気がついたら、空には満天の星空が見えていて、ひゅんひゅんと、まるで雀が夕焼けの空を飛ぶように―いや、もっと早く―空から星が一杯落ちていた。
首が痛くなるほどそれを眺めていると、気が付けば両足は水にぬれていて、足元には確かに流れる水の音が聞こえた。 そこで、初めて自分が暗い、とても暗い山の中に居るんだ、って自覚した。
「おねえちゃん」
一緒に居たはずのお姉ちゃんが居ない。まるで、心の中まで沢の水が流れているような、底知れぬ冷たい感覚が体を貫いた。
「おねえちゃん、おねえちゃん!」
無我夢中で歩き出す。まるで自分が沢の一部になったように、足から体を伝って、頭から顔を伝って涙が沢に落ちて行く。 いつしか私は、自分が泣いていることも忘れて、沢を一心不乱に降りていて―
空が、落ちてきた。
「大丈夫?」
綺麗なお姉さんが、私の腕を掴んでくれた。頭が、痛い。体中がびしょびしょで、きっとあのまま流れて滝に落ちて、そこで私は―。
身震いをする。 左手に大切そうに何かを抱えたまま、お姉さんは私を抱え起こすと
「あなた、お名前は?」
「私の、なまえ―」
なんだっけ。 あったような、無かったような・・・、いや、確かにあった。なんで忘れたのだろうか。
「きく。 きくって言います」
「そう、きくちゃん。 貴方、帰り道は分かる?」
心がズキリとした。分からない。ここが、いつも眺めていた山なのは分かる。けれど、山の何処なのかが分からない。
夜の闇が山を漆黒に染め、見渡す限り、星よりも明るいものは何一つ無い。
無言でかぶりを振る私に、お姉さんは優しく微笑んだ。
「分かった。 じゃあ、一緒に帰りましょう」
お姉さんは右手を差し出した。綺麗な手。 私は、恥ずかしくてうつむきながら、お姉さんの綺麗な右手を握った。
暗い道を歩く。 耳を傾けると、眠る獣の息遣いや、草木のこすれる音がまるで一つの曲のように、体に染み渡ってくる。 右側に居るお姉さんは、遠くの方を見ながら、てくてくと迷いの無い歩みを続ける。
「あの・・・、お姉さん」
「なあに」
それが、とても消え去りそうで。 遠くの方を見るめるお姉さんは、まるで陽炎のようにふっと消えてしまいそうで、怖くて、怖くて。
「何か、お話をして下さい」
我ながらずうずうしいな、と思う。けれど、お姉さんは嫌な顔一つせず、
「そうね、じゃあこんな話はどうかしら」
そう言って、私にお話を聞かせてくれた。
―ある所に、小さな女の子が居ました。その子が三歳になる誕生日に、両親は立派な人形を、わざわざ町の行商から買ってくれました。女の子はそれがとってもうれしくて、何処に行くにしてもその人形と一緒で、ずっと、大切にしていました。
いつしか沢の音も消え、月明かりだけが煌々と道を照らす中、お姉さんは尚もお話を続けます。
―その子が五歳になるときの事です。 ずっと、ずっと雨が続き、折角耕した畑は全てドロドロになってしまい、作物の実りもずっと遅くなってしまいました。
そう、村長さんの息子さんが新しい畑を作るとき、引っかかってしまった竜神様の池を少し、埋めてしまっていたのです。
お怒りになった竜神様は村に長雨を降らし、必死で竜神様のお怒りを沈めようにも、依然として雨は降り続けていました。
お姉さんの顔が冥く翳る。
―村長さんや、村の男どもが話し合って、一つの結論を出しました。
ならば、人を捧げよう。
〝七つ子は神の子〟の名のとおり、七つにならない子供を捧げよう。そうして竜神様の怒りを治めるしか、私たちに生きる道は無い。
「こうして、女の子は竜神様に捧げられる事になりました。 でも、女の子は怖くありませんでした」
「なんで?」
「女の子には大好きなお人形があって、そのお人形と一緒なら、きっと何処だって寂しくは無かったから」
