだけどね、姐さんがそっとしとけ、っていうからほっといたけど」
「わざわざ濃いめに煎れたもののセリフじゃないね」
「匂いで気がつくかい」
「伊達に霊夢につき合って出涸らしを飲んでる訳じゃないよ」
「お茶が体に悪いってんなら、水で割って出しても構わないかい?」
すっ、と木の擦れる音が本堂に短く響く。きしり、と小さく床を軋ませ入ってきたのは白蓮と星だった。昼に着ていた重々しい袈裟姿ではなく、いつもの見慣れた服へと着替えを済ませていた白蓮は、護摩壇の前に敷かれた座布団に座り一輪から差し出された湯飲みを一嗅ぎすると
「良い香りですね、一輪」
「開けずに取っておいた新茶ですから」
「あ、一輪一輪。濃いめにして下さい。出店の方から頂いた御菓子が」
「煎れ甲斐の無い奴だねあんたは。それに星はまた食べ過ぎで守矢のところにお世話になる気?」
「い、良いじゃないですか、ちょっとぐらい」
「そのちょっとが積もりすぎてるんじゃないの? 一応言っておくけど、アレはあんたの必須体型なんだからね」
一輪が指差すのは命蓮寺の本尊、毘沙門天。すっくりとした毘沙門立ちのそれは、護摩壇を挟んで座すものに睨みを利かせる偉丈夫として彫られていた。その視線にばつの悪さを感じたか、星はそのしっぽをへしゃりと床に這わせると白蓮に対し
「さ、三箇日位は」
「そうね、昼間に何があったのか教えてくれたら、でいいわ」
にっこりと笑って返される。ちらりと霖之助を伺い、しかし何も言わないことを同意と受け取ったのか星は、よほど手にした菓子が食べたいのか、しぶしぶに昼間の出来事を白蓮に伝えた。
一輪が入れたお茶をすすりながら、話を聞いていた白蓮だったが、星にナズーリンだけでなくレミリアやアリス、果ては咲夜まで壁際で霖之助がおしめを替えているところを見ていたくだりになり、ついに耐えきれずに笑い出した。
「そうね、そうだったわね。すっかり忘れてたわ」
私にも星のうっかりが移ったかしら、そう言って白蓮は一輪が注いだお茶をそっと床に置くと、口に手を当ててころころと笑った。白蓮のその一言に、たまらず一輪も声を上げて笑う。
「今回は星にお願いした私の間違いね。貴女達には難しいものね」
ひとしきり笑った後で白蓮はそう星に謝った。その言葉に湯飲みをじっと見つめていた霖之助が顔を上げると、やはり、と白蓮に問う。
「妖怪には難しいのかい?」
何が、とは言わないその響きに含まれた意味に、頷きをもって星が答える。
「ええ、概ねの妖怪は変化、歳経て成るモノですから、赤子という状態がありません。強いて言えば、変化の前の姿がそうなのかもしれませんが、成ってしまえば、まったくの別物ですから」
しゅん しゅん しゅん しゅん しゅんしゅん
「ご自身の事ですか?」
白蓮の気遣うように抑えられた声に、こくりと霖之助は頷きをもって返す。護摩壇の上で湯気を立てる鉄瓶に放り込まれたつららが解けていくのを眺めながら、ゆっくりと霖之助の吐露は続く。
「物心ついた頃から親はいなくてね。家族、というものがよく分からないんだよ。彼が結婚して魔理沙が生まれてすくすくと育っていって。僕だけ変わっていない、という事に気がついてしまってね。逃げ場を求めるような気持ちが無かったと言えば嘘になるかな。香霖堂を建てた頃には自分が家族というものから逃げている、とは気がついていたけどね」
共に老いられないということが耐えられなかったんだろうね、と霖之助は零す。誰が、とは言わないその言葉を、一同は静かに聞いた。霖之助が呷るようにして飲み干したのに合わせて白蓮も湯飲みに残ったお茶を静かに飲み干す。
ぱん、と一際大きな音を立てて護摩壇にくべられた木が爆ぜた。霖之助が護摩壇で魔が差すとは間抜けた話だ、と切り上げようと口を開こうとし、しかし
「弟も似たような事を言いましたわ。なぜ人としての時間を生きないのか、人としての時間で満足できないのかと」
極楽を夢見て念仏を唱える者が言う言葉では無いのでしょうけれど、と白蓮は薄く笑い、
「一面弟の言っていた事は正解でした」
その言葉に星と一輪の身が固くなるのが霖之助にも感じられた。護摩壇で燃え上がる火を見つめる白蓮の目はしかしそこを見てはいなかった。霖之助が知る過去を遙かに越えた昔を見ていた。
ぱん、と再び大きな音を立てて木が爆ぜる。白蓮は昔を思い出すように目を閉じ
「それぞれの生き物はそれぞれの時間に合わせて成長していきます。変化と成るのはその成長に見合わぬ時間を手に入れてしまうということでもあります。そしてそれだけの時間を手に入れてしまうということは、必然同じ輪の中には居られないということになります」
淡々と告げる。護摩壇の火に照らされたその横顔に何の険も感じられず、たまらず霖之助は尋ねた。
「同じ輪に居られなければ、どうなる?」
瞬間、霖之助はしまった、とほぞを噛んだ。まさに魔が差すとはこのことだ、と己の迂闊さを呪った。この問いの答えこそ、聖白蓮その人自身ではないかと。その言葉に星と一輪は俯きをもって霖之助の予想を裏付けた。それは命蓮寺の面々が触れることを厭う、深い深い傷。それは命蓮寺の誰もが、胸に抱え過ごすしかない癒えぬものだと思っていた。
