妖怪の山の麓――霧深い湖の畔に紅い洋館がある。
城のような大きさの洋館は、まるでその辺りだけが異国の地であるかのような印象を与えた。
月が明るい夜には、青みを帯びる辺りの森と比べて、紅い色彩が一際浮いて目立ちより大きな印象を与える。
しかし、今夜のような大雨の日には、紅も青も無く、全てが鈍い灰色に包まれて、館もそのなりを潜めていた。
それは館の主人である、吸血鬼レミリア・スカーレットの気分そのものだった。
「退屈ねぇ……」
紅い館の紅い自室で、レミリアが呟く。
大きな安楽椅子に座ってゆらりとしながら、冷めた目で窓を見ていた。
雨音はぱらぱらとではなく、潮の遠鳴りのような、一つの連なる音となって、館の内に響く。
「そうですね」
主の傍らに佇む、館のメイド長十六夜咲夜は、小さく言葉を返した。
素っ気の無い返事だが、決して無関心と言う訳ではなくではなく、そこには主を思う優しい響きがある。
「咲夜。いつになったら降り止むのよ、この雨は」
レミリアは、外に出られない鬱憤を、従者にぶつけた。
吸血鬼である彼女は流れる水に弱い。雨もまた、流水の一つである。
雨粒がその身に触れただけで、焼けるような耐え難い痛みが走る。
万が一川に飛び込めば、あっという間に消えてなくなってしまうかもしれない。
何故、吸血鬼がそう出来ているのか。
それはレミリア自身にも判らない事なのだが、妖怪と言うものは、大体そう言う、訳のわからない弱点が存在するものなのだ。
そもそも、訳がわからないと言うのも、人を基準にした視点であり、妖怪から見れば、人間こそ意味の判らない弱点だらけなのかもしれない。
「さぁ……。もう四日目でしょうか。困りますわ、洗濯物も乾きませんし……」
普段、館の周りは雨が少ない。
湖一帯の地理的な要因ではなく、局所的に館の周りだけ、雨が少ないのだ。
館に住むレミリアの友人の魔女が、頼まれて行っている魔法のお陰なのだが、残念ながら持病の喘息が悪化して、お休み中である。
「洗濯物なんてどうでもいいよ。それよりさぁ、何か面白いヤツ持ってきてよ」
「ええ? 今からですか?」
苦笑混じりに、咲夜が応える。
「咲夜は濡れても平気でしょ?」
「そりゃ平気ですが、好きではないです」
「私は平気じゃ無いの! だから咲夜が出歩くしかないじゃない」
「しょうがないですねぇ……」
レミリアは、こう見えても五百年を生きた吸血鬼である。
しかしその性格は幼い容姿そのままに、我が儘で、遊び盛りだった。
そんな彼女にとって、四日間の退屈は拷問そのもので、そろそろ音を上げる頃だろうと、咲夜も理解していた。
「じゃ、任せたよ。待ってるからねぇ」
レミリアが無邪気に微笑む。
悪魔である彼女に、『無邪気な』と言う表現は些か似つかわしく無いかもしれない。
けれど、その可愛らしい笑顔が、咲夜にやる気を起こさせてしまう。
主の期待に応える忠誠心と言うよりは、プレゼントが欲しいとねだる娘を、喜ばせてやりたいと思う、母親の感情に近いのかもしれない。
「行ってきますわ」
咲夜は少し困った笑顔を浮かべ、次の瞬間にはレミリアの視界から消えているのだった。
§
――さて、誰を連れて来よう。
白い雨傘を片手に、咲夜は夜の闇を飛ぶ。
月は雲に隠され、遠くに見える人里の明りも雨に消され。
幻想郷は艶を失った鈍い黒に染まっている。
「困ったなぁ……」
館から漏れる光も見えなくなったところで、咲夜は一人ごちる。
面白いヤツを持って来い。
連れて来いではなく、持って来いと言う辺りが、ああ、何とも主らしい。
要するにレミリアが満足して遊べるような連中を、真夜中の大雨の中つれて来いと言う事だ。
真っ先に思い浮かぶのは、レミリアの一番のお気に入りの博麗神社の巫女である。
とは言え、真夜中に叩き起こされて、とても不機嫌になるであろう巫女の相手なんか、主の我儘よりも御免被りたい。
次に思い浮かぶのは、魔法の森に住む自称魔法使いの泥棒である。
連れて行くにも、霊夢ほど苦労もしないし、怒りもしないだろう。
けれど、自ら泥棒を招き入れるのは、メイドとしてどうなのだろうか、と、咲夜は首をかしげる。
同じく、魔法の森に住む人形使いは――レミリアのことを避けている節があった。
図書館の書物には興味津々なのだが、それ以外の用事ではちょっと誘いにくい。
呼ばなくても入り込んでくる烏天狗は、意外とレミリアを煽てるのが上手かった。
こういう時こそ役に立てるだろうに、不思議なことに、こちらから探すと全く見つからないのだ、
誰を連れて行くにせよ、嫌がるヤツを無理矢理と言う構図に変わりは無いのだから、近いヤツなら誰でも良いかと咲夜は思う。
「ああもう、服は濡れるし、視界は悪いし。誰か見つけたら問答無用で持っていこう」
咲夜の目は、闇の中でもよく物を捕らえることが出来た。
そうでなければ、夜の王たる吸血鬼に仕える事など出来無いのだろう。
空を飛ぶスピードを上げる。
服は余計に濡れる破目になるが、早くこの仕事を終えたほうが楽だと考えた。
こんな雨空を飛んでいる者は、恐らく自分以外にはいるまい。
とりあえず、一番近場の泥棒の家に押しかけるつもりで、咲夜は進路を定めた。
咲夜が行く手に漂う未確認飛行物体を見つけたのは、館と目的地の、ちょうど中間辺りであった。
「……何かしら? アレ」
色彩まではわからないが、そのシルエットは巨大な茸のように見える。
嗚呼、とうとう魔法の森の怪しい茸は、空を飛ぶまでに進化したのだろうか――。
主が気に入るかどうかは別として、もしその通りなら咲夜にとっては、面白い事柄に違いない。
向かう先の泥棒や、森の入り口にいる剣呑な半妖程では無いにせよ、咲夜もまた珍品を蒐集するのが好きな変わり者である。
さて、その正体を探ってみようかと、咲夜は仕事を一時中断して、目の前の茸を追う事にした。
「茸……じゃないよね。そうだとしても、毒茸ね。色彩的に」
空飛ぶ巨大茸の正体は、風の吹くままに、ゆらゆらと漂っている大きな紫色の傘のようだった。
