1.
夏はちろちろと傾いで、秋となった。
遅くなった日の出と早くなった日の入りの間の、中二階のような曖昧な午后はなぜだか永く
感じられるのだ。秋の日は夏のそれよりも複雑である。何かに感じ入ったり何かを惜しんだり
しても、涼風が編む情緒の糸にアッという間に絡めとられる。―――
山の秋は、ことのほかそうで。
椛は、川辺でいつものように見回りだ。
とはいえ。
鋭敏な椛ならば歩き回らずとも、ぼうっと立っているだけで警護の用をなす。
紅れる木々を眺めながらの暇つぶし。
ひとり大将棋とひとりオスローは昨日やった。一人西洋将棋にでも挑戦しようかと思う。
椛は四方で目に付いた木の実をざっと集めた。花水木が兵卒、冬サンゴが司教、ネムが城塔で、
サンザシが王将、とさだめる。
なぜだか女王にふさわしい木の実だけは思いつかない。それで悩む。
と。
「おぉい、椛」
「ああ」
知った声がした。
谷河童のにとりだ。
風に逆らって急な勢いで飛んでくる。椛の前に降り立つと、はー、と息を吐いた。
「えらく慌てた調子だな。何かあったのか?」ぶっきらぼうに椛は訊ねる。
「いや、ちょっと難事でさ、椛の力が必要なわけ」―――といいつつ、にとりは盤面を覗き込む。
「こいつはひとりチャトランガだね。歩兵が冬サンゴ、象がネム、花水木が将校でサンザシが馬か。
君主は思いつかなかったの?」
「残念だけど、外してるよ」
「私はウグイスカズラとか良いと思うわ」
「半年も先になる実じゃないか」
「半年も長考してればいい。王様は最後に現われたほうが格好いいってば」
「悠長な話だ」
「そうそう、そんな悠長な話をしてる場合じゃないの」
「それじゃあ悠長じゃない話を早くして貰えないか?」
「そう急かさないでよ」
「どっち」
「実はさ」
「うん」
にとりは辺りの御影石に、どかりと座り込む。
「―――星を失くしたんだ」
「星?」
椛は話がつかめず、思わず顔を顰める。
「む、星を失くした。分からないな。詳しく聞かせてくれ」
「そうしたいのはやまやまだけど、喉が渇いて声が出しにくいの」
「そこの竹の水筒に、薄荷の水割りが溜めてある」
「ありがと!」
にとりは飲み口を頬張るようにして、ごくごくとそれを飲み干した。
「っんく、んく、生き返ったー。乾く潤おうは河童には死活問題ね」
「それで、説明は?」
「ああ」ふう、とにとりは息をつく。「前に夜が止まってずっと続く異変が起こったでしょ。
それにヒントを得て、人工的に星空を作ろうと思ったの」
「星空を? 人工的に?」
「外の世界では、プラネタリウムとか呼ばれてるらしいよ」
「すごく大きな話だな」
「縮尺的にはすごい小さいけどね。半径三間とすこしの岩洞が近くにあるから、外に群青天鳶絨を
張って、貝殻と河魚の骨で遠くの星は表現するつもりだったんだ」
「明るさの強い近くの星は」
「そう、そこ、そこなのよ」
にとりは自慢げに目を細めた。
椛は知っている。これは発明屋が自分のアイディアを見せびらかすときの顔で、知るかぎり
河城にとりがいっとう嬉しがっているときの表情だ。
「白黒というか黒白というか、そんな魔女がいたでしょ。あいつから星を借りたの」
「………驚いた。あいつは泥棒まがいだって有名じゃないか。どうやって借りたんだ」
「相手が魔女なんだから、そりゃ取引に決まってるわよ。むかし無縁塚で拾った機械をなおして、
適当にくれてやったわけ。ラジオフォニーって言ったかな、方解石に猫のひげみたいな電線を
当てて、遠くの人の歌やら愚痴やら聞こえるっていうやつ」
「暗くなりそうな機械だ。でもそんなのなくても、遠くでもお互いに喋れる機械があっただろう」
「あれは水晶振動子が壊れちゃって」
「へぇ」
「でさぁ」
「うん」
「それで星を持ち帰って、岩洞の中に針と糸で係留しておいたんだけど」
「糸か。星はギザギザの形だ、糸じゃ切れるだろうな」
「そそ、何で気付かなかったんだろうねぇ」
ため息をつきながらにとりは肩を落とす。
椛は彼女の横に回ると、ぽん、と背中を叩いた。
「つまりは、探し物だろう」
「うん。お星さまを探す冒険なんて面倒じゃない?」
「そういう話なら構わない。―――いかに千里先を見通せる視力でも、入り組んだ森道の中じゃ、
無いよりましな程度にしか役に立たないと思うが」
「良いの? いや言った手前、良くないとマズいけど、警護の仕事は」
「うちの上司は何時も椿事を求めておられる方だから、ありきたりの仕事をサボタージュしても
わりと寛容なんだ」
「良いねぇ良いねぇ、それ」
「ただしありきたりでない仕事をサボタージュしたら、カンカンに怒られるが」
「………んゃ、そんな上司はどうよ」
「兎に角、利害は一致してるわけだ」
「そっか、まあそだね。それじゃあお手伝い、宜しくお願いしますわ」
にとりはリュックサックの中から、真鍮のコンパスと地図を取り出した。
彷徨う星を探す冒険であるから、こうしたものたちは勿論役には立たない。けれども冒険には
古びた計器に目を走らせながらの逡巡が不可欠だ。
回り道をしなければ幻想は探せない。
それを幻想郷の妖たちはよく知っている。
2.
降り注ぐ枯葉は景色をふさぎ、薄絹を掛けたように秋の日差しを柔らかなものとする。
午后二時の樹海。
森の道行きは不可思議に満ちている。まっすぐ歩いていたはずが同じ場所を歩いていたり、
さっきは三叉路だった場所が十字路になっている事は、ざらにある。
もちろん椛もにとりも、その程度の事では驚かない。
「けれど、樹海の道行きは難儀だ」
「いやいや何。仕方ないじゃないのよ」
「どうして下に行くことを選んだの」
「山での落し物は、おおむね上から下に落ちるに決まってるわよ」
「そうかな」
「そうだって。ところでお腹が空かない?」
「少しね。買い物をして行こう」
「買い物? どこで?」
「少し待ってて」
小路を辿ると眼下に滝をのぞむ崖があって、そこで椛は財布の革紐をゆるめた。
何をするのか、とにとりが思っていると、椛はつまみあげた二枚の銅貨を崖に投げ捨てる。
その瞬間に黒い影が目の前を行き過ぎた。それは瞬く間に銅貨を掴み取って飛び去り、椛の前には
和紙の包みが置かれている。
「何それ」
「パンだよ。匂いからして中に干し葡萄が入ってる」
にとりは椛から包みを受け取る。
はたして言われたとおりの品だった。付け加えるなら裏地に《今後ともご贔屓に 綺羅星商會》
なる文面とともに、鴉天狗の影絵が墨で描かれている。
「茶目っ気があるわー」
「この辺りでは人気の商會だからね」
「へーへー、こんな山道にもお店を出してるの」
「さっきから看板ばかりだったじゃないか。気が付かなかったの?」
山林は妖怪たちにとって街路のようなもの。
特に天狗が作り上げる組織の力はあちこちに及んでいる。他の種族が見れば静かな山路でも、
実際には縁日の出店の列にひとしい。草葉の陰に、大樹の洞に、どこかいかがわしい店がひっそり
開いているのも、当たり前といえば当たり前のことだった。
「これを見て」と椛。
「どれどれ? あ、木の幹に看板が掛かってる」
「《春夏冬中》だよ」
「あきない中、ってか。ちぐはぐよねぇ。実際は秋まっただ中なのにねぇ」
はむ、とパンを齧るにとり。
本音では、欲しいのはやはり胡瓜だ。水っ気のないパンは好みではないが、文句は言えない。
「………でも、やっぱ喉は渇くんだよなぁ」
「にとりは喉が渇きすぎだ」
「種族上、どうしてもね」
「崖の下の河に、水を汲みにいったら?」
「そうだね。そうしようか」
にとりはびゅう、と空を舞って、崖下の一隅をめざす。
なんとなく視線をそらして椛が待っていると、あっ、と言う声がした。
「にとり、どうしたんだ。河で洗濯しようとして流されたのか」
「そう簡単に河童は河流れない! そうじゃなくって、星があったの!」
「なに」
椛はにとりの声を聴いて、おなじく崖下に下った。
視界の先の川下、瞬くような光がつとつと流れていくのが見える。
水面にきらきらと散る、ギヤマンめいた陽の光が煩わしい。小さく輝くものどうしで紛れて、
椛の千里眼をもってしても、たちまちに星を見出すのは難しい。
「椛、どう?」
「ちょっと待って、―――…、………見えた。流れていってるな」
「私の目じゃもう見えないや。追いつけそう?」
「ここから暫くは流れが速いが、もうすこし下れば勾配がゆるやかになる」
「そこで追いつけるっていうわけね。ふんふん、急ごう―――」
―――そうして。
「あったぞ、にとり」
「見える見える。渦に巻かれて止まってるね」
二人が追いついたのは、幾つかに分かれた支流のひとつ。
静かな場所だった。
―――頭を垂れる水飲鳥を思わせて、水面に枝葉を伸ばす幾つもの木々。風が吹くたびに波紋。
流れは穏やかと言うより、むしろ停滞していると言っていい。夢にまどろむような川辺の眺めを、
花咲いた秋丁字のひとむらが、青く霞ませている。
胎にいだかれるように。
銀瑠璃の星が、光っていた。
「あった! あったよ椛!」
「しっ」
「何」
「なんだろう。この場所はなにか、しじまを破るのがためらわれる」
「またまた! なんか迷信めいたこと言っちゃって」
「河童がそれを言うな」
「椛だって天狗じゃない。迷信であり幻想である私たちは、迷信や幻想を恐れなくていいって事」
「何かしっくりこない」
「気分の問題じゃない? ええっと、どこ行ったかな、あった」
にとりはリュックの中からスコオプを取り出し、しゃがみこんで川辺を漂う星を覗き見る。
うんうん、と細かく頷いているところを見ると、どうやら当たりらしい。
「そいじゃ、もーらおっと」
そう言いながら、にとりはリンネルの布で、そっと星を掴もうとした。
と。
「痛っ」
その指が、はじかれる。
何事かと思って見遣ると、布は真っ黒に汚れ、厚手の皮手袋がぼろぼろに痛んでいた。
その下の皮膚にまで黒い傷は及んでいる。
「なんだぁこれ」
「見せてみろ、にとり」
「うん」
椛はにとりの手袋を剥ぎ取ると、かぐろい傷口にくちびるを付けて、蛇の毒を処する要領で
そこに染み入った夜色の何かを吸い取った。苦い顔をしながら、それを足元に吐き捨てる。
水筒の残りで口をゆすぐと、ようやく人心地付いたというふうに口を開いた。
「………やっぱりだ、この場所には厄が溜まってる」
「厄?」
「よく水を見ろ」
にとりは水面にもう一度目を向ける。
よくよく見れば水が黒い気がする。けれどもそれが木々が落とす虚ろな影であるのか、あるいは
水そのものが油のように濁っているのかは判じがたい。
けれども厄が、―――つまり悪運の凝りがここに溜まっているというのなら、それはそれで
納得できる話だ。時に麻酔を打たれたようなこの一隅に注がれた水は、ぐるりぐるりと対流し、
長い時間をかけて出て行くのだろう。
おそらくそうした場所は、多くのものを留める。
例えば砂土を、あるいは芥のたぐいを、時には運命さえも。
「なるほど、一昼夜かけてあの星は厄を吸っちゃったんだ」
「その厄が棘みたいに、触れる人を傷つけるわけか」
「これじゃあ星に触れないよぅ」
「どうしたものかな」
触れずに星をすくいとる方法など、あるわけもない。
二人はよたよたと河原に座り込んだ。
「お困りのようね」
思案にふける二人に、後から声をかけるものがあった。
振り向けば、ドレスに身を包んだクリスマスカラーの少女。
鍵山雛だった。
「なんだ、誰かと思えば厄神様か」と椛。
「丁度いいんじゃない? 厄神様って言えば厄のエキスパートでしょ」とにとり。
「そう都合のいいものじゃないわ」と雛。「私はあなたたちに、早くここから離れるようにと
忠告に来たのよ」
「ふむ。厄神なら、この星の厄を吸い取る事は出来ないのか?」
「そうだよ。おねがいだよぅ」
「残念ね―――この場所は妖怪の山でもいっとう厄の溜まり易い場所、それを利用して私たちは
余分の厄をここに溜めているの」
「厄の溜め池というわけか」
「そんなの山の中にほっとくのって、やばくない?」
「やばくないわ。ここに溜めた厄は滅多な事では流れ出さないし、厄の管理はちゃんと私たちが
やってるもの」
「一部放し飼いにしているのを、きちんと管理していると言えるかどうか………」
「事情はわかったけど、とにかくあの星の厄を吸い取って、返してくれない?」
「そうしたいのはやまやまだけど、この場所の厄は強いから吸い取るのに時間がかかるのよ。他の
処での業務を怠ることもできないし、あなたの希望ばかりを叶えることはできないわ」
雛がそういうと、む、と膨れた顔でにとりがリュックに手を突っ込む。
抜き放った手には三枚の札が握られていた。
スペルカードだ。
「ごめんね厄神様。私なりにけっこう大事なことなんだ、これ」
「だからと言って実力行使は感心できないわね」
「やらないの?」
「あなたがやると言うのなら、応じざるを得ません」
雛もスペルカードを取り出し、眼前に扇のように掲げた。
二人は向き合って、距離を取る。
「化学『繰りかえすアルカロイド』
鉄符『雨の国の鈍色造花工廠』
投影『パノラマランドエスケープ』、以上三枚」
「悲劇『オフェリア異聞』
不運『丁半不捌』
災符『ピアノソナタテンペスト』、以上三枚」
「待て。まわりをよく見ろ」
向かい合って札を見聞していた二人に、椛が声をかける。
見ると、辺りに―――魚が泳ぐようにして、六つの星が漂っていた。
それらはぼうとした光を放ちながら、しばらくその辺りを漂い続け、やがて自らの住み処を
見出したようにひとつの形を作る。
「これって、おおぐま座のしっぽ?」とにとり。
「北斗七星とも言うな」
「でも、なんで急に集ってきたんだろう」
「さっきの星に厄が付いたからだろう」と椛は推測する。「たぶんあれはベネトナシュ。中国では
破軍の星といって、戦の勝敗を決する凶星だとされた」
「それって、おおぐま座の星のひとつなの?」
「そう」
「なるほど、さっきの星がベネトナシュの役割を得たから、それに合わせて星座が作られたんだ」
「と言う事は、今ごろ山じゅうに散らばった星が、星座の定位置を取ってると思う」
「あー!」
「ちょっとちょっと。私との話はどうなったのかしら」と雛。
「どうなったんだろうな」と椛。
「状況が変わったんだってば。空気読めないの?」とにとり。
「なんだと」
「まぁまぁ」
何よ、とばかりに蚊帳の外の扱いをくらう雛をよそ目に、二人は話を進める。
「それにしてもだ。これで星座が定位置を取るっていう事は、随分星は探し易くなるぞ。
妖怪の山の地理と星座の構成を照らし合わせれば、何がどこにあるのかはすぐに―――」
「いや、もっといい方法があるよ?」
「え?」
「雛ー、ちょっとさっきの星を持って、そのあたりを回ってくれない?」
「何で? っていうか、急に呼び捨て?」
「まぁ、いいから」
「あっ、そう!」
ため息をつきながらも、にとりの指示通りに雛がベネトナシュを移動させると、それに合わせて
おおぐま座の星たちも移動をはじめる。なるほど、と椛が声を上げた。
「星の位置をさだめているベネトナシュを回せば、それに合わせて星座も回るわけか」
「たぶん近くに北極星もあるんだろうね。動きからしてその二個が軸になってるわ」
「ちょっとちょっと、二人で何を納得してるのよ」
「別に」
「別に」
「もう」
「………しかしそれにしても、こっちから探しものの位置を操れるなんて便利だな」
「上手くすれば、一個残らず九天の滝にぶつけて落とせるかもね」
「それだと、あの厄神に動いてもらわないといけないぞ」
「そうなっちゃうよねぇ。雛ー、今日はこれからどういうところを回るの?」
「山の厄を散策がてら集めるわけだから、特には決まってないわよ」
「じゃあ、こっちに便利になるように道行きを決めちゃってもいいかな」
「いいけど」
にとりはリュックから星座早見を取り出すと、それを山の地図と重ねた。
葦で作ったペンで手早く径路を書き込む。河童の指は図面を引くためにあるのではないかと
思わせるほど、手馴れた手際だ。
「出来た。こんなふうに進んでもらえない?」
「これならまあ、大方支障はないわ。いいでしょう」
「ありがとう雛!」
「って言うか、いつまで呼び捨て?」
「さぁ、いつまででも?」
「いつまでかにしておきなさい!」
親しいのか仲たがいしているのか良く判らない態度のままで、厄神は樹海の奥まったほうへと
進んで行く。それに付き従う温和な仔犬のように、北斗七星も彼女に続く。
「うん、やったね椛。これで星の八割は九天の滝に落とせるはずだよ」
「やはり、全部まとめて落とすわけには行かないのか」
「位置的にどうしてもね。取りこぼすものは出てくる。今からそれを取りに行きましょ」
「待て。何の星座だ?」
椛がそう問うと、にとりはにっこりと笑うのだ。
「いくつかあるけど、トリはカシオペア座だよ。秋の夜空の顔役だ」
3.
