十六夜 咲夜が小さな子供だった頃、彼女の母親はことあるごとに彼女にキスをしてくれた。
咲夜が朝起きればおはようのキスを、眠る前にはおやすみのキスを、何かに成功した時も、失敗して落ち込んでいる時も、いつもいつも優しくそうしてくれた。
おでこに、頬に、優しく、触れるように、時にはくすぐったくなるほど長く、万年不機嫌な魔女と違ってそんなもの使えないくせに、魔法をかけるようにしてくれた。
そんなにたくさんキスをしてくれたのは、彼女の母親にしてみれば、それだけが何よりも深い愛情を伝える手段だと勘違いしている節もあったかもしれない。
とにかく我が子へ愛を伝えるために、その少し間の抜けた母親は必死にたくさんキスをして、そして咲夜もそれを何よりも自然なことだと思いながら受け止めて成長した。
流石にそれを恥ずかしく思う分別が付き始めた頃には、少し惜しがりながらも頬を染めて咲夜はそれを断るようになり、彼女の母親は寂しがりながらも回数を少なくしていって、いつかはしなくなってしまった。
それでも、それは結果として、咲夜の人格形成の過程で、その記憶の奥底に、キスとは親しい人間との何よりも自然な、挨拶のような行動であるという風に、はっきりと根付かせることとなった。
紅魔館のメイド長、十六夜 咲夜少女は朝が弱かった。
低血圧だとかそういうわけではなかったが、彼女はとにかく寝起きがよろしくなかった。
小さい頃からそうだった、子供の彼女は幸せなお寝坊さんで、母親は呆れて、よくそのおでこをピンと弾いて起してくれたものだ。
それから随分と成長した今となっては、彼女もいつまでも寝ぼすけでいられなくなり、どうにかこうにか努力してちゃんと自分で起きるようになった。
しかし、彼女には時間を自由に操れる能力があるはずなので、時間を止めて好きなだけ眠っていればいいはずなのだが、何故だか彼女はそうすることを嫌がっていた。
別にリスクがあるのだとか、何かそう出来ない能力に関わる理由があるわけではない、単にプライドの問題であった。
時間を操れるからといって、それにかまけて怠惰に過ごすことを自分に許さない強烈なプライドというのが、鬼のメイド長の中には確固たるものとして存在していたのだ。
故に彼女は、起きるべき時間にはきっちりと起きる。意地でも起きるのだ、たとえそれが少々の犠牲を払うことになったとしても――。
そして十六夜 咲夜のその日の朝も始まった。
彼女は綺麗な銀の髪を揺らしながら上半身をむくっと起こすと、普段の瀟洒さと比べてみたら誰にも見せられないような大あくびをまず一つ放った。
視界はぼやけている、頭も全然はっきりしない。自分が何をすべきかもまったくはっきりはしないが、とにかくいつも行動しているように、それを染みつけた体に任せればいい。
まるで夢遊病者だが、彼女の起床に払う犠牲はまさしくそれで、とにかく起きて数分は強烈な寝ぼけ状態のまま行動しなくてはいけなかった。
とにかく頭は上手く動かずとも体は動く、ベッドから降りようと手に力を入れる。
そこで、ふと、咲夜は己の隣を見た。そこは確かに自分のベッドで、確かに自分一人しか寝ていないはずなのに、確かに今自分の隣に、知らない誰かが眠っていた。
ふわふわとした長い金髪の少女が、自分の隣で幸せそうな寝息を立てている。
咲夜の顔が一瞬で疑惑に歪んだ。眉根がより、目が細まり、そして彼女は考える。
……何で魔理沙が自分の隣で寝ているんだろう。
そう、それは霧雨 魔理沙だ。彼女の悪友だ。それが何で、自分のベッドで、自分の隣で今眠っている。
普通なら大慌てするような事態だが、尋常でないほどに重く寝ぼけている咲夜の頭は大樹のようにどっしりと動じなかった。
寝ているならそれはそれとして置いておいて、とにかくベッドから降りながら静かに咲夜は事情を思い出そうとする。
床に降りたち、また欠伸をし、寝巻をのろのろ脱ぎながら思い返す。
そうだ、確かそれは昨日の深夜のことだった。霧雨 魔理沙は突如咲夜の部屋の扉を叩き、図書館で本を読んでたらこんな時間になっていたので、どっか寝床を貸して欲しいと言ってきたのだ。
