―――夜空に輝く、星に願いを。
▼
季節はすっかりと春になり、外では春を告げる妖精が楽しげに飛び回っている。
もっとも、春先の夜はとても寒く、吸血鬼である私―――フランドール・スカーレットには未だに春の暖かさには触れた覚えがない。
寒々とした空気は紅魔館内部にも入り込み、館の内部で働く妖精たちは白い息を吐いてみんな寒そうだった。
冷たい空気を肌で感じながら、妖精メイドの隣を通り過ぎる。彼女達と軽く会釈をして足を速めると、目的の扉の前にたどり着いた。
扉の硬質な感触を手のひらで感じながら、なるべく音を立てないように押し開ける。
すると広がった光景は本棚の森と形容できそうなほど、広大な面積に大量の本棚の群れ。
この館の地下に存在する図書館のこの景色は、いつ見ても圧倒される。
ふと、この図書館の主は余りからだが強くないことを思い出した私は、急いで、けれど音を立てないように静かに扉を閉じた。
「あら、妹様。今日もこちらで読書ですか?」
振り返ってみれば偶然通りかかったのか、深紅の髪を靡かせて微笑を浮かべる小悪魔がそこにいた。
その手には大量の本が抱えられており、仕事の途中だったのだろう。いつもいつも、彼女の勤勉さには頭が下がる。
「うん、あなたも大変ね小悪魔。手伝おうか?」
「いえいえ、ご心配無用です。私のことは大丈夫ですから、ゆっくりと楽しんでいってくださいな」
そう言われてしまえば、これ以上の言葉は無用な気遣いとなってしまうだろう。
その「私は仕事が楽しいですから」という笑顔が全てを語っているような気がして、私は「ありがとう」と伝えてから、彼女の言葉に甘えて図書館の奥に向かった。
ここは魔女の領域。本と共に生活し、本をこよなく愛する本の虫は、今日もいつものテーブルの、いつもの席で物静かに読書に耽っている。
ぺらり、ぺらりとページをめくる紙の音だけが静かな空間に響いて耳に届く。
藤色の長い髪が背中を流れ、病弱そうな色白の肌をした指がページをめくる。半眼で、ともすれば眠そうとも取れる視線は、ずっと本に向けたまま動かない。
相変わらずな様子に安堵すると、私は手短な場所からそれらしい本を二、三冊ほど選んでテーブルに歩みを向けた。
「パチュリー、隣座るわよ」
「えぇ、どうぞ妹様」
一応の許可をもらうと、彼女の隣の椅子を引いて座り、手にしていた本をテーブルの上に置く。
程なくして、小悪魔がトレーに紅茶とクッキーを載せて私の前に用意してくれる。
私がお礼を言うと、彼女は満足そうに微笑みながら再び仕事に戻っていった。
いつものことだけれど、彼女のさりげない気遣いがありがたい。こういうところは、彼女の美点だと素直に思える。
でもまぁ、時々見せる小悪魔らしいちょっとした悪戯も、少し考えものではあるけれど。
ダージリンの独特な甘い香りに引かれて、ティーカップの取っ手に指をかける。
心地よい香りを少し堪能した後、そのまま一口ダージリンを飲んでみれば、特有の渋さが舌全体を刺激した。
咲夜には及ばないけれど、やっぱり美味しい。小悪魔もここでパチュリーに紅茶を淹れたりしているから、その恩恵だろう。
ティーカップを元に戻すと、選んだ本の表紙をめくって読書を開始する。
選んだ本は天体関係のもの、星や太陽のことが記されている書物で、目次を流し読みして目的のページを見つけると、私はその場所までページをめくった。
「あった」
歓喜の色を交えた声が、口ずさむようについて出る。
ページの項目には、ほかの字面とは倍近い大きさの文字でSpicaと、そう書かれていた。
Spica―――、ここではもっぱらスピカ、あるいは真珠星と呼ばれるそれは、蒼白い光が強く輝く星のひとつ。
知識だけでしか知らないけれど、おとめ座の女神が持つ稲穂の先に位置していて、スピカの名称もラテン語の穂先に由来する。
春の夜に見られるその星は、もうそろそろこの幻想郷の空でも見られるはずだった。
私は、今まで地下に幽閉されていたおかげでまったく目にしたことがない。
この幻想郷ではその美しさから真珠星とまで呼ばれるそれを、一目でいいから見てみたかった。
直に、この目で。
元々、吸血鬼は夜の生き物。だから、夜に起きている分には問題ないのだけれど、問題はその星がどの辺りに見えるのかという知識が不足してしまっていること。
春の夜、という情報だけでは、余りにも不足している。だから、私はおとめ座の図解が記された本を探すことにしたのだ。
スピカの項目を開いたまま、もう一つの本に手を伸ばし、目次を確認する。
それから目的のページまで一気にめくると、星と星を線で結んだ図解のページに行き着く。
幸先がいい。こうやってすぐに図解で説明された書物を引き当てたことは僥倖だった。
何しろ、ここの図書館はとても広い。古今東西様々な書物が混在するこの図書館には、もちろんのこと図のない書物の方が多いくらい。
余計な手間が省けたことは、素直に喜ぶべきことだと思う。
「ねぇ、パチュリー。この本、今日は借りていっていいかしら?」
問いかけの声はさほど大きくはなかったけれど、この位置でなら問題なく聞き取れたはず。
その考えはやはり間違えではなかったようで、パチュリーは小さく頷いて了承の意を示してくれた。
相変わらず、その視線は本に向けられたままだったけれど、それが彼女らしくてなんだか安心する。
「かまわないわよ。妹様なら、黒と白で構成された野良ネズミとは違ってちゃんと返してくれるでしょうし」
「刺々しいなぁ。もしかして今日、魔理沙が来たの?」
「……えぇ、しっかりと私の本をちょろまかして行ったわ」
まったく、あの黒白は。と、珍しく額に眉を寄せてパチュリーはため息をつく。
魔理沙も相変わらずだなぁと思って苦笑したけれど、言葉にはせずに飲み込んだ。
相変わらず二人とも仲が良いんだか、それとも仲が悪いのかよくわからない。
けれど、よく二人でいるところを見るし、喧嘩もするけれど、結構いいコンビだと思うんだけれどな私は。
もちろん、これを指摘するとパチュリーは不機嫌になっちゃうから、絶対に彼女の前では言わないけれど。
本を閉じて脇に抱え込むと席を立つ。
ちょっともったいないけれどダージリンを一気に飲み干して、まだ手をつけていなかった小悪魔手製のクッキーの袋を本を持つ逆の手で持った。
「それじゃ、私はこれで失礼するわ。ありがとう、パチュリー」
花咲くような笑顔でそう告げて、はやる気持ちを抑えて入り口に向けて歩く。
途中で作業していた小悪魔とも会釈して、入り口の扉に手をかけて、ゆっくりと押す。
「あぁ、そうそう妹様」
さびた鉄が鳴らすような、重厚で軋むギィッという音。
その音に混じって、パチュリーの声が耳に侵入する。
なんだろうと、不思議に思って扉を押し開いた状態のまま振り返ると、それを見越したように彼女は言葉を続けた。
「真珠星を見たいのなら三日後がお勧め。しばらくは天気が悪くて見られないわ」
