※こいし、及びさとりの能力に関して自己解釈・自己設定を含みます。ご注意ください。
小さい時から、砂のお城を建てて遊ぶのが好きだった。
どこか砂が余るほどあるふかふかした場所に、スカートが汚れるのも構わずお尻を地面にペタリとつけて座り込み、体中を泥だらけにして何時間も熱中した。あたりの砂を掻き集め、お家にあった花瓶に入れた水で砂を濡らし、固まった泥をぺたぺたと塗りつけて、骨格をくみ上げ、要所を補強し、入口には慎重にシャベルを差し込んで穴を空け、屋根が完全な三角錐になるように慎重に両手を使って形を練り上げ、ふぅと溜息をついて立ち上がり、腕組みをして努力の成果を眺め渡したものだった。
それでもまだ納得いかずに、あれこれとお城の周りに塔を建てたり、城壁を構築したり、門番の詰め所を配したり、溝を掘って川を流したりなどして、全然飽きることがなかった。
日が暮れて、心配したお姉ちゃんが私を呼びに来ると、決まって私はお姉ちゃんの前でそのお城を壊したのだった。思い切り良く、えいと、足で蹴っ飛ばした。砂が打ち返す波のようにざばあと跳ね上がり、一瞬にして城は霧散してしまった。
「壊しちゃっていいの? せっかく貴女が、頑張って作ったのに」
お姉ちゃんが首を傾げて訊いてくると、私は、
「いいの、壊さないと完成しないもの」
そういって軽く微笑んでみせた。我ながらよくわからないことを言っているな、というのは自覚していたけれど、私の言葉に対するお姉ちゃんの困ったような表情が面白くて、やめられなくなってしまったのだ。
自分で作ったお城を壊すことに、最初はなにも意味などなかった。ただ整った形のものが一瞬にして残骸へと帰してしまう、そのことがなんだか不思議で楽しかったのだ。でも心を閉ざしてから、なぜかそれはある種の残虐な喜びを私にもたらした。もしかしたら私なりの無意識の自虐だったのかもしれない。どうせ誰かに壊されてしまうものを、全身全霊を込めて必死に組み立てる。そういう一生懸命な私の姿は、はた目にはかなり哀れに映っただろう。そして自分で破壊することによって、自己満足的なカタルシスに心を浸して愉悦に沈み込む。
今にして思えば、私がある時嵌り込んで彷徨い続けた広大な迷路は、その砂のお城のようなものだったかもしれない。
そしてそれは、彼女が何百年も繰り返し続けている、孤独な遊戯の一部だったのだ。
1
「まいっちゃったなぁ……全然出られないや」
そう呟いて、私は立ち止まって少し前屈みになり、両ひざに両手を当てて深く溜息をついた。といっても、もう歩けないほど疲れきってしまったというわけではない。見た目はやせっぽちで頼りないけれど、この体は必要以上に頑丈にできているのだ。ただ、もう何時間も似たような場所をうろうろしていたので、いい加減うんざりしてきてしまった。つまり、肉体のほうではなく、精神のほうに大分キているというわけ。
季節はちょうど秋口に差し掛かったところで、空気に爽やかな冷気が混じり、山の木々の葉は黄や赤などの鮮やかな色合いに移り変わる頃だった。いつもの黄色い上着だけでは寒さを凌ぎ辛くなってきたので、そろそろ地霊殿に帰ってお姉ちゃんに新しいセーターを貰おうと思っていた。お姉ちゃんは毎年、私のために一枚セーターを編んでくれる。それが年ごとに色やデザインが違うので、密かに私は、
「今年はお姉ちゃん、どんなのを編んでくれるのかなぁ」
などとあれこれ推測して楽しみにしているのだ。でも、こんな何処とも知れない迷路から出られない限りは、それも叶わない願いに違いない。
あーあ、ついてない。
私は無為に歩き回るのはやめにして、一旦休憩することにした。赤茶色の石で出来たごつごつした壁に背中をあずけ、片脚を立ててその膝にあごを乗せ、目だけ動かし左右をちらちらと眺めた。
かれこれ数時間、私はこの迷路をうろつきまわっている。脆くはないけれども大分古くなった石壁にはさまれた狭い通路が、延々と奥へ奥へ続いていた。あちこちに配された燭台に灯された火は十分な明度を提供しているとはいえず、薄い暗闇が大部分を占める空間はなかなか不気味だった。今座り込んでいるこの場所から見ると、通路は緩やかなカーブを描いていて、壁に阻まれて見えなくなっている先にはいかにも何かが待ち構えていそうだった。たとえば血塗れのエプロンドレスを着た、ナイフを手に持っている気の狂れたメイドとか。でもきっと誰もいないだろう。ここに迷い込んでからというもの、人っこ一人いた気配すらなかったのだから。
空気はじめじめと湿っぽく、黴臭いような生臭いような妙な匂いも混じっていて、長く吸っていると肺が悪くなりそうだった。いや、もう遅いか。でも念のため上着の袖で鼻と口を覆ってから、私は目を閉じて考え事をすることにした。
そもそもどうしてこんな迷路を彷徨う羽目になってしまったのか。
記憶を探ってみるけれど、ぼんやりとしたイメージしか浮かんでこない。曖昧ながらも覚えているのは、緑色の服を着た赤髪の門番をやり過ごし、ふらふらと紅い屋根の大きなお館に入り込んだ、ということ。そこから先の記憶は曖昧で、ちょうど今いるこの広大で複雑な迷路でようやくはっきりとした糸を紡ぎ出すのだった。手がかりはそれだけ。ただわかるのは、ここはわたしが入り込んだ紅い館とは別の場所、ということだ。
確かにここはあの館に似ている。空気に混じる、この微かに生臭い――そう、これは血の匂いだ。あの館に満ちていたのと同じ空気をこの場所は漂わせているし、壁も通路も、あの館の地下と似たようなものに見える。
でも決定的に、違う。
それがなんなのかはわからないけれど、この場所が含む何らかの要素が、紅い館ではないことをこっそりと示唆しているようだった。
「ふぅ……なんなんだろうなぁ」
私はまた溜息をついて目を開いた。しわくちゃになった緑色のスカートから、床へ、壁へ、通路の奥へと視線を動かしていく。先ほどとなにも変わったところはない。燭台の炎はゆらゆらと揺らめき、そこら中にある闇を不定型な生き物のように蠕動させていた。ぶるぶる、と闇の生物はその黒々とした肌を震わせている、そんな錯覚を頭から締めだして、私は壁に手をついて立ち上がった。
立ち止まってうじうじしていても埒があかない。少しでも動き回り、色々な物を見て、冷静に考え、ここから脱出する道を探そう。このことを深刻に考えてはいけない。あくまでも、いつものように朗らかに、明るい篝火を眼の中に絶やさないようにして進むべきだ。
無意識状態で歩き続けることはできない。だって、何処へ行くかわかったもんじゃないから。意識的に進んでいかないと、きっといつまで経ってもここから出られないだろう。そこらへんの制御に気をつけて、出口を探せばいい。
「よし……行こう!」
私は元気付けに声に出して宣言すると、来た道とは逆の方向に歩きはじめた。
その時、向こうから誰かが駆けてくる音が聞こえて、私は思わず身を強張らせた。
タッタッタッタ、と、初めは小さかった足音がだんだんと大きくなっている。通路の向こうに影は見えないけれど、誰かが確実にこちらへ向かってきている。
……まさか本当に、気の狂ったメイドが獲物を求めて走ってきているのだろうか。
先ほどの根拠のない空想が、一瞬にして頭の裏側に鮮烈なイメージを植え付けた。
