人形芝居の幕のように、瞼が上がった。至極自然な目覚めだった。起きた時間は、とてつもなく不自然なようだけれど。
高い天井が、障子越しの外が、違い棚が青い光を浴びている。淡い月の輝きだ。
息を浅く吸って噛んだ。今がいつなのかは、夜気を取り込めば大体わかる。これは、
(丑三つ時少し過ぎ)
床に入ったのは真夜中前、亥の刻を幾らか過ぎた辺りだ。今日は昼寝はしていない。なのに、こんな時刻に意識を起こしてしまった。
喉が渇いたり、厠に行きたかったりして起きることはある。そういう時は普通心が朧で、はっきりしていない。今夜は違う。覚醒早々、冴えている。壁に飾った扇の文言を、すぐさま読み解ける。
(きっと興奮してるのね)
昨日は、月都万象展の最終日だったから。博覧会は盛況、大成功と言えた。連日物好きや妖怪が顔を出して、月の兵器や装束を物珍しそうに見ていた。私――蓬莱山輝夜は、客の質問やいちゃもんにせっせと答えていた。物盗りの魔法使いを、自慢の秘宝スペルカードで適当にあしらいもした。
(眠れない)
慌しい日々が終わったことに、身体が気付けていないのだろう。蓬莱の薬を飲んだ者は、不滅の肉体を手に入れる。しかし不死の肉体は、完璧に健全で健康な肉体とは言えない。体内時計が狂うことも、疲れることもある。当然寝付けないことも。
(そんな日もあるわ)
仰向けの身体を、障子の反対側に倒した。仄暗い部屋を仕切る襖が見えた。流水に紅葉の柄。そろそろ変えた方がいいだろう。冬が迫ってきている。
眠ろうと決意して、瞳を閉じた。なるべく何も考えないように心がけた。心がけるほど、蓬莱の身体は反発した。
葛湯のようにとろとろとした眠気は、どれほど待っても訪れなかった。脳が様々な像で溢れていった。途切れることのない竹林の濃緑。罰せよという声。竹取の翁の額の皺。求婚者とその終わり。私を月の使者から守ってくれた永琳。飛び交う矢と弾。月から隠れ続けた歳月。終わりのない密室を壊した、人と妖。
(もう隠れなくていい)
博麗の大結界は、私から「隠れる」という仕事を奪った。生きる理由をひとつ、摘み上げていった。
もう私は、何もしなくてもいい。月の使者など来ない。日々、空でも眺めて過ごしていればいい。それが退屈で耐えられなくて、博覧会を企画した。
(もっと長い間、続ければ良かったかな)
続けていれば、今夜も眠れただろうか。身体をお祭りのままにしておけば。次々零れる考えに、答える者はいなかった。こういうときに妹紅が来ればいいのに。喜んで相手をしてやる。
寝たい。でも、眠れない。何となく、背中に手をやってみた。すぐに掌が熱くなった。背骨まで熱い。具合が悪いからではない。脳の活動熱が、身体にまで回っているようだった。布団を蹴り上げて、両手両足を外に出した。履いていた白い足袋を脱いで、足の指を動かした。徐々に動きは大きくなった。眠気は来なかった。
(静かね)
皆は眠れているのだろう。各々の部屋で。耳を澄ませば寝息まで聴こえそうだ。特に永琳のは。部屋が近いから。
いつだって永琳は私の味方で、保護者で、姉のような存在だ。好意と厚意に、いつも甘えてしまう。私がやりたいと思ったことは、全てやってくれる。お茶が呑みたいと思えば、次の瞬間に最上のものを用意してくれる。「貴方は何もしないのね」と、紅白の巫女が言っていた。
(何もしないのか、出来ないのか、やらせてもらえないのか)
思考は巡る。月の使者が来ないなら、私にすることはない。永遠亭は私の術から解放された。時が動き出した。しかし、私はほとんど動けずにいる。月都万象展は終わってしまった。今度は、何をすればいい。何をすれば、退屈と停滞から逃れられる。
考えが悪い方向へ進んでいた。止める術はひとつあった。永遠と須臾を操る、私の力だ。今夜を一瞬のものとして、朝に変えればいい。ただそうするのは、自分の弱さに負けたようで悔しかった。たかだか眠れないというだけで、力を使うのは。
結局この晩は、布団の中で考え事を続けた。朝の光が差し込むまで、とても永く感じた。
「顔色が優れないわね、輝夜」
「そういう日もあるの」
向かいの席の永琳が、不安そうに私を見詰めていた。
自分の顔のことくらい、永琳に指摘されなくてもわかっている。洗顔の後に鏡を見たら、目の下にうっすら隈が出来ていた。皮膚を押さえつけて、よくよく観察しなければ分からない程度の。
「何かあったらすぐに言いなさいね」
「何もないわ」
私の些細な変化を、永琳はいつも気にする。それだけ大事にされているのだろう。何故だか、少し苛々した。
食事に使う間を、秋の終わりの涼風が通り抜けた。風に乗って、イナバの用意する朝餉の匂いがした。痩せた秋刀魚を焼く、煙の匂い。味噌や醤油の、生活感溢れる匂いもした。普段なら、早く出来ないかと思っただろう。今朝はあまり食欲がなかった。うまく眠れなかったことに、心がこだわっていた。食べ物にさほど興味が湧かなかった。
「お待たせしました」
