─ 1 ─
夏の強い日が差す昼下がり。人里から魔法の森に続く小道を奇妙な色の傘が歩いていた。
正確には奇妙な色の傘を差した妖怪が、である。
妖怪は人間を喰らう。肉を喰らう者も居れば心を喰らう者も居る。
彼女、多々良小傘は後者であった。
彼女は人間を驚かし、その時の恐怖といった負の感情を喰う。
人間が驚かなければ当然彼女は飢える。妖怪も飢えればいつかは力を失ってしまう。
彼女はもう長い事人間を驚かしていない。驚かせていないと言った方が正しいのだが。
小傘は溜息を一つ吐く。
何故ならば、道すがらすれ違う全ての人間が皆一様に彼女を見て嘲りの笑みを浮かべるからだ。
「見ろよ、雨でもないのに傘差してるぜ」
「あんなので人間が驚くとでも思ってるのかね」
「よくあんな趣味の悪い傘持って歩けるわね……」等々。
人間達は口々に蔑みの言葉を放ち、それを聞く度に小傘は消沈し顔を伏せた。
いまや彼女を見て驚く人間は皆無であった。
(ひもじい……)
しばらくトボトボと歩いているとやがて誰ともすれ違わなくなった。
人間を驚かせなければいけないのに人間を避けている。
そんな自分に対しまた一つ溜息を吐く。
(……?)
その時彼女の視界に奇妙な物が映った。
それは道の端にポツンと落ちており、俯きながら歩いていなければ恐らく気付かなかったであろう代物だ。
(……傘?)
それは透明の不思議な傘であった。
留め具を外して開いてみると、その傘は「パンッ」と音を立て勢いよく広がった。
(キレイ……)
透明でキラキラと日の光を通すこの傘を小傘はとても気に入った。
「君も捨てられちゃったの? こんなに綺麗なのに……」
小傘は自分の唐傘を閉じ、しばらくこの透明の傘を差す事にした。
またしばらくトボトボと歩いている内に、夏の空を漆黒の雲が覆い始めた。
(やった、夕立ちだ。雨が来る)
雲はどんどんと広がり、太陽を覆い尽くす。辺りは薄暗くなり冷たい風が吹き抜けた。
小傘は立ち止まり雲に覆われてゆく空をぼんやりと眺めた。
黒雲がゴロゴロと音を立て空を震わす。そしてポツポツと傘を叩く音が聞こえ始める。
「わあ、雨空が見える……」
傘を差しながら雨が降る空を見上げる事が出来る。これは何と素晴らしい傘なのだろうと小傘は思った。
しばらく雨を楽しみながら歩く小傘の目に木陰に佇む人間の姿が止まった。
母親と娘だろうか。この雨で立ち往生している様子だった。
娘は母親にす縋り付き、何かを訴えている。
(人間だ……どうしよう)
小傘は親子に見つからない様に身を屈め、様子を見る事にした。
「ねー、お母さん。お腹すいたよー、早く帰ろうよー」
「この雨では仕方が無いでしょう。もう少し我慢なさい」
我儘を言う子供に母親は溜息交じりで答える。
子供なら驚いてくれるかもしれない。チャンスと思った小傘はそろりそろりと親子に近付いて行く。
そして親子の前に躍り出ると、本人はおどろおどろしいと思っている可愛らしい声で「うらめしやー」と決めの台詞を吐いた。
「……何か御用ですか?」
母親は娘を庇うように抱くと訝しげな視線を小傘に送る。驚いた様子は全くと言って無い。
「え? えーと……」
小傘は少しうろたえた後、おずおずと透明の傘を差し出した。
「これ、よかったら使って下さい」
母親は意外そうな顔で傘を受け取る。
「よろしいんですの?」
「拾い物だし、自分のがあるから」
小傘は茄子色の傘を見せ、ぺロッと舌を出してみせた。
透明の傘を差して去って行く親子を見送りながら、小傘は心の中で「ちょっと惜しかったかも」と思った。
その時突然子供が小傘の方に振り返り、大きく手を振りながら叫んだ。
「おねえちゃん、傘ありがとー!」
「……ふぇ?」
お礼の言葉を言われて小傘は戸惑った。
これまで彼女は人間を襲い、驚かす事しかして来なかった。当然感謝の言葉など言われた事が無い。
(ありがとう…?)
