「いやぁ、風流だねぇ」
天蓋に映る満月。
庭をうっすらと包む白銀の衣。
白い化粧を纏った木々と、無骨に座りっぱなしの庭石たち。
その全てが、月の淡い光に照らされて、まるで幻のように儚く映る。
景色を肴に、酒に酔い。
酒を味わい、風に酔い。
風に流るる、雲に酔う。
月をときおり隠すよう薄い雲が舞う様を眺め、肌を刺す風を感じながら片手を掲げる。
どこかの歌にあるように手を星々に翳すと、届きそうなのに届かない。
澄んだ空気のせいでより一層近く感じるのに。
自分はここにいるのに、星達は、降りてきてくれない。
自分の能力を使っても星達はそこにいるまま、ただ笑みを浮かべるように 瞬いて見えた。
何も語らず、何も求めず。
このままでいいと、そう諦めたように笑う星々。
そんな夜空を見上げていると、なんだか懐かしい景色を見ているよう。
ただ酒を傾け続けるだけで胸の中が満たされていく。
こんな充足感を味わうのは、幾年ぶりか。
一人で酒を味わうようになってからは、もしかすると初めてかも知れない。
私は縁側で揺らしていた足を折り畳み、胡座を組んだまま体をゆっくり前後させると、じわじわと温もりが身体の中を流れている様がよくわかる。急に身体を動かしたせいで酔いが加速したのだろうか。
さあ、夜が終わるのが先か私がつぶれるのが先か、勝負としゃれ込もうじゃないか。
酒が途切れることのない伊吹瓢の蓋を口で開け、そのまま咥えた蓋を荒々しく吐き捨てた。ふらつく身体を気にせず瓢箪を大きく傾けると、廊下に酒が飛び散るのを気にせずに、小さな滝を飲み干すように酒を煽る。
唇から漏れた酒を腕で拭き取り、大声で笑っていると。
わずかに廊下が軋む音が、微かな振動と一緒に伝わってきた。
それは私とは違う姿をした種族、この世界に多くいる『人間』というやつの一人。その中でも特に変わり者の部類で私の姿を見ても驚くどころか、呆れた顔を向けてくる。どうせまた私の気分を台無しにする言葉をぶつけてくるのだろう。
そう思って目蓋を半分だけ下げて、手が触れられるほど近くまで歩み寄った人間を見上げる。すると季節はずれ脇の空いた服を着た少女が、月影に顔を陰らせたまま私を覗き込んでくる。
「そういう飲み方してると、身体壊すわよ」
やはり私の気分に水を差す言葉を吐いてから、あろう事か私の角を軽く小突いてきた。
なんと無礼なのだろうか、この人間は。
「らにぃってるーのぉっ? わぁ~たひがぁ? おさけでぇからだこわすぅらんてぇ。
ありえないれしょぅ?」
「……その妙な呂律でしゃべられてもまったく説得力ないんだけど。
それに軽く触っただけなのに倒れちゃってるし」
「おろ?」
何か世界が急に横に傾いたと思ったら、今の軽い一撃でどうやら廊下で横になってしまったらしい。頭がそう理解してから少し遅れるように、背中にひんやりとした感触が伝わってくる。やはりお酒のせいで感覚が鈍くなったためか。
そのまま大の字に両手を広げれば、体に帯びた熱と廊下の冷たさが相殺しあって実に心地良い気分だ。問題があるとすれば、半分以上の風景が殺風景な天井になってしまうこと。
「あー、おこしてー」
「いやよ、どうせまたすぐ横になるんでしょう?
これ以上手間を増やさないで」
「軽く手を引っ張ってくれるだけでいいからぁ~。
天井見ながらお酒なんてつまらないよぉ」
「はいはい、わかったわよ」
嘆息を吐きながら縁側に腰を下ろした霊夢は、片手を廊下について体を捻りながら私の方へと右手を向けてくる。
最初からそうしてくれればいいのに。
私は心の中で愚痴を零してから両手を差し出した。すると彼女は『もぅ』っとまた毒づいて、体を支えていた左手を廊下から離し、私の両腕をしっかり掴む。そして何故か目を丸くしたまま私の体を起こす。
「ちょ、ちょっと萃香。なんて体温してるのよ!
