「なかったことにしようよ」
少女は涙で顔をぼろぼろにしている。父親は、骨ばった手で娘の頭をなでる。
男の妻は、少女の母親は、木の根元に横になっている。首が綺麗に半分抉り取られている。一撃だ。
「きっと、苦しくはなかったさ」
あらゆる苦しみを吐き出すように、父親は言った。
「なかったことにしようよ。ねえ、こんなの、なかったことにしようよ」
なおも少女は訴える。しゃくりあげながらも、同じことを訴え続ける。父親は首を振る。
「もう、駄目なんだ。何をやっても無駄だった」
「どうしてよぉ、妖怪に食べられないようにしようよ」
「それは、父さんたちの、力の、外だ。いくら歴史を喰っても、運命そのものを変えることは、できないんだ……」
父親の声はかすれ、後半は、ほとんど何と言っているか少女には聞き取れなかった。ただ、ひどく理不尽なことを言われている、という感覚だけがあった。
「ハクタクなら、できるの?」
少女は夢の中のものをつかむように、その名を舌に乗せた。父は虚ろな目で、娘を見る。
「ねえ、ハクタクならできるの? 神獣なんでしょう。何百年も、ずっと祀ってきたんでしょう。私たちには、何もしてくれないの。ねえ、ねえ、父さん!」
「ハクタクは、本当は私たちの守り神じゃないんだよ」
父は、娘の頭から手を離す。
「食べられないように、なだめているだけなんだ」
***
獏が出た。吐く息もまっしろな、二月のことだ。
四日前に十七の誕生日を迎えていた上白沢慧音は、その日初めて稗田家の門をたたいた。門が開き、女中が姿を現す。女中は心なしか見下すようにして、慧音を見た。
「上白沢の方ですか?」
言葉使いは丁寧だが、どこか突き放した感がある。慧音はこみ上げてくる緊張と苛立ちをぐっと飲み込んだ。胸を張れ、と自分に言い聞かせる。お辞儀をし、頭をあげ、明白な口調で答えた。
「はい。獏が出たと聞いたので」
「……こちらです」
女中は中に入っていく。慧音も後に続いた。正面からではなく、庭をぐるりと回り、裏口から通された。屋内に入ると案内が変わった。今度は、白髪の老女中だった。身のこなしに一分の隙もない。
十五分ほどして、慧音は家の奥まったところにたどりついた。襖が少し開いていて、そこから光の筋が射し込んできた。襖が完全に開く。部屋を満たしている光は、川の底から見上げる太陽にも似た、危なっかしい色を湛えていた。昼の、外の光ではない。もっといえば、〈こちら側〉の光ではない。これは、夜の光だ。〈向こう側〉で生まれた光だ。
「阿求様、上白沢殿をお連れしました」
「ありがとうございます。下がっていいですよ」
部屋は、取り立てて変わったところもない、ただの畳部屋だ。左手に押入れがあり、その隣に掛け軸、陶器。正面は書棚で埋まっている。右手の壁には小さな窓。その下に文机。
そこに、きもの姿の小さな女の子がいた。当年十四歳らしいが、もう少し幼く見える。花があしらわれた、黄色のきものを羽織っている。袴の裾には、フリルがほどこされている。髪は濃い紫色で、肩の上で切りそろえられていた。髪を飾るものは何もない。
彼女が稗田阿求。稗田阿礼の幼き末裔だ。
少女は、文机に向かって正座をしている。じっと、机に広げた書物に目を落としている。少女のそっけない言い方にも老女中は気を悪くするでもなく、慇懃に頭を下げて、去っていった。すれ違いざま、慧音の耳元に囁く。彼女にしか聞こえない声で。
「くれぐれも、阿求様をよろしくお頼みします。傷つきやすい方なので」
これまでの格式ばった振る舞いとは、少し違った種類のものだった。親が子に向けるような、素朴な気づかいが、その口調には込められていた。慌てて慧音が振り向くと、一分の隙もない老女中の背中があり、それもすぐに襖に遮られた。
襖が閉まると、不思議な、夜の匂いに満ちた部屋の中、慧音と少女は二人きりになった。室温は、体がこわばるほど寒くもないし、眠気を誘われるほど暖かくもない。意図的にこの室温にしている。書き物をするにあたって室内の温度調整をすることは、とても大事なことだ。
今まで微動だにしなかった少女は気だるそうに文机から頭を上げ、慧音に視線を向けた。無遠慮な視線だ。まるで一個のモノとして見られているように、慧音は感じた。
観察が終わったのか、阿求はまた文机に視線を落とすと、流麗に筆を走らせはじめた。
「既に獏に夢を喰われ、忘我の状態になった家人は七名に上ります。そのうちの二名は特に重症で、医師の診断によると、五ヶ月から三十年は、忘我の状態が続くだろうということです。さらには複数の家人の証言により、館内の配置がしばしば変わることが判明。部屋が入れ替わるだけでなく、突然雪の降り積もった廃屋が目の前に現れたりなど、人間の理では到底追いつけない事態が次々と出来。七名以外にも獏を恐れるあまり精神に不調を来たす者も出ている。このままでは稗田家そのものが機能不全に陥ってしまいます。そこで、上白沢慧音さん、妖怪退治に実績のあるあなたにお出で願ったのです。」
上白沢家は、稗田家に頭が上がらない。古い古い因習が、お互いの家を縛り合っていた。書き物がひと段落したらしく、少女は筆を置き、慧音に向き直った。
慧音は、〈御阿礼の子〉を注意深く見つめた。体つきや表情には幼さが残るのに、時折見せる、ちょっとした仕草や目の動きに、ひどく大人びたものがあった。
「よろしくお願いします」
阿求は背筋を伸ばし、深々とお辞儀をする。作法にはかなっているが、まだ、初対面の相手に対する警戒心のようなものが、身のこなしから漏れ出ている。
「こちらこそ」
慧音もお辞儀を返した。
「獏が出た本というのは……」
「こちらに積んでいます」
阿求が指した方には、書棚から引っ張り出されたと思しき本が積まれていた。本のまわりには煙のようなものが漂っている。煙よりももう少しとろみがある。部屋に満ちている〈向こう側〉の光は、これが発生源のようだった。
「そこのはほとんどすべて獏にやられています」
「わかった。すぐに始末しよう。まずはどのくらい蝕まれているのかを」
慧音は無造作に、堆く積まれた本に手を伸ばす。
「ちょ、ちょっと、あなた」
今まで冷めたような口調だった阿求の声に、動揺が走る。慧音が振り向くと、阿求は咳払いして、元の口調に戻す。
「ご存じないのですか。下手に獏に触ると、そのまま夢を食べられてしまいますよ」
「知っているよ、そのくらい。求聞持の能力など持っていなくても」
「なっ……」
阿求は予期せぬきつい言葉を受け、二の句が告げない。慧音はそれ以上阿求にとりあわず、本をめくっていく。
「獏。特定の種族ではなく、人間の夢を喰う妖怪を、すべてひっくるめてこう呼んでいる。山海経や北斎の絵などに出てくる獏とはまったく違ったものだな。幻想郷の中で奇形的に進化した〈獏〉だろう。獰猛な奴だと、夢と一緒に人間の思考まで喰ってしまう。ひどい場合はそのまま痴呆状態になる場合もある。もっとも、たいていの獏は無害なもので、ひとが見る夢を味見するだけで満足する。今、稗田家に巣食っている奴は、タチが悪い。この本……方丈記か。この獏、嗜好が偏っているのか。都や家屋の荒廃、そして死者について語っている個所を、集中して喰い荒している」
ぶつぶつとひとりごとを呟く。阿求に説明するためというよりは、自分の中で考えをまとめるためのものだ。自分の中に入り、集中力を高めていく。
「どうして……」
だから、阿求の声がした時、慧音はそれが自分に向けられた声だと、はじめは気づかなかった。
「ん? どうした」
「どうしてそこまで知っているのですか。稗田家の人間でもないのに」
無意識に抱いている稗田家としての優越が、聡明で名高いはずの少女に、こんな言葉を無造作に放らせた。慧音は苦笑した。怒っても仕方がないと思った。
「何も書物を読めるのが稗田家だけというわけではない。外の本に接する機会も、探せば案外見つかるものだ。部屋の奥にこもってばかりだと、そういうところに気づきにくくなるものだな。あなたもたまには外に出た方がいい」
「さっきから随分とつっかかってきますね」
「こういう性格だからな」
慧音は悪びれずに言った。
それから、積んだ本を開いては閉じ、開いては閉じていく。本を閉じる度に、そこにとりついていたものが空中に漂う。積んだ本をすべて片付けると、人ひとりほどの煙のかたまりができあがった。
「これが、獏……」
阿求は感嘆したように呟いた。稗田家の誰もが触れることすら厭った獏憑きの本を、上白沢からやってきたこの少女は、苦もなく処理していったのだ。
「これで、退治できますね」
「いや」
しかし、慧音は口を結び、首を振る。作業を始める前よりも、顔つきはずっと厳しくなっていた。
「すまないが、かえって藪蛇になってしまったかもしれん」
白い塊はむずかるような動きを見せていた。それが次第に強くなってくる。
「これは……少し面倒になりそうだ」
慧音の押し殺した呟きを聞くと、阿求は立ち上がり、襖を開けた。
「いや、待て、呼ばなくて……」
「退魔師の方々!」
呼び声に応え、白装束の男二人がすぐさま部屋に駆け込んできた。若い男と、年配の男だ。白い塊は縦横無尽に室内を動き回り出した。
「こ、こいつはっ!」
若い方はそれを見ると、すぐさま胸の前で印を組んだ。
「夢魔め、稗田家の奥にまで入り込んでおいて、ただで済むと思うな」
よせ、離れろ、とはもう慧音は叫ばなかった。時間の無駄だ。
「騒霊だ! そいつは夢魔じゃない!」
白い塊が弾けた。中から、伸び伸びと四肢を伸ばした少女が現れた。円形の鍔つき帽子をかぶっている。髪の毛は金色だ。青い地に白のエプロンドレスをまとっている。
きぃぃぃぃん、と甲高い音が部屋を支配する。耳鳴りに似た音だ。だが、その強度は耳鳴りの比ではない。畳が、天井が、部屋全体が震える。
時間にすれば二秒なかった。音の襲撃の後、若い男は畳に突っ伏していた。年かさの男は、額に汗を浮かべてはいるが、無事だ。慧音の声に気付き、瞬時に何かで対応したのだろう。しかし足下がおぼつかない。攻撃を完全にしのぐことはできなかったようだ。
「うぅ~ん、だぁれ、せっかく気持ちよくお昼寝していたのに。邪魔したのは」
金髪の少女は、目をこすりながら部屋を見回す。まだ三人、立っているのを確認すると、宙に浮いたまま大きく伸びをした。
「しぶといのねえ、三人とも、人間のくせに」
「こ……れは、どういうこと……ですか」
阿求は、自分で自分の声が聞こえなかった。両耳に何かが当たっている。触ると、人の手だった。見上げると、慧音が後ろから、阿求の耳に手を添えていた。慧音は阿求の視線に気づくと、手を離した。
「ああ、すまない、びっくりしたかな」
「今、音が全然聞こえなく……」
「相手が聴覚に訴える攻撃をしてくることは読めたからな。一点読みなら、たいていの相手ならどうにかなる」
阿求が聞きたかったのは、なぜ慧音が阿求の聴覚を封じたかではなく、どうやって手のひらで覆うだけで聴覚を封じることができるのか、ということなのだが、慧音の自信に満ちた目で見られると、そんな質問は野暮に思えてきた。自分より少し年上に過ぎないこの少女は、既にこういった経験を何度もしているようだ。
「ありがとうございます……でも、あなたは大丈夫なんですか」
阿求の耳を両手で塞いでいたのだから、慧音自身の耳は無防備だったはずだ。慧音を見ると、顔には汗が浮かんでいた。
「ああ、心配しなくていい。阿求、あなたは私の後ろに。一番安全だ」
