◇
「なぁ、霖之助」
「なんだい、慧音」
「私はお前を恨むかもしれない」
「そうか」
「――そうか、とは何だ」
「君が僕をどう思っても関係がないからね」
この言葉を最後に、彼女はスタスタ、と歩いていく。
僕の元を、ゆっくりと離れていくのだ。
僕はそれをただ見つめている。
もはや、彼女を止めることなんて出来やしなかった。
そして、彼女の幸せを願うことさえも。
◇
事の始まりは、彼女が共に暮らさないか、と言ったことだった。
僕は、すまないがそんなつもりはない、と伝えたと思う。
当然、慧音が放った言葉がどんな意味を含んでいたかは重々承知していた。
だが、僕にはそれ以上に興味があることがあるのだ。
――なら、自由にやればいいだろう。
彼女はそう言う。
だが、彼女は気付いていないのだ。
誰かによって許された自由など、自由でないことに。
何かを与えられることで、何かは制限されるのだ。
――お前は私が嫌いなのか。
そんなことはない。
だが、それを伝えることなんて出来なかった。
僕は僕の人生があって、彼女には彼女の人生がある。
それは、互いに分かりきっていたはずのことだから。
その人生が交わらないのだ。どうあっても。
つまるところ、僕がこの言葉に返事が出来なかったのは、
どんなに優しい言葉が嬉しかったとしても、
自分自身がそれに応えられないと知っていたから、かもしれない。
しかし、そんなこともどうでもいいのだ。
結果として、僕は彼女を拒んだ。
それが事実だ。
――私はお前を想って言ってるのに。
彼女の声は涙声だっただろうか。
それで、僕の心は罪悪感で満たされていく。
応えられないのに、彼女に笑って欲しいと思うなんて、
酷い道化が居たものだ。
――お前は私をどう思っているんだ?
何故、彼女は女性であり、僕は男性であったのか。
たまに、そんなことを考えるときがある。
もし、同姓であったならば、そんな隔たりを感じることなく、
平凡にそばに居ることが出来たのだろう。
だが、現実に僕らは男女だった。
ただ、日常を楽しく過ごす事がこんなにも難しいのだ。
いつか訪れるであろう、別れが怖くなったとき、
彼女のように「そばに居て欲しい」と願うことは当然だ。
しかし。
それを受け入れてしまえば、しわ寄せが来る。
いずれ来るであろう別れが、僕には怖かったのだ。
だからこそ、僕は彼女を拒む。
それでも、そばに居て欲しいと願いながら。
――もういい。
こぼれた雫を見て、僕は彼女に謝りたくなった。
しかし、答えは出ているのに、同情なんて何の意味があるのだろうか。
僕は苦しかった。彼女が苦しんでいるのと同様に。
だから、楽になりたかったのかもしれない。
――僕は
それはきっと、酷い言葉だっただろう。
だが、僕は生涯、そのことを謝りはしない。
それで、誰かが救われることなど、絶対にないからだ。
無論、それは僕も、だ。
「僕はこれ以上を望んでなんかいない」
それが、僕の吐いた言葉だった。
◇
そうして、彼女は僕の前から姿を消した。
それからもう、二月は経とうとした頃か。
僕は日用品の買出しに人里に訪れていた。
小さな風呂敷を片手に僕はゆっくりと家路に着く。
そのつもりだった。
だが、偶然に寺子屋の前を横切ったときだ。
少しだけ懐かしい声が聞こえたのだ。
僕はその声が誰のものかを考えることなく、
ただ、それに惹かれるようにそちらを振り向いた。
――それで?ふふ、楽しいな。
そこには、いつか見た彼女と、知らない男性が居た。
僕は思わず、身を隠す。
彼女は楽しげに彼と話し続けていると言うのに。
この状況なら、僕がここに居ることも気付かないだろう。
それでも、僕は身を隠した。
それは、彼女たちを見たくなかっただけなのかもしれない。
――じゃあ、今日はどこに連れて行ってくれるんだ?