待ってなさい、毛布持ってきてあげるから」
「んー、別に寒くないんだけどなぁ」
「鬼じゃなかったら絶対凍死する発言ね、それ。まあいいから待ってなさいって」
お節介だなぁ、まったく。
鬼である私が、この程度の寒さでどうにかなると思っているのだろうか。なんと人間の浅はかなこと。
愚かで、
無能で、
傲慢で、
自分の利益のためにしか動かない。
自分が救われるのなら平気で嘘を吐く。
そんな種族のせいで私たち鬼は住処を奪われ、私一人だけがこの場所に残った。
地底の都に残ったものもいたけれど、それでも私は地上という季節を肌で感じられる世界が好きだったから。
いや、そうじゃない、か。
私が変わり者だから。人間だろうがなんだろうが、一緒に騒いで大笑いできる場所があればいいと思う。そんな馬鹿な鬼なだからこそ、この世界が受け入れてくれたのかもしれない。
酒を飲みながら、そんな考えを繰り返していたせいか、なんだか月明かりまで暗く感じる。
それはまるで、月を雲が隠してしまったかのような。
ばさっ
「うわぷっ!」
「大人しくそれでも被ってなさいよ。風邪ひかれても面倒だし」
雲か何かで隠れたと思ったら、どうやら霊夢が投げつけてきた毛布に私が覆われただけ。角が引っかかって取れない布を酒に犯された体でやっとのこと取り外し、肩にかけると。
何故か肩にかけたそれを奪われそうになる。
「むぅ~、引っ張らないでよ。私の毛布」
「いつからこの私の家の物があんたの所有物になったのよ」
「そうじゃなくて、もう一枚もってくればいいのにって思っただけ」
「まったく、わかってないわねぇ。こうするのよ」
冷えた体を優しく温めてくる感触が、すぐ近くに生まれる。
なんのことはない。
ただ霊夢が私のすぐ近くに座り、肩を抱いて引き寄せただけ。私はそのまま角が邪魔にならないような位置を探して、霊夢の肩に頭を預ける。そうやって私が体の力を抜いたのを見計らい、霊夢はその毛布の位置を直し二人の上半身を包むようにする。
「こうすれば、すぐ暖かくなれて。毛布も一枚で足りる。
あなたの体が温まれば、私もホカホカ。
一石二鳥でしょう?」
「でも、ひとつ問題が」
「なによ?」
「霊夢が酒臭い」
「あなたにだけは一生言われたくない台詞よね、それ。
まあ、確かに今日はいつもより飲みすぎたかもしれないけど」
照れているのか、それとも酒のせいか。
ほんのり赤くなった顔を私に向けて、彼女は微笑んでくる。その顔を上目遣いでじーっと見つめていると、私の口から大きな欠伸が毀れていた。
体が暖まったせいで、今度は眠気が襲い掛かってきたようだ。
そうやって安心しきった私を見て、また霊夢が恨めしそうにつぶやいた。
「お酒のせいで体を動かしたくないのに、誰かさんがまったく手伝ってくれないから」
「片付けなんて明日で良いって言ってるのに、やるほうが悪い」
「あのね、汚れた皿が次の日どれだけ洗いにくいか。それをわかってて言ってるの?
こんな寒い冬の中で水仕事が長引くのだけは嫌」
定期的に行われる、博麗神社の大宴会。
人間だけでなく吸血鬼や亡霊までやってくるその酒宴がさきほどまで開かれていて、霊夢はその簡単な片付けをやっと終えたところ。久しぶりに地底の知り合いと出会えた私は宴会が終わっても興奮を抑えることができず、ずっと月を肴に酒を傾けていたところだった。
「誰かさんは手伝うっていってたんだけどね~、鬼のくせに嘘つくなんて」
「むむ、失礼な。私は嘘なんて吐いた覚えないよ。
ちゃんと明日の掃除とか力仕事のほうは付き合うつもりだし。
それと、前から言ってると思うけど、鬼は嘘を吐かないものなんだよ」
「ん~、正直、私には信じられないわね。簡単に人のものを取っていくウソツキ魔法使いもいたりするし」
「霊夢も人間だからね」
「嘘の大切さをしっているから嘘を吐くこともあるから。それに気が楽だしね」
「ふふん、だからそれこそ鬼が鬼たる所以だよ。
言葉の重さを知りながらそれを受け止める、例えどんなことでもね」
例え何者が相手でも、それがどんな結果を生むとわかっていても。
私たちは嘘を吐かない。
自分を偽りなく表現し、それを生き様とする実に私たちらしいやり方だ。
空から降る雪が、葉の上に落ちて消えるように。
短い生しかもたない人間には理解できないかもしれないけれど。
「だからさ、自信を持っていいんだよ。
私がここまで本音で語り合うのは、人間では霊夢くらいなんだから」
「見た目お子様にそんなこと言われてもねぇ。嬉しいかどうかは微妙ね」
そうやって嫌そうに体を震わせる霊夢だけれど、私は知っている。
それが嘘だって知っている。
気付かれないようにこっそり、視線を上に動かせば。
月を見上げながら、少し気恥ずかしそうな顔があることを。
こんな嘘ならいいかもしれない。
そんなことを考えていると、自然と私の瞼が降りてきてしまう。
この温もりを手放したくなんてないのに。
私の意識を別な世界へと――、
「……さま! 酒呑童子様!!