お礼を言われても空腹感は満たされない。だが小傘は胸の奥が少し暖かくなるのを確かに感じた。
(何だろう、これ。こんな気持ち初めて……)
小傘はしばらくの間親子の去って行った方向を見つめたまま雨の中に立ち尽くした。
夏の雨は徐々に激しさを増していく。
─ 2 ─
先刻から降り始めた雨は少しも衰える事なく激しく地面を打っている。
人里から魔法の森に続く道で、森近霖之助は雨に濡れぬよう大木に身を寄せながら恨めしそうに天を仰いだ。
霖之助は無縁塚に道具を仕入れに行ったその帰りであった。
(確かビニール傘を一本拾った筈なんだが…どうもどこかで落としてしまったらしい)
ビニール傘は外の道具の中でも特に手に入り易い物の一つである。
折れ曲がっていたりビニールが外れている物もあるが、何故か完品で手に入る確率の方が高い。
とはいえ大量に入荷した所で売れなければ全く意味が無い。
わざわざ香霖堂まで傘を買いに来る者など居ないし、来客時にたまたま雨が降る事もあるが大抵の客(そもそも客かどうかも疑わしい連中ばかりだが)は傘を買わず雨が止むまで店の中に居座ってしまう。
ビニール傘を拾う時は余程の美品を見つけた時くらいのもだ。
霖之助はその「余程の美品」を落としてしまった結果、こうして家路を雨に阻まれていた。
香霖堂まではあと少しの距離。走って帰ってもよいのだが折角拾った道具が濡れてしまうのは面白くない。
「止まない雨は無し。落としてしまった物は仕方が無い。ゆっくり待つとするか」
半ば諦め掛けたその時、激しい雨の中を奇妙な傘がフラフラと歩いて来た。
正確には奇妙な傘を差した少女だ。奇抜な色をした奇妙な傘がゆらゆらと揺れる。
あんな傘を差して歩く者に碌な奴など居ない。霖之助はそう思った。
(何だあれは……? まあいいか、何にせよ救いの舟だ。適当に言い包めて家まで入れてもらおう)
普段なら関わり合いになりたくない感じの少女だが仕方なく呼び止める事にした。このまま雨の中立ち往生するよりかは幾分マシである。
「そこの茄子みたいな傘の君!」
しかし少女は霖之助の前をフラフラと通り過ぎて行く。
雨に声を掻き消されたのか、それとも声の掛け方が悪かったのか、霖之助はもう一度呼び止める。
「そこの素敵な傘の君!」
やはり少女は霖之助を無視し、そのままフラフラと歩いて行く。
(そういう問題では無かったか……)
霖之助は少し濡れるのは已むなしと、少女に近付き肩を掴んだ。
「君、待ってくれないか」
少女の顔を見る。だがその表情にに生気は無く、虹彩異色の目もどこか虚ろだった。
(何だ? 様子がおかしい)
その刹那、少女の体がグラリと揺れた。
「────!?」
霖之助が手を伸ばすも間に合わず、少女は水溜りの中に倒れ、そのまま動かなくなった。
面倒な事になった。そう思い霖之助は溜息を吐いた。
─ 3 ─
道端に一本の傘が落ちていた。
派手な茄子の様な色をして目立っていたが手に取ろうとする者は一人も居なかった。
その傘はずっと待っていた。持ち主が拾いに戻って来てくれる事を。誰かが拾ってくれる事を。
蹴飛ばされ、雨に打たれ、風に飛ばされ、それでもひたすらに信じて待ち続けた。
だが、結局その傘を拾う者は一人も現われなかった。
辺りは闇に包まれ、絶望に心が支配される。かつて人間の手にあった思い出も消えて行く。
(捨てないで……! 誰か拾って……! ちゃんと役に立つから……! お願い、誰か……!)
悲痛な声を上げたその時、祈りが届いたのか誰かの手が差し伸べられ、抱き上げられる感覚がした。
体がふわりと軽くなり、暖かなぬくもりに包まれる。
「もう大丈夫だよ」
声がした。優しそうな男の人の声。
(拾ってくれるの?)
「ああ」
(捨てたりしない?)
「ああ、捨てないよ」
(どこにも置いていかない?)
「大丈夫、ちゃんと連れて帰るよ」
(本当……?)