椛とにとりが厄神と別れてしばらくの後、急に雨になった。
山の天気はにわかに変わるものだとは言え―――。
海の底を返したような大雨だ。木々の葉末は雨滴のおもさに堪えかねてうなだれ、条々の水煙が
風景からどんよりと色彩を奪っている。その中を、椛とにとりは、ちゃぷちゃぷと駆ける。
「この天気じゃ空も飛べない。眼も利かない。悪い事づくめだ」と椛。
「私としては、この天候は願ったり叶ったりなんだけどな」と、あくまでにとりは陽気だ。
「水を得た河童の元気そうなのを見ると、なんだか腹が立つ」
「椛は水が苦手なの?」
「得意じゃない」
「しっかしさ、いつも椛が守ってるのって滝じゃん。しぶき大丈夫なの」
「得意ではないけれど、大事はない」
「ふぅん」
「それにしても実際、このままじゃ予定の時刻に間に合わないんじゃないか」
「厳しいね。カシオペア座が通る予定の場所までもうちょっとなんだけど、たぶん着くのは
通り過ぎたあとになる」
「大丈夫なのか」
「軌道自体は予測できるから、後からでも追えるよ。細かな道になるから手間だけどね」
「さすがに白狼天狗の誇りにかけて、藪を突っ切るような道行きはごめんだ」
「だったらもっと走る!」
「あぅお!」
椛の吠え声がまるきり仔犬だったので、にとりはしばし苦笑した。
道すがらに拾った星は背中のリュックに入れてある。走るたびにそれが揺れて、がらがらと音が立つ。
それは時間の経過を報せる時計の音のようにひびいて、二匹は焦らずにはいられない。
そして。
「―――参ったな、この道、さっきも来た気がするのよ」
「私もだ。眺めの仔細に見覚えがある」
「どうしよう、山の真ん中で妖怪が迷子とか洒落にならない。椛の千里眼でなんとかしてよぅ」
「こんなざんざ降りの最中では難しい。にとりのコンパスでなんとかならないのか」
「それが、樹海だと方角が狂っちゃうんだよぅ………」
「この役立たず」
「何をぅ!」
「将棋の手からも良く思ってたけれど、にとりは考えなしだな」
「将棋の手からも良く思ってたけどさ、椛って視野狭窄だよね」
「千里眼を相手に視野狭窄とは何事だ!」
「発明家を相手に考えなしとか言うなっ!」
がるるる、と椛がうなり、にとりが得物をもとめてリュックの中に手を突っ込んだ。
あわや掴みあいかと思われた、そのとき。
「「やめなさいよ」」
二重唱和の声が、二人を制止した。
椛とにとりは一斉に振り返る。
そこには枝先が八方から傘のように並んだ、自然のあずま屋めいた場所があった。傘の下には
人影が、ひとつ、ふたつ―――。
否、もちろんそこにいたのは、人ではないもので。
とにもかくにも、雨宿りをしている。
「ああもう見ていられない。言い争いなんてまるで見るに堪えないわねぇ静葉姉ぇ」
「全くよ穣子、世界はもっと静かであるべき」
「いやいやもっと豊かであるべき」
「何を」
「何を」
そこにいたのは、神様の姉妹だった。
椛とにとりの喧嘩を調停した先から言い争っている。それもあまりに自然に諍いに発展したので、
この二人はいつもこの調子なのだろう、と思わせるものがあった。
椛は面食らってどうしていいか判らない。
にとりは含み笑いで姉妹を見ている。
「あのさぁ」と、にとりが話しかける。
「「何」」
「そっちの喧嘩も見るに堪えないよ。せっかくの雨の日だし、お互い争いごとは水に流そうよ」
「「雨の日だろうといつも言い争ってるわ」」
「じゃあ犬に食わせよう。ほら椛、ごはん」
「喧嘩は犬も喰わないぞ」
「犬ってとこは認めるんだ」
「認めない。言葉のあやだ」
つん、と明後日の方向を向いた椛を他所に、にとりは気安く姉妹の隣に並ぶ。
谷河童に雨宿りは不要だが、雨に煙る世界を眺めることが、にとりは何となく嫌いではない。
土と水と葉々の香りが空気の中で混ざりあった、寂けさの臭いが雨の日にはある。にとりは
それを嗅いでむしろ嬉しくなる。椛はもちろん、単純に寂しくなる。だから姉妹の横にならぶ。
そんな河童と天狗に、神の姉妹は話しかける。
「どうでもいいのだけれど、お腹が空いているのなら生焼き芋なんていかが?」
「いえいえ尊ぶべきは精神の充実。お腹がすいている時こそ紅葉を眺めません?」
「静葉姉ぇは黙ってて。葉っぱなんて見てどこが面白いのよ」
「あら華道では綺麗に紅れた葉っぱはお花と同じ扱いよ。穣子こそ根っこを食べて何が嬉しい」
「花より団子!」
「団子じゃなくて根っこでしょうに」
「お芋からできる団子もあるのよ。逆に言えば団子の一部はもとはお芋!」
「そんな事を言ってはダメよ」
「そんな事って何よ静葉姉ぇ」
「もとを辿って、もとを明かすことよ」
「もとを辿って、もとを明かすことの何がいけないのよ静葉姉ぇ」
「秋って」
「秋がどうしたの」
「もとを辿れば、もとは夏よ」
「ああ!」
「私たちのゆかしい秋が、もとを辿れば、なんと夏!」
「あの忌まわしい夏!」
「苦しい夏!」
「避けたい夏!」
「まあ冬よりはましですよ、穣子」
「そうね」
「とりあえずこの話題は自重しましょうね、穣子」
「そうね」
「でないと、言い合っているうちにあっという間に冬だものね」
「そうねぇ、いやねぇ」
うんうん、と互いにうなべる姉妹の横で、椛とにとりは顔を見合わせる。
この二人、仲がいいのか悪いのか。おそらくはいずれも綯い交ぜで、いずれも分かちがたく、それが
姉妹という物の絆なのだろうが、椛もにとりも独り仔なので、そうした機微はわからない。
うぅん、と思案にくれるにとりの横で、あっ、と椛が声を上げた。
「すまない、そういえば聞きたいことがあるんだ」
「「何かしら」」
「この辺りで、星を見なかったか」
ああ、と叫んだにとりは、たった今本筋を思い出した。
「そうよそうよー、星よ。魚みたいに泳いでる星。見ませんでしたか神さま二柱」
「手がかりになる事なら何でも良い。頼む」椛も合いの手を入れる。
「星といわれても、見たかしら、静葉姉ぇ」
「どうかしら………おぉ、あれじゃない穣子」
「覚えがあるの?」にとりが首をかしげる。
「そう、ふわふわと泳いでいった」
「ああ、ひらひらと漂っていった」
「こんな形の」
「こんなふうに並んだ」
あっ、とにとりが手を叩く。
「椛、この姉妹が言ってるのってカシオペア座の形だよ!」
「じゃあ間違いないな。それはどっちに行ったんだ」
「あちらよね、穣子」
「こちらよね、静葉姉ぇ」
そう言って、二人は森の、まったく別々の方角を指さした。
ぴきりと、途端に雰囲気に険悪な色がまじる。
「………あっちよ穣子」
「………こっちよ静葉姉ぇ」
「あの、もしもし?」とにとりが割ってはいる。
「確証がないのなら、敢えて発言しなくてもいいのだが」椛もそれに続いた。
「何を言ってるの? あっちは下り坂よ。山での落し物が上から下へと向かうのは当然よ」と静葉は言う。
先の自説と同じであったから、にとりは内心で賛成した。
「あら、星は下から上へと昇るに決まっているわ。上り坂のこっちに向かうのが必然よ」と穣子が返す。
椛はなんとなくこっちに納得する。
四者四様の想いで、目の前の分かれ道を睨んだ。
「どうする?」と椛。
「とりあえず右か左かの分かれ道しかないんだから、二人で好きなほうに行けばいいんじゃないかな」
「そうか、普通に考えればそうなんだが、なにか落とし穴がある気がしてしょうがない」
「そうは言っても二人いて道が二つなんだから、二手に分かれるほかないってば」
「そう言うときこそ、第三者の視点で考えるべきだと、文先輩はよく言っている」
「文先輩って、椛の上司の?」
「そうだ」
「いかにも上司らしい言い方だけど、ふぅん、第三者ね。難しそうだ」
「私はもともと千里眼だ、さして難しくはない、むむ」
「何か考え付いた?」
「うぅん、文先輩ならどう見るだろう、この事態を」
あいも変わらずあちらだ、いやこちらだとやりあっている姉妹をよそに、しばらく悩んでいた椛だったが、
ある時ばっと顔を上げると、突如としてあずま屋を飛び出し、矢の疾さで雨の最中に駆け出した。
ご、ぉ、う、っ、と空気が軋む。
椛が巻き込んだ雨粒が一斉に霧に変わって、眺めがにわかに曇った。
一瞬おくれてそれに続いたにとりの方は、まるで話が掴めていない。ただ無心に椛の後を追うのだけれど、
さすがに白狼天狗の足は速い。じりじりと離される。後に気をむければまだ神様の姉妹は言い争っている。
それもすぐに聞こえなくなった。
「なに? なに!? 何を思いついちゃったわけ!?」とにとりは叫ぶ。
「簡単なことだ!」振り返りもせずに椛が応える。「道の先が二つで、目撃者の証言が二つ。ならば最初から
答えは決まっている!」
「どっちだっていうのさ!」
「どっちでもない!」
「えー!?」
ここまで走った勢いそのままに、椛は二つに分かれた道の真ん中、草むらへと飛び込んだ。
「―――《藪の中》に決まっている!」
白狼天狗は背中に差した湾刀をひっこぬくと、勢い任せに右から左へ振りぬき、左から右へと返した。
それで垂れた枝や下生えの木などが散って、どうにか通れる道ができる。目盲滅法のようで誰よりも
目の利く椛である。いつもよりも濃い雨天の木下闇に怖じず、びゅんびゅんと駆ける。
たっぷり二秒遅れて、にとりは藪へと駆け込んだ。
もう椛の姿は見えない。
「おぅい、どこなのよ椛、おぅい」
にとりの呼び声は木々の中に籠った雨音に押し返されて、ほんの五間も届かない。
けれども地面には椛の足跡があった。ものすごい勢いで地を蹴って走ったので、くっきりと残っている。
これなら後をつけることも出来そうだった。
そして。
「ああ、椛、いた!」
木々の奥まった場所に椛がいる。
けれども二本の足では立っていない。四つばいになって、くんくんと地面を嗅いでいる。
犬そのものだとにとりは思うけれど、口には出さなかった。
「椛、なにやってるのさ」
「にとり、ああ、にとりか」
「星は見つかったの?」
「それが見つけたのだけど、追っている途中でふいに消えたんだ」
「消えたぁ? 星が?」
「どういうことだ?」
「いや私に聞かれても。少なくとも雛が頼んだとおりに動いてれば、椛の追えない速度になることはないよ」
二人で話している途中に、突如として森の中に風が巻いた。
否、風ではない。
雨つぶを巻き込んだつむじは真っ白であるはずなのに、この風は真っ黒である。
ばぁさ、と風が翼を広げた。
「―――あやややや。いけない。いけないよ。いけませんねぇ椛」
そこに立っていたのは。
「文先輩!?」
「こんにちは椛。四つばいのままで上司に話しかけるだなんて、そんなに土が恋しいのですか?」
「ああ、いえっ、失礼しました」
慌てて立ち上がる椛だ。
にとりもつられて構えを直し、目の前にすっくと立つ烏天狗に正対した。風神少女の射命丸文と言えば、
天魔に次ぐ山の顔役であり、我の強さと狡猾さでも知られている。端正で知的なおもざしからは山ッ気は
うかがえないが、出会いばなに椛に皮肉を言うあたり、風聞どおりの性格なのだろう。
「椛。それで?」
「そ、それで、とは?」
「職場放棄の理由を聞いているのよ、椛」
「はっ、文先輩」
「理由無しの職場放棄。ふぅん、椛も気が大きくなったわねぇ―――」
「違います! 文先輩のお役に立てるような事件の匂いを嗅ぎ取ったのです」
「事件の臭い」
「それはもう、不可思議な出来事が起こったのです」
「不可思議、な、出来事」
文は何かを企んでいるような表情で、椛の言葉をひとつひとつ区切りながら反復する。
「椛。それは、これに関係しているのですか」
「あっ!?」
文が手をのべると、そこには五つの星が抱えられている。
「それはカシオペア座じゃないですか!」と、にとりが割って入る。
「カシオペア座。ふん」興味深そうに文がにとりに視線を投げる。「トレミー四十八星座のひとつ。
夜空に懸かるエティオピアの妃の写し身が、何故こんなところに落ちているのでしょう」
「にとりが黒白の魔女から借りたのです」と、椛が質問を受けた。
「借りた? 星を? なぜ?」文はいつのまにか手帳を取り出している。
「星空をもうひとつ、作るためです」にとりは身振り手振りを交えて説明する。
「もうひとつの星空! まがい物の星空を」
「にとりが言う所によると、外界ではそうした遊びが流行っているようですよ」
かりかりと筆を走らせていた文がぱちりと手帳を閉じて、笑う。
新聞屋がアイディアを閃かせたときの顔色は奇妙だ。にとりのような発明家なんかは情熱が直接に
表情に漏れているのだが、新聞屋だとそうはいかない。
文の表情は心が昂ぶるほどに、なんだか深遠である。
「―――面白い。空を騙るミニチュアの空。機械仕掛けの星列。詩情に溢れていてとても良い」
「文先輩」
「なるほど椛、これは良いですよ。貴女は良い仕事をしたようです」
「はい、ありがとうございます文先輩!」
褒められると途端に悦ぶ椛だった。
しっぽなんて振っちゃってまるきり犬だ。にとりは呆れながらその様子を見る。
「しかし。しかし、しかしながらですよ、椛」
「あ、………はい」
「何故前もって、私に話を通さなかったのですか」
「そ、それは私たちだけで解決できると判断したからで」
「そう言った判断は私がするもの。何を勝手に決め付けているの」
「あぅお………」椛のしっぽが、しゅん、と垂れる。
「おかげで今、ものすごい大事になっているわ、まったく!」
「それは、どういうことでしょう?」にとりは横から口を挟む。
「ふん、百聞は一見にしかず。九天の滝に行けば判ることです」
「九天の滝へ。―――なぜ?」
「そちら、河城さんと言いましたよね」
「あ、はい」
「この星は、貴女が魔女から借りたのでしょう」
「そうですけど」
「ならば早くしないと。他の妖かしに盗られてしまいますよ」
「えっ、どうして!?」
「説明は後で。まずは九天の滝に急ぎましょう!」
飛び立つ烏天狗。
にとりも椛も釈然としない表情で、けれども風をあざむく風神少女に取り残されないために、ただちに
飛び立つ。―――ふと気付く、雨はすでに上がっていた。彼方の空は夕焼けの色を宿していて、黄金色の
雲のすきまに虹が掛かっている。
一刻ののちに、夜が来る。
その前にプラネタリウムの星を取り戻したいと、そんなことをにとりは思った。
4.