珍しく深夜勤務を外れて早寝の体勢に入っていた咲夜は、安眠を妨害されたことによって、図書館の魔女に勝るとも劣らぬ睨みつけるような不機嫌な顔のままそれに応対することとなった。
そんな完全に目の据わった寝巻姿の咲夜を見て若干ビビり入った魔理沙だが、それを咲夜はむんずと捕まえて、空いてる部屋に案内するのは面倒だから自分の隣で寝かせたのだった。
……確か、そんな感じだった気がする。
おぼろげながらも事情を思い出せて、咲夜は未だ半分寝ぼけたまま安堵した。まさか勝手に自分の布団に潜り込んできていたなんてことだったら、とりあえず色々な責任を取らせなければいけないところだった。
そうこう考えながら行動している内に、咲夜はいつものメイド服に袖を通す辺りまで支度を終えていたが、丁度その時、
「んん……」
ベッドの上の魔理沙が身動ぎしたかと思うと、ゆっくり目を開いてから、むくっと上半身だけ起き上がった。
さっきの誰かをなぞるように彼女も大あくびを一つ。そして寝ぐせで爆発したような金髪をばさばさと首と一緒に振ると、ぼんやりした顔で、同じくらいぼんやりしたような顔の、靴下をはき終えた咲夜を見た。
「……おはよ」
少しガラガラとしゃがれたような声でまずそう言った魔理沙に、咲夜は吹き出した。
軽く笑って、何となくその魔理沙の寝起きの姿に愛らしさを覚えながら、咲夜は自分も寝ぼけたままゆっくりと魔理沙に近付いていく。
何度も言うようだが、咲夜は寝ぼけていた。本当に寝ぼけているので、彼女はまさしく今自分の本能だけで行動しているようなものだった。
だから彼女のそれは、その目の前の愛らしい少女に対する、最も適した行動を積み重ねて来た記憶の底から引っ張り出して選択することとなった。
つまり、
「ええ、おはよう、魔理沙」
そう言って、咲夜はぼーっとしたような魔理沙の額に優しく口づけた。
昔々、彼女の母親がそうしてくれたように。目の前の友への愛情をこめて、触れるようなそれを。
「――っ!?」
おでこに何か柔らかいものが触れる感触を覚えた魔理沙は、そこから電流でも流されたようにびくんと一度はねた。
はねて、それから何も考えられずに全く動けないままに、ほんの一瞬ほどの時間が過ぎて咲夜が離れていた。
「……!?」
完全に寝ぼけた、というよりは呆けた顔のまま前方を見やるしかない魔理沙の目の前で、咲夜はまったく普段通りの調子で、目をしぱしぱさせながら自分の姿を最後に鏡に映して確認している。
「朝ごはん、食べてくの?」
そうしながら、いきなりそう問いかけて来た咲夜に、魔理沙はまたビクッとしつつ、
「あ、ああ、いただこうかな」
「そ、なら、もうちょっとそこでゆっくりしてていいわよ」
そう言って咲夜は出口へと歩いて行く。扉を開けて、振り返りながら、
「少ししたら早朝の仕事終わらせて戻ってくるから、それから二人で食べましょ」
片目をぱちんと閉じる合図と笑顔を残して、扉が閉められた。
「……」
それをぼんやり見送った後、とりあえず魔理沙は溜息を吐きながら後ろに倒れた。
「いやぁ、あれはコンマの五秒で目が覚めた」
横に座って頷きながらしみじみそう呟く魔理沙に、腕で枕を作りながら寝転がってそれを聞く紅毛の女こと紅 美鈴は欠伸を一つ返す。
「そうかい、そうかい、そりゃ良かったじゃないの」
むにゃむにゃとそう言いながら、美鈴は抜けるような昼下がりの青い空をぼーっと眺める。気持ちいい、今いる場所、門壁の上はやはり最高だ。
「よかないぜー、いや、よかないよ、本当にさぁ」
そんな美鈴の態度に溜息をついて、魔理沙は胡坐をかいた足の膝をとんとんと神経質に指で叩きながら、今一度横の美鈴に問いかける。
「なあ、どういうつもりだと思う? どういうあれなんだ、あの……あれは」
問われて、美鈴は視線を流してその少し頬を染めた魔理沙を見やり、それからうーんと考えるような仕草をしてから、
「さあね、さっぱりわからん」
とぼけるわけでもなく、割かし真剣な声でそう返した。
「そうか……」
それを聞いて、何となく力の入っていない声で呟き、魔理沙はまたぼんやりと今朝のことを思い出して、
「うわぁぁー!」
顔に熱を溜めて、ふわふわの金髪を両手でぐしゃぐしゃとかいて悶える。
……わからん、咲夜の気持ちがまったくわからん。一体あいつは何を思ってあんなことを……。
