Coolier - 新生・東方創想話

龍鬼乱舞

2009/08/15 15:31:15
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少し作りすぎたな――と十六夜咲夜は思った。
主人の食後に出す為のデザートなのだが、作っている内に興が乗ってしまい、あれやこれやと新メニューに
手を出しすぎたようだった。
「どうしようかしら、これ……」
小首を傾げて考える。主人とその食客に振舞うのは当然として、残りをどう処理したものか。
保存しておくという考えは咲夜には無い。この紅魔館を預かるメイド長として、そんなものを人に出す訳には
いかないからだ。時を止めて保存する事も出来なくは無いが、何となくインチキ臭いし疲れるので、
あまりやりたくは無かった。となれば――いっそ廃棄してしまうか、或いは誰かに食べて貰うか。
そう考えた時、一匹の妖怪の顔が頭に浮かんだ。
「……そう言えば、最近美鈴とあんまり話してないわね」
よし、彼女に頼もう。積もるような話はないが、気安く話せる数少ない存在だ。
決めるが早いか準備に取り掛かる。何種類か切り分けてバスケットに詰めて、ついでに紅茶も用意しようと
咲夜は再びテキパキと動き始めた。
美鈴の好きな銘柄は何だっただろうか。例え動機が余り物の処分であっても、人に出す以上手は抜かぬ
所が彼女の彼女たる所以だろう。
刹那の内に支度を終えて、咲夜はいそいそと厨房を後にした。



* * * * *

壮麗、というよりは大仰な造りの正門を抜けると、その先に紅美鈴は居た。
と言っても、現在は休憩時間でも無ければ花壇の手入れの時間でも無いのだから、ここに居て貰わなくては
困るのだが。ともあれ、予定外の来訪でもちゃんと仕事をしてくれていて良かったと咲夜は密かに胸を
撫で下ろした。ここで居眠りでもされていれば、差し入れの代わりにキツい説教をプレゼントしなければ
ならない所だ。
改めて美鈴に眼を遣ると、彼女は決して気負わず、さりとて気を抜かずといった体で静かに門前に広がる
湖を見据えていた。その艶やかな紅髪を、初夏の風が涼しげに揺らす。それが何故だかとても綺麗に
見えて、咲夜は思わず言葉を忘れて立ち尽くした。

「咲夜さん」
唐突に聞こえたその声が誰のものか――咲夜は一瞬はかりかねた。眼前の女性はそう呼び掛ける間も、
ずっと前を向いていたからだ。
「どうしました? そんな所で棒立ちになって」
「――あ」
気付かれて――いたらしい。美鈴の能力を以ってすれば、周囲の動きを感知する事など造作も無いのだろう。
美鈴はこちらを向いて笑顔を見せる。咲夜は思わず顔が赤くなるのを感じた。
「べ、別に何でも無いわ。それより、貴女ちゃんと仕事をしてるんでしょうね」
またやってしまった。反射的に叱責めいた言葉をギロリと睨むオプション付きで吐いてしまい、咲夜は軽い
自己嫌悪に陥った。そうした思いが咲夜を更に悪相に見せてしまったらしく、美鈴は一転大慌てで両手を
振った。
「だ、大丈夫! やってますって! お嬢様がお休みの内は、サボったりなんかしませんよ」
「……」
感心すべきなのか、呆れるべきなのか。
成る程確かに、彼女ら吸血鬼が最も弱体化する日中の寝所を守り抜けば、レミリア・スカーレット、そして
フランドール・スカーレットが狼藉者に遅れを取る事などまずありはしないだろう。しかし外敵を排する為に
存在する門番がその役目を主人に丸投げしてしまうのは如何なものか。
否、駄目だろう。よく考えなくとも門番失格の言動である。
「まぁまぁ。お嬢様も常日頃から暇だ退屈だと仰ってるじゃないですか」
「それにしたって、やって来るのは白黒に天狗ばっかりじゃない。いい加減刺激にもならないでしょう」
溜息混じりに突っ込むと、美鈴はそれもそうだと笑った。

「……ところで、何か用事があったんじゃないんですか? ひょっとして、そのバスケット――」
咲夜の下げる籠に先程から気になって仕方が無いといった視線をちらちらと送っていた美鈴だったが、
遂に我慢出来なくなったようで彼女は雑談もそこそこにそう切り出した。
「ああ、これ」
咲夜はさも忘れていたかのような口調で答える。期待に眼を輝かせている美鈴に、何だか少し意地悪が
したくなった。
「デザートを作りすぎちゃってね、差し入れに行く所よ。博麗神社にね」
「……そ、そうですか……」
軽い冗談のつもりだったのだが、美鈴はまるで空気の抜けた風船のようにしおしおと萎んでしまった。
「ちょ、ちょっと、そこまで落ち込む事じゃないでしょう! 嘘よ嘘、冗談だってば」
咲夜は慌てて言った。子供のように肩を落とす美鈴の姿が、咲夜の罪悪感をちくちくと刺激した。
「作りすぎたのは本当だけど……ほら、貴女に持って来たのよ」
「ほ、本当ですか!」
美鈴は弾かれたように顔を上げた。年齢不詳のこの妖怪がまるで子供のように見えたが、自分の作った
ものを巡ってここまで一喜一憂してくれる事に悪い気はしない。
つられて小さく心に浮かんだ笑みが表に出ない内に、咲夜は敢えて少々つっけんどんにバスケットを
押し付けた。
「食べ終わったら直ぐに仕事に戻る事、いいわね。バスケットは後で回収するから、門の外から見えない所に
でも置いておいてくれればいいわ」
渡してしまった。
名残惜しさを隠して籠から手を離す。勤務の内容も形態も違う二人である、こうして話をする機会はあまり
多くは無い。もう少し話をしていたかったのだが、目的を果たした時点でここに居る理由は消滅してしまった。

「えっ、もう帰るんですか」
「え?」
館内へ帰ろうとした咲夜を止めたのはそんな言葉だった。
「一緒に食べましょうよ。一人より二人のほうがデザートも美味しいですし」
「だ――駄目に決まってるでしょう。仕事中なんだから」
一瞬言い淀んでしまったが、今はれっきとした勤務時間である。メイド長が率先して仕事をサボって
しまっては部下に示しがつかない。
「遊び半分の妖精メイド達にそんな配慮しても仕方が無いですよ。お嬢様達だってまだお休みのはず
ですよね」
「それはそうかも知れないけど――」
「それに」咲夜を遮って美鈴は言った。「咲夜さんが頑張ってるのは皆知ってますから。少しぐらい
休んだって、誰も文句なんて言いませんよ」
「……」
「ね?」
駄目押しの笑顔を向けてくる美鈴に、咲夜はとうとう白旗を揚げた。
「……少しだけだからね」
次の瞬間、咲夜の傍らには小さな木製のテーブルと二脚の椅子が現れていた。



* * * * *

「美味ひぃ……んぐっ、咲夜さん、これすっごく美味しいです!」
「そ、そう……解ったから口に物を入れて喋るのは止めなさい」
子供のような――というより子供顔負けの喜悦を満面に浮かべて、美鈴は次から次へとデザートを口に運ぶ。
その笑顔がやけに眩しくて、咲夜は視線を逸らして紅茶に口をつけた。自分のようにとは言わないまでも、
それなりの所作を身に付けさえすればこんな光景も絵になるだろうに、何とも勿体無い事だと思いながら
ほうと息を吐く。とは言え、嫌いな訳では無い。捻くれ者揃いの紅魔館である。美味しい物を素直に
美味しいと言ってくれるような人物は中々にレアリティが高い。
だからだろうか。咲夜は時折、無性に美鈴と話がしたくなる。
(――そう言えば)
悪魔の館のメイドになったばかりの頃、些細な失敗や周囲との衝突で落ち込む度に、真っ先に自分を慰めて
くれたのはいつも彼女だった。

『世の中案外何とかなるもんです。笑って行きましょうよ。ね?』

決まり文句のようにそう言って聞かされた自分は、今では全く正反対の杓子定規な人間になって
しまったけれど――それでも、こうしてここまで来れたのは彼女のお陰なのだろうと、今になってそう思う。

「……咲夜さん? どうしました、私の顔に何かついてます?」
言われて咲夜は我に返った。無意識の内に美鈴の顔を凝視していたらしい。
「――左の頬っぺたにクリーム。もっと落ち着いて食べなさい」
こみ上げる恥ずかしさを押し隠してクールに一言。このくらいの芸当が出来ずして瀟洒は名乗れない。
いや、別に名乗っている訳では無いけれども。
「あれ、いつの間に」などと呟いてクリームを舐め取る美鈴に気取られぬようほっと息を吐いて、咲夜は
もう一口紅茶を飲んだ。
「……咲夜さん、食べないんですか? さっきから全然手をつけてませんけど」
「ああ、私はいいのよ。もう十分食べたし」
料理をする人間は二つに分けられると咲夜は思う。即ち、作った料理を食べるまでを目的とする人間と、
純粋に調理のみを楽しむ人間である。そして咲夜は、正に後者だった。
「だから、作ってしまえば私はそれで満足なのよ。試食ぐらいはするけれど、自分で食べるより誰かに
食べてもらうのを見ているほうが楽しいわ」
それが美鈴のような相手なら尚更だと、咲夜は心の中で付け足した。
「はあ……解るような解らないような。ええと、つまり遠慮無く食べちゃってオーケーという事で」
「……まあ、そういう事ね。全く、その細身のどこにそんな沢山入るんだか」
「門番という激務をこなす為には、エネルギーの摂取が必要不可欠なのですよ」
フォークをもごもごさせながら言う。突っ込むべき所なのかどうなのか、咲夜には何とも判じかねた。
一体どんな噂が広まっているものか、最近の紅魔館には招かれざる客が少なくない。
尤も、その九分九厘が美鈴目当ての武術家ではあるのだが、いずれにせよそれらの対処を美鈴が一手に
担っている事は間違いの無い事実である。
「……今朝も来てたみたいね。お客さん」
テラスの掃除中に、暑苦しい風体の男が美鈴に勝負を挑んでいる所をちらりと見掛けた。いつもの光景
なので、さして興味も抱かず仕事に戻ったが――それにしてもと咲夜は思う。
「うちは武道場じゃないんだけどね……」
「開いてみます? 紅魔館空手」
「……勘弁して」
適温はとうに過ぎた紅茶に漸く手を伸ばしながら、美鈴はあははと笑った。
「――あ。この紅茶って、前に私が美味しいって言ったやつですよね。覚えててくれたんですか、嬉しいなぁ」
「ん……まあ、ね」
面と向かって好意を向けられる事には慣れていない。無理矢理作った仏頂面で紅茶を飲みながら、
咲夜は選んで良かったと独白した。
「……それで、勝ったの?」
「何がです?」
「何がって……」
今朝の勝負以外に何があるというのか。
「ああ」美鈴ははたと手を打った。「勿論、勝ちましたとも」
「当然のような口ぶりね」
「そりゃ、まあ。これでも幾百年と修行と研鑽を重ねて来た身ですし。人間の達人程度には、まだまだ
負けられませんよ」
――ああ。
そうだった。あまりに人間臭い所作にいつも忘れてしまうが――しかし、それでも、矢張り、彼女は
妖怪なのだ。
「それは、時には睡魔に負ける事だってありますけど、私にだってお嬢様に門を任されているという
誇りぐらいはありますからね。倒すべき相手は倒しますし、通すべきで無い相手は排除しますよ」
くるくるとフォークを回しながら、美鈴はその柔和な眉目を一瞬だけ猛禽のそれへと変えた。
咲夜がそんな美鈴の表情を眼にしたのは、一体いつ以来の事だっただろうか。少し驚いた咲夜に
気付いて、美鈴はにへらと顔を緩ませてみせた。

実際、この妖怪はどれくらいの強さなのだろうか。
弾幕勝負がてんでからっきしである事は周知の事実だが、彼女が最も力を発揮する分野――そう、
つまり武術であれば。
少なくとも咲夜の知る限りでは、美鈴を目当てにやって来た人間、妖怪、その他の有象無象に、
彼女が敗れた事は一度たりとも無いはずだ。
美鈴自身が言ったように、レミリアに単身門の守護を任されている事は紛れも無い事実である。
知りたくなった。実際の所――彼女がどの程度の実力を持っているものか。
「ねえ、美鈴。貴女――」
咲夜の呼び掛けに応えて、美鈴が何事か言葉を発したように見えた。しかし咲夜の耳朶に届くよりも
早く――前触れ無く轟いた爆発音が、美鈴の声を雲散霧消と吹き飛ばしてしまった。

――嗚呼。まどろみにも似たこの一時の、何と儚い事か。
平和とはかくも短く壊れ易いものであるというこの館に来て以来の確信を更に深めつつ、咲夜は椅子から
腰を上げた。
今度は何だ。
妖精達の派手な粗相か、パチュリー様の実験か、それとも――。溜息混じりに紅い館を見遣って、咲夜は
どうやら事態が予想以上に深刻であると気付いた。妖精メイド達が、悲鳴を上げながら次から次へと庭へ
飛び出して来たからだ。
「――どうにも、只事じゃ無さそうですね」
呟く美鈴の声に、いつもの軽さは無い。こちらに気付いた妖精が何事か叫ぶ前に、二人は館内へと
駆け出していた。



* * * * *

紅魔館のエントランス・ホールは、呆れや怒りを超えてもはや笑うしか無い程の惨状を呈していた。
天井、床、壁面を問わず無数のクレーターと亀裂が走り、所々など引き裂いたような痕がある。飾られて
いた調度品は見る影も無く、階段の一部は崩落している有様だ。撒き散らされた魔力が咲夜の仕掛けに
干渉したか、拡張された空間があちこちで捻じ曲がっている。死者がいないのが奇跡に思える程だったが、
それは恐らくこの光景を作り上げた人物が手加減したのだろう。この惨状の中で、それだけが救いだった。
「一体……どうなさったのですか」
――フランドール様。
災禍の根源に、咲夜は静かに声を投げ掛けた。

「……番犬と座敷犬が揃って何の用? 紅と白でも全然おめでたく無いわね」
こちらに背中を向けたまま、フランドール・スカーレットは肩越しにねめつけるような視線だけを寄越した。
何かを言いたげに一歩を踏み出した美鈴を眼で制して、慎重に言葉を紡ぐ。
「――言わずともお解かりでしょう、フランドール様。妖精メイド達に何か至らぬ所がございましたら
私が謝罪させて頂きます。しかし先ずは理由をお聞かせ下さい。一体何故このような――」
「別に」悪魔の妹はこちらに向き直り、瓦礫の影からこそこそ様子を伺っている妖精メイド達を
興味無さげに一瞥した。「邪魔されたから散らしただけ」
「メイド達が、邪魔……? ――まさか、フランドール様」
いくらロクに言う事を聞かない部下達と言えども、故無く主人に牙を向くような愚か者は居ないと
咲夜は信じている。ならば――妖精達がフランドールの行く手を阻む理由は一つしか無い。
「外に、出られるおつもりですか……!」
「どいてよ。こんな所で使い果たしたくないでしょ、コイン」
フランドールは手にした日傘を放り投げ、シニカルな笑みで言い放つ。同時に、彼女が発した殺気が
刹那の内に咲夜と美鈴を包み込んだ。
「お待ち下さい。外出がご希望でしたら私からお嬢様にお話しします、ですから今はお戻り下さい」
「……どうして私のする事にあいつの許可がいるのよ」
フランドールは不愉快だと言わんばかりに眉根を寄せた。
「そ――それは」
「私がどこで何をしようと私の勝手じゃない。勿論貴女に指図を受ける謂れも無いわ」
「指図ではありません。……非礼を承知で言わせて頂きますが、フランドール様が外へ出られるのはまだ
時期尚早なのです。ご自身の感情と力を制御出来るようになって頂かない限り、お一人での外出を
認める訳には参りません。それを理解しておられるからこそ――フランドール様も今まで外に出ようと
なされなかったのでは無いのですか」
あくまでも冷静に、咲夜は説得を試みる。しかしそんな咲夜の態度は、フランドールの神経を却って
逆撫でしてしまったようだった。
「……フン、そうやって結局私に命令するんじゃない。尤もらしい事を言って、要するに紅魔館に
悪評が立つのが恐いんでしょ? 随分と腑抜けた悪魔の狗もいたもんね」
「それは違います! このような言い方はしたくありませんが、私の言葉は全てフランドール様を
思ってのものです。もし――万が一にでも取り返しのつかない事が起こってしまえば、傷つくのは
フランドール様ご自身なのです。私の事は何とでもお呼び下さって結構です、しかしどうかこの場は――」
「……ああもう、うるさいな」
咲夜の言葉を遮り、フランドールは耳元の蝿を追い払うように無造作に片手を振った。その瞬間、
弧を描いたその軌跡に沿って生まれた無数の光弾が寸分あやまたず咲夜に飛来した。
「なっ……」
「さ、咲夜さ」

