白狼天狗の犬走椛は、情報収集や新聞などを生業とする鴉天狗の射命丸文の後輩である。
下っ端の白狼天狗の椛にしてみれば、鴉天狗で、おまけに天狗の中でも屈指の力量を誇る文は敬うべき先輩。
凝り固まった縦社会である天狗社会において、それは白狼天狗と鴉天狗のあるべき関係ではあったのだが。
―――さて、この犬走椛と射命丸文の二人。そんな一般的な関係とは、ちょっとした相違があった。
▼
白狼天狗の仕事は主に妖怪の山に進入するものがいないかの見張り、そして迎撃が主である。
しかし、この妖怪の山に侵入しようなどと言う輩はあまり多くない。というのも、この山は河童、ひいては山の神々、そして天狗達という多くの種族たちが住む。
この山の妖怪は基本的に排他的で、なおかつこの場所自体が幻想郷のパワーバランスの一角を担うほどの場所だ。
そんな場所に、積極的に攻めいろうなどという輩は、今の幻想郷には存在しない。皆、今の平和な幻想郷を好んでいたのであった。
まぁ、たまに紅白の巫女やら黒白の魔法使いが我が物顔で侵入してくるが、それはそれ、ご愛嬌というやつである。
当然、そうなれば白狼天狗の仕事というのは存外に暇なもので、こうして椛は暇つぶしにと友人である河童の河城にとりと将棋にいそしむのである。
「はい椛、王手だよ」
「む、待った」
「はいはい、待った無し」
軽快につむがれた友人の言葉に、むぅっと気難しげにうなりながら、盤上の駒に視線を向ける。
困ったことに、頭の中でいくつかシュミレートしてみたが数手先で積んでしまう。完全に手詰まりというやつであった。
現在、椛のほうが負け越しているということもあり、今日は勝っておきたかったのだが今回もダメのようである。
そんなときである。椛の耳に、風きり音が到来したのは。
「椛ぃぃぃぃぃ! もふもふさせろぉぉぉぉぉぉ!!」
先輩、到来である。
聞こえてきた声はにとりもよく知る鴉天狗、射命丸文の声。
彼女はあろうことか音速を余裕でブッチ切った速度でこちらに飛来し、発生したソニックブームが辺りの木々を薙ぎ払っている。
まるで戦闘機の如きその速度。にとりがぎょっとした表情を浮かべるが、対して椛はと言うと心底疲れきったため息を零すのみ。
あわや着弾か!? と誰もが危惧したその刹那、椛が動く。
音速を超えて飛来する彼女の脇に、華麗な足取りでするりと滑り込み、真横から文の腰を抱えるように引っつかむ。
そしてそのまま勢いを味方につけ、椛が全力で後ろに跳び。
「やかましい!!」
「きゃぼぅっ!!?」
見事なジャンピングジャーマンスープレックスを先輩に叩き込んでいたのであった。
悲鳴も上半身が土に埋もれたことで半ばで聞こえなくなり、将棋の盤上を爆☆砕しながら鴉天狗の陸上版犬神家が誕生した瞬間である。
何事もなかったように平然と立ち上がった椛は、埃を払うようにぱんぱんとスカートをはたく。
「あぁ、これでは勝敗はうやむやになってしまったねにとり。もう一度再戦といこうか」
「いや、今狙ってやったでしょ? 今間違いなく狙って盤上に叩き落しただろアンタ!!?」
それも自分の先輩を、である。
厳格な縦社会の中で生きる天狗達において、このような蛮行をさも平然と成し遂げるその胆力に驚くが、それはそれ、これはこれである。勝負をうやむやにされてはたまったものではない。
にとりの怒りもごもっともだが、対する椛はのんきなもので、すでに爆砕した盤上の代わりを用意している。
そして埋まった頭を地面から引っこ抜き、すぐさま復帰を果たした文もとんだタフさであった。
「あぁ、文さんこんにちわ。怪我はないですか?」
「怪我の心配するならジャーマンスープレックスなんて決めないでよ!!」
「いやぁ、だって文さんのもふもふさせろはもう正直お腹いっぱいなんで」
主に胸の辺り。この先輩のやや大きめの胸部が背中に押し付けられると、まな板の椛は軽く殺意を覚えてしまうのである。
そのまま首根っこを引っつかんだまま一本背負いしてやろうかこのアマと何度思ったことか。
そうして、椛は天啓に行きあったったのである。
それすなわち、どうせ投げたくなってしまうんならいっそ抱きつかれる前に分投げてしまえば良いと!