そんな悩める魔理沙の様子を眺めながら、美鈴は、
……かわいい奴だなぁ。
そう思って、くすっと笑いながら問いかける。
「なあ、魔理沙」
「うん?」
振り向く魔理沙に、唇を尖らせてみせて、
「私もしてやろうか?」
「――っ!!」
言われた魔理沙は何も返さず、ふんと鼻を鳴らしながらそっぽを向いた。
一方、今では完全に目が覚めた咲夜も、
「うーん……」
悩んでいた。これ以上ないくらいに悩んでいた。
地下図書館、魔女に呼びつけられたお茶の準備をてきぱきと行いながらも、顔全体は目をつぶって眉根を寄せて、苦悶するように考え込んでいる。
「咲夜さん……顔、怖いのだけど」
そんな様子を、本を読みながら横目に見ていた長い紫髪の魔女ことパチュリー・ノーレッジが若干呆れながら指摘する。
「そうですか? 私はいつもこんな顔ですよ」
「あら、そうだった? そう言われてみればそうだったような気がしてきたわ、特に私の前では」
「ええ、特にパチュリー様の前では」
相も変わらず苦い顔で考え込んだままそう言う咲夜に、パチュリーはうんうんと頷きながら。
……そう言えば、この子は昔からいっつも私の前では苦い顔をしていたわ……。
懐かしそうに顔をほころばせて、時には自分を見るなり時間を止めて逃げ出そうとしていた頃の咲夜を思い出すパチュリー。
そんなパチュリーに冷たい視線を向けながら、咲夜もいまだ考え続ける。その内容はといえば、
……何であんなことしちゃったのかしら。
今や完全に覚醒した咲夜の頭は、寝ぼけながらやらかしてしまった朝の行動を完璧に記憶しており、そして果たして何故そんなことをしてしまった自分の精神状態というものを悶々と考え続けることとなっていた。
考える。自分は寝ぼけていた、そう、寝ぼけていたのだ。でも、それでも、だからってあんなことを普通するだろうか。
寝起きの魔理沙が何やらかわいいと思ったからって、あんな。
……キ……キ……。
駄目だ、その単語を考えるだけでも床を転げ回りたくなる。
「はぁー……」
「あら、何の溜息? しかも人の目の前で思いっきり」
「いえ、別に……気にしないでください、いつもみたいに」
「遠回しにいつも私が無神経であるかのように言っていないかしら?」
「気のせいですわ」
「そう、それはよかった」
相変わらず氷点下の視線を向けながら瀟洒に笑う咲夜に、パチュリーも負けじとどろんとした目で笑顔を送る。
そして、しばらくそんな笑顔の応酬を続けているところへ、
「ぱ、パチュリー様ぁ……」
弱々しく掠れた声を発しながら、謎の棒きれに全体重を預けるようにしてよろよろと歩いて、濁った赤い髪の司書こと小悪魔が二人のところへ現れた。
「頼まれていた、魔導書区画三十の二の四番、整理作業終了、いたしましたぁ……」
ぜひぜひと、机に座る主の目の前までやって来て、疲れ果てた様子で報告する。
「そう、御苦労」
「ええ、まさしく……三日間不眠不休で頑張りました……というか、扱ってるブツのやばさ的にそうせざるを得ませんでした……三回くらい死にかけましたよ」
ふふふ、と、目の下を真っ黒く隈で染めて笑う小悪魔に、咲夜が若干引きながらも心配そうな声をかける。
「それは……御苦労でしたわね。お茶でも一杯いかがですか?」
「ああ、ありがとうございます。いえいえ、確かに苦労でしたが、我が主の為ですから」
咲夜の申し出に頭を下げて応えつつ、顔を上げてそう言い放ち、小悪魔は主に熱い視線を送る。
それを受けて主は、常と変わらぬ不機嫌そうな顔つきで、
「小悪魔、愛が重いわ」
「きゃあ、ずたぼろの体にこの仕打ち。素敵ですね、報われますね」
掠れた声で笑いながら、小悪魔は主へぐっと親指を立てる。最早咲夜には理解できない境地だったが、とりあえず小悪魔用のお茶を入れ始めようとしたところで、
「けれどまあ、本当に御苦労よ小悪魔。ご褒美にキスしてあげる」
魔女が突然そう言い放ち、咲夜の心臓はその単語を聞いてドクンと跳ね、小悪魔はその言葉にどうしようかと慌て始める。
「ええ!? そ、そんな!? いいんですか!? きゃあ、ありがとうございます! じゃあ、私の足の爪先にお願いしますね!」