刹那。
美鈴の叫び、迫る弾幕、それを眺めるフランドール――この場の全てが、同時に、完全に停止した。
凍った世界の中で、右手に掲げたスペルカードが一枚、炎を伴い爆ぜた。
「時符――『パーフェクトスクウェア』……いきなりとはね。危なかったわ……」
時を止めるという、明快にして強大極まる能力。生まれ持ったこの力に感謝しながら、額を伝う冷や汗を
拭うと背後の美鈴を抱えて咲夜はとりあえず射線上から脱出した。そうしておいて、「しかし」と独白する。
どうしたものか。
咲夜の声は、フランドールの心には届かなかった。それどころか、彼女の中に澱のように潜む狂気が、
今や彼女の理性を完全に閉ざしてしまった。これでは、もはや戦闘は避けられないだろう。
だが――例えどんな状況にあろうと、咲夜の中にフランドールに剣を向けるなどという選択肢は無い。
このような騒ぎが起きている以上、レミリアもその友人もすぐに動き出すだろう。動かない大図書館――
パチュリー・ノーレッジが雨を降らせてくれさえすれば、フランドールも諦めざるを得ないはずだ。
しかし、咲夜は自分の仕事が時間稼ぎだとは考えたくなかった。力技で出口を閉ざすだけでは、
フランドールはいずれまた同じ事を繰り返すかも知れない。どうして駄目なのか、どうすればいいのか。
フランドール自身がそれを理解しない限りは、根本的な解決にはならないのだから。
ならば――私に出来る事は。
軽く深呼吸すると、咲夜は時間の停止を解除した。

「――ん! 危な……あれ?」
美鈴の素っ頓狂な声に続いて、背後で壁が爆砕する音が響いた。一瞬遅れて、フランドールがその顔を
不機嫌に歪める。咲夜はあくまでナイフを抜かず語り掛けた。
「フランドール様、落ち着いて下さい。陳腐な台詞ですが、話せばきっと解ります」
「うるさいって言ってるのが聞こえないの? 解るとか解らないとか、私にはそんなのどうでもいいの。
貴女がその偉そうな口を閉じればね。それとも――」
「フランドール様……!」
「無理矢理口を縫い付けられるのがご希望かしら、メイド長?」
ぞわり、と肌が総毛立つ。フランドールの狂気の銃口が、一斉に咲夜へ向いたのが解った。
「さ――咲夜さん、こうなってしまっては……」
「その先を聞く気は無いわ。フランドール様はお優しい心も持っておられる方よ、きっと解って下さるはず」
「――で、ですけど!」
「しつこいわよ美鈴。持ち場に戻りなさい、ここに居られては邪魔だわ。混乱に乗じて館内に忍び込もうと
する輩がいないとも限らないでしょう」
食い下がる美鈴に、咲夜は背中を見せたままぴしゃりと言い切った。少し心が痛むが、これでいい。
この場に美鈴が参入して状況が好転するとは思えない。説得に関してもだが、弾幕戦を得手としない
彼女がフランドール相手に上手く立ち回れはしないだろう。それどころか、相手がスペルカードルールに
則るはずも無いこの状況では、五体満足でいられる保障すら無いのだから。

半ば言い逃げに近い形で話を打ち切ると、咲夜は三次元に拡張されたエントランスを上方へ跳躍した。
「ああそう、イカロスごっこね」
フランドールの言葉が咲夜の耳に届いた時には――眼前は既に弾幕の海と化していた。
「くッ……!」
右へ左へ、傍目には優雅にすら見える動きで弾雨を掻い潜る。密度は濃くともただ適当にばら撒かれて
いるだけの素直な弾幕、避け切れない程のものでは無い。
遠くの安全圏から声を投げかけるだけでは、閉じてしまった心には届かない――牛歩のように遅々とした
速度ながらも、咲夜は次第にフランドールへ近付いてゆく。
しかし、既に咲夜を的としか見ていない彼女に、それはもはや全くの逆効果であった。十秒、二十秒と
そうする内に、フランドールの苛立ちは眼に見えて大きくなっていった。
「このっ……はやく墜ちなさいよ、邪魔者ッ……!」
悪魔の妹は緩慢な動きで両手を交差させ、両手の先に三本ずつ魔力の針を作り出した。紅黒く燃える
それを指の間に挟み込むと、彼女は咲夜に視線を戻すが早いか稲妻のような速度で投擲した。
「幻世『ザ・ワールド』ッ!」
数多の修羅場を潜り抜けて来た直感が、殆ど無意識の内に咲夜にスペルカードを握らせていた。
投げ捨てるようにカードに封じた力を発動させる。最後の魔針がフランドールの指を離れた直後、時間は
再び凍り付いた。

――間に合った。
四方八方を取り囲む光弾を掻い潜る、その僅かな隙間を塞ぐように放たれた魔針。退路が完全に
遮断される寸前、咲夜はどうやら間一髪で時を止める事に成功したようだった。
際どい隙間を慎重に潜り抜けて、声が届き、かつ咄嗟の事態にも対処出来るギリギリの位置まで
フランドールに近付く。咲夜の足が地に着いた瞬間、時計は再び時を刻み始めた。

「――! また時間停止……相変わらず小賢しい事ね、メイド長さん」
瞬時に状況を把握すると、フランドールは未だ幼さの残る相貌を憎々しげに歪めた。
「フランドール様、お聞き下さい」
「うるさいな……! 壊されたくないでしょ? 死ぬのは怖いでしょ? だったらどきなさいよ!」
「……いいえ、ここは通せません。フランドール様、外に欲しいものがお有りなら仰って下さればすぐにでも
手に入れて参ります。私がお嫌でしたら美鈴でも誰か妖精メイドでも、好きな者を使いに遣らせます。
景色をご覧になりたいなら天狗に写真を撮らせます。誰かにお会いしたいのでしたら連れて参ります。
ですから――フランドール様、今はどうか、それでご容赦下さい」
咲夜はむしろ、説得と言うよりは懇願に近い口調で訴えたが、フランドールは馬鹿馬鹿しいと言わんばかりに
鼻を鳴らした。
「貴女は旅行雑誌やお土産のお菓子でそこへ行った気になれるの? それで満足出来るの? 随分と
安上がりな生き物ですこと」
慰めにしか――或いはそれにすらならない事を言っている自覚ぐらいはある。
レミリアの許可さえ下りれば、目付け役をいくらか供につけて外出する事ぐらいは出来るはずだ。
だが今レミリアに伺いを立てる事それ自体がフランドールにとって許容し難い行為である以上、咲夜に
出来るのはせめて次善の策を講じる事だけなのだ。
しかし、それすらも受け入れて貰えないのなら――自分は、一体どうすればいいのだろうか。

フランドールは咲夜の返答になど興味が無いようだった。一転して愉しそうな顔で謡うように何かを唱えると、
彼女の周囲を等間隔に取り巻いて魔法陣の編隊が姿を現した。それらはフランドールを中心にぐるぐると
回りながら広がってゆき、ある位置で拡散を止めると旋回しながら赤と青の光弾を吐き出し始めた。
「クランベリーはお好きかしら?」フランドールは悪戯をする妖精のような顔で言う。「私の自家製は、ちょっと
刺激的かもしれないけどね」
可憐な笑顔のその奥に、ぎらりと光る牙が見えた。

薄々感じてはいた。美鈴の言いかけた通り――こうなってしまったフランドールに、もう説得など通じは
しないのかもしれない。しかし、それを理由に逃げ出すような事は他でも無い十六夜咲夜自身が許せない。
紅魔館を守る責任がある。主人の妹を守る責任がある。けれどそんなものより何よりも――単純に、
純粋に、フランドールが哀しむ顔など見たくなかった。
彼女は今、狂気という名の熱病に浮かされているだけだ。今は良くとも、我に返ればきっと後悔する。
それを止められるのが今この時ならば、咲夜に退くという選択肢などあろうはずも無い。
鞭のようにしなった軌道を描く弾列がエプロンドレスの端を焼き裂き、咲夜はそこで思考に没頭していた
事に気が付いた。
――不味い。独白するが早いか宙に身を躍らせるが、行く手には既に数多の光弾がひしめいていた。
多少の傷は覚悟するしか無い。両腕で急所を庇い、咲夜は躊躇無く弾幕の中に飛び込んだ。
服を焼き髪を焦がしながらも、あくまで冷静に殺意の間隙を突き進む。壁をぶち抜いたその先に、
フランドールは悠然と立っていた。
「フランドール様――!」
「ばぁか」
フランドールの指が、タクトを振るうように虚空を撫でる。現れたのは、咲夜を吹き飛ばすに十分な規模の
弾幕。
「チェックメイト、ね。残念ながら、貴女は王様なんかじゃないけれど」
「……!」
両脇、天地、そして背後――今度こそ、抜け出る隙は無かった。赤、青、白の光が咲夜という一点に向いて
収束を始めた。
この場を切り抜ける手段は、もはや一つしか無い。ナイフだけは抜きたくなかったが――咲夜は奇術師
よろしくスペルカードを取り出し、空を切って放り投げた。
「――幻符」
ひらひらと宙を泳ぐよりも早く、青白い焔に包まれたカードは咲夜の宣言と共に燃え尽きた。
「『インディスクリミネイト』」
魔力を乗せたナイフが一瞬の内に咲夜を取り囲む。回避が叶わぬならば――せめて消し去るしか無い。
――しかし。
「待っていた」と言わんばかりに口の端を歪ませたフランドールに気付き、咲夜は全身に怖気が走った。
「だから――ばかだって言ったのさ」
フランドールの右手に――紅く光る何かが見えた。
まさか。咲夜の呆然たる呟きに満足げに眼を細めて、フランドールは右手を軽く握り締めた。
ぱん、と何かの弾ける音。
咲夜のナイフ達が、等しく粉微塵に砕け散った音だった。
「そ、んな――」
「一本も百本も、蟻も隕石も同じ事。じっくり味わいなさい、十六夜咲夜」

――激しい衝撃と共に、視界が暗転した。



* * * * *

隠れてこちらを伺っていた妖精達の悲鳴がエントランスを満たしている。
咲夜の名を叫ぶ声は、喧騒に紛れて掻き消された。
壁面に叩きつけられ、地面に落下し、尚も衝撃を発散し切れなかった身体がごろごろと床を転がる。
その終点で、咲夜はようやく意識を取り戻した。
「……う、ぐ……」
声にならない声を喉の奥から零しながら、咲夜はそれでも何とか上体を起こした。
全身が悲鳴を上げている。どれ程のダメージを負ったものか想像もつかない。こうして意識のある事を
幸いとするべきだろうか。それとも――。
「あら」小さな悪魔の呟きが、ホールのざわめきを一瞬にして掻き消した。「意外と頑丈なのね、人間って」
上空からこちらを見下ろす冷えた双眸。全身がこわばったが、咲夜はそれでも痛む身体に鞭打って宙へ
飛び上がった。
右腕が動かないのは、骨が折れているからだろうか。もはやどこがどう痛いのかも判らない。
「……フランドール、様」
咲夜とフランドールの視線が交差する。まだ続ける気か――フランドールの呆れた眼差しが、彼女の心境を
如実に語っていた。
「いい加減にしなよ。手加減してあげてるのが判らないの?」
「……義務は果たした。そんな言葉で見て見ぬ振りを決め込む事が、確かに一番賢いのかも知れません。
もう痛い目に遭わなくても済みますし、まして死ぬような思いをする事も無い。ですが――それでは
フランドール様が救われない」
「……なんですって」
「フランドール様。仰る通り、貴女様はお強い。ですが、その強さ故に悲劇に向けて弓を引いてしまう事も
あるのです。フランドール様の大切なものを私は存じませんが、もしもそれを失くしてしまえばどうなるか
――どうか、今一度お考え下さい」
「……っ」
この言葉が届かないのなら――もはや咲夜に打つべき術は無い。決意を込めた咲夜の眼差しに、
フランドールは僅かに怯んだような様子を見せた。
確かに、咲夜がこの紅魔館に来てから――そしてそれ以前も、フランドールが取り返しのつかない事態を
起こすような事は無かったようだ。しかしそれは、あくまで彼女が地下に幽閉されていたからであり、そして
彼女自身がそれを望んでいたからに過ぎない。この館の住人は、誰もがフランドールに負い目を持っている。
だから――なのだろう。派手な姉妹喧嘩こそすれど、当主たるレミリア・スカーレットすら彼女に強く出ようとは
しない。フランドールを諫める者は――誰もいなかったのだ。

「――ぅ……るさいなッ!」
「フランドール様……!」
最後の賭けは――咲夜の負けだった。
フランドールは再び刺し貫くような殺意を撒き散らして咲夜を睨みつけ、呪詛のように言葉を吐いた。
「もういいわ……たかが数十歳の人間の癖に、誰が偉そうな顔して説教垂れろと言ったのよ」
眼にも留まらぬ速さで、フランドールは咲夜の眼前へ飛び込む。弓の如くに引き絞られたその右手を
見て、咲夜は全てが間に合わない事を理解した。
「寝てなさい」
撃ち放たれた右手という名の矢が、猛然たる速度で咲夜の首へ襲い掛かった。
横合いから割り込んだ「脚」がそれを蹴り飛ばしたのは――正にその瞬間であった。



* * * * *

「め――」
美鈴。咲夜がそう呟いたのは、殆ど条件反射のようなものだった。
独楽のような軌跡で回し蹴りを放った美鈴は、その勢いのまま巻き込むような形で咲夜を抱きかかえると
更に一周螺旋を描いて地面に降り立った。
「大丈夫ですか、咲夜さん」
そう呼び掛けられて、咲夜はそこで漸く魔法が解けたように状況を認識した。
「だ……大丈夫ですかじゃないわ! 貴女、今自分が何をやったか解ってるの!?」
咲夜は痛みも忘れて怒鳴った。仕える者に手を――厳密には足だが――上げるなど、それだけでも
言語道断の行いである。その上相手はこのような状態のフランドールなのだ。美鈴の行為は燃え盛る火に
油樽を投げ込んだに等しい。
「いやぁ、あはは……ついつい」
「つ、ついついって――!」
「ですけどこれで――少しは頭が冷えたんじゃないですか。フランドール様」
「な」
咲夜は文字通り絶句した。フランドールを必要以上に刺激せぬよう、咲夜は慎重に言葉を重ねて来たと
いうのに――美鈴の態度はまるで喧嘩の押し売りだ。しかしフランドールは右手をひらひらと振ると、
却って愉しそうに笑った。
「悪いけど、そんな格好で言われても迫力が無いわ」
「そんな格好」と言われた美鈴を見上げて、咲夜は抱きかかえられっ放しだった自分に気が付いた。
「ばッ――ばば馬鹿っ! 降ろしなさい今すぐに速やかにっ!」
「あたたた、叩かないで下さいって」
聞き分けの無い子供をあやすような苦笑が憎らしい。半ば押しのけるような形で美鈴の腕から逃げ出した
咲夜はそこで、先程までの痛みが随分と和らいでいるように感じた。
「これは――」
何をどうしたのかは解らないが、十中八九、気を操る能力を持つ美鈴の仕業だろう。自分を抱きかかえて
いたのは、つまり、そういう理由だったのだろうか。少しばつが悪くなって、俯き気味に美鈴を伺う。こちらに
気付いて美鈴がにこりと笑い、咲夜は慌てて空咳をした。

「ホン・メイリン」
フランドールは覚えたての外国語を暗誦するような調子で言った。
「――だっけ? 貴女の名前」
二人の間に居た咲夜は一歩退いて視界を開く。答える代わりに美鈴は前へと進み出た。
「ただの門番がやってくれるじゃない。肘から先が吹っ飛ぶかと思ったわ」
「あっはっは、またまたご冗談を。――さて」
声色が。表情が。場の空気が――変わった。
砂漠の途上に見つけたオアシスは既に後方へ姿を消し、行く手には茫洋たる熱砂の海が再び姿を現した。
「フランドール様。お戯れはここまでです」