西日は鮮やかに、山のすべての命を射抜く。
たとえば里の暮れ時はやわらかで気だるい。山の暮れ時はそう言うものとは違う。春秋に富む画家が
思いのたけをカンバスにぶつけて書き上げた絵のような、心を圧する美しさに満ちている。何もかもが
燃え上がり、何もかもが金色だ。
ましてや、常ですら雄大な九天の滝の、日暮とあれば。
荘厳なほどに違いない。
「―――どう、椛。九天の滝は見えた?」
「………」
「椛? 椛? どうしたの?」
「なんだ、あれは」
「え?」
「山じゅうの妖怪が集ってる」
「は、はぁ?」
椛の千里眼は、深い山景色をつらぬいて、確かにそれを捉えた。
―――あまたの星々を墜とす九天の滝と。
―――それを取り巻くあまたの山のあやかしたちと。
―――声は聞こえないが、表情からして、大声でなにかを喧伝している烏天狗の一団と。
あれは、まるで。
「言い方は悪いが、騒動にたかる野次馬、そのものだな」
「わお………椛っていつからそんなに口が悪くなったのさ。先輩の影響かな」
「莫迦を言うな。文先輩は清く正しい!」
「清く正しく手段は選ばない感じだったなぁ………」
「あぅお―――それは、否定できない」
「それより急ごう。文さんが星が盗られると言った訳が、判って来た」
「なんだって?」
「椿事に烏天狗の群れ。となるともう、根拠のない報道ごっこが飛び交うに決まってる」
「ふむ」
「―――その中で、私たちと関係ない由来がでっち上げられちゃうかもしれない」
「待て、それじゃあ!」
「そう、適当な筋立てを用意して、星が自分の物だって主張する奴も、いるかもしれない!」
霧も霞もやぶって飛翔する、妖の少女二匹。
九天の滝は、すぐそこにまで迫っている。
5.
誰も彼も戸惑って。
ゆえに文句は朗々と。
お祭り騒ぎの夕闇なので。
丁々発止で混ぜッ返す。
『―――あれは空のお星様の幼体なんだ!
空のォ銀の河はァ! あれは天女様のお乳が混じったからあんな色になってて、
その養分で星々は育つのだけど、その途中で地面に降りてくることがあるんだヨ!
外の世界には、育つ過程で海と河とを往復する魚があるっていうけど、
つまるところはそいつと同じ!
さぁさぁ皆触れちゃ駄目だよ! 空に還る星と一緒に、あの天の河まで連れていかれちゃう!』
『本当かい!?』『なにそれ怖い!』『星に近寄っちゃいけないよ!』『皆、空に還るのを待とう!』
『それにしても不思議な話だ』『おかしな話だ』『私いっしょに天の河まで行ってみたい』『私も!』
『莫迦いっちゃいけない、あそこは怖い処だよ!』『深い海と同じで、冷たく凍えていると言うよ!』
どぉん。
どぉん。
瀑布に飛び込む星の列の水面をはじいて飛沫に変えて。
それが夕焼けを映しこんで茜色の光を四方八方振りまいて。
墜ちる星、またひとつ、ふたつ―――。
どぉん。
どぉん。
水音はまるでお囃子。
あやかしの観衆たちが沸き返る。
『―――いやいや違います! あれは死んだ人妖たちのたましいなのです。
飛びぬけて美しいたましいは、輪廻に穢れるのが何か勿体ない。
また天界に寄越すのも口惜しい。だから是非曲直庁の閻魔さまたちが
こっそり空に飾って星に紛らわせて、彼岸の夜からそれを眺めているのです。
星々のなかで特に光の強い、いっそ妖しいくらいの美しさを孕んでいるものは、
みな、閻魔さまたちが空に隠した、たましいなのです!
それが偶然落ちてきてしまったのだから、大変ですよ!
さぁ、はやくそれを是非曲直庁に返さないと、妖怪の山そのものが彼岸に怨まれてしまう!』
『本当かい!?』『早くしないと!』『いやいや是非曲直庁上等じゃないか!』『何血気出してんのさ』
『でも閻魔様もそんな不正をやってたのかい』『そりゃあ閻魔様だって綺麗なものは愛でたくなるわよ』
『しっかし私欲じゃないの』『おうさ、まずはそこの筋を通してもらわねぇと』『まったくだよねぇ』
皆それを本気にしているのか、いないのか。
妖たちは天狗少女の法螺話にいちいちどよめくのだけど、その声はどこか浮かれている。
嘘を嘘のままにして祭の虚飾と定めたか。
あるいは嘘とほんとうの境の無くなることが、お祭り騒ぎの本質なのか。
『―――いやいや違う、違う! みんな何を仰っているの!
あれは我ら山の妖怪達にふさわしく天が賜った、星々のアクセサリですの。
古来より英雄がいくさばに向かう前には、空から星の屑が降って、
人間たちはそれを首飾りに仕立てて、幸運を招いたと言いますわ。
人間ごときでさえ、天からこのような贈りものを貰えるのですから、
我ら誇り高い妖怪達が同じ恩寵をいただいたところで、
何も不思議はありませんわ。
さぁ、早くひとつひとつを鎖に繋いで。
いますぐ天魔さまに献上しないと、せっかくの天佑を逃がしてしまいますわよ!』
『本当かい?』『それはまた嬉しい話だ』『幸せな話だ』『でもそんな出来た話があるものかねぇ』『うむ』
『しかし天狗はもっとも空に近い種族だと言うよ』『天に愛されても不思議はない』『天狗だけが偉いのか』
『それって何か不公平だよナァ』『でも天魔さまに授ける首飾りなんだから、別に構わないんじゃないのか』
胡乱な作り話は、つぎつぎに生まれていく。
考えてみれば。
文字通り降って湧いた星々のゆえんなど初めから明らめるすべはなく、ゆえに作り話としての
出来の良さだけが、信じるか否かの分水嶺なのだ。うつくしいから真実とさだめる、面白いから
真実とさだめる、あるいはいっそ、不合理ゆえに真実とさだめる。
幻想とは。
たしかに、そうしたもので―――。
だから。
「―――あやややややっ! 困る。困るな。困りますね。皆、嘘ばかりを言っちゃって!!」
報道には誇張が要る。
まるで作り話のような外連味が必要である。
そればかりか、真実を証し立てるものには、登場にすら、目を見張る派手さが必要なのだ。
射命丸文は、それを熟知していた。
空の彼方より矢の如く舞い込んだ黒い影は、どぉっと直線的に水面に突き刺さり、
そのまま風の刃となって瀑布を切り裂き、滝を真上に登っていく。
ざぁん。
ざぁん。
雷のような音が耳を聾する。
天狗の少女たちでさえ、何かを語ることが不可能となる。
そうして。
「ここに集った妖の衆、みな刮目せられよ!!」
九天の滝のいただきより。
夕日を背負った射命丸文の声が響く。
「―――妖怪の山に鯉のごとくに遊泳する星々、再々目撃さる!
何と言っても星は夜空にあって夜空を飾るもの、
大地を泳ぐはずはないと一笑に付したところで、
今我々が目の前にしている椿事を夢だと誤魔化すことは出来ないでしょう!
星が水鳥のように滝に飛び込んで落ちていくという幻怪不可思議。
しかし! しかしながら!
ここが幻想の郷であることを慮るなら、
事実は小説よりも奇なり、あいや神話や伝承よりも奇奇怪怪であったところで、
何も不合理はないのでは。
―――そして、その奇奇怪怪なる椿事の真相を
この射命丸文が皆さんに暴露しようと言うだからさぁ刮目せられよ!!」
おお、とささめきが妖怪たちの中に伝播したのち、静まり返る。
さすがに口上が上手い。
「では早速本題に参りましょう。
まずは証言者の語るところを聞け!」
びっ、と文は滝壺の一角を指差す。
そこにいたのは、息もきれぎれで駆けつけた、椛とにとりの姿だった。
「―――彼女たちこそ、夜空の星を写し取ろうとした、この一件の黒幕であります!」
あまたの視線が。
一瞬のうちに、二人に向いた。
6.
「えーー!?」
勿論。
こんな事態は椛もにとりも想像していない。
ひとつひとつは力を持たない細い視線も、こうも沢山が一緒くたになれば、津波めいた迫力を持つ。
それに包囲されて、白狼天狗と谷河童は身動きもとれない。
「ひ、ひぃぃ、何で私たちに急に話が振られてるわけ」
「そ、それは実際私たちがあの星を用意したからだろう」
「で、でも別に悪いことしたわけじゃないよね」
「ま、まぁ九天の滝に落としただけだからな」
「………でもそれで怪我する妖怪も出たんじゃ」
「………」
「………それに実際、大騒ぎになってるんじゃ」
「………」
「椛のばか! 視野狭窄!」
「うるさいにとり! この考えなしー!」
慌てふためく態度は、二匹の悪事を証したてるものとして映ったらしい。
視線の群れが色を変える。罪をあばき、裁くもののそれとなる。
『あの二人が今回の黒幕?』『どういうことだ?』『こんな騒ぎを起こせる大妖怪には見えないぞ』
『偽装じゃないか?』『能ある鷹は爪を隠すか』『おい、あれは白狼天狗の椛ちゃんじゃないか?』
『もう一人のほうも、谷河童のにとりだ』『まさか黒幕があの二人だったなんて………』
―――その視線を見下ろして、はるかな高みから射命丸文が問う。
「どうしたのです? 犬走椛。河城にとり。早く自分たちの行いを述べるのです!」
まるで是非曲直庁の閻魔のような口ぶりだ。
そうだ、ここはまるで法廷。それも群衆の感情ですべてが決まる、魔女法廷だ。
ならばこちらも言葉を遣わないと、無実の罪を着せられてしまう。
「わ、私たちは―――ただ星空を、もうひとつ作ろうとしただけです!」
河城にとりは、声の限りに叫ぶ。
『星空をもうひとつ?』『どうやって?』『何のために?』『よく判らないけど何だか怖ろしい話だぞ』
『揺ぎ無く時を告げる天空を、二つも作るだなんて』『それじゃあ季節の基準が二つになっちまう!』
『夏がくるときいっぺんに冬が来る!』『秋がくるときいっぺんに春が来る!』
群衆の声は、ますます膨れ上がる。
それを圧して文の声は届いた。高く澄んで、けれども張りのある声だ。
「それは確か、プラネタリウム、と言うものでしたね」
「そ、そうです、外の世界の、他愛もない子供の遊びです!」
「なるほど、外の世界の遊びですか。―――真の夜空なき、外の世界の」
その一言に、再び妖怪たちはざわめいた。
『外の世界の遊びか』『遊びなら大丈夫なんじゃない』『しかし外の世界は星さえ見えない濁った場所だぞ』
『かがくと言う化物が、幻想をねこぞぎ追い出してしまったと聞くよ』『プラなんとかも、かがくじゃないの』
『プラなんとかのせいで、外の世界では夜空がなくなっちまったんだ!』
無茶苦茶な言いようだ。
にとりは舌打ちして、となりの椛に話しかける。
「ねぇ椛、どうなってんのさ!」
「あ、あぅお!」椛は完全に動転している。「わんわん!」
「犬になるなー! 白狼天狗の誇りを思い出してよ!」
「ん、あああ。すまない、ちょっと取り乱していただけだ」
「取り乱してる場合じゃないよ。どうなってんのあんたの上司」
「う、うん。どう見ても私たちを悪役に仕立て上げようとしているな」
「文々。新聞って言うのは、ガセネタは載せないんじゃなかったの!?」
「いや………それは紙面の話で、予め話題づくりをするときには、勝手に盛り上げるだけ盛り上げる」
「な」
「それで、後出しじゃんけんで、紙面には整合性を付ける………文先輩はそういう方だ」
「最悪じゃないのそれ」
嘆いてみたところで、妖怪たちからの疑惑の念は薄まるわけもない。
むしろ、抗弁すればするだけ、言葉尻を取られて悪者扱いされるだけ。
一方で文の弁舌は止まらない。にとりに向かってではなく、もはや妖怪たちに向かって語りかける。
「―――そも、トレミーの星座たちはどこで生まれたのか。
はるか古代、泰西の地の希臘(ぎりしあ)なる知識と理念の邦においては、
星座こそが秩序の源、夜空にあって輝く真理とみなされていました。
そしてこの地における神話こそ、後のトレミーの48星座の、多くの源となったのです。
つまりは星座こそ、自然力の正しさの象徴。
それを工作で模倣して、自分のものとすることに、一体どういう意味があるのでしょう」
椛は眉をしかめた。
文の良くやる手だ。関係がありそうで薄い話を絡める事で、聞き手を煙に巻いて扇動する。
そして、そういった手を使うのは、決まって相手をやりこめる時ではなかったか。
どうやら文は、自分の部下である椛とその友人を、本気で罠に嵌めるつもりらしい。
「―――そうして、自然から真理を奪い取る科学の力が、
外の世界から幻想を放逐した事もまた事実。
星空にさばかれることをただ良しとしていた人間たちが、
むしろ自然の審判者に回るようになった。
真理を司る天上の役割を、自ら任じるようになった………そう伝え聞いています。
河城にとり。
貴女の敬愛する科学と言う物は、幻想郷に災厄をもたらすものなのではないですか?