なあんだ、と、咲夜はため息を吐く。
――しかし、柄にぶら下がったものはなんだろう。
太い茸の柄に見えた部分は、どうも人の形をしているように見える。
まさか、巨大な傘を差していたら、突風に吹き飛ばされ、空高く舞い上がった人間なのではないだろうか。
「もし、そうなら面白いけど……。多分、妖怪よね」
往々にして、急いでいる時ほど邪魔が入りやすい。
茸が気付いていないのならば、避けて通る選択肢もある。
しかし、そもそも、咲夜が今空を飛ぶ理由、それは主の暇つぶしの相手を探す事だ。
むしろ余計な手間が省けるかもしれない。
そのうち茸もこちらに気付いた様子で、ゆらゆらと近づいて来た。
弾幕ごっこが始まるにせよ、始まらないにせよ、有無を言わさず攻撃するのは、いかにも野蛮で美しくない。
咲夜はその場に留まり、妖怪がやってくるのを待った。
ぴたり、と、咲夜の目の前で、妖怪が止まる。
「……」
「……」
――凄く弱そう。
それがその妖怪に対する、咲夜の第一印象であった。
傘の柄にぶら下っていたのは、自分の主よりも、やや背が高いかと言ったところの妖怪少女で、傘の下から顔を見上げて、咲夜の顔を捉えていた。
ただ、咲夜はその少女より、遠目にも大きく見えた傘の可笑しな装飾に目をとられていた。
傘から飛び出した、真っ赤で大きな舌と、大きな一つの赤い目玉の柄。
不意に目が合った気がして、暫く視線を逸らせずにいた。
「ねぇねぇ」
傘の下から声がして、咲夜は止めた覚えのない時間から開放される。
傘に続いて、妖怪少女と目が合う。
咲夜は二度瞬いて、少女の瞳を覗き込んだ。
右の瞳は蒼く、左の瞳は赤い。
奇妙な傘とは、似ても似つかないような、整った顔立ちの可愛らしい少女だった。
「何かしら」
すっかり毒気を抜かれてしまった咲夜は、無表情のまま、傘の少女に返事を返す。
口を結んで微笑む少女の顔は、何かを咲夜に期待しているような、そんな表情に見える。
はて、妖怪が人間に期待する事と言ったら、食料くらいのものだろうけれども……。
「うらめしやー」
右目を瞑り、舌を出して、少女が言う。
「……?」
咲夜は首をかしげた。
少女の意図するところが一体何であるのか、咲夜の賢い頭でも、すぐに理解する事が出来なかった。
そのまま、無言で見つめていると、少女は何だか不安そうな表情を浮かべ始める。
おかしいな、どうしてだろう、期待していた何かを外してしまったような――そんな焦りが見て取れた。
そして、よし、と、一念奮起してもう一度。
「うらめしやー!」
さっきよりも、声を大きく張り上げ、右目をより強く瞑り。
そして少女は、再び反応を窺うように、不安そうな表情で咲夜を見つめる。
ああ、そうか、この妖怪は私を驚かそうとしているのか。
二回もやられて、その意図が判らない咲夜でもなかったが、今度はあえて無表情を貫いた。
決め技を二度も破られて、慌てる少女の様子が、面白かったからに他ならない。
「……私を見て驚かないの?」
「……」
咲夜は更に、沈黙と無表情を突き通す。
いまどき、妖精だってもっと工夫して悪戯してくると言うのに、なんてステレオタイプな妖怪なのだろうか。
これではせいぜい、赤ん坊が笑う程度のものだと、咲夜は思う。
さらに慌てる少女を見ていると、口の端が持ち上がってしまうのを、堪えきれなくなった。
「……ああ、やっぱり私には才能が無いのね。ぐすん」
少女は、わざとらしく俯いて泣く真似をしてみせる。
それだけの余裕があるのなら、驚かれない事にも、慣れっこなのだろう。
「うーん、それで驚けって言うのは無理があると思う。うちのお嬢様と一緒ね」
苦笑混じりに咲夜は返す。
目の前の少女の正体、恐らくは、唐傘お化けというヤツなのだろう。
古惚けた傘が化けた妖怪、付喪神の一種。
ただ、舌を出して人間驚かせて満足すると言う、とてもシンプルな妖怪。
いや、妖怪と言うよりは、お化けと言う、少し格の落ちた呼び方がしっくり来る。
「ところで、用件はそれで終わりなのかしら?」
「……あ、うん。こんな天気に外で飛んでる人間が珍しくて。暇だったし」
「そう、暇なの」
もう、このお化けで良いか。
果たして主のお気に召すかどうかは、自信が無い。
ただ、一人の人間を驚かすのに、やたらと神経を使うこのお化けが、何故だか咲夜には面白く感じられた。
周りの人妖が、皆物騒で大雑把過ぎるせいかもしれない。
「ちょうどいいですね。私は暇で面白いヤツを探していたの」
「え、私って面白いの?」
「ええ、時代遅れな所とか、驚かすのがヘタなところとか」
「そういう風にわちきを作ったのは、貴方達人間だと言うのに。ああ――人間って無情よね……」
芝居がかった口調で喋るお化けを見て、咲夜は少しだけ意地悪をしてみたい衝動に駆られる。
どれ、得意の種無し手品を使って、一つ悪戯を仕掛けてあげようか。
咲夜はお化けを屋敷に誘うついでに、どんな悪戯をしようか、考え始めた。
「それで、ええと貴方……お名前は?」
「多々良小傘よ」
「そう、多々良さんね。私は十六夜咲夜。湖の畔の館、紅魔館でメイド長をしています」
「紅魔館って……あの紅くて大きな家?」
「そうですわ」
それを聞いた小傘は、少しだけ緊張した顔になった。
幻想郷に住む人妖なら、誰しも一度は紅魔館の噂を聞いたことがある。
曰く、我儘で残忍な吸血鬼の住む館。
曰く、子供っぽくて可愛い吸血鬼の住む館。
「それで、多々良さん。よければ、紅魔館にいらっしゃいませんか?」
「私が?」
「嫌でも、無理矢理連れて行きますけど」
「嫌だなんて言うつもりなかったのに……。そんな風に言われると、何だか、危険な香りが……」
たじろぐ小傘を見て、咲夜はうふふと不敵な笑顔を作ってみせる。
「有無を言わさぬ笑み」の使い方を、咲夜は良く知っていた。
それにしても、やたら嗜虐心を刺激する少女だと、咲夜は思う。
嗜虐的な嗜好が有ることは自覚していたが、それがどうにも疼いてたまらない。
「うん、行ってもいいよ、どうせ暇だし」
「じゃ、早速行きましょうか」