そんなはずはない。頭を軽く左右に振り、恐怖を頭の中から追いだして、私は足音のする方向を息を呑んで見つめた。逃げるべきだろうか? いや、なんとなくだけれど、ここに留まっていたほうがいいような気がする。もしかしたら、迷路の出口を求めて必死に走り回っている、同じ境遇の人かもしれない。「人間」じゃないかもしれないけれど、それはこの際どうでもいい。意思を持った、人間型の何かなら、きっと話せば通じあうはずだ。私だって弱くはない。自分の身は自分で守れる。そう決意を固めて、私は見知らぬ何かとの邂逅の時をじっと待った。
しかし、それは足音よりも早く訪れた。
燭台の灯りの中に浮かび上がる小さな肢体。黒いつやつやした毛並み、きりりと油断なく細められた赤い瞳、二又に分かれた細長い尻尾。
とても見覚えのある姿だった。
「……お燐?」
黒猫は、肯定するようににゃーんと鳴いた。人懐っこい笑顔だ。普段は何とも思わないけれど、こんな孤独で寂しい状況でそれを見ると、何だかとても心強い気がした。お姉ちゃん以外の誰かに会って、ほっとしたのなんて初めてかもしれない。私は嬉しくなって、お燐の方に手を差し出した。
「おいで――――」
「――――っ、あ」
私の声にかぶせるようにして、もう一つの小さな驚きの声が投げかけられた。
さっきから響いていた足音の主は、赤い洋服を着た華奢な女の子だった。淡いピンク色のナイトキャップから、鮮やかな金色の髪がふわりと溢れ出ていて、それが近くの燭台で揺らめく明るい炎にとてもよく映えていた。小振りな口は驚きを示して小さく開かれ、血のように紅く煌めくその瞳はしっかりと私を捉えて離さなかった。私もきっと、彼女と同じような表情をしていただろう。まさか、こんな薄暗い不気味な場所で、こんなに可愛らしい女の子と出会うなんて、思ってもみなかったものだから。
「あの」
しばらく息も忘れて彼女の瞳を見つめていた私だけれど、とりあえず何か話さなければ始まらない。そう思い口火を切ろうとすると、金髪の女の子は慌てて元来た方向へと走って行ってしまった。
「あ」
待って、という暇もなく、女の子は闇の奥へと吸い込まれてしまった。私は後を追おうとしたけれど、すぐ足もとにいたお燐に危うくけつまづきそうになって、その場に蹈鞴を踏んでしまった。壁に手をつけて、何とか姿勢を持ちなおす。
高らかな足音がだんだんと遠ざかっていき、あとには燈火が爆ぜるぱちぱちという音と、私とお燐がぽつりと取り残された。女の子の登場で忘れかけていた迷路の暗さも、また段々とあたりで幅をきかせるようになった。
私は溜息をついて、足元のお燐に向かって左手を差し出した。お燐は最初きょとんと私の手を見ていたけど、すぐに意図を察してぺろりと舐め、ひょいと腕を伝って肩まで這いあがってきた。
「どうしたの? 今日はなんだか優しいんだね」
私はちょっと意地悪に笑いながら、お燐の喉を右手でくすぐってやった。お燐は地霊殿では、お姉ちゃんには躊躇いなく甘えたり構ったりしているけれど、私にはどこか距離を置いているような感じがしていた。なのに今日は、いつもなら嫌がる私の行動にも渋面一つ作らずに甘んじているのだ。全然らしくない。本当にお燐なのだろうか? でも、その油断ない緋色の瞳は確かに私のよく知るお姉ちゃんのペットのもので、黒い二つの耳が時々茶目っ気にぴょこんと動いたり、二本の尻尾が催眠術をかけるみたいに左右に揺れている様は私の疑いを軽やかに否定していた。
「貴女も迷っちゃったのね? じゃあ、一緒にここから出よっか。お家にも早く帰りたいし」
いつもならあまりこんなこと思わないのだけれど、私は今何故か地霊殿に帰りたかった。帰りついたらお姉ちゃんに暖かいココアを淹れてもらって、それを飲みながら今回の旅で見たこと、経験したことを教えてあげよう。お姉ちゃんはそんな時ちっとも興味なさそうなふりをしているけど、本当は私のお話を聞くことが楽しいって思ってるんだ。膝の上に乗せた本に目を下ろして、考え込むように手を唇のあたりにあてたその下に、抑えきれない微笑を隠していることを私は知っている。お姉ちゃんは、人の心を読むことには長けているけれど、自分の心を隠すことについては割と不器用なのだ。もっともお姉ちゃんの本心はとっても微細にしか表に浮き上がってこないので、私か、つきあいの長いペットくらいしかその兆候を読み取ることは出来ないはず。
そんな楽しい空想を振り払って、私は女の子の逃げ去った方向をじっと見据えた。相変わらず一寸先は闇なこの状況だけれど、道連れも出来たことだし、自信を持って出口を探そう。その過程で、もしさっきの女の子と巡り合えたら、今度こそあの小さな手を捕まえてお話をしよう。あの子には底知れない魅力を感じる。彼女の綺麗な紅い瞳に、私はまだ囚われたままなのかもしれない。
そうして、私はまた一歩闇の中を奥へと踏み出した。
2
「ねぇ、お燐はどのくらい前からここで迷ってるの? それと、なんであの女の子に追いかけられてたの?」
暗闇の中を何か見落としはないかと注意深く探りながら、私は肩であくびをしているお燐に訊いてみた。しかしお燐は私の質問にも何処吹く風、二本の尻尾で私の背中をぱたぱたはたきながら、黒々と艶のある毛並みの自分の腕をぺろりと舐めた。ちっとも聞いてやしない。私は少し腹が立って、ぴたりと立ち止まりお燐をじっと睨んだ。
「もう。毛繕いなんてしてないで、人の姿になって私の質問に答えてよ。それともどうやってなるのかも忘れちゃったの?」
お燐は私の視線に気付いたのか、きょとんとした表情でこちらを見つめてきた。緋色の瞳が私の顔を同色に取り込んで妖しく輝いている。でもその向こうにある意思はちっとも水晶の表面に映り込んでいず、その瞳孔の奥底で胡乱にまどろんでいるようだった。
「……まさか本当に、忘れちゃったの?」
お燐は目を閉じて、可愛らしくにゃーんと鳴いた。本当に人化の方法を忘却したのか、それともただ単に私をからかっているだけなのか、どっちともとれる応答だった。
……なんか調子狂うなぁ。
私はひとまずお燐のことは考えないことにして、目の前の迷路に集中することにした。
試しに人差し指をぺろりと舐めて、指を暗闇にかざし風が吹いていないか確かめようとしたけれど、空気は微動だにせずどろどろと淀んでいた。相変わらず黴臭さと生臭さの入り混じった匂いがしていたが、段々私の鼻も馴れてきたのか大して気にならなくなってきた。なんだかこの場所に感覚が毒されてきたみたいで、あまりぞっとしない。
幾つか気付いたことはある。迷路はどのルートもカーブを描いていて、それが全体的に見るとどうやら完全な円形になっているらしいのだ。紙に一つ点を置き、そこを中心としてぐりぐりとコンパスで大小様々の円を描けば、ちょうどこの迷路のようになるだろう。時たま現れる曲り角、というよりは壁に空いた「裂け目」といったほうが正しいかもしれないが、それは一つの円から別の円の線上に移るためのものにすぎない。そしてこれまで歩きまわってみたところ、この迷路はある半径の円を以て完璧に「閉じて」しまっている。つまり、私が今歩いているこの通路が迷路の外郭で、これ以上はもう外側へは進めないようだった。
「出口のない迷路、なのかな」
ここを造った人は、自分が出た後で壁を完全に塗り固めてしまったのかもしれない。
