/飛行少女
空を飛びたいと願った記憶はないらしい───他人事のように、霊夢は考えた。
いつだってそうだ。自分に関することもひとつ呼吸をおいたその先に存在して、追いかけられることも責め立てられることもない。
どんな恐怖も、悔恨も、私を噛み殺すことはないだろう──それは割と、つまらない結論だと思う。
空は快晴。
抜けるような青が横たわっていて、雲はほとんど見当たらない。
「丁度いい」
霊夢はそう呟いて、ふうわりと体を浮かばせた。知り合いの魔法使いなどは箒に魔力を流して粉塵を巻き上げ勢いよく飛んでいくが、彼女の場合は真逆だった。
重力をなくしてしまったような。
下に墜ちる術を忘れてしまったように、宙に浮かぶ。
知らない内に、空は飛べるものであった。
すう、とあまりにも自然に空を横切り、霊夢は里に向かう。
以前妖怪退治の礼として貰った茶菓子が尽きてしまったのだ。
茶菓子が無くては死んでしまう、というわけではないが、やはり無いよりはあった方がいいに決まっている。
「それに、あの羊羮美味しかったしなぁ。どこのだろう」
霊夢の呟きは誰も遮らない広大な青に消えていく。
少女がひとり、空と美しい対比を描きながら飛んでいる。
時々、本当に時々、霊夢は空を飛ぶ内に思うのだ。
なんて自分に似合わない考え事なのだろうと顔をしかめながら、この世界に私一人しかいなかったら、と。
里へ行こうが、森へ行こうが、私を見つける人はいない。
空を飛ぶ私を指差す人がいない。
空を飛ぶ私を認識する人がいない。
空を飛ぶ私を呼ぶ人がいない。
先の見えない青に漂ったまま、一人きりになるのだ。
私は地に降りれない。
私を呼ぶ人がいない。
私を地に降ろしてくれる、誰かがいない!
「…あ」
くらり、と頭が回る。
あっという間に体は回転、霊夢の小さな影がみるみる落下していく。
(あー)
体を小さく丸めて宙返り。
(ばかばかしい)
ため息を吐く。
落下はいとも簡単に止まり、霊夢は何事もなかったように辺りを見渡す。
そうしてまた里に向かって飛んでいった。
どうせ今日買う茶菓子も騒がしい奴等に食べられてしまうのだ。
空は青くて、空気は綺麗。
視界良好、妖怪もなし。
気持ちよく風に身を委ねる。
この先暫く空から落下することはないだろう。
沢山の自分を呼ぶ声を頭の奥で聴きながら、今日も明日も、変わらずに少女は飛行する。
「霊夢ー」
「…何よ、私は今忙しいの。ああもう、ついてくんな!」
(ほら見ろ、私を一人にさせてくれる奴などいないじゃないか!)
/砂糖水とこんぺいとう
「待て」
なびいたエプロンのリボンの端をく、と掴まれた。
魔理沙が振り返ると、館を取り仕切るメイドが音も立てず現れに佇んでいる。
手品の種はわかっているのだが──どうにも、心臓に悪い。
「犬に待てをされる覚えはないな」
「あら、今日の私は猫ですわ。鼠を前にして自慢の爪が疼くのよ」
「おかしいな。ここの猫は鼠を捕らないと聞いていたぜ」
皮肉が飛び交うのはいつものことで、一種の挨拶のようなものだ。
くるりと身を翻した魔理沙のスカートが揺れる。
黒と白の魔女装束がこの館・紅魔館で目撃されるのは、そう珍しいことではない。
図書館の本を借用、もとい強奪していくことで有名だ。もはや顔馴染みと言っていいだろう。
今日も門番を撃ち倒し、図書館で本を読み、果てに紅茶までご馳走になって、
"土産"をくくりつけ軽快に箒を走らせていたところだった。
ただし、いつものようにトップギアで駆け抜けたりはしない。
ゆるりとした速度で真っ赤な廊下を抜ける。
こんな風にメイドにどやされるか、破壊音の甘い響きに誘われたお姫さまと一戦交えることになるからだ。
魔理沙は咲夜に引かれほどけかけたリボンを結び直し、ゆっくりとした動作で箒を降りる。
「で、何だ。鼠の尾でも捕まえたつもりか?」
「そうねえ。ゆらゆら揺れてるから気になっちゃったのよ」
咲夜は目の前の少女のにやにやとした笑みを確認した後、てや、と金色の前髪をかきあげて額に手をあてた。
唖然とした表情がなかなか面白い。反対の手を自分の額にあて、やっぱり、と顔をしかめた。
手のひらからはじんわりと熱が染み込んでくる。
そのままやわらかな金色をぐしゃぐしゃに乱すと、魔理沙から非難の声が上がった。
「だからあ、何すんだよいきなりっ」
「微熱、ってところかしら。昨日お腹出して寝た?」