突如として吹き荒れた殺気に咲夜は眩暈を感じた。触れるもの全てを切り裂く、諸刃の剣の如き
フランドールの殺気。それを包み込み、押し潰さんばかりに放たれる――紅美鈴の殺気に。
「め、美鈴――貴女まさか、馬鹿な事を考えてるんじゃないでしょうね!」
「……すみません咲夜さん。少しの間、正門をガラ空きにしちゃいますけど」
「美鈴! 力の差を――いや、それ以前に自分の立場を考えなさい! 仕える方に手を上げるなんて――」
「咲夜さん」
少しボリュームの上がった声が咲夜の言葉を遮った。
「な、何よ」
「力では解決出来ない事は、確かにあると思います。けれどその反対に……言葉で解決出来ない事も、
またあるんじゃないでしょうか」
「……それは」
「気付いているでしょう。今のフランドール様に――説得は通用しない」
哀しげな瞳で、美鈴はそれでもはっきりとそう言った。
「癇癪を起こした子供に、言葉は通じません。フランドール様は右も左も解らない幼児じゃない。放っておく
事が出来ないのなら――ブン殴ってでも止めてみせます」
――それに。
頭に載せた帽子の位置を直しながら、美鈴は呟くように言った。
「私達はこんな仕事ですから、怪我をしただの骨が折れただのは覚悟の上です。……だけど。
真剣に自分の事を想ってくれている人を傷つけるような真似だけは――見逃せません」
紅髪の描く軌跡も鋭くフランドールへ向き直った美鈴の後姿に、咲夜はかける言葉を見失った。
自分の事ならば、その一言だけで十分に過ぎる。だのに彼女は、もはやこちらを顧みる事もしない。
矢張り――駄目だ。
本気でぶつかり合えば、美鈴は――或いはフランドールも、無事では済まないだろう。メイド長として、
十六夜咲夜として、そんな事は断じて看過出来ない。
咲夜は二人の間へ割って入るべく走り出した。が、二歩も三歩もせぬ内に何者かに肩を掴まれ、
彼女は予想外の不意打ちに対応出来ぬまま問答無用で引き戻された。

「これは何とも」
「あ――」
「中々面白い事になっているわね」
咲夜の肩を掴んだまま、パチュリー・ノーレッジは少しも面白くなさそうな顔で言った。
尤も、仏頂面が彼女の常態である事はこの館の誰もが知っている。目下の問題は――その目的だった。
「これはこれは、魔女先生。こんな時間にどういう風の吹き回しかしら? お姉様とのティータイムにはまだ
早いと思うけど」
「どこかのお嬢さんが派手に遊んでくれたお陰で、図書館に埃が舞って死に掛けたのよ」
フランドールの嫌味にも、パチュリーは眉一つ動かさずにそう返した。
「別にいいじゃない。血反吐吐いたくらいじゃ死なないでしょ?」
「死にはしなくても死にそうな目には遭うの」
自慢げに言う前に図書館を掃除すべきだと咲夜は思ったが、掛かる手間を想像して口を噤む事にした。
それよりも――。
「で? 貴女も私の邪魔をするのかしら」
「まさか。大蒜も十字架も白木の杭も用意してない状態で貴女と遊ぶ気は無いわ、妹様。たまには観戦に
回るのもいいかと思ってね」
「あ、そ」
それだけの遣り取りで、フランドールはもうパチュリーから興味を失くしたようだった。だが、咲夜はそんな
事で納得出来るはずも無い。
「パチュリー様! 冗談はお止め下さい!」
「うるさいわよ咲夜。耳元で叫ばないで」
「ふざけないで下さい……! 今ならまだ間に合うんです、フランドール様の説得に協力して下さい!」
「説得ですって? 咲夜、貴女今のフランドールにそれが通じると思ってるのかしら。本当に? 心から?」
「……そ、れは……」
「無駄よ。この状況を見るに、美鈴もそう言ったと思うけれど」
美鈴に続いて、パチュリーまでもが断言した。微かに残っていた希望までもが粉々に打ち砕かれ、咲夜は
為す術無く立ち尽くした。

「……でしたら……」
次善の策が潰えたならば、第三、第四の策を採るより他に無い。
「でしたら、力をお貸し下さい。私と美鈴、そしてパチュリー様が居ればフランドール様を抑え込む事も
出来るはずです」
「悪いけど、それも却下。ちょっと思わしくなくてね、体調が」
「なっ……!」
パチュリーは思い出したようにごほごほとわざとらしく咳き込んだ。
「……でしたら!」
「だからうるさい」
「雨を降らせて下さい! それぐらいなら出来るはずでしょう!」
「それぐらいって、簡単に言ってくれるわね。でも駄目よ」
「どうして!!」
「今日は水曜日じゃないから」
「い、いい加減……に……?」
思わずパチュリーを睨み付けた咲夜の身体から、前触れ無く力が抜けた。
何事かと口に出すのも億劫な程の倦怠感が身体を包み込む。意志に反して、まるで傀儡の糸が切れた如く
咲夜はへなへなと座り込んだ。
「悪いけど――邪視を掛けさせて貰ったわ。ここで大人しくしてなさい。下手に動かれては困るのよ」
「そ、んな……」
「それに」と言いながらパチュリーは片手で前方を指し示した。
「どの道、もう遅いわ」



* * * * *

「……で? よく聞こえなかったんだけど、私をどうするって? もう一度言って貰ってもいいかしら」
――弱さを見せてはいけない。
フランドールが楽しそうに口を歪めて、眼だけは狩猟者のそれのまま言う。内心の戦慄を押し隠し、美鈴は
その双眸に真っ向から挑みかけた。
「力づくで理解して頂く、と申し上げました。フランドール様」
慣れない敬語も、威圧感を出す手段になる。白刃の上を裸足で歩くような心境でも、あくまで表情は穏やかに。
「貴女が己の意志を力で通そうとするならば――こちらも力を以て阻むまでです」
「あははははッ! 言うじゃない、雑魚妖怪さん……そんなに壊されたい訳?」
――来た。
フランドールはこれ見よがしに右の掌を持ち上げた。悪魔の妹は、その右手でありとあらゆるものを破壊
する――わざとらしく首の骨を鳴らして、美鈴はにやりと笑って見せた。
「どうぞ、やって下さい。やれるものならね」
「何ですって……!」
首の次は指の関節をパキパキと鳴らす。爆発せんばかりのフランドールの殺気を受け流すのは、並大抵の
業では無い。美鈴をこの場に立たせているのは、やらねばならぬというその思い。
「無駄ですよ。貴女の能力では、私は壊せない」
「……はは、ははは。何それ、無駄だからやめておけって? それ、命乞いのつもりかしら? 私の力が
通じないものなんかありはしないわ。全ての『眼』は私の右手の上にある。貴女如きが――」
「だったら、やってみればいいでしょう。おちびさん」
「――ッ!!」
理性の緒が弾け飛ぶ音が聞こえた気がしたと思う間も無く、フランドールの小さな右手は破滅の形に握られた。

天狗のカメラに四角く切り取られたように動きの止まった世界で、美鈴の額に一粒浮かんだ冷や汗だけが
そ知らぬ顔で頬を伝い落ちた。フランドールがそれに気付かなかったのは、眼前で起きた有り得べからざる
事態に文字通り固まっていたからだった。
「……なんで……?」
ようやくといった体でフランドールはそう呟いた。何度右手を開閉してみても、美鈴には何の変化も見られない
どころか、彼女の「眼」すらその掌上に影も形も無い。
「……だから、無駄だと言ったでしょう」
フランドールの肩が一瞬びくりと跳ね、それから彼女は体裁を誤魔化すように美鈴を睨み付けた。
その身を賭けた策の第一段階は成功したと言っていいだろう。己の能力の通じない、理解の及ばぬ者の存在を
フランドールは初めて知ったはずだ。

紅美鈴は強い。そう思わせなくてはならない。

美鈴がした事はただ一つ。フランドールの右手を蹴り飛ばした時に、そこを走る気の流れを乱しておいただけだ。
美鈴からすれば何の事も無い手品だが――この通り、効果は絶大だったらしい。
一般的に、技術というものはそれが高度になればなるほど、細密なコントロールを要求されるものだ。例え
フランドール自身は無意識であったとしても、ありとあらゆるものを破壊するという余人には理解もつかぬ
能力が、緻密なバランスに依っていない訳が無い。歯車一つ、道筋一つ歪めてやれば無力化には足りるのだ。

さて――。
心臓を素手で握られているような心持ではあったが、ここまでは予定調和とまではいかずとも予測通りの
展開である。橋頭堡は築き上げた。問題は――ここからなのだ。
レミリアに、パチュリーに、咲夜に、彼女の知る全ての人物に、フランドールは負ける事など一切考えては
いないだろう。レミリアには勝てずとも、その膂力は吸血鬼を名乗るに些かも足りぬものでは無く、その魔力は
既に姉を軽く凌駕している。そして万が一敵に圧されるような事があれば、その時は右手を小さく握れば
いいだけだ。如何な相手であろうと、如何な状況にあろうと、彼女は常に切り札を手にしている。
だから彼女にとって――全ての戦闘は、ジョーカーを切るまでの遊びなのだ。
しかし。
その切り札が通じない相手が現れた時、フランドールは何を思うだろうか。己の手札から鬼札を抜き取られ、
目の前で優しく破り捨てられてしまった時、彼女は果たして動揺せずにいられるだろうか。
なるほど、手札はまだまだ彼女が有利だろう。どれもこれも、最上級のカードが揃っている。しかし、彼女は
もはや、己を絶対的優位にいるとは思えないはずだ。何となれば、相手は今まで戦って来たルールの通じない
存在なのだから。
千に一つ、万に一つでも負ける可能性があると思わせる事が出来れば、今はそれでいい。そう思わせて、
紅美鈴はようやくフランドールと同じ土俵に立てるのだ。
「……ふっ、ふふふ……あーそう、じわじわと痛めつけられるのがお好みって訳ね。いいわよ、遊びましょう。
貴女が壊れるまで、短いひと時をね」
「折角ですが、お断りさせて頂きます。戯れはこれまでと申し上げたはずですよ、フランドール様。主人を
諫めるのが従者の務めならば――子供を叱るのは、大人の仕事です」
大人が子供に劣ってはいけない。少なくとも、劣っていると思われてはいけない。格下の相手からの忠言を
素直に聴くフランドールでは無いだろう。だから――美鈴は大物を演じ切る。対等では無く、圧倒的強者として
叩き伏せる。もはやそうでもしなければ、彼女の狂気に歪んだ心には届かない。

半壊状態のエントランス・ホールが、大きく鼓動したように揺れた。壁に、天井に遠慮無く亀裂を走らせながら、
フランドールの魔力が荒れ狂う颶風となって美鈴に叩き付けられる。物言わぬ魔風が孕むのは、紅黒く澱んだ
殺意と狂気。僅かでも気を抜こうものならば魂ごとバラバラに引き裂かれそうなその嵐の中に、美鈴はしかし
動じる事無く立ち続ける。今更後に退けはしない。これが望んだ事態ならば、眠れる龍を起こそうが、挙句
逆鱗に触れようが、もはや開き直るより他に無いのだ。
――深く静かに息を吐く。気の流れを整える。
軽く浮かせた片脚を、叩き付けるより沈めるように踏み込んだ。
絨毯ごと踏み抜いた床石が粉々に宙を舞うよりも疾く、美鈴の拳は十歩の距離を越えてフランドールの顔面に
突き刺さっていた。

「なッ……」
フランドールが驚愕の声を上げる。確かに彼女を打ち抜いたと見えた拳は、すんでの所で割り込んだ右手に
防がれていた。
美鈴は軽く柳眉をつり上げた。未だ己を侮るフランドールの油断を、美鈴は完全に突いたはずだった。
螺光歩――瞬時に相手との距離を詰める箭疾歩という技をアレンジしたこの技は、本気を出せば常人には
消えたとしか思えぬ程の速度を出す事が出来る。
自分で言うのも何だが――、
「簡単に見切れる技じゃ無いと思うんですけどねぇ……」
素早く距離を取ってから、フランドールに聞こえないように呟いた。それすらも凌いで見せたフランドールの
地力に、美鈴は今更になって寒気を感じた。
「……へえ、面白い技使うのね。それが拳法ってやつ? もっと見たい所だけど、残念。今日は急いでるから
また今度じっくり見せてもらうわ――生きてたらね」
隙に付け入るその前に、フランドールは既に驚きから立ち直っていた。螺光歩を受け止めた右手をぷらぷらと
振りながら、フランドールはどこからか歪な黒い杖のようなものを取り出した。悪魔の尻尾が二つくっついた
ような形状をしたそれをくるくると回しながら、フランドールは口角に小さな牙を覗かせた。
「禁忌」
スペルカードを投げ捨てると、両手で握った黒杖を上段へと無造作に振り上げてフランドールは謳うように
その名を呼んだ。
「『レーヴァテイン』」
天に向かって噴き上げるように、杖を包んで炎の柱が巻き起こる。十メートルはあろうかという刀身が天井を
焦がした次の瞬間、それは地面を真っ二つに引き裂いていた。
「ちょっ……おわぁっ!」
間一髪で初太刀を躱す。横に飛んだ身体が再び地に着く前に、美鈴の胴体目掛けて二の太刀が跳ね上がった。
物を言ったのは歴戦の経験である。飛翔の要領で強引に宙を蹴り、背中から倒れ込む事で回避すると、天へ
向かって空を裂く火柱を眼の端に確認しながら美鈴はそのままごろごろと地面を転がった。再び天井を焼いた
レーヴァテインが振り子さながらに振り下ろされた刹那、美鈴は満身の力を左手に込めて地面を打った。
言わば掌打による震脚で、美鈴の身体は回転したまま一気に前方へ跳ね飛んだ。美鈴はそのまま二歩、
三歩と半転しながら床を蹴り込み、地面を穿ちながらまるで曲芸師のような動きであっと言う間にフランドールの
背後へと回り込む。疾風よりも尚疾く、美鈴は最後の一歩を踏み込むとフランドールへ向けて弾丸の如く
飛び込んだ。
言いようの無い悪寒を感じたのは、ガラ空きの胴に容赦の無い一撃を蹴り込もうとした瞬間だった。
この手の感覚は外れた試しが無い――頭がそう考える前に、本能が横に跳ね飛ぶ事を選択していた。前方に
向かって振り下ろされていたはずのレーヴァテインが一瞬前まで居た空間を斬り裂いたのは、その直後だった。
「……!」
予感を無視して突っ込んでいれば、美鈴は今頃間違い無く見事な唐竹割りになっていただろう。一体如何な
手品を使ったものか――否。床に残る裂創で、美鈴は事態を理解した。フランドールは何ら小細工を弄しては
いない。彼女はただ――振り抜いただけだ。
バターのように地面を割り裂きながら、フランドールはレーヴァテインごと、まるで水車のように「縦」に回転
した。前方に振り下ろされたレーヴァテインはそうしてそのまま一切の無駄無く、地を潜って美鈴の足元から
跳ね上がったのだ。
「ちぇっ。真っ二つになると思ったのに」
フランドールはまるで悪戯に失敗したような口ぶりで言った。
読まれていた――のだろう。自分が剣の長大さの隙を突く事、背面に回ろうとする事までも。
ぽたりと一粒、汗が落ちる。じわりと床に広がるその雫のように、美鈴は今度こそ、フランドール・スカーレットと
いう化け物の恐ろしさを感じていた。



* * * * *

「ジェリーフィッシュプリンセス」
術式を封じたスペルカードを一枚取り出すと、パチュリーは大儀そうな声で宣言した。途端、咲夜とパチュリーを
包み込んで巨大な水泡が一つ、そしてその周囲に幾分小さいものが数個出現する。考えるまでも無く、対
フランドール用の障壁だろう。パチュリーは次いで人型に切られた紙の束を取り出し、何事か呪文を唱えて
四方へ放った。紙人形達はめいめい一直線に散らばって、水の魔法で以てレーヴァテインの余波で燃え
始めた館内の消火を開始した。
「……今日は水曜日では無いのでは?」
咲夜は露骨に非難の意図を込めた眼でパチュリーを見上げた。
「気が変わったのよ」
パチュリーはぺたりと座り込んだ咲夜に一瞥も向けず答えた。文字通り眼中に無いという事らしい。成る程、
それはそうだろう。大声を出そうにも喉に力が入らず、立ち上がろうにも腰に根っこが生えたように動けない。
美鈴とフランドールの殴り合いを、安全圏から見ているくらいが関の山――屈辱と怒りと情けなさで、咲夜は
泣き出してやりたい気分だった。