あるいは貴女自身に、幻想郷に災いをもたらす気がある、とも考えられますが―――」
『げ、幻想郷に災いを?』『急に話が大きくなった』『在り得る話だ。外の世界でも科学に幻想が駆逐された』
『じゃあ幻想郷から追い出された幻想は、どこへ行くんだい?』『影も形も失って、消えちまうんじゃないか』
『そりゃとんでもない話だ』『科学ってのは幻想喰らいの化物だ!』『プラネタリウムってやつは怪物だ!』
幾らなんでもこれは酷い。
文はどう言うつもりなのか。これでは完全ににとりを糾弾する格好だ。
今すぐに反論しないと、袋たたきに遭いかねない。だと言うのににとりはがっくりと肩を落としたままで、
烏天狗の口八丁に応える様子も無い。堪えかねて椛は話しかけた。
「おい、にとり、早く言い返さないと」
返事はない。だんまりとしたままだ。
「愕然としているのはわかる、しかしこのままだと」
「か」
「か?」
よく見れば、にとりの肩は震えている。
怖じたものと、一瞬椛は取り違えた。
しかし。
「かってな」
「か、かって?」
ばね仕掛けの玩具のように、河城にとりは顔を上げた。
河童の肺活量いっぱいに息を吸い込めて。
いかずちのように、叫ぶ。
「勝手なっ! ことを! 言うなぁ―――――――っ!!」
わぁん、と。
雲雀のように高く高く上ったにとりの声は、九天の滝の岩肌のあいだを何度も跳ね返り、硝子のように
くだけて辺りに降り注いだ。水底の静寂。あれほど騒々しかった妖怪たちのざわめきが、にとりの大喝に
圧倒されて掻き消えたのだ。
もちろん、いちばん驚いたのは隣に立っていた椛だ。
動きばかりか表情までも凍って、人形のようになった。
その様子を横目に、にとりは天空の射命丸文に、びしぃっと人差し指を突きつける。
「さっきから聞いてたら新聞屋が随分じゃない! まるで素人考えだよ」
「ほう、それでは先ほどまでの私の疑念は、底の浅いものであると」
「むしろ底なしの見当違い」
「しごく常識的な意見をのべたつもりですが」
「泰西の学者によれば、常識は二十歳までに溜め込んだ色眼鏡のコレクションだそうだよ」
「成る程。私は二十歳の何十倍も生きているので、多くの色眼鏡を知らずに掛けているのかも知れません」
「烏が光物を好むからって、あんまり溜め込みすぎるのは良くないね」
ようやく椛は驚きから立ち直った。
科学を侮辱された怒りゆえに開き直ったのだろう、かたわらの友はいつもよりずっと雄弁である。しかし
格上の妖怪である烏天狗に向かって、何ともあやうい口の利きようだ。
その間に、ふむ、と文は首をかしげた。
「―――すると貴女は、科学は幻想郷に害をもたらすものではない、と」
「そうさ。そう思うわよ私は」
「しかし何故? 外の世界では、科学によって幻想が駆逐されたそうではないですか」
そうだそうだ、とあちこちで賛同の声が上がる。
けれども椛は思う。先ほどのいたずらに煽り立てるような口調に比べて、今の文はやたらと大人しい。
まるでにとりの意見を山の妖怪たちにアピールするために、良き質問役を買って出ているような。
(もしかして)
と、椛は思う。
もしかして、文はにとりを焚きつけたのか。
改めて椛は文のほうを見遣る。するとそれに気付いた文が、にこりと笑って視線を返した。良いから
安心して見ていなさいと、言外にその笑顔は告げている。
どうやら、文には考えがあるらしかった。
しかし、それにしても。―――どうするつもりなのだろう。
「烏天狗さんは、幻想と私の科学が対立するものだって言ってるわけね」
「正鵠を射ているでしょう?」
「まるでど素人の流鏑馬だよ」
「へぇ、つまりは筋違いと」
「そう」
「何故です」
「だって、科学が幻想と相容れないものなら、そもそも博麗大結界を越えてこないはず」
「成る程! 道理ですね」
「それに発展した山の技術だって、科学のおかげじゃない! なんでみんな急に恩を忘れてるの?」
しだいに、周囲の妖怪たちの空気が変わっていく。
最初からにとりを悪者だと決め込んで糾弾するような姿勢から、落ち着いて、理性的に、相手の言い分を
聞こうと言う姿勢に。まるで文の態度の変化が、そのまま観衆に伝播したようだ。
「しかし、外の世界では、科学なるものが幻想を駆逐したというのも定説です」
「そうかもしれないけど、それとこれとは話が別だよ」
「どうしてそう言えるのでしょう? そもそも科学という物の性質は、いかなる物なのですか」
「私は技術屋だよ。鳥が空気を意識しないみたいに、私は科学の性質なんて意識しない」
「性質のわからないものを使っていると。それは非常に危険なのでは」
「問題ないよ。だって幻想郷に流れ着いたものなら、その本性は幻想でしょう」
「つまり、科学もまた幻想であると?」
「そういう一面があるって言う話だよ。そしてその一面だけが、幻想郷に入ってきた」
「ふぅん?」
「たぶん山の上の巫女あたりに見せたら、河童の技術って全然外の世界のそれと違う感じだって言うよ」
「では、貴女たち河童が使っているのは、外の世界では喪われた、いわば科学の夢であると」
「うん。―――プラネタリウムは子供の遊びだって言ったよね」
「ええ」
「それはそうだよ。
私たちにしたってそうだけど、夜空を映し取って再現する技術なんて、何の役にも立たない。
でも、そういう無駄こそ幻想郷の肝心かなめなんじゃない。
本物の夜空じゃなくて、あえて偽者の安っぽい夜空を眺める。
他にも庭にちいさな世界を作ったり、ちいさな盆栽で大樹をあらわしてみたり。
そんなふうに、ちいさな模造品でしか出せない幻想ってあるんじゃない?
そう思ったから、私はプラネタリウムを作ろうと思ったんだ」
ふたたび、静寂が訪れた。
にとりを眺める妖怪達は、一体どんな反応をすればいいのか図りかねている。上手く表せない感情が
群衆の中にうずまいて、それが容易く怒りにも、驚きにも変わってしまいそうだった。
彼らを横目に―――射命丸文は降りてくる。
演説を終えたにとりのすぐ傍に降りると、にっこりとした笑顔を浮かべた。
これににとりは毒気を抜かれた。ついさっきまで論敵であったはずの相手なのに、その表情にはかけらも
敵意はない。そればかりか文は不意ににとりの腕を取り、高々と掲げたのだ。
「え」
「皆さん、お聞きの通りです!」
「ちょっとちょっと」
「―――ともすれば邪悪なものとも思われかねないプラネタリウムには、
科学が秘めた浪漫や夢、あるいは幻想の象徴としての意味があったのです。
その事実は、単に幻想の対立者としてしか理解されない事の多い科学が、
ときにはどんな御伽噺よりも詩情にみちている事を示すものでもあります。
皆さん、思い返しても見てください。
我々は幻想の郷に生きる幻想の民。
ゆえにこそ、幻想という物の素晴らしさを忘れてしまいがちです。
そこでこの河城にとりは、あえて偽者の星空を介することによって、
夜空が秘めた幻想を、我々に教えてくれようとしていた!
さて皆々様。
いずれプラネタリウム完成の暁には、どうかその目で御覧じよっ!
そうして、今ここで、谷河童の河城にとりに、盛大な拍手を!」
割れるような拍手だった。
歓声。
喝采。
それはなんと巧妙であったことか。烏天狗の話術はいつの間にか、物騒な糾弾劇を感動的な物語へと
すり変えていた。いつも文の手口を間近でみている椛でさえ、これには唖然としている。もちろん、
山の妖怪たちがこの手管に気付くわけもない。
誰も彼もが河童の情熱を言祝いでいる。
すすり泣く者さえ、いるほどだ。
『いや素晴らしい話じゃないか!』『あの谷河童が悪者だなんて言ったのはどいつだ!』『私じゃない』
『おれでもないぞ』『そんな奴は居なかったんじゃないか?』『それにしてもプラネタリウムって凄い』
『完成したら万難排して見に行くべきだな』『うんうん!』『谷河童のにとり万歳!』『科学万歳!』
『それにしても、こんなに素晴らしい報道が出来るだなんて、射命丸様はやっぱり凄いお方だ!』
『文々。新聞、私も購読しよっと!』『俺も』『あたくしも』『私も!』『ぼくもだ!』
椛はひっそりとため息をつく。
訳が判っていないのがにとりだ。文に腕をとられたまま目を白黒させて、妖怪たちの変わり身の早さに
まるで付いていけていない様子。それも無理は無いだろう。にとりは文の詐術のまさに渦中にいたのだ。
太陽のように、はるか高みから見下ろしたなら。
魔女法廷から大喝采への変わり身は、それ自体がひとつの喜劇とも映っただろう。けれどもその太陽さえ、
今にも山の涯てへ沈む。そうして夕闇が世界を満たせば、すべては幻想の論理が支配するのだ。
皆が河城にとりへと視線を注ぐ中で。
射命丸文だけが、東の空から淡く浮かんでくる、星の列を見ていた。
7.
「―――まあ、あの子は少し突けば演説してくれると思いましたよ」
岩肌に脚を組んで腰掛け、紫煙をくゆらせる烏天狗のひとことは酷く露悪的だ。
煙管ではない。香霖堂で仕入れた舶来の紙巻である。それを咥える文の姿はいかにも海千山千と言う印象。
面差しは少女そのものであるのに、表情や仕草に皮肉と冷笑の色が見えた。
煙たそうに椛が目を細めたのは、紫煙の匂いのせいだけではない。
「あやや、そんな顔をしないで下さい椛。愛しい部下に嫌われるだなんて、悲しくて死んでしまいますよぅ」
「だったら、このような企みごとはやめて貰えませんか………?」
「どうして? 河城さんのプラネタリウムは良い意味でとても有名になった。
ああ、いや、それとも椛はお友達が良い目を見ていると気分が悪くなるのですか?」
「それにしても、今日のような遣り方は心臓に悪いです」
「心臓に悪い遣り方のほうに正しい道があるのが、妖怪の山の社会と言う物です」
「………ああ、文先輩と話すと、何が正しいのかよく判らなくなってくる」
「うふふ。やはり椛は可愛い。道に迷ったらいらっしゃいな、抱きしめてあげますから」
黄昏を過ぎて、月が中天にかかる時刻である。
二人が話す九天の滝の片隅には、誰も居ない。多くの妖怪にとっては今からがいよいよの活動時間である。
誰かを化かしたり誑かしたり、妖怪の本分を果たす事で忙しいのだ。
先ほどまでにとりの演説に聞き入っていたものたちも、今は自分のことを考えているだろう。
「―――けれど本当の話、私もあの子のことは嫌いではないのですよ」
「先輩………一体にとりをどうするつもりなのです」
「いや好きって言っただけで、何、その反応は」
「自業自得です」
「あはは」
「笑わないでください!」
「まあ、真面目な話」
じゅう、と文は、紙巻を岩肌で押しつぶす。
懐から取り出したブリキの缶に吸殻を放り込むと、急に改まった顔で、椛を見つめた。
「な、なんです急に」
「椛。この幻想の郷はとても不思議な論理でできています。
合理性よりも言葉遊びを重要視する。理屈よりもその場の流れを重要視する。
そのようなあり方が、私たちがいるこの舞台のできばえです」
「―――それはそうでしょう、ここはお伽の国なのですから。
そして私たちはそこの住人なのですから、しきたりの曖昧さを非難してもしょうがないでしょう」
「しかし新聞屋などをやっているとね、椛、そういう舞台のルールにも自覚的にならないといけないのですよ。
貴女がたは頑張って、舞台の上でまっすぐに主役を続けてください。
私はそれを、斜めから眺め続けますよ。
ああ、また一つ星が流れる。
秋の空は綺麗ですね、椛―――」
8.(或る日の文々。新聞の一面より)
『
―――谷河童の河城にとりが作ったプラネタリウムの前に、今夜も大勢の妖怪たちが集う。
九天の滝での《記者会見》以来、多くの妖怪たちに、このプラネタリウムは認知された。
河城にとりは計画当初よりも大きな30人入りの洞を用意したのだが、
それでも初日から観客は満員。長蛇の列は一晩をかけてようやく消化できると言った具合で、
以来この風景は五日を経ても変わることは無い。
二日目からは、待っている客が退屈する事がないように、既に鑑賞を終えた妖怪たちが
この一帯に出店を開くようになった。
人間の夏祭りと似たような軽食のたぐいから、特定の妖怪しか口にしない珍味まで、
ここでは、さまざまな食べ物を味わう事ができる。
一部の例を挙げれば、
《秋穣子の生焼き芋。是非食べていって下さい》
《いやいや秋静葉の紅葉饅頭こそ食べるべき。皆さんよろしくお願いします》
このように、秋の神が自らの特産物を使って
食事を仕立てていることもある。これは足を運ぶに値するご馳走だろう。
(尚、一部ではこの出店は本記者こと射命丸文が組織したものであり、
稼ぎ賃の一部から穏便に上前をハネていると言う噂も立っているようだが、
断じてそんなことはなく、根も葉もない噂であるのでやめてほしい)
また、プラネタリウムに因んだ出し物も開かれるようになった。
実際に模造品の空を鑑賞する前に、星座の元となった神話を何人かの妖怪が演じて、
観客達に星空への愛着を深めてもらおう、と言う企画である。
これが非常にウケている。
その中でも特に人気があるのは、
昨日はじめて上演された英雄ペルセウスの冒険にまつわるエピソードだ。
演者たちは、最初はギリシア風の衣装を考案していたらしいが、
途中から、この国古来の服装と舞台装置で演じたほうが面白いだろう、と言う話になり
一風変わった《和製ギリシア神話》が誕生することとなったと言う。
数名の白狼天狗による迫力の殺陣。
ペルセウス役の犬走椛の凛々しい白拍子姿。
印象的な要素は多々あるが、その中でも一際目を引くのが
アンドロメダ役の河城にとりの可愛らしさである。
はなだ色の本振袖に身を包んだ華やかな姿は、いつもの彼女からは想像も付かないもので、
相手役の犬走椛が、
《こんなに可愛らしいアンドロメダの恋人役を、私などが務めていいのだろうか》
と思わずつぶやき、言われた河城にとりの方が赤面する場面も見られた。
そもそも彼女は大勢の人の前に立つこと自体に慣れていないらしく、
演技にも照れが混じっているが、それが却って無垢なるアンドロメダ姫の印象を強めている。
どこまでも賑やかな河童のプラネタリウム。
あなたも一度、足を運んではどうだろう。(文責・射命丸文)
』
夏はちろちろと傾いで、秋となった。
遅くなった日の出と早くなった日の入りの間の、中二階のような曖昧な午后はなぜだか永く
感じられるのだ。秋の日は夏のそれよりも複雑である。何かに感じ入ったり何かを惜しんだり
しても、涼風が編む情緒の糸にアッという間に絡めとられる。―――
山の秋は、ことのほかそうで。
椛は、川辺でいつものように見回りだ。
とはいえ。
鋭敏な椛ならば歩き回らずとも、ぼうっと立っているだけで警護の用をなす。
紅れる木々を眺めながらの暇つぶし。
ひとり大将棋とひとりオスローは昨日やった。一人西洋将棋にでも挑戦しようかと思う。
椛は四方で目に付いた木の実をざっと集めた。花水木が兵卒、冬サンゴが司教、ネムが城塔で、
サンザシが王将、とさだめる。
なぜだか女王にふさわしい木の実だけは思いつかない。それで悩む。
と。
「おぉい、椛」
「ああ」
知った声がした。
谷河童のにとりだ。
風に逆らって急な勢いで飛んでくる。椛の前に降り立つと、はー、と息を吐いた。
「えらく慌てた調子だな。何かあったのか?」ぶっきらぼうに椛は訊ねる。
「いや、ちょっと難事でさ、椛の力が必要なわけ」―――といいつつ、にとりは盤面を覗き込む。
「こいつはひとりチャトランガだね。歩兵が冬サンゴ、象がネム、花水木が将校でサンザシが馬か。