少し、驚いた。
どうして、私がこの星を見ようとしているのを知っているのか疑問に思ったけれど、それでもその忠告はありがたかった。
我等が紅魔館の誇る知識の魔女。その言葉は、十分に信用に足るものだろうと私は思う。
「ありがとう」と告げて、私は図書館を後にした。
本当ならすぐに見ようと思っていたのだけれど、彼女の言が確かなら、今頃空はどんより雲が支配しているはずだ。
赤い絨毯の敷かれた廊下を歩き、ふと、確かめたくなった私は階段を登って地下から一階に寄り道をすることにした。
カツン、カツン、と硬質な床を踏む音が、階段の空間に反響する。
結構な長さのその階段を登りきってみれば、この洋館には数少ない窓が視界に映った。
じぃっと、視界を窓越しの夜空に向ける。
外はパチュリーのいうとおり、重く圧し掛かるような曇り空だった。
▼
ことの始まりは、魔理沙の一言が原因だったように思う。
「なぁフラン、真珠星って知ってるか?」なんて得意気に言葉にした魔理沙は、悪戯好きの子供のような笑顔だった。
星型の弾幕やスペルカードを使う魔理沙がその星のよさを語るものだから、私も少しずつ興味が沸いてきたのだ。
元々、永い間幽閉されていた私は、部屋にあった書物でしか知らない知識が多い。
スピカという星のことは知っていたけれど、それがここでは真珠星だというのはその時にはじめて知らされた。
春になると現われる、宝石の名を冠した女神の穂先。
そう思う自分がおかしくて、案外ロマンチストだったのかなと、魔理沙の話を聞きながら苦笑した。
「三日後かぁ」
だからこそ、私の期待は大きかったから、その落胆も一際大きい。
自室でぼやく私の声に応える人物は、当然ながら誰もいないわけで。
三日後と、言葉にすればとても短いけれど、いざ待つとなればとても長いように思えて苦痛に感じる。
元々、我慢強い方ではない私にとっては、三日と言う期間のお預けはまさに拷問に等しかった。
椅子の背もたれに体を預けながら、ぼんやりと天井を仰ぎ見る。
映るのは石造りの無骨な天井。所々、暇つぶしで能力を行使して破砕した跡が残っていて、少し数えてみたけれど虚しくなってすぐにやめた。
視界をテーブルに戻して、ペラリと、図書館から借りた本のページをめくる。
紙同士のこすれる小さな音が、静かな室内での唯一の音源になった。
今度は一ページずつ、記された星座に目を通していくと、少しは気も紛れてくれてありがたい。
星座には、およそ88もの数があって、それにまつわる神話も数多く存在する。
こと星座に関してはずっと昔から存在していて、彼らは一体何を思って星座を作り出したのだろう?
無数に散らばる輝く星の海。その星から選りすぐって、こうやって結んで図形を完成させた人々は、何を願って星を結んだのだろう?
そこには、確かな思いがあったはずで、大切な願いがあったはずなのだ。
私には困ったことに、想像することすら出来なかったけれど。
トントンっと、重厚な鉄の扉からノックの音がする。
その音に反応して本に向けていた視線を上げれば、鈍い銀色の髪を揺らしながら、十六夜咲夜がティーセット一式を手に入室した。
「こんばんわ、妹様。紅茶はいかがですか?」
「ん、頂くわ。いつもありがとう、咲夜」
紅茶を注ぐ咲夜に労いの言葉をかけると、彼女は「どういたしまして」と柔らかい笑顔で答えてくれる。
こうしていると、なんだか咲夜はお姉さまの従者じゃなくて、私専属の従者みたい。
こぽこぽと音を立てて、咲夜特性の紅茶がティーカップに注がれていく。
図書館で飲んだダージリンとはまた違う香りが、この紅茶の上品さをよく表しているような気がした。
要するに、お姉さまであるレミリア・スカーレットが好みそうな類の紅茶なのだろう。
あの人はどうしてか、こういったことに変な風にこだわる癖がある。
(……そうだ、咲夜に聞いてみようかしら?)
視線を下に向ければ、映るのは先ほどから読んでいる星座の本。
人間の咲夜に聞けば、何かしら答えが見つかるような気がしたから。
星座を作ったのは、大昔の人間達だ。それなら、同じ人間である咲夜になら、似たような答えを持っているかもしれないと思った。
「ねぇ、咲夜。星や星座を見て、何か感じることってあるかな?」
「星や、星座……ですか?」
疑問を隠せない彼女の声に、静かに頷く。
腕を組み、片手を顎に当てて考え込むその姿が妙に様になっていて、クールな女性というイメージ像も手伝ってかとてもかっこよかった。
あぁでも、咲夜って意外と抜けてるところがあるから、そのギャップも可愛いんだけどね。
「そうですわね、質問の意図がよくわからないですけれど。正直に答えるならば、特に考えたことはございませんわ。
強いて言うなら、綺麗だと思うぐらいですが」
「うーん、そうよねぇ」
それは、よく考えてみれば当然の帰結だった。
咲夜の返答はとても彼女らしいと思うのと同時に、私が望んだような考えとは違うような気がする。
咲夜には咲夜の考えがあるように、人にはそれぞれの考え方や生き方があって、同じ種族だからって同じ思考を有するわけじゃないのだから。
だから、彼女に問いかけても人々が星座に乗せた想いや願いも、判るはずがなかったのだ。
「それでは、私はこれで失礼しますわ。今日は体に良さそうなものを淹れてみましたので、後でご感想をください」
「……え゛?」
今、とても聞き捨てならないような言葉を聞いた気がする。
慌てて咲夜の方に振り向いてみたけれど、困ったことに彼女は既に時間を止めてこの部屋から出て行ったようだった。
恐る恐る、咲夜が淹れてくれた紅茶に視線を向ける。
相変わらず上品な香りが美味しそうで手が伸びそうになるけれど、彼女の一言で油断のならないシロモノに早変わりだ。
咲夜の困った癖だ。こうやって時々、私達には想像もつかないようなものを紅茶に淹れるもんだから、恐ろしいことこの上ない。
しかも、あたりハズレが激しいのがまた困りもので、以前、お姉さまの紅茶にはたかのつめが混入されたらしく、大量の砂糖を入れる羽目になったらしい。
「大丈夫……よね?」
ゆっくりと、ティーカップの取っ手に指をかけ、まじまじと紅茶を覗き見る。
特に変わった様子もなく、透き通った紅茶はティーカップの底を私の視界に映した。
できれば、あの言葉を聞いたあとでは遠慮願いたいのだけれど、かといってこのまま飲まないのはせっかく用意した咲夜に悪い気がするし。
ゆっくりと、深呼吸を一つ。
目を瞑り、意を決してグイッと咲夜特製の紅茶を口にした。
「……あれ、甘い?」
予想していた不可思議な味は一向に訪れず、その代わりに下を包んだのはまろやかな甘みだった。
これは……蜂蜜、だろうか? これなら確かに、甘党なお姉さまも何の問題もなく飲めるはず。
でも、蜂蜜って結構紅茶に入れるものだと思うんだけど、それをわかっててああいう言い方をしたのだろうか?
