傾く夕陽が妖怪の山を朱色に染め、流れ落ちる滝の音が詫びと寂びを演出する。
例年にも増して厳しかった夏の暑さはすっかり鳴りを潜め、実りの秋が冬に向けて支度を始めた幻想郷を彩る。
山は色鮮やかな紅葉で一つの芸術を為し、鴉天狗は今日も過ぎ行く秋をフィルムに焼付けに、幻想郷中を飛び回る。
穏やかで美しい季節を、わざわざ手間隙かけて台無しにしようと企てる不届きな輩もいない。いるはずがない。
平穏その物、身に着けた剣と盾も扱い方を忘れてしまいそうな日々の中、確かにこの瞬間、私は危機に陥っている。
「最初はヒヤッとさせられたけど、こうなったら流石の椛もどうにもならないよねー」
「………」
つまるところ私は、現在進行形で追い詰められているのだ。
本来なら決して、少なくとも一方的に打ち負かされる事は無い相手に、油断と慢心による隙をさらしてしまった。そうなったらもう、崩れるのは目に見えている。
あれよあれよと言う間に抵抗する術は失われ、今では満足に逃げる事も叶わない。
「早く……一思いにトドメを刺したらどうなんだ」
仕事の疲れが溜まっていただとか、油断さえ無ければ勝っただとか、そう言った言い訳はするつもりは無い。
負ける時には、潔く。そもそもみっともなく足掻く事すら出来ない状況なのだが、最後まで心意気だけは高く持っていたい。
私の言葉を敗北を認める物だと受け取ったのか、相対した妖怪――河城にとりは口元を歪め、その手をゆっくりと持ち上げ、そして――
「はい、ここに桂馬で王手詰み」
ピシィと小気味良い音を立て、盤面に駒が打たれた。
その桂馬は先刻まで私が唯一望みを繋いでいた逃走経路を完全に塞ぎ、私の王将は逃げようにも逃げられなくなってしまう。
元より、主力の駒の一切合財を奪われた後だ。逃げた所で、ほんの僅かな延命処置にしかならなかっただろうが。
参りました、と頭を下げると、にとりは心底嬉しそうに満面の笑みになり、拳を握り締めた。
「負けちゃったかぁ」
「私が椛に勝ったのは久し振りだよね」
限界まで頭を使い続けた疲労が一気にやってきて、たまらず私は畳に仰向けに寝転がった。
仕事の合間の将棋。休憩時間の息抜きのつもりなのだけれど、頭を使うからとても休憩になんてなりはしない。
それでも、気の置けない友人の河童との一時は、精神的には一人で過ごす時間の何倍もリフレッシュ出来るのだけれど。
すぐ傍を流れる滝の振動が、寝転がったことでより鮮明に感じる。休憩が終わるまで、あと何時間あっただろう?
ひんやりした空気が通り抜けていくのが気持ち良い。寝転がっている私につられてか、それとも単に私と同じく疲れたのか、にとりも両手を投げ出し寝転がる。
酷使した頭を滝の冷えた空気が冷却してくれているようで、非常に気持ちが良い。この冷たい空気、前に山の上の神社の巫女が何か言っていた気がする。まいなすいおん、だっけか。
「ねぇねぇ、私にリベンジとかする気ない?」
久し振りの勝利でテンションが上がっているのか、にとりは投げ出した両手をすぐに振り上げて起き上がり、興奮した面持ちで私を見る。
その楽しそうな目、ある種挑発的な問い掛け。にとりが私ともう一局交えたいと思っているのは間違いない。
だがしかし。哨戒の任と今の一局で疲れきった私には、もうそんな体力も気力も残っていなかった。もしもう一局やったとしても、結局集中力が続かずにみっともなく負けてしまうだろう。
「もう無理。今日は勘弁して」
面白くないなーと言いながら、にとりは尚もニシシと笑う。余程嬉しかったに違いない。
にとりとは、もうどれくらい対局したかなんて覚えていないくらいに勝負しているけれど、今のところは僅かに私が勝ち越している様な気がする。
遥か先まで見通せるのは、何も距離だけじゃない。将棋に関してなら、千手とは言わずとも先々を見通すくらいはやり込んでいる。
それだけに、にとりにとって久方振りの勝利は余程大きな物だったのだろう。疲れ果てて横になったまま眠りに落ちかけている私に対して、弛んだ口元を隠そうともしない。
が、しばらくそうして不気味に笑っていたかと思うと、今度は私の横に座り、寝転んだ私を見下ろしながら口を開いた。
「そいえば今度の土曜の夜、麓に幽霊楽団がライブしに来るんだってさ」
幽霊楽団? ライブ? 聞き慣れない言葉を投げかけられて、私はとりあえず起き上がった。
恐らくはよくわからないと言う顔をしているであろう私を気に留めてないのか、にとりは構わず続ける。
「そんで見に行くんだけどさ、もし休みが取れるなら椛も一緒にどうかなーなんて」
屈託の無い笑顔から、にとりが本当にライブとやらを楽しみにしているのが伺える。
同時に、その楽しみを私と共有しようともしている。その好意は純粋に嬉しい。
嬉しいのだけれど、いかんせんライブとやらは私には未知の世界だ。
「一つ聞くけど、ライブって何?」
私がそう聞き返すと、案の定にとりは大袈裟に驚く。
爽やかに笑っていた顔も、驚きの余り変な風に歪んでいるが、まぁそれはそれで面白いから良い。
「もしかして椛、ライブ知らない……とか?」
「知らないって言うか、幽霊楽団ってのも何かわからない」
あちゃーと言って自分の頭を叩いて、にとりは帽子の上から頭を掻いた。
「あー、そっか……今まで山の方には演奏来てなかったのかなぁ」
それからしばらく私は、にとりからライブについてや幽霊楽団の事などを聞いた。
と言うか、単純に横文字を使うからわからなかっただけだ。最初から演奏会だと説明してくれれば、すぐに理解出来たのに。
けれど私がそう言うと、にとりは馬鹿にしたような、おどけたような、妙な手振りをしながら首を振った。
にとり曰く、「演奏会なんかとはグルーヴが違うんだよ、グルーヴが」らしい。
グルーヴとやらが何かはわからなかったが、それを聞くのはまた面倒臭い事になりそうなのでやめておいた。
