往来も暑いが、店の中に入るとそれ以上の熱気で迎えられた。
「ェい、らっしゃぁいいい!」
迎える店員のテンションも熱い。こんなに暑い昼間に、店には腹を減らした客がぎっしりと詰まっていた。黙々と喰っている者もいれば、飯はそっちのけで相方との話に夢中になっている者もいる。慧音と阿求は手前側の席に案内され、向かい合って座った。
「何にする? 何でもうまいぞ」
品書きをめくりながら慧音が言う。
「絵もついているからわかりやすい。やっぱり天丼はひとつずつ頼もうな。他に一品ずつにしようか。茶碗蒸しとか、素麺とか。でも素麺はこの前食べたしな」
「あの、私は、なんでも」
「そうか? 自分で選んだ方が後悔しなくていいと思うが。まあいいか」
慧音が手を挙げる。間もなくしてやってきた店員に注文を伝える。店員が去っていった後、慧音は氷水を口に含んだ。
「どうした、さっきから。鳩が豆鉄砲食ったみたいな顔して」
「い、いえ、その、慧音さんってこういう店も利用するんだなぁ、と」
「こういう店といっても、里のどこにだってあるような店だ。どこかおかしいかな」
「おかしくはないんですが……でも、女性がひとりで来るような店じゃないですよね。誰か他の……」
「おぉう、先生じゃねえか!」
威勢よく扉が開き、頭の禿げあがった親爺が後ろに二人従えて店に入ってきた。慧音は折り目正しくお辞儀する。
「これは大工の棟梁。ご無沙汰してます」
「先生? 子供じゃないか」
連れが言うと、棟梁はそいつの頭を打った。
「無礼なこと言うな。うちの馬鹿息子が世話になってんだよ。すまんね先生、こいつらは馬鹿弟子だ」
「うるせえ、弟子じゃねえよ」
同年輩と思われる親爺が、棟梁を小突く。そのまま悪態をつつき合いながら、むくつけき男たち三人は店の奥へ入っていく。それと入れ違いのように、杖をついた白髪の小男が、ひょこひょことやってきた。勘定を済ませる傍ら、慧音の方を見る。
「おやまあ、先生じゃないか」
老人は顔をくしゃくしゃにして笑った。
「こんにちは、太公望。何か釣れましたか」
「釣れたらこんなところに来てないよ」
「じきにまたお店に伺います」
「おお、待ってるよ。あんなの好きそうな本も入った。あんたの方も、書き上がったらまた持ってきてくれ」
「ありがとうございます。ご希望に沿えるものができるかどうか、わかりませんが」
「あんた若いのに、いいのを書くからねえ、楽しみにしてるよ。それじゃあ」
小さな老人は店を出ていった。
「今のは紙すき屋のご隠居だ。書店も一緒にやってる。もっともそっちの方は趣味優先といった感じだ。私の書いた教科書を置くぐらいだからな」
阿求は、開いた口が塞がらないでいた。稗田家の中では決して体験できないようなことと、慧音は日常的に接している。それでも自分自身の勉学は怠らない。
「どうしたんだ、本当に」
「すごい、なぁ、と」
「別にすごくはない。私がひとに自慢できることと言ったら、真面目なところぐらいだからな。数少ない長所を多少なりとも有益に利用しようとしているだけだ」
面と向かって阿求から言われ、慧音は少し照れたように目をそらし、氷水を飲んだ。そうしていると、天丼が運ばれてきた。湯気の立つ飯と、甘辛いツユ、それに天ぷらのサクサクとした食感が混じり合う。阿求は顎を上下させながら、至福のあまり、思わず目を閉じた。
「うまいだろう」
慧音の声が聞こえる。阿求は大きく首を縦に振った。目を開けると、慧音も天丼を頬張っている。思い切りのいい食べっぷりだ。下品だとは少しも思わない。阿求も、普段稗田家でしている食事の作法を頭から綺麗さっぱりぬぐい去り、眼前の極上の食べ物に飛びかかった。そのあとに来た茶碗蒸しとシシャモも片づけ、深い充足のため息をつきながら、お茶を啜った。額から汗が噴き出し、きものの襟を濡らした。背中は既にぐっしょりと濡れている。
「暑い、なんて暑いの」
阿求は頭がぼんやりとしてきた。慧音が立ちあがって、阿求の手を取る。
「次は丘の上までひと歩きだ」
顎から大粒の汗が滴り落ちる。足はがくがくと震えている。息が苦しい。それでも、歩くのをやめようとは、阿求は言いださなかった。多少休んでもどっちみち歩かなければならないというのもあったが、それだけではない。今このとき、慧音と一緒に炎天下、荒い息をつき、汗を流して歩くのが、楽しくてしょうがなかった。筋肉の張りも骨のきしみも、慧音と共有していると考えると、まったく違ったものに感じられた。
ようやく、洋風の白い屋根が見えた。阿求は大きく息をついた。
「なんだ、意外に動くじゃないか、体」
慧音は額の汗を腕で払いながら、笑った。息は荒いが、まだまだ体力には余裕がありそうだった。
「そ……でもない、ですよ。慧音さん、平気そうですが、私、もう、クタクタで。駄目です、全然、強くないです。元々運動に向いてない体なんですよ」
「そんなことはない」
地面が平たくなったので、ふたりとも今までよりリラックスして歩きだす。手入れされた芝生がふたりを迎える。襟元に吹き込んでくる風が涼しい。
「お前、結構楽しんで体を動かしていたよ。見てればわかる。短命だから、と言って……体が弱いと決まったわけではない。習慣だよ、体力なんて。こうして外を歩く習慣をつければ、こんな坂道、なんともなくなる」
慧音の言葉に、阿求は甘い痛みを覚える。それほど悲しみは覚えなかった。自分がそういう運命にあることは以前から知っているし、他の者も知っている。慧音とこうして永遠にい続けることができないことも知っている。
「はい、私ももう少し外に出てみようと思います。このままだと慧音さんが羨ましくて、嫉妬ばかりする妖怪みたいになりそうです」
「そんな妖怪、いるのか」
「ええ、います。そのうち幻想郷縁起にも書きますよ」
オープンカフェが視界に入る。テラスに出ている机は二つ、それぞれに椅子が二脚ずつある。ガラス越しに見える内装は、褐色を基調とした落ち着いた雰囲気になっているようだ。そちらはカウンターと、小さな机が二つあるきりだ。慧音と阿求が店についたときは、奥の机が一つ埋まっているだけだった。
カウンターには中年の痩せた女性が立っていた。慧音とは顔見知りらしく、軽く目を合わせただけで何も言わなかった。かといって無愛想なわけでもなく、柔らかい歓迎の意思を、阿求は感じた。
「せっかくだから外に出ようか」
外の席に座る。丘から、人里が眺め渡せた。中年の女性が近づいてくる。
「何にします?」
「アイスカフェオレ。梅酒ゼリー。この子にも同じものを」
女性は一礼して、カウンターへ戻っていく。奥に座っていた客が立ちあがった。豊かな髪を肩下まで伸ばしている。奥の方にいるので服の柄まではわからなかったが、上にベストを羽織り、下がパンツスタイルなのは見て取れた。
「マスター」
なぜかその客の声はよく通った。ガラス越しにもかかわらず、慧音や阿求の耳にもはっきりと聞こえた。
「ナナイは?」
マスターと呼ばれた女性は、残念そうに首を横に振った。慧音の手がぴくり、と動く。
「そう……起きれないの。仕方ない、出直すとするわ」
ガラス戸が開く。緑色の豊かな髪の毛が波打つ。ぎらぎらした日差しが女の白いブラウスと、赤白のチェックが入ったベストとパンツを鮮やかに照らし出す。女客は、慧音と阿求を見る。それから、手に提げた傘を広げた。
「ごめんなさい幽香、あのひとも、楽しみにしていたのだけれど」
「いいわ。そっちの都合のつく日にまた呼んで頂戴。できれば、ナナイが死ぬ前がいいわ」
あれが風見幽香か、と阿求は思う。傍らの慧音からも緊張が伝わってくる。幻想郷でも指折りの妖怪がこんなところで何をしているのかはわからない。考えたところで、どうせ阿求にはわからない理由だ。
それよりも、死ぬ、という単語が阿求の胸をついた。慧音が言った、短命、という言葉とよく似ていた。幽香の口から発されたその言葉に、もはや悲愴感はなかった。
「それに、もうひとつの目的はかなえられそうだから」
そう言って、幽香は慧音と阿求がいるテーブルの、傍らに立った。どこからともなく、芝生を踏みわけ、白い獣が現れる。雄々しい二本の角が、陽光に照らされる。幽香は獣に近づく。獣は顔をあげる。人によく似た顔を。慧音の母親の顔を。
女と獣は、見つめ合う。ふっ、と幽香は身をひるがえした。そのまま宙に浮く。飛び去ろうとする間際、もう一度獣を眺める。その途中で、慧音と目が合った。
「あら、元気そうね」
その言葉に阿求は驚かされた。慧音を見ると、彼女もまた呆然としている。
「私を、知っているのか」
慧音は席から立ち上がり、宙に浮いた幽香へ駆け寄る。幽香はほほえむ。
「立派になったわね」
「立派じゃ、ない。私は弱い」
「あら、そう。いい獣じゃないの。あなた、えらいわ」
そして、女は消えた。正確には、凄まじいスピードで飛び去っていった。その余波を受けて、辺りには風が吹き荒れた。テーブルが震え、草がはためき、枝が揺れた。慧音と阿求は、髪とスカートを手で押さえた。
風が収まった。ハクタクは、慧音に近づいてきた。阿求も席を立ち、慧音の隣に立つ。
「母さんの顔だ」
慧音はぼんやりとした口調で呟く。阿求は慧音の手を強く握りしめた。
阿求の目には、慧音と芝生しか映っていない。ハクタクなどどこにも見えない。慧音の手を通じて、体を通じて、そこにある何かを感じ取ろうとする。
慧音は前かがみになる。ハクタクの顔と正面から向き合う。
「けれど、彼女はいい獣と言った……そう、獣なんだ。母じゃない」
母親の目鼻が、唇が、頬の皺が、少しずつ崩れていく。まったく別の顔に変形していく。
「これは、私たちが祀る神獣だ」
やがて、幼い女の顔になった。泣いている。絶望のあまり、顔をくしゃくしゃにして、身も蓋もなく泣いている。
母を失ったときの、慧音の顔だ。
「私たちの心を映し出す鏡なんだ」
許して、許して、と幼い慧音は声にならない声で叫んでいる。慧音は目をそらさない。その悲しさ、その弱さ、その悔いを受け止める。
「許す、よ」
慧音は、幼い慧音に、やさしく言った。それは、ずっと慧音自身が誰かに言ってほしかった言葉だった。できることなら母親に言ってほしかったが、それはもう叶わぬことだ。父は、すべてを許してくれるが故に、許しにならなかった。まわりの人々も慧音を慰めたが、誰の言葉も彼女の胸に届かなかった。この許しは、慧音が、慧音に対して与えなければ、他に誰も与えようのないものだった。
母の死を忘れるのではない。しかし、罪の意識を石のように抱きかかえ、後悔の沼に沈みこんでも、誰も救われない。慧音は母を忘れないためにも、沼から這いあがらなければならなかった。
だから、己を許した。
ハクタクの顔は、幼い慧音の顔から、さらに変形した。誰とも知れぬ、人のようで、その実どんな人にも似ていない顔になった。
「もう、大丈夫だ。阿求」
阿求と握り合った手は、汗でぐっしょりと濡れていた。
「ありがとう」
「いえ、私は何も」
「多分、お前が原因なんだ」
「えっ」
慧音は阿求から手を離し、椅子に座った。阿求も向かいの椅子に座る。
「お前と会うことに罪悪感があった。こんなに楽しい思いを私はしていいんだろうか、と。それが、あんな形を取ったんだと思う」
「そんな……悪いことなんて、ひとつもないのに」
「母を忘れるのが怖かった。と同時に、忘れてしまえば気楽になることもわかっていた。私自身、どっちに向かいたいのかわからなかった。でも、もう決めた」
店のドアが開き、マスターがトレイに飲み物を載せてやってくる。
「母を忘れない。そしてお前とも楽しむ」
「はい」
カフェオレの入ったグラスを傾けると、清涼な甘い香りがふたりの間を漂う。一口飲んだだけで、甘さが全身に広がり、体中がわき立つような気がした。
「冷たくておいしい。生き返ります」
阿求はそう言って、今度はスプーンでゼリーをすくい、口に含んだ。
「ああ」
慧音は答えて、二口目をつける。丘の上とはいえ、太陽の強さは同じだ。にもかかわらず、気分はすっかり涼しくなった。
「私も、そう思うよ」
それからふたりは、静かな時間を愉しんだ。時々「あ、涼しい風ですね」とか「お、あの雲だと明日は雨かな」などと言葉を交わす程度だった。
勘定を済ませると、ふたりは丘をもっと上の方まで登った。建物が建つ面積が確保できるのはここまでだが、上にはまだ行ける。道は狭くなり、風はますます涼しくなる。丘の頂上は、ちょうど慧音の教室よりひと回り小さいくらいの広さだった。慧音と阿求は並んで草地に腰を下ろした。右側の阿求と左側の慧音、ふたりの間には、拳ふたつ分ほどの隙間がある。
いつの間にか、空はうっすらと赤らんでいた。
「今日は楽しかったです。ちょっと疲れたけど」
「帰ったらぐっすり眠れるぞ」
「お勤めがあるのですぐには無理ですよ。でも、今日は布団が気持ちよさそうです」
阿求は地面についた手を、少しずらした。慧音が地面についた手と、小指同士が触れ合う。
「うん、よく眠れるのはいいことだ。私も、今日はお前と一緒にいれて、よかった」
小指が絡まる。
「今度、一緒に母さんの墓参りに付き合ってくれないか? この前のはなんだか不意打ちで巻き込んだような形だったからな。もっと、きちんとした手順を踏んで」
「ええ、そうしましょう」
阿求は思いきって、腰を少し上げて、左に移った。慧音によりかかる。ほぼ同時に、慧音は阿求の肩に腕を回し、引き寄せる。お互いの体温が、密着した服を通じて感じられる。
「ああ」
何かに気づいたように、慧音は顔を上げた。阿求は顔を下げる。どうせ見えないのだろうけれど、何かの間違いで見えてしまうかもしれないと考えると、顔をあげられなかった。
「もう、母さんの顔をしていない」
「どうして、まだついてまわるんでしょうか」
阿求はちら、と慧音の視線の先を追い、そこに何もいないのを確認し、またうつむいた。さっきの許しで話はついたはずだ、と阿求は思う。
「さあ、まだ用があるのかな」
「こんなにしょっちゅう出てきていたんですか? 今までも」
「いや、年に何度かある大きな祭祀でたまに顔を見せるぐらいだった。神獣が、こんなに何度も現れてはありがたみも薄れるしな」
「ちょっと気味が悪いですね」
冗談めかす慧音に対して、阿求は不安げな声を出す。その声が聞こえたかのように、ハクタクは瞬時に消え去った。
「気まぐれな神獣だ」
慧音は穏やかな顔を崩さない。しかし阿求の肩を抱く力は強まる一方だった。
「ねえ、阿求」
阿求は息苦しかったが、その圧迫感がかえって心地よい。阿求は慧音にいっそう寄りかかりながら、見上げた。
「幻想郷縁起を一緒に書こう」
そのとき、慧音の背後にハクタクが現れた。慧音は、背後の存在に気づいていない。阿求からは、慧音とハクタクの顔がちょうど隣り合って見えた。
その顔は、慧音そっくりだった。
「今までのような覚書じゃなくて、もっと本格的に書こう。私が書いている歴史と、お前が書いている歴史を、一緒にするんだ。そうすればもっと真実に近づける。私は、閻魔様が危惧しているようなことは考えていない。それは、お前もわかっているだろう」
阿求は、するりとうなずきそうになるのを、慌てて止めた。理由はない。ただ、このままぼんやりとうなずくと、何かとんでもない過ちを犯してしまうのではないかという危惧があった。
