「ねぇ……」
昼下がりに寝そべった古い喫茶店では、天井の紙魚がカップの中でくるくる泳いでいる。頭が煮えるほどの暖房、焼いた飴の色をしたテーブル。回る渦に向けて宇佐見蓮子が「メリー」、ぽつりと語りかけている。
呼ばれたマエリベリー・ハーンがいつか蓮子に言ってやろうと心に決めていた言葉は、蓮子の悄然とした顔に絡め取られてしまう。用意してきた言葉はホットミルクの白い渦に紛れ、古い小説に準えれば実弾になる前に砂糖菓子になってしまって、そのままミルクの甘味になって溶けてしまった。
あとは彼女がそれを飲み干すだけ。
私の、言えなかった言葉と一緒に。
「ねぇ、メリー」
「……」
「……ねぇ私達、終わっちゃったの? これで切れてしまうの?」
不安を浮かべた蓮子の問い掛けが、私を屈服させにくる。情で膝を折るのは屈辱だ、ここは耐える。
今すぐにでも笑顔を見せたいけれど、それは負けになる。切り出せなかった言葉も、歩き出せなかった現実も、明確にここで終わりという定義があるわけじゃない。ここを過ぎたら死んでしまうなんてはっきりした境界線があるわけじゃない。
相手が言いたい言葉は言わせない、こちらが言いたい言葉を言う、私は一人勝ちを拾う。
悪いのは蓮子、貴方。
すぐに許してしまっては、まるで私が負けた気分になる。それだけは、絶対にいけなかった。
「蓮子。宇佐見蓮子」
一口だけホットミルクを口につけた。かちん、とすぐコースターにカップを戻す、処刑人の重い声が罪人を断罪する。
テーブルには二枚のスナップが無造作に放り出されて、蓮子に突きつける向きで散っている。
「メリー……」
「私この子知ってるわ。よその大学から編入してきた稗田さんでしょ? よくもまァこんなイモ女と、こーんなにくっついて……」
「ねぇメリー違うの誤解なの! それは単にゼミの写真で」
しどろもどろの蓮子に嫌気が差す。うとましいほどの理不尽。されど聞きたい言葉が、なかなか現れない、そんな言葉じゃ切っ掛けにならない。
不倫は文化などではない。
不倫は文化などではない。
私を怒らせるとこわいの。蓮子、私は本当はとてもこわいの。
浮気とかまじ信じられない。勿論今だって信じられない。それどころか、どうせいつか仲直り出来るからとこの期に及んで普通に信じている。未来を知っていて私は怒った振りをする。諦めきれないものの端っこを握って、この蓮子が他の女に靡いた事実だけを世界から抹消して、イモ女を夢に還す。
そのために――仲直りの切っ掛けを探して、ホットミルクは私のおごりとまで譲歩しているのに――つまんない蓮子の言い訳なんて、私にとっての価値がない。
ミルク代の価値もない。
ここに元鞘が、口を開けて待っているのに。
「それでどこまで行ったのよ、この女と。……寝たの?」
「寝……!」
――違う。
そんなことを訊きたいんじゃない。
このまま蓮子と切れてしまうのが怖くて、末吉のおみくじみたいに結わえる応急処置の怒り言葉。枝に腰掛けた、素直じゃない懸想文の行方は。
嗚呼、憎まれ口は苦肉の策だから、そんなに真に受けて悄げないで。あと蓮子が困っているのや涙目を見るのが楽しいのも、ちょっとだけあるんだけど。
いずれにしても悪いのは蓮子。
こんなに可愛すぎる私の蓮子。
――だというのに、こともあろうにイモ女と浮気したのが悪い。わざとスパイ写真のように不鮮明に撮影した二枚のスナップが今の秘封倶楽部の絆だと考えると、とても不健康な気分しかしない。私は蓮子の事をいじめてみたくなっちゃうし、素直になれなくなっちゃう。
このままでは、愛が病んでしまう。
「――分かったわ、蓮子。みんな、分かった」
「ん? メリー?」
私は深く、深く息を吸い込んだ。
このままじゃだめ。一歩を踏み出そう。
「――そんなに好きなら、稗田さんと一緒になれば良いじゃない。毎日毎朝ちゅっちゅして」
「違うってば! そんな関係じゃない!」