「聞きましたかにとり! 最近、椛が冷たいとは思わない!!?」
「うわぁ、うざっ」
妖怪、人間に限らず他人の痴話喧嘩や惚け話ほど鬱陶しいものはないわけで、それに加えて先ほどの勝負をうやむやにされてしまったにとりは少々不機嫌であったのだ。
そのせいか思わずぽろっとこぼれた本音。あ、ヤベッ! と気がついた時にはもうすでに遅い。
こっそりと、にとりは文の表情をのぞき見てみると……目じりに大量の涙をためて今にも泣き出しそうであった。
「うわぁぁぁぁぁぁん椛の馬鹿ぁぁぁぁぁぁぁぁ!! そこでにとりと乳繰り合ってろぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
「誤解を生むような発言やめてよ!!?」
脱兎のごとく空を翔る射命丸。にとりの抗議の声ももはや聞こえてはいまい。
あっという間に見えなくなった先輩を見送ると、改めてにとりと盤上をはさんで向かい合った。
「さて、もう一局打とうか」
「いや、アンタは追っかけなよ!!?」
すぱぁぁんっとどこからともなく取り出したハリセンで椛の頭を殴打する。なんともいい音が滝の付近で鳴り響く。
そんなツッコミを受けつつも、椛は困ったように頭をかくだけで動こうとはしない。
それは、今彼女の元に行っても余計に怒らせるだけだということを、椛は知っていたからである。
こういったときは、彼女が落ち着くのを待って改めて謝りに行ったほうがいい。経験上、それは椛の中では確かなことであった。
「ったく、そんなんじゃ愛想つかされちゃうよ?」
心底疲れきったようにため息をついたにとりだったが、それも無理らしからぬことだろう。
これでも、この友人のことは気にかけているし、二人の仲を応援したいという気持ちも確かにある。
だというのにだ、この椛ときたら先輩を投げ飛ばすわ軽くあしらうわで、他の鴉天狗なんかからはすこぶる評判が悪い。
厳しい縦社会の中で生きる天狗達にしてみれば、そういった型の枠に収まらない犬走椛という白狼天狗はまさに目の上のこぶだった。
本人がまさに、そのことについて何にも思ってないのだからなおのことたちが悪い。
「あいにく、私はにとりと雛さんみたいにいちゃいちゃできないよ。そういう性分でもないし、恥ずかしいから」
「む、雛は関係ないだろ?」
あと誰がいちゃいちゃしとるかとしっかり抗議。
すると、椛はくすくすと苦笑して、指を上に向ける。
彼女の指につられて視線を上に向けると、まさに噂の人物、鍵山雛がくるくると優雅に降りてくるところであった。
とたん、「わっ、わっ!?」と慌てふためくにとりに、椛はおかしくて笑いをこらえるのが精一杯。
「こんにちわ、にとり。椛も、元気そうで何よりだわ」
「あぁ、お久しぶりです雛さん。お茶でもどうですか?」
「ありがとう、いただくわ」
こぽこぽと竹作りの水筒から、竹作りの器にお茶が注がれる。
その間に雛はさりげなく、にとりの隣にちょこんと座った。とたん、視線をせわしなく動かし始めるにとりだったが、そのことを指摘するのはやめておこうと、椛は二人にお茶を差し出した。
「ありがとう、椛。文さんにもそれぐらい優しくしてあげればいいのに」
「見ていたんですか?」
「えぇ。というよりも、文さんが泣きながら飛んでいってたから、そう思っただけなのだけれど」
優しい微笑を浮かべる雛の言葉に、椛はいたたまれなくなって苦笑してごまかすことにした。
雛のような、誰にでも優しい人物というのが椛は苦手であった。
こう、うまいこと自分の非を改めて思い知らされているようで、余計に罪悪感が募ってしまうのである。
「あ、そうだわ。この間、早苗ちゃんから人里においしい和菓子屋ができたと聞いたの。今度、そこに誘ってはどうかしら?」
そして、こういう風にさりげなくフォローしてくれるのだから、椛にしてみれば彼女に頭が上がらない。
雛の情報をありがたく思いながら、仕事が終わったら行ってみようかなとぼんやり考える。
なんとなく二人に視線を向けてみれば、にとりが先ほどのことに愚痴をこぼしていて、雛はそれを黙って優しそうな笑顔を浮かべて聞き入っている。