それにしてもおかしな話だ。私の推測が本当だとしたら、私とお燐は、そしてあの女の子は、いったい何処からこの迷路に入り込んだというのだろう。
「……まぁ、考えてても仕方ないか」
ならばここは別の発想をしてみよう。もし私が迷路の設計者で、一番外側に出口を作らないとして、その場合にはどこに脱出の方法を仕込んでおくか。
なんとなくだけれど、この迷路の一番奥、円の中心にたどり着ければ、何かを発見できると思う。美学としては、円の何の変哲もない線上にオブジェクトを置くより、中心に置いたほうがモノは一層映えるだろう。だからここは、より迷路の内側へと入り込む裂け目を探して、どんどん奥へと進むべきだ。
またぞろ歩きだしながら、私は自分がこんな厄介な状況に陥っていても、まったく動揺していないことに気付いて、くすりと笑った。変わり映えのしない景色ばっかりだったから多少うんざりしていたけれど、迷路を攻略する方向性もなんとなくつかめたため、先ほどよりもこの状況を楽しめてきているようだ。元々、無意識の能力でふらついて厄介事にまきこまれるのは嫌いじゃない。というかそれが私の続けている旅の醍醐味である。なんせ気付かないうちに、無意識のまま今みたいな状況に陥っているのだから、そこから抜け出すために「意識的に」知恵を振り絞り行動を選択していくのが、楽しくてたまらない。
これだから旅はやめられない。
お姉ちゃんはちっとも理解してくれなさそうだけどさ。
「うーん、なんだか楽しくなってきたよ、お燐」
私は歩きながら、肩でうだうだと毛繕いをしているお燐に向かって朗らかに話しかけた。お燐は私の楽しい気分を感じ取ったのか、それに同調するようににゃーんと鳴いた。今度は屈託のない鳴き声だった。
「はやく帰ってお姉ちゃんのあったかいココアを飲みたいねぇ」
お燐は何も返事を返さず、肩の上でまた無言で毛繕いを始めた。
壁の裂け目というのは、どうも規則的に配列されているようだった。ある円を例にとってみる。その円の裂け目が北東の方向にあった場合、もう一つ内側の円の裂け目は北西にあり、さらにもう一つ内側のは南西にある、というような。必ずしもこの規則通りではないようだけれど、大体次の裂け目がどこにあるかは予想できた。この迷路、闇雲にうろつきまわったらわずらわしいことこの上ないが、頭の中で地図を描いて冷静に考えれば、案外簡単に攻略できるかもしれない。私はちょっとだけ得意になって、ふんふんと鼻歌をもらした。
幾つかの裂け目を抜けて、内側へと入り込んでいく。それは特に面白味のない単調な道行きだったけれど、ずんずん進む私の歩調はとても軽かった。
「あれ」
ある程度まで入り込んだ時、曲がる場所のない円路に行き合った。そこはこれまでのような壁の裂け目が用意されているのではなく、中央に黄色い星のマークのある緑色に塗られた扉が設置されていた。
「扉……」
私は星のマークに触れてみた。つるつると指を輪郭に沿って滑らせ、表面に私の指紋がくっきりと後を残すのを見つめた。他の部分を覆っている緑色のペンキは少しはげかかっていて、ざらざらとした感触を指に残した。お燐も興味津津といった様子で扉を見つめている。中には一体何があるのだろう。また同じように通路があるのか、それとも何かのための部屋があって、得体の知れない者が待ち受けているのか。
いずれにしろ、入ってみないことには始まらない。ここより他に、奥へ進む道はないようだから。
「よし……入ろう」
私は半ば自分を勇気付けるために呟きながら、ひんやりとしたノブを握り、グイとひねった。鍵はかかっていず、扉はあっけなく内側へ開いた。
その向こうでは、露に濡れてつやつやと輝く芝生と、たくさんの星々の燦然ときらめく天蓋が、見渡す限りの香しい夜を彩っていた。
3
久方ぶりに吸い込む新鮮な空気は、黴臭さに慣れた鼻と肺にはいささか冷たく刺激が強かったので、私は思わずせき込んでしまった。胸を抑え、込み出る涙を拭いながら必死に咳が治まるのを待ち、改めて外の空気を吸いこんだ。秋の爽やかな大気はどこか懐かしく愛おしい。高い空で気兼ねなく輝く星たちに、やぁやぁと私は心の中で挨拶をした。
突然の衝撃に驚いたのか、お燐は私の肩から地面に飛び降りていた。その緋色の目が前方に向けられていたので、私は彼女の視線を追って先の方をじっと見た。
左右を芝生に挟まれた道の先に、ごてごてと装飾の施された鉄格子の重そうな門があり、その向こうには、紅い屋根と白い壁の大きなお館が、どっかりと夜の闇の中に鎮座して辺りを睥睨していた。
どういうことだろう、と私はますます不思議に思った。これ、私が迷路に嵌り込む前に訪れた館じゃないか。なぜ迷路の中で突然こんな光景に出くわすんだろう? また一つ謎が増えて、さすがの私も頭が痛くなりそうだった。
紅い館から視線を下ろすと、門の前に二つの人影があるのに気付いた。一つは大きく、もう一つはその半分くらいの大きさだった。目をこらしてよく見ると、小さい方の人影は、先ほどばったり遭遇した金髪の女の子だった。彼女は背の高い影――こちらは、緑色の服を着て、赤い豊かな髪をたくわえた女性だった――の方を向いて、何やら楽しげに身振り手振りを加えて話していた。
女の子の背中に、さっきは気付かなかった物が揺れているのを見つけた。それは、暗闇の中でも燦然と煌めく七色の羽根だった。
「……でね、お姉様ったらひどいんだよ。私が一日咲夜と一緒にいたいって言ったら、お姉様ってば『咲夜は私のものだ!』とか威張っちゃってさ。てんで譲りやしないんだもの。さすがの咲夜も苦笑してたなぁ。ねぇ、ひどいよね。美鈴もそう思うでしょ?」
「ひどいですねぇ」
女の子の矢継ぎ早の捲し立てに、にこにこと朗らかに美鈴と呼ばれた女性は答えた。
「でしょ? まったく、咲夜は私のものだってのにさ……一日くらい貸してくれたっていいじゃない」
「いやぁ、そういうことじゃなくてですね、咲夜さんは誰のものでもないでしょう」
「ふん。なに言ってるの。このお館にあるのは全部私のもの。美鈴だってパチェだって小悪魔だって私のものだわ。それをお姉様がいかにも自分一人だけの所有物みたいに言ってるのが気に食わないの!」
「さようですか。ところで、新しい髪留めですね。どうしたのですか?」
「これ? お姉様がくれたの。せっかく用意してあげたんだから、ありがたく使いなさいだってさ。まったく、何様のつもりなんだか」
「ふふふ」
「どうしたの?」
「いや、なんでもありません」
「なによう、気持ち悪いなぁ。あ」
女の子は不意に館のほうに目をやった。私のところからは見えなかったけれど、門を抜けた向こうにあるポーチに誰かが立っていて、女の子を呼んでいるようだった。
「お姉様だ。もうお食事の時間みたい。今度こそあいつの鼻を明かしてやる。じゃあ美鈴、また明日ね!」
「はい、頑張ってください」
女の子ははしゃいだ所作で門番に別れを告げ、門を抜けてポーチで待っている誰かに連れられ紅い館の中へ消えていった。
この一連の女の子の動きを見ていた私は、ふっと我にかえって辺りを見回した。お燐は私の脚に寄り添ってしきりに求愛の表現みたいな鳴き声を繰り返している。私は、自分の口元が緩んでいるのに気付いた。あの女の子の元気な仕草があまりに可愛らしかったので、心の中がお姉ちゃんの淹れてくれたココアを飲んだ後みたいに温まっていた。それは懐かしさにも似た、目元に何か熱いものがこみあげてくる感覚だった。