咲夜はくるりと振り返り、紅魔館に身体を向ける。
「あれ? え?!」
小傘が驚いて、素っ頓狂な声をあげたのはその直後だった。
振り返った咲夜が差している傘は、大きくて紫色の、紅い目玉が描かれた――。
「きゃあああ!」
幾らなんでも、大袈裟過ぎる悲鳴に、少しだけ驚いて咲夜は振り向く。
「そんな叫び声あげなく……あれ?」
小傘の悲鳴が遠ざかる。後ろにではなく、真下に。
小傘は今、重力に引き寄せられ、落ちている最中だった。
――もしかして、この傘じゃないと飛べないのだろうか……。
予想外とは言え、ちょっぴり悪戯が過ぎた事を悪いと思い、咲夜は左手で懐中時計を取り出した。
懐中時計についたボタンを押すと、カチリと音がして、その秒針が動きを止める。
次の瞬間、咲夜の世界から音と色が消える。
雨は空に浮かぶ水滴となり、風は動きを止め、地上に堕ち行く妖怪は空中に浮かんだままになる。
懐中時計の秒針を止めた事に、然したる意味は無い。
時計が無くても、咲夜は時を止める事が出来る。
ただ、こうしたほうが、より強く止まるような気がして、それが習慣付いてしまっただけの話だ。
咲夜は紫色の傘を片手に持ち、落下傘でも開いているかのように、ゆっくりと降りて行く。
弱そうだとは言っても、妖怪なのだから地面に落ちたくらいじゃ死にはしないだろう。
ただ、泣くほど痛いだけで。
嗜虐心をそそると言っても、そう言う酷い目に合わせたい訳ではなかった。
妖怪相手に罪悪感を感じるだなんて、らしくないなと思いつつ、咲夜は小傘の救助に向かう。
小傘は唐傘の代わりに持たされた、咲夜の白い傘を、片手にもったまま落下していた。
目尻に溜まった液体は、涙か雨か判らない。
「ごめんね」
落下の風圧のせいで、咲夜の傘はすっかり裏返って壊れてしまっていた。
握られたままの壊れた傘から、小傘の片手を外し、紫の傘をその手に戻す。
小傘の姿勢を整え、懐中時計をもったままの左手を背中に、右手を太腿の裏に手を回して、落ちないように抱きとめた。
まるで、羽根のように軽い。
例えではなく、小傘の身体は咲夜の腕でも楽に支えられるほど、軽かった。
そしてもう一度、懐中時計のボタンを押す。
「――ああああぁ! あ……? あれ」
耳を劈くような悲鳴が再生を再開し、雨の音が戻ってくる。
「驚かせすぎちゃったわね」
「あ、あれ? 私、今堕ちて……?」
「もう大丈夫ですから」
小傘はまだ、頭から疑問符が消えない様で、色の違う二つの瞳で、あちらこちらを見回していた。
「もう自力で飛べるかしら?」
「え……。あ、ごめんなさい、まだ少し怖いかも」
生々しく残る、墜落の恐怖に小傘は少し身を縮め、大事な傘を離さぬよう強く握った。
「なら、このまま飛んでいきますか」
正直に言えば、この格好は少し恥ずかしいのだが、悪戯した負い目もあってか、咲夜は小傘を抱きかかえたまま、紅魔館に帰る事にした。
どうせ自分の傘は壊れ、お化けの持つ大きな傘しかないのだから、良いだろう。
「ねぇ、これ貴方の傘だよね?」
腕の中から、悲しそうな顔で小傘が問いかける。
同じ傘だからだろうか。
捨てるつもりだった傘だが、罪悪感と、ほんの少しの見栄から、咲夜はこう応えた。
「ああ、壊れちゃったわね。修理に出さないと」
その言葉を聞いた小傘は、嬉しそうに咲夜を見上げた。
§
――どうして私はこんなところにいるんだろうか。
小傘の目に映るのは、天井からぶら下がる豪華なシャンデリア、真っ赤な絨毯と天鵞絨。
そしてどこまでも続く廊下。
誇張ではなく、本当にどこまでも続いているように見えた。
そんな廊下を何度も曲がっていく。
確かに大きな館だが、外から見た時よりもずっと広く感じる。
普段、風に任せて宙を漂い、時折、人里に出没する程度の妖怪である小傘。
柔らかい絨毯は、下駄では滑って歩き難く、自分が場違いな存在である事を、否応無しに自覚させてくれた。
そして、極め付けは目の前にいる吸血鬼である。
人間を驚かして満足するだけの、実に平和的な妖怪である小傘と比べて、どれだけ恐ろしく強大な妖怪であることか。
吸血鬼は、出会った時からずっと小傘に訝しげに視線を向けていた。
――お前は誰?
――何でこの屋敷にいるのかしら?
そんな声が目の前の悪魔から、いや、館全体から聞こえてきそうな感じがした。
小傘は「あ」とも「う」とも呻かず、ただ緊張した面持ちでレミリアを見返していた。
長く気まずい沈黙。
恐らくは三十秒にも満たない時間なのに、小傘には一時間のようにも感じられた。
「あー。咲夜」
「はい、なんでしょう?」
表情から不機嫌の色を隠さないレミリアに、咲夜はいつもの抑揚を抑えた声で応える。
「これは何?」
怪訝な視線を咲夜に向けながら、ぶっきらぼうに小傘を指差して、レミリアが言う。
「えっと、見ての通り雨傘ですけど」
咲夜は悪びれた様子も無く言ってのける。
レミリアはそんな咲夜の態度に、少し苦笑いしつつ、言葉を続けた。
「私の記憶違いなら悪いんだけど、確か面白いヤツを持って来いって言ったはずよね?」
「ええ、間違い御座いませんわ」
「咲夜。私がどうしてそんな事を頼んだのか、貴方はよーく理解していたと思ったんだけど……」
はぁ、とため息をついた後、レミリアは落胆したように呟いた。
「雨が降って外に出られなくて、とっても退屈している私の相手になる面白いヤツ、人じゃなくても良いんだけれど、何かを探しにいったのよね?」
「もう、四日も雨が降っていましたからね」
「……じゃあ、気を利かせて、雨の日でも外に出られるように、雨傘を探してくれたわけなんだ?」
「やっぱり、お気に召しませんでしたか? デザイン」
「デザインは……確かに気に入らないけど。あー、改めて見ると酷いわね」
苦笑いを浮かべながら、傘のデザインについて値踏みする吸血鬼に、小傘は悲しそうな目線で抗議する。
しかし、吸血鬼はそれを意に介す様子は無い。
腹立たしくとも、声をあげる度胸も無かった。
