Coolier - 新生・東方創想話

あなたの楽園

2009/09/27 14:21:47
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「変わらないなぁ、ここも」
 久しぶりの幻想郷の空気は、だけど、向こう側の、都市から離れた場所とそれほど大差無いように思えた。夜空の星だってうるさいくらいに輝いて自己主張しているけれど、これもまた、自然が生きてる場所なら向こうでも見られたものだ。
 強いて言うなら、妖力だとか、霊力だとか、そういう幻想的な成分がいくらか増してるような気もするけど、現在の私にとってはあまり意味のあるものではない。
 けれど、どこか懐かしい感触がある。全身でそれを感じている。幽霊だとか、妖精だとか、妖怪だとか、そういうものの存在密度が向こうとは桁違いだ。しまい込んでいた、こっち側にいた頃の服。久しぶりにそれを着ているというのもあるのかもしれない。


 さてここはどこだろう。
 なんとなく眼鏡を外して、辺りを見渡してみる。見覚えのあるような無いようなだだっ広い平原。たとえ来たことがあったとしても昔のことだし、それにいつもは空から眺めていたから、こうやって地に降ろされてしまうと、どうにも感覚が狂う。遠くに妖怪の山が見えるから、なんとなくの位置くらいは見当がつくけれど。
 今の私はほとんど力を持たない善良な一般人、変な妖怪に襲われたらぱっくり喰われてしまうかもしれない──なんて思いながら、実のところ、私に恐怖なんてものは一片も無い。わざわざ夏の、しかも夜に来てやったんだ。なにか取り込み中でなければ、あいつはすぐにやって来るだろう。


「あら、お久しぶり」
「や、紫。お久しぶり」
 案の定、あいつはすぐに現れた。私が結界を越えてから、一分も経ってないんじゃないだろうか。
 私の隣の空間が割れて、変わらない金髪と、かつてここにいた頃は少しばかり珍しいものと思っていた、けれど今となってはそこまでは思わないひらひらしたドレスのような衣装。
 最後に会ってから十年が経って、私の容姿はいくらか変わってしまっているけれど、そのくらいじゃ、こいつは変わらないみたいだった。
「外の世界、どうだった?」
「いやあ、思ってたより悪くないんじゃない? よくわからない機械がたくさんあったけど、さすがに何年も暮らしてりゃ慣れるわ」
「それは残念。向こうのものは、よくわからないままでいるよりも、より知ろうとしたほうが面白いのよ」
「そう? なんとなく使ってるだけで、生活は十分便利だったけど」
「あなたが便利と思っていた、その先があるのよ」


 紫はくすくすと笑って、それがしょうがない子供を見るような目だったもんだから、なんとなく昔のことを思い出してしまう。
 こいつに言われていろいろ修行して、妖怪と戦ったり結界の管理をした日々だ。いっつもこいつは私を子供扱いして、その態度が腹に据えかねて反抗してみると、それでまた子供扱いされる。スパルタかと言うとそこまででもないけれど、ずいぶんと性格の悪い母親代わりだった。
 実際、私は博麗の巫女としては、それほど優秀な出来ではなかったんだと思う。霊力や結界の扱いは母さんに劣ったし、霊夢にだってぜんぜん敵いやしなかった。……霊夢はちょっと、才能ありすぎだったけど。


「そういえば、母さんはどうしたのかしら? 私がここにいた頃には戻ってこなかったけれど……今は、幻想郷にいるの?」
 ふと訊いてみると、紫は静かに首を振る。
「いいえ、今も、向こう側にいるわ。……どっちだと思う?」
 寂しげなのか、優しげなのか、それとも楽しげなのか、こいつはたまによくわからない笑い方をする。
 別にいつもの人をバカにしたような笑いが好きってわけじゃあないけれど、ただ、そういう笑顔に出会うと、私としてはどうにも反応に困る。困るというか、わからなくなる。どんなふうに返してやればいいのかわからないし、そもそもこいつを相手にわざわざ『返してやる』ことを考えてる自分がわからなくなる。
「知らないわ、そんなの」
 だから、結局、そんなつっけんどんな答えになってしまう。私も変わったのは外見だけで、中身はそんなに変わってないのかもしれない。少し、自己嫌悪だ。