再びお燐を肩に乗せ、とっぷりと闇に包まれた道を歩いていった。よくよく見まわしてみると、ここは厳密には外とは呼べないようだった。というのも、ある境界を以て地面と空が途切れているからだ。そこから先はただ黒い虚無だけがあって、この場所はありのままの外の世界と地続きであることを否定していた。その規模も目的もつかめないけれど、ここは迷路の中に唐突に出現した「箱庭」のようなものなのかもしれない。
門番の前にたどり着くと、私は精一杯の社交的な笑みを浮かべながら尋ねた。
「こんばんは。さっきは勝手に入っちゃってごめんなさい。通ってもいいですか?」
私は門番の帽子をじっと見た。緑色の生地の中央に刺繍されているのは、先ほどの扉に刻まれていたマークと同じ、黄色い星だった。
彼女は私を見ると、女の子に向けたのと同じ朗らかな表情を見せてくれた。
「ええ、どうぞ。妹様」
「妹様?」
私は首をかしげた。
「確かに私は妹だけど……貴女に様付けされる覚えなんてないわ。それともさっきの女の子のこと?」
「いいえ、貴女のことですよ、妹様」
相変わらずにこにこと、門番は微笑むだけだった。
「……変なの。じゃあ、通るね」
「お嬢様をよろしくお願いしますね」
「お嬢様? それって、さっきの女の子のお姉ちゃんのこと?」
「さぁ、ここは冷えますので、早くお上がりください」
駄目だ。全然通じないや。
私は肩をすくめて、門を通り抜け館の敷地内に入った。
館への道は白い砂利が敷き詰められ、それに沿って並べられている花壇には色とりどりの花が植えられていた。私にはそれらの名前はちっともわからないけれど、夜の闇の中で風に吹かれ楽しげに揺れている花々は、決して作り物なんかじゃなかった。
白い階段を上り、大きな扉の前で足を止める。屋根と同じように、血で塗られているんじゃないかというくらいに真っ紅だった。私は躊躇せずに扉を開き、館の中へと歩を進めた。
私はまた薄暗い迷路に戻っていた。
4
「また扉……」
二番目の扉は、先ほど館の中に入ってすぐ出くわした円路にあった。最初のは緑色に塗られていたけれど、今度のはちょっと奇妙だった。上半分は紫色でその中央に月のマークがあり、下半分は赤色で中央に蝙蝠の翼のマークがあった。なんというか、節操のないデザインだなぁ。
中に入ると、まず埃の匂いが鼻についた――年季の入った書棚が無数に立ち並び、所狭しとぎゅうぎゅうに詰め込まれた本の群れは、異様な切迫感を持って私にのしかかってきた。個人の蔵書にしてはその数は桁違いだ。たぶん図書館なのだろう。お姉ちゃんも本が好きだけれど、さすがにこんな度し難い量は持っていない。迷路とはまた別の種類の黴臭さが漂っていて、私は少し気分が悪くなった。
「……ねぇパチュリー、さっきから気になってたんだけどさ、この黒い粒々、いったいなんなの? なんかのお薬?」
奥の方から声が聞こえてきたので、私はハッとして注意を前方に向けた。
足音を立てないように忍び足で、本棚の間の薄暗い通路を抜けていく。
奥へ進むと、本棚のない開けた場所に出た。丸い大きなテーブルがあり、その上にはまた随分な量の本が乱雑に積み上げられていて、今にもそのテーブルを押しつぶしてしまいそうだった。周りに置いてある椅子には、さっきの声の主――それはあの金髪の女の子だった――の他にもう一人、紫色のネグリジェを着て、紫色のナイトキャップからこぼれるもったりとした紫色の髪をたくわえた、紫の瞳の少女だった。パチュリーという名前なのだろうか?
「胡蝶夢丸よ」
パチュリーはむっつりとした不機嫌な顔で、アメジストのような瞳を女の子に向けて言った。キャップには月の形をしたブローチがついている。
テーブルの中央に小さなお皿があって、その上には黒い丸薬が小山を作っていた。
「薬を売りに来た月兎からレミィが買ったの。飲むと良い夢が見られる。ただしそれはナイトメアタイプで、飲むと悪夢にうなされるらしいわ。あの蓬莱人の医者が作ったんだから、きっと陰険な効果があるに違いないわね」
「へぇ、なんかよくわかんないけど面白そう。ねぇ、もらってもいい?」
「駄目よ」
「えー、どうしてー、ケチんぼー」
女の子は「ぶー」と口を尖らせて文句を言った。パチュリーは取り合わず、それまで読んでいた本を一旦閉じて机上のベルを鳴らした。「はいはーい」という軽やかな声が聞こえて、向こうの本棚の隙間から本をたくさん抱えた赤髪の少女がやってきた。白いブラウスに黒いベストとスカート、頭の横と背中に小さめの蝙蝠の翼を生やした少女は、なんとなく「悪魔」という形容が似合う感じだった。
「小悪魔、お茶を淹れてちょうだい」
「かしこまりました。フランドール様はどうされます?」
赤い髪の少女は小悪魔というらしいが、それは固有名じゃなくて、恐らく種族のほうだろう。彼女のおかげで、やっと女の子の名前がわかった。
「フランドール」だって、なんだか上品な響きだ。
「いらないよー。ねぇ、どうして駄目なのさ。いいじゃない一粒くらい」
「レミィが、貴女には飲ませるなって言ったからね」
「お姉様が? ……ふぅん」
フランドールは口に指を添わせて考え込んだ。
「なんでお姉様はそんなの買ったのかな?」
「さぁ、たぶん、面白半分でしょう。あるいは月兎と一緒に来たっていう嘘つき兎の甘言に乗せられたかね。レミィのことだから、いずれにしろ二、三回服用したら飽きてしまって、恩着せがましく私に押しつけたってところかしら」
「お姉様らしいや。パチュリーは飲んだの?」
「いえ、ただ魔法の実験に使えそうだからね。持っていっては駄目よ。レミィに何か言われるのは私なんだから」
「はぁい」
にこにことフランドールは頷いた。
しばらく二人が黙りこんだので、私にはこれまでに起こったことを考える余裕が出来た。
まず迷路の部屋の扉は、どうも部屋の持ち主を象徴(というには少々あからさますぎるような気もするけど)するデザインになっているようだ。最初の扉は、あの美鈴という門番の髪の色と帽子のマーク、二番目のこの部屋の扉の上半分はパチュリーという少女(たぶん魔女なのだろう)の、やはり髪の色と帽子のブローチ。そして下半分は小悪魔の……もう言うまでもないだろう。あの女の子は、部屋を次々と訪れてその住人たちと楽しくお喋りをしていっているようだ。だとすれば、この迷路がいったいなんなのか、だいぶ予想がつく。つまり……
「あ!」
そこまで考えて、私は思わず声をあげてしまった。
私が考えている間に、パチュリーという魔女は突然口元を押さえて咳きこんだ。げほ、げほというやたらと喉につっかえて苦しそうな咳で、たぶん喘息なのだろう。そうしてパチュリーが目をぎゅっと閉じてこらえている間に、フランドールは目にも止まらぬスピードで胡蝶夢丸を二、三粒つまみ、口の中に放りいれて、小悪魔がお茶の入ったポットを持って慌てて戻ってくるまでには直に呑みこんでしまったようだ。それに驚いた私の悲鳴に反応して、フランドールがひょいとこちらを向いた。
また紅い瞳が私をとらえる。そこには純粋な驚きがありありと映り込み、次の瞬間にはそれが――たぶん、恐怖なのだろう。刹那の間に暗い帳がその瞳を陰らせた。女の子は弾かれたように立ちあがって、扉の方に走りだした。
