犬走椛は緊張していた。
目の前あるのは何の変哲もない報道部の扉だが、彼女の目にはそびえ立つ急峻のように写る。
「うう、どうしよう。もう一回身だしなみの確認をしてこようかな」
服と髪を整える仕草をしながらも、それが単なる逃避願望に過ぎないことを、椛は自覚している。
「落ち着け、わたし」
深呼吸をして頬を手のひらでばしんと叩き、気合いを入れる。
――これが最初で最後のチャンスかもしれないんだ。
「――失礼します!」
一瞬怯んだが、そんな自分を鼓舞するように力強くドアを叩き、椛は報道部の扉を開けた。
白狼天狗は下っ端と称される。
これは天狗の社会構成上の厳然たる事実であり、悪意からの蔑称ではない。
長である天魔を筆頭に管理職の大天狗達があり、その下に烏天狗・山伏天狗・鼻高天狗が横並びで続く。
そして最下層に、白狼天狗が位置づけられているのだ。
天狗達の構築した社会は相当に高度であり、里の人間社会というよりはむしろ、外の世界における国家といったものに類似する。
そんな社会性を洗練させていくに従って必然的に分業化が進み、明確な身分制度というものができた。
そもそも変化を得意とする天狗という種族性から、役割によって細分化された種族名と統一的な外見が設定されていった。
外の世界における階層社会のようなものが、天狗の社会にもみられるのだ。
社会化は一度始まると自らその進行を加速させていく。
必定、それまで比較的自由だった婚姻も自然と同じ階層内で行われるような風潮ができた。
子供の能力は親の能力と関連するため、スタートの段階ですでに差がつく、という事態になった。
こうして、一度白狼天狗として生まれたからには一生下っ端で見回りという流れができつつあった。
しかし、そのまま硬直してしまわないのが社会というものである。
この事態を良しとしなかった天魔を始め上層部は、白狼天狗のワークシェア及び職業訓練制度を開始したのだ。
それまで無駄に多かった哨戒の場所と人数を必要最低限まで削減し、空いた時間で他部署の仕事の見習いをさせようという試みである。
といっても全ての白狼天狗が見習いをできるというわけではない。受け入れ先にも都合という物があるため人数は限定され、面接を経て指名されなければいけない、という中々厳しいものではあった。
それでも、日々誰も来ない山の哨戒に飽き飽きしていた白狼天狗たちは殆どがこの機を逃さじと発憤し、どんな部署の面接だろうが我先にと飛びついた。
見習い期間は半年から、となっている。
受け入れ側は、一度指名したからには少なくとも半年は面倒をみなければならず、適当に選んでハズレを引いたからといって軽々に切ることはできない。選ぶ側にも真剣さを求める制度なのだ。
そのかわり相性が良かった場合は無期限となり、一年ごとに両者が継続の意志を示せば見習い期間が延長される。受け入れ側が継続を希望しても見習い側が拒否すれば終了となるあたりに、下っ端のためを思っての制度だということが見て取れる。
そんなわけで制度が発足して以来、椛も他の白狼天狗達の例に漏れず、様々な面接に挑戦してきた。
しかし、その結果たるや惨憺たるものであった。
落ちも落ちたり300連敗。
結局、制度が始まってから30年ほどが経つものの、椛は一度も見習いに指名されることはなかった。
制度開始以前は季節の祭りくらいしか休みはなかったが、開始以後は月の半分は休みである。その時間を利用して指名を受けた者は見習い業をこなし、指名を受けていないものは自己研鑽に努める。
始めは自分の至らぬ点が解らず、がむしゃらに鍛錬に励んだ椛だったが、連敗が百を超えたあたりで、同僚達から自分が落ちた理由と思しきものを漏れ聞くようになり、悩み始めた。
曰く、犬走椛は個性がない。
協調性が高く任務に忠実、一見長所にも見えるが、社会を構築しているとはいえ天狗もまた妖怪。個が感じられない者を自分の助手につける気が起きない、というのが連敗の理由だった。
自身の短所を自覚してから、椛の迷走が始まった。
個性がないと指摘されても、ならば着けますというわけにはいかない。
それまでよかれと思ってやってきた協調と忠実がここにきて否定された衝撃もさることながら、どう努力したらいいか解らないという事実が椛を苦しめた。
それでも、悲しいかな持ち前の協調性と、上層部が与えた機会を無駄にしてはいけないという忠誠から椛は面接を受け続け、そうして落ち続けた。
そんな日々が30年ほど続き、心も折れかけた頃、椛は唐突に指名を受けたのである。
その知らせを聞いて、一瞬どころかしばらく事態を把握できなかった。
椛を指名したのは射命丸文という烏天狗。
人間の里や他所の妖怪達と深く交流を持っているという変わり者だが、一番人気の報道部所属ということに変わりはない。