彼女はそう言って、彼の手を取る。
その白く、細い指は僕も見慣れたものであった。
だが、その指を掴んでいるのは僕ではない。
指を絡め合ってつないでいるのは、僕ではなかった。
――そうか。なら行こう。
楽しそうにはしゃぐ彼女の姿。
それを見て、僕は思わず目を伏せた。
こうなることは、あの言葉を吐いた時点で分かっていたのだ。
現に、彼女がこの二月の間で僕の店に訪れたことはない。
それが既に答えを示していたのだろう。
だが。
それでも、僕はどこか楽観的に信じていた。
たとえ、男女として繋がることがなかったとしても、
今までに過ごしてきた時間は消えることはないだろう、と。
しかし、現実にはそんなことはない。
彼女は新しく誰かを好きになった。
きっと、僕のことなんてもう、頭の片隅にもない。
あの笑顔が何よりの証拠だ。
それが良いことか悪いことか、と言えば、
きっと良いことなんだろう。
それでも。
彼女は僕の前であんな笑顔を見せた事がない。
それだけが悔しく思えた。
彼女はもう、僕を愛していないのだから。
◇
そうして、僕はひとり、自宅に戻ってきた。
きっと、「あんな女」と言い放てば楽になるのだろう。
だが、僕の中途半端な理性がそれを拒む。
どうあっても、こんなに惨めだというのに。
彼女はいずれ伴侶を得るのだろう。
やがて、子を授かり、幸せに生涯を遂げるかもしれない。
そして、彼女が好きだったものとしては、
彼女の限りない幸せを願うべきだろう。
だが、僕は彼女が『彼』に裏切られることを望んでいる。
『彼』に傷つけられて、泣いて僕の元に来ることを願ってしまう。
そして、また気付くのだ。
たとえ彼女が戻ってきても、結局、僕が彼女を受け入れる事がなければ、
同じ事が繰り返されるのだろう、と。
――もういい、少し休もう。
僕はカウンターを出て、閉店の札をかけることにした。
今日は少しばかり疲れてしまったのだ。
ただ、ゆっくりと考え事がしたい。
そう思った僕は、カウンターを立ち、扉へ向かう。
トントン
しかし、その前にノックの音がした。
優しく叩かれる扉に、僕の心は揺れる。
――もしや、彼女だろうか。
だが、彼女だったとしたら、僕はどうすればいい。
すまなかった、と謝り、共に暮らそうとでも言うのか。
――言える訳がない。
僕にはそんなことが言えるわけがない。
会いたいという気持ちと、会いたくないという気持ちが混ざり合う。
出来ることならば、このままやり過ごしてしまいたかった。
しかし、そんな僕の気持ちとは裏腹に、扉は開いた。
当然と言えば良いのか、残念ながらと言えば良いのも分からない。
そこに居たのは、彼女じゃなかった。
◇
「少しお邪魔します」
そこに立っていたのは銀髪の薬師だった。
「あぁ、悪いが今日はもう――」
僕はそう言って逃れようとする。
商談だとしても、うまくやり切れる自信がなかったのだ。
だが、そんな気持ちなど伝わるはずもない。
彼女は小さく首を傾げると、僕に尋ねてくるのだ。
「あら、珍しく体調でも悪いの?」
「いや、そういう訳じゃないんだが、少し疲れていてね」
彼女はそう言った僕を食い入るように見つめた。
僕はその視線があまりに痛く、目を背ける。
「何か悩みがあるのね?」
――。
「あなたが悩むなんて珍しいようだけど、
せっかくだから年配者の意見でも聞いてみたらどうかしら?」
「だが――」
「大丈夫よ、誰にも言わないし、私も聞いたことを忘れるから」
僕は、やはり疲れていたのだろうか。
彼女に全てを話してみようか、と考えた。
そして、内心では「きっと大丈夫」と言われることを望んでいたようだ。
そう、ただ彼女のことを考えるよりも、楽になりたかったのだ。
「永琳――話を聞いてくれるかい?」
「よろこんで」
彼女はそう言って妖艶に微笑む。
それはどこか寒気のするような美しさだった。
◇
僕の耳には自らの声が響いている。
延々と環を連ねるような振動に、吐き気を催しそうになった。
――。
僕は洗いざらい、全てのことを話した。
言葉というものは不思議なものだ。
自分が思っていることを吐き出しただけで、
何故か救われたような気持ちになる。
そして、僕はちらりと目の前の彼女を見る。
すると、彼女は困ったように微笑んだ。
「事情は分かったわ」
「――それで、君はどう思う?」
「正直に言っても?」
「むしろその方がいいよ」
彼女はそう前置きをした。
その時点で全ては分かっているのだ。
「きっと、彼女は二度と戻ってなんてこないわ」
そう、それが真実だろう。
二度と戻るわけがない。
「あなたの願いは、彼女には重過ぎるのよ」
僕はそばに居ることを望みながら、
一人にさせてくれることを望んでいた。
矛盾というのも馬鹿馬鹿しいほどの、矛盾だ。
「だから、彼女はあなたを受け入れる事が出来ない」
そうだ。だから、僕は彼女を拒んだ。
彼女とは、共に過ごすことが出来なかったのだ。
「でも、あなたも彼女を受け入れる事が出来ないんじゃないの?」
僕が、彼女を、受け入れる。
そうだ、彼女を拒んだのは僕だ。
だが、まさかすぐに他の男性を連れているとは。
彼女はもう、僕の知っている彼女ではないのか――?