が、己を信じた者にそして弟に拒絶されたはずの白蓮は、己の失言に両手を床に着き頭を下げようとする霖之助に対し、短く、しかしはっきりと答えた。
「共に寄り添えばいいのです」
「それは」
「貴方は既にそれをされているではありませんか」
そう言って、白蓮ははっきりと微笑んだ。理想論だと、そう言おうとした霖之助へと。
星と一輪もまた、白蓮の口調に俯いていた顔を上げ、その顔に見入っていた。
「春の一件後に魔理沙や霊夢と話している中での貴方は」
ぱちん、と護摩壇で火が爆ぜる。火勢は既に衰えていた。
「かつて私が嘘偽り、最後は力で越えようとしていた壁を、ただ自分の振る舞いそれ一つで越えていました」
正直、羨ましかった、と言う白蓮に、星は何かを言いかけ、しかし白蓮の穏やかな表情に口を噤んだ。求めているものが既に手にしているものだと、言われ、しかし実感の無い霖之助は尚も言いつのろうとする。が、ゆっくりと白蓮はかぶりを振ると
「貴方自身が言われていることです。良い物は、それが良い物だと認識できる機会が無ければならない、と。それがまだ訪れていない、というだけです」
昼間自身が言った何気ない一言をもって、答えとした見事さに霖之助は苦笑しつつ、しかし何か返さねば、と思い、誤魔化すように熾火へと目をやると
「なら、今年がそんな年になることを祈ればいいのかな?」
惚けたように、白蓮へと問う。と白蓮は
「その際は、どうぞご贔屓に」
そういって微笑んだのだった。
ざくり ざくり ざくり ざくり ざくり
年末からの雪は解けることなく降り積もったままだ。が、しかし厚く積もった雪を除けて里から一本の細い道が、里外れの小高い丘の上へと続いている。丘の上には一軒の寺が建っていた。
寺の名は命蓮寺。
去年の冬、間欠泉騒ぎに乗じて地底から抜け出てきた妖怪達が肩身を寄せ合い暮らす寺だ。妖怪が住む、それだけであれば道など通す必要は無かった。妖怪であれば空を飛べばよし、人間はよほど物好きでもなければ好きこのんで妖怪の家にまでは出向かないからだ。
が、この寺はその謂われが基となり、春の建立以降、里との往来が途絶えたことはなかった。里との往来を支える謂われこそ、元は宝船から出来ているというものだった。
ーー実際のところ宝船から出来ているとはいえ乗っていたのは毘沙門天の代理でしかないのだから大したことはないんだけどね。里の人にしてみればそういった内情は気にならないということかしら、それとも鰯の頭ではないけど信じればといったところかしら?
内心の呟きに答えを出さず、雪の照り返しに目を細めながらアリスは漸くのことでたどり着いた山門を見上げる。まだまだ墨痕真新しい山門は、柱の木目も鮮やかに訪れるものを分け隔て無く迎えていた。それは比喩ではなく実際にアリスが山門を見上げている間も、人も妖怪も途切れることなく山門を行き来していた。
また行き来だけでなく、山門を潜ろうとして両脇に軒を連ねる出店に足を止める者も相当にいた。出店といっても一軒二軒といった数ではなく、参拝者目当ての出店が山門両脇に陣取り、ちょっとした門前市の様相を呈している。門前の各店からは湯気が幟旗のように揺らめき、その匂いで参拝客を呼び込んでいた。
ある店はなみなみと注がれた出汁に所狭しと浮かべたおでんで、ある店はこれでもかと高々と重ねた蒸籠の饅頭で、ある店はぐらぐらと煮えたぎる赤い鍋で煮込んだ麺で、ある店ではほくほくと薫る石焼きの芋で、ある店は門前という場所を考慮することなくいつも通り炭火での焼き鳥で。
プラス5 プラス5 プラス5 プラス5 プラス5
プラス5 プラス5 プラス5 プラス5 プラス5
ちらりと軒先に目をやれば甘酒の看板。乾いた喉を潤してくれそうな麹の甘い匂いがふわりと鼻孔をくすぐった。が、アリスはそれら出店から立ち上る誘惑を、今朝見た体重計の数字を口ずさむことでなんとか振り切る。
クリスマス以降何かと宴会続きだったからなあと、自己申告でちょっぴりだけ、客観的にはプラス5キロを落とすべくわざわざ歩いているのだ。ここで甘酒など飲んでしまえばここまでの道のりが、と自分を奮い立たせる。それにしても戒律と出店って無関係でいいのかしらと取り留めのないことを考えながら山門を潜ろうとし
「っ」
前に気がつかず、ぶつかる。
「ごめんなさい」
「注意深い君にしては珍しいね。何か考え事かい?」
聞き慣れたその声に視線を上げると、着膨れた森近霖之助がこちらに向き直るところだった。細身に分類される霖之助もこの寒さが堪えるのか胴回りが倍にもなるかというほどに着込んでいた。
「こういう場合でも、あけましておめでとう、でいいのかしら?」
「今年も香霖堂をお引き立て頂けますように、と付け加えて里を練り歩いてくれれば、なお良いんだけどね」
「ちんどん屋は他所を当たった方がいいわ。正月でもモノクロな店主の店とかね。もっともああいった本を持ってる人はお断り、って看板が立ってるでしょうけど」
「あぁ、暮れはどうにも彼女達が迷惑をかけたね。ついでにいっておけば、あれも売り物だよ。子供の目に触れない場所に置いてあるだけなんだがよく見つけたね」
