私の体が落下してゆく
深い深い空に足を向け、地表へと風を切り、落ちる
頭上には大地、足元には空
空気を切る音が煩いくらいに聴こえる
ああ、地面がもうこんなにも近い
このままじゃ私、死んじゃうな
死んだら、どうなるのかな
閻魔様のところにいくのかな
幽々子のところにいくのかな
まあ、どちらでもいいか、あとで判るし
――ム
誰かの声がする
風が煩くて、よく聞こえない
―イム
体が動かない
力が入らない
ああ、なんか、それも気持ちいいや
でも、誰の声なんだろう
私、誰と一緒にいたんだっけ
あれ、わたし、なんでおちてるんだっけ
――レイム
ぐしゃ
「―――――――ッ!!!」
博麗神社内の寝室、その布団の上で、博麗霊夢は目を覚ました。
勢いよく身を起こしたその体は汗に塗れ、濡れた寝巻きがじっとりと肌に纏わり付く。
ハァッ、ハァッ、と息を切らしていた霊夢は、一度深呼吸をして落ち着きを取り戻した後、言った。
「…また、落ちる夢……」
霊夢は数日前から同じ夢を見続けている。内容は決まって必ず、高い高い場所から落ちる夢。最初はただ飛んでいるだけでの夢だった気がする。それがいつの間にか落下に変わり、日を重ねる毎にその距離は増し、そしてとうとう、今日の夢で地面に墜落した。「ぐしゃ」という生々しい音までする、気味の悪い夢。
まずはこの汗をどうにかしよう。そう思い、霊夢は立ち上がった。体を動かすたびに、汗の湿り気と皮膚に張り付く寝巻きの密着感が不快で仕方がない。霊夢はその足で脱衣所へと向かう。部屋の襖に手をかけたとき、呟いた。
「…ったく、自分の名前が恨めしく思えるなんて、最悪ね」
「霊夢」という言葉には予知夢という意味がある。
この夢がただの夢では済まされないことを、霊夢自身、嫌というほど理解していた。
▼
「ほら2人とももっと急いでください!見失っちゃいますよ!?」
東風谷早苗が意気揚々と空を飛ぶ。その後を追うのは、博麗霊夢と霧雨魔理沙。
「ったく、なんであいつはあんなにヤル気満々なのよ」
「さあな。でもいいじゃないか。これはこれで面白そうだぜ?」
からからと笑う魔理沙を尻目に、霊夢は溜め息をついた。「別に面白くもなんともないわよ」という返事の代わりに。
3人は今、悠々と空を飛ぶ宝船の後を追っている。ただの噂だとばかり思っていた空飛ぶ宝船が目の前に現れれば、その後を追わない訳にはいかない。早苗は記念すべき妖怪退治デビューに、魔理沙は好奇心の赴くままに、霊夢はどうせ妖怪の仕業だろうといつもの仕事に、と3人それぞれの目的の為に空を飛んでいた。
「なんだなんだ?霊夢は随分とテンション低いな。目と鼻の先に異変があるんだぜ?面白いことこの上ないじゃないか」
「それはそうかもしれないけど……」
霊夢は早苗や魔理沙の様に目の前の異変に心を躍らせることが出来なかった。宝船などどうでもよくなる程に、あのことが気がかりだった。
あの落ちる夢が、頭から離れない
霊夢の意志とは無関係に、あの夢の場面がフラッシュバックする。夢の中の空も、今日の空の様に青く澄んでいた。春を迎えたとはいえ、まだ風が冷たく感じる。そのことまで、似ている気がする。
嫌な予感する
時間が経てば経つほど、霊夢の心に不安ばかりが募っていった。思い切って魔理沙に打ち明けてみようかと思ったが、相手は魔理沙だ。「どうせ勘だろ?」とあっけらかんに答えるだけだろう。こんな時、一番頼りになるのは、多分、紫なんだろうな…と思った。
「もうっ!置いてっちゃいますからね!」
気がつくと、早苗と宝船は霊夢たちから大分離れていた。相当な大声を出したのだろう。早苗の声は荒々しいものだった。
「やべ、急ごうぜ霊夢!」
そう言って、魔理沙はスピードを上げた。急激に加速するため、吹き飛ばないように帽子を手で押さえた。
その動作に霊夢は焦る。このままでは本当に置いてけぼりを食らってしまう。
「ちょっ!ま、待って……」
そこまで言った時、
ぐらり
「あ?」
突然視界が揺らいだかと思うと、そこで霊夢の意識は途絶えた。
「…れいむ?」
魔理沙がこの状況を把握するのに少し時間がかかった。「友人がどんどん地上へと落下していく」という状況はその間にも着々と進行していて、もうすぐ、取り返しが付かなくなる。