慧音の言葉に嘘偽りはあるまい。
だが、その隣で、そっくり同じ顔をしてしたり顔で話しかけてくる、あいつは何だ。何が目的だ。慧音の罪悪感を象徴しているだけではなかったのか。
「阿求」
慧音の、肩を抱く力がますます強まる。強まるほどに、阿求は慧音の言うことに何もかも従ってしまいたい欲求に駆られる。同時に、体の内側から、耐えがたいものがせり上がってくる。
それは、吐き気だった。
気持ちは、慧音にべったりと寄り添っている。だが吐き気の原因が、こうして体を接していることにあることは明らかだった。阿求の体の中の、阿求ではどうにもできない部分が、激しく慧音に対して反発していた。
気づいたときには、阿求は慧音を突き飛ばしていた。慧音は、自分が何をされたのか一瞬わからなかったように、ぽかんとしている。その真横で、ハクタクはうすら笑いを浮かべている。慧音の顔のままで。
「私の歴史は、私のものです」
阿求は叫んだ。自分の声ではないようだった。誰かが自分の口を借りた、そんな風だった。
「阿求、私は、何も」
「わかってます。でも、あなたのその能力があれば、稗田の能力を喰うことができるんです。稗田は、人間以外からも歴史を書くことを義務づけられています。閻魔や妖怪からもです。それらからあなたを守りとおすことなんて、できません!」
阿求は慧音に背を向けて、走りだした。
家に戻ると、門の前に女中が立っていた。この屋敷でもっとも権力を持つ、あの老女中だ。
「お帰りなさいませ」
「ただいま帰りました」
阿求は軽く頭を下げて応えると、そのまま通り過ぎようとした。
「ご自分を大切にされてください」
老女中は言った。阿求は立ち止まり、女を見上げる。女の表情は能面のように凍りついている。
「びりびりに裂かれた紙のようなお姿をしていらっしゃいますよ」
「なんでもありません。少し友人と仲違いしただけです。お互い、誤解のようなものもありましたし。次に会うときはもう大丈夫です」
「おそらく次はないでしょう」
「どうしてそう言えるのです」
「上白沢は、稗田の、触れてはならない部分に触れてしまったのです。阿求様もよろしくない。あまりに無防備でいらっしゃるから」
怖い、と思った。
阿求はこの老女中を、鬱陶しいと思いながらも、尊敬している。しかし時折見せる、表情の消えた彼女からは、恐れ以外の何ものも感じることができなかった。それは、人であって人でないもの。老女中であって、もはや老女中ではない存在だった。
「あなたが稗田阿求であり稗田阿礼であるのと同じように、あの方も、ハクタクから逃れられないのですよ。そういう運命の家系なのです」
「随分とわかったようなことを言うのですね」
「私は何も存じておりません。ただ、古くから伝わってきた、稗田家の家人としての心構えを、先代からたたきこまれただけでございます。その先代も、そのまた先代も、同じようにして稗田家のことを理解していきました。私は何も知りません。我々はよく知っています。御阿礼の子と同等か、もしくはそれ以上に……」
「もう、いい」
阿求は吐き捨てるように言った。こんな風に、他人の会話を切ることなど、初めてだった。黙って頭を下げる老女中をあとにして、足早に屋敷内に入る。他の家人たちからも、あれこれと声をかけられるが、短い返事しかしない。自室に入り、襖を閉めると、深いため息をついた。
机上には、紙の束がきちんと整理されて、積んであった。今まで慧音と書き綴ってきたものが、そこにある。自分の書いたものを見直す。読み始めて二秒もたたず、くしゃくしゃにして握り潰す。それは、自分が書いたものであって、自分のものではなかった。上白沢慧音の意志が大幅に入り込んでいた。その中で、ちらちらと自分自身の文章が見苦しく見え隠れしているようにみえた。
「私がいる意味がない」
そのとき初めて、はっきりと、慧音を疎ましいと思った。それからすぐに、そんな自分の感情を見苦しいと思った。今まで、慧音と机を並べて一緒に読んだり書いたりするだけで幸せのはずだった。それは嘘ではない。だが、ともに書けば書くほど、慧音の学識、教養、文章力に自分が遠く及ばないという冷徹な事実に、感づかないわけにはいかなかった。はたから見れば、阿求がそういう風に思うのは納得できないだろう。ふたりで書いているときは、どちらかといえば慧音の方が阿求に質問し、それに阿求が答えるという場合が多かった。しかし阿求にしてみれば、それは稗田阿礼としての知識を問われたときのみで、それ以外の実践的な執筆になると、慧音にはまったく歯が立たず、阿求が教えを乞うばかりだった。その度に苛立ちや妬みを覚えていたのもまた、嘘ではなかった。ただ、尊敬の気持ちや知的興奮が、それら負の感情を大きく上回っていたので、これまでほとんど意識しなかっただけだ。
阿求はいったん、思考するのを止めた。思考が暴走し、とんでもない結論に至るのを押しとどめた。頭を冷やし、もっと客観的な角度から思考することにした。
慧音が幻想郷縁起を書こうとする。それは是か非か?
「いけない」
これまでの共著は、個人的なレベルで書かれたもので、何の問題もないはずだ。老女中はそれすら危惧していたようだが。
そして幻想郷縁起。
ここで書かれたものは確実に幻想郷の歴史に影響を与える。書かれることで、過去は固定される。ひとは固定された過去がなければ現実を見ることなどできない。歴史書に自分の考えを載せるということは、現実へなんらかの変化を及ぼすということだ。慧音がそんな欲望を抱いているのは明らかだ。ただ、事の深刻さには気づいていないのかもしれない。稗田家以外の歴史が入り込む。別の蓄積、別の知恵、別の努力、別の意志が。それは、稗田家とそれを囲む存在に対する挑戦だ。稗田家がただの執筆者ならそれでもよかった。たとえば阿求という、ひとりの少女なら。サシの勝負だ。だが、稗田家はあまりに多くのものを背負い過ぎている。干渉されることでその背負った者たちが揺らぎ、こぼれ落ちる。失われる。むざむざと失われる立場に甘んじる者などいない。彼らは、慧音を傷つけ、消し去ろうとするだろう。
体の奥から波がせり上がってくる。慧音といたときに感じたのと同じ、あの吐き気だ。目眩もした。立っていられなくなる。痛みが全身に広がる。自分でない何者かが、自分の体を通じて苦悩と意志を表わそうとしている。
歴史を書け。
阿求は体をねじり、吐いた。体がぴんと張り詰め、筋肉がこわばる。
稗田の歴史を書け。
ひと息つき、体が弛緩する。再び衝動が襲いかかる。襲撃者は外からでなく、内からやってくる。せりあがってくる。
また吐く。視界が涙で滲む。自分がただのポンプで、伸縮を繰り返すだけの物体になった気がした。その幻想は、阿求にとって不思議に心地よかった。何も考えず、何かを外へ押し出す。それをはじめからおわりまで繰り返す。時の原初から、時の終焉まで。いつまでも。第一種永久機関のように。
だが阿求は永遠の存在ではなく、幻想は現実にひとまず舞台を譲る。阿求の意識が覚醒していく。
歴史を書きたい。歴史を書かせてくれ。
初代阿礼から連綿と受け継がれてきた、書く意志。それが阿求の中で独立した精神を持ったかのように、暴れている。
しかし今度は嘔吐しなかった。御阿礼の子としての意志と、阿求自身の意志が、奇妙な形で一致した。
「慧音さんを、止めないと」
何度も胃が痙攣したせいで、涙が頬を湿らせている。粘り気のある唾液が唇の端から垂れ、顎を濡らしている。
「私たちが、私たちでいられなくなる」
呼吸を落ちつけようとする。
「憎みたくない」
けれど歴史を書かせるわけにはいかない。阿求は人を呼んだ。襖を開けられる前に、指示を出す。
「上白沢家に書状を送ります。正式なものです。準備してください」
足音が遠ざかると、阿求は文机の引き出しから布巾を取り出し、出したものをふき取り始めた。書状を作成し、夕食を食べ、入浴を終えると、ゼンマイが切れたように眠りに落ちた。
がりっ、という音で、夜中目覚めた。何かが奥の歯に挟まっていた。珍しく熟睡していたので、心地よく寝ぼけた状態で、指を口の中に突っ込む。異物を取りだす。黒い、針金で編まれたような小さな物体だった。文字だった。
朝食が済んだ頃、上白沢家から返信が届いた。阿求はすぐに支度をして、お付きの男二人を連れて、上白沢宅を訪問した。玄関に、慧音は立ち尽くしていた。
「話がある」
「私もです」
廊下を進み、客間に通される。
「あなたたちはここで」
阿求がお付きに言うと、二人は黙って頭を下げ、廊下の壁に立った。阿求と慧音は室内に入った。室内は華美だったが、人の匂いが感じられなかった。公式な行事以外では使われていないのだろう。
「阿求、稗田家で何が起こった」
「何も」
「そんなはずはない」
慧音は声を押し殺しているが、体の内で感情が高ぶっているのが、阿求からは見て取れた。
「現に……」
「私が指示したんです。上白沢家へ勧告文を送るようにと」
「寺子屋を解散に追いやったのも?」
「私の指示です」
稗田家の力は、武力ではない。人と人の関係をつなぐ力だ。誰も、稗田家を恐れてはいない。酒乱や強盗、チンピラ、殺人者のようには恐れていない。にもかかわらず、誰もが、日々の価値観を稗田家に求めている。だから誰も稗田家に逆らわないし、不利益な行動も取らない。稗田家は幻想郷の人間の歴史を司るとともに、実に緩やかな形で、法をも司っていた。
要するに、稗田家にたてつくものは、人里で肩身が狭くなるのだ。
「嘘だ」
ついに慧音の声は明らかな怒気を孕んだ。
「本当です。直接私が家人に言いました。もちろん、この指示を取り消すことはできます。それは上白沢慧音、あなたが筆を折ることです」
阿求はそう言って、口を閉じた。閉じた唇が震えている。
「なあ、阿求。よくわからない」
慧音の怒気は矛先を失う。
「なぜお前がそんなことをしなければならない。誰かに無理やりさせられたのか。それとも、本当に、私と会いたくなくなったのか」
阿求は唇を噛んだ。小さな肩を震わせる。否定したかった。だが、何と言って慧音に説明すればいいか、わからなかった。
「私は、稗田阿求です。稗田家の歴史を守るためには、力を持ち過ぎた歴史喰いは排除せねばならない。あなたたちが祀るハクタクがどんなものであるか、私は祖先の書物から知りました。どれだけあなたたちが喰おうとしても、稗田の記述を完全に消し去ることはできません」
「阿求……」
慧音は椅子から立ち上がり、阿求に手を伸ばそうとした。だが、見えない壁に遮られたかのように、手は途中で止まった。阿求は座ったまま、表情を変えずにじっと慧音を見つめている。
「それは、本当に、お前の言葉なのか」
「はい。稗田阿求の言葉です」
慧音は壁を押し破るように、手を前に出す。阿求の髪をひとふさ、指ですくう。
「私は、もっと阿求と話していたい」
「私もです」
「もっと阿求と一緒にいたい」
「私もです」
「一緒に食べたり、一緒に笑ったり、一緒に読んだり、書いたり」
「私も……私もです」
「お前は、誰なんだ」
阿求は、そっと慧音の手のひらを押しのけた。
「上白沢慧音、稗田家の意向は伝えました。上白沢家の名誉と、寺子屋の再開を望むのならば、今後、歴史に関する一切の執筆を止めること。今までの執筆は、悪意ある行為でなかったということを鑑みて、罰は与えず、警告のみとします」
椅子から立ち上がる。その小さな体に、大きな拒絶を背負って。
「以上です」
獣が枕元で草を食んでいる。
慧音は飛び起きた。夢の残滓が皮膚に残っている。体中がべとつく。
もしゃ、もしゃ、と音がする。慧音は振り向く。夢はまだ終わっていない。
慧音の顔をしたハクタクが、両眼と、額に開いた目で、慧音を見つめる。そうしながらも口は絶えず動かしている。ハクタクが咀嚼すると、壁がえぐれ、天井がめくれ、畳が消えた。障子は破れ、そこから見渡せる庭も、攪拌されてなんだかよくわからないものになっていっている。
「やめろ」
慧音は言う。ハクタクは咀嚼をやめない。噛み砕かれた風景が、ずるずるとハクタクの口中へ吸い込まれていく。
「やめないかっ」
慧音はハクタクを抑えつけようと手を伸ばす。手は空をつかんだ。振り向くと、ハクタクは慧音の真後ろにいた。まるでさっきからずっとそこにいたかのように、何食わぬ顔をして、もぐもぐと景色を食べている。
「やめない」
ハクタクは慧音の声で答えた。
「なぜだ」
「楽しいからだ。わかるだろう?」
「わからない。見ろっ、お前が食い散らかすから、現実がめちゃくちゃになってしまったじゃないか」
食い荒らされた部屋は、もはや部屋としての原型を留めていなかった。すべてがねじ曲がってしまっていた。あり得ない方向に空があり、桜の木は逆さに生え、見たこともない鉄の塊が、景色の切れ目に横たわっている。
「だからいいんじゃないか。これから、自分で創っていけばいい」
「それは……ひとりの人間としての領分を越えている。そんなこと、許されるわけがない」
「私は人間ではない。だが、それはあまり関係ない。なぜ許されるわけがない、などと決めつけるんだ」
「なぜって、私は、友人ひとりを作ることすらままならないからだ。友人と、なるべく多くの時間一緒にいたい、そう望んだだけで、手ひどい罰を受けた。私が今まで積み上げてきたものを、ごみか何かのようにして掃き捨てられた。しかも、その友人当人から」
「羨ましいですか?」
ハクタクは、阿求の声で言った。頭に血が上った慧音は、手から弾丸を放った。弾は当然の如く虚空を打ち抜く。そこには何も存在しなかったかのように。
ハクタクは慧音の真横で口を動かしている。
「ハクタクは世の為政者から忘れられ、幻想郷にやってきた。そこで新しい力を身に付けた。知識を与え、災厄を予言するのではない。知識も災厄も含めた、歴史そのものを創りだす能力だ」
白い獣の口から、自分とまったく同じ声を聞いていると、慧音は、まるで自分がひとりごとを話しているだけのような気がしてきた。
「歴史を創りたいですか? あなたが望めば、それもできるんですよ」
阿求の声で尋ねる。慧音は雄叫びを上げ、ありったけのレーザーを乱射した。
「そんな虚ろな歴史は、幻想郷が創り出した伝説……いや、妄想に過ぎない!」
レーザーとレーザーのわずかな隙間に、さらにレーザーを撃ち込むような過酷な弾幕が、夢の世界を破壊していく。レーザーが止むにつれ、慧音の意識は覚醒していく。
気持ちの悪い汗を体中から流し、布団から上半身を起こし、荒い息をついている自分へと、戻っていく。朝日が気持ち悪い。余程眠っていて苦しかったのか、来ている寝巻はほとんどはだけてしまい、体にわずかにまとわりついているだけだった。普段、どんなに寝苦しい夜でも着衣の乱れのほとんどない慧音にしてみれば、滅多に見られない有様だった。
「なんなんだ……いったい」
額にはりついた髪の毛を指でのける。視界の端、庭に面した障子に、ずんぐりとした、大きなものが映った。いつから障子に映っていたのかわからない。
「貴様!」
飛び起きて、障子を開け放つ。そこには、青いエプロンドレス姿の、金髪の少女がいた。
