―序―「猫死んじゃった」
未来が予知できる。そうはっきりと自覚したのはいつのことだったか。
俺たちを捨てた飼い主の末路を『見た』ときか、母が死んだときか、はたまた町のボスとやりあったときか。それはわからない。
ただ、母が死んだときも、近隣のボスになったときも。
それらの光景がどこか他人事のように思えてならなかった。
―――――あぁ、これか。
そんな感情しか抱けなかった。
そのせいか、よく「クールだぜボス」とか言われたが、そんなことはない。
ぽかぽかの太陽の下で昼寝をしていたとき、母が足蹴にされるビジョンを『見て』、その日はマザコンよろしく後について回ったし、商店街の店から秋刀魚を盗んで逃げているとき、ボスになるビジョンを『見て』、よくつるんでいたやつに自慢したら馬鹿にされた。
実際に体験したときには既に感情を示す期間が過ぎている。それだけのことなんだ。
だから、でかい図体の人間に蹴飛ばされたときも、蹴飛ばされた先が車道だったとしても。
―――――あぁ、これか。
と、思っただけだった。
車体にぶつかり、身体が宙に浮く。目に飛び込んでくるのは澄み切った青空。
未来、予知。
予知する未来が自分のものなのか、自分以外の誰かのものなのか、それすらもコントロールできず、知らされる未来は確定したもの。月並みにいってしまえば運命と呼ばれる、どんなに足掻いたって揺るがない確定した未来。
それは母のときに嫌というほど思い知らされた。
―――――映る青空が端から白に塗りつぶされていく。
それを怨んだことはない。それに感謝したこともない。この世に生まれ出でてから、ずっと付き合ってきたものだったから。
―――――そして、全てが白く染まる。
―1―「少女」
「―――――こさん」
黒く広がる闇にあどけない声が響く。
「ねこさん。ねこさん」
声に呼応するようにして、身体を揺すられた。
「ねこさん。ねこさん。……ねこさん!」
だんだんと、揺する力は強くなった。
「ねこねこねこねこねこねこねこぬこねこねこさん!」
暴力的ともいえる力が四肢を振り回す。
『千切れる!千切れてしまう!』
実際は「ミギャー」とくぐもった鳴き声を上げただけだ。
「わ。ねこさん起きた」
『くそ、なんだっていうんだ。俺の四肢に何の恨みが……』
実際は「ニャー……」とアンニュイな鳴き声を上げただけである。
それにしたって、最悪の目覚め。
ここ数年、ボスである自分の眠りを邪魔する者はいなかったし、ましてやこんな乱暴な起こされ方はいつ以来だろう。
「にゃー」
『あん?』
実際は(略
「にゃにゃーん、にゃにゃにゃ?」
どう?と小首をかしげて、少女がこちらを覗き込んだ。
『……』
「やっぱ、わかんないか……」
残念そうに言う。どうやら、俺と言葉を交わしたいようだ。人間の言語がわからなくとも、言動から理解できた。
「……えい!」
『?』
「ちちんぷいぷい!ひらけごま!あぶらかたぶら!」
「……。……大丈夫か?主に頭とか?」
必死に訴えかけるその姿に思わず正気を疑った。
平たく言ってしまえば、こう思ったというべきか。あっちゃー痛い子やわー。
「わ。ねこさんねこさん!私の言葉分かる?」
「は?」
言われて初めて気づいた。少女の言葉が、人間の言葉が理解できる。
「な、なんだ?どうして?」
「すごいでしょー。私がやったんだよ」
自分の口からはさきほどと変わらず猫の鳴き声しか出ていないのに、どうやら少女もこちらの言葉も理解しているようだ。
「私がやったって……どうやって?」
「簡単だよー。ちょっと弄くるだけなの」
「……なにを?」
「私とねこさんのね、そうだなー、ここんとこをねー、ちょいちょいと」
「……分かった。わけわかんねーってことは分かった」
「そう、よかった」
皮肉に素直な返答を寄越して、少女は無邪気に微笑んだ。
「……なぁ、ところでここはど……こ……」
目の前にうっそうと木々が茂る森が広がっている。その先でまるで線で区切られた様に急に森が途切れ、何処か鉄筋コンクリートの建物内へ通じている。さらにその先にある扉の向こうには、波が打ち寄せる砂浜と太陽が見えた。後方には舗装された道路。から伸びた川。から伸びた―――――。
「ここ?ここはね」
「『境界の狭間』、……だよ」
驚いた顔が面白かったのか、そういってまた透き通った笑みを浮かべた。
少女は紫(ゆかり)と名乗り、それからここについて拙い言葉で語った。
境界の狭間。いくつも在る世界のどれでもない場所。それでいてどれでもある場所。馬鹿げた話だが、見渡す限りの異様な景色を目の前にしては、全てを否定する材料はない。
ときどき、『世界の揺らぎ』に巻き込まれ、ここに迷い込む者たちがいるらしい。どうやら、俺もその『世界の揺らぎ』とやらに巻き込まれたようだった。
「猫踏んじゃったー♪猫踏んじゃったー♪」
「……不吉な歌はやめろ!」
「でも、これしか知らないもん」
「……せめて鼻歌にしてくれ」
まるで刃物を鼻先に突きつけられている気分だ。踏んじゃった♪てへ♪とか可愛く言われたところで物騒なことには変わりない。というか、そもそも踏むんじゃない。
「―――――♪」
同じメロディーが鼻歌に乗る。人間はこんな動物虐待ソングを作ってどうするつもりなのだろうか。ほんとに人間ってやつは。ああすいません歌わないでください。
「猫死んじゃったー♪猫死んじゃったー♪」
「シャー!」
「わ!……な、なにー?」
「……ところで、どれくらいかかるんだ?」
ここに迷い込んだとしても、それぞれの世界の『境界』にたどり着ければ、元の世界に帰ることが出来ると紫は言った。案内してくれるというので、今は先導する紫に俺がついていく形だ。
「んー、……お昼寝15回分くらい?」
「……しないとだめなのか?するにしたってもうちょっと回数をだな……」
「だって疲れちゃうよ?」
「……まぁ、いい」
このときはまだ、その言葉の意味するところをちゃんと理解できていなかった。
俺は気は長いほうだと思う。だが、そんな俺でも、緑の濃い森を抜けて、誰も住んでいない民家の中を突っ切り、舗装されていない畦道を歩き続け、不揃いな石畳を数えつつ進み、―――――、今にも倒壊しそうな廃墟の階段を上っていれば、
「……」
文句の一つでも言いたくなる。
「おい、いつまで歩く気だ。日が暮れちまうぞ?」
「暮れないよ?」
「は?」
「だから、暮れないの。ここはずーっとお日様が出てるんだよ。外の世界みたいに夜はないの」
「じゃあ、……昼寝ってのは」
「うん。外で言えば、夜に寝るのといっしょだよ。歩いてばかりじゃ疲れるし」
「……ってことは15回分って15日ってことじゃねえか!おいおいおい、かかり過ぎだろ。もっとこう近道とかないのか?」
紫は金属質の階段をカンカンカンッと音を鳴らして上り、踊り場で髪を揺らして振り返る。「んー」と少し唸ってから、
「ねね。ねこさんはどうしてそんなに早く帰りたいの?」
そんな質問を俺にした。
「あん?……別に……理由なんてない」
「理由もないのに帰りたいの?」
「……」
帰りたい理由。改めて訊かれるとそれはうまく表現できない。生まれ育った町に愛着ぐらいはあるが、裏を返せば嫌な思い出もたくさんある。ボスと言ったって、特権は安心して昼寝が出来るくらいのもので、普段は面倒事を次々に片付けていかねばならない、それはそれは割に合わない身の上なのである。
「ねこさんはほんとに帰りたいの?」
「……どうして、そんなことを訊く?」
「あのね、ねこさんがもし良かったらなんだけど」
その時の紫はここまでの天真爛漫な印象とは違い、どこかしおらしく、何かをためらうようだった。
「……ずっーと、ここにいない?」
「……は?」
「だから、ここに、『境界の狭間』にずっーといるの。ねこさんが」
「……」
「だめ?」と、向けられる眼差し。確かに帰りたい理由も曖昧だし、こんな潤んだ瞳で見つめられていると、思わずうなずいてしまいそうにはなる。
「…………だめだ」
が。仮に。仮にだ。知り合いの猫たちや舎弟たちがもしも。急に消えた自分のことを気がかりに思っていたりしたら。……まぁ、そうだったらしょうがないので帰るのもやぶさかではないと。そう思うのだ。
「……そっか、だめかぁ。……そっか」
呟いた紫の声が震えていた。その顔は俯いていて見えない。
「な……おい。どうして、お前……」
「……ね。少し疲れちゃった。お昼寝しよう?」
そう言って、こちらの答えも聞かずに朽ちかけた一室へ足早に消えた。
「おい、待てよ!」
追いかけて足を踏み入れた部屋の隅、どこから取り出したのか、ハート型のファンシーな枕(Y、E、Sと大きく文字がプリントされている)に頭を預け、こちらに顔が見えないように、壁側を向き横になっている紫。完全に不貞寝体制である。
「……そ、その枕は……?」
「おば……おねーさんにもらった」
「そういうことじゃあ、……なくてだな……」
おねーさんとは誰なのか、どうしてそこにあるのか、というか、なんで泣いているのか、そんな質問が口をついで出そうになる。が、とてもそんな雰囲気じゃない。薄暗い廃墟に沈黙が降り、静寂が降り。
ある意味、昼寝をするにはちょうどいい塩梅だ。
「……はぁ」
ため息を一つつく。いちいち子どもの訳の分からない癇癪に付き合っていられないし、正直にいえば、疲労はあった。身体を休めることに異論はない。
「……」
沈黙を守る紫の側の壁際で丸くなり、瞼を落とす。すぐにでも寝れそうな気がした。
「……ぐすっ」
「……」
言っておこう。俺は舎弟が非常に多い。それも、若い衆ばかりが。理由も多分だが、分かっている。
「……なぁ」
「……なに、ねこさん?」
「その……なんだ」
「……?」
「……ずっとはいられないが……ここにいる間は、……よろしくな」
紫が寝返りを打ってこちらを向いたのが物音と気配で分かった。
「うん!よろしくね、ねこさん!」
瞼を開けなくても判る。これ以上ないくらい声が弾んでいた。
そう、俺はガキに甘いのだ。
―2―「おば……おねーさん」
やれることは全てやったはずだった。駄々をこねて外出をやめさせようとしたり、ひと気の少ないルートを選んでみたり。最後には母さんに全部話してみたけど、母さんは寂しそうに笑うだけだった。
要するに、ボクは「運命」ってやつには到底敵いやしなかったのだ。
『あぁ、ぼうや。怪我はないかい』
母さんは茶色い靴型の付いた顔で、ボクを心配してくれる。
『……うん』
『そう、よかった。すごいねえ。全部、ぼうやの言うとおりだったね』
『……うん』
母さんはいつもそうやってボクのこの不思議な力を褒めてくれた。だけど、このときは全然嬉しくなかった。
『ねえ、ぼうや』
―――――あぁ。
母さんの傷ついた身体から生気が失われていく。一度『見て』しまってから、幾度となく悪夢として現れたその光景。
そうだ、何度も見てきた。
『その力は、きっとあなたを幸せにはしてくれないでしょう』
だから、
『でも、きっとだれかを幸せにするときが来るから。そのための力なんだって、そう思いなさい』
だから、悲しくなんて、ないんだ。
紫との旅を始め、数えて四度目起床時。
「……」
起き抜けの顔を誰かが覗きこんでいる。徐々に活動を始める頭でその正体を考えていた。
「お目覚めかしら?」
「……誰だ、あんた」
真っ先に思い当たったのは紫だったが、紫はこんな人を揶揄するような、そうやってからかうのを心底楽しむような表情はしないだろう。
だとすれば、目の前の人物は誰なのか。
「生憎、名乗れないの」
「名乗れない?どうして?」
「乙女の秘密」
「乙女という年には見えないんだが……」
「あら、失礼ね」
広げた扇子で口元を隠し、すこし眉を吊り上げた。しゃがみこんでいた体勢から優雅な動作で立ち上がり、俺と一歩分距離をとる。
紫を乙女とするならば、この女は貴婦人といったところか。言動の一つ一つが気品を感じさせ、どこか大人の余裕というものがそこにはあった。
「紫の知り合いか?」
「そうね。あの子のことはよく知っているわ。あの子は私のこと、詳しくは知らないでしょうけど」
「妙な言い方をするんだな。ところで紫は?」
「散歩よ。……あぁ、あなたの目の前、ともいえるかしら」
「はぁ?からかってるのか?いい加減にしてくれよおば……」
いつの間にか、畳まれた扇子の切っ先が喉元へ突きつけられている。
「仏の顔も三度まで」
「……まだ二度目だぞ」