「蓮子ったらいやらしいのよね。私にもずっと朝逢って一番にちゅーして、つまりその口で稗田さんにも……」
「そんなことしないッ! 私がそんなことをするのはメ……」
……蓮子の顔が、さながら秋の京都のように色づいた。大学から東に歩いた、伝説の名刹永観堂のよう。
永劫に痴話喧嘩をやって喫茶店を困らせるだけの秘封倶楽部は京都に生まれた。夢と現実が鬩ぎ合う幸せな郷で私達は生きて、そして出逢った。
世界に勝ち続ける方法を選ぼうよ。
籠めるべき力も分からないまま――私は、この世界へ実弾を籠めたつもりになっていた。
「……稗田さんのこと、すっぱり諦めてくれるわね?」
「だから、私は最初から」
「蓮子」
「………………諦めます。はい、諦めます」
蓮子の顔にはこんちくしょうと書いてある。不本意だがここは肯定で返しておいた方が話は早い――そんな計算尽くの悄然。未来を読んでの萎縮。
消え入りそうな演技で消え入りそう。蓮子、可愛い。
私がかすがいを打ち込まなければ、宇佐見蓮子との物語はここで夢落ちになってしまうだろう。不思議だね――人間。人間ってのはいっつも不確かで、そのくせ一人歩きが得意。心霊現象よりも不確かで幽霊よりも現れなくて、ユーマよりもずっとユーマで誰も正体を知らない。
それが人間。
それが少女。
それが女の子。
私は、まだ彼女に夢を見ている。メルヘンに溢れた物語(ストーリィ)を求めている。
強いて言うなら、これって。
「やっぱ――――コイ、なのかな」
「え? 広島カープ? 前田?」
私が不意に口にした単語に、動転していた蓮子が正気でない反応を見せる。
それが一瞬の、隙。
蓮子、好き。
カップに右手の小指を沿わせ、ホットミルクの温度を、私はずっと指の背で測っていたのだ。
「ふんっ!」
「きゃっ……!?」
……飛んでくるはずも無いものが襲来した眼前に、咄嗟の反応なんて出来る筈もない。
蓮子は、ほぼ全てのホットミルクを顔で受けた。
砂糖をたっぷり蕩かした、ぬるま湯ほどの温度で死ぬほど甘ったるいホットミルク。
「ふぇ……めりーの……みるく……」
吉田山の麓。これやこの、涙目蓮子に逢う坂の席。
昼の連続的なドラマとかでよくある、俗に言う「修羅場」。三角関係、喫茶店で逆上する女、浴びせられる飲み物。
これしかなかった。
ここまで典型的な修羅場も無い。二十世紀の午後一時十七分、六チャネルへフリッキングしたブラウン管テレビ。
用意されていない台本が頭からするすると出てくる。
「まったく、最近の女の子はセッキョク的なのねぇ……この、泥棒猫っ!」
「けほっ、待ってメリー、普通そこで泥棒猫呼ばわりされるのって私じゃなくてあきゅ」
「まぁ……名前で呼び合う関係って訳?? それ何? 嫌味?」
「だ、だから!」
「…………ほら怒りなさいよ」
「は?」
六チャネルへフリッキングしたブラウン管テレビの受像感度の悪いアンテナが作り出した、ゴースト現象の背後霊で増える女達の幻。
もどかしさが先導する昼下がりの戦場(いくさば)。喫茶店のマスターさえもが固唾を呑まされる、店内の客の視聴率は七十パーセントに達している。見て見ぬふりの聴取率を含めれば百十パーセント近いだろう。
……ああ、もどかしい!
「怒りなさいよ……逆ギレしなさいよ……だって蓮子が怒鳴り返さないと何も始まらないじゃない!」
「何がよ!」
「修羅場よ! 修羅場は一人じゃ作れないのよ!?」
「――」
メリーの言う言葉に間違いはなかった。
ヒステリーに取り憑かれた元の女だけでは物語を紡げない。ひとときも欠かさず髪を振り乱して更に逆上する、もうひとつの金切り声が必要なのだ。
修羅場を作るには二つで一つ。蓮子。貴方が牙を剥いてくれない限り、本当の修羅場になれない。
この世界で、怒らないと動き出さない。
雨が降らないと地面は固まらないわ。ねぇ貴方はいつまで、黙っているつもり? 私にいつまで、角砂糖を投げつけさせ続けるつもり?