『酒呑童子 萃香』様!!」
――ん?
聞きなれない名前を呼ばれて、私は痛む頭を抑えながらうつ伏せにしていた身を起こす。
すると体の上に載せられていたと思われるふかふかの毛布が体から滑り落ち、体の横に落ちた。
四つん這いのまましばらくぼーっと白い敷布団を眺めていた私は、その布団の横の畳の色がいつもと少し違うように感じた。
「……あれ?」
それもそのはず。ふと顔だけで周囲を見渡せば、そこはいつも寝泊りしている神社とはまるで違う建物だったから。無駄と思えるほど広い部屋の隅には大きな朱色の柱、梁も同じような朱色で鬼が好む色彩をしていた。
まるで私のために用意されたかのような、知っているようで何か違和感を与えてくる部屋だった。
「ここ、どこ?」
二日酔いだろうか、痛む頭を抑えながら立ち上がろうとすると足がふらつき、近くの壁にぶつかろうとしてしまう。それを慌てて止めたのは、さっき私を起こしたと思われる人物。白い髪と赤い角張った帽子と、犬のような、いや、狼のような耳が特徴的な。
確か、椛という名前の白狼天狗。
「もう、ですから! 昨晩も私があれだけ深酒をしてはいけないと注意しましたのに!
酒呑童子様はいつもいつも……」
そして私を支えたまま、ゆっくりと布団の近くに連れて行こうとする。
そこには綺麗に畳まれた私の服が用意されており、それを見てやっと、私があられもない姿でふらついていたのだと気づく。
そりゃあ椛も困るだろうさ。
こんなぷよぷよの脂肪の塊が目の前にあったんじゃ。
「あれ?」
本日三回目の疑問の声が私の口から漏れた。
何これ? なんで私の胸にこんな脂肪の塊がついているんだ?
しかも椛の顔が妙に低い位置にあるような、
服だって妙に大きい気がする。
それに、気になることがもう一つ。
「ねえ、椛。『酒呑童子 萃香』って誰のこと?」
そんな私の素朴な疑問に、椛は『またですか』とつぶやきながら心底落胆したように肩を落としてしまう。
「またですか。またなんですか萃香様はもぅ~~~~!
この前改名したばかりじゃないですか!
正式に山の四天王と名乗るため、幼名の『伊吹』から『酒呑童子』に改名するって御自分から! 『もう体も大人になったし伊吹って呼んだら殴る』って!