とりあえず、演奏会と似ているけれどそれより面白い物……と言う認識で良いんだろうか。
「すごく楽しそうだなぁ……行きたいな」
にとりの説明には不明瞭な点も多く残ったけれど、とにかく楽しいと言う部分を強調されたせいか、話を聞く前よりも興味が湧いてきた。
まして、ただの演奏会なんかではない、と言われたら尚更だ。是非とも現地に赴いて、にとりと一緒に楽しんでみたい。
でも、恐らく行く事は叶わないだろう。上がったテンションとは裏腹な浮かない表情の私に、にとりは不安そうな声をかける。
「休み、取れない?」
行く事が期待出来ない理由、それは他でもない、白狼天狗に与えられた哨戒の仕事だ。
哨戒の仕事は、私自身が下っ端な事もあって余り休みに融通が利かない。病気や怪我ならまだしも「友達と遊びに行くので」なんて理由で休めるほど、私の地位は高くない。
まして、仕事を抜け出してライブに行くなんて言語道断だ。もしそんな事が発覚したら私は山にいられなくなるし、仮に私が仕事を怠ったせいで山に他所者が侵入したら、天狗全体の面汚しにもなってしまう。
でも、こうも好意的に誘ってきてくれるにとりを、余り無下に断るわけにもいかない。
「一応聞いてみるけど……あんまり期待は出来ない、と思う」
しょうがないので、やんわりとダメそうな旨を伝えておく。一応上司の天狗に打診はしてみるけれど、私のライブ初体験はまだ先の事になるだろう。
にとりも寂しそうに笑いながら「休みが貰えると良いね」なんて言っていた。私の口調が弱々しい事で、ある程度は察したのかもしれない。
それからしばらく他愛ない話をして、私の交代の時間が迫っていたのでにとりは帰っていった。ライブ、行けると良いね。そんな事を言いながら。
仕事の時間が迫る。哨戒用の装束に着替えながら、私はまだ見た事も無く、行けるかどうかもわからないライブの事ばかりを考えていた。
――――――――
月日は巡り、秋めく滝は轟々と力強い音を立てて流れ落ち続ける。
そんな滝の裏、掘っ立て小屋の畳の上。私とにとりは先日と同じく、将棋盤を挟んで向かい合っていた。
先日と異なるのは、今度は私が優勢だと言う事だ。まだまだ圧倒的と言うほどではないけれど、着々と詰みへの準備は整っていく。
「あそこは……ダメ、二歩………こっちも取られて終わる……あれは金が邪魔……」
将棋盤を据わった瞳で睨みながらブツブツ呟くにとり。傍から見たら不気味極まりないだろうが、もう長らく将棋を打ち続けている仲だ。このくらいは慣れた。
集中さえ続けば、私は山の妖怪の中でもかなり将棋が強い方だと自負している。前回負けたのは、単に疲れで集中が続かなかったせいだ。
なので現在私は、にとりの次の一手を待ちながら一人退屈している。もちろん、どんな手を打たれても対応は考えてある。
時間制限をかければもっと早く試合が進むのだろうが、元々長い時間の暇つぶしにしている物だ。焦る必要は無い。
「……そういえばさー」
盤面を見据えたまま、にとりは私に声をかけた。
何? と相槌を打つと、頭を抱えたままにとりは続ける。
「ライブの日の休み、取れた?」
そこまで言って、ようやくにとりは顔を上げて私を見た。私と話をしながらも打つ手は考え続けているようで、時折チラリチラリと目線が盤に向く。
そして、恐らくはにとりの予想通りとはいえ、私がその質問に答えるのは、いささか心苦しいのだ。
けれど聞かれてる以上、答えるのが義務だろう。何とか重い口を開く。
「あー、……無理だった」
「そっか……」
休みが取れなかった私の言葉に何を言うでもなく、にとりは再び目線を将棋盤に戻した。
でも、僅かな言葉の中にもにとりの落胆や悲しみが見えるような気がして、妙に心地が悪い。
妖怪の山と言う社会で生きていく上で、各々の任務をこなす事は最低限の義務だ。私にもにとりにも、お互い全く非は無い。
けれど、だからこそ余計に悲しく感じる物も、ある。
「そっか……行けないか………」
明らかに沈んだ声。何とも申し訳ない気持ちで一杯になるが、だからと言って私にはどうとも出来ない。
そうしてお互い気分が沈んだところに、パチッと弱々しい音を立てて駒が打たれる。にとりが長い長い思考の末、ようやく次の手を打ったのだった。
「………」
「え……っと。にとり、それで良いの?」
ただ、にとりの打った手は、とてもこんな長く思考を費やす必要がないくらい、意図がわからないと言うか……見当違いと言うか……不思議な手だった。
余りに突飛な所に駒を動かされたので、一応確認しておく。それでもにとりは何か考え込んだまま、黙って頷くだけだ。
どんなに珍妙な手とはいえ、何か逆転の秘策を考えているのかもしれない。読めない意図を探りながら、焦らず慎重に駒を動かす。にとりは盤を睨みつけたまま、何かを考え続けている。
そうして、妙に張り詰めた空気で駒を進め続けること数分。
「王手」
「あ……」
逃げられないように慎重に脇を固めてから、私はにとりに王手をかけた。その段階になって初めて、にとりは自分の窮地に気がついたような声を上げる。
ものの数手で脇を固められたのも、その間にとりが全て見当違いな方面に駒を動かし続けていたからだった。つまり、にとりは何も考えていなかったか、目の前の盤面とは別の事を考えていた事になる。
「あ、あれ? 私いつの間にか負けてる……」
たはは、と苦笑いして頬を掻くにとり。何を考えていたのかわからないけれど、拍子抜けも良い所だ。
「どうする? もう一局やる?」
きっとにとりも釈然としないだろうと思ってそう訊いたのだけれど、にとりは意外にも首を横に振った。
「今日はなんか集中出来ないから良いや。また今度やろうよ」
今度こそ私は肩透かしをくらった気分になった。前回なんて、自分からもう一局やろうと言ってきたくらいなのに。それとも、あれは単に自分が勝っただけだからか?