「出すか!」
魔理沙は頬を真っ赤に染めて反論する。
まるで幼子にするように、咲夜はその頭を優しく撫でていた。
このメイドといったら、いつもこうなのだ。子供扱いで優しくするもんだから、調子が狂ってしまう。
勝負の時はまるで冷たい顔をするのに、これでは別人のようだ。
(ったく、何だってば)
耳が熱くなる。魔理沙がふいと目を逸らすのを内心楽しみつつ、咲夜は滑らかに手を滑らせ細い手首を握った。
「ほら、魔理沙」
銀色の髪が夕焼けに揺れている。
「おいで、」
滲んだ橙は銀と金を透かしては、紅い壁に、床に融けて消えてしまう。
消えゆく橙の中に昔なくしたものが沈んでいるような気がして、魔理沙はひそやかに空いた手で宙を握った。
やはり何も掴めなかったけれど、悔しくはならなかった。
反対の手はあたたかい温度で満たされている。
「…」
この瞳にも同じ色が映っているだろうか。
逃げ出しそうな橙を、誰か見つけてくれるだろうか。
きっとこのメイドは何事もないように見つけ出して、連れ出してしまうのだろうな───自分を引っ張っていく白魚のような滑らかな指先を見つめながら、
ぼんやりとした頭で目の前のお節介な従者を思った。
/海にひとり住む羊みたいに
深い深い海の底にひとり住んでいた羊は、たぶん寂しかったのだと思う。
砂に埋まって静かに呼吸をしていた貝はあまり喋らなかったし、滅多に魚など通らなかったから。
それから、羊は泳げなかったけれど、海の上に違う世界があることを知っていたから余計苦しかっただろう。
焦がれることなどなければいい。
知らない方が幸せなこともあるのに、知識を貪り続ける人を、私は知っている。
「パチュリーさま、」
紅茶がはいりました、とカップをテーブルに置く。
時々読書に集中しすぎて気付かないことがあるから、また熱くいれなおすようにしている。
毎日おんなじ場所でおんなじように知識の海を泳いでいる、淡い紫のやわらかなドレスに身を包んだ彼女が、私の主人である。
魔法に対してはシビアだけれど、本当はすごく可愛い人なのだ──勿論、密やかに思っていることだが。
それに私とパチュリーさまの付き合いなど、そう長いものではない。
この館の主・レミリアさまと比べたら、私などあまりにも浅い。
「ありがとう小悪魔」
「あっ、いいえ」
今日は早い方だ。普段ならもう二、三回はいれなおすのに。
紅茶は冷めると美味しくない。熱いままで飲んでもらえた方が嬉しい。
パチュリーさまと紅茶はとてもよく似合う。
角砂糖を落とす仕草はしなやかだし、紅茶の紅にくちびるが触れる瞬間はすばらしく艶やかなのだ。
私はあの赤に触りたい。
そう思っては、ぎゅう、と強く目を瞑る。
焦がれることなどなければいい───悪魔の恋の結末など、たかが知れている。
誰も幸せになんかなり得ない。
海にひとり住む羊は、無口な貝と、何も望むことなく暮らしていればよかったのだ。
黒い深海にはなかったつややかな赤を知ってしまったから、呼吸もままならなくなってしまった。
パチュリーさまは紅茶のカップを傾け、飲みきってしまった後、ほうと息をついた。
レミリアさまが異変を起こしてからというもの、紅魔館もすっかり開けた場所になった。
本当に色んな人が訪れる。
彼女の前には、新たな色彩がたくさん現れる。
それがどんなに、恐ろしかったことか。
「ねぇ、パチュリーさま」
知識の海を深く、深く沈んでゆく彼女はいつかきっと、ひとりぼっちの羊に出会うだろう。
この恋は水の中を漂ったまま死んでしまうかもしれない。
それでも、いいと思った。
私が帰り道を教えてあげる。
私は泳げないけれど、大切な貴女へ、光の方向を教えてあげよう。
私じゃない誰かへ、軽やかに、しなやかに泳いでいく方法を。
「ずっと、おそばに置いてくださいね」
その日までに、この赤を焼き付けておこう。
海の底で箱にいれてしまって大切に出来るように。
空になったカップを手に取り、そんなことを思った。
空を飛びたいと願った記憶はないらしい───他人事のように、霊夢は考えた。
いつだってそうだ。自分に関することもひとつ呼吸をおいたその先に存在して、追いかけられることも責め立てられることもない。
どんな恐怖も、悔恨も、私を噛み殺すことはないだろう──それは割と、つまらない結論だと思う。
空は快晴。
抜けるような青が横たわっていて、雲はほとんど見当たらない。