「そうね。母は母。あなたはあなた。ここにいるということは、どれかを選びに来たのでしょうし……あなたの選択を、聞いてもいいかしら?」
 数秒の沈黙を挟んで、紫は私に問うてくる。もちろん、この問いは予想のうち。私は、ここに帰ってきたのだから。
 紫が、あのよくわからない笑顔を浮かべながら訊いてくるのも、なんとなく予想できてたのかもしれない。こいつとの付き合いはそんなに短くないけれど、おそらく私は初めて、あの笑顔にまともに答えを返すことができた。
「その前に、少しだけいい?」
「何かしら?」
 そうしない選択だってある。だけど、やっぱり気になるから。
 この言葉を口にするには、覚悟がいる。だからここに来る前、何度も何度も、イメージした。
「霊夢に。……娘に、会わせて欲しいの」


 もしかしたら、万が一、拒否されることもあるかもしれないと思っていた。
 博麗の巫女は、次代がある程度育ったら、力の殆どを次代へと引き渡す。そうして博麗の巫女としての役目を終えた後、いくつかの選択肢が与えられる。その最初の選択肢は──幻想郷を出てその世界を見るか、否か。
「あなたはどの選択をするにせよ、また幻想郷に戻ってくることができる」
 紫はそう言った。
 私は、好奇心と、母の影響もあったのだろう、一度幻想郷を出てみることを選んだ。いま私がこうしているように、再び幻想郷に帰ってくる手段はちゃんと与えられている。紫にもらった、結界に一時的に小さな穴を開けるお札を、外の世界の博麗神社に持ち込めばいい。


 紫がこんなシステムを設けた理由は、私なりに察しはついている。
 ただの気まぐれなんかじゃないし、ただの意地悪でもない。博麗の巫女という存在への、少しばかりの肩入れは、あるのかもしれないけれど。
 もしも私の予想通りなら、紫が霊夢と私の接触を拒む理由は無いはず。
「んー……まあ、いいけど」
 だから紫の返答は私の予想通り、だったのだけど。
「かなりお転婆に育っちゃったから、帰ってきたお母さんへの照れ隠しでぼこぼこにされちゃわないよう注意してね?」
 うげ、と、わりとシャレにならないお言葉に、ついつい顔をしかめてしまう。しまった、そういうのは考えてなかった。思えばあの子は、昔から手加減というものを知らない感じだった……。
「あー、うん、ちょっと心の準備をしてから」
「はいはい、博麗神社ですね。今すぐご案内しましょうねー」
 ちょっ……と私が言う間も無く、足元に隙間が開く。
 さて、既に力を霊夢に渡したため、今の私は一般人とあまり変わらない。飛ぶこともできないので、こうやって変な妖怪に襲われたらぱっくり喰われてしまうしかないわけだ。
 落とし穴に落ちたみたいにして、夜空と、大地に開いた隙間と、そこから覗いてにこにこ笑って手を振る紫とがどんどん遠ざかっていく。「おーぼーえーてーろー!」なんて叫びがこの異空間で通るのかはわからないけれど。


 ひゅうんとすごい勢いで落ちて、だけどぺたんと優しくお尻がついて、気がつくと私は、見慣れた神社にいた。神社とわかるのは、私だからだ。部屋の中。懐かしい和室の匂い。そう、目に映るのはただの部屋で、それだって、夜だから細かいところが見えるわけじゃない。ここが神社の中だとわかるのは、私だからだ。慣れ親しんだ博麗神社だからだ。
 目の前には真っ白な布団があって、小さく上下している。眠っている彼女は、こちらに背を向けていて、今の私にはその黒髪しか見えないけれど、少し身体を乗り出せば横顔が見えそうだ。心が、嘘みたいに静まりかえった。


「霊夢」
 知らずのうちに声が出ていた。
 囁くくらいだと思ったけれど、霊夢は、それに反応するみたいに身じろぎした。「お母さん……?」寝言だろうか、それとも。
 私はそれ以上近づくことができなくて、そうしているうちに、霊夢が寝返りを打ちながら、顔を私に向けた。その目はうっすら開かれていた。「お母さん?」また、声が漏れる。