まぁ、やる気が無いのに無理矢理付き合わせるのも悪いので、私は将棋盤を片付け始める。
にとりが私に対局を強要しないように、私もなるべくにとりの意志を尊重する。様子を見るに、何か別に考えている事があるようだし。
そうして今日の将棋はそれで終わりになって、畳に寝転がる私。が、にとりはテキパキと手荷物を抱えると、玄関へスタスタ歩いていく。
「あれ、もう帰るの?」
いつもなら一勝負終えた後、しばらくのんびりしてから帰っていくのだけれど。
或いは、少しでも早く家に帰って考えている事を試したいのかもしれない。大方、また何か怪しげな発明品の案でも考えたんだろう。
にとりは私の声に振り返り、妙に爽やかな微笑と言葉を残して帰っていった。
「ライブ、楽しみにしててね!」
残された私は、一人玄関を見つめながら困惑するだけだった。
――――――――
「一つ聞くけどさー」
日が沈み日が昇り、いつも通りの滝の裏。相変わらず対局中な私とにとり。
今日の勝負は一進一退、どっちが勝ってもおかしくない接戦なのだけれど、私には一つ気になる事がある。
別に直接的に勝負に関わる事ではないのだけれど、ともすれば私の集中がいちいち途切れそうになってしまう。
じゃあ、それは何かと言うと。
「何?」
「……何と言うか、さっきから頬が弛んでると言うか、にやついてると言うか……」
将棋盤を挟んで向かい合うにとり。
さっきからその口は開きっぱなし、頬は弛みっぱなしで、怪しいと言ったらない。
……下世話なスキャンダルを掴んだ時の鴉天狗に似ていると言ったら、にとりは怒るだろうか。
「ああ、ごめんごめん」
そう言って、ジュルリと涎を吸い上げるにとり。この友人はもう少し上品だった気がしたのだけれど。
まぁ、それほどまでに夜が楽しみなのかもしれないが。
「今夜だもんね、ライブ」
今日は土曜日。山の麓に幽霊楽団がやって来ると言う日。
上司の白狼天狗はその事を知っていたようで、客と侵入者を間違えるなだなんて分かりきった注意を受けたりもした。
「行きたい気持ちはわかるが……」なんて同情されたけれど、そんなのは余計に悲しくなるだけだったし、同情するなら休みをくれ、とも思う。
ただ、喧騒に紛れて侵入しようとする輩がいるかもしれない。何か特別な事が起きる時には、警戒しておくに越した事は無い。
行きたいと思う反面、そうやって変に冷静な自分がいるから、私は黙ってその上司に首を振ったのだった。
で、当然ながらにとりはライブを楽しみにしてニヤついているんだろう。そう思っていたのだけれど。
「へ? あ、ああ。そういえば今夜だっけ」
私のその言葉を受けて、にとりは不自然なまでに驚いた。危ない危ない、すっかり忘れてたよ、なんてのたまう。
何かと思ったが、本当に今夜がライブだった事を忘れていたらしい。本当に、今日のにとりは変だ。
それに、ライブの事を忘れていたのなら、どうしてあんなニヤけ顔をしていたのだろう?
「何か、他に楽しみな事でもあるの?」
「いや、ないよ。全然無いよ。皆無だよ」
何て事のない私の質問に対して、超反応で否定に入る辺りが更に怪しい。
ただ、こう言う時に追撃するべきなのかどうか、私はわからない。にとりの態度が不審なのは確かだけれど、私に危害を及ぼすような事はほぼ考えてないだろうし。
そうして余計な事を考えているうちに、にとりが駒を進めた先が割と痛い場所だった事に気付く。
「あ」と間抜けな声を上げた私を見て、ようやくにとりはいつものようにニシシと笑った。
「まぁ、椛が心配するような事は考えてないから安心してよ」
下品なニヤケ顔がいつもの悪戯っ子のような笑みになったので、つられて私も頬を弛ませる。
弛ませながら駒を打つ場所を必死に模索していたのだけれど、結局この一手が尾を引き、惜しい所で私は負けてしまった。
何となく釈然としない感じは残ったけれど、深くは考えない事にした。負けたのは単純に悔しいけれど。
ライブに備えて早めに帰ると言うにとりを見送って、私は畳に寝転がって一人、溜め息をついた。
「今回」は行けない。「その次」は、いつ来るのだろう。
「行きたいなぁ……」
呟いた声は、滝の流れ落ちる音に紛れて掻き消された。
――――――――
山の中を見回っている最中、麓から僅かに漏れる光を目にしたけれど、山の上の方まで見えると言うのは、余程活気のある物だったに違いない。
すぐにでも任務を投げ出して麓に駆け下りたい衝動を抑えながら山を駆けるのは、普段の哨戒の何倍も精神力を使った。
夜通し哨戒を続けて、東の空が明るくなりだした頃にようやく帰宅の許可が出た。もちろん、ライブなんてとうに終わっている。
家の戸を開けて敷きっぱなしの布団に倒れこんで、目が覚めたら既に陽は高い。恐らく今は昼過ぎだろう。
まだ覚醒しきらない頭と空腹に鳴る腹を持て余していると、誰かが戸を叩く音がした。
「その様子だと、寝起き? お仕事お疲れ様ー」
戸を開けると、そこにいたのは揺れる緑のツインテール。背負ったリュックサックからは何やら食欲をそそる良い匂い。
表情には若干疲れが見えるけれども、相変わらずの笑顔でにとりが立っていた。
「あー、うん。寝起き」
「だろうね。お昼持ってきたけど、食べる?」
「食べる」
寝起きで頭が回らず、返答が素っ気無くなってしまったけれど、にとりはそんな事を気にする様子も無い。
家の中に招き入れると、背負っていた鞄を降ろし、台所に茶を淹れに行く。勝手知ったる人の家とはこの事だろうか。
家主な私が手持ち無沙汰で何か妙な気分だけれど、まだ疲れが取れてないのもあって、にとりの気遣いに甘える事にした。
やがて、二人分の湯呑みを盆に乗せ、にとりが戻ってくる。昼餉は残っていた適当な漬物と、にとりが持ってきた握り飯。簡素だけれど、ほど良い塩加減の握り飯が疲れた体には何よりもご馳走に感じられた。
二人で卓袱台を囲んで、何を話すでもなく口を動かす。耳に入るのは、滝の流れ落ちる音だけだ。
昨晩の活気が嘘のように、昼下がりの山は物静かだ。音はすれども、声は聞こえない。
鴉天狗も、今日みたいな晴れ渡る爽やかな陽気の日には、きっと幻想郷中を新聞のネタ集めに奔走しているに違いない。きっと今日の夕方頃には、昨夜のライブを記事にした新聞が郵便受けに放り込まれている事だろう。