「本当だよ。だから安心しておやすみ」
(……うん)
その人の胸の中で、優しいぬくもりの中で、心の中が満たされていくのを感じた。
もう捨てられる事に怯えなくていいのだと、置き去りにされる心配は無いのだと、そう感じた。
「…………っ!?」
小傘はハッとなって飛び起きた。
キョロキョロと辺りを見回す。そこは全く知らない部屋だった。
(ここ何処? 私何してたんだっけ?)
頭が重く、少し目眩がする。
(ああ、そうか。お腹が空いて倒れたんだ……)
しばしボーッと空を見つめる。すると部屋の襖がそっと開き見知らぬ男が姿を現わした。
「やあ、目が覚めたかい」
眼鏡を掛けたその男は穏やかな笑みを浮かべている。
「だ、誰!? ここ何処!? 私なんでここに居るの!?」
「ふむ、僕は森近霖之助。ここは僕の家だ。倒れた君を僕がここまで運んだ」
「りんのすけ?」
なんとなく聞き覚えのある優しげな声。
「それで、そういう君は何者だい?」
問われた小傘は咄嗟に驚かそうと両手首をダラリとさげ、お化けっぽいポーズをとる。
「う、うらめしやー!」
「ほう、飯屋なのか。見掛けによらないね」
が、案の定全く驚かれなかった。
「違う~~」
「違うのかい?」
「私、多々良小傘。……りんのすけのりんってどう書くの?」
「霖雨の霖だよ。長雨の意味だね」
霖之助は手近な紙に自分の名前を記してみせた。小傘は筆を借りると霖之助の名前の横に自分の名前を書き記した。それを見た霖之助は見掛けによらず字が書けるのかと感心したが言葉には出さなかった。
「へ~、雨と傘かぁ。面白いね!」
小傘は嬉しそうに微笑む。
「そうだね」
嬉しそうな小傘を見て霖之助も優しく微笑んだ。
「あ、そういえばこの服……」
小傘は素肌の上に大きくてダボダボのシャツを着ていた。下着は着けていない。
「ああ、すまないが女物は持ち合わせが無くてね。僕ので我慢してくれ」
「そうじゃなくて、誰が着替えさせてくれたの?」
「僕だが?」
「……見たの?」
「何をだい?」
「……ハダカ」
「見たよ」
霖之助は悪びれた様子も無くしれっと答えた。
「なっ!?」
「仕方が無いだろう。下着までぐっしょりと濡れていたんだから。寧ろ着替えと布団まで用意してやった礼を言って欲しいくらいだ」
「せ、せくはら?」
「何を言っているんだ君は?」
小傘は顔を真っ赤にしてブンブンと腕を振り回す。
「ちくしょう!もうお嫁に行けない!」
「だったら行かなければいいじゃないか」
暴れる小傘を冷静に制しながら平然と答える霖之助。
「何よ! あんたが貰ってくれるって言うの!?」
「何を言っているんだい? 僕は君を『貰った』のではなく『拾った』のだよ」
「わ、私は物じゃないわよ!」
「判ってるよ。うちでは生物は扱わないんだ。貰ったのは『傘』の方だよ」
その言葉を聞いた瞬間、小傘はハッとなって辺りを見回した。
「か、傘! 私の傘は!?」
霖之助はやはり何事も無いかのように店の方を指差した。
「君の…いや、もう僕のだが、あの傘なら店に陳列してあるよ」
小傘は布団を跳ね飛ばし慌てて立ち上がると霖之助が指差した方へと走った。
「おいおい、病み上がりなんだから無茶をしてはいけないよ」
「あーーーー!!」
小傘の唐傘は棚に並べられ、ご丁寧に値札まで付いていた。しかも安い。かなり安い。
「な、なんて事するのよ!? こんな子供のお駄賃でも買えてお釣りが出まくるような値段付けて……」
「どう考えても売れそうにないからね。値段は相応に下げないと」
「うう、これがさでずむ…」
小傘はフラフラとよろめいた。霖之助はすかさず小傘の体を抱き抱える。
「おっと、大丈夫かい?」
「う、うん……」
思わず頬を赤らめる。小傘は霖之助の胸に抱かれる事への安らぎを感じた。優しいぬくもり。
「ああ、そっか。あの闇の中で…私に手を差し伸べてくれたのは霖之助だったんだね……」
(…闇? あの時のうわ言の事か?)
