無機質な部屋で、女童が一人、薄い長方形の板で遊んでいる。
板の下部には1から0までの数字と様々な記号。
上部には液晶パネル。
女童は、電卓で遊んでいた。
1+1=2
2-1=1
2×2=4
この程度なら自分でも出来るわと思う一方、四桁以上の乗法除法が瞬時に出来るかと問われると難しい。そうでもないか。
……なのだから、数学においては邪道と思われるこの機器も、日常においては便利な道具である、と納得した。
そもそも日常に四桁以上の乗法除法が必要なものか、との疑問は脇に置く。
女童は、再び数を打った。
0÷0=E
首を捻る。
0÷0=E
4÷2=2
0÷0=E
6÷2=3
0÷0=E
一時的な不具合ではないようだ。
1÷0=E
25÷0=E
300÷0=E
どうやら、『0』と言う数の所為らしい。
女童は首を振る。
『0』だけが理由ではない。
足しても引いても掛けても、何らかの返答がある。
故に、不具合の理由は『÷0』。
「――難しいお顔。何か、わからない問題があった?」
声がかけられ、女童は顔をあげる。
扉を開け現れたのは、女。童の教師。
「うぅん。全部解けたわ」
「あら、もう?」
「えへん」
胸を張る女童に微笑みを浮かべ、女は解答用紙を手に取る。
満点だった。
「是は是で少しばかりのもの悲しさも。じゃあ、一体どうして?」
『難しい顔をしていたの』。
言葉を補い、女童が口を――開かなかった。
女ならば、きっと答えられるだろう。
思う一方で、恐ろしい想像が幼い童の脳内を駆け廻る。
答えられないだけならまだしも、泡を吹いて倒れたらどうしよう。
女童がそう考えたのも、或いは無理からぬ話。
女はその叡智ゆえ、頭の中に小型の演算機が組み込まれているのではないかと噂されていた。
噂を聞き及んだ時、馬鹿な事を、と女童は笑った。百科事典も埋め込まれているに違いない。
「……失礼な事、考えているでしょう?」
「うん。……あわわのわ」
「もう。……あら?」
「『あら』はおばさんっぽいたひー」
「そう、電卓で遊んでいたのね。……『E』? 是は――」
女が言うよりも先に、女童が問う。
壊れるならば壊す方が良い。なんとなく。
「うん、『÷0』。答えられて――永琳?」
女童――カグヤの問いに、女――八意永琳は、応えた。
「ガガガピーピー」
「えーりーんっ!?」
「期待に応えてみたわ」
誰だこんなプログラム打ち込んだ奴。
「いたひーいたひー」
「悪戯心は乙女に必要なの」
「いたひーいたひーいたひー」
既に頬は捻られていない。カグヤが予期して声を上げたのであった。
――けれど、頬に触れる手は。
温かく。
優しく。
柔らかい。
「……永琳?」
見上げるカグヤに、永琳は、温かく優しく柔らかく、微笑んだ。
「『÷0』。私にとっての答えはね、カグヤ――」
蝉の声が耳を騒がせる季節。太陽がまだ控えめな頃。
永遠亭の縁側で、蓬莱山輝夜は肩を解していた。
実際に肩が凝っているかどうかは行動に関係がない。
凝るような事をしたから、解すような行為をしているのだ。
腕を回すと音がするのだから、無駄な事ではないのだろう。
首に手を当て、左右に振る。こき、こき。
もう片方の手は、昨夜まで大活躍をしていた道具を回していた。
「流石に疲れましたか?」
「充実した疲労ね。永琳、水を」
「先刻承知。傍らに置きますので、お気をつけください」
どこまでを『先刻承知』なのだろう。
接近を察知していた事か。命を与える事か。
はたまた、命を与える前に実行していると解っている事をか。
陽炎のようにゆらりと現れた従者――八意永琳に、輝夜は思う。
小さく首を振る。
詮索は無為だと断じた。
永琳は輝夜の思考範囲でしか動かない。
硝子のコップを持ち上げると、中に入っている氷が耳に良い音を響かせた。
からん。
「貴女も座りなさいな」
「では、失礼して……」
「私の上にじゃない」
半眼で告げる輝夜に、永琳は視線を逸らした。
「茶目っけですよ」
「年甲斐のない事をするわね」
「ボケた振りでも致しましょうか?」
「年がら年中色惚けじゃないの」
「お褒め頂き感謝の極み」