風景を彩る物は、風で舞い散る紅葉のみ。舞い上がった朱色が滝壷にひらりひらりと落ちていくのは、毎年変わらない風情と、少しの物寂しさを感じさせる。
隣で同じく滝を眺める友人とも、毎年同じような距離で同じような日々を過ごしている。変わらないのは良い事だと思う。いつまでも暇潰しに将棋を嗜んで、時々こうやって食事を共にする。それ以上の幸せなんて、今の私には思いつかない。
実際は自分に出来る事なんてせいぜい哨戒程度なのに、秋めく滝を見ていると妙に詩的になってしまうのも、変わらない。
「昨日は楽しかった?」
簡素な昼餉を終え、私は押入れから将棋盤を引っ張り出しながらにとりに尋ねた。
昨夜の哨戒中にチラリと見えた麓の賑わいは、正直に言えば羨ましくて堪らなかった。感想を聞いた所で羨ましさは募る一方だろうけれど、かと言って全く話題に触れずにいられない。
好奇心剥き出しなのを悟られるのは恥ずかしいので、努めて平静を装った声で尋ねた次第なのだが。
私の言葉を受けても、にとりはしばしば見せる、悪戯好きな子供のような怪しい笑顔を見せるだけだった。
「何? 何かあったの?」
重ねて尋ねても、にとりは一言も発しない。
その代わりにリュックサックに手を突っ込み、ゴソゴソと何かを探している。
以前、河童特製の防水リュックサックの中には何が入っているのかと尋ねた事があったけれど、よくわからない機械を取り出して「夢とロマンだよ」なんて言われた時には、返答に窮した記憶がある。
今回もにとりは何やら怪しげな機械を取り出し、自慢気に私に見せ付けてきた。
「……それは何?」
「良いから良いから」
何が良いのかはわからないけれど、にとりは奇妙な機械――二又に分かれた紐がついた小さい箱――を床に置き、紐の先の片方を私に手渡す。
触ってみると、それは紐と言うには違和感のある手触りだった。先は丸まって膨らんで小さな穴が無数に開いているし、得体の知れない物を手にするのは若干気味が悪いとも思う。
「その先っぽを耳に入れるんだ」
サラリと恐ろしい事を言うにとり。種族的に色々と耳が弱い事は知っている筈なのに、得体の知れない物を耳に入れろと言われても困る。
そんな私に業を煮やしたのか、それとも単純に付け方がわからないと勘違いしたのか、にとりはもう片方を自分の耳に入れた。
こんな感じこんな感じ、と耳を指差す素振りを見て、心を決める。思い切って耳に差し込むと、条件反射でパタパタと耳が動いて恥ずかしい。
「んじゃ、いくよー」
そう言って、箱を弄くるにとり。何事かと思って身を硬くして待っていると、紐の先を突っ込んだ方の耳から、何かが聞こえてきた。
段々とその音は大きくなり、少しうるさいと感じ始めた辺りで、誰かの声が聞こえた。
『今日はわざわざ足を運んでくださって、ありがとうございます』
「にとり、何コレ?」
「ちょっと黙って」
聞こえてきたのは私の知らない、落ち着いた女性の声。ざわざわと雑音が入っているのは、宴会の時の喧騒に似ている。
何かと尋ねた私は、しかしにとりに静かにするように言われ、大人しく口を閉ざした。にとりにも同じ物が聞こえているのだろうか。
そうしている間にも、耳の中の女性は朗々と喋り続ける。
『余り来た事が無い妖怪の山周辺と言う事で、初めて私たちの演奏を聴く方も多いかと思います』
『もう良いじゃん姉さん、早くやろうよ』
『喋りよりも演奏を聴いて貰った方が早いよー』
喋っている女性よりも幼い声で入った茶々に、どっと笑いが起きる。喋っていた女性は溜め息をついた後、「それでは始めたいと思います」と言ったきり沈黙した。
しばし訪れる静寂。にとりに視線を向けると、声を出さずに口だけでこう言った。
ここからだよ
にとりがそう言った瞬間、耳に恐らくは弦楽器の物であろう旋律が流れ始めた。
思わずその必要も無いのに息を潜め、始まった音楽に神経を集中させる。もうわかった。原理はわからないけれど、今聞いているこれが「ライブ」なのだろう。
最初は聞き慣れない弦楽器だけだった旋律も、次第に音数が増えていき、息をするも忘れている間に凄まじい迫力を伴う大合奏となる。
その全てが聞いた事の無い楽器の音色だったけれども、耳に流れる旋律は複雑で、時に山野を駆け巡っているかのような勢いを感じ、時に冬の焚き火の暖かさのような安らぎを感じる。それは確かに私が知っている「演奏会」とは異なる物だった。
あっという間に流れるような演奏が一旦区切りをつけ、再び休憩がてらであろう雑談に入った。
「凄いでしょ? これが昨日のライブ」
一旦演奏が終わったからか、にとりが声を出して私を現実へと引き摺り戻す。声をかけられなければずっと聞き入っていたくらいに、この演奏は私にとって衝撃的だった。
雑談はそれなりに盛り上がっていて、演奏が再開するにはもう少しかかりそうだ。その間、私もにとりと話すことにする。
「これ、どうしたの?」
「これ? ああ、昨日のライブを録音したんだ」
もちろん、許可は取ったよ。そう言ってにとりは笑ったけれど、実は録音とは何なのかわからなかったのは言わないでおく。
とりあえず、いつもの不思議な機械で昨日のライブがいつでも聴けると考えれば、一応間違ってはいない筈だ。
「凄いね……」
「でしょ? もう本当に楽しくってねー」
嬉々として語るにとり。昨日の興奮が蘇ったのか、その声は若干熱っぽい。
それにしても、いつの間にこんな機械を作っていたのだろう。奇天烈な発明は河童の十八番とは言え、実際自分がその恩恵を受けるとなると、驚いて何も言えない。
嬉しいのは、にとりがその発明を私のために使ってくれた事だ。
「本当にありがとね、嬉しいよ」
「それでこの時のメルランがさ……って、へ? 何?」
「なんでもないよ」
雑談が終わり、再び演奏が始まる。それまで熱っぽく喋り続けていたにとりも口を閉ざし、黙って演奏に聞き入る。
呟いた言葉も聞こえていないみたいだけれど、別に構わない。それよりも今は、この心地良い音色に心を預けていたい。