「いつもの事よ」
人間は三つ子の魂で百まで過ごすって言うし諦めてるわ、と付け加える。それを聞いた霖之助は苦笑しつつ、一つ頷く。出店であれやこれやと買い物をしている里の人に目をやりつつ、多分彼女達もそうだろうね、と同意を返した。
「それにしても、君がこういったところに来るとはね。やはり同業の祭事には出るのが主義かい?」
「流行の先端を行くのが都会派よ。そういう貴方の方がよっぽど珍しいと思うけど? 今年は出不精返上なのかしら? それともなにか祈るようなことでもあったかしら?」
「宝船で出来た寺院だ。御利益位期待しても罰は当たらないだろう。それに彼女には君達以上に迷惑をかけたからね」
「あら、私も同じ迷惑を被ったと思うのだけど、扱いの差はどこにあるのかしら?」
「君があの子の側に立ってくれること、位かな」
「それは随分と」
「大きい違いだろ?」
そこまで言うと霖之助は行こうか、と短く告げ身を翻しアリスを境内へと誘う。出不精故だろうか耳当てもせずにいる霖之助の耳は霜焼けで赤くなっていた。足早に山門を潜る霖之助の背に対し、
「そう言えば世間じゃ初売りの投げ売りが持て囃されるそうだけど、病み上がりじゃ貴方のところは無いのかしら?」
アリスが屈託のない声で尋ねる。霖之助はその声に、玉砂利を踏みしめようと伸ばした足を止めると、
「親父さんからの躾でね、そういった節句働きはしないようにしているんだよ」
「あら、貴方が働いているように見える日があったかしら?」
「なに、働かない者にはその区別が付かないだけさ」
ひょいといつものように肩を竦める仕草をする霖之助の脇までたどり着くとアリスは少し顔を霖之助へと傾げ一言そうねと同意する。
「心配しない者には付かない区別が付けられるように、ね」
「君も一言多くなってきたね」
アリスは自分を見下ろす視線がどことなく、自分が誰かを見つめる視線に似た色を帯びているのに内心舌打ちをする。これは良くない傾向だ、と。松の内にはあっちから大挙してヒトが来るだろうから、あの子に移された癖がでないようにしないと、と独りごちる。が、そんなアリスの心情などお構いなしに霖之助は感心したように呟く。
「往来も凄かったが、大層な人の入りじゃないか」
見渡した命蓮寺の境内は外に積もった雪の量を感じさせないまでに掃き清められ、雪の名残はうっすらと庭木や玉砂利を覆う程度であった。
命蓮寺は山門をくぐり抜けると正面に本堂、その脇に聖達が暮らす一角があるだけの質素な構えとなっている。それだけを見ればとても元が船であったとは考えられないだろうほどにこぢんまりとしたものだった。
が、建立の手伝いをした早苗の話を聞いている霖之助にしてみれば、これほど馬鹿馬鹿しい建物は無いといえるほどに呆れた造りの寺だった。聖輦船それが命蓮寺の基となった船の名だが、先ほどまで霖之助達参拝者が登っていた小高い丘こそ聖輦船なのだから。
建築といえるものなのか、聖達は聖輦船を里外れのこの場所に着船させると、そのまま船体に土を被せてしまったのだ。そして操舵室などの一角を改修したのが、この命蓮寺という訳だから恐れ入ると、独りごちる。
「霊夢が見たら泣くわね、きっと」
「ああ、そういう意味じゃないんだ。いや、そういう意味かな?」
「何がよ」
「白蓮に聞いた話だとね、最初里の顔役から一同で参詣させて欲しいという話もあったそうだよ。まあ、それだと無理矢理になってしまうから、と断ったそうだけど」
「霊夢が聞いたら泣くわね、必ず」
アリスがざっと眺めただけでも顔役だけでなく馴染みの茶屋や道具屋といった店を構える者もいれば極々普通の家族連れまで、相当な数の参拝者が広い境内のあちらこちらで互いの姿を認めては挨拶を交わしていた。そして、その結果起こる事と言えば
「そこの御両人、参拝するなら立ち止まらずにそのまま、そのまま真っ直ぐ前に進んで!」
アリスと霖之助が揃って声のした方へと顔を向けると、そこには村紗水蜜が仁王立ちをしていた。命蓮寺となった宝船、聖輦船の元船長、今無職。それでも潮の流れと人の流れは同じと言わんばかりに境内のそこここへ、そのまま進んで、話し込むならそちらへ回って、と玄関の屋根に仁王立ちで口に両手を当ててあれやこれやと声を掛けている。
その誘導の見事さに乗る形で霖之助とアリスは本堂へと続く人の流れに混ざり込む。と、村紗が二人の背後へと鋭く
「山門下の方! 周りの邪魔になるから日傘は畳んでください!」
注意の声を上げる。が、返ってきた答えは
「おや、ここは妖怪に優しい寺じゃなかったか?」
その揶揄するような返事と禍々しい空気に、自然と人の流れが山門下の日傘を避けるように淀み、何時しかそれは人垣へと変わっていく。山門を塞ぐような人垣が出来てしまったことに歯噛みをした村紗は、一刻も早く流れを取り戻そうと屋根から飛び降りると日傘の主へと駆け寄ろうとして、その顔を見て村紗は口を引き攣らせる。
「ふむ、顔に何か付いているか?」
「人並みに眉・目・鼻・口といったものが付いているかと思いますが」
「そこは人並み以上というべきだろう、咲夜」
「お嬢様は吸血鬼であらせられますので、人扱いするのもどうかと思いまして」