くすりと笑む永琳に後ろめたさは感じられない。
輝夜の横に腰を下ろし、永琳が口を開く。
「けれど、姫様も大概に惚けていらっしゃるかと」
「あら、どういう意味?」
「ペット惚け」
ふむ、と大仰に唸り、水をくぴりと一飲みし、もう一度唸ってから応える。
「褒め言葉ね」
頷き頷かれ、フタリはくすくすと笑い合った。
「今日は随分とオープンで」
「あの子たちがいないから」
「常日頃は気を張っていると?」
「ええ。あれでも、少しは」
「気さくと評されていますが」
「だから、それがあれ」
「ご冗談を」
永遠亭には今、輝夜と永琳しかいない。
数多いる妖兎、ペットたちには、三日ほどの休暇を言い渡している。
兎たちの隊長格である因幡てゐ、鈴仙・優曇華院・イナバにも同じく。
多少、齢を重ねていようが、腕がたとうが、輝夜にすれば皆同様。
今頃は、冥界にある白玉楼で楽しんでいる事だろう。
輝夜は思う――迷惑をかけていないといいけれど。
「ふぅむ……幽々子に借りが出来たわね」
「妖夢を何度かお預かりしていますわ」
「数が違うでしょうに」
「姫様は貸しだと思われましたか?」
「鈴仙とてゐとの絡みは見ていて飽きないわね――そう思ってくれているといいんだけど」
輝夜の懸念はしかし、杞憂でしかない。
そもそもが此の度の休暇を提案してきたのは、白玉楼の主、西行寺幽々子であった。
春の休暇で兎たちと過ごした幽々子が味をしめ、催促してきたのだ。
驚くべき事に、文字通りではない。
くすりと笑みながら、永琳が補足する。
「今回は、霧雨魔理沙とアリス・マーガトロイド、パチュリー・ノーレッジも参加するそうです」
「あの子たち、なんだか最近ミコ一ね。……あら、霊夢と早苗は?」
「各々予定があるそうで。不参加らしいですよ」
そう――相槌を打ち、輝夜はまた、水を含んだ。
酸素さえも必要としない躰。
だと言うのに、僅かな水分は喉を潤す。
そう感じる自身を、輝夜は、滑稽と思い、また愛おしくも想う。
想い、考える。
永琳はどうなのだろう。
彼女もまた、何物も必要としない存在。
輝夜は小さく頭を振り、思考の無意味さに微苦笑を浮かべる。
考えても詮なき事。
聞けばいい。
「……ねぇ、永琳」
「お代りをお持ちしますね」
「違う。貴女にとって、食事って何?」
曖昧な質問に、けれどすぐさま永琳は応えを返す。
「姫様」
良く聞こえなかったのだろうか。輝夜は首を捻り、再度問い直す。
「だからね、永琳。必須アミノ酸どころか太陽光すら必要のない貴女にとって、食事はどういう意味があるの?」
「何故だか貶されてる様に感じますわ。ですから、姫様だと」
「事実じゃない。私もだけど。……えーと」
小首を傾げる輝夜に、永琳はただ微笑みを向けていた。
純度百パーセントの笑顔。
曇りの一切ない欲望。
輝夜はポンと手を打った。
「オカズですね、わかります」
「生きる為の主食ですわ」
「‘蓬莱の玉の枝‘」
「ソレは目を突く物ではありません!」
「そうね。耳かきだものね。でも、えい」
もふ。
「目がー!」
叫びをあげる永琳に、輝夜は半眼を向けた。
「突いたのは眉間でしょう。それに、綿の方よ」
「鈴仙のお尻を押し付けられたようですわ」
「尻尾っていいなさい。えい」
ぷす。
「目、がぁぁぁぁぁっ!?」
転げまわる永琳に、輝夜は、満足そうににこりと笑んだ――。
――数分後。
「極上の姫様による極上の耳かきでの目潰し、極上の痛みでしたわ」
「良い物だったの、これ。もう、へらの方はぼろぼろだけど」
「短時間に使い過ぎです」
居住まいを正した永琳に苦笑でやんわりと諭され、それもそうかと輝夜は頷く。
他所様に預けると言うのに身嗜みの一つもできていないのは言語道断。
その信念の元、輝夜は兎たちの耳かき及び毛繕いを行った。
全羽を独力で実行したのだった。
右手に持つ耳かきをくるりと回す。
使い込まれた割に、先端の綿は変わらないように思えた。
否、むしろ、柔軟さのみならず、色さえも輝きを増している。真っ白。
自身の腿の上でうっとりとしていた兎たちを思い出し、輝夜の表情も緩んでいく。