 ぼんやりしていた霊夢の目がだんだん焦点を結び始めて、その口からは、あ、うあ、と呻くような何かが零れていく。
 そんな様を見せ付けられて、私は、どうしてだろう、逃げ出したくなってしまっていた。恐怖からじゃあない。いや、どうだろう。少なくとも、紫と交わした冗談の中にあった、霊夢にぼこぼこにされるなんてことを怖がってはいない。むしろ、それなら楽だった。当たり前のように、甘んじて受けることができた。
 違う。
 そうじゃあないんだ。
 理由が無かったわけじゃあないけれど、私は結局、娘を置き去りにした。霊夢をここに置いて、外の世界に行った。
 まったくの一人きりじゃない。霊夢の周りには、魔法使いの友達だっていたし、神社にはおせっかいな悪霊が憑いていた。紫は、霊夢があんまり優秀だから教えることは無いと言って、少なくとも私がこっちにいるうちは霊夢に会おうとしてなかったけど。


 私は、ほんの少し、期待してたのかもしれない。霊夢には魔法使いだとかいろんな友達がいて、私のことなんて忘れてしまうくらいで、何一つの寂しさも感じずに暮らしているのだと。
 だって、霊夢は、よくできた子だった。ちょっとばかりめんどくさがりだったけれど、いざやってみれば何でもできる子だった。私は、母さんがいなくなった時はずいぶん寂しがったけれど、霊夢なら、そうじゃないかもしれないと思った。なんでもないことみたいに、乗り越えてしまうんじゃないかと思った。なんて自分勝手なんだろう。紫の冗談も、そのお気楽な期待を後押しした。思えばあれは、紫なりの嫌味だったのかもしれない。霊夢は、ほら、当たり前のように寂しがっていたんじゃないか。
 霊夢の目にはどんどん涙が溢れてきて、気を抜くと私も泣いてしまいそうだったけれど、そうする資格は無いと思ったから、精一杯に笑顔を作ってみた。うまくできただろうか。ただいま、と言ってみた。ただいま。この言葉を口にするのは何かおかしい感じもしたけど、なんとなく、これで正しい気がした。
 おかえり、という返事は無くて、霊夢はただ、わんわん泣いて抱きついてきた。ずいぶん大きくなった身体を私も抱き締め返して、しゃくりあげる霊夢の頭と背中を、できるかぎり優しく撫でた。霊夢が泣き止むまで、そうしていた。



  ◆  ◆  ◆



 「お母さん」と、霊夢は私の胸に顔をうずめながら口にした。
「今まで何処にいたの?」
「あー……言っていいのかなこれ……?」
 博麗の巫女に、外の世界に行く機会を与えるというこのシステムの存在を、私は紫に告げられるまで知らなかった。母親がいなくなった理由を知ったのは、紫にこの話を持ちかけられた時だったし、その時は、霊夢にはこのことを言っては駄目とも口にしていたはずだ。
 今、これを言ってもいいのだろうか。紫が何か言ってくるかと思って少し待っていたけれど、何も起きなかった。私を見上げる霊夢と視線が合った。
「うん、ちょっと、外の世界にね」
「外の世界? なんで?」
「……少し、興味があって」
 嘘はついていないけれど何かごまかした気になってしまうのは、たぶん、これが紫の案であるとか、その案にどういった意図があるのかだとか、核心に触れてないからなんだろう。
 それもまた、霊夢に話すべきなんだろうか。思っているうちに、霊夢が「まあいいや」とまた私の胸に顔を埋める。霊夢の背に両手を回しながら、私の口から出ていたのは、「霊夢は、元気だった?」なんて言葉だった。「うん、まあ、それなりに」とくぐもった声が返ってくる。


「ほんと? ちゃんと友達と仲良くしてる?」
「友達って誰のことだか……まあ、たぶんそれなりにはね」
「友達って言えば友達よ。ほら、あの魔法使い、魔理沙って言ったっけ? 元気にしてる?」
「あいつなら元気すぎてうるさいくらいよ。私が異変解決に行こうとするといっつも張り合ってくるし」
「あれ、異変って、そんなによく起きるものだった?」
「お母さんの頃はどうだったのか知らないけど、最近は異変ばっかりよ。一年に最低一回は起きるペース」
「うわ、すごい。それ、霊夢が全部解決してるの?」
「まあ、だいたい私かなあ」
「やっぱりすごいのね、霊夢は」
 霊夢のすごさ。それによっかかろうとしていたから多少の後ろめたさはあるけど、それはそれ。いくつもの異変を解決、つまり何体もの強力な妖怪を倒している娘を褒めるのに、躊躇いはいらないはずだ。
 霊夢は布団に戻ることなく、私に身体を預けている。自分勝手とは思うけれど、私も今は、ただ、霊夢を包んでいたかった。放り出していたぶんだけ、甘えさせてあげたかった。