「容姿について、人と違うつもりはないが」
「では今晩から牛乳はコップ一杯で宜しいでしょうか?」
「容姿向上計画の一環だからな、一定のサイズになるまで許可できん」
「左様で御座いますか。ちなみに豆知識ですが、咲夜の忠誠心の半分程度はお嬢様の容姿で支えられておりますので」
「そこはカリスマというべきじゃないか? 世間体的に……、というか向上計画の結果咲夜の忠誠心はどうなる」
「維持できるように神頼みに来たのではありませんでしたか? ちなみに乳臭さを維持されるのでしたら一杯で十分かと思いますが」
「一応言っておくが、イライラにも効くからな、牛乳は」
流れるように繰り広げられる主と従者のやり取りに駆け出そうとした姿勢のまま固まる村紗に対して、霖之助は
「ああ、彼女達は何時もああだからね。用件だけ伝えた方が手短に済むよ」
「従者がまともになって欲しいって祈願に来たんじゃないかしらアレ」
「湖畔の吸血鬼か。まさか昼日中に来るとは思わなかった」
アリスの混ぜっ返しを他所に、苦り切った呻きを出した村紗に対し、レミリアは日傘をくるりくるりと回し、
「夜は霊夢のところで宴会をするつもりだからね。かといって流行の先端を無碍にするわけにもいくまい?」
「正月早々主が不在で、君の館は問題無いのかい?」
「お節を作る手間が省けますから問題ありませんわ」
「亭主元気で留守が良い、か」
「……そこ」
「どうなさいましたか? お嬢様」
「……いや、いい」
心なし萎れた日傘の主に対して、村紗は気を取り直し向き直る。何時しか山門下のレミリアを中心とした人垣は境内の中央にまで外輪を広げていた。入ろうとする者も、出ようとする者も掛け合いの内容とは裏腹の存在感に圧倒され、山門を潜ることが出来ずにいた。辺りの何かを伺うような、息を詰めた空気を肌で感じた村紗は、ここで何時までも喋っていては百害あって一利なしと霖之助の助言通り用件だけを手短に告げた。
「吸血鬼ならしかたないが、邪魔にならないよう正面からではなく、そこの脇から入って貰えないか?」
村紗は仁王立ちしていた左手で正面玄関を指差した後、すっとその指をさらに左へと降る。咲夜が指にそって視線を動かせば、村紗を挟んでその先に確かにこぢんまりとした日常用の玄関があった。レミリアは眉を顰め、しかし結局肩を一つ竦め、まあいいだろう、と同意する。
「そんな物騒なモノを正月早々持ち出されても敵わんからな」
楽しげに笑いながら地面に落ちた村紗の影へと、そう返事を返す。霖之助はその言葉に釣られて村紗の影を見ると、伸ばした左腕が一つの影を握っていることに気がついた。アリスが呆れたような声で霖之助の予想を裏付ける。
「柄杓なんて取り出して、ここで始めるつもりだったのかしら」
「指示に従わないお客にはケガの無いうちにお帰り頂くのも船長の勤めだからね」
「そういう訳だ、咲夜もとっとと仕舞え」
「お雑煮分のカロリーを消費しておきたかったのですが」
「あれだけ顎を動かしておいてまだ足りないのか……」
「先ほどのはあんこ餅分ですわ」
どこからともなく取り出されていたナイフが瞬き一つの間に再びどこかへと仕舞われる。張り詰めていた境内の空気がそのやり取りを聞き、ほっと緩む。
「じゃあ、行くぞ」
気がつけば霖之助の脇までやってきた日傘の主は、それを傾け霖之助に対してにやりと笑うとそう、促した。一瞬何か言い返そうとして、背後で再び鈍く光るものをちらつかせる咲夜に気付き、溜息をつくと畏まりましたお客様、と一杯の皮肉と共に霖之助も歩き出す。
「そうそう、あけましておめでとう。香霖堂に人形師」
「今年もよろしく、なのかしら? 吸血鬼」
「去年同様変わらぬご愛顧のほど、宜しくお願いするよ」
霖之助の苦り切った返事を合図に、人の流れから外れ玉砂利を踏みしめること二十歩、正面から参拝できないことを弦が悪いと捉えるか、それとも日頃見ない場所を見ることが出来るのだから良しとすべきかと霖之助が悩む間に玄関へとたどり着く。
そしてがらりと玄関戸を引き三和土へと足を踏み入れ、そこへ声が響く。
おぎゃあ
「あら、お嬢様の初鳴きですわ」
「いやいや、私はここにいるから」
ーーー
レミリア達が山門の下でやり取りをしている丁度その時、命蓮寺の一室では、板張りの床に置かれた藤籠をじっと見つめるモノ達がいた。金髪のモノと灰色の髪をしたモノだ。金髪のモノは酷く引けた腰付で籠を見つめており、灰色の髪のモノはそれを後ろから、半ば達観した目で見ていた。
「まさか何も考えずに預かってきたとは思わなかったよ、ご主人様。いくらなんでも聖と参拝者の前だからと良い格好をしようとしすぎじゃないか?」
呆れた声で灰髪のモノが声をかける。その声に、ご主人様と呼ばれた金髪のモノはびくりと肩をふるわすと
「ナズーリン。ちょっとの間です、何とかなるでしょう」
振り返ることなく返事を返す。が、半ば祈るようなその返事にナズーリンと呼ばれた灰色髪のモノは胡乱げな視線を返し、そして天井を見上げる。そこには何とかなるという期待を裏切るであろモノが潜んでいた。