――撃ち合おうよ。
実弾で。
「っ――――!!」
賽は、投げられた。
白くて細くて日本人の女の子の指がカップを引っ掴み、それは木の葉みたいに宙を舞った――舞ったと思ったそれはちゃんと指が繋がっていて、精密にコントロールされたカップがまっすぐ私を向き、カップがソーサーとセットで生まれてから恐らく最も強い勢いで中身を虚空にぶちまけた。
反射的に息を止めたメリー。同時に時間が止まる。
ホットミルクの弾。
ただでさえミルクなのに、温めて、甘いシロップまで溶かして――砂糖で出来てる実弾。実弾みたいな砂糖菓子と、呼吸と共に停止した世界と。
「……ぷぁっ!」
「言いたいように言わせてれば――調子に乗ってくれるわねメリー……」
白濁の液体は烈しく叩き付けられた。鼻先を雫が伝い落ちてゆく感触。大人のむず痒さだ。
そのまま目を開ける。顔を拭くなんて格好悪い。
シャンプーの後みたいに雫が次々と前髪から投身自殺して、テーブルに点々と散った白い飛沫が妙にいやらしかった。じわりと首の襟元から濡れそぼってゆく、濡れた被服のこすれる感触の淫靡さもある。大人の女には乳脂肪がよく似合う。
その席は窓際にある。一人、また一人と、ほんの真横で大通りの歩道の足並みが止まってゆくのが見える。分厚い遮光硝子のスモーク越しに事件を見つけ始める人達。声にならないざわつきは遮られて、喫茶店の店名を貼り付けたロゴが左右逆さまになる店内からは薄暗く人垣の蠢くのだけ見える。
「メリー……」
二人のカップはめでたく、これで空になった。お互いの顔にまっすぐぶっかけて、私達は向き合っている。
あとは私達がそれを飲み干すだけ。
私達の、言えなかった言葉と一緒に。
「貴方だって……! 貴方だって浮気したじゃない! あたし知ってるのよ、この間綿月さんとッ」
「何よ! 元はといえば貴方が愛してくれないのが悪いんだから! ……寂しかったんだから!」
「ふざけないで!」
「ふざけてるのはどっちよ!? 稗田さんの前は朱鷺さんにも冴月さんにも手を出したでしょこの尻軽女! アタシは全部知って」
「違うッ! あんなのみんな遊びだわ! 恋は幻想入りしたわ!」
「ふん、口ではなんとでも」
「うるさいっ! 私が本当に好きなのは……」
「ッ………………」
「好き……なのは……」
口にした蓮子の頬が、しゅうしゅうと上気してゆく音。ホットミルクがホットいちごミルク。
「…………ねぇ」
「………………」
「本当に?」
「メリー……朝、お出かけの前にちゅーするのなんて私……メリーだけよ……?」
上目遣いの蓮子が、頼りない言葉を探している。飾りつける成人性は影を潜め、まっすぐ前も向けない稚さだけが表情になる。
当然の事ながらその涙顔、上目遣い、超反則級。
何も上手なことを言えなくて、子供のあいうえおの平仮名おもちゃを歪に積み上げたような辿々しき言葉に思いを載せてブラボー。そこには不器用なほどに、愛が詰まっていた。
ぴちゃり、本当に可愛い、ぴちゃり。
メリーの顎からテーブルへ、白い滴が想いを代弁して、声の代わりに音を立てている。
「ねぇメリー」
「なぁに、蓮子」
「…………今、『寂しかった』って言った」
「言ったわ」
「……メリー……メリー!」
「そんなに名前を呼ばなくても」
私は、ここに居る。
ずっと、居る。
砂糖菓子なんかで確かめなくても、ずっとここに居た。
ほら、実態があるからこそ砂糖菓子で確かめられる。
ちょうど、現実があるから夢を夢と立証出来るように。
テーブルの横をメリーがするりと抜けて、呼応するように急接近してゆく二人の距離。白い液体で侵された白いブラウスごしに、メリーがそっと華奢な女の子の肩を抱く。
あふっ、と小さく漏れる蓮子の声が耳許。
窓の外の人垣が、次第に厚みを増し始める。ざわめきが店内まで届いてくる。一眼レフとハンディカムが相次いで到着する。すでに入場整理券が配られ始めている。
「蓮子…………!」
確かめるように、今度はメリーが名前を呼んだ。
夢の使者みたいな甘ったるすぎる蓮子。濡れそぼったブラウスごし、ミルク以外に温度がひとつ。――あったかい。
私以外はみんな遊び? その言葉、私を信じさせてくれるの?