どうやらこの魔女は、本当に戦う気が無いらしい。ポーカーフェイスというよりは仏頂面に近いいつもの
表情で無言の観戦を続ける姿からは、不干渉以外の如何なる意思も感じ取れない。
美鈴はフランドールと身も凍るような立ち回りを続けている。一歩間違えれば骨肉の別無く破壊される
最悪の相手を前に半歩たりとも退く事の無い美鈴の姿は、こんな状況でさえ無ければ見惚れてしまいそうな
完成された美しさすら持っていた。しかしそれも、一ミリのミスすら許されないこの火事場においては咲夜の
心臓を不安に締め付ける要素に変わってしまう。事実――このままでは遠からぬ内に、美鈴は致命傷を
負ってしまうに違いないと思われた。例えそうなる前に何らかの形でこの騒動が終結したとしても、果たして
美鈴はその時まで五体満足でいられるものだろうか。全てが終わった後の光景を想像して――咲夜は
ぞっと身震いした。
「パチュリー様……後生ですから、フランドール様を止めて下さい! このままでは美鈴が――!」
振り絞るように声を出した咲夜にも、パチュリーは素っ気無い。あくまで前方から眼を離さずに、独り言の
ように「大丈夫よ」と呟いた。
「アレも妖怪だし、手足の一本や二本吹き飛んだぐらいじゃ死にはしないわ」
「そういう問題では無いでしょう……!」
咲夜はいきり立った。大体、手足だけで済むならむしろ安いものだ。歯止めの効かないフランドールの
暴力が、その程度で美鈴を開放するとは到底思えなかった。
フランドールが気紛れや癇癪でこういった事態を引き起こす事は、珍しい話では無い。常ならば彼女の
姉であるレミリア・スカーレットが、そして今咲夜の隣に立つこの忌々しい魔女があの手この手で
フランドールを静めていた。この二人に頼れない以上――、と考えかけて、咲夜は思わず「あっ」と声を
上げた。

「……お嬢様」
そうだ。咲夜ははたと手を打った。この館にはまだ――レミリアがいるではないか。
主人を頼り、あまつさえその身を危険に晒すなど、従者として有り得べからざる行為である。そんな思いが、
無意識に咲夜の内からこの選択肢を消していたのだろう。しかし事態はもはや冗談では済まない所まで
来ているのだ。それに、何もレミリア直々に戦って貰う必要は無い。彼女に頼まれれば、さしものパチュリーも
無下には断れまい。何より、レミリアは確かに稚気を隠そうともしない性格だが、窮地の部下を捨て置くような
真似だけはしないと咲夜は信じていた。
「パチュリー様――」
呼びかけた瞬間、胸に湧き上がったのは微かな疑念。しかし視界の端を束の間横切る影のようにあやふやな
それの正体を確かめている暇は無い。
今は気付かない振りをして――咲夜は魔女に訴えかけた。



* * * * *

剣術の心得の無い事が、これ程脅威になるとは思いもしなかった。
文字通り縦横無尽に剣を振るうフランドールだが、その太刀筋は到底剣術などと呼べるものでは無い。
まるで拾った棒切れをがむしゃらに振り回す子供そのもの――違うのはその手に持つ得物、そして
圧倒的な膂力だ。殊更自慢する気は無いが、拳法剣術、その他武芸百般に関しては、美鈴は後ろで
高みの見物を決め込んでいる本の虫を遥かに凌ぐ知識を持っているという自負がある。それはただ
識っているというだけのものでは無い。
基本的に長命である妖怪達の中にあって決して短いとは言えぬ時を生き抜いてきた美鈴の、実戦と経験に
基づいた確固たるデータの蓄積なのだ。相手が如何な達人であろうとも、否、達人であればある程、その
剣筋は手に取るように読む事が出来る。だからこそ――フランドールの本能のままに空を裂く出鱈目で
滅茶苦茶な太刀筋は、美鈴にとって最もやりにくく恐ろしい。

幾度目かも解らぬ叩き付けるような袈裟斬りを、美鈴は反対側に跳ぶ事で回避する。と思った途端、
炎の剣はまるで慣性など初めから働いていないかのように、縦から横薙ぎに直角の軌跡を描いて美鈴を
追尾した。
「くぅっ!」
素早く地面に気弾を放ち、その反動を利用して美鈴は間一髪で身体を宙へ逃がした。しかしそのまま大きく
横に振り抜かれるはずの剣はフランドールの強引極まる膂力によってまたも易々と軌道を変え、爆発的な
加速を与えられて三度美鈴に襲い掛かった。

――埒が明かない。
ひらひらと宙を舞う蝶々のようにいっそ優雅にすら見える動きでレーヴァテインを避けながら、美鈴は内心の
焦りを努めて表に出さぬよう心がけていた。しかしそれも――どうやら無駄であるらしい。
「あははははははははっ! ほらほら、ちゃんと避けなきゃ死んじゃうわよ?」
美鈴が打つ手無く逃げ回っている事などお見通しだと言わんばかりに、フランドールは嘲りすら浮かべた瞳で
災いの枝を振るう。それが四方八方を破壊する音と共に、ホールを満たしてフランドールの狂的な笑い声が
いつまでも響き続ける。この有様では――最早外に出ようとしていた事などとうに忘れているのかもしれない。
彼女が声を上げて笑うのがこんな破滅的な場面だけである事を思い、美鈴は遣る瀬無さに顔を顰めた。
しかし今自分がやろうとしているのは、フランドールからその笑いさえも奪い取る事に他ならない。
――ならばこそ。
遠慮も躊躇も、同情すらもあってはいけない。他ならぬそれらが――彼女にここまでの狂気を許して
しまったのだから。
拳をきつく握り締める。フランドールが膂力に恃む戦い方をするならば――こちらも真似てやればいい。
ホールの天辺まで駆け上がった炎が再び一直線に降りてくるのを眼にするや否や、美鈴は再び地を穿って
駆け出した。時計回りにカーブを描いてフランドールの脇を走り抜ける。また同じ手で来たか、と彼女が
思えば儲け物、そうでなくとも――、
「ふッ!」
斜め後方、フランドールの視界から外れた瞬間、美鈴は両足を宙に浮かせ、身体ごと捻って無理矢理に
彼女へと向き直った。
フランドールが如何な無法を振るおうと――それより疾く拳を届かせればいいだけだ。
全身の気を両の脚に流し込み、地面を激しく割り踏んだ。フランドール宜しく強引に進路を捻じ曲げた衝撃を
食い縛って遣り過ごし、極限まで溜めたエネルギーを解放して――美鈴は「跳んだ」。
遠巻きに見ている咲夜達に、果たしてこれが目視出来ただろうか。発条さながらに螺旋を描いて圧縮された
気によって、美鈴は螺光歩を遥かに超える速度を生み出した。着地の事など考えていない。頭にあるのは
ただ一つ、フランドールに一撃を浴びせる事だけ――ここに至って、美鈴は最早一発の弾丸であった。その
速度も、破壊力までも。
フランドールは即座にこちらを振り向き、紅眼を大きく見開いた。しかしその口が音を発する前に、美鈴の
音速の靠撃が彼女に突き刺さっていた。
「かはッ……!」
巨大な鉛の砲弾を、フランドールは無防備な胴で受け止めたに等しい。美鈴の肩と背中に強か打ち付けられ、
肺から空気の塊を吐き出してフランドールの華奢な体躯は大きく吹き飛んだ。その手から投げ出された
レーヴァテインが、元の黒杖に戻って地面に転がる。
どう、と受身も取れずに倒れたフランドールを視界の端に捕らえながら、同じくぼろぼろに引き裂かれた絨毯の
上に倒れこんだ美鈴はすぐさま跳ね起きて追撃の構えに入った。
「まだぁッ!」
糸で繰られる傀儡のようにふらふらと立ち上がるフランドールに電光石火で飛び込み、問答無用で回し蹴りを
放つ。綺麗な半月を描いて、それは少女の胴へと吸い込まれるよう叩き込まれた。
――決まった。
完璧なタイミング、完璧な位置に、完璧な速度で繰り出された蹴り。しかしその後にやってくるはずの
中身の詰まった麻袋を蹴り込むような重い感触は、「有るのに無い」――そんな奇妙な手ごたえへと取って
変わられていた。
「……な」
思わず洩れたのは間抜けた声。明らかに軽すぎる手ごたえに蹴り脚を見れば、フランドールは両手両足で
まるで脚に乗るようにして蹴りを受け止めていた。
「く――!」
強引に振り抜くが、その勢いを利用してフランドールは遥か後方へ跳び下がると、首から上が崩れ落ちた
彫像のその肩にひらりと着地した。口角を薄っすらと吊り上げて、隙間に牙を覗かせる。じゃらりと異形の
翼をひと打ちしたその姿はこの上無く悪魔的で――美鈴は肩で息をしながら、思わず魅入られたように
動きを止めてしまった。

「……はは、あはははは! 今のは少しぞくぞくしたわ!」
フランドールは全く効いていないという素振りで笑う。一方の美鈴は、急激な身体の酷使に跳ね回る心臓を
抑える事に精一杯だった。
「ねえ貴女、褒めてあげるわ! 体術だけで私を吹き飛ばす事が出来るなんて、あいつ以外じゃ初めてよ!」
嬉しそうに――心から愉しそうに、彼女は言う。その蟲惑的な言葉に倒錯した名誉心すら覚えそうになり、
美鈴は慌ててかぶりを振った。
「気に入ったわ、貴女。あんな人間なんかより何十倍も面白いわよ」
「……咲夜さんを悪く言わないで下さい」
険も鋭く睨み付ける。フランドールは「ふうん」と一つ、どうでも良さげに鼻を鳴らすと、
「そんな事より早く続きを踊りましょう? ダンスはまだまだこれからですわ」
「んなッ……!」
くるりと優雅に一回転して地面に降り立ったフランドールの手には、いつの間にか洋弓の形に捻じ曲がった
黒杖が構えられていた。口の端に銜えられたスペルカードが、燐光を放って燃え落ちる。同時に、極限まで
引き絞られた魔力の弦が無数の弾幕を吐き出した。
どうにか急所を守るまでが――美鈴に出来る限界だった。刹那の内に視界を埋め尽くした、無数の
スペクトルの弾、弾、弾。スペルカードルールの内であればこそその美しさを讃えられた弾幕も、この場に
おいてはただ只管に一方的かつ圧倒的な暴力の具現でしか無い。悲鳴一つ発する余裕も無く、美鈴は
全身に衝撃を受けて吹き飛んだ。
「禁弾、『スターボウブレイク』。吹っ飛ばされた分はちゃんとお返ししなきゃ駄目よね」
けらけらと笑うフランドールの声が、やけに遠く聞こえた。



* * * * *

どういう――事ですか。
半ば以上に予想していた事ではあったが――それでも、そう問い掛けずには居られなかった。
「言葉の通りよ」
問いに対するパチュリーの答えは、至極簡潔なものだった。
静かにこちらを見つめる双眸からは、相変わらず何の色も読みとれない。呆れているのか、嘲っているのか。
それとも――。
「レミィの眠りを妨げる気は無いし、させるつもりも無い」
パチュリーは噛んで含めるように、ゆっくりと繰り返した。対する咲夜は言葉も無い。ただ無言で、パチュリーを
見返した。ここまで来れば――パチュリーが何らかの意志を持って咲夜の動きを阻んでいる事は、最早誰の
眼にも明らかであった。
無意識の隅に押し込んでいた疑念は、既にそこに収まる大きさでは無かった。
――そう。考えてみれば、ホールが半壊する程のこの騒動が、レミリアの眼を覚まさぬはずが無い。誰かが
呼びに向かうまでも無く、レミリア自らとうの昔に現場へ駆け付けていなければおかしいのだ。それがここに
至って何ら動きを見せないとなれば――、彼女が自身の意志でこの事態を静観しているとしか思えない。

一体。咲夜は呻くように言った。
「一体――何を企んでいるのですか」
パチュリーは漸く理解したかと言わんばかりに溜息を吐くと、億劫そうに髪を掻き上げた。
「言っておくけど――私は何も知らないわ」
口を開こうとした咲夜の先手を打って、「本当よ」と続ける。
「何も知らないし、何も聞いていない。ただ――少し、推測出来る事があるだけよ」
「……推測」
「信用出来ないというのなら、それでもいいけれど」
手放しに信じられる、などとは到底言えない。何せ目の前の少女は、文字通りの「魔女」なのだから。
ただ、どちらかと言えば早口な彼女が気持ちゆっくりとした口調で喋るのは、相手に理解を求めている時の
癖である事を咲夜は知っていた。
「……だとしても、それが何であるかを明かされる気は無いのでしょう」
信じます――などと言うのがどうにも悔しく、咲夜は僅かに反抗する。パチュリーは当然だと言わんばかりに、
「間違っていたら格好がつかないじゃない」
「パチュリー様が外聞を気にされる方だとは存じ上げませんでした」
「……可愛くないわね、貴女。そんなだから――」
パチュリーの視線がつ、と滑って美鈴に向かう。咲夜は慌てて続きを遮った。
「と、とにかくっ!」
推測だけでここまで妨害するのだから、それはもはや確信に近いものなのだろう。納得はいかないが、
レミリアが何らかの意志を持って不動に徹している以上、咲夜にはパチュリーに指示を仰ぐ以外に取るべき
方策が無い。
「教えて頂けないのなら、せめてどうするべきかを!」
「無いわよ」
「は?」
「貴女に出来る事なんて無いわ。強いて言うなら、美鈴が死なないように応援でもしてあげる事ね」
あまりにもあっさりと言ってのけるパチュリー。咲夜は思わず身を跳ね起こす――邪視は既に解かれていた。
「そういう冗談はお止め下さい!」
「本気で言ってるのよ、私は」
「なっ……!?」
「……或いは確かに――これが最良の展開なのかも知れない」
その言葉は、咲夜よりもむしろパチュリー自身に向けて呟かれたもののようだった。そしてそれを契機に、
パチュリーは独り黙考の姿勢へ入ってしまった。



* * * * *

「……いつまで死んだふりしてるの? 面白くないよ、そういう古典的なのは」
本当につまらなさそうなフランドールの声が降って来る。うつ伏せに倒れている美鈴からその姿は見えないが、
すぐ近くでこちらを覗き込んでいるのであろう事は解った。
自分相手にこの至近距離まで近づいて来るとはなめられたものだと美鈴は思ったが、しかし彼女にはその
資格がある事もまた理解していた。
まさか、死んだ振りなどしたい訳が無い。動けないのだ――本当に。
倒れ伏したまま、指一本動かす気力までもひたすら激痛の中和と回復に回している現状を死んだ振りだと
言うのならば、それは確かにそうかも知れないが。
手足が吹き飛ばなかったのが不思議なくらいだと美鈴は思った。人一倍に頑強な身である事を、今ほど誇りに
感じた事は無い。しかし無論、フランドールがそんな思いを忖度するはずも無かった。待つに飽いたか、
容赦無く弾を撃ち放った所を身を捻って何とか躱す。その勢いを利用して無理矢理起き上がると、手足の
動く事を確かめるや否や脱兎の如くフランドールの懐へ跳び込んだ。
この距離なら――、
(私のほうが強いッ!!)
自負、確信、それらと共にフランドールの顔面へ音速の正拳を撃ち込んだ。が、必中と目したその一撃は
彼女の頬を掠めて虚しく空を打ち――その逆、美鈴の胸に浅く突き刺さったのはフランドールの指先であった。
「……な」
想定外の事態に、ほんの一瞬動きが止まる。その致命的な隙にフランドールの出鱈目な蹴りが叩き込まれ、
美鈴はいとも容易く地面に転がった。

