人形は長い間、そこにあった。
ガラス球の眼球とセルロイド製の手足、朱色に染まった頬に顔のバランスにしては小さめの口。
見られることを意識した造りのその『か細さ』が、少女趣味を前面に押し出す気位を感じさせる。
幸か不幸かそれの眼は赤土ではなく、宙を見上げていた。
長い間見つめていて、その時間を今思い出してみると、同じ時間が回り続けていただけに思えてくる。
雲が吹き飛び、太陽と月は終わらないワルツを踊り、星が螺旋を描く。
螺旋は糸を引いて月を追い出し、太陽を呼び寄せては掻き消えて、また雲が飛んで行く。
今生の、諸行の、眼に写り込んでくる全ての事柄を人形は見つめ続けてきた。
風が舞うのが分かる。感じるのではなく、何かが風に踊らされているのが見えるからだ。
シルク色の花びらが右から入っては左上から出て行き、菱形した蝶々が翅を休めに虹彩の曲面に止まる。
青緑の丸い額縁の真ん中の大きな黒が、自慢だった。
――ちょうちょうさん、わたしの眼玉はきれいかしら?
いつものように話しかけてみる人形。
だが声は届かず、生き物の気配すら感じなかったので、蝶々は口吻を引き伸ばしていた。
蝶々の複眼はガラス球など捉えておらず、ただ野性のまま雌の姿を探している。
付近に敵も居ないと判断して、翅を水平に拡げて蝶々にとっては楽な姿勢をとった。
人形は構わず、話すことを止めない。
――あなたなかなかお目が高いわよ。そう、この眼玉はね、ある公爵夫人お抱えの職人が二晩寝ずに仕上げた一品モノなの。特にこの鮮やかな虹彩から瞳孔までのグラデーション、この色味を引き出すのに苦労したのよ。そのお陰で漆黒が際立つでしょ? それに……
それは言葉を遮るように振り上げられていた。
眼玉の前を横切る素早い鎌。
休んでいたはずの蝶々は不自然に折りたたまれ、一瞬の内に餌と化していた。
一体どこから現れたのか、自らの気配さえ殺してしまい、非情にも颯爽と近づいたのだ。
鎌の持ち主は眼玉の上にその飢えた腹を乗せ、捕らえたばかりの活餌を貪る。
その様を眼玉は凝視していた。
蝶々がまだ生きているのが分かる。だってひしゃげた翅をばたつかせているのだ。
だが、鎌の持ち主はそんなこと関係なく貪り続ける。
それはそうだろう。そいつには蝶々が最初から食べ物にしか見えていなかったのだ。
まずは翅の先から食み始め、付け根まで来たら背中を喰い破る。そのまま軟らかい腹部に流れ、中の器官を片っ端から噛み砕く。もちろん体液だって残さず啜る。
足まで食が進んでも蝶々はまだ生きていた。だって口のストローを伸縮させているのだ。
眼玉は視線を逸らさず見続けた。その全てを、一部始終すべてを。
乗せられた鎌の持ち主の腹が蝶々の肉塊で膨らむのを。
その蠢動を。 その鳴動を。 蝶々が絶命するその瞬間を。
薄ら眩しいこの場所で、舞い散る鱗粉にまみれながら蝶々が果てるのを見つめた。
――それにね……ちょっと、変な粉が落ちてくるんだけど。汚いわ。ねぇ、どうにかしてよあなた。せっかくの芸術が台無しじゃない。ちょっと、聞いてるの?
声はやはり届かない。
すでに満腹で、鎌の手入れをしているそいつは何故か誇らしげだ。
それを見ているとだんだん腹が立ってきた。こちらの声は聞こえないのに、一方的に見せ付けられるばかり。
せっかく話し掛けているというのに私を無視するなど言語道断なのだ。
お前の腹に居る蝶々だってそうだ。何も応えずに死んでしまって。
もう少し礼儀というものを知っていてもいいではないか。まだまだ話したいことが山程ある。
あそこに浮かぶ太陽と月、今は見えないが星も雲も、いつもいつも私を置いて動いている。もう何千回と見てきてうんざりしているんだ。
私の見てきた全てだ。そうやって勝手に進んで私はそれを見ているだけ。
どれだけ私を置いていけば気が済むんだ。
出来る事ならこの眼玉を瞼で閉じてやりたい。だけど私には瞼が無いんだ。
ただ見ているだけしか出来ない、こんなセルロイドの表情なんていらない。
なんだ、なんなのだ、一体どういうことだ。私が一体何をして何を望んだっていうんだ。
そうだ、あの時人間に捨てられて、気付いたらこうなってた。
なにが新しい人形だ。
私の方が何倍も素敵な服を着ているのに、綺麗な眼をしているのに。
憶えている、憶えているぞ人間。
おべっか使って私を手にしたくせに、私の為に困らせたメイドだって幾人もいたのに。
膝の上で髪を梳けば、私はそれに応えて髪を煌めかせたぞ。
ままごとに付き合わせれば、見事に子供役を演じきってみせたぞ。
それなのに、古くなったから要らない、かわいくない、汚い、だと。
ふざけるな。私はお前にどれだけ尽くしたか、忘れたなんて言わせないぞ。
どれだけお前の我侭に付き合い、お前の寂しさを紛らわせてきたと思っているんだ。
ああ、もういい、太陽も月も星も雲もみんな見たくない。
私は動けないのにそんなものを見せるなんて、非道いではないか。
閉じさせろ、瞼を閉じさせろ。
その花弁で覆うだけでいいのだ。
閉じさせろ。
「ならばいっそ、そのガラス球砕いてやろうか?」
やけに近くから聞こえた。
初めて聞く何者かの、籠もるような低い声が急に現れたのだ。
だが見えるのは腹の膨れたこいつだけ。
ただの虫のはずなのに、やつはこちらを見据えている。笑っているように見える。
そしてその鎌を振り上げ、
――ぎゃああぁぁぁぁぁぁぁッ!!
誰にも聞こえない絶叫。
振り払おうにも手が動かない。逃げようにも足が動かない。
――いやああぁぁぁぁぁぁぁッ! いやああぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!
必死に見ないように、瞼を閉じようとするが瞼が無い。
眼の前の出来事を、ただただ見ることしか出来ない。
鎌が振り下ろされるのを、自分の命が刈られる様を、その一瞬の全てを。
私は人形。捨てられた人形。なにも出来ない人形。
……鎌は振り下ろされた。しかし、ガラス球は砕けるどころか傷も付かない。
所詮は虫一匹のやること、蝶々の命は奪えても人工物には歯が立たなかった。
カマキリは膨れた腹を引きずり、その場を去る。
後に残ったのは汚れている捨てられた、綺麗なガラス球を持つ人形のみだった。
――ううっ……う……ううぇ……
私は人形。捨てられた人形。なにも出来ない人形。
動く事さえ、逃げる事さえ、話す事さえ、なんにも出来ない。
涙も流せない。
――助けて……鈴蘭さん…………
呼ばれた鈴蘭は風に棚引いて、ガラス球の上で起こった一部始終を見つめていた。
人形の周りを囲むように、人形を遠ざけるように。
ガラス球には鈴蘭だけが映り込む。
物言ず揺れ動く鈴蘭。
世界が暗転する。
鈴蘭畑で眼が覚めた。
瞼を開けて見上げた空と、環を描いた鈴蘭達が最初に眼に映り、まるで祝ってくれているように鈴を揺らしている。
白い釣鐘の形をした花弁が濃過ぎるくらいのオレンジ色に染まっている。
ちょうど太陽が地平線近くにあるせいで、空も周囲も全てオレンジ色だった。
ただ、それが朝焼けなのか夕焼けなのか分からなかった。
方角が判別できなかったからだ。北がどっちか分かれば、そんなことはない。
たしか、北の反対側が東で、太陽は東の反対側から昇るから今の太陽のある方角は南か。
朝か夕方かはどちらでも構わないし。
上半身を起こしてみる。
腹と背中に力を入れ、一気に身体を持ち上げる。
少し大変に感じた。と、両手で支えて起きればいいことに気付く。
土に背中を付けて、もう一度やりなおしてみる。
なるほど、これなら楽だった。
「フフフフッ」
笑みがこぼれる。思わず可笑しくなってしまった。
眼の端で何かが動いたのに気付いた。素早く手を動かしてそれを捕らえる。
微かにでも動くものの気配を覚る感覚を、我ながら褒めてやりたい。
だが、強く握り過ぎてしまったと、手の中の感触で理解した。
掌と密着する感触に、まだ少しぎこちなさがあるのを感じる。
指を開いて見れば潰れた蝶々であった。翅が破れ、体液が掌を伝う。
「汚いわねぇ」
そう言って下草になすりつける。それでも足りなかったので土にも擦る。
指を潜らせ、掌の横や甲側も満遍なく土に絡ませる。
やがて潰れた蝶々も体液も、全部が混ざって分からなくなった。
泥にまみれ、爪の間が黒くなった掌を見ると、綺麗になった、と思う。
掌を二度三度翻すと、肉の中に骨格の動きを感じた。
密度を保った芯根とそれを引き上げる血の通った筋の束。
生きているという実感。
そうだ、私は生まれ変わった。もう誰も私を置いて行けやしない。
私の話に応えない蝶々は潰してやった。あれだけ勇んでいたくせに、握ってやったら簡単なものだ。
この眼に映る全てのものを捕まえ、この手で潰せる気がする。
太陽もじっとして動かないから、今度は私が置いてけぼりにしてやろう。
みんなみんな置いてけぼりだ。
片手をついてそのままの勢いで立ち上がった。
辺りは染まるオレンジ色に負けないくらい、蕭然に満ち満ちている。
鈴蘭たちは思いのほか背が低い。
「私はメディスン・メランコリー」
オレンジ色に染まる鈴蘭畑に毒を込めて。
「さぁ、行きましょうか、スーさん」
私に生まれたこの世界に愛を込めて。
ころしてやる
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
人里の長老が大人数人を連れて神社に押しかけて来たのは今朝のことだった。
日課である境内の掃除を終え、ちょうど朝食の支度を始めた頃で、霊夢は突然外からの物々しい気配に嫌な予感を覚えた。
だからあえて包丁を休めることなくまな板に向かっていたのだが、勝手口を開けて入って来られては話を聞かざるを得なかった。
土間に次々と乗り込んでくる顔はみな只事ではない、やつれた悲愴に包まれている。
一気に手狭になった場所に、暗たんたる空気も一緒に入ってきた。
「子供が五人、息を引き取った」
長老のすぐ後ろ、上白沢慧音は押し殺せぬ気配を放ち拳を震わせていた。
耐えられる限りに唇を噛み締めた姿に、霊夢は鬼の形相を見る。
黙り込んでいる彼女には、掛けられる言葉など無いように思えたのだ。
聞けば昨晩、人里に突然現れた妖怪が、辺り構わず毒を撒き散らしたという。
妖怪はすぐにどこかへ飛び去ったが、逃げ遅れた子供がそれを浴びてしまった。
大人たちの必死の看病も虚しく、どんどん変わり果てていく姿に為す術が無かった。
そして子供らは狂ったように一晩中もがき苦しんで、死んだ。
「……薬屋は何してたのよ」
「永琳殿はすぐに駆けつけてくれた……だが脳に喰い込む毒は手が付けられなくて。回復は難しいと……症状は消えても脳がやられて考えることが出来なくなると……」
咽び泣く者が数人居た。
慧音は涙を見せてはいなかった。だが、何か一層濃くなったものを感じ取れる。
その場に居なかった霊夢には想像するしかないのだが、よほどの惨状だったのだろう、彼らは口々に子の名前を涙が流れる毎に呻いている。
子供を看取るために親が居るのではない、守る為、育てる為に親は居るのだ。
こんな思いは辛すぎると、籠もる声に滲み出ていた。
唯一人、その瞳に刃を忍ばせている者が居て、霊夢はその気配に当てられて終ぞ話し掛けることさえ適わなかった。
だから、楽にさせるとか、せめて毒のサンプルがどうとか、そんな話も霊夢は聞いたがよく分からなかった。
とくとくと流れる嗚咽に情報を遮られ、眼を背けないよう必死に抵抗する。
だがそんな事に意味は無く、苛立ち半分に視線を泳がせた。
霊夢は煮立った鍋を釜戸から退かし、火に水を掛けて消した。
「それで、その妖怪はどっちに飛んでいったの」
口早に長老に問い掛けて、急ぎ相応の支度を整える為、土間から免れようと背を向けた。
後味の悪い仕事になる、霊夢の予感はそう告げていた。
「ねぇスーさん? あの子供達はもう死んだ頃かしらねぇ?」
鈴蘭畑の真ん中、多くの花弁に覆われた白い丘に、その妖怪は居た。
メディスン・メランコリーははしゃいでいる。
よっぽど昨晩のことが嬉しかったのか、傍らに居る小さな人形に凛々と話しかけていた。
人形は飛び回るだけで声は出さないが、メディスンには意思が伝わっているようだった。
「あら、手加減じゃないわ。一晩苦しむように質も量もそういうふうにしたのよ」
身振り手振りで使用した毒の解説をすると、やはりメディスンの顔は活気に満ちて、周囲の鈴蘭もそれに応えて花弁を揺らした。
数刻前にこの鈴蘭畑に戻ってきてからというもの、ずっとこの調子でいる。
饒舌は冴え渡り、一方的に喋り続けるメディスンに物言わぬ鈴蘭と小さな人形は悠々と付き合っていた。
「コンパロコンパロと一振りすればどんな毒でもたちまち生成できるわぁ~」
指先をくるくる回して呪文を唱える。
「脳を侵す毒、筋肉を麻痺させる毒、皮膚が焼ける毒、骨を溶かす毒。用法用量は正しく使わなければねぇ~。スーさんスーさん、次はどんな毒がいいと思う?」
メディスンは指先の回転を止めず歌うようにして鈴蘭畑で踊った。
花弁が舞い、毒も舞う、少々滑稽な姿でも一向に構いもせず。
リズムもばらばら、ステップもおぼつかない、一見すればよく動く案山子程度にしか思えない。
だが、メディスンは今喜びに満ち溢れていた。
人間を殺した。その事実はメディスンに歓喜の声を上げさせるには充分な事だった。
私を貶し汚し捨てた人間の命を奪ってやった。ころしてやった。
復讐? 違う、これは当たり前の事だ。
人間が私に行った事へのお返しで、大して特別な事ではない。
私の毒であの世に送ってやるのだ、これ程楽しい事は他にあるものか。
これからどんどん殺してやる。私の毒で、皆置いてけぼりだ。
「フフフフフフフフフフフ……ッ」
気味の良い余韻に浸り、メディスンの脳内で毒が生成し精製される。
感情の昂ぶり、その甘美な麻薬により自らの力が強まるのが分かった。
憎しみから妖怪変化に及んだメディスンには、その依存性の高さが手に取るように分かるのだ。
身を任せ、操られていると知っていても尚、その快感の抱擁にはなんとしても逆らいようがない。
それに、内に存在するモノは元々自分の能力に他ならないという自負が少なからずあり、それがメディスンのダンスに一層の拍車を掛けた。
転げるように躓くように、鈴蘭と小さな人形に見つめられながら、とても楽しく踊った。
「あら?」
鈴蘭畑から人里の方角、青雲揺らめく空に遠く人影らしきものが見える。
霞んでしまってよく見えないが、メディスンは見間違うような眼を持っていない。
蛇行しながら飛行しているそれはとても鳥などの動きではなかった。
眼を凝らしそいつを監視する。その飛行の仕方は何かを探しているようにも思えた。
ふらふらふらふら、行き先を決めかねている様はどうにも頼りなげに見える。
「あらら~?」
すると何かに気付き、飛び方にはっきりとした意思を感じられるようになった。
その様子で、散漫になっていた注意が一点に注がれたと読み取れる。
メディスンの見立てが正しければ、あいつはこの鈴蘭畑が目的だ。
用が在るのだ、私の居る鈴蘭畑に、延いてはこのメディスン・メランコリーに。
何をしに来たのかなど、考えるまでもない。ただメディスンの脳内で毒の生成が行われるだけだ。
近づくに連れてその予想も確実性を増し、あいつの様相も分かってくる。
あれは紛う事無く、にんげんだ。
「あら~、スーさん、人間が来たわ。きっとお弔いなのよ、かわいそうにねぇ」
メディスンはまたけらけらと笑った。あどけない笑顔は純然たる感情の表れ。
小さな人形も鈴蘭達も身体を揺らしてそれに応え、メディスンの向こうに見える人間へも視線は注がれる。
姦しささえ感じさせるが、その実、人形の両の眼は来たる人間を凝視し先程までと違う色を見せ、鈴蘭も揺らめいているがその身に溜まる毒は歓迎の代物などではない。
もっとも、そんな様子をメディスンは知る由も無く、人形も鈴蘭も見せはしない。
始終メディスンを見守りつつ、そして監視する。
それは昆虫の幼生に宿る菌糸の如く、近づくのは大胆に、身重のように優しく緩やかに。
最終的なその理由に辿り着くまで、この関係は続くのだ。
しかしメディスンにはそれが必要で、知るも知らぬも大して違いはない。
まだメディスンの世界は始まったばかりなのである。これから人間を殺す為に欠かせないのだ。
例え辿り着いた先がどんな場所でも。
そうやって笑顔の絶えぬ間にも、すでに人間は鈴蘭畑近くまで来ていた。
紅白の着物に変な棒を携えた変な人間。
警戒からか鈴蘭畑のすぐ手前、外縁ぎりぎりの位置に下り立つ。
白々しいほど温和な表情で、最初は辺りを見回していたが、すぐにメディスンに向き直って話しかけてくる。