「丁度いい」
霊夢はそう呟いて、ふうわりと体を浮かばせた。知り合いの魔法使いなどは箒に魔力を流して粉塵を巻き上げ勢いよく飛んでいくが、彼女の場合は真逆だった。
重力をなくしてしまったような。
下に墜ちる術を忘れてしまったように、宙に浮かぶ。
知らない内に、空は飛べるものであった。
すう、とあまりにも自然に空を横切り、霊夢は里に向かう。
以前妖怪退治の礼として貰った茶菓子が尽きてしまったのだ。
茶菓子が無くては死んでしまう、というわけではないが、やはり無いよりはあった方がいいに決まっている。
「それに、あの羊羮美味しかったしなぁ。どこのだろう」
霊夢の呟きは誰も遮らない広大な青に消えていく。
少女がひとり、空と美しい対比を描きながら飛んでいる。
時々、本当に時々、霊夢は空を飛ぶ内に思うのだ。
なんて自分に似合わない考え事なのだろうと顔をしかめながら、この世界に私一人しかいなかったら、と。
里へ行こうが、森へ行こうが、私を見つける人はいない。
空を飛ぶ私を指差す人がいない。
空を飛ぶ私を認識する人がいない。
空を飛ぶ私を呼ぶ人がいない。
先の見えない青に漂ったまま、一人きりになるのだ。
私は地に降りれない。
私を呼ぶ人がいない。
私を地に降ろしてくれる、誰かがいない!
「…あ」
くらり、と頭が回る。
あっという間に体は回転、霊夢の小さな影がみるみる落下していく。
(あー)
体を小さく丸めて宙返り。
(ばかばかしい)
ため息を吐く。
落下はいとも簡単に止まり、霊夢は何事もなかったように辺りを見渡す。
そうしてまた里に向かって飛んでいった。
どうせ今日買う茶菓子も騒がしい奴等に食べられてしまうのだ。
空は青くて、空気は綺麗。
視界良好、妖怪もなし。
気持ちよく風に身を委ねる。
この先暫く空から落下することはないだろう。
沢山の自分を呼ぶ声を頭の奥で聴きながら、今日も明日も、変わらずに少女は飛行する。
「霊夢ー」
「…何よ、私は今忙しいの。ああもう、ついてくんな!」
(ほら見ろ、私を一人にさせてくれる奴などいないじゃないか!)
/砂糖水とこんぺいとう
「待て」
なびいたエプロンのリボンの端をく、と掴まれた。
魔理沙が振り返ると、館を取り仕切るメイドが音も立てず現れに佇んでいる。
手品の種はわかっているのだが──どうにも、心臓に悪い。
「犬に待てをされる覚えはないな」
「あら、今日の私は猫ですわ。鼠を前にして自慢の爪が疼くのよ」
「おかしいな。ここの猫は鼠を捕らないと聞いていたぜ」
皮肉が飛び交うのはいつものことで、一種の挨拶のようなものだ。
くるりと身を翻した魔理沙のスカートが揺れる。
黒と白の魔女装束がこの館・紅魔館で目撃されるのは、そう珍しいことではない。
図書館の本を借用、もとい強奪していくことで有名だ。もはや顔馴染みと言っていいだろう。
今日も門番を撃ち倒し、図書館で本を読み、果てに紅茶までご馳走になって、
"土産"をくくりつけ軽快に箒を走らせていたところだった。
ただし、いつものようにトップギアで駆け抜けたりはしない。
ゆるりとした速度で真っ赤な廊下を抜ける。
こんな風にメイドにどやされるか、破壊音の甘い響きに誘われたお姫さまと一戦交えることになるからだ。
魔理沙は咲夜に引かれほどけかけたリボンを結び直し、ゆっくりとした動作で箒を降りる。
「で、何だ。鼠の尾でも捕まえたつもりか?」
「そうねえ。ゆらゆら揺れてるから気になっちゃったのよ」
咲夜は目の前の少女のにやにやとした笑みを確認した後、てや、と金色の前髪をかきあげて額に手をあてた。
唖然とした表情がなかなか面白い。反対の手を自分の額にあて、やっぱり、と顔をしかめた。
手のひらからはじんわりと熱が染み込んでくる。
そのままやわらかな金色をぐしゃぐしゃに乱すと、魔理沙から非難の声が上がった。
「だからあ、何すんだよいきなりっ」
「微熱、ってところかしら。昨日お腹出して寝た?」
「出すか!」
魔理沙は頬を真っ赤に染めて反論する。
まるで幼子にするように、咲夜はその頭を優しく撫でていた。
このメイドといったら、いつもこうなのだ。子供扱いで優しくするもんだから、調子が狂ってしまう。
勝負の時はまるで冷たい顔をするのに、これでは別人のようだ。
(ったく、何だってば)
耳が熱くなる。魔理沙がふいと目を逸らすのを内心楽しみつつ、咲夜は滑らかに手を滑らせ細い手首を握った。