それで、次のライブの時には生でこの演奏を聴けると尚更良い。落ち続ける滝を眺めて、不思議な演奏で耳を満たして、そうして今日の陽は暮れていく。
傾く夕陽が妖怪の山を朱色に染め、流れ落ちる滝の音が詫びと寂びを演出する。
例年にも増して厳しかった夏の暑さはすっかり鳴りを潜め、実りの秋が冬に向けて支度を始めた幻想郷を彩る。
山は色鮮やかな紅葉で一つの芸術を為し、鴉天狗は今日も過ぎ行く秋をフィルムに焼付けに、幻想郷中を飛び回る。
穏やかで美しい季節を、今日も私は幸せに過ごす事が出来た。寝て起きて仕事をして、ご飯を食べて将棋を打って、時折音楽で心を満たして。
そんないつもと変わらない満たされた日々が、いつまでも続くように。今日も私は滝の裏から祈っている。
例年にも増して厳しかった夏の暑さはすっかり鳴りを潜め、実りの秋が冬に向けて支度を始めた幻想郷を彩る。
山は色鮮やかな紅葉で一つの芸術を為し、鴉天狗は今日も過ぎ行く秋をフィルムに焼付けに、幻想郷中を飛び回る。
穏やかで美しい季節を、わざわざ手間隙かけて台無しにしようと企てる不届きな輩もいない。いるはずがない。
平穏その物、身に着けた剣と盾も扱い方を忘れてしまいそうな日々の中、確かにこの瞬間、私は危機に陥っている。
「最初はヒヤッとさせられたけど、こうなったら流石の椛もどうにもならないよねー」
「………」
つまるところ私は、現在進行形で追い詰められているのだ。
本来なら決して、少なくとも一方的に打ち負かされる事は無い相手に、油断と慢心による隙をさらしてしまった。そうなったらもう、崩れるのは目に見えている。
あれよあれよと言う間に抵抗する術は失われ、今では満足に逃げる事も叶わない。
「早く……一思いにトドメを刺したらどうなんだ」
仕事の疲れが溜まっていただとか、油断さえ無ければ勝っただとか、そう言った言い訳はするつもりは無い。
負ける時には、潔く。そもそもみっともなく足掻く事すら出来ない状況なのだが、最後まで心意気だけは高く持っていたい。
私の言葉を敗北を認める物だと受け取ったのか、相対した妖怪――河城にとりは口元を歪め、その手をゆっくりと持ち上げ、そして――
「はい、ここに桂馬で王手詰み」
ピシィと小気味良い音を立て、盤面に駒が打たれた。
その桂馬は先刻まで私が唯一望みを繋いでいた逃走経路を完全に塞ぎ、私の王将は逃げようにも逃げられなくなってしまう。
元より、主力の駒の一切合財を奪われた後だ。逃げた所で、ほんの僅かな延命処置にしかならなかっただろうが。
参りました、と頭を下げると、にとりは心底嬉しそうに満面の笑みになり、拳を握り締めた。
「負けちゃったかぁ」
「私が椛に勝ったのは久し振りだよね」
限界まで頭を使い続けた疲労が一気にやってきて、たまらず私は畳に仰向けに寝転がった。
仕事の合間の将棋。休憩時間の息抜きのつもりなのだけれど、頭を使うからとても休憩になんてなりはしない。
それでも、気の置けない友人の河童との一時は、精神的には一人で過ごす時間の何倍もリフレッシュ出来るのだけれど。
すぐ傍を流れる滝の振動が、寝転がったことでより鮮明に感じる。休憩が終わるまで、あと何時間あっただろう?
ひんやりした空気が通り抜けていくのが気持ち良い。寝転がっている私につられてか、それとも単に私と同じく疲れたのか、にとりも両手を投げ出し寝転がる。
酷使した頭を滝の冷えた空気が冷却してくれているようで、非常に気持ちが良い。この冷たい空気、前に山の上の神社の巫女が何か言っていた気がする。まいなすいおん、だっけか。
「ねぇねぇ、私にリベンジとかする気ない?」
久し振りの勝利でテンションが上がっているのか、にとりは投げ出した両手をすぐに振り上げて起き上がり、興奮した面持ちで私を見る。
その楽しそうな目、ある種挑発的な問い掛け。にとりが私ともう一局交えたいと思っているのは間違いない。
だがしかし。哨戒の任と今の一局で疲れきった私には、もうそんな体力も気力も残っていなかった。もしもう一局やったとしても、結局集中力が続かずにみっともなく負けてしまうだろう。
「もう無理。今日は勘弁して」
面白くないなーと言いながら、にとりは尚もニシシと笑う。余程嬉しかったに違いない。
にとりとは、もうどれくらい対局したかなんて覚えていないくらいに勝負しているけれど、今のところは僅かに私が勝ち越している様な気がする。
遥か先まで見通せるのは、何も距離だけじゃない。将棋に関してなら、千手とは言わずとも先々を見通すくらいはやり込んでいる。
それだけに、にとりにとって久方振りの勝利は余程大きな物だったのだろう。疲れ果てて横になったまま眠りに落ちかけている私に対して、弛んだ口元を隠そうともしない。
が、しばらくそうして不気味に笑っていたかと思うと、今度は私の横に座り、寝転んだ私を見下ろしながら口を開いた。
「そいえば今度の土曜の夜、麓に幽霊楽団がライブしに来るんだってさ」
幽霊楽団? ライブ? 聞き慣れない言葉を投げかけられて、私はとりあえず起き上がった。
恐らくはよくわからないと言う顔をしているであろう私を気に留めてないのか、にとりは構わず続ける。
「そんで見に行くんだけどさ、もし休みが取れるなら椛も一緒にどうかなーなんて」
屈託の無い笑顔から、にとりが本当にライブとやらを楽しみにしているのが伺える。
同時に、その楽しみを私と共有しようともしている。その好意は純粋に嬉しい。
嬉しいのだけれど、いかんせんライブとやらは私には未知の世界だ。
「一つ聞くけど、ライブって何?」
私がそう聞き返すと、案の定にとりは大袈裟に驚く。
爽やかに笑っていた顔も、驚きの余り変な風に歪んでいるが、まぁそれはそれで面白いから良い。
「もしかして椛、ライブ知らない……とか?」
「知らないって言うか、幽霊楽団ってのも何かわからない」
あちゃーと言って自分の頭を叩いて、にとりは帽子の上から頭を掻いた。
「あー、そっか……今まで山の方には演奏来てなかったのかなぁ」
それからしばらく私は、にとりからライブについてや幽霊楽団の事などを聞いた。
と言うか、単純に横文字を使うからわからなかっただけだ。最初から演奏会だと説明してくれれば、すぐに理解出来たのに。
