0.出立を控えて
十五夜であった。
魔女が発つのは満月の夜に限るとのことであったが、理由は本人も知らないとのことだ。
宴の余韻もすでに醒め、別れの悲しみも先の期待に隠れてしまう、いざという刹那。静けさに虫もひそみ、雲間に照る月に誰もが言葉を失っている。去り行く彼女に私が一つの密かな、誰にも知られてはいけない密かな取引を強いたのは、そんな不確かな狭間に立った時であった。
私の言葉に、魔女は頷きを返した。私は念を押すことなく、見送りさえしなかった。
彼女の、頷きに隠れた侮蔑は、私の誇りを全く傷つけることもなく、また私の心を捉えもしなかった。私の願いが傲慢だという謗りは不適なのだ。私はただ恐れるものだから、正しくは彼女は私を憐れむべきなのだった。
満月の照らす道に従い、彼女は出立した。月は今から衰えていくが、また満ちるのだからそれは救いがある。だが命には終いがあり、もはや再び輝きだすこともなく、暗黒に耐え忍ぶ日々が来るだけだ。
私は真に思う。野に咲く花を摘むことが罪であるなら、朽ちゆく桜に接木をあてることは務めだ。かそけき命の儚さは、無残で怖い。滅びを黙過することは、過去を辱めることに等しく覚える。夜がいくら深くて静かでも私は構わない、朝が来るのであれば。明けない夜は許されない、私は真実を求めて欺瞞しよう、錯誤の海の中で。永遠の黄昏であれば、道に迷うことはないのだから。
1.帰郷の知らせ
日が昇り間もなく、天狗の射命丸が手紙を届けにやってきた。
珍しいこともあるものだと私は茶をすすりながら白い息を吐いた。雪こそ降りはしなかったが、忌々しいほどに底冷えしている。この前河童に特別温もる火鉢を拵えてもらったが、流石にこの寒気には妖力仕掛けの炭火もお手上げといったところで、気休めにしかならない。
火を挟んで向かいに腰を下ろした天狗は、寒さに震えながらも興味津々な瞳で私の開封を今か今かと待っている。
「誰からで?」
「貴方がそれを言う?」
さあ、と天狗は悪びれもせずに首をかしげた。「私は存じませんや。窓の隙間に挟まってたので届けたまでです」
新聞を書く傍ら天狗は郵便の真似事も少し前から始めたのであるが、その機能が発揮されたことはついぞ今までなかったように思う。封が開けられていないところを見ると最低限の仁義は心得ているものと思えるが、どこの馬の骨ともわからない者が放り込んだ胡散臭い代物をほいほい預かるというのも褒められたものではないから、やはり配達員としては落第であろう。
本人は配達は所詮片手間と割り切っているのか、記者として及第であればそれでいいようで、カメラを構えて私をレンズの射程に捉え、アレやコレやと構図を模索している。確かに、この郷で手紙の類をやり取りすることなどほとんどない。私は抱き合せで渡された、本来なら天狗にとってのメインであるはずの新聞を無造作によけたのだが、一面には「萃香半斗干す」などという閑話の種にもならないタイトルがおこがましくも太字で空しくなっている。
「明日の一面トップは『博麗神社に謎の手紙』で決まり、って顔ねぇ」
「何をおっしゃる。ものによっちゃ連載スタートですよ」
「プライバシーも何もあったもんじゃないわね」
この天狗もいつまで経っても変わらぬ野次馬である。見せる義理はない。とはいえこの寒い中帰れと言ったところで、目の前の娘が言う事をきくとも思えぬ。知らぬ振りをしろと言っても土台無理な話で、まあよい、見物料に賽銭を求めることにしようと私は一人考えを済ませた。天狗はもはやレンズから目を放す気もないようである。
送り主の名も切手もなく、ただ宛先に「博麗神社」とだけ記された茶封筒。私は簡素な糊付けをピリリと裂いた。中には三つ折りの紙が一枚きりで、これもまた簡素な文字で一文「ぼちぼち帰るから」とだけ書かれていた。
私はふうん、とだけ思った。執拗にフラッシュを焚く天狗に紙切れを渡して、そのまま火に手をかざした。天狗はちらりと紙に目を通し途端、あっ、と叫ぶとそのままとんでもない速さで舞い上がった。
「霧雨魔理沙が帰ってくる!」
余波で吹き付ける乾いた冬の風が、炭火から分けてもらったかすかな温もりさえ丸ごと奪い去るという、あこぎな真似を働く。山住まいの天狗め、散々騒いでこれか。私は黒い後ろ姿を目で追おうとしたが、その背中はとうに山の向こうに消えていた。
空は青く、日は誰にも邪魔されずさんさんとしている。雲はない。今年の雪はまだふらない。冬の妖精たちは自分の遊びに夢中なのだろうが、しばらく後に妖精たちは悔しがるだろう。幻想郷の皆に空を見上げさせる手柄を天狗に取られるから。天狗の勢いを見るに、明日の朝刊を待つまでもなく、しばらく後に号外が撒かれるであろうことは間違いあるまい。初雪にしては無粋だが、いつでもどこでも我が物顔の魔女にはピッタリという気もするからそれもまた小粋な符合である。
さて、酒は何斗あれば事足りるのか。ありったけで足りなければ鬼の瓢箪を長年の家賃の質に取り立てても今回ばかりはいいだろう。我が財布と賽銭箱に実弾はいかほどありや、と考えたところで、私は鴉の親玉が賽銭をツケていったことに気づいてむかっ腹を立てた。
2.紅魔館にて
キッチン周りの汚れが取れていなかったので、調理を任せた者を叱っていると、昼の三時を告げる鐘が鳴った。そこでようやく、結構な時間しぼっていたことに気づき、むしろ自らへの落胆を込めてため息をつき、小言を終えた。
「もういいわ、行きなさい。お嬢様にお出しするお料理は、もう貴方にお任せしているのだから、怠慢は許されないのよ」
きびすを返して私は外へと向かった。歩きながら私は恥じた。老いを自覚することはやはり恥を伴う。
正門は光の一粒一波とも通さないようにしっかりと閉じられている。それをそっと開け放つと良く晴れた青空がさっと差し込んで、館の中の埃をあらわにした。年末の大掃除を今年は幾分早めてもいいかもしれない。
私は冬を間近に控え、秋の盛りより寂しくなってしまった花壇に向かった。案の定、門番は今この時ばかりは庭師に職を鞍替えしており、腰を屈めて土の手入れに余念がなかった。私は背後でそれをしばらく眺めた後、引き抜かれた雑草の山に手をやった。