「貴方が毒を操る妖怪?」
「ん~? スーさん、私ってそんな風に見えるかな?」
「見た目は関係ないわ。どうなのかと聞いてるの」
「そうねぇ、私の眼は綺麗だからねぇ。きっと毒でおかしくなるのよ」
紅白の人間は首を傾げた。どうにも会話が噛み合わない。
「貴方、誰と喋ってるの?」
「私の名前はメディスン・メランコリー、こちらはスーさんよ」
メディスンは鈴蘭畑を背に両手を広げて紹介した。傍らに居た小さな人形も一緒になってお辞儀をすると、人間はその行為に驚いたのか眼を見張るようにした。
「あなたは?」
人形が動くのなんて当たり前なのにと、メディスンは人間の顔が少し面白くて笑ってしまうのを堪えながら問い掛ける。
一息入れるが怪訝そうなのは変わらずに、人間は背筋を正してメディスンを見据える。
なぜかそのまま数秒ほど二人は見つめ合い、なのに人間は溜め息を付いて視線を逸らした。
不服そうなのはメディスンで、口を尖らせるとやっと人間は口を開いた。
「失礼したわ、私は博麗霊夢。巫女をやってるの、知らない?」
「知らなぁ~い。ねぇスーさん、巫女だって」
目配せをして小さい人形と笑い合うメディスン。
その様子に紅白の人間はやはり怪訝そうに眼を細める。
この博麗霊夢を見て逃げ出さない妖怪は案外珍しく、さらに不敵にも笑みを見せている。
一体こいつは何者か、そう思っているとメディスンが言葉を放つ。
「さて、どんな毒で殺そうかねぇ」
その発言は霊夢に確信を持たせるのに充分だった。この妖怪が村を襲った奴だと。
しかしどうにも解せないことがある。
この妖怪は何故あのようなことをしたのか。幻想郷に居る妖怪は誰もが温厚ではないが、スペルカードルールも無しで戦いをすることのデメリットは理解しているはずだ。
正直、当の妖怪を眼の前にしても気が引けるのだ。どうしてあんなことをした。こうなってはやることは一つしかないというのに。
「コンパロコンパロ~、ドウモイゴネリンムシモーロ」
霊夢が考えあぐねいているのに、メディスンは関係ないとばかりに手をかざす。
轟々と弾幕がメディスン周囲に展開され、一斉に霊夢に襲い掛かる。
しかし、その手から弾が発射されても霊夢は身体を構えてさえいなかった。
いや、避ける必要がなかったのだ。そしてそれ故に納得する。
予想通り、弾は霊夢を避けるように飛び去り、着弾したのは遥か後方だった。
博麗の名を知らず、スペルカード宣告無しやいきなりの先制攻撃。
そう、こいつはルールを知らない。
それに未熟だ。
「あれ~、当たらなかったわねスーさん。やっぱり毒で動きを止めないとダメね」
幻想郷のルールを知らなければ、教鞭を振るうのも博麗の御役目。それがすでに後手だったとしても、ならば手早く処理するのみ。
そしてこいつはそれに当てはまり、霊夢の眼の前に居る。
完全な者など居ないけれど、眼前のこいつは不完全過ぎる。
あるのは確かな殺意だけ。とびっきり純粋な意識の塊。
純粋過ぎるものは時に毒になる。この妖怪は危うい。危険過ぎる。
唯一、なぜルールを知らないのかが気になるが。
「死んでもらうわ」
霊夢は陰陽玉を周囲に浮かせ、態勢を整える。
「あなたが?」
メディスンは首を傾げ、どこまでも眼を細くして笑った。
弓張る如く弧を描く口元は、『か細く』紅が引いてあり、尚も眩しい殺意を覗かせる。
後ろで、彼女を見守って広がる鈴蘭畑も同じく笑っていた。
風になびいてざわつく白い花弁が揺れると、その名の通り鈴の音が鳴る。
その音色は乾いた桶が転がるような音で、霊夢はあまり心地良くは感じなかった。
見咎められているようで、此処も落ち着く場所ではないと、寒気がしたのだ。
◇
上白沢慧音は村に居た。寺子屋の引き戸の裏、しかし中も暗いのでその姿は半分も確認出来ない。
今日は雨戸も開けてないから、光が家内に入らないのだ。
いつもなら、今時は子供らの声でにぎわう寺子屋だった。
しかし今朝からここは虫の音も聞こえない、静かな場所になっている。
明日、机を五つ、片さなければならない。
慧音は思うのだ。自分はあの子らにとって良い先生だったか、と。
何もしてやれてないなどとは思わない。もしそうなら、すでに慧音は自ら命を絶っていただろう。
しかし、昨日まであの子らは笑っていてくれたのだ。
これまでも多くの教え子を看取ってきた。
今更感慨は似合わないし、笑っていた子らに申し訳ない。
その事実が今の慧音を支えていて、死んだ子らへのせめてもの弔いだった。
だからこそ、自分は良い先生でなければならない。
自らを端的な流れに任せ、死んだ子らに仇為す行為など控えるべきだ。
そう、復讐などする訳にはいかない。
分かっている、分かっている。
しかして、一体誰が私を止める権利があるというのだろう。
否、それは誰にも無いがその権利の有無だって非道く曖昧なものなのだ。
待て、私の願い、思いはそんなものなのか。この身に湧くのは偽りなのか。
だが。しかし。いや…………。
そうだ、村の警護を放り投げて憎き彼奴の元に行くなどしてはならない。
そう、あの青白い頬を殴り、あの子らと同じ苦しみを味わわせるなどしてはならない。
胸が締め付けられようが、はらわたが煮えくり返ろうが、憎しみで頭がおかしくなろうが。
絶対に、しては、ならないのだ。
だ、だいいち、彼奴の居場所が、わ、わからない。
巫女に、任せる、と、き、決めたではない、か。
ナニヲイマサラ。
「おい、あの妖怪のねぐらが分かったって本当か?」
「ああ。さっき戻った巡回班が報告していた。今は巫女さんと戦ってるって」
「それでどこだよ。近くじゃねぇだろうな」
「北に二里程の鈴蘭畑だ。分かってると思うが、くれぐれも内密にな」
「分かってるよ。上白沢先生にだって知らせねぇよ」
「当たり前だ、さっきの先生の顔見ただろ、下手に刺激したら大事になる」
「角でも生えそうなほどにおっかなかったなぁ。怖ろしや怖ろしや」
上白沢慧音の血の気が引いた。
自分の体温が異常に低くなるのが分かった。
◇◇
鈴蘭畑の攻防は激しさを増し、自然とその弾幕は苛烈になっていた。
互いの弾幕がさらに相手の弾幕を呼び、折り重なるようにして場を形成する。牽制弾と遊撃弾が空間を支配し、唸りを上げて殺意が飛び交う。
そんな中、霊夢の封魔針はメディスンを捉えられず、無下に本数を消費していった。
一本の狙敵範囲はそれこそ針ほどしかないが数が数である。数十本を纏めて壁を形成するように放っているから、ほとんど隙間は無いはずだ。
それなのにメディスンには衣服にさえ一本たりとも刺さってはいない。
ことごとく、その良過ぎる『眼』で避けているのだ。
幾多の針を紙一重で避けて行くその様は、同じく避けるのに秀でている霊夢にしても規格外に感じた。なにしろ自らの弾で相殺もせずに常に最小限の移動だけで回避してしまうのだ。異常である。
故に霊夢だって被弾してはいないし、際限無く応戦している。
しかし、霊夢がどれだけ厚い壁を造ろうが、それを無きに等しき些事にしてしまう。
メディスン・メランコリーにはそれが出来た。
「なんで……なんでなのよ……」
その呟きは弾幕の波の激しさに掻き消されていく。
戦況は霊夢にとって芳しくはない。今現在では優位に立ち回れる条件がないのだ。
たとえスペルを放ってもメディスンはまた簡単に避けるであろう。
試してみないと断言は出来ないが、きっと無駄弾になる。
しかし、芳しくないのはメディスンも同じであった。いや、むしろ狼狽は彼女の方が激しかった。
「なんで毒が届かないのよ……ッ!」
またもその言葉は弾幕の波に打ち消されていく。
メディスンの顔は焦りの気色に染まっている。
先程からどんなに毒を撒いてやっても霊夢には届きさえしないのだ。
霊夢に向かって放っているはずなのに、どうしても戻って来てしまう。
一方霊夢は涼しい顔をして弾幕を避けている。
こちらの弾も相変わらず当たらないが、一先ずはそれだけのこと、メディスンの弾幕は容易に避けられる程度だし、持久戦は嫌いだが不得手ではない。
じっくり焦らず攻略の糸口を探す、これまで戦ってきた通りに事を成すだけだ。
メディスンの撒く毒にだって、特別対処していることなどはない。
強いて言えば風向きを常に意識しているぐらいなものだ。
それなのにメディスンはやけに焦燥しているように見える。
もしかして風向きの関係が分かっていないのだろうか。もしそうなら、
「とんだお馬鹿さんね」
いくらなんでも、と思うが風に向かって毒を放つばかりで自分の立ち位置を変えさえしない。ずっと鈴蘭畑を背にした範囲を動こうとしないのだ。
風のせいで自らの毒が相手に届かない、この簡単な図式を理解していない。
メディスンの行動はそれを窺わせた。
つまり霊夢の眼には馬鹿げた戦い方にしか写らない。
「こっちにとっては好都合だけど、気を緩めないようにしないと」
もちろん、情けは掛けない。風があるから……とか、忠告もしないし、メディスンの頭が弱いからと決めつけて侮りもしない。
勝ち戦こそ慎重に、自分の弾幕はパワーが不足してるのは重々承知してるからこそ、勝負に急ぐことなどしない。
普段の『ごっこ』ならばいくらか余裕はあっても、これは命懸けの決闘だ。
命を取る覚悟の中に、己の命を失う事態も含められる。
必ず勝たなければならない、そういうことなら霊夢はメディスンより頭一つ以上飛び出していた。
「くそぅ、どういうことよ。え? スーさん助けてくれるの?」
メディスンのすぐ横まで小さな人形が寄り添ってくる。
その妖怪達の姿になにやら隠し事をする少女のような、慎ましく微笑ましい光景が霊夢には見えた。
知らなければ人形と仲良く話す女の子だが、話の内容はきっと霊夢を殺す算段だろう。
こんなもの、悪趣味にも程がある。
「なるほど、スーさんは頭が良いわ」
納得したのか、人形の作戦に快諾したメディスンは小さく頷いた。
あからさまに何かしてくると思い、霊夢はどうせ当たらない弾を撃つのを止め、迎える姿勢をとる。
だが、またもメディスンは毒を放ち愚行を止めなかった。
相変わらず霊夢、つまり風上に向けているので全部自分のところに押し返されている。
さすがに少々呆れたが、一緒にメディスンの弾も飛んでくるので気を抜かない。
そうしている内にメディスンの周囲は毒煙だらけになり、やがて姿も見えなくなってしまった。
先程はそれでも自身の周囲が見えなくなるのを嫌ってか、これ程まで毒煙をばら撒いたりはしていなかったのだが、思惑を計りきれない霊夢はまたも怪訝な顔になる。
「眼眩ましかしら……」
もしそうなら、どちらかと言うと現状ではあまり効果的ではない。
何故かは分からないが、メディスンは鈴蘭畑を背にして動かないという仮定があるので、姿が見えないからといって霊夢の立ち位置に対して回り込んだり、遠くに行ったりはしないはずだ。
「……ッ! まずいッ!」
まさか逃げる気か、と霊夢の頭によぎる。
ここで逃がせば厄介だ。また人里に奇襲を掛けられでもしたら被害が増える。
加えて霊夢を上回る回避能力を供えていてはそれだけで脅威だ。
一瞬、間を詰めようと前に飛び出す。
しかしそれと同時に毒煙の内側からも飛び出てきたものがあった。
それは霊夢に向かって飛んで来たので、面喰らって急停止する。
「なにっ?」
丁度子供が抱えて持つくらいの大きさのが複数、色はどす黒く禍々しい。
どうやらメディスンの放った弾のようだ。ゆっくりと、だが確実に霊夢に向かって来る。
不思議なほど遅いスピードでつい触ってしまいたい衝動に駆られるが、触れる訳にもいかず、弾に対して軽いジレンマを抱く。
それでも霊夢は弾の発射方向からメディスンがまだ毒煙の中に居るのを知り、少なからず安堵した。
「安易に近づかない方が良さそうね」
霊夢は大きく迂回するようにその弾を回避する。
弾は変わらずゆっくりと通過していき、軌道が曲がるわけでも、追尾してくるでもなく後方へ流れていった。
それを眼で追ってるのも束の間、毒煙の中から今度は小さい玉が突出してくる。
編隊を組むように迫る弾幕。だが避けられないほどではない。
僅かながらも存在する弾幕の穴を確認し、身体を通す。
第二波、第三波と余裕を持ちながらこれらもなんなく回避。
こちらも反撃を、と身構えたとき、霊夢の死角からどす黒い塊が現れる。
「……ッ!?」
予期せぬ事態だったので身体の一瞬の硬直はどうしようもなく、それを横目で捉えた瞬間、霊夢の脳内での思慮が行動の遅れを招いた。
避けるという反射行動よりも、それは何なのかという解析の思考回路が働いてしまって身体の動きが鈍ったのだ。
よく考えてから行動するという癖が裏目に出てしまった。
まさか、そんなはずはない、そう思う頃には、もう霊夢の左半身は覆われていた。
そう、霊夢の死角から現れたものは、毒煙であった。
「うああぁぁッ!」
激痛と共に吐き出される悲鳴。焼かれるような痛みが霊夢を襲う。
霊夢の左腕と左脚、肌が露出している部分が赤く腫れ上がっている。
歯を喰いしばり声を我慢するも、腫れた自らの身体を見て思わず顔が引きつった。
「あははは~、やっと毒が届いたみたい。スーさんやったわねぇ」
眼の前の毒煙からメディスンが姿を現した。
その顔はすでに勝利の余韻を楽しむかのようで、霊夢の弱った姿に見惚れているようでもあった。
「さっきあなたが避けた弾、あれの中に毒を仕込んでおいたの。わざと避けさせて後ろで見えなくなったらポッと開くようにしてね。毒煙に隠れたのはその様子を見せない為、まだ慣れてないから作るのに時間が掛かるの」
「……そんなことほいほい言って、私はもう同じ手には引っ掛からないわよ」
「ふふっ、もう充分よ。ところで毒のお味はいかがかしら? それは皮膚を爛れさせる毒。それだけじゃつまんないから痛覚と温度覚を敏感にさせる成分も含んでみたの。きっと焼けるような痛みと熱さでしょうねぇ」
まるで紅茶のブレンドを説明するかのように毒の紹介をするメディスン。
付随している小さな人形も手足を小刻みに揺らしている。
霊夢はその光景に喜劇を連想したが、この痛みは本物で、自分にとってはこれは悲劇と思い直した。
メディスンの言う通り、見た目よりも数倍の痛みを感じる。肌を撫でる風にさえ耐えなければならないほど感覚が鋭敏になっていた。
これはまずい。動きが鈍るどころでは済まなくなる。
「……ちょっと、ずっとこのままってことはないでしょうね?」
「えぇ~? きっとそのうちたぶん、元に戻るわ」
一応聞いてはみたが、やはり信用できる回答は得られなかった。
現に痛みは引かないし、額に意識せずともじっとりと油汗が浮く。
このままではちょっとした動きさえ苦痛に感じるだろう。
「大丈夫よ、命がどうこうと言うような毒じゃないから。それより今は貴方の顔を楽しみましょうよ、痛みで歪んだその顔を。ねぇ、スーさん」
メディスンと小さな人形は顔を合わせてはしゃいでいる。
霊夢にとって、これほど喜劇めいた光景はない。
相手の出方を窺い、底が見えようと自惚れずに強かに務めていたはずだった。
油断していたわけではなかったが、結果、この状況である。自らに余裕と優位性を持ち合わせ、考えた末に『まだ勝負の決め時ではない』という結論。
だがその実、メディスンの監視に心を囚われその裏をかかれたのだ。
これでは村の者に顔向け出来ないし、あの八雲紫にだって何を言われるか知れない。
霊夢は思う。そのスキマの妖怪は例え霊夢がこのまま攻撃されようと出てくることはないだろう、と。
きっとあいつはこの場を覗いている。
だが出てくるのは霊夢が本当に危機に陥った場合だろう。
その頃には手足の一本や二本、無くなってるかもしれない。
想像するだけ不毛だが、これもまた現実、己の未熟さは後の説教で聞けばいい。
最悪、その説教さえ聞けないかもしれないので、霊夢はもう逃げ場は無いと決心した。
もとより逃げるつもりなど無かったが、今はその余裕も無い。
ここからは全力でやる。出し惜しみは無しだ、きっと無様であろうが、死ぬよりマシだ。
その時、霊夢の思考にある疑問が浮かぶ。もちろん声には出さない。
(そう言えば、あいつはなんで鈴蘭畑から動こうとしないんだろう……)
さっきから気になっていたが、いざ考えてみるといかにもおかしい。
メディスンは戦闘中でもいやにそれを意識していたようにも思える。鈴蘭畑を中心にして円を描いて動き、霊夢が風上に陣取ってからはその場から殆ど動こうとしない。
頭は弱いがその割りに毒入り弾のような妙案を使ってくるのも納得がいかない。
村を襲った時だってすぐに逃げ、この鈴蘭畑で待っていたかにも思えるし、思考と行動がまるでそれぞれ別人のもののようだ。
