ちゅんちゅん、という雀の声を聞きながら、太陽の光を浴びて目を覚ます――なんてことはない。
夥しい量の血の池の中心で、阿鼻叫喚を聞きながら目覚める――なんてこともない。
ごく普通に、ジリリと鳴る目覚まし時計で強制的に意識を覚醒させる。いつもの朝だった。
「んぅ……」
水橋パルスィは布団の中から、にゅ、と腕だけを出し、頭上で甲高い音を出すうるさいモノをたしたしと探る。こういうときは、なかなか見つけられないものだ。
「んるさいぃ……」
朝に強い全ての者を妬みながら、やっとのことで時計を止める。低血圧はつらい。
「……起きなきゃ」
そう言ってパルスィは、もそもそと布団から這い出た。
顔を洗い、着替えをして、簡単な朝食を済ませる。
それが終わると、あとは何ということはない。日がな、地上と地底を結ぶ縦穴で、通行人を見守ったり、道案内したりするだけだ。
いつもと変わらぬ日常。そんな一日を、期待するでもなく、悲観するでもなく、ただ当たり前のように受け入れ、過ごそうと思っていた。
パルスィが、そろそろ家を出ようかと思った矢先、玄関から、ドンドン、と強い音が聞こえてきた。
「誰かしら……?」
パルスィは眉をひそめた。
こんな朝早くから、誰かと会う約束をした覚えはない。
パルスィは、十分に警戒しながら扉を開ける。
瞬間、パルスィの頭一つ分以上はある巨体が倒れこんできた。
「きゃっ!?」
「うぅ~……」
どすん、と鈍い音が響く。
「ぐぇ」
小柄なパルスィが、それを支えられるはずもなく、一緒に後方に倒れ、下敷きにされてしまった。姫に有るまじき下品な悲鳴が口から漏れる。
「うぅぅ……」
パルスィを押し倒した巨躯、星熊勇儀は顔を青くし、呻いている。
「んー! んー!」
押し倒されたパルスィは、勇儀の双丘に顔を圧迫され、息ができずに、もがいていた。
「いきなりなんなのよ!」
勇儀を居間へ運び込んだパルスィは、青い顔をしている勇儀に詰め寄った。その怒声には、敵わない存在(ゆうちゃんマウンテン×2)に対する敗北感による怒りも含まれていた。
「あうぅ……大きい声を出さないでくれ。頭に響くんだ……」
はあ、と溜め息を吐くパルスィ。このまま怒っていても話は進まない。そう思ったパルスィは、一先ず、怒りは抑えることにした。
「全く……。ちょっと待ってなさい」
そう言ってパルスィは台所へ向かった。
数分後、パルスィは湯のみを持って戻ってきた。
「はい、濃い目に入れた緑茶よ。少しはよくなるでしょ」
「うぅ……ありがとう。――はぁ、おいしい」
勇儀は両手で湯のみを持ち、お茶を啜った。
今日の勇儀は今まで見たこともないくらい弱々しい。パルスィは勇儀がここまで弱った経緯が気になってきた。
「それで?」
「ん?」
「どうしてそんなになっちゃったのよ。あなた二日酔いになんて滅多にならないでしょう」
びく、と肩を振るわせる勇儀。
しばらく悩んでいた勇儀だったが、やがて、きまりが悪そうに話し始めた。
「いや実は…………昨日は地上の宴会に参加したのさ。――萃香に誘われてね」
「私、誘われてない」
軽いジャブ。
う、と言葉を詰まらせる勇儀。これくらいの仕返しは許されるだろう。
「ご、ごめんよ。大人数の宴会は好きじゃないと思って誘わなかったんだ」
「ふーん、そう」
「……怒ってる?」
いつもは飽くまでも先頭に立って、皆をぐいぐい引っ張っていくタイプの勇儀が、両手で湯のみを持ちながら上目遣いに質問してくる。
二本の棒を持った鼠や、写真機を持った鴉が寄ってきそうなほど、非常に貴重な、珍しい出来事だった。
すっかり満足したパルスィは、からかうのを止めることにした。
「ふふ、怒ってないわよ。冗談冗談。それで?」
「うん……そこで、なんだかちっちゃい悪魔が持参した洋酒を飲んだのさ。……じゃ、じゃ、じゃっくばうあー? なんかそんな名前の。いや、それが私にはちょっと甘すぎてさ。体に合わなかったみたいなんだよ」
「力の勇儀にも飲めないお酒があったのね」
「って言われるのが嫌だったからさ、全部飲み干した」
「馬鹿じゃないの?」
「はい……」
しゅん、とうなだれる勇儀。いつもは見せない女らしさを見せる勇儀に、パルスィは思わず笑ってしまいそうになっ
た。
「全部って、どれくらい?」
勇儀はバツが悪そうに、三本の指を立てた。
「三本も? そりゃ二日酔いにもなるわよ」
「いや、三十本……」