「へええ、今の音を喰らってなんともなかったの? すごいわぁ、あなた、名前なんて言うの?」
エプロンドレスの少女は、目を丸くして、嬉しそうに言った。
「あ、ちなみに私はカナ・アナベラルっていうの」
「私は上白沢慧音」
「もう一回、行くわよ!」
カナの体が白く光り、音が迸る。
だがその音が部屋にいる三人の人間に届くことはなかった。音は形を変え、紙になった。横長の紙には文字が書き込まれている。それは巻物となった。巻物は慧音に集まり、煙になって彼女の口に吸い込まれた。
「え、あれ、どうして? なんで?」
「未知の出来事も、歴史として書き記してしまえば、それはもはや解決した事柄となる。今、私はお前の音の歴史を喰った」
上白沢家の力、歴史喰い。阿求はそれを初めて目の当たりにした。
「じゃ、じゃあこれはどうよ!」
今度は、甲高い音ではなく、腹に響くような重低音だった。年配の男は、ここで耐えきれず、頭を押さえて、膝をついた。慧音もはじめの何秒かは顔をしかめ、今にも崩れ落ちそうに見えたが、すぐにその重低音もまた巻物へと変化し、慧音の手元に収まった。
「ひええ、嘘ぉ、もう慣れちゃったの」
「騒霊カナ・アナベラルよ。稗田家の書物にたかり、いたずらに夢を喰い、ばらまき、家人を混乱に陥れた。お前は、私が退治する」
慧音の両手に、青白い光源が生まれる。
「心配しなくていい。痛くないから。ただ、元の、静かな存在に戻るだけだ。静かな音に」
ふたつの光源から鋭利なレーザーが何本も飛び出す。レーザーは、カナを蝶の標本のように、突き刺し、貫通し、壁に縫いとめた。
「終符・幻想天皇」
彼女を縫いとめたレーザーが、内側から煌々と光りはじめる。それにつれて、カナの姿が薄れていき、半透明になっていく。
「こ、こんなことで私の目的を邪魔されてなるものですかっ!」
薄らいでいくカナの内側から、赤い光が生まれ、カナを満たしていく。慧音の青いレーザーとせめぎ合う。
不意に、カナは音もなく四散した。
あとには何も残らない。夢のように消えてしまった。部屋に沈黙が落ちる。
「か、上白沢さん、終わった……のですか」
「シッ」
慧音は人差指を自分の口元に当てた。
「まだだ」
さら、さら。
耳を澄ますと、かすかな音がする。阿求は手のひらを上に向けた。そこに、雪がひとひら落ちてきた。普段感じる雪よりも、どこか乾いているような気がした。さらに、頬にひやりとした感覚がする。それから髪にも、肩にも。
「え、どうして……」
顔を上げ、周囲を見渡す。阿求は唖然とした。
辺りは真っ暗闇だった。その黒の世界で、振り落ちる雪の粒は、眩しかった。空気が身を切るように冷たい。
「取り乱すな、阿求」
慧音の背中は、そこにあった。それがある限り安心できると、阿求は思った。慧音の吐く息は白かった。白い息が吹きかかったところからは、元の阿求の部屋が垣間見えた。
「閉鎖も不完全だ。出られないことはない」
「さっきの騒霊は」
「呼んだ?」
耳元で突然囁かれて、阿求は仰天した。
「びっくりした?」
慧音は阿求を背中で隠すようにして、後ずさりする。カナは両手を後ろ手にまわして、首を心持ち傾けて、可憐な微笑みを浮かべた。
「無理無理、ここは私の夢時空だもの。そんな距離を取ったって、ここでは意味ないわ。あなたは随分腕が立つみたいだから、油断はできないわね。でも、だからといってあなたがもし無理やりここを出ようとしたら、無傷で済むかどうかはわからないわ。もちろん私も。ねえ、そういうのって嫌よね。痛い思いはお互いしたくないわ。物事は譲り合ってこそうまく運んでいくものなの。私の言いたいことわかるでしょう? 歴史屋さん」
「歴史家、だ。条件次第では相談にのってやらないこともない」
「歴史屋さん、お願いがあるの」
カナは慧音の目の前に瞬時に移動した。
「私の雪夜を、探してほしいの。どこかで喪ってしまったわ。でも、ずっと頭にこびりついて離れない。思い出そうとしてもそこだけぽっかりと穴が空いたみたいになるの」
「期限は?」
「そうねえ、気長に待ってもいいんだけど、やっぱりちょっとわがまま言おうかしら。三十年でどう」
慧音は失笑した。
「三日でいいよ。それが嫌ならせめて三ヶ月にしてくれ。」
「三日、そんな早くていいの? 瞬きしてたらもう過ぎてしまうわよ、三日なんて。まあ、あなたたちがそれでいいなら、わかったわ、それじゃ、よろしくー」
カナの姿は消えた。雪も消え、元の部屋に戻った。
「誰か! 医師を呼んできて下さい!」
阿求は部屋から出て叫んだ。それから倒れた年配の男に駆け寄る。
「大丈夫ですか、すぐに手当てをしますから」
「私は、いい……あいつの方をお願いします、阿求様」
若い方を指差しながら、男は立ち上がる。
「才能はあったが、経験と謙虚さが足りなかった。あの音の直撃を食らったのだから、ただではすまないでしょう。急がなければ命にかかわります」
紺の着物を着た老人が、お付きをつれて部屋に駆け込んできた。老人は、年配の退魔師と視線を交わすと、そのまま若い男を診た。沈痛な表情のまま、ため息をつく。阿求は不安そうに尋ねる。
「もしかして……」
「命に別条は、ありません。が」
老人は立ち上がり、お付きに、退魔師を担架に乗せるよう指示した。運ばれていく退魔師は傷ひとつなかった。だが、その目は虚ろだった。
階段を下りる足音が、地下の書庫に響く。音が、扉の前で止まる。そこで、音がためらうのがわかる。
「今度は阿求か?」
慧音は、山のように積まれた書物に囲まれている。文字から目を離さずに、言う。扉が開き、盆に茶と菓子をのせた阿求が現れた。
「今度は、というと……」
「家の人が次から次にやってきたよ。阿求様を助けていただきありがとうございます、だとか、どうしてもっと安全に事を運べなかったのか、とか、今後もよろしくお願いします、とか言われたのでね。足音がして、一瞬またかと思ったら、今度は阿求様ご本人だったわけだ」
「そうなんですか。みなが……すみません」
阿求は頬を赤らめた。
「別に恥じることじゃない。家人からずいぶんと慕われているようだな。いいことじゃないか」
「そんなことは…… あ、これ、どうぞ。疲れがとれますよ」
「ああ、ちょっと待ってくれ」
慧音は手際よく、広げた本をたたみ、スペースを作った。
「すみません、お邪魔でしたでしょうか」
「いや、もう調べ終わって開きっぱなしにしていただけだ。気を使わせてすまない。ありがたくいただこう。でも、あなたが運ぶこともなかったのに。今日の騒ぎでだいぶ疲れているはずだ。眠ってはどうだ?」
「いえ、あなたにすべてを押しつけるのは稗田家の……」
そこで言葉は途切れた。阿求は立ち止まった。
慧音のまわりに、白い何かが浮かんでいた。はじめ虫かと思ったが、そうではない。
それは文字だった。指で触れると、針金のように固い。かと思うと、煙のようにすり抜けた。阿求の指が離れると、また戻る。少し字体が変わっている。形状は不安定だった。
「産業、革……命?」
見たことのない字の並びだった。辺りに浮かぶ文字を手当たり次第に読んでみる。
「二月革命、ルイ・ナポレオン、ウィーン体制」
それらの文字は泡のように浮かんだかと思うと消えていく。同じ文字が何度も浮かびあがったりする。それらは次第に限られてくる。
〈コペンハーゲン、オペラ、森鴎外、バルザック、デンマーク、フランス革命、活版印刷術、ブラド・ツェペシュ〉
阿求の知っている言葉が混じり始める。
〈童話、女工哀歌、火、蟹工船、クリスマス、労働、七面鳥、物売り、ニート、ドメスティックバイオレンス〉
文字は収束し、数を減らしていく。ふたつの確かな言葉が残る。他の文字は地面をたたく雨の跡のように、はっきりとした形も定まらない。
〈ハンス・クリスチャン・アンデルセン〉
〈マッチ売りの少女〉
「ふう、よし」
ぎし、と椅子に背中を預け、息をつく。
「この文字は……」
阿求は自分の手のひらを見ながら言った。
「歴史を喰う準備といったところだ。初めて見ると驚くかもしれないが、仕事のひとつとして慣れてしまえば、なんでもない」
阿求は曖昧にうなずきながら、自分の手から目を離さない。
「どうした? 阿求殿」
「いえ、手が、なにか」
慧音は阿求の差し出す右手を覗き込む。阿求の人差し指が、なかった。正確には、人差指の第一関節が取れて、彼女の左手の上で黒い塊になっていた。〈幻〉〈靖〉〈曜〉〈両〉〈糖〉〈紅〉〈事〉〈米〉といった小さな文字がごっちゃりと一ヶ所に固まっている。
「上白沢さんの文字に触ってしまったからでしょうか」
「いや、私の文字に触ったからと言って、文字化してしまうような例は今までなかった」
阿求は黒い固まりに、人差指を押しつける。二人がじっと見ていると、熱した鍋に落ちた水滴が蒸発する程度の速度で、文字の塊は元の人差し指に戻った。
「痛みは?」
「ちっとも」
阿求は首を振る。
「私とあなたの能力、それに騒霊の能力が重なったためかな」
「あの騒霊、こんなこともできるんですか」
「いや、おそらくできない。可能性として考えられるだけだ。他の妖怪が稗田家に潜んでいるのかな」
「稗田家には、時々妖怪もやってきますよ。人に害を与えない、おとなしい者たちばかりですが」
「そんな者たちの中に、人を文字にしてしまうような妖怪がいるのかもしれない」
「それって、どんな妖怪でしょう」
「さあ、本が好きなんじゃないかな。まあ、いるかいないかわからない妖怪の話は置いておいて」
慧音はそう言って、空間に固定されたふたつの文字をつかむ。文字は煙になり、慧音の手にまといつく。やがてその煙も消えていった。
「まずは幽霊対策だ」
「あの……解決、できそうですか」
「目処は立った。あとは奴が来るまでに、体調を万全にしておく必要がある」
慧音は椅子から立ち上がり、うんと伸びをする。盆の上の茶菓子に目をやる。
「それじゃあ頂こうか」
「ええ、どうぞどうぞ」
「これは……食べたことのないものだ。最中かな、餡もいいが、生地がおいしい」
「武者返し、というお菓子です。幻想郷から遠く離れた地の、地産品です。たまたまこちらに流れたのを、ある菓子職人さんが真似して作ってくれたんです」
「そうか。いや、これはうまい。歯ごたえのある生地と中の餡の調和がすばらしい」
「気に入ってくれて、よかったです」
「茶も合うな」
慧音の手が伸び、盆から湯呑をさらう。
「ありがとう、阿求殿。本当を言うと、頭の芯まで疲れていた。もう立ちあがりたくないほどに。でも、元気が出た」
「いえ、私は何もできませんから、このぐらいは」
「そんなことはない」
「いいえ」
阿求は首を振る。
「私が不甲斐ないせいで、退魔師の方は、精神を……」
「私にだって止められなかった。阿求殿、あなたは、自分が動いても大丈夫な状況になるまでじっと我慢をし、動けるようになったらすぐに医師を呼んだ。冷静に物事が見えているし、他人を思いやることもできる。正直、驚いたよ。会う前はまったく違う人物を想像していたからな」
「どういう風に思われていたんですか」
「傲慢な人間。転生の術をさも特権のように振りかざしてふんぞり返った人間」
「はあ」
「千年の知識を持っているのに、精神はいつまでたっても子供のままな人間……まあ、私の思い込みが多分にあったのは事実だ。謝る」
そういって、慧音は頭を下げた。
「そ、そんな、ちょっと待って、頭を上げてください」
阿求は前かがみになって、慧音の肩を支える。