だとしたらあいもかわらず、変なところで計ってるんだか天然なんだかよくわからないメイドだ。
ひとまず、普通に飲める紅茶だと安心してティーカップをテーブルに置く。
図書館から持ち帰ったクッキーの入った袋を開けると、私は再び本に視線を落としながら、クッキーを一つ丸ごと頬張って。
「ぃっ!!!?!?」
激烈な刺激が、舌を伝って脳内をぐちゃぐちゃに掻き乱す。
鼻をつんと突く匂いもそれを手伝って、両手で口を押さえた私は椅子の上でじたばたともがき苦しむ羽目になった。
油断した。そうだ、そうだった。油断ならない奴は、もう一人いたじゃないかっ!!
あまりの辛さに涙が零れる。舌を蹂躙して焼き尽くすかのような痛みは、未だに私を苦しめている。
悲鳴もまともに上げられない。自分の声すらも舌を逆撫でるようで余計に痛みが増すばかりだ。
「ひょあひゅひゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
けれど、やっぱり怒りによる絶叫は止められなくて、叫んだ拍子の痛みで私は床を転げ回ることになった。
おのれ小悪魔、後で覚えてなさいよと、心の中で叫びながら。
▼
それから三日間、私にとっては退屈な時間が続いたといっていい。
元々、すぐに見られると思っていたものが天気のせいで見られなくなったのだから、私の苛立ちも結構なものだったと思う。
その間、ひとまず小悪魔を積年の恨みとばかりに鬼ごっこに興じたり、図書館で読書したりと適当な娯楽を見つけてはそれで暇を潰した。
そして今日、待ちに待った三日後の夜。
「本も紅茶の入った水筒もOK。よっし、それでは行きますか」
上機嫌に言葉にしながら、私は持ち物を確認して部屋から飛び出した。
鉄の扉を勢いよく開け放ち、その拍子に大きな音がなったが気にしない。
三日も待ったのだ。多少はしゃいだって、誰も文句は言わないと思う。
走るのももはやまどろっこしくて、周りは歪だという自身の枯れ木に七色の宝石がついたような翼で廊下を翔る。
翼を広げて風を切る。あっという間に後ろに流れていく景色は、たとえ代わり映えしない廊下であっても中々壮観だ。
速度は抑えていたつもりだったのだけれど、妖精メイドと通り過ぎるたびに後ろから悲鳴が聞こえた。
ぶつかってはいないから怪我はしていないと思うけれど、今は後ろを振り向く時間すら惜しい。
階段の場所で急カーブ、壁の縁に指を引っ掛けて無理やり曲がると、勢いよく階段を舐めるように滑空する。
長い長い階段を越え、地下から一気に最上階へ。
そこでようやく廊下に降り立つと、私は近くにあった窓を開け放った。
途端、ゴウッという音と共に春先の寒気が私の肌を撫でるように駆け上る。
わかってはいたことだけど、やっぱり、まだまだ寒い。けれど、待ちに待った目的の星が見れるのだ
寒さを無視して、窓の縁に手をかけて身を踊りだす。飛び出す勢いと、吹きつける風とが重なってより強い寒さが身を襲うけれど、それも一瞬。
あっという間に屋根の上に降り立った私は、荷物を置いてゆっくりと空を見上げる。
そうして、飛び込んできた光景。夜空いっぱいに広がった星屑の海に、私は言葉を失った。
あぁ、思えばこうして夜の空を見上げたのは、初めてのことだったかもしれない。
気に留めずに視界に入れることは何度かあっても、見ようと思って見る世界はこれほどまでに違うものなのか。
それぞれ輝きの違う星の群れが、お互い競い合うように光り輝いている光景は、とても綺麗で。
「あ、そうだ」
ゆっくりと腰を下ろして、体操座りの状態になると膝の上に本を固定する。
おとめ座のページをめくると、図解と同じ場所を見比べながら探していった。
そして、それは思いのほか早く見つかった。
図解に頼るまでもなくわかるほど、他とは違う強い輝きを放つ星が一つ。
青白い輝きが、私の眼に張り付いてはなれない。私が見たくて仕方がなかったスピカの輝きが、そこにある。
真珠星、とはよく言ったものだ。その星は、その名の通り宝石によく似た輝きを放っていた。
ふと、後ろから足音が聞こえて其方に振り向くと、赤い髪を風に靡かせてよく知った顔が優しい笑みを浮かべて立っていた。
「あら、美鈴。門番はイイの?」
「はい、もう今日は非番なんで。ところで妹様、お隣いいですか?」
「いいけど、美鈴も星を見に来たの?」
「えぇ。今日は久しぶりの晴れでしたし、たまにはこうやって星空を見ようと思ったんですが」
「先客がいましたね」と苦笑して、彼女は私の隣に座った。
よく見れば、これから眠るところだったのだろう。めったに見ない寝巻き姿の彼女からは、ほんのりシャンプーの匂いがする。
「ほほぅ、今日も角は綺麗に輝いてますね」
「角?」
「あそこの青白い、一際強い光の星がそうですよ」
ほらっと彼女が指を差した先、そこには先ほどまで見惚れていた真珠星が相変わらず輝いている。
「真珠星のこと?」
「あ、そういえばこの国ではそういうんでしたね。私の祖国では角というのですよ」
丁寧の言葉で答えながら、彼女は空を見上げた。
なんだか楽しんでいるみたいで、邪魔するのも悪いような気もしたから、私も空を見上げて星空を視界一杯に映す。
こうしていると、頬を撫でる肌寒い空気も、小さな悩みも、どうでもよくなってしまいそう。
何かをするわけじゃない。それでも、何か心が満たされていくような気がして、ずっと見ていたいとそう思わせるステキな景色。
あぁ、もったいなかったな。こんなに綺麗な光景を、この495年間、一度も見たことがなかったなんて。
「おや妹様、美鈴さんと一緒にこんなところに居られたのですか」
そんな風に二人で夜空を見上げていると、聞き覚えのある声がして其方に視線を向ける。
月と星の淡い光に照らされた夜の中、小悪魔が屋根の縁からひょっこりと顔を出して、今まさに上ってくるところだった。
彼女の手には、バスケット一杯に詰め込まれたクッキーがあって、三日前のことを思い出して思わず顔をしかめてしまう。
「それ、また唐辛子を練りこんで作ったクッキーじゃないわよね、小悪魔?」
「あはは、いやだなァ妹様。心配しなくてもこれは私が作ったクッキーじゃないですから、安心してください。美鈴さんもどうですか?」
「いいですねぇ、いただきます」