「……少し、お休みになられては?」
「駄目ね。興奮冷めやらない」
「そこまでですか」
当たり前じゃない――胸を張る輝夜に、珍しく微苦笑が向けられる。
「では、あの子たちの様子をお聞かせ下さいな」
提案に、輝夜は応えず、コップに残っていた水を飲みほす。
するりするりと喉から胃へと落ちていく水分。
氷が溶けた冷たさは、しかし彼女の熱を奪い去るほどではなかった。
空になったコップを永琳に向け、輝夜は嬉しそうに、言う。
「時間、かかるわよ?」
腰をあげ、変わらぬ微笑みを浮かべながら永琳が返す。
「時は永遠ですわ」
「そうね。……何処に?」
「ですから――お代わりをお持ちしますと」
目にかかる横髪を片手で押さえ、永琳が悪戯めいた瞳を浮かべた。
向けられた輝夜は目をぱちくりとさせる。
虚をつかれた。
コップを引っ込め、つんと顔を逸らす。
「よく考えれば一杯で足りる訳ないじゃない」
「確かに浅慮でした。如何いたしましょう」
「桶ごと持ってきて頂戴」
了解の応えを返し、遠ざかる永琳。
その背に視線を向け、輝夜はふんと鼻を鳴らした。
一本取ったからではない。一本取らされたから、歯がゆい。
井戸ごと持ってこいと命じるべきだったかしらね――そんな無理難題を、輝夜は待ち時間に考えた。
暫くして。
永琳は、右手に桶を左手に携帯冷凍庫を持ち、戻ってきた。
地底の妖怪がすっぽりと納まりそうな桶に、透き通る井戸水がなみなみと満ちている。
「あのね。どれだけ話させるつもりよ」
「一羽辺り五分として……」
「え、足りないわ」
「コンマ一秒でも過ぎるとスペカです」
「意地悪。でも、いいわ、それでいきましょう」
竹の柄杓で差し出したコップへと水が注がれ、準備は整った。
太陽は輝きを増し、空は何処までも青かった――。
「最初に来たのは、蒲公英だったわ」
「尻尾が愛らしい幼妖兎ですわね」
「世界も狙える尻尾よ」
「何の世界ですか」
「もふもふ。ふわふわ」
「あー、九尾や半獣の後釜でも?」
「むしろ、コラボレーションで。永遠亭代表」
「蒲公英の次に来たのは、菫」
「おませなあの子らしいですわ」
「私が一番好きだって。ふふ」
「あら……思い違いでしたでしょうか」
「二番が貴女、三番がてゐ、四番が鈴仙」
「なるほど。やはり、おませさんですねぇ」
「ええ。『たんぽぽは、あいしてるんです……』だって」
「――鈴仙もね、可愛かったわよ。凄く甘えてきて」
「普段は部下の手前もありますから、余計にでしょう」
「気にしなくてもいいのに」
「あの子は、誰よりも他の目を気にするんですよ」
「知ってるけども」
「でしたら、もう少し待ちましょう」
「わかってるわ。だから、此処でしか言っていないでしょう?」
「でも、そうね、一等賞はてゐかしら」
「何を競わせているんですか、もう」
「羞恥に染まる頬が絶品でした」
「まぁ……最年長ですもの」
「ええ。貴女を除いてね」
「姫様も、ですわ」
「言うじゃない」
――言葉を切り、輝夜はコップに残った水を飲み干す。
朝方と同じように、水分が喉を癒す。
癒したと、輝夜は感じた。
ちらりと、視線を上空に向ける。
空は何処までも蒼く、月は煌々とした光を放っていた――。
「時間通り、ですね」
コップを桶の中に仕舞いつつ、永琳が言う。
空になったのはコップだけではない。桶も同じく。
全てを見通していた――そんな風に、輝夜はその言葉を解した。
故に、抗う。
「何度か《力》を使ったわよ」
「考慮しておりますわ」
「……あっそ!」
顔を背け、向けられる視線から逃れる。
しかし、軽やかな笑い声は届いた。
愉快でたまらないと、響きが伝える。
一瞬後、声が止む。
輝夜も態勢を戻した。
見上げた視界に入るのは、微笑む永琳。
「どの子が最も、お気に召しましたか?」
質問に、輝夜は即答できなかった。
『一等賞はてゐと言ったでしょう』。
形作ろうとする言葉が、舌で上滑りする。
問いに対する答えが、ソレでない事を解っていた。
「可愛さならばてゐでしょう。
尻尾なら蒲公英でしょうか。
そうではなくて――」
そう、もっと漠然とした、他愛もない問い。