「実際、慧音さんが言われる通りなんです。私は確かに一度見たものを忘れることはありませんが、転生前の記憶は違います。ぼんやりとしか、思い出せないんです。何もない原っぱに家を幻視したり、はじめて出会う使用人に、遠い昔の誰かの面影を重ねたり、はじめて感じる風に懐かしさを感じたりは、します。けれど、何もわからないのです。そのひとが何を考えているのか。何を思ってそういうことをしているのか。けれど皆は、私を御阿礼の子と呼びます」
慧音は武者返しをもうひとつ開けた。
「あなたも食べるか?」
「はい」
慧音は壁にかけてある折り畳み椅子を取って、阿求の前で広げる。阿求は椅子に座って、残った武者返しを開けた。
「まあ、キツイかもしれないな、当主の重荷というのは」
阿求は小さな首を横に振る。
「それは、いいんです。楽では、ないけれど……誰もが、何かを背負っているのだと思います。それは当主だろうとなんだろうと、関係ない」
さくさくと、武者返しを口に入れていく。
「そうかもしれないな」
「私が辛いのは」
そこで阿求は口を閉じた。何と言うべきか考え、結局何も出てこないようだった。
「慧音さん、上白沢家は稗田家とは別に、歴史書を編纂していると聞きました」
「ただの手慰みだよ……と、いうことになっている。幻想郷の正史を紡ぐのは稗田家の役割だ。それは妖怪や、果ては閻魔にまで認められているものだ。誰の後押しもない上白沢家が、分不相応にも稗田家の使命を奪い、歴史編纂に手をつけているという事実は、あってはならない。あっていても、それは日記のような、個人の趣味の範囲内でなければならない」
「幻想郷縁起は、幻想郷の正史ではなく、人間の読物です。人間にとって都合のいい解釈で編まれた書物に過ぎません」
「書物とは常に、誰かにとって都合よく書かれたものだ」
「趣味的な日記と、正式な歴史書の境目はどこにあるのでしょうか」
「白黒を無理につけても、楽しくないと思うな。ただ、上白沢家がやっていることに関して言えば、あれは趣味じゃない。儀式の一環だ。供物だよ」
「供物?」
「そう。ハクタクへの供物だ」
「ハクタク……」
「ハクタクは歴史が好物なんだ。定期的に私たちが書いたものを供えていれば、大人しく祀られていてくれる。百年でも、千年でも」
「ハクタクを、祀っていらっしゃるんですね」
その名は知っている。知ってがいるが、慧音が口にするその名は、阿求が書物で知っているものとは何か違うようだった。
「手慰みというのは私の偽らざる本音だ。悪い意味ではない。むしろいい意味だ。母や祖母や、もっと上の先祖たちがどう思ってやってきたのかわからないけれど。歴史を調べ、自分なりのやり方でまとめるのは、楽しいぞ? 御阿礼の子なら、わかるだろう」
「またそう言う……」
「いいじゃないか。どうせその立場から逃げることはできない」
「まあ、そうですが」
阿求はため息をつく。
「私は、楽しいと思ったことはありません」
「忘れているだけかもしれない。先代や先々代の記憶を。書く、愉楽を」
「私はただ、忘れてほしくないから、書くだけです。御阿礼の子は、幻想郷縁起を書かなければ、誰からも思い出してもらえなくなる」
「たいがいの人間は、そうだ。自分を知っていてくれる人が皆死んでしまえば、誰もその人を思い出すことはできない」
「でも、立派な書物を書き残したり、大きな建物を建てたり、世の中の仕組みを変えたりして、歴史に名を残している人はたくさんいます」
「私たちは、その人自身を覚えているわけじゃないさ。その歴史の跡を見ているだけだ。みんな、その人そのものは忘れているよ」
「わかっています。でも」
「あなたも、そうなりたいのか」
「そうじゃなくて」
阿求は最後の武者返しを半分かじって、すぐに残りも口に放り込んだ。
「私は、誰かにでいい、ずっと名前を覚えていて欲しいだけです」
「贅沢だな。だが、そのくらいがちょうどいいかもしれないな」
「慧音さんは、どうして書くんですか」
「私か? 忘れたくないからだ。家族や友人の性格、職業、生い立ち、嬉しかったこと悲しかったこと、上白沢家がどうやってできたのか、幻想郷がどうやってできたのか、この世界がどうやってできたのか、はじめははっきりしていたものが、だんだんおぼろげになっていって、誰も思い出せなくなる。そんなことは耐えられない。できることなら、この世で起こったあらゆる出来事を、私は記録にとどめたい」
阿求は圧倒された。そして、自分の心の内で、小さな火が灯るのを感じた。今までにも、この感覚がまったくなかったわけではない。冷静に、客観的に書かなければならないと思いつつも、文章の端々に自分の今の感情をたたきつける、あの快楽。それを、この年上の少女は自覚的に追い求めている。あけすけに、ためらいなく。
「あ……あなただって、贅沢じゃないですか。何を言っているんですか、妖怪でも神様でもないのに、この世で起こったすべてだなんて」
「できることなら、と言っただろう。ただの人間に過ぎない私にそんなことができないのは百も承知だ。それでも、生きている限りは、そこに近づいていきたい」
阿求は感嘆のため息をついた。何か、慧音に言いたかった。今何か言っても、ちっぽけな賞賛か、他愛ない嫉みにしかなりそうになくて、言えなかった。
「さて、それじゃあ私はそろそろ休ませてもらう」
慧音は椅子から立ち上がり、書庫の脇に畳んである毛布にくるまった。
「あなたももう寝るのだな。朝から色々としなければならないことがあるのだろう?」
「そうですね」
阿求は書庫の隅から、別の毛布を運んできた。
「おい、私の言うことが聞こえなかったのか」
「聞こえましたよ。早めに休んでおかないと、体力が持ちそうにありませんから。騒霊退治」
「行くのか?」
「当然です。依頼者には、その依頼の完遂を見届ける義務がありますから」
「……まあ、足手まといにならないように頼む」
「失礼な」
阿求は毛布にくるまり、慧音の隣に横になった。くるりと背中を向ける。心地よい沈黙が書庫に降りた。慧音は急速に気が緩み、たちまち眠りに落ちた。
***
ねえ、なかったことにしようよ。
私が代わりのものを書くから。
***
覚醒した時、そこは書庫ではなかった。身にまとっていた毛布もない。慧音の隣では、阿求がぼんやりとした様子で目をこすっている。
大粒の雪が、額や頬、まつ毛に降りかかる。周囲には、幻想郷ではあまり見慣れない建物が並んでいる。日本家屋ではない。瓦や藁で拭かれた屋根ではない。木の骨組みではない。スレート葺きの屋根に、煉瓦や石の壁。建物はどれも、高い。細長い窓には、唐草模様が施されている。装飾的な尖塔は鋭く天を指している。遠くに時計台が見える。慧音はこんな街並みを本の中で見たことがある。欧州と呼ばれる地域だ。
雲は低く垂れこめている。日が暮れようとしているのか、夜が明けようとしているのか、わからない。この世界の光は、増えも減りもしない。ただ延々と、雪が降り続ける。
「へえ、本当にすごいわねえ、あなた。こんな術を使うなんて、ひょっとして魔法使い? それとも実は名の知れた妖怪とか?」
手放しの感嘆の声が、背後から聞こえる。慧音が振り向くと、少女騒霊が浮かんでいた。
「私は魔法使いではない。妖怪でもない。れっきとした人間だよ」
「あらぁ、そうだったの。変ねえ」
「何もこの街を再現したのは私ではない。私は、そうするように歴史を唆しただけだ」
「よくわからないわ」
「わからなくていい。お前が見たいのはあれだろう」
慧音が暗闇を指差す。そこから、ひとりの金髪の少女が現れた。足元はおぼつかない。腕に籠をさげている。少女が歩くたびに、籠から音がする。
しゃり、しゃりん、と。
「鈴はいりませんか?」
しゃりん、と音を立てる。
「鈴はいりませんか? 魔除けに効きますよ」
少女の声は凍えている。空気は身を切るような冷たさだ。阿求は自分の両肩を両腕で抱きしめた。カナの表情は、固まっていた。唇はきつく結ばれ、目は、鈴売りの少女に釘付けになっている。カナ・アナベラルと瓜二つの、少女に。
少女はまわりに向かって懸命に声をかけるが、誰も彼女に手を差し伸べる者はいない。客を呼ぶ声は切れ切れになる。少女は疲労困憊し、道端に座り込み、見知らぬ家の壁に背中をもたせかけた。
「慧音さん、これは、幻覚なんですか? あの鈴売りは誰かに話しかけているようですが、相手はどこにもいない。建物にも灯りがついていない。それにしても、あの子だけは、あまりに真に迫っています」
「そうだな。歴史というのは、ひとが夢見る幻覚かもしれない」
慧音の言葉に応えるように、雑踏が生まれ、窓には灯りがともり、たちまち街は喧騒で埋め尽くされた。その中で、もう、少女の声は聞こえない。道端で、誰からも顧みられず、ひとりでいる。
「じゃあ、これもあなたの能力……」
街が薄められていく。波紋に揺らぐ池の鏡像のように、街が崩れていく。波紋が収まった時、そこは屋内だった。広く、うるさく、暗い。熊のように巨大な機械がいくつも鎮座している間を、ベルトコンベアーが縫っている。怒声がした。少女は監視員に殴られる。
「あの子は生まれつき不器用だった。手作業もそうだし、人との付き合いもうまくできなかった。馬鹿にされ、蔑まれ、外でひたすら鈴売りをさせられた」
慧音の言葉を聞きながら、カナは歯ぎしりをしている。それなのに目は虚ろだ。
また、場面が変わる。
家と家の間の狭い路地。そこに降り積もった雪の絨毯の上で、少女は眠っている。この寒空の下、眠るということは、その先に待つ結果はひとつしかない。
「こんなの、私じゃない!」
甲高い音が爆発した。明らかに敵意を持った音の槍が周囲へばらまかれる。
「産霊・ファーストピラミッド」
慧音と阿求を、半透明の四面体が囲い込む。音の攻撃はそこで弾かれる。防御壁はびりびりと震える。その振動音だけでも、阿求は頭が痛くなってきた。
「あの子は、お前じゃ、ない!」
慧音が叫ぶ。
「お前は、あの子の亡霊ですらない。お前はあの鈴だ。音だけの存在だったんだ。そのまま歴史から消えていく運命の、ただの音。それが生き残ったのは、物語になったからだ。アンデルセンは、マッチを売り歩く、貧しい少女の物語を書き記した。その話は世界中で受け入れられた。日本にも翻訳を通じてその物語は入ってきた。虚構とは、真実が積み重ねられてできあがる。〈マッチ売りの少女〉の中に、鈴売りの少女の歴史は組み込まれていた。鈴の音は物語とともに日本を訪れ、やがて忘れられ、この幻想郷へ流れ込んだ」
音の波状攻撃が止む。かわりに、雪の量が増えた。雪の一粒一粒が、慧音の作り出した防壁を、じわじわと侵食していく。
「私はこの雪を知っているの。ここで降っている雪とは違う。もっとさらさらしている」
カナは言う。
「ここと欧州では風土が違う。お前が知っている雪は、幻想郷のものではなかったのだ」
「だって、かわいそうだもん!」
もう、理屈ではなかった。カナは倒れた少女のもとへ飛んでいく。
「こんなに寒そうにして。こんなに小さいのに。こんな……こんな空っぽな結末なんて、ないよ!」
カナは少女の上半身を抱え起こす。
「つまらないわよ、笑わないなんて、歌わないなんて、楽しまないなんて。こんなにたくさん鈴があるのに。綺麗な音、立てているのに」
雪は激しさを増す。慧音の防壁は錆び果てたトタン屋根のように、今では雪を素通しだ。雪に触れるたびに、体から力が失われていく。音のような即効性のある攻撃ではないが、この雪は確実に力を奪っていく。
「慧音さん、いいんですか?」