小傘は霖之助の体をギュッと抱きしめた。
「小傘……?」
「霖之助は…私の事…捨てたり…しないよね…?」
そう呟き、目を閉じると小傘は静かに寝息を立て始めた。
「やれやれ……」
拾ってしまったものは仕方がない。霖之助はしばらく小傘を家に置く事にした。
─ 4 ─
小傘を香霖堂に迎えて何日かが経った。
その間に霊夢と魔理沙が店を訪れ、小傘が居る事に疑問を挟んだが「拾った」の一言で納得した様だった。
彼女達は小傘を単なる化け道具としか見ていないのだろう。その事で霖之助に不都合がある訳ではないが。
最初の何日かは「人間を驚かしに行く」と言って出掛けていたが、その度に消沈して帰宅し、やがて外に出る事は無くなった。
小傘は日増しに衰えていく。普通の食事を与えた所で彼女の渇きは癒えない。
このまま放っておけば彼女は本当に死んでしまうかもしれない。
だがどうしたらいいのか霖之助には判らなかった。
竹林の医者に連れて行く事も考えたが医術でどうにかなる問題とも思えなかった。
小傘は妖怪である。彼女を見て驚く人間が居なくなり、彼女が飢えて消滅したとしてもそれは自然淘汰に他ならない。
霖之助にも、誰にも、どうする事は出来ない。
このまま小傘の最後を看取るのも止むを得ない、そう感じていた。
小傘は虚ろな視線で窓から見える空を見ていた。空は雲に覆われている。
霖之助はお茶が注がれた湯呑を差し出す。
「今日は調子が良さそうだね。人間を驚かしに行かないのかい?」
他愛のない会話で少しでも元気が出ればと。霖之助はそう思い語りかけた。
しかし、私を追い出したいの? と小傘はポツリと呟く。
「小傘…?」
そして、追い詰められた小傘の感情が爆発した。
「私を追い出したいんでしょ!? 捨てたいんでしょ!? 拾わなければ良かったって思ってるんでしょ!? 判ってるよ! 私の持ち主はみんな私を捨てるんだ!!」
「小傘、落ち着くんだ」
湯呑を引っ繰り返し、暴れる小傘を霖之助は何とかなだめようとする。
小傘の叫びに呼応するかのように、外では激しい雨が降り始めた。
「捨てないって言ったくせに!!」
左右の異なる色の瞳からポロポロと大粒の涙を零しながら小傘は叫ぶ。瞳の色は異なるが当然涙の色は同じだった。
「何で? 捨てるくらいならどうして拾ったりしたのよ!? 捨てられるくらいなら…生まれて来ない方が良かった!!」
泣き崩れる小傘を霖之助は強く抱き締めた。
「僕は君を捨てたりしない。嘘じゃないよ。安心するんだ、小傘」
一言一言、強く、言い聞かせるように呟く。
小傘は泣きじゃくり、謝罪の言葉を絞り出す。小傘の精神状態はかなり不安定になっていた。
「ご……ごめ……なさ……私……」
霖之助は小傘の頭を優しく撫でる。
「いいかい、どんな人間にも、妖怪にも、道具にだって、生まれて来た意味はあるんだ。だから決して生まれて来なければ良かったなんて言ってはいけない」
「りんのすけ……りんのすけ……」
小傘はしゃくり上げながら、何度も何度も霖之助の名前を呼んだ。
「小傘、傘は何の為にあると思う?」
霖之助は小傘が落ち着くのを待ち、彼女の柔らかい髪を撫でながら優しく語りかける。
小傘は少し考え、答える。
「……人間を驚かすため?」
「違うよ。君の生まれて来た意味を考えるんだ」
「私の生まれて来た意味……? 人間を驚かす事?」
「君は少し思い違いをしているようだね。本当に自分がその為に生れて来たと思うのかい?」
「うぅ……じゃあ私は何の為に生れて来たの?」
小傘は自分の存在意義を否定されたような気がして再び涙ぐんだ。
「いいかい。傘は持ち主を冷たい雨や強い日差しから守ってくれる…とても、優しい道具だ」
「優しい道具……?」
「ああ」
「私に普通の傘に戻れって言うの?」
「戻らなくてもいい。君は今でも優しい傘のままだ」
ほんの気休めにしかならないかもしれない。
ただ、霖之助は小傘に人間を恨んだまま消えて欲しくないと思った。
元々は人間を守る道具として生まれた小傘が、人間を恨んだまま消えてしまうのはとても悲しい事だと思った。
「新しいお茶を淹れるよ」
霖之助は立ち上がり、襖を開ける。
小傘は何となく襖の向こうの店内に目を向けた。この何日か香霖堂に居るが店の中をじっくりと見た事は無かった。