フランドールは血に濡れた右手をちろりと舐めて、それから美鈴を見下ろした。何事か言おうと口を開いた
彼女に、猛然と脚を跳ね上げる。フランドールが半歩退いてそれを回避する間に美鈴は起き上がり、
そのまま長い両脚を鞭のようにしならせて二発、三発と蹴りを繰り出した。たちまちの内に、フランドールは
防戦一方となる。
――そうだ。さっきの一撃はただの偶然――たとえ相手が吸血鬼であろうと、この距離で自分が遅れを取る
はずが無い。否、取ってはならないのだ。
しかしそんな思いとは裏腹に、美鈴の拳脚はそのことごとくが防がれ、躱され、宙を切る。それどころか、
並の人妖には捉える事すら出来ない猛攻の僅かな間隙に、フランドールは寸分あやまたず反撃を差し込んで
来る。
「あっははははは! とんだ門番がいたものね!」
フランドールが縦横無尽にその爪を閃かせる度に、美鈴の身体からは血煙が舞う。
「門扉どころか自分の身すら守れないなんて、ねッ!」
「くあ……っ!」
暴風。フランドールの動きを例えるに、これ以上の言葉は無いだろう。
上腕、脇腹、大腿、頬、髪――フランドールの爪があらゆる箇所を裂いてゆく。致命傷とは程遠い無数の
傷が、却って美鈴に非常な焦りを与えた。対して美鈴の足刀が切り裂いたフランドールの傷口は、二秒と
経たず塞がってしまう。美鈴は初めて――どうしようも無い絶望感が、じわじわと胸の内に広がってゆくのを
感じた。
その瞬間。
刃そのものと化したフランドールの掌が――遂に腹部を深く抉った。

「――ッ!!」
堪え切れずに、声にならない悲鳴が上がる。しかしフランドールはそんな美鈴にむしろ恍惚たる笑みを
浮かべると、残った片手を美鈴の胸に当て、吸血鬼の膂力で押し潰すように地面へ叩き付けた。
「が、はッ……!!」
全身がバラバラになる程の衝撃――激痛。胸骨が砕けなかったのは、ひとえに反射的に練り上げた
硬気功のお陰だった。焦げて引き裂けた絨毯の下で、膨大な衝撃を受け止め切れなかった床面が放射状に
破砕してクレーターを形成する。肺腑から根こそぎ空気を吐いて尚足りず、美鈴は痛みよりも窒息に喘いだ。
咲夜の叫び声。フランドールの哄笑。隠れて見守る妖精達の戦慄。それら周囲の状況は、むしろ感覚が
研ぎ澄まされたように手に取る如く解ったが、にも関わらず美鈴はもはや指一本動かす事能わなかった。
心までへし折るに十分な――決定的な一撃。

傍らで狂笑を続けるフランドールは、トドメを刺す気も無いのだろう。それが似合いだと美鈴は思った。
あまりにも情けなく呆気ない幕切れ。それも全ては――彼我の力量を読み違えた己の増上慢が引き寄せた
ものなのだから。
――そのまま、意識さえ遠くなる。
「もういいか」と思った途端――何もかもを諦めた途端に、目的という名の浮きを失くして美鈴の意識は深い
無意識の水底に沈み始めた。
途方も無い年月を重ねて鍛え抜いた身体も、技術も、経験も。吸血鬼・フランドールという一個体の前には
何らの意味を持たなかった。
当然の事だ。いくら力を尽くそうと、生身で山を打ち抜く事など出来はしないのだから。そしてそれは、
フランドールの心そのものでもある。――そうだ。誰が、どうして、どれだけ言葉を尽くそうが、彼女の
心には届かないのだ。きっと、永遠に。

水と混ざって、溶液が徐々にその色をぼかしてゆくように。
暗い光に包まれ、混ざり、溶けるいしき。
うすれるおと、けしき、けはい。
――その、なかに。

「美鈴」

さくやのこえが――聞こえた。

或いは、それは彼女以外の誰かの声だったのかも知れない。パチュリーが、妖精達が、フランドールが
呟いた音だったのかも知れない。
美鈴にとって、しかしそれは誰の声であろうと構わなかった。誰が如何なる意図で発した声であろうと、
それは美鈴の胸に、確かに十六夜咲夜を想起させたのだから。
身を切るような彼女の悲痛なまでの言葉が、言葉のままでは届かないのなら――力を以てしか伝える事が
出来ないのなら。その為にこそ、自分は拳を振るえぬ咲夜の代わりに、彼女自身の意思を押しのけてまで
フランドールの前に立ったのでは無かったのか。
――ならば。
こんな所でだらしなく寝ている時間は、もう終わりだ。

ふらりと、血塗れの身体で美鈴は幽鬼のように立ち上がった。
意外そうに自分を見るフランドール――その顔に、閃光の如き一撃を叩き込む。不意を突かれて尚
フランドールは首を捻って美鈴の拳を空に流したが、美鈴はその手で彼女の肩をしかと掴み、腹部に
猛烈な蹴りを叩き込んだ。
「ぐッ……!?」
さしもの吸血鬼にも想定の埒外であったらしい、フランドールは身体をくの字に折り曲げてくぐもった声を
吐く。そこへ更にもう一撃――今度は満身の気を込めて蹴りを放った。インパクトの瞬間、開放された
気が蹴りの衝撃と共にフランドールの身体を穿ち、彼女は今度こそ大きく吹き飛んで地面に片手をついた。

「げほッげほッ……や、ってくれたわね……! 弱いくせに――!」
あれ程の痛打を受けながらあっさり身体を起こす吸血鬼の瞠目すべき体力にも、美鈴はもはや動じない。
怒りに爛々たる光を燃やすその紅い双眸を真っ向から睨み返して、す、と構えを取った。
「立って下さい。腰が抜けているので無ければですが」
「……一度、当てたくらいで――調子に乗るんじゃないわッ!」
フランドールが咆哮し、跳ぶ。あくまでも肉弾戦で、こちらにとって最も屈辱的な敗北を叩き付けるつもりで
あるらしい。しかし、それこそ美鈴の望む所であった。元よりそれ以外に勝ち目の無い事など判り切って
いる。
状況は殆ど変わっていない。美鈴の挑発に逆上したフランドールが、先程よりも更に容赦の無い攻撃を
してくるであろう事以外は、何も。
変わったのは内面――美鈴の心だった。

肉体というものは、いつでもどこでも、常に百パーセントの力を発揮出来る訳では無い。内臓の不調や疲労、
骨折などの外傷――様々な要因で、容易く本来の力を失ってしまう。
そして気力――つまり精神もまた、肉体と近しい構造を持っている。元気、怒気、弱気、鬱気――そういった
言葉に表されるように、心とは肉体以上に移ろい易いものだ。
フランドールの魔力に対する警戒心が、近接戦での安堵、慢心を生んだ。そしてそれは焦りに転じ、遂には
恐怖へと変わって、知らず美鈴を追い込んでいたのだ。気を使う程度の能力を持つ故にこそ、美鈴は
自らの精神の影響を著しく受けてしまう。或いはそれこそが――およそ弱点と呼べるものを持たぬ美鈴の、
数少ない隙であるのかも知れなかった。しかしそれは、何もマイナスに働くばかりでは無い。
水月のように冷たく静かな光を両眼に宿しながら、今、美鈴の心は熱く燃え盛っていた。
認めよう。修練など積んだ事のあろうはずも無いその肉体ですら、フランドールは確かに自分を凌駕し得る
力を持っている。それを認め、受け入れ――それでも。
(……勝ってみせる)
爪を閃かせて疾駆する激情と狂気の悪魔を、不退転の決意で見据える。胸の奥で静かに、しかし暴力的な
までに湧き上がるこの衝動を、掻き消す事など出来るものか。
「――今度こそ。遊びは仕舞いです」



* * * * *

眼を覆いたくなるような光景だった。
腕と言わず脚と言わず、全身に裂傷が走っている。元は白と緑だったはずのその服は、自らの血に染まって
言いようも無く凄惨な色に変じている。いくつかの箇所では既に傷が消えているのは、再生能力の高さの
故であろうが――そんな事は、咲夜の心臓を締め付ける理由を一つとして取り除く助けにはならなかった。
「美鈴――」
我知らず出てしまう声。紅美鈴は、どう贔屓目に見ても重傷であった。
戦況そのものは、悪くは無い。ただ一方的に蹂躙され、押し潰された先刻と違い、美鈴は今度は貝のように
ガードを固め、致命傷を避けつつ鋭い反撃を加えている。内容だけを見れば五分五分といった所だろう。
しかし美鈴が既に満身創痍である事、そしてフランドールの無尽蔵のスタミナを考えれば、遠からぬ内に
勝負が決してしまう事は火を見るよりも明らかであった。
その時、フランドールの一撃を躱し損ねて、美鈴の肩口からばっと血しぶきが飛んだ。
「あっ……!」
思わず腰を浮かしかける。パチュリーの冷たい視線が突き刺さって、咲夜は慌てて腰を落とした。
先程から、一体何度これを繰り返しているだろう。
言われなくとも、解っている。美鈴は自分の代わりに戦っている――そんな事ぐらいは。それは自分の
望んだ事では無かったが、彼女はそれを知って尚己の選択を信じ、その為に今、血に塗れてまで戦っている。
全ては――フランドールと、咲夜の為に。ならば、一体どうして二人を邪魔立て出来ようか。
ましてや美鈴に加勢するなどは、全てを無にする言語道断の行いだ。
――だが、だからと言って。
「……黙って見ていられる訳が無いじゃないですか」
刻々と増えてゆく傷。フランドールの猛攻に、美鈴は判らぬ程緩やかに、しかし徐々に追い詰められている。
美鈴は揺るがない。己のリズムを崩さず、あくまで防御を固めたスタイルに徹している。それでも、その姿は
まるで火中の蝋細工のように危うい。
「わ――私はもう限界です。止めて下さい、このままでは美鈴が本当に死んでしまいます!」
「……駄目よ」
咲夜の懇願を、パチュリーはぴしゃりと切って捨てた。が、それは哀しくも咲夜が予測していた言葉であった。
「……解りました。もう、頼みません」
咲夜は言うが早いか立ち上がると、地面を蹴って駆け出した。しかし、三歩を踏み出す前に、彼女の
進路に鋭い石柱が降り注いだ。思わず脚を止めた瞬間、風が身体に纏わりついて咲夜を元の位置に
押し戻し、そのまま地面に押し付ける。そこから脱出しようともがく間も無く、その四肢は鉄の鎖で
繋ぎ止められていた。
「なッ――」
「……貴女、自分が何をしようとしたか解っているんでしょうね」
あくまでも冷ややかに、魔女が言う。
「――ええ、理解していますとも。だから何ですか! このまま彼女が死ぬのを見守れと!? 私は御免です!
たとえ私があの場に飛び込む事で美鈴に恨まれようと嫌われようと、彼女が助かるのならそれでいい!」
筋の通らない事を言っているのも解っている。だが、その道理とやらの為に美鈴が命を落とすのを黙って
見ていられる訳が無い。
幸か不幸か、フランドールは妖怪の中でも飛び抜けた生命力を持つ吸血鬼という種に生まれた。
それ故に、そして他種との交流を持てなかったが故に――彼女は彼我の生命力の違いを、感覚として
理解出来ないのだろう。自分が図抜けた能力を持っている事は知っている、凡百の妖怪達が、それに
比してあまりに脆いらしいという事も知ってはいる。しかし――理解出来ない。だから、やりすぎてしまうのだ。
彼女に内在する狂気がそれに拍車をかけている事は、無論言うまでも無い。それに歯止めをかけるのは
レミリアの、そしてパチュリーの役目だった。ならば、その二人が動かない以上、自分が何とかするしか
無いではないか。

「パチュリー様。貴女のその推測は、美鈴の犠牲よりも大事な事なのですか」
「……」
「……その程度のものなのですか。美鈴が死のうと生きようと、貴女にとって彼女はその程度の……!」
咲夜は精一杯の非難を込めてパチュリーを睨みつける。
「そんな訳が無いでしょう」
「――え」
半ば無視を決め込まれると確信していた咲夜は、パチュリーの思わぬ言葉に動きを止めた。
「何年アレと付き合ってると思ってるのよ。美鈴がここに来たのは、まあ、紅魔館の歴史から考えれば最近の
話だけれど――それでも貴女の歳の二倍、三倍の年月にはなるわ。貴女の知らない思い出だっていくつもある」
怜悧な眼光の奥に一瞬懐かしむような色が浮かび、それが咲夜を更に苛立たせた。
「だったらどうして――!」
「信じてるからよ」
再び、思ってもみなかった言葉。ぽかんと口を開けて固まりかけて、咲夜は慌ててかぶりを振った。
「――信じて……?」
地面に縫い付けられた格好のまま、美鈴を振り返る。血塗れの四肢。どす黒く染まり、襤褸のように
引き裂かれた服。暗夜にぽつりと浮かぶ月のように、瞳だけが鋭く光を放つ。手負いの獣――そんな
言葉を彷彿とさせる、眼を背けたくなるような姿。今にも倒れ落ちそうなその姿を、彼女は手放しに信じると
言うのだろうか。
パチュリーはゆるゆると首を振り、そうでは無いと否定した。
「ま、美鈴の事も信じたいけれどね……。私が信じているのは――レミリア・スカーレットよ」
「……お嬢様、を……?」
「それより、よく見なさい」
唐突に話を変えて、パチュリーが一点を指差す。その先に眼を転じる事数秒、咲夜は我が眼を疑った。
「……え? ど、どうして――」
そこでは――劣勢だったはずの美鈴が、徐々に攻勢に転じつつあった。

何が何だか解らない――咲夜は白昼夢を見ているような心持ちで眼前の光景を眺めた。
先程までは、確かに美鈴は絶体絶命の淵に立っていたはずだ。それが一体どうした事か、いつの間にか
攻守を入れ替え、そしてあれよと言う間にフランドールを圧し始めた。亀のように身を固めていた美鈴の
姿はもはや無く――そこにあるのは、今や息も吐かせぬ猛追でフランドールを攻め立てる一匹の龍で
あった。
だが美鈴の凄まじい攻勢に反して、あれ程猛威を振るっていたフランドールの動きがじわじわと
粗雑に、そして緩慢になっている事に咲夜は気付いた。尤も、生半可な妖怪であれば未だ一閃の下に
引き裂かれる程の力ではあるだろう。しかし、それでもこれは「フランドールの力」では無い――そう
言い切れる程度には、彼女は著しく弱体化していた。
「な――何が起きているのですか。あれは――」
「流石は美鈴、という所かしら。面白い戦い方をするものね」
不機嫌な魔女が――初めて薄く笑ったような気がした。



* * * * *

空を裂き、地を揺るがし、拳を打つ。蹴りを放つ。その一撃一撃が、フランドールを着実に追い詰めてゆく。
「……こ、のぉぉおっ!!」
痺れを切らして、フランドールが引き絞った右腕を打ち放つ――が、見える。手首を返してあっさりとそれを
弾き、代わりにこちらの右脚を腹部に捻じ込んだ。食い縛った犬歯の間から呼気が漏れるが、それでも
倒れず踏みとどまっているのは、ここまで力を落として尚彼女が吸血鬼である事の証明であった。
だが、フランドールが如何な状態にあろうと美鈴は手を緩めない。完膚無きまでに打ち倒す――それこそが
ただ一つの勝利なのだ。

「貴女……私にッ」
背後にステップして一撃を躱した美鈴に追いすがるような形で、フランドールが更に一閃を繰り出した。
すかさずその腕を取り、地面に投げ落とす。
「あぐッ……! い、一体何をしたのよ……!」
「さて――何の事やら」
解るまい。もはや別人のように衰えたフランドールの攻撃を捌きながら、美鈴は僅かに笑みを漏らした。
真実というものは、それがどんなに下らない事でも秘されている限りは謎でいられるものだ。この手品も
同じ事――美鈴にとっては殊更に語る程のものでも無いが、黙している限りフランドールにとっては
理解不能の脅威になり続ける。
語ってしまえば簡単だ。それが美鈴以外の誰に出来るのか――という事は無論、別にしての話だが。
気の流れを乱した。
言葉にすれば、たったこれだけの事である。そう、フランドールの能力を無力化した、あの技術の応用に
過ぎない。今度は、その対象を右手から全身へ拡げただけだ。
勿論、先刻とは訳が違う。謂わば精密な機械の歯車に小石を一つ挟んでやれば良かった前回と違い、
フランドールという出鱈目な化け物を不調に追い込むのは容易い事では無い。
だから、美鈴は守りに徹した。美鈴の拳が、脚が触れた瞬間当該部位の気を乱す――それと同時に、
フランドールの手が美鈴を切り裂いた瞬間、脚が叩き付けられた瞬間にも、ゼロコンマ数秒の僅かな
時間、美鈴は彼女の気を乱し続けていた。
つまり。美鈴は防御の姿勢で居ながら、あらゆるタイミングでフランドールに攻撃を加えていたのだ。
平穏極まる水面に、小石を一つ投じる。それを、何度も、何度も。それと解らぬ程静かに生じた波紋は
次第にその大きさを増し、やがて荒れ狂う大波へと変じる。ただ静謐に景色を映していた水鏡は、
いつしか捻れ、割れ、砕けて遂には己の正体も忘れてしまう。フランドールの身体は、今やそうした
状態にあった。