「―霊夢ッ!!」
魔理沙は急降下した。進行方向を垂直に、落ちていく霊夢目がけて、最大限の速度で降下する。しかし、霊夢の落下速度は思った以上に速い。辛うじて上回っているようだが、地面に直撃するまでに間に合うかどうか判らない。
ヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイヤバイ
魔理沙の思考を三文字の言葉が支配していた。
地面がもうすぐそこまで迫っていた。霊夢と魔理沙の距離も縮まってきたが、魔理沙の視界いっぱいに広がる地面が、距離感を狂わせる。それが更に魔理沙の焦燥感を煽っていった。
「レイム!!」
魔理沙は叫ぶと同時に、左手で力いっぱい箒を握り締め、右手を力いっぱい伸ばした。
手が、激しく靡くスカートを掠めた。
もう少し、もう少し、そう思いながらも、右手はスカートの裾を掠めるばかり。地面がより一層大きく見えてくることも相俟って、焦るあまり手つきが雑になる。空を切る音に負けないくらい、自分の心臓が煩く鳴り響いた。
「――レイムッ!!」
これが最後。魔理沙は叫ぶと同時に身を乗り出すように思い切り手を伸ばした。そして、靡くスカートの裾を、しっかりと握り締めた。霊夢の体を一気に引き寄せ、抱きかかえると、急停止を試みた。しかし、凄まじい速度で落下する二人は、そう簡単には止まることは出来ない。地面と水平に飛んだ場合の緊急停止とは異なり、落下の場合は重力にも打ち勝たなくてはいけない。それは魔理沙といえど至難の業だ。徐々に速度は弱まるものの、地面はもうすぐそこだ。
もう、間に合わない
ぐしゃ
「っだあ!!!」
春を迎えたばかりの大地は雪解けの水分を吸収してぬかるんでいて、これが幸いした。ぬかるんだ土と濡れた草がクッションとなり、魔理沙の体を受け止めたのだ。着地の際、「ぐしゃ」という音と共に泥水の飛沫が上がったため、二人の服は泥まみれになった。
「いってぇぇ……」
地面がぬかるんでいたとはいえ、着地の衝撃は生身の人間には厳しい。尻餅を付く形で着地した魔理沙は、あまりの痛みにそこから動けずにいた。勿論、霊夢を抱きかかえたまま。
目尻に涙を溜めたまま、霊夢を見遣る。霊夢はまるで眠っているかのように…………いや、本当に寝ている。スー、スー、と小さな寝息を立てながら目を閉じる姿は、正に安眠と言ったところか、とても心地良さそうだった。
なんだコイツは……と思いながらも、友人の安否を確認出来たことに変わりはない。魔理沙の口から安堵の溜息が漏れた。それと同時に、少し離れた所で、いつの間にか吹き飛ばされていた魔理沙の帽子が、パサリと静かに着地した。
▼
誰かが襖の向こうから声をかけてくる
どうぞ、入っていいわよ
入ってきたのは、私のよく知る人
ああ、紫、今日は何の用
え、何でそんなにこわい顔をしてるの
どうしてそんなに怒っているの
わたしが、なにをしたの
痛い
お願い、やめて、叩かないで
痛い、痛い、やめて、お願い
嫌、いや、いや、イヤ
「おっ、やっと起きたか」
「……魔理沙?」
「おう、魔理沙様だぜ」
霊夢は自室の布団の上で目を覚ました。一番最初に目に入ってきたのは、魔理沙のニカッとした笑顔だった。
「何であんたがここにいるのよ」
「おいおい、命の恩人様に対してそりゃないぜ」
「あー?どういうことよそれ?」
「何だ?自分の身に何が起きたか憶えてないのか霊夢は?」
「さっぱり」
魔理沙は事のあらましを霊夢に伝えた。飛行中突然霊夢が墜落したこと。間一髪のところで魔理沙が救出したこと。そしてそれから丸3日は経っていることを。所々大袈裟に脚色されていたが、霊夢は凡そ理解した。
「それで、あの宝船はどうしたのよ」
「ああ、あれか。あの後早苗が1人で行ったんだけどな、宝船じゃなかったみたいだぜ。空飛ぶ寺だとさ」
「はぁ?それって寺なの?本当に」
「さあな。んで、その寺に住んでる妖怪たちが大昔に封印された僧侶を復活させるために魔界に行ったんだとさ」
「ちょっ…そんな怪しいの復活させたら危険じゃない!」