けれど、輝夜は答えられなかった。
否。選べなかった。
「――永琳。ソレは、解のない問いよ」
首を振り、笑う。
「どの兎も、私にとっては等しくペット。
容姿や能力、その他諸々に差異はあるでしょう。
ソレがどうしたって言うの? あの子たちは、等しく、一匹残らず愛おしい」
視線を交わらせながら、付け加える。
「誰か一匹を選べなんて、難題でも何でもない。
だって、問題にすらなっていないのだから。
永琳、貴女、『÷0』が解けて?」
問いに対する問いは、微笑みながら返された。
「ガガガピーピー」
「えーりーんっ!?」
「期待に応えてみましたわげふぅ!?」
すかさずめり込ませるボディブロー。
永琳の躰がくの字に曲がる。
光が放たれた。
「これぞまさしく八意の弓!」
「……貫かれてるのに、余裕あるわね」
「姫様の矢なんですもの。三本目とかそんな感じの」
血を吐きながら、永琳。
その割に頬は赤い。
ぽ。
無論の事、四本、五本と撃ち込まれたのであった――。
白目をむく永琳の頭を掴み、輝夜は自身の腿の上に乗せた。
解のない問い、それは、永琳なりの意地悪であろう。
年甲斐のない感情と言動に、笑む。
耳に掛かる髪を払う。
手に持つ耳かきを回す。
輝夜は、永琳にへらをあてがった。
静かな時間が、ただ、過ぎる。
「有難うございますわ、姫」
「どう致しまして」
言葉を交わした後も、膝から頭をあげない永琳。
その態勢でいる事は彼女の望みだったから。
彼女とは彼女の主。
つまりは、蓬莱山輝夜の望み。
「先ほどの問いですが」
「……『÷0』?」
「まぁ、どちらでも」
「詰まらない事だったら承知しない」
「あらあら、なんと手厳しい」
するりと腕が伸ばされて、一瞬後には、輝夜の世界が逆転していた。
「輝夜」
そう呼ぶ永琳の表情は、何時か何処かで見た表情だ。
思ってから、輝夜は頭を振った。
何を間の抜けた事を。
何時も何処でも、永琳は変わらない。
「……結局、答えは?」
「だから、輝夜」
「はぁ?」
素っ頓狂な声をあげる。
なにその答え。
訳が――。
「じゃあ、も一つの方。『どの子が一番お気に入り』?」
「回り回って、やっぱり、輝夜」
「あのねぇ。『1+1』は?」
「当然だけど、輝夜」
「あぁもぉ!」
――解るだけに、輝夜は頬を朱に染めた。
「プログラム、バグった!?」
「ウイルスの名は、輝夜」
「……っ!」
身を起こそうとする輝夜だが、両肩を押さえる圧力に屈した。
結局、顔だけをあげ、永琳を睨む。
向けられる視線は、変わらない。
「ワクチンも同じく。
勿論、それだけじゃないわ。
私にとって、輝夜、貴女は世界と同義」
温かく、優しく、柔らかい。
「私の世界は、貴女がいるから色づく。
私の言動は、貴女の為が全て。
私の思考は、だから――」
――その全てが、貴女、輝夜へと、辿り着く。
続く言葉が解ってしまっているから、輝夜は、重ねた。
「おっもぉぉぉ……」
言葉を。
或いは感想。
返答でも可。
「ひど!? どう考えても唇を重ねる展開でしょう!?」
「いや、永琳。重いって。地雷だって」
「地雷言わないでよ!?」
嘆く永琳。
輝夜は半眼だ。
けれど、声が弾む。
「何よ今更。下手な口説き文句なんか言って、どうするつもり?」
「どうもこうもしたい所存だわ」
「じゃあ、手初めに」
言いつつ、輝夜は手を向けた。
握り返され、邪険に払う。
必要な物はもう渡した。
「姫初めって、あん、冷たい」
「段階踏みなさいよ段階」
「耳かき?」
答えが必要だろうか。
「ねぇ、耳かき?」
「空気読みなさいよ」
「読み切った上で聞いてるのよ」
「わかってるけど」
「でしょうね」
否。
「まずは是」
「そこは次?」
「後にはアレを」
「何処でしてほしい?」
「構わないわ。永琳、貴女のお気に召すままに」
輝夜にとっても回り回って、『÷0』は、永琳なのだから。
兎たちと共に過ごす愛おしい月日。
けれど、彼女たちには一瞬で、その更なる一瞬が、今。
永遠の中の須臾とも言える此の時を、輝夜と永琳は、静かに楽しみ始めたのであった――。
<終>