けれど私がそう言うと、にとりは馬鹿にしたような、おどけたような、妙な手振りをしながら首を振った。
にとり曰く、「演奏会なんかとはグルーヴが違うんだよ、グルーヴが」らしい。
グルーヴとやらが何かはわからなかったが、それを聞くのはまた面倒臭い事になりそうなのでやめておいた。
とりあえず、演奏会と似ているけれどそれより面白い物……と言う認識で良いんだろうか。
「すごく楽しそうだなぁ……行きたいな」
にとりの説明には不明瞭な点も多く残ったけれど、とにかく楽しいと言う部分を強調されたせいか、話を聞く前よりも興味が湧いてきた。
まして、ただの演奏会なんかではない、と言われたら尚更だ。是非とも現地に赴いて、にとりと一緒に楽しんでみたい。
でも、恐らく行く事は叶わないだろう。上がったテンションとは裏腹な浮かない表情の私に、にとりは不安そうな声をかける。
「休み、取れない?」
行く事が期待出来ない理由、それは他でもない、白狼天狗に与えられた哨戒の仕事だ。
哨戒の仕事は、私自身が下っ端な事もあって余り休みに融通が利かない。病気や怪我ならまだしも「友達と遊びに行くので」なんて理由で休めるほど、私の地位は高くない。
まして、仕事を抜け出してライブに行くなんて言語道断だ。もしそんな事が発覚したら私は山にいられなくなるし、仮に私が仕事を怠ったせいで山に他所者が侵入したら、天狗全体の面汚しにもなってしまう。
でも、こうも好意的に誘ってきてくれるにとりを、余り無下に断るわけにもいかない。
「一応聞いてみるけど……あんまり期待は出来ない、と思う」
しょうがないので、やんわりとダメそうな旨を伝えておく。一応上司の天狗に打診はしてみるけれど、私のライブ初体験はまだ先の事になるだろう。
にとりも寂しそうに笑いながら「休みが貰えると良いね」なんて言っていた。私の口調が弱々しい事で、ある程度は察したのかもしれない。
それからしばらく他愛ない話をして、私の交代の時間が迫っていたのでにとりは帰っていった。ライブ、行けると良いね。そんな事を言いながら。
仕事の時間が迫る。哨戒用の装束に着替えながら、私はまだ見た事も無く、行けるかどうかもわからないライブの事ばかりを考えていた。
――――――――
月日は巡り、秋めく滝は轟々と力強い音を立てて流れ落ち続ける。
そんな滝の裏、掘っ立て小屋の畳の上。私とにとりは先日と同じく、将棋盤を挟んで向かい合っていた。
先日と異なるのは、今度は私が優勢だと言う事だ。まだまだ圧倒的と言うほどではないけれど、着々と詰みへの準備は整っていく。
「あそこは……ダメ、二歩………こっちも取られて終わる……あれは金が邪魔……」
将棋盤を据わった瞳で睨みながらブツブツ呟くにとり。傍から見たら不気味極まりないだろうが、もう長らく将棋を打ち続けている仲だ。このくらいは慣れた。
集中さえ続けば、私は山の妖怪の中でもかなり将棋が強い方だと自負している。前回負けたのは、単に疲れで集中が続かなかったせいだ。
なので現在私は、にとりの次の一手を待ちながら一人退屈している。もちろん、どんな手を打たれても対応は考えてある。
時間制限をかければもっと早く試合が進むのだろうが、元々長い時間の暇つぶしにしている物だ。焦る必要は無い。
「……そういえばさー」
盤面を見据えたまま、にとりは私に声をかけた。
何? と相槌を打つと、頭を抱えたままにとりは続ける。
「ライブの日の休み、取れた?」
そこまで言って、ようやくにとりは顔を上げて私を見た。私と話をしながらも打つ手は考え続けているようで、時折チラリチラリと目線が盤に向く。
そして、恐らくはにとりの予想通りとはいえ、私がその質問に答えるのは、いささか心苦しいのだ。
けれど聞かれてる以上、答えるのが義務だろう。何とか重い口を開く。
「あー、……無理だった」
「そっか……」
休みが取れなかった私の言葉に何を言うでもなく、にとりは再び目線を将棋盤に戻した。
でも、僅かな言葉の中にもにとりの落胆や悲しみが見えるような気がして、妙に心地が悪い。
妖怪の山と言う社会で生きていく上で、各々の任務をこなす事は最低限の義務だ。私にもにとりにも、お互い全く非は無い。
けれど、だからこそ余計に悲しく感じる物も、ある。
「そっか……行けないか………」
明らかに沈んだ声。何とも申し訳ない気持ちで一杯になるが、だからと言って私にはどうとも出来ない。
そうしてお互い気分が沈んだところに、パチッと弱々しい音を立てて駒が打たれる。にとりが長い長い思考の末、ようやく次の手を打ったのだった。
「………」
「え……っと。にとり、それで良いの?」
ただ、にとりの打った手は、とてもこんな長く思考を費やす必要がないくらい、意図がわからないと言うか……見当違いと言うか……不思議な手だった。
余りに突飛な所に駒を動かされたので、一応確認しておく。それでもにとりは何か考え込んだまま、黙って頷くだけだ。
どんなに珍妙な手とはいえ、何か逆転の秘策を考えているのかもしれない。読めない意図を探りながら、焦らず慎重に駒を動かす。にとりは盤を睨みつけたまま、何かを考え続けている。
そうして、妙に張り詰めた空気で駒を進め続けること数分。
「王手」
「あ……」
逃げられないように慎重に脇を固めてから、私はにとりに王手をかけた。その段階になって初めて、にとりは自分の窮地に気がついたような声を上げる。
ものの数手で脇を固められたのも、その間にとりが全て見当違いな方面に駒を動かし続けていたからだった。つまり、にとりは何も考えていなかったか、目の前の盤面とは別の事を考えていた事になる。
「あ、あれ? 私いつの間にか負けてる……」
たはは、と苦笑いして頬を掻くにとり。何を考えていたのかわからないけれど、拍子抜けも良い所だ。
「どうする? もう一局やる?」
きっとにとりも釈然としないだろうと思ってそう訊いたのだけれど、にとりは意外にも首を横に振った。
「今日はなんか集中出来ないから良いや。また今度やろうよ」
今度こそ私は肩透かしをくらった気分になった。前回なんて、自分からもう一局やろうと言ってきたくらいなのに。それとも、あれは単に自分が勝っただけだからか?