「……でも、私が言いたいのはデザインの事じゃないの。傘を差しても、全ての雨は防げない。やっぱり雨の日は外には出られないのよ、日光と違って」
「ええ、存じておりますわ。レーザーよりも、遅い弾幕のほうが、避け難い場合もありますからね」
「いや、それは合ってるんだけど、何か違うような……」
噛みあってるようで、噛みあってない。
ずれてはいるけど、どこか小慣れた感じがする。
きっと、これが二人の日常風景なのだろう。
――ちょっぴり、羨ましいな。
そう思うと、小傘は少し緊張が解れた気がした。
「ああ、そう。……じゃあ、咲夜はこいつが面白いヤツだと考えて、連れて来たってことかしら?」
「勿論、そうですよ?」
「見るからに弱っちそうなんだけど、実は物凄い弾幕の持ち主とか、そういう――」
「それはちょっと判りません。弾幕ごっこはしてませんから」
咲夜は、何を考えているのか判らない目で、小傘をちらりと見る。
よし、それなら強そうなところを見せてやろうじゃないか、と、小傘は精一杯怖い顔を作る。
あっかんべぇと舌を出して、右目を瞑り――。
小傘の考える怖い顔は、一般の人妖の感覚ではせいぜい面白い顔で、悪くすれば可愛らしい顔にしか見えなかった。
「……弱いでしょうね。あまり、いじめちゃダメですよ」
「じゃあ、なんで連れて来たのよ」
「だから、面白かったからですわ。いまどき、脅し文句がうらめしやーですし、傘につけた目や舌も、ステレオタイプと言うか、子供臭いと言うか……」
レミリアはまた、はぁ、と呆れた様に溜息を吐いてみせ、安楽椅子を退屈そうに大きく揺らす。
「咲夜が面白くても、私は面白く無いんだけど」
「そうですか、お気に召しませんか。困りましたね」
「咲夜が拾ってくるものは、ヘンなモノか役立たずの二通りしかなかったわ……。そしてこいつはヘンなうえに、役に立たなさそうだから、三通り目ね」
「ぐすん……」
好き勝手にけなされて、小傘は少し泣きたくなってきた。
どうして、自分はこんなところにいるのだろうか。
叶うなら今すぐこの場から去ってしまいたい。
でも、それを口に出すと逆に帰そうとしない、天邪鬼の気配をレミリアからひしひしと感じるので、口を開くのも憚られた。
そんなことを考えていると、先にレミリアのほうから小傘に話かけてきた。
「あんたもさ、何だってこんな怪しいメイドについて来る気になったの?」
「うーん、暇だったから?」
「暇と退屈は何か違うよねぇ……。私は退屈のほうなのよ。あんたじゃ退屈凌ぎにならない」
お前とは話が合わない。
いっそう椅子を大きく揺らす、レミリアのぶっきらぼうな態度は、そう言っているようだった。
これまでの態度で、小傘とレミリアのヒエラルキーは決まってしまったが、上下のはっきりしない探り合う関係の時よりも、かえって反抗はしやすい。
小傘は少し苛立った口調でレミリアに返す。
「何かって、何が違うのよ?」
「暇は力をつけるけど、退屈は力を削ぐのよ」
「うーん、言いたい事は何となく判るけど……」
「違いがはっきり判らないうちは、若いわねぇ」
見た目は自分よりも子供のくせに。
と、小傘は心の中で毒づく。
無邪気で子供染みた雰囲気の中に、どこか年寄り臭い雰囲気も漂わせる。
こういう、得体の知れない威圧感のある相手は苦手だと、小傘は思う。
「咲夜ー、こいつの相手はもういいわ。なんだかやる気削がれちゃったし」
「はぁ。それじゃあ次の相手を連れて来ますか?」
「いや、もういいや。今日は寝る。その代わり、明日は夜早くからパーティー開くからね」
「え、晴れるんですか?」
「そういう運命なもんのよ」
「そうですか、わかりました」
レミリアが咲夜に向ける笑顔は、小傘に向けた嘲笑とはまるで違う。
甘えてねだる子供のような笑顔。
きっと、どれだけ永い歳月を生きても変わらない、レミリアの最も妖しく、魅力的な一面なのだろう。
それに甘い顔で答える咲夜は、母と言うには若すぎるが、姉と言うには大人びている。
――こんな子供臭い妖怪が、私のことどうこう言えるのかしら。
じっと、二人を見ていて、小傘はふとある事に気が付いた。
人間と妖怪が、一つ屋根の下に住んでいる事。
妖怪が人に甘え、人が妖怪に心から仕える。
考えれば異様な事だ。
なのに、彼女らのそれはどこまでも自然で、気付けなかった。
羨ましいと言う声が、自分の内からはっきりと聞こえるまでは。
「私は帰るね」
いつもよりずっと騒がしい夜なのに、いつもよりずっと寂しい。
孤独には慣れたつもりだったのに、憧れには慣れていない事を知る。
人を見返すために妖怪になったのに、見返すどころか、ただ憧れ続け、何も叶わず。
この場にいると、そんな惨めな自分が見透かされてしまいそうで、小傘は踵を返した。
「あら、もう帰っちゃうんですか?」
咲夜が呼び止める。
「うん、楽しかったよ」
「……楽しかったの? 変わってるわね、貴方」
咄嗟の出任せは、言った自分でも滑稽だと思えて、小傘は苦笑する。
危うく墜落しかけたり、巨大な館に威圧されたり、小さい吸血鬼に小馬鹿にされたり――。
ああ、全部が出任せではない。
孤独を紛らわせた時間は、やっぱり楽しかったのかもしれない、と、小傘は思う。
さようなら、小傘がそう言いかけた時、口を開いたのはレミリアの声だった。
「別に一晩くらい泊めてやってもいいよ。それとも一昼かしら?」
小傘は開きかけた口をぴたりと止めた。
どうしてもとか、引きとめようと言った意図を感じる口ぶりでは無い。
もしかしてこの吸血鬼、実は親切なのだろうかと、一瞬考えてしまうが、多分、そう言うわけでも無い。
こんな広い屋敷だから、小妖一人、居ても居なくても構わないだけなのだろう。
「お泊りなら、いつでも部屋は用意してありますよ」
柔らかい声で、咲夜が言う。
これだけ広い館なのだから、ソレくらい用意があっても不思議じゃない。
多分、咲夜もレミリアと同じで、小傘一人居ても居なくても構わない、それだけなのだろう。
傘立てに、傘が何本あるかなんて、誰が気にするだろう?
