「私は考えたんだよ」
勇儀の一言目を聞いて、パルスィは駆け出した。全速力の逃亡だった。
あんな出だしで始まる話が、マトモなものであるはずがない。確か以前も似たような出だしの話があったけれど、その時は最終的にパルスィが胸からタイヤをぶらさげながら地霊殿の主の悪口を言いに行った覚えがある。
幸いにも心が読めるさとりは首謀者を見つけ、見事に返り討ちにあっていた。鬼が酒を持っている時は、出来るだけ離れた方がいい。彼女もそれをよく分かったことであろう。
そして今の勇儀の手には、朱色に輝く大きめの杯。それでいて、あの出だしだ。
むしろ逃げ出さない方がおかしい。
「なんだなんだ、いきなり逃げる奴があるか」
鬼ごっこならともかく、追いかけて来るのは本物の鬼。逃げるのはただの橋姫。
捕まって当然だ。
猫のように首根っこを掴まれ、屋台まで連れ戻される。
「は、離しなさいよ!」
「そうさね、あれは私がまだ若かった時のことだ」
「誰があんたの生い立ちを話せって言った。私はこの手を離せと言ってるの!」
「何メートル飛ぶだろうね」
「投げろとも言ってない」
どこか馬鹿にしているように聞こえるのは酒のせいかとも思ったが、年中この調子ならば素面もこんな感じなのだろう。まったく、鬼というのは真に厄介な種族である。
パルスィが納得した頃には、いつのまにか先程まで座っていた椅子に腰を降ろされていた。出来れば当分は戻りたくなかったのに、現実とはかくも残酷なものである。
唐突に椅子取りゲームと叫んで、誰か見知らぬ人に譲りたい。
「話を戻すよ。私は考えたんだ」
そしてパルスィは逃げ出した。
天丼? ベタ? 知ったことか。こちとら命すら掛かってるかもしれないんだ。
例えこの手足が千切れたとしても、パルスィは止まることを選ばない。
お約束や空気如きで嫉妬色の未来を諦めてたまるものか!
鎖で縛られたパルスィが椅子に座ったのは、それから十五秒後の事だった。
「今度こそ話を聞いて貰うよ」
ミノムシのように縛られては、さすがに逃げ出すこともできない。腐った死体のように虚ろな目で、もう好きにしてとパルスィはやる気を投げ捨てる。
「私はね、あんたの笑顔が見たい」
「はっ」
馬鹿馬鹿しい言葉に、早速笑顔が零れた。嘲笑とかその類だが、分類学上ではこれも笑顔に違いない。
しかし勇儀は酷く不満そうだ。
「そういうんじゃないんだ。もっとこうほら、桜が咲くような笑顔というか。心から嬉しい人間が浮かべるような笑顔が見たいんだよ」
額の角を外して、磨きながら力説する。お手入れも簡単だなんて、最近の鬼の角は随分と発達したものである。妬ましい。
「笑顔とか言われても、笑えるような事がないんだから仕方ないじゃない。大体、嫉妬の化身たる橋姫に笑顔を求めること自体が間違ってるの。鬼に禁酒をしろって言ってるようなもんよ」
「パルスィがしろって言うなら、私は喜んでするよ」
「じゃあ今日から禁酒」
「あいよ!」
朗らかに笑い、杯を空にした。コンマ単位で計測しないといけない誓いに、何か意味はあるんだろうか。
勇儀は新しい酒で杯を満たし、出てきた焼き鳥を頬張る。
「私だったら美味いものを食べて、美味い酒を飲んで、好きな奴が隣にいれば充分笑顔になれるんだがね」
「す、好きな奴ってあんた……」
これだから、鬼の相手は困るのだ。嘘をつけないだけあって、その言葉はストレート一直線。飾りっ気のない言葉は、容赦なく心の内角高めを突いてくる。
何故か顔が赤くなるパルスィに対し、勇儀の顔も仄かに赤かった。気恥ずかしそうに笑いながら、なみなみと酒で満たされた杯を突き出す。
「紹介するよ、私の嫁のお酒だ」
そうして勇儀は嫁を飲み干した。ドメスティックバイオレンスが生やさしく感じる。
「なかなかどうして出来た嫁でね。キスする度に赤くなるんだ」
「酔ってるからでしょ」
「でもお互い、腹の内までわかってる間柄だよ!」
「そりゃ、あんたの嫁は透明だもの」
「それはさておき、嫁、飲む?」
かつて地球上で使用されたことがないであろう文章を聞いた。パルスィは当然のように拒否して、仕方ないなあと勇儀はまた嫁を飲み干した。一体、何リットルの嫁が胃の中に収まったのだろう。
嫁ならば禁ずることができないのも頷け……ないか。
「最初はあんたも同じような事で笑顔になると思ってたんだけど、そういうのはあんまり好きそうじゃないからね」
「私だって美味しいものは食べたいし、美味い酒は欲しいわよ。それを食べたり飲んだりしてる奴らを見れば妬ましいと思うし」
「でも、笑顔にはならない」
自分ではよく分からないが、周りの奴がそう言うのだから真実なのだろう。鏡でも持ち歩かないかぎり、自分の表情など分かるわけがない。