「風見幽香が見たら怒るわね」
「ここに来ることはないでしょう」
いつも身にまとっているグリーンの旗袍ではなく、美鈴は地味なつなぎを着ていた。冬には肥料をたっぷり与えて、春の開花に備えるらしい。
「……わがままなものね。命を取捨できる権利が私たちにあるのかしら」
「珍しく殊勝なことで」
雑草を引き抜き、土を素手で掘り起こすという一連の作業を、一定のリズムで美鈴は続ける。正確なリズムが笑えるほどだった。大したものだと思った。
「あ、如雨露とってもらえます?」
私は時を止めると、足元の如雨露を美鈴の背中へと放った。時への制約をやめると同時に如雨露は彼女の顔面に迫ったが、雑草を引き抜いたついでといった感じで、美鈴はこともなげに取っ手を掴み取った。
「……つまらないわね」
「いやこれ結構ギリギリなんですけどね」
「よくいうわ」
フフン、と得意げな門番の顔を泣きっ面に変える方法と手段を、ざっと思い浮かべたけれど、どれもやる気には起きなかった。まるで子供のような真似だ。
畝の全ての手入れを終えた美鈴は、最後に渡した如雨露の水をさっとまいて作業を終えた。額に汗が浮かんでいるが、それよりも土の汚れの方が何倍も目立った。気にせず手の甲で乱暴に拭っていたのだろう。
「みっともないわね、本当。紅魔館に仕えるものとしてなってないわ」
私はポケットからハンカチを取り出すと、それで拭ってやった。
「うわ、なんか照れますねえ。あはは」
「まったく、いつまで経っても貴方は変わらないのね」
なぜこんなことを口走ってしまったのかわからない。人生を総括するような話しぶりも、やはり老いの弊害なのだろう、そして私はそれにすっかり甘えてしまっている。
「いや、変わりましたよ」
「そう? そうは見えないわ」
「咲夜さんが変わったのと同じくらい変わりましたし、変わってないのと同じくらい変わってませんて。同レベルですって」
「あら、生意気いうのね」
「私だってたまには言い返しますよ、へへん」
その言葉を言い終わらないうちに、私は時を止めて彼女のつなぎをひきずり下ろして如雨露の残りを顔面にぶちまけた。時を放してやる。心底情けない悲鳴がおこる。全くどうしてどうして、美鈴のいうこともあながち的外れではない。こうしたところばかり私も変わらないものだ。銀色から真っ白に髪の色が変わってしまっても性根はまだまだ幼い、美鈴がいうように、美鈴と同じように。
さあ仕事の続きをと思い、私は情けない声を背中で聞きながら館へ戻った。そうこうしているうちに日はだいぶ傾いてしまった。私は自分の食事を済ませてから、メイドの一人に人間の里まで買い物に向かわせ、別の者に埃の積もっていたロビーの拭き掃除を命じた。
使いに出したメイドが、切れかかった蝋燭と油を抱えて戻ってきた時、途中で落ちてきたという天狗の号外新聞も一緒に手にしていた。紙の中央に大きく書かれた『霧雨魔理沙電撃帰郷』という極太フォントの見出しの墨は、まだ乾ききっていなかった。
誤報ではあるまいが、信じられないという気もする。霧雨魔理沙が幻想郷を去って二十年は経った。私にとっては半ば過去の人間ともいえる。が、そう思ったのもつかの間、買い足された蝋燭を一つ一つ、紅魔館の長い廊下に備えつけて火を灯すたびに、私の中のアルバムも長い廊下と同様に暗がりから照らし出され、うっすら積もった埃は容易く舞い散っていった。
過去への廊下はなぜ紙切れ一枚に書かれた名前一つで、かくも鮮やかに掘り起こされるのだろう。幻想郷にやってきて以来最もかしましい、青春とも呼べた日々は、霧雨魔理沙を抜いては語ることができない。
私は古書から薫るクリームのような甘い匂い、すなわち過去の香りに惑いながら、足早にお嬢様方の寝室へと向かった。日はもう落ちる。お嬢様が目お目覚めになる時刻までもう間もない。
部屋の中央、ベッドの天蓋からはルージュのシルクが垂れ下がっており、二人分の人影が横たわっていたが、やおら片方の影が起き上がった。
「おはようございます」
「……フランはまだ寝かしておきなさい」
「かしこまりました」
寝台から椅子に腰を移されたお嬢様の後ろに従い、私はまずはいつものようにお世話を始めた。バラの香りをひたしたお湯で布巾を湿らせ、そっとレミリアお嬢様のお顔をふき、おぐしを整える。私がこの館を辞さない限り、この役目を誰かに譲るつもりはなかった。続いてクローゼットから今日のお召し物を選び袖を通していただく。
「久しぶりにメイド服を着てみない?」
お嬢様は着替を終えると、出し抜けにそうおっしゃった。私は笑って相手にせず、茶器を揃えた。美鈴が花とは別に茶を育てて数年になるが、ここ最近では最もよい出来だと胸を張っていた。確かに良い色つやだ。水で煮出してミルクを足した後も強く香る。
「貴方の忠誠心、最近翳りが出てるんじゃない?」
「あら、そうでしょうか?」
「昔の咲夜なら一もニもなく従っていたわ」
「年をとりましたもの。ご容赦くださいな」
私は苦笑いを押えきれないまま、紅茶を注いだ。ミルクを足してまた沸かしたロイヤルミルクティーは、鈍色の雲に隠れた夕焼けを思わせる。
「言い訳ばかり上手になって……その卑怯さも老いが悪いといいたげね」
お嬢様は寝起きの憂鬱さと、私への不満の両方をまるごと隠すことなく、口を尖らせたままカップに口をつけた。私はまた笑った。全く的を射た言葉には笑って誤魔化すほか手段がない。老いさらばえた老メイドは主人の小言にのらりくらりする手練手管ばかり長けてしまっている。
紅魔館には窓がほとんどないが、長い間住めばわずかな気配で外の明るさや天気がわかる。秋の暮れ、冬の訪れを思わせる晴れの夜に、今夜きっと星は騒ぐ。
「晴れますね」
機嫌を悪くされたのか、お返事はない。私は黙っておかわりを注いだ。夕暮れの甘い香り。お嬢様は黙って口に運ぶ。私は満たされる。良い茶をいれる。仕事のほとんどを他のメイドたちに割り振ってしまった今の私にとって、それが残された仕事のうち、最も重大なものといえるだろう。