きっと、そうだ。それだけだ
でも――
たまには、人間に甘えてみたい
「……うん」
小傘はどうしようもなく照れ臭くなって、振り返ることが出来なかった。
多分、私は今、どうしようもなく、嬉しそうな顔をしているのだろう。
緩んだ頬を、引き締めようとして、余計にヘンなカオになってるんだろう。
こんな顔じゃあきっと誰も驚かないね、見せられないね。
「それではお部屋へ案内しましょう」
いつの間にやら真正面にいた咲夜に、小傘は驚いて悲鳴をあげた。
悲鳴を聞いて、可笑しそうに笑った吸血鬼をいつか驚かせてやる。
小傘はそう心に誓った。
§
昨日までの雨が嘘のように、幻想郷の空は蒼く澄んでいた。
森の緑、空の蒼に挟まれた、紅魔館の紅は、どこか牧歌的で、悪魔の館と言う不気味さを今はまるで感じさせない。
雨露で濡れた花壇が、陽射しを浴びて、更に色を加えていく。
昼間の紅魔館は、夜のそれとは全く異なるものだった。
暢気な人間ならば、こんな素敵な屋敷に住んでみたいなんて、言うかもしれない。
当然の事ながら、そんな屋敷に住んでいる人間は、やはり暢気な人間なのだ。
「久しぶりのお洗濯日和ね」
洗い立ての洗濯物を、たっぷりと籠に入れて、嬉しそうに咲夜は運ぶ。
まだ湿度が高く、乾くには時間がかかりそうだが、そよ風が吹いていて、何より陽射しが強いのが良い。
もう数時間もすれば、雨の余韻もさっぱりと消えて無くなるだろう。
咲夜には夜も昼も休みが無い。
昨晩も夜遅くまで主のために働いていたのに、今日だって朝からずっと働いていた。
主であるレミリアも、未だ咲夜が寝ている姿を見たことが無い。
主に仕えるのがメイドの仕事なのだから、当然と言えば当然なのだが、レミリアが気まぐれに『昼更かし』している時だって、咲夜はちゃんと起きていた。
彼女の能力を考えれば、然程不思議な話ではなさそうだが、時間を止めながら眠っているとしたら、随分器用な話である。
もしかすると、彼女は本当に眠らない人間なのかもしれない。
洗濯物を干しながら咲夜は、今夜のパーティの内容を考える。
それも彼女の仕事の一つだ。
どんな料理を出そうか、妖精に演奏させるバックミュージックはどうするか、テーブルは幾つ並べるか、誰を招待しようか――。
招待客、飛び入り、自分たちも含めて、何十人と言う人妖が集まる。
準備も本番も、後片付けも大変な仕事だが、咲夜はいつだって瀟洒にこなす。
「足りないものが多いわねぇ」
咲夜がパーティで一番力を入れるのは、彼女の趣味の一つでもある料理である。
咲夜は弾幕ごっこや、種も仕掛けも無い手品よりも、料理の方がずっと得意だった。
どんな食材を使おうか。
どんな香り付けをしようか。
どんな順序で出そうか。
どんなお酒が合うだろうか。
後片付けや準備は、慣れてしまえばルーチンワークだが、料理にだけはいつだって決まった答えは無い。
その年により、季節により、雰囲気により、主の希望により、咲夜の気まぐれにより、いつだって違う。
だから悩ましく、面白い。
咲夜は今夜のパーティに出すメニューを考えて、あれが足りない、これは使えると、心地良く悩みながら、洗濯物を干していく。
「今日は中華にしようかしら」
足りない食材は人里まで行って仕入れなければならない。
不思議な事に、山奥の隔離された環境にあるというのに、どこからどう流通しているのか、人里ではあらゆる食材が手に入る。
尤も、品揃えは全く不定で数も少なく、特に魚など、痛みやすい食材が手に入るかどうかは運次第だ。
時には外界でも貴重な食材が手に入ることもあり、それによってはメニューの変更もありうる。
それもまた、料理の楽しさだと咲夜は思う。
真っ白なシーツを干していると、ふと、昨日壊れた白い傘のことを思い出した。
あの傘は確か、人里の大きな道具屋で買ったものだ。
修理もそこに頼めば良いだろう。
そして小傘のことを思い出す。
「まだ寝てるのかしら?」
小傘が寝たのは、日の出前の空が明るみ始めた頃だ。
放っておいても、妖怪だから起きたい時に起きるだろうが、起きていたら起きていたで、館の中で迷ってるんじゃないかと少し心配になった。
館は広いだけではなく、内部は入り組んでおり、窓が少なくて太陽の陽が差し込まず、方角が判りにくい。
それにどこへいっても、紅い絨緞と、紅い天鵞絨の統一された装飾が、さながら竹林のように人を惑わせる。
さらにその上、本当に内部の構造が変わることもあるので、館に住んでいる住人ですら迷う事がある。
尤も、構造を変えているのは咲夜で、迷う事も一つのイベントとして、住人達も楽しんでやっている節があるのだが。
洗濯物を干し終えたら、人里に行く前に、一度様子を見に行こう。
「うん」
無数の洗濯物が、そよ風に靡く。
辺りに漂う石鹸の爽やかな香りに、咲夜は目を細めた。
小傘が泊まっている部屋はしんと静かで、扉の外から中の様子は判らない。
コンコンと、ノックをして所在を確認する。
「多々良さん、おられますか?」
中からの返事は無い。
まだ寝ているか、それとも部屋の外にいるのか。
後者なら、まず間違いなく館の中を迷っているだろう。
泣きっ面で辺りを彷徨う小傘の姿を想像して、何故か口端が持ち上がりそうになって、咲夜は、おっと、と頬を締める。
「失礼します」
静かにドアノブを回して部屋に入るが、物音は聞こえない。
やっぱり部屋にいないのだろうかと、少し中に入ってみるが、ベッドの上に小傘の姿は無かった。
「……迷ってるのかしら?」
客室には、紅魔館では珍しく窓があるが、まさかそこから外に出たわけでも無いだろう。
それに、昨日小傘が着ていた服が、ベッドの横にきちんと畳んで置かれているのだから、貸した寝巻きのままの筈だ。
まさか裸でうろついている訳ではないだろうし。
何より、小傘の大事な傘がベッドの上に置かれたままなのだ。
もしかして、寝かせているつもりなのだろうか。
「大事な傘なら、ちゃんと手に持って置かないと、昨日みたいな目に合うわよ」
誰もいない部屋で、咲夜は呆れたように呟く。
何と無しに、傘を手に取り、じっと見る。
竹と油紙で作られた唐傘は、洋傘と比べて重く、保管にも手間がかかるので、幻想郷でも使っている人妖は少ない。
傘布に描かれた目玉が、折り畳まれて縦に細くなり、いっそう滑稽に見える。
目玉と同じくらいよく目立つ、大きな赤い舌は、一体何処へ行ったのか、見当たらない。
「広げたら出てくるとか、かしら?」
仮にも客人の荷物を、勝手に弄る事に少し戸惑ったが、湧き上がる好奇心には勝てなかった。
ベッドの上の傘を上に持ち上げて、ぐっと押し開く。
次の瞬間、傘の中から何か大きなものが現れて、ぼふんと柔らかい音をたてて、そのままベッドの上に落下した。
「わわっ?!」
「……あら?」
柔らかい落下物の正体は、小傘だった。
いくら大きな傘とは言え、一体どこに挟まってたと言うのか。
まぁ、それも妖怪だからと、咲夜は納得する。
唐傘お化けは傘の中で寝る。
お陰で無駄な知識が一つ増えた。
「おはようございます」
「お、おはよう?」
貸し出した紅い寝巻きに身を包んだまま、小傘は何が起こったのかと、キョロキョロと辺りを見回す。