私の食欲に関係なく、イナバは手製の食事を運んでくる。脚の短い長方形の卓袱台に、私と永琳の分の朝食が並んだ。白米飯に豆腐と油揚げの味噌汁、秋刀魚と大根おろしとすだち、人参多めのきんぴら、青菜のおひたし、等々。長い紫の髪が食材に入らないよう、イナバは注意深く皿を出した。身につけている麻の前掛けには、醤油の染みひとつない。慣れたものだ。彼女には、家事と永琳の助手という仕事がある。
(お腹空かない)
要らないと言ったら、ますます永琳が気にするだろう。何か口に入れなければ。空腹は眠りに悪いらしいし。でも、どれなら食べられるか。白米の量は多いし、秋刀魚は骨を取るのが面倒だし(と考えていたら永琳が私の分の小骨を処理し始めた。すだちも絞った)。とりあえず、胡麻のかかった人参のきんぴらを前歯でかじった。胡麻の形の所為か、砂を噛んでいるように感じた。味をよく受け取れなかった。
「あ、調味料間違えましたか」
「ううん、美味しいわ」
きっと、眠れなかったのが悪いのだ。ちょっとした不調だ。
永琳は私に気をやりつつ、満遍なく箸をつけていた。
「今日は夕方まで診察を受け付けるわ」
永夜の騒動の後、永琳は医師・薬師としての活動を始めた。兎達も遣って、幻想郷の者の健康維持に努めている。患者の来ない日が多いが、それでも構わないらしい。
永琳も、するべきことを見つけている。
「誰か来るといいわね」
「開いていることに意味があるのよ」
「働かざるもの何とやら、ですよねぇ」
気付くと、はす向かいに黒髪のイナバが座っていた。永琳のきんぴらの皿を引き寄せて、手で人参を摘んでいる。彼女と配下の兎達には、月都万象展開催中世話になった。彼らのそこそこ厳重な警戒がなかったら、どれだけの宝が賊に盗まれていたことか。
彼女は日々、竹林で仲間達とはしゃいでいる。迷子の人間を此処まで連れてきたり、迷子の妖精をからかったりしている。兎達の首領はそれなりに忙しいらしい。
(この子にもやることがある)
「てゐ、貴方も給仕手伝って」
月のイナバがお盆の端に爪を立てた。拳で殴る真似もした。地上のイナバは動じることなく、
「その前に熱いお茶を一杯。人参ジュースでもいいよ」
「頭からかければいいの?」
卓袱台を挟んでの睨み合いに、永琳が淑やかに笑った。私も笑おうとした。口の端を持ち上げるのに疲れた。昨日までは、童女のように無邪気に笑えていたのに。胸の外れに、空白や穴が出来たようだった。
縁側に腰を下ろして、無人の庭を眺めやった。昨日まで配置されていた月の旧型ミサイルは、今はもう蔵の中だ。丁寧にならされた土の地面が広がっている。青竹の壁に這う蔦が、風で揺れていた。
(誰か来ないかしら)
巫女でも魔法使いでもメイドでも庭師でも、誰でもいい。話し相手が欲しかった。望んでも、空を横切る気配は何もない。赤蜻蛉も来ない。イナバは置き薬の仕事に回っている。
どのくらい時が流れてくれたのだろう。竹林の上を見遣った。僅かに覗く円い太陽は、沈むまでまだ少しかかりそうだった。夜が遠い。
(一日が、永い)
傍らには、千代紙で折った蝶や鶴が並んでいた。やることがなくて、暇潰しに折ったものだ。こんなものは、何の役にも立たない。ものの数分で折り上がる。今欲しいのは、もっと長い時間を潰せるものだ。
私はすすき柄の鶴を一羽摘み上げると、首根っこを千切った。とかげや蓬莱人と違って、生き返りはしない。鶴は死んだ。手鞠柄の蝶々も、半分に引き裂いてやった。永遠の眠りについた。私と違って、彼らは眠れる。
残酷な遊びに興じていたら、足音がした。落ち着いた、一定のリズム。永琳だ。私は壊した鶴と蝶を、袖の中に隠した。見つかったらまた何か言われそうだったから。
「開店休業」
参りましたと呟いて、永琳はびろうど生地の衛生帽を取った。私の隣に腰掛けて、息を吐いた。
「薬棚の整理はできたわ。何もしないよりはましかしら」
「多分そうね」
何もしないよりは、まし。何気ない永琳の言葉が、棘のように刺さった。今の私は、何もできていない。慌しさや疲れと無縁でいる。
「輝夜の展覧会も興味深かったわ」
「ふふ」
また上手に笑えなかった。目が笑みの形を忘れてしまったみたいだ。永琳が訝しげな視線を向けてくる。器用そうな手が持ち上がった。私の熱を測るつもりだ。私は立ち上がって、
「冷えてきたわ。中に入りましょう」
彼女の診察を逃れた。
夕飯も、大して箸をつけられなかった。お風呂に身を浸しても、気分は晴れなかった。暑苦しいだけだった。永琳が髪を乾かしてくれた。自分でやれると言ったのに。輝夜の髪は長いから、独りでは出来ないと返されて。
昨夜と同じくらいの時刻に、自室に戻って布団に包まった。眠気は速やかに訪れた。今夜は大丈夫ではないかと信じて、灯りのない部屋で目を閉じた。
瞳が開いた。陽光が差し込む気配はなかった。息苦しかった。無理をして深呼吸をした。薄暗い空気を吸った。深い夜の味がした。
(また起きちゃった)
二晩続けての、深夜の覚醒。私は軽い絶望感を覚えた。
寝具や寝巻きの所為ではないだろう。どちらも特別快適なものを選んで用いている。部屋の位置だって悪くない。気温的にも、風水的にも一番いい場所を用意されている。
(永琳に相談する?)