「でも、お母さんの頃とは事情が違うから。命名決闘法案ってのができたし」
「……何それ?」
「なんか、ほどほどに決闘できるやり方。いちおう私が作ったことになってるけど」
「ふーん。よくわからないけど、いろいろ変わったのかしら」
「うん。……うん。いろいろ変わったよ、お母さんがいた頃とは」


 ──ふと。
 霊夢の身体が重くなったように感じた。
 私の服を握り締めていた手もこころなしか開かれて、霊夢のまぶたはとろんと下がりそうになっていて。眠っていたところを起こされて、あんなに泣いたもんだから、疲れてしまったのもあるのかもしれない。


「いろいろ変わったんだよ。魅魔はあんまり見かけなくなっちゃったけど、魔理沙は相変わらずここに来るし。レミリアって吸血鬼がさ、異変起こした奴なんだけど、なんでかここによく来るようになって。そのメイドの咲夜って奴もレミリアにくっついてくるし。紫っていう胡散臭い奴もちょこちょこ来るし、そうだ、山の上に新しい神社ができたの。今はね、私以外にも巫女がいるんだ。それに寺だってできて、どっちも山や人里で人気なもんだから、商売敵なのよ。それだけじゃなくて、もっともっと、なんでかみんなよくここに集まって宴会するんだけど、その時はすごく人が集まるの。ううん、人じゃなくて、妖怪ばっかりだけど。まだ他にもたくさんいるんだよ。幽霊とか亡霊だとか、鬼だって宇宙人だっているし、最近は地底とか天界とかから来る奴らだっているの……」
 背中を軽く叩いてやる。これだけ喋っていれば目が覚めてしまいそうなもんだけど、まるでその言葉を子守歌にするみたいに、霊夢の身体はずるずると私のもとに沈んでいく。その息が、穏やかなものになる。「すごく、楽しそうね」だから、私の言葉は聞こえていないんじゃないかと思ったけれど。「うん、すごく楽しいよ。こんなに楽しい場所は無いよ」こもった声が、返ってくる。
 ほんの一瞬、霊夢の手にまた力が戻って、私の服を、私を握り締めて、顔を上げようとしたんだろう、その首元が動いたけれど、どうにもできなかったみたいで、だから続いた言葉は、やっぱりくぐもったものだった。
「だから、お母さんも、もう何処にも行かないよね……?」


 今度は大丈夫だと、不意に思った。躊躇い無く、嘘もごまかしも無く、私が思ったこと、感じたことを伝えられる。
 この、楽園の素敵な巫女に。
「ねえ霊夢、どうしてお母さんが外の世界に行ったと思う?」
「え……さっきは、興味があったからって」
「うん、それはまあ、そうなんだけどね。博麗の巫女は、役目を終えた時、選択が与えられるの。外の世界に行ってみるかどうかって」
「何それ。初めて聞いた」
「初めて言ったもの。まあ選択って言っても、紫の仕業なんだけど」
「紫を知ってるの?」
「知ってるわ。あなたが私のところに来るよりも前から」
 眠気に耐えようとしている霊夢は、答えを待っている。もう、何処にも行かない。私のその答えを、待っている。それが聞けるまで、たぶんこの子は、眠ることは無いんだろう。


「外の世界に行ってみることを選んでも、戻ってくることはできるわ。ただし、条件があるの。まず、向こうではむやみに幻想郷の話をしないこと。そしてもう一つ、少なくとも、向こうでしばらく……十年程度は、暮らしてみること」
「……どうして?」
「紫は意図を一切語らないけど……たぶんね、向こう側の住人になってみて欲しいんだと思うわ」
 霊夢の目に宿る理解の色は、十年という年月の意味に気づいたからだろう。十年間。私が霊夢と離れていた時間だ。
「これはね、選択なのよ。すべてを知ったうえで為される選択。紫はおそらく、それを見たがってるんだわ」
「なんだかよくわからないけど、勝手だなあ。紫らしいと言えばらしいけど」
 紫らしい。おそらく深い意味の無いだろうその言葉に、苦笑してしまう。
 私の推測通りなら、紫は、私達と何も変わらない。ただ子供みたいに、必死に、私達に与えたこの選択を通して、自分の大切なものを認めてもらいたがっているだけだ。それは、ひょっとすると、紫らしいと表せてしまえるのだろうか。