そう興奮気味に言いながら、頬を染めて小悪魔はロングスカートの両端をそっとつまんで少し持ち上げ、片足を浮かせて差し出す。
「上等じゃないの、それくらいで私が怯むとでも、我が僕? 逆に興奮してきた」
一方、こちらも不敵にほほ笑みながら魔女は椅子から立ち上がり、コキコキと首を鳴らしながら上着をゆっくりと脱ぎ捨てようとして、
「――あら? どうしたの、咲夜?」
お茶の用意を綺麗に途中で一時停止したように固まって、顔を何やら真っ赤にして俯いている咲夜の様子を視界の端に捕まえ、訝しげな声と共に視線を向ける。
「顔、真っ赤よ……ああ、わかったわ。小悪魔、ちょっとこのお嬢さんには私達のギブ・アンド・テイクは刺激が強すぎたようよ」
次に一人でははんと合点がいったような笑顔を浮かべて、魔女は納得する。そして、次の一言を、
「それとも、羨ましくなったのかしら? ふふ、安心なさい咲夜、お前が望むなら昔の美鈴みたいに私がしてあげても――」
言った瞬間、世界は文字通り停止した。
「……いやぁ、帽子に」
ぼそりと呟くようにそう言いながら、魔女はナイフが針山の如く刺さった帽子を脱いでごとりと机に置く。
「鉢金を仕込んでいなかったら即死だったわね」
「経験が生きましたね」
うんうんと頷く小悪魔に、魔女も頷きを一つ返す。
「しかし……」
それから魔女は考え込むようにして、
「何が気に障ったのかしら、あの子」
「さあ、私が思うに……パチュリー様の存在自体じゃないですかねぇ」
「随分難易度高いわね、それだと改善のしようがないのだけれど」
はぁ、と、溜息を吐きながら、パチュリーは椅子に深く座り直す。それから、少しさっきのことを思い返しながら、
「でもまあ、まだまだかわいいわよね、咲夜も。本当にキスしてあげてもよかったかもね」
「えー、ずるいですよー、私も咲夜さんにキスしたーい」
小悪魔のその言葉に、パチュリーはにやりと笑いながらその顔を見る。
「あら、昔々は私もよく咲夜にしてあげたのよ。まあ、あれの母親に強要されたようなものだったけど、悪くはなかったわ。……ああ、そうね、そうだわ」
そしてまた、一人で何か納得のいったような顔になって魔女は目をつぶる。
「どうせあの子はまた、くだらないことで悩んでいるんだろうね。これまでもよくあることだったもの」
「まあ、ですよね」
薄暗い図書館で、二人は顔を見合わせて意地悪く笑った。
そして、咲夜は自室の扉を閉め、それと同時に世界が動く。
感じるのは頬の熱、心臓の高鳴り。
深呼吸をして、ゆっくりとそれを静めようとしながら、咲夜は自室を見回して考える。
目につくのは自分のベッド、今朝にはそこに魔理沙がいて、起き抜けのふわふわぼんやりとした顔で自分を見ていて。
……本当に、もう。
咲夜は深呼吸の最後を、呆れた様な溜息にする。
あの子はいつでも唐突で自分勝手で、だから何だか目が離せなくて、そして、それが、
「ああ、そうか……」
そして、咲夜はようやく気づいた。
自分の気持ち。魔理沙への、あのどうしようもない悪友への気持ちに。
きっと、それがかわいくて、愛らしくて、寝ぼけた自分は、素直な自分は、それをどうにか伝えたくて、きっとそうしてしまったのだ。
その少女の額に、思わず口づけてしまったのだ。思い出す。昔、そうしてもらったように。
「そっか……」
自分の心をそう分析してみると、悪くはない気分だった。目が覚めてから抱いていたモヤモヤがようやく晴れていくようで。
「ねえ」
咲夜はくるりと回って鏡を見て、向こう側へ呼びかける。
今朝の気持ちは、あの子に伝わっただろうか。
普段は恥ずかしくて言えない、素直な気持ち。結局上手く伝わらなくて、向こうもモヤモヤしているかもしれない。
けれど、それなら、
「魔理沙」
この気持ちがちゃんと伝わるまで、たまにはそうしてあげてもいい。いつかはきっと伝わるように、みんなが私に伝えてくれたように。
そっと自分の唇をなぞるように触って、きっと素直には言わない気持ちを声に出す。
「私ね、あなたのこと、結構好きよ」
そう言って、花の咲いたような笑顔で彼女は笑った。
咲夜が朝起きればおはようのキスを、眠る前にはおやすみのキスを、何かに成功した時も、失敗して落ち込んでいる時も、いつもいつも優しくそうしてくれた。