私だけ、と紡いだその唇が、
本当に本物かどうか――私は、確かめる義務があるよね。
「――っふ――」
「……………………」
鼻先が触れ合うほどくっついた顔と顔。
ぺろりと、蓮子の唇の真横を、舌で確かめた。じらすように。蓮子が瞳を閉じて、少しもがいた。
味?
もちろん、
ホットミルクの味。砂糖の味。
ぬるくて甘ったるくてとろんっとしてて、夢と実弾を内包した、秘封倶楽部の味。
「うん――このお口は、本物と鑑定されました」
肩を抱いた腕で、そのまま蓮子を少しだけ身体から離す。おどけながら確かめたその涙顔。
白濁でどろどろの二人の顔を、喫茶店のマスターがカウンターに座ってアリーナ席で見つめる。新聞くらいなら燃えそうな視線がいくつも背中に感じられる。いつの間にか店内は満員で、静寂なのは全員が固唾を呑んでいるからだ。歩道などもう黒山だ。地元のローカル局が到着する。府警のヘリが飛んでいる。遮光硝子の向こうで賭場が立った、あっちが攻めか、こっちが攻めか。
帽子を押さえて巡査が三人が交番から全力疾走してくる――人垣を掻き分けて入る。硝子と人垣の間に立ちはだかり、警棒を振りかざし、警察手帳を周囲に見せ、かぶりつきの席で食い入るようにテーブルを見つめ始めた。
通りすがりの救急車が止まる。医者と看護師と患者がカテーテルごと走ってくる。
「メリー……ずるいわ、ずるいじゃない」
「ん? なぁにが?」
「私も確かめたいもん……メリーの口が本物か、どうか……」
一拍の静寂、
「…………うん。いいよ」
弾けるように、そこで人垣から大歓声が上がった!
丸めたスポーツ紙が高々と突き上げられる。店内で老夫婦が二人、ショットで小さな乾杯を交わす。
ねぇ貴方、今夜は私達も桃太郎よ。
「メリー……イタダキマス」
「どうぞ……う……んっ……」
メリーの戯れをなぞり、待ちきれなかった蓮子の拙い仕返しが唇の周囲を奪ってゆく。淡いタッチに似つかわしくない、身を捩るほどの快感にメリーはたまらない嬌声を上げて悶絶の切れ味、切なく響くその声音を爆発のような大拍手が塗りつぶした。二人の聴覚に取り残された渺茫たる静寂の空間の中で、二人きりの世界で、二人の少女は互いを確かめ合う。
蓮子が離れるまでの時間、あっという間、
ほんの一瞬の快楽。
「……ぅ……ん、蓮子、どうだった? 私の口。本物だった?」
「うん」
「足りない」
「うん」
とうとう賭場が弾ける。両者とも元返しで折り合った模様だ。
当たり前だ、ここは恋愛のコロッセウム。裸で戦い合った古代オリンピアの息吹の伝播。
今日の歩道には、お金じゃ買えない価値がある。
「夢と現実を分けること、嘘とホントを分けること……それって、別物なのよ蓮子」
「大丈夫――メリーは現実! メリーは夢! 私にとっての夢で――ホントだから」
……はふぅ、という気の抜けた声。
二つ向こうの席、持病持ちの親父が一人高血糖で倒れたのだ。
横目でちらりと見たメリー、その手から――ふと、ささやかなアンプルと無愛想な注射器がマスターに投げ寄越される。
「ヘイ、マスター……そいつは私のおごりさ」
「あいよ、お嬢ちゃん」
「ふふ。ねぇ蓮子……」
「ん?」
「私達の愛に、インシュリンなんて要らないの――」
蓮子の顔の前で、メリーがグッとガッツポーズを見せる。店の外で十人がホームランになった。
乱れきったその前髪をメリーが救うと、冷えてしまったミルクの滴がついた。
冷えてしまえば、ただのミルク。
温め直さないと、いけないね。
「蓮子、私達の口がどちらも本物なら」
「うん」
「きっと――直接触れ合う事だって、できるよね?」
メリーの腕にやおら力が籠もる。
それが、合図だった。
確かめるべき不確かを確かめる。大学のサークルだからいつまでも続かないこの秘封倶楽部かもしれないけど、夢と現には明確な違いがある。