「待って――!」
私が声を上げるのと、女の子が振り向きざまに右手をかざし、それをきゅっと握りしめるのは同時だった。
突然耳を聾する轟音を立てて、私の横にあった本棚が爆発した。
「ひゃっ!?」
私はみっともない悲鳴を上げてその場に座り込んだ。攻撃でもされたのかと思ったけど、どうやら爆発による粉塵や驚きで私の目をくらますのが目的だったらしい。私はお燐が無事に肩に乗っているのを確認して、女の子を追って図書館のひらけた場所を走り抜けた。パチュリーと小悪魔がいるテーブルは霞んでほとんど見えなかった。挨拶できなかったのを残念に思いながら、私は扉を抜けて再び迷路の暗い廊下に出た。
5
女の子の足音を追って、薄暗い円路をひた走る。姿は見えないけれど、そう遠くは離れていないはずだ。そのうちさらに迷路の中心へと進む壁の裂け目か扉が現れるだろう。今度こそ彼女の手をとってお話をしたい。私は焦る気持ちを鎮め、急ぎながらも何かに蹴躓かないように慎重に奥へと進んだ。お燐は緊迫した空気を察して、私の肩から降り自力で走っている。
思った通りの裂け目が現れて、女の子はそこを曲がった。私とお燐も数秒遅れて壁の間に身を滑り込ませる。
その先はこれまでとはかってが違った。これまでの円路は内側と外側に裂け目か扉が一つずつあるっきりだったが、今度は――扉が私を惑わせるように何個も何個も円に沿ってずらりと並んでいる。
それを見て私は少しひるんだが、すぐに己を取り戻して耳を澄ませる。女の子は右に向かったようだ。
追いかけると、幸いなことに奥にある扉が一つばたんと閉じるのが目に入った。私はそのノブに飛びかかり、捻るのももどかしく強引に開いた。
部屋に入った瞬間、私は奇妙な感覚に襲われた。
「え……ぅ…………っ」
視覚には、どろどろと渦巻く色とりどりの不定型な、絵筆で様々な色彩を紙の上にごちゃまぜに塗りたくったようなものとして、
聴覚には、喜怒哀楽あらゆる感情を込めた声で数千人がけたたましく叫んでいるようなものとして、
嗅覚には、この世のあらゆる物を一つの部屋に集めて一斉に腐らせたようなものとして、
味覚には、ねばねばしたアメーバ状のおぞましく複雑なシロップのようなものとして、
触覚には、光の全く届かない深海にこの身一つのまま投げ出されたようなものとして、
それは捉えられた。
五感をフル動員してもなお、その感覚をあますことなく捉えきるには私のキャパシティでは絶望的に容量が不足している。
私は思わず頭をおさえ、床(そんなものがあるとしたら)にへたりこんで動けなくなってしまった。
怖い、怖い、お姉ちゃん助けて。
恐怖が心の中に冷や水となって流れ込んでくる。
お姉ちゃんの、どこか倦んだような紫色の瞳が、白くて小さな可愛らしい顔が、どんどん遠ざかり、薄れていく。
嫌だ、離れたくない、お姉ちゃん、お姉ちゃん――――
その時、肩に何かが触れた。
お姉ちゃんの優しい慈愛の手が置かれたのかと思って、私は痛切な希望を込めてそれに手を伸ばす。
お燐だった。しなやかで柔らかく、限りなく暖かい肢体。お日様の光を一身に浴びて、その熱をたっぷりと蓄えた黒い毛並みが目の前に浮かぶ。
それは私を我に帰させるには充分な、確実な物体であり、まぎれもなく血の通った生き物だった。
――――ああ、そうだ、これは。
正確な呼吸と落ち付きを取り戻し、意味不明の恐怖に対処法など頭からすっとばしてしまった私は、自分を恥じて立ちあがった。
なんのことはない。こんなのを怖がるなんて、どうかしてる。
よりにもよって、この私が。
自分の意識を消すことに集中する。私はどこにもいない、だから今ここで感じている感覚は嘘だ。ことごとく一切が全てまがいものにすぎない。呼吸すらも意識から消えるのを待ち、私はおもむろに一歩を踏み出した。
気がつけば、また迷路の中にいた。見まわすと、先ほどとは違い今度は外側の壁に幾つも扉が並んでいる。無事にあの部屋を通り抜けたのだ。お燐は、足元に姿勢よく座り込んで私を見上げている。
私は溜息をついて、今しがた無意識状態で通り抜けてきた部屋の扉に背中をつけ、ずるずると座り込んだ。
この迷路に入り込んだ時からずっと「意識」の状態を保っていた。それと、あの女の子を追いかけるためにいささか気が急いていたことともあいまって、私にとっては明確なあの感覚をすっかり忘れてしまっていたのだ。
あれは、あの部屋は、人の心の深層に眠る無意識だ。
お姉ちゃんたち一般のさとり妖怪が読み取る「心」というのは、一旦意識の表層に浮かび上がり言語によって明確化された後の意思だ。
さとり妖怪の第三の目はその言語化されたものを、まるで本を読むみたいに人の心から受信する。意識の場では、喜怒哀楽のように感情すらも言語に置き換えられてしまうため、人の感情、つまり「心」という曖昧なものを読み取ることが可能だ。
でも、私は違った。そういうのを読み取るのが嫌で、私は第三の目を閉ざしたのだ。
そして私は、無意識を「観る」ようになった。
最初にそれが見えた時は怖かった――ちょうど今しがた味わったばかりの恐怖が、幼い私の心を圧迫して押しつぶそうとした。第三の目は閉じたはずなのに、なぜこのようなものが見えてしまうのか。わけもわからず、私はしばらくの間泣きじゃくって、部屋の外に一歩も出られなかった。人の心を読むことが嫌で目を閉ざしたのに、またこのようなものを味わうようでは――この世界に私がいられる場所は、どこにもないじゃないか。絶望にも似たようなどん底の感覚に、私は屈してしまいそうだった。
しかし、途端にこの問題は解決された。無意識を見るのが嫌なら、私自身も無意識になってしまえばいい。すべての感覚を心から締めだして、まるで屍のようにふらふらと動きまわればいい。
結果的に、私はそれが出来るようになった。なぜ出来るようになったのかはわからない。なにせ、無意識は無であるからだ。意識を消している間は、前のように無意識に悩まされることもなくなった。
私は考えるのをやめて、閉じていた目をしっかりと開き、目の前でじっと座っているお燐に手を伸ばし、抱き上げた。
無意識が「見える」とはどういうことか――いまだに詳しいことはわかっていないけれど、たぶん「見えた」というのは単なる錯覚で、体が味わう云い知れない感覚(そうとすら呼べないかもしれない)を、ただ閉じた目が感覚に促されて瞼の裏に映像化しているのだと思う。
「お燐がいて、よかったぁ……」
そう言いながら、お燐の鼻面に顔を押し付けて、息を深く吐き出しながら言った。私は気がつかないうちに泣いていたらしく、頬から垂れ落ちた涙が上着の袖をぽたぽたと濡らしていた。お燐がいなかったら、突然の恐怖に呑み込まれて、二度と帰れなくなっていたかもしれない。
お燐はいつものようににゃーんと鳴き、目を閉じて人なつっこい笑顔を見せた。
「……よし、そろそろ行こう」
涙を拭い、お燐を抱いたまま決意して立ちあがった。
この迷路の正体もだいぶつかめた、と思う。あとは中心までたどり着き、そこで待っているだろう女の子、フランドールとお話をするだけ。円はだいぶ小さくなってきているから、ダンジョンのクリアまでもう少しだ。
私は、目の前にある扉に向かって歩きはじめた。
扉は濃いめの青色に塗られ、その中央には時を刻まない銀時計が嵌め込まれていた。