やんちゃな妹を気にかけるお姉さんみたいな光景が広がっていて、なんだかとてもほほえましい。
なんだか、少し……うらやましいなと、少しだけ思ってしまう。
そう考え始めた思考を、いけないいけないと打ち切って、すくっと立ち上がる。
これ以上、二人の邪魔をするのもなんだし、それにもうそろそろ交代の時間だ。
「それじゃ、私はそろそろ交代の時間なんで。ごゆっくり」
「えぇ、がんばってね、椛」
こちらが気を使ったことを察してくれたのだろう。満面の笑みを浮かべた雛の言葉に、椛はくすぐったそうに頭をかいてふわりと飛び上がった。
交代に赴いた同僚と事務的な会話すると、彼女は一目散に人里に飛び去っていく。
応援されてしまったのでは、やはりこのままというわけにも行かず、ため息をついた椛の表情には、どこかうれしそうに微笑んでいた。
▼
本音を言ってしまえば、犬走椛は鴉天狗というものがひどく嫌いだった。
天狗達の中においてもなお傲慢で、プライドが高く、自分たち白狼天狗、つまりは下っ端を見下すような連中ばかり。
しかし、厳しい縦社会の天狗達において、白狼天狗は彼らに文句を言うことすら許されない。悪い場合、鴉天狗の不始末を自分たちが拭うことも多い。
そんなときに、椛は射命丸文と出会ったのである。
常に自分の実力を隠しながらも、鴉天狗の中では随一の実力者。ともすれば、いずれは大天狗や天魔にすら届くのではないかと噂されるほど。
「あなたが、犬走椛ね?」
その声は、鈴を転がしたような凛とした声。耳によく通るその声は、どこか楽しげであったと椛は記憶している。
当時、鴉天狗に不信感を募らせていた椛は、いったい今度はどんな無理難題を持ってくるつもりだと、内心で思いながらも返事をしたのを覚えている。
ふと見てみれば、件の鴉天狗はうずうずとした様子でこちらを見つめている。その理由がさっぱりわからず、内心で首をかしげていた椛だったのだが。
「あぁ、もう我慢できない!! もふもふさせなさい!!」
「はぁっ!!?」
ガバッとだきつかれ、すりすりと頬ずりされる。
突然のことに素っ頓狂な声を上げてしまったのだが、文は困ったことに気にした風もない。
この射命丸文、ほとんど知れ渡っていないことだったがかわいい物好きであり、犬走椛は彼女の好みのストライクゾーンど真ん中であったのだ。
当然、当時の椛がそんなこと知るはずもなく。
「だぁぁぁぁぁぁぁぁもう、鬱陶しいわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「へぶぅっ!!?」
そろそろ胸あたりをまさぐり始めた先輩にものの見事なバックドロップを叩き込んでいたのであった。
あの後、自分のしでかしたことに恐れおののいた椛であったのだが、当の文は気にした風もなくけらけらと笑った。
正直、拍子抜けしたといっていい。それから、文は椛に対してフランクに話しかけるようになり、椛もだが徐々に、文に対して打ち解けていった。
初めて、であった。こういった風に、下っ端の自分たちにも分け隔てなく接してくれる鴉天狗は、彼女が初めてだったのだ。
聞けば、彼女は人里に赴いて取材を敢行したりする変わり者で、人間の知り合いも何人もいるらしい。
それでなるほどと、納得した。
人間なんて相手にもしない天狗達の中で、彼女はそういった風に交友関係が広く、それでいて取材対象には礼儀正しい。それが人間であってもだ。
それなら、自分たちに分け隔てなく会話するぐらいなんでもないことだろう。
気になるという感情はやがて憧れへ、そして好意と変わっていく。
それが恥ずかしくて、照れくさいと思う。自分はどうやら、思っていた以上にひねくれものらしく、文のようにストレートに言葉にすることがどうしてもできなかった。
人前でいちゃいちゃするのも恥ずかしいし、あぁやって好意をぶつけられてもついつい、出会ったときの調子で投げ飛ばしてしまうのだ。
直さなきゃいけないなぁとは思うのだが、これがなかなかに強敵で直りがたい。
▼
「文さん、いらっしゃいますか?」
時間はすでに深夜。夜もすでに深く、あたりは寝静まっているだろう時間帯に、椛は文の自宅を訪れていた。