板の下部には1から0までの数字と様々な記号。
上部には液晶パネル。
女童は、電卓で遊んでいた。
1+1=2
2-1=1
2×2=4
この程度なら自分でも出来るわと思う一方、四桁以上の乗法除法が瞬時に出来るかと問われると難しい。そうでもないか。
……なのだから、数学においては邪道と思われるこの機器も、日常においては便利な道具である、と納得した。
そもそも日常に四桁以上の乗法除法が必要なものか、との疑問は脇に置く。
女童は、再び数を打った。
0÷0=E
首を捻る。
0÷0=E
4÷2=2
0÷0=E
6÷2=3
0÷0=E
一時的な不具合ではないようだ。
1÷0=E
25÷0=E
300÷0=E
どうやら、『0』と言う数の所為らしい。
女童は首を振る。
『0』だけが理由ではない。
足しても引いても掛けても、何らかの返答がある。
故に、不具合の理由は『÷0』。
「――難しいお顔。何か、わからない問題があった?」
声がかけられ、女童は顔をあげる。
扉を開け現れたのは、女。童の教師。
「うぅん。全部解けたわ」
「あら、もう?」
「えへん」
胸を張る女童に微笑みを浮かべ、女は解答用紙を手に取る。
満点だった。
「是は是で少しばかりのもの悲しさも。じゃあ、一体どうして?」
『難しい顔をしていたの』。
言葉を補い、女童が口を――開かなかった。
女ならば、きっと答えられるだろう。
思う一方で、恐ろしい想像が幼い童の脳内を駆け廻る。
答えられないだけならまだしも、泡を吹いて倒れたらどうしよう。
女童がそう考えたのも、或いは無理からぬ話。
女はその叡智ゆえ、頭の中に小型の演算機が組み込まれているのではないかと噂されていた。
噂を聞き及んだ時、馬鹿な事を、と女童は笑った。百科事典も埋め込まれているに違いない。
「……失礼な事、考えているでしょう?」
「うん。……あわわのわ」
「もう。……あら?」
「『あら』はおばさんっぽいたひー」
「そう、電卓で遊んでいたのね。……『E』? 是は――」
女が言うよりも先に、女童が問う。
壊れるならば壊す方が良い。なんとなく。
「うん、『÷0』。答えられて――永琳?」
女童――カグヤの問いに、女――八意永琳は、応えた。
「ガガガピーピー」
「えーりーんっ!?」
「期待に応えてみたわ」
誰だこんなプログラム打ち込んだ奴。
「いたひーいたひー」
「悪戯心は乙女に必要なの」
「いたひーいたひーいたひー」
既に頬は捻られていない。カグヤが予期して声を上げたのであった。
――けれど、頬に触れる手は。
温かく。
優しく。
柔らかい。
「……永琳?」
見上げるカグヤに、永琳は、温かく優しく柔らかく、微笑んだ。
「『÷0』。私にとっての答えはね、カグヤ――」
蝉の声が耳を騒がせる季節。太陽がまだ控えめな頃。
永遠亭の縁側で、蓬莱山輝夜は肩を解していた。
実際に肩が凝っているかどうかは行動に関係がない。
凝るような事をしたから、解すような行為をしているのだ。
腕を回すと音がするのだから、無駄な事ではないのだろう。
首に手を当て、左右に振る。こき、こき。
もう片方の手は、昨夜まで大活躍をしていた道具を回していた。
「流石に疲れましたか?」
「充実した疲労ね。永琳、水を」
「先刻承知。傍らに置きますので、お気をつけください」
どこまでを『先刻承知』なのだろう。
接近を察知していた事か。命を与える事か。
はたまた、命を与える前に実行していると解っている事をか。
陽炎のようにゆらりと現れた従者――八意永琳に、輝夜は思う。
小さく首を振る。
詮索は無為だと断じた。
永琳は輝夜の思考範囲でしか動かない。
硝子のコップを持ち上げると、中に入っている氷が耳に良い音を響かせた。
からん。
「貴女も座りなさいな」
「では、失礼して……」
「私の上にじゃない」
半眼で告げる輝夜に、永琳は視線を逸らした。
「茶目っけですよ」
「年甲斐のない事をするわね」
「ボケた振りでも致しましょうか?」
「年がら年中色惚けじゃないの」
「お褒め頂き感謝の極み」
くすりと笑む永琳に後ろめたさは感じられない。
輝夜の横に腰を下ろし、永琳が口を開く。