いや、まだ二晩目だ。眠れないだけで、体調は悪くない。日中ぼんやりすることもない。
私は起き上がると、布団の脇の水差しを傾けた。茶碗に温い水を注いで、時間をかけて飲んだ。水が血に化ける様子を思い浮かべながら。
やはり皆はまだ寝ているだろう。
永琳は診察の準備で忙しくて。
紫のイナバは置き薬業と家事に奔走して。
黒いイナバは兎達を引き連れて。
私だけが、何もできていなくて。一日中、することがなくて。
(どうして)
水を飲み切ったら、急に不安が訪れた。おぼろげな、でも拭い切れない恐ろしいものが湧いて出た。飲み足りないのかと思って、もう一杯注いだ。同じだった。飲んでも変わらなかった。
(こわい)
脈が速くなった。激しく動いた後のように、手足が喚いた。横になっても、動悸は治まらなかった。それどころか速く、苦しくなった。胸に両手を当てて、私は念じた。落ち着け、落ち着け。この間までは自然に眠れたではないか。起きることなどなかった。大丈夫、私に何も問題はない。困るようなことはない。
(私には、何もない)
大きな黒い手に、心臓を掴まれたかのようだった。人恋しかった。今すぐ誰かのところに行って、胸の内をありったけぶちまけたかった。
永琳を起こそうかと考えた。駄目だ。いつまでも彼女に頼っていては。幻想郷で生きると決めたのだから。何もかも頼っていては、前に進めない。彼女は、何でもやってしまう。私がやらなければいけないことまで。
襖は紅葉柄から、冬の枯野の光景に変わっていた。気付かない間に永琳が変えたのだろう。
(私も、何かしたい)
このままではいけない気がした。
何も出来ない焦りと、何かしなければという興奮。眠りとは程遠い感情に挟まれて、私は重たい布団の中にいた。
日の光を待たずに、私は布団から抜け出した。黒髪を紐で束ねて、土間に向かった。月のイナバが木桶で白菜を洗っていた。朝食の準備を、私も手伝ってみようか。冷水で顔を洗うと、私は壁に掛かっていた刺し子の前掛けを腰に巻きつけた。それを見たイナバが、
「いいですよ、私がやりますから」
濡れた手を振った。
「気分転換。やりたいの」
「ですが、私が師匠に!」
師匠に任されているので。姫様にやらせたりしたら、怒られます。とでも言うつもりだったのか。しかし言葉を言い切ることはなかった。
「どうしたのウドンゲ」
騒ぎを耳にした永琳が、早足に駆けつけたから。イナバは心底困った様子で、眉を八の字にして
「姫様が、朝食の用意を手伝うと」
悪事を告白するかのように述べた。私が手伝うことが、そんなにいけないのか。
「動きたいの。そういう気分なの。後で洗濯もするわ」
動かないと駄目になってしまう。任せて、と私は胸を叩いた。
イナバの紅い目が、困惑したように左右に動いた。私と永琳を交互に見て、指示を仰がんとしていた。
永琳は私に一歩近付くと、手を伸ばして額に押し当てた。永琳の手の冷たい感触が伝わってきた。熱はないはずだ。少し寝足りない以外は、ぴんぴんしている。
「私は普通よ」
「どこが普通なの」
「やりたいの。やらせてよ」
胸を張る私に、
「必要ないわ。これはウドンゲの仕事。貴方は座っていて」
永琳は首を振った。そんな仕事はさせられないと。
まるで、自分が要らないと言われているかのようだった。必要ないから、あっちへ行っていろと。腹立たしかった。
「けち」
私は前掛けを土間に叩きつけて、卓袱台のある場所へ向かった。汚れた葉を選り分けるだけでもいい、芯を取り除くだけでもいい。何かやりたかったのに。自分にもできることがあると、思いたかったのに。
(いいわ。仕事は自分で見つけて、勝手にやる)
次は止められても聞くものか。
私は興奮して、多分少し混乱していた。朝食は相変わらず、よく味がわからなかった。イナバ特製のつみれ汁を、私は綺麗に残した。
私の見つけた仕事は、廊下の雑巾がけだった。永遠亭には長い廊下が多いから、遣り甲斐がある。裏手の倉庫から桶と雑巾を出して、準備をした。髪は結い上げて、服は膝丈の簡易着物に変えた。たすきも掛けてみた。やや冷えたが、働くには相応しい格好だった。
所々汚れのある分厚い雑巾を、井戸水に浸して絞った。腕力が足りないのか、なかなか水を絞り切れなかった。雫が落ちなくなったのを確認して、私は四足で走った。四季の間の脇から、朝顔、藤、夕凪の間の辺りを駆け抜けた。体力も足りないらしい。すぐに息が上がって、廊下の真ん中にへたり込んだ。膝が震えていた。
「っは」
一度速くなった脈は、すぐには鎮まらなかった。太鼓のように、心臓が弾け鳴った。呼吸も満足に出来なかった。きつかった。ただ、水気を帯びて光る廊下を見るのは気分が良かった。自分でやり遂げた感じがした。
耳を澄ますと、
「力を抜いてください、ちょっと痛いですよ」
遠くの診察室から、永琳の声が聞こえた。今日は患者が来ているらしい。丁度いい、体力が戻ったら永琳の部屋の前まで雑巾をかけてやろう。私にもできることを教えてやろう。そう考えていたら、