隣にいる阿求の声を聞き、慧音は意外に思った。阿求も雪の攻撃を受けているはずだが、声にまだ張りがある。
「何がだ」
「これは、歴史なんでしょう。そこに、今の私たちが入っていったら、何か間違いが起こるのでは」
カナは鈴売りの少女を抱え起こし、肩を貸して、歩き始めた。通行人にぶつかるたびに、大きくよろめく。自然、道の端の方を歩くようになる。
「歴史に過ちなどない。できあがった姿そのものを歴史と呼ぶだけだ。早い話が、今カナが何かしようとしても、全体の歴史は変わらない。変わるのは、あいつ自身の歴史だけだ」
カナは懸命に少女に話しかける。
「起きて、ねえ、起きて。私と話をしようよ。そうしたら、楽しいこといっぱい聞かせてあげるから。ここみたいに寒くないところの話。川で泳げるんだよ。私たちが入ると、川が冷たくなるからやめろって河童たちに言われるんだけど。山に入ると色んな眺めがあって、楽しいよ。うるさく私たちにちょっかいかけてくる奴もいるけどね、天狗みたいに。そういうときはいきなり大声出して、相手がびっくりしている隙に逃げちゃえばいいのよ。私たちに関心を持ってくれるひともいるわ。そのひと科学者だから、どうしても私たちの存在を科学で証明したいらしいの。馬鹿よねえ。いや、頭いいし、強いんだけど、融通が利かないのよ。それからねえ、神社があるわ。私が遊びに行ったらいつも嫌な顔するんだけど、お茶をちゃんと出してくれるのよね。変に暴れない限りは、話相手になってくれるわ。意外とあそこの巫女、色々経験しているから、話していると楽しいわよ。それからね、よく私が行くところは……」
カナは、歩みを止めた。唇も止めた。
私。
たち。
今、窓に映っているのはひとりだ。
カナ・アナベラルが、ぼうっと、窓を眺めている。窓の向こうでは、大きな暖炉がある部屋で、人々が集まっている。恰幅のいい女がいる。その女に似た顔の、世代の違う男女が五、六人、まわりを囲んでいる。皿に料理を取り分けたり、隣に話しかけたりで忙しそうだ。髭面の痩せた男は、ほんの少しの笑みを浮かべたまま、黙ってトランプを繰っている。干し柿のような老人が安楽椅子でゆらりゆらりと揺れている。子供のひとりが何か言うと、まわりが一斉に大口を開けて笑った。
ああ。なんて羨ましい。
カナは理解する。これを見ているのは私だけだ。
迷い込んだ路地で、ふと木枠の窓から中を見る。自室と同じ、畳敷きの部屋。自室よりもっと狭い。人間の数はずっと多く、十人近い。大人はほとんどが赤ら顔で、笑いながら、無遠慮に肩をたたいたり、手で押したりしている。徳利と猪口を手に持ち、差しつ差されつ、話が途切れる様子はない。子供は走り回っている。襖が開き、女が料理を持ってくると、場は一層盛り上がる。火が焚かれ、肉が焼ける、乱雑で濃厚な匂いが立ちのぼる。
ああ。なんて羨ましい。
阿求は理解する。これを見ているのは私だ。
私とカナの目が一緒になっている。私とカナは同じものを見ている。同じことを考えている。いや、ということは、そもそも、カナとは……阿求とは……
「待て、阿求」
肩をつかまれ、阿求は後ろに引っ張られた。そのままの勢いで仰向けに倒れこむ。地面は深く雪が積もっているので、全然痛くない。
「……何するんですか」
倒れたまま、阿求は呟く。そこに糾弾の色はない。ただ単に尋ねた、といった感じだ。
「いや、お前がドツボにはまってそうな顔をしていたから」
「普通に考えていけばそうなります。あの子は、私の分身です。もしくは、私があの子の分身です。」
少女を連れたカナは、闇の街の奥へ消えていった。
「違う。お前は私の話を聞いていなかったのか。カナの正体は鈴の音。アンデルセンの童話にひっついて幻想郷に流れてきた。以前から幻想郷にいたし、そいつを知っている人間も妖怪もたくさんいる。お前は、説明するまでもない。稗田家、御阿礼の子だ。稗田阿求はカナ・アナベラルじゃない」
「でも、あの子は、あまりに、私に似ています」
「お前が今見た光景……それは正確な事実ではないかもしれんが、何か大切な真実を現す光景だったのだと思う。私の能力では、それを見ることはできない。真実を射止める目は、御阿礼の子しか持てない」
「あの光景は見覚えがあります。細部は違ったかもしれませんが、ああいう感情を私は強く抱きました」
「それがカナの見たものと重なって、カナに影響を与えたのは確かだ。幽霊は人間よりも、精神面の影響が他の面に出やすい。強さや性格だけでなく、時には外見すら影響を受ける。カナからすれば、急にいい餌場が見つかったから、嬉しくなって稗田家で遊んでいただけだ。あいつに害意はない。まあ、害だがな。けれど、お前とカナは似ていないよ」
「やっぱり、私のせいで、稗田家の人達が被害を受けたんですよね。心を破壊されたんですね」
「まあ、そういうことになる」
否定しても仕方ないと思い、慧音はうなずいた。阿求は拳を強く握る。
「私が無意識のうちに、家人に害意を抱いていたということですね。ええ、認めますよ。私は御阿礼の子と言われ、何か途方もなく大きな責任を抱かせられるのが、嫌で嫌で仕方なかった。いいんですなんて、昨日言ったけど、そう言ってみたところで苦しさが減るわけじゃない。私の痛みは私だけのものです。なぜ誰もかれもが、私にすべてを丸投げするのか、理解できませんでした。こんな苦しみを無神経に私に押し付けるなんて、みな、余程鈍感で、頭が悪いのだと決めつけました。いなくなってしまえばいい、と思ったことだってあります。そうです、騒霊を呼び出し、家人を傷つけ、ひと時でもいいから責務から逃れたいとそう思って私がやったんですよ! 何もかも私が」
慧音は阿求の頭を両手で挟み込む。有無を言わさず頭突きした。鈍い音がした。阿求は涙に頬を濡らしながら、頭のてっぺんを両手で押さえた。
「っ痛……」
「少し頭を冷やせ」
「熱くなりました。たった今」
「自業自得だ」
阿求は涙を指でぬぐう。その涙は、慧音に頭突きされる前から、既にとめどなく流れていた。慧音は阿求を両腕で抱きしめた。胸元に阿求の頭を寄せ、髪を撫でた。
「心配しなくていい、心配しなくていいよ、阿求。他人の痛みに涙を流すお前が、そんなことを考えるわけがない。もちろんついはずみで、乱暴なことを考えてしまうことは誰だってある。私だってある。でもね阿求、それで、お前の普段の気配りが嘘になるなんてことはないんだ。お前は、自分に向けられた敬意に対して、ひとつひとつ応えようとした。そうやって、背筋を伸ばし過ぎた。それで少し疲れてしまったんだ。そこにちょうどカナが現れた。それだけの話だ」
話しかけながら、ゆっくりと、一定のリズムで阿求の背中を撫でてやる。阿求は次第に大人しくなる。嗚咽の間隔が長くなる。
「落ち着いたか」
「はい」
「よし、それじゃあ」
「待って」
背中から腕を離そうとする慧音の動きが、ぴたりと止まる。阿求は頬をかすかに染めた。
「そ、その、もう少し、できたらこのままで……」
「ああ、わかった」
慧音は生真面目にうなずき、そのままの姿勢でいた。阿求は安心したように深い息を吐いた。
「私、転生するっていっても、結局その生で作った人間関係は、全部ご破算になるんですよ」
「ああ」
「それでも、ゼロからまた始めるのがどんなに辛いとわかっていても、転生のたんびに、誰かと知り合おう、つながろうと、するんです」
「するだろうな、きっと」
「無駄なことかもしれませんが」
「そんなことはない」
慧音は、はっきりと言った。その大きく、温かな断言に、阿求は再び涙を流した。
「慧音さん」
慧音の手のひらを背中に感じながら、阿求は言う。
「私と、友達になってくれませんか?」
阿求の背中は、温かかった。
紫色の桜が、低く垂れこめた雲のように、頭上一面を覆っている。川の方から、生ぬるい風が吹いてくる。慧音はふと、歩みを止めて振り向いた。後ろから、阿求がついてきている。肩で息をしている。
「少し、休もうか」
阿求は立ち止まると、息を整えながら、首を振った。
「いえ……まだ、大丈夫……です。行きましょう」
「息があがってるじゃないか。いいよ、休もう。無縁塚についたことはついたのだから、もう急ぐ必要もない」
人里から離れたところに、無縁塚と呼ばれる人気のない野原がある。親類縁者のない者、身元の分からない者は、ここに葬られる。
「昼間っから、何か色々と見えますね」
阿求は無縁塚全体を見渡しながら、呟いた。人魂がここかしこを漂っている。
「この中から、退魔師の方のを見つけるんですよね」
「どうしてそう途方に暮れたような顔をするんだ。大丈夫、向こうだって、慣れた匂いを持つ者がいればそっちに行こうとするはず。私とお前、ふたりも知った匂いがあるんだ」
「私たちに気づいたとしても、来てくれるんでしょうか。そのまま逃げてしまいそうな気もします」
「まさかぁ、そんなことないわよ。自分の主人が探しているのだもの。嬉しくなって、飛んでくるわよ。きっと」
陽気な口調で、二人の間から割って入る。阿求はその少女をじろりと睨んだ。
「騒霊、あなたが元凶なのよ」
「悪かったと思っているわ。だからこうして、魂切って飛んでっちゃった魂を、連れ戻す手伝いをしているんじゃないの」
まったく悪びれている様子はない。人間とは、そもそもものの感じ方がズレている。慧音はそこを深く突き詰めるのはやめにしていた。どうしても理解し合えない他者というのは存在する。この騒霊とは、一部では通じ合った。だからといってすべて通じ合う必要はない、と慧音は考える。
「ああ、それにしてもここは居心地がいいわぁ。みんなふわふわして、気楽そうでいいわね」
「同類だからでしょう」
「失礼ね。同じ霊でもこのひとたちは幽霊。私は騒霊。一緒にしないでよ。お互いに失礼だわ」
カナは機嫌を損ねたらしく、ふわりと浮かんだかと思うと、見えなくなった。姿を消す間際、ガラスを引っ掻くような不協和音を立てる。
「やはり、霊の性格はわからんな」
眉をしかめて、慧音は呟いた。
「そうですね。でも、どこかで通じ合ったからといって、その他全部も理解しあえる、というわけにはいきませんもの。人間と人間ですらそうなのに。ましてや人間と妖怪では」
慧音は驚いて、頭ひとつ背の低い少女を見た。
「どうしました?」
「いや、うん……まあ、その通りだな、と」
同じ瞬間に同じことを考えていたと告げるのが、なぜか恥ずかしく、慧音は言葉を濁した。
「幻想郷縁起はそういうスタンスで書いています。理解できないものを無理にわかろうとするのではない。かといって、ありのまますべてを描ききろうとしているわけでもありません。ただ、書く」
「それは、ありのままに書くのとどう違うんだ」
「わかりません」
阿求は困ったように舌を出した。慧音は胸をつかれた。その簡単な言葉の奥に、気の遠くなるような試行錯誤がどれほどあったことか。
「わかりません、が、行きつく先が、ありのままに書くことでないことは、わかります。そうじゃないんです」
阿求は、道端の土饅頭の前でしゃがみこんだ。名も知れぬ死者が眠るその土に、指先で触れる。
「ハウツー本なんです。幻想郷にいる人間が、素敵で愉快な生活を送れるような」
ちりちり、と音を立て、阿求の指先に何かがまとわりついている。ほの白い、糸のように細長いものだ。縁無く塚に眠った者が、幻想郷の歴史を記す者に何かを訴えているようだ。
「ハウツー本?」
「実用書ですよ。その蔑称。家の建て方だとか、料理の仕方、算盤の弾き方、売れる詩の作り方、占いの仕方、服の縫い方。百年、千年残るものではない。五年もせずに人々から忘れ去られてしまう本。けれど、作られて一年間は、みなから必要とされる本」