6
これといって特徴のない部屋だった。壁は暖色に塗られ、外に面した窓には淡い水色のカーテンが掛かっている。部屋の隅には古びた大きな洋箪笥と、質素な飾り気の無いベッドがよく整えられて人が入り込んでくるのを待っていた。ベッドサイドには小さめの鏡台が据えられ、その上に細々とした化粧用具が並べられている。インテリアと呼べるようなものはなにもなく、ただただひたすらに実用向きで、無味乾燥とすら言えるこの部屋の主は、中央にある深紅のテーブルの前に腰かけて黒表紙のやたらと分厚い本を読んでいた。
私が入ってくるのに気付くと、彼女は水色の鋭い光を放つ眼をこちらに向けた。服から判断するに、たぶんこのお館のメイドなのだろう。その服装は微塵の綻びもなく整えられていたが、セミロングの髪はやや無造作に肩へと垂らされていた。怪しんでいる様子はなく、私の姿を認めると、彼女はふっと知性と優しさを感じさせる柔らかな微笑みをこぼした。
閉じて置かれた本の横には、小さな丸い銀時計が時を刻む微かな音を立てていた。
「ああ、妹様。どうされたのですか?」
「貴女が咲夜さん?」
私は半ばあてずっぽうで、紅い館の門前でフランドールが話していた名前を出した。
「ええ、そうですよ」
くすくすと、緩やかに口元に手をあてて彼女は笑った。
「眠れないのですか? それとも、またお嬢様と喧嘩でもされたのかしら。たまには私の手など借りず、お二人だけで問題を解決されてはどうでしょう」
「私はフランドールじゃない」
私はお燐を抱きかかえる腕の力を少しだけ強めながら、はっきりと言う。
咲夜さんは不可解そうな顔つきで、ほんの微かに首を傾げた。
「いったい、何を」
「私は古明地こいし。貴女たちの言ってる妹様っていうのは私のことじゃないし、厳密に言えば貴女たちだって本当の貴女たちじゃない。この部屋は、この迷路は、あのフランドールっていう女の子の――夢の中にあるの」
この迷路を成り立たせている、篝火の灯った薄暗い通路は、彼女の住んでいる紅い館の地下の光景だ。そこには確かに、あの館と同じ黴臭くもあり生臭くもある匂いが漂っていた。ただ一つ違うのは、その空気は「懐かしい」とか「愛おしい」という感情に彩られていたということだ。
そして迷路のところどころに配された部屋の中には、フランドールにとって身近な、きっと大切な人々が、それぞれに関係のある場所ごと切り取られて彼女がやってくるのを待っていた。
紅い館に無意識のうちに入り込んだ私は、たぶんふらふらと地下に降りてあの女の子を見たのだろう。そして彼女の無意識の中に潜入し、その結果、私はこの迷路に閉じ込められてしまった。
夢というものは無意識にそのほとんどの領域を託している。無意識に潜入しているうちは、私自身も無意識状態であるため、その人なり妖怪なりが見ている夢は通常見ることができない。
しかし今回の彼女の場合、その無意識があまりにも堅牢で複雑な構造を有していたため、私はそこに囚われてしまった。長い時間さまよって、どうしても無意識の状態ではそこを抜け出ることができなかったから、私は意識の状態を取り戻し、彼女の夢を体験することになったのだ。
これが夢だというのは、途中から大体予想がついていたけれど、決定打となったのはあの無意識の部屋だった。あんな空間、現実にはあり得ない。
「貴女も、美鈴もパチュリーも小悪魔もみぃんな、フランドールが現実から切り取って頭の中で再構成した存在なの。だから、本当の貴女たちはこの迷路の外にいる。もしかしたら、このお燐だって本物じゃないかもしれない。私はこの迷路を解いて、早く本物の貴女たちとお話したいんだ。だから、ね、ここを通るよ。たぶんこの迷路の中心にはあの子がいる。あの子に会えば、きっとこの迷路から出られる」
私は出来るだけ早口でそう言いきった。これが夢ならばいずれ覚めて、迷路は消滅する。そうすれば夢からは自然に出られるのだろう。でも一つだけ気がかりなことがあった。それが起こる前に、あの女の子に会っておきたい。
「じゃあ、行くね!」
私はお燐を抱いたまま、急ぎ足で部屋を突っ切った。咲夜さんは椅子の前に立ったまま、半ば呆けたような表情で私の動きを目で追っていた。
入ってきた扉とは反対側の壁に、やはり青く塗られた扉があった。咲夜さんがなにも言ってこなかったので、ほっとしながら私はお燐を床に下ろし、ノブに手を掛けたところで――ぴたりと動きを止めた。
突然、場の空気ががらりと変わった。
それまで暖かく居心地の良い雰囲気だった部屋は、まるで湖の水が溢れ出して窓から大量に流れ込んできたみたいに、一瞬にして薄暗くなり、凍えるような冷気が辺りを覆った。
背筋がぞっとして、私はノブを握ったまま凍りつく。
首筋に冷たいナイフがピタリと突きつけられ、背後から射すくめるような強烈な殺意が、私を貫いて壁に突き刺さっていた。
首を少し動かして後ろに目をやると、さっき見せた知性や優しさなど微塵も感じられない冷酷な瞳が私を捉えた。
恐れていたことが起こってしまった。フランドールが先ほど図書館でパチュリーの目を盗んで服用した、胡蝶夢丸とかいう薬が効き始めたのだ。それは悪い夢を見させる薬だという。ならば効果が現れると、この迷路が彼女にとって恐ろしいだけでなく、私にも身の危険を及ぼすことになるのは明白だった。そうなる前に、なんとか彼女のところにたどり着きたかったのに。身動きがとれないまま、私はギリリと唇を噛んだ。
「……ねぇ、ナイフを放してくれない? 早く中心まで行って、あの子を助けなくちゃならないの。妹様のこと、大好きなんでしょ? だったら」
「通さない」
にべもなく彼女は否定し、いっそう強く私の首筋に冷たいナイフを押し付けてくる。
仕方ない。
私は目を閉じてある光景をイメージする。後ろにいるメイドの周りに高密度の弾幕を発生させ、それが徐々に彼女に向かって圧迫していくかのような錯覚を生み出す。弾幕の中心から逃れられないように、パラノイアに陥れて時間を稼げばいいのだ。どうせすぐ突破されてしまうだろうけど、私がこの部屋を出た後ならば問題ない。
はたして目を開けると、メイドは白い弾幕の檻に閉じ込められていた。よかった、能力は使えたみたい。
私はその隙に急いでノブを回し部屋から脱出した。
お燐はいつの間にかどこかへ消えてしまっていた。やはり彼女もフランドールの夢の中の住人だったのだろう。道連れがいなくなったのを寂しく思いながら、私は再び現れた円路を走り始めた。
息を切らしながら、私は次々と裂け目を通り抜けて中心へ向かう。もう円はかなりその半径を小さくしていた。そろそろだ。
先ほどまで居心地が良いとすら感じていた迷路は完璧に様変わりしていた。闇は更に密度を増しぬるりと水のように私の脚に絡みついてきた。燈火は哀れなほど勢いを弱め、中には完全に闇に掻き消されてしまったものもある。私は残された僅かな明かりを頼りに、先へ先へと歩を進めた。
「……着いた。ここだ」
肩で荒い息をしながら、私は扉の前で立ち止まった。小さな円形の小部屋で、これまでは何かしら装飾が施されていたのに、その扉だけはなぜか無機質な鉄の色だった。
ひやりとしたノブを回し、扉をそっと押しあける。