「いんや、それがそうでもなくてな。魔界突入に巻き込まれた早苗が帰ってこれたのも、そいつのおかげなんだとさ。私も昨日会ってきたんだが、僧侶って言っても魔法使いみたいなもんでな、話の合うこと合うこと。他の妖怪たちもそいつのことをすごく慕ってるみたいでな、霊夢が想像してるような危ない奴じゃないと思うぜ」
とはいえ封印されていたということはそれなりの理由があったことは間違いない。そんな奴をほっとくわけにはいかないなぁ…。後で偵察しに行こう。そう思うのだった。
突然、ぐぅぅぅ、という間抜けな音が、霊夢の腹で響いた。
「……」
「…まぁ、3日も何も食べてなけりゃそうなるわな」
「はぁ…今何時?」
「だいたい9時過ぎってところだぜ」
「丁度いいわね。ちょっと朝食作ってくるわ」
「私はもう食べたから軽いのでいいぜ?」
図々しい奴だなコイツは……と思いながらも、自分のことを助けてくれたらしい魔理沙には感謝している。お茶漬けくらいはご馳走してやろう。と霊夢は思った。
襖を開け、台所へと向かう。さすがに3日も横になっていると足元がおぼつかない。少しよろめきながらも、壁に手をつきつつなんとか台所へと辿り着いた。
「えーと、茶葉は…」
そう呟いて、霊夢は棚を見上げた。その棚の上段、霊夢が手を伸ばしても届かない様な場所に、目当ての茶葉の入った箱があった。
「毎日使う物のはずなのに、随分と高い所に置いてるんだな。不便じゃないのか?」
いつの間に現れたのか、霊夢の後ろで魔理沙が壁に寄りかかり腕組をしながら聞いてきた。
「別に、ちょっと浮かべば済むことじゃない」
それに、あんたみたいな泥棒へのちょっとした対策にもなるでしょ?そう付け加えた。
「へぇへぇ、何時でも何処でも自由に飛べる奴は便利だな。私は相棒の箒がないと飛べないからな。お手上げだぜ」
そんな魔理沙の悪態を無視して、いつも通り、重力から開放されようとした。
そして、霊夢は一つの違和感を覚える。
いや、違和感が「ある」のではない。「ない」のだ。
日常的だった、当たり前だった、あの感覚が無い。
おかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしいおかしい
そして、唐突に理解した。
「……霊夢?どうした?」
霊夢の様子が明らかにおかしい。変な間が空いたかと思うと、その場に蹲ってしまった。
「なんだ、やっぱりどこか痛むのか?」
魔理沙は霊夢に近づき、その小さくなった肩に手を乗せた。
霊夢はゆっくりと振り向く。その表情は、まるで何かに恐怖するかのように歪みきっていた。
「……まりさ………わた…し……」
飛べない
ただそれだけ言って、霊夢はそれきり口を硬く閉ざした。
▼
博麗神社の境内へと続く長い階段を、伊吹萃香が軽やかに上る。
ふらふらとおぼつかないその足取りは、傍から見れば危なっかしいことこの上ないが、それにも係わらず段差に躓くことなく上っていく。
酔いで紅潮した顔に、満面の笑みを浮かべながら。
この日の朝一番の文々。新聞の号外において、霊夢の意識の回復が伝えられた。
霊夢の突然の墜落に萃香は驚愕し霊夢を心配したが、その分吉報が知らされた時の嬉しさは一入だった。これでお酒が美味しく呑める。それに尽きる。
霊夢の見舞いと称して、皆を萃めて宴会をする
喜びと宴会が萃香の心を躍らせた。
「とぉーちゃーっく!」
最後の一段を力強く踏み切り高く飛んだ萃香は、そう叫びながら石畳の上に着地した。そのまま本殿の裏の玄関へと、両腕を広げながら駆ける。
「霊夢ー!お見舞いに来たよー!……おろ?」
ガラッと玄関の引き戸を開けて大声を上げたが、中から返事が返ってこなかった。
「霊夢ー?居ないのー?」
靴を脱ぎ捨てると萃香は中へとあがり込んだ。
すると、いつも霊夢が寛いでいる部屋から、霊夢ではない声が聞こえた。
この声は…紫?なんだぁ、先客がいたのか。
自分が見舞いの一番乗りでないことに少しがっかりしたが、皆を萃めるの、紫にも手伝ってもらおう。と思い直し、鼻歌交じりに声がする方へと歩を進めた。
そして、襖に手をかけると、思い切り開けた。
「霊夢!お見舞いに……」
パァン
そう言ったのとほぼ同時に起きた目の前の出来事に、萃香は硬直した。
今、紫が、霊夢を、叩いた…?