よくもまぁいけしゃあしゃあと言えたものだと呆れてしまうけど、小悪魔は特に気にした様子もない。
結局、彼女も上がってきてすっかり談笑会みたいになってしまったけれど、まぁいいかとクッキーに手を伸ばす。
こうやって、誰かと隣り合って夜空を見上げるのも悪くない。
「これ、誰が作ったの?」
「咲夜さんですよ。あと、お嬢様から伝言です。『星を見るのもいいけれど、体を壊さないようにしなさい』と」
疑問に答えてくれた小悪魔が、思い出したようにその言葉を伝えてくる。
相変わらず、お姉さまには私の行動はお見通しだったらしい。
運命を操る程度の能力なんて持っているんだから、私がここにいることを予見できたのはある意味当然だったのか。
なんだか、それはそれで面白い話ではないのだけれど、私のことを心配してくれているみたいだったので、不思議と悪い気はしなかった。
多分だけれど、このクッキーもお姉さまが咲夜に言って用意させたものなんだろう。
他ならぬ、屋根で星を見上げる私のために。
そう思うと、なんだか照れくさかった。
「わかってるわよ、そんなこと。お姉さまってば、心配性なんだから」
「それでもまんざらでもないんじゃないですかぁ? お顔が真っ赤ですよ~、妹様」
「ッ~~~~!! と、ところでさ、二人は昔の人は星を見上げてどう思っていたと思う?」
自分でも、露骨な話題の転換だとは思っていたけれど、以前から思っていた純粋な疑問でもある。
小悪魔にからかわれた顔はまだ赤いけれど、自分の口から問題なくその疑問が滑り出てくれたことに安堵した。
私の言葉に二人は苦笑しながら少し考え込むけれど、思いのほか早く彼女達は答えを聞かせてくれる。
「それは、中々難しい質問ですけれど。きっと明日を願っていたのではないかと、私は思いますよ」
「明日を?」
「えぇ」と、小悪魔は頷く。
先ほどのようなからかおうとする表情じゃなくて、とても真剣な瞳が私を捉えている。
美鈴もほとんど同じ意見だったようで、一つ頷いてみせると今度は美鈴が言葉を続けた。
「星座になぞられた神話や、星占いがあるように、人々が星に様々な思いをかけたのは事実でしょう。
星座は星を神に見立てることで、神様に祈りを捧げたかもしれない。
星占いは、明日が来るかもわからない人々のための道標のために生まれたかもしれない。
けれど、私は思うのです妹様。そのどちらも、明日を不安に思う人々が、希望を持つために生まれたものではないかと」
それは、もちろん美鈴や小悪魔の考えで、正解ではないかもしれない。
大昔の人々が、何を思って星占いや星座を作ったのか、定かではないけれど。
でも、それでもいいかと、私は思った。
だって、彼女達の考えはとても素敵なことで、私はその考えに、どうしようもなく惹かれてしまったのだから。
「ロマンチストね、美鈴も小悪魔も」
「いやぁ、なんだかてれますねぇ」
「まぁ、それほどでも。私は愛の詩人を目指してますので」
感心したように声をかければ、美鈴と小悪魔は朗らかに笑った。
それにつられて私も笑ってしまったけれど、それがとても心地よい。
空を見上げれば、星の海が私達を見守ってくれている。
一人は吸血鬼、一人は妖怪、一人は悪魔と、星を見上げて談笑するには珍妙なメンバーだけれど。
「それじゃ、昔の人々に習って星に願いを捧げてみるのはどうかしら?」
「いいですね、たまには星に願い事を捧げるのも悪くないかもです」
「それならば、私も願い事を捧げてみますか」
まるで教会で行われるミサのように、私達は笑いながら胸の前で手を組んで星を見上げた。
二人は、何を思っているのだろう。何を、あの星に何を願っているのだろう。
私の願いは―――、この幸せがいつまでも続くこと。
言い換えれば、変わらぬ明日が来ることを望んでやまない。
ありとあらゆるものを破壊する程度の能力。
その能力の反動かどうかは知らないけれど、私の心の奥底には溢れんばかりの狂気が身を潜めている。
それは、理性を食い破る獣のように、あるいは毒のように少しずつ私を蝕んでいく。
もしかしたら、その狂気は理性によって押さえ込めることが出来るかもしれないなんて、そう思っていた時期があったのも事実。
けれど、駄目なのだ。
ひとたび弾幕ごっこや戦いに興じてしまえば、私の理性は狂気によって容易く塗りつぶされる。
情緒不安定な性分も、それに拍車をかけているのだろうと思う。
きっと遠くない未来―――私は、この能力で大切な全てを壊してしまうかもしれない。それが酷く恐ろしかった。
だから、願おうと思う。
分不相応な願いかもしれない。願ってもどうにもならいものかもしれない。
けれど、かつての人々が星に願いを捧げたように。
星に、希望を見つけるために、祈りを捧げたように。
私は、願う。
咲夜と、美鈴と、小悪魔と、パチュリーと、お姉さまと。
みんなと一緒に、変わらず幸せな明日が来るように、あの星に願おう。
春の夜空に輝く、宝石の名を冠した女神の稲穂―――スピカに。
▼
季節はすっかりと春になり、外では春を告げる妖精が楽しげに飛び回っている。
もっとも、春先の夜はとても寒く、吸血鬼である私―――フランドール・スカーレットには未だに春の暖かさには触れた覚えがない。
寒々とした空気は紅魔館内部にも入り込み、館の内部で働く妖精たちは白い息を吐いてみんな寒そうだった。
冷たい空気を肌で感じながら、妖精メイドの隣を通り過ぎる。彼女達と軽く会釈をして足を速めると、目的の扉の前にたどり着いた。
扉の硬質な感触を手のひらで感じながら、なるべく音を立てないように押し開ける。
すると広がった光景は本棚の森と形容できそうなほど、広大な面積に大量の本棚の群れ。
この館の地下に存在する図書館のこの景色は、いつ見ても圧倒される。
ふと、この図書館の主は余りからだが強くないことを思い出した私は、急いで、けれど音を立てないように静かに扉を閉じた。
「あら、妹様。今日もこちらで読書ですか?」
振り返ってみれば偶然通りかかったのか、深紅の髪を靡かせて微笑を浮かべる小悪魔がそこにいた。
その手には大量の本が抱えられており、仕事の途中だったのだろう。いつもいつも、彼女の勤勉さには頭が下がる。
「うん、あなたも大変ね小悪魔。手伝おうか?」