「へんなの」
「本当、変な、話」
そう言ったお姉さんの顔は、とても悲しそうに歪んでいた。
深い暗闇が、いつしか粘つくような息遣いで私とお姉さんを包む。 そんなはずは無いのに、まるで後ろに何か居て、私とお姉さんが油断するのをまるで期待しているような、そんな気配がした。
「お姉さん」
私は、怖くなってお姉さんの手をギュッと握った。 お姉さんは優しく、包み込むようにその手を握り返した。
「大丈夫。 あと少しだから」
ずっとずっと歩いて、いつしか道は綺麗になって。 そのうちに、お地蔵様が見えてきた。
「いい? あのお地蔵様を越えたら貴方の住む場所よ。 決して振り返らないで、ちゃんと真っ直ぐお帰りなさい」
お姉さんの真っ直ぐな目を真っ直ぐ見返した。
「お姉さんは、戻らないの?」
「私は良いの。 帰る場所はここじゃないから」
そう言って遠くを見るお姉さんの顔は、とても寂しそうだった。私は、握ったままの手を改めて握ると、
「お姉さん―」
「何かしら」
ありったけの勇気を振り絞って私は言葉を紡いだ。
「お名前を、教えてください」
最後の方は掠れて聞き取れなかったかもしれない。 しかし、お姉さんは優しく微笑んで、
「私の名前は、鍵山 雛。 縁があったらまた会いましょう」
さ、行きなさい。 そう言われ、ずっ握っていた、暖かい物が離れていった。 変わりに背中を押されるように、私は真っ直ぐお地蔵様を抜けた。
暖かな光が体を包む。あぁ、ここが、私の家―
―*―
そんな、懐かしい夢を見た。 幼い頃に死んだ、妹の夢を。
そういえば、あの子はいつも人形を一緒に持っていた。 私が作った粗末なお人形さん。それでもあの子は大切に、大切に使っていた。足の向くまま、朝日が照らす村を歩く。いつしか足は村境へ向かっていた。
村境には、小さなお地蔵様があって―
そこにはあの日、妹の魂と共に流した人形と、小さな花が一輪。
―了―
首が痛くなるほどそれを眺めていると、気が付けば両足は水にぬれていて、足元には確かに流れる水の音が聞こえた。 そこで、初めて自分が暗い、とても暗い山の中に居るんだ、って自覚した。
「おねえちゃん」
一緒に居たはずのお姉ちゃんが居ない。まるで、心の中まで沢の水が流れているような、底知れぬ冷たい感覚が体を貫いた。
「おねえちゃん、おねえちゃん!」
無我夢中で歩き出す。まるで自分が沢の一部になったように、足から体を伝って、頭から顔を伝って涙が沢に落ちて行く。 いつしか私は、自分が泣いていることも忘れて、沢を一心不乱に降りていて―
空が、落ちてきた。
「大丈夫?」
綺麗なお姉さんが、私の腕を掴んでくれた。頭が、痛い。体中がびしょびしょで、きっとあのまま流れて滝に落ちて、そこで私は―。
身震いをする。 左手に大切そうに何かを抱えたまま、お姉さんは私を抱え起こすと
「あなた、お名前は?」
「私の、なまえ―」
なんだっけ。 あったような、無かったような・・・、いや、確かにあった。なんで忘れたのだろうか。
「きく。 きくって言います」
「そう、きくちゃん。 貴方、帰り道は分かる?」
心がズキリとした。分からない。ここが、いつも眺めていた山なのは分かる。けれど、山の何処なのかが分からない。
夜の闇が山を漆黒に染め、見渡す限り、星よりも明るいものは何一つ無い。
無言でかぶりを振る私に、お姉さんは優しく微笑んだ。
「分かった。 じゃあ、一緒に帰りましょう」
お姉さんは右手を差し出した。綺麗な手。 私は、恥ずかしくてうつむきながら、お姉さんの綺麗な右手を握った。
暗い道を歩く。 耳を傾けると、眠る獣の息遣いや、草木のこすれる音がまるで一つの曲のように、体に染み渡ってくる。 右側に居るお姉さんは、遠くの方を見ながら、てくてくと迷いの無い歩みを続ける。