「こ……こんにちは」
慧音の左手に控えた弾幕をちらりと見つつ、カナはひきつったような笑みを浮かべた。
「私……まだ何もしてないし、これからもするつもりはないんだけど。もう退治する気?」
「あ、いや。すまない」
慧音は戦闘態勢を解いた。それとともに、素肌のあちこちが露になった自分の格好に気づき、室内に引っ込んで身繕いを始める。カナは肩の力を抜いて、ため息をつく。
「びっくりしたわぁ。縁側についた途端、あなたが飛び出してくるんだもの。しかも殺る気満々って感じで。どうしたの」
「障子に映っていたんだ。影が」
手早く身繕いをすませ、慧音は廊下に出る。
「それだけで敵って思ったの? 障子越しぐらいなら、私ってわかってよね、もう」
「いや、四角くて、牛の尻みたいだった」
「ひどい見間違え方」
「本当だ。それなのに、飛び出したら、お前がいた」
「変ねえ」
「お前……」
そこで慧音は言葉を止めた。カナは青ざめて、顔の前で手を振る。
「ちょっとちょっと先生、そんな顔しないでってば。怖いなぁ。御阿礼の子と喧嘩したのがどんだけ堪えているかしらないけど、私に八つ当たりしないでよね」
カナが一生懸命に言う様子を見て、慧音は膨らませた敵意を収めた。
「疑って、すまない」
「私、そんな悪戯しないわ。だいたい牛って何よ」
「いや、何でもない」
「何か妖獣? 歴史を操るあなたが怖がるぐらいだから余程の奴ねえ、そいつ」
「勘違いしないでくれ。私は歴史を操ることなんかできない」
「でも現に、私に見せてくれたでしょう。あんなことできる人間なんて……いや、妖怪にだって、滅多にいない……どうしたの?」
カナが不思議そうに首を傾げる。慧音は、震える指先でカナの後方を指す。縁側の廊下が途中、中庭にぶつかって右へ折れる。その角の所に、人間の顔によく似た獣がいた。
「え? 後ろ」
カナは振り向く。ハクタクは、穏やかな目でこちらを見ている。
「いる……だろう」
慧音は緊張のあまり、唾を飲み込む。ヘタに追いかけても、どうせ逃げられる。気づかれないように、致命傷を与える間合いに入らなければならない。この騒霊が、何かの役に立ってくれそうな気がした。
ところが、カナは慧音を振り向き、こう言った。
「誰が?」
慧音は絶句した。
「あそこに……!」
もう一度指差すが、もういない。
「今はいないが、いや、お前もさっきは一緒に見ていた」
「見えなかった」
カナは首を振った。
「見えなかったわ、先生」
書斎は、熱さを増すばかりだった。いつもなら寺子屋に行っている時間だ。お昼が近いため、勉強よりも弁当のことを気にかける子供たちが増え出す頃だ。そいつらをなだめ、すかし、時には脅しながら、授業を進めていく。だが、今あの建物に行くことを、子供たちは禁じられている。
今、慧音はひとり、熱気のこもる部屋に閉じこもっている。外に出れば、自然と稗田家に足が向きそうな気がする。向くまいとすれば、やはり稗田家に意識が行く。いずれにせよ気にかかるなら、いっそ出ない方が楽だった。といって、部屋にこもっていても、考えるのはやはり阿求とハクタクのことだけだった。
「冷静になれ。問題にぶつかったときこそ、人間は、落ち着いて客観的に物事を見、判断しなければならない。ひとつのことばかりに集中するな。まわりをもっと……」
ぶつぶつとひとりごとを呟く。何も決めぬまま、何か書こうと硯を出したが、墨を作っている段階で眠気に襲われた。もう、何も考えたくない、したくない。指一本動かしたくない。こんなとき、この怠惰な空気のまま、よりそって眠ってくれるひとがいたならばと、夢想する。そのひとのきものと自分のきものが重なる。粘ついた汗の匂いとともに、息遣いが重なる。熱くて乾いた口から、そのひとの息が、間近で……
「お前の目的は、何だ」
慧音はそう言って、ぼんやりする頭を抱えながら、文机から頭を起こした。自分が無意識に放った声に起こされた。今まで、机に突っ伏して浅い眠りを貪っていた。日が障子から強く射しこんでいるから、まだ昼だ。それほど時間は経っていない。
「私の目的?」
本棚と本棚の隙間から、ハクタクは顔だけ出して、応じた。
「それは、お前の目的のことだ」
慧音の声で、ハクタクは話している。
「お前の一族は代々私を祀ってきた。お前自身に伝わる血が、答えを知っている。ああ、なんて懐かしい血だろう」
「お前はハクタクなのか? それとも、ハクタクを擬した私なのか」
「無理に型に嵌めて理解しようとすると、物事の流れを見失う」
ハクタクは言った。
「私は、ただこの力を誰かに使ってもらいたいだけだ。力というのは、発揮されるためにある。そういう風にできている。使われるのに理由はいらない。そして上白沢慧音、今のお前には、力を使う、理由がある」
「なんだ、私を誘惑していたのか」
慧音は鼻で笑ってみせた。気を強く持たねばと、自らに言い聞かせる。
「その手は喰わない。そう易々と乗っ取られてたまるか」
ハクタクは無表情のまま、黙り込む。そのまま壁に溶け込んでしまいそうだったが、消えそうで消えない。チェシャ猫みたいだ、と慧音は思った。
ようやく昼の気だるい暑さも収まった夕方、文机で作業をしている慧音に、家人が訪問客を取り次いできた。
「いったい誰なんだ」
「それが、その、会えばわかる、と」
家人は怯えたような様子だった。
「会えばわかる、じゃわからん。そんな適当なことをいう訪問客に心当たりはない。帰っていただきなさい」
「最近、獣が放し飼いになっているようなので、見物しに来ました」
「なに?」
突然家人が言い出したので、慧音は眉をしかめて聞き返した。
「そのように伝言すれば、わかる、と。ひとりは薬売りなんです。町でよく見かけるあの、兎の。もうひとりの方が……」
家人にみなまで言わせず、慧音は足早に部屋を出た。
門のところに、ふたりいた。少なくとも人間ではないふたりが。片方は、紫色の長髪の少女だ。白いブラウスに赤いネクタイ、ピンクのスカートをはいている。髪の毛の間からは、ふたつの耳が飛び出している。兎のそれに似ている。だが、長すぎるし、途中でいびつに曲がっている。赤十字のマークが入った救急箱を手に提げている。家人の言う通り、町中で時折見かける薬売りだった。
もうひとりは、わからなかった。右が赤、左が青の上着に、色の配列が逆になったロングスカートをはいている。頭には、小さな青い帽子を載せている。真中に赤十字のマーク。顔つきは、慧音よりは年上のように見えるが、まだ少女と言って通るだろう。大人の女と少女との、境界線上にある。美しい獣のように調和のとれた、しなやかな体つきだった。と同時に、顎のラインや首、肘から手にかけての剥き出しの肌からは、匂い立つようなふくよかさも感じ取れる。すれ違えば誰もが振り向くだろう。
そんな外見的な特徴なら、いくらでも観察できた。それなのに慧音は、彼女が何ものなのか、わからない。見た瞬間、ケタ外れの力を持った生き物だということだけはわかった。兎の方は、きちんと手順を踏めば、彼女の歴史を丸裸にすることはできる。騒霊カナに対してそうしたように。しかし、もし同じことをこの少女に向かってやれば、慧音が壊れるだけだ。
「初めまして」
少女は言った。
「八意永琳と申します」
そのままお辞儀もせずに、つかつかと慧音に近づく。
「私は上白沢慧音。何の用ですか」
永琳と名乗る少女は、慧音の目の前で立ち止まった。目と鼻の先に相手の顔がある。永琳はまじまじと慧音を見る。慧音は気おされた。面と向かい合って気後れしたことなど、慧音は今までほとんどなかった。永琳の目は、広大だった。大きく開かれた瞳には、気の遠くなるような暗い空があった。
「ハクタクなんて珍しいから、一目見ようと思ってきたの」
「な……」
「どこにいるのかしら。ひょっとしてもう、この中に入っているとか」
永琳は人差指を慧音の額に突き立てる。慧音は、そのまま指が根元までずぼりと入り込んだかのように錯覚した。体が固まって動けない。勝負にならない、と慧音は思う。次元が違う。
「あ、なんだ。まだそこにいたの」
永琳はあっさりと慧音の束縛を外し、その足下に目を落とす。慧音もつられて目を落とす。ぎょっとした。いつの間にかハクタクがいた。兎は怪訝そうに尋ねる。
「師匠、私には何も見えませんけど」
「ああそう、いいからあなたはそこに立ってなさい」
永琳は振り向きもせずにそう言い放つ。ハクタクの角に触れる。背中を撫で、人によく似た顔に手を近づける。額に触れ、鼻に触れ、唇に触れる。それから傍らの慧音を見た。
「たいしたものね。いったいあなたの一族は、何代かけてこれほどの妖怪を創り上げてきたのかしら」
「上白沢家の初代は、稗田阿余の代に分家したところから始まり……」
「違う、違う、そうじゃなくて。そんな遠慮した、腰のひけた歴史はいらないわ。もっとずっと昔から、稗田阿礼よりもずっと前から、あなたたちはハクタクを育ててきたのよ。分家する前から、あなたたちはあの稗田という異能の一族の、さらにその中でも異端であり続けた。そんな歴史は知らない? 気に食わない?」
「いや、構わない。事実だから」
「そう、知っているのね」
「知っているさ。ただ、異端でも何でもない。私たちの一族は、為政者に必要とされたから存在した、それだけだ。政権が代われば、歴史を自分にとって都合のいいように書き換えようとする意思が働く。そのとき、改竄という技術を身につけた職人が必要だった。それが上白沢家だ。昔のことだ。今はもうそんな権力者もいない。幻想郷の中で、半ば稗田家の録を食む形で、暮らしていっているよ。もっとも、それも今度の私の出方次第で絶えてしまうのだけれど。いい機会かもしれない。ひとつの技術に秀でているということは、逆にいえば他は何もできないということなのだから。こんないびつな状況から、この家を解放するときなのかもな」
「まあ、どうでもいいけれど」
永琳はあっさりと言い放った。
「問題はあなた自身じゃないかしら。このままだと、ハクタクに憑かれるわ。あなたのような力を持った人間がハクタクと同化したら、幻想郷の歴史はとても危険なことになる。現実を存続させるには、歴史が必ず必要。それは稗田家がやればいい。今の幻想郷を維持したい妖怪の賢者たちは、こぞってあなたを滅ぼそうとするでしょう。それをあなたが望んでいるのならいいけれど、そうは見えないわね」
「妖怪の賢者が私を? そんな雲の上の話は、知らないな。私はただの人間だ」
「わかってないのね」
永琳は慧音の手を強く握った。
「冷たい手」
慧音の手に、小瓶を握らせる。
「〈胡蝶夢丸・私小説〉。無印の〈胡蝶夢丸〉、そして〈ナイトメアタイプ〉に続く、第三のタイプよ。あなたは上白沢の歴史を知っているけれども、あなた自身の歴史を知らない。それは、知ろうとしていないから」
永琳は慧音に顔を近づけた。お互いの鼻先が触れ合いそうになる。慧音は、永琳の唇が、それ自体意思を持った生き物のように蠢くのを見た。なまめかしかった。
「怖いからって、なかったことにしなくてもいいのよ。それでは、いい夢を」
永琳は慧音に背を向け、兎を連れて門を出ていった。一度も振り返らなかった。
慧音は部屋に戻り、小瓶を眺めた。透明のガラスでできたその瓶の中には、白い丸薬が五、六粒入っている。ハクタクは慧音の足下にいて、慧音を見上げている。その顔は、見知らぬ誰かのようでもあり、慧音自身のようでもある。それでも慧音にとっては、母の顔でないだけで救われた心地がした。
慧音は丸薬を一粒口に含んだ。水差しから麦茶をつぎ、飲み下す。机に座り、紙を広げる。墨をとく。歴史の記述は禁じられている。書いたものが見つかれば終わりだ。ならば誰にも見つからない、誰にも読まれないものを書くか。それとも、歴史でないものを書くか。もし今回の稗田家の決定に閻魔が噛んでいれば、書いたか書いていないかはすぐにわかる。そして歴史でないものとは一体何か、慧音にはわからなかった。何を書いても歴史になりそうだった。そうやって同じところを思考が堂々巡りしていく。そのうち慧音は耐えがたいほど眠くなり、机に突っ伏した。
夢が立体的な質感をもって、ぞろ、ぞろと畳の上を慧音向かって這ってきた。
***
日が落ち、夜が降りてくると、空は妖しい紫色に染め上げられた。普段滅多に人里にやってこない妖怪が、大手を振って歩いていた。ほろ酔いの人間が襲われたりした。窓の外をよぎる見慣れぬ影に、赤子は泣き喚いた。大人の中には様子がおかしくなるものもいた。犬は気違いのように吠えたけった。まだ誰も死人は出ていないが、町中の診療所は怪我人でいっぱいになった。夜になって数時間もしないうちに、人里の人間は誰ひとり外に出なくなった。得体の知れぬ妖怪の跋扈はますます増長していく。もう一歩境界を踏み外せば、人里がそのまま正体定かならぬ場所に落ち込んでしまうかのようだった。
男は部下を従え、門を出て、博麗神社のある方向を見た。ここからでは辛うじて山を縫う参道が見えるだけで、神社の姿は見えない。
「巫女が動かないということは……しかし、この空は」
使用人が後ろから駆けつけ、震える声で報告してきた。
「庭の東屋に誰かいます。見知らぬ者です」
男は門の中に入り、庭の方へ向かう。雨がまばらに降っている。誰もいないはずの東屋に、人影がふたつある。
人……ではない。一応それらしき形はしているがまったくの別物だと、男は判断した。男は部下を下がらせ、東屋に歩み寄っていく。ひとりは緑髪、赤と白のチェックのベストと、同じ柄のパンツを身につけている。髪は先が少し縮れている。杯に口をつけているところで、ちょうど顔は見えない。もうひとりは金髪、紺のロングドレスを身にまとっている。しどけなく卓上に肘をついて、緑髪の女を見ている。男はこの半生、上白沢家の当主として、長い間妖怪と関わってきた。だから、ふたりの名を知っていた。
風見幽香と、八雲紫。
ふたりとも男を見ていなかったが、その存在には気づいているようだった。男が東屋にあがると、八雲紫が椅子を引いた。男はそこに座った。男の右手に風見幽香、左手に八雲紫が座っている。
「何をしているのですか」
「獣見よ」
風見幽香が答える。
「ケモノミ?」
「花見、月見とあるでしょう。それと一緒」
「あなたたちが、こんな夜にしたのですか」
男は臆せず、卑屈にならず、しかし最大限に礼儀正しく、質問をした。
「妻が臨月になってから、日は薄くなりました。反対に夜は濃くなり、妖怪は積極的に人間にかかわるようになりました。いい意味でも悪い意味でも。妻のお腹が大きくなるにつれ、その傾向は強くなっていきました。そして、陣痛が始まった途端、この夜です」
男は空を見上げた。ふたりの女は、どちらとも見向きもしなかった。
「いったい、私の妻は何を産もうとしているんですか」
風見幽香は空になった杯を卓上に置き、皿の上の白い肉きれを一枚指でつまみ、口に放り込む。その一連の流れは、無駄がなく、鮮やかで、男は思わず見とれてしまった。
「どうぞ」
左から声がする。八雲紫が徳利と猪口を差し出していた。男は猪口を手に取る。
「まずは一献」
男が飲み干すと、女は微笑んだ。その人間離れした妖艶さに、男は目をそらす。怖かった。取って喰われそうな気がした。