ドアは開いており、我が家のような感覚で椛は家の中に足を踏み入れる。
積み重なった紙の束。これがすべて新聞なのだと知ると、椛はあいも変わらず仕事熱心な方だと苦笑した。
奥のほうに歩みを進めれば、案の定、射命丸文は机の上で突っ伏したまま眠りに落ちている。
彼女の顔の下には、出来上がったばかりの新聞の原稿。それを見て苦笑しながら、椛は奥の襖を開けると、毛布を取り出して文の体にかけてあげた。
んっと身じろぎひとつして、幸せそうな表情になった文だったが起きる気配はない。
そんな彼女にやれやれと肩をすくめて苦笑しながら、椛は近くにあったいすに腰掛けた。
手には人里で購入した和菓子の箱。仕事中だろうし、糖分の補給にちょうど良いだろうと思って持ってきたのだが、どうやら少し遅かったらしい。
「文さん、おやすみなさい。いつもいつも、お疲れ様です」
仕事に熱心な性分も、椛は知っている。人々には忌み嫌われる新聞記者という仕事に誇りを持っていることも、もちろん知っている。
そんな彼女に引かれて、鴉天狗嫌いの自分がこうやって彼女を気にかけている。
世の中、何が起こるかわからないものだなぁと苦笑すると、椛は開いているテーブルの上に和菓子の入った箱を置くと、置手紙を残して彼女を起こさないように家を後にした。
謝るのは明日にしよう。幸い、明日は非番で暇だし、人里の菓子屋に出向くのも良いし、彼女の仕事を手伝うのも悪くない。
明日のプランを考えながら、椛は軽い足取りで歩き出す。
他の鴉天狗と白狼天狗とは違う、先輩と後輩の関係。
それでも、お互い悪くないものだと自覚して、それで好んで二人で一緒にいるということ。
その二人の関係の始まりは、バックドロップから始まった奇妙な関係だけれども。
それでも、お互いに素の自分をさらけ出せるこの上下関係が、文も椛もたまらなく好きだったのだ。
下っ端の白狼天狗の椛にしてみれば、鴉天狗で、おまけに天狗の中でも屈指の力量を誇る文は敬うべき先輩。
凝り固まった縦社会である天狗社会において、それは白狼天狗と鴉天狗のあるべき関係ではあったのだが。
―――さて、この犬走椛と射命丸文の二人。そんな一般的な関係とは、ちょっとした相違があった。
▼
白狼天狗の仕事は主に妖怪の山に進入するものがいないかの見張り、そして迎撃が主である。
しかし、この妖怪の山に侵入しようなどと言う輩はあまり多くない。というのも、この山は河童、ひいては山の神々、そして天狗達という多くの種族たちが住む。
この山の妖怪は基本的に排他的で、なおかつこの場所自体が幻想郷のパワーバランスの一角を担うほどの場所だ。
そんな場所に、積極的に攻めいろうなどという輩は、今の幻想郷には存在しない。皆、今の平和な幻想郷を好んでいたのであった。
まぁ、たまに紅白の巫女やら黒白の魔法使いが我が物顔で侵入してくるが、それはそれ、ご愛嬌というやつである。
当然、そうなれば白狼天狗の仕事というのは存外に暇なもので、こうして椛は暇つぶしにと友人である河童の河城にとりと将棋にいそしむのである。
「はい椛、王手だよ」
「む、待った」
「はいはい、待った無し」
軽快につむがれた友人の言葉に、むぅっと気難しげにうなりながら、盤上の駒に視線を向ける。
困ったことに、頭の中でいくつかシュミレートしてみたが数手先で積んでしまう。完全に手詰まりというやつであった。
現在、椛のほうが負け越しているということもあり、今日は勝っておきたかったのだが今回もダメのようである。
そんなときである。椛の耳に、風きり音が到来したのは。
「椛ぃぃぃぃぃ! もふもふさせろぉぉぉぉぉぉ!!」
先輩、到来である。
聞こえてきた声はにとりもよく知る鴉天狗、射命丸文の声。
彼女はあろうことか音速を余裕でブッチ切った速度でこちらに飛来し、発生したソニックブームが辺りの木々を薙ぎ払っている。
まるで戦闘機の如きその速度。にとりがぎょっとした表情を浮かべるが、対して椛はと言うと心底疲れきったため息を零すのみ。
あわや着弾か!? と誰もが危惧したその刹那、椛が動く。
音速を超えて飛来する彼女の脇に、華麗な足取りでするりと滑り込み、真横から文の腰を抱えるように引っつかむ。