可愛そうな事をしたと思うより、慌てる様子が面白くて、咲夜は平然として微笑む。
「ここは紅魔館ですよ」
「あー? うん、あ、そうだよね?」
小傘は混乱から抜け切れないまま、惚けた返事を返す。
太ももと両膝をぴたりとあわせ、足を八の字に開いて座り込んだまま、赤と蒼の瞳を何度もぱちくりと瞬く。
「はい、傘です」
「あ……うん、ありがと」
咲夜から傘を手渡された小傘は、眠気を払うように目をこする。
落ち着きを取り戻した小傘は、やや恥ずかしそうな表情を浮かべて、咲夜に問う。
「――今、何時?」
「ちょうど正午頃ですわ」
「そう」
時間を聞いたところで、何をするというわけでもない。
妖怪は普通、寝たい時に寝て、起きたい時に起きる。
小傘もスケジュール通りに行動するような、律儀な妖怪には見えなかった。
ただ、間を持たせたかっただけなのだろう。
元々、成り行きに任せて館を訪れ、成り行きのまま一泊しただけだ。
この後の予定が決まっているわけではない。
暫く間を置いたあと、小傘は突然大きな声をあげた。
「うらめしやー!」
「きゃー」
不意打ちを読んでいた咲夜は、笑顔のまま、わざとらしく反応してみせる。
「……はぁ。ひもじい」
不意打ちも通じない咲夜に、小傘は溜息を吐く。
「さて、多々良さん、これからどうします?」
「そうねぇ……。って言っても、吸血鬼は私に用は無さそうだし、帰るしかないんじゃないの?」
ふむ、と咲夜は口元に手を当てて一考する。
確かに、小傘はレミリアのお気には召さなかったのだが、どうも咲夜はこのまま帰してしまうのが惜しかった。
自分でも不思議なくらい、この妖怪が気に入っているのだ。
それは、珍しいものを手に入れた時の、蒐集家としての感情にも似ていたし、可愛らしい小動物を見た時の、少女らしい感情にも似ていた。
「ご存知かと思いますが、今晩、紅魔館でパーティを開きます。よろしければ貴方も参加してくださいな」
「私が? いいの?」
「遠慮する必要はありませんよ。宴会は参加者が多いほうが楽しいのですから」
咲夜は澱み無く答える。
「うん、じゃあ参加する。暇だしさ」
はにかんだ顔で、小傘は答えた。
その様子は元が傘の妖怪と思えないほど、可愛らしい。
「パーティは七時くらいに始める予定でして、まだまだ、時間がありますけど――それまでどうします?」
「うーん……」
「私はこれから、買出しの用事があるんですが、暇なら一緒に行きますか?」
「え?」
それは、小傘にとって完全に予想の外の一言だったらしい。
色違いの二つの大きな瞳を、更に丸くして驚く。
「私と行くの?」
自分を誘う人間の声。
「無理にとは言いませんが」
「行く! 無理なんてしてないよ?」
小傘は瞳を真ん丸にしたまま、口を開いて本当に嬉しそうに微笑む。
里に行ってもきっと買いたいものなんて、無いに違いない。
里の人間を驚かせる自信だって、無いに違いない。
どちらかと言うと、喧騒に憧れて、日がな一日里を遠目に眺めているような、この国の生まれらしい、可笑しくも儚い雰囲気をもった妖怪だ。
だからこの笑顔が、暖かい。
何もしていないのに、何か悪い事をしまったような、小恥ずかしい罪悪感を感じて、咲夜は苦笑する。
「わかりました。じゃあ、部屋の外で待ってますから、準備してくださいね」
「うん」
最初から誘うつもりがあった訳ではない。
小傘の顔を見て、ふと思いついただけだ。
買い物の手伝いをさせるとか、そういう事を期待をしているわけでもない。
ただ、誰かがいる事で起こる些細な日常の変化、そんなものを期待しただけなのだろう。
人も妖怪も神様も、そんなものが恋しくて、そして怖くてたまらない。
§
小傘はがっかりしていた。
と、言っても、別に咲夜に不満があるわけではない。
人里に行く事に、抵抗があるわけでもない。
それでも小傘は、はぁ、と、深く溜息を吐く。
「あーあ、これじゃ出番がない」
「何が?」
昨晩までの大雨が嘘のように、外はすっかり晴れていて、既に雲一つ見えない、気持ちの良い快晴。
気化熱で気温も大きく上がらず、涼しい風が吹いていた。
小傘が気に食わないのは、この天気だった。
「だってさぁ、こんなに天気が良いじゃない」
「貴方もお嬢様みたいな事、言うのねぇ」
「そりゃそうよ、私は雨傘だもの。雨の日こそ本領を発揮出来るってものよ」
「今日のパーティは庭でやる予定だから、雨は困るわ。お嬢様の機嫌も悪くなるし」
小傘は、むむぅと、年寄り臭く唸る。
紅魔館から人里へは、川に沿ってくだって行けば良い。
妖怪の山を水源に、大きな滝が谷が作り、樹海を貫き、紅魔館の建つ霧の湖に注ぎ込む。
霧の湖から流れる川をなぞり、陰鬱とした魔法の森を横切って、さらに一里ばかり下流に、人里がある。
小傘は背後に聳える、妖怪の山を見た。
妖怪の山の山並みは、なだらかではなく、まるで巨大な岩が地面から突き出したような、険しく、荒々しい山である。
富士の山のような整った美しさはなく、まさに妖怪の山という名前がしっくりくる。
幻想郷の多くの住人は、山の様子を見るだけで、その日の天候を予測する事が出来ると言う。
煙がたなびいていなければ、その日は晴れるだろう。
笠のような雲がかかっていた場合、すぐに雨宿りの準備をしたほうが良い。
「あっ、見て! 山に笠がかかってるよ!」
「はいはい、きっと今日は晴れるわね」
山には一瞥もくれずに、咲夜が返事をする。
「……わざとらしすぎたかなぁ」
「ええ、かなり」
一体どうしたら、この人間は驚くのだろう。
小傘はむぅと唸り、オーバーに腕を組んで、うーん、と考える。
「ねぇ、思ったんだけど」
「ん? なに?」
「そうやって人を驚かそうとするのは、何故かしら?」
咲夜の口ぶりには、咎めるようなニュアンスは無い。
単純に好奇心からなのだろう。
「人間を驚かす事が、私の生き甲斐なのよ」
ウインクして舌を出す、お決まりの表情を小傘は見せる。
「生き甲斐ねぇ」
「そう、生き甲斐。驚いた人間の心を、私は食べているの」
「人肉は食べないの?」
「うーん。多分、食べようと思えば、食べられるけど。食べた事も食べる気も無いや」
「へぇ、珍しいわね」
元が傘だからと言って、食事をしないわけではない。
人の形をとるようになってから、食べることも眠ることも、人のように出来るようになった。
今では好きな食べ物だってあるし、酒を飲めば酔っ払う。
一般的な妖怪が人間の肉を食べたくなるそれとは、意味が異なるが、人間が獣の一種であるならば、食べられない道理は無い。
しかし、どんな美味しい食事をしたって、小傘の『飢え』が満たされる事はない。
彼女の『飢え』、それを満たすものは飽くまで人間の心だった。
「人肉は結構味付けが難しいのよね。調達は簡単なんだけど」
「ええっ?!」
「冗談ですわ」
「なんだ冗談……。びっくりした」
――いや、でも吸血鬼に仕えてる人間なのだから。
もしかすると――の疑念を、小傘は中々捨てる事が出来なかった。
妖怪が人を食べる話を聞いたって、幻想郷の住人は何とも思わない。
それなのに、人間を食べる人間を想像すると、異様におぞましく感じるのか。