「ほら、魔理沙」
銀色の髪が夕焼けに揺れている。
「おいで、」
滲んだ橙は銀と金を透かしては、紅い壁に、床に融けて消えてしまう。
消えゆく橙の中に昔なくしたものが沈んでいるような気がして、魔理沙はひそやかに空いた手で宙を握った。
やはり何も掴めなかったけれど、悔しくはならなかった。
反対の手はあたたかい温度で満たされている。
「…」
この瞳にも同じ色が映っているだろうか。
逃げ出しそうな橙を、誰か見つけてくれるだろうか。
きっとこのメイドは何事もないように見つけ出して、連れ出してしまうのだろうな───自分を引っ張っていく白魚のような滑らかな指先を見つめながら、
ぼんやりとした頭で目の前のお節介な従者を思った。
/海にひとり住む羊みたいに
深い深い海の底にひとり住んでいた羊は、たぶん寂しかったのだと思う。
砂に埋まって静かに呼吸をしていた貝はあまり喋らなかったし、滅多に魚など通らなかったから。
それから、羊は泳げなかったけれど、海の上に違う世界があることを知っていたから余計苦しかっただろう。
焦がれることなどなければいい。
知らない方が幸せなこともあるのに、知識を貪り続ける人を、私は知っている。
「パチュリーさま、」
紅茶がはいりました、とカップをテーブルに置く。
時々読書に集中しすぎて気付かないことがあるから、また熱くいれなおすようにしている。
毎日おんなじ場所でおんなじように知識の海を泳いでいる、淡い紫のやわらかなドレスに身を包んだ彼女が、私の主人である。
魔法に対してはシビアだけれど、本当はすごく可愛い人なのだ──勿論、密やかに思っていることだが。
それに私とパチュリーさまの付き合いなど、そう長いものではない。
この館の主・レミリアさまと比べたら、私などあまりにも浅い。
「ありがとう小悪魔」
「あっ、いいえ」
今日は早い方だ。普段ならもう二、三回はいれなおすのに。
紅茶は冷めると美味しくない。熱いままで飲んでもらえた方が嬉しい。
パチュリーさまと紅茶はとてもよく似合う。
角砂糖を落とす仕草はしなやかだし、紅茶の紅にくちびるが触れる瞬間はすばらしく艶やかなのだ。
私はあの赤に触りたい。
そう思っては、ぎゅう、と強く目を瞑る。
焦がれることなどなければいい───悪魔の恋の結末など、たかが知れている。
誰も幸せになんかなり得ない。
海にひとり住む羊は、無口な貝と、何も望むことなく暮らしていればよかったのだ。
黒い深海にはなかったつややかな赤を知ってしまったから、呼吸もままならなくなってしまった。
パチュリーさまは紅茶のカップを傾け、飲みきってしまった後、ほうと息をついた。
レミリアさまが異変を起こしてからというもの、紅魔館もすっかり開けた場所になった。
本当に色んな人が訪れる。
彼女の前には、新たな色彩がたくさん現れる。
それがどんなに、恐ろしかったことか。
「ねぇ、パチュリーさま」
知識の海を深く、深く沈んでゆく彼女はいつかきっと、ひとりぼっちの羊に出会うだろう。
この恋は水の中を漂ったまま死んでしまうかもしれない。
それでも、いいと思った。
私が帰り道を教えてあげる。
私は泳げないけれど、大切な貴女へ、光の方向を教えてあげよう。
私じゃない誰かへ、軽やかに、しなやかに泳いでいく方法を。
「ずっと、おそばに置いてくださいね」
その日までに、この赤を焼き付けておこう。
海の底で箱にいれてしまって大切に出来るように。
空になったカップを手に取り、そんなことを思った。
暖かな紅茶に、優しい味のクッキー。
そんな日溜まりに浮かぶようなお話でした。
そしてすれ違い両思いなぱちぇこあが弩ストライクです
素敵な感想ありがとうございます。
この感想の方が日溜まりのようなやわらかさがある気がします。
>8さん
いいですよね咲マリ!
ぱちぇこあは割と最近目覚めました。
評価だけの方もありがとうございました。
色彩感覚で文章も書いたりするのかな?
過去作も含めてごちそうさまでした。
本格的なものが描けるわけではありませんが、絵は描きます。
なんか面白い所を見られてるんだなあと思ってドキッとしました。
コメントありがとうございました!
もう少し長いのを期待
それにしても読んでて不思議な高揚感に包まれる文章ですねぇ。
内容も非常にふわふわしてて、雲を読んでいるみたいです。あぁ、何だか眠くなってきた。