「外に出るわよ」
不意に立ち上がられたお嬢様の後をカーディガンを手に追った。
今夜はやはり朝まで晴れと思われた。雲ひとつなく、星まで抜けた空は昼間に射し込んだ熱の一切を逃がしてすっかり冷えている。私は手にしたままのカーディガンを、黙ってお嬢様の肩にかけた。お嬢様は拒まれなかった。背に生えた羽が私の手にあわせてゆっくり畳まれていく。私は幸せである。
西の空に日の名残りが滲んでいるが、群青からなるグラデーションが空のほとんどを染め上げてしまっていた。バルコニーの欄干に灯ったカンテラがなければ、もう闇といってもよい。お嬢様は椅子に腰もおろさず、ただ立っていらっしゃるだけで、動かれない。カーディガンの裾と、白いフリルのスカートが時折風でたわんでは揺れる。
「永琳に聞いたわ。あまり良くないのね」
直截は美徳だ。私は笑った。お嬢様のカーディガンがなびく。私のまとっている黒地のロングスカートは重く揺れもしない。風があるようには思えないが、きっとどこかで吹いている。
「あら、お嬢様。そういうのをプライバシーの侵害というのですよ?」
「そう? メイドにプライバシーなんてない、というのが私の帝王学なのだけれど」
「あまり勘ぐりを入れられるというのも、威厳を損ねられますわ」
「時を止めたいわ」
お嬢様はやはり夜空を向いたままおっしゃった。ようよう、星も夜に目覚め始めていた。一際明るく輝く星は、私の想像の余地を全て塗りつぶしてしまうほど大きく、そして遠いと聞いたことがある。おとぎ話にも等しいそんな話を、どれほど前に誰から聞いたかほとんど忘れてしまったけれど、今このとき私には真実に思えた。
「時ですか」
「なんでもない」
「そうですか」
私は迷った末に、時を止めた。私だけが鼓動を刻む世界は、寒々しいが、同時に微笑ましくもある。動かない人というのは奇妙にか弱く、愛しい。私はしばらくじっとしたまま孤立し、やがて針を戻した。お嬢様は気づいておられない。こんな悪戯ともいえない戯れを、若い頃は何度もしていたことを不意に思い出して、私はむず痒さを覚えた。全ては老いのせいだ。
「そういえば、霧雨魔理沙が帰ってくるようです」
私はポケットから例の号外を取り出した。お嬢様は一瞥すると燃やしてしまった。
「懐かしいわね」
「二十年ほどですから、もうだいぶですね」
「きっとまた、ひどいどんちゃん騒ぎになるわね」
散り散りと夜に溶けていく灰を眺めながら、私は月を探したが、今夜は晦だ。星が主役の夜だった。
3.霧雨魔理沙
何一つヒントを逃すまいと、真剣な瞳で少女は私の手元を見つめてくる。
手元には四種のエースが明かされているが、私はそれを少女の確認をとって全て裏向ける。私は山札を何度も切り、さらに少女に切らせては何も細工がないことを印象付ける。一枚、二枚とめくっていき、少女にもめくらせ計八枚を明かした。よい塩梅に偏りのない、何の変哲もないカード群であった。「さていいかい。今から魔法をかけるよ」
「魔法?」
「そう。魔法だ。今二人で選んだ八枚のカードが犠牲になって、四枚のエースを変身させるんだ」
「出来っこない!」
「いい返事だ」
アブラカタブラ南無阿弥陀仏。私は唱えると、右手にした選び抜いた八枚を振り、空中に放り投げる仕草をした。すると八枚のカードは私の右手から放たれる前に虚空へと姿を消した。少なくとも、女の子にはそう見えただろう。
「どこ!」
「さあどこだろう。それより今大事なのはこのエースだ。さあ見てごらん。きっと変身してる」
「うそうそ!」
少女は瞳を輝かせてカードをめくった。一枚二枚、三枚四枚。少女の顔は落胆に歪んだ。
「変わってないじゃん! そのままだよ!」
「あれえ? おかしいねえ。ううん。そうだ、あれを忘れてた。あれだあれだ。あれを忘れてた」
「あれ?」
「おばちゃん、お嬢ちゃんの誕生日を聞くのを忘れてたよ。それが大事な大事なスパイスなのさ。さあ、何月何日で何歳になるのかな?」
「お、お母さん! お母さん!」
少女の母親は、迷惑をかけて申し訳ないと未だに思っているようで、困ったような笑顔と会釈を交互にしながら、ちゃんと覚えていなさいよ、と言い含めながら答えた。
「九月九日よ」
「九月九日!」小さな手を目一杯広げて女の子は笑う。「五歳になったの!」
「そうかい。いい日だ。菊の花に守られた日だよ。とっても良い日なんだよ」
再び四枚を選び、四枚を選ばせた。私はそれを念入りに拝む。
「さて、じゃあこれで条件はピッタリだね」 アブラカタブラ南無阿弥陀仏。唱えて、放り投げてはかき消す。これで犠牲は十六枚。
「さあ、カードをめくってご覧。ハイハイハイ! と勢い良くめくるんだ」
「ハイ! ハイ! ハイ! ハイ! わっ!」
エースであったはずの四枚のカードは、私から見て右からハートの九、クラブの九、スペードのクィーンを挟んで、ダイヤの五に様変わりしていた。
「九月九日、賢いクィーンになれますように。もう冬だけど、五歳の誕生日おめでとう」
目を見開いて驚き叫んだ。全く手品師には極上の客だった。
「すごい! ママ! たまげた!」
「君、たまげたとか変わった言葉使うねぇ。私ゃそれにたまげるよ」
「どうやったの!」
「魔法さ」この決め台詞はいつ言っても気持ちがいい。「私は魔女なのさ」
魔法だ、魔法だ、と大声を上げて飛び跳ねて喜ぶ女の子に、そのカードをは上げるよ、と追い打ちをかけたところ、もう無茶苦茶に飛び跳ねて車両の中を前から後ろへと走りまわった。
「これ、ちゃんとご挨拶して」
「いやあ、大したもんじゃあないからさ」
そのとき全く音沙汰のなかった車内アナウンスが流れた。曰く、一両編成単線ローカルなので滅多なことでは揺れもしないが、走れば危ないので五歳の女の子はご注意ください。途端母親は顔を真赤にして娘を抱きかかえたが、運転手も私も微笑ましい限りであった。