「なら、一度まで」
「なんでもありか!」
「女性に歳の話はタブー。そして、今、貴方が発しようとした言葉は禁忌中の禁忌。略してキンキンね。」
「……」
思わず、なーるほど!ザ・ワールド!なんて納得しそうに……はならない。
「いずれにせよ。次はないわ」
「……言ったらどうなる?」
「喉元と頭の頂点のところを同時に掻いて、快楽地獄に突き落として上げましょう」
「……善処しよう」
根性なしだとは思わないでほしい。あれをやられて醜態を晒さない猫なんていないのだ。
「おば……おねーさーん!」
早くもキンキンを犯しそうに(酷い字面だ。)なりつつ、紫が戻ってきた。
「できたよ!」
「あら、思ったより早かったわね」
「うん。頑張った」
そういって紫はその女に何かを手渡す。
「「……」」
それは人の形を簡易的に模した、いわゆるダミー人形といわれる類のものだった。
いや、訂正しよう。それはダミー人形っぽいものだった。
さて、なぜ『っぽいもの』なのか。
「……おい、それ……」
「えぇ。分かっているわ」
「……?」
渋い顔をする俺と女。それを見て不思議そうにしている紫。
その人形には、首があって、腕があって、足があった。
問題はそれらが『全て同じところから生えて』いることだ。
「なんというか・・・前衛的だな」
「ぜんえいてき?すごいってこと?」
「そうだな。ある意味すげえってことだな」
「やった。褒められた」
えへへ、と喜ぶ紫を横目に、俺は女に問う。
「……なぁ、もしかして」
「貴方が考えているとおりよ。この子にはこの人形の修繕を頼んだの」
「……そりゃあ、なんというか……災難だったな」
誠に残念な姿になって帰ってきた人形に、女の反応が薄かった。
嵐の前の静けさか、と思いきや、女は意外な言葉を発する。
「……えぇ、とても懐かしいわ」
「懐かしい?」
「……そう。懐かしい」
そういって、人形を廃墟に差し込む光に照らし、目を細める。その表情からは感情は読み取れなかったが、敢えて当てはめるなら、自ら言った『懐かしい』という言葉がもっとも適していたように思う。
「……」
女が歪な人形の前で扇子をゆっくりと開いていく。開かれたその陰に人形が隠れた。
「……。紫」
「なにー?おねーさん?」
一拍おいて再び姿を現した人形は、五体満足、本来あるべき姿になっていた。
「補習を……始めましょう」
紫には『境界を操る』能力がある、と女は言った。自身も同じ能力があるとも。
だが、紫の力はまだ不安定なもので、むやみやたらと使えるものではない。だから、たまにその能力について教鞭を取りにくるらしい。
「事象には在るべき姿があるわ。例えば、炎は熱いだとか、氷は冷たいだとか。あの人形にしたってそう。分かる?」
「人形さんは人形さんの形があるってこと?」
「そう。分かっているのね。では、何故あんなことをしたの?」
『境界を操る』という力がどういうものかは分からない。具体的に何が出来るのか、という質問に女は例の戯れを含む表情で、『なんでも』と言い放った。自分にも不思議な力がある以上、ある程度は許容するつもりだが、冗談だろう。
「いんすぴれーしょんが、こう、ピキーンと」
こんなことを自信満々に言ってのける目の前の幼い少女に、そんな大それたものが備わっているなんて信じられるはずもない。
「インスピレーション、ねえ……。芸を嗜んでいるのだったら、そういうこともあるでしょう。だけど、人形の修繕はあくまで訓練。遊びではないのよ?」
「でも、おば……おねーさん。今日のはちょっと難しすぎるよ。人形さん、バラバラでわけわからんちんだったよ?」
「かの有名なナイフ使いは、すれ違いざまに対象を十七個の肉塊に変えたというわ。今回はそれに習ってみたのよ」
「わー、すごいね。前衛的だね」
「……それ、褒め言葉じゃないからな」
やっぱり信じられたものじゃない。ただでさえ、このつかみどころのない女の言うことはどこまでが本気で、どこまでがふざけているのか、分かりかねるものなのだ。
「また別の機会に、同様の人形を持ってくることにするわ。そのときはしっかりやりなさい」
「はーい」
「今日はこれくらいかしら。……さようなら。紫」
「うん。バイバイ、おねーさん」
そのまま部屋を出て行こうとした女が、ふと思い出したかのように踵を返す。俺の前まで来て、何をするのかと思いきや、そのしなやかな細い指でそっと俺の頭を撫でながら、
「……ねこさん、ありがとう。」
と囁いて、今度こそ部屋の外へと足を向けた。
「お、おう。」
何に対する感謝なのか、それすらわからずに俺が生返事を返したのは、女が部屋から姿を消す直前だった。
「……、あ。おい、ちょっと待ってくれ」
だから、まだ訊くことがあったのを忘れていた。女を追いかけて部屋を出る。
「……?……いない?」
だが女の姿はどこにも見当たらない。すぐに追いかけたはずなのに、だ。
「おねーさんはしんしゅつきぼつだから、むだだよー。ちょっと目を離しただけでいなくなったりもするんだから」
「……なんでおまえが得意気なんだよ」
これも能力とやらなのだろうか。代わりにえっへんと胸を張る紫に質問することにした。
「帰るたって、あの女はどこへ帰るんだ?」
「……んー?……前に一回だけ聞いたことがあるけど、乙女の秘密だっていってたよ?」
「……あいつはおまえにもそんなこといってるのか」
「だめだよ、ねこさん。おば……おねーさん、そこんとこいうとすっごーく怒るんだから」
「……おまえももう少し気をつけような」
『あの子は私のこと、詳しくは知らないでしょうけど』なんて言っていたが、実際は自分が教えないようにしているじゃないか。ますますわからない女である。
「……いつからの知り合いなんだ?」
「ずっとだよ」
「ずっと?」
「うん。わたしが『始まった』ときからずっと。……一人で寂しくて泣いていたら、おねーさんが来てくれたんだよ」
紫は『生まれた』ではなく、『始まった』といった。
その言葉で、頭の片隅に生まれ始めていた憶測が確実なものとなる。
「……寂しかったら、ここからどこの世界でも行けばいいだろ」
「……力をうまく使えるようになるまで、無理なんだって。『世界は異物を拒む』から、ここで『始まった』わたしはどの世界からも拒絶される。……おねーさんが言ってた」
「……」
「……今は……寂しくないのか?」
『境界の狭間』という、この場所で生きる少女―――紫は、人間ではない。
「寂しくなんかないよ。おねーさんがいるし。ここに迷い込んでくる人たちもいるし」
少女の顔を見ていられず、寝床にしていた部屋の隅へと戻る動作で目を逸らす。
「それに、」
それは俺が最初、『無邪気』と評した笑顔ではあったが、
「今はねこさんがいるしね」
今の俺には、その孤独に耐えながらも、ひとりなんかじゃないのだと、寂しくなんかないのだと。そう自分に言い聞かせているようにしか見えなかったのだ。
―3―「ペドフィリアとバケモノ」
今更ながら、紫はとても魅力的である。
その姿と前にすると、俺はある衝動を堪えなければならないくらいだ。
「ねこふんじゃったー♪ねこふんじゃったー♪」
お転婆ともいえる振る舞いで揺れる、ふわふわと柔らかそうな金髪。身に着けたワンピースにあしらわれたフリルさえ、蠱惑的といえるまでに俺を誘う。
その姿を前にすると俺は、俺の前足は。
どうしても光って唸りそうになるのだった。
「……?どうしたの?ねこさん」
「……」
やっちまえよ。ほら、ふりふりと誘いやがって。思うままに蹂躙しちまおうぜ。と、俺のシャイニングなレッグが輝き叫んでいる。
「変なねこさん」
「……うるせー」
遥か昔の祖先から伝わるその猫としての本能は甘美なものではあるが、それを受け入れた場合の、ゴロニャー(はぁと)、なんて声を上げる自分を想像するだけで悪寒が走る。
「おい、歌。どうにかならないのか」
「あれ、声に出てた?」
「あぁ、ばっちりな」
「でもー。……気持ちよくなるとどうしても」
「今度、あの女にでも他の歌を教えてもらったらどうだ?」
「それはだめだったよ。あのね、ねこさんが嫌がるから他のお歌教えてっていったらね、『そうなの。それは面白いわね』って全然教えてくれなかったもん」
あの実に楽しそうな女の笑みが頭に浮かんだ。
あれから何度か紫に会いに来ては、暇な時間や帰り際に俺のことをからかっていく。未だに女の詳しいことはわからない。わかることといえば、そう、性格は悪い。
「あのアマ……。そもそもその歌は誰に?」
「おねーさん。おねーさんの思い出のお歌なんだって」
「思い出の歌ぁ?なんだってんだよ。猫に何か恨みでもあるってか」
思い出の歌といえば、もっとこう親しみやすくて温かいものではないだろうか。やはり、あの女はどうにもわからない。わかることいえば、そう、性格は悪い。
「んー、そうかなあ。おねーさん、ねこさんの事好きだと思うけどなー」
「……はぁ?」
紫があまりに意外なことを口走ったので、足を止め、素っ頓狂な声を上げてしまった。
「はぁー……。あのな、あれのどこが好きだってんだよ。暇さえあれば俺のこと振り回しやがって。挙句の果てには歌の中でさえ、猫を痛めつけてるんだ。『猫で遊ぶ』のが好きの間違いじゃないか?」
「そもそもそうやって、ねこさんとお話してるのが特別なの」
「……どういうことだ?」
「おねーさんはね、普通、自分から話しかけない限り『気づかれない』んだよ。わたしとおねーさんが話していても、他の人は『気づかない』。わたしにはできないけど、おねーさんは力を使ってそういう風にしてるっていってた」
「……だけどよ、おまえらふつーに話してたじゃねえか」
「うん。だから、特別。おねーさん、ねこさんにはその力を使ってないみたいなの。今まで、いろんな人が迷い込んできたけど、こんなことは初めてなんだよ?」
女について、性格が悪い意外に興味深いことがわかった。しかし、意図するところはわからない。
「……ただの動物好きなんじゃねえか?」
「わ。そうかも。動物さんはねこさんが初めてだもん」
思い出の歌とやらが関係しているのだろうか。今度詳しく聞いてみようと思う。煙に巻かれるだけかもしれないが。
「……ぁ。ねこさん!『繋ぎ目』が見えたよ!」
「ようやくか。……ったく、今回は特に長かったな」
地平線の見える大平原に最初は感嘆さえ覚えたが、歩き出してからは恨み言ばかり口をついて出た。歩けど歩けど同じ景色。紫は気持ちよさそうに鼻歌を奏で、俺はただ黙々とその後をついていき、鼻歌がただの歌に切り替わったところで突っ込みをいれる。その時間が延々と繰り返されて今に至る。
「なぁ、あれを超えたら、一旦休憩しないか?」
「うん。わたしも疲れちゃった。お日様が避けれる場所があったらいいな。しがいせんはおはだのたいてきだもん」
「……ガキがいっちょまえに何言ってんだ」
「ガキじゃないもん。……あれ?」
紫が何かに気づいたように立ち止まる。見れば、次のエリアとの『継ぎ目』の近く、とぼとぼと歩く人影があった。
「俺のお仲間か?」
「そーみたい。おーい!!」
ぶんぶん、と腕を大きく振ってアピールすると、こちらに気づいたのか、人影が焦った様子でこちらへ駆けてくる。
短髪の黒髪、人当たりの良さそうな中年男性だった。特徴のない作業服を着ている。
男は俺たちのもとまで全力で駆けて来たからか、肩で息をしていたが、やがて口を開いた。
「―――――!」
「あ?」
男の言葉を理解できなかった。早口だったからとかではなく、紫の言葉が最初わからなかったのと同じように。
「わたしはちがうよ。ねこさんはそうだけど」
「――――」
「わたしは案内人みたいなものかな?おじさん、帰りたいんだったら連れてってあげようか?」
「―――――!」
「えへへ、天使みたいだなんて」
男の言葉だけが理解できず、男と会話している紫の言葉だけが頭に入ってくる。
忘れていた。紫と話すことができたのは紫の力によるものだった。
「なぁ、俺もそのおっさんの言葉がわかるようにできないか?」
「ん?んー……、迷子さん同士をお話させるのはだめだっておねーさんが」
「そうなのか?……面倒だな」
そんな俺たちのやりとりを男が怪訝そうに見つめていた。
「―――――」
「そうだよ。でね、ねこさんがおじさんと話したいって」
「……。―――」
「嘘じゃないもん。ねぇ、ねこさん?」
「あぁ。といっても通じないんだろ?」