「ねぇ」
そこで、永琳が僕の近くに寄り、
僕の頭を優しく、両手で抱きしめた。
そして、耳元で優しく囁くのだ。
「あなたも辛かったのね。もう大丈夫よ」
そう、僕は辛かった。
それを彼女は気付いてくれなかったから、だ。
苦しかったのは彼女だけではない。
僕も苦しかったというのに。
だから、永琳の言葉が僕の脳内を駆け抜ける。
「私なら、そんなことしないから」
ぎゅ、と包む腕から、彼女の優しい香りがする。
「ほら、もうそんな悲しいことは忘れましょう」
僕は震える手で、彼女を抱きしめた。
「いらっしゃい」
そうして、僕は永琳と唇を合わせた。
顔を離すと、永琳が優しく微笑む。
それを見て、僕はもう一度、彼女を貪るように唇を奪った。
◇
それから、数十年という時間が過ぎたのか。
いまだに、僕と永琳は週に数日程度の逢瀬を重ねていた。
永琳自身も、永遠といえる時に付随する孤独への慰みが欲しかったらしい。
僕らは互いを都合の良い相手として、手を繋ぎ合っていた。
僕にとって、そのことが良いのか、悪いのかはわからない。
だが、そのことに疑問を持つことは既になくなっていた。
『それ』がいつの間にか当たり前になって、
ありふれた日常へと変わり果てていたのだから。
――たまには永遠亭にも遊びにきてくれると嬉しいわ。
それは、彼女がいつしか言っていたことだ。
その言葉を受けて、たまには良いだろうと考えた僕は、
閉店の札をかけ、細く長い山道を歩いていた。
小一時間ほど歩いたところで、道は開ける。
そこには見慣れた人里があった。
と言っても、足を向ける事が減って以来、随分と久しぶりに見る場所だ。
僕は湧き上がるノスタルジックな感情を自覚しながら、歩いた。
――お前はもっと外に出るべきだぞ。
彼女はそう言って僕を連れまわしていた。
それはずっと遠い話だ。
だが、この道は思い出を鮮明に映し出す。
――笑えばなかなか男前じゃないか。
あぁ、そんなこともあった。
その言葉を聞いて以来、
少しだけ意識して彼女の前では笑顔で居たのだが、
彼女はそのことに気付かなかっただろう。
――なぁ、私はいい先生になれるかな。
彼女はとても出来た人だった。
だが、どこか自信がなかったようにも見える。
だから、僕は彼女をほめる事が好きだった。
そうすれば、彼女が僕に笑ってくれるから。
――。
ふ、と僕は足を止める。
何かが聞こえた気がしたのだ。
――で。
僕は音のするほうに向かう。
ゆっくりと大きくなる音。
それは僕の足音をかき消すようだった。
「――なんで」
今度ははっきりと聞こえた。
僕は一瞬、幻を聴いたのかと思う。
だが、そんなことではない。
僕は無意識に、彼女が居る寺子屋の近くに来ていたのだ。
つまり、これは現実の慧音の声だった。
「なんで、先に逝ったんだ――」
その声はいつか聞いたものと同じ、涙声だ。
彼女は僕に気付かないで、一人で話している。
「もう、独りはいやなのに――」
彼女は嗚咽交じりに嘆いていた。
その小さな背中を震わせて、寂しげに。
――あぁ。
僕は思わず、その背中を抱き締めたくなった。
だが、僕にそんな資格はないのだ。
僕は、彼女を拒んだものだから。
――彼女の『彼』は死んだのだろう。
きっとただの人間だったのだから、
それでも大往生というところだ。
もっとも、そんなことは彼女も分かっているのだろう。
ただ、分かっていても辛いものは辛いのだ。
「――お前は幸せだったのか?」
慧音は涙を拭うことなくそう言って崩れる。
僕は、その光景に耐えられなくなって、その場から去った。
彼女は――あの時から、何一つとして変わっていなかったのだから。
僕にはその事実がどこまでも辛かった。
だから、それを見ていられなくて一心不乱に駆け出した。
せめて、彼女を支えるものがあるように、と、
そんな無責任なことを考えながら。
そうして、気がつけば永遠亭の前に着いていた。
僕は思考をすることさえ忘れ、ただ彼女から逃げてきたのだ。
「あら、本当に来てくれたのね」
永琳はそう言って僕を迎え入れてくれる。
だが、僕は彼女に笑いかけることさえ出来ない。
鉛を飲み込んだように重い腹部を押さえることで精一杯だった。
「どうしたの?」
永琳はそう言って僕の手をとる。
その時、何故か、僕の目から涙がこぼれた。
「僕は――」
◇
その涙は慧音の流した涙とは違う。
彼女のように、亡き人を想う綺麗なものではないのだ。
いわば、ただ、自分が不甲斐なかっただけだ。
気がつけば、僕らはこの数十年という年月で、
沢山のものを得て、それと同じだけ何かを磨耗してきた。
そして、人は死んでいったのだ。