まぁ、やる気が無いのに無理矢理付き合わせるのも悪いので、私は将棋盤を片付け始める。
にとりが私に対局を強要しないように、私もなるべくにとりの意志を尊重する。様子を見るに、何か別に考えている事があるようだし。
そうして今日の将棋はそれで終わりになって、畳に寝転がる私。が、にとりはテキパキと手荷物を抱えると、玄関へスタスタ歩いていく。
「あれ、もう帰るの?」
いつもなら一勝負終えた後、しばらくのんびりしてから帰っていくのだけれど。
或いは、少しでも早く家に帰って考えている事を試したいのかもしれない。大方、また何か怪しげな発明品の案でも考えたんだろう。
にとりは私の声に振り返り、妙に爽やかな微笑と言葉を残して帰っていった。
「ライブ、楽しみにしててね!」
残された私は、一人玄関を見つめながら困惑するだけだった。
――――――――
「一つ聞くけどさー」
日が沈み日が昇り、いつも通りの滝の裏。相変わらず対局中な私とにとり。
今日の勝負は一進一退、どっちが勝ってもおかしくない接戦なのだけれど、私には一つ気になる事がある。
別に直接的に勝負に関わる事ではないのだけれど、ともすれば私の集中がいちいち途切れそうになってしまう。
じゃあ、それは何かと言うと。
「何?」
「……何と言うか、さっきから頬が弛んでると言うか、にやついてると言うか……」
将棋盤を挟んで向かい合うにとり。
さっきからその口は開きっぱなし、頬は弛みっぱなしで、怪しいと言ったらない。
……下世話なスキャンダルを掴んだ時の鴉天狗に似ていると言ったら、にとりは怒るだろうか。
「ああ、ごめんごめん」
そう言って、ジュルリと涎を吸い上げるにとり。この友人はもう少し上品だった気がしたのだけれど。
まぁ、それほどまでに夜が楽しみなのかもしれないが。
「今夜だもんね、ライブ」
今日は土曜日。山の麓に幽霊楽団がやって来ると言う日。
上司の白狼天狗はその事を知っていたようで、客と侵入者を間違えるなだなんて分かりきった注意を受けたりもした。
「行きたい気持ちはわかるが……」なんて同情されたけれど、そんなのは余計に悲しくなるだけだったし、同情するなら休みをくれ、とも思う。
ただ、喧騒に紛れて侵入しようとする輩がいるかもしれない。何か特別な事が起きる時には、警戒しておくに越した事は無い。
行きたいと思う反面、そうやって変に冷静な自分がいるから、私は黙ってその上司に首を振ったのだった。
で、当然ながらにとりはライブを楽しみにしてニヤついているんだろう。そう思っていたのだけれど。
「へ? あ、ああ。そういえば今夜だっけ」
私のその言葉を受けて、にとりは不自然なまでに驚いた。危ない危ない、すっかり忘れてたよ、なんてのたまう。
何かと思ったが、本当に今夜がライブだった事を忘れていたらしい。本当に、今日のにとりは変だ。
それに、ライブの事を忘れていたのなら、どうしてあんなニヤけ顔をしていたのだろう?
「何か、他に楽しみな事でもあるの?」
「いや、ないよ。全然無いよ。皆無だよ」
何て事のない私の質問に対して、超反応で否定に入る辺りが更に怪しい。
ただ、こう言う時に追撃するべきなのかどうか、私はわからない。にとりの態度が不審なのは確かだけれど、私に危害を及ぼすような事はほぼ考えてないだろうし。
そうして余計な事を考えているうちに、にとりが駒を進めた先が割と痛い場所だった事に気付く。
「あ」と間抜けな声を上げた私を見て、ようやくにとりはいつものようにニシシと笑った。
「まぁ、椛が心配するような事は考えてないから安心してよ」
下品なニヤケ顔がいつもの悪戯っ子のような笑みになったので、つられて私も頬を弛ませる。
弛ませながら駒を打つ場所を必死に模索していたのだけれど、結局この一手が尾を引き、惜しい所で私は負けてしまった。
何となく釈然としない感じは残ったけれど、深くは考えない事にした。負けたのは単純に悔しいけれど。
ライブに備えて早めに帰ると言うにとりを見送って、私は畳に寝転がって一人、溜め息をついた。
「今回」は行けない。「その次」は、いつ来るのだろう。
「行きたいなぁ……」
呟いた声は、滝の流れ落ちる音に紛れて掻き消された。
――――――――
山の中を見回っている最中、麓から僅かに漏れる光を目にしたけれど、山の上の方まで見えると言うのは、余程活気のある物だったに違いない。
すぐにでも任務を投げ出して麓に駆け下りたい衝動を抑えながら山を駆けるのは、普段の哨戒の何倍も精神力を使った。
夜通し哨戒を続けて、東の空が明るくなりだした頃にようやく帰宅の許可が出た。もちろん、ライブなんてとうに終わっている。
家の戸を開けて敷きっぱなしの布団に倒れこんで、目が覚めたら既に陽は高い。恐らく今は昼過ぎだろう。
まだ覚醒しきらない頭と空腹に鳴る腹を持て余していると、誰かが戸を叩く音がした。
「その様子だと、寝起き? お仕事お疲れ様ー」
戸を開けると、そこにいたのは揺れる緑のツインテール。背負ったリュックサックからは何やら食欲をそそる良い匂い。
表情には若干疲れが見えるけれども、相変わらずの笑顔でにとりが立っていた。
「あー、うん。寝起き」
「だろうね。お昼持ってきたけど、食べる?」
「食べる」
寝起きで頭が回らず、返答が素っ気無くなってしまったけれど、にとりはそんな事を気にする様子も無い。
家の中に招き入れると、背負っていた鞄を降ろし、台所に茶を淹れに行く。勝手知ったる人の家とはこの事だろうか。
家主な私が手持ち無沙汰で何か妙な気分だけれど、まだ疲れが取れてないのもあって、にとりの気遣いに甘える事にした。
やがて、二人分の湯呑みを盆に乗せ、にとりが戻ってくる。昼餉は残っていた適当な漬物と、にとりが持ってきた握り飯。簡素だけれど、ほど良い塩加減の握り飯が疲れた体には何よりもご馳走に感じられた。
二人で卓袱台を囲んで、何を話すでもなく口を動かす。耳に入るのは、滝の流れ落ちる音だけだ。
昨晩の活気が嘘のように、昼下がりの山は物静かだ。音はすれども、声は聞こえない。
鴉天狗も、今日みたいな晴れ渡る爽やかな陽気の日には、きっと幻想郷中を新聞のネタ集めに奔走しているに違いない。きっと今日の夕方頃には、昨夜のライブを記事にした新聞が郵便受けに放り込まれている事だろう。
風景を彩る物は、風で舞い散る紅葉のみ。舞い上がった朱色が滝壷にひらりひらりと落ちていくのは、毎年変わらない風情と、少しの物寂しさを感じさせる。
隣で同じく滝を眺める友人とも、毎年同じような距離で同じような日々を過ごしている。変わらないのは良い事だと思う。いつまでも暇潰しに将棋を嗜んで、時々こうやって食事を共にする。それ以上の幸せなんて、今の私には思いつかない。