「ウドンゲ、外の輝夜にお茶を出してあげて。特別身体の休まるものを」
永琳のお節介な提案が飛んできた。自分の身体の管理は自分で出来る。
「それと、もう終わりにして休むように言って」
まだ始めたばかりだというのに、何故そんなことを言われなければならないのだろう。私がやりたいと思っているのだ、やらせてくれればいいのに。
苛立ちのままに、私は廊下を綺麗にしていった。永琳の部屋の前を突っ切って、端の端まで行った。「輝夜」と呼ぶ声を無視した。昨日だらけていた縁側も、隅々まで雑巾で磨いた。
雑巾は両面とも、埃で薄灰色になった。汚れた粉を吹いていた。桶のある場所まで戻って、ゆすがなければならない。荒い呼吸のまま、私は磨きたての廊下を歩いた。帰りも四足で雑巾がけをした方が良いのだろうけれど。そこまでの体力は備わっていなかった。
道の途中、永琳の診察室の前に、湯気の立ったお茶と茶請けの饅頭が用意されていた。私の好きな、桃の形の饅頭だ。明らかに、私のために用意されたものだ。永琳の世話焼きも、いい加減にしてもらいたい。私の出来ることがなくなってしまう。一瞬、お茶で雑巾を洗ってやろうかと企んだ。企んで、止めた。さすがに悪いと思った。ただ、彼女の好意に甘えるのも癪だった。お茶とお菓子に手をつけずに、私は桶のもとまで帰っていった。
雑巾を突っ込んだ途端、桶の水は鼠色になった。固まった埃や髪の毛が浮いてきた。気持ちが悪くなったが、我慢して布地を擦り合わせた。面倒がっていては時間は過ぎない。
(どのくらい経ったんだろう)
近くの部屋の襖を開けて、回転機械式の時計を覗き込んだ。結構頑張ったはずなのに、時は大して過ぎていなかった。これでは駄目なのか。
(私に出来ること、私がすべきことは)
箏や読書や雑巾がけではなくて、もっと生きていると思えることは。木桶の淀みを睨んでも、答えは浮かんでこなかった。
午後は宣言通り、洗濯をしてみた。身近な手巾や風呂敷を、洗濯板で力一杯擦ってみた。途中何度も永琳が静止しに来たが、放っておいた。やはり満ち足りた感じはしなかった。夕陽に透ける秋の七草の文様に、私は溜息を吐いた。もう秋も終わるというのに、何をしているのだろうか。これでは、いけない。
相変わらず、最初の眠気は素直にやってきた。今夜こそと念じて、私は日干し済みの布団を被った。昨日より少し薄手のものにしてみた。
瞑目してすぐに、意識は途切れた。けれども、
(まただ)
莫迦みたいに暗い時間に、心が目覚めた。今日は部屋が青く光っていない。月が雲に覆われているのだろう。家具の輪郭線を目で追った。追っている内に、呼吸が辛くなった。
眠れない不安と、何も出来ない不安が発作のように襲い掛かった。黒い部屋の所為か、恐怖感は昨晩よりも増していた。もう嫌、眠らせて。丸くなって布団を頭から被った。身体は熱く脈打っていた。私はきちんと生きられていないのに。
(どうしちゃったんだろう、私)
心身の不調を、不安以外の何かの所為にしたかった。妹紅の呪いとか、妖精の悪戯とか、秋ばてとか、掃除の疲れとか。幾ら考えても、最後には恐怖に行き着いた。黙考していると気が変になりそうだった。髪に手を突っ込んで、滅茶苦茶にかき回した。眠れない頭を呪った。声を殺して喚いた。泣きたかったけれど、涙は出なかった。
(厠行こう)
動いた方がいいかもしれない。私は布団から抜け出して、静かに立ち上がった。膝の裏側や腿の筋肉が痛んだ。雑巾がけの影響だ。平時にやらないことをやるからだ。しかも、やったところで何も得られなかった。
寝所を出て、私室を抜ける襖に手をかけた。半分まで開いたところで、止まった。何かが引っ掛かって、それ以上開かずにいる。首だけ出して確かめると、
(永琳)
看護服姿の永琳が、毛布を被って座って眠っていた。後ろで結った銀髪が、襖の溝に挟まっていた。夜の色の瞳が開いた。浅い眠りだったらしい。私は廊下に出ると、永琳の脚を弱く蹴りつけた。過保護さが憎らしかった。
「永琳、こんなところで寝ないで」
「ん、貴方が心配で。日中からずっと変だったもの」
月の頭脳は、起きたばかりでもよく動く。料理を手伝おうとした、いきなり雑巾がけを始めた、洗濯までした。次々と、昨日の私の奇行を並べ挙げた。夕飯の野菜に手をつけなかった、入浴時間がいつもの三分の二……どれだけ私のことを見ているのだ。いつもなら、よく気がつくわねと褒めたかもしれない。今夜はそんな気分にはなれなかった。永琳の腕を掴んで立ち上がらせると、
「何でもないわよ。少し起きちゃうだけ。平気だから戻って寝て」
毛布を押し付けた。
永琳は言うことを聞かなかった。私が眠れないと漏らした途端、
「すぐに薬を用意するわ。即効性の」
薔薇と濃紺の衛生帽を被り直し、診察室のある方を向いた。
「でも」
「私の腕が信用出来ない?」