君主は思いつかなかったの?」
「残念だけど、外してるよ」
「私はウグイスカズラとか良いと思うわ」
「半年も先になる実じゃないか」
「半年も長考してればいい。王様は最後に現われたほうが格好いいってば」
「悠長な話だ」
「そうそう、そんな悠長な話をしてる場合じゃないの」
「それじゃあ悠長じゃない話を早くして貰えないか?」
「そう急かさないでよ」
「どっち」
「実はさ」
「うん」
にとりは辺りの御影石に、どかりと座り込む。
「―――星を失くしたんだ」
「星?」
椛は話がつかめず、思わず顔を顰める。
「む、星を失くした。分からないな。詳しく聞かせてくれ」
「そうしたいのはやまやまだけど、喉が渇いて声が出しにくいの」
「そこの竹の水筒に、薄荷の水割りが溜めてある」
「ありがと!」
にとりは飲み口を頬張るようにして、ごくごくとそれを飲み干した。
「っんく、んく、生き返ったー。乾く潤おうは河童には死活問題ね」
「それで、説明は?」
「ああ」ふう、とにとりは息をつく。「前に夜が止まってずっと続く異変が起こったでしょ。
それにヒントを得て、人工的に星空を作ろうと思ったの」
「星空を? 人工的に?」
「外の世界では、プラネタリウムとか呼ばれてるらしいよ」
「すごく大きな話だな」
「縮尺的にはすごい小さいけどね。半径三間とすこしの岩洞が近くにあるから、外に群青天鳶絨を
張って、貝殻と河魚の骨で遠くの星は表現するつもりだったんだ」
「明るさの強い近くの星は」
「そう、そこ、そこなのよ」
にとりは自慢げに目を細めた。
椛は知っている。これは発明屋が自分のアイディアを見せびらかすときの顔で、知るかぎり
河城にとりがいっとう嬉しがっているときの表情だ。
「白黒というか黒白というか、そんな魔女がいたでしょ。あいつから星を借りたの」
「………驚いた。あいつは泥棒まがいだって有名じゃないか。どうやって借りたんだ」
「相手が魔女なんだから、そりゃ取引に決まってるわよ。むかし無縁塚で拾った機械をなおして、
適当にくれてやったわけ。ラジオフォニーって言ったかな、方解石に猫のひげみたいな電線を
当てて、遠くの人の歌やら愚痴やら聞こえるっていうやつ」
「暗くなりそうな機械だ。でもそんなのなくても、遠くでもお互いに喋れる機械があっただろう」
「あれは水晶振動子が壊れちゃって」
「へぇ」
「でさぁ」
「うん」
「それで星を持ち帰って、岩洞の中に針と糸で係留しておいたんだけど」
「糸か。星はギザギザの形だ、糸じゃ切れるだろうな」
「そそ、何で気付かなかったんだろうねぇ」
ため息をつきながらにとりは肩を落とす。
椛は彼女の横に回ると、ぽん、と背中を叩いた。
「つまりは、探し物だろう」
「うん。お星さまを探す冒険なんて面倒じゃない?」
「そういう話なら構わない。―――いかに千里先を見通せる視力でも、入り組んだ森道の中じゃ、
無いよりましな程度にしか役に立たないと思うが」
「良いの? いや言った手前、良くないとマズいけど、警護の仕事は」
「うちの上司は何時も椿事を求めておられる方だから、ありきたりの仕事をサボタージュしても
わりと寛容なんだ」
「良いねぇ良いねぇ、それ」
「ただしありきたりでない仕事をサボタージュしたら、カンカンに怒られるが」
「………んゃ、そんな上司はどうよ」
「兎に角、利害は一致してるわけだ」
「そっか、まあそだね。それじゃあお手伝い、宜しくお願いしますわ」
にとりはリュックサックの中から、真鍮のコンパスと地図を取り出した。
彷徨う星を探す冒険であるから、こうしたものたちは勿論役には立たない。けれども冒険には
古びた計器に目を走らせながらの逡巡が不可欠だ。
回り道をしなければ幻想は探せない。
それを幻想郷の妖たちはよく知っている。
2.
降り注ぐ枯葉は景色をふさぎ、薄絹を掛けたように秋の日差しを柔らかなものとする。
午后二時の樹海。
森の道行きは不可思議に満ちている。まっすぐ歩いていたはずが同じ場所を歩いていたり、
さっきは三叉路だった場所が十字路になっている事は、ざらにある。
もちろん椛もにとりも、その程度の事では驚かない。
「けれど、樹海の道行きは難儀だ」
「いやいや何。仕方ないじゃないのよ」
「どうして下に行くことを選んだの」
「山での落し物は、おおむね上から下に落ちるに決まってるわよ」
「そうかな」
「そうだって。ところでお腹が空かない?」
「少しね。買い物をして行こう」
「買い物? どこで?」
「少し待ってて」
小路を辿ると眼下に滝をのぞむ崖があって、そこで椛は財布の革紐をゆるめた。
何をするのか、とにとりが思っていると、椛はつまみあげた二枚の銅貨を崖に投げ捨てる。
その瞬間に黒い影が目の前を行き過ぎた。それは瞬く間に銅貨を掴み取って飛び去り、椛の前には
和紙の包みが置かれている。
「何それ」
「パンだよ。匂いからして中に干し葡萄が入ってる」
にとりは椛から包みを受け取る。
はたして言われたとおりの品だった。付け加えるなら裏地に《今後ともご贔屓に 綺羅星商會》
なる文面とともに、鴉天狗の影絵が墨で描かれている。
「茶目っ気があるわー」
「この辺りでは人気の商會だからね」
「へーへー、こんな山道にもお店を出してるの」
「さっきから看板ばかりだったじゃないか。気が付かなかったの?」
山林は妖怪たちにとって街路のようなもの。
特に天狗が作り上げる組織の力はあちこちに及んでいる。他の種族が見れば静かな山路でも、
実際には縁日の出店の列にひとしい。草葉の陰に、大樹の洞に、どこかいかがわしい店がひっそり
開いているのも、当たり前といえば当たり前のことだった。
「これを見て」と椛。
「どれどれ? あ、木の幹に看板が掛かってる」
「《春夏冬中》だよ」
「あきない中、ってか。ちぐはぐよねぇ。実際は秋まっただ中なのにねぇ」
はむ、とパンを齧るにとり。
本音では、欲しいのはやはり胡瓜だ。水っ気のないパンは好みではないが、文句は言えない。
「………でも、やっぱ喉は渇くんだよなぁ」
「にとりは喉が渇きすぎだ」
「種族上、どうしてもね」
「崖の下の河に、水を汲みにいったら?」
「そうだね。そうしようか」
にとりはびゅう、と空を舞って、崖下の一隅をめざす。
なんとなく視線をそらして椛が待っていると、あっ、と言う声がした。
「にとり、どうしたんだ。河で洗濯しようとして流されたのか」
「そう簡単に河童は河流れない! そうじゃなくって、星があったの!」
「なに」
椛はにとりの声を聴いて、おなじく崖下に下った。
視界の先の川下、瞬くような光がつとつと流れていくのが見える。
水面にきらきらと散る、ギヤマンめいた陽の光が煩わしい。小さく輝くものどうしで紛れて、
椛の千里眼をもってしても、たちまちに星を見出すのは難しい。
「椛、どう?」
「ちょっと待って、―――…、………見えた。流れていってるな」
「私の目じゃもう見えないや。追いつけそう?」
「ここから暫くは流れが速いが、もうすこし下れば勾配がゆるやかになる」
「そこで追いつけるっていうわけね。ふんふん、急ごう―――」
―――そうして。
「あったぞ、にとり」
「見える見える。渦に巻かれて止まってるね」
二人が追いついたのは、幾つかに分かれた支流のひとつ。
静かな場所だった。
―――頭を垂れる水飲鳥を思わせて、水面に枝葉を伸ばす幾つもの木々。風が吹くたびに波紋。
流れは穏やかと言うより、むしろ停滞していると言っていい。夢にまどろむような川辺の眺めを、
花咲いた秋丁字のひとむらが、青く霞ませている。
胎にいだかれるように。
銀瑠璃の星が、光っていた。
「あった! あったよ椛!」
「しっ」
「何」
「なんだろう。この場所はなにか、しじまを破るのがためらわれる」
「またまた! なんか迷信めいたこと言っちゃって」
「河童がそれを言うな」
「椛だって天狗じゃない。迷信であり幻想である私たちは、迷信や幻想を恐れなくていいって事」
「何かしっくりこない」
「気分の問題じゃない? ええっと、どこ行ったかな、あった」
にとりはリュックの中からスコオプを取り出し、しゃがみこんで川辺を漂う星を覗き見る。
うんうん、と細かく頷いているところを見ると、どうやら当たりらしい。
「そいじゃ、もーらおっと」
そう言いながら、にとりはリンネルの布で、そっと星を掴もうとした。
と。
「痛っ」
その指が、はじかれる。
何事かと思って見遣ると、布は真っ黒に汚れ、厚手の皮手袋がぼろぼろに痛んでいた。
その下の皮膚にまで黒い傷は及んでいる。
「なんだぁこれ」
「見せてみろ、にとり」
「うん」
椛はにとりの手袋を剥ぎ取ると、かぐろい傷口にくちびるを付けて、蛇の毒を処する要領で
そこに染み入った夜色の何かを吸い取った。苦い顔をしながら、それを足元に吐き捨てる。
水筒の残りで口をゆすぐと、ようやく人心地付いたというふうに口を開いた。
「………やっぱりだ、この場所には厄が溜まってる」
「厄?」
「よく水を見ろ」
にとりは水面にもう一度目を向ける。
よくよく見れば水が黒い気がする。けれどもそれが木々が落とす虚ろな影であるのか、あるいは
水そのものが油のように濁っているのかは判じがたい。
けれども厄が、―――つまり悪運の凝りがここに溜まっているというのなら、それはそれで
納得できる話だ。時に麻酔を打たれたようなこの一隅に注がれた水は、ぐるりぐるりと対流し、
長い時間をかけて出て行くのだろう。
おそらくそうした場所は、多くのものを留める。
例えば砂土を、あるいは芥のたぐいを、時には運命さえも。
「なるほど、一昼夜かけてあの星は厄を吸っちゃったんだ」
「その厄が棘みたいに、触れる人を傷つけるわけか」
「これじゃあ星に触れないよぅ」
「どうしたものかな」
触れずに星をすくいとる方法など、あるわけもない。
二人はよたよたと河原に座り込んだ。
「お困りのようね」
思案にふける二人に、後から声をかけるものがあった。
振り向けば、ドレスに身を包んだクリスマスカラーの少女。
鍵山雛だった。
「なんだ、誰かと思えば厄神様か」と椛。
「丁度いいんじゃない? 厄神様って言えば厄のエキスパートでしょ」とにとり。
「そう都合のいいものじゃないわ」と雛。「私はあなたたちに、早くここから離れるようにと
忠告に来たのよ」
「ふむ。厄神なら、この星の厄を吸い取る事は出来ないのか?」
「そうだよ。おねがいだよぅ」
「残念ね―――この場所は妖怪の山でもいっとう厄の溜まり易い場所、それを利用して私たちは
余分の厄をここに溜めているの」
「厄の溜め池というわけか」
「そんなの山の中にほっとくのって、やばくない?」
「やばくないわ。ここに溜めた厄は滅多な事では流れ出さないし、厄の管理はちゃんと私たちが
やってるもの」
「一部放し飼いにしているのを、きちんと管理していると言えるかどうか………」
「事情はわかったけど、とにかくあの星の厄を吸い取って、返してくれない?」
「そうしたいのはやまやまだけど、この場所の厄は強いから吸い取るのに時間がかかるのよ。他の
処での業務を怠ることもできないし、あなたの希望ばかりを叶えることはできないわ」
雛がそういうと、む、と膨れた顔でにとりがリュックに手を突っ込む。
抜き放った手には三枚の札が握られていた。
スペルカードだ。
「ごめんね厄神様。私なりにけっこう大事なことなんだ、これ」
「だからと言って実力行使は感心できないわね」
「やらないの?」
「あなたがやると言うのなら、応じざるを得ません」
雛もスペルカードを取り出し、眼前に扇のように掲げた。
二人は向き合って、距離を取る。
「化学『繰りかえすアルカロイド』
鉄符『雨の国の鈍色造花工廠』
投影『パノラマランドエスケープ』、以上三枚」
「悲劇『オフェリア異聞』
不運『丁半不捌』
災符『ピアノソナタテンペスト』、以上三枚」
「待て。まわりをよく見ろ」
向かい合って札を見聞していた二人に、椛が声をかける。
見ると、辺りに―――魚が泳ぐようにして、六つの星が漂っていた。
それらはぼうとした光を放ちながら、しばらくその辺りを漂い続け、やがて自らの住み処を
見出したようにひとつの形を作る。
「これって、おおぐま座のしっぽ?」とにとり。
「北斗七星とも言うな」
「でも、なんで急に集ってきたんだろう」
「さっきの星に厄が付いたからだろう」と椛は推測する。「たぶんあれはベネトナシュ。中国では
破軍の星といって、戦の勝敗を決する凶星だとされた」
「それって、おおぐま座の星のひとつなの?」
「そう」
「なるほど、さっきの星がベネトナシュの役割を得たから、それに合わせて星座が作られたんだ」
「と言う事は、今ごろ山じゅうに散らばった星が、星座の定位置を取ってると思う」
「あー!」
「ちょっとちょっと。私との話はどうなったのかしら」と雛。
「どうなったんだろうな」と椛。
「状況が変わったんだってば。空気読めないの?」とにとり。
「なんだと」
「まぁまぁ」
何よ、とばかりに蚊帳の外の扱いをくらう雛をよそ目に、二人は話を進める。
「それにしてもだ。これで星座が定位置を取るっていう事は、随分星は探し易くなるぞ。
妖怪の山の地理と星座の構成を照らし合わせれば、何がどこにあるのかはすぐに―――」
「いや、もっといい方法があるよ?」
「え?」
「雛ー、ちょっとさっきの星を持って、そのあたりを回ってくれない?」
「何で? っていうか、急に呼び捨て?」
「まぁ、いいから」
「あっ、そう!」
ため息をつきながらも、にとりの指示通りに雛がベネトナシュを移動させると、それに合わせて
おおぐま座の星たちも移動をはじめる。なるほど、と椛が声を上げた。
「星の位置をさだめているベネトナシュを回せば、それに合わせて星座も回るわけか」
「たぶん近くに北極星もあるんだろうね。動きからしてその二個が軸になってるわ」
「ちょっとちょっと、二人で何を納得してるのよ」
「別に」
「別に」
「もう」
「………しかしそれにしても、こっちから探しものの位置を操れるなんて便利だな」
「上手くすれば、一個残らず九天の滝にぶつけて落とせるかもね」
「それだと、あの厄神に動いてもらわないといけないぞ」
「そうなっちゃうよねぇ。雛ー、今日はこれからどういうところを回るの?」
「山の厄を散策がてら集めるわけだから、特には決まってないわよ」
「じゃあ、こっちに便利になるように道行きを決めちゃってもいいかな」
「いいけど」
にとりはリュックから星座早見を取り出すと、それを山の地図と重ねた。
葦で作ったペンで手早く径路を書き込む。河童の指は図面を引くためにあるのではないかと
思わせるほど、手馴れた手際だ。
「出来た。こんなふうに進んでもらえない?」
「これならまあ、大方支障はないわ。いいでしょう」
「ありがとう雛!」
「って言うか、いつまで呼び捨て?」
「さぁ、いつまででも?」
「いつまでかにしておきなさい!」
親しいのか仲たがいしているのか良く判らない態度のままで、厄神は樹海の奥まったほうへと
進んで行く。それに付き従う温和な仔犬のように、北斗七星も彼女に続く。
「うん、やったね椛。これで星の八割は九天の滝に落とせるはずだよ」
「やはり、全部まとめて落とすわけには行かないのか」
「位置的にどうしてもね。取りこぼすものは出てくる。今からそれを取りに行きましょ」
「待て。何の星座だ?」
椛がそう問うと、にとりはにっこりと笑うのだ。
「いくつかあるけど、トリはカシオペア座だよ。秋の夜空の顔役だ」
3.