太い梁から覗くのは一本の唐傘と空色の髪。先日、山の上の巫女からどめすてぃっくばいおれんすなるものを受けていると駆け込んできた唐傘の付喪神だ。
曰く、驚く人の心が食べたかっただけなのに、逆に食べられそうになった、とかなんとか。そんな飢えた傘がすぐ傍にいるのだ、これから起こるであろうことが容易に想像が付く以上、ナズーリンの口から出るのは溜息と愚痴しかなかった。
「まったく、ぬえのヤツじゃないがご主人様がその子をぶら下げてきた時点でさっさと逃げ出しておくべきだったと今は反省しているよ」
「ぇ」
「……そこまで泣きそうな顔をしないでも」
「な、泣いてなんかいませんよ!」
「……多分今起きると泣くだろうけど、あやすだけの自信があるのかい?」
「ぃぃぇ」
「随分と小声だね」
ナズーリンはさて、と改めて梁へと目をやる。赤子は泣くのが仕事というし、飢えた妖怪を見捨てるのも命蓮寺の座りが悪くなる、さりとてこのご主人様にはあやすことは出来ないだろうし、と駄目上司を前提とした推敲が繰り広げられる。
概ね開始10秒の時点で赤子が泣き出したら一緒に泣く派が大多数を占めている。だが、それがいい、いやそうじゃなくて、というナズーリンの懊悩を他所に、梁の上で影がじりっと動いた。
実のところ、唐傘の付喪神こと多々良小傘はナズーリンの危惧通り、このやり取りを注意深く見守っていた。
不思議と小声の方が逆に気になるのは人妖問わず、なのだろうか。唐傘の付喪神といえどももその類にあった。最初は寺の事は自分に関係無いと不貞寝を決め込んでいたのだが、あまりに間の抜けたやり取りに可笑しくなって声を掛けようとして、籠に収まった赤子にに気がついたのだ。
ごくり、と小傘は生唾を飲み込み、じっくりと様子を窺った。なにしろ山の神社では赤子だと安心しきって近づいたところを
ぽ ん
と、爆発でこちらが驚かされたのだ。妖怪でも腰が抜けることってあるんだ、などという場違いな感想すらもった出来事は昨日のことのように思い出せる。
まぁ、実際に昨日なんだけど、と小傘は溜息をつく。あの巫女曰く、新年の初驚かしですよー、だということだが。
籠の中の赤子を覆った布地がゆっくりと上下に揺れているのを確認し、ようやく小傘はそれが本物だと認める。
となると、これは思わぬところで御馳走にありつける、とにんまりと笑った。巫女風に言えば、お年玉というヤツだろうか。あれもしたいこれもしたいという内心の葛藤を押さえ込み、小傘は機を窺う。鼠はこちらを気にしているようだが、飛び出せばこっちのものだ。あの寅はこちらに気がついていないし、この勝負貰った、と自画自賛していると、ぱち、と赤子と目があった。
赤子が、ぱちりぱちりと瞬きを繰り返し、梁から少々身を乗り出していたこちらの姿を認めたのか、手をばたつかせ、あっあっと短く声を上げた。
その姿に小傘は意を決すると、するり、と梁から滑るように、赤子から顔が見えないようにした傘と共に赤子の頭上へと降りていく。そして、傘をぐるりと回し
「うらめしや~~~~~~~~~~~~~~」
おぎゃあ
「え?」
火が着いたようにような泣き声に、ナズーリンにすがるようにしていた星はがばりと振り返る。と、そこには畳に突っ伏した状態で小刻みに震えている唐傘が一本。両腕で体を支えるようにして身もだえていた。あっ! と星が思い至っても後の祭。慌てて振り返り直し、
「あれ?! ナズーリン、なんかさっきよりも距離を感じますよ!」
気がつけば、すがっていたはずのナズーリンが壁際まで下がっていた。
「気のせいだろう、ご主人様。それよりもご主人様の見せ場じゃないか、がんばってくれたまえ」
「そ、そうですね。ここは見せ場ですね」
ナズーリンの投げやりな励ましを受け、星はぺちぺちと両手で頬を景気付けに叩き、
「切羽詰まっている者を追い詰めるのが貴女の正義というならばその性根叩き直してくれましょう! 表に出なさい!」
びしり、と身悶える小傘に指を突きつけ
「そのまま戻ってこないつもりかね」
ナズーリンの指摘でへにょりと折れた。その隙にと小傘は玄関へと抜ける扉から身悶えしながら飛び去る。その後ろ姿を呆然と見送った星は、ぐっと腹に力を込めナズーリンに向き直ると
「そ、そうは言ってもですね、ナズーリン。駄目なものは駄目なんですよ」
「事ここにいたって開き直ってどーするというんだ、このご主人様は」
おぎゃあ おぎゃあ おぎゃあ おぎゃあ おぎゃあ
「ど、どうすれば」
「咲夜、なんとかしなさい」
「そ、そうです、咲夜なんとかしなさ、え?」
気がつけば部屋の入り口には顔をしかめた吸血鬼とその咲夜と呼ばれたメイドが立っていた。メイドは小首を傾げ
「お嬢様、なんとかするのはあの籠の子供でしょうか、それとも目の前の寅でしょうか?」
「な、泣いてなんかいませんよ!」
一体いつからという危惧と一方でこれでなんとかなる安堵が入り交じった視線を星は咲夜へと向けるが、
「実際のところ、赤ちゃんをあやしたことがないもので。ああいった小さい子ってどうにも苦手でして」
「え」
「いえ、お嬢様や妹様は大丈夫ですわ」