そのとき電車に緩やかな制動がかかり、駅についた。私も目の前の家族も降りない。バスの停留所を飾り付けた程度しかない田舎の駅だった。ホームにはたんまりと枯れ葉が積もっており、野晒しの看板は茶けて錆びている。扉が開いて閉まり、また走り出すまで、一連の流れを私たちは儀式めいたもののように静かに見やっていた。
せがまれて、私はトランプもまるごとくれてやった。女の子は喜んで、向かいの座席に並べ始める。叱ろうとした母親を、まあまあといって私は宥めてやった。
「やんちゃで、もうほんとに」
「元気一番」
「でもすいません、子供に付き合っていただいて」
「いやいや、頼まれたらNOと言えないタチでね」
「おばあさん、昔はマジシャンか何かやってらっしゃったんですか?」
「何をおっしゃる。私は今でも、現役バリバリの魔法使いだぜ」
二の腕をパシンとやる。私は自分の言葉に妙な気分になり、三角帽を深くかぶり直した。そうさ、人間死ぬまで現役なのだ。
「ご旅行ですか?」
「の、帰りだね。里帰りなんだ」
「あら、てっきり外国の方かと」
「ああ。まあ、自毛なんだけどね」
日本の土地に海外からの移住者が増えてだいぶ経つが、それでも金の髪を見れば私でさえも異国の者と思ってしまう。シワは増えても髪の色艶だけ若い頃のままなのは私の隠さない自慢だ。
「どこに行かれて?」
「世界中まわって来たんだよ。死ぬ前に見ておこうと思って、だから帰るのは二十年ぶりかなあ? 日本はたくさん変わったけど、この辺りは変わらんね」
窓の外で夕暮れを迎えつつある田舎風景を眺めた。収穫を終えた寂しい田畑、山裾は冬も近く紅葉も全て枯れ落ちている。それでも鬱蒼とした森、高くも低くもない山の連なりが前から後ろへ流れていく様は温かい。
「お荷物もなしで?」
「いやこれがまたたくさんあってね。荷車に積んでいま電車の屋根の上に置かせてもらってんのさ」
母親は私の話を半分に聞こうと決めたらしく、そうですか、と笑って頷いている。次いで私が貴方たちはなぜ? と水を向けると、自分たちは実家に戻るために、と彼女は呟いては少し寂しそうな顔をした。誰にだって物語はある。特殊な力も特別な運命も必要ない、誰にだって物語はあるのだ。
私は母親にもついでの魔法を見せてあげることにした。
「帽子に?」
「ああ、ほら、手を突っ込んでみな。そして唱えるのさ。アブラカタブラ」
素直に騙される気になったのは、ワクワクした目でこちらをみている娘のせいだろう。彼女は何だか悔しそうに私の言葉に従って、帽子のフリルの中に手を入れた。おっ、とした顔の後で引き抜かれた手には、たくさんの飴が握られていた。
「どうやら甘い魔法がかかったようだ」
「また魔法……おばあちゃんすごい、本物の魔女だ」
子どもがはしゃぐ。母親は手の中をしばらくじっと見つめた後、やはり笑顔で私に感謝を述べた。これ以上できることは何もない。私は帽子をかぶり直した。
やがて終着駅が近づいてきた。ガタガタ揺れる早過ぎる時刻の最終電車は、のろのろとホームに収まった。山が近いから日暮れも早い。電車を降りると同時に、頼りない街灯が灯った。その中で母娘は元気に手を振って、駅から集落の方へと歩いていった。山に囲まれた村はいずれ雪に覆われるのだろうか、すっかり冷え始める山の空気にも優しがあることを祈った。
私は駅員に見つからないうちに荷物を取り戻した。大きな荷車だ。舗装されていない道をしばらく引いて歩かなければならない。夜は一層暮れ始める。出ていくのが満月の晩であるのなら、戻る日は月籠もりの晦日に決まっている。やがてとうとう山道の視界がふさったが、もう私の目には行き着く先が留まっていた。草木におおわれ、誰からも顧みられることのない廃れた鳥居が見えてきた。鳥居は長い参道の頂上で、暗闇に呑まれまいと星の光を飲み込んで朱色に照っていた。
「ほんと久しぶりだ」
秋の虫と、冬の鳥が鳴いている。境界はすぐそこ、目を凝らせば幽界に在る者も見えるかもしれない。
待ち合わせの時間までまだ少しある。私は荷車から箒を引き抜くといそいそと腰を下ろした。「この世界」では魔法や呪い、そういった力を自由に扱うことは許されない。それは幻想郷を出る際にさんざっぱら言い渡されていたし、実際に外に出たあとでも痛感した。とはいえ鍛えなければ衰えるのも当然、とにかく苦労したのが人目につかないように力を使うことだった。
私は時間を留めたり特殊な空間を形成したりといった力の使い方が出来ない。だから時に人里離れた山や森で気兼ねなく能力を使うときも、とりあえずぶっ放すだけではあったけど。
ふわりと浮かんでから、速度を得るまでゆっくりと地を這うように木の周りを飛んだ。そしてやおら舞い上がる。高度を得ると、夕暮れは再び地平線から引きずり出され、輝きを復活させる。帽子が飛んでいかないように片手で抑えながら、私は鴉の群れを追跡し、雲を食べた。地には星屑のような家の明かりがあり、その一つで五歳の女の子が魔法の真似事を試みていることを想像して愉快になる。明星も既に立った。天上天下で星が瞬き始めるこの瞬間、浴びる光を一人独占する私は今きっと世界で誰よりも自由なのだということを噛み締める。
約束の時間だった。私は箒を静かに下ろし、地に立った。どうも、既にそこに居るようである。挨拶もなく、そいつは私も見ずに言った。
「約束は覚えている?」
「ああ」私はまっすぐ目を見ていった。「だからここにいるのさ」
帰還の時だったが、私は後ろ髪引かれる思いをどうしても覚えてしまった。目をつむった。人生の里程標はどうにも印象深く打ち込まれていて、ちょっと気を向けるとまざまざと蘇る。幸せかどうかなんて知ったこっちゃあないが、少なくとも悔いなく生きてこられた誉れはあった。その誉れさえあれば、私は前に進むことができる。
おさらいを終えた私の手を、八雲紫は弱々しく握りしめた。
つづく
十五夜であった。
魔女が発つのは満月の夜に限るとのことであったが、理由は本人も知らないとのことだ。