「……、―――――」
すこしの逡巡のあと、男は頬を緩め、紫の頭をくしゃくしゃと撫でた。
HAHAHAお嬢ちゃんはかわいいな!と、こんな感じだろうか。
「……」
そのとき、不意に男に違和感を覚えた。
正確には男の瞳に。表情こそ笑顔ではあるがその瞳は―――――。
ともあれ、紫は軽くあしらわれたことにご立腹なご様子である。
「だからぁ!嘘じゃないの!」
「―――――」
いつの間にか、男の表情は自然なものへと変わっている。その眼差しも。俺が感じたあの違和感は気のせいだったのだろうか。
「おじさん、信じてないでしょ!」
「―――――」
男と紫の微笑ましいともいえるやり取りは続いている。
どうやら、男は運が良かったようである。男の世界の『境界』は俺たちと出会った場所からほとんど離れていなかったのだ。
大平原を越えて俺たちが足を踏み入れた無人の街にその『境界』はあるらしい。
「そういや、なんで『境界』の場所がわかるんだ?」
「ねこさんとかおじさんとかのこと見た時、ピィンって閃くの。女の勘ってやつ?」
「……ぜってぇちげえ」
俺たちが適当な民家で休憩することを告げると、男は町並みを見てくると言って(そう言ったらしい)出て行った。
これは俺が初めて無人の村に入ったときと同じ症状だ。原因は村や町の風景にある。
その風景はまったく荒廃した様子がない。だれもいないのに、だ。
無人の村で言えば、手入れの行き届いた田や畑。今いるこの町で言えば清掃されたゴミ捨て場やペンキ塗りたてという張り紙。
それらは錯覚させるのだ。ここには人がいるのではないか、と。
だが、実際に探してみても人っ子一人、猫一匹いやしない。当たり前のことだが、改めてそのことを痛感させられる。
「ねこさんねこさん」
「ん、なんだ?」
「おやすみなさい」
「……あぁ、おやすみ」
寂しいか、という問いをこの少女は否定した。
そんなわけはないのに。その幼い心が悲鳴をあげていないはずはないのに。
紫はきっとあの『無邪気な』笑顔で自分さえ騙すのだろう。
「……」
「……すー……すー……むにゃむにゃ」
ここに来てからはまだ一度も『見て』いないが、もし俺が紫の未来を『見て』しまったら。
その中でさえ、紫があの『無邪気な』笑顔をしていたら。
俺は、何をしてやれるのだろうか。
伝わる心地よい温もりに、頭を撫でる優しい感触に、微かに意識が覚醒した。
「―――――♪」
鼻歌が耳に入る。紫がいつも口ずさむあの歌だ。
そして、どうやら俺は誰かの膝の上に寝ているらしい。
「……紫か?」
「―――――♪」
膝の主は答えず、鼻歌を続ける。その間も絶えず頭を撫でるので、完全に去っていなかった睡魔がまた意識を奪い始めた。
俺の意識が途切れる直前に、
「貴方に、元気な貴方に言えるのはこれが最期だから」
その心地よい温もりの誰かが、
「……ねこさん、ありがとう」
そう、言った気がした。
再度目を覚ましたとき、俺は床に寝ていたので、先ほどのことが実際にあったことなのか、判別はつかない。
ただ、温もりの中、囁いた声音が震えていたのが妙に記憶に焼きついている。
「……」
そのまま、ぼーっとしていると、足音が聞こえてきた。きっと、あの男のものだ。
町が無人であったことに絶望しているであろう男を、同じ病気を患った仲間として慰めてやらねばならない。男には、にゃーとしか聞こえないかもしれないが。
ばたん!と乱暴に玄関を開く大きな音がした。ドスドスドスと立てる足音も荒い。
なにか、嫌な予感がした。
念のため、紫を起こすか迷っている間に、男の足音は俺たちの寝ている居間へと近づく。
現れた男は別人とさえとれた。目を血走らせ、顔全体は強張り、口からはヒュー、ヒューと断続的に荒い息を吐いている。
男は首を回し、まず床で寝ている俺を見つけ、それからソファーで寝ている紫を見つけ、
―――――下卑た笑みを浮かべた。
男が荒い足取りで紫に近づき手を伸ばす。その手にとっさに噛み付いた。
「―――――!」
男が怒声を上げて腕を振り回す。その動作で居間の中心に置かれた小さなテーブルは吹き飛び、俺はかかる負荷に耐え切れず、床に思い切り叩きつけられた。衝撃に体のあちこちで嫌な音がした。
「―――――!」
痛みに顔をしかめながら見上げれば、振り上げられた足ごしに男と目が合った。
この目だ。紫に一瞬だけ向けられたことのあるこの眼差し。やはり、見間違いではなかった。そうだ、この目は、猫が鼠を追うときにするときの、―――捕食者の目だ。
男は町に人がいるかどうか探しに行ったわけじゃない。
『本当に人がいないかどうか』を確認しにいったのだ。
「がっ!……ゴホッ!……おぇ」
腹の辺りを思い切り踏みつけられた。内臓が潰れたのだろうか。口には血が滲む。
「―――――!」
間髪入れずに振り上げられる足。あの一撃をもらえば、俺に命はないだろう。避けようにも、もはや身体には力が入らない。
男は俺を殺したあと、紫を弄ぶだろう。男がしているのはそういう目だ。
「……ははは」
乾いた笑いしか出てこない。
どうなってるんだ。意味がわからない。
「……なんで、だよ。……どうして」
どうして、これ以上、紫が苦しまなきゃならない。
「……くそっ!」
どうして、孤独の痛みに苦しみながらも、健気に笑うあの少女が苦しまなきゃならない。
誰だっていい。答えてみやがれ。納得のいく説明を俺にしてみろ。紫があの『無邪気な』笑みをしなければいけない理由を。
「答えろよ!くそっ!くそっ!くそぉぉぉぉぉ!!」
「―――――!」
死が迫る。俺を血走った目で見下ろす男の足が、―――――落下した。
「―――――!」
男がバランスを取れなくなり、尻餅をつく。何が起きたのか判断の付かない様子でぽかんとしている。
「ねこさんいじめちゃ駄目ぇ―!」
いつの間にか起きていた紫が叫ぶ。
男の足は文字通り『落下』していた。付け根から先が、マネキンの片足のように、出血もなく床に転がっている。
「どーして、ねこさんいじめるの!かわいそうだよ!ねえ、どーして!」
「……っ、―――――?」
男が我に帰り、何事か紫に尋ねた。
「そーだよ。でも、おじさんが悪いんだからね!足ならすぐに『直せる』し」
男は驚愕の後、がくがくと身体を震わせ始めた。怯えているのだ。
「……おじさん、どうしたの?痛くないでしょ?」
紫はこの狂気の中、いつもと変わらない。男が何故怯えだしたのかわからず、きょとんとしている。
「―――――!」
「っ!……ち、違うもん!」
男が突然喚きだした。それを聞いて、紫が悲痛な表情になる。
「―――――!―――――!」
「違うもん!わたし、違うもん!そんなんじゃないもん!」
ついには、男は両手で片足と身体を引きずり、床を這って逃げようとする。男の喚き声と紫の沈痛な悲鳴は止まない。
「―――――!―――――!」
「違う!違う違う違う!わたしは!」
そのとき、空間がざわついた。紙に真っ直ぐ線を引くように、中空にすーっと切れ目が入っていく。
「―――――!……―?」
必死に、少しでも紫から遠ざかろうとする中で漏らした間抜けな呻きごと、
「わたしは!違う!わたしは!―――――バケモノなんかじゃない!!」
―――――裂け目が男を飲み込んだ。
「……」
「……」
紫は部屋の隅で足を抱えて黙っている。俺はその隣で痛みを我慢しながら身体を丸めている。
紫の『応急処置』のおかげで、瀕死だった俺は一命を取り留めた。残りの傷は紫には細かくて弄ることができないらしい。何日か療養するか、運よくあの女が現れれば、俺は全快となるだろう。
「……なぁ」「……ねこさん」
声が重なった。顔を上げた紫と目が合う。
「……ふふふ」
「な、なんだよ」
「ううん、なんでもないよ」
何故だか、笑われた。なんだか、馬鹿にされた気もするが、空気を変えることができたのはよしとしよう。
「……ねこさん、聞いてくれる?」
「……あぁ」
それから、紫は語りだした。自分が人間ではないこと。先ほどの裂け目について。あの男のように突然、自分から逃げだす人がいること。その理由がわからないこと。そのときに浴びせられる言葉がとても痛いこと。
「……どうしてなのかなぁ」
「……」
紫は、孤独だ。そして、紫の力はさらに紫を孤独にする。
就寝前の考え事を思い出した。
俺は紫に何をしてやれるのだろうか。
「……なぁ」
「……なに?ねこさん」
「……寂しいか?」
敢えて、もう一度、同じことを問う。きっと、紫の答えは決まっている。
「……」
紫は抱えた足に顔を伏せている。どちらも口を開かず、幾ばくか静かな時間が流れた。
「……寂しくなんて、……ない」
「……そっか」
やはり、答えは変わらない。
あんなことの直後だって、紫の答えは変わらない。
「……よし!決めた!」
紫。おまえがそんなに気丈なら。俺は。
「……ねこさん?」
俺は、ガキには甘いから。だから、こんな寂しいの一言さえ言えない馬鹿みたいなやつを。
放っておけるわけが、ないんだ。
「俺は……ずっとここにいる!!」
お前を一人にしたら、またお前は笑うんだろ?寂しくないって。
だったら、俺はお前が素直になるまで、白状するまで。
「ここに、『境界の狭間』に、……ずっと、いてやる!!」
「……」
「……」
「……おーい、なんか言えよ?」
「……」
次の瞬間、ぐわっ!と急に伸びた腕に思い切り抱きしめられた。傷だらけの身体を鈍い痛みが走る。
「いてえいてえいてえ!いてえって!!」
「ぅぅうっぅぅぅぅぅぅぅ!!」
「……ったく」
遠慮なしに加えられる痛みと。
顔が押し付けられたところが濡れる感触と。
呻くようにして漏らされる嗚咽。
それらが全部、温かいもののように感じ、なんだか誇らしかった。
―4―「二回だけ死んだ猫」
いくら休んだって俺の怪我が完治することはなく、そのうち、立つことさえできなくなった。
「……ねこさん」
「……ばーか……なんで、おまえが……死にそうな面してんだよ」
悪態をつく間も体中を駆け巡る激痛は引かない。だからといって、痛みを訴えるわけにもいかない。少しでも痛みを口に出すと、この馬鹿は自分が痛いわけでもないのにこちらが見るのさえつらい顔をするからだ。
「……わたし、おねーさん探してくる!」
「……神出鬼没……なんだろ……そー、簡単に……聞いてねぇし」
紫が慌しく民家を出て行った。ここ何日もこんな調子だ。起きて、俺の顔を見てバタバタと出かけていくが、結局見つからずにとぼとぼと帰ってくる。
「……っ!……うっ!……」
正直なところ、紫の目がなくなることはありがたい。我慢するのにも限界がある。こんな痛みは今まで生きてきて初めてだ。全身を引き裂くような痛みが常にあり、間隔をあけてさらに大きな痛みがやってくる。その大きな痛みは俺の心さえもすり減らしていった。
「……へっ……かっこわりー。……あんな大見得切っといてよぉ……いきなりこれだもんな」
「そんなこと……ないわ」
「……ははっ……ほんとに神出鬼没だな」
突然現れた女に驚く余裕さえない。俺はそこまで消耗していた。
「……」
俺を見下ろす女にいつもの笑みがない。それだけでわかってしまった。
「……無理、……なのか?」
「……ごめんなさい」
女にも、俺を『直す』ことはできないらしい。目の前が暗くなる。
「ごめん、なさい」
「……あんたが謝ることはないだろ」
「……私の責任だから」
「ちげーよ。全部あの糞野郎がやったことだ」
「……いいえ。これは全て、私のエゴが招いた結果。だから……ごめんなさい」
そういって深く頭を下げた。女の言う事は要領を得ない。どう考えても、紫を襲おうとしたあの男が悪いのだ。
「……いつもわけわかんねえな、あんたは。……会うたびにお礼言ってくるし」
「……貴方は私にそれだけのことをした。……だから、当然よ」
「……覚えがねーよ。……まぁ、……ごめんなさい、よりは……ありがとう、のがいいな」
「……」
女は下げ続けていた頭を上げて、静かに俺を見る。少しあと、膝を折り、俺の軋む身体を優しく撫で始めた。
「……ねこさん……今の私があるのは貴方のお陰よ。貴方がいなかったら、私は寂しくて、寂しくて、きっと自ら命を絶っていたでしょう。だから、私が生きているのだって、貴方のお陰よ」
「……」
「……ねこさん、ありがとう。ありがとう。ありがとう。……いくら言ったって足りないくらい。……ありがとう」