「今はまだ、何も産まない。何も決められていない」
「決まっていないって……現にもう妻の胎内には」
「あの中にいるのが」
八雲紫は、男の妻がいる部屋の方向を指した。その指先が何とも言えず色っぽかった。指のまわりの空気が粘り気を帯びていくような気さえ、男にはした。
「ハクタクか、人か」
「え……?」
場に沈黙が降りると、今まで聞こえてこなかった雨の音が耳につく。ふう、と満足げな吐息が右から聞こえた。皿の上の肉きれは全部なくなっていた。風見幽香は手酌で杯に薄紫の液体を満たすと、ぐいとあおった。たちまち空になった杯を卓上に置き、再び瓶を傾ける。ほんとうに、動作ひとつひとつに無駄がない。八雲紫が、滴るような妖艶さを持っているとすれば、この風見幽香は、青々とした植物の茎を思わせるしなやかさを持っていた。その端整な植物のような鼻が、ひく、と蠢く。
「ケダモノの匂いがするよ」
そう呟いて、八雲紫が指した方向をちらりと見る。男は血相を変えて立ち上がり、屋敷の方へ駆けだした。家人を無言で押しのけ、ひたすら妻が臥す部屋を目指す。部屋の前では、医師が眠っていた。中にいなければならないはずの、医師だ。
襖を勢いよく開く。
女の傍らに、四足の獣が立っていた。
とても穏やかな目をした獣だった。その目は顔と体についているものすべて合わせると、九つあった。
ハクタクだ。上白沢家が代々祀ってきた神獣が、目の前にいる。その白い獣は、鼻先を女の腹へ寄せた。男は刃物の柄を握った。すぐに飛びかかろうとしないのは、獣に慌ただしさのようなものがまったく感じられなかったからだ。その魁偉な姿形に比べて、動作はあまりにのんびりしていた。ハクタクは顔を上げ、男を見た。それから、足を持ち上げる。女の腹に触れるか触れないか、という距離まで足先を近づける。もう一度男を見る。男は首を振った。そうするとハクタクは足をひっこめて、のそのそと歩き、布団を囲んでいた屏風の中へ入っていった。草むらが生い茂る山道を描いた屏風だ。そこへ腰を落ち着けると、もう動かなくなった。
女の瞼が震えたかと思うと、うっすらと開かれる。
「あ……な、た」
その声に、呆然自失していた男はたちまち我に還った。
「うま、れる」
男は大声で医師を呼びながら、女に駆け寄った。女の手を取り、肩をたたいた。大声で女の名を呼び、激励した。飛び起きた医師が駆けつけたときには、既に赤子は外の世界の空気を吸って、大声で泣いていた。
「こんな安産は見たことがありません」
医師は感心したように言った。
出産にまつわる騒動がひとまず落ち着いた頃には、もう夜が明けていた。白くなった空の下、東屋ではまだ静かな宴が続いていた。男が近づくと、八雲紫は再び椅子を引いて、座るよう指し示した。卓上を見ると、夜に見たときとはまた違う料理になっている。だがそれも、風見幽香が次から次へと手を伸ばしては平らげていっている。
「ハクタクは通りかかっただけだったわね。胎を借りて出てくるつもりかとも思ったのだけれど。まあ、それはどうでもいいの。おかげさまでいいものが見れたわ」
八雲紫はそう言いながら、杯を傾け、皿にあった茄子のてんぷらを口に入れる。五切れあったがたちまちなくなった。この女もかなりの健啖家のようだ。
「ありがとう。いい子に育つといいわね」
皿の上のものがすべてなくなると、八雲紫は立ち上がった。風見幽香も立ち上がる。空間に裂け目ができる。次の瞬間、ふたりの女も、卓上に積み上げられていた皿も、酒瓶も、すべて消えていた。
***
夜半から、不穏な気配はあった。遠くから、近くから、人の気配が少しずつ近づいてくる。上白沢の家を取り巻くように。慧音は布団の中で目を開けたが、起きようとはしなかった。今この家の中で気づける人間は、慧音を除けば父だけだ。だがそれも、以前の父なら、というだけの話だ。今の父は辛うじて人前で体裁だけは保てているものの、ほとんど抜け殻のようなものだった。終日部屋にこもり、読書に耽っている。といってもそんなに多くを読んでいるわけではない。父の部屋に新しい本が持ち込まれた様子は、慧音の知る限りほとんどない。かと思うと何か書き散らしたりしている。それも、大した量にはなっていない。たいていは、ぼうっとしている。ただ、周囲に迷惑をかけないギリギリの線で、上白沢家の家長であり続けた。
襖を隔てたところに人の気配が現れた。それまでまったく慧音は接近に気づかなかった。懐かしい気配だった。
「父上」
「慧音、外の連中のことだが」
まだ集まっていないが、既に集まることを前提に話している。押し殺した声は、かつての父の声だった。思慮深さを思わせる、低く、落ち着いた声だ。
「目的はおそらく私だと思います。こういう数に訴えるやり方は、人間のもの。閻魔でないだけ、良かったと思いますね」
布団から起き上がらぬまま、慧音は応える。
「つまりお前はまだ改竄していない」
「少なくとも幻想郷縁起は」
「あるいはこれからもするつもりがない」
「それはわかりません」
「間接的制裁から一歩踏み出す行為に先方が出るということは、何か良からぬことが起きたということだ」
「そうです。まあ、明朝にはわかるでしょう」
ひょっとすると戦いになるかもしれない。体を休めておくにこしたことはない。父は、まだ襖の向こうから去らなかった。
「他に何か用が?」
「今日、久々に目が覚めた」
「そうですね。あなたはあの日から、ずっと眠っているようなものです」
「慧音、お前は上白沢の名を捨てなさい」
慧音はすぐに返答しなかった。父の言葉の意味を考えた。
「お前はもう、ハクタクを祀らなくていい」
「勘当、ですか」
「ハクタクは私が抱き込んで一緒に沈む。千年の昔から練り上げられてきた妄想が、幻想郷で実体化しつつある。博麗大結界ができてから、その傾向はさらに強まった。そして慧音、お前は一族の中でも指折りの才能を持って生まれてしまった。ハクタクに魅入られるほどの才能を、ハクタクに供されうるほどの才能を」
「というよりは、ハクタクの影響が強まったために、私に、過ぎた力が与えられたと考えるべきでしょうね。だから、この責務を投げ出せと?」
「ハクタクは、怯える者には何もしない。慧音、お前は不安におののきながらも、決して怯えてはいない。ハクタクの、歴史に干渉する能力に魅力を感じている。それが俺には、破滅へひた走っているように見える。過ぎた力と知りつつ、その運命を受け入れているように、な。もしそれが一族の重荷だったり、あいつに対する負い目のせいだったりするのなら、もう、こんな名など」
「父上」
慧音は、父の言葉を遮った。
「私が、永遠に母の死に縛りつけられているままだと、思っていらっしゃるのですか。あれから随分時がたちました。あなたの時は止まったままなのかもしれないけれど、私は違います。やりたいこと、一緒にいたいひとが増えました。ですが今、それを失いそうです」
「ハクタクのせいでな」
「違います。ハクタクの力で、それを取り戻すのです」
慧音は、暗闇に沈む天井を見つめたまま、断固として言った。
「そうか」
父がそう言ったきり、沈黙が訪れた。慧音は、穏やかな興奮が、体の隅々まで、血液とともに流れていくのを感じた。ごく自然に、眠気に身を委ねた。襖の向こうの気配は、いつの間にか消えていた。
日の出とともに、上白沢家は包囲されていた。
ざっと窓から見ただけでも二、三十人。おそらく四方を百人近い人間が取り囲んでいる。服装はまちまちだ。カナ・アナベラル戦で援護に来た退魔師風の男もいれば、着流し姿の男もいる。シャツにジーンズ姿もいる。共通しているのは、みな頑丈な体つきをしており、険しい顔つきをしていることだった。ごろつきの類の険しさではない。もっと切実なもののために、額を皺だらけにしている。
「みんな、そのままで。私が出る」
怯える家人を制して、慧音は門の外へ出た。門の前には、年老いた女中がいた。最初に慧音を阿求の部屋へ案内した、あの女中だ。訪問者側の中で、おそらくは唯一の女性。慧音の姿が見えると、男たちの間に少なからぬ緊張が走った。退魔師ふたりが太刀打ちできなかったカナ・アナベラルを、慧音ひとりで調伏した件は知られている。だが老女中は、いささかも揺るぎなかった。内心の動揺がどれほどのものかは誰にもわからないが、少なくともそれを表にまったく出していない。
「上白沢慧音、意識のはっきりしたあなたと話がしたかったので、朝まで待ちました」
能面のような表情で淡々と言う。
「こんな早朝から、手勢を引き連れてなんの恫喝だ? 稗田家はこんなに力に頼る集団だったのか」
「ぬけぬけと」
慧音は怯んだ。
老女中の顔が、大きく歪んだ。まるで人間の顔とは思えないほどに、まがり、ゆがみ、亀裂だらけになった。
「阿求様を返せ」
女中は言った。
「あの方を解放しろ」
さらに言い募る。
「貴様の薄汚い欲望のために、阿求様を穢させてなるものか」
突然、女中の顔は能面に戻る。あまりに急に戻ったので、またすぐにあの般若の顔になるかと思うと、慧音は気が抜けなかった。そして、慧音はまだ、女中の言っていることをよく理解できていなかった。
「阿求は……いないのか?」
「姿はもう見えない」
「消えた……のか」
「阿求様の部屋に黒い塊がある。虫のように蠢く、得体のしれない塊が。おそらくその中にいらっしゃる。それにしても手を下したのはお前だろうに、なぜそんな風に慌ててみせる。露見したことを意外に思っているのか? お前以外に、あのような面妖な術で阿求様を閉じ込める者など」
「阿求が、襲われたのか!」
慧音は老女中に詰め寄る。周囲の男たちが壁を作る。慧音は構わず突っ込む。男たちの肩の間から顔を突き出す。
「誰も阿求がどうなっているのか、わからないのか!」
「……本当にお前ではないのか」
女中は、表情を変えぬまま、問う。
「当たり前だ。私を現場に連れていけ! 私の能力ならそこに至るまでの一部始終を見ることができる。連れていかぬなら」
慧音の周囲が青白く発光していく。慧音を抑えつけている男たちに、強い緊張が走る。退魔師たちが遠巻きに慧音を囲む。
「強引にでも案内させる」
返答に一拍、間があった。
「わかった。お前たち、お退き」
半年前と同じように、老女中に案内され、阿求の部屋を訪れる。もはや訪れることを禁じられた区域に、こうも早々と来ることになるとは、慧音は思わなかった。
室内は以前訪れていたときと変わっていない。ただふたつのことを除いて。ひとつは阿求がいないこと。もうひとつは、部屋の真ん中に、巨大な黒い塊が居座っていることだ。文机の周辺には筆や硯、紙が散らばっている。ただならぬ状況を示している。黒い塊は老女中の言う通り、無数の虫が集まったもののように見えた。しかし慧音にはわかる。あれは、文字だ。
慧音の周囲にも文字が浮かび上がる。慧音は老女中を振り返る。
「少し離れていてくれ。今から映し出すのは幻影だ」
老女は素直にうなずき、ついてきた部下の数人にも目配せして下がらせた。襖を開けて、廊下から慧音を見る。
部屋に、幻影の阿求が入ってきた。重い足取りだ。
「阿求様……!」
老女中の表情が一瞬崩れるが、すぐに平静になる。阿求は文机に向かい、塔のように高く積み上げた本の、上から三冊目を取り、開く。本の塔は何本も室内にそびえていた。しばらく、阿求が本を繰る音だけがした。
やがて、カチカチカチと、歯が噛み合う音がする。聞きようによっては、虫が鳴く音にも似ている。本の塔が音もなく崩れ、黒い砂の山になる。よく見るとそれは砂ではない。
文字だ。
文字の山が、ひとつ、ふたつ、と増えていく。
「阿求様、お食事の準備ができました」
老女中の声がする。阿求は襖の方を振り向く。文机に左手をついて立ち上がろうとして、バランスを崩す。怪訝な目で、振り返る。左手が、錆びた鉄のように崩れつつあった。とっさに右手で抑えるが、崩壊は止まらない。腕から肩へと広がっていく。かつて本の山だった黒い堆積が、阿求のまわりを繭のように取り囲む。阿求はびっしりと文字に覆われた。その阿求を中心として、さらに文字たちが集まってくる。今度は繭というよりは、蟲や獣に似た形を取る。阿求という核を得たため、動きやすくなったようだ。口元が、芋虫のアゴの動きを連想させる。
「こんなところに依り代がいたのね」
少女の声がした。慧音のものでも、阿求のものでもない。念入りに磨きあげられた切子硝子のような声だった。慧音はその言葉に聞き覚えがあった。
「まあいい。これでかえって一網打尽にできるものだわ」
やがて、何度呼びかけても返事がないことに焦った女中が襖を開け、部屋にたたずむ黒い蟲を目撃する。騒ぎが始まる。慧音の映し出した幻影はその時点で消えた。
再び現在の状況、蠢く黒い塊、何もできないまわりの人間たちの姿が露になる。
慧音の内側から、ふつふつとわき立ってくる感情がある。妖怪への果てしない怒りだ。またしても自分は、大切なものを妖怪に奪われようとしている。あれから七年たった。成長したはずだった。強くなったはずだった。それなのにまた、一番傷ついてほしくないひとが傷ついていく。絶対そうはさせない。どうすればいい。
この〈蟲〉を殺せ。善意も悪意も故意も誤解も関係ない。
大切なものを殺すものを、殺せ。
この世に生きた証を根こそぎ奪い取れ。
心が沸騰する。反対に、表情は凍りついていく。
〈蟲〉の前に立ち、両腕を突っ込む。〈蟲〉の一匹一匹がざわめきたつ。それらをかき分け、中に入り込んでいく。指先に、ちり、と火傷に似た痛みが走る。見ると、かすかに指先が文字化している。構わず、腕を突っ込み、かき分ける。〈蟲〉の中へ入り込んでいく。腕の皮膚が避け、血が出る。そこへ墨汁のように文字が伝わり、傷口から文字化が始まる。既に手首はない。がむしゃらに腕を振るう。
指が見えた。
「阿求!」
頭をねじ込むようにして、前へ進む。手がないのでつかめない。頭を突き出して、阿求の指を咥える。さらに噛む。第一関節、第二関節、手のひらと噛み進む。自分の腕を前へ押しやる。阿求の左目と左頬が、一瞬垣間見えた。お互いの視線が触れ合ったその一瞬、阿求の瞳孔が激しく収縮したように、慧音には見えた。〈蟲〉のざわめきが鎮まる。かわりに、心臓の鼓動のようなものが聞こえる。〈蟲〉はまた、別の何かへと変わりつつあった。
「ああもう、何をしてるのよ。また場所を変えてやり直しだわ」
さっきと同じ声が聞こえる。直後〈蟲〉が赤色に変化していく。慧音は耐えがたい熱の痛みを感じる。
きぃゆるごぅぅぅぅおおおおおお
〈蟲〉の高い悲鳴が上がる。固定された形態から、ヘドロのような不定形へと変わる。慧音は外に投げ出された。文字化された手は元に戻っていた。しかし腕や頬の一部分が黒ずみ、煙が上がっている。体全身を隈なく防御するには至らなかった。それでも普通の人間なら、今ので全身が焼け焦げていたところだ。
〈泥〉は悲鳴を上げながら、部屋中をのたうち回った。その間、ヘドロが飛び散る。
「下がれ、みんな、下がれ!」