「けれど、姫様も大概に惚けていらっしゃるかと」
「あら、どういう意味?」
「ペット惚け」
ふむ、と大仰に唸り、水をくぴりと一飲みし、もう一度唸ってから応える。
「褒め言葉ね」
頷き頷かれ、フタリはくすくすと笑い合った。
「今日は随分とオープンで」
「あの子たちがいないから」
「常日頃は気を張っていると?」
「ええ。あれでも、少しは」
「気さくと評されていますが」
「だから、それがあれ」
「ご冗談を」
永遠亭には今、輝夜と永琳しかいない。
数多いる妖兎、ペットたちには、三日ほどの休暇を言い渡している。
兎たちの隊長格である因幡てゐ、鈴仙・優曇華院・イナバにも同じく。
多少、齢を重ねていようが、腕がたとうが、輝夜にすれば皆同様。
今頃は、冥界にある白玉楼で楽しんでいる事だろう。
輝夜は思う――迷惑をかけていないといいけれど。
「ふぅむ……幽々子に借りが出来たわね」
「妖夢を何度かお預かりしていますわ」
「数が違うでしょうに」
「姫様は貸しだと思われましたか?」
「鈴仙とてゐとの絡みは見ていて飽きないわね――そう思ってくれているといいんだけど」
輝夜の懸念はしかし、杞憂でしかない。
そもそもが此の度の休暇を提案してきたのは、白玉楼の主、西行寺幽々子であった。
春の休暇で兎たちと過ごした幽々子が味をしめ、催促してきたのだ。
驚くべき事に、文字通りではない。
くすりと笑みながら、永琳が補足する。
「今回は、霧雨魔理沙とアリス・マーガトロイド、パチュリー・ノーレッジも参加するそうです」
「あの子たち、なんだか最近ミコ一ね。……あら、霊夢と早苗は?」
「各々予定があるそうで。不参加らしいですよ」
そう――相槌を打ち、輝夜はまた、水を含んだ。
酸素さえも必要としない躰。
だと言うのに、僅かな水分は喉を潤す。
そう感じる自身を、輝夜は、滑稽と思い、また愛おしくも想う。
想い、考える。
永琳はどうなのだろう。
彼女もまた、何物も必要としない存在。
輝夜は小さく頭を振り、思考の無意味さに微苦笑を浮かべる。
考えても詮なき事。
聞けばいい。
「……ねぇ、永琳」
「お代りをお持ちしますね」
「違う。貴女にとって、食事って何?」
曖昧な質問に、けれどすぐさま永琳は応えを返す。
「姫様」
良く聞こえなかったのだろうか。輝夜は首を捻り、再度問い直す。
「だからね、永琳。必須アミノ酸どころか太陽光すら必要のない貴女にとって、食事はどういう意味があるの?」
「何故だか貶されてる様に感じますわ。ですから、姫様だと」
「事実じゃない。私もだけど。……えーと」
小首を傾げる輝夜に、永琳はただ微笑みを向けていた。
純度百パーセントの笑顔。
曇りの一切ない欲望。
輝夜はポンと手を打った。
「オカズですね、わかります」
「生きる為の主食ですわ」
「‘蓬莱の玉の枝‘」
「ソレは目を突く物ではありません!」
「そうね。耳かきだものね。でも、えい」
もふ。
「目がー!」
叫びをあげる永琳に、輝夜は半眼を向けた。
「突いたのは眉間でしょう。それに、綿の方よ」
「鈴仙のお尻を押し付けられたようですわ」
「尻尾っていいなさい。えい」
ぷす。
「目、がぁぁぁぁぁっ!?」
転げまわる永琳に、輝夜は、満足そうににこりと笑んだ――。
――数分後。
「極上の姫様による極上の耳かきでの目潰し、極上の痛みでしたわ」
「良い物だったの、これ。もう、へらの方はぼろぼろだけど」
「短時間に使い過ぎです」
居住まいを正した永琳に苦笑でやんわりと諭され、それもそうかと輝夜は頷く。
他所様に預けると言うのに身嗜みの一つもできていないのは言語道断。
その信念の元、輝夜は兎たちの耳かき及び毛繕いを行った。
全羽を独力で実行したのだった。
右手に持つ耳かきをくるりと回す。
使い込まれた割に、先端の綿は変わらないように思えた。
否、むしろ、柔軟さのみならず、色さえも輝きを増している。真っ白。
自身の腿の上でうっとりとしていた兎たちを思い出し、輝夜の表情も緩んでいく。
「……少し、お休みになられては?」
「駄目ね。興奮冷めやらない」
「そこまでですか」