「お前は、忘れられたくないのだろう」
「そうです」
霊魂の糸は、阿求の指を這い、袖にもぐりこんでいく。
ぶる、と阿求の体が震える。慧音は唇を噛んだ。今、阿求の体に、さざ波のように快楽が広がっていったのがわかった。まるで慧音自身がその快楽を感じたかのように、理解できた。そこは慧音の届かない領域だ。千年積み重ねられた御阿礼の子の肉体と、歴史・記憶との戯れだ。
カナのときにしたように、慧音は歴史を再現することができる。だが、歴史のぬくもりを直接肌で感じたことはない。文字や映像を通じて、知ったり、見たりして想像するだけだ。それなのに阿求は、そういった一切の蓄積なく、じかに歴史に触れていた。慧音の腹で、抑えがたい感情が渦巻く。
「幻想郷縁起は、千年続くハウツー本なんです。それは、この世界のどこにもない本なんです」
「わ……」
慧音は、反射的に言葉が迸り出るのを抑えた。それが、言っていいものかどうか、判断に迷った。心でなく、体が押しとどめた。
〈私にも書かせてくれ〉
〈お前と一緒に、書かせてくれ〉
ひょっとして、阿求はあっさりうなずくかもしれない。ハウツー本云々の話をしたこと自体、そういう意図があるのかもしれない。だが、阿求ではなく、稗田の御阿礼の子にそれを言うことが、正しいことなのか、慧音はわからない。おそらく、正しくは、ない。稗田家が黙ってはいまい。だがこの場で慧音を止める者はない。
慧音を止められるのは、慧音だけだ。
慧音も土饅頭の前にしゃがみこんだ。土の塊に指を触れさせる。そこから何ものぼってこない。能力を使えば、この土饅頭の下に眠るものの過去を見ることができるだろう。だがそれでも、阿求と同じものを感じることはできない。土饅頭の向こうに、牡丹が咲いている。慧音は牡丹に手を伸ばした。まるで水中から物を拾うように、牡丹の花を手ですくいとった。もとあったところには何もない。今、牡丹の歴史は慧音の手のひらの上にある。そうして喰いとった歴史を、阿求の頭に載せた。
「あっ……」
阿求は何をされたのかわかったのだろう、髪に手をやり、指先でそっと花弁に触れる。
「お前には、このくらい華やかな花が似合うよ」
阿求は頬を赤らめ、うつむいた。
「ありがとうございます。……嬉しいです、こういう風に、ひとから何かを贈られることなんて、なかった」
目の前で悦びを噛みしめられ、慧音はどうしていいかわからなかった。頭に血が上っているのか、体中が熱い。
「慧音さん。二十年後、私はもういないと思います。でも、あなたは、この」
「そういうことを言うな」
慧音は阿求の頭を両手で挟む。阿求はびくりとする。慧音はそのまま、頭突きをせず、阿求を抱きしめる。
「今、お前は生きている。お前の歴史を刻んでいるんだ。それは、誰のものでもない」
「そうです、歴史は誰のものでもありません」
無縁塚の空気が変わった。温度や風向きが変わったわけではない。色そのものが変わった。黄昏色に染まっていく。紫の桜の花が、急に何倍にも増えたようだった。この地一帯が、此岸から切り離されていく。そして彼岸へ航る。
「もちろん、当人のものでもありません。歴史は、何かを裁く時にひもとく、大切な資料なのです。妄りに捏造してはいけない。もちろん、食するなどもってのほか」
小柄な少女が、紫の花霞の向こうから姿を現す。小柄といっても、阿求よりは大きい。他を威圧するような、仕立ての立派な紺色の制服に身を包んでいる。手には、厳めしい字がびっしりと書き込まれた板を持っている。それが悔悟の棒と呼ばれることを、慧音は知識としては知っている。その棒を持つ者が、何者であるのかも知っている。物語や言い伝えに聞いたこともある。
だが慧音が直接会うのは初めてだ。
「幻想郷の閻魔……ヤマザナドゥ」
少女は悔悟の棒を慧音につきつける。
「上白沢慧音。そう、あなたは少し歴史に淫しすぎる。あなたは快楽の赴くがまま、歴史を取り消し、すり替え、都合のいいよう書き加えます」
「そんなことはしない」
「今、そうしていなくてもいずれそうするかもしれません。それは幻想郷に対する冒瀆です」
閻魔の視線を真っ向から受けると、慧音は身動きが取れなくなった。辛うじて唇を動かす。
「まだ起こってもいない事件をもとに、あやふやな理由で、人間を裁くおつもりですか」
「理由? 理由の質、多寡、大小はもはや私に何の影響も及ぼしません。私は、このままではあなたに重い罰が下るであろうことを、警告しに来たのです」
それから、急に、年端もいかぬ少女のような微笑みを浮かべた。
「ちょうど休暇でしたので」
笑顔を見せられても、慧音の緊縛は解けない。冷たい汗が、後から後からわき出る。服を内側からじっとりと濡らす。慧音の内側に、かすかに、閻魔の力を見たい、という欲望があった。慧音はこれまでに、何度も妖怪と戦ってきた。負けたことはあまりないし、ましてや深手を負ったことなどほとんどない。それは多くの場合、カナ・アナベラルとの戦いがそうであったように、相手の攻撃を防ぎ、相手の歴史を暴き、戦闘不能にしてしまう場合がほとんどだったからだ。相手を傷つけ、屈服させる悦びを慧音はあまり理解できない。だが相手を理解し、把握し、何か重要な変化を与えることに関しては、かなり興味を持っていた。
この閻魔のことを、知りたい。できることなら何か変化を及ぼしたい。
もちろん戦わず、話したっていい。たとえば阿求と戦いたいとは思わないが、阿求を知りたいとは思う。知る方法はいくらでもある。しかしこの閻魔は、話すだけではいつまでたってもこの調子だろう。ならば、いっそ刃を交えるか。彼我の力量の差は一目瞭然、たちまち粉砕されてしまうだろうけど、閻魔の何かを知られるかもしれない。
「あなたも、貪欲な人間ですねえ」
無縁塚全体が、ますます此岸から遠ざかっていくように、黄昏色は濃くなっていく。慧音と阿求の左右に、光の壁が出来上がる。モーゼが開いた海の中にいるようだ。
「導線……」
阿求がぽつりと呟く。細い薄紫色の線が、地面を走っていく。それは慧音の足元を過ぎ去り、はるか後方へ伸びていく。不吉な線を見送り、再び慧音が閻魔の方を振り向く。
「う……あ」
かすれた声しか出ない。閻魔は先程から姿勢を変えていない。違うのは、左右に広がる光の壁と、阿求が〈導線〉と表現した線、そして閻魔の背後に仰々しく展開される後光のようなもの。
「審判・ラストジャッジメント」
おそらく一瞬で消し飛ばされる。〈ファーストピラミッド〉も〈三種の神器 鏡〉もひとたまりもないだろう。
突然、光は消え去った。導線も後光も消えた。
「では私は残りの休暇を消化するため、帰ります」
閻魔はあっさりとふたりに背を向け、歩いていく。
「ま、待ってください閻……」
「映姫様!」
阿求の縋るような呼び声に、閻魔は歩みを止めた。半身だけ振り返る。
「稗田の……あなたはこんなところで何をしているのです。何のために地獄での下働きを百年間勤め上げたのか、よく考えるように。御阿礼の子の肉体は、あなたひとりのものではないのですよ」
冷たく言い放つ映姫の言葉を、阿求はうなだれて受け止めた。
「わかって……います。義務は、果たします」
「さあ、本当でしょうか。それはあなたのこれからの行ない次第です」
視線を阿求から外し、何事もなかったかのように、花びらがつくる霧の中へ消えていく。
「退魔師の魂は、もう稗田家に帰らせました。こんなところで時間を潰していないで、もっと限りある生を有意義に使いなさい」
閻魔の声も、それきり聞こえなくなった。
***
のそりと、白い影が動く。頭に二本の角を生やしている。顔は、人に似ている。
白沢だよ。
父は慧音にそう言った。
「ハクタク?」
獣が動いたと見えたのは錯覚だった。だがそれほどに、屏風に描かれた白い獣は真に迫っていた。初めて入る父の書庫は、家の最も奥まったところにあった。光があまり入らず、黴臭く、畳も湿気で柔らかくなっていそうだ。それでも不快ではない。壁のほとんどを埋め尽くす、そびえ立つ塔のような書棚に見下ろされ、慧音は不思議な安心感に包まれていた。
「カミシラサワ。もう、漢字で書けるね」
幼い慧音はうなずき、空中に〈上白沢〉と書いた。慧音の指から漏れる青白い染料のようなものが、そのまま宙にとどまる。慧音が指を離すと、宙に浮かんだ字形は少しずつ崩れていく。
「ハクタク」
父は、慧音の残した〈白沢〉の部分を指差した。
「我が家の、守り神だ」
慧音は正座の姿勢から立ち上がり、屏風の前に移動し、そこで正座した。その白い獣には、目がたくさんあった。顔だけでなく、体にもついていた。体の方の目に指を伸ばすと、その目が瞬きした。
「おお」
父の声が後ろで聞こえた。白い獣はのそりと屏風から出てきて、慧音に人に似た鼻面を寄せた。怖さはまったくなかった。今まで実際に見たり図鑑で見たりしてきたどの獣よりもグロテスクだったが、愛嬌のようなものを、慧音は感じた。慧音が、獣の額にある閉じられた目をなぞると、獣は心地よさそうに微笑んだ。
数年経つと、その屏風は逆さになって、母の亡骸の傍らに立った。
逆さまになった獣は、慧音がどれだけ呼びかけても外に出ようとはしなかった。ただ面倒そうに、屏風の中から慧音を見つめ返すだけだった。
***
黒板に白い文字列が続く。
「ポツダム宣言を受諾し、日本は降伏した。アメリカの占領時代の始まりだ。ここでGHQが日本にやってくる。アメリカは日本の軍備を解体していく方向性だったが、途中で方針転換、共産主義に対する防波堤にしようとした。〈首長〉天皇を生かし、財閥を生かした。一から作り直すよりもそっちの方が楽だからというのもある。きっかけは冷戦体制だ。なにより1950年の朝鮮戦争……」
「先生、しつもーん」
子供のひとりが手を挙げる。
「なんだ」
「GHQてなんですか」
「連合国軍最高司令官総司令部の略だ。ダグラス・マッカーサー司令が有名だな。なんだその顔は、知らないのか? ううむ、先生、前に説明したと思うのだが。主な政策は、第二次世界大戦時日本の軍事政策に協力的だった者をクビにしたり、勝者の歴史に傷がつくような物事を喰ったり、さっきも言ったように反共の防波堤にしたりしたことだ。文字の解体も目指したのだ」
慧音は黒板に大きくGHQと書く。
「これはローマ字だな。他は先生、この黒板に漢字やひらがな、カタカナを書いたな。GHQはこれをすべてローマ字にしようとした。日本の識字率が低いのは、漢字やひらがななど、複雑な文字がたくさんあるからだ、だからあんなマヌケな戦争を起こしたのだと考えた。志賀直哉すらこれに賛成した。もちろんこれは間違いだ。だいたい、戦前から既に日本の識字率は高かった」
「先生、どれぐらい高かったんですか」
「超高かった。戦後すぐに二万人ほどランダムに選んで試験したそうだが、そのうちの97%は普通に字の読み書きができたそうだ。もちろん、この幻想郷の識字率はもっと高い。人間だけに話を限れば、だが」
「先生、しーつもーん」
「なんだ」
「なんだか知らないひとがそこに浮いています」
教室の宙空を指す。エプロンドレスの少女が、上下逆さまになって空中に正座している。少女はにこにこしていた。
「おもしろいわぁ、先生。もっと続けてよ」
「……学ぶ意欲がある者には、もちろんよろこんで教えるよ。ただ、頭と足を所定の方向へ配置し直せば、だ」
「はーい、先生」