美鈴は油断無く構えるが、フランドールは今、恐らく真っ直ぐに歩く事すらおぼつかないはずだ。
それでも尚床を粉々に叩き割る膂力は脅威の一言だが、それも謂わば子供の腕力で金棒を振るう
ようなものだ。振り回した腕をとどめ切れずにふらついたフランドールの胸に掌底を一撃。息が止まった
所へ、更にもう一撃捻じ込んだ。
乾いた息を肺から吐き出して、フランドールはがくりと膝を落とし掛けた。が、もう一方の脚で地面を穿ち、
小さな悪魔は逆に跳ね上がるようにして体勢を立て直すや否や、更にそのまま鋼鉄をも割り裂く威力の
蹴りを放つ。回避が間に合わずに、美鈴の頬が裂けて血飛沫が舞った。
「こ、の……!」
爆発するように跳躍したと思った時には、フランドールは既に美鈴の懐まで入り込んでいた。弱体化など
感じさせない程の速度で、爪を一閃させる。
「弱い癖に……!」
美鈴が反撃に転じる間も無く、二閃、三閃。
「弱い癖に――弱い癖に、弱い癖によわいくせにッ!!」
閃、閃、閃、閃、閃閃閃閃閃閃閃閃閃閃閃閃閃閃閃――、

「遅いッ!!」

――紅砲。
大地を揺るがす震脚と共にフランドールの斬撃軌道上に割り込んだ美鈴の拳が真紅の光を放ち、
一切合財纏めて上空へと吹き飛ばした。
フランドールはそのまま為す術無く落下し、地面に叩き付けられると思われた。が――何という体力、
何という戦意。床に接触するその直前フランドールの歪な翼が音を立て、彼女は寸前で体勢を立て直すと
細い四肢で這い蹲るように着地。そしてそのまま、放たれた矢の如く美鈴へ突進した。
「ァァあぁああああああああああッ!!」
「……いいでしょう」
あくまでも戦うと言うのなら――。
スペルカードを一枚投げ捨てる。それが燐光を放って燃え尽きると同時、フランドールが両腕を閃かせた。
二振りの刃と化した双腕が美鈴の額を裂き、脇腹を裂いて血花を咲かせた。しかしその瞬間、フランドールの
胸にもまた、美鈴の掌が深々と突き刺さっていた。
「かはッ……!」
フランドールは、謂わば地面から突き出た鉄柱に自ら全速力でぶち当たったに等しい。こちらの腕が悲鳴を
上げる程の衝撃に、さしもの吸血鬼も身体をびくりと跳ねさせた。その致命的な隙に、美鈴は更に攻撃を
叩き込む。沈み込むように震脚し、下から上へ撥ね上げるような鉄山靠。ノーガードのまま抱き止める形で
受け止めたフランドールの身体が悲鳴も無く浮き上がり、そして次の瞬間。
正に文字通り、全身全霊の気を込めた拳撃がフランドールの真芯を射抜いた。拳が纏った虹色の気が轟音を
放って弾ける。龍の咆哮の如きそれに紅魔館が鳴動し、八方に広がった衝撃の余波が力の弱い妖精を
吹き飛ばした。爆発的な反動を支えきれず、両脚の下で地面が砕ける。フランドールは今度こそ抵抗すら
無く壁に叩き付けられ――地面に倒れ落ちた。
「……三華。『崩山彩極砲』」
限界を超えた力に砕けてしまった右の拳を、美鈴は静かに見つめた。

――今度こそ。フランドールは倒れ伏したまま、ぴくりとも動かない。壁面に刻まれた巨大なクレーターが、
フランドールの受けた衝撃の凄まじさを無言の内に語っていた。いつまで経っても起き上がって来ない事を
確認して――そうして美鈴は漸く、がくりと膝を落とした。
体力の損耗が激しい。隙あらば眠りにつこうとする意識に鞭打って、裂けた頬から流れる血を左手の甲で
拭った。
これで――良かったのだろうか。
横たわるフランドールの華奢な体躯を見つめて、今更ながらにそう思った。
己の選択を悔いている訳では無い。ただ――こうするより他の手段の無い事が、哀しかった。
と――その時。
「う、く……ッ」
呻き声と共に――フランドールがぐらりと身を起こした。
「な――……!」
震える手足を幾度も滑らせ、その度に床に突っ伏しながらもフランドールは立ち上がった。口の端に滲む
血を舐めて、こちらを見た。
「……は、は、ははは。あはははははははははっ」
哄笑――しかしそれは愉しくて仕方が無いというよりも、振り切れて行き場を無くした感情がただ立てた
音のように思えた。その証拠に、フランドールの眼は一切笑ってはいない。
「はは、は……よくも――ここまで私を痛めつけてくれたわね……」
嘲弄の色は消えていた。胸の内で暴れる怒り。そして殺意。それらをどう発散させようか迷っている。
そんな眼だった。

「……完全に、入ったと思ったんですけどねぇ」
「ええ、ええ。入ったわよ、完全に。全身が砕ける所だった」
確かに、彼女の足元は未だおぼつかない。少なくとも、回復し切れない程のダメージを与えた事だけは
間違い無いようだった。
「ただのお返しじゃ面白くないわよね。そうだ、まずは10倍にして返してあげる。それか、ら――」
ぐらり。
唐突に、少女の身体が大きく揺れ――次の瞬間、フランドールは地面に大きく膝をついていた。
「あ、あれ……?」
何が起きたのか――否、起こっているのか、理解出来ないといった体で悪魔の妹は呟いた。
まだ遊べるのに、まだ壊せるのに――そんな心境がありありと伝わる。しかし彼女がどうあれ、場の
空気は既に美鈴の勝利に染まっていた。痛々しく血に染まって、みっともなく服をズタズタにして、
それでも今この場に両の足で確と立っているのは美鈴であり、地に膝をついて息を乱しているのは
フランドールなのだ。
「フランドール様」
美鈴が呼ぶ。呼ばれたフランドールは無言のままに射殺すような視線を返した。
「これで――お解かりでしょう。力を恃みにする者は、いつか必ず力に破られるのです。フランドール様、
貴女様はまだお若い。今ならば――」
「うるさいな」
ぴしゃりと、ギロチンのように鋭い言葉が美鈴の声を寸断した。
「もういい。つまんない」
「フランドールさ――」
「消えて」
短く告げられた拒絶の言葉。取り付く島も無いとはこの事かと思う内に、フランドールの手からスペルカードが
一枚はらりと落ち、紅い焔に包まれて消えた。その瞬間、彼女の細いかいなは紅黒く輝く長槍をがっしりと
掴んでいた。
その――形状。
妖しく不吉に輝く、しかし剛毅にして誇り高い――神々しさと禍々しさを同時に結晶化したような、いくさがみの槍。
「……そ」
それは。
「それは――お嬢様の」
神槍――スピア・ザ・グングニル。
それは彼女の姉が、レミリア・スカーレットが得意とするスペルに酷似していた。いや、瓜二つと言ってもいい。
敢えて差異を挙げるとすれば一点、眼前の魔槍の方が幾分黒に近い輝きを放っているといった程度のもの
だろうか。美鈴の呟きに近い声に、フランドールは名状し難い表情を見せた。
「お姉様のまがい物なんかと一緒にしないで欲しいわね」
「まがい物……?」
「『貫くもの』――そんな大層な名前を付けてる癖に、あいつはその意味を全然理解してない」
謎掛けのような言葉を吐きながら、フランドールは姉とそっくり同じ投擲の構えを見せた。

(一体――)
フランドールの意図が解らず、美鈴は眉根を寄せた。体勢を崩している訳でも、まして拘束されている
訳でも無い。完全に自由な状態の美鈴に、フランドールは「さあ投げますよ」とでも言わんばかりに槍を
振りかぶっている。繰り出すのがいくら吸血鬼の豪腕でも、この状況ならば避ける事は難しく無い。
それが解らぬフランドールでは無いはずだ。であればこそ、美鈴はフランドールの自棄にも思える
行動を訝った。
しかしその答えが出る前に、フランドールの手からは魔槍が投げ放たれていた。
空を撃ち抜く音が聞こえるよりも速く、魔槍は一条の光線さながらに美鈴へと飛来する。その速度は
思っていたよりも鋭い――が、矢張り回避出来ないレベルでは無い。半歩ずらして道を空けると、闇色の
槍はびしゅうと空気の裂ける音を残して後方へと飛び去った。
何事も無かったかのように、美鈴はフランドールへ向き直る。悪あがきならばこれで終わりにして欲しかった。
だが、フランドールの眼は先程までと何も変わらず、爛々と輝いている。そうして、にやりと口元を歪めた。
「貴女、まだ解らないの?」
「……?」
「力で貫くのなら、それはただの槍と一緒。狙った獲物を必ず貫くから――『グングニル』なのよ」

――どぼっ、という音が出し抜けに聞こえた。

「あ……?」
二歩、三歩と、後ろから押されるようによろよろと脚が動いた。
喉を満たした血が口から溢れ出た所で――美鈴は漸く、胸を刺し貫かれたのだと気が付いた。
妖精達の悲鳴が響き渡る。やられた、と思った時には、美鈴の身体はまるで自分のものでは無いかの
ように、両脚から地面に倒れこんでいた。
「……こ、れ、は……」
言葉を吐いているのか、血を吐いているのか解らない。解るのはただ一つ――致命的な一撃を受け取って
しまったという事だけだった。
「……ふ、ふふふ……あははははは!」
勝ち誇った笑い声が悲鳴を打ち消した。
「無限に標的を追い、そして必ず貫く――それが真のグングニル。真槍『スピア・ザ・グングニル』! 私の
勝ちよ、紅美鈴……!」
肩で息を吐きながらもそう宣言して、フランドールは一際高く哄笑した。

(勝ち……?)
その言葉に、美鈴の中の何かがぴくりと反応した。
(終わり……これで……?)
それは――魂と呼べるものかも知れなかった。
そうだ。肉体はズタボロでも、心には、魂にはまだ傷一つ付いてはいない。
それならば――、
「……まだ、戦える」
満身の力で拳を握る。身体は、まだ動いた。



* * * * *

「……はぁ、はぁッ……!」
肩で大きく息を吐く。したい訳では無いのだが、止まらないものは仕方が無い。
手足が震える。動悸が収まらない。血は一滴たりとも流れてはいないのに、身体の中から破壊されて
いるような感覚。こんなダメージを受けたのは初めての事だった。加えてスペルを連発した事による多大な
疲労で、フランドールは傷の修復も危うい程に力を消耗していた。
だが、それももう終わりだ。
グングニルに胸を貫かれて転がっている妖怪を見る。他人の事はよく解らないが、あれだけ血が流れて
いれば流石にもう動けないだろう。
そう、思った矢先だった。
「――ッ……!」
フランドールは思わず息を飲んだ。あの妖怪――紅美鈴が、ゆっくりと起き上がったのだ。
美鈴はこちらを強く見据えると、胸に刺さったままのグングニルを無造作に掴み、躊躇う事無く引き抜いた。
大量の血が噴き出る事にもまるで頓着しない様子で、目的を果たしたグングニルが消滅する様を見届ける。
そうして漸く片手を胸に当てた。その手が淡い光を放って数秒、だくだくと流れていた血がぴたりと止まった。
「……どうして……」
フランドールは半ば呆然として呟いた。
三度立ち上がってきた事がでは無い。吸血鬼にも近しい回復能力を見せ付けられた事でも無い。
どうして――そこまでして戦おうとするのだろうか。
何故。どうして。何の為に。解らない。理解――出来ない。
べきり、と何かが無理矢理に砕かれるような音が聞こえた。等間隔で何度も響きながら、それはこちらへ
向かって来る。あまりの疲弊に力をセーブ出来ないのだろう――それは美鈴が砕けた床石を踏み割る
音だった。
「……あ……な……」
無意識に後ずさりした身体が壁にぶつかり、フランドールはそこで己が気圧されている事に気付いた。
否――それは今や、明白な恐怖であった。目の前にいるモノが、一体何者なのか理解出来ない。その力が、
心が、何もかもが理解出来ない。
「何なのよ、貴女ぁ……!」
得体の知れぬモノ、力の及ばぬモノ、理解の出来ぬモノ――そんな存在を、人間は「化け物」と呼ぶ。
紅美鈴は今――フランドール・スカーレットにとっての、それであった。
美鈴が僅かに顔を上げる。二人の視線が交差する。
例え首だけになっても喉元に喰らいつかんとするような――手負いの獣の眼。
「……消えてよ……」
ソレが破砕音と共にもう一歩を踏み出した瞬間――危ういバランスで保たれていたフランドールの心の
均衡は、音も立てずに崩れ落ちた。

「消えろぉぉーーっ!!」

それは魔法と呼べる代物では無かった。今までに味わった事の無い焦り、不安、恐怖――それらが
極限に達したフランドールの、謂わば感情の爆発。己をおびやかすもの全てを消し去りたいという
衝動的な意志がフランドールの内にある魔力と呼応し、そして発露したのだ。
一寸先とて見えぬ闇に強烈な光を灯した時のように、エントランス・ホールは突如真っ白な闇に包まれた。
同時に両耳を鉄棒で貫くが如き衝撃が走り、視覚に次いで聴覚までも消え去った。
そして――長い静寂。
実際は数秒にも満たなかったであろうその静けさの向こうで、徐々に悲鳴と喧騒混じりの音が聴こえ始め、
それから視界を塞ぐ白い霧が姿を消した時――紅魔館のエントランスは、完全に崩壊していた。

床も壁も、天井すらも吹き飛んで、ホールであった場所はいっそ清々しいほど容易く瓦礫の山に姿を
変えた。ホールを美麗に飾っていた調度品達は咲夜と美鈴が駆け付けて来た時点で軒並み壊れて
いたが、それも今や瓦礫に混ざって判別すら付かない。天井が取り払われた先の蒼穹は既に黒墨色の
夜空にその座を譲り、今はただ星々のみがあっけに取られたようにこちらを見つめていた。
パチュリーが障壁を張ったのだろう、不自然に無傷な一角に妖精達が折り重なって倒れては悲鳴を
上げている。その横で――咲夜は一点を見つめて真っ青な顔で立ち竦み、パチュリーは苦虫を噛み潰した
ような表情でそこを睨み付けていた。
そこには何も無い。他と同じく、崩落した天井が無作為に積み重なっているだけだ。ただ一つ違うのは――
「龍」と刻まれた星型のバッジを付けた帽子が、血に染まった姿を瓦礫の下に覗かせている事だった。