おでこに、頬に、優しく、触れるように、時にはくすぐったくなるほど長く、万年不機嫌な魔女と違ってそんなもの使えないくせに、魔法をかけるようにしてくれた。
そんなにたくさんキスをしてくれたのは、彼女の母親にしてみれば、それだけが何よりも深い愛情を伝える手段だと勘違いしている節もあったかもしれない。
とにかく我が子へ愛を伝えるために、その少し間の抜けた母親は必死にたくさんキスをして、そして咲夜もそれを何よりも自然なことだと思いながら受け止めて成長した。
流石にそれを恥ずかしく思う分別が付き始めた頃には、少し惜しがりながらも頬を染めて咲夜はそれを断るようになり、彼女の母親は寂しがりながらも回数を少なくしていって、いつかはしなくなってしまった。
それでも、それは結果として、咲夜の人格形成の過程で、その記憶の奥底に、キスとは親しい人間との何よりも自然な、挨拶のような行動であるという風に、はっきりと根付かせることとなった。
紅魔館のメイド長、十六夜 咲夜少女は朝が弱かった。
低血圧だとかそういうわけではなかったが、彼女はとにかく寝起きがよろしくなかった。
小さい頃からそうだった、子供の彼女は幸せなお寝坊さんで、母親は呆れて、よくそのおでこをピンと弾いて起してくれたものだ。
それから随分と成長した今となっては、彼女もいつまでも寝ぼすけでいられなくなり、どうにかこうにか努力してちゃんと自分で起きるようになった。
しかし、彼女には時間を自由に操れる能力があるはずなので、時間を止めて好きなだけ眠っていればいいはずなのだが、何故だか彼女はそうすることを嫌がっていた。
別にリスクがあるのだとか、何かそう出来ない能力に関わる理由があるわけではない、単にプライドの問題であった。
時間を操れるからといって、それにかまけて怠惰に過ごすことを自分に許さない強烈なプライドというのが、鬼のメイド長の中には確固たるものとして存在していたのだ。
故に彼女は、起きるべき時間にはきっちりと起きる。意地でも起きるのだ、たとえそれが少々の犠牲を払うことになったとしても――。
そして十六夜 咲夜のその日の朝も始まった。
彼女は綺麗な銀の髪を揺らしながら上半身をむくっと起こすと、普段の瀟洒さと比べてみたら誰にも見せられないような大あくびをまず一つ放った。
視界はぼやけている、頭も全然はっきりしない。自分が何をすべきかもまったくはっきりはしないが、とにかくいつも行動しているように、それを染みつけた体に任せればいい。
まるで夢遊病者だが、彼女の起床に払う犠牲はまさしくそれで、とにかく起きて数分は強烈な寝ぼけ状態のまま行動しなくてはいけなかった。
とにかく頭は上手く動かずとも体は動く、ベッドから降りようと手に力を入れる。
そこで、ふと、咲夜は己の隣を見た。そこは確かに自分のベッドで、確かに自分一人しか寝ていないはずなのに、確かに今自分の隣に、知らない誰かが眠っていた。
ふわふわとした長い金髪の少女が、自分の隣で幸せそうな寝息を立てている。
咲夜の顔が一瞬で疑惑に歪んだ。眉根がより、目が細まり、そして彼女は考える。
……何で魔理沙が自分の隣で寝ているんだろう。
そう、それは霧雨 魔理沙だ。彼女の悪友だ。それが何で、自分のベッドで、自分の隣で今眠っている。
普通なら大慌てするような事態だが、尋常でないほどに重く寝ぼけている咲夜の頭は大樹のようにどっしりと動じなかった。
寝ているならそれはそれとして置いておいて、とにかくベッドから降りながら静かに咲夜は事情を思い出そうとする。
床に降りたち、また欠伸をし、寝巻をのろのろ脱ぎながら思い返す。
そうだ、確かそれは昨日の深夜のことだった。霧雨 魔理沙は突如咲夜の部屋の扉を叩き、図書館で本を読んでたらこんな時間になっていたので、どっか寝床を貸して欲しいと言ってきたのだ。
珍しく深夜勤務を外れて早寝の体勢に入っていた咲夜は、安眠を妨害されたことによって、図書館の魔女に勝るとも劣らぬ睨みつけるような不機嫌な顔のままそれに応対することとなった。
そんな完全に目の据わった寝巻姿の咲夜を見て若干ビビり入った魔理沙だが、それを咲夜はむんずと捕まえて、空いてる部屋に案内するのは面倒だから自分の隣で寝かせたのだった。