ばっちりです、とよく分からないことを告げ、主から胡乱な視線を返される。なおも泣き止まない赤子の声に顔をしかめたまま、じゃあどうするのよ、とぼやく主に対し、
「大丈夫ですわ、小さい子をあやすのが得意なのが、そこに」
咲夜の指を辿れば、肩を竦めたアリスが
「悪いけど、私末っ子だから赤ん坊の面倒は見たことがないのよ」
利かん坊の面倒なら現在進行形で押しつけられているけどね、と霖之助を睨もうとして、
「ふむ、女の子か」
ぺろん、とおしめを外した霖之助が呟く。
そこから先の動きはまさに流れ作業だった。まずアリスの弦が霖之助の両手を後ろ手に拘束し、咲夜のナイフが喉元へと突きつけられ、最後に厳かにレミリアの手が頭蓋骨へと添えられると
「なにか言い残すことは?」
「正月早々に、寺で殺生というのも考え物だけど」
「やむを得ませんわ」
一瞬で起きたことに理解が追いつかないナズーリンと星はあっけに取られていた。
「……泣き止ませるんじゃなかったのかい?」
「ああ、その前に軽く処刑だ。その後どうするかは三人で考えるとしよう。なに三人寄れば文殊の知恵というじゃないか」
「一応聞いておくが、君らにはおしめを替えるという発想は? ご覧の通り、気持ち悪くてないているようだが」
「……無かったな」
ふ、っと霖之助の拘束が解かれ、あっけにとられたままのナズーリンと星の脇にレミリア・咲夜・アリスと並んだ。
「手伝う気は」
「さらさらありませんわ」
「だったらせめて替えの布が欲しいんだが。籠に入っているかと思ったんだが無いのでね」
さすがに、僕の手ぬぐいでは拙いだろう? と霖之助が壁の花に問うと、すっと高価な布が差し出される。これは、と差し出したナズーリンに問う。
「なに、ご主人様の羽衣だ。術を掛けてあるから汚れの心配は無い。清潔そのものだ」
「え、ちょっと、あ、本当です。何時の間に取りました、ナズーリン!」
「ふむ、どこかでうっかり落とすだろうものを有効活用しようと思ったのだが、何か問題でもあるのかい?」
「問題というかですね」
「ふむ。ご主人様、考えてみて欲しい。ご主人様がこの羽衣を貸さないと言った場合だね、この赤子はおしめを替えることが出来ない訳だ。そうすると泣き続けるだろうなあ、そうなれば祈祷が済んだあの夫婦と聖が見るのは赤子一つあやせない駄目本尊という訳か。聖がみたらさぞ悲しむことだろうに。いやいや艱難辛苦を乗り越えることこそ毘沙門天の本懐ということなんだろうね」
流れ出すナズーリンの毒舌を聞き、非常に嫌そうな顔で横の咲夜を見上げた後、哀れみの視線で星の肩をレミリアが叩く。アリスからしてみれば、同類相哀れむ、といった光景でしかなかったが。
「なあ、そろそろその本尊が倒壊しそうな表情になっているんだが」
「ふむ、君は優しいね。できれば返してくれる時もそうだったら良かったんだけどね」
「なに、良い物を良い物だと認識できる良い機会を提供しただけだよ」
「ふん、ご主人様も君に少しばかり面の皮を貰えばいいんだがね」
悪態を突き合う間にも、霖之助は手際良くおしめを取り替えていった。その様はレミリアが強いて上げればと言われれば、咲夜がシーツを交換するときのような手際の良さだと評したくなるほどのものだった。
「なあ香霖堂」
「なんだい」
「その、なんだ。やけに手慣れているように感じるんだが」
「確かに手際が良いのよね。なんか、結構やり慣れているわよね貴方」
「魔理沙のおしめを替えていたのは僕だからね」
さらりと答えた内容に一同顔を見合わせる。これで一段落と、汚れたおしめを自分の手ぬぐいで包むと
「どうかしたかい? 不思議そうな顔で」
「そういえば、今の傍若無人っぷりで忘れてたけど、あれも一応生まれたばかりの頃があったかしらね」
「君の口からそういった表現がでるとは思わなかったよ」
「鏡を見ろ、って? 生憎と映らないんでね」
「実際僕で無くても良かったんだけど、なぜかあの頃から懐かれてね。それで奥方が僕に面倒をみるように、って言われてね。もっとも最初おしめを替えてたのを親父さんに見られたときは回し蹴り一発からの連打だったけどね」
その後、親父さんは奥方に吊されてたっけと、しみじみと言いながら顎の辺りをさする。それを聞いたアリスが当然の疑問を口にした。
「それじゃ、昔のというか赤ん坊の頃の魔理沙ってどうだったの?」
「まあ……、なんというか大人しくなったんじゃないかな?」
「は?」
聞き間違えかと一同顔を見合わせるが、霖之助の表情はいたって真面目だった。そっと女の子を持ち上げると、再び籠の中に収める。そしてあやすように、ゆっくりと額についた髪をなでた。
「生まれたばかりの子供は泣くことしかできないからね」
何かを懐かしむようなしんみりとした表情の霖之助に、そうかと一言レミリアは返す。
「そう、結構魔理沙には振り回されたよ。まあ、小さい時から僕を振り回してたんだ、君達位振り回すのは当然だろ」
「随分と言うわね」
「だからこの子も」
そこまで言って霖之助はそっと籠を持ち上げると、何時の間に立っていたのか入り口であっけにとられていた若夫婦へと籠を渡す。ほら、と霖之助が声を掛けると亭主がおっかなびっくりに受け取り、面倒をお掛けしましたと夫婦揃って頭を下げた。そんな二人に対して、気にすることはないと告げ、今しているおしめは毘沙門天の羽衣、きっと御利益がありますよ、と告げる。