実際は自分に出来る事なんてせいぜい哨戒程度なのに、秋めく滝を見ていると妙に詩的になってしまうのも、変わらない。
「昨日は楽しかった?」
簡素な昼餉を終え、私は押入れから将棋盤を引っ張り出しながらにとりに尋ねた。
昨夜の哨戒中にチラリと見えた麓の賑わいは、正直に言えば羨ましくて堪らなかった。感想を聞いた所で羨ましさは募る一方だろうけれど、かと言って全く話題に触れずにいられない。
好奇心剥き出しなのを悟られるのは恥ずかしいので、努めて平静を装った声で尋ねた次第なのだが。
私の言葉を受けても、にとりはしばしば見せる、悪戯好きな子供のような怪しい笑顔を見せるだけだった。
「何? 何かあったの?」
重ねて尋ねても、にとりは一言も発しない。
その代わりにリュックサックに手を突っ込み、ゴソゴソと何かを探している。
以前、河童特製の防水リュックサックの中には何が入っているのかと尋ねた事があったけれど、よくわからない機械を取り出して「夢とロマンだよ」なんて言われた時には、返答に窮した記憶がある。
今回もにとりは何やら怪しげな機械を取り出し、自慢気に私に見せ付けてきた。
「……それは何?」
「良いから良いから」
何が良いのかはわからないけれど、にとりは奇妙な機械――二又に分かれた紐がついた小さい箱――を床に置き、紐の先の片方を私に手渡す。
触ってみると、それは紐と言うには違和感のある手触りだった。先は丸まって膨らんで小さな穴が無数に開いているし、得体の知れない物を手にするのは若干気味が悪いとも思う。
「その先っぽを耳に入れるんだ」
サラリと恐ろしい事を言うにとり。種族的に色々と耳が弱い事は知っている筈なのに、得体の知れない物を耳に入れろと言われても困る。
そんな私に業を煮やしたのか、それとも単純に付け方がわからないと勘違いしたのか、にとりはもう片方を自分の耳に入れた。
こんな感じこんな感じ、と耳を指差す素振りを見て、心を決める。思い切って耳に差し込むと、条件反射でパタパタと耳が動いて恥ずかしい。
「んじゃ、いくよー」
そう言って、箱を弄くるにとり。何事かと思って身を硬くして待っていると、紐の先を突っ込んだ方の耳から、何かが聞こえてきた。
段々とその音は大きくなり、少しうるさいと感じ始めた辺りで、誰かの声が聞こえた。
『今日はわざわざ足を運んでくださって、ありがとうございます』
「にとり、何コレ?」
「ちょっと黙って」
聞こえてきたのは私の知らない、落ち着いた女性の声。ざわざわと雑音が入っているのは、宴会の時の喧騒に似ている。
何かと尋ねた私は、しかしにとりに静かにするように言われ、大人しく口を閉ざした。にとりにも同じ物が聞こえているのだろうか。
そうしている間にも、耳の中の女性は朗々と喋り続ける。
『余り来た事が無い妖怪の山周辺と言う事で、初めて私たちの演奏を聴く方も多いかと思います』
『もう良いじゃん姉さん、早くやろうよ』
『喋りよりも演奏を聴いて貰った方が早いよー』
喋っている女性よりも幼い声で入った茶々に、どっと笑いが起きる。喋っていた女性は溜め息をついた後、「それでは始めたいと思います」と言ったきり沈黙した。
しばし訪れる静寂。にとりに視線を向けると、声を出さずに口だけでこう言った。
ここからだよ
にとりがそう言った瞬間、耳に恐らくは弦楽器の物であろう旋律が流れ始めた。
思わずその必要も無いのに息を潜め、始まった音楽に神経を集中させる。もうわかった。原理はわからないけれど、今聞いているこれが「ライブ」なのだろう。
最初は聞き慣れない弦楽器だけだった旋律も、次第に音数が増えていき、息をするも忘れている間に凄まじい迫力を伴う大合奏となる。
その全てが聞いた事の無い楽器の音色だったけれども、耳に流れる旋律は複雑で、時に山野を駆け巡っているかのような勢いを感じ、時に冬の焚き火の暖かさのような安らぎを感じる。それは確かに私が知っている「演奏会」とは異なる物だった。
あっという間に流れるような演奏が一旦区切りをつけ、再び休憩がてらであろう雑談に入った。
「凄いでしょ? これが昨日のライブ」
一旦演奏が終わったからか、にとりが声を出して私を現実へと引き摺り戻す。声をかけられなければずっと聞き入っていたくらいに、この演奏は私にとって衝撃的だった。
雑談はそれなりに盛り上がっていて、演奏が再開するにはもう少しかかりそうだ。その間、私もにとりと話すことにする。
「これ、どうしたの?」
「これ? ああ、昨日のライブを録音したんだ」
もちろん、許可は取ったよ。そう言ってにとりは笑ったけれど、実は録音とは何なのかわからなかったのは言わないでおく。
とりあえず、いつもの不思議な機械で昨日のライブがいつでも聴けると考えれば、一応間違ってはいない筈だ。
「凄いね……」
「でしょ? もう本当に楽しくってねー」
嬉々として語るにとり。昨日の興奮が蘇ったのか、その声は若干熱っぽい。
それにしても、いつの間にこんな機械を作っていたのだろう。奇天烈な発明は河童の十八番とは言え、実際自分がその恩恵を受けるとなると、驚いて何も言えない。
嬉しいのは、にとりがその発明を私のために使ってくれた事だ。
「本当にありがとね、嬉しいよ」
「それでこの時のメルランがさ……って、へ? 何?」
「なんでもないよ」
雑談が終わり、再び演奏が始まる。それまで熱っぽく喋り続けていたにとりも口を閉ざし、黙って演奏に聞き入る。
呟いた言葉も聞こえていないみたいだけれど、別に構わない。それよりも今は、この心地良い音色に心を預けていたい。
それで、次のライブの時には生でこの演奏を聴けると尚更良い。落ち続ける滝を眺めて、不思議な演奏で耳を満たして、そうして今日の陽は暮れていく。
傾く夕陽が妖怪の山を朱色に染め、流れ落ちる滝の音が詫びと寂びを演出する。
例年にも増して厳しかった夏の暑さはすっかり鳴りを潜め、実りの秋が冬に向けて支度を始めた幻想郷を彩る。
山は色鮮やかな紅葉で一つの芸術を為し、鴉天狗は今日も過ぎ行く秋をフィルムに焼付けに、幻想郷中を飛び回る。
穏やかで美しい季節を、今日も私は幸せに過ごす事が出来た。寝て起きて仕事をして、ご飯を食べて将棋を打って、時折音楽で心を満たして。
そんないつもと変わらない満たされた日々が、いつまでも続くように。今日も私は滝の裏から祈っている。
こなれた文体、なめらかな語り口もそれを援けているように思えました。
甘々な百合もいいけどこういう関係も素敵ですね
>9
ほのぼのした日常を書くのは初めてで不安もあったのですが、そう言って頂けると幸いです
>12
個人的には恋愛関係その物よりも「仲の良い友達同士」な方が好きなんです