宴の余韻もすでに醒め、別れの悲しみも先の期待に隠れてしまう、いざという刹那。静けさに虫もひそみ、雲間に照る月に誰もが言葉を失っている。去り行く彼女に私が一つの密かな、誰にも知られてはいけない密かな取引を強いたのは、そんな不確かな狭間に立った時であった。
私の言葉に、魔女は頷きを返した。私は念を押すことなく、見送りさえしなかった。
彼女の、頷きに隠れた侮蔑は、私の誇りを全く傷つけることもなく、また私の心を捉えもしなかった。私の願いが傲慢だという謗りは不適なのだ。私はただ恐れるものだから、正しくは彼女は私を憐れむべきなのだった。
満月の照らす道に従い、彼女は出立した。月は今から衰えていくが、また満ちるのだからそれは救いがある。だが命には終いがあり、もはや再び輝きだすこともなく、暗黒に耐え忍ぶ日々が来るだけだ。
私は真に思う。野に咲く花を摘むことが罪であるなら、朽ちゆく桜に接木をあてることは務めだ。かそけき命の儚さは、無残で怖い。滅びを黙過することは、過去を辱めることに等しく覚える。夜がいくら深くて静かでも私は構わない、朝が来るのであれば。明けない夜は許されない、私は真実を求めて欺瞞しよう、錯誤の海の中で。永遠の黄昏であれば、道に迷うことはないのだから。
1.帰郷の知らせ
日が昇り間もなく、天狗の射命丸が手紙を届けにやってきた。
珍しいこともあるものだと私は茶をすすりながら白い息を吐いた。雪こそ降りはしなかったが、忌々しいほどに底冷えしている。この前河童に特別温もる火鉢を拵えてもらったが、流石にこの寒気には妖力仕掛けの炭火もお手上げといったところで、気休めにしかならない。
火を挟んで向かいに腰を下ろした天狗は、寒さに震えながらも興味津々な瞳で私の開封を今か今かと待っている。
「誰からで?」
「貴方がそれを言う?」
さあ、と天狗は悪びれもせずに首をかしげた。「私は存じませんや。窓の隙間に挟まってたので届けたまでです」
新聞を書く傍ら天狗は郵便の真似事も少し前から始めたのであるが、その機能が発揮されたことはついぞ今までなかったように思う。封が開けられていないところを見ると最低限の仁義は心得ているものと思えるが、どこの馬の骨ともわからない者が放り込んだ胡散臭い代物をほいほい預かるというのも褒められたものではないから、やはり配達員としては落第であろう。
本人は配達は所詮片手間と割り切っているのか、記者として及第であればそれでいいようで、カメラを構えて私をレンズの射程に捉え、アレやコレやと構図を模索している。確かに、この郷で手紙の類をやり取りすることなどほとんどない。私は抱き合せで渡された、本来なら天狗にとってのメインであるはずの新聞を無造作によけたのだが、一面には「萃香半斗干す」などという閑話の種にもならないタイトルがおこがましくも太字で空しくなっている。
「明日の一面トップは『博麗神社に謎の手紙』で決まり、って顔ねぇ」
「何をおっしゃる。ものによっちゃ連載スタートですよ」
「プライバシーも何もあったもんじゃないわね」
この天狗もいつまで経っても変わらぬ野次馬である。見せる義理はない。とはいえこの寒い中帰れと言ったところで、目の前の娘が言う事をきくとも思えぬ。知らぬ振りをしろと言っても土台無理な話で、まあよい、見物料に賽銭を求めることにしようと私は一人考えを済ませた。天狗はもはやレンズから目を放す気もないようである。
送り主の名も切手もなく、ただ宛先に「博麗神社」とだけ記された茶封筒。私は簡素な糊付けをピリリと裂いた。中には三つ折りの紙が一枚きりで、これもまた簡素な文字で一文「ぼちぼち帰るから」とだけ書かれていた。
私はふうん、とだけ思った。執拗にフラッシュを焚く天狗に紙切れを渡して、そのまま火に手をかざした。天狗はちらりと紙に目を通し途端、あっ、と叫ぶとそのままとんでもない速さで舞い上がった。
「霧雨魔理沙が帰ってくる!」
余波で吹き付ける乾いた冬の風が、炭火から分けてもらったかすかな温もりさえ丸ごと奪い去るという、あこぎな真似を働く。山住まいの天狗め、散々騒いでこれか。私は黒い後ろ姿を目で追おうとしたが、その背中はとうに山の向こうに消えていた。
空は青く、日は誰にも邪魔されずさんさんとしている。雲はない。今年の雪はまだふらない。冬の妖精たちは自分の遊びに夢中なのだろうが、しばらく後に妖精たちは悔しがるだろう。幻想郷の皆に空を見上げさせる手柄を天狗に取られるから。天狗の勢いを見るに、明日の朝刊を待つまでもなく、しばらく後に号外が撒かれるであろうことは間違いあるまい。初雪にしては無粋だが、いつでもどこでも我が物顔の魔女にはピッタリという気もするからそれもまた小粋な符合である。
さて、酒は何斗あれば事足りるのか。ありったけで足りなければ鬼の瓢箪を長年の家賃の質に取り立てても今回ばかりはいいだろう。我が財布と賽銭箱に実弾はいかほどありや、と考えたところで、私は鴉の親玉が賽銭をツケていったことに気づいてむかっ腹を立てた。
2.紅魔館にて
キッチン周りの汚れが取れていなかったので、調理を任せた者を叱っていると、昼の三時を告げる鐘が鳴った。そこでようやく、結構な時間しぼっていたことに気づき、むしろ自らへの落胆を込めてため息をつき、小言を終えた。
「もういいわ、行きなさい。お嬢様にお出しするお料理は、もう貴方にお任せしているのだから、怠慢は許されないのよ」
きびすを返して私は外へと向かった。歩きながら私は恥じた。老いを自覚することはやはり恥を伴う。
正門は光の一粒一波とも通さないようにしっかりと閉じられている。それをそっと開け放つと良く晴れた青空がさっと差し込んで、館の中の埃をあらわにした。年末の大掃除を今年は幾分早めてもいいかもしれない。
私は冬を間近に控え、秋の盛りより寂しくなってしまった花壇に向かった。案の定、門番は今この時ばかりは庭師に職を鞍替えしており、腰を屈めて土の手入れに余念がなかった。私は背後でそれをしばらく眺めた後、引き抜かれた雑草の山に手をやった。
「風見幽香が見たら怒るわね」
「ここに来ることはないでしょう」
いつも身にまとっているグリーンの旗袍ではなく、美鈴は地味なつなぎを着ていた。冬には肥料をたっぷり与えて、春の開花に備えるらしい。