この知らせを一緒に聞いた同僚達の祝福の声で、椛は自分にもようやく機会が回ってきたことを理解し、その場で卒倒した。
その後、我がことのように祝ってくれた同僚達から様々な指南を受け、ついに指導者の元へ挨拶に行く日がきたのである。
「本日るけで射命丸文様の見習いとなりました、犬走椛です! どうぞよろしくお願いいたします」
一カ所噛んだものの、どうにか最初の挨拶をして椛は深々とお辞儀をする。
しかし、
「あ、あの~」
いつまで経っても返事がないためおずおずと頭を上げた椛の目に飛び込んできたのは、荒廃という表現が恐ろしく馴染む光景であった。
並んだ机はどれも資料が山と積まれているか、机の持ち主と思しき天狗が突っ伏しているか、修羅の形相で執筆作業が展開されているかのいずれかしかない。
見れば、指導者の烏天狗と類似した表情でめまぐるしく働く見習いであろう白狼天狗の姿もそこかしこに見える。資料らしき帳面を何冊も運んだり執筆をしていたりと忙しそうだ。
忙しそうではあるが、日がな一日滝の裏で待機する哨戒任務とは比較できないほど充実しているように見える。白狼天狗達も、疲労は感じられるものの生き生きした瞳を輝かせている。
現場の空気に圧倒されたものの、この輪に入ろうと椛は比較的余裕のありそうな烏天狗をつかまえて自分の指導者天狗の所在を尋ねる。
資料室か取材か、もしかして張り込み中? と、まだ見ぬ先輩の敏腕記者ぶりを椛は想像する。友人達から伝え聞いた話によると、独特な観点から新聞を作る個性的な天狗らしい。無個性を自覚する椛にとっては、個性的というだけで偉大な人物のように感じられた。
「ああ、彼女ならこの時間はーー」
「んんー、ふぁい~どなたですかぁ?」
部屋から出てきた指導者は、寝間着姿だった。ボタンが外れてお腹が見えている。
「・・・・・・本日より見習いとしてお世話になります、犬走椛と申します」
文は寝起きのとろんとした表情で椛を見つめ、
「あー、今日からでしたっけ。失敬失敬、すっかり忘れてました」
あややややー、これはいけませんねーといいながらぽりぽりと腹を掻き、屈託なく笑った。
一体自分はどうなるのだろう。
最初で最後とまで思った機会を与えてくれたヒトの、あまりに想像とかけ離れた姿を目の当たりにした椛の頭は、今後の不安ではち切れそうになっている。
こうして、椛の見習い生活の1日目は幕を開けた。
目の前あるのは何の変哲もない報道部の扉だが、彼女の目にはそびえ立つ急峻のように写る。
「うう、どうしよう。もう一回身だしなみの確認をしてこようかな」
服と髪を整える仕草をしながらも、それが単なる逃避願望に過ぎないことを、椛は自覚している。
「落ち着け、わたし」
深呼吸をして頬を手のひらでばしんと叩き、気合いを入れる。
――これが最初で最後のチャンスかもしれないんだ。
「――失礼します!」
一瞬怯んだが、そんな自分を鼓舞するように力強くドアを叩き、椛は報道部の扉を開けた。
白狼天狗は下っ端と称される。
これは天狗の社会構成上の厳然たる事実であり、悪意からの蔑称ではない。
長である天魔を筆頭に管理職の大天狗達があり、その下に烏天狗・山伏天狗・鼻高天狗が横並びで続く。
そして最下層に、白狼天狗が位置づけられているのだ。
天狗達の構築した社会は相当に高度であり、里の人間社会というよりはむしろ、外の世界における国家といったものに類似する。
そんな社会性を洗練させていくに従って必然的に分業化が進み、明確な身分制度というものができた。
そもそも変化を得意とする天狗という種族性から、役割によって細分化された種族名と統一的な外見が設定されていった。
外の世界における階層社会のようなものが、天狗の社会にもみられるのだ。
社会化は一度始まると自らその進行を加速させていく。
必定、それまで比較的自由だった婚姻も自然と同じ階層内で行われるような風潮ができた。
子供の能力は親の能力と関連するため、スタートの段階ですでに差がつく、という事態になった。
こうして、一度白狼天狗として生まれたからには一生下っ端で見回りという流れができつつあった。
しかし、そのまま硬直してしまわないのが社会というものである。
この事態を良しとしなかった天魔を始め上層部は、白狼天狗のワークシェア及び職業訓練制度を開始したのだ。
それまで無駄に多かった哨戒の場所と人数を必要最低限まで削減し、空いた時間で他部署の仕事の見習いをさせようという試みである。
といっても全ての白狼天狗が見習いをできるというわけではない。受け入れ先にも都合という物があるため人数は限定され、面接を経て指名されなければいけない、という中々厳しいものではあった。
それでも、日々誰も来ない山の哨戒に飽き飽きしていた白狼天狗たちは殆どがこの機を逃さじと発憤し、どんな部署の面接だろうが我先にと飛びついた。
見習い期間は半年から、となっている。