流石、鬼だ。人間だったら死んでいる――なんて見直す気にはなれなかった。
素直な気持ちを、素直に口に出す。
「馬ッッッッ鹿じゃないの?」
「ごめんなさい……」
再度、勇儀はうなだれた。
自分でも度が過ぎていることはわかっているらしい。
「はあ……。で、そんなフラフラの状態で、なんでうちに来たのよ? 真っ直ぐ帰って寝ればいいじゃない」
「お腹空いた。ご飯作って」
「……はあ?」
「お腹空いたんだよー。でも自分では何もする気が起きない。というか、できない。頭痛い。気持ち悪い。なんか、あっさりしたもの、お願いします」
なんて図々しい鬼だろう。弱って猶、押しの強さは健在か。
しかし、これはチャンスかもしれない。この短いやりとりの中だけでも、何度も貴重なシーンを見ることができた。
この調子でいけば、まだまだ楽しめるかもしれない。
パルスィは、そう思った。
「しょうがないわね。ちょっと待ってなさい。今、作ってくるから」
「ありがとパルスィ~」
「抱きつくな!」
しがみつく勇儀を引き剥がし、パルスィは台所へ向かった。
「とは言え……」
パルスィは悩んでいた。
「二日酔いに効く食べ物って、なんだろう。私あんまりお酒飲まないから、わからない……」
若干、邪な考えから請け負った事だが、弱っている者を助けようという心くらいパルスィにもある。
しかし、その献立に悩んでいたのだ。
「うーん……」
しばらく悩んだ結果――
「ま、いっか。普通で」
――普通でいいらしかった。
「はい、おまたせ」
コトコト、とちゃぶ台に作った料理を置く。
勇儀の顔が、きらきらと輝いた。
「おお……シンプルでいいじゃないか。こういうのでいいんだよ。こういうので」
勇儀の前に並べられた品目は、お茶漬け、きゅうりの漬物、大根と手羽中の煮付け、の三品目。
シンプルだが、弱っている胃に優しく入っていきそうな献立であった。
「では、さっそく――」
パルスィは、箸を持つ勇儀の手を、ぱし、と払った。
「った。何するんだい」
「両手を合わせて、いただきます」
「むう」
それは迂闊だった、と言うように、勇儀は素直に箸を置き、両手を合わせる。
「いただきます」
さあ、食べるぞー、と勇儀は再び箸を持つ。
しかし、またもやパルスィは勇儀を制止する。
「駄目よ。その前に手を洗ってきなさい」
「それ先に言ってくれてもよかったじゃんか!」
だーっ、と駆けていく勇儀。気持ちが悪いのではなかったのだろうか。
半ば、ヤケになったような、激しい水の音が聞こえてくる。
行きと同じ勢いで戻ってきた勇儀は、席に着くなり、パルスィに詰め寄る。
「なあ、もういいだろ? お腹空いたよ」
「うーん、どうしよっかしら」
「パルスィ~……」
くしゃ、と顔を崩す勇儀。そろそろ本気で泣きが入りそうだった。
お預けを食らっている犬のような勇儀を堪能したパルスィは、ようやく『よし』を出すことにした。
「わかったわかった。もういいわよ。おあがりなさい」
勇儀の顔が、子供のように、ぱあ、と明るくなった。
「やった! いただきます!」
勇儀は慌てるように箸を持った。
まず、乱切りにされた、きゅうりの漬物に箸を伸ばす。箸の先から、ずしり、ときゅうりの重みが伝わってくる。口に入れる前から、その噛み応え、食べ応えを容易に想像することができた。
ひょい、とそれを口に放り込む。瞬間、さぁっと口の中に広がる塩の味、そしてそれを手助けする味の素が、ごま油の風味と上手く一体化して、噛む前から味覚を、嗅覚を刺激してくる。
噛むことは本能だ。物心がつく前の赤ん坊ですら、それをする。
本能に逆らわず、口の中の緑の宝石を咀嚼する。シャキシャキ、という言葉でしか、この清涼感を表現できない自分の語彙の無さを恨めしく思う。角の先にまで脳みそが詰まっていればよかったのに、と本気で思った。
本能を呼び覚ました塩の味は、自分の役目は終わったとばかりに、さっと姿を消したが、代わりに、きゅうりの瑞々しい味わいが舌を潤す。
そして鷹の爪が、ぴり、と小憎い演出で最後を締めくくった。
美味い――
二日酔いの体が、その清涼感を際限なく欲する。ポリポリ、シャリシャリと、いつまでもその音を口の中で響かせていたかった。
しかし、温かい内に他の料理にも手を出さなくては、パルスィに失礼になる。