「そんな訳ないじゃない」
永琳が信頼出来ない訳じゃない。逆だ。彼女は何でも出来すぎる。完璧に。私がやろうとしたことまで、全てやってしまう。だから私は、何もしないまま此処まで来てしまった。
「私のことは私に任せてよ」
「駄目。私の薬なら簡単に輝夜を」
「貴方の所為で、私は!」
覚醒し切った頭に、血が上った。掌が空を切って、永琳の頬に伸びた。引っ叩く直前になって、自分のしようとしていることに気付いた。
掌が、着地する先で迷っていた。私を何も出来ない子にしたのは永琳。だけど、私を此処まで守り導いてくれたのも永琳だから。毎日髪を梳かしてくれるのも、話し相手になってくれるのも、我儘を許してくれるのも。頬を張れなかった。永遠亭から出て行けとは、言えなかった。
手を下ろして、人差し指で診察室の方角を指した。中指と薬指が、生命線を引っ掻いていた。強く出られない自分を責めるかのように。
「戻って眠りなさい。命令」
永琳は反発しなかった。私に一礼して、部屋に戻っていった。怒らなかった。薄く、普段通りに笑っていた。
厠に行く気をなくして、私は寝所に帰った。布団と布団の間に身を横たえて、天井を見上げた。永琳を殴りかけた右手を、宙に浮かべた。
(酷いこと、やりかけた)
殴ったら永琳は怒っただろうか。多分許しただろう。ぎくしゃくすることもなく。人間関係においても、彼女は完璧を心得ている。私は彼女に怒られたことがない。イナバ達が叱られているのはたまに目にする。でもそれは理由があってのことだ。何故いけないのか、冷静に彼女は説く。どこかの巫女のように、いきなり攻撃してこない。永琳は優しい。彼女の周りには、助けを求めて人が集まってくる。私とは違う。
(私がいなくても、永遠亭は回る)
紫のイナバが薬を配り歩いて。黒いイナバが患者を導いて。永琳が癒す。三者の治療行為に、私は混ざれない。私が人に出来ることはない。精々、月の珍品を自慢するくらい。相手がそれで楽しんでいるのかは、わからない。
(私がいなくなったら)
妹紅のように、ひっそり隠れ住むようになったら。永琳は間違いなく心配する。でも、他の人間はどうとも思わないはずだ。仕えるべき人間が減って、イナバは喜ぶかもしれない。第一連中は、私と永琳のどちらを主と思っているのだろう。もしかしたら。
そこで考えを区切った。悶々としてはいけない。妄念は眠りを遠ざける。また眠らなければいけないのに。掌を下ろして、両目を覆った。光のない部屋が、ますます暗くなった。
どれほどそうしていただろうか。室外で何かを置く音がした。何だろう。夜更かし兎の悪ふざけか。永琳か。
布団を抜け出て、一間越えて、先刻と同じ襖を開けた。
四角い杉の盆があった。上に水の入った硝子のコップと、指先ほどの大きさの錠剤が載っていた。薬の色は抹茶色。植物をすり潰して固めたものだろう。よもぎのような匂いがした。作りたてなのか、少々葉っぱが錠剤の形からはみ出ていた。
コップは小さく切った紙を下敷きにしていた。紙には掛け軸に出来そうな美しい筆致で、
『お節介かもしれないけどどうぞ』
とあった。永琳が薬を出す際に袋に押す、紅い判子が押されていた。
「要らないって言ったのに」
飲んで眠るべきか、放置するべきか。飲んだら永琳に頼ったことになる気がした。自分の無力さを味わわされそうで、嫌だった。放っておくのも、これまたどうかと思った。永琳は殴られそうになっても、自分のために薬を作ってくれた。たとえ過剰なお節介でも、彼女の好意の塊だ。投げ捨てたら、主失格かもしれない。昼間無視した、お茶と菓子のことを思い出した。
これから先、どうしたらいいのだろう。永琳の世話を受け続けるか、自分のことくらい自分でできるようになるか。永琳の好意を受け入れるか、撥ね退けるか。やりたいことを見つけられるか、無力を痛感したままか。答えが出なかった。永遠の術の解けた屋敷で、自分だけが永遠に閉じ込められたかのようだった。
寝たかった。
(寝たいから使うだけ。永琳に甘えてる訳じゃない)
私は薬を半分に折った。半分だけ飲んで、床に入った。もう半分は、自分の努力で何とかしたかった。
世話を受けることは、好意を受けることで。でも好意を受けながら、独り立ちする道もあるはずで。世界のどこかには、自分にできることもきっとあって……家事なのか、唄ったり踊ったりすることなのか、全く別のことなのかはわからないけれど。
(何もしない日々は、いや……)
味噌汁の味を見ている自分や、珍品を磨いている自分の姿を想像した。可能性を作っては消し、消しては作った。そうしている間に、睡魔がやってきた。川を上る魚のように、私の許へ。空想の私が、ひとつひとつ消えていった。点け過ぎた灯りを消すように。
(私は、どうすればいい)
最後に浮かんだのは、永琳やイナバ達と笑い合う、私の姿だった。嬉しそうに、何かを見せて。
(私にも、何か出来る……?)