「いい加減にしなさい!!」
部屋に紫の怒号が響いた。振り切られた右手はわなわなと震えている。一方の霊夢は布団から上半身だけを起こし、俯き黙ったままだ。
「あなたがいつまでもそうぐずぐずしていても何の解決にもならないでしょう!どうして自分から立とうとしないの!?」
紫が霊夢を責める。対する霊夢はというと、依然として俯いたまま一言も発しない。
「あなたはたったこれしきのことで挫ける様な人間だというの!?そうじゃないでしょう!?」
「たったこれしきのこと」。この言葉に、霊夢の手がピクリと反応した。そして、その手で掛け布団を握り締めると、ようやく声を発した。その手は、酷く震えていた。
「…あんたに、私の気持ちは判らないわよ……」
その一言が、紫の逆鱗に触れた。
「…ッ!!この……っ!」
紫は今一度、右手を振りかざした。
しかし、その手が再び振り下ろされることはなかった。その手には鎖が幾重にも巻き付いていた。先には球状の分銅がぶら下がっている。
「…なにしてるのさ」
「萃香……」
紫が萃香の名前を呟く。その声は冷たいものだった。萃香の声も、その幼い外見に似合わない、低い声。
手に巻きついた鎖を解くと、霊夢に背を向け、部屋の外へと歩みだした。その間も、萃香は怒りのこもった目つきで紫を睨み続ける。
紫の足が廊下の床を踏んだ時、初めて振り返った。
「霊夢、次に会うまでに、その曲がりきった根性、叩き直しておきなさい」
そう一言言って、静かに襖をしてた。
萃香は最後まで紫を睨み続けた。紫の姿が完全に見えなくなった時、
「霊夢!どうしたの?大丈夫?」
振り向き、霊夢の元へと駆け寄った。先ほどとは打って変わって、心配そうな顔。そしてその目には優しさが込められていた。
「すいか……」
霊夢が少しだけ顔を上げる。髪の間から覗く目は、赤く潤んでいた。
「萃香ぁ……!」
すぐそばまで近づいてきた萃香に、霊夢は抱きついた。萃香の両肩を握るその手には力が込められていた。
「わっ!ちょ、霊夢!落ち着いて……」
突然のことに萃香は驚き取り乱したが、霊夢のすすり泣く声が聞こえると、落ち着きを取り戻し、優しく霊夢を抱きしめ返した。
少しだけ、このままの時間が続いた。
「そっか。飛べなくなっちゃったのか、空」
「うん…」
霊夢は自分が空を飛べなくなったことを告げた。また、それによって自分に自信をなくしたことも。
「ねえ、霊夢。さっき紫に言ったようにさ、私にも、自分の気持ちは判らないって、思ってる?」
この萃香の質問に、霊夢は黙り込んでしまった。そして少しの沈黙の後、一言、「ごめんなさい」とだけ、消えそうな声で言った。
「謝らないで。嘘吐かないでくれたほうが、私は嬉しいから」
「でも……」
「いいの。逆に私が霊夢の気持ちが判るかって聞かれれば、いいえって答えるから。嘘は吐きたくないし」
でもね。そう言って、今度は萃香から霊夢を抱きしめた。
「あの時紫に対して怒ったのは、私にとって、霊夢が大切な人だから。大切な人だから、こうして抱き締めてあげることができるんだよ?あと、霊夢のことを大切に思ってるのは紫も同じ。思ってるからこそ、ああやって霊夢のことを怒ることができる。この二つは、本当のことだって信じてほしい、かな」
再び、萃香の胸の中で霊夢は泣いた。自分よりも小柄な萃香に体を預け、ごめんなさい、ごめんなさい、と繰り返し続けた。
しばらく一人にしてほしい。
霊夢の願いを素直に聞き入れた萃香は神社を出た。神社に来てからそれほど経っていないと思っていたが、空が既に赤みがかっていたことに、少し驚いた。
霊夢は、これからどうするんだろう。そんな考えが萃香の頭をよぎった。萃香の目には、霊夢が虚ろに見えた。初めて見る霊夢だった。空を飛べなくなったのは、能力自体の問題だから霊夢自身が解決するしかない。何もしてやれない自分が、情けなかった。霊夢は立ち直ることができるのか、それともこのまま飛べないままで、廃人の様になってしまうのか。