天井にある小さな明かりが、簡素な部屋の中にある少数の物を照らし出していた。小さめの可愛らしい洋箪笥、ベッド脇のナイトテーブルの上に置かれた空のカップ、淡いピンク色のベッドと枕、その横に置いてあるぼろぼろのぬいぐるみ。
女の子は、ベッドの向こうの壁際で膝を抱えて座り込んでいた。その肩は小刻みに震え、低い嗚咽の音と微かなうわ言をもらしているのが聞こえる。何かに怯えているようだ。
その姿を見て、誰かに似ていると思ったけれど、一瞬で答えが出た。
心を閉ざした当時の私に似ているのだ。
私はゆっくりと、静かに部屋の中央へと進んで、声をかけた。
「ねぇ、もう大丈夫だから」
何の根拠もない言葉だった。でも、私がこれを聞くときはたいてい、何の根拠もない時が多かった。それでも私はその言葉を聞くと少しだけ安心して、そう言ってくれたお姉ちゃんにすがりついたものだった。
私の言葉がお姉ちゃんのと同じ重みを持つとは思えないけれど。
それでも私はそう言って、フランドールに向かって手を伸ばした。
「ほら、安心して――」
「来ないでぇ!」
私の言葉を遮り、フランドールは恐怖を含んだ金切り声をあげると、頭を両手で抑えていっそう酷く震え始めた。
「ねぇ、怖いことなんてなにもないの。だから」
その時、ふっと私の首に何かがまとわりついた。
白くて細い腕が二本見える。手の爪は血が滲んでいるように紅く、その鋭い切っ先が首の柔らかい部分に食い込んでいた。誰かが、後ろから私に抱きついているようだけれど、何の感触も重みもなかった。
私の顔の横で、それは囁いた。
「一生ここから出してあげない」
冷たい言葉。冷たい声。それはきっと私ではなくフランドールに向けられたもので、当の彼女は部屋の隅で半狂乱の状態だった。
「あんたは気が狂ってる。あんたはすぐに物を壊す。私が築いてきた全てを、咲夜を美鈴をパチュリーを小悪魔を消してしまいかねない。だからここでずぅっと孤独に過ごさなきゃいけないの。何も話さず、誰に会うこともない。最後には、独りぼっちでこの部屋で死になさい」
死ね、死ね、死ね。
艶やかな紅い唇から、残虐な言葉が繰り返し繰り返し放たれる。
空色の髪、真紅の目を持つその少女は、フランドールよりも少しだけ年上に見えた。
「――貴女が、この子のお姉ちゃんなの?」
もう今は、助けてくれるお燐もいない。この状況を一人で打開しなければならない。
私は覚悟を決めて、後ろから抱きついている少女を横目で睨みながら言った。
「違う。あんたなんか妹じゃない。私の妹にふさわしくない」
「ふん。何様のつもりよ。聴かせてほしいんだけど、貴女にふさわしい妹ってどんなのかな?」
私は嘲るように鼻で笑う。
少女は淀みなく答える。
「もっと聞き分けが良くて可愛らしい、気の狂ってない子。狂気で世界を壊したりせず、ちゃんと身のほどをわきまえた――」
「ばかばかしい」
私は吐き捨てるように言った。
「そんなのって妹じゃないわ。一ついいことを教えてあげる。辞書で『妹』の項を引いてごらん。そこには、『姉を困らせる存在』って書いてあるはずだからね」
お姉ちゃんの顔を頭の中で浮かべた。
私のことにいつも悩まされながらも、帰った時にはいつもと変わらない様子で接してくれるお姉ちゃん。
「貴女の妹さんはね、完璧に妹の条件を満たしていると思うわ。それと、貴女は本物のお姉ちゃんじゃない。本物は、この迷路の外にいるはずだから。いつも尊大でふんぞりがえっていて、喧嘩ばかりして、だけれどいっとう妹のことを想っている、本物の『お姉様』がね」
私は目を閉じて息を吐き出し、再び無意識の鎧を身にまとった。
「――消えなさい」
次に目を開けた時には、あの少女は消えていた。
小さな部屋には、私と、未だに膝を抱えて泣いているあの女の子だけが取り残された。
私はほっと溜息をついた。これが夢で、まだ無意識の部分を残しているのなら、多少なりとも私にも操れるはずだった。少しだけ自信はなかったけれど、なんとか成功したみたいだ。
「さぁ、もう終わりにしよう。夢から覚めるんだよ」
私はそう言って一歩踏み出した。
その時、壁の方を向いたまま座り込んだフランドールの、膝のあたりに置かれた右手が、きゅっと握りしめられるのを見た。
パァンと、数千枚の硝子が割れるような轟音が周囲に響いた。一瞬にして彼女が、私が、壁が床が天井がひび割れて、ざらざらと崩れ落ちていく。死のような無感覚の中に放り出され、私は彼女を見失い、光など一切届かない闇の底へと沈んでいく。ずぶり、ずぶりと、暗い海の遥か深みまで、なすすべももなく落ちていく。
ああ、守れなかったな。
だんだん薄れていく意識の中で、私はそんなことを思った。
※ ※ ※ ※ ※
目が覚めたら隣に知らない女の子が寝ていました、なんて、いったい誰が信じるだろう。
少なくともお姉様は信じないに違いない。私がもしそんな事を話したら、きっと馬鹿にしたような顔をして、「あら、フランはその年になっても独りで寝られないの? しょうがないわねぇ、咲夜、今日はフランの部屋で寝るわ。さっそく準備してちょうだい」みたいな事を言いだすかもしれない。
もしそうなったら、ベッドの中でお姉様の寝込みを襲うだけだけれども。
さて、この困った現状をどうすれば乗り越えられるのかとんと見当もつかず、私は目の前ですうすうと寝息を立てて心地よさそうに眠る女の子を呆然と眺めることしか出来なかった。
その女の子の髪は、少し青みのかかった銀色の柔らかい癖っ毛だった。ぽわぽわと朗らかなその顔は、なんとなく大切に飼われた陽気な犬を思い出させる。一個しかない枕はなんでかその子に取られていて、その横には黄色のリボンがついている黒い帽子が置いてあった。
私はつい先日館に迷い込んできた一匹の黒猫を思い出した。尻尾が二股に分かれていたから、妖怪だったに違いない。一日一緒に遊んだらどこかに行ってしまった。最近はなんだか侵入者が多いみたいだ。美鈴、ちゃんと仕事してるのかな。
それにしても、なんだか怖い夢を見たような気がする。昨日図書館でパチュリーが持っていた怖い夢を見るっていうお薬を、寝る前に飲んだのが原因だろうか。その効果は本物だったらしい。でもまさか、夢から覚めた後にまで妙な気分を味わうことになるとは思わなかったけれど。
そんなどうでもいいことをぼやぼや考えていると、女の子の寝息のペースが崩れて、睫毛が少し動いたように見えた。
よく見ると、私とその女の子の手は、二人の間でなぜだか固く繋ぎあわされていた。
私は少し緊張して、その手を強く握ってしまう。
すると、その女の子が完全に目を開いて、私の方を見た。
お姉様の髪みたいな水色の瞳が、私の顔を写す。
「貴女……誰なの?」
私は警戒しながら言った。
すると女の子は、暖炉の火のように暖かい笑みを見せ、私の手をきゅっと握り返した。
「やっと、つかまえた」
彼女の声は水のように澄んでいた。
「今度は逃がさない」
※ ※ ※ ※ ※
7
私はフランを連れて紅魔館の屋根の上へと登った。
最初はフランも私のことを警戒していたけれど、本名や出自をつつみ隠さず明かしたら好奇心が勝ったのか、興味津津で私の話に乗ってきた。私はといえば、長く地下をうろついてそろそろ新鮮な空気を吸いたいと思っていたので、彼女に館の外でお話をしようと申し出た。
「うーん、外に出るの?」
フランは難しい顔をして口に手をあてた。
「あれ、駄目だった?」