なにやら奇妙な喰い違いが垣間見える。
安直な言動、こちらの裏をかく作戦。そして正直気に喰わないその驚異的な回避能力。
霊夢はさらに様々な事も考慮に入れなければならない。
だが、そこに試してみる価値のある事柄が隠れていた。
「私はねぇ、ちょうちょうになるの」
「……はぁ?」
突然のすっとんきょうなその発言に、霊夢は思わず思考が吹き飛びそうになる。
飢えた者が聞けば飛びつきそうな甘い声を出し、メディスンはその視線を空に向けている。
霊夢が攻撃しないと判断しての行為なのか、それとも声質同様、天然の成せる事なのか。
きっとメディスン自身も意識していないのだろう、向けている視線は空よりも先を、遥か彼方を見ているように焦点は曖昧だ。
「ちょうちょうが死んだの。私も殺したわ、でも私は違う。あなたみたいなカマキリにだって負けない」
何を言ってるのか、意味が分からない。
「これからも人間を殺し続けるし、いつかこの鈴蘭畑からも飛び立つわ」
瞬間、付随していた小さな人形に今までにない雰囲気を霊夢は感じた。
それはなにか、とても寂しそうな、それでいて憎しみにも似た視線であった。
視線は言葉を発したメディスンに注がれ、頑なに外しそうになかったが、当の本人はその事には気づかずに空を仰いでいる。
「……蝶々? どっちかって言うと蛾じゃないの」
「ガ? ガってなに?」
「あんたみたいに毒を吐く虫のことよ。似てるけど蝶々じゃないわ」
「そんなもの知らない。……じゃあこうしましょう、毒を吐くちょうちょうになる、いいじゃない?」
「だから、それだと蛾なんだってば」
もちろん霊夢に昆虫の知識なんて無い。今のは一般的なイメージを述べただけだ。
きっとそんなに大差無い。
そうこうしてるうちに霊夢の我慢も限界に達しようとしていた。
左腕と左脚の激痛はもはや動かすこともままならず、もう空中移動さえいくらも出来ないであろう。
今すぐ叫ぶことが出来れば楽なのだろうが、そんな暇も無い。
こちらにも妙案がある。効果があれば形勢逆転、無ければ今度こそ万事休す。
どちらに転ぶか、正直計りかねる。
だが、やつはもういつでも殺せると油断している。形振り構っていられない。
「さて、どう殺そうかスーさん……」
メディスンが小さい人形に話し掛け、霊夢から視線が逸れる。
その一瞬を見逃さない。
動く右腕で素早く印を組む。
「無題『空を飛ぶ不思議な巫女』ッ!」
「いやぁね、急に大声出して。みっともない」
「癖よ、気にしないでちょうだいッ!」
そう言う霊夢は眼を瞑って力を集中、すると大量の御札が周囲に現れ一斉に放たれた。
その数は生半可ではなく、向けられたメディスンにとっては見える範囲全部が御札だ。
御札は雪崩のようにメディスンに襲い掛かるが、やはり軽く避けられ、しかもその大半はメディスンに当たらず後方へ飛んで行く。
「もう、ヤケクソね、ヤケクソなのね。本当にみっともないわ、ねぇスーさん」
メディスンは霊夢のその様に哀れみの言葉を吐く。
それでも霊夢は御札弾幕を放ち続ける。
痛みを堪え、必死に力の放出に集中していた。
「……あら?」
弾幕を余裕で避けていたはずだった。
だが、メディスンは気づいた。
洋服のスカートが裂けている。
たまたま当たったのか。
いや、メディスンは例え意図しない流れ弾にでも当たらない『眼』を持っていた。
絶対に当たらないと自負しているのだ。だが、
「イタイッ!」
当たる。
今のは左の脚先、思ったよりも弾が重い。
馬鹿な、自分が敵の弾などに当たるなんて。
「アァッ!」
一発目でバランスを崩し、立て続けに二発、脇腹と肩に喰らう。
当たる、当たってしまう。
正確には避けられないのだ。今まで手に取るように弾の動きが『見えて』いたのにそれが分からない、飛んでくる弾が自分に当たるのかどうかも分からない。
なんとか体勢を整えて必死に避けるが、眼の前全てが弾幕のこの状況で、メディスンは浮かび上がった感情に戸惑いを覚えた。
なんだ、これは。
迫り狂う弾幕。押し寄せる御札。
これは疑いもなく、恐怖。
左上方、袈裟斬りのように降ってくる御札が、振り下ろされようとしている鎌に見えた。
「ぎゃああぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
それは耳を劈くほどの叫び声だった。
喉の奥、腹の底から弾けた感情は、未熟なメディスンでは抑えることなど出来ず、ただただ、吸った息の続く限り悲鳴を上げるだけだ。
霊夢にその声は届かない。消耗している為、弾幕を形成するのに集中しているからだ。
では、一体誰にメディスンの声は届くのだろうか。
「あああぁぁぁ……いやああぁぁぁぁぁッ!」
鈴蘭畑か、それともいつでも側に居た小さな人形か。
もしかしたら、こんな妖怪にも手を差し伸べてくれる神様か閻魔様くらい居るかもしれない。
あの狭くても青々と視界に入る空にだってこれほど叫んだ事は無い。
メディスンを置いてけぼりにした太陽や月に星、ガラス玉に映った全てに心の底から救いの声を。
その昔、捨てられた人形に助けを呼ぶ勇気があったなら、見える全てへその身体を投げ出せる勇気があったなら。
メディスンは叫ぶ。誰かにこの声が届くまで。
例え今は、自分にしか聞こえてなくても。
なおも霊夢の放った弾幕は、容赦なくメディスンに襲い掛かる。
右腕に直撃、肘から先は失くなった。
左脚の脛と太腿に連続して当たる、左脚が丸ごと持っていかれた。
脇腹にも直撃、抉り取られて大きな穴が空いた。
洋服がはだけて裂け、煌めく髪が引き千切られ、メディスンの形は削られていく。
まるで糸が切れた操り人形のように、くるくるくるくる回転しながら。
そして踊り疲れて、もう動けないよと、その姿は弾幕の中に掻き消えていった。
痛みのせいでだらりと身体をしなだれさせる人間が一人。
結局、弾幕はパワーなのだろうかと、霊夢は考えていた。
最後に放った弾幕、自分なりに最大出力でやったつもりだが、それでも魔理沙のには到底及ばない気がした。
やっぱり自分にはパワーが足りない。重々承知していたがこの戦いで再確認した。
しかしその魔理沙は霊夢の天賦の才を羨んでいる節があり、二人とも結局は無いものねだりになってしまう。
自分に無いものを求めるのは精進の表れか、それとも業突く張りの考えか。
いづれにしても勝負に勝ちはしたが、課題の残る戦いであった。
「あ~、痛いわね。まったく勘弁してほしいわ」
霊夢の眼前には広々とした荒れ地が見える。
そこは先ほどまで鈴蘭畑だった場所だ。今はその面影どころか微かな香りさえ感じられなくなっていた。
香ってくるのは耕された土の匂いだけで、ほとんど赤茶色しか見えない。
だが、霊夢にはかわいそうだとはとても思えなかった。むしろさっぱりして清々している。
なにしろ、あの鈴蘭達がメディスンの『眼』だったのだ。
「ま、どういう理屈かなんて知らないけど」
痛む腕と脚を庇い、メディスンが沈んでると思われる箇所へ向かう。
霊夢が睨んだメディスンと鈴蘭達との関連性、それは攻守の役割分担だった。
攻め担当はメディスン、触れれば行動を奪うものから致命傷を与えるまでの毒を吐き、その隙に弾幕で攻撃する。
そしてあの鈴蘭は防御担当。
花房一つ一つが意志を持ち、妖怪化しているのだろう、敵の弾を見定めメディスンに回避の指示を出す。
あの数であるから、統制を執るにしてもメディスンが行っていたとは思えない。おそらく、鈴蘭畑まるごとが一個の妖怪であったのだろう。
『眼』だけの妖怪。それを大きな複眼と捉えれば、個眼の数が多いほどその動体視力は高い。きっと霊夢の放つ弾幕がほとんど止まって見えてしまうほど。
それがメディスンの驚異的な回避能力のからくりであった。
だから、霊夢が放った大量の御札の主な目標はメディスンではなく、その後ろの鈴蘭畑だった。
弾幕により鈴蘭畑が徐々に荒らされていくと、やはりメディスンにも弾が当たり始めるようになった。
そこからはまさに雪崩れ込むようにして勝敗が決していった。
メディスンは終いには自ら弾幕にその身を投じて埋もれていったように、霊夢には見えた。
「…………居た」
小ざっぱりしている荒地にメディスンが横たわっている。
その身は先程までの姿とは似ても似つかないくらいだった。
服はボロキレ同然、ほとんど着てないようなもので、ほんの僅かだけ身体を隠している。
身体と言っても四肢が砕けどこかへ失ってしまい、胴体だって穴だらけだ。
なのに顔の方は不思議と綺麗で、瞼の開け放たれたガラス球が空を仰いでいた。
「なんだ、貴方も人形だったの」
砕けた四肢の先、霊夢の視線は自然とそちらへ向かってしまう。
そこには血ではなく、何かけばけばしい色をした液体が空虚な穴から流れていた。
肉や骨といった生物的なイメージは無く、筒のような四肢が胴体にくっついている。
半端に人の形が垣間見えるせいで、余計にお人形という事実が際立っていた。
霊夢はそこから視線を逸らさず、メディスンに言う。
「これ以上は忍びないでしょ。止めを刺すわね」
一体誰が忍びないかは霊夢には分かっていた。
だがこのまま放っておくわけにもいかないし、最後ぐらい情けを掛けてやりたい。
あくまでも止めは冷淡に、後味は濁さないようにしなければならない。
それが自分勝手なことだとも、霊夢には分かっていた。
「……わたしはねぇ、ちょうちょうになるの」
霊夢が動く方の手を掲げたとき、メディスンが口を開ける。
口は開いてるが、その声は身体に空いた穴から響いているかのようだった。
実際、言葉に合わせて動いていなかったのだ。
「ちょうちょうになって空を飛んでね、あの太陽に行くの」
「またか。貴方は蛾よ、そしてここで死ぬの。どこにも行けやしないわ」
「死ぬ? 私が?」
メディスンの表情はぴくりとも動かない。もうすでに元の人形に戻りかけているのだろう。
かろうじてその声の調子を読み取り、感情を窺い知れることが出来る。
どうやら、霊夢の言った事に対して理解出来ないと言ったふうだ。
「そうよ、もう貴方には力が残って無いでしょう。鈴蘭だって粉々よ」
「いやよいやよ、死にたくない! 私は死にたくないッ!」
突然、それまでの言葉とは対照的に、メディスンは落ち着きを無くして息を荒げた。
ようやく自らの今後の処遇に気付いたのか、動揺を隠せないで騒ぎ立てる。
「わたし、わたしは、昨日やっと動けるようになったのよ。気持ち悪くなるほど時間を掛けて、やっと私の世界を手に入れたの! それがこんな……!」
「お気の毒にね」
「人間に勝手に愛されて勝手に捨てられて、それで人間を殺したら今度は私が殺される? どうしてよ、じゃあ私はどうすればよかったのッ!」
「幻想郷では貴方の存在は許されないの」
霊夢は語気に力を込める。
「そんなのあなたたちの勝手じゃない、私には関係ないわ」
「人間の子供を殺した。それによって『憎しみ』っていう関係が出来上がるの」
「私だって人間が憎いのよ。あなたはなんなのよ!」
「私は博麗の巫女、妖怪退治が生業」
「そんな、そんなの……」
「ちょうど貴方のような、この幻想郷に邪魔な存在を滅する。毒を消す薬よ」
「邪魔ですって……?」
――――あの人形が邪魔でこの子が飾れないの。
人間はそう言って、メディスンを棚の隅に片手で退けた。
暫く掃除の行き届いていないその場所は、溜まった埃と蜘蛛の巣が張り、綺麗なドレスが煤けた。
それからメディスンの居場所はクローゼットの中、倉庫の奥へと追いやられ、そして時間が経つに連れて誰の記憶からも抜け落ちていった。
忘れられた者の行き着く先はこの幻想郷。
気付いたら鈴蘭畑で横たわり、その美しいガラス球で空を見上げていた。
久しぶりに見た青い空なのに、メディスンは。
「邪魔じゃないわッ!」
メディスンの顔に生気が戻り、その眼で霊夢を睨みつけた。
「スーさん! スーさんどこ? 早く教えて、こいつを殺すの!」
「あの小さい人形ならもう居ないわよ。逃げちゃったんじゃないの?」
小さい人形の姿は霊夢が攻撃し始めた時には、もう影も形も無かった。
あれも妖怪だったのか、メディスンや鈴蘭畑とはまた別個の存在だったようだ。
後で探し出して滅さなけばならない。
スーさんとやらが居ない事を聞いたメディスンは、それでも頭を必死に振る。
「なんで返事してくれないの? ねぇ私は動けないのよ、ねぇ!」
「やっぱり貴方は操り人形なんだ」
「だから何よ! たとえそうだとしても、私は死なないし人間を殺すわ」
変わらず頭を振って何かを探してるメディスンに、霊夢は哀れさでつい眼を細めた。
眼の前の半分壊れた人形は、如何にしてこの幻想郷に落ちて来たのか。それを想像するのは虚しいことに思えた。
この人形の人間に対する憎しみは純粋だ。
仕方が無かったとか、言われぬ理由があったとか。そのような心の澱みや濁りが全く無い、精神的に整然とした、書棚にある本全てが人間を殺す内容ばかりのような、そんな感情を持っている。
毒を操るという能力にもその心理が表れているようで、そのベクトルが向けられているのは人間であって原因を作ったのも人間だったから、霊夢はメディスンの毒を被ってしまったことを少なからずも失敗だったとは思わなかった。
これから死ぬメディスン。魂も残さず滅するつもりだ。
それならば、何かしら後悔の言葉でも言ってしまってくれたら、気が楽かもしれない。
もちろん、それは人間側の勝手な解釈だとは知っているのだが。
「こんなの、こんなのないわ。死にたくない、死にたくない」
「貴方にそれを言う資格は無い」
霊夢は一層メディスンを突き放して、今度こそ止めを刺す為に力を集中する。
御幣がそれに呼応して風もなく揺れると、メディスンは俄然として黙ってしまった。
諦めがついて観念したのだろうと、霊夢は解釈する。
その様は絶望一色で先程と逆に萎むように表情が消え、見ているとこちらにも移ってしまいそうだ。
「さあ、いま楽にしてあげるから」
自虐の意味も込めて霊夢は最後の言葉を放つ。
だがその言葉は宙を切ってしまってメディスンには届かない。ただ一言、
「――知らなかったのよ」
霊夢の動きがそれっきり止まってしまった。
知らなかった。そう知らなかったのだ。
メディスンは生まれたばかりの妖怪でまともに弾幕も張れないし、スペルカードも手にしてない。
幻想郷のルールをまったくと言っていいほど知らないのだ。
こちらに来てから数十年、側にいたのは鈴蘭ばかりだったのに人間に対する憎しみは減らず、あげくにそれを利用して手駒にされる。
この結果は自ら招いたことだとしても、力を与えた者が他に居て何も知らずに行っていたとしたら、このメディスンに果たして罪はあるのだろうか?
ただ感情にまかせて行動しただけではあるまいか、空腹を満たす事や欲求に応じただけのことではないのか。
それを第三者である霊夢が、しかも片方の言い分のみで動いてもう片方を滅するなど、あってはならないのではないのか。
少なくとも、自分が手を出してはいけないことだったと、霊夢は心に浮かび上がらせてしまった。
波紋は波紋を呼び、やがて精神の隅々まで広がってしまい、身体の自由さえ奪ってしまう。
無知は罪か。それとも罪故に無知なのか。
こんなことはあの閻魔様にでも押し付けてしまいたいが、生憎とこれは霊夢の眼前での出来事で、逃げ出すことなど出来ない。
「…………」
次の一手が出ないまま、背中に湧き出た汗は腰で止まって巫女の衣装に染み込む。
メディスンは先程の一言を呟いてから口を噤み、空を見上げている。
まだ正午前の涼しいくらいの空気が覆っていて、動かない二人が佇む荒野は不自然極まりない。
この雰囲気ならば振り上げた手を下げる事も出来得るのではないかと、馬鹿な事を一瞬でも考えた脳みそを振り、霊夢はそれでもそれ以上のことを出来ないでいた。
自らの歯痒さに辟易としていると、微かにメディスンの表情に変化が現れた。
何度も瞬きをし、時折りぐっと瞼を閉じて力を込める。
メディスン本人にも理解しがたいのか、戸惑うようにその大きな瞳を煌めかせた。
霊夢は己の眼を疑った。いや、眼の前に起こった事が信じられないのだろう。
メディスンの瞳、どこを探そうが他に無い、一品物の綺麗な眼から涙粒が累々と溢れ出ているのだ。
形を持たない宝石のような、光を帯びて輝く特大の涙粒。
それはきっとメディスンの想いなのだろう、望みなのだろう、頬を伝うものは嘘ではないのだから。
霊夢の心は完全に瓦解してしまって、もう御幣をかざすことすら出来なかったが、そんなことはどうでもよくて、ホッとしてしまっている自分に呆れていた。
これでどうにかなるのではないか?