当たり前じゃない――胸を張る輝夜に、珍しく微苦笑が向けられる。
「では、あの子たちの様子をお聞かせ下さいな」
提案に、輝夜は応えず、コップに残っていた水を飲みほす。
するりするりと喉から胃へと落ちていく水分。
氷が溶けた冷たさは、しかし彼女の熱を奪い去るほどではなかった。
空になったコップを永琳に向け、輝夜は嬉しそうに、言う。
「時間、かかるわよ?」
腰をあげ、変わらぬ微笑みを浮かべながら永琳が返す。
「時は永遠ですわ」
「そうね。……何処に?」
「ですから――お代わりをお持ちしますと」
目にかかる横髪を片手で押さえ、永琳が悪戯めいた瞳を浮かべた。
向けられた輝夜は目をぱちくりとさせる。
虚をつかれた。
コップを引っ込め、つんと顔を逸らす。
「よく考えれば一杯で足りる訳ないじゃない」
「確かに浅慮でした。如何いたしましょう」
「桶ごと持ってきて頂戴」
了解の応えを返し、遠ざかる永琳。
その背に視線を向け、輝夜はふんと鼻を鳴らした。
一本取ったからではない。一本取らされたから、歯がゆい。
井戸ごと持ってこいと命じるべきだったかしらね――そんな無理難題を、輝夜は待ち時間に考えた。
暫くして。
永琳は、右手に桶を左手に携帯冷凍庫を持ち、戻ってきた。
地底の妖怪がすっぽりと納まりそうな桶に、透き通る井戸水がなみなみと満ちている。
「あのね。どれだけ話させるつもりよ」
「一羽辺り五分として……」
「え、足りないわ」
「コンマ一秒でも過ぎるとスペカです」
「意地悪。でも、いいわ、それでいきましょう」
竹の柄杓で差し出したコップへと水が注がれ、準備は整った。
太陽は輝きを増し、空は何処までも青かった――。
「最初に来たのは、蒲公英だったわ」
「尻尾が愛らしい幼妖兎ですわね」
「世界も狙える尻尾よ」
「何の世界ですか」
「もふもふ。ふわふわ」
「あー、九尾や半獣の後釜でも?」
「むしろ、コラボレーションで。永遠亭代表」
「蒲公英の次に来たのは、菫」
「おませなあの子らしいですわ」
「私が一番好きだって。ふふ」
「あら……思い違いでしたでしょうか」
「二番が貴女、三番がてゐ、四番が鈴仙」
「なるほど。やはり、おませさんですねぇ」
「ええ。『たんぽぽは、あいしてるんです……』だって」
「――鈴仙もね、可愛かったわよ。凄く甘えてきて」
「普段は部下の手前もありますから、余計にでしょう」
「気にしなくてもいいのに」
「あの子は、誰よりも他の目を気にするんですよ」
「知ってるけども」
「でしたら、もう少し待ちましょう」
「わかってるわ。だから、此処でしか言っていないでしょう?」
「でも、そうね、一等賞はてゐかしら」
「何を競わせているんですか、もう」
「羞恥に染まる頬が絶品でした」
「まぁ……最年長ですもの」
「ええ。貴女を除いてね」
「姫様も、ですわ」
「言うじゃない」
――言葉を切り、輝夜はコップに残った水を飲み干す。
朝方と同じように、水分が喉を癒す。
癒したと、輝夜は感じた。
ちらりと、視線を上空に向ける。
空は何処までも蒼く、月は煌々とした光を放っていた――。
「時間通り、ですね」
コップを桶の中に仕舞いつつ、永琳が言う。
空になったのはコップだけではない。桶も同じく。
全てを見通していた――そんな風に、輝夜はその言葉を解した。
故に、抗う。
「何度か《力》を使ったわよ」
「考慮しておりますわ」
「……あっそ!」
顔を背け、向けられる視線から逃れる。
しかし、軽やかな笑い声は届いた。
愉快でたまらないと、響きが伝える。
一瞬後、声が止む。
輝夜も態勢を戻した。
見上げた視界に入るのは、微笑む永琳。
「どの子が最も、お気に召しましたか?」
質問に、輝夜は即答できなかった。
『一等賞はてゐと言ったでしょう』。
形作ろうとする言葉が、舌で上滑りする。
問いに対する答えが、ソレでない事を解っていた。
「可愛さならばてゐでしょう。
尻尾なら蒲公英でしょうか。
そうではなくて――」
そう、もっと漠然とした、他愛もない問い。
けれど、輝夜は答えられなかった。
否。選べなかった。
「――永琳。ソレは、解のない問いよ」