言葉が終わってからも、女の手は俺の身体の上を滑る。その間は、痛みが和らいだ気がした。
「貴方のその痛みは、身体の傷から来るものではないわ」
不意に手を止めて、女が言った。
「……そうなのか。だから、あんたにも……」
「えぇ。このままでは、貴方はただその激痛に耐え続けることしか出来ない」
「……そっか」
「ただ……」
扉が荒々しく開かれる音。ついでバタバタと床が鳴らされる。
「おねーさん!!」
慌しく帰宅した紫が焦った様子で女に声をかけた。
「ただ……。貴方をその苦しみから解放することならできるわ」
「おねーさん!!おねーさん!!おねーさん!!」
紫が女と俺の間に割って入り、女にすがりついた。
女は返事を返さない。ただ視線を俺から紫に移しただけだった。
「ねこさんの、痛いの、苦しいの、なくなるって!!わたしに出来るってほんと!?」
「本当よ。それに……これは貴方がしなければならないことなの」
「やるよ!わたしやるよ!!ねこさんかわいそうだから、元気になってもらうんだ!!」
紫が希望に満ちた眼差しを女に向ける。ここ最近みていなかった、紫本来のものだ。
「紫、よく聞きなさい」
「うん!おねーさん、早く早く!!」
そのときの女の表情は、言葉にできない。
「……殺しなさい」
「……え?」
「もう一度、言うわ。……彼を、ねこさんを殺しなさい」
紫は唖然とする。それは自分の期待していた、魔法のような言葉ではなかった。それは重く冷たい、最も自分の望まない、そんな言葉だった。
「……貴方は、わかっているはずよ」
「ぁ……。う、ぁ……。やぁ!……やだやだやだ!わかんないもん!」
「事象には在るべき姿がある。何度も教えたわね?」
「わたし、わかんないもん!!何も知らないもん!!」
女が講義を始めるときに必ず口にしていた言葉だ。在るべき姿を崩してはならぬ。在るものは自然のままに。そのことには大きな意味があると。
「貴方は……それを犯した。自然の摂理を曲げた。あってはならないことした。……それで良い方向へ進むことなんて、何一つないのに」
「知らないもん!!わたし何もしてないもん!!」
「だから、それは貴方の、紫の罪。……それを、償わなければならない」
「……う、うるさい!!おねーちゃん、うるさい!!黙ってよ!!」
空間がざわついた。紙に真っ直ぐ線を引くように、中空にすーっと切れ目が入っていく。
「聞きなさい!貴方の罪を!そして受け止めなさい!これらは全て、貴方が自ら招いたもの。だから、貴方が全て終わらせなくてはならない!」
女は切れ目のできた中空へ手を伸ばし、指を添えて滑らせる。走った線が消えていた。
「あのとき。ねこさんに出会ったあのとき」
「駄目!いっちゃだめ!だめぇぇぇ!!」
「……あのとき。……その猫は既に息絶えていた」
「ぁ……」
そうだ、思い出した。俺は車に撥ねられて。それで、視界が白く染まって。
「……ひっく。う……うぅ」
「だけど、貴方は寂しくて、久しぶりの来訪者が死んでしまったことが悲しくて……だから」
女が何かを堪えるようにして下を向いたが、すぐにその顔を上げて言葉を続ける。
「だから……ねこさんの『死』を『なかったこと』にした」
「だって……わたし……だって……ぐすっ……」
紫はすすり泣くばかりでうまく言葉が紡げない。
「今、彼が苦しんでいるのは『死』の痛み。『死』を失い、終わりを迎えることのできない命が上げている悲鳴。想像を絶する、精神すら蝕むその痛みを、貴方が、貴方自身が終わらせてあげなければならない」
「……わたしが、……ねこさんを……」
紫がこちらを見た。ちょうど俺と目が合う。
「……なに……泣いてんだ」
傷みに目が霞んでいたが、紫の目元から零れる雫だけはなんとか認識できた。
「ねこさん……ひっく……ねこさん、痛い?……苦しい?」
「痛く……なんて……ぁっ!うぁぁ!!」
これ以上、そんな顔をさせたくはないというのに。図ったように走った激痛が、俺に声を上げさせた。
「ねこさん!……ぐすっ、ごめんなさい!……ねこさん、ごめんなさい!……わたし、わたしのせいでこんな……」
「ぐっ!……うっ、おまえは悪くない……誰だって……一人だったら、寂しいって、そう思うのは当たり前だろ?」
「でも……そのせいでねこさんが……こんな苦しい思いして……ごめんなさい」
紫が女と顔を見合わせた。女は無言で頷く。紫は服の袖で涙を拭いた。
「わたし……わたしが全部悪いの。ねこさんが何で苦しんでるのか。わたし、全部わかってた」
紫はもう泣いてなんかいなかった。その目には決意が宿っている。
「ねこさんを楽にしてあげるのだって、わかってたの。……だけど、ねこさんを『終わ』らせるのも、ねこさんがいなくなっちゃうのも……怖くて、痛くて」
「……」
俺はただ、紫の独白を静かに聞いていた。
身体を蝕む痛みを意識の外へ追いやって、紫の言葉に集中する。
「でも、わたしの痛みなんかより、ねこさんのが痛かったよね?苦しかったよね?」
「……紫」
「だから、わたし……ねこさんがいなくなるの……怖くたって……痛くたって……寂しくたって」
俺は本当に情けない。こんな、怖くて、痛くて、寂しい、そんなことさせるためにここにいるといったわけではなかったのに。
「……ねこさん、ありがとう。……ありがとう」
紫が俺の身体に手を添える。その手は微かに震えていた。
「……ありがとう。……ありがとう」
後ろ足の先から痛みが消えていく。そして、同時に感覚も消えていく。
畜生。俺は。結局、
「―――――がとう」
聴覚さえも鈍り始め、紫の声もはっきりとは聞こえない。
「―――――う」
俺は、なにも。なにもできないのか。『誰かを幸せにする』ことなんて、できないのか。
「―――――」
駄目だ!
俺がいなくなったら、紫はまた孤独に戻るだけじゃないか。そんなことがあってたまるか。
「―――――」
そうだ。俺には、あの力がある。
そう強く思ったとき、確かに『見え』た。
霞んでいた視界が、瞬間、線を結ぶ。
『紫』は感情がごちゃ混ぜになった表情で、俺のことをしっかりと見据えていた。
そうか、『紫』。俺はこんなことを二度もお前に。
「―かり!!―――――なんてない!!」
でも、安心しろ。『紫』。俺にはしっかりと『見え』た。
「『紫』!!――――――――――から!!」
だから、
「だから!!」
『紫』!!おまえは―――――。
―終―「紫」
「……」
八雲紫は想いを巡らせていた。実に様々なことに。
例えば、ここ数日、体調が優れずに結界の点検を全て藍に任せてしまっていることだとか、その体調不良の原因のことだとか。
「……はぁ」
「っ!」
物音に目をやれば、障子に影が見えた。
あのシルエットは、最近、藍の式になったという化け猫のものだ。
「……あああ、あのあのあの!お茶と!お茶菓子を持ってきました!!」
「あら、ありがとう」
名を橙といった化け猫は、まだ、私に畏縮している節がある。
緊張しているのか、びくびくとしながら足を進めるので、お盆の上のお茶がこぼれそうで危なっかしい。
私の前へお茶と爪楊枝の刺さった羊羹を差し出すと、
「ししし、失礼します!」
すぐに戻ろうとするので、
「……待ちなさい」
「っ!……はい!」
呼び止めると、焦った様子で振り返った。
自分は何かしてしまったのか、これから何をされるのだろう。そんな風に表情がコロコロ変わって面白い。
「……大丈夫。取って食べたりはしないわ。少し話に付き合ってもらいたいだけだから」
「は、話……ですか?」
「そう。だから……こっちへいらっしゃい」
出来るだけ柔らかい表情で、出来るだけ優しい声音で言った。
何故だか、誰かに居てほしかったのだ。
少女が一人、泣いている。
「……う……うぅ……ぐすっ」
嗚咽を聞くものは誰一人としていない。だから、少女は孤独に涙を流す。
「……ひっく……ぐすっ……ひっ、うぅ……」
誰もいなくなってしまった。ねこさんも。おねーさんも。
ねこさんはわたしのせいで痛くて、苦しかったから、わたしが『終わ』らせた。
そして、おねーさんは。
「……うえ……ぐす」
訊いたりしなければよかった。
訊いたりしなければ、おねーさんはまだ一緒にいてくれたかもしれない。
でも、おねーさんがいてくれても、わたしは『一人』だ。
だから、気づかなければよかった。
「……う、ぅっぅぅぅ……」
誰もいない世界、孤独に震えて、少女が一人、
―――――泣いている。
橙が戻ってこない。まさか、紫様に粗相でもしたのだろうか。そんな悪い予感ばかりする。
あまりに気がかりだったので、様子を見に行くことにした。
「……紫様、よろしいですか?」
「藍?どうぞ」
障子を開けて、不思議に思ったことが二つあった。
一つは橙の姿が見当たらないこと。ここにいなければどこにいるのだろうか。
そして、もう一つが紫様のご様子である。
「どうしたの?お茶なら貴方の式が持ってきたわよ?」
「……実は、その橙が戻らないもので」
恐る恐る聞いてみた。何故恐る恐るなのかと言うと、ここで物騒なことをさらりと言いそうなのが私の主だからだ。
「あぁ。それなら、……ここよ」
紫様が自分の膝の上を指す。そこには紫様の膝に頭を預け、気持ち良さそうに寝息を立てる橙の姿があった。
「……ほっ」
「……?何故、安心してるの?」
「い、いえ!……なんでも」
てっきり貴方様に冥土に送られているかと、なんていえるわけがない。
それにしても、
「……すー……すー……んぅ……」
「ふふふ、可愛い寝顔ね」
私の式ながら、でかしたと思う。
紫様はここ数日、理由はわからないが、ひどく沈んだご様子だったのだ。それが今はどうだろうか。橙の頭を愛おしそうに撫でるその姿に、暗いものは見受けられない。
「……?なぁに、藍?私の顔に何か付いてる?……あぁ」
私の視線に気づいた紫様が訊いてくるが、ご自分で何か気づかれたようだった。
「……はい。どうぞ。もう片方は空いているわ」
「……え」
そういって、紫様は橙の頭が乗っていないほうの膝をぽんぽんっと軽く叩いた。
少女が一人、泣いている。
「……ひっく……ぐすっ……ひっ、うぅ……」
誰もいない世界、孤独に震えて、少女が一人、
―――――泣いている。
「……うっぅぅぅぅぅ!!……だぁぁぁぁ!!」
だが、少女は。
「わぁぁぁぁぁぁぁ!!……はぁ、はぁ……」
今にも壊れてしまいそうな心を奮い立たせ、
「はぁー……よし!」
涙を拭き、身体に力をみなぎらせ、立ち上がる。
「……ねこさん言ってたもんね!!」
もう、涙は出なかった。
「……ねこさんが言ってたもんね!!一人ぼっちじゃない日が来るって!!」
一歩前へ足を踏み出す、それが自分の目指す未来への一歩だと信じて。
「ねこさんが言ってたもん!!『おまえの両膝に誰かが寝ていて、おまえがそれを見て幸せそうに笑ってる』……そんな日が来るって!!……ねこさん言ってたもん!!」
―――――もう、涙は出なかった。
「っ!」
「……あの、紫様。やっぱりですね……そのー……私……」
空いていた方の膝に藍が渋々と頭を載せたとき、私はそれに気が付いた。
『その光景』に、気が付いた。
「その……このまま眠るなんて……とっても魅力的な提案ではあると思うのですが……」
「……」
「……紫様?」
『その光景』に、胸が締め付けられたりだとか、悲しくて涙が出そうになったりだとか、そんなことはなかった。
「……紫様、どうかなさいましたか?」
「……ふふふ」
「っ!?」
ただ、嬉しかったのだ。
私を励ますための嘘なんかではなかったのだと。
自分のどこか冷めた部分が、そう解釈し始めていたのを否定できて。
「ふふふ、……ふふふふふ」
「ゆ、ゆ、ゆ……紫様?」
嬉しかったのだ。
嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて。
幸せそうに笑えている自分がさらに嬉しくて。
あまりに嬉しくて、思わず口ずさんだ歌は。
安らかに眠る隣人を気にしてか、さすがに藍にたしなめられた。
未来が予知できる。そうはっきりと自覚したのはいつのことだったか。
俺たちを捨てた飼い主の末路を『見た』ときか、母が死んだときか、はたまた町のボスとやりあったときか。それはわからない。
ただ、母が死んだときも、近隣のボスになったときも。
それらの光景がどこか他人事のように思えてならなかった。
―――――あぁ、これか。
そんな感情しか抱けなかった。