だが、人と同じように、僕らも時計を止めることは出来ない。
たとえ、永琳たちのように死ぬ事がなくなったとしても、
時計が止まることはなかったのだから。
もし。
慧音と共に暮らしていたら、
彼女のあんなに小さな背中を見ることがなく済んだのだろうか。
僕と彼女の体質を考えると、寿命の差はそれほど大きくなかっただろう。
なら、僕ならば彼女の孤独を背負う事が出来たのか。
いや。
彼女は決して孤独ではなかった。
彼女には『彼』が居たのだから。
何故、今まで僕は気付けなかったのだろう。
孤独だったのは、僕一人だ。
だから、永琳と僕は抱き合ったのだ。
互いの孤独を誤魔化すために、ひと時の情愛に身を落としただけだ。
しかし、そのときも彼女は『彼』と喧嘩をし、愛し合っていたのだろう。
彼女たちはいずれ来る孤独を受け入れて、ただ、毎日を大切に過ごしていたのだ。
「大丈夫?」
永琳が僕に問いかけてくるが、返事も出来ない。
もし、これが小説のような話ならば、
僕はこのまま慧音を抱きしめるために走り出すんだろう。
だが。
現実にはそうはいかない。
ここに居るのは英雄などではなく、
ただの泣き腫らした目を持つ、半人半妖の男なのだから。
「辛かったのね」
永琳は僕の頭を、昔のように抱きしめる。
彼女も僕と同じように辛いんだろう。
踏み越える事ができない線が僕らを縛り上げる。
それでも。
僕は生きなくてはならない。
そして、英雄でもない、ただの男としてしなければならないことがある。
僕は赤くなった目をこする。
胸の奥にぽっかりと空洞が空いていても、だ。
「永琳」
僕は彼女の腕を解き、彼女の名を呼ぶ。
永琳は少しだけ微笑んで僕を見る。
「もう大丈夫なの?」
「あぁ、みっともなかったね」
「いいのよ、時には泣くぐらい」
「すまない――それで大切な話があるんだ」
「あら、どういうこと?」
僕はそこで深呼吸をする。
「君は今まで生きてきて、寂しかったかい?」
「――それは、さすがに寂しいけど」
「なら」
脳裏では慧音がまだ泣いている。
だが、やはり僕にそれをどうにかすることは出来ないのだ。
みっともない男に出来るのは、覚悟を決めるだけだった。
「僕と、一緒に暮らして欲しい」
それはただの傷の舐め合いに違いはないだろう。
だが、今度は少しだけ違う。
僕は永琳を受け入れることが出来る。
かつて、慧音が僕にしたように。
そして――
永琳が僕に向かって小さく頷いた。
それを見て、僕は彼女の頭をそっと抱きしめる。
――彼女も僕を受け入れてくれるから。
僕はきっと、永琳より先に死ぬ。
だから、永琳は今日見た慧音のように悲しむのかもしれない。
だが、それでも、僕は共に居てほしいと彼女に言う。
それが僕の願いだからだ。
「ありがとう」
僕はそう言って、永琳と唇を合わす。
その礼が彼女にも届いていることを願いながら。
たとえ――彼女が独りで泣いていても。
「なぁ、霖之助」
「なんだい、慧音」
「私はお前を恨むかもしれない」
「そうか」
「――そうか、とは何だ」
「君が僕をどう思っても関係がないからね」
この言葉を最後に、彼女はスタスタ、と歩いていく。
僕の元を、ゆっくりと離れていくのだ。
僕はそれをただ見つめている。
もはや、彼女を止めることなんて出来やしなかった。
そして、彼女の幸せを願うことさえも。
◇
事の始まりは、彼女が共に暮らさないか、と言ったことだった。
僕は、すまないがそんなつもりはない、と伝えたと思う。
当然、慧音が放った言葉がどんな意味を含んでいたかは重々承知していた。
だが、僕にはそれ以上に興味があることがあるのだ。
――なら、自由にやればいいだろう。
彼女はそう言う。
だが、彼女は気付いていないのだ。
誰かによって許された自由など、自由でないことに。
何かを与えられることで、何かは制限されるのだ。
――お前は私が嫌いなのか。
そんなことはない。
だが、それを伝えることなんて出来なかった。
僕は僕の人生があって、彼女には彼女の人生がある。
それは、互いに分かりきっていたはずのことだから。
その人生が交わらないのだ。どうあっても。
つまるところ、僕がこの言葉に返事が出来なかったのは、
どんなに優しい言葉が嬉しかったとしても、
自分自身がそれに応えられないと知っていたから、かもしれない。
しかし、そんなこともどうでもいいのだ。
結果として、僕は彼女を拒んだ。
それが事実だ。
――私はお前を想って言ってるのに。
彼女の声は涙声だっただろうか。
それで、僕の心は罪悪感で満たされていく。
応えられないのに、彼女に笑って欲しいと思うなんて、
酷い道化が居たものだ。
――お前は私をどう思っているんだ?