防げる限りは、ファーストピラミッドを張って防いだ。何人かはもろにかぶってしまった。〈泥〉は体を持ち上げ、頭の方から少しずつ蛇のように変わり始めた。蛇というよりは、細い縄だった。〈縄〉は先端から何かに引っ張られるように、上方へ伸びた。急激に加速する。壁の上半分が吹っ飛んだ。そのまま長い尾を引いて、空の果てへ消えていった。〈縄〉の最後の部分が部屋から離れ、空へ消えていくまで、十分近くかかった。
慧音は出口へ、つまり女中たちの方へ歩いていく。
「通してくれ。あの声は私ではなかった。これで疑いは晴れた」
慧音の表情に、稗田家の者はしり込みした。老女中が一歩前に出る。
「どこへ行こうというのです」
「あなたたちに言う必要はない」
慧音と女中は正面から睨みあった。沈黙は、老女中の一言で晴れた。
「どこにいるか、知っているのですね」
「たとえ知っていたとしても、教えません」
慧音は肩で女中を押しのける。男たちが、慧音の行く手を阻む。
「あなたたちが関わっていい世界じゃない。犬死は、阿求も悲しむ」
男たちが何かするより早く、慧音から西瓜大の赤弾青弾が飛び出す。顔面や腹に直撃を受け、男たちは床に突っ伏した。慧音は、うめく男たちの間を、悠々と歩いていく。外に出る。追ってきた女中らを振り返る。
「阿求は、必ず連れ戻します」
地面を蹴った。稗田家の者たちは、空を飛ぶ少女をなすすべなく見やった。やがて少女の姿は黒い点になった。
風に、慧音の銀髪が乱される。眼球が痛み出してきたので、目を細める。スピードを緩める気はない。
「いつまでついてくる気だ?」
慧音は言う。
「あらぁ、やっぱりバレてたのね」
慧音の真横に、金髪の少女がひょっこりと顔を出す。カナ・アナベラルだ。
「気づくよ。私が今日、稗田家に入ったときから、ずっと後をつけていただろう」
「ええ。手伝ってあげようと思ってね」
「なぜお前がそんなことをする」
「だって、普通の人が行ったら死んでしまうくらい、危ないところなんでしょう? 先生だって一応人間なんだし、私がいた方が心強いと思うわー」
「勝手にしてくれ」
「それでね、先生。いったいどこに向かっているの? あの黒い化け物を追っかけてるんでしょう?」
「お前には見えるのか?」
「私にはもちろん見えないわよ。でも先生、私たちの知らないこと色々知っているから、あの化け物も見えているのかもなーと思っただけよ」
「私は化け物が残した歴史を追っているだけだ。猟犬と同じだ」
「見えてるのね」
「見えるというか、感じるというか。あの化け物は文字の塊なわけだが、こう、文字の概念が今宙に弧を描いていて、その弧の帰着点を計算して、また痕跡を探して……うーん、これを他の者に説明するのは骨が折れる」
「要するに先生は犬ってことね」
「まあ、お前に説明しても仕方ないか」
眼下に広がる風景から、次第に人家が減っていく。平野が続き、やがて湖に出た。湖の上では妖精たちが遊びまわっている。どれほど牧歌的に見えようと、もうここは、人外の領域だった。
「ねえ先生、ひょっとしてさ」
「ん」
「私、あの館にも一時期ポルターガイスト試みたことがあるの」
「あの館というのがどのことを言っているのか、とりあえず保留にしておくとして、それで?」
「怖くてすぐ逃げたわ。住人怖がらすどころじゃないもの」
「お前は怖いというよりうるさいからな」
「ねえ先生」
「ん」
「ひょっとして私たちが向かっている先って」
湖が終わる。森が広がる。先の方に、建物の影がある。時計台が見えた。距離が近づくにつれ、建物の姿が明らかになっていく。
窓の少ない、紅い館だ。数年前突如幻想郷に現れた吸血鬼の根城。新参者だが誰も彼らを侮ったりしない。侮れないような事件を、彼らは起こした。強い妖怪ほど、こことは事を構えない。
「ああ、紅魔館だ」
森はじきに抜ける。
木々の向こうから、館が見える。
「わ、大きいわねえ。森に入る前はちっちゃく見えたけど、知らないうちに随分近くまで来ていたのね」
カナは紅魔館を眺めながら、感心したように言う。
「少し距離感がおかしい気もするがな。門には誰もいないみたいだ、行くぞ」
「行くって、正面突破?」
「他に入口はなさそうだから」
「先生もっと考えようよ」
「前情報もほとんどないんだ。見張りがいないなら、そのまま突破だ。考えるだけ無駄だ」
慧音は一気に森から飛び出そうとする。
「まぁ~てぇえ~~!」
遠くから間延びした声が聞こえた。
次の瞬間、慧音の前を何かが凄まじいスピードで通り過ぎた。右側の大木に衝突する。地響きがし、幹が悲鳴を上げる。続いて、みしみしめりめりと崩壊音をあげつつ、大木が横に傾いていく。轟音と共に大木が地面に沈んだ。
折れた枝や葉っぱが散るのを振り分けつつ、緑のチャイナドレスを身にまとった少女が飛び上がる。己が蹴り倒した大木の上に仁王立ちになる。
「ちょっとひとが休憩がてらの山菜摘みに出かけた途端、誰もいないところをこっそり抜けようなんて、そううまいこといくものか! 私の名前は紅美鈴! 侵入者め、いざ尋常に……」
そこまで言って、中華風の少女は首を傾げる。
「侵入者、どんな奴だったっけ」
慧音とカナは、大木が倒れた地点から、やや森側に入ったところに潜んでいた。それぞれ左右に潜み、美鈴を斜めから挟む形になっている。
「私たちを見た歴史を喰った。だが奴は既に戦闘態勢に入っている。奴の視界に入ったらあの飛び蹴りが確定だ」
「な、なんなのよあの蹴りは。あんなの喰らったら木端微塵よ。再生にどれだけ時間かかるか知らないわ。私、まだ消えたくない」
カナは騒霊の能力を利用して、音の届く相手を自在に選べる。また、慧音はほとんど唇を動かすだけだが、カナがその唇の振動を察知できる。
「まともに戦ったら勝負にならないな」
「先生、私の音波を変な巻物に変えたでしょう。あれ、やってよ」
「一撃目に耐えられたら、それと同程度の攻撃なら防げる。その隙に、お前を捉えたようにレーザーで刺せれば、動きは封じられる」
「じゃあ耐えてよ、一回でいいからさ」
「お前ならするか?」
「絶対嫌」
美鈴は、辺りを見回す。まだ潜んでいる。それは、気の流れでわかる。
「出てこないなら、焙り出してやるわ。華符・芳華絢爛」
花を模した弾幕が展開され、美鈴を中心として放射状に広がる。
魔方陣が三、四個現れる。そのひとつひとつの魔方陣から泡のように無数の弾幕が吹き出る。たちまち花を吹き流した。
「ありゃ、綺麗なだけじゃ駄目か」
美鈴はぺろりと舌を出す。
「姿を見せないのに、私の弾幕をあっさり吹き飛ばすなんてね……もういいや、弾幕はやめたっと」
どっしりと腰を落とす。
「さあ、この森を抜けた瞬間があなたの最後よ、侵入者」
美鈴が感じる気配はひとつだったり、三つだったりして、正体がつかめない。おそらく故意にあちこちに気を残しているのだろう。美鈴は気を研ぎ澄ます。木陰に、銀髪がなびいた。
「せやぁっ!」
飛んだあとに、草の葉が散る。
(木ごと、侵入者を蹴り飛ばしてやる)
美鈴の思惑は、木を破壊するまではうまくいった。
きぃぃぃぃぃぃぃんんんっっ
その瞬間、頭が割れるように痛んだ。何かが左耳から入って、中をかき回してそのまま右耳から突き抜けたみたいだった。美鈴の視界がぼやける。吹き飛ぶ木の向こうに、銀髪の女がいる。だが蹴り先は、わずかに敵の頭部からそれている。
(いったん着地してもう一回飛ぶか? いや、おそらくその前に何かしてくる。この、目に見えない攻撃は連続で撃てるのかな。撃てるとしたらやっぱり危ない。だったら)
蹴り先は相手の右肩をかすめただけだ。すれ違いざま、右拳を握りしめ、銀髪の女に叩きつける。直撃し、女は吹っ飛んだ。
(浅い……か? まるで今、私が右を撃つのをわかりきってたみたい)
飛び蹴りの途中からパンチに切り替えたので、着地はスムーズにいかなかった。受け身をとって地面を三回転し、立ち上がる。銀髪の女は、今の攻撃が効いているのか、地面に膝をついていた。
(まさか読んでいた? ふん、だからどうした)
躊躇する理由はない。もう一度飛ぶ。
どずんっ!
今度は、腹の底まで響く振動がする。全身が痺れる。
(まただっ……何なのコレ。これじゃよけられて終わりだ)
侵入者に達する前に、強引に地面に着地する。ふたりの距離はわずか二メートル。
(地に足つけて殴り倒すっ!)
銀髪の女は、美鈴から見て左に位置を取ろうと動く。二度に渡る謎の攻撃で、左の鼓膜は痛み、左半身の感覚が鈍くなっている。
(馬鹿ね、そっちにいったら、逆に左使わないっての!)
渾身の右ストレートを撃つべく、拳を握りしめる。
と、そこで思いとどまる。
(撃たされてる?)
根拠はない。ただ、二度連続で右拳を使ったのが気になった。急ブレーキをかけ、体を反転、右足で後ろ回し蹴りを放つ。
銀髪女の側頭部に直撃だった。受け身も取らず、ばったりと倒れこむ。
「よっしゃあ!」
美鈴はガッツポーズを取る。その足下に魔方陣が忍び寄る。
「……日出づる国の天子」
ぼそりと、女は呟く。美鈴の視界が白く爆発した。眩しくて何も見えない。
「うっわ、まだこんな手を残してたのね。視界を封じられたら奥の手、これっきゃないわね、狂乱・暴れ回る!」
単純に腕や足や弾幕を振り回すだけだ。ただ、美鈴クラスの者がそれをやれば、並の者では到底近づけない。そして慧音の目的は、美鈴に近づくことではなく、美鈴から遠ざかって門を通過することだった。
目的は達成された。
門を通過すると、庭を通り、館の前についた。門は、拍子抜けするほどあっさりと開いた。
「門番がいるのに鍵は開けっぱなしか。よくわからんな、この館の警備意識は」
慧音はまだ痛む頭をさすりながら言った。
「あの門番がいるなら、たいていの侵入者は撃退されるでしょうからねえ。他はザルだったりして」
「だといいがな」
「先生、頭大丈夫? おもいっきし食らってたけど」
「向こうも無理な体勢からの攻撃だったからな。動けないことはない」
紅い廊下を歩いていく。向こうから、モップがけしている妖精メイドがやってきた。慧音は思わず身構えたが、メイドは慌てず騒がず、そのまま通り過ぎていった。
「な、なんだ」
「すれ違うとき、こっちをちらっと見たわよね。見えてないわけじゃないし」
「やる気がないのか?」
「ま、いいことじゃないの。先に行きましょうよ。あの黒い化け物の跡はまだ見えているの?」
「これ以上ないくらいはっきりとな」
廊下は、どこまでも一直線に続いていたかと思うと唐突に曲がり角になったり、逆にすぐ目の前に角があるのに、歩けば歩くほど遠ざかったりした。
「なんだか変な魔法がかけられているみたいね。距離がおかしいわ~」
廊下の窓から、夜空が見える。満月だ。紅魔館に入ったときは、まだ夕方にもなっていないはずだった。
「距離というより、時間だな。一定の時間を投入して得られる結果が、毎回違っている。方程式がずれているのか、そもそもずれるように作られている方程式なのか」
「あら、数学の授業?」
「それはまた今度にしょう。今は、跡を追いかけていけばいいだけだ」
妖精メイドはまったく統制が取れていなかった。モップメイドのように、存在に気づきながら無視する者もいれば、慧音とカナを見た瞬間、抱えたシーツを放り出して逃げていく者もあったし、何人かでおしゃべりに夢中になって、そもそも侵入者に気づかない者もいた。つまり総じて、まったく障害にならなかった。
階段を何度も降りていった。突き当りの扉を開ける。やはり、鍵はかかっていない。
開けた瞬間、古い年月を経て醸成される書物の匂いが、扉の隙間から漏れてくる。カナは両手で自分の肩を抱きしめた。
「なに、これ……寒い? 違う、怖いわ」
「どうした」
「どうしよう。一歩も動きたくない。ねえ先生、できることなら、その扉から先には進まない方がいいわ」
「嫌ならいいよ、行かなくて」
「ちょ、ちょっと待って」
構わず中に入ろうとする慧音の腕をカナは引っ張る。
「行くわよ、行くってば。こんなところひとりで取り残されるのはごめんだし。でも、気をつけようね、この魔力、ただ者じゃないわ」
「ただ者じゃない奴の蹴りならさっき見た」
慧音は部屋に入る。
「あんなのと一緒にしないでよ。わっかんないかなぁ。人間ってそんなに魔力とか霊力に鈍いの?」
入った瞬間、慧音の爪先から頭のてっぺんまで、震えが走り抜けた。
広大な図書館だった。断崖を思わせる巨大な本棚が左右にそびえている。あちこちに簡易階段や梯子が設置されている。本棚の高さは、外から見た紅魔館の高さを越えているように思われた。慧音は歯を噛みしめ、震えを止め、歩き出す。そこは巨大な迷路だった。本棚は規則正しく配列されているわけではなく、一番上が見えないくらい高いものや、子供の背丈ぐらいしかないこじんまりしたものがある。整然と並ぶかと思えば、砂場に置き去りにされた遊具のようにてんでバラバラに配置されていたりする。慧音は既に、どうやってはじめの入口に戻っていいか、わからなかった。
「き、気のせいかな、先生。さっきも似たような本棚を見た気がするんだけど」
「私もだ。もっとも、微妙に違っているがな。配置とか、向きとか」
「気のせいかな、本棚が、ひとりでに動いているようにも見えるんだけど」
「まるで生き物だな」
「やめてよ」
カナはおっかなびっくり、辺りを見回しながら、慧音の背後にぴたりとくっついていく。
不意に、本棚の森が開けた。真っ赤な絨毯の中に、机と椅子が置いてある。厳めしい、重厚な造りだ。机のまわりを黒々としたものが渦を巻いている。あの文字の妖怪だ。机には、ひとりの少女が本を広げていた。
あのとき、籤引川原の帰りに会った少女に間違いなかった。今は室内にいるためか、あの似合わない麦わら帽子ではなく、室内用のふわりとした形状のものをかぶっている。
髪は紫色。髪は阿求よりずっと長い。腰まである。阿求は本を読むとき、本から一定の距離を置く。匂いを嗅ぎ、手触りを確かめ、それからゆっくりと咀嚼していく。それに比べて、この少女が本を読んでいるさまは、飢えた獣が血や油の滴る獲物の肉にかぶりついているようだ。外見上は、ほとんど変わりない。だが、印象がまったく違う。なぜなのか、そう感じる慧音自身、うまく説明はできない。
慧音とカナが近づいてきても、少女は顔も上げなかった。黙って本に視線を落としている。
「おい妖怪、こっちを見ろ」
慧音は言い放った。
「わ、わっ、もっと他に言いようがあるでしょう」
「言いたいことは、きちんと相手にわかるよう、はっきり言わないとな。私は怒っているんだ。さあ、こっちを見ろ。そして阿求を離せ」
少女は机上の本に目線を落としたままだ。〈蟲〉は蠢き続ける。
慧音は本を取り上げようと、手を伸ばす。
「聞こえなかったのか。こっちを見ろと言って……」
指先が本に触れるか触れないかというところだった。気づいたとき、既に吹っ飛ばされていた。風だ。そのまま本棚にたたきつけられる。慧音が一瞬呼吸ができなくなるほどの勢いだったが、本棚は微動だにしない。そして少女は変わらず本を読み続けている。
「先生、無茶だって」
「ぐっ……あの中に阿求がいるんだ」
よろめきながら立ち上がる。もう一度本を読む少女に歩み寄る。本をはたき落そうと、手を振り上げる。再び強風が来る。
「それはもう、歴史として修得済みだ。喰ってや……」