「……や、やった……」
フランドールは搾り出すようにして言った。喉がカラカラに渇いている。
「あは、あはははは……やった、やったやった! あはははははははっ!」
ここまですれば、如何な化け物もただでは済むまい。腹を裂かれ、胸を貫かれた上に落盤に潰されては、
例え鬼や吸血鬼であっても無事では居られないだろう。
もしかすると――死んでしまったかも知れない。
そう思うと、ぞくり、と背筋が冷えた。
「あ、貴女が悪いのよ……弱い癖に、ただの妖怪の癖にしつこいから! あはははははっ!」
殺してしまった。
壊してしまった。
勝利の興奮、開放の安堵――そして罪悪感。それらが渾然と混ざり合って頭の中をぐるぐる回る。
勝った。終わった。壊した。ころした。
感情が入れ替わり表れ混ざり溶け消えそして表れぐるぐる回りぐるぐる回る。
血の匂いに酔ってしまったかのような、酷い酩酊状態。
気分が悪い。頭の芯が溶けて揺らされているようだ。
それを糊塗するべく、喉が無意味に狂笑を吐き出し続けている。
はは。ははは。あはははははは――、
「……は」
何かが――聞こえるはずの無い何かが聞こえた気がして、フランドールは笑い声を止めた。
声を上げていたのは自分ばかりであったらしい。フランドールが口を閉ざすと、辺りは水を打ったように
静まり返った。その中でたった一つだけ、微かに、しかし確かに聴こえる音があった。
瓦礫の中から。明確な意志で、力強く吐き出し吸い込まれる規則正しい呼吸音が、フランドールの耳に
届いた。その瞬間。
「……彩……符」
「な――」
「『極彩颱風』」
七色の光が隙間から洩れたと思う間も無く瓦礫の山は粉微塵に弾け、吹き飛び、そして土煙の舞い散る
その中に――紅美鈴がゆっくりと立ち上がった。ボロボロの左手をす、と挙げれば、そこには舞い上がった
血染めの帽子がひらひらと着地した。浅く被り直してこちらに向き直った美鈴の双眸から、戦意は微塵も
喪失していない。それが、全身を紅く染めて立っている。
凄気――そう形容するしか無い何かが、フランドールの身体を芯から貫いた。

(……やめてよ)
もう勝負はついたはずだ。何故――何故そこまで戦おうとするのか。
無意識の内に身体がじりじりと後ずさる。それを射抜く美鈴の眼光が、まだ勝負は終わっていないと
語っている。
「……こ、のぉおッ!!」
フランドールは咄嗟に頭の中に弾幕の構成をイメージし、両手を振りかざした。もはや搾り出す程の
魔力も残ってはいないフランドールの、正真正銘最後の一撃。常のそれには及びもつかぬ密度と
威力だったが、それでもまともに動く事すら怪しい状態の美鈴にはこれで十分だと思われた。
が。
極光、「華厳明星」――。
しまった、と思った時には既に遅く、美鈴の放った巨大な光弾は虹色の輝きの内にもはや弾幕の大半を
呑み込んでいた。平時ならばいざ知らず、心身共に限界に近い今のフランドールでは、何の小細工とて
無い一撃を避ける事すらも容易い業では無かった。
「くッ……!」
満身の力を振り絞って空へと跳躍し、何とか直撃を回避する。だが、それは美鈴の想定通りの動きで
あったようだった――安堵の息を吐いたフランドールの前方を、彼女は既に音も無く塞いでいた。
「……お覚悟を」
「あ……!」
「口を開けてると――舌、噛みますよ」
星辰を背負い、美鈴が更に一枚スペルカードを投げ捨てた。

「彩翔――『飛花落葉』ッ!!」

裂帛の気合と共に、美鈴の大太刀の如き蹴撃がフランドールの胴に袈裟懸けにめり込んだ。同時に
七色の光矢がフランドールの四肢を撃ち抜き、それはそのまま楔となってフランドールと共に落下すると、
大きなクレーターを穿って地面に叩き付けられたフランドールを更に大地に縫い止めた。
「あぐ、あ……!」
身体が千切れ飛ぶような衝撃に、目の前が真っ白になる。
四肢を張り付けられた状態ではバウンドしてダメージを逃がす事も出来ず、逆に引き裂かれるような
激痛に意識まで断たれてしまいそうだった。
「がはッ……はぁ……はあ……!」
喘ぐ。思うように呼吸が出来ない。自分の身体が、自分の意志で動かない。全てを焼き尽くす魔力も、
楔を引き抜いて逆襲する体力も残ってはいない。
これが。

「……ま、けた……私が……」

これが、敗北――。
全力を出した訳では無い。しかし結果が全てであるならば、己の全てを完膚無きまでに封殺されたこの
状況は、確かに敗北と呼ぶに相応しいものだろう。
悔しさはある。怒りもある。しかしそれより何より――全身を激しい痛苦に支配されて尚、彼女は
安堵していた。
決着はついた。戦いは終わった。あの化け物――紅美鈴から、漸く開放される。

美鈴が着地する気配を感じ、フランドールは朦朧とする眼を開いた。その視線が交わった時――
フランドールは今度こそ、身も凍るような恐怖を知った。
「ひッ……!」
咄嗟に出た悲鳴は喉に引っかかり消えた。こちらを見る美鈴の双眸は、未だ戦う事を止めない戦鬼の
それだった。
「……い、嫌……!」
「遊びでは無いと、申し上げたはずですよ……フランドール様」
ずるずると、美鈴は身体を引きずるようにしてこちらへ歩を進める。一歩、二歩と焦らすように足音が
響く度に、フランドールの恐怖は加速度的に高まってゆく。
動けない。抵抗出来ない。逃げ出す術も、抗う術も無い。
あの力で攻撃されれば、今度こそ全身が砕け飛ぶだろう。
「やだ……来ないで……! 来ないでよ……!」
折れそうな程に首を振るが、美鈴はもはや返答も返さず歩を重ねる。
「やめて……来ないでってばぁ……!」
フランドールは、涙声になっている事にも気付かず叫んだ。それでも、美鈴は何ら反応を見せはしない。
(やめてって言ってるじゃない……! どうして聞いてくれないの……!?)
嫌だ、嫌だ、嫌、嫌、嫌――!
恐慌の絶頂の中でフランドールは必死に身をよじるが、無論そんな事で拘束から逃れられる訳も無く、
それはただ彼女自身の傷をいたずらに増やすだけだった。

その時。
「……あ――」
陰から複雑な顔でこちらを見ている妖精と――眼が合った。
あの妖精は――無意識の内に、脳裏に先刻の記憶がフラッシュバックする。
笑いながら辺りを破壊して回る自分。こけつまろびつ一目散に逃げ出してゆく妖精達。その中にあって、
ぶるぶると震えて涙を浮かべながら、おやめ下さいと必死にすがる妖精がいた。気分が悪いのですか、
私達に至らない所がありましたかと、的外れな事で何度も何度も頭を下げる。
滑稽だった。邪魔だと思った。羽虫を追い払うように、片手で彼女を吹き飛ばした――。

「……あ、ああ……」
こんな――気持ちだったのか。
私が止めを刺そうとした咲夜は。片腕で蹴散らした妖精達は。こんな――こんな気持ちだったのだろうか。
己がしてきた事の意味を――今更知った。今更気付いた。その事実が、フランドールの両眼から尽きせぬ
涙を溢れさせた。
いつの間にかすぐそこまで近づいていた美鈴は、手近な瓦礫から柱の一部を拾い上げるとそれに手刀を
二閃三閃させた。出来上がったのは――歪な杭。
「ひッ……!」
その形状に本能的な恐怖を呼び起こされ、フランドールは再び声にならない悲鳴を上げた。
「こんな代用品では大した効果は無いかも知れませんが――お仕置きには十分でしょう」
「……ッ!」
美鈴が杭を振りかぶる。泣き叫びたい程の恐怖だったが、フランドールはもはや声を上げなかった。
これが、今まで自分がして来た事への罰だというのなら――。
歪な石杭が唸りを上げた。
鈍い音と共に、肉を貫いた。
血の飛沫が顔を、身体を汚した。

「え……?」
訪れるはずの痛みは、いつまで経ってもやって来なかった。
当然だ。
石の杭はフランドールでは無く、彼女と美鈴の間に立ちはだかった影に突き立っていたのだから。
「……お、姉様……」
――どうして。
後姿であろうと、見間違える訳も無い。杭は彼女――レミリア・スカーレットの肩口を貫通し、その片翼までも
穿っていた。
身をよじるような激痛であろうに、レミリアはフランドールを庇うように両手を広げたまま、声色一つ変えず
凛として言い放った。
「美鈴。もう十分よ……もう」
レミリアの言葉に、美鈴は漸く悪鬼の如き面相を薄い笑みに変え、
「……かしこまりました」
そのまま、どう、と地面に倒れた。

美鈴が倒れると共に四肢の楔は力を失い消えたが、それがあろうと無かろうと、どの道フランドールは
指先一つ動かす力も残ってはいない。ただ力無く横たわり、何が何だか解らぬままに姉を見つめた。
そんなフランドールを見て、レミリアは僅かに微笑んだような気がした。しかしそれも束の間、レミリアは
すぐに顔を上げると、力強く言葉を発した。
「咲夜!」
「は――はい!」
その瞬間に夢から覚めたようにうろたえた声で答える咲夜を見て、レミリアは何ら気にせぬ口調で続けた。
「まだ動けるかしら?」
「はい、パチュリー様と美鈴のお陰で、傷は大方塞がりましたから」
「そう、なら美鈴を部屋に運んで応急処置をしなさい。その後竹林から宇宙人共を連れて来て。数は
多いほうがいいわ。それが終わったら貴女も休む事。いいわね、至急かかりなさい」
「かしこまりました――失礼致します」
返事と同時に、咲夜と美鈴の姿が消失した。それを確認もせずに、レミリアは妖精メイド達に向けて更に
言葉を継ぐ。
「動ける者は怪我人をゲストルームに運びなさい。部屋はどれだけ使っても構わないわ。見た所大怪我を
している者は居ないようだけど、全員休んでいて結構。それからパチェは――」
「はいはい、まずは妖精達と妹様の手当て、医者が来たら貴女とこの瓦礫の後片付け。これでいいんでしょう?」
「流石はパチェ、良く解ってるじゃない」
肩から痛々しく血を流したまま見た目相応の子供らしい笑顔を見せるレミリアに、パチュリーは一つ
溜息を吐いてぼやいた。
「全く……どいつもこいつも、見上げた大馬鹿野郎だわ」
その言葉を最後に――フランドールの意識は暗転した。



* * * * *

さらさらと髪を弄ばれる感触に――咲夜は眼を覚ました。
「……何、してるの?」
とりあえず、尋ねた。
美鈴の部屋である。あれから三日が経った。美鈴が負った傷は相当に大きなものだったらしく、永遠亭の
薬師の力を以てしても全快には非常な時間がかかるという事だった。そしてその予測の通り、美鈴は一向
眼を覚ましはしなかった。咲夜はレミリアに了承を得、殆ど睡眠も摂らずに付きっ切りで看病に当たったが、
そんな努力も虚しく、美鈴の昏睡が終わる事は無かった。さしもの咲夜も力尽き、美鈴のベッドに上体を
預けて眠ってしまったのが数時間前の事だった――のだが。
「いやぁ」
重傷を負っている事など欠片も感じさせない気楽さで、美鈴は咲夜の前髪を手櫛で梳きつつ答えた。
「咲夜さんの髪、さらさらで触り心地が良くて」
「……そ、そう……」
そう言う間にも、美鈴は咲夜の髪で遊び続けている。お互い無言のまま、そうして一分程が過ぎた。
「って、そうじゃなくて!」
「あー」
我に返って身を跳ね上げると、美鈴が名残惜しげな声を上げた。えも言われぬ謎の心地良さに、危うく
再び寝こけてしまう所だった。
「美鈴! 貴女、き、傷は大丈夫なの!?」
「え? ああ、まあ――寝てたら治った、て感じで」
「な、治ったって」
「全快という訳にはいきませんけどね。お医者さんに見せれば、きっとまだまだ安静にしてなさいって
所なんでしょうけれど。でもこうやって――」
言いながら美鈴はその場に立ち上がると、足取りも軽く床に飛び降りては独楽のように蹴りを繰り出し、
挙句後方宙返りまで披露してみせた。
「軽い運動をするぐらいなら、全然平気ですよ」
「……軽い、ね……」
咲夜はもう突っ込む事をやめた。とにかく、美鈴は回復したのだ。そう思うと、一気に身体の力が抜けた。
そんな咲夜の心境を、鈍感な美鈴が察した訳では勿論無いのだろうが――美鈴は咲夜に向き直ると、
幾分真面目な声で言った。
「……ずっと、看病してくれていたんですね」
「へ? べ――別に、私一人で看てた訳じゃ無いわ」
美鈴は「あはは」と笑う。
「それでも――ありがとうございます」
「……ど……どういたしまして……」
何故か視線を合わせられずに、咲夜はもごもごと言った。こんな所で真面目になるのだから、ずるい。
何がずるいのかはよく解らないが、とにかくずるいと思った。
「――さて。それじゃ、行きましょうか」
ぱんと手を叩いて美鈴が言う。
「行くって――どこへ」
「決まってるじゃないですか」



* * * * *

一見しただけでその分厚さが想像出来る、重く煤けた鋼の扉。表面には多種多様な呪文、魔法陣が
所狭しと描き付けられており、咲夜には無論その意味など理解は出来ないが、何としても中に居る者を
外へ出すまいとする意志の表れである事だけは容易に察せられた。
紅魔館地下――フランドール・スカーレットの居室である。
とはいえ、この厳重に厳重を重ねた魔術群も、近頃はさしたる効果を発揮していない。当のフランドールが
こんな細工を物ともせず外へ出てくるという事も理由の一つだが、最近はそれ以前に、これらの術式自体を
起動させていないのだ。それは巫女や魔法使いに会う事でレミリアの、或いはフランドールの内面に変化が
生じたからかも知れないし、単に毎回無意味に近い術式の山を起動し直すのが面倒臭いだけなのかも
知れないし、ひょっとしたら咲夜などには想像もつかない深遠な理由があるのかも知れないが、いずれにせよ
それはレミリアのみが知っている事だった。
人の膂力では壊せない程度の能力に成り下がったその鉄扉の前に立ち、咲夜は後ろを振り返った。
「フランドール様は、あれからずっと?」
「聞いた話ではね。お身体の方は、もう完全に治ってるそうなんだけど……」
紅霧異変までは外界に興味とて無かったフランドールである。数日どころか、数ヶ月、数年篭り切りで
あった所で何らおかしい事は無いが、今回は状況が状況であるだけに、彼女が一体如何なる意志でこの
開け放たれた牢獄に閉じ篭っているのか咲夜には図りかねた。
ふうむ、と息を漏らして何やら考えている様子の美鈴を見て、咲夜は心中を締め付けられる思いだった。
事態を知りながら静観していたレミリアはともかく、フランドールは或いは噴火寸前の怒りを抱えて
いるかも知れない。その渦中に――この妖怪は自ら飛び込もうとしているのだ。
何らの躊躇無く美鈴は呼び鈴を鳴らしたが、部屋の中からの反応は無い。昼寝するような時間でも無し、
無視を決め込んでいると考えるのが自然だろう。
「開けますよ」
もう一度だけ呼び鈴を鳴らしてから、これまた一切の逡巡無く美鈴が言う。最悪の想像を振り払って、
咲夜は頷いた。自分でした事のけじめはつけなければならないと美鈴は言った。ならばパチュリーでは
無いが、自分に出来るのはレミリアを信じる事だけなのだろう。レミリア・スカーレットの――運命視の力を。