何故、彼女は女性であり、僕は男性であったのか。
たまに、そんなことを考えるときがある。
もし、同姓であったならば、そんな隔たりを感じることなく、
平凡にそばに居ることが出来たのだろう。
だが、現実に僕らは男女だった。
ただ、日常を楽しく過ごす事がこんなにも難しいのだ。
いつか訪れるであろう、別れが怖くなったとき、
彼女のように「そばに居て欲しい」と願うことは当然だ。
しかし。
それを受け入れてしまえば、しわ寄せが来る。
いずれ来るであろう別れが、僕には怖かったのだ。
だからこそ、僕は彼女を拒む。
それでも、そばに居て欲しいと願いながら。
――もういい。
こぼれた雫を見て、僕は彼女に謝りたくなった。
しかし、答えは出ているのに、同情なんて何の意味があるのだろうか。
僕は苦しかった。彼女が苦しんでいるのと同様に。
だから、楽になりたかったのかもしれない。
――僕は
それはきっと、酷い言葉だっただろう。
だが、僕は生涯、そのことを謝りはしない。
それで、誰かが救われることなど、絶対にないからだ。
無論、それは僕も、だ。
「僕はこれ以上を望んでなんかいない」
それが、僕の吐いた言葉だった。
◇
そうして、彼女は僕の前から姿を消した。
それからもう、二月は経とうとした頃か。
僕は日用品の買出しに人里に訪れていた。
小さな風呂敷を片手に僕はゆっくりと家路に着く。
そのつもりだった。
だが、偶然に寺子屋の前を横切ったときだ。
少しだけ懐かしい声が聞こえたのだ。
僕はその声が誰のものかを考えることなく、
ただ、それに惹かれるようにそちらを振り向いた。
――それで?ふふ、楽しいな。
そこには、いつか見た彼女と、知らない男性が居た。
僕は思わず、身を隠す。
彼女は楽しげに彼と話し続けていると言うのに。
この状況なら、僕がここに居ることも気付かないだろう。
それでも、僕は身を隠した。
それは、彼女たちを見たくなかっただけなのかもしれない。
――じゃあ、今日はどこに連れて行ってくれるんだ?