ふと下を見ると、鳥居から伸びる影が、一箇所不自然に伸びていた。見上げると、鳥居の上で誰かが腰を下ろしているのが見えた。しかし、夕日が逆光となって誰か判断することができない。
紫だ。萃香はそう思った。そして、体を中に浮かせ、鳥居の上へと向かう。
到着すると、隣に座る人物と同じように自分も腰を下ろした。
隣に座っているのは、やはり、紫だった。
「紫……」
あの時とは違う、今度は厳しさとも優しさとも取れる声で、萃香は紫を呼んだ。
「…すいかぁ……」
「ふぇっ!?」
萃香はあまりの驚きに素っ頓きょんな声を上げてしまった。振り向いた友人の顔が、涙と鼻水でぐじゃぐじゃになっていた。
「ゆ、紫?あの……」
戸惑う萃香を他所に、紫は泣きじゃくりながら語りだした。
「えぐ……わ、たし…あの子が……ぐす、あんなに落ち込んでるの、初めて……ひっぐ、見た、から……ぅ…不安で、心配で……なのに、なのに……あの子の、ひっ、弱気を責めることしか……えっぐ、できなくて……おまけに、あん…な、酷いことまで、ひっぐ……しちゃって……あの子のこと……傷つけちゃった……」
紫の目から涙が止めどなく流れる。すべて、霊夢を想っているが故に流れたものだ。
「わたし…どう、しよう……あの子が、もし……このまま、だったら……ぐず…」
萃香は溜め息混じりに微笑むと、泣きじゃくる紫に近づき、角が当たらないよう注意して、体を寄り添わせた。
「紫、大丈夫だよ。霊夢はきっと大丈夫。霊夢は強いよ。弱くなんかない、から……」
ああ、すごいな、紫は。霊夢の為に、本気で怒って、本気で泣いて。本当に、霊夢のこと想ってる。私はただ、励まして、抱きしめて。私だって負けないくらい、霊夢のこと想ってる。でも、うん。やっぱり、紫には敵わないなぁ……。
▼
「それで、一人は嫌だからこっちに来た、と」
「まあそんなとこだ」
そんな魔理沙の一言に、アリスはハァ……、と溜め息を吐いた。
あの後すぐ、魔理沙は神社を出た。変わり果てた霊夢の姿を見るのが辛かったから。代わりにこうしてアリスの家を訪れている。なんとなく、今の気持ちを話せる相手がほしかった。
「あんな霊夢、初めて見たんだ。私」
「そりゃ人間だもの。悩んだり落ち込んだりするのも当然のことじゃない」
「なんだ?それだとお前たち妖怪は悩んだり落ち込んだりしないのか?」
「私は元から悩みなんてないわ」
「そーいえばそーだったな」
「まぁ偶に落ち込んだりはするかもね。はい、カモミールティー」
「どーも」
アリスからお茶を受け取ると、それを一口飲む。
少し、心がほっとするような気がした。
「霊夢って、自分の弱いところは誰にも見せないからさ、いつも強気だろ?あいつ。努力しなくても出来る天才型。いつも肩並べてるつもりだったんだけどさ、ずっと憧れてたんだよ、本当は。でも今日の霊夢は、心配とか不安とかよりも、正直、怖かった」
「まぁ霊夢もあんたと同じ人間だったってことよ」
「…でもなぁ、私と違ってあいつは天才肌だし」
「あら、さりげなく自分は熱血努力型だってこと認めるのね?」
「うぅ……とにかく、今の霊夢は霊夢じゃないみたい。そういうことだ」
早口で言い切ると魔理沙は再びカモミールティーに口をつけた。また、ほっとするような気がした。
「……もしあいつがこのままずっと空を飛べないままだったら、あいつ、どうするのかな?私は、どうすればいいんだろう……?」
最後の一言に、アリスは反応した。手にしていたティーカップをテーブルに置くと、向かい側に座っている魔理沙に向かって身を乗り出した。突然のアリスの行動にたじろぐ魔理沙。そして、
「ばーか」
「っぃたあ!」
魔理沙の額にでこピンを食らわした。
「いてて、なんだよいきなり!」
「馬鹿ねぇほんと、バカ。弾幕バカ」
「なにおう!?弾幕バカはアリスだってそうだろ!?」