そんな安易な希望を抱いてしまったが、もしかしたらと感じるのだ。
メディスンがゆっくりと口を開く。そうだ、次のその一言で全てが変わるかもしれない。
今は荒れ果てたこの場所にもまた花が咲くし、この毒に侵された傷みもそのうち消えるだろう。
少しくらい良いではないか、この人形に温情を掛けたって良いではないか。
今まで救いの言葉も言わなかったメディスンが、私の眼の前で言うのならば。
そうだ、言ってしまえ、この私が諦める事の出来得る言葉を、私を止める言葉を。
「…………わたしは、
言葉と共に涙を煌かせた瞬間、メディスンは砕け散った。
胴体に突き刺さるように弾が飛来し、爆散、霊夢の眼の前で四肢どころか全てが粉々になる。
喋りかけて開いた口も、涙を流していた眼も、一瞬にして散って霊夢の網膜に焼きついた。
霊夢自身、眼前の出来事に愕然としたのだ。本人などその事実に気付いても、いや、感知出来たかどうか、それすら危うい程の一瞬間である。
考えるも感じるもない、突然の惨劇は無情に何もかもを奪い去るのみ。
振り上げられた鎌が今メディスンに届いたのか、叫び声を上げる暇も無く、自らは知る事も無く、裁断が行われた。
本当に何もかも、その存在をも失ってしまったメディスンを、霊夢は網膜を通り越して脳に記憶に、焦げ付くように刻んだ。
昨日生まれて今日死んだその生を。
未熟過ぎた面影を残し、人間を憎んだその姿を。
辺り一面にメディスンの破片が散らばっていく。
想いも言葉も微かに見えていた望みも、夢だったかのように消えていく。
霊夢の耳には残っている。メディスンの最後の言葉が。
「誰だッ! メディスンは……ッ」
視線を振った先に人影があった。
この場から人間の里の方角、ちょうど霊夢がやって来た方向に、メディスンを殺した者が居た。
そいつは殺したなどとは思っておらず、当たり前のことを為したまでだと仁王立ちで霊夢を見つめている。
いや、霊夢ではなく、今は砕けて変わり果てたメディスンの破片を見ていた。
睨んでいる、の方がしっくりくるかもしれない。尋常とは思えないほどに眼光は鋭く、刃のような視線をそいつは投げつけてくる。
「これはどういうことだ、博麗の巫女よ。お前に任せてよかったのではないのか?」
そう言う者の口調は棘を帯びて霊夢に突き刺さる。
一眼振り向いてすぐに誰か分かったが、こうして近づかれるとあまりに豹変してしまっているので別人にさえ思えてくる。
遠くの方がシルエットでしか確認できないので曖昧にでも本人だと分かるのだ。
今眼前に居るのは、普段霊夢が知っている人物とは似ても似つかない表情と雰囲気、そして殺気を放っていた。
この者は焼け爛れた記憶を清算する為、この場に馳せ参じたのだ。引き止める村人を振り払ってまで。
そうして霊夢の眼の前に立つ上白沢慧音は、今や人としての面影を留めていなかった。
それはもちろん表面上ではなく、彼女が放つ雰囲気や気迫が霊夢の知っているそれとはかけ離れていたからだ。
神社で見た鬼の形相とは別に、満たされたかのように不穏な、自己満足にも似た不気味さを感じるのだ。
まさか復讐を為し得て歓喜に浸っているのではないだろうな、と霊夢は思い至る。
亡くなった子供達はみな慧音の教え子だ、あの憎しみが迸る様を見るに、復讐心に駆られてしまうのには容易に想像出来るが。
「そうよ、そのような取り決めであったはず。なのに、貴方こそどういうことなのよ」
その気配に負けぬようにと、霊夢も凄んで対立する。
神社では臆したが、この場で、この行為を許すわけにはいかない。
「ではなんだあれは? 子供達の仇を眼の前にして、悠長に手を掲げるばかりで撃ちもしない。妖怪の退治屋が聞いて呆れる。情でも移ったのか?」
「……いつから見ていたのよ。取り決めをちゃんと守りなさい」
「ぼけっとしていたようなのでな、私が代わりに手を下したまでだ」
慧音が見下した先にはメディスンの破片がある。
霊夢の眼がおかしくなければ、慧音の口元は薄く吊り上って見えた。
だが、次第に震えを帯びて崩れてしまい、途端に語気を荒げる。
「そうだ、殺してやった。仇を、あの子達の仇を討った、貴様が何もしないから!」
詰め寄り、霊夢の襟口を強引に掴み上げる。
思った以上の強張った力でやられたので、毒の痛みで霊夢の顔が引きつった。
つい庇うように仰け反ると、慧音はそれを見越して痛がる霊夢の腕もその手で掴む。
「あうぅ、いっ……!」
「あの子達の苦しみはこんなものじゃない、いや、それすら今は感じられないんだぞ!」
掴んだ手が小刻みに震えている。力んでるからではなく、耐え難い何かに耐え忍んでいるかのように。
上白沢慧音は泣いていた。
大粒の涙をぼろぼろ流し、下顎も震わせて、慧音は霊夢を睨みつける。
「貴様が、何もしないから……! 私がこの手で、この手を、この手が……!」
それは大きな涙粒で、慧音の中に在るものを吐き出してしまおうと溢れかえっている。
霊夢の頬にも打ち付けるように降り注ぎ、その湿った感触で毒の痛みが和らいだ気がした。
だが、慧音の痛みが今後和らぐことなどないのだろうと、霊夢は思う。
「村でこいつの居場所を聞いてどうしようもなくて……!」
その零れ落ちる涙に、霊夢は見覚えがあるのを感じた。
つい先程、あの人形から流れていたものとまったく同じではないかと。
「……ここで姿を見た途端、私の中で何かが生まれたんだ」
慧音の涙は止め処なく溢れ、きつく吊り上っていた眼は赤く腫れ上がって萎んでいる。
霊夢には以外であった。いや、自分が当人ではないからそう思えるだけで、実際は当然の事なのだろうと思い改めた。
それとは別に、霊夢は不思議に思うことがある。
慧音の涙もメディスンの涙も、何故こんなにも美しいのかと、宝石のように輝くのかと。
「いや、子供達が亡くなったときには既に生まれていたんだ。私はそれを抑えようとした」
何が溢れているかは理解している。これでも人並みの心は持ち合わせているから。
感情の吐露、見た目通り形の無い物は同じく形を成さないモノに支配されている。
それは想いであったり感情であったり望みであったり、涙は形状を持たぬ故に心に染み渡り、そして容易に溢れ出す。
増えるも減るもそれ次第で、注ぐも拭うも全てそれに支配されている。
「でもこいつを見て、その何かが私から溢れ出た。怖くて、怖くて……! 何を今更、お前の気持ちはすでに固まっているではないかと、呟くんだ……」
この世の生き物は全てそんな曖昧なものに支配を受けて生きている。
逆に言えば、その支配から脱却することが死するということなのだろうか。そういうことなら、涙がこんなに輝く理由も視えてくる気がした。
死に至ると支配から抜け出せるなら、自らを進んでその支配下に置いてしまえば、望んで享受すれば、生き物とは良く出来ているものでそれだけで余すところ無く全てを吐き出せるのだ。
全てとはすべてである。自分の中に在る何もかも、魂と呼べるものさえ溢れさせる事だって可能なはずだ。
慧音の涙もメディスンの涙も、すべからく魂の輝きなのだろう。
「私は、自分が何を思って何を考えていたのか。分かるんだ、どす黒くて醜いものが私の中で息づいている、それが恐ろしくて仕方がなかった……! 誰かに助けて欲しかった……ッ!」
「……助けて、そうね助けて欲しかった。あの妖怪もきっと、同じ気持ちだったのよ」
「…………ッ!!」
力無く、そして項垂れるように慧音の手が霊夢から離れる。
そうだ、先程以外だとは思いもしたが照らし合わせれば当然なのだ。
両方の魂の輝きを見た霊夢は、その美しさの影にある形の無いものを捉え、それが同じ質のものであると分かった。
殺し殺されの、倶に天を戴かずの関係であるのに、どこか見えないもので繋がっていく。
必ずしも正しくない、かと言って誤っていた訳でもない、未練だけが残像を映し遺す。
そう、慧音とメディスンは同じ理由で泣いている。
助けて欲しいと魂を溢れさせているのだ。
慧音は今や普段の精悍さを留めていなかった。
ただただ泣き崩れ、膝を突き、凍えるように身を震わせて。
吐き出してしまえばいい、と霊夢はそっぽを向いて己の身の痛みに耐えている。
私の分まで。
…………。
……わたしの前で誰かが泣いている。
見覚えがある、でも思い出せない。……かわいそうだと思う。
…………。
……あ……ら。
霊夢と慧音の姿を見つめる、一つの眼があった。
慧音に砕かれたが、なおも見つめ続けるメディスンの美しいガラス球だ。
その漆黒を帯びた瞳孔の中の二人の姿は、水面に写り込んでいるようにゆらゆら揺れている。
すらりと細くなったかと思うと、とみに幅を増して形容し難くなり動きに規則性が無い。
光の屈折によるイタズラに、瞳孔の周囲にある虹彩も色鮮やかに賑わいを増す。
だが、ガラス球はそれを愉快だと感じる事が出来なかった。
メディスンの魂と呼べるものは、もうほんの少ししか残っていなかったのだ。
見つめる眼に感情は無い。
考える事も想う事も出来ないで、ガラス球はゆらゆらと輝いている。
しばらくすると、いつまにやら慧音の影が消え、霊夢のみが一人取り残されていた。
辺りを見回していたが、やがて霊夢も飛び去ってしまう。
追う事など出来ない。
メディスンの世界が暗転する。
◇◇◇
三日後、博麗霊夢は寝汗の不快感と壮絶な空腹感に促され神社の布団の中で眼を覚ます。
心配する魔理沙を押し退け永琳の薬を苦いから嫌だと跳ね除け、うなされること三日間。
ようやく楽になった霊夢の顔を魔理沙が覗き込んでいた。
にやにやした顔の魔理沙に、霊夢は口で息を吹き掛けて退けと促す。
「いやはや、担ぎ込まれたときはあわや遂にと思ったが。私に感謝するんだな」
「なんであんたに感謝しなきゃならないのよ」
にやけた顔が一層ほころび、歯を見せてうしししと腹を抱える。
例え桶屋が儲かろうが地球の反対側で嵐が起きようが、寝ている霊夢に薬を飲ませていたなんて、蟻の溜め息ほども言う気はないのだ。
勝手にやったことで借しを作っては霧雨魔理沙の名が霞む。
「ところで人形を探すんだったよな。手伝うから今度奢れよ」
「まだ手伝ってなんて言ってないし、毎日お茶タカりに来るくせにだし」
「病み上がりなんだから好意には素直に甘えるのが長生きのコツだぜ」
正直、望まれようが望まれまいがお節介はするつもりだったし、借りなんてオマケみたいなもの。要は自分の好きな事が出来るかどうか、それが最重要、最優先。
未だ眼を細めたままで魔理沙は霊夢を見送り、じとじと重い寝巻きを振り乱して霊夢は風呂場に向かった。
茶箪笥に指を刺すのを忘れず行い、魔理沙がそれに気付いてゆるゆると煎餅にありつく。
つい先日も見たその光景に、霊夢は月並みの日々が戻ってきたと感じる。
湯浴みを軽く済ませ、いつもの紅白の巫女服に着替える。
四日前にも着ていたものと同じ服。魔理沙が洗っておいてくれたらしく、日向の匂いがした。
一応同じ形の巫女服が何着かあるが、今日はこれでいいと霊夢は思う。
そのうちに襖を挟んで魔理沙が声を掛けてくる。
「無理せず私に任せてもいいんだぜ。アリスも動いてくれてるし」
そう言ってくれる声に返事はせず、霊夢は髪結いを手に取る。
まだ少し熱はあり、万全ではないがこれ以上あの人形を野放しにしたくない。
恐らくメディスンを操っていたであろう、小柄な人形。
鈴蘭畑がなくなっても動いていたアレはやはり別個の妖怪なのだろう。
また妖精や妖怪を従わせる前に、見つけ出して滅さなければ霊夢の気が納まらない。
幻想郷の為にも、メディスンの為にも。
勢いよく襖を開け、それをもって魔理沙の言葉に返事をする。
魔理沙も気付いてくれたようで、それ以上は言及せず、行こうか、と言ってくれた。
つま先が地面から離れ、重力が緩くなるのを感じながら、霊夢が飛翔する。
後に続いて宙に浮く魔理沙は、急に何かを思い出し箒を加速させて霊夢の前に出た。
「そうだ、霊夢が調べておいてくれって言ってた蝶々の事、知りたいか?」
「…………うん?」
言われて霊夢も忘れていたようで、眼を瞬かせて魔理沙に近づく。
自分の事ながら忘れっぽいというかなんというか。今日までずっと臥せっていたんだからしょうがないんだと、心の中で言い訳をする。
「気の無い返事だな。せっかく借りてきてやったのに」
ほらよ、と魔理沙が帽子の中から本を取り出して投げて寄こしてきた。
ずしりと手に響き、思わず取り落としそうになるほど重かった。この本をずっと頭の上に乗せていたのだろうか?
言及はさて置き、霊夢が渡されたのは一冊の昆虫図鑑だった。
メディスンがよく、蝶々になる、などと言っていたので、少し興味が沸いて魔理沙にお願いしておいたのだ。
「パチュリーが嘆いてたよ。霊夢も私の本を盗むのかって」
「私は強盗してくれなんて頼んでないわよ。すぐに返すからお茶用意して待ってなさいって言っておいて」
再びはにかむ魔理沙を横目に、霊夢は図鑑のページをめくる。
誰かさんの親切で、蝶々のページの角が折られていた。パチュリーに怒られるのはその誰かさんなので気にしない。
図鑑には蝶々の生態と行動、二万種と言われる分類などが詳しく載っていた。
さすがにそんな数だと眩暈がするので概要のみをパラパラと読み流すことにした。
本を読む霊夢が珍しいのか、隣で魔理沙もまじまじと見守る。
何故蝶々について調べるのかは霊夢には聞いていない。ただものぐさな霊夢が何かしらに興味を持つ事自体がうれしいのだ。
延いては霊夢が自分に頼ってくれたことに対してもなのだが、それは言うも言わぬも野暮というもの。
それならば心の内に留めておくだけで充分な事柄もある。
「…………これって」
数多く列挙してある蝶々の項目。その中に霊夢の眼が止まる記述があった。
それは蝶々と蛾の違いについてのことだった。
「ん、どうした。面白い事でも書いてあったか?」
面白い、かどうかは霊夢にとって微妙なところだ。
さんざんメディスンに言ってしまった手前、こんなものを読むと自分の無知ぶりも少々恥ずかしくなる。
蝶々と蛾の違い、イメージばかりが先行してしまっているが実はとても曖昧で本質的な区別は為されていないという。
蝶々としての特徴はある程度定義されているが、蛾としての特徴を現す為には蝶々の特徴をもって消去法で表すことでしか出来ない。
それでも曖昧なのは変わらず、見た目が蝶々なのに分類では蛾に属する者もいる。
つまりこの二種類はほとんど同じ生き物、ということらしい。
「ふーん。でも以外、というほどでもないな、私は」
「そう……かしら。私はてっきり、悪いイメージばかりで別のものかと」
「だって蝶と蛾って姿が似てるからな。蜜を吸う者、肉食の者、毒を撒く者、撒かぬ者……」
「それは、そうだけど」
「姿形は同じだけど、全然違う行いをする者も居る。私ら人間と変わらんじゃないか」
同じ人間でも様々な者が居て、それが普通だと言いたいのだろうか。
魔理沙の言ってる事はきっと間違ってはいない。見た目が違えば内面も違うと思ってしまうのはいたって普通の考え方だろう。
相手の眼が吊り上っていれば怒ってると思うし、笑っていれば喜んでいると思う。
表情と言うものは相手に自分の感情を伝える手段である。だがそれと同時に相手を騙す常套手段でもある。
伝えるという行動はそれだけでは意味を持たず、必ず前提として内容があり、それが無ければ成り立たない。
ただ、その内容が真実とは限らず、人は時に自分の利益の為に嘘を吐き、誰かを貶める。
故に表情は真実を最も伝えやすく、真実が最も伝わり難い。
「…………皮肉ね、自分の伝える努力は相手に理解されず、騙すつもりも無いのに相手はそう感じてしまう」
「まぁ、そんなに深く考えることないんじゃないか? 虫なんて生まれついての格好だろうし」
帽子をくるくると回し、魔理沙は霊夢の横を飛びながら巡らす思考を止めさせようとする。
病み上がりの霊夢の身体を心配して言ったつもりだが、想い事は止めようにも止まらない。
どうしても、あの妖怪の事が思い浮かぶのだ。
――――わたしは、
絶命直前に発せられた、あの言葉の先は一体なんだったのか。
メディスンはただ生きたかっただけ、だから感情に任せて人間を殺した。それは許せる行為とは言えない。
しかし、今は言える。無知は罪ではない、知ろうとしない行為が罪なのだと。
誰だって知らない事はある。罪とは知らずに行為に及ぶ者も居るだろう。
そこで気付くのだ、これはいけない事だと、子供が親に諭されるようにして初めて罪と認識する。
メディスンの不幸はそれを諭す者が居なかったこと、人間に対する激しい憎悪によって初めて犯した行為が大罪だっただけなのだ。
その結果慧音に殺され、短い一生を終わらせることになる。
霊夢が揶揄したように、メディスンは蛾と同じく、知らずにした行為が最悪な印象で伝わってしまった。
自らは望んでないのに敵を作り、知らなかっただけなのに大罪を犯し断罪された。
それが不相応だとしても、やはりこの幻想郷では爪弾きになりかねない。
「もし……もしも、違う姿だけど同じ想いを持っていたとしたら? 全然違う立場なのに、価値観や性格、それまでの状況だって違うのにお互い同じ理由で傷付けあっていたとしたら……」
「それは、うん……」
もしかしたら、メディスンは自分が操られていた事に気づいていたのかも知れない。
人間に捨てられ、それでも自分に手を差し伸べてくれるのは人間しか居らず、それを知った時のメディスンの心情を霊夢には想像する事が出来なかった。
だから憎んだ。激しい憎悪の対象として人間を殺すという手段を取った。例え操り人形になろうとも。
しかし心の奥底では助けを求めていた。それがあの涙の理由、純粋な感情の吐露。
例えば、例えばである。
河の向こう側に誰か一人立っている。
自分は一人で寂しくて泣き、その誰かに助けて欲しくて石を投げた。
でもそれを勘違いされ、石を投げ返されて怪我をしてしまう。
運悪く相手にも自分の投げた石が当たってしまう。
あいつさえ居なければと思い、石を投げる。相手も投げてきたのでさらに投げる。
自分の血が流れる。あいつも血が流れる。もっと、もっと。
投石が飛び交う光景で、お互い同じ理由で河岸に立っていると知らずに。
もし河の幅が狭かったら、相手の顔が見えるくらいの、悲しげなその眼が見えるくらい近ければ、そんな悲劇は起こらなかったはずだ。
そう、これは悲劇だ。
メディスンと慧音。河岸の客人同士がお互いを知らぬというだけでこれほどの事態が起こるとは、非道いものである。
まるで、蛾と蝶々ではないか。全く違う境遇と立場なのにその実、涙を流した理由は重なり、精神の深い部分では同調さえしていた。
助けて欲しいと泣いていた。
ほとんど変わりない同じ生き物があの場に居た事実を、それなのに憎しみと殺意でお互いを傷付け合った現実を、霊夢は。
「それは、悲しいことだな……」
言いたくない言葉を引っ張り出し、魔理沙が少し上を見上げた気がした。
つられて霊夢も顎を上げ、雲一つ無い空の青さにどこかで見た覚えを感じる。
そうか、あれはあのガラス球の色だったろうか。
霊夢の瞳に涙が浮かぶ事はなく、ただ空の青色が映っているのを、魔理沙は横目で感じていた。
了
ガラス球の眼球とセルロイド製の手足、朱色に染まった頬に顔のバランスにしては小さめの口。
見られることを意識した造りのその『か細さ』が、少女趣味を前面に押し出す気位を感じさせる。
幸か不幸かそれの眼は赤土ではなく、宙を見上げていた。
長い間見つめていて、その時間を今思い出してみると、同じ時間が回り続けていただけに思えてくる。
雲が吹き飛び、太陽と月は終わらないワルツを踊り、星が螺旋を描く。
螺旋は糸を引いて月を追い出し、太陽を呼び寄せては掻き消えて、また雲が飛んで行く。
今生の、諸行の、眼に写り込んでくる全ての事柄を人形は見つめ続けてきた。
風が舞うのが分かる。感じるのではなく、何かが風に踊らされているのが見えるからだ。
シルク色の花びらが右から入っては左上から出て行き、菱形した蝶々が翅を休めに虹彩の曲面に止まる。
青緑の丸い額縁の真ん中の大きな黒が、自慢だった。
――ちょうちょうさん、わたしの眼玉はきれいかしら?