時間に区切られないことが夢の特権だから。夢だけは、時間も年齢も飛び越して空を飛べる。
今宵私は渡り鳥。過去から現在、現在から未来へ宿り木無しで、春を探した北帰行。
蓮子、好き。
いっきの攻めでおしたおす。
「あぁん、蓮子!」
「きゃっ、メリー……!」
メリーの身体が宙を舞う。小柄な体躯が剽悍な太刀魚の如く尖って跳躍、次の瞬間にはテーブルごと重力に身を任せて宇佐見蓮子もろとも床にぶっ倒れる。帽子だけが宙にふわりと残り、まるでルパンのパンツのように空を舞って二人を祝った。
それが本当にパンツでなくて、心の底から良かったと思う。
もしあれがパンツなら……きっとほんの一瞬で、この現が夢になっていただろう。
今少しだけ、現実をむさぼれるね。
蓮子。
「いやっ……ちょ、めり、やぁっ」
「れん、まってこら、はげし、やっ」
――そこから先のことを、知る者はこの世に誰もいない。現し日の昼下がりに押し寄せた平日の大観衆が現を夢にしてしまった。
全員が口々に勝ち鬨の声を叫ぶ。蓮子の姿もメリーの姿も人波に呑まれて見えなくなり、高価なワインやブランデーの栓がポップコーンのように飛ぶ。牛に喰わせるほど運ばれてくるホットサンドやスパゲティナポリタン、その背景で古ぼけたスピーカーの吐き出す懐かしのボブ・ディラン。舞い散る粉チーズがライスシャワーに、舞い踊る大歓声がすべて二人への言祝ぎに変わってゆく。
誰かがバケツいっぱいのジャージーミルク4.2を仕入れてきた。店のバックヤードに山積みの上白糖を全部ぶち込んだなら、恋のガスコンロで豪快にぬるくなるまで炙ったなら、マスターがそれを抱えて椅子を踏み台に躍り上がったなら、愛が燃えるなら、睦み合う秘封倶楽部二人の頭上へ一気にそれをぶちまけた。
悲鳴にならない悲鳴が聞こえる。
程なく第二便もぶちこまれる。ヴォルテージは最高潮だ。
噎せ返るほどの乳成分とシロップのかほりが、狭い店内で複雑に木霊する。
全国ネットが午後のワイドショーを生中継に切り替えた。
歩道に入りきれなかった人垣が崩れ、近所のコンビニを襲撃してそこらじゅうでシャンパンファイトが始まる。吉田山の向こうで時計台の脳天が割れて巨大な打ち上げ花火が上がり、虹色アドバルーンが天を目指し、学長が弾んだ声で全学放送の祝電披露。横須賀でセーラーの男達が東京湾へ艦砲射撃を一発、敬礼。巨人ファンと阪神ファンが甲子園のフェンスを乗り越えグラウンドで野太く大合唱するはさながらベートーヴェンの歓喜にも似た「嗚呼、栄冠は君に輝く」だ。
店内で三杯目のバケツが浴びせられた。
ミルクが巡る。
甘さが巡る。
溺れるんじゃないかと心配な大量の白濁の海で秘封倶楽部はいつしか、アナタトワタシの境界を失っていった。互いの本当を未だ確かめ合い続けている! 彼我の区別など消え失せる。もはや服など当然一枚も着てやいない。二次元の女の子が秋葉原の改札を抜けて山手線へ乗り込む。隅っこの壁の取り付け台に置かれた小さなテレビで、総理大臣が満面の笑みで日の丸を振っていた。内閣が非常事態宣言を発令したのだ。
与党と野党が肩を組んで入り交じり、目を付けられた参議院議長の胴上げがNHKの国会中継で程なく始まる。今出川通りを東西に貫いてレッドカーペットが走る。国民の祝日への制定が決まった。遠い海の大量放水合戦さえもが空に虹を描き出す。世界から上洛する博愛の万国旗。賀茂河原で結びつき、等間隔に並んだカップルが一斉に白昼の最強○×計画を開始する。
――蝶ネクタイを引きちぎったマスターの元に、少女がふと訪れた。
騒ぎを向こうに空っぽの椅子へ無言で座り、カウンターに憂鬱の肘をつく。
メリーのスナップで、宇佐見蓮子とあーんなにくっついてた少女は、今は沈鬱になり、哀しげな視線をお冷やの水面に落としている。
想い出を遡って、一つ溜め息。
「短い夢、だったわ……」