「……あ」
小傘は何かを見つけるとフラフラと立ち上がった。
霖之助は心配そうに小傘の体を支える。
「どうしたんだい?」
「あの透明の傘」
小傘は店の隅にある傘立てを指差した。どうして今まで気付かなかったのだろう。そこには幻想郷では見かけない珍しい傘が何本も納まっていた。
「おや、ビニール傘を知っているのかい?」
「あの雨の日に拾ったの。…人間にあげちゃったけど」
「そうか。それは僕が落とした物かもしれないな。君が拾ってくれたのか」
その言葉に小傘は何故か安堵の表情を浮かべる。
「……良かった」
「ん、何がだい?」
「あの傘(こ)、捨てられたんじゃなかったんだね。持ち主の霖之助の手には戻らなかったけど、あの人間の子供はとっても喜んでた……」
霖之助は一瞬キョトンとした後。フッと優しい笑みを浮かべ小傘の頭を撫でた。
「ちゃんと判ってるじゃないか。傘が何の為にあるのか」
小傘はじっと霖之助の顔を見つめた。彼を見つめるその左右異なる色の瞳は確かな決意を秘めていた。
「霖之助、私解ったよ。自分が何をするべきなのか」
─ 5 ─
魔法の森から人里へ続く道。
小傘は香霖堂にあった傘を抱えて雨の中を歩いていた。
霖之助は体力の回復を待ってから出掛けるよう勧めたが、小傘はそれを拒否した。
恐らく小傘自身、残された時間が僅かだという事を判っているのだろう。
ならば誰にも止める権利は無い。小傘の好きなようにやらせてやるのが一番なのだと。霖之助はそう考え、小傘を送り出した。
「私、雨で困ってる人達を守ってあげたい。それが傘の、私の存在する理由。そうでしょ、霖之助?」
自分の成すべき事を成す。それが小傘の願いだった。
小傘は香霖堂を出る前に霖之助に言った。霖之助に拾ってもらえて良かったと。微笑みながら。
このままでいいのだろうか。霖之助は思った。
出会ってまだ数日しか経っていないのに何故こんなにも心を動かされるのだろうか。決して単なる同情ではない。
彼女はビニール傘が捨てられたのではないと分かると安堵した。道具を愛する事が出来る妖怪だ。どこか自分と共感出来るものがある。
それだけではない。もう一度あの笑顔が見たい。
なによりも自分の拾ったものが自分の与り知らぬ所で朽ち果てる。道具屋としてその事が許せない。そう思う事にした。
「……小傘」
霖之助は椅子から立ち上がった。外は激しい雨。店にある傘は小傘が全て持って行ってしまった。
だが例え普通の唐傘やビニール傘が何本あろうと関係無い。今霖之助が一番欲しい傘は、あの商品価値の微塵も無い奇妙な茄子色の傘なのだから。
「そうさ。あの傘は…僕のものだ」
霖之助は店を飛び出し、雨の中を駆けて行った。
しばらくトボトボと歩く小傘の目に木陰で雨を凌ぐ人間の姿が目に止まった。
恐そうな大人の男だ。小傘はそっと男に近寄る。
「お、姉ちゃん! 丁度良かった!」
男は小傘を見つけると雨の中でも響く大きな声で叫んだ。小傘は驚き「ひっ」と声を漏らす。
「姉ちゃん傘売りだろ? 一本もらうぜ」
「え? ああ、はい。どうぞ」
小傘は男にビニール傘を一本手渡した。
男は「こいつは珍しい傘だ」と感心し、小傘に代金を手渡した。
小傘はお金は要らないと断ったが「それでは自分の気が納まらない」と言って無理矢理代金を握らせた。
「いいから取っておきなって! じゃあな!」
男はビニール傘を受け取ると上機嫌で雨の中を去って行った。
確かに感謝された筈だった。しかし男に傘を渡しても充足感は得られなかった。
(ひもじい。やっぱり人間を驚かせなきゃダメなのかな……)
「あのー」
落ち込んでいた所に急に背後から声を掛けられ、小傘は驚き「ひぃっ」と声を上げた。
振り返ると三度傘を被った女性が立っていた。
「私にも一本売って下さる? この傘ではどうにも心元なくて」
「あ、はい。どうぞ」
「あら、透けててお洒落な傘だこと」
女性は小傘に代金を渡し、嬉しそうに傘を差して去って行く。
(何だろう。何かが足りない……)
漠然とした虚無感を抱えたまま小傘は再び歩き出した。
それから里へ向かうまでに若い夫婦、老人や子供、様々な人間に遭遇し、小傘の持っていた傘は全て売れ、手に残ったのは自分の茄子色の唐傘だけだった。