そのせいか、よく「クールだぜボス」とか言われたが、そんなことはない。
ぽかぽかの太陽の下で昼寝をしていたとき、母が足蹴にされるビジョンを『見て』、その日はマザコンよろしく後について回ったし、商店街の店から秋刀魚を盗んで逃げているとき、ボスになるビジョンを『見て』、よくつるんでいたやつに自慢したら馬鹿にされた。
実際に体験したときには既に感情を示す期間が過ぎている。それだけのことなんだ。
だから、でかい図体の人間に蹴飛ばされたときも、蹴飛ばされた先が車道だったとしても。
―――――あぁ、これか。
と、思っただけだった。
車体にぶつかり、身体が宙に浮く。目に飛び込んでくるのは澄み切った青空。
未来、予知。
予知する未来が自分のものなのか、自分以外の誰かのものなのか、それすらもコントロールできず、知らされる未来は確定したもの。月並みにいってしまえば運命と呼ばれる、どんなに足掻いたって揺るがない確定した未来。
それは母のときに嫌というほど思い知らされた。
―――――映る青空が端から白に塗りつぶされていく。
それを怨んだことはない。それに感謝したこともない。この世に生まれ出でてから、ずっと付き合ってきたものだったから。
―――――そして、全てが白く染まる。
―1―「少女」
「―――――こさん」
黒く広がる闇にあどけない声が響く。
「ねこさん。ねこさん」
声に呼応するようにして、身体を揺すられた。
「ねこさん。ねこさん。……ねこさん!」
だんだんと、揺する力は強くなった。
「ねこねこねこねこねこねこねこぬこねこねこさん!」
暴力的ともいえる力が四肢を振り回す。
『千切れる!千切れてしまう!』
実際は「ミギャー」とくぐもった鳴き声を上げただけだ。
「わ。ねこさん起きた」
『くそ、なんだっていうんだ。俺の四肢に何の恨みが……』
実際は「ニャー……」とアンニュイな鳴き声を上げただけである。
それにしたって、最悪の目覚め。
ここ数年、ボスである自分の眠りを邪魔する者はいなかったし、ましてやこんな乱暴な起こされ方はいつ以来だろう。
「にゃー」
『あん?』
実際は(略
「にゃにゃーん、にゃにゃにゃ?」
どう?と小首をかしげて、少女がこちらを覗き込んだ。
『……』
「やっぱ、わかんないか……」
残念そうに言う。どうやら、俺と言葉を交わしたいようだ。人間の言語がわからなくとも、言動から理解できた。
「……えい!」
『?』
「ちちんぷいぷい!ひらけごま!あぶらかたぶら!」
「……。……大丈夫か?主に頭とか?」
必死に訴えかけるその姿に思わず正気を疑った。
平たく言ってしまえば、こう思ったというべきか。あっちゃー痛い子やわー。
「わ。ねこさんねこさん!私の言葉分かる?」
「は?」
言われて初めて気づいた。少女の言葉が、人間の言葉が理解できる。
「な、なんだ?どうして?」
「すごいでしょー。私がやったんだよ」
自分の口からはさきほどと変わらず猫の鳴き声しか出ていないのに、どうやら少女もこちらの言葉も理解しているようだ。
「私がやったって……どうやって?」
「簡単だよー。ちょっと弄くるだけなの」
「……なにを?」
「私とねこさんのね、そうだなー、ここんとこをねー、ちょいちょいと」
「……分かった。わけわかんねーってことは分かった」
「そう、よかった」
皮肉に素直な返答を寄越して、少女は無邪気に微笑んだ。
「……なぁ、ところでここはど……こ……」
目の前にうっそうと木々が茂る森が広がっている。その先でまるで線で区切られた様に急に森が途切れ、何処か鉄筋コンクリートの建物内へ通じている。さらにその先にある扉の向こうには、波が打ち寄せる砂浜と太陽が見えた。後方には舗装された道路。から伸びた川。から伸びた―――――。
「ここ?ここはね」
「『境界の狭間』、……だよ」
驚いた顔が面白かったのか、そういってまた透き通った笑みを浮かべた。
少女は紫(ゆかり)と名乗り、それからここについて拙い言葉で語った。
境界の狭間。いくつも在る世界のどれでもない場所。それでいてどれでもある場所。馬鹿げた話だが、見渡す限りの異様な景色を目の前にしては、全てを否定する材料はない。
ときどき、『世界の揺らぎ』に巻き込まれ、ここに迷い込む者たちがいるらしい。どうやら、俺もその『世界の揺らぎ』とやらに巻き込まれたようだった。
「猫踏んじゃったー♪猫踏んじゃったー♪」
「……不吉な歌はやめろ!」
「でも、これしか知らないもん」
「……せめて鼻歌にしてくれ」
まるで刃物を鼻先に突きつけられている気分だ。踏んじゃった♪てへ♪とか可愛く言われたところで物騒なことには変わりない。というか、そもそも踏むんじゃない。
「―――――♪」
同じメロディーが鼻歌に乗る。人間はこんな動物虐待ソングを作ってどうするつもりなのだろうか。ほんとに人間ってやつは。ああすいません歌わないでください。
「猫死んじゃったー♪猫死んじゃったー♪」
「シャー!」
「わ!……な、なにー?」
「……ところで、どれくらいかかるんだ?」
ここに迷い込んだとしても、それぞれの世界の『境界』にたどり着ければ、元の世界に帰ることが出来ると紫は言った。案内してくれるというので、今は先導する紫に俺がついていく形だ。
「んー、……お昼寝15回分くらい?」
「……しないとだめなのか?するにしたってもうちょっと回数をだな……」
「だって疲れちゃうよ?」
「……まぁ、いい」
このときはまだ、その言葉の意味するところをちゃんと理解できていなかった。
俺は気は長いほうだと思う。だが、そんな俺でも、緑の濃い森を抜けて、誰も住んでいない民家の中を突っ切り、舗装されていない畦道を歩き続け、不揃いな石畳を数えつつ進み、―――――、今にも倒壊しそうな廃墟の階段を上っていれば、
「……」
文句の一つでも言いたくなる。
「おい、いつまで歩く気だ。日が暮れちまうぞ?」
「暮れないよ?」
「は?」
「だから、暮れないの。ここはずーっとお日様が出てるんだよ。外の世界みたいに夜はないの」
「じゃあ、……昼寝ってのは」
「うん。外で言えば、夜に寝るのといっしょだよ。歩いてばかりじゃ疲れるし」
「……ってことは15回分って15日ってことじゃねえか!おいおいおい、かかり過ぎだろ。もっとこう近道とかないのか?」
紫は金属質の階段をカンカンカンッと音を鳴らして上り、踊り場で髪を揺らして振り返る。「んー」と少し唸ってから、
「ねね。ねこさんはどうしてそんなに早く帰りたいの?」
そんな質問を俺にした。
「あん?……別に……理由なんてない」
「理由もないのに帰りたいの?」
「……」
帰りたい理由。改めて訊かれるとそれはうまく表現できない。生まれ育った町に愛着ぐらいはあるが、裏を返せば嫌な思い出もたくさんある。ボスと言ったって、特権は安心して昼寝が出来るくらいのもので、普段は面倒事を次々に片付けていかねばならない、それはそれは割に合わない身の上なのである。
「ねこさんはほんとに帰りたいの?」
「……どうして、そんなことを訊く?」
「あのね、ねこさんがもし良かったらなんだけど」
その時の紫はここまでの天真爛漫な印象とは違い、どこかしおらしく、何かをためらうようだった。
「……ずっーと、ここにいない?」
「……は?」
「だから、ここに、『境界の狭間』にずっーといるの。ねこさんが」
「……」
「だめ?」と、向けられる眼差し。確かに帰りたい理由も曖昧だし、こんな潤んだ瞳で見つめられていると、思わずうなずいてしまいそうにはなる。
「…………だめだ」
が。仮に。仮にだ。知り合いの猫たちや舎弟たちがもしも。急に消えた自分のことを気がかりに思っていたりしたら。……まぁ、そうだったらしょうがないので帰るのもやぶさかではないと。そう思うのだ。
「……そっか、だめかぁ。……そっか」
呟いた紫の声が震えていた。その顔は俯いていて見えない。
「な……おい。どうして、お前……」
「……ね。少し疲れちゃった。お昼寝しよう?」
そう言って、こちらの答えも聞かずに朽ちかけた一室へ足早に消えた。
「おい、待てよ!」
追いかけて足を踏み入れた部屋の隅、どこから取り出したのか、ハート型のファンシーな枕(Y、E、Sと大きく文字がプリントされている)に頭を預け、こちらに顔が見えないように、壁側を向き横になっている紫。完全に不貞寝体制である。
「……そ、その枕は……?」
「おば……おねーさんにもらった」
「そういうことじゃあ、……なくてだな……」
おねーさんとは誰なのか、どうしてそこにあるのか、というか、なんで泣いているのか、そんな質問が口をついで出そうになる。が、とてもそんな雰囲気じゃない。薄暗い廃墟に沈黙が降り、静寂が降り。
ある意味、昼寝をするにはちょうどいい塩梅だ。
「……はぁ」
ため息を一つつく。いちいち子どもの訳の分からない癇癪に付き合っていられないし、正直にいえば、疲労はあった。身体を休めることに異論はない。
「……」
沈黙を守る紫の側の壁際で丸くなり、瞼を落とす。すぐにでも寝れそうな気がした。
「……ぐすっ」
「……」
言っておこう。俺は舎弟が非常に多い。それも、若い衆ばかりが。理由も多分だが、分かっている。
「……なぁ」
「……なに、ねこさん?」
「その……なんだ」
「……?」
「……ずっとはいられないが……ここにいる間は、……よろしくな」
紫が寝返りを打ってこちらを向いたのが物音と気配で分かった。
「うん!よろしくね、ねこさん!」
瞼を開けなくても判る。これ以上ないくらい声が弾んでいた。
そう、俺はガキに甘いのだ。
―2―「おば……おねーさん」
やれることは全てやったはずだった。駄々をこねて外出をやめさせようとしたり、ひと気の少ないルートを選んでみたり。最後には母さんに全部話してみたけど、母さんは寂しそうに笑うだけだった。
要するに、ボクは「運命」ってやつには到底敵いやしなかったのだ。
『あぁ、ぼうや。怪我はないかい』
母さんは茶色い靴型の付いた顔で、ボクを心配してくれる。
『……うん』
『そう、よかった。すごいねえ。全部、ぼうやの言うとおりだったね』
『……うん』
母さんはいつもそうやってボクのこの不思議な力を褒めてくれた。だけど、このときは全然嬉しくなかった。
『ねえ、ぼうや』
―――――あぁ。
母さんの傷ついた身体から生気が失われていく。一度『見て』しまってから、幾度となく悪夢として現れたその光景。
そうだ、何度も見てきた。
『その力は、きっとあなたを幸せにはしてくれないでしょう』
だから、
『でも、きっとだれかを幸せにするときが来るから。そのための力なんだって、そう思いなさい』
だから、悲しくなんて、ないんだ。
紫との旅を始め、数えて四度目起床時。
「……」
起き抜けの顔を誰かが覗きこんでいる。徐々に活動を始める頭でその正体を考えていた。
「お目覚めかしら?」
「……誰だ、あんた」
真っ先に思い当たったのは紫だったが、紫はこんな人を揶揄するような、そうやってからかうのを心底楽しむような表情はしないだろう。
だとすれば、目の前の人物は誰なのか。
「生憎、名乗れないの」
「名乗れない?どうして?」
「乙女の秘密」
「乙女という年には見えないんだが……」
「あら、失礼ね」
広げた扇子で口元を隠し、すこし眉を吊り上げた。しゃがみこんでいた体勢から優雅な動作で立ち上がり、俺と一歩分距離をとる。
紫を乙女とするならば、この女は貴婦人といったところか。言動の一つ一つが気品を感じさせ、どこか大人の余裕というものがそこにはあった。
「紫の知り合いか?」
「そうね。あの子のことはよく知っているわ。あの子は私のこと、詳しくは知らないでしょうけど」
「妙な言い方をするんだな。ところで紫は?」
「散歩よ。……あぁ、あなたの目の前、ともいえるかしら」
「はぁ?からかってるのか?いい加減にしてくれよおば……」
いつの間にか、畳まれた扇子の切っ先が喉元へ突きつけられている。
「仏の顔も三度まで」
「……まだ二度目だぞ」
「なら、一度まで」
「なんでもありか!」
「女性に歳の話はタブー。そして、今、貴方が発しようとした言葉は禁忌中の禁忌。略してキンキンね。」
「……」
思わず、なーるほど!ザ・ワールド!なんて納得しそうに……はならない。
「いずれにせよ。次はないわ」
「……言ったらどうなる?」
「喉元と頭の頂点のところを同時に掻いて、快楽地獄に突き落として上げましょう」
「……善処しよう」