いつものように話しかけてみる人形。
だが声は届かず、生き物の気配すら感じなかったので、蝶々は口吻を引き伸ばしていた。
蝶々の複眼はガラス球など捉えておらず、ただ野性のまま雌の姿を探している。
付近に敵も居ないと判断して、翅を水平に拡げて蝶々にとっては楽な姿勢をとった。
人形は構わず、話すことを止めない。
――あなたなかなかお目が高いわよ。そう、この眼玉はね、ある公爵夫人お抱えの職人が二晩寝ずに仕上げた一品モノなの。特にこの鮮やかな虹彩から瞳孔までのグラデーション、この色味を引き出すのに苦労したのよ。そのお陰で漆黒が際立つでしょ? それに……
それは言葉を遮るように振り上げられていた。
眼玉の前を横切る素早い鎌。
休んでいたはずの蝶々は不自然に折りたたまれ、一瞬の内に餌と化していた。
一体どこから現れたのか、自らの気配さえ殺してしまい、非情にも颯爽と近づいたのだ。
鎌の持ち主は眼玉の上にその飢えた腹を乗せ、捕らえたばかりの活餌を貪る。
その様を眼玉は凝視していた。
蝶々がまだ生きているのが分かる。だってひしゃげた翅をばたつかせているのだ。
だが、鎌の持ち主はそんなこと関係なく貪り続ける。
それはそうだろう。そいつには蝶々が最初から食べ物にしか見えていなかったのだ。
まずは翅の先から食み始め、付け根まで来たら背中を喰い破る。そのまま軟らかい腹部に流れ、中の器官を片っ端から噛み砕く。もちろん体液だって残さず啜る。
足まで食が進んでも蝶々はまだ生きていた。だって口のストローを伸縮させているのだ。
眼玉は視線を逸らさず見続けた。その全てを、一部始終すべてを。
乗せられた鎌の持ち主の腹が蝶々の肉塊で膨らむのを。
その蠢動を。 その鳴動を。 蝶々が絶命するその瞬間を。
薄ら眩しいこの場所で、舞い散る鱗粉にまみれながら蝶々が果てるのを見つめた。
――それにね……ちょっと、変な粉が落ちてくるんだけど。汚いわ。ねぇ、どうにかしてよあなた。せっかくの芸術が台無しじゃない。ちょっと、聞いてるの?
声はやはり届かない。
すでに満腹で、鎌の手入れをしているそいつは何故か誇らしげだ。
それを見ているとだんだん腹が立ってきた。こちらの声は聞こえないのに、一方的に見せ付けられるばかり。
せっかく話し掛けているというのに私を無視するなど言語道断なのだ。
お前の腹に居る蝶々だってそうだ。何も応えずに死んでしまって。
もう少し礼儀というものを知っていてもいいではないか。まだまだ話したいことが山程ある。
あそこに浮かぶ太陽と月、今は見えないが星も雲も、いつもいつも私を置いて動いている。もう何千回と見てきてうんざりしているんだ。
私の見てきた全てだ。そうやって勝手に進んで私はそれを見ているだけ。
どれだけ私を置いていけば気が済むんだ。
出来る事ならこの眼玉を瞼で閉じてやりたい。だけど私には瞼が無いんだ。
ただ見ているだけしか出来ない、こんなセルロイドの表情なんていらない。
なんだ、なんなのだ、一体どういうことだ。私が一体何をして何を望んだっていうんだ。
そうだ、あの時人間に捨てられて、気付いたらこうなってた。
なにが新しい人形だ。
私の方が何倍も素敵な服を着ているのに、綺麗な眼をしているのに。
憶えている、憶えているぞ人間。
おべっか使って私を手にしたくせに、私の為に困らせたメイドだって幾人もいたのに。
膝の上で髪を梳けば、私はそれに応えて髪を煌めかせたぞ。
ままごとに付き合わせれば、見事に子供役を演じきってみせたぞ。
それなのに、古くなったから要らない、かわいくない、汚い、だと。
ふざけるな。私はお前にどれだけ尽くしたか、忘れたなんて言わせないぞ。
どれだけお前の我侭に付き合い、お前の寂しさを紛らわせてきたと思っているんだ。
ああ、もういい、太陽も月も星も雲もみんな見たくない。
私は動けないのにそんなものを見せるなんて、非道いではないか。
閉じさせろ、瞼を閉じさせろ。
その花弁で覆うだけでいいのだ。
閉じさせろ。
「ならばいっそ、そのガラス球砕いてやろうか?」
やけに近くから聞こえた。
初めて聞く何者かの、籠もるような低い声が急に現れたのだ。
だが見えるのは腹の膨れたこいつだけ。
ただの虫のはずなのに、やつはこちらを見据えている。笑っているように見える。
そしてその鎌を振り上げ、
――ぎゃああぁぁぁぁぁぁぁッ!!
誰にも聞こえない絶叫。
振り払おうにも手が動かない。逃げようにも足が動かない。
――いやああぁぁぁぁぁぁぁッ! いやああぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!
必死に見ないように、瞼を閉じようとするが瞼が無い。
眼の前の出来事を、ただただ見ることしか出来ない。
鎌が振り下ろされるのを、自分の命が刈られる様を、その一瞬の全てを。
私は人形。捨てられた人形。なにも出来ない人形。
……鎌は振り下ろされた。しかし、ガラス球は砕けるどころか傷も付かない。
所詮は虫一匹のやること、蝶々の命は奪えても人工物には歯が立たなかった。
カマキリは膨れた腹を引きずり、その場を去る。
後に残ったのは汚れている捨てられた、綺麗なガラス球を持つ人形のみだった。
――ううっ……う……ううぇ……
私は人形。捨てられた人形。なにも出来ない人形。
動く事さえ、逃げる事さえ、話す事さえ、なんにも出来ない。
涙も流せない。
――助けて……鈴蘭さん…………
呼ばれた鈴蘭は風に棚引いて、ガラス球の上で起こった一部始終を見つめていた。
人形の周りを囲むように、人形を遠ざけるように。
ガラス球には鈴蘭だけが映り込む。
物言ず揺れ動く鈴蘭。
世界が暗転する。
鈴蘭畑で眼が覚めた。
瞼を開けて見上げた空と、環を描いた鈴蘭達が最初に眼に映り、まるで祝ってくれているように鈴を揺らしている。
白い釣鐘の形をした花弁が濃過ぎるくらいのオレンジ色に染まっている。
ちょうど太陽が地平線近くにあるせいで、空も周囲も全てオレンジ色だった。
ただ、それが朝焼けなのか夕焼けなのか分からなかった。
方角が判別できなかったからだ。北がどっちか分かれば、そんなことはない。
たしか、北の反対側が東で、太陽は東の反対側から昇るから今の太陽のある方角は南か。
朝か夕方かはどちらでも構わないし。
上半身を起こしてみる。
腹と背中に力を入れ、一気に身体を持ち上げる。
少し大変に感じた。と、両手で支えて起きればいいことに気付く。
土に背中を付けて、もう一度やりなおしてみる。
なるほど、これなら楽だった。
「フフフフッ」
笑みがこぼれる。思わず可笑しくなってしまった。
眼の端で何かが動いたのに気付いた。素早く手を動かしてそれを捕らえる。
微かにでも動くものの気配を覚る感覚を、我ながら褒めてやりたい。
だが、強く握り過ぎてしまったと、手の中の感触で理解した。
掌と密着する感触に、まだ少しぎこちなさがあるのを感じる。
指を開いて見れば潰れた蝶々であった。翅が破れ、体液が掌を伝う。
「汚いわねぇ」
そう言って下草になすりつける。それでも足りなかったので土にも擦る。
指を潜らせ、掌の横や甲側も満遍なく土に絡ませる。
やがて潰れた蝶々も体液も、全部が混ざって分からなくなった。
泥にまみれ、爪の間が黒くなった掌を見ると、綺麗になった、と思う。
掌を二度三度翻すと、肉の中に骨格の動きを感じた。
密度を保った芯根とそれを引き上げる血の通った筋の束。
生きているという実感。
そうだ、私は生まれ変わった。もう誰も私を置いて行けやしない。
私の話に応えない蝶々は潰してやった。あれだけ勇んでいたくせに、握ってやったら簡単なものだ。
この眼に映る全てのものを捕まえ、この手で潰せる気がする。
太陽もじっとして動かないから、今度は私が置いてけぼりにしてやろう。
みんなみんな置いてけぼりだ。
片手をついてそのままの勢いで立ち上がった。
辺りは染まるオレンジ色に負けないくらい、蕭然に満ち満ちている。
鈴蘭たちは思いのほか背が低い。
「私はメディスン・メランコリー」
オレンジ色に染まる鈴蘭畑に毒を込めて。
「さぁ、行きましょうか、スーさん」
私に生まれたこの世界に愛を込めて。
ころしてやる
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
人里の長老が大人数人を連れて神社に押しかけて来たのは今朝のことだった。
日課である境内の掃除を終え、ちょうど朝食の支度を始めた頃で、霊夢は突然外からの物々しい気配に嫌な予感を覚えた。
だからあえて包丁を休めることなくまな板に向かっていたのだが、勝手口を開けて入って来られては話を聞かざるを得なかった。
土間に次々と乗り込んでくる顔はみな只事ではない、やつれた悲愴に包まれている。
一気に手狭になった場所に、暗たんたる空気も一緒に入ってきた。
「子供が五人、息を引き取った」
長老のすぐ後ろ、上白沢慧音は押し殺せぬ気配を放ち拳を震わせていた。
耐えられる限りに唇を噛み締めた姿に、霊夢は鬼の形相を見る。
黙り込んでいる彼女には、掛けられる言葉など無いように思えたのだ。
聞けば昨晩、人里に突然現れた妖怪が、辺り構わず毒を撒き散らしたという。
妖怪はすぐにどこかへ飛び去ったが、逃げ遅れた子供がそれを浴びてしまった。
大人たちの必死の看病も虚しく、どんどん変わり果てていく姿に為す術が無かった。
そして子供らは狂ったように一晩中もがき苦しんで、死んだ。
「……薬屋は何してたのよ」
「永琳殿はすぐに駆けつけてくれた……だが脳に喰い込む毒は手が付けられなくて。回復は難しいと……症状は消えても脳がやられて考えることが出来なくなると……」
咽び泣く者が数人居た。
慧音は涙を見せてはいなかった。だが、何か一層濃くなったものを感じ取れる。
その場に居なかった霊夢には想像するしかないのだが、よほどの惨状だったのだろう、彼らは口々に子の名前を涙が流れる毎に呻いている。
子供を看取るために親が居るのではない、守る為、育てる為に親は居るのだ。
こんな思いは辛すぎると、籠もる声に滲み出ていた。
唯一人、その瞳に刃を忍ばせている者が居て、霊夢はその気配に当てられて終ぞ話し掛けることさえ適わなかった。
だから、楽にさせるとか、せめて毒のサンプルがどうとか、そんな話も霊夢は聞いたがよく分からなかった。
とくとくと流れる嗚咽に情報を遮られ、眼を背けないよう必死に抵抗する。
だがそんな事に意味は無く、苛立ち半分に視線を泳がせた。
霊夢は煮立った鍋を釜戸から退かし、火に水を掛けて消した。
「それで、その妖怪はどっちに飛んでいったの」
口早に長老に問い掛けて、急ぎ相応の支度を整える為、土間から免れようと背を向けた。
後味の悪い仕事になる、霊夢の予感はそう告げていた。
「ねぇスーさん? あの子供達はもう死んだ頃かしらねぇ?」
鈴蘭畑の真ん中、多くの花弁に覆われた白い丘に、その妖怪は居た。
メディスン・メランコリーははしゃいでいる。
よっぽど昨晩のことが嬉しかったのか、傍らに居る小さな人形に凛々と話しかけていた。
人形は飛び回るだけで声は出さないが、メディスンには意思が伝わっているようだった。
「あら、手加減じゃないわ。一晩苦しむように質も量もそういうふうにしたのよ」
身振り手振りで使用した毒の解説をすると、やはりメディスンの顔は活気に満ちて、周囲の鈴蘭もそれに応えて花弁を揺らした。
数刻前にこの鈴蘭畑に戻ってきてからというもの、ずっとこの調子でいる。
饒舌は冴え渡り、一方的に喋り続けるメディスンに物言わぬ鈴蘭と小さな人形は悠々と付き合っていた。
「コンパロコンパロと一振りすればどんな毒でもたちまち生成できるわぁ~」
指先をくるくる回して呪文を唱える。
「脳を侵す毒、筋肉を麻痺させる毒、皮膚が焼ける毒、骨を溶かす毒。用法用量は正しく使わなければねぇ~。スーさんスーさん、次はどんな毒がいいと思う?」
メディスンは指先の回転を止めず歌うようにして鈴蘭畑で踊った。
花弁が舞い、毒も舞う、少々滑稽な姿でも一向に構いもせず。
リズムもばらばら、ステップもおぼつかない、一見すればよく動く案山子程度にしか思えない。
だが、メディスンは今喜びに満ち溢れていた。
人間を殺した。その事実はメディスンに歓喜の声を上げさせるには充分な事だった。
私を貶し汚し捨てた人間の命を奪ってやった。ころしてやった。
復讐? 違う、これは当たり前の事だ。
人間が私に行った事へのお返しで、大して特別な事ではない。
私の毒であの世に送ってやるのだ、これ程楽しい事は他にあるものか。
これからどんどん殺してやる。私の毒で、皆置いてけぼりだ。
「フフフフフフフフフフフ……ッ」
気味の良い余韻に浸り、メディスンの脳内で毒が生成し精製される。
感情の昂ぶり、その甘美な麻薬により自らの力が強まるのが分かった。
憎しみから妖怪変化に及んだメディスンには、その依存性の高さが手に取るように分かるのだ。
身を任せ、操られていると知っていても尚、その快感の抱擁にはなんとしても逆らいようがない。
それに、内に存在するモノは元々自分の能力に他ならないという自負が少なからずあり、それがメディスンのダンスに一層の拍車を掛けた。
転げるように躓くように、鈴蘭と小さな人形に見つめられながら、とても楽しく踊った。
「あら?」
鈴蘭畑から人里の方角、青雲揺らめく空に遠く人影らしきものが見える。
霞んでしまってよく見えないが、メディスンは見間違うような眼を持っていない。
蛇行しながら飛行しているそれはとても鳥などの動きではなかった。
眼を凝らしそいつを監視する。その飛行の仕方は何かを探しているようにも思えた。
ふらふらふらふら、行き先を決めかねている様はどうにも頼りなげに見える。
「あらら~?」
すると何かに気付き、飛び方にはっきりとした意思を感じられるようになった。
その様子で、散漫になっていた注意が一点に注がれたと読み取れる。
メディスンの見立てが正しければ、あいつはこの鈴蘭畑が目的だ。
用が在るのだ、私の居る鈴蘭畑に、延いてはこのメディスン・メランコリーに。
何をしに来たのかなど、考えるまでもない。ただメディスンの脳内で毒の生成が行われるだけだ。
近づくに連れてその予想も確実性を増し、あいつの様相も分かってくる。
あれは紛う事無く、にんげんだ。
「あら~、スーさん、人間が来たわ。きっとお弔いなのよ、かわいそうにねぇ」
メディスンはまたけらけらと笑った。あどけない笑顔は純然たる感情の表れ。
小さな人形も鈴蘭達も身体を揺らしてそれに応え、メディスンの向こうに見える人間へも視線は注がれる。
姦しささえ感じさせるが、その実、人形の両の眼は来たる人間を凝視し先程までと違う色を見せ、鈴蘭も揺らめいているがその身に溜まる毒は歓迎の代物などではない。
もっとも、そんな様子をメディスンは知る由も無く、人形も鈴蘭も見せはしない。
始終メディスンを見守りつつ、そして監視する。
それは昆虫の幼生に宿る菌糸の如く、近づくのは大胆に、身重のように優しく緩やかに。
最終的なその理由に辿り着くまで、この関係は続くのだ。
しかしメディスンにはそれが必要で、知るも知らぬも大して違いはない。
まだメディスンの世界は始まったばかりなのである。これから人間を殺す為に欠かせないのだ。
例え辿り着いた先がどんな場所でも。
そうやって笑顔の絶えぬ間にも、すでに人間は鈴蘭畑近くまで来ていた。
紅白の着物に変な棒を携えた変な人間。
警戒からか鈴蘭畑のすぐ手前、外縁ぎりぎりの位置に下り立つ。
白々しいほど温和な表情で、最初は辺りを見回していたが、すぐにメディスンに向き直って話しかけてくる。
「貴方が毒を操る妖怪?」
「ん~? スーさん、私ってそんな風に見えるかな?」
「見た目は関係ないわ。どうなのかと聞いてるの」
「そうねぇ、私の眼は綺麗だからねぇ。きっと毒でおかしくなるのよ」
紅白の人間は首を傾げた。どうにも会話が噛み合わない。
「貴方、誰と喋ってるの?」
「私の名前はメディスン・メランコリー、こちらはスーさんよ」
メディスンは鈴蘭畑を背に両手を広げて紹介した。傍らに居た小さな人形も一緒になってお辞儀をすると、人間はその行為に驚いたのか眼を見張るようにした。
「あなたは?」