傘は全て売れた。しかし小傘の飢えは癒されない。
(どうすればいいの…? 霖之助、私やっぱり解らないよ…)
やがて雨は上がり、雲間から太陽の光が差し込んで来た。
小傘はフラフラと歩き続け、気が付くと人里までやって来ていた。
だんだんと意識が朦朧としてきた。小傘は自分の体が限界である事を悟った。
(驚かさなきゃ…人間を…驚かさなきゃ……)
誰でもいい。目に止まった人間を片っ端から驚かそう。そう思った。
(ごめんね霖之助…やっぱり私、優しい傘にはなれなかったよ…)
まず目に止まった人間、それは先刻傘を売ったあの男だった。
「おー、姉ちゃん! さっきは助かったぜ! ありがとな!」
「え…?」
今度は別の方から女性の声がした。
「あら、傘の妖怪さん。さっきはありがとうね。この傘大事に使うから」
また別の方から若い夫婦が、老人が、子供が、傘を売った全ての人間が、口々に小傘に感謝の言葉を述べていった。
「ああ……」
ありがとう、その言葉に小傘の飢えた心が徐々に満たされていく。
「ねー、おねえちゃん」
最後に声を掛けてきたのは数日前にビニール傘を渡した親子連れだった。
母親がペコリと頭を下げる。子供を見ると茄子の様な紺色の蛇の目傘を差していた。
「見て見て。お姉ちゃんの傘とおんなじ色だよ。透明のはお母さんにあげちゃったから、私は新しいの買ってもらったの!」
小傘は驚いた。そもそも自分が捨てられた理由はその独特な色にあったからだ。
「…どうして…その色…イヤじゃない?」
その子供はブンブンと首を振る。
「イヤじゃないよ。私この色好き!」
「すっかり気に入ってしまって、こうして雨が止んでるのに差しているんですよ」
母親は困った様に微笑む。
そして親子は小傘に手を振って去って行く。茄子の様な傘をかざしながら。
「好きって言ってくれた…私とお揃いの傘…好きって……」
自分の唐傘を見つめ、そっと撫でた。
「ありがとう…」
何故こんな大切な事を忘れていたのだろう。最初は自分を捨てた人間を見返してやろうと思っていた。だがそんな事をしても何にもならない。きっと虚しいだけだ。
小傘はフラフラと歩きながら人里を後にする。
霖之助に感謝しなければ、お礼を言わなければと思った。彼はとても大切な事を思い出させてくれた。
小傘は空を見上げた。先程までの雨空が嘘のように晴れ上がり、大きな虹が掛かっていた。
太陽の光がキラキラと輝きまるで自分を祝福しているかのように見えた。
小傘は香霖堂を目指し、足を引き摺る様に歩を進める。だが遂に歩く事もままならず小傘は前のめりに倒れた。もう霖之助にお礼が言えないかもと思ったその瞬間、誰かに優しく抱きとめられた。
目が霞み、最早顔をよく見る事が出来ない。どうやら服がぐっしょりと濡れているようだった。だがその心地良いぬくもりだけは強く、はっきりと感じる事が出来た。
「私…霖之助に拾われて…良かったよ……本当に…良かっ…た」
「…良く頑張ったね。君はとても強く、優しい子だ」
優しい声がした。大好きな人の声。小傘の瞳から止め処なく涙が溢れる。
「…ありがと…う……」
そして、小傘の体は光の中にゆっくりと消えていった。一本の茄子色の唐傘だけを残して。
霖之助はその傘を強く、愛おしそうに抱き締めた。
「一緒に帰ろう…僕達の家へ」
─ 6 ─
あれから一週間程が経過したある日の香霖堂。夏の強い日が差す昼下がりでも店内は薄暗い。
霖之助は読んでいた本を閉じると深い溜息を吐いた。
「何と、わちきを捨てると申したか!?」
「…何だい、その廓言葉は。とにかく、捨てるとは言っていない。もうこの家で休んでいる必要は無いんじゃないかと言っているんだ」
霖之助は目の前で騒ぎ立てるこの少女、多々良小傘を一瞥するとまた一つ溜息を吐いた。
霖之助はてっきり彼女が消滅し、死んだものかと思い込んでいた。
だが今朝の事、気が付くと居間に大切に置いておいたあの唐傘の下で小傘がグースカといびきをかいていたのだ。
叩き起こして話を聞くと、しばらく『食事』を摂らないと体が維持出来ず、強制的に眠りに入ってしまうとの事だった。しばらく眠ればまた元気になって復活するようだ。
(…するとこっちの唐傘が本体なのか……?)