もう私二回ほど殴られたんですからね!」
いや、そうやって殴られたのは椛の責任ではなかろうか。
殴ったの私なんだろうけど、あまり記憶がない。
何か、もやがかかったというか、寝惚けたままというか。本当にここが現実の世界かすら危うくなるような、地に足がつかない感覚が気持ち悪い。
「ほら、いつまでも裸でいないで、服を着てください!」
そうやって、椛に無理やり背を押されたせいで、畳んであった服を踏んでしまう。くしゃくしゃになった、見慣れているが大きさの全く異なる服。
それに袖を通していると、やっと私の記憶が鮮明になり始めた。
「そうだったね、私の力で、仲間を妖怪の山に戻したんだった」
久しぶりに現れた仲間たち、『鬼たちの姿』
それ見て私は歓喜した。
また昔のような日々が送れる、と。
その嬉しい衝撃が引き金になったのだろうか。
私の体の成長が始まり、あっという間に勇儀にも劣らないほどの肉体となったのだ。その後私は集まった鬼と勇儀の力を借りて山を取り戻し、そこで新たな生活を始めたのだった。
鬼たちとの暮らしは、楽しかった。
毎日毎日、宴会騒ぎで酒も料理も食べ放題。
しかし最高の酒の肴は、自分たちがどうやって暮らしてきたかという身の上話。何せ何百年も積もり積もっているのだから、飽きることはない。
本当に時がたつのを忘れるほど楽しくて、楽しくて。
楽しすぎて――。
私たちは、幻想郷の戒律を驚くほど簡単に破った。
奢れる者が、とうとうその本性を現したのだ。
だって、鬼は人を攫う者。
人を喰らう妖怪なのだから。
そしてその行為は親しかった友人を、あっさり敵へと変貌させた。
「紫、霊夢……」
懐かしい名前を呼んでも、隣にその二人はいない。
なぜなら、彼らは幻想郷を守る者。
そして私たち鬼は、それを奪う者。
こんな派手な生活を繰り返していれば、破滅しかないとわかっていながら。
それをやめられない、高貴で哀れな種族。
一時の繁栄を求めるだけの種族。
「ああ、そうだった。
深酒の理由、やっと思い出したよ。椛」
『伊吹瓢』
唯一私の名残を残す瓢箪を手に、私は瞳を閉じる。
この日だけは迎えたくなかったから。
馬鹿みたいに昨日は酒を飲んだ。
すべてを忘れるために、すべてを記憶から消すために。
それでも拭いきれない事実は、私の小さいままの心を押しつぶそうとする。
「酒呑童子 萃香様、いよいよ、決着をつけるときかと」
「ああ、わかってるさ。天狗たちはちゃんと準備をしておきなよ。全てが終わった後に少しでも多く逃げ延びられるように」
「いえ、しかし! 萃香様のような方が他の下賤な鬼と同じ道を進むなど!」
「下賤か。そうさ、椛。鬼って言うのはね、自分の感情に正直で」
苛立ちながら、部屋の襖を蹴破り、外に出ると。
そこには、見事な満月が浮かんでいた。
「どうしようもない。救いようのない馬鹿ばかりなんだよ」
昔、ある神社の縁側で見たような。
そんな懐かしさを感じさせる満月が。
――決着は、呆気ないものだった。
なんの面白みも、感慨もない。
だってそうだろう?
幻想郷には長く鬼がいなかったから、その正式な退治方法を記録しているものなどなかったのだから。警戒するべき人物、紫が動いたなら結果は違っていたかもしれないが、彼女は傍観者を決め込んだ。
まるで私の愚かな行為を軽蔑するように。
いや、もしかすると、もうこの世界からは消えているのかもしれない。
だから、鬼に対抗する者はあまりにも無力。
力と力でまともにぶつかれば、どちらが勝つかなど火を見るよりも明らか。
それでも彼女は、引かなかった。
力で押さえつけようとしても、それでも彼女は飛ぼうとするから。
「霊夢、久しぶりだね」
「そうね、久しぶり、元気そうで安心したわ」
月明かりの下、地に膝をつきもう立ち上がることすらできないほど疲労した彼女に、過去の面影はなかった。私が成長したように彼女も大人の女性として成長していたから。