人形が動くのなんて当たり前なのにと、メディスンは人間の顔が少し面白くて笑ってしまうのを堪えながら問い掛ける。
一息入れるが怪訝そうなのは変わらずに、人間は背筋を正してメディスンを見据える。
なぜかそのまま数秒ほど二人は見つめ合い、なのに人間は溜め息を付いて視線を逸らした。
不服そうなのはメディスンで、口を尖らせるとやっと人間は口を開いた。
「失礼したわ、私は博麗霊夢。巫女をやってるの、知らない?」
「知らなぁ~い。ねぇスーさん、巫女だって」
目配せをして小さい人形と笑い合うメディスン。
その様子に紅白の人間はやはり怪訝そうに眼を細める。
この博麗霊夢を見て逃げ出さない妖怪は案外珍しく、さらに不敵にも笑みを見せている。
一体こいつは何者か、そう思っているとメディスンが言葉を放つ。
「さて、どんな毒で殺そうかねぇ」
その発言は霊夢に確信を持たせるのに充分だった。この妖怪が村を襲った奴だと。
しかしどうにも解せないことがある。
この妖怪は何故あのようなことをしたのか。幻想郷に居る妖怪は誰もが温厚ではないが、スペルカードルールも無しで戦いをすることのデメリットは理解しているはずだ。
正直、当の妖怪を眼の前にしても気が引けるのだ。どうしてあんなことをした。こうなってはやることは一つしかないというのに。
「コンパロコンパロ~、ドウモイゴネリンムシモーロ」
霊夢が考えあぐねいているのに、メディスンは関係ないとばかりに手をかざす。
轟々と弾幕がメディスン周囲に展開され、一斉に霊夢に襲い掛かる。
しかし、その手から弾が発射されても霊夢は身体を構えてさえいなかった。
いや、避ける必要がなかったのだ。そしてそれ故に納得する。
予想通り、弾は霊夢を避けるように飛び去り、着弾したのは遥か後方だった。
博麗の名を知らず、スペルカード宣告無しやいきなりの先制攻撃。
そう、こいつはルールを知らない。
それに未熟だ。
「あれ~、当たらなかったわねスーさん。やっぱり毒で動きを止めないとダメね」
幻想郷のルールを知らなければ、教鞭を振るうのも博麗の御役目。それがすでに後手だったとしても、ならば手早く処理するのみ。
そしてこいつはそれに当てはまり、霊夢の眼の前に居る。
完全な者など居ないけれど、眼前のこいつは不完全過ぎる。
あるのは確かな殺意だけ。とびっきり純粋な意識の塊。
純粋過ぎるものは時に毒になる。この妖怪は危うい。危険過ぎる。
唯一、なぜルールを知らないのかが気になるが。
「死んでもらうわ」
霊夢は陰陽玉を周囲に浮かせ、態勢を整える。
「あなたが?」
メディスンは首を傾げ、どこまでも眼を細くして笑った。
弓張る如く弧を描く口元は、『か細く』紅が引いてあり、尚も眩しい殺意を覗かせる。
後ろで、彼女を見守って広がる鈴蘭畑も同じく笑っていた。
風になびいてざわつく白い花弁が揺れると、その名の通り鈴の音が鳴る。
その音色は乾いた桶が転がるような音で、霊夢はあまり心地良くは感じなかった。
見咎められているようで、此処も落ち着く場所ではないと、寒気がしたのだ。
◇
上白沢慧音は村に居た。寺子屋の引き戸の裏、しかし中も暗いのでその姿は半分も確認出来ない。
今日は雨戸も開けてないから、光が家内に入らないのだ。
いつもなら、今時は子供らの声でにぎわう寺子屋だった。
しかし今朝からここは虫の音も聞こえない、静かな場所になっている。
明日、机を五つ、片さなければならない。
慧音は思うのだ。自分はあの子らにとって良い先生だったか、と。
何もしてやれてないなどとは思わない。もしそうなら、すでに慧音は自ら命を絶っていただろう。
しかし、昨日まであの子らは笑っていてくれたのだ。
これまでも多くの教え子を看取ってきた。
今更感慨は似合わないし、笑っていた子らに申し訳ない。
その事実が今の慧音を支えていて、死んだ子らへのせめてもの弔いだった。
だからこそ、自分は良い先生でなければならない。
自らを端的な流れに任せ、死んだ子らに仇為す行為など控えるべきだ。
そう、復讐などする訳にはいかない。
分かっている、分かっている。
しかして、一体誰が私を止める権利があるというのだろう。
否、それは誰にも無いがその権利の有無だって非道く曖昧なものなのだ。
待て、私の願い、思いはそんなものなのか。この身に湧くのは偽りなのか。
だが。しかし。いや…………。
そうだ、村の警護を放り投げて憎き彼奴の元に行くなどしてはならない。
そう、あの青白い頬を殴り、あの子らと同じ苦しみを味わわせるなどしてはならない。
胸が締め付けられようが、はらわたが煮えくり返ろうが、憎しみで頭がおかしくなろうが。
絶対に、しては、ならないのだ。
だ、だいいち、彼奴の居場所が、わ、わからない。
巫女に、任せる、と、き、決めたではない、か。
ナニヲイマサラ。
「おい、あの妖怪のねぐらが分かったって本当か?」
「ああ。さっき戻った巡回班が報告していた。今は巫女さんと戦ってるって」
「それでどこだよ。近くじゃねぇだろうな」
「北に二里程の鈴蘭畑だ。分かってると思うが、くれぐれも内密にな」
「分かってるよ。上白沢先生にだって知らせねぇよ」
「当たり前だ、さっきの先生の顔見ただろ、下手に刺激したら大事になる」
「角でも生えそうなほどにおっかなかったなぁ。怖ろしや怖ろしや」
上白沢慧音の血の気が引いた。
自分の体温が異常に低くなるのが分かった。
◇◇
鈴蘭畑の攻防は激しさを増し、自然とその弾幕は苛烈になっていた。
互いの弾幕がさらに相手の弾幕を呼び、折り重なるようにして場を形成する。牽制弾と遊撃弾が空間を支配し、唸りを上げて殺意が飛び交う。
そんな中、霊夢の封魔針はメディスンを捉えられず、無下に本数を消費していった。
一本の狙敵範囲はそれこそ針ほどしかないが数が数である。数十本を纏めて壁を形成するように放っているから、ほとんど隙間は無いはずだ。
それなのにメディスンには衣服にさえ一本たりとも刺さってはいない。
ことごとく、その良過ぎる『眼』で避けているのだ。
幾多の針を紙一重で避けて行くその様は、同じく避けるのに秀でている霊夢にしても規格外に感じた。なにしろ自らの弾で相殺もせずに常に最小限の移動だけで回避してしまうのだ。異常である。
故に霊夢だって被弾してはいないし、際限無く応戦している。
しかし、霊夢がどれだけ厚い壁を造ろうが、それを無きに等しき些事にしてしまう。
メディスン・メランコリーにはそれが出来た。
「なんで……なんでなのよ……」
その呟きは弾幕の波の激しさに掻き消されていく。
戦況は霊夢にとって芳しくはない。今現在では優位に立ち回れる条件がないのだ。
たとえスペルを放ってもメディスンはまた簡単に避けるであろう。
試してみないと断言は出来ないが、きっと無駄弾になる。
しかし、芳しくないのはメディスンも同じであった。いや、むしろ狼狽は彼女の方が激しかった。
「なんで毒が届かないのよ……ッ!」
またもその言葉は弾幕の波に打ち消されていく。
メディスンの顔は焦りの気色に染まっている。
先程からどんなに毒を撒いてやっても霊夢には届きさえしないのだ。
霊夢に向かって放っているはずなのに、どうしても戻って来てしまう。
一方霊夢は涼しい顔をして弾幕を避けている。
こちらの弾も相変わらず当たらないが、一先ずはそれだけのこと、メディスンの弾幕は容易に避けられる程度だし、持久戦は嫌いだが不得手ではない。
じっくり焦らず攻略の糸口を探す、これまで戦ってきた通りに事を成すだけだ。
メディスンの撒く毒にだって、特別対処していることなどはない。
強いて言えば風向きを常に意識しているぐらいなものだ。
それなのにメディスンはやけに焦燥しているように見える。
もしかして風向きの関係が分かっていないのだろうか。もしそうなら、
「とんだお馬鹿さんね」
いくらなんでも、と思うが風に向かって毒を放つばかりで自分の立ち位置を変えさえしない。ずっと鈴蘭畑を背にした範囲を動こうとしないのだ。
風のせいで自らの毒が相手に届かない、この簡単な図式を理解していない。
メディスンの行動はそれを窺わせた。
つまり霊夢の眼には馬鹿げた戦い方にしか写らない。
「こっちにとっては好都合だけど、気を緩めないようにしないと」
もちろん、情けは掛けない。風があるから……とか、忠告もしないし、メディスンの頭が弱いからと決めつけて侮りもしない。
勝ち戦こそ慎重に、自分の弾幕はパワーが不足してるのは重々承知してるからこそ、勝負に急ぐことなどしない。
普段の『ごっこ』ならばいくらか余裕はあっても、これは命懸けの決闘だ。
命を取る覚悟の中に、己の命を失う事態も含められる。
必ず勝たなければならない、そういうことなら霊夢はメディスンより頭一つ以上飛び出していた。
「くそぅ、どういうことよ。え? スーさん助けてくれるの?」
メディスンのすぐ横まで小さな人形が寄り添ってくる。
その妖怪達の姿になにやら隠し事をする少女のような、慎ましく微笑ましい光景が霊夢には見えた。
知らなければ人形と仲良く話す女の子だが、話の内容はきっと霊夢を殺す算段だろう。
こんなもの、悪趣味にも程がある。
「なるほど、スーさんは頭が良いわ」
納得したのか、人形の作戦に快諾したメディスンは小さく頷いた。
あからさまに何かしてくると思い、霊夢はどうせ当たらない弾を撃つのを止め、迎える姿勢をとる。
だが、またもメディスンは毒を放ち愚行を止めなかった。
相変わらず霊夢、つまり風上に向けているので全部自分のところに押し返されている。
さすがに少々呆れたが、一緒にメディスンの弾も飛んでくるので気を抜かない。
そうしている内にメディスンの周囲は毒煙だらけになり、やがて姿も見えなくなってしまった。
先程はそれでも自身の周囲が見えなくなるのを嫌ってか、これ程まで毒煙をばら撒いたりはしていなかったのだが、思惑を計りきれない霊夢はまたも怪訝な顔になる。
「眼眩ましかしら……」
もしそうなら、どちらかと言うと現状ではあまり効果的ではない。
何故かは分からないが、メディスンは鈴蘭畑を背にして動かないという仮定があるので、姿が見えないからといって霊夢の立ち位置に対して回り込んだり、遠くに行ったりはしないはずだ。
「……ッ! まずいッ!」
まさか逃げる気か、と霊夢の頭によぎる。
ここで逃がせば厄介だ。また人里に奇襲を掛けられでもしたら被害が増える。
加えて霊夢を上回る回避能力を供えていてはそれだけで脅威だ。
一瞬、間を詰めようと前に飛び出す。
しかしそれと同時に毒煙の内側からも飛び出てきたものがあった。
それは霊夢に向かって飛んで来たので、面喰らって急停止する。
「なにっ?」
丁度子供が抱えて持つくらいの大きさのが複数、色はどす黒く禍々しい。
どうやらメディスンの放った弾のようだ。ゆっくりと、だが確実に霊夢に向かって来る。
不思議なほど遅いスピードでつい触ってしまいたい衝動に駆られるが、触れる訳にもいかず、弾に対して軽いジレンマを抱く。
それでも霊夢は弾の発射方向からメディスンがまだ毒煙の中に居るのを知り、少なからず安堵した。
「安易に近づかない方が良さそうね」
霊夢は大きく迂回するようにその弾を回避する。
弾は変わらずゆっくりと通過していき、軌道が曲がるわけでも、追尾してくるでもなく後方へ流れていった。
それを眼で追ってるのも束の間、毒煙の中から今度は小さい玉が突出してくる。
編隊を組むように迫る弾幕。だが避けられないほどではない。
僅かながらも存在する弾幕の穴を確認し、身体を通す。
第二波、第三波と余裕を持ちながらこれらもなんなく回避。
こちらも反撃を、と身構えたとき、霊夢の死角からどす黒い塊が現れる。
「……ッ!?」
予期せぬ事態だったので身体の一瞬の硬直はどうしようもなく、それを横目で捉えた瞬間、霊夢の脳内での思慮が行動の遅れを招いた。
避けるという反射行動よりも、それは何なのかという解析の思考回路が働いてしまって身体の動きが鈍ったのだ。
よく考えてから行動するという癖が裏目に出てしまった。
まさか、そんなはずはない、そう思う頃には、もう霊夢の左半身は覆われていた。
そう、霊夢の死角から現れたものは、毒煙であった。
「うああぁぁッ!」
激痛と共に吐き出される悲鳴。焼かれるような痛みが霊夢を襲う。
霊夢の左腕と左脚、肌が露出している部分が赤く腫れ上がっている。
歯を喰いしばり声を我慢するも、腫れた自らの身体を見て思わず顔が引きつった。
「あははは~、やっと毒が届いたみたい。スーさんやったわねぇ」
眼の前の毒煙からメディスンが姿を現した。
その顔はすでに勝利の余韻を楽しむかのようで、霊夢の弱った姿に見惚れているようでもあった。
「さっきあなたが避けた弾、あれの中に毒を仕込んでおいたの。わざと避けさせて後ろで見えなくなったらポッと開くようにしてね。毒煙に隠れたのはその様子を見せない為、まだ慣れてないから作るのに時間が掛かるの」
「……そんなことほいほい言って、私はもう同じ手には引っ掛からないわよ」
「ふふっ、もう充分よ。ところで毒のお味はいかがかしら? それは皮膚を爛れさせる毒。それだけじゃつまんないから痛覚と温度覚を敏感にさせる成分も含んでみたの。きっと焼けるような痛みと熱さでしょうねぇ」
まるで紅茶のブレンドを説明するかのように毒の紹介をするメディスン。
付随している小さな人形も手足を小刻みに揺らしている。
霊夢はその光景に喜劇を連想したが、この痛みは本物で、自分にとってはこれは悲劇と思い直した。
メディスンの言う通り、見た目よりも数倍の痛みを感じる。肌を撫でる風にさえ耐えなければならないほど感覚が鋭敏になっていた。
これはまずい。動きが鈍るどころでは済まなくなる。
「……ちょっと、ずっとこのままってことはないでしょうね?」
「えぇ~? きっとそのうちたぶん、元に戻るわ」
一応聞いてはみたが、やはり信用できる回答は得られなかった。
現に痛みは引かないし、額に意識せずともじっとりと油汗が浮く。
このままではちょっとした動きさえ苦痛に感じるだろう。
「大丈夫よ、命がどうこうと言うような毒じゃないから。それより今は貴方の顔を楽しみましょうよ、痛みで歪んだその顔を。ねぇ、スーさん」
メディスンと小さな人形は顔を合わせてはしゃいでいる。
霊夢にとって、これほど喜劇めいた光景はない。
相手の出方を窺い、底が見えようと自惚れずに強かに務めていたはずだった。
油断していたわけではなかったが、結果、この状況である。自らに余裕と優位性を持ち合わせ、考えた末に『まだ勝負の決め時ではない』という結論。
だがその実、メディスンの監視に心を囚われその裏をかかれたのだ。
これでは村の者に顔向け出来ないし、あの八雲紫にだって何を言われるか知れない。
霊夢は思う。そのスキマの妖怪は例え霊夢がこのまま攻撃されようと出てくることはないだろう、と。
きっとあいつはこの場を覗いている。
だが出てくるのは霊夢が本当に危機に陥った場合だろう。
その頃には手足の一本や二本、無くなってるかもしれない。
想像するだけ不毛だが、これもまた現実、己の未熟さは後の説教で聞けばいい。
最悪、その説教さえ聞けないかもしれないので、霊夢はもう逃げ場は無いと決心した。
もとより逃げるつもりなど無かったが、今はその余裕も無い。
ここからは全力でやる。出し惜しみは無しだ、きっと無様であろうが、死ぬよりマシだ。
その時、霊夢の思考にある疑問が浮かぶ。もちろん声には出さない。
(そう言えば、あいつはなんで鈴蘭畑から動こうとしないんだろう……)
さっきから気になっていたが、いざ考えてみるといかにもおかしい。
メディスンは戦闘中でもいやにそれを意識していたようにも思える。鈴蘭畑を中心にして円を描いて動き、霊夢が風上に陣取ってからはその場から殆ど動こうとしない。
頭は弱いがその割りに毒入り弾のような妙案を使ってくるのも納得がいかない。
村を襲った時だってすぐに逃げ、この鈴蘭畑で待っていたかにも思えるし、思考と行動がまるでそれぞれ別人のもののようだ。
なにやら奇妙な喰い違いが垣間見える。
安直な言動、こちらの裏をかく作戦。そして正直気に喰わないその驚異的な回避能力。
霊夢はさらに様々な事も考慮に入れなければならない。
だが、そこに試してみる価値のある事柄が隠れていた。
「私はねぇ、ちょうちょうになるの」
「……はぁ?」