……確か、そんな感じだった気がする。
おぼろげながらも事情を思い出せて、咲夜は未だ半分寝ぼけたまま安堵した。まさか勝手に自分の布団に潜り込んできていたなんてことだったら、とりあえず色々な責任を取らせなければいけないところだった。
そうこう考えながら行動している内に、咲夜はいつものメイド服に袖を通す辺りまで支度を終えていたが、丁度その時、
「んん……」
ベッドの上の魔理沙が身動ぎしたかと思うと、ゆっくり目を開いてから、むくっと上半身だけ起き上がった。
さっきの誰かをなぞるように彼女も大あくびを一つ。そして寝ぐせで爆発したような金髪をばさばさと首と一緒に振ると、ぼんやりした顔で、同じくらいぼんやりしたような顔の、靴下をはき終えた咲夜を見た。
「……おはよ」
少しガラガラとしゃがれたような声でまずそう言った魔理沙に、咲夜は吹き出した。
軽く笑って、何となくその魔理沙の寝起きの姿に愛らしさを覚えながら、咲夜は自分も寝ぼけたままゆっくりと魔理沙に近付いていく。
何度も言うようだが、咲夜は寝ぼけていた。本当に寝ぼけているので、彼女はまさしく今自分の本能だけで行動しているようなものだった。
だから彼女のそれは、その目の前の愛らしい少女に対する、最も適した行動を積み重ねて来た記憶の底から引っ張り出して選択することとなった。
つまり、
「ええ、おはよう、魔理沙」
そう言って、咲夜はぼーっとしたような魔理沙の額に優しく口づけた。
昔々、彼女の母親がそうしてくれたように。目の前の友への愛情をこめて、触れるようなそれを。
「――っ!?」
おでこに何か柔らかいものが触れる感触を覚えた魔理沙は、そこから電流でも流されたようにびくんと一度はねた。
はねて、それから何も考えられずに全く動けないままに、ほんの一瞬ほどの時間が過ぎて咲夜が離れていた。
「……!?」
完全に寝ぼけた、というよりは呆けた顔のまま前方を見やるしかない魔理沙の目の前で、咲夜はまったく普段通りの調子で、目をしぱしぱさせながら自分の姿を最後に鏡に映して確認している。
「朝ごはん、食べてくの?」
そうしながら、いきなりそう問いかけて来た咲夜に、魔理沙はまたビクッとしつつ、
「あ、ああ、いただこうかな」
「そ、なら、もうちょっとそこでゆっくりしてていいわよ」
そう言って咲夜は出口へと歩いて行く。扉を開けて、振り返りながら、
「少ししたら早朝の仕事終わらせて戻ってくるから、それから二人で食べましょ」
片目をぱちんと閉じる合図と笑顔を残して、扉が閉められた。
「……」
それをぼんやり見送った後、とりあえず魔理沙は溜息を吐きながら後ろに倒れた。
「いやぁ、あれはコンマの五秒で目が覚めた」
横に座って頷きながらしみじみそう呟く魔理沙に、腕で枕を作りながら寝転がってそれを聞く紅毛の女こと紅 美鈴は欠伸を一つ返す。
「そうかい、そうかい、そりゃ良かったじゃないの」
むにゃむにゃとそう言いながら、美鈴は抜けるような昼下がりの青い空をぼーっと眺める。気持ちいい、今いる場所、門壁の上はやはり最高だ。
「よかないぜー、いや、よかないよ、本当にさぁ」
そんな美鈴の態度に溜息をついて、魔理沙は胡坐をかいた足の膝をとんとんと神経質に指で叩きながら、今一度横の美鈴に問いかける。
「なあ、どういうつもりだと思う? どういうあれなんだ、あの……あれは」
問われて、美鈴は視線を流してその少し頬を染めた魔理沙を見やり、それからうーんと考えるような仕草をしてから、
「さあね、さっぱりわからん」
とぼけるわけでもなく、割かし真剣な声でそう返した。
「そうか……」
それを聞いて、何となく力の入っていない声で呟き、魔理沙はまたぼんやりと今朝のことを思い出して、
「うわぁぁー!」
顔に熱を溜めて、ふわふわの金髪を両手でぐしゃぐしゃとかいて悶える。
……わからん、咲夜の気持ちがまったくわからん。一体あいつは何を思ってあんなことを……。
そんな悩める魔理沙の様子を眺めながら、美鈴は、
……かわいい奴だなぁ。
そう思って、くすっと笑いながら問いかける。
「なあ、魔理沙」
「うん?」