「あんたの信条通りのパワー馬鹿ってことよ!」
アリスは魔理沙の額に人差し指を突き立てて言い放った。
「いい?あんたと霊夢は異変が起きたときいつも二人で解決してきたんでしょう?二人で飛んで。だったら今迄もこれからも、やることは変わらない。これしきの変化で変わるはずがない。一人が出来ないことを、もう一人が手助けしてやればいい。いつも二人で飛ぶんだから。そうでしょ?」
二人で、飛ぶ
「……そっか、そうだよな。ありがとな、アリス」
魔理沙の表情が徐々に笑顔を取り戻した。そして、霊夢が目を覚ましたときと同じ、ニカッとした笑みをアリスに向けた。
「はいはい、お礼なら後で好きなだけ受け取るから、判ったらさっさと霊夢のとこ行ってきなさい」
「おう!」
魔理沙は残りのお茶を一気に飲み干すと、ふと、何かを思いついたかのように言った。
「あっ、そうだ。なんだったらアレやろうぜ?」
「アレってアレのこと?まぁあんたらしいけど、今の霊夢には刺激が強すぎるんじゃない?」
「大丈夫!霊夢はそんな弱いやつじゃないぜ?」
この一言に、アリスは安堵した。魔理沙が、霊夢を霊夢と思っている証拠だからだ。
「了解。で、場所はどうするの?」
「命蓮寺がいいんじゃないか?あいつらに霊夢のこと紹介するいい機会だろうし」
「そうね。じゃあ私は私で準備するから、あんたは先に命蓮寺の方行ってきて頂戴」
「ああ、じゃあな!」
そう言って、魔理沙は玄関を飛び出した。アリスは箒に跨り空を飛んでいく魔理沙の姿を窓越しに見送ると、ふぅ…と溜め息を吐いた。そして、クスッと優しく微笑んだ。
「うふふ、ばーか」
▼
私はいつまで、このままなのだろうか。
日は既に傾き、見事なまでの夕焼け空が広がる。
霊夢はこの空を縁側から眺めていた。
萃香が立ち去った後から霊夢はこうして外の景色を眺めていた。
こうして時間とともに変わっていく空を眺めていれば、少しは気持ちも変わってくるかもしれないと思ったが、心は虚ろのまま、ただただ空の色が変化していくだけだった。
霊夢は不意に、懐から針を取り出した。いつも妖怪退治の際に使用するものだ。それを、眼前に聳え立つ木の幹めがけて投げた。
投げられた針は目にも留まらぬ速さで、バスッという音をたてて突き刺さった。
そして今度は、懐からお札、これもいつも妖怪退治の際に使用するものを、適当に放り投げた。
すると、札は突如方向を転換したかと思うと、先ほど針を刺した幹へと飛んでいき、針の付近に張り付いた。どうやら博麗の巫女としての能力は失っていないらしい。
しかし、それでは意味がない。
空を飛べなければ、意味がない。
飛べなければ、異変を解決に行けない。
飛べなければ、皆と一緒にいられない。
飛べなければ、あいつと一緒にいられない。
弾幕ごっこを行う者たちに共通すること、それは「空を飛ぶ」こと。
空を飛べない今の自分は、皆の輪の中には入れない。そういった疎外感が、霊夢の思考を支配していた。
もしこのまま、空を飛べなかったら、私は―――
「―――」
誰かの声がする。あの時見た夢と同じ声が。
「レイムーー!」
声の主が赤から藍に変わりつつある空から降りてきた。声の主は箒に跨っていた。
「霊夢、急遽これから命蓮寺で宴会することになったんだ。白蓮たちにお前のこと紹介するいい機会だからな、早く行こうぜ!」
「え?いや、その…私……」
「いいからいいから。早くしないとアリスに怒られちまうぜ」
そういうと、魔理沙は半ば強引に霊夢の手を引っ張った。そして箒に跨ると、いつもより前に詰めて、言った。
「ほら、後ろ。乗れって」
前に詰めたことにより、魔理沙の後ろには人一人分のスペースが確保された。紛れもなく、霊夢の為の特等席。
「……うん」
霊夢は恐る恐る箒に跨る。そして魔理沙の肩を掴むと、二人の体はフワッと宙に浮き、上昇した。
何日かぶりに得た、空を飛ぶ感覚。