「いえいえ、ご心配無用です。私のことは大丈夫ですから、ゆっくりと楽しんでいってくださいな」
そう言われてしまえば、これ以上の言葉は無用な気遣いとなってしまうだろう。
その「私は仕事が楽しいですから」という笑顔が全てを語っているような気がして、私は「ありがとう」と伝えてから、彼女の言葉に甘えて図書館の奥に向かった。
ここは魔女の領域。本と共に生活し、本をこよなく愛する本の虫は、今日もいつものテーブルの、いつもの席で物静かに読書に耽っている。
ぺらり、ぺらりとページをめくる紙の音だけが静かな空間に響いて耳に届く。
藤色の長い髪が背中を流れ、病弱そうな色白の肌をした指がページをめくる。半眼で、ともすれば眠そうとも取れる視線は、ずっと本に向けたまま動かない。
相変わらずな様子に安堵すると、私は手短な場所からそれらしい本を二、三冊ほど選んでテーブルに歩みを向けた。
「パチュリー、隣座るわよ」
「えぇ、どうぞ妹様」
一応の許可をもらうと、彼女の隣の椅子を引いて座り、手にしていた本をテーブルの上に置く。
程なくして、小悪魔がトレーに紅茶とクッキーを載せて私の前に用意してくれる。
私がお礼を言うと、彼女は満足そうに微笑みながら再び仕事に戻っていった。
いつものことだけれど、彼女のさりげない気遣いがありがたい。こういうところは、彼女の美点だと素直に思える。
でもまぁ、時々見せる小悪魔らしいちょっとした悪戯も、少し考えものではあるけれど。
ダージリンの独特な甘い香りに引かれて、ティーカップの取っ手に指をかける。
心地よい香りを少し堪能した後、そのまま一口ダージリンを飲んでみれば、特有の渋さが舌全体を刺激した。
咲夜には及ばないけれど、やっぱり美味しい。小悪魔もここでパチュリーに紅茶を淹れたりしているから、その恩恵だろう。
ティーカップを元に戻すと、選んだ本の表紙をめくって読書を開始する。
選んだ本は天体関係のもの、星や太陽のことが記されている書物で、目次を流し読みして目的のページを見つけると、私はその場所までページをめくった。
「あった」
歓喜の色を交えた声が、口ずさむようについて出る。
ページの項目には、ほかの字面とは倍近い大きさの文字でSpicaと、そう書かれていた。
Spica―――、ここではもっぱらスピカ、あるいは真珠星と呼ばれるそれは、蒼白い光が強く輝く星のひとつ。
知識だけでしか知らないけれど、おとめ座の女神が持つ稲穂の先に位置していて、スピカの名称もラテン語の穂先に由来する。
春の夜に見られるその星は、もうそろそろこの幻想郷の空でも見られるはずだった。
私は、今まで地下に幽閉されていたおかげでまったく目にしたことがない。
この幻想郷ではその美しさから真珠星とまで呼ばれるそれを、一目でいいから見てみたかった。
直に、この目で。
元々、吸血鬼は夜の生き物。だから、夜に起きている分には問題ないのだけれど、問題はその星がどの辺りに見えるのかという知識が不足してしまっていること。
春の夜、という情報だけでは、余りにも不足している。だから、私はおとめ座の図解が記された本を探すことにしたのだ。
スピカの項目を開いたまま、もう一つの本に手を伸ばし、目次を確認する。
それから目的のページまで一気にめくると、星と星を線で結んだ図解のページに行き着く。
幸先がいい。こうやってすぐに図解で説明された書物を引き当てたことは僥倖だった。
何しろ、ここの図書館はとても広い。古今東西様々な書物が混在するこの図書館には、もちろんのこと図のない書物の方が多いくらい。
余計な手間が省けたことは、素直に喜ぶべきことだと思う。
「ねぇ、パチュリー。この本、今日は借りていっていいかしら?」
問いかけの声はさほど大きくはなかったけれど、この位置でなら問題なく聞き取れたはず。
その考えはやはり間違えではなかったようで、パチュリーは小さく頷いて了承の意を示してくれた。
相変わらず、その視線は本に向けられたままだったけれど、それが彼女らしくてなんだか安心する。
「かまわないわよ。妹様なら、黒と白で構成された野良ネズミとは違ってちゃんと返してくれるでしょうし」
「刺々しいなぁ。もしかして今日、魔理沙が来たの?」
「……えぇ、しっかりと私の本をちょろまかして行ったわ」
まったく、あの黒白は。と、珍しく額に眉を寄せてパチュリーはため息をつく。
魔理沙も相変わらずだなぁと思って苦笑したけれど、言葉にはせずに飲み込んだ。
相変わらず二人とも仲が良いんだか、それとも仲が悪いのかよくわからない。
けれど、よく二人でいるところを見るし、喧嘩もするけれど、結構いいコンビだと思うんだけれどな私は。
もちろん、これを指摘するとパチュリーは不機嫌になっちゃうから、絶対に彼女の前では言わないけれど。
本を閉じて脇に抱え込むと席を立つ。
ちょっともったいないけれどダージリンを一気に飲み干して、まだ手をつけていなかった小悪魔手製のクッキーの袋を本を持つ逆の手で持った。
「それじゃ、私はこれで失礼するわ。ありがとう、パチュリー」
花咲くような笑顔でそう告げて、はやる気持ちを抑えて入り口に向けて歩く。
途中で作業していた小悪魔とも会釈して、入り口の扉に手をかけて、ゆっくりと押す。
「あぁ、そうそう妹様」
さびた鉄が鳴らすような、重厚で軋むギィッという音。
その音に混じって、パチュリーの声が耳に侵入する。
なんだろうと、不思議に思って扉を押し開いた状態のまま振り返ると、それを見越したように彼女は言葉を続けた。
「真珠星を見たいのなら三日後がお勧め。しばらくは天気が悪くて見られないわ」
少し、驚いた。
どうして、私がこの星を見ようとしているのを知っているのか疑問に思ったけれど、それでもその忠告はありがたかった。
我等が紅魔館の誇る知識の魔女。その言葉は、十分に信用に足るものだろうと私は思う。
「ありがとう」と告げて、私は図書館を後にした。
本当ならすぐに見ようと思っていたのだけれど、彼女の言が確かなら、今頃空はどんより雲が支配しているはずだ。
赤い絨毯の敷かれた廊下を歩き、ふと、確かめたくなった私は階段を登って地下から一階に寄り道をすることにした。
カツン、カツン、と硬質な床を踏む音が、階段の空間に反響する。
