―序―「礼に始まり」
両者は一礼してから、竹の太刀を脇に距離を縮める。
一定の距離まで間合いを詰め、爪先立ちから尻に体重を掛けるようにして腰を下ろし膝を開いた姿勢―――蹲踞(そんきょ)の姿勢を取った。
そして、互いにその太刀を正眼に構える。
一拍あって、
「……始めっ!」
―――――開始の合図。
「らぁぁぁぁぁ!!」
「やぁぁぁぁぁ!!」
勇ましい雄叫びが重なった。
それは、スポーツとしてならば、あまりに過酷過ぎるものである。
日々の修練では生傷が絶えず、最初の内は打たれた部位が痛み、青痣になることもしばしば。
真夏に身に着ける防具の蒸し暑さに、熱中症で倒れる者も続出する。おまけに、汗を吸った防具たちはどんなに手入れを欠かさずとも周囲に異臭を放ち続ける。
「「……」」
道場をびりびりと震わせた叫びの後は、小さく小刻みに竹刀同士がぶつかる音だけが響いた。
それは攻防だ。相手の中心線を取り、仕掛けるための一瞬の油断さえ許されない繊細な競り合い。
ひとたび、どちらかが競り勝てば、
「めぇぇぇぇぇぇん!!」
全力を持って放たれる一撃。
剣士の竹刀が相手の面の上部を捉え、小気味良い音を立てた。
そのまま素早い足裁きで相手の背後へと抜け、反撃へと備える動作―――残心を示す。
「……面ありっ!」
技が決まったことが認められる旗が揚がった。
どんなに過酷で、辛いものであっても。
「始めっ!!」
「らぁぁぁぁぁぁ!!」
「しゃぁぁぁぁぁ!!」
その武道、剣道は。
「こてこてこてぇぇぇぇ!!」
何物にも代え難い魅力に溢れている。
―1―「剣を通して見えるもの」
真夏。湿気を多く含む空気、高い気温に、短時間の運動でも玉のような汗が毛穴から噴き出す。
「……ふぅ」
紐を解き、面を外せば、汗だくになった肌が外気に触れて心地良かった。並べて置いた小手の上にそれを載せ、頭を覆っていた手拭いで顔を拭く。姿勢を正したところで号令が掛かった。
「……黙想!!」
膝の上で手を組み、瞼を閉じた。
幼少の頃、よく祖父に連れられて結界を抜け、人里へ出かけていた。
その頃、祖父に勧めにより剣道というものを祖父の知人に習い始めた。
「……やめっ!」
「正面に……礼っ!!」
「「「ありがとうございました!!」」」
祖父は剣術の精進のためと言い張ったが、当時は疑問を持たざるを得なかった。
剣術は真剣で行うもので、本当の意味での『実戦』。
つまるところ、それはごっこ遊びにしか思えなかったのだ。
しかし、稽古を続けていく内に分かった事がある。
確かに剣道とは竹刀を用い、あまつさえ防具を身につけて行うものだ。
ましてや、有効とされる打突は決められた部位に決められた技とかなりの制限がある。
だが、剣術であっても、剣道であっても、根本は変わらない。
間合いの取り方。攻へと転じる呼吸。ピリピリと肌を刺す緊張感。攻防の読み合い。学ぶべきことはいくらでもあった。
だからこそ、再び冥界と現世との境界が曖昧になった今、週に一度ではあるが、私はまた道場へ通うようになったのだ。
「お願いします」
「……うん」
この人がこの道場の主であり、祖父の古い友人でもある、栄花先生だ。
突然姿を見せなくなって、そしてまた突然顔を見せた私を快く受け入れてくれた、懐の広い御仁である。
「……うん。やっぱりね、妖夢ちゃんはね……真っ直ぐでいいものをもってるね……」
「……ありがとうございます」
稽古が終了した後、私たち門下生はこうして個別で指導を聞きに行く。
先生からは個人個人に対する助言をもらえるほか、こちらからの質問にも答えてもらえる。
「……うん。だけど、少し硬いかな。……もう少し柔軟性を持つといいと思うよ」
「……はい」
繰り返すようだが、栄花先生は立派な御仁である。誰に贔屓するでもなく、皆の動きを細かいところまで把握していて、的確な助言を授けてくれる。物腰も丁寧で、こちらが恐縮してしまうくらいだ。
だけど、先生。
そのアドバイスは、16度目です。
「ありがとうございました」
「……うん」
「妖夢ちゃん」
汗を吸った道着を着替えようと更衣室へ足を向けた私の背中に、先生の声が掛かった。
「……妖忌殿はご健在であられるかな?」
先生。
「祖父は……お師匠様は……どこか静かな場所で暮らしていると思います」
その問いは、……いったい何度目なのでしょうか。
私の祖父、魂魄妖忌は西行寺家で今の私と同じ庭師兼護衛の役目を負っていた。
が、ある日、私にその仕事を任せて俗世間から身を隠した。幽居先は、私も幽々子様も告げられていない。
無責任な所業ではあったが、それを機に西行寺家の雰囲気は大きく変わっていった。代わりに、護衛があまりに頼りなくなった(ほっとけ!)ので、結界を厳重にし、現世との繋がりをより強く絶った。
その結界もこの前の異変の折に巫女によって破壊され、そのままになっている。
「えっと、芋と醤油と……米? ……重そうだなあ」
道場からの帰り道、屋敷の幽霊に頼まれた買い物リストを片手に嘆息した。
通い始めの頃こそ調味料の補充程度であったが、今となってはその量に容赦がない。日々の鍛錬で鍛えられているとはいえ、体よく使われている気がしてならなかった。
「……文句を言ったって仕方がないんだけどさ」
そもそも、私の週に一度の道場通いは幽々子様のご厚意によるものだ。
『妖夢ぅ―。貴方って昔、人里で習い事をしていなかった?』
『え、……あ、はい。幼い頃ですが、剣道を』
『結界もなくなっちゃったし、もう一度やってみたいとは思わない?』
『……いえ、私がこの屋敷を留守にするわけにもいきませんし』
私が迷いなくそう答えていたら、この話はそのままなくなっていたに違いない。
だけど、幽々子様はそんな私の逡巡を見抜いたようだった。
『大丈夫よー。その間は紫とお茶でもしているわ』
『ですが……』
『妖夢』
『は、はい』
幽々子様は変なところで頑固だ。そのときも、その朗らかな表情に有無を言わせないものを宿していた。
『私、主人。貴方、庭師。……あんだすたん?』
剣道とは楽しいものであるか、と問われれば、否、と答えるだろう。
逆に剣道とは辛いものであるか、と問われれば、はっきりとそうだ、と言い切ってしまうだろう。
では、何故そんなことをしたいと思うのか。ドMなの?死ぬの?