「もう少し、迷いとかそういうのがあると思ったんだけど」
「そうだね、私も不思議だよ。きっと私はこうなるとわかっていたんだね。無作為に仲間を集めた頃からさ、頭ではわかってるつもりだったんだけど。
あーあ、成り行きで鬼の頭なんかに座るんじゃなかったなぁ」
「悪役ならそこで、『すべて予定通りだ』とか言うものよ?」
「悪いね、嘘は吐けないんだ」
「ええ、知ってる。変なところだけ、昔のままね私たち」
「意地っ張りだよね、お互いさ」
彼女をここまで疲労させるために、五人の仲間が犠牲になった。
鬼が正攻法で戦って、打ち負かされたのだ。
それだけで彼女がどれだけ強大だったのかがわかる。
人間と分類するには規格外の実力。
たった一人の人間が、五体の鬼を完封して見せたのだから。
「でも、まさか霊夢一人で来てくれるなんて思ってもみなかったよ。
それなら、私も一人で来るんだったかなぁ」
「そーよそ-よ、この卑怯者。力がある妖怪ならもう少し正々堂々やりなさいっての」
「あはは、ごめんよ。一応鬼にも立場ってものがあってね。霊夢この前、人里を襲った私の部下を一人退治しちゃったから。人間に嘗められたまま終われないってことになったんだよ。鬼全体の沽券に関わるっていうことさ」
「それで、みんなで突撃ってことね。仲がよろしいことで」
でも、あくまでも彼女は人間。
そんな無茶な戦い方が長続きするはずもなく。
思ったよりも簡単に、限界が訪れた。私の後ろにはまだ、十人近い鬼がいるというのに、立ち上がることもできなくなった霊夢。そんな懐かしい友人に対し、私はただ敵意を向けなければいけない。
「紫は、どうしたの?」
「ああ、きっと今新しい幻想郷にみんなを移しているところね。
そろそろ終わった頃じゃない? あっちの世界での巫女は早苗がやるっていうし」
「そうか、だからか。できれば山の天狗たちもお願いしたかったんだけど」
「ん? 鴉天狗なら一番早く準備してたわよ? ばれないようにするの大変でしたーって文も言ってたし」
「ははは、あの子らしいね。本当に」
鬼の威厳。そんなものを守るために河童や天狗が犠牲になることはない。
そう思っていたから、私は素直に喜んでいた。
私たちが好き勝手やっている間に、ちゃんと紫は裏で根回しをしてくれたということか。
「紫も褒めてたわよ。よく、鬼たちを纏め上げてくれたって。
おかげでなんの危険もなく下準備ができたらしいから」
「偶然だよ、私はこの世界に迷惑をかけただけだからね。でも、それをわかっていても、鬼ってヤツは生き方を変えられないんだよ。力がある癖に不器用なヤツが多いんだ」
「一番不器用なヤツが私の前にいるけどね」
「当たり前だよ、鬼の中でも一番偉い立場になったんだから。
不器用さも一級ってね」
そういう不器用な仲間のために、この手を使わなければいけない。
無抵抗な彼女を前に、私は進まないといけない。
私には、責任があるから。
これだけ多くの鬼を招いた責任があるから。
「霊夢、最後のお願いなんだけどさ」
「うん、何?」
「私たち、また一緒の道を歩くことって、できないかな?」
人を捨て、鬼となる。
それは人の歴史の中で実際にありえたこと。
力を持った人間が、外法により変化し鬼となる。
霊夢がそれを望まないと知りつつ、
私は彼女の『嘘』に期待した。
嘘でもいいから、今だけ鬼になると言って。
私の前から逃げて欲しかった。
叶わぬ願いと、知りながら。
「……馬鹿ね、萃香。私のことよく知ってる癖に」
満点の星空、虚ろげに輝く満月。
そんな淡い光の下、私を見上げる女性の笑顔はとても美しくて――。
「死んでも、嫌よ」
凛々しかった。
その場にいる鬼よりも。
私よりも。
だから私は、最期に聞いてみたくなった。
彼女の心の声というものを。
「じゃあ、なんで逃げてくれなかったのさ。
紫がした準備をしていたってことは、この世界に鬼だけ残して見捨てることもできたんでしょう?