結構な長さのその階段を登りきってみれば、この洋館には数少ない窓が視界に映った。
じぃっと、視界を窓越しの夜空に向ける。
外はパチュリーのいうとおり、重く圧し掛かるような曇り空だった。
▼
ことの始まりは、魔理沙の一言が原因だったように思う。
「なぁフラン、真珠星って知ってるか?」なんて得意気に言葉にした魔理沙は、悪戯好きの子供のような笑顔だった。
星型の弾幕やスペルカードを使う魔理沙がその星のよさを語るものだから、私も少しずつ興味が沸いてきたのだ。
元々、永い間幽閉されていた私は、部屋にあった書物でしか知らない知識が多い。
スピカという星のことは知っていたけれど、それがここでは真珠星だというのはその時にはじめて知らされた。
春になると現われる、宝石の名を冠した女神の穂先。
そう思う自分がおかしくて、案外ロマンチストだったのかなと、魔理沙の話を聞きながら苦笑した。
「三日後かぁ」
だからこそ、私の期待は大きかったから、その落胆も一際大きい。
自室でぼやく私の声に応える人物は、当然ながら誰もいないわけで。
三日後と、言葉にすればとても短いけれど、いざ待つとなればとても長いように思えて苦痛に感じる。
元々、我慢強い方ではない私にとっては、三日と言う期間のお預けはまさに拷問に等しかった。
椅子の背もたれに体を預けながら、ぼんやりと天井を仰ぎ見る。
映るのは石造りの無骨な天井。所々、暇つぶしで能力を行使して破砕した跡が残っていて、少し数えてみたけれど虚しくなってすぐにやめた。
視界をテーブルに戻して、ペラリと、図書館から借りた本のページをめくる。
紙同士のこすれる小さな音が、静かな室内での唯一の音源になった。
今度は一ページずつ、記された星座に目を通していくと、少しは気も紛れてくれてありがたい。
星座には、およそ88もの数があって、それにまつわる神話も数多く存在する。
こと星座に関してはずっと昔から存在していて、彼らは一体何を思って星座を作り出したのだろう?
無数に散らばる輝く星の海。その星から選りすぐって、こうやって結んで図形を完成させた人々は、何を願って星を結んだのだろう?
そこには、確かな思いがあったはずで、大切な願いがあったはずなのだ。
私には困ったことに、想像することすら出来なかったけれど。
トントンっと、重厚な鉄の扉からノックの音がする。
その音に反応して本に向けていた視線を上げれば、鈍い銀色の髪を揺らしながら、十六夜咲夜がティーセット一式を手に入室した。
「こんばんわ、妹様。紅茶はいかがですか?」
「ん、頂くわ。いつもありがとう、咲夜」
紅茶を注ぐ咲夜に労いの言葉をかけると、彼女は「どういたしまして」と柔らかい笑顔で答えてくれる。
こうしていると、なんだか咲夜はお姉さまの従者じゃなくて、私専属の従者みたい。
こぽこぽと音を立てて、咲夜特性の紅茶がティーカップに注がれていく。
図書館で飲んだダージリンとはまた違う香りが、この紅茶の上品さをよく表しているような気がした。
要するに、お姉さまであるレミリア・スカーレットが好みそうな類の紅茶なのだろう。
あの人はどうしてか、こういったことに変な風にこだわる癖がある。
(……そうだ、咲夜に聞いてみようかしら?)
視線を下に向ければ、映るのは先ほどから読んでいる星座の本。
人間の咲夜に聞けば、何かしら答えが見つかるような気がしたから。
星座を作ったのは、大昔の人間達だ。それなら、同じ人間である咲夜になら、似たような答えを持っているかもしれないと思った。
「ねぇ、咲夜。星や星座を見て、何か感じることってあるかな?」
「星や、星座……ですか?」
疑問を隠せない彼女の声に、静かに頷く。
腕を組み、片手を顎に当てて考え込むその姿が妙に様になっていて、クールな女性というイメージ像も手伝ってかとてもかっこよかった。
あぁでも、咲夜って意外と抜けてるところがあるから、そのギャップも可愛いんだけどね。
「そうですわね、質問の意図がよくわからないですけれど。正直に答えるならば、特に考えたことはございませんわ。
強いて言うなら、綺麗だと思うぐらいですが」
「うーん、そうよねぇ」
それは、よく考えてみれば当然の帰結だった。
咲夜の返答はとても彼女らしいと思うのと同時に、私が望んだような考えとは違うような気がする。
咲夜には咲夜の考えがあるように、人にはそれぞれの考え方や生き方があって、同じ種族だからって同じ思考を有するわけじゃないのだから。
だから、彼女に問いかけても人々が星座に乗せた想いや願いも、判るはずがなかったのだ。
「それでは、私はこれで失礼しますわ。今日は体に良さそうなものを淹れてみましたので、後でご感想をください」
「……え゛?」
今、とても聞き捨てならないような言葉を聞いた気がする。
慌てて咲夜の方に振り向いてみたけれど、困ったことに彼女は既に時間を止めてこの部屋から出て行ったようだった。
恐る恐る、咲夜が淹れてくれた紅茶に視線を向ける。
相変わらず上品な香りが美味しそうで手が伸びそうになるけれど、彼女の一言で油断のならないシロモノに早変わりだ。
咲夜の困った癖だ。こうやって時々、私達には想像もつかないようなものを紅茶に淹れるもんだから、恐ろしいことこの上ない。
しかも、あたりハズレが激しいのがまた困りもので、以前、お姉さまの紅茶にはたかのつめが混入されたらしく、大量の砂糖を入れる羽目になったらしい。
「大丈夫……よね?」
ゆっくりと、ティーカップの取っ手に指をかけ、まじまじと紅茶を覗き見る。
特に変わった様子もなく、透き通った紅茶はティーカップの底を私の視界に映した。
できれば、あの言葉を聞いたあとでは遠慮願いたいのだけれど、かといってこのまま飲まないのはせっかく用意した咲夜に悪い気がするし。
ゆっくりと、深呼吸を一つ。
目を瞑り、意を決してグイッと咲夜特製の紅茶を口にした。
「……あれ、甘い?」
予想していた不可思議な味は一向に訪れず、その代わりに下を包んだのはまろやかな甘みだった。
これは……蜂蜜、だろうか? これなら確かに、甘党なお姉さまも何の問題もなく飲めるはず。
でも、蜂蜜って結構紅茶に入れるものだと思うんだけど、それをわかっててああいう言い方をしたのだろうか?