確かにM寄りなのは否定できないが、死にはしないと思う。いやいや、そういうことではなくて。
師は、私に『真実は斬って知るもの』と教えた。その言葉は私を辻斬りへと走らせたが、とある鬼の指摘もあり、最近、解釈を改めてみた。
物事の本質とは、見て、聞いて、理解するものではなく、実際にやってみないとわからないものだ。
師は、そう伝えたかったのではないか。
もちろん、本当のところはそれこそわからない。
例えば、栄花先生はお年を召していらっしゃって、悪くいってしまえばボケ老人だが、私は先生から面の一本さえ取れたことがない。
動きは緩慢であり、筋力だって私とさほど変わらない。なのに、惜しいといえる打突でさえ、まだない。
それはきっと、剣道が栄花先生に授けた『何か』なのだろう。
私はまだその足元にも及ばないが、その『何か』を『斬る』ことができれば、もっと私は強くなれるのではないか。そう思う。
故に、私はこの暑い中、わざわざ面やら胴やらの暖房グッズに身を包み、汗を流すのだ。
ちなみに、私の半身である幽霊は稽古の間、隅のほうで大人しくしている。
「……とはいえ、あの暑さ、いや、『熱さ』はどうにかならないもんか」
男性には、下着を身に着けずに道着を着る人もいるというが、それはさすがに乙女の恥じらいが咎める。
「……でも、代えの下着が不要に……いや、だめだ!!」
背負った荷物の中、大量の汗で湿ったそれらのことを思うと心が揺れたが、すんでのところで思い留まった。
そこには、譲ってしまってはいけない何かがある気がしたのだ。
結局、打開策は思い浮かばず、うんうんと唸っていると、
「やーい!やーい!」
「……ぐすっ……やめてよー!」
争う幼い声が聞こえた。
「「「そーばかす!そーばかす!」」」
「……うぇええん!!」
見れば、子供たち何人かが女の子一人を囲んでいる。悪意の対象となっている少女は既にそのそばかすがかった顔を涙でぐしゃぐしゃにして、拒絶の言葉さえ告げられない様子だ。
少年少女にはありがちなその構図は他愛ないものであり、ある意味微笑ましいともいえたが、やはり放っておけるものでもない。
「こらこら。やめなさい」
「……だれだよ。あんた」
「うわ、幽霊だ。健ちゃん、幽霊がいる!!」
「うわ、ほんとだ。気持ちわり!!」
「き、きもち……。……こほん」
落ち着くんだ、魂魄妖夢。まだ焦るような時間じゃない。ここは冷静になって、この程度の悪態などさらりと受け流す大人の女性に徹するのが吉だ。
「……嫌がっているじゃない。やめてあげたらどうなの?」
さすがは私。やれば出来る子。これぞ修練の賜物である。明鏡止水の心を持ってすれば、いかなる自体にも感情が波を立たせることはない。
「うっせーな、引っ込んでろペチャパイ」
「たたっきる!」
今こそ立ち上がれ、魂魄妖夢。身を鬼とし、修羅とし、その手が握るは楼観剣。年端もいかない子供たちにギラリとその刀身を光らせ、マジで辻斬り10秒前。
「わぁぁぁ!! こいつすげぇ大人気ない!!」
「うるさい! 人の身体的特徴を二度も突いたくせに! 私の心はズタズタだ!! 神が許しても、世間一般の常識的大人が許しても、私は斬る!! 話はそれからだ!!」
「おい、ばか!! 逃げるぞ!!」
子供たちが逃げていく。追いかけようか本気で迷った。それほどその心の傷は深かったのだ。しかし、少し冷えた頭で思い直し、刀を鞘へと戻す。
悪は去った。後に残ったのは虚しさと、
「わぁーー……」
きらきらとした目で私を見つめる少女。……きらきらと?
「お姉ちゃんかっこいい!!」
「……あ、ありがとう」
「決め台詞は、たたっきる!! ……斬新!! やっぱり少女革命的なあれなの? 胸に挿した薔薇を散らされると負けなの?」
「ば、薔薇?」
少女の勢いに圧倒された。なんだかよくわからないが、なにか彼女の心に火を付けてしまったらしい。
「わたし、弱虫だから、お姉ちゃんみたいな人になりたいの! どーすればなれる?」
「そ、そういわれても……」
「あ! 肩に背負ってるそれなーに?」
私が背負う二つの荷物、縦に長いほうを指して言う。表面になにやら達筆な文字でつらつらとかかれたそれは、竹刀を持ち歩くための竹刀袋だ。
「これは竹刀だけど」
「しない? しないってなーに?」
「なにって……うんと、剣道で使うもの?」
「剣道ってこの先の道場でやってるあれ? きええええ!! とか、やああああ!! とか、ヴるぁぁああ!!とか、変な声上げてるあれ?」
「……そう、それ」
剣士たちの掛け声。それは自分に対して気合を入れ、相手を自らの気勢で圧倒する。何しろ、身体の内側から湧き上がるものをそのまま声にだすのだから、それは形容しがたいもので。だから、ヴるあああとか言う人が居てもおかしくないはずだ。多分。
「『わたしも、強くなれるかな?』」
「え?」
「剣道やったら、わたしもお姉ちゃんみたいに強くなれるかな?」
少女の言葉に、一つの光景が頭に浮かんだ。
縁側に座り、足をぶらぶらとする幼い自分。その視線の先で樹木の手入れをする大きな体躯。両手で持ったコップの中の麦茶を見つめ、その大きな背中に問いかける。すると、背中は振り返らずに手を止めて言葉を返した。
白黒の記憶。私が敬語を覚える前の、私が祖父を師と仰ぐ前の、懐かしい記憶。
「……なれるよ。きっと」
「ほんと?」
「うん。本当」
「じゃあわたし剣道やる!! お母さんに言ってみる!!」
言うが早いか、少女が駆けて行く。角を曲がる前で一度立ち止まり、こちらに手を振ってから、また駆け出した。
「『なれるさ。少なくとも、そう思わない者よりは、な』」
振り返した手を下ろしつつ、誰に言うでもなく呟いた。
炊事役の幽霊に買ってきた食材を手渡し、自室に荷物を置いてから、帰ったことを報告するために幽々子様を探す。我が主人は私室でくつろいでいた。赤ら顔で。
「ただいま戻りました。……お酒ですか?」
「あらあら、妖夢。おかえりなさい」
手元の杯を傾けながら言う。卓の中心に陣取るは一升瓶。その周りを囲む小鉢には、杯を運ぶ手を推し進めるべくおつまみたちが。
「日も高いうちからとは、あまり感心できませんけど……」
「しょうがないでしょ。だって紫に誘われたんだもの」
「その当人はどちらに?」
「今しがた帰ったところよ」
「そうですか。留守をお任せしているので、一言お礼くらいは言いたかったのですが」
幽々子様と紫様は古くからの知り合いらしい。詳しくは知らないが、紫様と会った後の幽々子様は上機嫌だ。いつも陽気な気性の主人だが、それ以上にふわふわしている印象を受ける。やはり、旧来の友とはそういうものなのだろうか。
「……妖夢」
「はい、なんですか?」
「やめちゃう?」
「え、……何を、ですか?」
「剣道」
いつもながら、幽々子様の言葉には脈絡がない。だが、その目は真剣そのものだった。
「……やっぱり、屋敷に私がいないのはまずいですか?」
「それは全然、これっぽっちも問題ないのだけれど」
「少しは肯定してくださいよ!? ……では、……何故?」
幽々子様はすぐには答えず、杯に残った酒を飲み干した。
「なんだか、貴方辛そうよ」
「私が、……ですか?」
「そうそう。帰った後、たまーに」
「……」
気づいていなかった。自分がそんな風だったなんて。
けれど、自分がそんな姿を晒していたのは、きっと幽々子様が指摘しているものが原因ではない。
「違うん、です。剣道が辛いとか、そういうことではなくて。……ただ」
「ただ?」
「……帰り際に、訊かれることがありまして。……お師匠様のことを。妖忌殿は元気か、と」
「……そう」
祖父が居なくなったこととは、向き合わないようにしていた。向き合う暇もなかった。急遽、私に代替わりし、庭師や護衛としての仕事に慣れることに精一杯だったからだ。
「それで、いろいろと考えてしまって。……ただ、それだけです」