そしてそのまま勢いを味方につけ、椛が全力で後ろに跳び。
「やかましい!!」
「きゃぼぅっ!!?」
見事なジャンピングジャーマンスープレックスを先輩に叩き込んでいたのであった。
悲鳴も上半身が土に埋もれたことで半ばで聞こえなくなり、将棋の盤上を爆☆砕しながら鴉天狗の陸上版犬神家が誕生した瞬間である。
何事もなかったように平然と立ち上がった椛は、埃を払うようにぱんぱんとスカートをはたく。
「あぁ、これでは勝敗はうやむやになってしまったねにとり。もう一度再戦といこうか」
「いや、今狙ってやったでしょ? 今間違いなく狙って盤上に叩き落しただろアンタ!!?」
それも自分の先輩を、である。
厳格な縦社会の中で生きる天狗達において、このような蛮行をさも平然と成し遂げるその胆力に驚くが、それはそれ、これはこれである。勝負をうやむやにされてはたまったものではない。
にとりの怒りもごもっともだが、対する椛はのんきなもので、すでに爆砕した盤上の代わりを用意している。
そして埋まった頭を地面から引っこ抜き、すぐさま復帰を果たした文もとんだタフさであった。
「あぁ、文さんこんにちわ。怪我はないですか?」
「怪我の心配するならジャーマンスープレックスなんて決めないでよ!!」
「いやぁ、だって文さんのもふもふさせろはもう正直お腹いっぱいなんで」
主に胸の辺り。この先輩のやや大きめの胸部が背中に押し付けられると、まな板の椛は軽く殺意を覚えてしまうのである。
そのまま首根っこを引っつかんだまま一本背負いしてやろうかこのアマと何度思ったことか。
そうして、椛は天啓に行きあったったのである。
それすなわち、どうせ投げたくなってしまうんならいっそ抱きつかれる前に分投げてしまえば良いと!
「聞きましたかにとり! 最近、椛が冷たいとは思わない!!?」
「うわぁ、うざっ」
妖怪、人間に限らず他人の痴話喧嘩や惚け話ほど鬱陶しいものはないわけで、それに加えて先ほどの勝負をうやむやにされてしまったにとりは少々不機嫌であったのだ。
そのせいか思わずぽろっとこぼれた本音。あ、ヤベッ! と気がついた時にはもうすでに遅い。
こっそりと、にとりは文の表情をのぞき見てみると……目じりに大量の涙をためて今にも泣き出しそうであった。
「うわぁぁぁぁぁぁん椛の馬鹿ぁぁぁぁぁぁぁぁ!! そこでにとりと乳繰り合ってろぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!」
「誤解を生むような発言やめてよ!!?」
脱兎のごとく空を翔る射命丸。にとりの抗議の声ももはや聞こえてはいまい。
あっという間に見えなくなった先輩を見送ると、改めてにとりと盤上をはさんで向かい合った。
「さて、もう一局打とうか」
「いや、アンタは追っかけなよ!!?」
すぱぁぁんっとどこからともなく取り出したハリセンで椛の頭を殴打する。なんともいい音が滝の付近で鳴り響く。
そんなツッコミを受けつつも、椛は困ったように頭をかくだけで動こうとはしない。
それは、今彼女の元に行っても余計に怒らせるだけだということを、椛は知っていたからである。
こういったときは、彼女が落ち着くのを待って改めて謝りに行ったほうがいい。経験上、それは椛の中では確かなことであった。
「ったく、そんなんじゃ愛想つかされちゃうよ?」
心底疲れきったようにため息をついたにとりだったが、それも無理らしからぬことだろう。
これでも、この友人のことは気にかけているし、二人の仲を応援したいという気持ちも確かにある。
だというのにだ、この椛ときたら先輩を投げ飛ばすわ軽くあしらうわで、他の鴉天狗なんかからはすこぶる評判が悪い。
厳しい縦社会の中で生きる天狗達にしてみれば、そういった型の枠に収まらない犬走椛という白狼天狗はまさに目の上のこぶだった。
本人がまさに、そのことについて何にも思ってないのだからなおのことたちが悪い。
「あいにく、私はにとりと雛さんみたいにいちゃいちゃできないよ。そういう性分でもないし、恥ずかしいから」
「む、雛は関係ないだろ?」
あと誰がいちゃいちゃしとるかとしっかり抗議。