いや、きっと、それも違う。
他ならぬ、咲夜が言うから。
綺麗で暢気で、どこか胡散臭い人間の少女が言うから、そう思えたのだろう。
「ああ、うらめしい。貴方には妖怪を驚かす才能がある」
「そりゃもう、幻想郷一の手品師ですから」
「メイドじゃなかったの?」
「あるときは手品師、またあるときは蒐集家、たまに異変解決の専門家で、その正体は幻想郷一のメイドなのですよ」
「はぁ。人間にも勝てない妖怪なんて……」
大きく溜息を吐いて、小傘は沈み込む。
気分に合わせて高度も下がり、咲夜の足元をふらふらと飛ぶ。
「昔はみんな驚いたのにね」
小傘は妖怪として、長生きしている方では無い。
それでも人間ならば、きっと曾孫、玄孫、それ以上、来孫、昆孫がいてもおかしく無い歳月を生きているだろう。
人間なら、生きる限り変化を続ける。
身体も精神も、生まれ落ちた時とは、まるで違う存在に変わり続け、死へと帰結する。
小傘は変われなかった。
妖怪として生れ変わった時から、ずっと同じ。
人間を恨み、そして憧れを抱き続け、満たされず――。
そうしている間に、人の世は巡り、誰も小傘なんて小さい妖怪を怖がる者はいなくなった。
「あっ、でもねぇ、私も人間を驚かすために、最近は勉強してるんだよ? 昔の怪談話とか読んだり」
「それで、勉強の成果はあったのかしら」
「うーん、まだ……」
「どうも、本で得た知識って言うのは、説得力に欠けますわ」
咲夜は、まるで身近な誰かを思い起こすかのように、くすりと笑う。
「学ぶなら貴方より年上の強い妖怪に聞いてみる方が、勉強になると思います」
「うーん、そういう知り合い少ないから……」
「お嬢様には聞かない方がいいと思います。理由は判ると思うけど」
「聞かないよ」
小傘は笑って答える。
聞いたところで、からかわれるのが目に見えているし、何より参考にならない気がした。
「でも誰に聞けばいいやら」
「そう言う事が好きそうな妖怪に、私も何人か心当たりがあるけど――。ああ、そろそろ人里ね」
「あ、もう着いたんだ」
雨上がりの人里。
周囲の畑から、草の匂い、土の匂いが漂う。
久々の晴れ間のせいだろう。
今日の人里は、遠目にも活気に溢れているように見えた。
§
――沈黙。
その日、人里のある八百屋は異様な緊張に包まれた。
店先にいるのは、三人。
小柄でいかにも人当たりの良さそうな、中年の店主。
緊張感に呑まれ、口を結んで押し黙る小傘。
そして、緊張の発生源。
真剣な目で売り物の野菜の品定めをする瀟洒なメイド。
通りは盛況なのに、二人の他に客が寄り付こうとしないのは、この威圧感を無意識に感じ取っての事だろうか――。
「店主さん」
「ああ、はい」
店主は手を揉み合わせ、精一杯の営業スマイルを作る。
「この玉葱と、人参、韮と茄子を全部頂いていくわ」
「ああ、どうも、いつもどうも有難うございます」
店主の言葉からみるに、咲夜はこの店の常連であるらしい。
では、この緊張感の正体はなんだろう。
世俗に疎い小傘でも、紅魔館の名前と噂は耳にした事がある。
里の人間なら、それが自分たちの安全に関わる事柄である以上、小傘よりも詳しい話を知っていて不思議ではない。
悪魔のメイド。
そんな噂のせいだろうか。
いや、違うかな?
店主の顔色に恐怖は無い。
「でも、この玉葱と茄子は、もう少し安くなりませんか? 去年よりも小振りに見えるのですが」
その言葉に反応して、店主の目に火が灯る。
「いやあ、相変わらず手厳しいですね。じゃあ一つあたり五銭ほど……」
店主が言葉を止める。
その瞬間、にわかに咲夜の無言の圧力が増した気がした。
ああ、緊張感の正体はこれだ!
小傘は逆にどっと力が抜けた。
「――いや、他ならぬ紅魔館さんの注文ですから、十銭お安くさせていただきます」
「ありがとうございます」
咲夜が薄く微笑み、店主がほっと胸を撫で下ろす。
蚊帳の外の小傘は、少しつまらなそうに、くるりとその場でまわる。
唐傘が目を引くのだろう、通りの人間がたまに小傘をちらりと見るが、すぐに興味無くして視線を外す。
誰も驚く事もなければ、怖がる事もない。
「お待たせしました。さ、次の店に行きますよ」
後ろから咲夜に声をかけられ、小傘は振り返る。
「あれ、野菜は?」
「この中ですよ」
そう言って咲夜は、手持ちの皮製バッグをぽんと叩く。
小傘の記憶が確かなら、とても両手で抱えきれる量の野菜ではなかった。
せいぜい小物入れサイズの、このバッグには、どう頑張っても野菜が入るようには思えない。
「え、ええ? どうなってるの?」
百妖千様の妖怪達にも、実は一つだけ共通点がある。
それは人間と妖怪を見分けられる事だ。
必ずしも見て区別しているわけでないので、『見分ける』と言う言い方は正しく無いかもしれない。
兎に角、目の前の人の形をした存在が、人間か否か、それだけはどんな妖怪でも判るのだ。
小傘から見て、咲夜は完全に人間だった。
しかし、昨日から小傘の前で起きる、咲夜の力は並の妖怪よりもずっと妖怪染みている。
「本当の手品というものには、種も仕掛けも有りません。その上、本当に優れた手品は実用的なのです。大体、貴方も似たような事してたでしょうに」
「してたっけ?」
「兎に角、次の店に行きましょうか」
乾物屋、肉屋、パン屋、卵売り、茶屋、酒屋。
小傘は咲夜に連れられて、多くの店を廻る事になった。
咲夜の訪れる店、どこまでも緊張感が漂い、店員とメイドの真剣勝負が始まった。
小傘はずっと蚊帳の外からそれを眺めていただけなのだが、無駄な緊張感のせいで随分と疲れる。
ただ、そうやって些細な金銭に拘る姿は、少しだけ咲夜を人間らしく感じさせた。
「何かとっても疲れた……」
「私と買い物する人って、皆そう言うんだけど、何が原因なのかしら?」
「説明しにくい。でも、結構面白いよ?」
「そう? まあ、それならいいです。後は傘の修理を頼むだけですから」
最後に二人が訪れたのは大きな道具屋である。
道具の製作から販売、修理までを一括して手掛けている、里で一番大きな店だ。
軒先に掲げられた看板には、霧雨道具店の屋号が銘打たれ、正面の入口はいつも開いていた。
玄関をくぐると、通りとはまた別の盛況に溢れ、咲夜が訪れても無闇に緊張感が漂う事も無かった。
広い店内に、ずらりと並べられた雑貨用品達。
それを品定めする人々に混じって、妖怪の姿も見る事が出来た。
店の奥は工房なのだろう。
木屑の匂いや、焼けた鉄の匂い、そして職人達の声が聞こえる。
咲夜はいつの間にか、昨晩壊れた傘を手に持っていた。
風圧を受けて裏返り、あちこちが折れた骨組みが痛々しくて、小傘は眉を顰める。
「修理の受付は、こっちかしらね」
店の一角に、傘が並べられたスペースがあった。
単色で細い骨組みの安っぽい傘から、婦人用の洒落て可愛らしい洋傘、小傘と同様の手作り唐傘まで、節操なく取り扱っている。
咲夜が店の人間と話している間、小傘はじっと、傘達を見ていた。
この傘達は、一体どんな人間に買われて行くのかな。
今、どんな事を考えているのかな。
自分を使う人間の事を思っているのかな。
私はそんな事を考えていただろうか?