そして、それらに慣れてからはひたすら鍛錬の日々。知らず知らずのうちに、自分を誤魔化していた。
祖父は……私に。こんなにも弱い私に、愛想を尽かして出て行ってしまったのではないか。
そう考えれば合点がいった。一進一退ばかりの自分。祖父の厳格な態度。突然の幽居。
悟りを開いた、なんて祖父ならばいくらでも演じることが出来る。
今頃、どこかで自分とは違い、師の教えを十二分に吸収していく優秀な弟子を取って、共に修行に明け暮れているのではないか。
「だから、剣道をやめるなんて……」
むしろ、私はそれを通じて強くならなくてはならない。
そうして、強くなって。雨を斬り、空気を斬り、時を斬り。師に近づくことができたならば。
強くなれたら、お師匠様は戻ってくるんじゃないか、なんて自嘲さえ漏れる想いを持ってしまう。
「やめるなんて……私は…………っ!? ……ふぁっ!」
突如、柔肌に走る鳥肌。
「……ぁ……んぅ……」
白くなめらかな表面を唾液に濡れた赤い舌が滑る。時折、唇が吸い付き朱色の跡を残した。その跡を柔らかくほぐすような舌先の円の動きに、ぞくぞくと甘い痺れが走る。
「……はぁ……ぁん…………って、人の半身に何するんですか!?」
「ん~、ちゅ……まぁまぁ、酔っ払いのすることだから」
「自分で言わないでくださいよ!?」
がっちりと拘束された幽霊は、必死に離脱しようともがいていた。幽々子様は離す気が全くない様で、再びその白い肌に食らいつく。
「ぁ……や! ……ん……あ! 甘噛みはらめえ!」
「あむあむ♪」
桃色の悲鳴は、その部屋に食事が運び込まれるまで止むことはなかった。
―2―「小さな小さな青い春」
稽古は早朝の掃除から始まる。剣士たちはまだ日も出て間もない時刻に集まり、雑巾を絞り、箒で塵を掃き、道場を清めていく。
「……んぅーー!!」
小さな手が精一杯の力で雑巾が絞ると、桶の水面を水滴が打った。十分に水が切れていないらしく、雑巾からはまだポタポタと垂れるものがある。
「貸して」
少女から雑巾を受け取り、二つ折りにしてからギュッと力を込めて捻る。その際、絞りすぎて必要な水分までなくなってしまわないように注意する。
「お姉ちゃんすごーい!!」
「そ、そう? ……えへへ」
ここへ通うことを宣言した少女は、あの日の翌日からこの道場へ来ているらしい。初めは親御さんが反対していたらしいが、少女の強い希望もあり、最終的に栄花先生の『防具を道場側が貸し出す』という提案で一件落着。晴れて少女は剣士となった。
だが、一つだけ問題が残っていた。少女には適切な練習相手がいないのだ。
稽古相手には自分の背丈に近い者が適している。基礎から始めるならばなおさらだ。栄花先生の道場は古くから通うものが多く、それなりに年を食った人たちばかり。女性だって、私を含め数人しかいない。
今はまだ、声出しや素振り、礼儀や、道着と防具の身につけ方などの剣道を知る段階であるから一人でも問題ないが、いずれは少女も本稽古に混ざらなくてはならない。
「あ、おはよう! せんせい!」
「……うん。おはよう」
元気の良い挨拶に、栄花先生は皺を濃くする。先生が持ってきた雑巾を桶に沈めると、まっさらだった水が黒く淀んだ。
「先生。おはようございます」
「……うん。おはよう」
「あのね、お姉ちゃんすごいんだよ!! こう、キュッってやると、ジョバーって!!」
「……そうかそうか」
年を感じさせる先生の手が、少女の頭に置かれる。
その光景に見惚れた。
「……どうした? 妖夢ちゃん」
「……いえ、何でもありません」
きっと、それは憧れだった。今はもう叶うことがないであろう、幼い頃からの―――。
「健ちゃん!! マジでやるんか!?」
「ったりまえだろ!! 俺が嘘言ったことあるか!?」
「そんなのしょっちゅうじゃん!!」
「うるせえ!!」
そんな時、道場の表から声が響いた。それはどこかで聞き覚えのあるものだった。
「……俺、用事思い出した」
「ずりぃ! 俺も俺も!!」
「あ! お前ら逃げると後で酷い目に…………くそっ!」
「……ぁ」
罵倒を吐きつつ、姿を見せたのは少女をいじめていた内の一人。残りは帰ってしまったようで、それにかなり不服な様子だった。少女が私の背中に隠れ、「健ちゃん……」と小さい声で呟いて服の端を掴んだ。
「……ふむ。何か用かな?」
「……じじい。あんたはここのえらい人か?」
「じじ……おい! ……確かに、栄花先生はご老体……じじいだけど、もっと言い方ってものが」
「……うん。妖夢ちゃん、無理にフォローしなくてもいいよ」
「じじい!早く答えろよ!」
終止ケンカ腰の少年、健ちゃん。その態度を差して気にした風でもなく、栄花先生はいつもの物腰で応対する。
「そうだよ。私がここの道場主だ」
「そうか。じゃあ……」
健ちゃんは何か決意した様子で、
「俺もここで剣道をやらせてくれ!!」
そう言って、勢いよく頭を下げた。
「―――――ということがあったんです」
稽古終わりの白玉楼の一室で、幽々子様に今日の出来事を話していた。先週、一升瓶の置かれていた卓には、山盛りの饅頭を盛った大皿が陣取っている。
「……春ね」
「はぁ。……はる、ですか?」
「ええ。それも青い春。青くて青くて、野菜とか果物とかだったら渋くて食べられないくらいの、それくらいの青い春」
「……すいません、よくわからないです」
幽々子様は興奮した様子で饅頭を次々と口に放り込んでいる。
「んむんむ……んっ……」
「……お茶です」
「ありがとう」
お茶をずずっと啜って一息ついてから、またも饅頭をほおばり始めた。
「妖夢ったら、わからないの?」
「すいません、さっぱり……」
「そう。では、そんな貴方にピッタリなものを授けましょう」
「はぁ。有難く頂戴します」
幽々子様が棚をごそごそと漁り始めると、出るわ出るわ。珍品、ガラクタが根城を築き始める。食べ終わった団子の串、埃を被った巾着袋、エトセトラエトセトラ。
「幽々子様。食べ終えた串は捨てたほうが……」
「そのお団子屋さん、なくなっちゃったの。美味しかったのに。だから、串だけでも取っておこうと思って」
「そ、そうなんですか。……では、この骨は?」
「迷い込んできた小鳥を飼っていたのだけど、いなくなっちゃったの。美味しかったわ。だから、骨だけでも取っておこうと思って」
「そうですか。……………………え?」
気のせいだろうか。今、倫理的に繋がってはいけないものが繋がったような。
「あら、妖夢。どうかした?」
「え、いえ、な、なんでも……。……あ、じゃあ、この布巾着はどうなんですか?」
「それは、……何かしらねー? この部屋ってもともと私のものじゃなかったから、私の知らないものが棚に紛れていたりするのよ。……あ、ほら。あったわ。これよこれ」
棚に頭を突っ込むようにしていた幽々子様が、戦利品を私に手渡した。
それは大きさとしてはやや小さいくらいの、厚さとしては中くらいの書物。カラフルな外装で、表紙にやけに目が大きい女の子が描かれていた。
「……幽々子様。これは一体?」
「『しょうじょまんが』というらしいわ」
「……『しょうじょまんが』」
「ええ。とりあえず、読んでみなさいな」
「あ、はい。じゃあ、失礼して……」
意を決して、その書物を読み始めてみた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「あーん! 遅刻遅刻!!」
私、華京院智子(かきょういん ともこ)。白馬の王子様を心の中で密かに待ち望んでいるような、ごくふつーの女子高生。
今日から新学期が始まるっていうのにいきなり遅刻しちゃいそうで、朝ごはんのトーストを咥えながら急いで学校へ向かってるんだ♪
最悪って思うでしょ? でもでも、なんだかいいことありそうな気がするの♪ 私の勘ってよく当たるんだよ?