腹に、強烈な一撃が来る。慧音は体をくの字に折った。さらに肩、頭、腿に一発ずつ当てられる。
(これは……水か。水の弾丸を風で飛ばしたんだ)
さっきよりもひどい姿勢で吹っ飛ばされた。受け身も取れずに絨毯の上に墜落する。
「先生、もうやめなって」
今度は、なかなか起き上がれなかった。カナに肩を貸してもらい、なんとか身を起こす。少女は、一度も本から目をそらしていない。
「帰ろうよ、もうどうしようもないよ、これは」
「ありがとう、カナ。もういい。お前は帰りなさい」
カナから離れる。
「私の意地だ。勝てる、勝てないじゃない」
「先生」
「他に選択肢はない。そこに阿求がいるとわかっている以上」
三たび、少女の前に立つ。少女はちら、と視線を上に向け、慧音を見た。それからまた本に視線を戻す。ほんのわずかな動作だったが、初めて慧音に対して反応を示した。
「今、すごく難しいところなの。あなたがそう何度もやってくると、邪魔なの。こいつは私が退治してあげるから、じっとしていなさい」
少女は口を開く。苛立ちが感じられる。あのときよりもさらに早口でぼそぼそと話す。
「退治するのは構わないが、その前に阿求を助けないといけないだろう」
「何を言っているの。もう手遅れ。こいつの……〈本の蟲〉の依り代になってしまった」
「剥がせばいいじゃないか」
「そうしたらまた元の木阿弥よ。せっかく夜も寝ないでここまで追い込んだのに、またバラバラにされたら、一からやり直しよ。そんなのごめんだわ」
「人間の命がかかっているんだぞ」
「人間の命しかかかっていないんでしょう?」
「なんだと」
「それとも、あなたが好きそうな言辞を弄しましょうか。こいつを野放しにする時間が増えれば、その分犠牲者が増える。心の弱い者から順にね。こいつも、ずいぶん凶暴になったわ。喰ったら喰ったまま。もう遠慮なんてしていないの。今ここで退治すれば、命ひとつで済むわ。運が良ければ、死なないかもしれない」
「わかった、正直に言おう」
慧音は手のひらを前に突き出した。
「いいから阿求を出せ」
手のひらから剣が生える。それを手に取り、少女に切りかかる。
「国符・三種の神器 剣」
剣は、途中で止まっていた。少女を包む青い半透明の膜に遮られている。跳ね返すのではなく、柔らかく受け止めている。
「水符・ジェリーフィッシュプリンセス……」
少女は、思い出したように顔を上げた。
「私はパチュリー・ノーレッジ。あなたの忍耐力と鬱陶しさはほめてあげるわ。けどもういいの。お疲れ様」
パチュリーの体が青白く光る。
「月符・サイレントセレナ」
光の矢が地中から吹き上がった。激しく、そして静かに。慧音はなすすべなく宙へ投げ出される。矢は、数えきれないほど飛び出し、慧音を何度も刺し貫いた。何十本もの光の矢が収まると、慧音は解放されたように床に落ちる。大の字になったまま、指一本動かせない。さっきの風や水とは段違いの威力だった。パチュリーはもはや倒れた慧音を一顧だにしない。真剣な顔で本と睨み合っている。
「あ……き……」
唇すらまともに動かせない。光の柱に、力を根こそぎ奪われたようだった。
誰かが自分を覗き込んだ。それは、自分自身の顔だ。
(ああ、やはり来たか)
慧音は驚かなかった。認めざるを得なかった。望んだのだ。今度こそ、はっきりと。
ハクタクは、鼻先を慧音の脇腹にうずめる。今の攻撃で貫かれた箇所のひとつだ。傷口からの方が、入り込みやすいのだろう、と慧音は思った。意識が薄れていく。消えていく、というよりは、何か別のものに入れ替えられていくと言った方が正しい。恐怖はほとんどなかった。それよりも、焦燥が遥かに強かった。このまま何もしなければ、阿求は囚われたままだ。パチュリーは、中にいる阿求など露ほども気にしてはいまい。〈本の蟲〉しか見ていない。
(私しか、いないんだ。あいつを救ってやれるのは)
とぷり、と体に何かが流れ込んでくる。いや、逆だ。体から何かが出ていく。それが、脇腹に顔を押し付けている獣に向かっていく。
(喰ってしまえ。私の意志を、ひとつ残らず。阿求が無事でいればそれでいい。私はいなくてもいい。いても、阿求を傷つけるだけだから)
視界を、黒い羽がかすめた。羽は本棚から本棚へ移る。ちょうど慧音を真上から見下ろせる本棚で、羽は止まった。
羽は、少女だった。薄赤い洋装の少女。水色の髪に、帽子を被っている。
慧音と羽の少女は、視線を交わした。時間にすればわずか一瞬だが、濃密なものを慧音は受け取った。
**喰われるぐらいなら**
言葉ではない。
**喰ってしまえばいい**
意志でもない。
**同じ痛みなら**
それは、もっと揺るぎのないもの。
**お前が望むことをなせ**
たとえば、運命と呼ばれるもの。
「おぉぉ……」
喉の奥から、自然とうめきが漏れる。獣じみた、いや獣そのものの声。だがそれは紛れもない自分の声。
「うぉぉぉぉおおお……」
指が動く。背筋だけの力で起き上がる。体中に力が漲っている。
「ぐぅお、おお」
パチュリーがこちらを見ている。その目は、驚きに大きく見開かれている。
「オオオオォォォォォォンンン!!!」
咆哮が迸る。頭部が熱い。目が、口が、体の内側が熱い。爪が鋭く尖った両手を広げ、前かがみになり、顔を突き出し、パチュリーに向かって突撃する。
「火金符・セントエルモピラー」
パチュリーは立ち上がり、頭上に両手をかざす。巨大な火の玉を生み出し、それを慧音に投げつけた。
「ガァッ!」
火の玉を、ちゅるりと呑み込む。古の時代から蓄積されてきた知識を喰い殺す。爪を光らせ、腕を振りぬく。
「ウィンターエレメント」
水柱が四本立った。パチュリーの姿を見失う。一本を爪で散らし、残り三本を口に吸い込む。右手側、十メートルほど離れたところにパチュリーがいる。
「金符・シルバードラゴン」
慧音が床を蹴るのと、召喚された竜が現れるのは同時だった。五メートルはゆうにある竜だ。慧音は頭から突っ込む。角を突き立てられ、竜は悲鳴を上げる。角が刺さったところからひびが広がる。竜を召喚するに至るまでの知識の過程が蝕まれていく。
「クァァ!」
頭を振り、スカスカになった竜を吹き飛ばす。竜は本棚に当たってガラスのように砕け散った。その間に、パチュリーはさらに慧音から離れていた。
「ふぅ、参ったわ、ほぼ無際限に知識を喰うなんて。相性最悪ね」
パチュリーはぼそりと呟く。
「まあお手並み拝見と行こうかしら」
慧音はもはやパチュリーに関わらなかった。パチュリーをその場から遠ざければそれでよかった。慧音は〈本の蟲〉に対峙する。
「阿求、今助ける」
慧音は〈本の蟲〉に両腕を突っこんだ。
「ば、馬鹿なっ。直接触るなんて! 文字に喰われるわよ」
ぞぞぞぞ、と無数の活字が慧音の腕を這いあがってくる。慧音を指先から解体していく。慧音の肘辺りまでが、文字化していく。だが、そこまでだった。文字化は止まり、慧音の肘から先が再構成されていく。指先まで復元すると、再構成は〈本の蟲〉の無秩序に並んでいた文字にまで及ぶ。整然と並び、文章化されていく。
〈第百九季文月の一。稗田阿求生誕。御阿礼の神事が行なわれる。稗田家は人間の里で伝統ある家系の一つ。九代目の御阿礼の子。幻想郷縁起の編纂が目的。初代御阿礼の子稗田阿礼より千年続いている〉
活字の塊から、人型が浮き上がってくる。慧音はそれを壊さないようにそっと持ち上げる。人型は、次第に明確になっていく。少女を象っていく。
〈外は寒い。部屋の中は暖かい。だけど私も外で遊びたい。ずっと文字ばかり書いていると疲れる。しかもこの文字は私の文字じゃない。千年前から続いてきた、誰かの言葉、その続きを書いているだけだ。なんのために? ただ続けるためだけに〉
少女の表面に文章が連なる。
〈上白沢家の娘と会った。私と少し似ていた。物静かで、頭がいい。そして私より強い。色んな意味で。このひとと一緒にいれば、私も強くなれるだろうか〉
慧音は、このままいつまでも阿求という書物を読んでいられたらどんなにいいだろうかと思った。その誘惑を振り払う。黒一色だった文字の塊は、頭の方から少しずつ色がつき、文字が肉体に変容していく。まず、髪の毛が現れる。それから額、眉、閉じた目。
〈忘れてしまうのは寂しい。だから書く。彼女はそう言っていた。私は違う。忘れられるのが怖い。だから書く。……でも、それは結局同じことじゃないんだろうか〉
阿求の肩まで復元が済む。閉ざされた瞼が震える。
「阿求、私だ」
慧音はやさしく、穏やかな声をかける。
「もう、起きなさい」
ゆっくりと、瞼が開く。
「その声。けい……ね」
阿求は嬉しそうに笑い、目を開く。慧音を見る。阿求の口元はほほえんだままだったが、目が戸惑っていた。阿求の再構築は膝の辺りまで済んでいた。慧音は阿求から手を離し、背中を向ける。
「慧音?」
「阿求、私はもう、人じゃない」
自分で髪の毛をすくって見ると、緑色になっている。頭を触ると、角が生えている。体の内側が、まるごと別の何かに変わっているようだ。
「お前とはもう、一緒にいられない」
「何を言っているの。あなたは、あなたでしょう」
「腹が、減るんだ」
慧音は顔を歪めた。阿求には彼女の背中しか見えない。
「人間の顔を見ていると」
「慧音、こっちを向いて」
「嫌だ。私は、お前が無事に出てこれた。それだけで十分だ」
慧音は右手で空を横に切る。巻物が生まれる。紐がほどかれ、絨毯のように、通路を作っていく。巻物自身に意思があるかのように、図書館内部を動き回っていく。
「私がここまでやってきた歴史を再現した。これを高速で巻き戻す。そうすればお前は家に帰れる」
「慧音、私は、あなたと……」
「さようなら、阿求」
阿求の意に反し、阿求の体は巻物に引きつけられる。足を乗せると、そのまま凄まじいスピードで巻物の上をたどっていった。すぐに見えなくなる。残った〈本の蟲〉は、核がなくなった途端、心細そうに震え始める。弾け飛んだ。灰や塵を思わせるものが大量に宙に舞い上がり、雪のように落ち、絨毯に吸い込まれていく。慧音は満足げに息を吐いて、肩の力を抜いた。それは、寂しげな溜息でもあった。
「いいの?」
パチュリーはいつの間にか椅子に座っていた。
「もちろんだ。阿求は守られた。他に望むことはない」
「どうしてそんな風に納得できるのかしら。わからない。あなた、あの娘が欲しいんでしょう。なぜ奪わなかったの。奪うためにはある程度傷つけることも時には必要よ」
「お前とは、あまり価値観が合わないようだな」
慧音はパチュリーに背を向ける。
「邪魔をした」
「一応、感謝しておくわ。正直私じゃあの〈本の蟲〉をこうも綺麗に封殺することはできなかった。多分、泥仕合になっていたわ」
慧音は振り返る。パチュリーと目が合う。パチュリーは楽しげに、うっすらと笑う。
「けどね。あなたに喰われたハクタクがこのままおとなしくあなたの中にいるとは思わないことね。どうなるか楽しみ」
慧音は本棚の森へ消えていく。やがて、遠くから扉を閉める音がする。パチュリーは大きく息を吐き、椅子にぐったりともたれかかる。ぼんやりと上を眺める。天井は見えず、高くそびえる本棚と、闇が見える。
「パチェ」
そこへ、少女の顔が逆さまに割って入った。水色の髪の少女だ。黒い羽を生やし、口の端には牙が見えている。
「レミィ」
「ご苦労様。相性最悪だったね。あんた、何もできなかった」
「魔法の歴史を喰われたら、終わりよ。私の資本は肉体じゃなくて、精神なのだから」
「あんた自身で練り上げた魔法じゃないと、通用しないってことだ。要修行ね」
「で、レミィ、あんた何をしたの」
「え? 何も」
「嘘でしょ」
「ふたりのやりとりを眺めていただけよ」
「訂正。半分は嘘でしょ」
「信用されてないなぁ」
パチュリーの机の向かいに座る。不意に、本以外何もなかったはずの机上に、紅茶がふたつ現れた。レミィと呼ばれた少女は、ごく当たり前のこととして、カップをとり、紅茶をひと口啜る。
「まぁ、歴史ばかり見ている奴には、運命なんて見えないよ」
「それ、今度本人に言ってやるといいわ」
パチュリーも自然な動作で紅茶に口をつける。
「ああ疲れた。甘さが体に染みる」
紅魔館から出ると、外は満月だった。
「……先生?」
カナが恐る恐る声をかけてくる。
「無事だったのか。よかった」
「そりゃあ、逃げ回ってばかりだったから。ごめんね先生、役に立てなくて」
「いいよ。そもそも、無理に私についてくることはなかったんだ。誰もお前を責めないよ」
カナはうなだれた。
「先生、阿求ちゃんのことは、本当にもういいの」
「ああ、いいんだ。もう住む世界が違ってしまった」
「これまでだって完全に一緒の世界じゃなかったでしょう。それでも、会っていたじゃない」
「私は妖怪だ。幻想郷縁起を、書かれる側の立場になったんだ」
頭から生えた雄々しい角に触れる。カナはその角をじっと見る。
「それなんだけど、なんだか変な感じがするの」
「体の内部の作りからして、変わってしまったからかな。今までの私と全然違うんだろう」
「ううん、そういうのじゃないの。私はたくさん妖怪を見ているわ。人間と同じくらいにね。それで、だいたいそのひとを見たらどっちだ、ってのはすぐにわかるの。でも変。先生は、妖怪じゃないみたい。もちろん、人間でもない。ああもう、何を言いたいのかわからなくなったわ。とにかく先生は先生よ」
ふたりは森に入っていた。慧音は大木の根元に座り込んだ。
「ここならよさそうだ」
「何、ここで寝るの」
「ああ、もう人里には戻れないから」
カナは何か言いたそうにしていたが、慧音は気にせず、根を枕にして横になった。
「安心してくれ。別にすぐ死にたいとか、そんな風に思っているわけじゃない。ただ、これから日々の過ごし方を少し変えるだけだ」
「これからどうするの。友達は? 私ひとりじゃ、つまらないでしょ」
「起きてから考えるよ」
慧音は瞼を閉じる。すぐに眠りに落ちた。
朝露が慧音の頬を濡らす。目を開ける。体に違和感があった。いや、違う。昨夜あった違和感が、なくなっていた。自然と頭に手が伸びる。そこには昨夜の角がなかった。髪も、銀色だった。
「なんだ……どうなっているんだ」
「おはよう、先生」
頭上の枝に足をかけて、逆さまにぶら下がったカナが言った。
「今の先生は一応人間。でも昨日と同じ。普通の人間とは違う感じがするわ」
「どっちつかず、ということか」
「でもこれで人里に戻れるよね」
「またいつ妖怪になるかわからないがな」
「あのね、先生。私思うに、多分ね」
「満月だろう」
「あ、やっぱりそう思う」
慧音は大きく伸びをして、歩き始めた。自分の体がどうなっているのかという不安はある。それでも、もう一度人里に戻れることが嬉しくないと言えば、嘘だった。
上白沢家の門の前で、家人たちに一斉に囲まれた。皆、慧音を心配していた。お高くとまった稗田家が、慧音にどんな仕打ちをしたのか聞いてきた。しかし慧音は一から事情を説明する気力がなかった。自身の妖怪化のことも、はっきりいう覚悟がまだできなかった。父の姿を探したが、見当たらなかった。おざなりな説明をし、とにかく稗田家との最悪の事態はひとまず避けられたのだと皆に言い聞かせ、部屋に戻った。そのまま食事も入浴もせず、布団に倒れ込んだ。意識は、風の日の雲のように千切れ飛んだ。