振り向く魔理沙に、唇を尖らせてみせて、
「私もしてやろうか?」
「――っ!!」
言われた魔理沙は何も返さず、ふんと鼻を鳴らしながらそっぽを向いた。
一方、今では完全に目が覚めた咲夜も、
「うーん……」
悩んでいた。これ以上ないくらいに悩んでいた。
地下図書館、魔女に呼びつけられたお茶の準備をてきぱきと行いながらも、顔全体は目をつぶって眉根を寄せて、苦悶するように考え込んでいる。
「咲夜さん……顔、怖いのだけど」
そんな様子を、本を読みながら横目に見ていた長い紫髪の魔女ことパチュリー・ノーレッジが若干呆れながら指摘する。
「そうですか? 私はいつもこんな顔ですよ」
「あら、そうだった? そう言われてみればそうだったような気がしてきたわ、特に私の前では」
「ええ、特にパチュリー様の前では」
相も変わらず苦い顔で考え込んだままそう言う咲夜に、パチュリーはうんうんと頷きながら。
……そう言えば、この子は昔からいっつも私の前では苦い顔をしていたわ……。
懐かしそうに顔をほころばせて、時には自分を見るなり時間を止めて逃げ出そうとしていた頃の咲夜を思い出すパチュリー。
そんなパチュリーに冷たい視線を向けながら、咲夜もいまだ考え続ける。その内容はといえば、
……何であんなことしちゃったのかしら。
今や完全に覚醒した咲夜の頭は、寝ぼけながらやらかしてしまった朝の行動を完璧に記憶しており、そして果たして何故そんなことをしてしまった自分の精神状態というものを悶々と考え続けることとなっていた。
考える。自分は寝ぼけていた、そう、寝ぼけていたのだ。でも、それでも、だからってあんなことを普通するだろうか。
寝起きの魔理沙が何やらかわいいと思ったからって、あんな。
……キ……キ……。
駄目だ、その単語を考えるだけでも床を転げ回りたくなる。
「はぁー……」
「あら、何の溜息? しかも人の目の前で思いっきり」
「いえ、別に……気にしないでください、いつもみたいに」
「遠回しにいつも私が無神経であるかのように言っていないかしら?」
「気のせいですわ」
「そう、それはよかった」
相変わらず氷点下の視線を向けながら瀟洒に笑う咲夜に、パチュリーも負けじとどろんとした目で笑顔を送る。
そして、しばらくそんな笑顔の応酬を続けているところへ、
「ぱ、パチュリー様ぁ……」
弱々しく掠れた声を発しながら、謎の棒きれに全体重を預けるようにしてよろよろと歩いて、濁った赤い髪の司書こと小悪魔が二人のところへ現れた。
「頼まれていた、魔導書区画三十の二の四番、整理作業終了、いたしましたぁ……」
ぜひぜひと、机に座る主の目の前までやって来て、疲れ果てた様子で報告する。
「そう、御苦労」
「ええ、まさしく……三日間不眠不休で頑張りました……というか、扱ってるブツのやばさ的にそうせざるを得ませんでした……三回くらい死にかけましたよ」
ふふふ、と、目の下を真っ黒く隈で染めて笑う小悪魔に、咲夜が若干引きながらも心配そうな声をかける。
「それは……御苦労でしたわね。お茶でも一杯いかがですか?」
「ああ、ありがとうございます。いえいえ、確かに苦労でしたが、我が主の為ですから」
咲夜の申し出に頭を下げて応えつつ、顔を上げてそう言い放ち、小悪魔は主に熱い視線を送る。
それを受けて主は、常と変わらぬ不機嫌そうな顔つきで、
「小悪魔、愛が重いわ」
「きゃあ、ずたぼろの体にこの仕打ち。素敵ですね、報われますね」
掠れた声で笑いながら、小悪魔は主へぐっと親指を立てる。最早咲夜には理解できない境地だったが、とりあえず小悪魔用のお茶を入れ始めようとしたところで、
「けれどまあ、本当に御苦労よ小悪魔。ご褒美にキスしてあげる」
魔女が突然そう言い放ち、咲夜の心臓はその単語を聞いてドクンと跳ね、小悪魔はその言葉にどうしようかと慌て始める。
「ええ!? そ、そんな!? いいんですか!? きゃあ、ありがとうございます! じゃあ、私の足の爪先にお願いしますね!」
そう興奮気味に言いながら、頬を染めて小悪魔はロングスカートの両端をそっとつまんで少し持ち上げ、片足を浮かせて差し出す。
「上等じゃないの、それくらいで私が怯むとでも、我が僕? 逆に興奮してきた」