首を振り、笑う。
「どの兎も、私にとっては等しくペット。
容姿や能力、その他諸々に差異はあるでしょう。
ソレがどうしたって言うの? あの子たちは、等しく、一匹残らず愛おしい」
視線を交わらせながら、付け加える。
「誰か一匹を選べなんて、難題でも何でもない。
だって、問題にすらなっていないのだから。
永琳、貴女、『÷0』が解けて?」
問いに対する問いは、微笑みながら返された。
「ガガガピーピー」
「えーりーんっ!?」
「期待に応えてみましたわげふぅ!?」
すかさずめり込ませるボディブロー。
永琳の躰がくの字に曲がる。
光が放たれた。
「これぞまさしく八意の弓!」
「……貫かれてるのに、余裕あるわね」
「姫様の矢なんですもの。三本目とかそんな感じの」
血を吐きながら、永琳。
その割に頬は赤い。
ぽ。
無論の事、四本、五本と撃ち込まれたのであった――。
白目をむく永琳の頭を掴み、輝夜は自身の腿の上に乗せた。
解のない問い、それは、永琳なりの意地悪であろう。
年甲斐のない感情と言動に、笑む。
耳に掛かる髪を払う。
手に持つ耳かきを回す。
輝夜は、永琳にへらをあてがった。
静かな時間が、ただ、過ぎる。
「有難うございますわ、姫」
「どう致しまして」
言葉を交わした後も、膝から頭をあげない永琳。
その態勢でいる事は彼女の望みだったから。
彼女とは彼女の主。
つまりは、蓬莱山輝夜の望み。
「先ほどの問いですが」
「……『÷0』?」
「まぁ、どちらでも」
「詰まらない事だったら承知しない」
「あらあら、なんと手厳しい」
するりと腕が伸ばされて、一瞬後には、輝夜の世界が逆転していた。
「輝夜」
そう呼ぶ永琳の表情は、何時か何処かで見た表情だ。
思ってから、輝夜は頭を振った。
何を間の抜けた事を。
何時も何処でも、永琳は変わらない。
「……結局、答えは?」
「だから、輝夜」
「はぁ?」
素っ頓狂な声をあげる。
なにその答え。
訳が――。
「じゃあ、も一つの方。『どの子が一番お気に入り』?」
「回り回って、やっぱり、輝夜」
「あのねぇ。『1+1』は?」
「当然だけど、輝夜」
「あぁもぉ!」
――解るだけに、輝夜は頬を朱に染めた。
「プログラム、バグった!?」
「ウイルスの名は、輝夜」
「……っ!」
身を起こそうとする輝夜だが、両肩を押さえる圧力に屈した。
結局、顔だけをあげ、永琳を睨む。
向けられる視線は、変わらない。
「ワクチンも同じく。
勿論、それだけじゃないわ。
私にとって、輝夜、貴女は世界と同義」
温かく、優しく、柔らかい。
「私の世界は、貴女がいるから色づく。
私の言動は、貴女の為が全て。
私の思考は、だから――」
――その全てが、貴女、輝夜へと、辿り着く。
続く言葉が解ってしまっているから、輝夜は、重ねた。
「おっもぉぉぉ……」
言葉を。
或いは感想。
返答でも可。
「ひど!? どう考えても唇を重ねる展開でしょう!?」
「いや、永琳。重いって。地雷だって」
「地雷言わないでよ!?」
嘆く永琳。
輝夜は半眼だ。
けれど、声が弾む。
「何よ今更。下手な口説き文句なんか言って、どうするつもり?」
「どうもこうもしたい所存だわ」
「じゃあ、手初めに」
言いつつ、輝夜は手を向けた。
握り返され、邪険に払う。
必要な物はもう渡した。
「姫初めって、あん、冷たい」
「段階踏みなさいよ段階」
「耳かき?」
答えが必要だろうか。
「ねぇ、耳かき?」
「空気読みなさいよ」
「読み切った上で聞いてるのよ」
「わかってるけど」
「でしょうね」
否。
「まずは是」
「そこは次?」
「後にはアレを」
「何処でしてほしい?」
「構わないわ。永琳、貴女のお気に召すままに」
輝夜にとっても回り回って、『÷0』は、永琳なのだから。
兎たちと共に過ごす愛おしい月日。
けれど、彼女たちには一瞬で、その更なる一瞬が、今。
永遠の中の須臾とも言える此の時を、輝夜と永琳は、静かに楽しみ始めたのであった――。
<終>
愛が重いっ!
カワイイですね
…プログラムがバグってエラーが起こりました。
細けぇこたぁいいんだよ