「外の世界に行ってみて、十年以上が経ったら、また選択が与えられるわ。まずは、幻想郷に戻って暮らすか。これはいいわね。次は、外の世界に戻って暮らすか。この場合でも、好きな時に幻想郷に戻ってくることができるみたいだけど。外の世界をメインに暮らすって形ね。そしてもう一つ──幻想郷に戻って、幻想郷に関する記憶を紫に消してもらったうえで、また外の世界で暮らすか」
「え……」
 霊夢の身体がびくりと震える。私が今、ここにいる意味がわかったんだろう。
 まだ私は分岐の上にいる。そのうちの一つ、記憶を消すというものも、否定してやったわけではない。
「なんでそんな……戻ってくるか来ないかならわかるけど、記憶を消すなんて……」
「紫にとって、必要だから。……いや、欲しいからと言った方が良いのかしら?」
 三番目の選択肢の存在意義は、私も疑問に思ったものだった。外の世界で暮らすのに、幻想郷のことなんて憶えていたくもないなんて奴が、果たしているんだろうか。
 そんなふうにしか、考えていなかった。
「──ねえ霊夢、この場所を、幻想郷を、楽園と呼んだのは、どんな人だったんでしょうね?」



  ◆  ◆  ◆



 外の世界で、私は、とある老婦人に出会った。
 彼女は、外の世界の他の人間に比べると、霊感が強いようだった。下手をすると、力の殆どを失くした私なんかよりも、上だったかもしれない。
 以前は似たような力を持っていたけれど、どうやらいつのまにか失くしてしまった。殆ど正直に自分のことを告げると、どうやら彼女は私を気に入ったみたいだった。普通では見えないものの話ができるというのも強みだったのだろう。私も、その類の話を彼女としながら、幻想郷のことを思い出すのが心地よかった。
 彼女は高齢で、自宅からあまり動けなかったけれど、幸い私が借りた──と言うより紫が手配した──アパートから近く、私は暇を見つけては彼女を訪ねた。そのうちに、訪ねる場所が自宅から病院に変わった。彼女が亡くなったのは、一年ほど前のことだ。ちょうど私が見舞いに行った時のことだった。


「昔はね、違ったんですよ」
 あの時、彼女は私の顔を見て、懐かしむように、哀しむように口にした。
「もっともっと、たくさんのものがいたんですよ。たくさんいすぎて、何が何やらわからないくらい。あれは神様だったのか、それとも別のものだったのか。わかりませんけどね、私には。ただ、手を振ったら返してくれましたし、私が彼らに気づいてるということを知ると、笑いかけてくれたりもしました。私が疲れて座り込んでいると、肩を叩いてくれたりして、そしたらどうしてかまた立ち上がることができたものです。でも、そういうものはどんどん減っていって、いつのまにかもう殆ど見なくなってしまいました」
 彼女はそこで、こほんこほんと咳をした。心配する家族を「大丈夫」と押し留めて、彼女は話し続けた。


「ねえ、彼らはどこに行ってしまったのでしょう。いえ、どこかに行ってしまったのなら、いいんです。ただ、私の目の前で、寂しそうに笑って、すうっと消えてしまったものもいて、彼らはどこかに行ってしまったじゃなくて、消えてしまったんじゃないかって。昔はあんなにいたのに、誰も彼も消えてしまったんじゃないかって、それがずっと不安だったんです。もしも天国があるなら、そこに行けばまた彼らに会えるんじゃないかって、少し楽しみで、だけど不安なんですよ。もしもそこにいてくれたら、どんなに哀しいことか。……ごめんなさいね、最後にこんな話をしてしまって」
 彼女は、また咳をした。ごほんごほんと咳をした。何かよからぬ気配がして、看護師を読んだ。彼女はそのままベッドに倒れ込んだ。糸が切れたみたいだった。