「だから私は考えたのさ」
結局、話は最初へと戻ってくる。
「あんたを笑わしてやりたいってな」
その考え自体が笑いものなのだが、勇儀が求めているのはそういう類の笑いではない。だが努力すればするほど、求めているものとは違う笑いが零れそうな予感がする。いや、確信と言い換えても良い。
あるいは笑うことすらなく、ただただ虚ろな表情だけを浮かべるやもしれない。鬼の努力など、一般人でなくとも耐えられるかどうか妖しいものだ。
渋い顔のパルスィ。しかし此処で断れるのならば、初めから逃げ切れている。
こうして鎖でがんじがらめにされているのなら、どうせ選択肢の結末は変わらない。
「好きにするといいわ」
槍を投げるような口調なのに、勇儀の顔はとても明るい。鬱陶しいぐらいに背中をバシバシと叩きながら、私に任せとけと大口も叩いた。
まるで、パルスィが頼み事をしたかのような錯覚を覚える。
背中を叩き返してやろうかと思ったが、巻き付いた鎖がそれを許さなかった。
パルスィは、
「フレー」
とても、
「フレー」
後悔していた。
「ミーズーハーシー!」
地下に響き渡り、落盤でも起こすのではないかと危惧してしまうほどの大声。その声が告げるのは、恥ずかしいことに自分の名前だ。パルスィを知らぬ者は叫ぶ者に目をやり、知る者は当のパルスィに訝しげな視線を寄越した。
止めろ、そんな目で見るな。私は何も知らない。
言い返してやりたいけれど、一々反論していては夕暮れを迎えても終わらない。諦めたように口を紡ぎ、とぼとぼと歩くパルスィの後ろで勇儀はまだまだ絶好調だ。
「頑張れー! パルスィ!」
身に纏った学ランが妙に似合っている。勇儀の為に作られたのではないかと、一部の専門家が評するほどに彼女と学ランの相性は良かった。
そして腰には前垂れのついた帯が。肩からはタスキが掛けられている。帯には水橋、タスキにはパルスィと勇ましく書かれているが生憎と感銘を受ける予定はない。
「いやぁ、どうですかキスメさん。当人の嫉妬力もさることながら、なかなかに心強い応援だとは思いませんか?」
「そうですね。嫉妬というのは負に類するものですから。明るい応援を貰って、パルスィも心強いと思いますよ」
どこから聞きつけたのか、面白半分にキスメとヤマメも参戦していた。マイク付きのヘッドフォンを嵌めたヤマメが、いやに眩しい笑顔で実況を担当し、訳知り顔のキスメが的はずれな解説をしている。
いよいよもって、何をしたいのか分からなくなってきた。
「はぁ……」
「おおっと、ここでパルスィ選手の溜息だー!」
「おそらくは嫉妬への伏線だと思われます。これはかなり期待できそうね」
「キスメからのお墨付きも出た今、後は嫉妬の言葉が呪詛のように飛びだすのを待つばかりであります!」
不必要に膨らんだ期待感が背中にのし掛かる。まさか妬むことを期待される日が来ようとは思ってなかっただけに、この重さは精神的にも辛い。
大体、所構わず嫉妬をしているわけではないのだ。そうそう期待されても、妬むような相手がいなければどうしようもない。
「あの妖怪、足取りが軽やかね……妬ましい」
いつもの癖で、些細な事を妬んでしまう。普段なら此処で若干の空しさを覚えつつ終了なのだが、今日は特別ゲストが三名も招かれていないのに座して好き勝手していた。
「出たーぁっ! パルスィ選手の一秒間に十二回妬ましい!」
彼女の耳には不可解なフィルターが付いているのだろう。興奮気味にマイクを握りしめながら振り回す。近くにいたキスメはそのスイングの被害を真正面から喰らい、桶ごと大破した。
「さすがと言わざるを得ませんね。見慣れているつもりでしたが、まさか避けることもできずに大破するとは思いませんでした」
「キスメさんも絶賛のパルスィ選手の嫉妬。これは次のパルスィが早くも楽しみです!」
言語が違うんじゃないかというぐらい会話が噛み合ってないのだが、いいんだろうか。
そういえば、さっきから妙に勇儀が静かだ。あれほど五月蠅かった応援の声も、今は全く聞こえてこない。目立たなくて非常に有り難いのだが、急に消えれば不気味だ。
ヤマメ達の側にはおらず、何処にいるのかと探して見れば酒屋の軒先でワンカップを煽っていた。
「ちょっと」
「ん?」
思わず、勇儀を呼び止めた。
「応援はどうしたのよ、応援は」
「フレー! フレー! アールーコール!」
最早酔っぱらいの戯言レベルだ。しかも酔いを促進させようとしているのだからタチが悪い。
「まぁ、あんたもとりあえず飲みなよ」
「何でよ」
「私はね、考えたんだ」
今日で何度目になるだろう、この台詞。