そもそも考える事も出来なかった気がする。
でも、妖怪に生まれ変わったときの事は良く覚えている。
気が付くと、私はボロボロの唐傘を手に持ち、雨に濡れた野原に転がっていた。
ただ、漠然と捨てられた、忘れられたと思い、絶望して……――
同じ傘なのに、小傘が耳を澄ましても、彼らの声は聞こえて来ない。
路傍の石のように、ただ、そこにあるだけだった。
人間達に、一方的に愛情を込められたり、憎しみを込められたりする。
良い人間に使われようと、悪い人間に使われようと、その関係は常に一方通行のものである。
それが道具と言うものだからだ。
「私って何なのかしら」
自らの存在意義で悩んだのは、一度や二度ではない。
道具は暖かくも冷たくもなく、何も思わず何も語らない。
道具は大事に扱え、そう言って道具の代弁者を気取れるのは、自分が既に道具ではない証拠だ。
矛盾している。
その後ろ向きな考え方が、妖怪としての小傘を弱くしていた。
「何をそんなに深刻そうな顔しているの?」
修理の受付が終わったのか、咲夜がいつの間にか横にいた。
「何でもないよ。ただ、この傘達が大切に扱われれば良いなって、思ってただけ」
「ああ、私の傘も派手に壊れましたが、まだ修理出来るそうですよ」
小傘は沈んだ顔に、少しだけ元気を取り戻し良かったと返事を返す。
「大切に扱わないと、私みたいに化けて出て来るからね」
今は難しい事を考えるのはよそう。
道具に意志が有るにせよ、無いにせよ、少なくとも、物を大事に扱う事は、美徳であるはずだ。
だから咲夜には、幸せになって欲しいと小傘は思う。
「貴方程度じゃ出て来たって怖くないわねぇ」
「ぐすん」
唐傘お化けは、妖怪の一種でもあるが、同時に付喪神と呼ばれる神の一種でもある。
付喪神は一般に、道具を粗末に扱ったり、九十九(つくも)の字の通り、長い歳月を経る事で生まれると言う。
しかし、粗末に扱われた道具の全てが付喪神になるわけでも、歳月さえ経てば付喪神になるわけでも無い。
大切に扱われた道具が、恩返しをする事もあれば、生まれて数年で付喪神と化す者もいる。
その境界は、何処にあるのだろうか。
はたして、付喪神となり、意志を持つ事は不幸なのだろうか。
小傘はこれまで、自分は『不幸』の産物だと思っていた。
付喪神が神の一種だとすれば、きっと自分は祟り神の方だろう、そう考えていた。
――でも、それだけじゃないらしい。
咲夜の幸福を祈ったとき、小傘はいつもの飢えが和らぐのを感じた。
確かに、感じたのだ。
§
紅魔館に戻った咲夜は、大急ぎでパーティの準備を始めた。
いつも役に立たない妖精メイドたちも、右へ左へ大忙しだ。
ある者はテーブルを運び、ある者は転び、ある者は招待状を作って幻想郷の各所へと飛んで行く。
小傘は何をするでなく、庭のベンチに座り、赤と蒼の瞳で、ちょこまかと動き回るメイド達の動きを観察していた。
太陽が傾き、一面が紅く染まる。
メイド達も、小傘も、空も、庭も、草花も、館も。
皆同じ。
今日の小傘は、寂しくなんか無かった。
「あら? 貴方ずっとうちにいたの?」
後ろから幼い声が聞こえて、小傘は振り返る。
そこにいたのは、昨晩会った吸血鬼レミリア・スカーレットだった。
まだ日光が厳しいのだろう。
その手には小傘が持つ唐傘よりも、大きな桜色の日傘を持っている。
「ううん、咲夜と一緒に人里へ買い物に行ってきた」
「へぇ、気に入られたんだねぇ」
レミリアは、少しだけ憎たらしそうな顔を見せたが、すぐに余裕のある笑みに変化していた。
「でも咲夜はあげないよ。私の咲夜なんだから」
そう言ったレミリアはとても自信満々で、誇らしげに見えた。
きっと咲夜はこの吸血鬼の、一番の自慢なのだろう。
小傘は笑って、うんと頷く。
「まあ、たまにだったら、貸してあげてもいいけどね。私は優しいから」
そう言うレミリアは、咲夜を自慢したくて仕方ないに違いない。
「ああ、そうだ、咲夜が気に入ってるのなら、うちで雇ってやってもいいよ。三食部屋付きで」
「あっかんべぇ」
小傘は蒼い右目を瞑って、笑って舌を出す。
「あっ、そう。まあ、良いけどね。最初からそういう運命だったもの」
レミリアは目を細めて薄く笑い、小傘から離れるように歩き始めた。
十歩ほど歩いたところで、レミリアは一度ぴたりと止まってこう言った。
「咲夜の料理を食べたら、今の態度を後悔するかもしれないよ」
振り返って、微笑むレミリアの顔は本当に誇らしげに見えた。
陽が落ちて、空が夕闇に染まり始めると、ちらほらと、メイド以外の姿が庭に増えてきた。
パーティに招待された妖怪や、人間達の姿なのだろう。
次第に増える、姦しい笑い声に、小傘も宴が楽しみになってきた。
ふと、真上を見上げると空には綺麗なお月様が浮かんでいた。
「久しぶりに月が見えたわ」
今夜の丸い月は、完璧な満月でなく、ほんの少し惚けた十六夜の月。
咲夜みたいな月だった。
(了)
そうか、咲夜さんは確かに誰かを驚かすという点では幻想郷でも随一の腕前の持ち主なんだ。いいなぁ、いいなぁ、この組み合わせ。
ゆったりとした流れで、会話もどこか原作っぽくって、すごく素敵で。
面白い作品を、ありがとうございました。
小傘は、いつでも冷静な咲夜さんを驚かす日ははたして来るのだろうか?
こののほほんとした咲夜さんはとても原作っぽい
後が怖そうだけど。
咲夜さんもお嬢様も小傘ちゃんも、それぞれの「私」を維持しながら情を寄せ合っているのが、いいですねえ。
小傘と紅魔組は似てるかも、なんてことを思いました。
安易に理解し合うのとは違った、淡い感動がありました。
「もっと読みたい!」
ありがとうございました。
個人的に好みな作品だわ
傘に収納されてる小傘…ふむ…
それにしても小傘ちゃんは可愛い…
傘の中で寝るとかかわいすぎるww
うらめしやー!
小傘と咲夜の組み合わせも新鮮で面白い。小傘ちゃんかわいいなぁかわいいなぁ
これは和む。
それでも小傘のお腹は、少しだけ膨れたみたいですね。