 私は、ほんの少し、迷ってしまったのだ。話すべきか。伝えるべきか。紫は、むやみに話さないことを条件としていた。むやみに。それはつまり、やたらめったら話さなければいいということじゃないのか?
 医師と看護師が集まってきて、部屋から私と家族を追い出そうとしていた。彼女に意識があるのかはわからなかった。迷ったせいだ。話の途中だろうがなんだろうが割り込んでしまって、言ってやればよかったんだ。もう遅いのかもしれない。まだ間に合うかもしれない。私は叫んだ。
 大丈夫! 大丈夫だから! みんな、ちゃんと生きてる! 違う場所で生きてる! こっちみたいに科学はあんまり進んじゃいないけれど、自然が無駄に生き残ってるから、あいつらにとっちゃ十分だ! どいつもこいつも無駄に元気で、好き勝手やって、私の手を煩わせて、だけどなんだかんだで仲良くやってる! 心配しなくていい! ちゃんと、あいつらは、生きてるから……!
 彼女は、最後に、笑ったんだろうか。よかった、ありがとう、と口が動いたのは、私の錯覚だったんだろうか。


 それが、彼女の最期だった。
 そうして私は外の世界の最大の友人を失って、幻想郷の最大の友人のことを理解した。



  ◆  ◆  ◆



「それは……幻想郷に住んでる人?」
「それも正解。でも、幻想郷にいる人は、生まれてからずっとここにいるというのが殆どだわ。それじゃあ、ここがどんなに素晴らしい場所かわからないわね。比較対象が無いもの。伝え聞いた外の情報から判断してここは素晴らしいって言うのも、間違いではないと思うけれど」
 それは、選択肢の一つ目。
 幻想郷から出ることを望まないという道だ。


「……じゃあ、外から来た人。外よりこっちの方がいいから楽園だって」
「そうね、それも正解だわ。でも霊夢、忘れてない? 外から来た人の殆どは、やっぱり外に帰ることを望むのよ。彼らにとっては、やっぱり外の方が住みよい、安心できる世界ということになるわ。たまに、ここに残る人もいるけれど」
 それが、二つ目と三つ目。
 一度幻想郷の外に出て、外とこっちとをどちらも知ったうえで、どちらかを選ぶというもの。


「……答えは?」
「勘違いしないでね、霊夢。あなたが言ったどちらも正解よ。ただ、その正解にもう一つ加えて欲しいってだけなの」
「もう一つ?」
「そう。幻想郷のことを知らない人、よ」
 霊夢は首を傾げて、「よくわからないわ」と呟いた。「そのうちわかると思うわ」と私は答える。霊夢にもいずれ、選択の時は来るのだから。
 私はまた、霊夢の顔を胸で抱く。私を見上げていた目が、また閉じそうになる。
「もう遅いから、眠ってしまいなさい」
「……でも」
「大丈夫よ」
 また上目遣いになる霊夢を、ぎゅうと抱き締めて、その額に口付けを落とす。答えは、既に出ている。


「私は、ここにいる。これからずっとね。そう決めたわ」


 ──そう、残念ね。


 どこからか響いてくる苦笑は、おそらく霊夢には聞こえていないんだろう。
 安心したみたいに笑って、霊夢は、眼を閉じた。




 外の人間が、失ったもの。失くし続けているもの。
 実際に外の世界に行って、多くの人と触れ合って、実感した。殆どみんな、失くしていた。忘れていた。
 それはきっと大切なもので、だけど気づかないうちにぽろぽろ落としていて、誰かがふと思い出してみても、もうその姿は無い。
 ひょっとすると、それは絶望なのかもしれない。彼らを忘れ去っていたことを、彼らがいなくなってしまったことを、誰かがある時思い出して、嘆き哀しむのかもしれない。


 幻想郷は、そんな。
 忘れていたことに気づいて、それを哀しんでくれる、ごくごく僅かな人間にとって、救いにほかならないと思うのだ。


 それは、第四の選択肢。
 幻想郷に関する記憶を奪うとは言っても、この僅かに残った霊力まで奪うとは言っていない。そしてこの僅かな霊力は、向こうの世界で、幻想の存在を感じるには十分なものだ。
 それはつまり、彼女のような存在になるということだ。
 彼女はきっと、最期に、幸福だったのだと思う。漏れ出たあの笑みも、よかったという安心も、ありがとうという感謝も、何一つ錯覚じゃない。それに、私も嬉しかった。私達の世界の、幻想郷の住人達のことを。無邪気で手のかかる憎めない連中のことを、忘れられた奴らのことを、あんなにも想ってくれていた。