だとしたらあいもかわらず、変なところで計ってるんだか天然なんだかよくわからないメイドだ。
ひとまず、普通に飲める紅茶だと安心してティーカップをテーブルに置く。
図書館から持ち帰ったクッキーの入った袋を開けると、私は再び本に視線を落としながら、クッキーを一つ丸ごと頬張って。
「ぃっ!!!?!?」
激烈な刺激が、舌を伝って脳内をぐちゃぐちゃに掻き乱す。
鼻をつんと突く匂いもそれを手伝って、両手で口を押さえた私は椅子の上でじたばたともがき苦しむ羽目になった。
油断した。そうだ、そうだった。油断ならない奴は、もう一人いたじゃないかっ!!
あまりの辛さに涙が零れる。舌を蹂躙して焼き尽くすかのような痛みは、未だに私を苦しめている。
悲鳴もまともに上げられない。自分の声すらも舌を逆撫でるようで余計に痛みが増すばかりだ。
「ひょあひゅひゃあぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!!」
けれど、やっぱり怒りによる絶叫は止められなくて、叫んだ拍子の痛みで私は床を転げ回ることになった。
おのれ小悪魔、後で覚えてなさいよと、心の中で叫びながら。
▼
それから三日間、私にとっては退屈な時間が続いたといっていい。
元々、すぐに見られると思っていたものが天気のせいで見られなくなったのだから、私の苛立ちも結構なものだったと思う。
その間、ひとまず小悪魔を積年の恨みとばかりに鬼ごっこに興じたり、図書館で読書したりと適当な娯楽を見つけてはそれで暇を潰した。
そして今日、待ちに待った三日後の夜。
「本も紅茶の入った水筒もOK。よっし、それでは行きますか」
上機嫌に言葉にしながら、私は持ち物を確認して部屋から飛び出した。
鉄の扉を勢いよく開け放ち、その拍子に大きな音がなったが気にしない。
三日も待ったのだ。多少はしゃいだって、誰も文句は言わないと思う。
走るのももはやまどろっこしくて、周りは歪だという自身の枯れ木に七色の宝石がついたような翼で廊下を翔る。
翼を広げて風を切る。あっという間に後ろに流れていく景色は、たとえ代わり映えしない廊下であっても中々壮観だ。
速度は抑えていたつもりだったのだけれど、妖精メイドと通り過ぎるたびに後ろから悲鳴が聞こえた。
ぶつかってはいないから怪我はしていないと思うけれど、今は後ろを振り向く時間すら惜しい。
階段の場所で急カーブ、壁の縁に指を引っ掛けて無理やり曲がると、勢いよく階段を舐めるように滑空する。
長い長い階段を越え、地下から一気に最上階へ。
そこでようやく廊下に降り立つと、私は近くにあった窓を開け放った。
途端、ゴウッという音と共に春先の寒気が私の肌を撫でるように駆け上る。
わかってはいたことだけど、やっぱり、まだまだ寒い。けれど、待ちに待った目的の星が見れるのだ
寒さを無視して、窓の縁に手をかけて身を踊りだす。飛び出す勢いと、吹きつける風とが重なってより強い寒さが身を襲うけれど、それも一瞬。
あっという間に屋根の上に降り立った私は、荷物を置いてゆっくりと空を見上げる。
そうして、飛び込んできた光景。夜空いっぱいに広がった星屑の海に、私は言葉を失った。
あぁ、思えばこうして夜の空を見上げたのは、初めてのことだったかもしれない。
気に留めずに視界に入れることは何度かあっても、見ようと思って見る世界はこれほどまでに違うものなのか。
それぞれ輝きの違う星の群れが、お互い競い合うように光り輝いている光景は、とても綺麗で。
「あ、そうだ」
ゆっくりと腰を下ろして、体操座りの状態になると膝の上に本を固定する。
おとめ座のページをめくると、図解と同じ場所を見比べながら探していった。
そして、それは思いのほか早く見つかった。
図解に頼るまでもなくわかるほど、他とは違う強い輝きを放つ星が一つ。
青白い輝きが、私の眼に張り付いてはなれない。私が見たくて仕方がなかったスピカの輝きが、そこにある。
真珠星、とはよく言ったものだ。その星は、その名の通り宝石によく似た輝きを放っていた。
ふと、後ろから足音が聞こえて其方に振り向くと、赤い髪を風に靡かせてよく知った顔が優しい笑みを浮かべて立っていた。
「あら、美鈴。門番はイイの?」
「はい、もう今日は非番なんで。ところで妹様、お隣いいですか?」
「いいけど、美鈴も星を見に来たの?」
「えぇ。今日は久しぶりの晴れでしたし、たまにはこうやって星空を見ようと思ったんですが」
「先客がいましたね」と苦笑して、彼女は私の隣に座った。
よく見れば、これから眠るところだったのだろう。めったに見ない寝巻き姿の彼女からは、ほんのりシャンプーの匂いがする。
「ほほぅ、今日も角は綺麗に輝いてますね」
「角?」
「あそこの青白い、一際強い光の星がそうですよ」
ほらっと彼女が指を差した先、そこには先ほどまで見惚れていた真珠星が相変わらず輝いている。
「真珠星のこと?」
「あ、そういえばこの国ではそういうんでしたね。私の祖国では角というのですよ」
丁寧の言葉で答えながら、彼女は空を見上げた。
なんだか楽しんでいるみたいで、邪魔するのも悪いような気もしたから、私も空を見上げて星空を視界一杯に映す。
こうしていると、頬を撫でる肌寒い空気も、小さな悩みも、どうでもよくなってしまいそう。
何かをするわけじゃない。それでも、何か心が満たされていくような気がして、ずっと見ていたいとそう思わせるステキな景色。
あぁ、もったいなかったな。こんなに綺麗な光景を、この495年間、一度も見たことがなかったなんて。
「おや妹様、美鈴さんと一緒にこんなところに居られたのですか」
そんな風に二人で夜空を見上げていると、聞き覚えのある声がして其方に視線を向ける。
月と星の淡い光に照らされた夜の中、小悪魔が屋根の縁からひょっこりと顔を出して、今まさに上ってくるところだった。
彼女の手には、バスケット一杯に詰め込まれたクッキーがあって、三日前のことを思い出して思わず顔をしかめてしまう。
「それ、また唐辛子を練りこんで作ったクッキーじゃないわよね、小悪魔?」
「あはは、いやだなァ妹様。心配しなくてもこれは私が作ったクッキーじゃないですから、安心してください。美鈴さんもどうですか?」
「いいですねぇ、いただきます」