霖之助は最後に籠の主に向かい、
「君は吸血鬼と毘沙門天を慌てさせたんだ、将来きっと大物になるよ。そして誰かを振り回したくなったら、その際はどうぞご贔屓に」
そういって締めくくった。
ーーー
陽はとうに暮れ、辺りはとっぷりと闇に沈んでいた。日中の賑わいが夢のように静まり返った境内を戸板一枚で隔てた本堂には、住人である一輪と霖之助が何を話すでもなく、座っていた。
レミリアと咲夜、そしてアリスは、山に陽が沈んだの見計らい、新年会のためと博麗神社へと飛び去っていた。そして山門もそれを合図に閉じられていた。霖之助もレミリア達に合わせて帰宅を申し出たものの、迷惑を掛けたのだからと強い留意を受け、気がつけば折れる形で一人命蓮寺に残る形となっていた。
ばち ばち ばちり ばちり ばち
ばちり ばち ばち ばち ばちり
昼に祈祷のために構えられていた護摩壇は、今では暖を取るために薪をくべる囲炉裏と化していた。ぼんやりと護摩壇とその奥に置かれた毘沙門天を眺めていた霖之助の視界の端で、吊されることなく宙に浮いていた鉄瓶が誰に持ち上げられるでもなくするすると一輪が用意した茶器へと注がれた。
本堂にしっとりと濃い緑の匂いが漂い、漸く霖之助の意識が引き戻される。
「ご苦労様、雲山」
「あ、ああ。浮いていたんじゃなくて、入道に持たせていたのか」
「おや、漸くしゃんとしたね客人」
「すまないね。ちょっと考え事をしていてね」
「ふん、考え事ね。姐さんの料理を上の空で食うたあふてえヤツだ! と、行きたいところだけどね、姐さんがそっとしとけ、っていうからほっといたけど」
「わざわざ濃いめに煎れたもののセリフじゃないね」
「匂いで気がつくかい」
「伊達に霊夢につき合って出涸らしを飲んでる訳じゃないよ」
「お茶が体に悪いってんなら、水で割って出しても構わないかい?」
すっ、と木の擦れる音が本堂に短く響く。きしり、と小さく床を軋ませ入ってきたのは白蓮と星だった。昼に着ていた重々しい袈裟姿ではなく、いつもの見慣れた服へと着替えを済ませていた白蓮は、護摩壇の前に敷かれた座布団に座り一輪から差し出された湯飲みを一嗅ぎすると
「良い香りですね、一輪」
「開けずに取っておいた新茶ですから」
「あ、一輪一輪。濃いめにして下さい。出店の方から頂いた御菓子が」
「煎れ甲斐の無い奴だねあんたは。それに星はまた食べ過ぎで守矢のところにお世話になる気?」
「い、良いじゃないですか、ちょっとぐらい」
「そのちょっとが積もりすぎてるんじゃないの? 一応言っておくけど、アレはあんたの必須体型なんだからね」
一輪が指差すのは命蓮寺の本尊、毘沙門天。すっくりとした毘沙門立ちのそれは、護摩壇を挟んで座すものに睨みを利かせる偉丈夫として彫られていた。その視線にばつの悪さを感じたか、星はそのしっぽをへしゃりと床に這わせると白蓮に対し
「さ、三箇日位は」
「そうね、昼間に何があったのか教えてくれたら、でいいわ」
にっこりと笑って返される。ちらりと霖之助を伺い、しかし何も言わないことを同意と受け取ったのか星は、よほど手にした菓子が食べたいのか、しぶしぶに昼間の出来事を白蓮に伝えた。
一輪が入れたお茶をすすりながら、話を聞いていた白蓮だったが、星にナズーリンだけでなくレミリアやアリス、果ては咲夜まで壁際で霖之助がおしめを替えているところを見ていたくだりになり、ついに耐えきれずに笑い出した。
「そうね、そうだったわね。すっかり忘れてたわ」
私にも星のうっかりが移ったかしら、そう言って白蓮は一輪が注いだお茶をそっと床に置くと、口に手を当ててころころと笑った。白蓮のその一言に、たまらず一輪も声を上げて笑う。
「今回は星にお願いした私の間違いね。貴女達には難しいものね」
ひとしきり笑った後で白蓮はそう星に謝った。その言葉に湯飲みをじっと見つめていた霖之助が顔を上げると、やはり、と白蓮に問う。
「妖怪には難しいのかい?」
何が、とは言わないその響きに含まれた意味に、頷きをもって星が答える。
「ええ、概ねの妖怪は変化、歳経て成るモノですから、赤子という状態がありません。強いて言えば、変化の前の姿がそうなのかもしれませんが、成ってしまえば、まったくの別物ですから」
しゅん しゅん しゅん しゅん しゅんしゅん
「ご自身の事ですか?」
白蓮の気遣うように抑えられた声に、こくりと霖之助は頷きをもって返す。護摩壇の上で湯気を立てる鉄瓶に放り込まれたつららが解けていくのを眺めながら、ゆっくりと霖之助の吐露は続く。
「物心ついた頃から親はいなくてね。家族、というものがよく分からないんだよ。彼が結婚して魔理沙が生まれてすくすくと育っていって。僕だけ変わっていない、という事に気がついてしまってね。逃げ場を求めるような気持ちが無かったと言えば嘘になるかな。香霖堂を建てた頃には自分が家族というものから逃げている、とは気がついていたけどね」