すると、椛はくすくすと苦笑して、指を上に向ける。
彼女の指につられて視線を上に向けると、まさに噂の人物、鍵山雛がくるくると優雅に降りてくるところであった。
とたん、「わっ、わっ!?」と慌てふためくにとりに、椛はおかしくて笑いをこらえるのが精一杯。
「こんにちわ、にとり。椛も、元気そうで何よりだわ」
「あぁ、お久しぶりです雛さん。お茶でもどうですか?」
「ありがとう、いただくわ」
こぽこぽと竹作りの水筒から、竹作りの器にお茶が注がれる。
その間に雛はさりげなく、にとりの隣にちょこんと座った。とたん、視線をせわしなく動かし始めるにとりだったが、そのことを指摘するのはやめておこうと、椛は二人にお茶を差し出した。
「ありがとう、椛。文さんにもそれぐらい優しくしてあげればいいのに」
「見ていたんですか?」
「えぇ。というよりも、文さんが泣きながら飛んでいってたから、そう思っただけなのだけれど」
優しい微笑を浮かべる雛の言葉に、椛はいたたまれなくなって苦笑してごまかすことにした。
雛のような、誰にでも優しい人物というのが椛は苦手であった。
こう、うまいこと自分の非を改めて思い知らされているようで、余計に罪悪感が募ってしまうのである。
「あ、そうだわ。この間、早苗ちゃんから人里においしい和菓子屋ができたと聞いたの。今度、そこに誘ってはどうかしら?」
そして、こういう風にさりげなくフォローしてくれるのだから、椛にしてみれば彼女に頭が上がらない。
雛の情報をありがたく思いながら、仕事が終わったら行ってみようかなとぼんやり考える。
なんとなく二人に視線を向けてみれば、にとりが先ほどのことに愚痴をこぼしていて、雛はそれを黙って優しそうな笑顔を浮かべて聞き入っている。
やんちゃな妹を気にかけるお姉さんみたいな光景が広がっていて、なんだかとてもほほえましい。
なんだか、少し……うらやましいなと、少しだけ思ってしまう。
そう考え始めた思考を、いけないいけないと打ち切って、すくっと立ち上がる。
これ以上、二人の邪魔をするのもなんだし、それにもうそろそろ交代の時間だ。
「それじゃ、私はそろそろ交代の時間なんで。ごゆっくり」
「えぇ、がんばってね、椛」
こちらが気を使ったことを察してくれたのだろう。満面の笑みを浮かべた雛の言葉に、椛はくすぐったそうに頭をかいてふわりと飛び上がった。
交代に赴いた同僚と事務的な会話すると、彼女は一目散に人里に飛び去っていく。
応援されてしまったのでは、やはりこのままというわけにも行かず、ため息をついた椛の表情には、どこかうれしそうに微笑んでいた。
▼
本音を言ってしまえば、犬走椛は鴉天狗というものがひどく嫌いだった。
天狗達の中においてもなお傲慢で、プライドが高く、自分たち白狼天狗、つまりは下っ端を見下すような連中ばかり。
しかし、厳しい縦社会の天狗達において、白狼天狗は彼らに文句を言うことすら許されない。悪い場合、鴉天狗の不始末を自分たちが拭うことも多い。
そんなときに、椛は射命丸文と出会ったのである。
常に自分の実力を隠しながらも、鴉天狗の中では随一の実力者。ともすれば、いずれは大天狗や天魔にすら届くのではないかと噂されるほど。
「あなたが、犬走椛ね?」
その声は、鈴を転がしたような凛とした声。耳によく通るその声は、どこか楽しげであったと椛は記憶している。
当時、鴉天狗に不信感を募らせていた椛は、いったい今度はどんな無理難題を持ってくるつもりだと、内心で思いながらも返事をしたのを覚えている。
ふと見てみれば、件の鴉天狗はうずうずとした様子でこちらを見つめている。その理由がさっぱりわからず、内心で首をかしげていた椛だったのだが。
「あぁ、もう我慢できない!! もふもふさせなさい!!」
「はぁっ!!?」
ガバッとだきつかれ、すりすりと頬ずりされる。
突然のことに素っ頓狂な声を上げてしまったのだが、文は困ったことに気にした風もない。
この射命丸文、ほとんど知れ渡っていないことだったがかわいい物好きであり、犬走椛は彼女の好みのストライクゾーンど真ん中であったのだ。
当然、当時の椛がそんなこと知るはずもなく。