彼女はそう言って、彼の手を取る。
その白く、細い指は僕も見慣れたものであった。
だが、その指を掴んでいるのは僕ではない。
指を絡め合ってつないでいるのは、僕ではなかった。
――そうか。なら行こう。
楽しそうにはしゃぐ彼女の姿。
それを見て、僕は思わず目を伏せた。
こうなることは、あの言葉を吐いた時点で分かっていたのだ。
現に、彼女がこの二月の間で僕の店に訪れたことはない。
それが既に答えを示していたのだろう。
だが。
それでも、僕はどこか楽観的に信じていた。
たとえ、男女として繋がることがなかったとしても、
今までに過ごしてきた時間は消えることはないだろう、と。
しかし、現実にはそんなことはない。
彼女は新しく誰かを好きになった。
きっと、僕のことなんてもう、頭の片隅にもない。
あの笑顔が何よりの証拠だ。
それが良いことか悪いことか、と言えば、
きっと良いことなんだろう。
それでも。
彼女は僕の前であんな笑顔を見せた事がない。
それだけが悔しく思えた。
彼女はもう、僕を愛していないのだから。
◇
そうして、僕はひとり、自宅に戻ってきた。
きっと、「あんな女」と言い放てば楽になるのだろう。
だが、僕の中途半端な理性がそれを拒む。
どうあっても、こんなに惨めだというのに。
彼女はいずれ伴侶を得るのだろう。
やがて、子を授かり、幸せに生涯を遂げるかもしれない。
そして、彼女が好きだったものとしては、
彼女の限りない幸せを願うべきだろう。
だが、僕は彼女が『彼』に裏切られることを望んでいる。
『彼』に傷つけられて、泣いて僕の元に来ることを願ってしまう。
そして、また気付くのだ。
たとえ彼女が戻ってきても、結局、僕が彼女を受け入れる事がなければ、
同じ事が繰り返されるのだろう、と。
――もういい、少し休もう。
僕はカウンターを出て、閉店の札をかけることにした。
今日は少しばかり疲れてしまったのだ。
ただ、ゆっくりと考え事がしたい。
そう思った僕は、カウンターを立ち、扉へ向かう。
トントン
しかし、その前にノックの音がした。
優しく叩かれる扉に、僕の心は揺れる。
――もしや、彼女だろうか。
だが、彼女だったとしたら、僕はどうすればいい。
すまなかった、と謝り、共に暮らそうとでも言うのか。
――言える訳がない。
僕にはそんなことが言えるわけがない。
会いたいという気持ちと、会いたくないという気持ちが混ざり合う。
出来ることならば、このままやり過ごしてしまいたかった。
しかし、そんな僕の気持ちとは裏腹に、扉は開いた。
当然と言えば良いのか、残念ながらと言えば良いのも分からない。
そこに居たのは、彼女じゃなかった。
◇
「少しお邪魔します」
そこに立っていたのは銀髪の薬師だった。
「あぁ、悪いが今日はもう――」
僕はそう言って逃れようとする。
商談だとしても、うまくやり切れる自信がなかったのだ。
だが、そんな気持ちなど伝わるはずもない。
彼女は小さく首を傾げると、僕に尋ねてくるのだ。
「あら、珍しく体調でも悪いの?」
「いや、そういう訳じゃないんだが、少し疲れていてね」
彼女はそう言った僕を食い入るように見つめた。
僕はその視線があまりに痛く、目を背ける。
「何か悩みがあるのね?」
――。
「あなたが悩むなんて珍しいようだけど、
せっかくだから年配者の意見でも聞いてみたらどうかしら?」
「だが――」
「大丈夫よ、誰にも言わないし、私も聞いたことを忘れるから」
僕は、やはり疲れていたのだろうか。
彼女に全てを話してみようか、と考えた。
そして、内心では「きっと大丈夫」と言われることを望んでいたようだ。
そう、ただ彼女のことを考えるよりも、楽になりたかったのだ。
「永琳――話を聞いてくれるかい?」
「よろこんで」
彼女はそう言って妖艶に微笑む。
それはどこか寒気のするような美しさだった。
◇
僕の耳には自らの声が響いている。
延々と環を連ねるような振動に、吐き気を催しそうになった。
――。
僕は洗いざらい、全てのことを話した。
言葉というものは不思議なものだ。
自分が思っていることを吐き出しただけで、
何故か救われたような気持ちになる。
そして、僕はちらりと目の前の彼女を見る。
すると、彼女は困ったように微笑んだ。
「事情は分かったわ」
「――それで、君はどう思う?」
「正直に言っても?」
「むしろその方がいいよ」
彼女はそう前置きをした。
その時点で全ては分かっているのだ。
「きっと、彼女は二度と戻ってなんてこないわ」
そう、それが真実だろう。
二度と戻るわけがない。
「あなたの願いは、彼女には重過ぎるのよ」
僕はそばに居ることを望みながら、
一人にさせてくれることを望んでいた。
矛盾というのも馬鹿馬鹿しいほどの、矛盾だ。
「だから、彼女はあなたを受け入れる事が出来ない」
そうだ。だから、僕は彼女を拒んだ。
彼女とは、共に過ごすことが出来なかったのだ。
「でも、あなたも彼女を受け入れる事が出来ないんじゃないの?」
僕が、彼女を、受け入れる。
そうだ、彼女を拒んだのは僕だ。
だが、まさかすぐに他の男性を連れているとは。
彼女はもう、僕の知っている彼女ではないのか――?