真っ白に、燃え尽きていた。
「……お嬢ちゃん、何か飲むかい」
短いマスターの問い掛けに、顔を上げる。ミルクまみれのメニュー帖が、ちらりと横目に眺められた。
一つ頷き京都のイモ女は、潤んだ瞳をまっすぐ上げる。
「――紅茶をお願い。ブラックで」
マスターは、重々しく頷いた。
キャンパス近くの銭湯から老爺とラグビー部がそれぞれパンツ一丁で飛び出す。世界遺産指定の寺の住職が踊り狂って国道二号線に爆竹を投げた頃に、卯酉東海道新幹線はすべて京都方面へ折り返し運転を始める。叡山電鉄も嵐電も蹴上インクラインも喫茶店へ延伸する。東証平均株価の全銘柄が丸の内で証券マンの血管を振り切ったその頃に、アフリカの名も知らない国から友好朝貢特使が訪れた。でんでこと名も知らぬ太鼓を叩き言葉も分からぬ歌を唄う。世界の独裁者が友愛を叫ぶ、国債の全額が愛の食事代に変わる。
ソユーズが復活する。アポロのように甘いチョコが舞う。アメダスに乗って宇宙人が降りてくる。ご挨拶。気象衛星ひまわりが野原一面の満開になり、この世界の花の美しさをみんなに伝えてた。日本中のビールを空っぽにする痩躯の男が現れる。夢が現実に変わる。現実が夢に変わる。
真実なんて、世界のどこにもない。
世界は私達に干渉しない。世界に翻弄されている毎日があると嘆いても、そんなのすべてはまやかしだ。
私達は、私達の世界を変えてゆける力がある。
この世に放置された意地悪な嘘と欺瞞のすべてが、宇佐見蓮子とのキスの瞬間――すべて現実へと、変わるんだ。
現実へと。
フォンダンに包まれた現実へと。
ほらごらん。
富士山が、ホットミルクを噴火した。
……wandering milk? (巡るミルク。 世界は、どこへ行くの?)
……wondering milk! (甘いミルク。 世界は、ここへ来させるの)
れんこ。
――れんこ。きす、しようよ。
人を愛する本質は世界への怒りにあるんじゃないかって私、思ってみたりして。
夢と現実の境界はそりゃ私は見えるけど……世界はどうせ、ここに生きる人々の明日に何ひとつ手を出して来ないのよ?
ほら、動き出さなきゃ。
私達が、動き出さなきゃ。
ねぇ、これっきりの世界、みんな自分のせいにしちゃえるよ?
さぁ、一度っきりの人生、みんな私達のせいにしちゃおうよ。
――愛し合おうよ。
実弾で。
世界じゃそれを、ちゅっちゅと呼ぶんだぜ。
こっそり出演した神主に吹いたwww
……神主なら日本中どころか世界中の麦酒すら余裕だろうw
あと、さりげないイチローネタとか、捕鯨とか、その他モロモロw
途中まで真剣に読んでたけど濁流に飲み込まれましたw
秘封ちゅっちゅっちゅ!
最高峰のちゅっちゅSSだった ごちそうさまです
砂糖たっぷりのカオスフルでもうお腹いっぱいですわw
面白かったです。ちゅっちゅ万歳。
突っ込みたいところはたくさんあるのに
流されたから俺の負けww
そう、これが複雑系、平衡と最適化を求めることが不可能な現象にして
「世界がなにをなしうるかを世界自身に語らせよう」とする科学……んなわけねーだろ!
とにかく蓮メリちゅっちゅ!
感心通り越して驚嘆しました。お見事。
そしてホットミルク飲みたいです。
最高にちゅっちゅって奴だァッ!!
すいません。席一つ予約させてください。
この甘さ、秘封倶楽部だからできるのか。
ツッコミどころが突き抜ける勢いですべて流されてしまった。
そそわで一番甘い作品と聞かれたら思わず出してしまうな。
いややっぱりバカスwwwwww
もう何も言えません、点数で察してください。
1つだけ、アメダスは地上の観測施設なので宇宙人は乗って来れません。がちゅっちゅの前ではどうでもいいですね!!
求め合う二人を前にして、もはや何もかもに突っ込みを入れることが不粋だと悟りました(遠い目)
そうだ 京都、行こう。
ちゅっちゅ