「だぁぁぁぁぁぁぁぁもう、鬱陶しいわぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
「へぶぅっ!!?」
そろそろ胸あたりをまさぐり始めた先輩にものの見事なバックドロップを叩き込んでいたのであった。
あの後、自分のしでかしたことに恐れおののいた椛であったのだが、当の文は気にした風もなくけらけらと笑った。
正直、拍子抜けしたといっていい。それから、文は椛に対してフランクに話しかけるようになり、椛もだが徐々に、文に対して打ち解けていった。
初めて、であった。こういった風に、下っ端の自分たちにも分け隔てなく接してくれる鴉天狗は、彼女が初めてだったのだ。
聞けば、彼女は人里に赴いて取材を敢行したりする変わり者で、人間の知り合いも何人もいるらしい。
それでなるほどと、納得した。
人間なんて相手にもしない天狗達の中で、彼女はそういった風に交友関係が広く、それでいて取材対象には礼儀正しい。それが人間であってもだ。
それなら、自分たちに分け隔てなく会話するぐらいなんでもないことだろう。
気になるという感情はやがて憧れへ、そして好意と変わっていく。
それが恥ずかしくて、照れくさいと思う。自分はどうやら、思っていた以上にひねくれものらしく、文のようにストレートに言葉にすることがどうしてもできなかった。
人前でいちゃいちゃするのも恥ずかしいし、あぁやって好意をぶつけられてもついつい、出会ったときの調子で投げ飛ばしてしまうのだ。
直さなきゃいけないなぁとは思うのだが、これがなかなかに強敵で直りがたい。
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「文さん、いらっしゃいますか?」
時間はすでに深夜。夜もすでに深く、あたりは寝静まっているだろう時間帯に、椛は文の自宅を訪れていた。
ドアは開いており、我が家のような感覚で椛は家の中に足を踏み入れる。
積み重なった紙の束。これがすべて新聞なのだと知ると、椛はあいも変わらず仕事熱心な方だと苦笑した。
奥のほうに歩みを進めれば、案の定、射命丸文は机の上で突っ伏したまま眠りに落ちている。
彼女の顔の下には、出来上がったばかりの新聞の原稿。それを見て苦笑しながら、椛は奥の襖を開けると、毛布を取り出して文の体にかけてあげた。
んっと身じろぎひとつして、幸せそうな表情になった文だったが起きる気配はない。
そんな彼女にやれやれと肩をすくめて苦笑しながら、椛は近くにあったいすに腰掛けた。
手には人里で購入した和菓子の箱。仕事中だろうし、糖分の補給にちょうど良いだろうと思って持ってきたのだが、どうやら少し遅かったらしい。
「文さん、おやすみなさい。いつもいつも、お疲れ様です」
仕事に熱心な性分も、椛は知っている。人々には忌み嫌われる新聞記者という仕事に誇りを持っていることも、もちろん知っている。
そんな彼女に引かれて、鴉天狗嫌いの自分がこうやって彼女を気にかけている。
世の中、何が起こるかわからないものだなぁと苦笑すると、椛は開いているテーブルの上に和菓子の入った箱を置くと、置手紙を残して彼女を起こさないように家を後にした。
謝るのは明日にしよう。幸い、明日は非番で暇だし、人里の菓子屋に出向くのも良いし、彼女の仕事を手伝うのも悪くない。
明日のプランを考えながら、椛は軽い足取りで歩き出す。
他の鴉天狗と白狼天狗とは違う、先輩と後輩の関係。
それでも、お互い悪くないものだと自覚して、それで好んで二人で一緒にいるということ。
その二人の関係の始まりは、バックドロップから始まった奇妙な関係だけれども。
それでも、お互いに素の自分をさらけ出せるこの上下関係が、文も椛もたまらなく好きだったのだ。
これでいいんだ
ごちそうさまですw
でも椛は文より強いのだ。ゼッタイ!!
真にもって、ご馳走様でした。
2人のやりとりを見てニヤニヤ
もっとイチャイチャしてもいいのよ。
しかしバックドロップとはw
あれ、この文章どっかで見た様な…と思ったらやはり貴方でしたかwwてか椛、割と頻繁にこれやってない?