カナは手をあげて、ひっくりかえり、机についた。机の数はちょうど人数分だったはずだが、なぜか彼女の分があった。あの机も幽霊の一種だろう、と慧音は思い、特に指摘はしなかった。
「暑いわねえ、先生」
授業が終わった後、カナが慧音に話しかける。
「幽霊が暑いなんて言うな。みんなを涼しくしてくれないのか」
「幽霊だって、暑いものは暑いの。ねえ、今日も阿求ちゃんのところに行くの?」
「まあな」
「いいわねえ、仲良くって。私はいつもすげなくされるの。音出しても無視されるのよ。あんまり大きい音立てたら、またあなたが飛んでくるから、控えめにしてるんだけどなあ」
「カナ、お前の美点と欠点は、空気を読もうとしないことだな」
「最近は飽きたから、騒音も全然立ててないわ」
「じゃあ大丈夫だ。そのうち向こうから話しかけてくるよ」
慧音と阿求が出会って半年が過ぎた。夏の盛りだった。
ふたりはそれぞれにやらなければならないことの合間に、時間を作って顔を合わせた。そうして、一緒に本を書いていた。それは幻想郷縁起とも、上白沢家が書く歴史書とも違っていた。身の回りで起こった日常の出来事を書くことが多いので、日記のようなものだ。その出来事から話題を広げて、自分たちの考えたことを書き記しもするから、随筆ともいえた。といっても、運恵橋が改築されただとか、星見の丘で人間と妖怪がわりと激しい弾幕勝負をしただとか、そういった日常の出来事を追っていくと、どうしてもふたりの性格だとその先にある、幻想郷に住む人間の生活や、妖怪の生態にまで考察が行く。突き詰めようとする。どのようにしてそこに人間が住み始めたか、どのようにしてその妖怪が現れてきたのか、問題は、常に歴史に絡んでくる。好奇心の赴くままにふたりは調べ、書いた。
逃げ水が人里のところどころで見られる、暑い日のことだった。
籤引川原の事件を、ふたりは書きとめていた。籤引川原は、かつては里でも人気のスポットだった。上流から流れ、削られてきた丸い石が転がっている。走って遊びまわるに十分な広さがあったし、汗をかいたらすぐに川に飛び込んで泳ぐこともできた。夏は子供たちが大挙して押し寄せ、走ったり泳いだりした。ざりがに狩りもよく行なわれた。ところが一年前、ここでいたましい事件が起きた。口にすると、何か嫌なものまで一緒に出てきそうなほど、陰惨な出来事だった。子供も何人か死んだし、いまだに立ち直れない大人もいた。今、籤引川原は忌むべき場所として、幻想郷の人間の誰もが避けて通る場所になっている。様々な人間関係や、難しい病が複雑に絡まり合った事件で、全貌を知る者はいなかった。慧音と阿求はこの事件を精査した。口の重い証言者たちから情報を集め、事件の輪郭が次第に見えてくるにつれ、ふたりは後悔し始めた。慧音は、蝉の鳴き声のけたたましい真昼、額から汗を垂らしながら、墨に筆を浸して、こう言った。
「阿求、これはなかったことにしよう」
「……えっ?」
「この事件は、はじめから起こってはいなかった、ということにする」
慧音の右手が淡く光る。それは筆先を伝い、紙の上にとろりと広がる。じゅうっ、と音を立てて文字が消える。煙があがり、慧音の口に吸い込まれた。硬くて噛み切れない肉を無理に呑みこむようにして、慧音はそれを嚥下する。額にびっしりと玉の汗が浮き出る。
「慧音さん」
慧音が何かいびつなこと、やってはならないことをした、という確信だけが、阿求に残った。
「さあ、阿求。次は何を調べようか。私は、これが気になっているんだ。人里に残された、闇の跡。光さえも通さない暗闇の道筋。厄神様の通り道……」
慧音の強引な話題の変え方に、阿求は素直に従った。慧音の顔は青ざめていた。すぐにでも休んだ方がいいのは明白だった。だが、阿求が何か言えば慧音はますます精力的に仕事をこなそうとするだろう。それがわかっているから、何も言えなかった。
やがて部屋に夕日が差し込み、阿求の部屋は橙色に染め上げられた。涼風が部屋にも吹き込んでくる。おもむろに慧音は立ち上がった。
「外に出ようか」
行先はわかっていた。
昨日までは無人だった川原には、人がいた。遊び疲れた子供たちが、散っていくところだった。何人かの子供には、迎えが来ている。
「これは……」
「あの事件を喰った。ここでは、あの忌まわしい出来事は起こらなかったんだ」
「起こらなかったって……だって、現に」
迎えに混じって、呆然と立ち尽くす男がいた。襤褸をまとい、髭をぼうぼうと生やした、浮浪者のような男だった。遠目から見ても、挙動不審だった。彼は、川原をじいっと眺めていた。
「あのひとは……」
阿求は、男を知っていた。事件を調査する時に、死んだ子供の親にも話を聞いたのだ。
「あのひとにとっても、悲しい思い出は、なかったことになった」
「だって慧音、子供は、戻ってこない」
阿求は駄々をこねるような口調で、言った。
「そう。けれど、一日一日、身を削るような苦しみに耐えているときのあのひとに比べれば、今の方がまだいいんじゃないか」
「そんな。そういうことは、私たちが決めることじゃないと思う」
「そうかもしれないな。だが、今のあのひとに決められはしない」
子供と迎えの大人が去った後、空が暗くなるにつれ、男のように虚ろな足取りをした人々が川原に集まってくる。まともな格好をした者も多くいた。襤褸の男ほど挙動不審でもなく、友人や恋人と、あるいはひとりで、ただ気紛れに川原を眺めにやってきたといった風の人々もいた。だが、みな一様に、川原を眺めると呆けたような顔をした。阿求は気味が悪くなった。昼間の猛暑のせいでぐっしょりと濡れていた肌着が、急速に冷えてきた。
「慧音さん、これが、歴史を喰うってことですか」
阿求の声には、責めるような色がある。
「そうだ。閻魔様に何か言われるかもしれないな」
「そういうことじゃなくって……これで、何かが変わるんですか」
「少なくとも痛みはなくなる。思い出したくない記憶に苦しめられる、長い夜がなくなる。それは、とてもすばらしいことなんだ」
「そんなのっ! 死んだひとは、きっと忘れてほしくないと思う。残されたひとが苦しむのは、死んだひとに対する、義務じゃないの」
慧音の頭が、容赦なく振り下ろされる。阿求は頭部を襲った重い衝撃に、立っていられず、膝をついた
「お前に、残された者の気持ちがわかるものか!」
慧音が叫んだ次の瞬間、阿求の顔はくしゃくしゃになった。
「わかるもん……だって、私」
御阿礼の子は転生を繰り返す。その度に、今までつながってきた人間とも別れる。彼らは、次に御阿礼の子が生まれたときには、もうこの世にはいない。あの世にいる間は、御阿礼の子は閻魔のもとで働かねばならず、他の死者と旧交を温める余裕などほとんどない。残された者の空しさは人一倍理解している、と阿求は思っていた。
後悔に顔を歪めた慧音は、強く阿求の体を抱き起こす。
「すまん……すまん、忘れて、くれ。私は……なんということを」
慧音は歯をがちがちと鳴らした。
「すまない、阿求、すまない、忘れて……」
「いいえ、忘れません。私は、何も忘れません」
阿求は首を振った。そして、震える慧音の背中を撫でてやる。
「だから、忘れないであげてください、あなたも」
「無理だよ、忘れたいよ。私も虚ろな目をして、ぼんやりとあの場所を眺められたらどんなにいいかと思うんだ。それだって、ひとつの解決だと思うんだ」
慧音は震えたまま、その場に膝をついた。阿求は、慧音が急に幼い子供のように思えてきた。
「……それでいいじゃないか。ねえ」
阿求は無言で慧音の頭を抱き寄せ、いつか自分がされたように、その髪を指で梳いてやる。
「母さん」
そう呟いた慧音の声は今にも消え入りそうだった。日が落ち、夜が訪れた。
阿求と別れ、慧音はひとり、帰路へついていた。日は落ちたとはいえ、夏の夜はまだ明るい。店の通りも、結構な数の灯りがついたままだ。人通りも多い。いつの間にか、誰かが慧音の隣に並んで歩いていた。背の小さい少女だ。陽射し対策のためか、大きな麦わら帽子をかぶっている。寝巻のようなゆったりした服に、まったく似合っていなかった。
「さっきの、見ていたわ。籤引川原」
ぼそぼそと早口で話す。聞き取りにくい声だ。しかし慧音は、すぐに少女の意図するところを察した。
「なんのことだ。確かにさっき、私は籤引川原にいたが」
「記憶を喰った」
有無を言わさぬ、切り裂くような断定。
「解せないのは、どこまで範囲を広げているか。幻想郷のすべての人妖にまで効果を及ぼすとは考えられない。でも私は、あなたに術を受けた自覚はない。私を自覚症状のないまま術中に落とすなんて、大妖怪でもできないこと。見たところあなたからそんな圧倒的な魔力も妖力も感じられない。とすると、見る者を弄ったのではなく、見られる対象を弄ったと考えるのが妥当かしら」
少女は、慧音に話しかけているのではなく、自分自身と対話をし、考えを深めていっている。
「あなた、出来事を喰うのね」
「だとしたら、どうする」
「聞きたいことがあるの。最近、文字喰いがこの辺をうろついているのは知っているわね」
「なんだそれは」
「名前聞いて連想できない? ひとを文字にして喰う妖怪のことよ。わかるでしょ」
溜息混じりに少女は言う。そんなことを言われても、ほとんど何の説明も受けていないのだからわかるはずがないと慧音は思うが、面倒なので言わなかった。その代わり、カナの事件のとき、阿求の指が落ちたことを思い出した。
「心当たりない?」
「ないな」
「そう、見知らぬ妖怪には教えたくないわけね。まあ、あなたもそんなに知っている風でもないし、別にいいわ」
少女は腕をあげて、前方を指差した。人が行き来している中、目立って足取りのおぼつかない者がいる。夕方、籤引川原をぼんやりと眺めていた男、子供を事件で失ったあの男だった。
「もうそろそろよ。興味あるでしょう?」
少女は、男のあとをつけていく。丁字路を左に曲がる。慧音は、家とは反対方向だが、男と少女についていくことにした。寂れた家々が並ぶ一帯に、男の家はあった。男は扉に手をかけた。その瞬間、黒い砂になって崩れ去った。
「っな……!」
「落ち着いて」
駆け出そうとする慧音の腕を、少女は押さえる。しばらく見ていると、黒い塊が動きだし、またもとの男に戻り始めた。
「まだ、奴はあれ以上の悪さはしない。でも、どう見ても危険でしょう?」
「あの人は今、喰われているのか」
「わからない。私も、文字にされた人妖をそんなに見たわけじゃないけど、今のところ死んだり狂ったりしたケースはない。精神に不安を残す者が、ああやって狙われるのはわかるけど。じきに元に戻るわ。」
「今のところ一応無害というわけか。しかし、何をしたいんだ」
「さあね。喰う準備でもしているんじゃないかしら。生き物を概念化して変形させるなんて、なかなか見ない妖怪だから、ちょっと外まで出てきたの。ひょっとすると、とんでもない方向に化けるかもしれないと思ってね。まあ、私は人間や他の妖怪がどうなろうと別に興味はないのだけれど、どうしてあの妖怪が現れたのか、その理由は気になるわ。何か引金があったと思うの」
「そうか」
男は家の中に入っていった。慧音は今来た方へ振り返る。
「あら、もう帰るの?」
「まだ何も起こっていない」
「なんだ、もう少し事件の追及には一生懸命だと思っていたのに。わりと淡白なのね」
少女の挑発じみた言葉に、慧音は反応を返さず、そのまま歩いていった。
