Coolier - 新生・東方創想話

幻想夢双夜

2009/08/09 02:37:55
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1.

 鈴仙は手ぬぐいで額の汗を拭った。
 暑い。地上の夏は、どうしてこんなに暑いのだろうか。
 こんな日には外出などしたくなかったのに……。

 鈴仙は人里にやってきていた。いつものように薬売りのためである。
 彼女は人型だが、ピンと立った兎型の耳から、一目で妖獣の類だと分かる。人里の視線もとっくに慣れたものだ。

「いつものとおりね」

 溜息交じりに呟く。一緒に来ていたもう一人の妖怪兎は恒例のごとく姿を消していた。いつものとおり、さぼっているのだ。このまま帰っても永琳に怒られるだけなので、毎度のことになるが、仕方なく鈴仙は一人で販売をしていた。
 薬の販売には、妖怪にも人間にも顔の利く上白沢慧音に仲介役を頼んでいた。最初はフォローをしてもらっていたが、次第に彼女の協力も必要なくなってきている。里の人間が鈴仙に慣れてきているのだろう。好意的に出迎える家もあった。
 鈴仙としては人里には近づきたくないのだが、師匠である永琳の言うことには逆らえない。彼女はこれも師匠の課した修行の一環として受け取っていた。
 寺子屋に顔を出すと、慧音が一人で片付けをしていた。今日の授業とやらは終えたのだろう。彼女は鈴仙を好意的に出迎え、謝辞の言葉を述べた。

「ああ、貴方か。そういえば置き薬の時期だったね。ありがとう。毎回助かっているよ」
「別にいいわよ」
「里の皆も感謝している。口に出さない者も多い。代表して礼を言うよ」
「師匠に伝えておくわ」

 鈴仙はぶっきらぼうに答えた。
 彼女は人里に何の感情もない。そもそも、地上の人間のために何かをしてやろうという気は鈴仙にはなかった。

「これからは地上の民となるのですから、地上の民の勤めを怠ってはいけません。お互い、他人の為に働くことが地上の民の勤めなのですよ」

 永琳に諭された言葉を思い出す。穢れた地上の人間のために、どうして働かねばならないのか、鈴仙には納得できていない部分があった。しかし永琳の行動は早く、置き薬のシステムを人里に提供し、永遠亭に診療所まで開設して、高度な医療技術を人里に貢献しているのだ。

「八意殿は元気かい?」慧音は溜まった書物を教卓に積み重ねて尋ねた。
「あ、はい。元気ですよ」
「そうか。実はね、明日の夕刻、里で納涼祭を開くんだよ。もしお暇があったら、来るといい」
「ノーリョーサイ?」鈴仙は首を傾げる。
「そう。この季節、暑いだろう? 祭りを開いて、涼を味わうんだ。例年、皆が楽しんでいる」
「ふぅん……」
「八意殿、輝夜殿と、そこの小さいお仲間にも伝えておいてくれ」
「え?」

 振り向くと、そこにはてゐが立っていた。
 やけに笑顔が眩しい。

「楽しみー。お祭りなら、わいわいと騒げるよね!」
「なんだ、あんたいたの」鈴仙はつっけんどんに言う。
「居るってばさ」てゐは笑い返した。
「今日の仕事は終わってんのに、どこをほっつき歩いてたのよ?」
「道に迷っちゃって」
「またそんなこと言って。この辺はあんたが一番詳しいじゃない!」
「はは、仲がいいようだね」

 そう言って、慧音が微笑んでこちらを見ていた。
 鈴仙は急に気恥ずかしくなって、すぐさまてゐを急かした。

「もう……。ほら、てゐ。さっさと帰るわよ」
「帰ろう、帰ろう」てゐは笑いながら復唱する。
「また来てくれ。それと、八意殿によろしく」
 
 人里に医療を提供している永琳は、慧音にとって恩のある人物なのだろう。
 鈴仙は会釈をして慧音と別れた。

 鈴仙は、慧音のことをよく知らない。人里の守り役のようにも見える。彼女は妖怪だが、半分は人間らしい。人間に肩入れしているのは、それが理由なのだろうか、と考える。

 寺子屋を出て、てゐと人里を歩く。
 明日の納涼祭の準備とやらは始まっているようだった。
 建物のそこかしこに飾りつけがされている。準備期間ではあるが、そこにはささやかな活気があった。