根性なしだとは思わないでほしい。あれをやられて醜態を晒さない猫なんていないのだ。
「おば……おねーさーん!」
早くもキンキンを犯しそうに(酷い字面だ。)なりつつ、紫が戻ってきた。
「できたよ!」
「あら、思ったより早かったわね」
「うん。頑張った」
そういって紫はその女に何かを手渡す。
「「……」」
それは人の形を簡易的に模した、いわゆるダミー人形といわれる類のものだった。
いや、訂正しよう。それはダミー人形っぽいものだった。
さて、なぜ『っぽいもの』なのか。
「……おい、それ……」
「えぇ。分かっているわ」
「……?」
渋い顔をする俺と女。それを見て不思議そうにしている紫。
その人形には、首があって、腕があって、足があった。
問題はそれらが『全て同じところから生えて』いることだ。
「なんというか・・・前衛的だな」
「ぜんえいてき?すごいってこと?」
「そうだな。ある意味すげえってことだな」
「やった。褒められた」
えへへ、と喜ぶ紫を横目に、俺は女に問う。
「……なぁ、もしかして」
「貴方が考えているとおりよ。この子にはこの人形の修繕を頼んだの」
「……そりゃあ、なんというか……災難だったな」
誠に残念な姿になって帰ってきた人形に、女の反応が薄かった。
嵐の前の静けさか、と思いきや、女は意外な言葉を発する。
「……えぇ、とても懐かしいわ」
「懐かしい?」
「……そう。懐かしい」
そういって、人形を廃墟に差し込む光に照らし、目を細める。その表情からは感情は読み取れなかったが、敢えて当てはめるなら、自ら言った『懐かしい』という言葉がもっとも適していたように思う。
「……」
女が歪な人形の前で扇子をゆっくりと開いていく。開かれたその陰に人形が隠れた。
「……。紫」
「なにー?おねーさん?」
一拍おいて再び姿を現した人形は、五体満足、本来あるべき姿になっていた。
「補習を……始めましょう」
紫には『境界を操る』能力がある、と女は言った。自身も同じ能力があるとも。
だが、紫の力はまだ不安定なもので、むやみやたらと使えるものではない。だから、たまにその能力について教鞭を取りにくるらしい。
「事象には在るべき姿があるわ。例えば、炎は熱いだとか、氷は冷たいだとか。あの人形にしたってそう。分かる?」
「人形さんは人形さんの形があるってこと?」
「そう。分かっているのね。では、何故あんなことをしたの?」
『境界を操る』という力がどういうものかは分からない。具体的に何が出来るのか、という質問に女は例の戯れを含む表情で、『なんでも』と言い放った。自分にも不思議な力がある以上、ある程度は許容するつもりだが、冗談だろう。
「いんすぴれーしょんが、こう、ピキーンと」
こんなことを自信満々に言ってのける目の前の幼い少女に、そんな大それたものが備わっているなんて信じられるはずもない。
「インスピレーション、ねえ……。芸を嗜んでいるのだったら、そういうこともあるでしょう。だけど、人形の修繕はあくまで訓練。遊びではないのよ?」
「でも、おば……おねーさん。今日のはちょっと難しすぎるよ。人形さん、バラバラでわけわからんちんだったよ?」
「かの有名なナイフ使いは、すれ違いざまに対象を十七個の肉塊に変えたというわ。今回はそれに習ってみたのよ」
「わー、すごいね。前衛的だね」
「……それ、褒め言葉じゃないからな」
やっぱり信じられたものじゃない。ただでさえ、このつかみどころのない女の言うことはどこまでが本気で、どこまでがふざけているのか、分かりかねるものなのだ。
「また別の機会に、同様の人形を持ってくることにするわ。そのときはしっかりやりなさい」
「はーい」
「今日はこれくらいかしら。……さようなら。紫」
「うん。バイバイ、おねーさん」
そのまま部屋を出て行こうとした女が、ふと思い出したかのように踵を返す。俺の前まで来て、何をするのかと思いきや、そのしなやかな細い指でそっと俺の頭を撫でながら、
「……ねこさん、ありがとう。」
と囁いて、今度こそ部屋の外へと足を向けた。
「お、おう。」
何に対する感謝なのか、それすらわからずに俺が生返事を返したのは、女が部屋から姿を消す直前だった。
「……、あ。おい、ちょっと待ってくれ」
だから、まだ訊くことがあったのを忘れていた。女を追いかけて部屋を出る。
「……?……いない?」
だが女の姿はどこにも見当たらない。すぐに追いかけたはずなのに、だ。
「おねーさんはしんしゅつきぼつだから、むだだよー。ちょっと目を離しただけでいなくなったりもするんだから」
「……なんでおまえが得意気なんだよ」
これも能力とやらなのだろうか。代わりにえっへんと胸を張る紫に質問することにした。
「帰るたって、あの女はどこへ帰るんだ?」
「……んー?……前に一回だけ聞いたことがあるけど、乙女の秘密だっていってたよ?」
「……あいつはおまえにもそんなこといってるのか」
「だめだよ、ねこさん。おば……おねーさん、そこんとこいうとすっごーく怒るんだから」
「……おまえももう少し気をつけような」
『あの子は私のこと、詳しくは知らないでしょうけど』なんて言っていたが、実際は自分が教えないようにしているじゃないか。ますますわからない女である。
「……いつからの知り合いなんだ?」
「ずっとだよ」
「ずっと?」
「うん。わたしが『始まった』ときからずっと。……一人で寂しくて泣いていたら、おねーさんが来てくれたんだよ」
紫は『生まれた』ではなく、『始まった』といった。
その言葉で、頭の片隅に生まれ始めていた憶測が確実なものとなる。
「……寂しかったら、ここからどこの世界でも行けばいいだろ」
「……力をうまく使えるようになるまで、無理なんだって。『世界は異物を拒む』から、ここで『始まった』わたしはどの世界からも拒絶される。……おねーさんが言ってた」
「……」
「……今は……寂しくないのか?」
『境界の狭間』という、この場所で生きる少女―――紫は、人間ではない。
「寂しくなんかないよ。おねーさんがいるし。ここに迷い込んでくる人たちもいるし」
少女の顔を見ていられず、寝床にしていた部屋の隅へと戻る動作で目を逸らす。
「それに、」
それは俺が最初、『無邪気』と評した笑顔ではあったが、
「今はねこさんがいるしね」
今の俺には、その孤独に耐えながらも、ひとりなんかじゃないのだと、寂しくなんかないのだと。そう自分に言い聞かせているようにしか見えなかったのだ。
―3―「ペドフィリアとバケモノ」
今更ながら、紫はとても魅力的である。
その姿と前にすると、俺はある衝動を堪えなければならないくらいだ。
「ねこふんじゃったー♪ねこふんじゃったー♪」
お転婆ともいえる振る舞いで揺れる、ふわふわと柔らかそうな金髪。身に着けたワンピースにあしらわれたフリルさえ、蠱惑的といえるまでに俺を誘う。
その姿を前にすると俺は、俺の前足は。
どうしても光って唸りそうになるのだった。
「……?どうしたの?ねこさん」
「……」
やっちまえよ。ほら、ふりふりと誘いやがって。思うままに蹂躙しちまおうぜ。と、俺のシャイニングなレッグが輝き叫んでいる。
「変なねこさん」
「……うるせー」
遥か昔の祖先から伝わるその猫としての本能は甘美なものではあるが、それを受け入れた場合の、ゴロニャー(はぁと)、なんて声を上げる自分を想像するだけで悪寒が走る。
「おい、歌。どうにかならないのか」
「あれ、声に出てた?」
「あぁ、ばっちりな」
「でもー。……気持ちよくなるとどうしても」
「今度、あの女にでも他の歌を教えてもらったらどうだ?」
「それはだめだったよ。あのね、ねこさんが嫌がるから他のお歌教えてっていったらね、『そうなの。それは面白いわね』って全然教えてくれなかったもん」
あの実に楽しそうな女の笑みが頭に浮かんだ。
あれから何度か紫に会いに来ては、暇な時間や帰り際に俺のことをからかっていく。未だに女の詳しいことはわからない。わかることといえば、そう、性格は悪い。
「あのアマ……。そもそもその歌は誰に?」
「おねーさん。おねーさんの思い出のお歌なんだって」
「思い出の歌ぁ?なんだってんだよ。猫に何か恨みでもあるってか」
思い出の歌といえば、もっとこう親しみやすくて温かいものではないだろうか。やはり、あの女はどうにもわからない。わかることいえば、そう、性格は悪い。
「んー、そうかなあ。おねーさん、ねこさんの事好きだと思うけどなー」
「……はぁ?」
紫があまりに意外なことを口走ったので、足を止め、素っ頓狂な声を上げてしまった。
「はぁー……。あのな、あれのどこが好きだってんだよ。暇さえあれば俺のこと振り回しやがって。挙句の果てには歌の中でさえ、猫を痛めつけてるんだ。『猫で遊ぶ』のが好きの間違いじゃないか?」
「そもそもそうやって、ねこさんとお話してるのが特別なの」
「……どういうことだ?」
「おねーさんはね、普通、自分から話しかけない限り『気づかれない』んだよ。わたしとおねーさんが話していても、他の人は『気づかない』。わたしにはできないけど、おねーさんは力を使ってそういう風にしてるっていってた」
「……だけどよ、おまえらふつーに話してたじゃねえか」
「うん。だから、特別。おねーさん、ねこさんにはその力を使ってないみたいなの。今まで、いろんな人が迷い込んできたけど、こんなことは初めてなんだよ?」
女について、性格が悪い意外に興味深いことがわかった。しかし、意図するところはわからない。
「……ただの動物好きなんじゃねえか?」
「わ。そうかも。動物さんはねこさんが初めてだもん」
思い出の歌とやらが関係しているのだろうか。今度詳しく聞いてみようと思う。煙に巻かれるだけかもしれないが。
「……ぁ。ねこさん!『繋ぎ目』が見えたよ!」
「ようやくか。……ったく、今回は特に長かったな」
地平線の見える大平原に最初は感嘆さえ覚えたが、歩き出してからは恨み言ばかり口をついて出た。歩けど歩けど同じ景色。紫は気持ちよさそうに鼻歌を奏で、俺はただ黙々とその後をついていき、鼻歌がただの歌に切り替わったところで突っ込みをいれる。その時間が延々と繰り返されて今に至る。
「なぁ、あれを超えたら、一旦休憩しないか?」
「うん。わたしも疲れちゃった。お日様が避けれる場所があったらいいな。しがいせんはおはだのたいてきだもん」
「……ガキがいっちょまえに何言ってんだ」
「ガキじゃないもん。……あれ?」
紫が何かに気づいたように立ち止まる。見れば、次のエリアとの『継ぎ目』の近く、とぼとぼと歩く人影があった。
「俺のお仲間か?」
「そーみたい。おーい!!」
ぶんぶん、と腕を大きく振ってアピールすると、こちらに気づいたのか、人影が焦った様子でこちらへ駆けてくる。
短髪の黒髪、人当たりの良さそうな中年男性だった。特徴のない作業服を着ている。
男は俺たちのもとまで全力で駆けて来たからか、肩で息をしていたが、やがて口を開いた。
「―――――!」
「あ?」
男の言葉を理解できなかった。早口だったからとかではなく、紫の言葉が最初わからなかったのと同じように。
「わたしはちがうよ。ねこさんはそうだけど」
「――――」
「わたしは案内人みたいなものかな?おじさん、帰りたいんだったら連れてってあげようか?」
「―――――!」
「えへへ、天使みたいだなんて」
男の言葉だけが理解できず、男と会話している紫の言葉だけが頭に入ってくる。
忘れていた。紫と話すことができたのは紫の力によるものだった。
「なぁ、俺もそのおっさんの言葉がわかるようにできないか?」
「ん?んー……、迷子さん同士をお話させるのはだめだっておねーさんが」
「そうなのか?……面倒だな」
そんな俺たちのやりとりを男が怪訝そうに見つめていた。
「―――――」
「そうだよ。でね、ねこさんがおじさんと話したいって」
「……。―――」
「嘘じゃないもん。ねぇ、ねこさん?」
「あぁ。といっても通じないんだろ?」
「……、―――――」
すこしの逡巡のあと、男は頬を緩め、紫の頭をくしゃくしゃと撫でた。
HAHAHAお嬢ちゃんはかわいいな!と、こんな感じだろうか。
「……」
そのとき、不意に男に違和感を覚えた。
正確には男の瞳に。表情こそ笑顔ではあるがその瞳は―――――。
ともあれ、紫は軽くあしらわれたことにご立腹なご様子である。
「だからぁ!嘘じゃないの!」
「―――――」