「……わがままなものね。命を取捨できる権利が私たちにあるのかしら」
「珍しく殊勝なことで」
雑草を引き抜き、土を素手で掘り起こすという一連の作業を、一定のリズムで美鈴は続ける。正確なリズムが笑えるほどだった。大したものだと思った。
「あ、如雨露とってもらえます?」
私は時を止めると、足元の如雨露を美鈴の背中へと放った。時への制約をやめると同時に如雨露は彼女の顔面に迫ったが、雑草を引き抜いたついでといった感じで、美鈴はこともなげに取っ手を掴み取った。
「……つまらないわね」
「いやこれ結構ギリギリなんですけどね」
「よくいうわ」
フフン、と得意げな門番の顔を泣きっ面に変える方法と手段を、ざっと思い浮かべたけれど、どれもやる気には起きなかった。まるで子供のような真似だ。
畝の全ての手入れを終えた美鈴は、最後に渡した如雨露の水をさっとまいて作業を終えた。額に汗が浮かんでいるが、それよりも土の汚れの方が何倍も目立った。気にせず手の甲で乱暴に拭っていたのだろう。
「みっともないわね、本当。紅魔館に仕えるものとしてなってないわ」
私はポケットからハンカチを取り出すと、それで拭ってやった。
「うわ、なんか照れますねえ。あはは」
「まったく、いつまで経っても貴方は変わらないのね」
なぜこんなことを口走ってしまったのかわからない。人生を総括するような話しぶりも、やはり老いの弊害なのだろう、そして私はそれにすっかり甘えてしまっている。
「いや、変わりましたよ」
「そう? そうは見えないわ」
「咲夜さんが変わったのと同じくらい変わりましたし、変わってないのと同じくらい変わってませんて。同レベルですって」
「あら、生意気いうのね」
「私だってたまには言い返しますよ、へへん」
その言葉を言い終わらないうちに、私は時を止めて彼女のつなぎをひきずり下ろして如雨露の残りを顔面にぶちまけた。時を放してやる。心底情けない悲鳴がおこる。全くどうしてどうして、美鈴のいうこともあながち的外れではない。こうしたところばかり私も変わらないものだ。銀色から真っ白に髪の色が変わってしまっても性根はまだまだ幼い、美鈴がいうように、美鈴と同じように。
さあ仕事の続きをと思い、私は情けない声を背中で聞きながら館へ戻った。そうこうしているうちに日はだいぶ傾いてしまった。私は自分の食事を済ませてから、メイドの一人に人間の里まで買い物に向かわせ、別の者に埃の積もっていたロビーの拭き掃除を命じた。
使いに出したメイドが、切れかかった蝋燭と油を抱えて戻ってきた時、途中で落ちてきたという天狗の号外新聞も一緒に手にしていた。紙の中央に大きく書かれた『霧雨魔理沙電撃帰郷』という極太フォントの見出しの墨は、まだ乾ききっていなかった。
誤報ではあるまいが、信じられないという気もする。霧雨魔理沙が幻想郷を去って二十年は経った。私にとっては半ば過去の人間ともいえる。が、そう思ったのもつかの間、買い足された蝋燭を一つ一つ、紅魔館の長い廊下に備えつけて火を灯すたびに、私の中のアルバムも長い廊下と同様に暗がりから照らし出され、うっすら積もった埃は容易く舞い散っていった。
過去への廊下はなぜ紙切れ一枚に書かれた名前一つで、かくも鮮やかに掘り起こされるのだろう。幻想郷にやってきて以来最もかしましい、青春とも呼べた日々は、霧雨魔理沙を抜いては語ることができない。
私は古書から薫るクリームのような甘い匂い、すなわち過去の香りに惑いながら、足早にお嬢様方の寝室へと向かった。日はもう落ちる。お嬢様が目お目覚めになる時刻までもう間もない。
部屋の中央、ベッドの天蓋からはルージュのシルクが垂れ下がっており、二人分の人影が横たわっていたが、やおら片方の影が起き上がった。
「おはようございます」
「……フランはまだ寝かしておきなさい」
「かしこまりました」
寝台から椅子に腰を移されたお嬢様の後ろに従い、私はまずはいつものようにお世話を始めた。バラの香りをひたしたお湯で布巾を湿らせ、そっとレミリアお嬢様のお顔をふき、おぐしを整える。私がこの館を辞さない限り、この役目を誰かに譲るつもりはなかった。続いてクローゼットから今日のお召し物を選び袖を通していただく。
「久しぶりにメイド服を着てみない?」
お嬢様は着替を終えると、出し抜けにそうおっしゃった。私は笑って相手にせず、茶器を揃えた。美鈴が花とは別に茶を育てて数年になるが、ここ最近では最もよい出来だと胸を張っていた。確かに良い色つやだ。水で煮出してミルクを足した後も強く香る。
「貴方の忠誠心、最近翳りが出てるんじゃない?」
「あら、そうでしょうか?」
「昔の咲夜なら一もニもなく従っていたわ」
「年をとりましたもの。ご容赦くださいな」
私は苦笑いを押えきれないまま、紅茶を注いだ。ミルクを足してまた沸かしたロイヤルミルクティーは、鈍色の雲に隠れた夕焼けを思わせる。
「言い訳ばかり上手になって……その卑怯さも老いが悪いといいたげね」
お嬢様は寝起きの憂鬱さと、私への不満の両方をまるごと隠すことなく、口を尖らせたままカップに口をつけた。私はまた笑った。全く的を射た言葉には笑って誤魔化すほか手段がない。老いさらばえた老メイドは主人の小言にのらりくらりする手練手管ばかり長けてしまっている。
紅魔館には窓がほとんどないが、長い間住めばわずかな気配で外の明るさや天気がわかる。秋の暮れ、冬の訪れを思わせる晴れの夜に、今夜きっと星は騒ぐ。
「晴れますね」
機嫌を悪くされたのか、お返事はない。私は黙っておかわりを注いだ。夕暮れの甘い香り。お嬢様は黙って口に運ぶ。私は満たされる。良い茶をいれる。仕事のほとんどを他のメイドたちに割り振ってしまった今の私にとって、それが残された仕事のうち、最も重大なものといえるだろう。
「外に出るわよ」
不意に立ち上がられたお嬢様の後をカーディガンを手に追った。