そうしてくれれば霊夢だって!」
冷静なまま尋ねるつもりだったのに、いつのまにか私の声は上擦り。最期は悲鳴のようになっていた。それでも霊夢は優しい笑顔を絶やさぬまま、まるで当然のようにはっきりと言う。
あの頃の、少女でいたころの表情になって。
「今思い出してみたらさ、私あなたの我侭に結構振り回されてきたのよね。
あの異変で出会ってから、神社に居座ったりするし。でも、なんていうのかな。それが悪い気分じゃないって言うか。
だからさ、最期の最期も付き合ってもいいかなって思っただけよ」
「そっか、思っちゃったんだ」
「うん、大切な飲み友達だしね」
「そっか、うん。ありがとう、霊夢」
私はそんな、友人の細い首に両手をあてがい。
瞼を、閉じる。
そして、その綺麗な満月の夜に、博麗の名は幻想郷から失われた。
それと同時に、世界が変わる。
一つの大きな守護を失った世界が、あることを思い出したかのように。
ゆっくりと、非現実を否定していく。
幻想が、終わりを告げていく。
鬼達はそんな世界の崩壊すら愉しむように、各々酒瓶や酒樽を抱え乱暴に笑っていた。
勝利を祝うでもなく、ただ大騒ぎで酒を食らい込む。
そんな鬼の中、一際美しい女性が加わり、狂乱をより艶やかに彩った。
その美しい鬼は舞を踊りながら杯を持ち、何度も何度も喉を鳴らす。
零しても、飲み干しても。並々と注がれる勝利の美酒に酔う。
美姫の最後を飾るはずの酒は、甘美なもののはずなのに。
この世のものとは思えないほど、美味なはずなのに。
何故かすこし、塩辛く感じた。
そして彼女が舞を終え、最期に大きく杯を傾けたところで、地面が割れた。
口を開いたのは、現実の世界への扉ではなく。
紫がよく使うスキマのようなものが空間に走る。
きっとこれが、裏切った友人への彼女の置き土産。
鬼たちはただ世界の割れ目へと落ちて行く。
夜よりも、闇よりも深い、混沌の渦の中に吸い込まれながら。
美しい鬼は嗚咽を零し、
ただ、ごめんなさい、と叫び続け――、
――瞳を開ける。
開きっぱなしの瞳孔のまま、
嫌な汗で濡れた体を起こし。
毛布を跳ね除ける。
見覚えのある部屋で意識を取り戻した私は、暗がりの中必死にその人影を探す。
この世界が本当に私が知っている場所なら、必ずいるはずだから。
そうやって暗がりの中ゆっくり顔を動かすと、その姿が視界に入った。
「!?」
白い布団の中で、瞳を閉じる少女。
彼女が横になっている姿を見つけて、一瞬だけ心臓が止まりそうになる。
何に脅えている。
何を恐れている。
どうして、そんなありえないことを想像するんだ。
私は、震える手を彼女の口元に持って行き。
手に当たる暖かい息吹を感じて、安堵した。
あんな夢を見たから。
鬼が嘘を望むなんて、ありえない夢を見たから。
霊夢がいなくなるなんていう、馬鹿な夢を見た後だから。
障子越しの月明かりに照らされて真っ白に見えた霊夢の顔が、死人のように見えてしまった。
もしかしたら、なんて思ってしまった。
一瞬だけ霊夢が、永遠の、安らかな眠りについているんじゃないかと。
馬鹿な想像をしてしまった。
いや、本当にアレは夢なんだろうか。
今ここにいる私は、現実に存在しているんだろうか。
もしかして、今ここにいる私の方が幻で、懐かしい過去を妄想しているだけなんじゃ。
だってあの夢の、霊夢の首に両手をかけた感触がはっきりと手に残っている気がしたから。
あの、細く柔らかい部分を破壊する。
恐ろしい感触が……
「あぁ、ぁぁぁぁぁ」
私は、さっき投げ捨てた毛布で体を覆い。
畳の上で丸くなり、身体を強く抱きしめる。
自分で自分の身体を壊してしまうくらい。
自分が本物だと、そう証明するために、痛みだけを身体に与える。
力を入れすぎた私の手は血の気を失ったように硬く強張っているようだった。
そうやって吐き気を同時に体を這い回る不安。
それを振り払うために強く唇を噛んでいると、いつのまにか血が滲み、畳の上にうっすらと血の痕を残す。
それでも恐怖は身体の中を駆け巡るばかり。
次にまた眠ったら、私はまた大人の姿をしているんじゃないか。
大人の姿のまま、取り返しのつかないことをした罪悪感に蝕まれる。
それが現実なんじゃないか。
この小さな身体は幻に過ぎないんじゃないか。
そんな迷いを振り切るために、自分という存在を確かめるように、私は畳に額を擦りつけた。