霖之助は舌を垂らした茄子色の傘を横目で見て冷や汗を一つ掻いた。
そして元気になったのならもう出て行けと、霖之助は小傘に言い放ったのだ。
「何よ! 要らなくなったら直ぐ捨てるのね!? そうなのね!? ただの同情で私を抱いたんだ!!」
「人聞きの悪い事を言わないでくれ。僕は君が死んでしまうんじゃないかと思ってせめて安らかにだね…」
「私は一言も死ぬなんて言ってないわよ! 霖之助が勝手に早合点したんでしょ!」
「ぐ、それはそうかもしれないが…あんな思わせ振りな態度では騙されても仕方が無いよ」
「騙すだなんて酷い! 私にとって捨てられる事は死ぬのと同じくらい辛い事なのよ! うう、散々私を弄んで…」
(まったく、弄ばれたのはこっちだ)
小傘は涙ぐみながらよろよろと崩れ落ちる。霖之助は慌てて小傘の体を抱き留める。
「小傘!?」
「驚いた?」
「………………」
小傘を突き放し、無言で本を読むのを再開する霖之助。
「お、怒ったの? そ、それにさぁ、傘売ってあげたじゃない? 私役に立つでしょ?」
「………………」
霖之助は小傘を無視して本のページを繰る。
「捨てないって言ったよね!? どこにも置いて行かないって言ったよね!? 責任取るって言ったよね!? ね!?」
小傘は涙目で霖之助の体に縋り付く。
「そんな事は言っていない。君の思い違いなんじゃあないか?」
「ちくしょう! こうなったら人里で暴れてやる! 香霖堂の店主に誑かされたって言い触らすからね!!」
「勝手にしたまえ。巫女に退治されたら傘は拾ってあげるよ。退治されたらさすがに復活しないだろうね?」
しばらく言い争いをしているとやがて窓の外の空に暗雲が掛かり、薄暗い香霖堂店内はますます暗くなる。
「…あ、ビニール傘また入荷したんだ」
小傘は店の隅にある傘立てに目を移す。そこには以前より多くのビニール傘が納まっていた。小傘が眠ってる間に仕入れてきたらしい。
「需要があれば仕入れるさ。里に居る知人に聞いたんだが結構評判がいいらしい。君の生前の行いも含めてね」
「……生前って言わないで」
ゴロゴロと雷鳴が轟き、窓の外から激しい雨の音が聞こえ始めた。
「……よぅし!」
小傘は傘立てに納まっている全てのビニール傘を腕に抱えた。
「おいおい、人の店の商品を持ってどこへ行くんだい?」
「勿論、人間を驚かしに!」
そう言うと小傘はぺロッと舌を出しウインクをしてみせた。
霖之助は雨の中に駆け出して行く小傘を見送りながらまた一つ溜息を吐く。
「霖雨には傘が必要…か」
霖之助は天を仰ぎ、雨の行方を見つめながら呟いた。
俺の一瞬緩んだ涙腺に謝れこんにゃろうww
最後の部分でニヤニヤしてしまったから十分満足なんだがw
途中の傘を売ったお客さんが集まって来るシーンが出来過ぎてるような気がしましたが、面白かったです。
最後の場面での騒ぐ小傘に霖之助が淡々と言葉を返すやりとりも面白かったですよ。
内容も面白かったし十分良い作品です。ただ3番と4番に掛ける起承転結の部分が足りないよね
本当は1~8番まで欲しかったです。と言うことで-10点
生きてるのが辛い
次回作にも期待させていただきます。
最後の最後で得心しました。成る程、こういう捉え方もアリですね
小傘が可愛すぎるw