ゴコン、と軋むような音を立ててゆっくりと開くその鉄扉の向こうに、フランドールの姿はあった。
彼女はベッドの上に座っていた。ベッドの上に座り込み、まるで魂がどこかへ飛んで行ってしまったように、
俯いたまま一点を見つめている。その視線がベッドから床を這いずり咲夜と美鈴の姿を捉えた時、
フランドールの顔はさっと青ざめた。
「あ……」
フランドールがか細い声を上げる。しまった、と咲夜は思った。前日の敗戦が、ここまでフランドールを
追い詰めているとは――。そんなフランドールの気持ちなどまるで忖度しないかのような様子で、美鈴が
一歩前に進み出る。その途端、フランドールの肩がびくりと跳ね上がった。
「ご、ごめんなさ――」
「すみませんでしたっ!!」
「……え……?」
何かを言いかけた格好のまま、フランドールは固まった。額で瓦でも割りそうな勢いで頭を下げた
美鈴に、彼女は言葉が喉に詰まったまま取るべき対応を見つけられずにいるようだった。
「……すみませんでした、フランドール様」頭を上げてから、もう一度美鈴が言った。「正しいと信じて
した事とは言え、主に手を上げるなど言語道断の行いです。お怒りが収まらないのでしたら、如何なる
罰も受ける覚悟です」
例えそれが、この館からの追放であろうとも――美鈴が言い切ると、冷たい地下がしんと静まり返った。
思わず横から割って入りたくなる気持ちを、咲夜は無感動な仮面の下で必死に押し止めた。
「ですが」と美鈴は言う。
「ですが、申し上げたように私は己のした事が間違っていたとは思いません。どれ程正当な理由が
あろうと、相手の心を考える事無く一方的に力を振るえばそれは理不尽な暴力にしかならない。
フランドール様が例え路傍の石を脇に蹴り落とすような気持ちであったとしても、蹴られた石には心が
あるのです」
心があるから「痛い」と思う。「辛い」と思う。「どうして」と思う。それら理不尽な力に軋んで生まれた感情は、
一つ一つは小さいものでも、やがては無数に集まり、凝り固まり、巨大な力を生む事もある。
「そうなれば、今で無くとも――いつか必ず、フランドール様がそれに押し潰されてしまう。力のみを恃む
者は、必ず力に破られるのです」
最も恐ろしいのは、解り合えない事。解り合おうとしない事。それは容易く、認められぬものは消せば
いいという結論を手繰り寄せる。
フランドールは顔を深く俯かせていて、その表情は額に垂れる金糸に隠されて見えなかったが、彼女が
美鈴の話を聞いていない訳では無い事だけは感じ取れた。美鈴も同じ事を感じているのだろう、彼女の
リアクションを待つ事無く言葉を繋ぐ。
「……今のフランドール様なら、私の言う事をきっと理解して頂けると信じています。フランドール様、
ほんの少しだけ、私達を見て下さい。それだけでいいんです。そうして貴女様が心を開けば――皆、
きっとその声に耳を傾けてくれるはずです」
それはおよそ妖怪らしく無い言葉だったが――美鈴が言うと、不思議と信じられる気がした。

そうして、美鈴が口を閉じてから――どれ程時間が過ぎただろうか。
辺りを包んだ静寂がじわじわと扉の外まで漏れ出した時、フランドールは顔を俯かせたまま、ぽつりと
呟くように口を開いた。
「……あの、時」
消え入りそうなか細い声も、ただ静寂のみが支配するこの部屋では殊更クリアに聴こえた。
「凄く痛かった……凄く苦しかった。だけど何より――怖かった。ずっと、この小さな箱の中で生きてきて
――何かを本気で怖いと思った事なんて、一度も無かった。だから……訳が解らなかった。あの瞬間――
何もかもが理不尽に見えた」
あの時。今度は幾分大きな声で、フランドールは言った。
「……私が、薙ぎ払った妖精と眼が合って――やっと解った。こんな苦痛を、こんな恐怖を……私は
ずっと撒き散らし続けて来たんだって事」
「フランドール様……」
「……ねえ、美鈴……咲夜。間に、合うのかな……。今からでも――やり直せるの、かな……」
フランドールは小さく肩を震わせながら、途切れ途切れに問い掛けた。
答える代わりに――美鈴は彼女をその胸に優しく抱き締めた。
「あ――」
「……いつだって、やり直せますよ。私達が――ついていますから」

それきり、誰も、何も喋らなかった。未だ傷跡の残る美鈴の手が、フランドールの髪を静かに撫でている。
その中で――フランドールは声を殺して泣いているようだった。
「敵わないわね……」
咲夜は誰にも聞こえないように呟いて、それから自分の発言に苦笑した。
(……当然か)
紅美鈴はきっと何百年も――まさか何千年という事は無いだろう――優しいお姉さんを続けているのだから。
たかだか十や二十の小娘に、太刀打ち出来る訳も無い。
もう一度苦笑を零してから、敢えて時を止めずに咲夜はそっと部屋を出た。
扉が閉まる瞬間――「ごめんなさい」という言葉が、微かに咲夜の背中に届いた。
それだけで、全てが報われる気がした。

そういえば――レミリアは、どうして美鈴の杭を避けなかったのだろう。後から聞いて知った事だが、
美鈴はあれを実際にフランドールに当てる気は無かった。彼女はあの石杭を、地面に突き立てるつもり
だったらしい。つまり、最初から軌道はフランドールを外れていたのだ。にも関わらず レミリアは二人の
間へ割って入り、のみならず身体で杭を受け止めた。杭を弾き飛ばす事も叩き割る事も、美鈴自身を
一瞬の内に行動不能にする事も出来たというのに。
――或いは。
受け止めなくてよかったその杭を、彼女達にとって最も恐るべき攻撃を敢えてその身に受けたのは、あの
騒ぎを傍観していた事への、或いは彼女なりの贖罪であったのかも知れない。
だとすれば――咲夜は冷たい鉄扉に背を預けて、深く息を吐いた。
誰も彼も――とんだ不器用だ。



* * * * *

「それでは、行きましょうか」
そろそろほとぼりも冷めた頃、咲夜はフランドールの部屋へ戻ると愛用の懐中時計を眺めて言った。
「ああ、そろそろいい時間ですね」
美鈴が横から覗き込んで言う。そんな二人に、フランドールは少し寂しげな視線を向けた。
「そう……もう帰るんだ」
「あはは、違いますよ」
「え?」
訳が解らないという顔をするフランドールに、咲夜は時計を仕舞いながら答える。
「外に行きたかったのでしょう? フランドール様」
同時に、ぱっとその手に日傘を出して見せた。
「うん――え、え……?」
「お嬢様から外出許可を取って来ました。私と美鈴が一緒なら、という条件付きですけれど……お嫌ですか?」
そう言うと、フランドールはぶんぶんと首を横に振った。それを見て、美鈴が安心したように笑う。
「ほ、本当に……?」
「はい」
「……ありがとう……」
本当に嬉しそうに、フランドールは礼を言った。その顔を見る事が出来ただけでも、ここまで頑張って来た
甲斐はあった――そう思わせるに足る笑顔だった。

「それじゃ、善は急げと言いますし――」
「あ――ま、待って」扉を開こうとした美鈴に、フランドールは慌てて声を掛けた。「そ、その前に」
「その前に?」
くるりと紅髪を翻して、美鈴はフランドールへ優雅に向き直った。その顔を見上げて、フランドールはどこか
恥ずかしがるような、緊張するような面持ちで言った。
「妖精達に……謝りに、いく」
そうして、彼女は自らの手で扉を開けた。
その後ろに付き従って――咲夜は美鈴と顔を見合わせて、静かに微笑んだ。



* * * * *

人里は雲一つ無い快晴だった。
様々な店が立ち並ぶ通りに、悪魔の妹、その従者、そして門番は居た。
往来は活気に溢れ、威勢の良い声が響く店の軒先が絶える事無く人々を飲み込み、吐き出し続けている。
その流れの一部となって、フランドールは次から次へと店を渡り歩く。その手の中にある小さな財布は、
いつかフランドールが外へ出る日が来たら渡すようにと、彼女の姉から言い付かっていたものだった。
その中に詰め込まれた、一月の子供の小遣いにしてはほんの少し多い程度のお金の額を思い浮かべて、
彼女は今、きっと夢中で足し算と引き算を繰り返しているのだろう。その傍らには、美鈴が日傘を掲げて
付き従っている。フランドールが初めて人里を経験するように、美鈴もそれは初めての体験であったらしく、
暫くの間は慣れない様子で日傘を構えては猫のようにふらふらとあちこちをさまよい歩くフランドールに
振り回されていたが、やがて武術の動きに通じるものでも見出したのか、徐々にその動きは洗練された
ものになってゆき、遂には完全にフランドールの動きを先読みする術を手に入れたようだった。
美鈴に日傘を持たせたのは、フランドールのエスコートには何かと人里では疎まれがちな咲夜よりも
彼女のほうが適役だろうという考えからだったが、それは思った以上に正しかったらしい。一見して
人外と判るフランドールだが、その傍らに美鈴がいる事で人間達の警戒心は大分薄らいでいた。
と言うより――店員達の殆どが、どうやら美鈴と知り合いであるらしかった。
新しい店に入る度に、「おや美鈴さん」だの「よう赤毛の姉ちゃん」だのという声が四方八方から上がる。
非番の日はよく人里に出掛けている事は知っていたが、まさかこれ程里に馴染んでいるとは。
仮にも悪魔の館を守護する者が一体いつも人里で何をしているのかと考えると軽く頭痛がしたが、
それが結果としてフランドールがこの場へ溶け込む事に一役買ったのだから、咲夜としてもまあ良しと
思うほか無かった。

どうやらお眼鏡に適う物は見つからなかったらしく、妖怪コンビは何やら話しつつ外で待つ咲夜の元へと
戻って来た。少し休憩してはどうかと美鈴が提案し、咲夜達は近場の甘味処の暖簾を潜った。
給仕の女性が咲夜を見て顔を青くし、それから美鈴に気付いて安堵の息を吐くという一幕で咲夜が
内心密かに傷ついた事など知る由も無く、美鈴が団子を頬張りながら隣に座るフランドールに
「それで」と問い掛けた。
「結局、フランドール様は何がお目当てなんですか?」
「……貴女、あれだけフランドール様のお側に居てまだ知らなかったの?」
「だって、教えて下さらないんですよう」
実の所、フランドールの目的が何であるか咲夜には察しが付いていた。咲夜の予想通りならば、
レミリアが動こうとしなかった事にも納得が出来る。
フランドールを見れば、彼女は何やら気恥ずかしげに美鈴の視線を避けて饅頭をふにふにと楊枝で
突付いている。咲夜がそれとなくした目配せに気付いて美鈴はフランドールを凝視したが、すぐに
「何が何やら」という表情をこちらへ向けて来た。
「……本っ当に、鈍感なんだから」
溜息を吐いて、草餅を一つ口へ運ぶ。甘味処で餅を頬張るメイドというシュールな光景に周囲の視線は
釘付けだったが、咲夜は些かも気にせずヨモギの風味を味わった。さもあらん、甘味処ばかりか、神社に
冥界、果ては月にまでメイド服で参上する咲夜である。今更この程度で動じる訳も無い。というか、もはや
本人は違和感すら感じていない。
それはさて置き――美鈴が答えに気付かないのも仕方が無いといえば仕方が無いのかも知れない。
紅魔館には無い習慣であるし、妖怪の美鈴には矢張り馴染みの薄いものではあろう。
ともあれ。ここらで助け舟を出してやる事にして、咲夜はフランドールに言った。
「フランドール様、どうせ知れる事なのですしそろそろ教えてあげてもいいのでは無いですか?
その方が美鈴としてもフランドール様のお力になれるでしょうし」
「う……」
「そうですよ! 人里のお店に関して、私以上のエキスパートはそうは居ませんよ!」
その発言に少しは疑問を持て、妖怪よ。
呆れ顔の咲夜に気付いているのかいないのか、えへんと胸を反らす美鈴に何やら妙な説得力を
感じたらしい、とにかくフランドールは話す気になったようで、手付かずの饅頭を見つめる顔を僅かに
赤く染めて呟くように口を開いた。
「……お姉様の、誕生日が、もうすぐだったから」
「へ?」
「本で読んだ。人間は家族の誕生日にプレゼントを贈るんでしょ」
フランドールは確かめるように咲夜を見た。「どうやらそのようですわ」と答えると、そんなあやふやな
返答でも満足したらしく、フランドールは漸く赤い顔を美鈴へ向けて話を続けた。
「……別に、何がある訳じゃないけどね。そんな事で、あの捻くれ者が喜ぶなんて期待もしてないし。
……でもね。私、本当は――お姉様に少しだけ、ほんの少しだけ感謝してるの。私を守ってくれて……
私を見捨てないでいてくれて。だけど、私達は会う度に喧嘩ばっかりしてるから――」

「えらいっ!!」
美鈴が椅子を揺らして立ち上がり、周囲の眼が一斉に咲夜達の卓へと集中した。それが次の瞬間には
「なんだ、紅さんか」とでも言いたげな生温かい微笑と共に散ってゆくのに気付いて、咲夜は逆に頭を
抱えて蹲りたい気持ちになった。
当の美鈴は咲夜の心中などには無論気付きもせず、フランドールの手を両手で確と握って「偉いです、
フランドール様」と繰り返していた。
「そ、そうかな」
頬を更に赤くして言うフランドールに、美鈴は強く頷いて言う。
「お嬢様が知ったら、きっと感涙に咽びますよ! さあ、そういう事ならこうしちゃいられません。
ここのお饅頭は本当はもっと味わって食べて頂きたい所なんですが、それはまた今度という事で」
まあ、お嬢様はもうとっくにご存じなのかも知れないけれどね――とは、勿論言わなかった。
漸く饅頭に手をつけたフランドールが「美味しい」と呟く横で、それはここの親爺さんが十年もの歳月を
かけて云々と何故だかやけに詳しい逸話を語り始めた美鈴に溜息を吐きながら、咲夜は勘定を払って
一足先に店を出た。

――推測に過ぎない話ではある。
美鈴との死闘の先に、フランドールの心の扉が少し開かれる未来をレミリアは視たのだろう。だから、
彼女はフランドールの暴走に手を出さなかった――出せなかったのだと思う。けれどそれよりも――
フランドールが自分の為に何かを買いに行こうとする事が、何より純粋に嬉しかったのでは無いだろうか。
だから。それに水を差すのが恐かったからこそ、レミリアは頑なに、その姿すらも最後まであの場に
見せる事を拒んでいたのかも知れない。

推測に過ぎない話ではある。フランドールがそれに気付いているのかも判りはしない。
けれど――とりあえずは黙っておこうと咲夜は思った。
暖簾を潜って美鈴が姿を見せ、開いた日傘にフランドールが飛び込んだ。美鈴が片手を差し出すと、
フランドールは少し躊躇ってから、そっとその手を握って笑い返した。

――空は。

夏の空は、どこまでも――どこまでも澄んでいた。



「パパパパチェ! わ、私は一体どんな格好で待ち構えればいいのかしら!?
やっぱりアレね、ネクタイは必須ね!? ああっ、しまった、うちに蝶ネクタイって
あったっけ!?」
「……とりあえず落ち着いて裏表逆に着てるその服を直しなさい。
小悪魔、そんな所でカメラ回してないで紅茶を入れて来て」
「はぁい」


■■■

ここまで読んで頂いた方に感謝を。

今回で三作目になります。
美鈴バトルものには偉大な先人が何人も居られるので、内容やネタが被ってやしないだろうかと
ビクビクしながら書き上げましたがいかがでしょうか。
スペルカードを実戦に使う事に首を傾げる方も居られると思いますが、それでも敢えてスペルカードを
採用したのはひとえに格好いいからです。意味は無くとも技名を叫び、ポーズを構える。
そんな王道バトルを目指してみました。
楽しんで頂けたら幸いです。
Azi
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コメント



0.3510簡易評価
5.100ななし削除
美鈴カッコよくて面白かったよー。
6.100名前が無い程度の能力削除
なんとゆー男前なめーりんねーさん。
そりゃメイド長も惚れてまうってなもんです。
またフラン様の心情や心の機微が、単なる「狂気」の一言で片付けられておらず、精緻に描写されている所も高得点。特に、蹂躙される者の気持ちが「解らない」のではなく「知らなかった」という帰結が素晴らしい。
あとがきのおぜうさまのテンパリっぷりもナイスでした。
7.90名前が無い程度の能力削除
これはイイ姉妹SS。
フランは姉思いのいい子だなw
13.100名前が無い程度の能力削除
こんなに早く三作目が見れるなんて嬉しい限りです。
楽しかったですよ。
こういう格好良くて面白いバトルものは久しぶりに読みました。
今まで読んだバトルものの中で
スペルカードの使い方が一番格好良い作品でした。
23.90名前が無い程度の能力削除
戦闘モノも多少読んできましたが、ここまでの美鈴活劇は初めてな気がします。
ただ一言・・・すげえ。
こういうのもきっとアリだ・・・ッ!
28.100NANASI削除
美鈴さん最高
いいSSでした
30.100名前が無い程度の能力削除
美鈴カッコいーよー
文句なく100点です
33.100irusu削除
美鈴は守ろうとするから強いのではないでしょうか。
34.100名前が無い程度の能力削除
かっこいいですねぇ。
めーりんは守護者であり庇護者であるのがよく似合いますねぇ。
59.100名前が無い程度の能力削除
美鈴かっこよすぎる。超面白かったです。
これはもっと評価されるべき。
64.100名前が無い程度の能力削除
すごくカッコイイ美鈴ですね。
咲夜さんよりもずっと長く、“お姉さん”を続けてきた美鈴。
素敵なお話でした。