「ねぇ」
そこで、永琳が僕の近くに寄り、
僕の頭を優しく、両手で抱きしめた。
そして、耳元で優しく囁くのだ。
「あなたも辛かったのね。もう大丈夫よ」
そう、僕は辛かった。
それを彼女は気付いてくれなかったから、だ。
苦しかったのは彼女だけではない。
僕も苦しかったというのに。
だから、永琳の言葉が僕の脳内を駆け抜ける。
「私なら、そんなことしないから」
ぎゅ、と包む腕から、彼女の優しい香りがする。
「ほら、もうそんな悲しいことは忘れましょう」
僕は震える手で、彼女を抱きしめた。
「いらっしゃい」
そうして、僕は永琳と唇を合わせた。
顔を離すと、永琳が優しく微笑む。
それを見て、僕はもう一度、彼女を貪るように唇を奪った。
◇
それから、数十年という時間が過ぎたのか。
いまだに、僕と永琳は週に数日程度の逢瀬を重ねていた。
永琳自身も、永遠といえる時に付随する孤独への慰みが欲しかったらしい。
僕らは互いを都合の良い相手として、手を繋ぎ合っていた。
僕にとって、そのことが良いのか、悪いのかはわからない。
だが、そのことに疑問を持つことは既になくなっていた。
『それ』がいつの間にか当たり前になって、
ありふれた日常へと変わり果てていたのだから。
――たまには永遠亭にも遊びにきてくれると嬉しいわ。
それは、彼女がいつしか言っていたことだ。
その言葉を受けて、たまには良いだろうと考えた僕は、
閉店の札をかけ、細く長い山道を歩いていた。
小一時間ほど歩いたところで、道は開ける。
そこには見慣れた人里があった。
と言っても、足を向ける事が減って以来、随分と久しぶりに見る場所だ。
僕は湧き上がるノスタルジックな感情を自覚しながら、歩いた。
――お前はもっと外に出るべきだぞ。
彼女はそう言って僕を連れまわしていた。
それはずっと遠い話だ。
だが、この道は思い出を鮮明に映し出す。
――笑えばなかなか男前じゃないか。
あぁ、そんなこともあった。
その言葉を聞いて以来、
少しだけ意識して彼女の前では笑顔で居たのだが、
彼女はそのことに気付かなかっただろう。
――なぁ、私はいい先生になれるかな。
彼女はとても出来た人だった。
だが、どこか自信がなかったようにも見える。
だから、僕は彼女をほめる事が好きだった。
そうすれば、彼女が僕に笑ってくれるから。
――。
ふ、と僕は足を止める。
何かが聞こえた気がしたのだ。
――で。
僕は音のするほうに向かう。
ゆっくりと大きくなる音。
それは僕の足音をかき消すようだった。
「――なんで」
今度ははっきりと聞こえた。
僕は一瞬、幻を聴いたのかと思う。
だが、そんなことではない。
僕は無意識に、彼女が居る寺子屋の近くに来ていたのだ。
つまり、これは現実の慧音の声だった。
「なんで、先に逝ったんだ――」
その声はいつか聞いたものと同じ、涙声だ。
彼女は僕に気付かないで、一人で話している。
「もう、独りはいやなのに――」
彼女は嗚咽交じりに嘆いていた。
その小さな背中を震わせて、寂しげに。
――あぁ。
僕は思わず、その背中を抱き締めたくなった。
だが、僕にそんな資格はないのだ。
僕は、彼女を拒んだものだから。
――彼女の『彼』は死んだのだろう。
きっとただの人間だったのだから、
それでも大往生というところだ。
もっとも、そんなことは彼女も分かっているのだろう。
ただ、分かっていても辛いものは辛いのだ。
「――お前は幸せだったのか?」
慧音は涙を拭うことなくそう言って崩れる。
僕は、その光景に耐えられなくなって、その場から去った。
彼女は――あの時から、何一つとして変わっていなかったのだから。
僕にはその事実がどこまでも辛かった。
だから、それを見ていられなくて一心不乱に駆け出した。
せめて、彼女を支えるものがあるように、と、
そんな無責任なことを考えながら。
そうして、気がつけば永遠亭の前に着いていた。
僕は思考をすることさえ忘れ、ただ彼女から逃げてきたのだ。
「あら、本当に来てくれたのね」
永琳はそう言って僕を迎え入れてくれる。
だが、僕は彼女に笑いかけることさえ出来ない。
鉛を飲み込んだように重い腹部を押さえることで精一杯だった。
「どうしたの?」
永琳はそう言って僕の手をとる。
その時、何故か、僕の目から涙がこぼれた。
「僕は――」
◇
その涙は慧音の流した涙とは違う。
彼女のように、亡き人を想う綺麗なものではないのだ。
いわば、ただ、自分が不甲斐なかっただけだ。