椛とにとりが厄神と別れてしばらくの後、急に雨になった。
山の天気はにわかに変わるものだとは言え―――。
海の底を返したような大雨だ。木々の葉末は雨滴のおもさに堪えかねてうなだれ、条々の水煙が
風景からどんよりと色彩を奪っている。その中を、椛とにとりは、ちゃぷちゃぷと駆ける。
「この天気じゃ空も飛べない。眼も利かない。悪い事づくめだ」と椛。
「私としては、この天候は願ったり叶ったりなんだけどな」と、あくまでにとりは陽気だ。
「水を得た河童の元気そうなのを見ると、なんだか腹が立つ」
「椛は水が苦手なの?」
「得意じゃない」
「しっかしさ、いつも椛が守ってるのって滝じゃん。しぶき大丈夫なの」
「得意ではないけれど、大事はない」
「ふぅん」
「それにしても実際、このままじゃ予定の時刻に間に合わないんじゃないか」
「厳しいね。カシオペア座が通る予定の場所までもうちょっとなんだけど、たぶん着くのは
通り過ぎたあとになる」
「大丈夫なのか」
「軌道自体は予測できるから、後からでも追えるよ。細かな道になるから手間だけどね」
「さすがに白狼天狗の誇りにかけて、藪を突っ切るような道行きはごめんだ」
「だったらもっと走る!」
「あぅお!」
椛の吠え声がまるきり仔犬だったので、にとりはしばし苦笑した。
道すがらに拾った星は背中のリュックに入れてある。走るたびにそれが揺れて、がらがらと音が立つ。
それは時間の経過を報せる時計の音のようにひびいて、二匹は焦らずにはいられない。
そして。
「―――参ったな、この道、さっきも来た気がするのよ」
「私もだ。眺めの仔細に見覚えがある」
「どうしよう、山の真ん中で妖怪が迷子とか洒落にならない。椛の千里眼でなんとかしてよぅ」
「こんなざんざ降りの最中では難しい。にとりのコンパスでなんとかならないのか」
「それが、樹海だと方角が狂っちゃうんだよぅ………」
「この役立たず」
「何をぅ!」
「将棋の手からも良く思ってたけれど、にとりは考えなしだな」
「将棋の手からも良く思ってたけどさ、椛って視野狭窄だよね」
「千里眼を相手に視野狭窄とは何事だ!」
「発明家を相手に考えなしとか言うなっ!」
がるるる、と椛がうなり、にとりが得物をもとめてリュックの中に手を突っ込んだ。
あわや掴みあいかと思われた、そのとき。
「「やめなさいよ」」
二重唱和の声が、二人を制止した。
椛とにとりは一斉に振り返る。
そこには枝先が八方から傘のように並んだ、自然のあずま屋めいた場所があった。傘の下には
人影が、ひとつ、ふたつ―――。
否、もちろんそこにいたのは、人ではないもので。
とにもかくにも、雨宿りをしている。
「ああもう見ていられない。言い争いなんてまるで見るに堪えないわねぇ静葉姉ぇ」
「全くよ穣子、世界はもっと静かであるべき」
「いやいやもっと豊かであるべき」
「何を」
「何を」
そこにいたのは、神様の姉妹だった。
椛とにとりの喧嘩を調停した先から言い争っている。それもあまりに自然に諍いに発展したので、
この二人はいつもこの調子なのだろう、と思わせるものがあった。
椛は面食らってどうしていいか判らない。
にとりは含み笑いで姉妹を見ている。
「あのさぁ」と、にとりが話しかける。
「「何」」
「そっちの喧嘩も見るに堪えないよ。せっかくの雨の日だし、お互い争いごとは水に流そうよ」
「「雨の日だろうといつも言い争ってるわ」」
「じゃあ犬に食わせよう。ほら椛、ごはん」
「喧嘩は犬も喰わないぞ」
「犬ってとこは認めるんだ」
「認めない。言葉のあやだ」
つん、と明後日の方向を向いた椛を他所に、にとりは気安く姉妹の隣に並ぶ。
谷河童に雨宿りは不要だが、雨に煙る世界を眺めることが、にとりは何となく嫌いではない。
土と水と葉々の香りが空気の中で混ざりあった、寂けさの臭いが雨の日にはある。にとりは
それを嗅いでむしろ嬉しくなる。椛はもちろん、単純に寂しくなる。だから姉妹の横にならぶ。
そんな河童と天狗に、神の姉妹は話しかける。
「どうでもいいのだけれど、お腹が空いているのなら生焼き芋なんていかが?」
「いえいえ尊ぶべきは精神の充実。お腹がすいている時こそ紅葉を眺めません?」
「静葉姉ぇは黙ってて。葉っぱなんて見てどこが面白いのよ」
「あら華道では綺麗に紅れた葉っぱはお花と同じ扱いよ。穣子こそ根っこを食べて何が嬉しい」
「花より団子!」
「団子じゃなくて根っこでしょうに」
「お芋からできる団子もあるのよ。逆に言えば団子の一部はもとはお芋!」
「そんな事を言ってはダメよ」
「そんな事って何よ静葉姉ぇ」
「もとを辿って、もとを明かすことよ」
「もとを辿って、もとを明かすことの何がいけないのよ静葉姉ぇ」
「秋って」
「秋がどうしたの」
「もとを辿れば、もとは夏よ」
「ああ!」
「私たちのゆかしい秋が、もとを辿れば、なんと夏!」
「あの忌まわしい夏!」
「苦しい夏!」
「避けたい夏!」
「まあ冬よりはましですよ、穣子」
「そうね」
「とりあえずこの話題は自重しましょうね、穣子」
「そうね」
「でないと、言い合っているうちにあっという間に冬だものね」
「そうねぇ、いやねぇ」
うんうん、と互いにうなべる姉妹の横で、椛とにとりは顔を見合わせる。
この二人、仲がいいのか悪いのか。おそらくはいずれも綯い交ぜで、いずれも分かちがたく、それが
姉妹という物の絆なのだろうが、椛もにとりも独り仔なので、そうした機微はわからない。
うぅん、と思案にくれるにとりの横で、あっ、と椛が声を上げた。
「すまない、そういえば聞きたいことがあるんだ」
「「何かしら」」
「この辺りで、星を見なかったか」
ああ、と叫んだにとりは、たった今本筋を思い出した。
「そうよそうよー、星よ。魚みたいに泳いでる星。見ませんでしたか神さま二柱」
「手がかりになる事なら何でも良い。頼む」椛も合いの手を入れる。
「星といわれても、見たかしら、静葉姉ぇ」
「どうかしら………おぉ、あれじゃない穣子」
「覚えがあるの?」にとりが首をかしげる。
「そう、ふわふわと泳いでいった」
「ああ、ひらひらと漂っていった」
「こんな形の」
「こんなふうに並んだ」
あっ、とにとりが手を叩く。
「椛、この姉妹が言ってるのってカシオペア座の形だよ!」
「じゃあ間違いないな。それはどっちに行ったんだ」
「あちらよね、穣子」
「こちらよね、静葉姉ぇ」
そう言って、二人は森の、まったく別々の方角を指さした。
ぴきりと、途端に雰囲気に険悪な色がまじる。
「………あっちよ穣子」
「………こっちよ静葉姉ぇ」
「あの、もしもし?」とにとりが割ってはいる。
「確証がないのなら、敢えて発言しなくてもいいのだが」椛もそれに続いた。
「何を言ってるの? あっちは下り坂よ。山での落し物が上から下へと向かうのは当然よ」と静葉は言う。
先の自説と同じであったから、にとりは内心で賛成した。
「あら、星は下から上へと昇るに決まっているわ。上り坂のこっちに向かうのが必然よ」と穣子が返す。
椛はなんとなくこっちに納得する。
四者四様の想いで、目の前の分かれ道を睨んだ。
「どうする?」と椛。
「とりあえず右か左かの分かれ道しかないんだから、二人で好きなほうに行けばいいんじゃないかな」
「そうか、普通に考えればそうなんだが、なにか落とし穴がある気がしてしょうがない」
「そうは言っても二人いて道が二つなんだから、二手に分かれるほかないってば」
「そう言うときこそ、第三者の視点で考えるべきだと、文先輩はよく言っている」
「文先輩って、椛の上司の?」
「そうだ」
「いかにも上司らしい言い方だけど、ふぅん、第三者ね。難しそうだ」
「私はもともと千里眼だ、さして難しくはない、むむ」
「何か考え付いた?」
「うぅん、文先輩ならどう見るだろう、この事態を」
あいも変わらずあちらだ、いやこちらだとやりあっている姉妹をよそに、しばらく悩んでいた椛だったが、
ある時ばっと顔を上げると、突如としてあずま屋を飛び出し、矢の疾さで雨の最中に駆け出した。
ご、ぉ、う、っ、と空気が軋む。
椛が巻き込んだ雨粒が一斉に霧に変わって、眺めがにわかに曇った。
一瞬おくれてそれに続いたにとりの方は、まるで話が掴めていない。ただ無心に椛の後を追うのだけれど、
さすがに白狼天狗の足は速い。じりじりと離される。後に気をむければまだ神様の姉妹は言い争っている。
それもすぐに聞こえなくなった。
「なに? なに!? 何を思いついちゃったわけ!?」とにとりは叫ぶ。
「簡単なことだ!」振り返りもせずに椛が応える。「道の先が二つで、目撃者の証言が二つ。ならば最初から
答えは決まっている!」
「どっちだっていうのさ!」
「どっちでもない!」
「えー!?」
ここまで走った勢いそのままに、椛は二つに分かれた道の真ん中、草むらへと飛び込んだ。
「―――《藪の中》に決まっている!」
白狼天狗は背中に差した湾刀をひっこぬくと、勢い任せに右から左へ振りぬき、左から右へと返した。
それで垂れた枝や下生えの木などが散って、どうにか通れる道ができる。目盲滅法のようで誰よりも
目の利く椛である。いつもよりも濃い雨天の木下闇に怖じず、びゅんびゅんと駆ける。
たっぷり二秒遅れて、にとりは藪へと駆け込んだ。
もう椛の姿は見えない。
「おぅい、どこなのよ椛、おぅい」
にとりの呼び声は木々の中に籠った雨音に押し返されて、ほんの五間も届かない。
けれども地面には椛の足跡があった。ものすごい勢いで地を蹴って走ったので、くっきりと残っている。
これなら後をつけることも出来そうだった。
そして。
「ああ、椛、いた!」
木々の奥まった場所に椛がいる。
けれども二本の足では立っていない。四つばいになって、くんくんと地面を嗅いでいる。
犬そのものだとにとりは思うけれど、口には出さなかった。
「椛、なにやってるのさ」
「にとり、ああ、にとりか」
「星は見つかったの?」
「それが見つけたのだけど、追っている途中でふいに消えたんだ」
「消えたぁ? 星が?」
「どういうことだ?」
「いや私に聞かれても。少なくとも雛が頼んだとおりに動いてれば、椛の追えない速度になることはないよ」
二人で話している途中に、突如として森の中に風が巻いた。
否、風ではない。
雨つぶを巻き込んだつむじは真っ白であるはずなのに、この風は真っ黒である。
ばぁさ、と風が翼を広げた。
「―――あやややや。いけない。いけないよ。いけませんねぇ椛」
そこに立っていたのは。
「文先輩!?」
「こんにちは椛。四つばいのままで上司に話しかけるだなんて、そんなに土が恋しいのですか?」
「ああ、いえっ、失礼しました」
慌てて立ち上がる椛だ。
にとりもつられて構えを直し、目の前にすっくと立つ烏天狗に正対した。風神少女の射命丸文と言えば、
天魔に次ぐ山の顔役であり、我の強さと狡猾さでも知られている。端正で知的なおもざしからは山ッ気は
うかがえないが、出会いばなに椛に皮肉を言うあたり、風聞どおりの性格なのだろう。
「椛。それで?」
「そ、それで、とは?」
「職場放棄の理由を聞いているのよ、椛」
「はっ、文先輩」
「理由無しの職場放棄。ふぅん、椛も気が大きくなったわねぇ―――」
「違います! 文先輩のお役に立てるような事件の匂いを嗅ぎ取ったのです」
「事件の臭い」
「それはもう、不可思議な出来事が起こったのです」
「不可思議、な、出来事」
文は何かを企んでいるような表情で、椛の言葉をひとつひとつ区切りながら反復する。
「椛。それは、これに関係しているのですか」
「あっ!?」
文が手をのべると、そこには五つの星が抱えられている。
「それはカシオペア座じゃないですか!」と、にとりが割って入る。
「カシオペア座。ふん」興味深そうに文がにとりに視線を投げる。「トレミー四十八星座のひとつ。
夜空に懸かるエティオピアの妃の写し身が、何故こんなところに落ちているのでしょう」
「にとりが黒白の魔女から借りたのです」と、椛が質問を受けた。
「借りた? 星を? なぜ?」文はいつのまにか手帳を取り出している。
「星空をもうひとつ、作るためです」にとりは身振り手振りを交えて説明する。
「もうひとつの星空! まがい物の星空を」
「にとりが言う所によると、外界ではそうした遊びが流行っているようですよ」
かりかりと筆を走らせていた文がぱちりと手帳を閉じて、笑う。
新聞屋がアイディアを閃かせたときの顔色は奇妙だ。にとりのような発明家なんかは情熱が直接に
表情に漏れているのだが、新聞屋だとそうはいかない。
文の表情は心が昂ぶるほどに、なんだか深遠である。
「―――面白い。空を騙るミニチュアの空。機械仕掛けの星列。詩情に溢れていてとても良い」
「文先輩」
「なるほど椛、これは良いですよ。貴女は良い仕事をしたようです」
「はい、ありがとうございます文先輩!」
褒められると途端に悦ぶ椛だった。
しっぽなんて振っちゃってまるきり犬だ。にとりは呆れながらその様子を見る。
「しかし。しかし、しかしながらですよ、椛」
「あ、………はい」
「何故前もって、私に話を通さなかったのですか」
「そ、それは私たちだけで解決できると判断したからで」
「そう言った判断は私がするもの。何を勝手に決め付けているの」
「あぅお………」椛のしっぽが、しゅん、と垂れる。
「おかげで今、ものすごい大事になっているわ、まったく!」
「それは、どういうことでしょう?」にとりは横から口を挟む。
「ふん、百聞は一見にしかず。九天の滝に行けば判ることです」
「九天の滝へ。―――なぜ?」
「そちら、河城さんと言いましたよね」
「あ、はい」
「この星は、貴女が魔女から借りたのでしょう」
「そうですけど」
「ならば早くしないと。他の妖かしに盗られてしまいますよ」
「えっ、どうして!?」
「説明は後で。まずは九天の滝に急ぎましょう!」
飛び立つ烏天狗。
にとりも椛も釈然としない表情で、けれども風をあざむく風神少女に取り残されないために、ただちに
飛び立つ。―――ふと気付く、雨はすでに上がっていた。彼方の空は夕焼けの色を宿していて、黄金色の
雲のすきまに虹が掛かっている。
一刻ののちに、夜が来る。
その前にプラネタリウムの星を取り戻したいと、そんなことをにとりは思った。
4.