今夜はやはり朝まで晴れと思われた。雲ひとつなく、星まで抜けた空は昼間に射し込んだ熱の一切を逃がしてすっかり冷えている。私は手にしたままのカーディガンを、黙ってお嬢様の肩にかけた。お嬢様は拒まれなかった。背に生えた羽が私の手にあわせてゆっくり畳まれていく。私は幸せである。
西の空に日の名残りが滲んでいるが、群青からなるグラデーションが空のほとんどを染め上げてしまっていた。バルコニーの欄干に灯ったカンテラがなければ、もう闇といってもよい。お嬢様は椅子に腰もおろさず、ただ立っていらっしゃるだけで、動かれない。カーディガンの裾と、白いフリルのスカートが時折風でたわんでは揺れる。
「永琳に聞いたわ。あまり良くないのね」
直截は美徳だ。私は笑った。お嬢様のカーディガンがなびく。私のまとっている黒地のロングスカートは重く揺れもしない。風があるようには思えないが、きっとどこかで吹いている。
「あら、お嬢様。そういうのをプライバシーの侵害というのですよ?」
「そう? メイドにプライバシーなんてない、というのが私の帝王学なのだけれど」
「あまり勘ぐりを入れられるというのも、威厳を損ねられますわ」
「時を止めたいわ」
お嬢様はやはり夜空を向いたままおっしゃった。ようよう、星も夜に目覚め始めていた。一際明るく輝く星は、私の想像の余地を全て塗りつぶしてしまうほど大きく、そして遠いと聞いたことがある。おとぎ話にも等しいそんな話を、どれほど前に誰から聞いたかほとんど忘れてしまったけれど、今このとき私には真実に思えた。
「時ですか」
「なんでもない」
「そうですか」
私は迷った末に、時を止めた。私だけが鼓動を刻む世界は、寒々しいが、同時に微笑ましくもある。動かない人というのは奇妙にか弱く、愛しい。私はしばらくじっとしたまま孤立し、やがて針を戻した。お嬢様は気づいておられない。こんな悪戯ともいえない戯れを、若い頃は何度もしていたことを不意に思い出して、私はむず痒さを覚えた。全ては老いのせいだ。
「そういえば、霧雨魔理沙が帰ってくるようです」
私はポケットから例の号外を取り出した。お嬢様は一瞥すると燃やしてしまった。
「懐かしいわね」
「二十年ほどですから、もうだいぶですね」
「きっとまた、ひどいどんちゃん騒ぎになるわね」
散り散りと夜に溶けていく灰を眺めながら、私は月を探したが、今夜は晦だ。星が主役の夜だった。
3.霧雨魔理沙
何一つヒントを逃すまいと、真剣な瞳で少女は私の手元を見つめてくる。
手元には四種のエースが明かされているが、私はそれを少女の確認をとって全て裏向ける。私は山札を何度も切り、さらに少女に切らせては何も細工がないことを印象付ける。一枚、二枚とめくっていき、少女にもめくらせ計八枚を明かした。よい塩梅に偏りのない、何の変哲もないカード群であった。「さていいかい。今から魔法をかけるよ」
「魔法?」
「そう。魔法だ。今二人で選んだ八枚のカードが犠牲になって、四枚のエースを変身させるんだ」
「出来っこない!」
「いい返事だ」
アブラカタブラ南無阿弥陀仏。私は唱えると、右手にした選び抜いた八枚を振り、空中に放り投げる仕草をした。すると八枚のカードは私の右手から放たれる前に虚空へと姿を消した。少なくとも、女の子にはそう見えただろう。
「どこ!」
「さあどこだろう。それより今大事なのはこのエースだ。さあ見てごらん。きっと変身してる」
「うそうそ!」
少女は瞳を輝かせてカードをめくった。一枚二枚、三枚四枚。少女の顔は落胆に歪んだ。
「変わってないじゃん! そのままだよ!」
「あれえ? おかしいねえ。ううん。そうだ、あれを忘れてた。あれだあれだ。あれを忘れてた」
「あれ?」
「おばちゃん、お嬢ちゃんの誕生日を聞くのを忘れてたよ。それが大事な大事なスパイスなのさ。さあ、何月何日で何歳になるのかな?」
「お、お母さん! お母さん!」
少女の母親は、迷惑をかけて申し訳ないと未だに思っているようで、困ったような笑顔と会釈を交互にしながら、ちゃんと覚えていなさいよ、と言い含めながら答えた。
「九月九日よ」
「九月九日!」小さな手を目一杯広げて女の子は笑う。「五歳になったの!」
「そうかい。いい日だ。菊の花に守られた日だよ。とっても良い日なんだよ」
再び四枚を選び、四枚を選ばせた。私はそれを念入りに拝む。
「さて、じゃあこれで条件はピッタリだね」 アブラカタブラ南無阿弥陀仏。唱えて、放り投げてはかき消す。これで犠牲は十六枚。
「さあ、カードをめくってご覧。ハイハイハイ! と勢い良くめくるんだ」
「ハイ! ハイ! ハイ! ハイ! わっ!」
エースであったはずの四枚のカードは、私から見て右からハートの九、クラブの九、スペードのクィーンを挟んで、ダイヤの五に様変わりしていた。
「九月九日、賢いクィーンになれますように。もう冬だけど、五歳の誕生日おめでとう」
目を見開いて驚き叫んだ。全く手品師には極上の客だった。
「すごい! ママ! たまげた!」
「君、たまげたとか変わった言葉使うねぇ。私ゃそれにたまげるよ」
「どうやったの!」
「魔法さ」この決め台詞はいつ言っても気持ちがいい。「私は魔女なのさ」
魔法だ、魔法だ、と大声を上げて飛び跳ねて喜ぶ女の子に、そのカードをは上げるよ、と追い打ちをかけたところ、もう無茶苦茶に飛び跳ねて車両の中を前から後ろへと走りまわった。
「これ、ちゃんとご挨拶して」
「いやあ、大したもんじゃあないからさ」
そのとき全く音沙汰のなかった車内アナウンスが流れた。曰く、一両編成単線ローカルなので滅多なことでは揺れもしないが、走れば危ないので五歳の女の子はご注意ください。途端母親は顔を真赤にして娘を抱きかかえたが、運転手も私も微笑ましい限りであった。
そのとき電車に緩やかな制動がかかり、駅についた。私も目の前の家族も降りない。バスの停留所を飾り付けた程度しかない田舎の駅だった。ホームにはたんまりと枯れ葉が積もっており、野晒しの看板は茶けて錆びている。扉が開いて閉まり、また走り出すまで、一連の流れを私たちは儀式めいたもののように静かに見やっていた。