それと共に、霊夢は心が少し軽くなった様な感覚を覚えた。
「どうだ?久々に空を飛んだ感覚は」
「…なんだか、数日前までは普通に飛んでたのに…すごく、懐かしい感じがする…」
「…そうか」
「なあ、霊夢。空を飛べないって判ったとき、どんな気持ちだった?」
「え…?」
神社を飛び立って暫く、もうそろそろ人里が見えてくるというところで、魔理沙が口を開いた。
唐突な質問に霊夢は戸惑ったが、やがてゆっくりと答え始めた。
「……すごく、怖かった…。私が私じゃなくなったみたいで、皆が離れていく様な気がした。…なにより、魔理沙とまた飛ぶことができないのかと思うと、すごく、悲しかった」
「……あのな、霊夢。霊夢が飛べなくなっても、私たちとの関係は変わらないし、これからのことも変わらない。いつも二人でやってきたことをするんだ。お前が飛べなくなったら、また飛べるようになるまで、今みたいに二人で箒に跨って飛べばいい。私たちは元から一人一人が飛んでいるんじゃない。前も、今も、これから先も、『二人で飛ぶ』んだぜ?」
「二人で……飛ぶ…?」
「ああ、二人で飛ぶんだ」
二人で飛ぶ……か。
私、馬鹿だなぁ。何でこんな簡単なことに気づかなかったんだろう。
自分のことしか考えないで、一人で勝手に落ち込んで。
萃香、抱きしめてくれて、ありがとう。
紫、酷いこと言ってしまって、ごめんなさい。
魔理沙、大事なこと、教えてくれて…ありがとう。
霊夢は魔理沙の背中に体を預ける様に寄り掛かった。そこには、萃香の胸の中にあったのと同じ、暖かさが在った。
「もうすぐ着くぜ。あれが命蓮寺だ」
魔理沙の指差す先には、あの時見た宝船と同じ造詣の建物が建っていた。もうすっかり暗くなった幻想郷でそこだけがやたらと明るい。命蓮寺での宴会は、上空からでも伺えるほどの盛り上がりを見せている。
そして、二人を乗せた箒は賑わう命蓮寺へと徐々に降下していく。
「魔理沙」
「なんだ?」
「もう少し、このまま……」
「……ああ」
二人の体が今一度浮上し、夜空を舞った。
星が輝くこの幻想郷の空を今、二人で、飛ぶ―――
<了>
確かに、つなぎに苦労したような雰囲気。
アリスのパートの有る無しで随分雰囲気が変わるような気がします。
演出上意図であってもある程度抑えないと、かえって作品の質を落としかねてしまう場合もありますし。
>修行不足により博麗の巫女としての強大な力との均衡が悪くなり、空を飛ぶ能力が削られた~……
個人的に、書かなくて大正解だと思いました。
語られないからこそから色々と想像できるしねw
もし次回もあるなら期待。
魔理沙に箒に乗せてもらって一緒に飛んでいる場面など面白かったです。
それがあの娘ならなおのことじゃて。
のう?御主人様。
>1さん
御指摘有難うございます。
修正前に試しに携帯で見てみたのですが、あまりの見づらさに愕然としました…。
今回はSSの書き方も勉強させていただきました。
本当に有難うございました。
>3さん
そう言って貰えると有難いです。
アリスのパートは魔理沙が行動を起こすキッカケとなる重要な部分なので、自分の中でも印象に残っております。
>5さん
御指摘有難うございます。文章を書くにあたって視覚的な面も考慮しなければいけないということを学ばせていただきました。有難うございました。
>書かなくて大正解だと~…
やはり正解でしたかw
ちょっと続きの方は考えてないです。すみません(汗)
>煉獄さん
今回は珍しい霊夢が書けたかなと思います。感情の揺らぎが激しい霊夢はなかなか無いと思うので。その点だと紫も珍しいかなぁ…。
>12さん
玄爺キタ!これでかつる!
と言っても私の旧作の知識は東方wikiをうろ覚え程度なのですが(汗)
>19さん
霊夢は幻想郷に愛されている。といつか読んだ同人誌に書いてありました。全くその通りだと思います。霊夢愛されてるなぁ…。