阿求と慧音、ふたりが連絡を取り合わないまま、二日が過ぎた。その二日間は、暑い上にじめじめとした天気で、汗をかいて水を飲む以外、阿求にすることはなかった。三日目の朝、前日前々日よりさらに凶悪な酷暑の中、阿求は自室で執筆していた。うつむいていると鼻の頭から汗のしずくがぽたり、ぽたりと紙に落ちかかり、字をにじませる。廊下から足音が聞こえてきた。執筆といっても、暑さでろくに集中できないでいるため、外の音もすぐ耳に入るのだ。襖が開き、女中が手紙を差し出す。ただの白い封筒だったが、阿求には予感があった。女中をかえして、手紙を読んだ。読み終わると女中を呼び戻し、これからの予定を伝えた。阿求はそれから打って変わって精力的に仕事に取り組んだ。時計の針が正午を差すと同時に、老女中が現れた。阿求は既に書き物道具一式を片づけていた。
「阿求様、お出かけになるそうで」
老女中は、この殺人的な暑さの中でも、姿勢、服装の乱れひとつなかった。
「ええ」
「上白沢家に、いったいどのような用がおありですか?」
「友人から、食事に招かれたのです」
「友人というのは、上白沢家のひとり娘のことですか」
「そうです。騒霊退治のときには大変お世話になったし、今まで何度もこちらに招いていたから、あなたもよく知っているでしょう。今度は、私がお招きに預かりました」
「上白沢家は、歴史を好物とする生き物です」
老女中の言葉に悪意は感じられない。淡々と事実を述べているかのようだ。それだけに、余計に阿求は気持ち悪かった。
「研究の対象でも、教育の方法でも、未来への指標でもありません。彼らにとって、歴史とは、喰い物なのです。歴史に淫しているといってもいいでしょう」
どこかで似たようなことを聞いたな、と阿求は思った。紫の花霞が脳裏をかすめる。
「阿求様が個人的な友人として慧音殿と付き合われるのは構いません。ですが、おふたりの背負われているものは、お互いに危険な状態にあるのです。そのことだけは忘れないでください」
「家と家の問題なのですか? そんな確執があるのですか」
「彼らはハクタクを崇拝しています。千年以上前から」
「祀っている、という話は聞いています」
「彼らはハクタクになりたいのです」
老女中の顔のしわが何本か増える。かすかに顔をゆがめているのだ、と阿求は察知する。
ハクタクとは何か。
阿求の知識では、それは外の世界の書物に出てくる獣だ。為政者へ神が与える及第点であり、災厄の予言でもある。為政者は最大限ハクタクを重んじなければならない。だが、それは外の世界でのハクタクだ。幻想郷でのハクタクがどうなのか、阿求は知らない。ひょっとしたら御阿礼の子の誰かは知っていて、それを書物に記しているのかもしれない。しかし今のところ、阿求は稗田家内でそういった記述を目にしなかった。阿求は十四にして、おそろしいほどの量の本を読んでいるが、それも稗田家の蔵書全体からすれば氷山の一角だ。この老女中は、阿求よりは、もう少しその氷山に通じているようだった。
「幻想郷のハクタクとは、何ですか」
「存じ上げません。おそらく、その知識も、奴らが喰ってしまったのでしょう」
「そんなことが、できるのでしょうか」
「何の力も持たぬ、私たちのような者に対しては。御阿礼の子に同じ手は効きますまい。あなただけがわかるようなやり方で、ハクタクについての知識をどこかに取っていると思いますよ。ただ、それは私たちには見えません。私が知っているのは、ハクタクを稗田家に近づけてはならない、ということだけです。それが私の師匠、さらにそのまた師匠の、そのまた師匠と、まだまだ、遠い昔からの師匠の……」
「ありがとうございます。では、私はこれで」
阿求は逃げるように老女中の横を通り、廊下に出た。
阿求は上白沢家の前に立った。門の脇に、動物の彫像がある。牛のようにずんぐりした四つ足の動物だが、顔は髭面の人間だ。体の側面には、ぽつぽつと目がついていた。
ハクタクだ。阿求はしばらくその彫像の前で立ち尽くしていた。
門をたたくのには心の準備が必要だった。ここに来たのは初めてだ。ふたりが会うときは、いつも稗田家か、外だった。門も塀も、稗田家よりひと回り小さい。周囲の建物も、稗田家周辺のものに比べるとどことなく古びた、貧しい印象がある。だというのに、目の前の門から、阿求は圧迫感を受けていた。
三日前、慧音と気まずい別れ方をしてからというもの、ふたりで書いていた書物だけでなく、本業の幻想郷縁起の方もぱたりと書けなくなった。乾いた雑巾を絞るように無理やり文章をひねり出してはみるが、まるで納得がいかず、すぐに屑かご行きになった。慧音のせいにするのは、阿求の誇りと友情が許さなかった。しかし慧音に会って、うまい具合に関係を修復できれば、書き物の方もなにかしらいい変化があるのではないかと、期待していたのは確かだった。意を決して門をたたこうと手を伸ばす。
「阿求か?」
声は横から聞こえてきた。手の動きを止め、首だけ横に振り向く。塀から慧音が顔を出していた。
「おお、やっぱりそうか。待っていたぞ。思ったより早かったな。さあ、入ってくれ」
慧音の屈託のない物言いに、阿求は言葉が詰まった。こんな風に親しげに声をかけられて、突然謝罪するのも妙だった。かといって、籤引川原でのやり取りをすっかり水に流してしまうことは、阿求にはできなかった。
残された人間が苦しむのは当然のことだ、と言い放ってしまったのだ。慧音の苦しみも考えずに。そうして慧音から返ってきた言葉も、阿求には辛かった。
「そこの門はあまり使っていないんだ。開閉に時間がかかるし、大仰だ。こっちの通用口を皆使っている」
慧音のあとに続いて、通用口をくぐる。阿求は、その背中に寄り添っていたかった。だが、今のふたりの関係がどうなっているのか、自分でもつかみきれていないので、踏み出せない。通用口をくぐると、草花の茂る中庭が広がった。こじんまりとした東屋がある。人間三、四人が卓につけばもういっぱいになってしまう程度だ。だが屋根や手すりに施された和風のデザインはかなり手が込んでいるようだった。
慧音が突然振り向いた。後ろからついてきている阿求と、約五歩分の距離があった。
「阿求」
慧音は手を差し伸べる。すぐに右手を伸ばそうと思ったが、なぜだか、はしたない行為に思えて、阿求は思いとどまった。ただうなずき、歩み寄り、それからは慧音との距離を三歩分にまで縮めて歩いた。
東屋の卓上には、素麺が準備してあった。氷の入った大きな碗に、たっぷりと、みずみずしく盛られている。ふたつの小さな椀には、ツユが用意されてあった。小皿には薬味がのっている。お好みで、ということだろう。
「わあ、おいしそう」
阿求は両手を合わせて、歓声をあげた。
「最近暑いからな」
「嬉しいです」
「それはよかった」
ふたりは席について、早速素麺をすすりはじめた。氷で冷やされた麺は、唇や喉を通るとき、えもいわれぬ清涼感があった。山のように盛られていた素麺はみるみるうちになくなっていった。
「こんなに素麺がおいしかったなんて、初めて知りました」
「大げさだな」
「ほんとうです」
「こんなに空も暑いからかな」
素麺など、稗田家で食い飽きていたはずだった。違う環境で、違うひとと食べると、ものの味がこうも変わるのかと、阿求は本気で感動していた。特別な材料を使うわけでもないし、非凡なことを話すわけでもない。天気の話をするぐらいだ。ただ向かい合って食べるだけ。なのにたったそれだけで、素麺の意味さえ変わってくる。
「おっと、あまり食べるのに夢中になってたな」
素麺がなくなりかけると、慧音は椅子から立ち上がった。
「そういえば、お茶も持ってきていなかった。手順が悪くてすまない」
「いえ、いいんです。本当に、いいんです」
「すぐ持ってくるよ」
慧音はそう言いおいて、東屋から母屋の方へ去っていった。阿求は追いかけて手伝おうかとも思ったが、かえって足手まといになりそうだったので、大人しく座っていることにした。幸い、素麺はまだ少し残っていたので、箸で何本かすくいとって、ツユに浸した。
青い影が、視界の端をよぎった。
庭に誰かいる。視線を動かすと、庭の苔蒸した岩の陰に、獣が見えた。四足で、狐のように顔が長細い。ただ普通の獣と違い、体毛がほとんどなく、青っぽい肌はてかてかと光っていた。
「……ああ、そうか」
声に気づいて阿求が振り向くと、お盆に、椀と水差し、湯呑を載せた慧音が立っていた。
「もう、そんな時期か」
慧音と獣が視線を合わせると、そこには阿求には聞き取れない無音の会話が交わされているのが見て取れた。焦燥に駆られ、阿求は思わず呼びかける。
「あの、慧音さん。私、お邪魔なようでしたら」
「いや、阿求、お前は帰ってはいけない」
立ち上がりかけた阿求を、慧音は目で制する。阿求はそのまま椅子に尻をつく。
「でも」
阿求は慧音を見上げる。目と目が正面から合う。
「頼む。お前には、私を見ていてほしいんだ」
慧音の目は、思わず阿求が動きを止めたほど強い光を放っていた。それなのに、同時に、まるで縋りつくような光をも帯びていた。阿求は魅入られ、うなずいた。慧音はしゃがんで獣の頭を撫でる。それから立ち上がり、東屋から中庭に出る。
「ついてきてほしい」
慧音と青い獣は連れだって中庭を横切っていく。そのあとを阿求がついていく。ふと、視線を感じ、阿求は立ち止まった。
窓辺に人影があった。まだ日も高いというのに、その窓の向こうの部屋は暗かった。すべての光を飲み込むような暗さだった。そこに立つ人影も、亡霊じみた雰囲気をまとっていた。じっとこちらを見ている。阿求は慧音たちの方を見た。彼女たちを、あの人影は見ているようだ。阿求が立ち止まったのに慧音が気づき、戻ってきた。阿求の視線を追い、窓辺に至る。
「あれは、父だ」
何ともやりきれなさそうな表情を、慧音は浮かべた。
「すっかり変わり果ててしまった」
上白沢家を出たあと、阿求は距離の取り方に迷った。慧音はともかく、獣と交わす話題など、見当がつかない。
先を行くふたりの足先は、人家から離れていく。やがて、両脇を薄暗い藪に挟まれた、一本道に差し掛かった。まだ三十分程度しか歩いていないのに、随分遠くまで来た気が、阿求にはした。
慧音と獣は道から外れ、藪の中へ入っていく。阿求も後を追う。枝が髪や着物に引っかかって、難儀しながら後を追う。すぐに追いついた。藪の中でそこだけぽっかりと空き地ができていた。体中から吹き出た汗を吸って、きものの下に着ている肌着はべったりと背中にはりついている。それくらい暑いが、阿求は一瞬、ひやりとした空気を感じた。慧音と獣のふたりは、空き地の真ん中に生えている木を見上げていた。人間の大人が両腕を広げても囲えないぐらいの太さがあった。
ふたりとも俯いていた。阿求は、ひとがああいう姿勢を取る場面を何度か見たことがある。稗田阿求の体ではまだ数えるほどしかないが、過去に何度も見てきた。
あれは、誰かを偲んでいる姿勢だ。
木の根元に、白い石がふたつ並んで刺さっている。阿求は、感じたままに、目を閉じ、見も知らぬ死者を偲んだ。おそらくは慧音と獣、それぞれにとって深い関係のある者に。汗が髪の間から流れ、耳の裏を伝い、首筋をなぞる。死者のことは知らないから、慧音のことを考える。そうすると、なぜだか楽しいことばかりが浮かんできた。これはいけない、と思った。
阿求が顔をあげると、ふたりはまだ木の前に佇んでいた。阿求は道の方に戻ろうとした。枝を踏んでしまう。その音で、慧音と獣は顔を上げた。慧音は空を見上げる。
「あ、ごめん、なさい。邪魔するつもりは……」