小鳥のさえずりと兎の足音で、目を覚ました。お酒を飲んだ後のように、頭が朦朧としていた。靄がかかっているかのよう。呼吸をするたびに、脳の霧は晴れていった。
障子越しに見る外は、乳白色。曇天。降るかもしれない。
久し振りの熟眠は快適で、歌のひとつも歌いたくなった。大きく伸びをしたら、筋肉が悲鳴を上げた。私の体力不足。
部屋を出たら、薬の盆が下げられていた。永琳はもう起きているのだろう。
(どんな顔をして、会えばいい)
食事の間まで、悩みながら歩んだ。浅く襖を開けたら、永琳がこっちを向いて微笑んだ。いつもと全く同じように。薬を出したことなど、まるで忘れているかのように。私はおはようとも言わずに、永琳の向かいに腰を下ろした。
香り茸の匂いがした。今朝は炊き込みご飯よと、永琳が教えてくれた。美味しそうな匂いに思えた。眠れたおかげで、食欲が戻ってきているようだ。永琳の薬のおかげで。
(ううん、半分は自分のおかげ)
半分しか飲んでいないもの。私は薬のことを話題に出さず、厨房の方を眺めていた。イナバの長い耳が、右に左に動いていた。
「今日の診察はお休み。輝夜と一緒にいるわ」
永琳の声がした。姉のような目で、優しく私を見守っていた。いきなり何を言い出すのだろう。
「私は独りでも平気よ。患者が来るかもしれないでしょ」
「休憩も必要よ」
「休憩するほど疲れてないんじゃない」
「診察以外のこともしたいの。最近輝夜と話してない」
幾ら言っても、言葉を覆しそうにはなかった。私は諦めて、
「蔵の点検をするから、手を抜いて手伝って」
やりたいことを述べた。ついさっき思いついたことだ。月都万象展の展示物は、兎の手で全て蔵に戻されている。何か壊れていないか、置き方を間違えていないか気になっていた。
(別に二、三壊れていても構わないけど)
月の品は山とあるから。ただ、人任せ(兎任せ)にしておくのは気に入らなかった。
永琳はすぐに承諾して、
「わかったわ。でも手は抜けないわ」
「貴方が一緒だと全部やっちゃうから。サボりながらやって」
私に棘を刺された。
昨日のことがあったからか、どこか居心地が悪い。私は厨房に歩み入り、食器の入った背の低い棚を開けた。私と永琳の分の、箸と兎型の箸置きを取り出した。場所を探し当てるのに時間がかかった。
「いいですよ輝夜様、やりますって」
イナバは先日の朝と同様、私の行為に動揺していた。
「私に任せたら箸が折れるとでも?」
私は睨みつけて食器を運んでいった。今日は永琳は何も言わなかった。私の様子を観察しているようだった。視線が細かく動くのが気に食わなかった。
灰色の空の下を通って、永遠亭の外れののっぽの土蔵まで来た。中の空間は術で広げてある。里の家々や博麗神社も中に詰め込めるかもしれない。
蔵の鉄扉を両側に開くと、月都万象展の再来と思しきアイテムの群れが見えた。人間二人分の背丈ほどある、細長い銀色のロケットと発射台。イナバの餅つきに使った古典的な臼と杵。外の人間が作った、宇宙空間用の服と兜。月の引力を利用した時計、月の羽衣、優曇華の盆栽。大小長短様々なものが、兎らしく適当に詰め込まれていた。よくバランスを崩さなかったものだ。
私は目に付いたものから、不調がないか確認していった。永琳はと言うと、いつの間にか物品のリストを用意していた。私が異常なしと認めたものに、印をつけていっている。自分の準備不足を思い知らされているかのようだった。なるべく永琳を気にしないようにして、私は作業を進めた。月の牛車の支え軸を、深く押し込んだ。
喉が渇いたなと思った頃に、永琳は冷たいお茶の碗を差し出してきた。梅の入ったおにぎりも一緒だった。悔しさがこみ上げてきた。ひったくるようにして飲んで、食べてやった。
大体の点検を終えると、私ははたきを手に品々の埃を落とし始めた。上方にある、月面大砲や地球の模型から順番に。砂埃が舞って、下にいる永琳に降っていった。少しだけいい気味だと感じた。永琳はロケットの足場を整えたり、小物を布で磨いたりしていた。
仕事を続けていたら、入口から雨の音が聴こえた。蔵から永遠亭まで、大した距離ではない。終わる頃に降っていても、小走りに戻ればいいだろう。永琳が鉄扉を閉めた。雨粒が入り込まないように。金属のぶつかる音が、鈍く響いた。
粗方埃を落とし終えた頃、永琳が桐の箪笥の天辺に腰掛けた。休憩にしましょうと、手招きをする。確かに長いこと働いていたらしい。引力時計の針は、夕方近くを差していた。時間が過ぎてくれたことに、私は安堵した。永琳の隣に座って、茶碗を受け取った。温かい玄米茶だった。金属製品を扱って冷えていた指に、熱が伝わってくる。永琳は自分の分のお茶を飲み干して、
「後で診察室へ来て、輝夜」