「あの・・・、お姉さん」
「なあに」
それが、とても消え去りそうで。 遠くの方を見るめるお姉さんは、まるで陽炎のようにふっと消えてしまいそうで、怖くて、怖くて。
「何か、お話をして下さい」
我ながらずうずうしいな、と思う。けれど、お姉さんは嫌な顔一つせず、
「そうね、じゃあこんな話はどうかしら」
そう言って、私にお話を聞かせてくれた。
―ある所に、小さな女の子が居ました。その子が三歳になる誕生日に、両親は立派な人形を、わざわざ町の行商から買ってくれました。女の子はそれがとってもうれしくて、何処に行くにしてもその人形と一緒で、ずっと、大切にしていました。
いつしか沢の音も消え、月明かりだけが煌々と道を照らす中、お姉さんは尚もお話を続けます。
―その子が五歳になるときの事です。 ずっと、ずっと雨が続き、折角耕した畑は全てドロドロになってしまい、作物の実りもずっと遅くなってしまいました。
そう、村長さんの息子さんが新しい畑を作るとき、引っかかってしまった竜神様の池を少し、埋めてしまっていたのです。
お怒りになった竜神様は村に長雨を降らし、必死で竜神様のお怒りを沈めようにも、依然として雨は降り続けていました。
お姉さんの顔が冥く翳る。
―村長さんや、村の男どもが話し合って、一つの結論を出しました。
ならば、人を捧げよう。
〝七つ子は神の子〟の名のとおり、七つにならない子供を捧げよう。そうして竜神様の怒りを治めるしか、私たちに生きる道は無い。
「こうして、女の子は竜神様に捧げられる事になりました。 でも、女の子は怖くありませんでした」
「なんで?」
「女の子には大好きなお人形があって、そのお人形と一緒なら、きっと何処だって寂しくは無かったから」
「へんなの」
「本当、変な、話」
そう言ったお姉さんの顔は、とても悲しそうに歪んでいた。
深い暗闇が、いつしか粘つくような息遣いで私とお姉さんを包む。 そんなはずは無いのに、まるで後ろに何か居て、私とお姉さんが油断するのをまるで期待しているような、そんな気配がした。
「お姉さん」
私は、怖くなってお姉さんの手をギュッと握った。 お姉さんは優しく、包み込むようにその手を握り返した。
「大丈夫。 あと少しだから」
ずっとずっと歩いて、いつしか道は綺麗になって。 そのうちに、お地蔵様が見えてきた。
「いい? あのお地蔵様を越えたら貴方の住む場所よ。 決して振り返らないで、ちゃんと真っ直ぐお帰りなさい」
お姉さんの真っ直ぐな目を真っ直ぐ見返した。
「お姉さんは、戻らないの?」
「私は良いの。 帰る場所はここじゃないから」
そう言って遠くを見るお姉さんの顔は、とても寂しそうだった。私は、握ったままの手を改めて握ると、
「お姉さん―」
「何かしら」
ありったけの勇気を振り絞って私は言葉を紡いだ。
「お名前を、教えてください」
最後の方は掠れて聞き取れなかったかもしれない。 しかし、お姉さんは優しく微笑んで、
「私の名前は、鍵山 雛。 縁があったらまた会いましょう」
さ、行きなさい。 そう言われ、ずっ握っていた、暖かい物が離れていった。 変わりに背中を押されるように、私は真っ直ぐお地蔵様を抜けた。
暖かな光が体を包む。あぁ、ここが、私の家―
―*―
そんな、懐かしい夢を見た。 幼い頃に死んだ、妹の夢を。
そういえば、あの子はいつも人形を一緒に持っていた。 私が作った粗末なお人形さん。それでもあの子は大切に、大切に使っていた。足の向くまま、朝日が照らす村を歩く。いつしか足は村境へ向かっていた。
村境には、小さなお地蔵様があって―
そこにはあの日、妹の魂と共に流した人形と、小さな花が一輪。
―了―