 置き薬を始めてからだいぶ月日が経っているが、未だに鈴仙には納得できないことがあった。
 そもそもは、永琳の「地上の民のため」という発言から始まったものだった。
 置き薬のシステムは、一つのまとまった薬箱を個人宅に提供し、後々、季節の代わり目に訪問し、減っている分があれば購入してもらって補填する、というシステムである。しかし、一番最初の提供からして無償であり、今もこうして補充作業のために訪問しているが、価格の提示はするものの、支払えない場合はいつでも支払えるときでかまわないと説明するように、と永琳に聞いていた。
 つまりは、無期限に待つということなのだ。
 どうしてこのような割に合わないことをするのか、常々不思議に思っている。
 これでは、後で払うと言われ続けたら、こちらは何も出来ないではないのだろうか。そこに何の意味があるのだろう?

 首を傾げたところで、奇抜な格好をした人間の女性がこちらに目を向けているのに気が付いた。
 見覚えのある人間だ。彼女のほうも同様なのか、頬に手を当てて考え込んでいるようだった。

「えぇと、貴方は……」彼女が呟く。
「いつだったか、勝手に家に上がり込んできた人間ね」

 鈴仙は彼女を覚えていた。いつぞやの、満月の夜に永遠亭に侵入した吸血鬼が連れていた人間だ。そう、あの永い夜から、永遠亭の運命は大きく揺らいでしまったのだ。

「相変わらず、おかしな格好をしているのね」
「そのうち見慣れますわ」上品そうに彼女は微笑む。「十六夜咲夜。十六夜の夜に咲く、と書くの」彼女は自分を指差してそう名乗った。
「鈴仙よ」他にも長々と命名されているが、面倒なのでそれだけを答えた。「ふぅん。あんた、ここに住んでたんだ」
「私は人里には住んでいませんわ」
「じゃあ、何処に住んでるっていうの? 貴方、人間なんでしょう?」
「人里でない場所に家があるの」
「ふぅん。まぁ、いいけど」
「人里にやってくる薬売りの妖怪兎ってのは、貴女のことだったのね」
「私とこいつよ」

 言って鈴仙はてゐを見るが、忽然と姿を消していた。
 周囲に目を配っても何処にもいなかった。

「こいつって?」咲夜は首を傾げる。
「何でもないわよ。本当は、一人じゃないんだけど……」

 鈴仙は大きな息を吐いてうな垂れる。
 咲夜は不思議そうな顔で見ていた。

「ところで、貴女の名前ってそんなのだっけ? あの変な服を着たやつに、別の名前で呼ばれてなかった?」咲夜は話題を変える。
「う。まぁ、そんな時代もあったのよ……」
「いつの時代の話かしら」咲夜は苦笑する。「まぁどうでもいいんだけど。薬を作ってるのが、その変な服を着たやつなのね」
「そういうことね。一応、変な服じゃないわよ」

 真夏の直射日光が二人を照らす。
 鈴仙の頬を汗が伝う。服にも汗が染み出していた。

「近頃、暑いのよね。くらくらしそうですわ」
「あー。分かるわ。汗で服が張り付いてしょうがなくって……」
「涼しくなれるものはないのかしら」
「幽霊でも捕まえておいたら? ひんやりすると思うけど」
「あとで面倒になりそうですわ。冥界から誰か飛んできそうですし……」
「まぁ、うちはわりと涼しいけどね」

 鈴仙は手ぬぐいで汗を拭いているが、咲夜は不思議と汗を掻いていなかった。
 何か不思議な体質なのだろうか、と不思議に思うが、追求はしなかった。
 咲夜は手持ちの籠を開けて中身を確認する。
 その後、顎を上げて何か考え事をしているようだった。