私を見詰めて言った。穏やかだけれど、命令するかのような重い口調だった。きっと、ずっと私に言いたかったのだろう。私は永琳にぎこちない笑みを向けると、
「私はどこもおかしくなってないわ」
気にしないで欲しいと願った。何でも永琳の管理下に置かれたくはない。今日の蔵整理の最中も、苛立ちは増すばかりだった。勝手にリストやお茶を用意して、私の望むときに望むことをやって。永琳の愛情だと、わかってはいるけれど。
「診察室へ来て。中途覚醒は何か理由があってのこと。輝夜に何かあったら、私は耐えられない」
「放っておいてよ」
茶碗の中身を引っ掛けてやりたかった。実際、手が動いた。ただし、本当にそうは出来なかった。昨夜、引っ叩こうとしたときと同じ。私の中の何かが、永琳を拒絶することを拒んでいた。気に入らないけれど、好意を受け取らずにはいられない。大切な永琳に、酷いことはできない。もし何かやって、見捨てられたら。恐ろしい。でも、何か言わなければ、今の関係は変わらない。身動きが取れなくなる前に、思っていることを伝えなければ。
「貴方や、貴方やイナバが何でもやるから、私は何も出来ないの」
茶碗を強く握って、私は喋った。優し過ぎる永琳の目を見て。
「一日が永いの、何も出来ないでいるの」
好意を拒みたいのではない。独りでも何か出来ると、示したいだけ。
「このままじゃ、私」
永琳は、私の独白を黙って聞いていた。傷ついた様子はなかった。そんなことない、輝夜にも出来ることが沢山ある。そんな気休めは言わなかった。だから、
「私、時間に潰される」
恐れていることを、最後まで口に出来た。
永遠を操る者が、永遠を恐れるなんておかしな話だけれど。私は怖かった。為すべきことをなくして、無為に無限の時を過ごすのが。もともと月を出たのも、退屈を嫌ったからだ。私は、何かを為したい。何も出来ないのは、死んでいるのと変わらない。蓬莱人であったとしても。いや、蓬莱人だからこそ、無為は恐ろしい。充実した一瞬が欲しい。
永琳の看護服が、すぐ近くにあった。抱き締められていた。背中に永琳の手が回った。人の体温と、鼓動が染み込んで来た。温かで優しくて、大切な恐れを忘れてしまいそうだった。
「離してよ」
「離せない、今の輝夜は」
きつくて、逃れられなかった。苦しくて、目元が潤んだ。涙声のままに、私は訊ねた。
「教えてよ、私は何をすればいいの。何をすれば、此処で生きているって言えるの」
天才様からの返事はなかった。頭を何度も撫でられただけだった。指先が、黒髪を梳いた。
「答えられないの。天才の癖に」
「答えを見つけるのは、貴方。私は何も手助け出来ないわ」
突き放しているのに、口調はあくまでも優しかった。何故かわからないけれど、涙が零れた。永琳の濃い色の服が、涙を吸って更に濃くなった。
初めて、永琳に手助け出来ないと言われた。不思議と嬉しかった。お茶でも薬でも何でも持ってこられる彼女にも、出来ないことがある。それが、私に関することで。もしも私が、生きている理由を見つけられたら。永琳の手を借りずに出来た、最初のことになるのではないだろうか。
(見つけたい)
自分に出来ることを。自分の仕事を。そうすれば、間違いなく何かが変わる。
「大丈夫、ゆっくりでいいのよ」
永琳は、私に任せてくださいとは言わなかった。代わりに、
「貴方なら、出来るわ」
私を信頼して、任せてくれた。嬉しくて、視界が涙で曇った。
これからは、もっと沢山のことを任せて欲しい。自分にも何か出来るのだと、思いたい。自分のためにも、永琳のためにも。
変わりたい。私はこっそりと決意した。
「もう大丈夫」
袖で涙を拭って、泣き顔を笑顔に変えた。さっきより、自然に笑えている気がする。口元の強張りが消えた。
いつまでもくっついているのが恥ずかしくて、私は目を泳がせた。目に入ったのは、
「そういえばこれは出品しなかったわね」
隣の箪笥の上に載った、口紅のセットだった。絵師のパレットのように、薔薇色や茜色、淡い紅の四角い紅が並んでいる。蓋は裏側が鏡になっている。紅筆も一緒に入っている。星の欠片を混ぜ込んだ、月の化粧品だ。唇に塗ると、光の粒が弾けたようになる。出品しなかったのは使いかけで、みっともなかったからだ。箪笥の上にあるのは、化粧っ気のある兎が使ったからかもしれない。
手に取ったら、塗ってみたくなった。人が化粧をするのは、変わりたいからだ。今とは違う姿に。私は蓋を固定すると、桜色の紅を右手の薬指で取った。下唇の中央に紅を載せて、伸ばしていく。泣いて乾いた唇に、仄かな色が灯った。唇の端は、爪を使って器用に塗り広げた。上唇と下唇を触れ合わせて、波打たせた。全体に桜の色が広がった。季節外れだけれど、