西日は鮮やかに、山のすべての命を射抜く。
たとえば里の暮れ時はやわらかで気だるい。山の暮れ時はそう言うものとは違う。春秋に富む画家が
思いのたけをカンバスにぶつけて書き上げた絵のような、心を圧する美しさに満ちている。何もかもが
燃え上がり、何もかもが金色だ。
ましてや、常ですら雄大な九天の滝の、日暮とあれば。
荘厳なほどに違いない。
「―――どう、椛。九天の滝は見えた?」
「………」
「椛? 椛? どうしたの?」
「なんだ、あれは」
「え?」
「山じゅうの妖怪が集ってる」
「は、はぁ?」
椛の千里眼は、深い山景色をつらぬいて、確かにそれを捉えた。
―――あまたの星々を墜とす九天の滝と。
―――それを取り巻くあまたの山のあやかしたちと。
―――声は聞こえないが、表情からして、大声でなにかを喧伝している烏天狗の一団と。
あれは、まるで。
「言い方は悪いが、騒動にたかる野次馬、そのものだな」
「わお………椛っていつからそんなに口が悪くなったのさ。先輩の影響かな」
「莫迦を言うな。文先輩は清く正しい!」
「清く正しく手段は選ばない感じだったなぁ………」
「あぅお―――それは、否定できない」
「それより急ごう。文さんが星が盗られると言った訳が、判って来た」
「なんだって?」
「椿事に烏天狗の群れ。となるともう、根拠のない報道ごっこが飛び交うに決まってる」
「ふむ」
「―――その中で、私たちと関係ない由来がでっち上げられちゃうかもしれない」
「待て、それじゃあ!」
「そう、適当な筋立てを用意して、星が自分の物だって主張する奴も、いるかもしれない!」
霧も霞もやぶって飛翔する、妖の少女二匹。
九天の滝は、すぐそこにまで迫っている。
5.
誰も彼も戸惑って。
ゆえに文句は朗々と。
お祭り騒ぎの夕闇なので。
丁々発止で混ぜッ返す。
『―――あれは空のお星様の幼体なんだ!
空のォ銀の河はァ! あれは天女様のお乳が混じったからあんな色になってて、
その養分で星々は育つのだけど、その途中で地面に降りてくることがあるんだヨ!
外の世界には、育つ過程で海と河とを往復する魚があるっていうけど、
つまるところはそいつと同じ!
さぁさぁ皆触れちゃ駄目だよ! 空に還る星と一緒に、あの天の河まで連れていかれちゃう!』
『本当かい!?』『なにそれ怖い!』『星に近寄っちゃいけないよ!』『皆、空に還るのを待とう!』
『それにしても不思議な話だ』『おかしな話だ』『私いっしょに天の河まで行ってみたい』『私も!』
『莫迦いっちゃいけない、あそこは怖い処だよ!』『深い海と同じで、冷たく凍えていると言うよ!』
どぉん。
どぉん。
瀑布に飛び込む星の列の水面をはじいて飛沫に変えて。
それが夕焼けを映しこんで茜色の光を四方八方振りまいて。
墜ちる星、またひとつ、ふたつ―――。
どぉん。
どぉん。
水音はまるでお囃子。
あやかしの観衆たちが沸き返る。
『―――いやいや違います! あれは死んだ人妖たちのたましいなのです。
飛びぬけて美しいたましいは、輪廻に穢れるのが何か勿体ない。
また天界に寄越すのも口惜しい。だから是非曲直庁の閻魔さまたちが
こっそり空に飾って星に紛らわせて、彼岸の夜からそれを眺めているのです。
星々のなかで特に光の強い、いっそ妖しいくらいの美しさを孕んでいるものは、
みな、閻魔さまたちが空に隠した、たましいなのです!
それが偶然落ちてきてしまったのだから、大変ですよ!
さぁ、はやくそれを是非曲直庁に返さないと、妖怪の山そのものが彼岸に怨まれてしまう!』
『本当かい!?』『早くしないと!』『いやいや是非曲直庁上等じゃないか!』『何血気出してんのさ』
『でも閻魔様もそんな不正をやってたのかい』『そりゃあ閻魔様だって綺麗なものは愛でたくなるわよ』
『しっかし私欲じゃないの』『おうさ、まずはそこの筋を通してもらわねぇと』『まったくだよねぇ』
皆それを本気にしているのか、いないのか。
妖たちは天狗少女の法螺話にいちいちどよめくのだけど、その声はどこか浮かれている。
嘘を嘘のままにして祭の虚飾と定めたか。
あるいは嘘とほんとうの境の無くなることが、お祭り騒ぎの本質なのか。
『―――いやいや違う、違う! みんな何を仰っているの!
あれは我ら山の妖怪達にふさわしく天が賜った、星々のアクセサリですの。
古来より英雄がいくさばに向かう前には、空から星の屑が降って、
人間たちはそれを首飾りに仕立てて、幸運を招いたと言いますわ。
人間ごときでさえ、天からこのような贈りものを貰えるのですから、
我ら誇り高い妖怪達が同じ恩寵をいただいたところで、
何も不思議はありませんわ。
さぁ、早くひとつひとつを鎖に繋いで。
いますぐ天魔さまに献上しないと、せっかくの天佑を逃がしてしまいますわよ!』
『本当かい?』『それはまた嬉しい話だ』『幸せな話だ』『でもそんな出来た話があるものかねぇ』『うむ』
『しかし天狗はもっとも空に近い種族だと言うよ』『天に愛されても不思議はない』『天狗だけが偉いのか』
『それって何か不公平だよナァ』『でも天魔さまに授ける首飾りなんだから、別に構わないんじゃないのか』
胡乱な作り話は、つぎつぎに生まれていく。
考えてみれば。
文字通り降って湧いた星々のゆえんなど初めから明らめるすべはなく、ゆえに作り話としての
出来の良さだけが、信じるか否かの分水嶺なのだ。うつくしいから真実とさだめる、面白いから
真実とさだめる、あるいはいっそ、不合理ゆえに真実とさだめる。
幻想とは。
たしかに、そうしたもので―――。
だから。
「―――あやややややっ! 困る。困るな。困りますね。皆、嘘ばかりを言っちゃって!!」
報道には誇張が要る。
まるで作り話のような外連味が必要である。
そればかりか、真実を証し立てるものには、登場にすら、目を見張る派手さが必要なのだ。
射命丸文は、それを熟知していた。
空の彼方より矢の如く舞い込んだ黒い影は、どぉっと直線的に水面に突き刺さり、
そのまま風の刃となって瀑布を切り裂き、滝を真上に登っていく。
ざぁん。
ざぁん。
雷のような音が耳を聾する。
天狗の少女たちでさえ、何かを語ることが不可能となる。
そうして。
「ここに集った妖の衆、みな刮目せられよ!!」
九天の滝のいただきより。
夕日を背負った射命丸文の声が響く。
「―――妖怪の山に鯉のごとくに遊泳する星々、再々目撃さる!
何と言っても星は夜空にあって夜空を飾るもの、
大地を泳ぐはずはないと一笑に付したところで、
今我々が目の前にしている椿事を夢だと誤魔化すことは出来ないでしょう!
星が水鳥のように滝に飛び込んで落ちていくという幻怪不可思議。
しかし! しかしながら!
ここが幻想の郷であることを慮るなら、
事実は小説よりも奇なり、あいや神話や伝承よりも奇奇怪怪であったところで、
何も不合理はないのでは。
―――そして、その奇奇怪怪なる椿事の真相を
この射命丸文が皆さんに暴露しようと言うだからさぁ刮目せられよ!!」
おお、とささめきが妖怪たちの中に伝播したのち、静まり返る。
さすがに口上が上手い。
「では早速本題に参りましょう。
まずは証言者の語るところを聞け!」
びっ、と文は滝壺の一角を指差す。
そこにいたのは、息もきれぎれで駆けつけた、椛とにとりの姿だった。
「―――彼女たちこそ、夜空の星を写し取ろうとした、この一件の黒幕であります!」
あまたの視線が。
一瞬のうちに、二人に向いた。
6.
「えーー!?」
勿論。
こんな事態は椛もにとりも想像していない。
ひとつひとつは力を持たない細い視線も、こうも沢山が一緒くたになれば、津波めいた迫力を持つ。
それに包囲されて、白狼天狗と谷河童は身動きもとれない。
「ひ、ひぃぃ、何で私たちに急に話が振られてるわけ」
「そ、それは実際私たちがあの星を用意したからだろう」
「で、でも別に悪いことしたわけじゃないよね」
「ま、まぁ九天の滝に落としただけだからな」
「………でもそれで怪我する妖怪も出たんじゃ」
「………」
「………それに実際、大騒ぎになってるんじゃ」
「………」
「椛のばか! 視野狭窄!」
「うるさいにとり! この考えなしー!」
慌てふためく態度は、二匹の悪事を証したてるものとして映ったらしい。
視線の群れが色を変える。罪をあばき、裁くもののそれとなる。
『あの二人が今回の黒幕?』『どういうことだ?』『こんな騒ぎを起こせる大妖怪には見えないぞ』
『偽装じゃないか?』『能ある鷹は爪を隠すか』『おい、あれは白狼天狗の椛ちゃんじゃないか?』
『もう一人のほうも、谷河童のにとりだ』『まさか黒幕があの二人だったなんて………』
―――その視線を見下ろして、はるかな高みから射命丸文が問う。
「どうしたのです? 犬走椛。河城にとり。早く自分たちの行いを述べるのです!」
まるで是非曲直庁の閻魔のような口ぶりだ。
そうだ、ここはまるで法廷。それも群衆の感情ですべてが決まる、魔女法廷だ。
ならばこちらも言葉を遣わないと、無実の罪を着せられてしまう。
「わ、私たちは―――ただ星空を、もうひとつ作ろうとしただけです!」
河城にとりは、声の限りに叫ぶ。
『星空をもうひとつ?』『どうやって?』『何のために?』『よく判らないけど何だか怖ろしい話だぞ』
『揺ぎ無く時を告げる天空を、二つも作るだなんて』『それじゃあ季節の基準が二つになっちまう!』
『夏がくるときいっぺんに冬が来る!』『秋がくるときいっぺんに春が来る!』
群衆の声は、ますます膨れ上がる。
それを圧して文の声は届いた。高く澄んで、けれども張りのある声だ。
「それは確か、プラネタリウム、と言うものでしたね」
「そ、そうです、外の世界の、他愛もない子供の遊びです!」
「なるほど、外の世界の遊びですか。―――真の夜空なき、外の世界の」
その一言に、再び妖怪たちはざわめいた。
『外の世界の遊びか』『遊びなら大丈夫なんじゃない』『しかし外の世界は星さえ見えない濁った場所だぞ』
『かがくと言う化物が、幻想をねこぞぎ追い出してしまったと聞くよ』『プラなんとかも、かがくじゃないの』
『プラなんとかのせいで、外の世界では夜空がなくなっちまったんだ!』
無茶苦茶な言いようだ。
にとりは舌打ちして、となりの椛に話しかける。
「ねぇ椛、どうなってんのさ!」
「あ、あぅお!」椛は完全に動転している。「わんわん!」
「犬になるなー! 白狼天狗の誇りを思い出してよ!」
「ん、あああ。すまない、ちょっと取り乱していただけだ」
「取り乱してる場合じゃないよ。どうなってんのあんたの上司」
「う、うん。どう見ても私たちを悪役に仕立て上げようとしているな」
「文々。新聞って言うのは、ガセネタは載せないんじゃなかったの!?」
「いや………それは紙面の話で、予め話題づくりをするときには、勝手に盛り上げるだけ盛り上げる」
「な」
「それで、後出しじゃんけんで、紙面には整合性を付ける………文先輩はそういう方だ」
「最悪じゃないのそれ」
嘆いてみたところで、妖怪たちからの疑惑の念は薄まるわけもない。
むしろ、抗弁すればするだけ、言葉尻を取られて悪者扱いされるだけ。
一方で文の弁舌は止まらない。にとりに向かってではなく、もはや妖怪たちに向かって語りかける。
「―――そも、トレミーの星座たちはどこで生まれたのか。
はるか古代、泰西の地の希臘(ぎりしあ)なる知識と理念の邦においては、
星座こそが秩序の源、夜空にあって輝く真理とみなされていました。
そしてこの地における神話こそ、後のトレミーの48星座の、多くの源となったのです。
つまりは星座こそ、自然力の正しさの象徴。
それを工作で模倣して、自分のものとすることに、一体どういう意味があるのでしょう」
椛は眉をしかめた。
文の良くやる手だ。関係がありそうで薄い話を絡める事で、聞き手を煙に巻いて扇動する。
そして、そういった手を使うのは、決まって相手をやりこめる時ではなかったか。
どうやら文は、自分の部下である椛とその友人を、本気で罠に嵌めるつもりらしい。
「―――そうして、自然から真理を奪い取る科学の力が、
外の世界から幻想を放逐した事もまた事実。
星空にさばかれることをただ良しとしていた人間たちが、
むしろ自然の審判者に回るようになった。
真理を司る天上の役割を、自ら任じるようになった………そう伝え聞いています。
河城にとり。
貴女の敬愛する科学と言う物は、幻想郷に災厄をもたらすものなのではないですか?