受け入れ側は、一度指名したからには少なくとも半年は面倒をみなければならず、適当に選んでハズレを引いたからといって軽々に切ることはできない。選ぶ側にも真剣さを求める制度なのだ。
そのかわり相性が良かった場合は無期限となり、一年ごとに両者が継続の意志を示せば見習い期間が延長される。受け入れ側が継続を希望しても見習い側が拒否すれば終了となるあたりに、下っ端のためを思っての制度だということが見て取れる。
そんなわけで制度が発足して以来、椛も他の白狼天狗達の例に漏れず、様々な面接に挑戦してきた。
しかし、その結果たるや惨憺たるものであった。
落ちも落ちたり300連敗。
結局、制度が始まってから30年ほどが経つものの、椛は一度も見習いに指名されることはなかった。
制度開始以前は季節の祭りくらいしか休みはなかったが、開始以後は月の半分は休みである。その時間を利用して指名を受けた者は見習い業をこなし、指名を受けていないものは自己研鑽に努める。
始めは自分の至らぬ点が解らず、がむしゃらに鍛錬に励んだ椛だったが、連敗が百を超えたあたりで、同僚達から自分が落ちた理由と思しきものを漏れ聞くようになり、悩み始めた。
曰く、犬走椛は個性がない。
協調性が高く任務に忠実、一見長所にも見えるが、社会を構築しているとはいえ天狗もまた妖怪。個が感じられない者を自分の助手につける気が起きない、というのが連敗の理由だった。
自身の短所を自覚してから、椛の迷走が始まった。
個性がないと指摘されても、ならば着けますというわけにはいかない。
それまでよかれと思ってやってきた協調と忠実がここにきて否定された衝撃もさることながら、どう努力したらいいか解らないという事実が椛を苦しめた。
それでも、悲しいかな持ち前の協調性と、上層部が与えた機会を無駄にしてはいけないという忠誠から椛は面接を受け続け、そうして落ち続けた。
そんな日々が30年ほど続き、心も折れかけた頃、椛は唐突に指名を受けたのである。
その知らせを聞いて、一瞬どころかしばらく事態を把握できなかった。
椛を指名したのは射命丸文という烏天狗。
人間の里や他所の妖怪達と深く交流を持っているという変わり者だが、一番人気の報道部所属ということに変わりはない。
この知らせを一緒に聞いた同僚達の祝福の声で、椛は自分にもようやく機会が回ってきたことを理解し、その場で卒倒した。
その後、我がことのように祝ってくれた同僚達から様々な指南を受け、ついに指導者の元へ挨拶に行く日がきたのである。
「本日るけで射命丸文様の見習いとなりました、犬走椛です! どうぞよろしくお願いいたします」
一カ所噛んだものの、どうにか最初の挨拶をして椛は深々とお辞儀をする。
しかし、
「あ、あの~」
いつまで経っても返事がないためおずおずと頭を上げた椛の目に飛び込んできたのは、荒廃という表現が恐ろしく馴染む光景であった。
並んだ机はどれも資料が山と積まれているか、机の持ち主と思しき天狗が突っ伏しているか、修羅の形相で執筆作業が展開されているかのいずれかしかない。
見れば、指導者の烏天狗と類似した表情でめまぐるしく働く見習いであろう白狼天狗の姿もそこかしこに見える。資料らしき帳面を何冊も運んだり執筆をしていたりと忙しそうだ。
忙しそうではあるが、日がな一日滝の裏で待機する哨戒任務とは比較できないほど充実しているように見える。白狼天狗達も、疲労は感じられるものの生き生きした瞳を輝かせている。
現場の空気に圧倒されたものの、この輪に入ろうと椛は比較的余裕のありそうな烏天狗をつかまえて自分の指導者天狗の所在を尋ねる。
資料室か取材か、もしかして張り込み中? と、まだ見ぬ先輩の敏腕記者ぶりを椛は想像する。友人達から伝え聞いた話によると、独特な観点から新聞を作る個性的な天狗らしい。無個性を自覚する椛にとっては、個性的というだけで偉大な人物のように感じられた。
「ああ、彼女ならこの時間はーー」
「んんー、ふぁい~どなたですかぁ?」
部屋から出てきた指導者は、寝間着姿だった。ボタンが外れてお腹が見えている。
「・・・・・・本日より見習いとしてお世話になります、犬走椛と申します」
文は寝起きのとろんとした表情で椛を見つめ、
「あー、今日からでしたっけ。失敬失敬、すっかり忘れてました」
あややややー、これはいけませんねーといいながらぽりぽりと腹を掻き、屈託なく笑った。
一体自分はどうなるのだろう。
最初で最後とまで思った機会を与えてくれたヒトの、あまりに想像とかけ離れた姿を目の当たりにした椛の頭は、今後の不安ではち切れそうになっている。
こうして、椛の見習い生活の1日目は幕を開けた。
頑張って下さい
私もあやもみは大好物です、頑張って下さい
さぁ早く続きの執筆に取り掛かるのだ
頑張ってくれ
挫折、するなよ?