突然のすっとんきょうなその発言に、霊夢は思わず思考が吹き飛びそうになる。
飢えた者が聞けば飛びつきそうな甘い声を出し、メディスンはその視線を空に向けている。
霊夢が攻撃しないと判断しての行為なのか、それとも声質同様、天然の成せる事なのか。
きっとメディスン自身も意識していないのだろう、向けている視線は空よりも先を、遥か彼方を見ているように焦点は曖昧だ。
「ちょうちょうが死んだの。私も殺したわ、でも私は違う。あなたみたいなカマキリにだって負けない」
何を言ってるのか、意味が分からない。
「これからも人間を殺し続けるし、いつかこの鈴蘭畑からも飛び立つわ」
瞬間、付随していた小さな人形に今までにない雰囲気を霊夢は感じた。
それはなにか、とても寂しそうな、それでいて憎しみにも似た視線であった。
視線は言葉を発したメディスンに注がれ、頑なに外しそうになかったが、当の本人はその事には気づかずに空を仰いでいる。
「……蝶々? どっちかって言うと蛾じゃないの」
「ガ? ガってなに?」
「あんたみたいに毒を吐く虫のことよ。似てるけど蝶々じゃないわ」
「そんなもの知らない。……じゃあこうしましょう、毒を吐くちょうちょうになる、いいじゃない?」
「だから、それだと蛾なんだってば」
もちろん霊夢に昆虫の知識なんて無い。今のは一般的なイメージを述べただけだ。
きっとそんなに大差無い。
そうこうしてるうちに霊夢の我慢も限界に達しようとしていた。
左腕と左脚の激痛はもはや動かすこともままならず、もう空中移動さえいくらも出来ないであろう。
今すぐ叫ぶことが出来れば楽なのだろうが、そんな暇も無い。
こちらにも妙案がある。効果があれば形勢逆転、無ければ今度こそ万事休す。
どちらに転ぶか、正直計りかねる。
だが、やつはもういつでも殺せると油断している。形振り構っていられない。
「さて、どう殺そうかスーさん……」
メディスンが小さい人形に話し掛け、霊夢から視線が逸れる。
その一瞬を見逃さない。
動く右腕で素早く印を組む。
「無題『空を飛ぶ不思議な巫女』ッ!」
「いやぁね、急に大声出して。みっともない」
「癖よ、気にしないでちょうだいッ!」
そう言う霊夢は眼を瞑って力を集中、すると大量の御札が周囲に現れ一斉に放たれた。
その数は生半可ではなく、向けられたメディスンにとっては見える範囲全部が御札だ。
御札は雪崩のようにメディスンに襲い掛かるが、やはり軽く避けられ、しかもその大半はメディスンに当たらず後方へ飛んで行く。
「もう、ヤケクソね、ヤケクソなのね。本当にみっともないわ、ねぇスーさん」
メディスンは霊夢のその様に哀れみの言葉を吐く。
それでも霊夢は御札弾幕を放ち続ける。
痛みを堪え、必死に力の放出に集中していた。
「……あら?」
弾幕を余裕で避けていたはずだった。
だが、メディスンは気づいた。
洋服のスカートが裂けている。
たまたま当たったのか。
いや、メディスンは例え意図しない流れ弾にでも当たらない『眼』を持っていた。
絶対に当たらないと自負しているのだ。だが、
「イタイッ!」
当たる。
今のは左の脚先、思ったよりも弾が重い。
馬鹿な、自分が敵の弾などに当たるなんて。
「アァッ!」
一発目でバランスを崩し、立て続けに二発、脇腹と肩に喰らう。
当たる、当たってしまう。
正確には避けられないのだ。今まで手に取るように弾の動きが『見えて』いたのにそれが分からない、飛んでくる弾が自分に当たるのかどうかも分からない。
なんとか体勢を整えて必死に避けるが、眼の前全てが弾幕のこの状況で、メディスンは浮かび上がった感情に戸惑いを覚えた。
なんだ、これは。
迫り狂う弾幕。押し寄せる御札。
これは疑いもなく、恐怖。
左上方、袈裟斬りのように降ってくる御札が、振り下ろされようとしている鎌に見えた。
「ぎゃああぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
それは耳を劈くほどの叫び声だった。
喉の奥、腹の底から弾けた感情は、未熟なメディスンでは抑えることなど出来ず、ただただ、吸った息の続く限り悲鳴を上げるだけだ。
霊夢にその声は届かない。消耗している為、弾幕を形成するのに集中しているからだ。
では、一体誰にメディスンの声は届くのだろうか。
「あああぁぁぁ……いやああぁぁぁぁぁッ!」
鈴蘭畑か、それともいつでも側に居た小さな人形か。
もしかしたら、こんな妖怪にも手を差し伸べてくれる神様か閻魔様くらい居るかもしれない。
あの狭くても青々と視界に入る空にだってこれほど叫んだ事は無い。
メディスンを置いてけぼりにした太陽や月に星、ガラス玉に映った全てに心の底から救いの声を。
その昔、捨てられた人形に助けを呼ぶ勇気があったなら、見える全てへその身体を投げ出せる勇気があったなら。
メディスンは叫ぶ。誰かにこの声が届くまで。
例え今は、自分にしか聞こえてなくても。
なおも霊夢の放った弾幕は、容赦なくメディスンに襲い掛かる。
右腕に直撃、肘から先は失くなった。
左脚の脛と太腿に連続して当たる、左脚が丸ごと持っていかれた。
脇腹にも直撃、抉り取られて大きな穴が空いた。
洋服がはだけて裂け、煌めく髪が引き千切られ、メディスンの形は削られていく。
まるで糸が切れた操り人形のように、くるくるくるくる回転しながら。
そして踊り疲れて、もう動けないよと、その姿は弾幕の中に掻き消えていった。
痛みのせいでだらりと身体をしなだれさせる人間が一人。
結局、弾幕はパワーなのだろうかと、霊夢は考えていた。
最後に放った弾幕、自分なりに最大出力でやったつもりだが、それでも魔理沙のには到底及ばない気がした。
やっぱり自分にはパワーが足りない。重々承知していたがこの戦いで再確認した。
しかしその魔理沙は霊夢の天賦の才を羨んでいる節があり、二人とも結局は無いものねだりになってしまう。
自分に無いものを求めるのは精進の表れか、それとも業突く張りの考えか。
いづれにしても勝負に勝ちはしたが、課題の残る戦いであった。
「あ~、痛いわね。まったく勘弁してほしいわ」
霊夢の眼前には広々とした荒れ地が見える。
そこは先ほどまで鈴蘭畑だった場所だ。今はその面影どころか微かな香りさえ感じられなくなっていた。
香ってくるのは耕された土の匂いだけで、ほとんど赤茶色しか見えない。
だが、霊夢にはかわいそうだとはとても思えなかった。むしろさっぱりして清々している。
なにしろ、あの鈴蘭達がメディスンの『眼』だったのだ。
「ま、どういう理屈かなんて知らないけど」
痛む腕と脚を庇い、メディスンが沈んでると思われる箇所へ向かう。
霊夢が睨んだメディスンと鈴蘭達との関連性、それは攻守の役割分担だった。
攻め担当はメディスン、触れれば行動を奪うものから致命傷を与えるまでの毒を吐き、その隙に弾幕で攻撃する。
そしてあの鈴蘭は防御担当。
花房一つ一つが意志を持ち、妖怪化しているのだろう、敵の弾を見定めメディスンに回避の指示を出す。
あの数であるから、統制を執るにしてもメディスンが行っていたとは思えない。おそらく、鈴蘭畑まるごとが一個の妖怪であったのだろう。
『眼』だけの妖怪。それを大きな複眼と捉えれば、個眼の数が多いほどその動体視力は高い。きっと霊夢の放つ弾幕がほとんど止まって見えてしまうほど。
それがメディスンの驚異的な回避能力のからくりであった。
だから、霊夢が放った大量の御札の主な目標はメディスンではなく、その後ろの鈴蘭畑だった。
弾幕により鈴蘭畑が徐々に荒らされていくと、やはりメディスンにも弾が当たり始めるようになった。
そこからはまさに雪崩れ込むようにして勝敗が決していった。
メディスンは終いには自ら弾幕にその身を投じて埋もれていったように、霊夢には見えた。
「…………居た」
小ざっぱりしている荒地にメディスンが横たわっている。
その身は先程までの姿とは似ても似つかないくらいだった。
服はボロキレ同然、ほとんど着てないようなもので、ほんの僅かだけ身体を隠している。
身体と言っても四肢が砕けどこかへ失ってしまい、胴体だって穴だらけだ。
なのに顔の方は不思議と綺麗で、瞼の開け放たれたガラス球が空を仰いでいた。
「なんだ、貴方も人形だったの」
砕けた四肢の先、霊夢の視線は自然とそちらへ向かってしまう。
そこには血ではなく、何かけばけばしい色をした液体が空虚な穴から流れていた。
肉や骨といった生物的なイメージは無く、筒のような四肢が胴体にくっついている。
半端に人の形が垣間見えるせいで、余計にお人形という事実が際立っていた。
霊夢はそこから視線を逸らさず、メディスンに言う。
「これ以上は忍びないでしょ。止めを刺すわね」
一体誰が忍びないかは霊夢には分かっていた。
だがこのまま放っておくわけにもいかないし、最後ぐらい情けを掛けてやりたい。
あくまでも止めは冷淡に、後味は濁さないようにしなければならない。
それが自分勝手なことだとも、霊夢には分かっていた。
「……わたしはねぇ、ちょうちょうになるの」
霊夢が動く方の手を掲げたとき、メディスンが口を開ける。
口は開いてるが、その声は身体に空いた穴から響いているかのようだった。
実際、言葉に合わせて動いていなかったのだ。
「ちょうちょうになって空を飛んでね、あの太陽に行くの」
「またか。貴方は蛾よ、そしてここで死ぬの。どこにも行けやしないわ」
「死ぬ? 私が?」
メディスンの表情はぴくりとも動かない。もうすでに元の人形に戻りかけているのだろう。
かろうじてその声の調子を読み取り、感情を窺い知れることが出来る。
どうやら、霊夢の言った事に対して理解出来ないと言ったふうだ。
「そうよ、もう貴方には力が残って無いでしょう。鈴蘭だって粉々よ」
「いやよいやよ、死にたくない! 私は死にたくないッ!」
突然、それまでの言葉とは対照的に、メディスンは落ち着きを無くして息を荒げた。
ようやく自らの今後の処遇に気付いたのか、動揺を隠せないで騒ぎ立てる。
「わたし、わたしは、昨日やっと動けるようになったのよ。気持ち悪くなるほど時間を掛けて、やっと私の世界を手に入れたの! それがこんな……!」
「お気の毒にね」
「人間に勝手に愛されて勝手に捨てられて、それで人間を殺したら今度は私が殺される? どうしてよ、じゃあ私はどうすればよかったのッ!」
「幻想郷では貴方の存在は許されないの」
霊夢は語気に力を込める。
「そんなのあなたたちの勝手じゃない、私には関係ないわ」
「人間の子供を殺した。それによって『憎しみ』っていう関係が出来上がるの」
「私だって人間が憎いのよ。あなたはなんなのよ!」
「私は博麗の巫女、妖怪退治が生業」
「そんな、そんなの……」
「ちょうど貴方のような、この幻想郷に邪魔な存在を滅する。毒を消す薬よ」
「邪魔ですって……?」
――――あの人形が邪魔でこの子が飾れないの。
人間はそう言って、メディスンを棚の隅に片手で退けた。
暫く掃除の行き届いていないその場所は、溜まった埃と蜘蛛の巣が張り、綺麗なドレスが煤けた。
それからメディスンの居場所はクローゼットの中、倉庫の奥へと追いやられ、そして時間が経つに連れて誰の記憶からも抜け落ちていった。
忘れられた者の行き着く先はこの幻想郷。
気付いたら鈴蘭畑で横たわり、その美しいガラス球で空を見上げていた。
久しぶりに見た青い空なのに、メディスンは。
「邪魔じゃないわッ!」
メディスンの顔に生気が戻り、その眼で霊夢を睨みつけた。
「スーさん! スーさんどこ? 早く教えて、こいつを殺すの!」
「あの小さい人形ならもう居ないわよ。逃げちゃったんじゃないの?」
小さい人形の姿は霊夢が攻撃し始めた時には、もう影も形も無かった。
あれも妖怪だったのか、メディスンや鈴蘭畑とはまた別個の存在だったようだ。
後で探し出して滅さなけばならない。
スーさんとやらが居ない事を聞いたメディスンは、それでも頭を必死に振る。
「なんで返事してくれないの? ねぇ私は動けないのよ、ねぇ!」
「やっぱり貴方は操り人形なんだ」
「だから何よ! たとえそうだとしても、私は死なないし人間を殺すわ」
変わらず頭を振って何かを探してるメディスンに、霊夢は哀れさでつい眼を細めた。
眼の前の半分壊れた人形は、如何にしてこの幻想郷に落ちて来たのか。それを想像するのは虚しいことに思えた。
この人形の人間に対する憎しみは純粋だ。
仕方が無かったとか、言われぬ理由があったとか。そのような心の澱みや濁りが全く無い、精神的に整然とした、書棚にある本全てが人間を殺す内容ばかりのような、そんな感情を持っている。
毒を操るという能力にもその心理が表れているようで、そのベクトルが向けられているのは人間であって原因を作ったのも人間だったから、霊夢はメディスンの毒を被ってしまったことを少なからずも失敗だったとは思わなかった。
これから死ぬメディスン。魂も残さず滅するつもりだ。
それならば、何かしら後悔の言葉でも言ってしまってくれたら、気が楽かもしれない。
もちろん、それは人間側の勝手な解釈だとは知っているのだが。
「こんなの、こんなのないわ。死にたくない、死にたくない」
「貴方にそれを言う資格は無い」
霊夢は一層メディスンを突き放して、今度こそ止めを刺す為に力を集中する。
御幣がそれに呼応して風もなく揺れると、メディスンは俄然として黙ってしまった。
諦めがついて観念したのだろうと、霊夢は解釈する。
その様は絶望一色で先程と逆に萎むように表情が消え、見ているとこちらにも移ってしまいそうだ。
「さあ、いま楽にしてあげるから」
自虐の意味も込めて霊夢は最後の言葉を放つ。
だがその言葉は宙を切ってしまってメディスンには届かない。ただ一言、
「――知らなかったのよ」
霊夢の動きがそれっきり止まってしまった。
知らなかった。そう知らなかったのだ。
メディスンは生まれたばかりの妖怪でまともに弾幕も張れないし、スペルカードも手にしてない。
幻想郷のルールをまったくと言っていいほど知らないのだ。
こちらに来てから数十年、側にいたのは鈴蘭ばかりだったのに人間に対する憎しみは減らず、あげくにそれを利用して手駒にされる。
この結果は自ら招いたことだとしても、力を与えた者が他に居て何も知らずに行っていたとしたら、このメディスンに果たして罪はあるのだろうか?
ただ感情にまかせて行動しただけではあるまいか、空腹を満たす事や欲求に応じただけのことではないのか。
それを第三者である霊夢が、しかも片方の言い分のみで動いてもう片方を滅するなど、あってはならないのではないのか。
少なくとも、自分が手を出してはいけないことだったと、霊夢は心に浮かび上がらせてしまった。
波紋は波紋を呼び、やがて精神の隅々まで広がってしまい、身体の自由さえ奪ってしまう。
無知は罪か。それとも罪故に無知なのか。
こんなことはあの閻魔様にでも押し付けてしまいたいが、生憎とこれは霊夢の眼前での出来事で、逃げ出すことなど出来ない。
「…………」
次の一手が出ないまま、背中に湧き出た汗は腰で止まって巫女の衣装に染み込む。
メディスンは先程の一言を呟いてから口を噤み、空を見上げている。
まだ正午前の涼しいくらいの空気が覆っていて、動かない二人が佇む荒野は不自然極まりない。
この雰囲気ならば振り上げた手を下げる事も出来得るのではないかと、馬鹿な事を一瞬でも考えた脳みそを振り、霊夢はそれでもそれ以上のことを出来ないでいた。
自らの歯痒さに辟易としていると、微かにメディスンの表情に変化が現れた。
何度も瞬きをし、時折りぐっと瞼を閉じて力を込める。
メディスン本人にも理解しがたいのか、戸惑うようにその大きな瞳を煌めかせた。
霊夢は己の眼を疑った。いや、眼の前に起こった事が信じられないのだろう。
メディスンの瞳、どこを探そうが他に無い、一品物の綺麗な眼から涙粒が累々と溢れ出ているのだ。
形を持たない宝石のような、光を帯びて輝く特大の涙粒。
それはきっとメディスンの想いなのだろう、望みなのだろう、頬を伝うものは嘘ではないのだから。
霊夢の心は完全に瓦解してしまって、もう御幣をかざすことすら出来なかったが、そんなことはどうでもよくて、ホッとしてしまっている自分に呆れていた。
これでどうにかなるのではないか?