いつの間にか、男の表情は自然なものへと変わっている。その眼差しも。俺が感じたあの違和感は気のせいだったのだろうか。
「おじさん、信じてないでしょ!」
「―――――」
男と紫の微笑ましいともいえるやり取りは続いている。
どうやら、男は運が良かったようである。男の世界の『境界』は俺たちと出会った場所からほとんど離れていなかったのだ。
大平原を越えて俺たちが足を踏み入れた無人の街にその『境界』はあるらしい。
「そういや、なんで『境界』の場所がわかるんだ?」
「ねこさんとかおじさんとかのこと見た時、ピィンって閃くの。女の勘ってやつ?」
「……ぜってぇちげえ」
俺たちが適当な民家で休憩することを告げると、男は町並みを見てくると言って(そう言ったらしい)出て行った。
これは俺が初めて無人の村に入ったときと同じ症状だ。原因は村や町の風景にある。
その風景はまったく荒廃した様子がない。だれもいないのに、だ。
無人の村で言えば、手入れの行き届いた田や畑。今いるこの町で言えば清掃されたゴミ捨て場やペンキ塗りたてという張り紙。
それらは錯覚させるのだ。ここには人がいるのではないか、と。
だが、実際に探してみても人っ子一人、猫一匹いやしない。当たり前のことだが、改めてそのことを痛感させられる。
「ねこさんねこさん」
「ん、なんだ?」
「おやすみなさい」
「……あぁ、おやすみ」
寂しいか、という問いをこの少女は否定した。
そんなわけはないのに。その幼い心が悲鳴をあげていないはずはないのに。
紫はきっとあの『無邪気な』笑顔で自分さえ騙すのだろう。
「……」
「……すー……すー……むにゃむにゃ」
ここに来てからはまだ一度も『見て』いないが、もし俺が紫の未来を『見て』しまったら。
その中でさえ、紫があの『無邪気な』笑顔をしていたら。
俺は、何をしてやれるのだろうか。
伝わる心地よい温もりに、頭を撫でる優しい感触に、微かに意識が覚醒した。
「―――――♪」
鼻歌が耳に入る。紫がいつも口ずさむあの歌だ。
そして、どうやら俺は誰かの膝の上に寝ているらしい。
「……紫か?」
「―――――♪」
膝の主は答えず、鼻歌を続ける。その間も絶えず頭を撫でるので、完全に去っていなかった睡魔がまた意識を奪い始めた。
俺の意識が途切れる直前に、
「貴方に、元気な貴方に言えるのはこれが最期だから」
その心地よい温もりの誰かが、
「……ねこさん、ありがとう」
そう、言った気がした。
再度目を覚ましたとき、俺は床に寝ていたので、先ほどのことが実際にあったことなのか、判別はつかない。
ただ、温もりの中、囁いた声音が震えていたのが妙に記憶に焼きついている。
「……」
そのまま、ぼーっとしていると、足音が聞こえてきた。きっと、あの男のものだ。
町が無人であったことに絶望しているであろう男を、同じ病気を患った仲間として慰めてやらねばならない。男には、にゃーとしか聞こえないかもしれないが。
ばたん!と乱暴に玄関を開く大きな音がした。ドスドスドスと立てる足音も荒い。
なにか、嫌な予感がした。
念のため、紫を起こすか迷っている間に、男の足音は俺たちの寝ている居間へと近づく。
現れた男は別人とさえとれた。目を血走らせ、顔全体は強張り、口からはヒュー、ヒューと断続的に荒い息を吐いている。
男は首を回し、まず床で寝ている俺を見つけ、それからソファーで寝ている紫を見つけ、
―――――下卑た笑みを浮かべた。
男が荒い足取りで紫に近づき手を伸ばす。その手にとっさに噛み付いた。
「―――――!」
男が怒声を上げて腕を振り回す。その動作で居間の中心に置かれた小さなテーブルは吹き飛び、俺はかかる負荷に耐え切れず、床に思い切り叩きつけられた。衝撃に体のあちこちで嫌な音がした。
「―――――!」
痛みに顔をしかめながら見上げれば、振り上げられた足ごしに男と目が合った。
この目だ。紫に一瞬だけ向けられたことのあるこの眼差し。やはり、見間違いではなかった。そうだ、この目は、猫が鼠を追うときにするときの、―――捕食者の目だ。
男は町に人がいるかどうか探しに行ったわけじゃない。
『本当に人がいないかどうか』を確認しにいったのだ。
「がっ!……ゴホッ!……おぇ」
腹の辺りを思い切り踏みつけられた。内臓が潰れたのだろうか。口には血が滲む。
「―――――!」
間髪入れずに振り上げられる足。あの一撃をもらえば、俺に命はないだろう。避けようにも、もはや身体には力が入らない。
男は俺を殺したあと、紫を弄ぶだろう。男がしているのはそういう目だ。
「……ははは」
乾いた笑いしか出てこない。
どうなってるんだ。意味がわからない。
「……なんで、だよ。……どうして」
どうして、これ以上、紫が苦しまなきゃならない。
「……くそっ!」
どうして、孤独の痛みに苦しみながらも、健気に笑うあの少女が苦しまなきゃならない。
誰だっていい。答えてみやがれ。納得のいく説明を俺にしてみろ。紫があの『無邪気な』笑みをしなければいけない理由を。
「答えろよ!くそっ!くそっ!くそぉぉぉぉぉ!!」
「―――――!」
死が迫る。俺を血走った目で見下ろす男の足が、―――――落下した。
「―――――!」
男がバランスを取れなくなり、尻餅をつく。何が起きたのか判断の付かない様子でぽかんとしている。
「ねこさんいじめちゃ駄目ぇ―!」
いつの間にか起きていた紫が叫ぶ。
男の足は文字通り『落下』していた。付け根から先が、マネキンの片足のように、出血もなく床に転がっている。
「どーして、ねこさんいじめるの!かわいそうだよ!ねえ、どーして!」
「……っ、―――――?」
男が我に帰り、何事か紫に尋ねた。
「そーだよ。でも、おじさんが悪いんだからね!足ならすぐに『直せる』し」
男は驚愕の後、がくがくと身体を震わせ始めた。怯えているのだ。
「……おじさん、どうしたの?痛くないでしょ?」
紫はこの狂気の中、いつもと変わらない。男が何故怯えだしたのかわからず、きょとんとしている。
「―――――!」
「っ!……ち、違うもん!」
男が突然喚きだした。それを聞いて、紫が悲痛な表情になる。
「―――――!―――――!」
「違うもん!わたし、違うもん!そんなんじゃないもん!」
ついには、男は両手で片足と身体を引きずり、床を這って逃げようとする。男の喚き声と紫の沈痛な悲鳴は止まない。
「―――――!―――――!」
「違う!違う違う違う!わたしは!」
そのとき、空間がざわついた。紙に真っ直ぐ線を引くように、中空にすーっと切れ目が入っていく。
「―――――!……―?」
必死に、少しでも紫から遠ざかろうとする中で漏らした間抜けな呻きごと、
「わたしは!違う!わたしは!―――――バケモノなんかじゃない!!」
―――――裂け目が男を飲み込んだ。
「……」
「……」
紫は部屋の隅で足を抱えて黙っている。俺はその隣で痛みを我慢しながら身体を丸めている。
紫の『応急処置』のおかげで、瀕死だった俺は一命を取り留めた。残りの傷は紫には細かくて弄ることができないらしい。何日か療養するか、運よくあの女が現れれば、俺は全快となるだろう。
「……なぁ」「……ねこさん」
声が重なった。顔を上げた紫と目が合う。
「……ふふふ」
「な、なんだよ」
「ううん、なんでもないよ」
何故だか、笑われた。なんだか、馬鹿にされた気もするが、空気を変えることができたのはよしとしよう。
「……ねこさん、聞いてくれる?」
「……あぁ」
それから、紫は語りだした。自分が人間ではないこと。先ほどの裂け目について。あの男のように突然、自分から逃げだす人がいること。その理由がわからないこと。そのときに浴びせられる言葉がとても痛いこと。
「……どうしてなのかなぁ」
「……」
紫は、孤独だ。そして、紫の力はさらに紫を孤独にする。
就寝前の考え事を思い出した。
俺は紫に何をしてやれるのだろうか。
「……なぁ」
「……なに?ねこさん」
「……寂しいか?」
敢えて、もう一度、同じことを問う。きっと、紫の答えは決まっている。
「……」
紫は抱えた足に顔を伏せている。どちらも口を開かず、幾ばくか静かな時間が流れた。
「……寂しくなんて、……ない」
「……そっか」
やはり、答えは変わらない。
あんなことの直後だって、紫の答えは変わらない。
「……よし!決めた!」
紫。おまえがそんなに気丈なら。俺は。
「……ねこさん?」
俺は、ガキには甘いから。だから、こんな寂しいの一言さえ言えない馬鹿みたいなやつを。
放っておけるわけが、ないんだ。
「俺は……ずっとここにいる!!」
お前を一人にしたら、またお前は笑うんだろ?寂しくないって。
だったら、俺はお前が素直になるまで、白状するまで。
「ここに、『境界の狭間』に、……ずっと、いてやる!!」
「……」
「……」
「……おーい、なんか言えよ?」
「……」
次の瞬間、ぐわっ!と急に伸びた腕に思い切り抱きしめられた。傷だらけの身体を鈍い痛みが走る。
「いてえいてえいてえ!いてえって!!」
「ぅぅうっぅぅぅぅぅぅぅ!!」
「……ったく」
遠慮なしに加えられる痛みと。
顔が押し付けられたところが濡れる感触と。
呻くようにして漏らされる嗚咽。
それらが全部、温かいもののように感じ、なんだか誇らしかった。
―4―「二回だけ死んだ猫」
いくら休んだって俺の怪我が完治することはなく、そのうち、立つことさえできなくなった。
「……ねこさん」
「……ばーか……なんで、おまえが……死にそうな面してんだよ」
悪態をつく間も体中を駆け巡る激痛は引かない。だからといって、痛みを訴えるわけにもいかない。少しでも痛みを口に出すと、この馬鹿は自分が痛いわけでもないのにこちらが見るのさえつらい顔をするからだ。
「……わたし、おねーさん探してくる!」
「……神出鬼没……なんだろ……そー、簡単に……聞いてねぇし」
紫が慌しく民家を出て行った。ここ何日もこんな調子だ。起きて、俺の顔を見てバタバタと出かけていくが、結局見つからずにとぼとぼと帰ってくる。
「……っ!……うっ!……」
正直なところ、紫の目がなくなることはありがたい。我慢するのにも限界がある。こんな痛みは今まで生きてきて初めてだ。全身を引き裂くような痛みが常にあり、間隔をあけてさらに大きな痛みがやってくる。その大きな痛みは俺の心さえもすり減らしていった。
「……へっ……かっこわりー。……あんな大見得切っといてよぉ……いきなりこれだもんな」
「そんなこと……ないわ」
「……ははっ……ほんとに神出鬼没だな」
突然現れた女に驚く余裕さえない。俺はそこまで消耗していた。
「……」
俺を見下ろす女にいつもの笑みがない。それだけでわかってしまった。
「……無理、……なのか?」
「……ごめんなさい」
女にも、俺を『直す』ことはできないらしい。目の前が暗くなる。
「ごめん、なさい」
「……あんたが謝ることはないだろ」
「……私の責任だから」
「ちげーよ。全部あの糞野郎がやったことだ」
「……いいえ。これは全て、私のエゴが招いた結果。だから……ごめんなさい」
そういって深く頭を下げた。女の言う事は要領を得ない。どう考えても、紫を襲おうとしたあの男が悪いのだ。
「……いつもわけわかんねえな、あんたは。……会うたびにお礼言ってくるし」
「……貴方は私にそれだけのことをした。……だから、当然よ」
「……覚えがねーよ。……まぁ、……ごめんなさい、よりは……ありがとう、のがいいな」
「……」
女は下げ続けていた頭を上げて、静かに俺を見る。少しあと、膝を折り、俺の軋む身体を優しく撫で始めた。
「……ねこさん……今の私があるのは貴方のお陰よ。貴方がいなかったら、私は寂しくて、寂しくて、きっと自ら命を絶っていたでしょう。だから、私が生きているのだって、貴方のお陰よ」
「……」
「……ねこさん、ありがとう。ありがとう。ありがとう。……いくら言ったって足りないくらい。……ありがとう」
言葉が終わってからも、女の手は俺の身体の上を滑る。その間は、痛みが和らいだ気がした。
「貴方のその痛みは、身体の傷から来るものではないわ」
不意に手を止めて、女が言った。
「……そうなのか。だから、あんたにも……」
「えぇ。このままでは、貴方はただその激痛に耐え続けることしか出来ない」
「……そっか」
「ただ……」
扉が荒々しく開かれる音。ついでバタバタと床が鳴らされる。
「おねーさん!!」
慌しく帰宅した紫が焦った様子で女に声をかけた。