共に老いられないということが耐えられなかったんだろうね、と霖之助は零す。誰が、とは言わないその言葉を、一同は静かに聞いた。霖之助が呷るようにして飲み干したのに合わせて白蓮も湯飲みに残ったお茶を静かに飲み干す。
ぱん、と一際大きな音を立てて護摩壇にくべられた木が爆ぜた。霖之助が護摩壇で魔が差すとは間抜けた話だ、と切り上げようと口を開こうとし、しかし
「弟も似たような事を言いましたわ。なぜ人としての時間を生きないのか、人としての時間で満足できないのかと」
極楽を夢見て念仏を唱える者が言う言葉では無いのでしょうけれど、と白蓮は薄く笑い、
「一面弟の言っていた事は正解でした」
その言葉に星と一輪の身が固くなるのが霖之助にも感じられた。護摩壇で燃え上がる火を見つめる白蓮の目はしかしそこを見てはいなかった。霖之助が知る過去を遙かに越えた昔を見ていた。
ぱん、と再び大きな音を立てて木が爆ぜる。白蓮は昔を思い出すように目を閉じ
「それぞれの生き物はそれぞれの時間に合わせて成長していきます。変化と成るのはその成長に見合わぬ時間を手に入れてしまうということでもあります。そしてそれだけの時間を手に入れてしまうということは、必然同じ輪の中には居られないということになります」
淡々と告げる。護摩壇の火に照らされたその横顔に何の険も感じられず、たまらず霖之助は尋ねた。
「同じ輪に居られなければ、どうなる?」
瞬間、霖之助はしまった、とほぞを噛んだ。まさに魔が差すとはこのことだ、と己の迂闊さを呪った。この問いの答えこそ、聖白蓮その人自身ではないかと。その言葉に星と一輪は俯きをもって霖之助の予想を裏付けた。それは命蓮寺の面々が触れることを厭う、深い深い傷。それは命蓮寺の誰もが、胸に抱え過ごすしかない癒えぬものだと思っていた。
が、己を信じた者にそして弟に拒絶されたはずの白蓮は、己の失言に両手を床に着き頭を下げようとする霖之助に対し、短く、しかしはっきりと答えた。
「共に寄り添えばいいのです」
「それは」
「貴方は既にそれをされているではありませんか」
そう言って、白蓮ははっきりと微笑んだ。理想論だと、そう言おうとした霖之助へと。
星と一輪もまた、白蓮の口調に俯いていた顔を上げ、その顔に見入っていた。
「春の一件後に魔理沙や霊夢と話している中での貴方は」
ぱちん、と護摩壇で火が爆ぜる。火勢は既に衰えていた。
「かつて私が嘘偽り、最後は力で越えようとしていた壁を、ただ自分の振る舞いそれ一つで越えていました」
正直、羨ましかった、と言う白蓮に、星は何かを言いかけ、しかし白蓮の穏やかな表情に口を噤んだ。求めているものが既に手にしているものだと、言われ、しかし実感の無い霖之助は尚も言いつのろうとする。が、ゆっくりと白蓮はかぶりを振ると
「貴方自身が言われていることです。良い物は、それが良い物だと認識できる機会が無ければならない、と。それがまだ訪れていない、というだけです」
昼間自身が言った何気ない一言をもって、答えとした見事さに霖之助は苦笑しつつ、しかし何か返さねば、と思い、誤魔化すように熾火へと目をやると
「なら、今年がそんな年になることを祈ればいいのかな?」
惚けたように、白蓮へと問う。と白蓮は
「その際は、どうぞご贔屓に」
そういって微笑んだのだった。
一つ一つの会話の間に説明の地の文が入ると会話のテンポが鈍く感じられました。
話自体はちょっと切なく楽しめました。
会話の内容や掛け合いもうまくて、情景も浮かんで楽しめました。
最後の白蓮さんの微笑みが最高すぎる。
ですが、雰囲気がよく面白かったです。
内容は文句無しでした。
これはいいものだ。
内容は良かったんですけどね。
ただ...星さんいいとこなしですなぁ。
それぞれの会話もススっと読めましたし、霖之助たちと赤ん坊のこととか面白かったです。
内容はとてもよかったです。
例を挙げれば前半の霖之助とアリスの会話部分の霖之助の台詞、
「宝船で出来た寺院だ。御利益位期待しても罰は当たらないだろう。それに彼女には君達以上に迷惑をかけたからね」
これにおける“彼女”が誰を指すのか今一つはっきりとしないかな、とか、
その次の霖之助の台詞
「君があの子の側に立ってくれること、位かな」
これが「扱いの差」になる、というのはどういう意味なんだろう、とか。
勿論、私の想像力不足によるところも大きいとは思うのですが。
話の内容については、ほのぼのとした描写、くすりと面白い会話等、とても楽しく読ませて頂けました。
霖之助と白蓮の絡みは、白蓮の持つテーマ的にとても面白いと思うので、機会があればまた是非。
……頭使わなきゃなぁ。
素晴らしい小説でした。
それを抜きにしても雰囲気がとても良いSSでした
お次もよろしくです。
いいお正月じゃないか
キャラクターが適度にドライなところも東方の世界らしさをよく表せてると思う。
いいものをありがとうございました。
霖之助にとって良い一年になるといいですね。
個人的にも好みの体裁でした。
皆魅力を損なってないどころか、イキイキしてる
勿論、霖之助もですよ
前半と後半で登場人物がガラッと変わってしまったり
読みづらいところはありましたがみんな魅力的に描かれており良い話でした