気がつけば、僕らはこの数十年という年月で、
沢山のものを得て、それと同じだけ何かを磨耗してきた。
そして、人は死んでいったのだ。
だが、人と同じように、僕らも時計を止めることは出来ない。
たとえ、永琳たちのように死ぬ事がなくなったとしても、
時計が止まることはなかったのだから。
もし。
慧音と共に暮らしていたら、
彼女のあんなに小さな背中を見ることがなく済んだのだろうか。
僕と彼女の体質を考えると、寿命の差はそれほど大きくなかっただろう。
なら、僕ならば彼女の孤独を背負う事が出来たのか。
いや。
彼女は決して孤独ではなかった。
彼女には『彼』が居たのだから。
何故、今まで僕は気付けなかったのだろう。
孤独だったのは、僕一人だ。
だから、永琳と僕は抱き合ったのだ。
互いの孤独を誤魔化すために、ひと時の情愛に身を落としただけだ。
しかし、そのときも彼女は『彼』と喧嘩をし、愛し合っていたのだろう。
彼女たちはいずれ来る孤独を受け入れて、ただ、毎日を大切に過ごしていたのだ。
「大丈夫?」
永琳が僕に問いかけてくるが、返事も出来ない。
もし、これが小説のような話ならば、
僕はこのまま慧音を抱きしめるために走り出すんだろう。
だが。
現実にはそうはいかない。
ここに居るのは英雄などではなく、
ただの泣き腫らした目を持つ、半人半妖の男なのだから。
「辛かったのね」
永琳は僕の頭を、昔のように抱きしめる。
彼女も僕と同じように辛いんだろう。
踏み越える事ができない線が僕らを縛り上げる。
それでも。
僕は生きなくてはならない。
そして、英雄でもない、ただの男としてしなければならないことがある。
僕は赤くなった目をこする。
胸の奥にぽっかりと空洞が空いていても、だ。
「永琳」
僕は彼女の腕を解き、彼女の名を呼ぶ。
永琳は少しだけ微笑んで僕を見る。
「もう大丈夫なの?」
「あぁ、みっともなかったね」
「いいのよ、時には泣くぐらい」
「すまない――それで大切な話があるんだ」
「あら、どういうこと?」
僕はそこで深呼吸をする。
「君は今まで生きてきて、寂しかったかい?」
「――それは、さすがに寂しいけど」
「なら」
脳裏では慧音がまだ泣いている。
だが、やはり僕にそれをどうにかすることは出来ないのだ。
みっともない男に出来るのは、覚悟を決めるだけだった。
「僕と、一緒に暮らして欲しい」
それはただの傷の舐め合いに違いはないだろう。
だが、今度は少しだけ違う。
僕は永琳を受け入れることが出来る。
かつて、慧音が僕にしたように。
そして――
永琳が僕に向かって小さく頷いた。
それを見て、僕は彼女の頭をそっと抱きしめる。
――彼女も僕を受け入れてくれるから。
僕はきっと、永琳より先に死ぬ。
だから、永琳は今日見た慧音のように悲しむのかもしれない。
だが、それでも、僕は共に居てほしいと彼女に言う。
それが僕の願いだからだ。
「ありがとう」
僕はそう言って、永琳と唇を合わす。
その礼が彼女にも届いていることを願いながら。
たとえ――彼女が独りで泣いていても。
事実は小説よりも奇なりと言いますが、この懸隔こそが彼らにとっての現実なんでしょうね。
最後に一言「この甲斐性無しが!」
色々ともどかしいがただの人間に過ぎない俺には何も言えないな……
あとけーね…獣人の寿命って人間より少し長い程度だったような。
まず、慧音の寿命については失念していました…w
ご指摘ありがとうございます。
それで、慧音はとにかく、永琳は霖之助に惚れてはいないつもりで書きました。
つまり、都合の良い時だけに繋がりあう関係でしかないので、そんな描写は書けないのです…。
また、慧音については、単純に袂を別ったという「結果」しか書きたくありませんでした。
どのみち、このストーリーだと恋愛ストーリーではないので…
甘いものなどいらないと思ったんです。
そんなわけで「キャラ崩壊注意」のタグをつけさせてもらったワケです。
そして、「茶番劇」という感想をくださった方は本当によく読んでくださったなぁ、と感心いたしました。
これは、本当に茶番劇なのです。
皆様はこの霖之助、慧音、永琳の三人をどう思ったでしょうか?
それだけを聞きたかったんです。
永琳のキャラが何故か納得できたし、慧霖の関係は幼馴染でGJでした。
後味の悪さもたまりません。
しかし、次はハッピーエンドを書いてみて下さい。
心にこびりつきますね
嫌いじゃない