よくもまぁいけしゃあしゃあと言えたものだと呆れてしまうけど、小悪魔は特に気にした様子もない。
結局、彼女も上がってきてすっかり談笑会みたいになってしまったけれど、まぁいいかとクッキーに手を伸ばす。
こうやって、誰かと隣り合って夜空を見上げるのも悪くない。
「これ、誰が作ったの?」
「咲夜さんですよ。あと、お嬢様から伝言です。『星を見るのもいいけれど、体を壊さないようにしなさい』と」
疑問に答えてくれた小悪魔が、思い出したようにその言葉を伝えてくる。
相変わらず、お姉さまには私の行動はお見通しだったらしい。
運命を操る程度の能力なんて持っているんだから、私がここにいることを予見できたのはある意味当然だったのか。
なんだか、それはそれで面白い話ではないのだけれど、私のことを心配してくれているみたいだったので、不思議と悪い気はしなかった。
多分だけれど、このクッキーもお姉さまが咲夜に言って用意させたものなんだろう。
他ならぬ、屋根で星を見上げる私のために。
そう思うと、なんだか照れくさかった。
「わかってるわよ、そんなこと。お姉さまってば、心配性なんだから」
「それでもまんざらでもないんじゃないですかぁ? お顔が真っ赤ですよ~、妹様」
「ッ~~~~!! と、ところでさ、二人は昔の人は星を見上げてどう思っていたと思う?」
自分でも、露骨な話題の転換だとは思っていたけれど、以前から思っていた純粋な疑問でもある。
小悪魔にからかわれた顔はまだ赤いけれど、自分の口から問題なくその疑問が滑り出てくれたことに安堵した。
私の言葉に二人は苦笑しながら少し考え込むけれど、思いのほか早く彼女達は答えを聞かせてくれる。
「それは、中々難しい質問ですけれど。きっと明日を願っていたのではないかと、私は思いますよ」
「明日を?」
「えぇ」と、小悪魔は頷く。
先ほどのようなからかおうとする表情じゃなくて、とても真剣な瞳が私を捉えている。
美鈴もほとんど同じ意見だったようで、一つ頷いてみせると今度は美鈴が言葉を続けた。
「星座になぞられた神話や、星占いがあるように、人々が星に様々な思いをかけたのは事実でしょう。
星座は星を神に見立てることで、神様に祈りを捧げたかもしれない。
星占いは、明日が来るかもわからない人々のための道標のために生まれたかもしれない。
けれど、私は思うのです妹様。そのどちらも、明日を不安に思う人々が、希望を持つために生まれたものではないかと」
それは、もちろん美鈴や小悪魔の考えで、正解ではないかもしれない。
大昔の人々が、何を思って星占いや星座を作ったのか、定かではないけれど。
でも、それでもいいかと、私は思った。
だって、彼女達の考えはとても素敵なことで、私はその考えに、どうしようもなく惹かれてしまったのだから。
「ロマンチストね、美鈴も小悪魔も」
「いやぁ、なんだかてれますねぇ」
「まぁ、それほどでも。私は愛の詩人を目指してますので」
感心したように声をかければ、美鈴と小悪魔は朗らかに笑った。
それにつられて私も笑ってしまったけれど、それがとても心地よい。
空を見上げれば、星の海が私達を見守ってくれている。
一人は吸血鬼、一人は妖怪、一人は悪魔と、星を見上げて談笑するには珍妙なメンバーだけれど。
「それじゃ、昔の人々に習って星に願いを捧げてみるのはどうかしら?」
「いいですね、たまには星に願い事を捧げるのも悪くないかもです」
「それならば、私も願い事を捧げてみますか」
まるで教会で行われるミサのように、私達は笑いながら胸の前で手を組んで星を見上げた。
二人は、何を思っているのだろう。何を、あの星に何を願っているのだろう。
私の願いは―――、この幸せがいつまでも続くこと。
言い換えれば、変わらぬ明日が来ることを望んでやまない。
ありとあらゆるものを破壊する程度の能力。
その能力の反動かどうかは知らないけれど、私の心の奥底には溢れんばかりの狂気が身を潜めている。
それは、理性を食い破る獣のように、あるいは毒のように少しずつ私を蝕んでいく。
もしかしたら、その狂気は理性によって押さえ込めることが出来るかもしれないなんて、そう思っていた時期があったのも事実。
けれど、駄目なのだ。
ひとたび弾幕ごっこや戦いに興じてしまえば、私の理性は狂気によって容易く塗りつぶされる。
情緒不安定な性分も、それに拍車をかけているのだろうと思う。
きっと遠くない未来―――私は、この能力で大切な全てを壊してしまうかもしれない。それが酷く恐ろしかった。
だから、願おうと思う。
分不相応な願いかもしれない。願ってもどうにもならいものかもしれない。
けれど、かつての人々が星に願いを捧げたように。
星に、希望を見つけるために、祈りを捧げたように。
私は、願う。
咲夜と、美鈴と、小悪魔と、パチュリーと、お姉さまと。
みんなと一緒に、変わらず幸せな明日が来るように、あの星に願おう。
春の夜空に輝く、宝石の名を冠した女神の稲穂―――スピカに。
妹様は少し大人びているけど、臆病くらいが丁度いいと思うのです……
小悪魔ほんと小悪魔ちゃんだなぁww
星を見るのはいいですよね、塾帰りなんかに見上げると心が洗われるような気がします。フランちゃんの願いがきっと届きますように。
う
ふ
ふ
星は私も眺めてみたいものですね、人工(プラネタリウム)じゃなくて、天然で。
にしても、こあはやっぱり何だかんだで小悪魔っぽいいたずらをお好みなようで・・・・・・(汗)。
とにもかくにも、今回も素晴らしい作品をありがとうございました。
それでも磨耗しない純粋さ。(むしろ凝り固まらないのかもしれない)
いつも思うが幻想郷の人妖はみなかわいいよな……不思議だよな…
所々に挟まれたちょっとした表現が、ストーリーに緩急をつけていて読みやすいですね。
小悪魔が良い味出してます。
フランには幸せになって欲しい。そう思わせる作品でした。
それが他人から借りた念仏であろうとも、甘ったれた夢物語であろうとも
聞き流さずにちゃんと耳を傾けたら何かがこちらの心に届いてくるのは
きっと人として皆の中で生きていく上で必要な感性なんでしょう
うっかり簡易評価を押してしまったのでフリーレスですが
届いてくるものがあったので100点です
きれいで良い話でした