額に伝わる畳の弾力。そしてい草の匂い。
それを感じているのに、まだ頭の中の迷いは私をどんどん闇へと追いやろうとする。
誰かに、助けて欲しいとそう願うのに。
『お前は違う、ニセモノだ』
誰かからそんな言葉をぶつけられそうで、息が止まりそうになる。
助けてという、そんな簡単な声すら上げられない。
それだけでももう心が押しつぶされそうだというのに。
それでも、私はなんとかその苦しみから逃れようと。
ゆっくりと、アレは夢だと心に言い聞かせ続け、不安を誤魔化そうとした。
それでも苦し紛れの私の行動は、最悪な想像を私の中で作り出す。
もし、あれが夢だというのなら。
無意識に自分の頭が映写したものなら。
一時を謳歌するために、鬼たちを呼び寄せ幻想郷を破壊するほどの狂乱の日々を過ごすこと。
それを私の鬼の本能が求めているのではないか。
無意識に、この手に掴みたいと思っているのではないか。
その過程で親しいものを裏切るということにすら快感を覚え、まるで自分が世界の主役になったように興奮し、そうやって自分が狂っていると知りながら世界とともに儚く散る。
大好きな、彼女と共に散る。
そんな自分よがりの願望に世界を、霊夢を巻き込みたい。
そう思う部分が私の中に、無意識にあるんじゃ。
愛しい物を壊してしまいたくなる、狂った破壊衝動が私の中に眠っているんじゃないか。
そう考えてしまっただけで、もう何もできなくなる。
この激しい感情の渦が、暴れるのを止めるまでじっと耐えるしかなくなる。
私は、今のままがいいのに。
怒られても、貶されても、霊夢や紫と一緒にいられるこの世界がいいのに。
毎日が楽しいはずなのに、一体私の頭はどうなってしまったというのか。
全身の震えが収まらず。
それに伴い、毛布からはみ出した私の角も小さく震えていた。
そんな私の左側の角が、
無言のまま誰かに引っ張られる。
予想もしていなかった力に、私はそのまま毛布を剥ぎ取られるように引き寄せられ。
ぎゅっと暖かな感触に包まれた。
私の頭をおもいっきり押さえつけ、苦しいくらいに抱きしめてくる。
それでも、その心地よい力強さは、私の心に浮かんだ不安を少しずつ取り払ってくれた。
春の日差しが、厚い氷をゆっくりと溶かすように。
「……落ち着いた?」
優しい声に、私はか弱い少女のように頷くしかできない。
そんな私を、霊夢は笑うことも。怒ることもなく。
ただ穏やかに頭を撫でてくれる。
「どんな夢を見たか知らないけど、大丈夫。大丈夫だから」
「……ん」
何が大丈夫なのかはわからない。
それでも、霊夢は大丈夫といい続けて、私を暖めてくれた。
その呪文は私の心から不安という暗雲を消し去っていき、暖かな日溜りのような感覚だけが私を包んでくれる。
「霊夢、霊夢はどこにも、いかないよね?」
そんなか細い、私の声。
人間だから、彼女は私よりも先にこの世から旅立つ。
自分でもそうわかっているのに、そう尋ねてしまう。
それでも霊夢は、私の口元の血を指で拭いながら。
「ええ、どこにもいかないわよ。
ずっと、ね」
また私に――、
優しい、優しい嘘をつく。
そんな優しい『嘘』に抱かれて、私はまどろみに落ちた。
この幸せが『嘘』でないことを祈りながら。
もし実際にそんな事になったら幻想郷の皆が止めてくれるよ。
寝る前に読めてよかった、おかげで良い夢が見れそうです。
そっちが本当で、自分の方が嘘なんじゃないか、って思うこと、ありますよね。
そして、そうだと認めると、今までの自分を嘘だとすることになります。
でも貴方が鬼だとかどーでもいいとして、貴方が嘘をつく筈ないじゃないですか。
こんな正直な娘を前にしたら、嘘つきだって、自分に嘘をつきますよ。
だから、あなたがこの幸せを望んでいること。これは嘘じゃないですよ。
なんて、
嘘ではなく本当に
胸に来るものがありました。
大丈夫、そんなことにはならないよ萃香。
感じた幸せは絶対に嘘じゃない。絶対に。
夢から覚めた時の霊夢との会話など良いものでした。
一字余計な部分があったので報告です。
>そんな馬鹿な鬼なだからこそ
『鬼だからこそ』かと。
久しぶりに何かほんわかできました。
嘘だけど。
それはおいといて、鬼は嘘をつかない、故に嘘を恐れる、ですか。
いい話をありがとうございました。
すいれいむ最高
ラストがどういった未来を暗示しているのか、ちょっと気になりました。