ずいぶん長い間、夢と現をさまよっていた。目覚めると、日はまだ高かった。問題は、今がいつの昼かということだった。心なしか、日差しが弱まっている。体は布団に張り付いたように動かない。筋肉がこわばっている。一日や二日のこわばり方ではない、もっと長い時間、横になっていたようだ。慧音は軋む体を叱咤し、布団から立ち上がる。書斎から出て、長い廊下を歩き、表に出た。
蒸し暑い風が吹きつける。だがその中に、確かな秋の気配がある。やはり相当眠っていたようだ。一週間、二週間、いやもっとだ。
慧音が目を閉じると、際限なく兆しがやってくる。秋から冬への変化。始まる春、続く夏、終わる秋、繰り返す秋……容赦なく照りつけるこの日差しから、昨年の冬を思い起こし、十年前の夏を思い起こす。ひとつの季節の日差しに、あらゆる歴史が詰まっているのがわかる。
明らかな変化が、自分の体に起きていた。
「そうか」
慧音はぽつりと呟き、青空を見上げる。
「今宵は、満月か」
結局、ひと月まるまる眠っていたことになる。
あの獣が慧音の体の中にとどまり、うずくまり、呼吸をしている。この幻想郷が経験してきたあらゆる歴史が、慧音のまわりに泉のように広がっている。コツさえつかめば、どこへでもいって、手ですくい取って飲むことができるようにさえ思われた。
「これは……」
そのまま、白昼を、あてどなく歩いていく。強烈な日差しは、地面を這いずる人間や、建物を白く染め上げる。ひとやものの輪郭が曖昧になり、青と白、そして熱さだけの世界になる。慧音はその、明るすぎる影絵の世界で、幻想郷の歴史の前後左右上下、どこへでもいける自分に気づく。道端に生えた、若々しい木の、幹に右手を触れる。何千何万という、木々の記憶が手のひらに集まる。このまま咀嚼もせずに体内に入れてしまっては、人間としての上白沢慧音はパンクしてしまうだろう。だから、手のひらの段階で止めておく。若い木から手を離す。燃えるように熱い。痛いというよりは、重い。漆喰塗りの土塀に左肩をもたせかける。そこから、職人たちの息遣いや、運ばれてきた土が元あった場所、そこにいた生き物たちのざわめきを感じる。あまりの暑さにぼうっとなって、肩を離すのが遅れた。肩はすっかり腫れあがっていた。このままだと、一歩進むごとに、足から大地の歴史を感じてしまいかねなかった。そう意識してしまうと、本当に一歩も歩けなくなった。歩き方を問われたムカデが、途端にその百の足を持て余したように。
「今日はあっついねー、先生。もうすぐ夏も終わるってのにさ」
どれくらい、往来で突っ立っていたのだろうか。子供の声に気がついたとき、夕日が目に染みた。
「先生? 何してるの、さっきから」
教え子のひとりだった。だが、それが誰かまでは、今の慧音にはわからない。目眩がして、目の前の光景をはっきりと捉えることができない。それでもなんとか通り一遍の挨拶をこなし、子供と別れた。帰る間際、子供の頭をなでる。今の出来事をまるごと塗りつぶしまい、ごく普通の「慧音先生」と会った歴史に作り替えた。すべてが造作もなくできた。石ころをあちらからこちらへ動かすのと同じように、簡単なことだった。まっすぐ家に帰り着き、自宅の襖を開けると、畳の上にそのまま倒れ込んだ。
「なんだ、私は、いったいどうなるんだ……」
体中がだるい。興奮していた。ものに触れると、そのものにまつわるあらゆる記憶が流れ込もうとしてくる。にゅるりと、何かが入り込んでくる気色がする。阿求が目を閉じ、受け入れていたあの感覚も、これと似たようなものだったのだろう。阿求に近づいたのだ。あるいはもう、追い越したのかもしれない。
これが、稗田家が恐れていたことだったのだと、慧音は得心がいった。こんな能力を第三者に持たれては、稗田家が大事に保ってきた歴史もめちゃくちゃにされかねない。慧音本人にその意思があるかどうかは関係ない。力を持つということはそれだけで、恐れられる資格と責任を負うことになる。
なんとか起き上がり、押入れから布団を出し、横になる。押し入れの中には無数の目があった。布団に横になってからも、天井の木目や、障子の紙の部分、畳と畳の隙間など、あちこちから視線を向けられた。はじめ不気味に思ったが、慣れてきた。
「私はまだ、人なのかな……」
ぽつりと呟く。答えるものはなかった。部屋にひそむ無数の目は、時々まばたきをした。慧音は父の部屋に行った。父はいつものように、己が作り上げた城の中で、怠惰と安逸と、身を切るような孤独を堪能していた。
「父さん。家の者を連れて、どこか安全なところへ行ってください」
父は手に持っていた本を伏せた。その目は灰色の雲がかかっていたが、確かに自分の娘を見ていた。
「皆に、怖い思いをさせたくないのです」
「わかった」
それだけ言うと父は椅子から立ち上がり、慧音とすれ違い、部屋の外へ出ていった。すれ違いざま、慧音の右肩に手のひらを乗せた。いつも部屋に引きこもっていた男とは思えないほどきびきびとした動きで、家人に指示を飛ばしていく。慧音は、父親の手のひらの触れた肩に、自分の手を重ねた。
家人が皆、上白沢家を引き払ったのを見計らったかのように、慧音を高熱が襲った。朦朧とした意識の中、獣臭さが次第に強くなっていく。それが自分から出ているものだと慧音が気づくのに、そう時間はかからなかった。口腔内がヒリヒリするほど渇く。歯と歯が噛み合わなくなった。指で触ると、犬歯が長く、太くなっていた。腕をまくり、皮膚に鼻をあてる。濃密な体液の匂い。まるで刷毛で念入りに塗り込められたように、匂いは皮膚に染み込んでいた。銀髪の毛は、緑がかってきている。腰は奇妙な痺れに支配されている。頭が万力でごりごりと圧迫されているようだ。涎が唇から垂れるが、それを啜る気力もない。うめき声をあげながら、七転八倒する。
紅魔館のときはただただ目の前の敵に集中していた。今、はっきりと自分の体の変化を感じ取っていた。
洪水のように映像と音が流れ込んでくる。慧音はその奔流に身を任せる。
「殺せ! 殺せ! 殺せ!」
痩せた禿頭と太った禿頭の人民指導者が、鼻髭を生やした革命家と鼻髭を生やした総統が、拳を振り上げて絶叫する。顔の見えない無数の人間が、それに応える。目だけが、彫刻刀で彫られたように、くっきりと浮かんでいる。幻想郷の人数全員を数えたって、この百分の一、いや千分の一にも及ばない。
「ハイ! ヤイ!」
と、人、人、人の目が慧音を見る。戦車が瓦礫を踏みつぶす。塹壕から銃口が覗く。密林で体中に染料を塗りたくった男たち。戦闘機が金魚の糞のように垂れ流す焼夷弾に、木と紙で出来た家を燃やされる人々。
餓死者、焼死者、爆死者、窒息死者、打撲死者、斬死者、銃死者、被曝者、人々の堆い山は、影絵のようにぼんやりとなり、墨汁のように大気に滲み、消えていく。
なかったことになど、できない。
なかったことにしても、彼らは甦らない。ならば、せめて彼らの息吹を伝えなければならない。情報の奔流は、尽きることなく慧音に注ぎ込まれる。
慧音は雄叫びをあげた。狼のそれに似た、しかしもっと野太いものだ。大地そのものの悲鳴のようだ。頭の痛みが尖ってくる。圧迫から、刺すような痛みへ。
ずるっ、ずるぅ
出た、という感触があった。
「おおおおおおおおおおおおおおおんんん」
慧音は布団から飛び起きた。左手に生まれた巻物が、蛇のようにのたくり、広がっていく。そこへ、右手に生まれた筆が、字を植えつけていく。慧音の筆は、ただ振り回されているだけのようだった。字がまるで自らの意志を持つように、紙の上に現れてくる。人々のためを思い、人々を扇動し、人々を殺してきた者たち。彼らのまわりでその殺戮に手を貸した者たち。彼らの生み出した惨状が、紙を埋め尽くしていく。
やがて、何かがひび割れる音がする。大量の死者の魂が、結界に押し寄せる。納得できない死を抱えた者たちの悲しみ、怒り、憤り、悔いが、結界のゆらぎに殺到する。
過去に一度あった。そしてこれから先、遠からず訪れるであろう、六十年ごとの揺らぎに。
記述は外の歴史から、中の歴史へ入り込んだ。慧音は慣れ親しんだ手触りを感じる。両腕をめいいっぱい広げて、記述を続ける。勝手知ったる幻想郷の山、川の名前、妖怪の名前、博麗大結界、幽霊移住計画、閻魔の大裁判、巻物はたちまち一本、黒字でびっしりと埋め尽くされ、新たな巻物が宙に踊る。
腰の奇妙な痺れが、尾てい骨に集まっていく。そこから、何かが出てくる。筆を休めて、手で触ってみる。ふさふさした尻尾だ。角ほどの痛みはない。角の方も、今はそれほどではなくなった。
二本目の巻物を終えると、体中から力が抜けた。巻物も筆も消えていた。慧音は布団に大の字になって倒れ込んだ。熱は収まる気配もない。意識は朦朧としている。書きたいという衝動の他は何も考えられない。高熱の辛さの中、鈍い睡魔に似た快楽があった。歴史を紡ぎ出す快感だ。体にじかに流れ込んできた歴史を、感じるがままに書き記す。こんなこと、ハクタク以外の誰にも真似できない。御阿礼の子にもできない。
獣の臭いが気にならなくなってきた。ハクタクの快楽を知った。
ひとりになってしまった。
唐突に、その予感はやってきた。暗雲垂れこめる空に、一筋走る稲光のように、予感が閃く。
これでもう、ひとりだ。
皮膚の感覚が、世界の見え方が、人間のときとは根本的に違う。どこが、とはもはや人ならぬ慧音には指摘できない。微妙な、しかし決定的な変化があったと、わかるだけだ。もう父や家人と同じ景色を見ることはないだろう。寺子屋の子供たちと同じ書を見ることもないだろう。
そして、あの娘と同じ歴史を見ることはないだろう。
これが、完全なハクタクだ。
そういう運命だったのだ、仕方がない、と慧音は思う。
「慧音」
あらゆる夢想を打ち破る、現実というものがある。
たったその一言、呼びかけの声ひとつが、あっさりと慧音の諦念を打ち破る。慧音が自分自身につけた仮面がぼろぼろと崩れていく。人間としての慧音が、仮面の隙間から入り込んでくる。再び人妖の血がせめぎ合う。
みんなと離れたくない。
ひとりは嫌だ。
もがけ、あがけ、何ひとつ諦めるな、何ひとつ手放すな。
生きている限り、望み続けろ。
内側から、とめようとしても湧き上がってくる思いがある。
薄く目を開けると、襖がかすかに開いていた。そこから、短髪の少女が現れる。
「あ……く、どし……て、き……」
はっきりと発音できない。意識を手放してしまう。すぐに掴む。阿求の膝の上に、自分の頭がある。
「慧音」
阿求は湯呑の縁を慧音の唇に押しつける。冷たい緑茶が慧音の唇から顎を濡らす。わずかに、口の中に入った。こくん、と喉を鳴らして飲み込む。うまい、とは感じたが、人間のときのような、何かが満たされる感覚はなかった。といっても、人間のときどうだったかは、霞の向こうの景色のようにおぼろげだった。
「こんなに汗びっしょりで。喉、渇いているでしょう」
喉が渇いているわけではない。体が馴染んでいないだけだ。そう答えようとするが、声が出ない。
ひとり。
また、予感が走る。今度は恐怖とともに。たった数秒前に抱いていた意志が、すぐさま虫のいい、甘えた考えに見えてくる。
お前にはひとりがお似合いだ。
望み望み望み望み望み望みすべての欲望を叶えた果てに孤独があったとしても。
それでかけらでも何かが手に入るなら満ち足りる。ひとの事情など知ったことではない。
それがお前だ。そんな奴は、ひとりになるしかない。
「寒いんですか、震えている」
阿求は慧音の頭を両手で抱え、胸元に抱き寄せる。寒くなどない。暑くて熱くて、干からびてしまいそうだ。
「怖い、のですか」
阿求はそっと、羽のように尋ねた。その慈しみは、体中に染みわたった。慧音の体に力がみなぎる。
(この娘を、離したくない)
左腕で頭を抱え、右腕を阿求の背中にまわし、抱きしめる。左手に力を入れ過ぎたせいで、阿求の髪に飾られた牡丹の花が潰れ、畳に落ちた。阿求は苦しそうにうめいた。そのまま押し倒す。馬乗りになって、左手を阿求の胸に押しつけ、右の親指を阿求の喉に食い込ませる。
(こんなにやさしい娘と、離れたくない)
指は、ちょっと力を入れればそのまま第二関節までたやすくうずめられそうだった。阿求の皮膚を突き破り、肉をかきわけ、ずぶずぶ、と。
(ならどうする)
阿求の胸を抑えつけた左手からは、阿求の鼓動が伝わってくる。
驚愕と恐怖のせいで、体がこわばっているのがわかる。
そして戸惑い。
なぜ慧音がこんなことをするのか理解しようと、その目はじっと慧音を見ている。
阿求は目を閉じる。慧音は手を阿求から離した。阿求は自分から身を起こした。
「あなたが、人でなくなってしまうのなら」
慧音が見ている前で、阿求は帯を緩めた。襟首に手をかけ、肩を露にする。そのまま引き下ろす。
果実のように瑞々しい、阿求の上半身が露になった。緑と黄のきものは、海の藻のように阿求の下半身に広がっている。
「私も稗田でなくていい」
慧音は、触れただけで傷つきそうな、柔らかく繊細な阿求の裸をつかみ、その肩に、犬歯を喰い込ませた。犬歯で穴の開けられた皮膚から、ぷつ、と音を立てて赤い液体が漏れていく。
阿求は深い息をついた。そのか細い声を聞くと、慧音の頭の奥から全身へ、じんじんと痺れが広がっていった。
美味い。
慧音は芯からそう思った。
妖怪は、人間を喰うために存在していることを、心底理解した。
ハクタクは神でもなんでもなく、妖怪なのだ。
湯気の立つ紅茶が、唐突にテーブルに現れた。
「レミィ、今日は随分と起きているのね」
パチュリーはソーサーからカップを持ち上げながら、言った。
「もうすぐ夜も明けるわよ」
空はまだ暗く、満月も煌々と輝いていた。それでも、少しずつ、空に朝の気配が漂い始める。目に見えなくとも、風が、草木が、そうと告げている。
「ん、まあいいじゃないの、パチェ。月に一度のお楽しみなんだし」
「何か、見届けたいものでもあるのかしら」
「そうねえ」
ふたりは沈黙した。昼間はうだるような暑さだが、深夜になるともう空気が冷たい。秋の気配が漂っている。
「いったいあなたは、何の運命を変えたのかしら」
「さあ、私もよくわかんないからね」
「妖怪化させたの? でも、あれはほとんど完了しかかっていた。あの人間が主導権を握るか、ハクタクが主導権を握るかの違いはあったかもしれないけれど。そこを変えたのかな」
「喰われるぐらいなら喰えば、とは言ったけどね」
「ねえ、レミィ。私聞きたいんだけど、あのひと、人間なの? それとも妖怪なの?」
「妖怪か妖怪でないかそれだけが問題だ」
「茶化さないで」
「いや、ほんと私、わかんないんだって」
レミィは月を見る。月を鏡に見立てて、他の場所をそっと覗き見するように。
「でもね、ああいうの、いいと思うよ。なんかこう、支えあっているなーって」
レミィは空から、目の前への友人へ視線を転じる。パチュリーの返事は短い。
「そう」
「いいなあ」
レミィはテーブルに頬杖をついて、もう一度月を見上げた。
「だから、喰っちゃって幸せになりな」
