どこかに小さな郷があった。
夜空には淡い虹がかかっていた。
その架け橋の上で、朧な影たちが厳かな祈りをあげていた。その祈りと言うものは、夜風に出会って銀色の星屑で出来たフルートの音色となって、或いは明けの明星の放つ一瞬の光を取り集めたトランペットの音色となって……妙なる調べを奏でている。
小さな宝石のような星たちが、透明な夜の底に沈んでいる。暗い空の水がときどきその星たちを瞬かせている。
蠍の火がそんな夜空から消えて久しいが、今ではもっと多くの星がこの郷の空には輝いている。
今夜もまた、夜空に星が一つ増え、また地上からはなにかが消えていった。
黒曜石で出来た本の表紙をぱたりと閉じて、最後の魔法使いは立ち上がった。石の本には、彼女がひとつひとつ取り集めた昔の星の輝きが納められている。星が天のどの軌道を巡ったのか、いつ夜空に現れ、そしてまた消えていったのか。シナやバビロニヤの天文台よりも昔から伝えられる虚しい知恵。
古びた本棚へとそれを戻すと、彼女は静かに彼らに別れを告げ、窓辺から夜空へと箒に乗って飛んでいったのだった。
その空には半分しか月がない。
箒星が先触れとなって魔法使いを先導する。
星が落ちた先に小さな社があった。
そこでは一人の娘が降り積もる落ち葉を掃いていた。月を眺め人心地つくと、ふと気がついたように後ろを振り向いた。
魔法使いが空から降りてきたのだ。彼らは旧い友なのだ。
魔法使いの挨拶はひどく素っ気のないものだったが、それでも少女はそれが当然ということのようにうすく笑み返した。
ずいぶんと久しぶりに出会うというのに、この二人の間では多くの言葉を要しないのだろう。いや或いは、言葉というものがどこの樹から生まれ、どのように地上で朽ちてゆくのか彼女たちは知っており、いまこの聖域で敢えて言葉を朽ちさすまいとしているのだろうか。また或いは、この世に無意味なことなどないのだと、何一つありはしないのだと、知っているのだろうか。
さりとて夜風は木々を揺らし、少女が掃き溜めていた朽ち葉の山を崩し、それがまた螺旋を描いて夜空に飲み込まれていった。月の半分に照らされた山の端は、遠くにあるとも近くにあるとも知れず、まるで螺鈿(らでん)細工のような夜空の雲と一緒に、どこか虹色めいて暗く煌いている。古びた伯林青(ベルリンブルー)のような月の光は、なにもかもを押しなべて夜のものとしてしまい、ふたりの出逢いですらもどこか遠くのことのように、深く夜の底に沈んだ秘密の標本のように彩ってしまうのだった。
魔法使いは砕けた月の光を踏んで、白砂のうえに歩み、後ろを振り返ると少女に向かって何事かを語った。
それは例えばスィームルグの最後の挨拶。夜空より向こうへと飛立つ者が、地上に残るものへと贈る言葉である。
星が一つ消えた。
魔法使いは言った。どこかに真の魔法の栄える土地があるという。それは「月影もさやけし彼方の邦」であるという。そこではものは忘れ去られるということがなく、従ってこの郷のような場所もないのだという。彼女の古い祖先たち、先達の先達のそのまた先達……黄金の時代に生きていた彼らも、最後には世界の最果てのあの白亜の陵(みささぎ)を越えてその地へと向かったのだという。
言い終えると魔法使いは金色の髪を手繰り、少女のほうを見た。少女はあいも変わらず微かな笑みを浮かべているだけであったが、魔法使いはそれで満足であった。
ただ一言少女が聞く。それはどれほどに遠いところなのだろうか、と。
魔法使いは答えた。「今」と「さっき」よりも遠いだろう、と。
もはやこの地に魔法使いを見送るものとてなく、ただ少女のみがその背に小さく手を振った。
魔法使いはその様を見ない。最後の挨拶は終わったのだから。
振り返りもせず彼女は夜空へと飛び上がると、懐から虹色に煌く薄い貝殻で出来たクラリオンを取り出したのだった。箒を降り夜空に足をつけると、星界へ向かい彼女は歩みだしたのだった。
彼女が夜の水に指を浸し奏でるクラリオンの調べは、郷に厳かに降り積もるあのフルートとトランペットの音色と混じる。
忘れ去られたものさえ、いつか忘れ去られたことそのものが消えてなくなるだろう。それこそが降り積もる『時(タイム)』の調べである。
魔法使いの歩みゆく夜空のむこう、山の端の彼方にはただただ限りもない虚空がうち広がっていた。クラリオンの虹色の音色に惹かれ、消えかけた山や谷から形のあるもの、形のないものが夜空に歩みだしてくる。それらが魔法使いを先頭にして、奇妙な隊列を組み、やがて銘々勝手に笛やら太鼓やらを打ち鳴らし、星の光さえも脅かせる。月の色で染め抜かれた新月の幟を立てて、彼らは夜空の彼方へと歩み去って行ったのだった。
彼らが果たして世界の果てを越え、どこかにあるという彼の地へと行き着けたかどうかはもとより定かではない。ただ、深々と降り積もる見えない『無』だけが郷に残された。
やがて、家々も山も谷もなにもかもがその無の下に埋もれ、そうして最後には月の全てと幾万の星の煌きとともに、そうした無たちもまたどこかへと行ってしまうのだろう。
小さな社を守る少女だけはその事を知っており、なにごとかに祈るでもなく、そっと微かな笑みを浮かべていることだろう。
そうしてコバルトブルーの小さな惑星が消え去ってしまって、あの恒星天さえもすっかりと水素の火を燃やしつくして遥かのち、彼女はまた後ろを振り返る。
そのときまた忘れ去られたものたちが、彼女の目の前に現れるのである。
その中にあの魔法使いがいるかどうかは、やはり定かなことではないのであるが。
そのわりには文体が統一されていないのが気になった