せがまれて、私はトランプもまるごとくれてやった。女の子は喜んで、向かいの座席に並べ始める。叱ろうとした母親を、まあまあといって私は宥めてやった。
「やんちゃで、もうほんとに」
「元気一番」
「でもすいません、子供に付き合っていただいて」
「いやいや、頼まれたらNOと言えないタチでね」
「おばあさん、昔はマジシャンか何かやってらっしゃったんですか?」
「何をおっしゃる。私は今でも、現役バリバリの魔法使いだぜ」
二の腕をパシンとやる。私は自分の言葉に妙な気分になり、三角帽を深くかぶり直した。そうさ、人間死ぬまで現役なのだ。
「ご旅行ですか?」
「の、帰りだね。里帰りなんだ」
「あら、てっきり外国の方かと」
「ああ。まあ、自毛なんだけどね」
日本の土地に海外からの移住者が増えてだいぶ経つが、それでも金の髪を見れば私でさえも異国の者と思ってしまう。シワは増えても髪の色艶だけ若い頃のままなのは私の隠さない自慢だ。
「どこに行かれて?」
「世界中まわって来たんだよ。死ぬ前に見ておこうと思って、だから帰るのは二十年ぶりかなあ? 日本はたくさん変わったけど、この辺りは変わらんね」
窓の外で夕暮れを迎えつつある田舎風景を眺めた。収穫を終えた寂しい田畑、山裾は冬も近く紅葉も全て枯れ落ちている。それでも鬱蒼とした森、高くも低くもない山の連なりが前から後ろへ流れていく様は温かい。
「お荷物もなしで?」
「いやこれがまたたくさんあってね。荷車に積んでいま電車の屋根の上に置かせてもらってんのさ」
母親は私の話を半分に聞こうと決めたらしく、そうですか、と笑って頷いている。次いで私が貴方たちはなぜ? と水を向けると、自分たちは実家に戻るために、と彼女は呟いては少し寂しそうな顔をした。誰にだって物語はある。特殊な力も特別な運命も必要ない、誰にだって物語はあるのだ。
私は母親にもついでの魔法を見せてあげることにした。
「帽子に?」
「ああ、ほら、手を突っ込んでみな。そして唱えるのさ。アブラカタブラ」
素直に騙される気になったのは、ワクワクした目でこちらをみている娘のせいだろう。彼女は何だか悔しそうに私の言葉に従って、帽子のフリルの中に手を入れた。おっ、とした顔の後で引き抜かれた手には、たくさんの飴が握られていた。
「どうやら甘い魔法がかかったようだ」
「また魔法……おばあちゃんすごい、本物の魔女だ」
子どもがはしゃぐ。母親は手の中をしばらくじっと見つめた後、やはり笑顔で私に感謝を述べた。これ以上できることは何もない。私は帽子をかぶり直した。
やがて終着駅が近づいてきた。ガタガタ揺れる早過ぎる時刻の最終電車は、のろのろとホームに収まった。山が近いから日暮れも早い。電車を降りると同時に、頼りない街灯が灯った。その中で母娘は元気に手を振って、駅から集落の方へと歩いていった。山に囲まれた村はいずれ雪に覆われるのだろうか、すっかり冷え始める山の空気にも優しがあることを祈った。
私は駅員に見つからないうちに荷物を取り戻した。大きな荷車だ。舗装されていない道をしばらく引いて歩かなければならない。夜は一層暮れ始める。出ていくのが満月の晩であるのなら、戻る日は月籠もりの晦日に決まっている。やがてとうとう山道の視界がふさったが、もう私の目には行き着く先が留まっていた。草木におおわれ、誰からも顧みられることのない廃れた鳥居が見えてきた。鳥居は長い参道の頂上で、暗闇に呑まれまいと星の光を飲み込んで朱色に照っていた。
「ほんと久しぶりだ」
秋の虫と、冬の鳥が鳴いている。境界はすぐそこ、目を凝らせば幽界に在る者も見えるかもしれない。
待ち合わせの時間までまだ少しある。私は荷車から箒を引き抜くといそいそと腰を下ろした。「この世界」では魔法や呪い、そういった力を自由に扱うことは許されない。それは幻想郷を出る際にさんざっぱら言い渡されていたし、実際に外に出たあとでも痛感した。とはいえ鍛えなければ衰えるのも当然、とにかく苦労したのが人目につかないように力を使うことだった。
私は時間を留めたり特殊な空間を形成したりといった力の使い方が出来ない。だから時に人里離れた山や森で気兼ねなく能力を使うときも、とりあえずぶっ放すだけではあったけど。
ふわりと浮かんでから、速度を得るまでゆっくりと地を這うように木の周りを飛んだ。そしてやおら舞い上がる。高度を得ると、夕暮れは再び地平線から引きずり出され、輝きを復活させる。帽子が飛んでいかないように片手で抑えながら、私は鴉の群れを追跡し、雲を食べた。地には星屑のような家の明かりがあり、その一つで五歳の女の子が魔法の真似事を試みていることを想像して愉快になる。明星も既に立った。天上天下で星が瞬き始めるこの瞬間、浴びる光を一人独占する私は今きっと世界で誰よりも自由なのだということを噛み締める。
約束の時間だった。私は箒を静かに下ろし、地に立った。どうも、既にそこに居るようである。挨拶もなく、そいつは私も見ずに言った。
「約束は覚えている?」
「ああ」私はまっすぐ目を見ていった。「だからここにいるのさ」
帰還の時だったが、私は後ろ髪引かれる思いをどうしても覚えてしまった。目をつむった。人生の里程標はどうにも印象深く打ち込まれていて、ちょっと気を向けるとまざまざと蘇る。幸せかどうかなんて知ったこっちゃあないが、少なくとも悔いなく生きてこられた誉れはあった。その誉れさえあれば、私は前に進むことができる。
おさらいを終えた私の手を、八雲紫は弱々しく握りしめた。
つづく
ここで書くのはどうかと思いますけど、ゼノギアスSSもとても良かったです。
続き、期待しています。
あと、魔理沙は渡さない。
どうしてくれる!
感謝してくれる!
ありがとうございます。
妻も喜んでおります。
続きがむばります。
続きを期待しています。
あらためましてどうもです。期待という名の壁がハイヤー。いやもう続きを頑張らざるをえない。
>15さん
読みやすくてよかった。ほんとネックだったんで。エゴ丸出しなんで。
続き頑張ります。
全く、元気な人間どもだよ。