口を離したとき、にちゃ、とねばついた音がした。牙から、血に混じった唾液が糸を引き、傷口とつながっている。阿求の右肩は無残な有様だった。歯形がくっきりと残り、肩の輪郭が変形していた。右手は血の気を失い、真っ白になっている。慧音が飲みきれなかった血が、肩から腕へ、手のひらへと、白い肌の上を紅く伝っていく。白い腕に対して、阿求の顔は紅潮していた。慧音が口を離すと、今まで張り詰めていた緊張が解けたのか、阿求の口から熱く、長い吐息が漏れた。慧音は、阿求の裸の背中を支えていた腕の、力を抜く。阿求は力なく布団の上に倒れた。慧音の布団が、阿求の血で染まっていく。慧音はゆっくりと阿求に這い寄る。その喉に、牙を当てる。そのあまりに喉の柔らかさに、牙の先が戸惑う。戸惑いは慧音の体を駆け抜ける。一緒に、絵が流れ込んできた。
初夏の光景だ。家族団欒の様子が描かれている。
はじめは静止していたそれが、時間を身にまとい動き始める。
上白沢家の裏庭。幼い慧音と獣がじゃれ合っている。父は書斎の窓を開け放ち、顔をあげれば裏庭が見える位置で、書き物をしている。母は、何をするでもなく、にこにことしている。
慧音は、母が何か仕事をしているという記憶がなかった。実際は、稗田家には遠く及ばないと言っても家人を抱える上白沢家なのだから、仕事はかなりあったはずなのだ。母が死んでからは、家の切り盛りがうまくいかなくなったことからしても、実際は普通かもしくはそれ以上に、きっちりと己の分を果たしていたはずだ。そうやって頭ではわかっていても、慧音の中で母親は、世事に囚われず、いつでもぼんやりと娘を見守っていてくれる存在だった。そういう存在であってほしかった。
この日のことは、慧音は記憶している。この後家庭教師が来たというので、慧音は獣と別れ、屋敷の中に入っていったのだ。
音は聞こえない。ただ、幼い慧音が何かに気づいたように、獣と手から離し、頭を撫でて家の中に入っていった。あとには母と獣が残っている。獣は遊び疲れてしばらく座り込んでいたが、おもむろに立ち上がって、母親の方にすりよった。母親は獣の脇腹に手を触れさせる。
場の湿度があがったようだった。ふたりの間には、慧音とは比べ物にならないほど親密なものが流れていた。ただその場にいるだけで満たされているのが、こうして見ているとわかる。
(これも……歴史なのか。実際に起こったことなのか。獣は、私に会いに来ていたのではなく、ただ母と会うついでに、私とじゃれていただけだったのか)
場面が移る。
小糠雨が降る、生ぬるい午前の空が広がっている。山道を母と獣が寄り添って歩いている。茂みをかき分け、ぽっかりと開いた場所に生えた木の根元に、ふたりは座る。母は家から持ってきた肉を広げる。獣は口にくわえた袋を広げる。中から木の実や花、果実がこぼれでる。母は両手を合わせてはしゃぐ。
場面が移る。
しんと静まり返った母の部屋。日付も既に変わった真夜中。雲隠れした細い月の光だけが縁側を照らしている。母と獣が並んでいる。草木も眠るこの深い夜に、まるでふたりしかこの夜に存在していないかのように、静かに、並んでいる。獣はやつれきっている。母は、袖をめくる。獣は母の腕をかじる。血が滴る。縁が汚れないように、母は素早く傷口を布で覆う。
(そうか)
慧音はまったく理解はできなかった。何が起こっているのかだけ、辛うじてわかった。
なぜ母と獣がこれほど想いを寄せ合ったのか、それはわからない。こんなときまわりの者は、どうしたって蚊帳の外だ。勝手に推測するしかない。母が獣以外に頼る者がいないほど孤独で、まわりから疎外されていたとは、慧音には思えない。だがそれも、所詮は他人の推測だ。
映像は消えた。現実に引き戻される。血まみれの阿求と、獣臭にまみれた自分がいる現実に。
映像が消えても、まだ慧音の頭の中では、はっきりとあの日のことが思い浮かんでいた。
銃声が響く。かすかな獣の叫びが聞こえる。母の顔から表情が消える。母はあの一瞬で理解していたのだ。獣の運命を。慧音が言うよりも早く、母は自分がどうしなければならないか、決断をしていた。
それが死ぬ決断だったかどうかは、わからない。死に瀕した獣に腕の一本でもくれてやろうとしたのか。それとも、一緒に死ぬつもりだったのか。誰かを強く求めて、ひとつになろうとして、壊すか、壊されるか、ともに壊れるかしかないというところまで追いつめられたのかもしれない。
だがあの日、心配するなと慧音の頭を撫でた母に、未来を諦めた様子はなかった。これから先も、色々なものと折り合いをつけながら生きていこうと決めた表情だったと、慧音は記憶している。それが事実なのか願望なのか、慧音自身もわからない。
阿求の柔らかな喉から牙を離す。口を閉じ、慧音はその柔らかな肉に唇をつけ、それから離し、右肩から流れて作られた血だまりに突っ伏すように、阿求の体の上で目を閉じた。
そうでない結末があっていい。相手を喰うことが、相手を求めることの究極だったとしたら、自分と阿求はたった今、お互いが重なるその最大の機会を逃したことになる。それでも、あのひとたちとは違う結末があっていい。
ためらいの結末を。保留の結末を。
やさしい結末を。
日の光が、障子から差し込む。夜が明けようとしていた。
丘を登ると、白い屋根が半分だけ見えた。残り半分は、木の骨組みが露になっている。大工たちが死んだ建物に群がり、解体を進めている。
「おおう、先生じゃねえか。久しぶりだな」
屋根の上の棟梁が、大声で手を振った。慧音も手をあげて応える。慧音が梯子の下まで来ると、棟梁は降りてきた。
「何年ぶりかねえ。機会がないと、同じ幻想郷でもなかなか会わんもんだな」
「ええ、ご無沙汰してます」
「うちの馬鹿息子も、本屋の見習なんぞ始めやがってよ。下手に知恵ついたせいか、本ばっか読んでてな、まわりから変な目で見られてんだよ。おおっと、下手になんていっちゃ、知恵つけてくれた先生に失礼だな。あいつ、今でもよくあんたの話をするぜ。また時間ができたら寺子屋で習いたいってよ」
「何よりの言葉です」
慧音と棟梁は微笑みを交わした。
「ところで棟梁、見てもらいたいものとは」
「ああ、そうだ」
棟梁はゆるんだ顔を引き締めて、解体中の建物に慧音を案内する。
「多分、仏さんが取っておいたものだと思うんだよな」
黒い木箱が、壁際に置かれている。
「この壁から向こうが、まだ工事できねえんだよ。壁を壊そうとすると、道具箱を取り落とす。梯子から落ちる。足をくじく。明けようと箱に手をかけると、針を爪に差し込まれたような痛みが一瞬する。強引にこじ開けたり、壊したりしたらどうなるか、誰も怖くてできねえ。もちろん、俺もだ。それを先生に頼むってのも気が引けるんだが」
「いえ、それは構いません。仕事ですから」
「退魔師もやってたんだな。あんた、何でもできるんだな。感心するぜ」
「いえ、真面目だけが取り柄です」
「なあ、先生」
「はい」
「年……本当にとらなくなったんだな」
「はい」
棟梁は、そういう質問をした自分自身を恥じているようだった。それでも、聞かずに済ますことはできなかったのだろう。
「まあ、若い奴だって、五年たっても顔が変わらねえ奴だっている。別に先生だって、変わらなくたってそう不思議でもねえ。だからあちこちで先生が妖怪になったって噂話を聞いてみても、実際のところどうだか、よくわかんなかったんだよな。でも、今あんたの顔見てわかったよ。噂は、正しかった」
次の棟梁の言葉は、慧音の予想を超えていた。
「あんた、綺麗になったな。怖いくらいだ」
「なっ…… し、仕事を始めます」
慧音は黒い木箱に近づく。今言われたことを強制的に頭から追い出し、目の前の案件に集中する。箱から漂う匂いを嗅ぎとる。以前はできなかったことだ。
「やはり、そういうことか」
慧音は棟梁を振り返る。
「作業を中断してください。この問題を少しでも早く解決したければ、できるだけ急いでください。大丈夫です、おそらくすぐに再開できます」
棟梁は慧音の言うことをひたすらうなずいて聞き、すぐに部下に指示を飛ばした。五分ほどで、大工たちはみな家の外に出た。慧音も大工たちとともに外に出ている。彼女は空を見ていた。やがて、空に点がひとつ生まれた。点はたちまち大きくなり、ひとの形をとり、家の前までやってきた。
緑の髪、赤と白のベストとスカート。風見幽香だ。彼女は家の中に入り、黒箱を手に抱えると、家の外に出てきた。慧音の姿に気づく。
「ああ、あなたが気を利かせてくれたのね。ありがとう」
「別に構わない。ただ、どうせなら今度から、もっとわかりやすく、人間にやさしいやり方で意志を伝えてくれ。まあ、あなたが直接実力行使に及ばなかっただけ、まだ節度は感じられるが。棟梁、もう大丈夫です」
慧音から言われて、大工たちは再び家に群がり、作業を始める。幽香は彼らにはもはや一切の関心を払わず、ただ木箱を見ている。
「それは……ナナイさんのものか」
「ええ」
幽香が蓋をあけると、中にはティーカップがふたつあった。
「ナナイの弔辞、読んでくれたそうね」
かつて花屋とカフェを営んでいた女性が、先日死んだ。老衰だ。最期の方は、人間と物、死者と生者の区別もつかなかった。今が昼なのか夜なのか、いつ自分が食事をとったのかもわからず、下の方も垂れ流しだった。病でも暴力でもなく、時が、彼女を壊した。
「あなたは人の弔辞を読むのが上手だと聞いたわ。私のも頼もうかしら」
「よしてくれ。風見幽香、あなたより長生きするなんて、想像できない」
「あの子とは会っているの? 稗田の娘とは」
「ああ、時々会うよ。会って食事したり、本を読んだり、話したりする」
「その他には?」
「それで全部だ」
「その先は?」
「先などないよ。私は半人半獣、あいつは、阿求は、人間だ」
「そう…… そうね、そういう続け方も、あるわね」
幽香は箱の蓋を閉め、大切に抱え、宙に浮いた。
「また会いましょう、近いうちに。歴史喰いの慧音」
そう言って、大妖怪は飛び去っていった。
残された慧音は、しばらくぽつねんとその場にひとり佇んでいた。大工の棟梁がこちらへ来るのが見える。幽香と話し終わるのを待ってくれていたのだろう。それにしても思ったよりもずっと早く済んでしまった。寺子屋は今日休みにしているから、半日空いた。空いた時間で何をするか、慧音は棟梁と話しながらぼんやりと考えている。
明日の授業の見直しでもしておこうか。
月に一度の大仕事の前準備をしようか。
それとも、人里の天丼を食べにいくか。
それとも……
棟梁と別れ、慧音は芝生を踏みしめ、丘を下っていく。
そういえばこの前、香霖堂でおもしろいものが外から流れ着いたと聞いた。阿求を連れて、一緒に見に行こう。それに、上白沢慧音を幻想郷縁起に書くという話も出ていたが、ついお互い時間がとれず、話はそのままになっていた。せっかくだから今日あたり、取材に協力してやってもいいだろう。そのあと、外に出てちょっとおいしいものでも食べればいい。それで、今日はおしまいだ。幸せな一日だ。
また明日が始まる。次の現実がやってくる。繰り返し、日常は訪れる。逆らわず、流されず、現実と向き合っていこう。
阿求が死ぬまでそうしていよう。
慧音の過去話はいくつか読んだ事がありますが、これ程本格的なものは初めて読んだ気がします。
面白かったッ!ご馳走様でした。
文字の合間言葉のひとつから色気が薫り立つようです。
重厚な物語に酔わされる幸せに感謝。
ただしく愛の話だと感じました。すこしだけ切なさ漂う後味ですけれど、二人は素敵な選択をしたのだと、信じられます。
楽しませていただきました。
臨場感豊かな文章は、長くても楽しく読めました>w<
感想が、ボキャ貧な私には上手く表現出来ませんが、ただとても面白かったです。
楽しかったですし、やはり野田文七様の文章は凄いです!
向こうの蓮メリも楽しみにしてます
よく死ななかったな阿求
此処が自室であることに、酔いが醒めて漸く気付きました。
あとどうでもいいですが本の蟲のあたりで蟲師を思い出したんだ。
漫画でいうと凄い画力・描写力なんだけど作者の中の世界を色々詰め込みすぎてて読感がバラけるというか…
基本慧音・阿求視点だけなので、意味深な言動をする他キャラ達の視点や思惑が自分の読解力ではスッキリしないままでした。
野田さんの幻想的でちょっと病んだような描写が最高に好きです
14氏と同じく向こうの蓮メリも楽しみにしています
ねっちりしたエロ臭もまた良し。
素晴らしい。
私も向こうの蓮メリ楽しみにしてます
覚えていてくれてうれしいです。やっぱ書いてよかった……
また書きます。
向こうの需要もそこそこにあるようですw
鋭意努力中とお答えします。
>>21さん
貴重なご意見、ありがとうございます。
なるべく多くの人に楽しんでもらいたいと思っているので
読みにくいところを読みやすくする努力は続けていくつもりです。
前回の長編「風神葬祭」よりはテーマ絞れたかなと自分では思ってるのですが
まだまだスマートにできそうです。もちろんねちっこさは残したままで。
次回作ご期待ください。
関係ない話ですが、
東方四国祭で購入した「秘封るる部」を片手に京都観光してきました。
あの本便利ですね。今度長野版出るらしいんで、それもって長野行こうと思います。
たまらん
ただ、幽香のエピソードなどが話の軸から浮いているように感じました。
私もビタミンごはんさんの「Daisy Daylight Daisy」好きですがw
特にハクタクは、不気味さも神々しさも恐ろしさもネチっこく描写されてて、
神獣の凄みがこれでもかと言うくらいに伝わってきました。
だから、ラストは慧音がハクタクに喰われるのだと思ってましたが、
逆に喰っちゃうとは!
カタルシス全開でしたよ。
楽しめました。ありがとうございました。
それらが丁寧に設定づけられていたので、話を楽しむことができました。
ただし、設定はストーリとは別だと思います。小説で作家が自由にいじれるパラメータは、運とタイミングだと思っています。「気づく」という自発的なトリガで、過去のトラウマを乗り越える展開はもったいなです。ラストの阿求の心変わりも唐突に思えました。脇役も工夫が必要です。二次作品では登場しただけで盛り上がる要素になるので、出すなとはいいませんが、解説以外にも意味を持たせたらどうかなと思います。
今後もがんばってください。
コメントは力になります。
創想話のkamsと呼ばれたい! と妄想する昨今です。
星蓮船のあのキャラとあのキャラの絡みも書きたいですが
そろそろパチュアリを一発、気合い入れて書こうかなとも思っています。
>44さん
払うの忘れてた……
次でいいですかw
設定とストーリー以降の話は三行だと圧縮されすぎててよくわかんないです。
慧音の母親に関するエピソードは、慧音の自責の念にしても、最後の獣との関係にしても
美しい演出をと思うばかりだったので、前後の脈絡まで気が回りませんでした。
それで浮いて見えたのかもしれません。
うーん、多分会った方が早いかと。
何となくありそうだなと思える生い立ちが凄く響きました。
よかったです。
設定で後天的とされている以上、いろいろと書く余地はあるんですよね。
出版されてだいぶ経ちますが、やはり求聞史紀が書籍では一番参考になります。