それに学校だってもうすぐ。あの角を曲がれば、校門が見えてくるはず。
私は、走るスピードを緩めずにその角を曲がって―――――。
―中略―
「隆くん!! その娘、一体誰なの!?」
「智子ちゃん違うんだ!! 話を聞いてくれ!!」
順風満帆かと思われた智子の恋であったが、波乱の展開!?
隆と共にいた少女の正体とは!?
次巻へ続く!!
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「どう、妖夢?」
私が本を閉じるのを見届けてから、幽々子様が訊いてきた。
「……」
「……妖夢?」
私は気持ちの整理の途中だったので、言葉を返すことが出来なかった。
「……もう」
答えない私を見て、幽々子様は湯飲みへと手を伸ばす。
そのとき、私の胸の中をぐるぐると巡っていた何かが、
「…………ゆゆゆゆ幽々子しゃまあぁぁあ!!」
爆発した。
「こ、こ、これの続きは!?ど、どこにあるのでございましょうくわぁぁ!?」
思わず、がばっとすがりつく形になってしまう。
「……妖夢。妖夢。落ち着きなさい」
「だって、智子ちゃんいい子なのに!! なんなんですかこの男は!? ほんとに浮気だったら、楼観剣のサビにしてから白楼剣で送ってやる!!」
「妖夢。妖夢。…………よっぉぉぉぉぉぉむぅぅぅぅ!!」
「はっ! …………わ、私! すいません、取り乱しました!!」
「気がついたのなら、何か拭く物を取ってきてくれない?」
「あぁ! 幽々子様びちょびちょじゃないですか!! 一体誰が!?」
「貴方よ。貴方」
湯飲みが盛大にひっくり返り、着物を濡らしていた。慌てて部屋を出て行こうとした私に、幽々子様が声を掛ける。
「あぁ、そうそう。わかった?」
「え、何がですか?」
「青い春」
幽々子様は道場での一連の出来事を指して青い春といった。そして、渡された『しょうじょまんが』という書物の内容。ここまでくればさすがの私でも理解できる。
「そういうこと……なんですか?」
「えぇ、決まっているわ。妖夢ったら、鈍いのね。ニブチンね。ニブチン妖夢ね」
「はぁ。なんか、すいません」
「あぁ、そうだ。拭く物以外にもう一つ頼みたいのだけど」
「はい。なんですか?」
幽々子様は何かを手に持って、それを齧るジェスチャーをした。
「私、青りんごが食べたくなってしまったわ」
結局、我が主人は花より団子なのでした。
―3―「みんな大好き寒稽古」
渾身を込めたはずの袈裟斬りは、お師匠様にいとも簡単にいなされた。返すようにして、上段からの振り下ろし。斜めに掲げた木刀でそれを受ける。伝わる衝撃は自分のものとは比べ物にならなかった。空いた腹部に蹴りを入れられて、一瞬、呼吸が止まる。
『……がっ!……げほっ……げほっ』
地に伏す私に追い討ちを掛けるでもなく、お師匠様は間合いを仕切りなおした。
『……』
そして、ただこちらを待っている。
私が一撃を決めるまで続く、実践的な訓練。といっても、まだ私の木刀が届いたことはない。だから、私が疲れて動けなくなるまでこの訓練は続く。
『けほっ……』
取り落としていた木刀の柄を握り締めた。一つ深呼吸をして身体を起こし、それを構えなおす。
『いきます!!』
その日も、私の剣先がお師匠様に届くことはなかった。
白玉楼の庭園は広大だ。とても一日では全ての手入れを終えられない。
「…………よしっ」
作業を終えて、ようやく集中力を切った。
今日は砂紋を直す作業が中心だ。
木製の様々な種類のトンボで、景石から続く白砂に模様を描く。庭師の仕事に就いてすぐの頃は、落書き程度のものを描いては幽々子様にからかわれたものだ。今はその甲斐あってか、一端といえるまでになった。
「……うん」
思わず、自画自賛の笑みが漏れた。庭師という職業を誇りに思えるのは、幽々子様や客人に庭園の景観を褒められたとき、丁寧な世話を続けた樹木たちがそれに答えてくれたときなどがあるが、この瞬間も捨てがたい。
その場から、一歩二歩後ろに下がって、その一帯を視界に収めた。
「……うんうん」
笑みを深くして、二度頷く。
枯山水式の庭園において、砂紋は命ともいえる。確かに置かれる景石も重要だが、枯山水とは滝をイメージするもの。流れる水を表現する白砂と砂紋の方が景観を決定するのに重宝されるだろう。
「ふふふ」
なんせ、ここにくるまでには並々ならぬ苦労があった。トンボを取り落とすこと二回、気に入らずやり直すこと数回。作業中に幽霊に声を掛けられ(といっても彼は本当に声を発したわけではなく、意識をこちらに伝えてきただけなのだが)、線が曲がってしまったこともあった。その幽霊は私のあまりの落胆ぶりに恐縮していたっけ。
紆余曲折の後の完成。その出来栄えに愛しささえこみあげる。
自分もやるではないか。ナルシストではないと思うが、今すぐ是非誰かに見てほしい気分だ。なんだか悪いことをしてしまった気もするし、お詫びにさっきの幽霊に見てもらおうか。なんだったら屋敷中の幽霊でもいい。屋敷には古くから勤めているものもいるから、お師匠様と比べられるかも―――――。
そこで、思考が止まる。
「…………はぁ」
盛大なため息をついた。
最近、剣術がスランプなのだ。いや、剣道が、といってしまったほうがいいかもしれない。
道場に通い直し始めてからの剣術の上達には、自分自身驚いていた。別のものではないかと錯覚するほど愛刀が手に馴染み、操る手先はよくいうことを聞いてくれた。その上達には確実に剣道が関係していた。
というのも、栄花先生の言葉が、
『まずは、感覚を取り戻すことからだね』
から、
『基本は出来てきたから、それを忘れないようにね』
になり、
『少し硬いかな。……もう少し柔軟性を持つといいと思うよ』
で完全に止まってしまってから、剣術のほうも進展がないからだ。
私は既にそれを何度聞いたことか。二十を超えた辺りから数えていない。
「…………はぁ」
こんなことでは、お師匠様に近づくことなんて。
そんな想いをこめてもう一つため息をつくと、一陣の風が吹いた。庭園の木に付いた葉が揺れる。
「……」
今にも落ちそうな木の葉を一枚見つけ、目を細めた。葉が枝から離れたのを見て、楼観剣を解き放つ。
―――――駆けた。ゆらゆらと舞い落ちる木の葉に向かって。
「やぁぁぁ!!」
すれ違いざまに、幾重にも重ねた斬撃。空気の鳴る音が周囲に響いた。
金属音を立てて刃を鞘へ戻すと同時、木の葉がその身を裂かれる。数は確認しなくとも分かった。
「……やっぱり、六枚か」
師は同じ一刀で葉を八枚にしてみせた。本流の二刀にもなるとそれ以上だ。
結果にさらに気持ちが沈みそうになって思い直す。
今の自分は庭師の職務の最中だったはずだ。沈んでいる暇なんてない。そうやって無理矢理自分を奮い立たせ、我が子のような庭園を眺めることで自らを励まそうと顔を上げる。
「………………………………あれ?」
事態を把握するのには時間が掛かった。自身で整えた樹木たち、そして雄大に存在を主張する景石。それらが私の周りを囲んでいた。私は庭園の中心に居たのだ。
それはあってはならないことだった。だってそこには私が丹精込めて描いた―――。
「…………………い、………………」
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!!」