そんな安易な希望を抱いてしまったが、もしかしたらと感じるのだ。
メディスンがゆっくりと口を開く。そうだ、次のその一言で全てが変わるかもしれない。
今は荒れ果てたこの場所にもまた花が咲くし、この毒に侵された傷みもそのうち消えるだろう。
少しくらい良いではないか、この人形に温情を掛けたって良いではないか。
今まで救いの言葉も言わなかったメディスンが、私の眼の前で言うのならば。
そうだ、言ってしまえ、この私が諦める事の出来得る言葉を、私を止める言葉を。
「…………わたしは、
言葉と共に涙を煌かせた瞬間、メディスンは砕け散った。
胴体に突き刺さるように弾が飛来し、爆散、霊夢の眼の前で四肢どころか全てが粉々になる。
喋りかけて開いた口も、涙を流していた眼も、一瞬にして散って霊夢の網膜に焼きついた。
霊夢自身、眼前の出来事に愕然としたのだ。本人などその事実に気付いても、いや、感知出来たかどうか、それすら危うい程の一瞬間である。
考えるも感じるもない、突然の惨劇は無情に何もかもを奪い去るのみ。
振り上げられた鎌が今メディスンに届いたのか、叫び声を上げる暇も無く、自らは知る事も無く、裁断が行われた。
本当に何もかも、その存在をも失ってしまったメディスンを、霊夢は網膜を通り越して脳に記憶に、焦げ付くように刻んだ。
昨日生まれて今日死んだその生を。
未熟過ぎた面影を残し、人間を憎んだその姿を。
辺り一面にメディスンの破片が散らばっていく。
想いも言葉も微かに見えていた望みも、夢だったかのように消えていく。
霊夢の耳には残っている。メディスンの最後の言葉が。
「誰だッ! メディスンは……ッ」
視線を振った先に人影があった。
この場から人間の里の方角、ちょうど霊夢がやって来た方向に、メディスンを殺した者が居た。
そいつは殺したなどとは思っておらず、当たり前のことを為したまでだと仁王立ちで霊夢を見つめている。
いや、霊夢ではなく、今は砕けて変わり果てたメディスンの破片を見ていた。
睨んでいる、の方がしっくりくるかもしれない。尋常とは思えないほどに眼光は鋭く、刃のような視線をそいつは投げつけてくる。
「これはどういうことだ、博麗の巫女よ。お前に任せてよかったのではないのか?」
そう言う者の口調は棘を帯びて霊夢に突き刺さる。
一眼振り向いてすぐに誰か分かったが、こうして近づかれるとあまりに豹変してしまっているので別人にさえ思えてくる。
遠くの方がシルエットでしか確認できないので曖昧にでも本人だと分かるのだ。
今眼前に居るのは、普段霊夢が知っている人物とは似ても似つかない表情と雰囲気、そして殺気を放っていた。
この者は焼け爛れた記憶を清算する為、この場に馳せ参じたのだ。引き止める村人を振り払ってまで。
そうして霊夢の眼の前に立つ上白沢慧音は、今や人としての面影を留めていなかった。
それはもちろん表面上ではなく、彼女が放つ雰囲気や気迫が霊夢の知っているそれとはかけ離れていたからだ。
神社で見た鬼の形相とは別に、満たされたかのように不穏な、自己満足にも似た不気味さを感じるのだ。
まさか復讐を為し得て歓喜に浸っているのではないだろうな、と霊夢は思い至る。
亡くなった子供達はみな慧音の教え子だ、あの憎しみが迸る様を見るに、復讐心に駆られてしまうのには容易に想像出来るが。
「そうよ、そのような取り決めであったはず。なのに、貴方こそどういうことなのよ」
その気配に負けぬようにと、霊夢も凄んで対立する。
神社では臆したが、この場で、この行為を許すわけにはいかない。
「ではなんだあれは? 子供達の仇を眼の前にして、悠長に手を掲げるばかりで撃ちもしない。妖怪の退治屋が聞いて呆れる。情でも移ったのか?」
「……いつから見ていたのよ。取り決めをちゃんと守りなさい」
「ぼけっとしていたようなのでな、私が代わりに手を下したまでだ」
慧音が見下した先にはメディスンの破片がある。
霊夢の眼がおかしくなければ、慧音の口元は薄く吊り上って見えた。
だが、次第に震えを帯びて崩れてしまい、途端に語気を荒げる。
「そうだ、殺してやった。仇を、あの子達の仇を討った、貴様が何もしないから!」
詰め寄り、霊夢の襟口を強引に掴み上げる。
思った以上の強張った力でやられたので、毒の痛みで霊夢の顔が引きつった。
つい庇うように仰け反ると、慧音はそれを見越して痛がる霊夢の腕もその手で掴む。
「あうぅ、いっ……!」
「あの子達の苦しみはこんなものじゃない、いや、それすら今は感じられないんだぞ!」
掴んだ手が小刻みに震えている。力んでるからではなく、耐え難い何かに耐え忍んでいるかのように。
上白沢慧音は泣いていた。
大粒の涙をぼろぼろ流し、下顎も震わせて、慧音は霊夢を睨みつける。
「貴様が、何もしないから……! 私がこの手で、この手を、この手が……!」
それは大きな涙粒で、慧音の中に在るものを吐き出してしまおうと溢れかえっている。
霊夢の頬にも打ち付けるように降り注ぎ、その湿った感触で毒の痛みが和らいだ気がした。
だが、慧音の痛みが今後和らぐことなどないのだろうと、霊夢は思う。
「村でこいつの居場所を聞いてどうしようもなくて……!」
その零れ落ちる涙に、霊夢は見覚えがあるのを感じた。
つい先程、あの人形から流れていたものとまったく同じではないかと。
「……ここで姿を見た途端、私の中で何かが生まれたんだ」
慧音の涙は止め処なく溢れ、きつく吊り上っていた眼は赤く腫れ上がって萎んでいる。
霊夢には以外であった。いや、自分が当人ではないからそう思えるだけで、実際は当然の事なのだろうと思い改めた。
それとは別に、霊夢は不思議に思うことがある。
慧音の涙もメディスンの涙も、何故こんなにも美しいのかと、宝石のように輝くのかと。
「いや、子供達が亡くなったときには既に生まれていたんだ。私はそれを抑えようとした」
何が溢れているかは理解している。これでも人並みの心は持ち合わせているから。
感情の吐露、見た目通り形の無い物は同じく形を成さないモノに支配されている。
それは想いであったり感情であったり望みであったり、涙は形状を持たぬ故に心に染み渡り、そして容易に溢れ出す。
増えるも減るもそれ次第で、注ぐも拭うも全てそれに支配されている。
「でもこいつを見て、その何かが私から溢れ出た。怖くて、怖くて……! 何を今更、お前の気持ちはすでに固まっているではないかと、呟くんだ……」
この世の生き物は全てそんな曖昧なものに支配を受けて生きている。
逆に言えば、その支配から脱却することが死するということなのだろうか。そういうことなら、涙がこんなに輝く理由も視えてくる気がした。
死に至ると支配から抜け出せるなら、自らを進んでその支配下に置いてしまえば、望んで享受すれば、生き物とは良く出来ているものでそれだけで余すところ無く全てを吐き出せるのだ。
全てとはすべてである。自分の中に在る何もかも、魂と呼べるものさえ溢れさせる事だって可能なはずだ。
慧音の涙もメディスンの涙も、すべからく魂の輝きなのだろう。
「私は、自分が何を思って何を考えていたのか。分かるんだ、どす黒くて醜いものが私の中で息づいている、それが恐ろしくて仕方がなかった……! 誰かに助けて欲しかった……ッ!」
「……助けて、そうね助けて欲しかった。あの妖怪もきっと、同じ気持ちだったのよ」
「…………ッ!!」
力無く、そして項垂れるように慧音の手が霊夢から離れる。
そうだ、先程以外だとは思いもしたが照らし合わせれば当然なのだ。
両方の魂の輝きを見た霊夢は、その美しさの影にある形の無いものを捉え、それが同じ質のものであると分かった。
殺し殺されの、倶に天を戴かずの関係であるのに、どこか見えないもので繋がっていく。
必ずしも正しくない、かと言って誤っていた訳でもない、未練だけが残像を映し遺す。
そう、慧音とメディスンは同じ理由で泣いている。
助けて欲しいと魂を溢れさせているのだ。
慧音は今や普段の精悍さを留めていなかった。
ただただ泣き崩れ、膝を突き、凍えるように身を震わせて。
吐き出してしまえばいい、と霊夢はそっぽを向いて己の身の痛みに耐えている。
私の分まで。
…………。
……わたしの前で誰かが泣いている。
見覚えがある、でも思い出せない。……かわいそうだと思う。
…………。
……あ……ら。
霊夢と慧音の姿を見つめる、一つの眼があった。
慧音に砕かれたが、なおも見つめ続けるメディスンの美しいガラス球だ。
その漆黒を帯びた瞳孔の中の二人の姿は、水面に写り込んでいるようにゆらゆら揺れている。
すらりと細くなったかと思うと、とみに幅を増して形容し難くなり動きに規則性が無い。
光の屈折によるイタズラに、瞳孔の周囲にある虹彩も色鮮やかに賑わいを増す。
だが、ガラス球はそれを愉快だと感じる事が出来なかった。
メディスンの魂と呼べるものは、もうほんの少ししか残っていなかったのだ。
見つめる眼に感情は無い。
考える事も想う事も出来ないで、ガラス球はゆらゆらと輝いている。
しばらくすると、いつまにやら慧音の影が消え、霊夢のみが一人取り残されていた。
辺りを見回していたが、やがて霊夢も飛び去ってしまう。
追う事など出来ない。
メディスンの世界が暗転する。
◇◇◇
三日後、博麗霊夢は寝汗の不快感と壮絶な空腹感に促され神社の布団の中で眼を覚ます。
心配する魔理沙を押し退け永琳の薬を苦いから嫌だと跳ね除け、うなされること三日間。
ようやく楽になった霊夢の顔を魔理沙が覗き込んでいた。
にやにやした顔の魔理沙に、霊夢は口で息を吹き掛けて退けと促す。
「いやはや、担ぎ込まれたときはあわや遂にと思ったが。私に感謝するんだな」
「なんであんたに感謝しなきゃならないのよ」
にやけた顔が一層ほころび、歯を見せてうしししと腹を抱える。
例え桶屋が儲かろうが地球の反対側で嵐が起きようが、寝ている霊夢に薬を飲ませていたなんて、蟻の溜め息ほども言う気はないのだ。
勝手にやったことで借しを作っては霧雨魔理沙の名が霞む。
「ところで人形を探すんだったよな。手伝うから今度奢れよ」
「まだ手伝ってなんて言ってないし、毎日お茶タカりに来るくせにだし」
「病み上がりなんだから好意には素直に甘えるのが長生きのコツだぜ」
正直、望まれようが望まれまいがお節介はするつもりだったし、借りなんてオマケみたいなもの。要は自分の好きな事が出来るかどうか、それが最重要、最優先。
未だ眼を細めたままで魔理沙は霊夢を見送り、じとじと重い寝巻きを振り乱して霊夢は風呂場に向かった。
茶箪笥に指を刺すのを忘れず行い、魔理沙がそれに気付いてゆるゆると煎餅にありつく。
つい先日も見たその光景に、霊夢は月並みの日々が戻ってきたと感じる。
湯浴みを軽く済ませ、いつもの紅白の巫女服に着替える。
四日前にも着ていたものと同じ服。魔理沙が洗っておいてくれたらしく、日向の匂いがした。
一応同じ形の巫女服が何着かあるが、今日はこれでいいと霊夢は思う。
そのうちに襖を挟んで魔理沙が声を掛けてくる。
「無理せず私に任せてもいいんだぜ。アリスも動いてくれてるし」
そう言ってくれる声に返事はせず、霊夢は髪結いを手に取る。
まだ少し熱はあり、万全ではないがこれ以上あの人形を野放しにしたくない。
恐らくメディスンを操っていたであろう、小柄な人形。
鈴蘭畑がなくなっても動いていたアレはやはり別個の妖怪なのだろう。
また妖精や妖怪を従わせる前に、見つけ出して滅さなければ霊夢の気が納まらない。
幻想郷の為にも、メディスンの為にも。
勢いよく襖を開け、それをもって魔理沙の言葉に返事をする。
魔理沙も気付いてくれたようで、それ以上は言及せず、行こうか、と言ってくれた。
つま先が地面から離れ、重力が緩くなるのを感じながら、霊夢が飛翔する。
後に続いて宙に浮く魔理沙は、急に何かを思い出し箒を加速させて霊夢の前に出た。
「そうだ、霊夢が調べておいてくれって言ってた蝶々の事、知りたいか?」
「…………うん?」
言われて霊夢も忘れていたようで、眼を瞬かせて魔理沙に近づく。
自分の事ながら忘れっぽいというかなんというか。今日までずっと臥せっていたんだからしょうがないんだと、心の中で言い訳をする。
「気の無い返事だな。せっかく借りてきてやったのに」
ほらよ、と魔理沙が帽子の中から本を取り出して投げて寄こしてきた。
ずしりと手に響き、思わず取り落としそうになるほど重かった。この本をずっと頭の上に乗せていたのだろうか?
言及はさて置き、霊夢が渡されたのは一冊の昆虫図鑑だった。
メディスンがよく、蝶々になる、などと言っていたので、少し興味が沸いて魔理沙にお願いしておいたのだ。
「パチュリーが嘆いてたよ。霊夢も私の本を盗むのかって」
「私は強盗してくれなんて頼んでないわよ。すぐに返すからお茶用意して待ってなさいって言っておいて」
再びはにかむ魔理沙を横目に、霊夢は図鑑のページをめくる。
誰かさんの親切で、蝶々のページの角が折られていた。パチュリーに怒られるのはその誰かさんなので気にしない。
図鑑には蝶々の生態と行動、二万種と言われる分類などが詳しく載っていた。
さすがにそんな数だと眩暈がするので概要のみをパラパラと読み流すことにした。
本を読む霊夢が珍しいのか、隣で魔理沙もまじまじと見守る。
何故蝶々について調べるのかは霊夢には聞いていない。ただものぐさな霊夢が何かしらに興味を持つ事自体がうれしいのだ。
延いては霊夢が自分に頼ってくれたことに対してもなのだが、それは言うも言わぬも野暮というもの。
それならば心の内に留めておくだけで充分な事柄もある。
「…………これって」
数多く列挙してある蝶々の項目。その中に霊夢の眼が止まる記述があった。
それは蝶々と蛾の違いについてのことだった。
「ん、どうした。面白い事でも書いてあったか?」
面白い、かどうかは霊夢にとって微妙なところだ。
さんざんメディスンに言ってしまった手前、こんなものを読むと自分の無知ぶりも少々恥ずかしくなる。
蝶々と蛾の違い、イメージばかりが先行してしまっているが実はとても曖昧で本質的な区別は為されていないという。
蝶々としての特徴はある程度定義されているが、蛾としての特徴を現す為には蝶々の特徴をもって消去法で表すことでしか出来ない。
それでも曖昧なのは変わらず、見た目が蝶々なのに分類では蛾に属する者もいる。
つまりこの二種類はほとんど同じ生き物、ということらしい。
「ふーん。でも以外、というほどでもないな、私は」
「そう……かしら。私はてっきり、悪いイメージばかりで別のものかと」
「だって蝶と蛾って姿が似てるからな。蜜を吸う者、肉食の者、毒を撒く者、撒かぬ者……」
「それは、そうだけど」
「姿形は同じだけど、全然違う行いをする者も居る。私ら人間と変わらんじゃないか」
同じ人間でも様々な者が居て、それが普通だと言いたいのだろうか。
魔理沙の言ってる事はきっと間違ってはいない。見た目が違えば内面も違うと思ってしまうのはいたって普通の考え方だろう。
相手の眼が吊り上っていれば怒ってると思うし、笑っていれば喜んでいると思う。
表情と言うものは相手に自分の感情を伝える手段である。だがそれと同時に相手を騙す常套手段でもある。
伝えるという行動はそれだけでは意味を持たず、必ず前提として内容があり、それが無ければ成り立たない。
ただ、その内容が真実とは限らず、人は時に自分の利益の為に嘘を吐き、誰かを貶める。
故に表情は真実を最も伝えやすく、真実が最も伝わり難い。
「…………皮肉ね、自分の伝える努力は相手に理解されず、騙すつもりも無いのに相手はそう感じてしまう」
「まぁ、そんなに深く考えることないんじゃないか? 虫なんて生まれついての格好だろうし」
帽子をくるくると回し、魔理沙は霊夢の横を飛びながら巡らす思考を止めさせようとする。
病み上がりの霊夢の身体を心配して言ったつもりだが、想い事は止めようにも止まらない。
どうしても、あの妖怪の事が思い浮かぶのだ。
――――わたしは、
絶命直前に発せられた、あの言葉の先は一体なんだったのか。
メディスンはただ生きたかっただけ、だから感情に任せて人間を殺した。それは許せる行為とは言えない。
しかし、今は言える。無知は罪ではない、知ろうとしない行為が罪なのだと。
誰だって知らない事はある。罪とは知らずに行為に及ぶ者も居るだろう。
そこで気付くのだ、これはいけない事だと、子供が親に諭されるようにして初めて罪と認識する。
メディスンの不幸はそれを諭す者が居なかったこと、人間に対する激しい憎悪によって初めて犯した行為が大罪だっただけなのだ。
その結果慧音に殺され、短い一生を終わらせることになる。
霊夢が揶揄したように、メディスンは蛾と同じく、知らずにした行為が最悪な印象で伝わってしまった。
自らは望んでないのに敵を作り、知らなかっただけなのに大罪を犯し断罪された。
それが不相応だとしても、やはりこの幻想郷では爪弾きになりかねない。
「もし……もしも、違う姿だけど同じ想いを持っていたとしたら? 全然違う立場なのに、価値観や性格、それまでの状況だって違うのにお互い同じ理由で傷付けあっていたとしたら……」
「それは、うん……」
もしかしたら、メディスンは自分が操られていた事に気づいていたのかも知れない。
人間に捨てられ、それでも自分に手を差し伸べてくれるのは人間しか居らず、それを知った時のメディスンの心情を霊夢には想像する事が出来なかった。
だから憎んだ。激しい憎悪の対象として人間を殺すという手段を取った。例え操り人形になろうとも。
しかし心の奥底では助けを求めていた。それがあの涙の理由、純粋な感情の吐露。
例えば、例えばである。
河の向こう側に誰か一人立っている。
自分は一人で寂しくて泣き、その誰かに助けて欲しくて石を投げた。
でもそれを勘違いされ、石を投げ返されて怪我をしてしまう。
運悪く相手にも自分の投げた石が当たってしまう。
あいつさえ居なければと思い、石を投げる。相手も投げてきたのでさらに投げる。
自分の血が流れる。あいつも血が流れる。もっと、もっと。
投石が飛び交う光景で、お互い同じ理由で河岸に立っていると知らずに。
もし河の幅が狭かったら、相手の顔が見えるくらいの、悲しげなその眼が見えるくらい近ければ、そんな悲劇は起こらなかったはずだ。
そう、これは悲劇だ。
メディスンと慧音。河岸の客人同士がお互いを知らぬというだけでこれほどの事態が起こるとは、非道いものである。
まるで、蛾と蝶々ではないか。全く違う境遇と立場なのにその実、涙を流した理由は重なり、精神の深い部分では同調さえしていた。
助けて欲しいと泣いていた。
ほとんど変わりない同じ生き物があの場に居た事実を、それなのに憎しみと殺意でお互いを傷付け合った現実を、霊夢は。
「それは、悲しいことだな……」
言いたくない言葉を引っ張り出し、魔理沙が少し上を見上げた気がした。
つられて霊夢も顎を上げ、雲一つ無い空の青さにどこかで見た覚えを感じる。
そうか、あれはあのガラス球の色だったろうか。
霊夢の瞳に涙が浮かぶ事はなく、ただ空の青色が映っているのを、魔理沙は横目で感じていた。
了
応援してます
しかしながら人称の視点がぼやけていて、誰の心のなかを解説しているのかわからない箇所も多くあるようにおもいました。