あるいは貴女自身に、幻想郷に災いをもたらす気がある、とも考えられますが―――」
『げ、幻想郷に災いを?』『急に話が大きくなった』『在り得る話だ。外の世界でも科学に幻想が駆逐された』
『じゃあ幻想郷から追い出された幻想は、どこへ行くんだい?』『影も形も失って、消えちまうんじゃないか』
『そりゃとんでもない話だ』『科学ってのは幻想喰らいの化物だ!』『プラネタリウムってやつは怪物だ!』
幾らなんでもこれは酷い。
文はどう言うつもりなのか。これでは完全ににとりを糾弾する格好だ。
今すぐに反論しないと、袋たたきに遭いかねない。だと言うのににとりはがっくりと肩を落としたままで、
烏天狗の口八丁に応える様子も無い。堪えかねて椛は話しかけた。
「おい、にとり、早く言い返さないと」
返事はない。だんまりとしたままだ。
「愕然としているのはわかる、しかしこのままだと」
「か」
「か?」
よく見れば、にとりの肩は震えている。
怖じたものと、一瞬椛は取り違えた。
しかし。
「かってな」
「か、かって?」
ばね仕掛けの玩具のように、河城にとりは顔を上げた。
河童の肺活量いっぱいに息を吸い込めて。
いかずちのように、叫ぶ。
「勝手なっ! ことを! 言うなぁ―――――――っ!!」
わぁん、と。
雲雀のように高く高く上ったにとりの声は、九天の滝の岩肌のあいだを何度も跳ね返り、硝子のように
くだけて辺りに降り注いだ。水底の静寂。あれほど騒々しかった妖怪たちのざわめきが、にとりの大喝に
圧倒されて掻き消えたのだ。
もちろん、いちばん驚いたのは隣に立っていた椛だ。
動きばかりか表情までも凍って、人形のようになった。
その様子を横目に、にとりは天空の射命丸文に、びしぃっと人差し指を突きつける。
「さっきから聞いてたら新聞屋が随分じゃない! まるで素人考えだよ」
「ほう、それでは先ほどまでの私の疑念は、底の浅いものであると」
「むしろ底なしの見当違い」
「しごく常識的な意見をのべたつもりですが」
「泰西の学者によれば、常識は二十歳までに溜め込んだ色眼鏡のコレクションだそうだよ」
「成る程。私は二十歳の何十倍も生きているので、多くの色眼鏡を知らずに掛けているのかも知れません」
「烏が光物を好むからって、あんまり溜め込みすぎるのは良くないね」
ようやく椛は驚きから立ち直った。
科学を侮辱された怒りゆえに開き直ったのだろう、かたわらの友はいつもよりずっと雄弁である。しかし
格上の妖怪である烏天狗に向かって、何ともあやうい口の利きようだ。
その間に、ふむ、と文は首をかしげた。
「―――すると貴女は、科学は幻想郷に害をもたらすものではない、と」
「そうさ。そう思うわよ私は」
「しかし何故? 外の世界では、科学によって幻想が駆逐されたそうではないですか」
そうだそうだ、とあちこちで賛同の声が上がる。
けれども椛は思う。先ほどのいたずらに煽り立てるような口調に比べて、今の文はやたらと大人しい。
まるでにとりの意見を山の妖怪たちにアピールするために、良き質問役を買って出ているような。
(もしかして)
と、椛は思う。
もしかして、文はにとりを焚きつけたのか。
改めて椛は文のほうを見遣る。するとそれに気付いた文が、にこりと笑って視線を返した。良いから
安心して見ていなさいと、言外にその笑顔は告げている。
どうやら、文には考えがあるらしかった。
しかし、それにしても。―――どうするつもりなのだろう。
「烏天狗さんは、幻想と私の科学が対立するものだって言ってるわけね」
「正鵠を射ているでしょう?」
「まるでど素人の流鏑馬だよ」
「へぇ、つまりは筋違いと」
「そう」
「何故です」
「だって、科学が幻想と相容れないものなら、そもそも博麗大結界を越えてこないはず」
「成る程! 道理ですね」
「それに発展した山の技術だって、科学のおかげじゃない! なんでみんな急に恩を忘れてるの?」
しだいに、周囲の妖怪たちの空気が変わっていく。
最初からにとりを悪者だと決め込んで糾弾するような姿勢から、落ち着いて、理性的に、相手の言い分を
聞こうと言う姿勢に。まるで文の態度の変化が、そのまま観衆に伝播したようだ。
「しかし、外の世界では、科学なるものが幻想を駆逐したというのも定説です」
「そうかもしれないけど、それとこれとは話が別だよ」
「どうしてそう言えるのでしょう? そもそも科学という物の性質は、いかなる物なのですか」
「私は技術屋だよ。鳥が空気を意識しないみたいに、私は科学の性質なんて意識しない」
「性質のわからないものを使っていると。それは非常に危険なのでは」
「問題ないよ。だって幻想郷に流れ着いたものなら、その本性は幻想でしょう」
「つまり、科学もまた幻想であると?」
「そういう一面があるって言う話だよ。そしてその一面だけが、幻想郷に入ってきた」
「ふぅん?」
「たぶん山の上の巫女あたりに見せたら、河童の技術って全然外の世界のそれと違う感じだって言うよ」
「では、貴女たち河童が使っているのは、外の世界では喪われた、いわば科学の夢であると」
「うん。―――プラネタリウムは子供の遊びだって言ったよね」
「ええ」
「それはそうだよ。
私たちにしたってそうだけど、夜空を映し取って再現する技術なんて、何の役にも立たない。
でも、そういう無駄こそ幻想郷の肝心かなめなんじゃない。
本物の夜空じゃなくて、あえて偽者の安っぽい夜空を眺める。
他にも庭にちいさな世界を作ったり、ちいさな盆栽で大樹をあらわしてみたり。
そんなふうに、ちいさな模造品でしか出せない幻想ってあるんじゃない?
そう思ったから、私はプラネタリウムを作ろうと思ったんだ」
ふたたび、静寂が訪れた。
にとりを眺める妖怪達は、一体どんな反応をすればいいのか図りかねている。上手く表せない感情が
群衆の中にうずまいて、それが容易く怒りにも、驚きにも変わってしまいそうだった。
彼らを横目に―――射命丸文は降りてくる。
演説を終えたにとりのすぐ傍に降りると、にっこりとした笑顔を浮かべた。
これににとりは毒気を抜かれた。ついさっきまで論敵であったはずの相手なのに、その表情にはかけらも
敵意はない。そればかりか文は不意ににとりの腕を取り、高々と掲げたのだ。
「え」
「皆さん、お聞きの通りです!」
「ちょっとちょっと」
「―――ともすれば邪悪なものとも思われかねないプラネタリウムには、
科学が秘めた浪漫や夢、あるいは幻想の象徴としての意味があったのです。
その事実は、単に幻想の対立者としてしか理解されない事の多い科学が、
ときにはどんな御伽噺よりも詩情にみちている事を示すものでもあります。
皆さん、思い返しても見てください。
我々は幻想の郷に生きる幻想の民。
ゆえにこそ、幻想という物の素晴らしさを忘れてしまいがちです。
そこでこの河城にとりは、あえて偽者の星空を介することによって、
夜空が秘めた幻想を、我々に教えてくれようとしていた!
さて皆々様。
いずれプラネタリウム完成の暁には、どうかその目で御覧じよっ!
そうして、今ここで、谷河童の河城にとりに、盛大な拍手を!」
割れるような拍手だった。
歓声。
喝采。
それはなんと巧妙であったことか。烏天狗の話術はいつの間にか、物騒な糾弾劇を感動的な物語へと
すり変えていた。いつも文の手口を間近でみている椛でさえ、これには唖然としている。もちろん、
山の妖怪たちがこの手管に気付くわけもない。
誰も彼もが河童の情熱を言祝いでいる。
すすり泣く者さえ、いるほどだ。
『いや素晴らしい話じゃないか!』『あの谷河童が悪者だなんて言ったのはどいつだ!』『私じゃない』
『おれでもないぞ』『そんな奴は居なかったんじゃないか?』『それにしてもプラネタリウムって凄い』
『完成したら万難排して見に行くべきだな』『うんうん!』『谷河童のにとり万歳!』『科学万歳!』
『それにしても、こんなに素晴らしい報道が出来るだなんて、射命丸様はやっぱり凄いお方だ!』
『文々。新聞、私も購読しよっと!』『俺も』『あたくしも』『私も!』『ぼくもだ!』
椛はひっそりとため息をつく。
訳が判っていないのがにとりだ。文に腕をとられたまま目を白黒させて、妖怪たちの変わり身の早さに
まるで付いていけていない様子。それも無理は無いだろう。にとりは文の詐術のまさに渦中にいたのだ。
太陽のように、はるか高みから見下ろしたなら。
魔女法廷から大喝采への変わり身は、それ自体がひとつの喜劇とも映っただろう。けれどもその太陽さえ、
今にも山の涯てへ沈む。そうして夕闇が世界を満たせば、すべては幻想の論理が支配するのだ。
皆が河城にとりへと視線を注ぐ中で。
射命丸文だけが、東の空から淡く浮かんでくる、星の列を見ていた。
7.
「―――まあ、あの子は少し突けば演説してくれると思いましたよ」
岩肌に脚を組んで腰掛け、紫煙をくゆらせる烏天狗のひとことは酷く露悪的だ。
煙管ではない。香霖堂で仕入れた舶来の紙巻である。それを咥える文の姿はいかにも海千山千と言う印象。
面差しは少女そのものであるのに、表情や仕草に皮肉と冷笑の色が見えた。
煙たそうに椛が目を細めたのは、紫煙の匂いのせいだけではない。
「あやや、そんな顔をしないで下さい椛。愛しい部下に嫌われるだなんて、悲しくて死んでしまいますよぅ」
「だったら、このような企みごとはやめて貰えませんか………?」
「どうして? 河城さんのプラネタリウムは良い意味でとても有名になった。
ああ、いや、それとも椛はお友達が良い目を見ていると気分が悪くなるのですか?」
「それにしても、今日のような遣り方は心臓に悪いです」
「心臓に悪い遣り方のほうに正しい道があるのが、妖怪の山の社会と言う物です」
「………ああ、文先輩と話すと、何が正しいのかよく判らなくなってくる」
「うふふ。やはり椛は可愛い。道に迷ったらいらっしゃいな、抱きしめてあげますから」
黄昏を過ぎて、月が中天にかかる時刻である。
二人が話す九天の滝の片隅には、誰も居ない。多くの妖怪にとっては今からがいよいよの活動時間である。
誰かを化かしたり誑かしたり、妖怪の本分を果たす事で忙しいのだ。
先ほどまでにとりの演説に聞き入っていたものたちも、今は自分のことを考えているだろう。
「―――けれど本当の話、私もあの子のことは嫌いではないのですよ」
「先輩………一体にとりをどうするつもりなのです」
「いや好きって言っただけで、何、その反応は」
「自業自得です」
「あはは」
「笑わないでください!」
「まあ、真面目な話」
じゅう、と文は、紙巻を岩肌で押しつぶす。
懐から取り出したブリキの缶に吸殻を放り込むと、急に改まった顔で、椛を見つめた。
「な、なんです急に」
「椛。この幻想の郷はとても不思議な論理でできています。
合理性よりも言葉遊びを重要視する。理屈よりもその場の流れを重要視する。
そのようなあり方が、私たちがいるこの舞台のできばえです」
「―――それはそうでしょう、ここはお伽の国なのですから。
そして私たちはそこの住人なのですから、しきたりの曖昧さを非難してもしょうがないでしょう」
「しかし新聞屋などをやっているとね、椛、そういう舞台のルールにも自覚的にならないといけないのですよ。
貴女がたは頑張って、舞台の上でまっすぐに主役を続けてください。
私はそれを、斜めから眺め続けますよ。
ああ、また一つ星が流れる。
秋の空は綺麗ですね、椛―――」
8.(或る日の文々。新聞の一面より)
『
―――谷河童の河城にとりが作ったプラネタリウムの前に、今夜も大勢の妖怪たちが集う。
九天の滝での《記者会見》以来、多くの妖怪たちに、このプラネタリウムは認知された。
河城にとりは計画当初よりも大きな30人入りの洞を用意したのだが、
それでも初日から観客は満員。長蛇の列は一晩をかけてようやく消化できると言った具合で、
以来この風景は五日を経ても変わることは無い。
二日目からは、待っている客が退屈する事がないように、既に鑑賞を終えた妖怪たちが
この一帯に出店を開くようになった。
人間の夏祭りと似たような軽食のたぐいから、特定の妖怪しか口にしない珍味まで、
ここでは、さまざまな食べ物を味わう事ができる。
一部の例を挙げれば、
《秋穣子の生焼き芋。是非食べていって下さい》
《いやいや秋静葉の紅葉饅頭こそ食べるべき。皆さんよろしくお願いします》
このように、秋の神が自らの特産物を使って
食事を仕立てていることもある。これは足を運ぶに値するご馳走だろう。
(尚、一部ではこの出店は本記者こと射命丸文が組織したものであり、
稼ぎ賃の一部から穏便に上前をハネていると言う噂も立っているようだが、
断じてそんなことはなく、根も葉もない噂であるのでやめてほしい)
また、プラネタリウムに因んだ出し物も開かれるようになった。
実際に模造品の空を鑑賞する前に、星座の元となった神話を何人かの妖怪が演じて、
観客達に星空への愛着を深めてもらおう、と言う企画である。
これが非常にウケている。
その中でも特に人気があるのは、
昨日はじめて上演された英雄ペルセウスの冒険にまつわるエピソードだ。
演者たちは、最初はギリシア風の衣装を考案していたらしいが、
途中から、この国古来の服装と舞台装置で演じたほうが面白いだろう、と言う話になり
一風変わった《和製ギリシア神話》が誕生することとなったと言う。
数名の白狼天狗による迫力の殺陣。
ペルセウス役の犬走椛の凛々しい白拍子姿。
印象的な要素は多々あるが、その中でも一際目を引くのが
アンドロメダ役の河城にとりの可愛らしさである。
はなだ色の本振袖に身を包んだ華やかな姿は、いつもの彼女からは想像も付かないもので、
相手役の犬走椛が、
《こんなに可愛らしいアンドロメダの恋人役を、私などが務めていいのだろうか》
と思わずつぶやき、言われた河城にとりの方が赤面する場面も見られた。
そもそも彼女は大勢の人の前に立つこと自体に慣れていないらしく、
演技にも照れが混じっているが、それが却って無垢なるアンドロメダ姫の印象を強めている。
どこまでも賑やかな河童のプラネタリウム。
あなたも一度、足を運んではどうだろう。(文責・射命丸文)
』
ありがとうございました!
そして雛様ごめん、後書き見るまで完全に忘れてたwww
とても幻想郷らしい、いい雰囲気の作品でした。
椛もにとりもとても可愛らしかったです。
あれも引き返せない程度のロリコンだったから親和性高い
ああ、いいなぁ、この雰囲気!
にとりも椛もかわいかったです。
ラジオや携帯のくだりで、「幻想郷に電波塔があるのか?」
と思ったんですが、そんな物が無くてもなぜか声が聞こえる方が幻想科学的ですね。
二人組みの会話のやり取りが軽妙洒脱で、読んでいて楽しかったです。
言葉では表せませんね。ありきたりの言葉ですが、本当にすばらしい
妖怪の山の妖怪たちの喧騒は平和そのもの。
心安らぐ物語をありがとうございました
こういう、幻想郷が幻想たる理を有している作品は特に評価したいと
私は考えています。
文の思うツボ過ぎるw
キャストも、守矢神社の面々無しでも風神録メンバーの新しい魅力を引き出せていたと思います。
読んでいて時を忘れる、とても素敵なSS体験でした。
信じられないくらい遠くにあるものを、ごくごく近くに映し出してくれるプラネタリウムが素敵です。
良いお話をありがとうございました。
まっすぐな犬属性の椛と可愛い発明家のにとりのコンビが星を探すなんて、とても情緒にあふれたお話でした。
清く正しく口八丁の文が格好いい。
そして何より、秋姉妹の掛け合いが楽しかった。素敵な秋姉妹でした。
また秋に読みに来ます。
どの会話も惚れ惚れするような内容で脱帽ものです。