輪切りにされた大根をイチョウ型になるよう箸を通す。箸は驚くほど軽く大根を通っていった。今にも形が崩れそうな大根を、そっと口に運ぶ。よほどじっくりと煮込まれたのだろう。大根は口に入れた瞬間に、ほろりと崩れ、口いっぱいに醤油の味と砂糖の甘みが広がった。あっという間に喉を通っていった大根だが、その余韻が、じわり、といつまでも口に残っている。辛口の酒か、白いご飯が欲しくなる一品だ。
手羽中も忘れてはいけない。人差し指ほどの長さのそれを、骨ごと口に入れる。大して力を入れることもなく、つるっ、と身が骨から剥がれた。つゆがたっぷり染み込んだ鶏を舌で、頬で、歯で味わう。鶏は煮込みすぎると油が流れて硬くなるのだが、この鶏は、しっかりと味も付いていて、鶏本来のぷりぷり感も残している。パルスィの実力が伺える代物だった。
――ふと、お茶漬けに呼ばれたような気がした。いや、味の濃い二品目を食べた口が、胃が、自分からそれを求めたのだろう。湯気の立つお茶漬けが、何よりも神々しく見えた。
茶碗を持ち、豪快にそれを掻き込む。ほぐした焼き鮭と塩漬けにされた昆布が、渋めに淹れられたお茶と上手い具合に絡み合う。お互いがお互いを引き立てあい、渋さ、しょっぱさを和らげる。これは、いくらでも食べられる美味さだ。
とりあえず全種類の料理を食べてみたが、どれもこれも、たまらなく美味しい。料理は、まだ残っている。このご馳走をまだ味わうことができる。それが何よりも嬉しい。
緩む頬を引き締めることなんて、できるはずもなく、再び食事に取り組んだ。
(幸せそうな顔しちゃって)
パルスィは、ちゃぶ台に肘を、手にあごを乗せて、ぼー、と勇儀の食事風景を眺めていた。
「ねえ、おいしい?」
「うん! めっちゃ美味い!」
「そう。昨日の残り物よ、その煮付け」
「でも美味い!」
「そう。よかったわね」
「うん!」
底抜けに明るい笑顔で、勇儀は答えた。
パルスィには、それは眩しすぎた。
(ああ。なんて――)
胸の中で、ある感情が、ぐるぐると渦を巻いて膨れ上がる。
――妬ましい。
ふと、パルスィは勇儀の口元に付いている米粒を見つける。
「ほら、口に付いてるわよ」
「ん? どこどこ?」
「そっちじゃないわよ。こっちよこっち。……ああもう」
す、と腕を伸ばし、指で米粒を取り、勇儀の口に押し込む。
「んぷ……あぐ」
「はい、きれいきれい」
「子供じゃないってば」
「口にごはんつぶ付けた大人なんていません」
「むう……」
大きい子供を相手にしているみたいだ。パルスィは、そう思った。
くす、と笑いが漏れる。
――ああ楽しい。ああ妬ましい。
「いや、でも本当――」
「ん?」
「ありがとう。パルスィ」
にか、と屈託のない、満面の笑みで、そんなことを言われる。
――その笑顔が妬ましい。
「……別に、ご飯食べさせろって言われたから、食べさせただけよ」
「うん。だから、ありがとう。すごくおいしかったよ」
――その真っ直ぐな瞳が妬ましい。
「……そういうことは、ちゃんと、ごちそうさまをしてから言うのよ」
「それもそうだね。ごめんごめん」
――素直なあなたが妬ましい。
「おかげで気分もだいぶ良くなったよ」
「そう。それは良かったわね」
――いつも元気なあなたが妬ましい。
「あと……昨日はごめんよ」
「何が?」
「良かれと思って、敢えて誘わなかったんだけど……」
「ああ、そのこと。いいわよ、別に。私がいない方が盛り上がるだろうし」
「そ、そんなことない!」
――単純なあなたが妬ましい。
「地上のやつらも、みんないいやつばかりだった。パルスィもすぐに仲良くなれる」
――人を疑わないあなたが妬ましい。
「だから……次は一緒に行こう」
――そんなことを恥ずかし気もなく言えるあなたが妬ましい。
あなたの全てが妬ましい。
妬ましい妬ましい妬ましい妬ましい妬ましい妬ましい妬ましい妬ましい妬ましい妬ましい。
ああああああああああああ妬ましい。
(あなたなんか――)
勇儀を見ると、いつも想うことがある。
本日も例に漏れず、言葉にはせずに、心の中で、そっと呟いた。
(――幸せになっちゃえばいいのよ)
地殻の下の嫉妬心は、今日も健やかに、誰かを妬んでいた。
終わり
幸せになっちゃえばいいのよ、で死にました。
いや、そうじゃなくて。勇儀姐さんを飼いならすパルスィはいいですな。
ヘタレな勇儀姐さんを尻に敷くパルスィのほうがしっくりする気がします。
とりあえず言えることは「今食いながら読んでてよかった。」
河童になりたい…
そんなパラドクスに嫉妬。
っていうのを思い出しました。
それにしても葉月さん久々では?