「駄目ってわけじゃないけど……敷地の外に出たら、お姉様が心配するし」
「じゃあ、屋根に登ろうよ。そこなら外じゃないから大丈夫でしょ」
「……わかった」
フランがうなずいたので、私たちは部屋を後にして地下を抜けた。
館の外に出るのは簡単だった。私はうまく無意識に入り込んですり抜けたし、フランが一人でうろつくのをとがめる者は誰もいなかった。外に出ると、まだ幼い夜が輝かしい表情で私たちを迎えた。夢の中でも星空には会えたけど、それでもやはりこちらが本物だと思うと、なんだかいっそう輝いて見えるのだった。
二人で屋根の上に並んで寝転がり、両足をぶらぶらさせながらだらだらとした会話を始めた。
「ねぇ、どうして胡蝶夢丸を飲んだの? 怖い夢を見るってわかってたのに」
私は半ば答えを予想しながらそう尋ねた。
「お姉様が、私には飲ませちゃだめってパチュリーに言ったらしいから」
フランは頭の後ろで両手を組み、紅い瞳で夜空を見上げながら悪戯っぽく言った。
「お姉様が禁止したことはね、ついやりたくなっちゃうの」
「ああ、それわかるなぁ」
私はからからと笑いながら同意した。
「お姉ちゃんの困った顔って、なんだか見たくなっちゃうのよね。貴女のお姉ちゃんは、怒った顔が可愛いと思うな」
「え、お姉様に会ったの?」
「夢の中で、偽物にはね」
「え?」
「いや、こっちの話。ねぇねぇ、貴女のお姉ちゃんの話、もっと聞かせて」
「うーん、そんな面白い話ないよ? 意地っぱりで傲慢で、いつも見栄ばっかり張ってて、私に喧嘩ばかりふっかけてくるの。本当にどうしようもない奴でね。本当は咲夜がいないと何もできないくせにさ」
嬉々として姉の悪口を並べ立てるフランを見ながら、私は、ああ、この子はお姉ちゃんのことが好きでたまらないんだなぁ、と口元が緩むのを抑えられなかった。寝起きの時にすぐつけていた、お姉ちゃんからもらったという髪留めがそれを物語っている。
「ねぇ、こいしのお姉様はどんな感じなの?」
フランは自分だけ喋るのが不公平だと思ったのか、唇を尖らせて私に訊き返してきた。
「貴女のお姉ちゃんと同じ感じだよ。基本根暗で情けなくて、臆病で傷つくのが怖いくせにいつまでも目を閉じたがらない。おんなじことでいつまでもうじうじ悩んで、それを誰にも話そうとせずペットの世話に逃避してるの。この前なんてペットが勝手に暴走して地上の妖怪から物凄い怒られて、各方面にぺこぺこ謝罪してたっけ」
「うーわぁ、かなりしょうもないお姉様みたいだね……お姉様って、どこもみんなそんな感じなのかな」
「さぁ。ただ一つ言えるのはね、私たち妹としては、お姉ちゃんを思いっきり困らせて、その後で思いっきり甘えればいいの。そうすればたいていのことは許してくれるわ。それとね、お姉ちゃんが本当に困った時は、私たちしか助けられる人はいないの。なにせ、お姉ちゃんのことを一番わかってるのは妹だからね。でも気をつけて、姉っていうのは妹に頼ろうとしないものなの。だからそんな時は、お姉ちゃんの横っつら張り飛ばして、強引にでも助けてあげなくちゃならないの。それが妹ってものだと思う」
「ふぅん、面白いこと考えるんだね、こいしって」
「ふふふ。実は貴女のおかげでそう考えるようになったんだ」
「よくわからないなぁ」
「わからなくていいよ」
「……変なの」
今になって考えれば、あの迷路を無事に脱出できたのは、ひとえに「お姉ちゃん」たちのおかげといえるかもしれない。
いつもは旅の途中で、それほどお姉ちゃんに会いたいなどという気持ちになることはない。でも今回に限っては、何故か困った時にはお姉ちゃんの顔が真っ先に思い浮かんだ。それはたぶん、あの場所が含む空気の中に、姉のことが大好きというフランの意思が溶かしこまれていたからだ。それと、迷路のところどころでフランを待っていたこの館の人々。思えばそれは、「大好き」というフランの気持ちの痕跡を辿る道筋だったのかもしれない。
「ずぅっと一人で地下にいたの?」
私は尋ねた。
「うん、まぁね」
フランは事もなげに頷いた。
「それほど積極的には外に出ようとは思わないし。でも今は、美鈴とかパチュリーのところに行ってお話したり、お姉様が頻繁に構ってきたり、時々紅白の巫女とか白黒の魔法使いとかがやってきたりするからね、もうあまり退屈じゃないなぁ。それに時々だけど」
貴女みたいな変人も迷い込んでくるしね、と最後に悪戯っぽく付け加えた。
まぁ、私としては、通常はどろどろと不定型なはずの無意識をあそこまで規則的に構築している精神を持っている彼女のほうが、よっぽど変人に思えるのだけれど。というかそんな前例聞いたこともない。もしかしたら、お館の中にいつまでも閉じこもっていたから、その心は外にはそれほど広がらず、反動で中へ中へと段々強固になっていったのかもしれない。
「…………そろそろ、帰ろうかな。なんだかお姉ちゃんに会いたくなってきちゃった」
私は身を起こした。星をちりばめた夜空が際限なく広がっている地上もいいものだけれど、たまには地底のあの停滞したような淀んだ空気だっていいものだ。旧地獄跡の熱でぽかぽかと暖められた部屋で、お姉ちゃんのいれてくれたココアを飲みながらだらだらと過ごす。それはきっと、私の続けている旅と同じくらい素敵なことに違いない。
「もう行っちゃうの?」
フランが少し寂しそうな表情を見せた。
「また遊びにくるよ」
私はにっこりとフランに笑いかけた。
「私だけ変人呼ばわりじゃなんだか悔しいしね。今度来たときは、いかに貴女も変人かを証明してあげる。お燐も連れてこようかな。あれで基本的に気さくだから、結構馬が合うかもしれないよ」
「……そう、わかった」
フランは頷いた。
「貴女のお姉ちゃんにも今度きちんと挨拶したいしね。それと、言ってあげたいこともあるの」
「へぇ、なんて?」
「貴女は立派なお姉ちゃんです、ってね」
そう言って、私は立ち上がった。
「じゃあ、また今度ね」
「うん、またね」
彼女の紅い瞳が、寂しさで少しだけ曇ったけれど、こればかりはしょうがない。それぞれの居るべき場所というのがあるのだから。
私は手を振り、ふよふよと紅魔館から離れ、星の光に照らされた雲の上を突っ切った。
今日もフランは、紅魔館で大好きな人たちとの大好きな日常をおくるのだろう。
私は私で、またお姉ちゃんをからかって、隙を見て思う存分に甘えよう。
お姉ちゃんなら、きっと許してくれるはずだから。
さぁ、地霊殿に帰ろう。
(Ariadne`s thread)
ふらああああああああん!!!!
いや素晴らしいお話でした。悪夢にはまり込んだうにゃうにゃっとした気持ち悪さと、現実での清涼感。見事なものです。
ごちそうさまでした。
面白かった。
家族っていいですね
>私は警戒ながら言った。
警戒しながら、ですかね?
そしてくたびれ以外の何かも儲けたようでなにより。
夢の中身を描写するという今回のアプローチ、面白かったです。
二人はとてもいい妹ですね。
胡蝶夢丸を使ってフランドールとこいしを紐解くとは。
やはり貴方は、アイテムを使ってお話を組み立てるのが非常にお上手ですね。
おもしろかったです。さとり様のココアが飲みたくなりました。
中々面白い解釈でした。
後、二人の姉に対する想いがいいなぁ、って思いました。
あと夢の中でフランにとってこいしはどんな風に見えてたんだろ