突如響き渡った存外可愛い悲鳴に、駆けつけた幽霊たちが見たものは。
「……ぐすっ……うぅ……どうせ、どうせ私なんか……」
無残に踏み荒らされた白砂に指で「の」の字を書き連ねる妖夢の姿だった。
季節は過ぎて冬。
「わぁぁぁらぁぁぁぁ!!」
「こいやぁぁぁぁぁああああ!!」
剣道の稽古は、夏はあんなに暑くて熱かったのだから、冬は快適に違いない。そんなことを考えている人はいないだろうか。
それは、大きな間違いだ。
稽古は裸足で行なうものであり、肌を刺すような冬の空気は道場の床をきんきんに冷やす。その床の上を素足で摺り足すると、氷の上に居るような気持ちになる。それによって血液が足の裏で冷やされ、全身を巡り、身体の内側から体温を奪っていく。
「あぁ、さみいなぁ。なんでこの寒いのに、ただでさえ寒いのに……」
「なんで、いつもより集まるのはええんだよぉぉぉぉぉぉぉぉ!!」
「おぉ、なんだ坊主。今日は気合入ってるな」
「うるせーよおっさん!!」
「おっさんって、てめ……」
「……うん。私語はよくないよ」
「あ、栄花さん。すいません」
加えて、誰が考案したのかは知らないが、剣士たちは冬になると、「寒稽古」なるものを行なう。
それはこの真冬に、何故か日が昇る前に集合し、何故か日が昇るまで稽古をするという被虐的精神に基づいた稽古メニューだ。
「……辛かったら、抜けてもいいよ。無理は身体によくないからね」
「……らしいぜ?」
栄花先生の言葉を聞いて、健ちゃんが目の前で竹刀を構える少女に問いかけた。
「……わたし、もうちょっと頑張ってみる」
少しの迷いもなく、少女はそう答える。眼差しは決意に燃えていた。
「………………うばぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「……うん。健ちゃんは筋がいいなぁ。いい剣士になりそうだ」
春であった。青い春であった。真冬なのに、完全にそれは春であった。
「じゃあ、次。地稽古やろうか」
「「「はい!!」」」
指示に、剣士たちが吼えた。
地稽古とは、決められた時間内に試合形式で打ち合うものだ。ただし、本当の試合とは違い、互いの判断で仕切りなおすことはあっても、一本になる打突の後に中断はしない。
時間が過ぎたら太鼓などで合図をし、違う相手と組み、地稽古を繰り返す。
「お願いします」
ちょうど私と栄花先生が組む番だったので、一礼をして中段に構えた。
「……」
息を吐いて、肩の力を抜く。脇を軽く締め、竹刀を持った手首を内側に絞る。左手は臍の少し前。剣先は相手の喉下を指すように。顎を引いて、真っ直ぐと前を見据える。重心は左足のつま先に乗せるように。
ダンッ!と太鼓が鳴った。気合の咆哮が道場を揺らす。
左足に乗せた重心をバネの要領で開放し、前へと跳んだ。
「めぇぇぇぇぇぇん!!」
「こぉぉてぇぇぇぇ!!」
開始直後、面にいこうとしたところを栄花先生の小手に払われる。
駄目だ。これではいつもと同じ。単純に打ちにいくだけでは、何も変わらない。だが、私だって栄花先生の助言を受けて何もしなかったわけではない。私に足りないのは柔軟性、つまり相手の打突に対する応じ技や相手のタイミングを外す応用技だ。
例えば、相手の小手を誘い、わざと大振りに面を打つことで小手を空振らせる、小手抜き面。
「めぇぇぇぇぇぇん!!」
「めぇぇぇぇええええええぁぁぁ!!」
右手を少しだけ左に捻り小手を誘ったが、先生は誘いには乗らず、双方が面を打つ形、相面となった。私の面は大振りでさらにはワンテンポ遅れていたせいか、完全に打ち負けてしまった。
ならば、他の技を試してみよう。
一度竹刀を肩に担ぐようにして振り上げることでタイミングをずらし、本来よりも力強い打突ができる、担ぎ技。
あれ、でもこれって一度担いでしまうんだから、足を出すタイミングが……。
なんて考えているうちに迫る先生の竹刀。
その日の稽古で、付け焼刃の技が役に立つことはなかった。
「……おい」
「あ、健ちゃん」
皆が帰り支度を始める中、壁に寄りかかって女性用更衣室の順番待ちをする少女に、健ちゃんこと健太が声を掛けた。
「じじいがこれ飲んで暖まってから帰れだとよ」
健太の持つ二つの湯飲みからは湯気が立ち上っていた。火傷しないように湯飲みの上部を持っている。
「わぁ、温かそう」
「あっちいんだから、早く受け取れよ」
「……んと、……ちょっと一回床においてくれない?」
「はぁ? なんで?」
「いいから!!」
「……んだよ。これでいいのか?」
少女のいつにない剣幕に健太は素直に従う。中のお茶をこぼさないように注意しながら、湯飲みを道場の床にことんと置いた。
「じゃあ、健ちゃん、後ろへ下がって」
「……」
「もう一歩。やっぱりもう三歩。……うん、それぐらいでいいかな」
健太が距離をとったのを確認して、少女が壁から背を離した。床に置かれた湯飲みに手を伸ばし、「あちち」なんて言いながらもひょいっとそれを持ち上げる。それからさっきの位置へ戻って、再び壁に背を預けた。
少女の行動に、健太は愕然とした。
「ま、待ってくれ……俺は……俺はそこまで嫌われてたのか?」
絶望に掠れた声しか出ない健太。ふぅーふぅーとお茶を冷ましていた少女がきょとんとした。
「え、なんで?」
「だってお前……俺に近寄りたくもないってことだろ?」
「なんだぁー、違うよー。確かに健ちゃんは私のこといじめるけど、昔はよく遊んでくれたもん」
少女の言葉に安堵する健太。そのやり取りを後ろで見守っていたナイスミドルな剣士も緊張を解いた。「うん。大嫌い」みたいな答えを少女がしようものなら、身投げに走る健太を止めるべく彼の手を借りなければならなかったかもしれない。
「じゃ、じゃあ、なんでだよ? ……湯飲みくらい、俺から受け取ればいいだろ」
「……恥ずかしいから」
「恥ずかしい? 俺から受け取るのが?」
「違うの! ……私、今きっと臭いから」
少女の恥じらいは乙女として当然のものだった。寒稽古がいくら凍えるほどの寒さでも、面や防具をつけた肌は汗を掻く。少女はまだ着替えていないから、汗を吸った道着の臭いが気になるのだろう。
「……健ちゃんだって、臭いの嫌でしょう?」
そのとき、絶望から立ち直った弾みなのか、うっかり健太が口を滑らせた。
「お前が臭いはずないだろ!! お前はいい匂いだ!!」
「……健ちゃん?」
「…………ぁ」
健太はやってしまった、という顔。その後ろで剣士が「よくやった!! 少年!!」みたいな顔をしていた。
「あ、違う。その、なんだ」
「……」
少女が、動揺しあたふたする健太の顔を不思議そうに見ている。
「……健ちゃんって、もしかして」
健太と後ろの剣士、そして更衣室の扉から一部始終を覗いていた私は、ごくりと唾を飲み込んだ。
「……変態さん?」
「そんなこったろうと思ったぜぇぇぇぇぇぇぇえええええええええ!!」
涙を散らしつつ走り去る健太。剣士がこちらに、まかせろ!と合図してからその後を追った。
「あ、おねーちゃん! お着替え終わったの?」
「う、うん」
「じゃあ、私が終わるまで待っててね! 一緒に帰りたいから!」
「う、うん」
少女に生返事しか返せない。
健太を哀れに思いつつも、絶対尻に敷かれるんだろうなーとか思ったのだった。
―4―「名札」
「……うん。だけど、少し硬いかな。……もう少し柔軟性を持つといいと思うよ」