しかしパル勇というにはまだパルスィの押しが足りない気がする
というわけでさぁ早く続きを書く作業に(ry
そして勇儀可愛い。
お茶碗持って伺ったは良いけど二妖に中てられて胡瓜だけ持って帰りたくなる様なお話でこざいました。
味の素が見当たらないと思ったら……
食事を、実に美味しそうに描写されていました。
二人の関係も、実に良い感じでしたし。
微笑ましかったです。
>1
パルデレというジャンルが確立しればいいと思います。
>ぺ・四潤さん
しっくりきますよね!
いやぁ、同士がいてよかったです。
>6
私は河童になりたい
映画化しそうですね。
とりあえず、かみそりで頭をじょりじょりと……
>13
何よりのほめ言葉です。うふっふー。
>15
実はそんなに難しいことではありません。
書いてみたら、意外にすんなり書けると思いますよ?
>16
この二人は、この二人である限り、幸せなんだろうなーと思います。
>玖爾さん
半月ぶりくらいですかね?
これでも自分の中では結構早い方だったりします。
自分の遅筆を嘆くばかりです。早く書ける作家になりたいですねー。
>冬。さん
ありがとうございましたー。
しかし段々と表現が似たり寄ったりになってきたので、新しい表現を学ばないとなあと思っております。
>20
もうちょっとSっ気があってもよかったですね。
またこの二人で何か書きたいとは思ってます。
>21
でしょう? 何せ私の嫁ですから。
>22
そして勇儀を何とか倒しても、その次に私がいることを忘れちゃいけない。
>23
お茶漬け簡単ですよ!
さらさらーっとどうぞ。
>24
こんな時間に食べたら太りますよ。
さあどうします?(S
>29
味の素とかですかね。
突っ込めるところはどんどん突っ込んでくれるとありがたいです。
>奇声を発する程度の能力さん
でしょう? 何せ私の嫁ですから。
あれ、さっきも同じこと言ったような気が……。
>36
炊事だけではなく、もっと色んな家事をさせてみたいです。
きっと似合う……。
>40
いやーそう言ってもらえると感無量です。
>41
なんとかこの輪に入れないか……そう考えちゃいますよね。
>万葉さん
むしろ、もう幸せになっているのかもしれませんね。
>夜イ加景さん
ありがとうございましたー。
これからも、料理や内面の描写などは磨いていきたいと思います!
>56
そう言ってくれる読者さんには、是非作中の料理を試して頂きたいと思っております。
おいしいですよー。
頬がゆるみます。羽が生えます。もう少しで天使になれそうです(?)
もったいないお言葉!
PNSさんが大天使になれるよう、これからも努力していきたいと思います!
お粗末さまでしたー。
もっと描写を磨いて、おなかを破裂させるくらいの文章を書きたいと思います(怖い
二人の仲を邪魔してはいけません。
私も我慢しましょう……。
>masasさん
明朗快活な勇儀と、二つの感情を併せ持つ複雑なパルスィ。
本当に相性がいいですよね。
キュウリには色んな味付けがありますね。新しく何か探してみるのも面白いかも。
お腹がすいた一方でパルスィの愛でお腹いっぱいです。
ありがとうございます!
もっと磨いていきたいですねー。