一方、こちらも不敵にほほ笑みながら魔女は椅子から立ち上がり、コキコキと首を鳴らしながら上着をゆっくりと脱ぎ捨てようとして、
「――あら? どうしたの、咲夜?」
お茶の用意を綺麗に途中で一時停止したように固まって、顔を何やら真っ赤にして俯いている咲夜の様子を視界の端に捕まえ、訝しげな声と共に視線を向ける。
「顔、真っ赤よ……ああ、わかったわ。小悪魔、ちょっとこのお嬢さんには私達のギブ・アンド・テイクは刺激が強すぎたようよ」
次に一人でははんと合点がいったような笑顔を浮かべて、魔女は納得する。そして、次の一言を、
「それとも、羨ましくなったのかしら? ふふ、安心なさい咲夜、お前が望むなら昔の美鈴みたいに私がしてあげても――」
言った瞬間、世界は文字通り停止した。
「……いやぁ、帽子に」
ぼそりと呟くようにそう言いながら、魔女はナイフが針山の如く刺さった帽子を脱いでごとりと机に置く。
「鉢金を仕込んでいなかったら即死だったわね」
「経験が生きましたね」
うんうんと頷く小悪魔に、魔女も頷きを一つ返す。
「しかし……」
それから魔女は考え込むようにして、
「何が気に障ったのかしら、あの子」
「さあ、私が思うに……パチュリー様の存在自体じゃないですかねぇ」
「随分難易度高いわね、それだと改善のしようがないのだけれど」
はぁ、と、溜息を吐きながら、パチュリーは椅子に深く座り直す。それから、少しさっきのことを思い返しながら、
「でもまあ、まだまだかわいいわよね、咲夜も。本当にキスしてあげてもよかったかもね」
「えー、ずるいですよー、私も咲夜さんにキスしたーい」
小悪魔のその言葉に、パチュリーはにやりと笑いながらその顔を見る。
「あら、昔々は私もよく咲夜にしてあげたのよ。まあ、あれの母親に強要されたようなものだったけど、悪くはなかったわ。……ああ、そうね、そうだわ」
そしてまた、一人で何か納得のいったような顔になって魔女は目をつぶる。
「どうせあの子はまた、くだらないことで悩んでいるんだろうね。これまでもよくあることだったもの」
「まあ、ですよね」
薄暗い図書館で、二人は顔を見合わせて意地悪く笑った。
そして、咲夜は自室の扉を閉め、それと同時に世界が動く。
感じるのは頬の熱、心臓の高鳴り。
深呼吸をして、ゆっくりとそれを静めようとしながら、咲夜は自室を見回して考える。
目につくのは自分のベッド、今朝にはそこに魔理沙がいて、起き抜けのふわふわぼんやりとした顔で自分を見ていて。
……本当に、もう。
咲夜は深呼吸の最後を、呆れた様な溜息にする。
あの子はいつでも唐突で自分勝手で、だから何だか目が離せなくて、そして、それが、
「ああ、そうか……」
そして、咲夜はようやく気づいた。
自分の気持ち。魔理沙への、あのどうしようもない悪友への気持ちに。
きっと、それがかわいくて、愛らしくて、寝ぼけた自分は、素直な自分は、それをどうにか伝えたくて、きっとそうしてしまったのだ。
その少女の額に、思わず口づけてしまったのだ。思い出す。昔、そうしてもらったように。
「そっか……」
自分の心をそう分析してみると、悪くはない気分だった。目が覚めてから抱いていたモヤモヤがようやく晴れていくようで。
「ねえ」
咲夜はくるりと回って鏡を見て、向こう側へ呼びかける。
今朝の気持ちは、あの子に伝わっただろうか。
普段は恥ずかしくて言えない、素直な気持ち。結局上手く伝わらなくて、向こうもモヤモヤしているかもしれない。
けれど、それなら、
「魔理沙」
この気持ちがちゃんと伝わるまで、たまにはそうしてあげてもいい。いつかはきっと伝わるように、みんなが私に伝えてくれたように。
そっと自分の唇をなぞるように触って、きっと素直には言わない気持ちを声に出す。
「私ね、あなたのこと、結構好きよ」
そう言って、花の咲いたような笑顔で彼女は笑った。
咲マリ流行れ!
(好意を持っているのか)が全く書かれていない。
この辺り、咲夜が魔理沙にキスしているシーンを書きたいと言った思いが
先行し過ぎておざなりになっているような気がする。
咲マリヒャッパー!
まさしく二人の関係を表していると思う
咲マリ流行れ!
いいキャラしてるなあww