「……」
数ヶ月が経っても、私が不調を脱することはなかった。
情けなくて、栄花先生から目を離し、床を見つめる。
どうしたら、いいんだろう。どうしたら、先生に私の竹刀は届くんだろう。毎日毎回、考えている。
私がいくら力を込めても、栄花先生には及ばない。
私がいくら技巧を凝らしても、栄花先生には及ばない。
「強くならなくたって、いいんだよ?」
ドクン、と大きく心臓が鳴った。体中の血液が沸騰したみたいに熱い。
ピントが合わなくて視界がぼやける。先生の顔がよく見えなかった。
「強くならなくたっていいんだ。剣道というのは強くなるためのものではないからね」
うまく呼吸が出来ない。
身体は燃えるようなのに震えが止まらない。
口の中がカラカラに乾いていた。
「妖夢ちゃんは考えすぎてるみたいだね。何を焦っているのかはわからないけど、少し立ち止まってみるのもいいことだよ」
栄花先生は言いつつ手を伸ばす。その手を私の頭に置こうとして、
「やめてください!!」
叫んだ私の腕に弾かれた。
大声を上げた私に、視線が集まる。「……おねえ、ちゃん?」と小さな呟きが聞こえた。
「…………あ。……あの、すいません!! 私……」
「うん。大丈夫だよ」
「あ、う、…………すいませんでした!!」
思い切り頭を下げてから、振り返って走る。運よく更衣室は空いていた。
「……はぁっ……はぁ……はぁ」
扉を閉め鍵を閉め、後ろに身を預けてそのままズルズルと腰を下ろした。
「……はぁ」
強くならなくていいといった栄花先生に、姿が重なってしまった
お師匠様の姿が重なってしまった。
「………………―――――じゃないですか」
弱いままでいいわけないじゃないですか。
強くならなくてもいいなんて、そんなわけないじゃないですか。
「……お師匠様は…………弱い私を捨てたじゃないですか」
自分だけしかいない更衣室は、よく声が響いた。
用事があるときに限って、妖夢がなかなか帰宅の報告に来ない。部屋を通りがかった幽霊に訊いてみると、既に帰ってきているらしい。生真面目な妖夢が報告を忘れるなんて珍しいこともあるものだ。
「妖夢ぅー。……妖夢ぅー?」
妖夢の私室に語りかけても、返事はない。
庭園はぐるりと覗いてきたので、入れ違いでない限りここにいるだろう。
「……はっ。……これが世に聞く反抗期?」
そうか、あの子ももうそんな歳か。遠い目で妖夢が可愛かった日々を振り返る。
食事係の幽霊に言って私におかわり制限をした妖夢。おやつをつまみ食いするとすごく怒る妖夢。私が庭園で砂遊びをしたら、白楼剣を抜いて追いかけてきたこともあったっけ。
「……」
「えいっ!!」
胸に覚えた小さな怒りで襖障子を開け放つ。いなかったら家捜ししてやろうと考えていたが、妖夢は部屋の隅っこのほうで膝を抱えて座っていた。
「あら、妖夢ったらいるんじゃない」
「……あ、幽々子様」
自分を呼ぶ声に膝小僧から顔を上げれば、眉をつり上げている我が主人の姿があった。
「何度も呼んだのよー?」
「す、すいません。ぼっーとしていたので。……それで、何か御用でしょうか?」
「あぁ、そうそう。これを貴方に渡そうと思って」
そういって懐から取り出されたものは、先日、棚を漁っていたときに見かけた布巾着だった。
「はい、どうぞ」
「えっとぉ……幽々子様、これを何故私に?」
「いいから、それ、裏返して見なさいな」
「はぁ。わかりました」
巾着の中に手を差し込んで、底の布地を掴む。それを引っ張り出すと、
「これって……」
「それねー、洗って干したままになってたんでしょうね。弄って遊んでいたら気づいたのだけど」
ひっくり返した布地には、硬い材質の布を縫い付けることで文字が形作られていた。
その文字は『魂魄』。
「それって、剣道のときに……あのーほらーなんだっけ?」
「垂れに被せる名札……ですね」
「それそれ」
「でも……なんで幽々子様の部屋にこれが?」
「私の部屋って、もともと妖忌の部屋だったのよ。前の私の部屋って無駄に広くて落ち着かなかったから、そこを客間にして、今の部屋を頂戴したの」
「じゃあ、これってお師匠様の……」
ただの巾着袋だと思っていたそれを見つめる。紐がついているのは、垂れに被せた後にそれを結んで固定するためだ。
私に剣道を勧めるくらいだから、祖父が剣道をしていたことがあっても不思議ではない。これはそのときに使っていたものだろう。
「せっかくだから、貴方が使ったら?」
それはとても魅力的な提案だった。お師匠様のものを受け継ぐことができる。それだけで心が躍った。
「……私にそんな資格は、……ありません」
だけど、私は。
「私は、お師匠様に捨てられたのですから。そんな者に受け継がれてもお師匠様は喜ばないと思います」
「……貴方、それは本気で言ってるの?」
「……はい」
お師匠様から頂いた、腰の二振り。私にはそれで十分だった。
それはきっと弟子のために残したものではなく、西行寺家へ義理として白玉楼を護る者へと残したものだろうが、そうであっても私には十分だと思えた。
「……えいっ!!」
「わぷっ! ……ううこあま、あにを……」
幽々子様が両手で私の頬を挟みこんだ。そのせいでうまく言葉が紡げない。
「よーく聞きなさい。妖夢」
「……ふぁい」
「妖忌はね、親バカならぬ、じじバカ。ううん、馬鹿じじいだったわ」
「それ、単に貶めてるだけですよね?」
「あら、間違ってはいないと思うんだけど。例えば、そうねぇ……貴方が妖忌との訓練中に気を失ってしまったときのこと覚えてる? あのときなんかねぇ―――――」
「幽々子様!!」
屋敷の廊下を通りがかると、大きな声で呼び止められた。
私を呼んだのは西行寺家お抱えの庭師兼護衛、魂魄妖忌そのひとである。
「なあに?」
そちらを振り返ると、声を上げた妖忌とその対面に屋敷の幽霊。それは珍しい光景だった。妖忌は近寄りがたい威厳を備えていて、彼が弟子の妖夢以外と共にいるところなどほとんど見ない。さらに、今の彼の表情はなんというか、その、―――緩んでいた。
「ん……そうかそうか! それは悪かったな! わしは幽々子様と話があるのでな、しっかりと仕事に励んでくれ!」
妖忌は幽霊と二三言葉を交わしてから、両手をぶんぶんと振って「達者でなー!!」と盛大にその背中を見送る。幽霊はものすごいスピードで廊下を飛んでいった。妖忌の姿はいつもの寡黙なそれからは想像できず、正直不気味だった。
何故だろう、すごく嫌な予感がする。
私の中の第六感的な何かがそう告げた。
今のうちにその場から離れてしまえ。そう思って、背を向けた肩をガシッと力強く掴まれる。
「いやあ! 西行寺家当主の幽々子様にも是非お耳に入れておきたいことがありましてな!」
「そ、そうなの」
いったい誰なのだろうこの人物は。それは魂魄妖忌であって、魂魄妖忌ではないものだった。
頭の中をCAUTION!!と黄色いラベルが埋め尽くす。
「いやあ、わしの孫の話なのですがな!」
「妖夢のこと?」
「そのとおりです! その妖夢なのですが、あの子は実はですな……」
「―――――天才、なんですよ!!」