「さっきまで、日は中天にあったのに。ぼやぼやしていると日が暮れてしまうな」
慧音は、気軽な口調でそう言った。それから隣の獣を見下ろす。
「それじゃあ。また来年」
慧音の言葉に、獣はうなずき、歩き出す。阿求の足下を過ぎるとき、上目づかいに彼女を見た。
「ありがとう」
「え……」
「母を、思って、くれて」
そして、たちまち駆け出し、道を渡り、反対側の藪の中へ姿を消した。一瞬のことだった。阿求が呆然と獣を見送っていると、手に暖かみが宿った。
「帰ろう。まだ、手つかずの料理が冷やしたままになっている。サラダだ」
慧音は阿求の手を握っていた。あまりに自然な動作だった。阿求は気分が浮つくのを止めることができず、急にあたふたし出した。
「あ、ああ、すまん。こんな汗でべとべとで」
慧音は阿求の手から、自分の手を離そうとする。
「気持ち悪かったかな」
離れようとする慧音の手を強引につかまえる。汗でぬと、とすべり、慧音の指先を阿求の手のひらで握り込むような形になった。そのまま歩き出す。
「そんなことは、ないです。帰ってサラダ食べましょう」
帰り道は、行きよりも涼しくなっていた。人家が多くなり、ひと通りが増えると、どちらともなく手を離した。
東屋に戻ると、慧音は母屋の方に行き、お盆に椀や水差しを載せてやってきた。獣の闖入で途切れた時が、また再開された。
サラダはキュウリとトマト、ハム、レタスにドレッシングをかけた、ごくごくオーソドックスなものだった。しゃきしゃきと野菜を頬張っていると、涼しい気分に浸れた。合間に冷えた緑茶を湯呑いっぱいにつぎ、一気に飲み干す。
ふと、会話が途切れた。気がつくと、東屋には夕日の赤い光が差し込んでいた。
「母が、あそこで死んだ」
ぽつりと、慧音は言った。
「出産中の妖怪のテリトリーに不用意に踏み込んだためだ。妖怪も、腹が減っているわけでもないのに、人里近くで人間を襲ったりしない。だがその日その妖怪は、狩人に腹を撃たれ、意識が朦朧としていた。元々、身重で隙だらけの妖怪を撃つのは、狩人としてのタブーだった。胎児を殺し尽くせば、妖怪は絶える。人間も同じだ。だが、その日狩人はそれを破った。妖怪は、朦朧とした意識の中で、近寄る者はすべて生まれてくる赤子に害をなすものだと思いこんだ。そうして、山道を歩いていた母に襲いかかった。私たちが駆けつけてきたとき、母は首を抉りとられて死んでいた。私が母の歴史を喰ってやる、そう思った。やり方は、父が仕事で歴史を喰うのを隣で何度か見ていたから、見よう見まねで、母の遺体のまわりにある歴史の綿のようなものを絡め取り、吸い込んだ。その途端、私はひっくり返った。頭の中で割れ鐘のような音がめちゃめちゃに響いて、何ひとつまともなことを考えられなかった。ろくに訓練もせずにまるごと歴史を喰ったものだから、私の頭が飽和状態になった。喰った歴史を戻した。私が胃液を吐き散らし、喘いでいる間も、母は目を閉じ、じっとしていた。どんなに歴史を喰っても、母がこの世に存在しないという出来事自体は、逆立ちしたって変えることができないってことを、そのときはっきりと理解させられた。私は一ヶ月、飯が喉を通らなかった。食べたくても、胃が受けつけなかった。父は、歴史を喰おうとした私を激しく叱責した。私も折れなかった。ふたりとも母が好きだった。何度も話し合った結果、父は、私に歴史喰いを体系的に教えることを約束した。それがかえって危険が少ないと踏んだのだろう」
慧音の話は、止まる気配がなかった。阿求は黙々とサラダを食べ続けた。夕日の色は濃くなる。夜が、少しずつ、その姿を現し始める。
「母を殺したのは、私かもしれない」
阿求の皿は空になった。慧音は緑茶を湯呑にそそいで、阿求に差し出す。阿求は無言で頭を下げ、口をつける。
「その妖怪と私は、以前から顔見知りだった。初めは怖かったが、次第に慣れていった。山道で顔を合わせれば、お互い挨拶もした。しばらくすると上白沢家に顔を見せるようになった。妖怪が来ると、人間にはない気を落としていくので、上白沢家の地のめぐりがよくなるので、家の者も特に反対しなかった。見かけは狼のように獰猛そうだが、吠えたり、飛びかかったりしないので、みな安心していた。その日、思いのほか近くで銃声が聞こえたため、家の者は浮足立った。母はすぐに外に様子を見に行った。銃声の後に聞こえた獣の鳴き声に、聞き覚えがあったからだ。家人を振り切って外に飛び出した。そうして、変わり果てた姿で家人に見つかった」
慧音は両腕で肩を抱いた。震えていた。
「違う、違うんだ。獣の声に聞き覚えがあったのは母さんじゃない。私だったんだ。私は母さんに言った。『あの子の声だ。あの子が泣いている』と。不安だったんだ。母さんは私の不安を取り除いてやろうとして、外に出た。私があんなことを言わなければ、母さんは、銃声に怯えていた他の家人たちと同様、家から一歩も出なかっただろう。山道になど行きはしなかっただろう。私さえいなければ」
慧音は湯呑の緑茶を一気に飲み干した。阿求は黙って水差しを取り、ついでやる。
「母を殺して、出産を終えて間もなく、妖怪自身も力尽きた。さっき私たちと墓参りに行った者は、その妖怪の子供だ」
慧音の長い話が終わった。阿求は、言葉が見つからず、黙っていた。慧音は、中庭の松を眺めていた。その目が、大きく開かれる。阿求も思わず振り返って、松を見る。特に変わったところはなかった。
「今、そこの木の陰に誰かいたのが見えたか」
「いいえ、見ませんでした」
「そうか、あれはハクタクだ」
「見えませんでしたってば」
「母の顔をしている。多分、私にしか見えない」
慧音は虚ろな目をしていた。阿求はその目を見た。背筋に震えが走った。
教壇に立ち、慧音は語る。
「たとえば花曇という言葉がいい例だ。別に花が原因で曇り空になったわけではない。ただ、花の咲く時期に曇り空を見ると、適当にふたつをくっつけてみたくなっただけだ。天気で言うと、虫出しの雷もそうだ。虫は関係ない。結果として雷に驚いて飛び出すだけだ。はじめ別々の事象であっても、言葉によって結びつけられると、そこで接点が生まれる。接点が生まれると、お互いがより密接になる。雷を出す虫が出てくるし、花びらが固まって雲になったりする。特にここ幻想郷ではそれが容易く……」
窓の外で何かがちらついた。言葉を止めた慧音を、子供たちは不思議そうに眺める。次に、慧音の視線の先を追う。しかし窓には誰もいない。慧音は咳払いをして、先を続ける。
「幻想郷では容易く起こりうる。原因と結果は常に反転するもの、表と裏の関係にある」
子供たちは退屈そうだ。自分に、人を楽しませる才能がないことは、慧音も自覚している。だが、必要な情報を吟味し、それを知らない者に与えることにかけては、それなりの仕事ができていると自負してもいる。だからこそ、ぜひとも子供は上白沢の娘さんに教えてもらいたいという親が、少なからずいるのだ。ひとつの授業で、二、三人くらいは、目を輝かせて慧音の話に耳を傾けてくれる子供が必ずいることも、慧音の自信につながっていた。
「その中で虚実を選りわけるのは至難の業だ。だが、しなければ一歩も進めない。まずは、最低限、歴史と向かい合ったときに知っておかねばならないいくつかの点を、これからはともに学んでいこうと思う。まずはこの国の成り立ちについて」
そこでまた、慧音は口をつぐんだ。汗が一筋、頬を伝って襟首に落ちる。
「母さん……?」
その目は、天井の木目に釘づけになっていた。教室に、不穏な空気が広がる。子供たちは互いに顔を見合せた。ほとんどは、急に様子がおかしくなった教師を不思議に思うだけだったが、何人かの子供たちは、深刻な顔になった。青ざめた顔で、天井を見続ける子供もいた。
「すまない、みんな」
慧音は頭を下げた。
「今日はもう、やめにさせてくれ」
今日は、慧音から食事に誘われた。授業が終わったら出かけるということで、待ち合わせ場所が寺子屋になった。阿求は少し早めに出かけた。授業をのぞいてもいいし、慧音が嫌がるなら境内をぶらつきながら待っていようと思っていた。
阿求が寺の境内に足を踏み入れると、離れの方からざわめきが起きた。見ると、十数人の子供たちが、三々五々、離れから出てくる。年はばらばらだ。下は五、六歳から、上は十一、二くらい。阿求とあまり年の変わらない子供もいる。
「こんにちは、阿求様」
「稗田様、こんにちは」
阿求の姿を認めた年長組が、ぺこりとお辞儀をする。それに倣って年少組も声を張り上げて挨拶をする。阿求は微笑み、お辞儀を返す。
「今日は先生の授業はもう終わり?」
「うん、今日は早く終わった。もうご飯食べていいって」
年少組のひとりが嬉しそうに言う。単純に、早く帰れることを喜んでいるようだ。
「阿求様」
十歳に手が届かないくらい、年中組といったところの子供が、阿求に声かける。利発そうな顔立ちをしている。
「どうしました」
「ちょっと今日、先生、おかしかったです」
「おかしい、というと」
「気分が悪そうでした。というか、何かに怖がってたような気がします。慧音先生はしきりにまわりを見ては、驚いたり、安心したりしていました。でも、僕もこっそりまわりを見てみたけど、何もなかったです」
「そう」
阿求は他の子供にも視線を配る。何人かは同じ思いのようだった。
「ありがとう。慧音先生、ちょっと体調が悪いのかもしれないわね。私からも聞いておきます」
「そうしてください」
年中組の子はほっとしたように、お辞儀をした。子供たちと別れ、阿求は離れへ向かおうとする。年中組の子供が急に思い出したように、阿求の背中に声をかけた。
「そういえば、妙なひとりごとも言っていました」
中に入ると、慧音が教室の席に座っていた。ぼんやりと天井を見上げている。阿求は、背筋を何かが這い上がるのを感じた。
「慧音!」
名前を呼び、駆け寄る。肩に手をかける。慧音は、夢から醒めたように阿求を見た。
「あ、ああ。阿求か。すまない、待たせたかな」
「いいえ、いいえ、待ってはいません。待ってはいませんが、そんなに思いつめないでください」
「子供たちから、何か聞いたのか」
阿求はうなずく。
「そうか」
慧音はゆっくりと息を吐く。
「阿求、私は、やはり母に責められているのかな。ハクタクの顔が、なんだか母の顔に見える」
阿求は慧音の手を取る。
「手が、冷たいです」
「ああ。最近、ずっとこんな手だ」
「手が冷えているってことは、体の血のめぐりが悪いってことですよ」
慧音は曖昧な笑みを浮かべて、じっと手を見る。
「慧音さん、今日はどこに連れていってくれるんですか」
「近くにうまい天丼屋がある。そこに行こう」
「こんなに暑い日なのに?」
「暑い日には熱いものを食べてるのがいいんだ」
「私、病弱だってこと、一応覚えておいてください。胃、小さいんですから」
「そのあと、丘の上に行こう。カフェがある。花も置いている。あそこは涼しいぞ。登るまでがちょっと骨だが」
「素敵ですね」
阿求は出口の方へ駆けだす。扉のところで慧音を振り向く。
「慧音」
それは、小柄な阿求のどこから出たのかと思われるほど、はっきりと通る、大きな声だった。
「私を見てください」
慧音は体全身で、阿求の音を、息遣いを感じた。
「自分を、責めないで。私はいつでもあなたの味方です。だから、私を見ていて」
慧音は、眩しそうに阿求を見ただけで、何も言わなかった。立ちあがって、阿求の手を取り、外に出た。
後編も楽しみに読ませていただきます。
評価は読み終えてからということで後編行ってきます!