「ただ……。貴方をその苦しみから解放することならできるわ」
「おねーさん!!おねーさん!!おねーさん!!」
紫が女と俺の間に割って入り、女にすがりついた。
女は返事を返さない。ただ視線を俺から紫に移しただけだった。
「ねこさんの、痛いの、苦しいの、なくなるって!!わたしに出来るってほんと!?」
「本当よ。それに……これは貴方がしなければならないことなの」
「やるよ!わたしやるよ!!ねこさんかわいそうだから、元気になってもらうんだ!!」
紫が希望に満ちた眼差しを女に向ける。ここ最近みていなかった、紫本来のものだ。
「紫、よく聞きなさい」
「うん!おねーさん、早く早く!!」
そのときの女の表情は、言葉にできない。
「……殺しなさい」
「……え?」
「もう一度、言うわ。……彼を、ねこさんを殺しなさい」
紫は唖然とする。それは自分の期待していた、魔法のような言葉ではなかった。それは重く冷たい、最も自分の望まない、そんな言葉だった。
「……貴方は、わかっているはずよ」
「ぁ……。う、ぁ……。やぁ!……やだやだやだ!わかんないもん!」
「事象には在るべき姿がある。何度も教えたわね?」
「わたし、わかんないもん!!何も知らないもん!!」
女が講義を始めるときに必ず口にしていた言葉だ。在るべき姿を崩してはならぬ。在るものは自然のままに。そのことには大きな意味があると。
「貴方は……それを犯した。自然の摂理を曲げた。あってはならないことした。……それで良い方向へ進むことなんて、何一つないのに」
「知らないもん!!わたし何もしてないもん!!」
「だから、それは貴方の、紫の罪。……それを、償わなければならない」
「……う、うるさい!!おねーちゃん、うるさい!!黙ってよ!!」
空間がざわついた。紙に真っ直ぐ線を引くように、中空にすーっと切れ目が入っていく。
「聞きなさい!貴方の罪を!そして受け止めなさい!これらは全て、貴方が自ら招いたもの。だから、貴方が全て終わらせなくてはならない!」
女は切れ目のできた中空へ手を伸ばし、指を添えて滑らせる。走った線が消えていた。
「あのとき。ねこさんに出会ったあのとき」
「駄目!いっちゃだめ!だめぇぇぇ!!」
「……あのとき。……その猫は既に息絶えていた」
「ぁ……」
そうだ、思い出した。俺は車に撥ねられて。それで、視界が白く染まって。
「……ひっく。う……うぅ」
「だけど、貴方は寂しくて、久しぶりの来訪者が死んでしまったことが悲しくて……だから」
女が何かを堪えるようにして下を向いたが、すぐにその顔を上げて言葉を続ける。
「だから……ねこさんの『死』を『なかったこと』にした」
「だって……わたし……だって……ぐすっ……」
紫はすすり泣くばかりでうまく言葉が紡げない。
「今、彼が苦しんでいるのは『死』の痛み。『死』を失い、終わりを迎えることのできない命が上げている悲鳴。想像を絶する、精神すら蝕むその痛みを、貴方が、貴方自身が終わらせてあげなければならない」
「……わたしが、……ねこさんを……」
紫がこちらを見た。ちょうど俺と目が合う。
「……なに……泣いてんだ」
傷みに目が霞んでいたが、紫の目元から零れる雫だけはなんとか認識できた。
「ねこさん……ひっく……ねこさん、痛い?……苦しい?」
「痛く……なんて……ぁっ!うぁぁ!!」
これ以上、そんな顔をさせたくはないというのに。図ったように走った激痛が、俺に声を上げさせた。
「ねこさん!……ぐすっ、ごめんなさい!……ねこさん、ごめんなさい!……わたし、わたしのせいでこんな……」
「ぐっ!……うっ、おまえは悪くない……誰だって……一人だったら、寂しいって、そう思うのは当たり前だろ?」
「でも……そのせいでねこさんが……こんな苦しい思いして……ごめんなさい」
紫が女と顔を見合わせた。女は無言で頷く。紫は服の袖で涙を拭いた。
「わたし……わたしが全部悪いの。ねこさんが何で苦しんでるのか。わたし、全部わかってた」
紫はもう泣いてなんかいなかった。その目には決意が宿っている。
「ねこさんを楽にしてあげるのだって、わかってたの。……だけど、ねこさんを『終わ』らせるのも、ねこさんがいなくなっちゃうのも……怖くて、痛くて」
「……」
俺はただ、紫の独白を静かに聞いていた。
身体を蝕む痛みを意識の外へ追いやって、紫の言葉に集中する。
「でも、わたしの痛みなんかより、ねこさんのが痛かったよね?苦しかったよね?」
「……紫」
「だから、わたし……ねこさんがいなくなるの……怖くたって……痛くたって……寂しくたって」
俺は本当に情けない。こんな、怖くて、痛くて、寂しい、そんなことさせるためにここにいるといったわけではなかったのに。
「……ねこさん、ありがとう。……ありがとう」
紫が俺の身体に手を添える。その手は微かに震えていた。
「……ありがとう。……ありがとう」
後ろ足の先から痛みが消えていく。そして、同時に感覚も消えていく。
畜生。俺は。結局、
「―――――がとう」
聴覚さえも鈍り始め、紫の声もはっきりとは聞こえない。
「―――――う」
俺は、なにも。なにもできないのか。『誰かを幸せにする』ことなんて、できないのか。
「―――――」
駄目だ!
俺がいなくなったら、紫はまた孤独に戻るだけじゃないか。そんなことがあってたまるか。
「―――――」
そうだ。俺には、あの力がある。
そう強く思ったとき、確かに『見え』た。
霞んでいた視界が、瞬間、線を結ぶ。
『紫』は感情がごちゃ混ぜになった表情で、俺のことをしっかりと見据えていた。
そうか、『紫』。俺はこんなことを二度もお前に。
「―かり!!―――――なんてない!!」
でも、安心しろ。『紫』。俺にはしっかりと『見え』た。
「『紫』!!――――――――――から!!」
だから、
「だから!!」
『紫』!!おまえは―――――。
―終―「紫」
「……」
八雲紫は想いを巡らせていた。実に様々なことに。
例えば、ここ数日、体調が優れずに結界の点検を全て藍に任せてしまっていることだとか、その体調不良の原因のことだとか。
「……はぁ」
「っ!」
物音に目をやれば、障子に影が見えた。
あのシルエットは、最近、藍の式になったという化け猫のものだ。
「……あああ、あのあのあの!お茶と!お茶菓子を持ってきました!!」
「あら、ありがとう」
名を橙といった化け猫は、まだ、私に畏縮している節がある。
緊張しているのか、びくびくとしながら足を進めるので、お盆の上のお茶がこぼれそうで危なっかしい。
私の前へお茶と爪楊枝の刺さった羊羹を差し出すと、
「ししし、失礼します!」
すぐに戻ろうとするので、
「……待ちなさい」
「っ!……はい!」
呼び止めると、焦った様子で振り返った。
自分は何かしてしまったのか、これから何をされるのだろう。そんな風に表情がコロコロ変わって面白い。
「……大丈夫。取って食べたりはしないわ。少し話に付き合ってもらいたいだけだから」
「は、話……ですか?」
「そう。だから……こっちへいらっしゃい」
出来るだけ柔らかい表情で、出来るだけ優しい声音で言った。
何故だか、誰かに居てほしかったのだ。
少女が一人、泣いている。
「……う……うぅ……ぐすっ」
嗚咽を聞くものは誰一人としていない。だから、少女は孤独に涙を流す。
「……ひっく……ぐすっ……ひっ、うぅ……」
誰もいなくなってしまった。ねこさんも。おねーさんも。
ねこさんはわたしのせいで痛くて、苦しかったから、わたしが『終わ』らせた。
そして、おねーさんは。
「……うえ……ぐす」
訊いたりしなければよかった。
訊いたりしなければ、おねーさんはまだ一緒にいてくれたかもしれない。
でも、おねーさんがいてくれても、わたしは『一人』だ。
だから、気づかなければよかった。
「……う、ぅっぅぅぅ……」
誰もいない世界、孤独に震えて、少女が一人、
―――――泣いている。
橙が戻ってこない。まさか、紫様に粗相でもしたのだろうか。そんな悪い予感ばかりする。
あまりに気がかりだったので、様子を見に行くことにした。
「……紫様、よろしいですか?」
「藍?どうぞ」
障子を開けて、不思議に思ったことが二つあった。
一つは橙の姿が見当たらないこと。ここにいなければどこにいるのだろうか。
そして、もう一つが紫様のご様子である。
「どうしたの?お茶なら貴方の式が持ってきたわよ?」
「……実は、その橙が戻らないもので」
恐る恐る聞いてみた。何故恐る恐るなのかと言うと、ここで物騒なことをさらりと言いそうなのが私の主だからだ。
「あぁ。それなら、……ここよ」
紫様が自分の膝の上を指す。そこには紫様の膝に頭を預け、気持ち良さそうに寝息を立てる橙の姿があった。
「……ほっ」
「……?何故、安心してるの?」
「い、いえ!……なんでも」
てっきり貴方様に冥土に送られているかと、なんていえるわけがない。
それにしても、
「……すー……すー……んぅ……」
「ふふふ、可愛い寝顔ね」
私の式ながら、でかしたと思う。
紫様はここ数日、理由はわからないが、ひどく沈んだご様子だったのだ。それが今はどうだろうか。橙の頭を愛おしそうに撫でるその姿に、暗いものは見受けられない。
「……?なぁに、藍?私の顔に何か付いてる?……あぁ」
私の視線に気づいた紫様が訊いてくるが、ご自分で何か気づかれたようだった。
「……はい。どうぞ。もう片方は空いているわ」
「……え」
そういって、紫様は橙の頭が乗っていないほうの膝をぽんぽんっと軽く叩いた。
少女が一人、泣いている。
「……ひっく……ぐすっ……ひっ、うぅ……」
誰もいない世界、孤独に震えて、少女が一人、
―――――泣いている。
「……うっぅぅぅぅぅ!!……だぁぁぁぁ!!」
だが、少女は。
「わぁぁぁぁぁぁぁ!!……はぁ、はぁ……」
今にも壊れてしまいそうな心を奮い立たせ、
「はぁー……よし!」
涙を拭き、身体に力をみなぎらせ、立ち上がる。
「……ねこさん言ってたもんね!!」
もう、涙は出なかった。
「……ねこさんが言ってたもんね!!一人ぼっちじゃない日が来るって!!」
一歩前へ足を踏み出す、それが自分の目指す未来への一歩だと信じて。
「ねこさんが言ってたもん!!『おまえの両膝に誰かが寝ていて、おまえがそれを見て幸せそうに笑ってる』……そんな日が来るって!!……ねこさん言ってたもん!!」
―――――もう、涙は出なかった。
「っ!」
「……あの、紫様。やっぱりですね……そのー……私……」
空いていた方の膝に藍が渋々と頭を載せたとき、私はそれに気が付いた。
『その光景』に、気が付いた。
「その……このまま眠るなんて……とっても魅力的な提案ではあると思うのですが……」
「……」
「……紫様?」
『その光景』に、胸が締め付けられたりだとか、悲しくて涙が出そうになったりだとか、そんなことはなかった。
「……紫様、どうかなさいましたか?」
「……ふふふ」
「っ!?」
ただ、嬉しかったのだ。
私を励ますための嘘なんかではなかったのだと。
自分のどこか冷めた部分が、そう解釈し始めていたのを否定できて。
「ふふふ、……ふふふふふ」
「ゆ、ゆ、ゆ……紫様?」
嬉しかったのだ。
嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて。
幸せそうに笑えている自分がさらに嬉しくて。
あまりに嬉しくて、思わず口ずさんだ歌は。
安らかに眠る隣人を気にしてか、さすがに藍にたしなめられた。
ありがとう
おもわずほろりときました。
インパクトのある作品と作者名だったからよく覚えていますよ
猫がとても良い奴だ……
次回作も楽しみに待たせていただきます
全てを承知しながらも幼い『紫』に苦渋の選択を迫らないといけなかった紫もまた、筆舌に尽くしがたい苦痛と孤独を抱え込んでいたんだろうね。
その辺の心情が丁寧に描かれているからこそ、このラストシーンにホロリとさせられる。
私的にとても好きなお話でした!
>なーるほど!ザ・ワールド!
キンキンで愛川欽也と掛けてるのかよ! と温い笑みがこみあげてきたよ。
読了後、まっさきにこの台詞が頭に浮かんだ
猫がかわいそうだけど、でも良い話だった
能力もきっちり複線になっていて面白かったです。
『紫』がかわいすぎてタマランw
最初に紫を見た時は「ゆかりん無理して若づくりしすぎだろう」とか思(ry