「ここまで早く剣術の本質を見切るとは思わなかっただの、本来はそこまでは何年かかるはずだの、最終的には妖忌が貴方と出会ってから現在までを嬉々として語るの。恐かったわ。すごく恐かった!! ……想像できる? あの顔面がにやけたままハイテンションで迫ってくるの!! まさにホラー!! ホラー馬鹿じじい!! 『お腹が空いたからこれぐらいにして?』って言ったら、『そうですか! では食事をしながらお話いたしましょう!!』って、なんで聞くの前提で話が進んでるのよ! 一度食いついたら離さない、まるでスッポン!! すっぽん馬鹿じじい!! そんなわけで今日の夜はスッポン鍋に決まりね!!」
「さりげなく夕食の献立を決定しないでくださいよ!?」
「とまぁ、そんな妖忌が貴方を捨てるわけがないわ」
「……信じられません。私の前ではお師匠様はそんなこと……」
「そりゃあそうよ。苦労してたみたいよ? 自分は妖夢の剣の師なのだから甘やかしてはいけないって」
「では、何故……」
「ん?」
「何故、お師匠様はどこかへ行ってしまわれたのでしょうか?」
やはり、腑に落ちない。
お師匠様が本当にそんなことを思っていてくれたならば、私や幽々子様、そして白玉楼よりも静かな生活を選んだということに納得がいかない。
自分の考えは子供じみているのだろうか。悟りというものは、何もかも投げ打ってまで優先すべきものなのだろうか。
「そうねえ……頓悟、といってしまえば簡単なのだけど。……隣、いい?」
「……どうぞ」
足を抱える私の隣に、幽々子様が腰を下ろした。「うーん」と唸って難しい顔をする。
「……知ってた? 妖忌って強いのよ?」
「はい。それはもちろん。お師匠様に勝てるものなどそうは居ません」
「あらあら、妖忌が聞いたら喜ぶわね。そう、彼は強かったのよ。でもね、強いということは必ずしも良いこととは限らないわ」
「……そうなの、ですか?」
「ええ。強くなれば強くなるほどね、敵は増えるものなのよ。もちろん、強くなればそれに負けることはないでしょうが、それにしたって敵が多いことには変わりがない」
「……」
考えてもみなかった。強くあるということが、どういうことなのか。強くなろうとするばかりで、それ自体についてはわかろうともしていなかった。
「あるときから、結界を破ってまで白玉楼へ侵入する妖怪が増えてきてしまってね。それ自体は妖忌が対処すれば済む話だったんだけど、一つだけ問題があったの。その問題というのが、妖怪たちの狙いが白玉楼ではなくて、妖忌自身だったってこと」
「お師匠様が妖怪に?」
「そうよ。妖怪の中には、妖忌に恨みを持つものがいた。原因はきっと彼がそいつをぶちのめしたとか、そんなのだったんだろうけど、その妖怪って言うのがどうも陰湿なやつらだったみたいね。仲間たちにね、こう広めたのよ。『魂魄妖忌という者を倒せば名が挙がる』ってね」
それは卑劣な策だった。昼夜問わず行なわれる襲撃。蓄積していく疲労。
幽々子様によれば、お師匠様は自身よりも白玉楼へ被害が及ぶことを恐れていたらしい。自分のせいでそんなことになるなんて耐えられない、と。
そんな想いもあってか、度重なる戦いでお師匠様は精神をすり減らしていく。
「妖忌はそんな素振りは見せなかったわ。だって、彼は強かったんだもの。でも、どうにか今の状況を打開できないものかって、ずっと悩んでいた。悩んで悩んで。その末に、彼は悟りという境地にたどり着いた。……それで、気が付いてしまったのよ。自分がここからいなくなってしまえば、全て解決するんじゃないかって」
そうして、魂魄妖忌は旅立ちを決意する。白玉楼を守るために。護衛としての役目を果たすために。
「別れの朝、挨拶に来た妖忌に訊いたわ。妖夢に会っていかなくていいのかって。でも、彼は首を振って、逆に私に訊いてきたの。自分が無我に至るのを、最後まで阻んでいたのはなんだったかお分かりになりますかって」
『わしも半分は人でありまして。孫は可愛いものなのです。……わかっていました。感情を捨てれば、全てを背負わせてしまうことを』
無意識下では、早い内にその解決法に気づいていたのだろう。だが、自らの感情がそれを押し留めた。
魂魄妖忌はそこでも戦っていたのだ。孫に重い役目を負わせたくはないという想いを相手に。
「だけど、去り際の彼はどこか満足そうだったわ。最後に、貴方の部屋の方を見てなんていったと思う?」
『ですが、こうも思うのです』
「『こんな大事な役目を任せられるのは、自慢の弟子しかいません』だって。……最後まで馬鹿じじい、ね」
私の手に握られた垂れ名札。それに刻まれた文字は、最早霞んで見えない。
「……ぅっ……ぐすっ……ぅ」
「あらあら、洗い直さないといけなくなっちゃうじゃないの。泣くならこっちにしなさい」
幽々子様が私の頭を胸に抱きとめた。私の目から溢れるもので着物が濡れる。
「わ、私は。…………私は、捨てられたのではないのですか?」
「当たり前じゃない。なんたって貴方はあの馬鹿じじいの孫なのだから」
掠れた問いに返される答え。
「私は、魂魄妖忌の弟子でもいいのですか?」
「当たり前じゃない。なんたって貴方は『自慢の弟子』なのだから」
その答えが、あまりにも優しくて。
私はますます涙を止めることが出来なかった。
「あっ!」
鍔迫り合いから、木刀が弾き飛ばされた。回転しながらそれが地を滑る。
そうしてまた、お師匠様は私と間合いを取った。
「……」
視線で促され、木刀を取りに走った。
どうしたら、いいんだろう。どうしたら、お師匠様に私の木刀は届くんだろう。毎日毎回、考えている。
私がいくら力を込めても、お師匠様には遠く及ばない。
私がいくら技巧を凝らしても、お師匠様には遠く及ばない。
木刀は庭の端っこまで飛ばされていた。
「……あれ?」
視線の先に、気になるものを見つける。お師匠様がいつも大事そうに手入れしている松の木だ。けれど、その松の木はいつもはそこになかったし、横倒しになっていてその根を外気に晒していた。
「……どうした?」
「あ、お師匠様」
なかなか戻らない私に、お師匠様が近くまで歩み寄ってきていた。そうして松の木を見て、「……ふむ」と何か納得したようだった。
「お師匠様。なんでこの子はこんなところにいるのですか?」
「……こいつは、もう寿命を迎えていてな」
「寿命?」
「生命の限界のことだ。わしも出来るだけ長く生きてほしくてな……手は尽くしたんだが、根っこが死んでしまってはどうにもならん」
「根っこが死んでしまったら、もう駄目なのですか?」
「あぁ、そうだ。他の部分ならなんとかなっただろうが、根っこは文字通り根本の部分。そこをやってしまったら、それは致命的だ。手の施しようがない」
「……ちめい、てき」
根っこが死んでしまった松の木。他の部分ならば助かったかもしれないのに、よりによってそこが死んでしまった松の木。なんだか可哀想だと思った。
「……妖夢。戻るぞ」
「……はい」
そうして、またお師匠様と対峙する。
「……ちめい、てき」
だけど、どうしても何かが引っ掛かっていた。死んでしまった松の木のことが頭から離れない。
「……死んだら、お終い」
「妖夢、どうした。早くしなさい」
「あ、すいません。……いきます!!」
その残像を振り払い、目の前の訓練に集中した。地を駆け、間合いを詰める。
「やぁぁぁ!!」
今度は狙いを変えてみることにした。お師匠様自身ではなく、その手元を狙う。剣道で言えば、小手の部分だ。
「ふん!!」