「あんたのやってることを応援すれば、ちったぁ笑顔が零れるかと思ってたんだ。だけど、よく考えればあんたのやることと言えば他人を妬むこと。これを応援したからって、笑顔が零れるとは私には思えない」
「ここでまさかの正論だー! もっと早くそれを悟っていれば、今頃はこんな事にならなかっただろうにー!」
「真面目な鬼らしいと言えばらしいですけど。その一本気に惚れ込んだファンも少なくないと聞きます」
「……五月蠅いな」
さっきまでの自分を棚に上げ、茶々を入れるヤマメとキスメを放り投げてくる勇儀。ヤマメは僅か一投げでノックダウンしたが、キスメは飄々とした顔で戻ってきた。邪魔をするつもりはないのだろうけど、彼女の残機は何機ほど残っているんだろう。
「だから、今度はあんたを私の娯楽に引っ張り込んでやろうと思ってね」
子供のように意地が悪い笑みを浮かべ、無造作に伸びた腕がパルスィの首に巻き付いてくる。そのまま手繰り寄せられ、半ば強引に酒を飲まされた。
「ひょっとしたらと思ったんだけど、あんた酒を飲んだことがないだろ?」
図星だった。さとりから第三の目を借りたのかと疑いたくなるぐらい、図星だった。
いまだ酒の味を知らないパルスィからしてみれば、酒宴など何が面白いのかと首を捻りたくなる。あんなアルコールが混じっただけの水を飲みながら、どうしてあそこまで笑顔を浮かべることができるのか。
きっとみんな自分には無いものを持っているからだと納得し、何度も何度もそれを妬んできた。
「最初は飲めないのかと思ったが、それにしては酒臭い場所に一日中居ても頬一つ赤らめない。だからひょっとしたらと思ってたんだけど、どうやら私の勘は的中したみたいだね」
初めて酒の味に触れたパルスィ。最初こそ驚きの色で満たされていた表情は、やがて花も恥じらうような微笑みへと変わっていった。
「ふ、ふふふ……」
「ああ、そうだ。私はその顔が見たかったんだよ」
「ふふふふふふふふふふふふふ」
微笑みながら、お腹を押さえる。顔の筋肉を笑顔で引きつらせながら、くの字に折れ曲がったパルスィは勇儀を見上げた。
「ふふふ、あんた、ふふふ、何混ぜたのよ!」
「笑い薬」
酒とか関係なかった。
「まぁ、保険みたいなもんさ。でも、効いてくれて助かったよ」
とても爽やかな笑顔で締めに入ろうとしている勇儀。なにいい顔してやがんだと殴りたい衝動に駆られるが、生憎とそれどころではない。下手をすれば死んでしまうのではないかというぐらい、腹の底から微笑みが漏れだしてくるのだ。
最早恐怖である。
「キスメから手渡された時は憤慨すら覚えたけれど、あんたの為だって言われたら仕方ないものね!」
力強く立てられた親指。
遠くの方にいたキスメも、呼応するように中指を立てる。実に挑発的だ。
あの桶には報復しておこう。パルスィは心の恨み帳にキスメの名前を記しておいた。
「ふふふふ、あんたら覚えてなさいよ、ふふふ」
「この感動を?」
「感動してないわよ、ふふふ」
素直じゃないんだから、という慈母のような視線を向けられる。勘違いするのも良いが、こういう状況にしたのは勇儀だという事を忘れないで貰いたい。
「さて、じゃあそろそろ飲もうか!」
まるで今まで一滴も飲んでなかったような言い草だ。右手にある空のワンカップは何かと問いただしたいけれど、笑顔がそれを邪魔する。
抵抗することもなく、パルスィはずるずると勇儀に引きずられて、酒屋の暖簾をくぐった。
「美味しいお酒に、友の笑顔。いやぁ、これに勝る笑顔の秘訣はないね!」
笑顔の後に(薬)を付けなければ、いずれまた第二、第三の被害者が出るだろう。しかし、それを食い止める義務などパルスィにはなかった。むしろ出て欲しいとすら思っている。こんな苦しい思いをするのが自分だけなど、我慢ならないではないか。
どれだけ飲もうと、どれだけ笑おうと。
嫉妬する心だけは止められない。
ああ、笑ってない奴が妬ましい。
勇儀さんの横暴っぷりとパルスィの振り回されっぷりがとても良い。
ところで、
「いやぁ、どうですかヤマメさん。当人の嫉妬力もさることながら、なかなかに心強い応援だとは思いませんか?」
ここの台詞、ヤマメが実況でキスメが解説という地の文を見る限り、ヤマメの台詞のように思いました。
さりげなく何やってんだw
タイトルが秀逸すぎるwww
勇儀とパルスィの笑顔を挟んだ壮大なるせめぎあいにワロタ
誤字
「~あんたの笑顔の見たい」は「~あんたの笑顔が見たい」ですかね?
感心したり爆笑したりで終始飽きさせない文章に感嘆。
地の文がうまく書ける人ってすごい。
ギャグがこんなに心地よいなんて。
やることが一々ずれてる勇儀が堪らなくおかしいwww