 紫が欲しているのは、それなんじゃないかと思う。だってそれは、最大の賛辞だ。最大の感謝だ。紫みたいに、幻想郷を大切に思ってあれこれしてる奴からしたら、これ以上の褒美はない。
 記憶を失う側にも、たぶん、褒美はあるんだろう。あなたはどの選択をするにせよ、また幻想郷に戻ってくることができる。紫はそう言ったのだから。
 目に浮かぶようだ。たとえば私が記憶を失って向こうで暮らしたなら、霊だとか妖怪だとか妖精だとか、まだ僅かに残ったものを目にして、それが消えていく様を哀しみながら年を重ねていく。どうしようもなく失ってゆくことを嘆きながら生きていて、そうしたところで、不意に神隠しに遭うのだ。


 そこにあるのは、楽園だ。
 忘れていった、失っていったと思ったものが、これでもかってくらいに生きている。
 その、思いのほかに優しくできていた世界のかたちとの出会いこそが、記憶を失った楽園の管理者への褒美だ。
 私は彼女みたいに、よかっただとか、ありがとうだとか、笑いながら、もしかしたら泣きながら口にして、神隠しの主犯はそれを見て、悪戯っぽく、子供っぽく、嬉しそうに笑うのだ。




 霊夢は、どんな選択をするんだろう。いつか楽園の管理者の役目を譲り渡して、私にしたのと同じように、紫がいくつかの選択肢を提示した時。霊夢は、今日の、この話を思い出したりするんだろうか。そんなに難しい面倒なことを考えず、ずっとここにいると言い出しそうな気がするけれど、もしかしたらそうじゃないかもしれない。私としては少しくらい外を見てくるのも悪くないと思うし、霊夢だって、外の世界を面白そうと思うかもしれない。
 ただ、記憶を捨てたりということはしない気がする。だってこの子は、あんなに、この場所を楽しんでいる。幸せに思っている。紫の第四の選択肢は、悪いけれど、少なくともしばらくは無意味なものになると思う。そりゃまあ、少しばかり好奇心はあるけどね。すべてを捨てるには、そう、いくらなんでもこの場所は、居心地がよすぎる。私達にとっても、間違いなく、楽園なんだから。

 それに。その道は、外の人に残しておいてあげてもいいんじゃないかと思う。
 私の友人みたいに、その道をたどる人間は、少ないけれどたしかにいる。彼らが、ちゃんと幻想郷にたどり着くことができるかはわからない。むしろ、できない可能性のほうが高いんだろう。
 でも、いつか。
 失ったものを自覚する気持ちが広がって、そういう人がもっともっと増えたら、いつか、ここにたどり着く人だって出てくるはず。

 十年間を外で暮らした私の、それが結論だ。すべてが失われたわけじゃあない。ほんの少し、欠片くらいかもしれないけど、少しずつ人々の間にそういうものは残っていて、たまに、本当に稀にだけど、忘れていたことに気づいて、悔いてくれる人はいるのだ。
 ねえ紫、そんなに焦らなくても大丈夫だと思うよ。幻想郷の価値を、意味を理解してくれる外の人間が、いずれきっと現れる。

 元は幻想郷にいたからかな、外にいた時に、足音が、聞こえたんだ。そういう人達の、足音が。少しずつ、ほんの少しずつ、近づいてきていた。
 ──忘れられたものを、失くしてしまったものを、探し回る人達の足音が。
 
 
 
 
 
 
 
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コメント



0.1610点簡易評価
10.100点名前が無い程度の能力 削除
霊夢さんの母親関連のお話って結構有りますけど
再び共に暮らすってのは珍しいですね

素敵なお話有難うございました
12.100点名前が無い程度の能力 削除
GJ!
外の世界との対比がお見事。
13.100点名前が無い程度の能力 削除
いいね。素敵。
15.100点名前が無い程度の能力 削除
もしや秘封倶楽部は紫に歓迎されますかコレ
21.100点名前が無い程度の能力 削除
すでにお気に入りに登録していた・・・だと・・・!?
24.100点名前が無い程度の能力 削除
お見事
27.100点名前が無い程度の能力 削除
久しぶりに読み返したら点数を入れてなかったのに気づき……どうもすみません。

科学に染まり過ぎて、大切な幻想を無くしてしまった外の世界。
でもきっと大丈夫だと思うのです。昔々、たしかに人間と妖怪と神様の絆があったから。
何時の日かまた巡り会える時がやって来るに違いありません。
……そうでなければ哀しすぎる。
38.100点名前が無い程度の能力 削除
いい
40.100点名前が無い程度の能力 削除
紫が可愛くて可愛くて。

素敵なお話でした。