「綺麗」
永琳は褒めてくれた。私を手伝おうとはしなかった。最後まで、やらせてくれた。
(そうだ、永琳にも)
何色が似合うだろう。衣装に負けないような、多少強めの色だろうか。若々しい色だろうか。
迷った後に、紅い蓮の色を選んだ。ピンクにも近い、愛らしい色だ。優しい彼女にはよく似合う。中指で色を掬った。
「永琳、こっち向いて」
「輝夜、私はいいわ」
「やらせて、たまには私にも」
立ち膝になって、永琳の顎を押さえた。紅を擦り付ける。肌の質がいいのか、すぐさま色は広がった。星の欠片の粒が、蔵の薄明かりに輝く。
「悪かったわね、文句ばかりぶつけて」
「いつものことよ」
なるべく口を動かさず、永琳は小声で応じた。瞳は温厚そのもの、私に紅を塗られるのを楽しんでいるようだった。
「嫌じゃないの? お節介だ過保護だって言われて」
「貴方に頼られるのが嬉しいの」
後は、口の端を細かく塗ればいい。その前に、最後にひとつ、訊いておきたいことがあった。中指を離して、私は永琳と視線を重ねた。
「私は、此処にいていい? まだ、何も出来ないかもしれないけど」
永琳の診察の手伝いなんて、出来ないだろうけれど。料理も洗濯も雑巾がけも、まともに出来ないけれど。
私の居場所は、此処でいい?
「当たり前でしょう。何を今更」
背中には、変わらず永琳の手があった。存在感は、あるようでなかった。私の身体の一部であるかのようだった。
「貴方のいない永遠亭なんて要らないわ」
続きをお願い。とても素敵な声でそう頼まれた。私は言われた通りに指を走らせた。ほんの少し、唇からはみ出てしまった。次はもっとうまく出来るはずだ。大丈夫、ゆっくりでいい。
「永琳」
「はい?」
「あの、ありがとう」
光る唇で、礼を述べた。ごめんなさいの気持ちも込めて。
心が軽くなっていた。蔵に入ったときよりも、遥かに。
「はい」
鮮やかな色の唇で、永琳が返事を返した。光が瞬いた。
蔵から、幾つか月の品を持ち込んだ。月の伝承集と、星の瞬く鳥篭と、優曇華の盆栽だ。口紅のセットも持ってきた。夜中に起きてしまったときのためだ。永琳曰く、起きてしまったら無理に寝ようと考えない方がいいらしい。そういうものだと思って、何かしてぼんやり過ごせばいいそうだ。
薬は使わないことにした。自然に眠れるようになりたかったから。永琳に頼んだら、わかってくれた。
(何も、解決なんてしていない)
私に出来ることは、まだ見つかっていない。けれども、少なくとも今夜からは、不安になることはないだろう。私には為すべきことがある。出来ることを探すことだ。焦らずに、じっくりと。永琳やイナバ達と、同じ速度で見つかるとは限らない。ゆっくりでいい。時間は永遠にあるのだから。
布団を被ってまどろんでいたら、部屋の外で音がした。出てみると、錠剤と水のコップがあった。コップの下のメモには、
『昨晩のものより効果は弱め。どうしても眠れないなら使って』
(永琳の過保護)
要らないと言って、わかってくれたはずなのに。まあいい、有難く貰っておこう。怒る気にはならなかった。永琳の好意は、永琳の好意。そのままに受け取ればいい。本当に要らないときだけ、要らないと言おう。言ったとしても、永琳は私を見捨てない。私は、永遠亭にいていい。
薬とコップの盆を引き入れて、私は布団に戻った。
(おやすみなさい)
眠れるように、出来ることが見つかるようにと願って。
文体も綺麗でとても引き込まれました。
大変だ。自分自身で何かやろうと考えてみても今までやったことが無いから
なにをどうすればいいのかすらわからない。これはストレスたまるよなぁ。
いえ、追ってくださいお願いします心待ちにしております。
イメージを大きく外してはいなかったようで、ほっとしました。
急に義務から解放されたことで、人は安らぎと同時に焦りも感じるのではないでしょうか。
たとえ、永い時間に慣れた者であったとしても。
そう思って、輝夜の気持ちを形にしてみました。
超弩級ギニョルの謎を追う話も面白そうです。
早苗の神奈子・諏訪子ゲージのように、永琳ゲージがつくかもしれませんね。
一枚天井をも支えられるようになった…わけではないですよねー。
タイトルから少し覚悟していましたが、救われない最後ではなかった事に安堵しました。
輝夜の心情描写が無理なく共感できました。
ちょっと思うのですが、作者さんの文章には静かな時間が流れているといつも思います
素晴らしい文章、お見事です。
輝夜の過ごす時間、永琳との関係、未熟さ、焦り、希望。
永遠を生きる輝夜には長いスパンでゆっくりと何かを獲得していくように思えました。
ありがとうございます.
少しずつでも世界が広がっていくといいなあ