片手で握った木刀で横に打ち払われた。弾かれたことで身体ごと振り回され、上体が泳ぐ。そこに、両手で握りなおされた薙ぎ払い。身を護らなくては、それは私の身体を打つだろう。崩れた姿勢を無理矢理戻し、防御の構えに移ろうとして、
松の木の映像が、頭をよぎった。
「あがっ!!……うっ!」
お師匠様は驚いているようだった。それは、私がお師匠様の一撃を木刀で受けなかったからだろう。
だが、それをまともにもらってしまっては、私はきっと立っていられない。だから、それを受けたのは私の半身。具現化した私の片割れだ。気質の固まりである幽霊は、何もかも通り抜けることも出来るが、強く念じればこうして実体を持つことだって出来る。
「ううっ……」
そうはいっても受ける痛みは変わらない。身を震わす痛みは歯を食いしばって我慢した。それでも、その身を打った木刀は絶対離さぬよう、半身が身体全部を使ってぎゅっと握り締める。
お師匠様の薙ぎ払いが迫った瞬間にわかってしまった。この訓練の意味が。お師匠様が私に教えようとしていたことが。
剣術とは、実戦とは、先に死んでしまった方が負けなんだ。
お師匠様は一撃ももらうな、なんて言わなかった。そして、お師匠様が間合いを仕切りなおすのは、私が大きな隙を見せたときと、私が木刀から手を離したときだった。
実戦だったならば、私はきっとそのとき死ぬんだろう。あの松のように致命的な、逃れようのない死が待っているのだろう。
だけど、根っこが死ななければ、まだ手は残っている。
どんな辛い痛みであったとしても。まだ生きているなら、勝てる望みは残っている。
手先が少し痺れていた。木刀を一度、力を込めて握りなおす。
繰り出すのは突き。お師匠様の木刀は動かせないはず。この距離、このタイミングならば外さない。
「うぅぅぅぅぅっ!!」
私の木刀は届くだろうか。……届いてほしい、と思う。
届けばきっと、お師匠様に褒めてもらえる。褒めてもらって、頭を撫でてもらうんだ。
たまに甘えて手を握ると、何も言わずに握り返してくれる手。しわしわだけど、温かくてなんだか安心する手。
そんな、おじいちゃんの手で、頭を撫でてもらうんだ。
「やぁぁぁぁぁぁぁ!!」
願いを託すかのように、その剣先を前へ突き出した。
―終―「礼に終わる」
「お願いします」
「……うん。やっぱりね、妖夢ちゃんはね……真っ直ぐでいいものを―――――」
一礼し、栄花先生の言葉を聞く。やはり、それに変化は見られなかった。
「―――――柔軟性を持つといいと思うよ」
「……先生」
「ん、なんだい?」
だが、今はそれを誇りに思うのだ。
「私は……これでいいのだと思います」
小手先に頼らず、ただ真っ直ぐな剣。
それは、お師匠様の、私の祖父の太刀筋そのままだったから。
雄雄しくて、実直で。私の尊敬する師のものと同じだったから。
「…………はて?」
「先生、どうしました?」
「……うん。なんだか、今の妖夢ちゃんがいったことをどこかで聞いた気がするんだ」
「え……あの、それって誰が言ったんですか!?」
もしかしたら、という思いがよぎる。
「うーん。思い出せんなぁ……どうにも歳だからかな」
「諦めないでくださいよ!? なんとかして思い出してください!!」
首を傾げる栄花先生に、痺れを切らして掴みかかった。がくがくとその身体を揺さぶる。
「あ、だ、だ、よ、妖夢ちゃん。お、お、お、おちつ……」
「さぁさぁさぁ!! まだですか? まだでませんか? ではもう少し強くいきますね?」
栄花先生の入れ歯が外れたのを見て、いつかのナイスミドルな剣士が慌てて止めに入り、私は我に帰る。
最後まで栄花先生がそれを思い出すことはなかった。
「す、す、すいませんでした!!」
深く頭を下げる私の前垂れで、細かい傷の残る『魂魄』という二文字が存在を強く主張していた。
目を開くと、布団に寝ていた。傍らでお師匠様が、
「おぉ、妖夢! 気がついたか!」
と、嬉しそうな声を挙げる。着ている着物の胸元が少し破れていた。
「よくやったなぁ、妖夢! さすがわしの弟子! そしてわしの孫! 今日を記念の日にするとしよう! あとで幽々子様にお話すれば、西行寺家に代々伝わる日として語り継がれるぞ!」
「……お師匠様」
「係りの者に言って宴の準備もしなくてはな! それから……ん?どうした?」
「これは、夢ですか?」
「夢? どうしてそう思う?」
「だって、お師匠様が私にそんなこと言うなんて……。夢でしかありえません。こんなの」
私がそう言うと、お師匠様ははっと気づいたようになって顔を青くする。それから頭を抱えて唸り、数瞬の後に一つ咳払いをした。
「……そ、そうだ。そのとおりだ。これは夢なんだ」
「……やっぱり、そうなんですか」
正直、違う答えを期待していたので落胆する。ため息をつきそうになって、あることに気が付いた。
「お師匠様、これは夢の中なんですよね?」
「あ、あぁ。そうだ」
「じゃあ……いつもは言わないことを言っても怒りませんか?」
「な!わしが可愛いおまえを怒るなんうぉっほん!げふん!……怒るわけがない。夢の中だからな」
「あの!じゃあ!あの……頭を撫でてください」
口にした願いは剣先に込めたもの。
現実にそれが届いたかはまだわからないが、それは夢の中でさえも叶って欲しいものだった。
「こうか?」
「……えへへ」
大きな手の感触に、思わず頬が緩む。
なんて素晴らしい夢なんだろう。本当のお師匠様の手もこれくらい温かくて優しいに違いない。根拠もなくそう思った。
「……妖夢。すまんなぁ。わしは……」
「あのあのあの!! まだあります!! まだ言ってもいいですか!!」
「……ははは! まかせなさい!! 思う存分言うといい。……なんたってここは夢の中だからな」
いつもは言えないこと。して欲しいこと。それはたくさんたくさんあった。
でも、全部はきっと駄目だから。その前にきっと目が醒めてしまうから。
一番して欲しいことはしてもらった。だから、一番伝えたかったを伝えよう。
それは、お師匠様をお師匠様と呼ぶ前から、ずっと胸の奥にあるもの。
それは、お師匠様と過ごす中でどんどん大きくなって、今や私の気持ちをいっぱいにしているもの。
「あのね!」
いつか本当にその日がきたら、しっかりと伝えることができるように。
私は、出来るだけ大きくはっきりとその言葉を声にする。
「おじいちゃん、大好き!!」
とても面白かったです。もう全てが素敵。
妖忌の2828顔が幻視された
不思議なのは、歩くのも覚束ないお爺ちゃんが、着装して構えると、大学生の体当たりをも受け止めるということ。長年続けてきたけど、ホントどうなってるんだろうかと……。
しっぷうどとうはリアリティーに欠けるかな。寧ろ、感覚とか技術的なリアリティーを求めるなら、バンブーブレードが一番いい描写してるよ。……いろいろ余計な要素はあるけど。
同じ経験者なので、かなり文に共感できました
いやに共感できまくると思えば二段とは 恐るべし
初段だってとるの大変だたのによー
もう色々な意味でにやにやしっぱなしっぱなしでした
素晴らしい作品をありがとう
テンポ良く読めて、ストンと綺麗に落ちる感じ。
健太少年のその後が気になるので90点でw
時に、栄花さんがいるなら宮崎さんも居るんでしょうか?w
読みやすく途中に笑いもあり妖夢のかわいさとジジバカも上手く書かれていて
面白かったです。
オリキャラも違和感無く話に溶け込んでいてほのぼのしました。