「用があるの?」鈴仙が尋ねる。
「何か売ってもらおうと思って。まだ荷物に余裕もありますし」
「いいけど。どんな薬が欲しいの?」鈴仙は背負った荷を降ろす。
「ええとね、毒薬とか」
「そんなもんないわよ。まったく、物騒ね。これだから地上は穢れてるって言われるのよ」
「あら、そんなことありませんわ。純粋な愛情の発露ですわ」咲夜は口元を隠して笑う。
「何それ。よく分かんないわ」鈴仙は首を傾げる。
「残念ですわね」
「まぁ、まとめて全部飲んだら、そこそこおかしくなると思うけど」
「その前にお腹を壊してしまいそう」咲夜は苦笑する。「壊さない人ばかりだけど」
「それで、どう?」
「どうって?」
「全部お買い上げってやつね」
「そんなにお金がないわ」咲夜は困った笑顔を浮かべる。
「ないんだったら……、いや、いいわ。冗談はその辺にしとく」

 不思議な顔を浮かべる咲夜を無視して鈴仙は話を戻す。

「とにかく、単品で毒薬なんて売ってないわよ。盛りたい相手でもいるの?」

 永琳は支払いを大っぴらに求めない。対価を提示するように言われているが、支払いはいつまでも待つ。そうしていることで未収金はかなりの額に上っているが、永琳から、それについて追求されたことはなかった。かといって、永遠亭に戻ったときに、全部売れたけどお金はありません、などとは到底言えない、と鈴仙は考えていた。

「メイドにも色々あるの。まぁ、単品で売ってないなら仕方ないわね」咲夜は腕を組んで息を吐く。
「あっそう。まぁ、うちで扱ってるのは、熱、風邪、喉の痛み、鼻水、鼻づまり、喘息とかの錠剤や飲み薬から、傷や打撲などの塗り薬、それに栄養剤ね。家に置き薬はあるの? 今なら安くしておくわよ」
「そうですわねえ。風邪を引きそうな者はうちには居ませんし……」

 咲夜はしばらく考えるように顎を上げた。空を見ているのではなく、自宅の在庫でも考えているのだろう。

「今は飲み薬がキャンペーン中で二割引よ」
「あら、そう? うちの門番用に傷薬を考えていたのですけれど……、どうしようかしら?」
「ほんと、どうしたものかしらね」
「えぇと、ねぇ……。喘息? そういえば家に喘息持ちがいたかしら」
「そう? 喘息の薬なら最近更新したわよ。師匠の薬はとびっきりなんだから。きっと効くわよ!」
「あら、眩しい笑顔ですわ」
「ふん。顔はどう足掻いても眩しくならないわよ」

 その後、喘息の薬を見繕って説明すると、十六夜咲夜は幾つかの商品を購入した。代金もしっかりと支払ってもらえ、鈴仙は喜んで帰宅の途に着いた。



2.

 鬱蒼とした竹林を進んで、鈴仙とてゐは永遠亭に歩いた。
 相変わらずてゐは消えたり戻ったりしているので、途中から鈴仙は面倒になって放っておくことにしたが、最後には戻ってきたので、二人で永遠亭に到着した。
 長い回廊を歩いて永琳の部屋を訪ねる。もちろん、てゐは遊びに戻っているので鈴仙一人だけだ。

「……というわけでして、宜しくお伝えして欲しいとのことでした」
「ふぅん。ご苦労様。お前も落ち着いて仕事が出来るようになってきたのね」
「今日は、あの夜にやってきた人間がいましたよ。ほら、羽を生やした子どもと一緒にいた、奇抜な格好をした人間です」
「あの吸血鬼のお供の?」
「はい。十六夜咲夜と名乗っていました」
「そうなんだ。彼女に薬を売ったの?」永琳は鈴仙に向きを変えて尋ねる。
「はい。喘息の薬と、その他に、軟膏、栄養剤などを幾つか購入していきましたよ」
「あら、わりと多めに買ってくれたのね。上出来、上出来」

 永琳は満足そうな表情を浮かべていた。
 鈴仙は永琳の顔色を窺いながら付け加える。

「しかし、彼女、毒薬が欲しい、なんて言っていましたよ。いったい誰に盛ろうとしているのでしょう?」
「毒薬を? そんなに殺したい者でもいるのかしら?」
「愛情の発露がどうのとか言っていましたが……」
「あはは。お前には奥深い世界かもね。忘れておきなさい」
「はぁ……。まぁそれはそれとして、全部まとめて飲めば、副作用としておかしくなるよ、ってお勧めしたんですが、お金がないと断られましたよ」
「あはは。まぁ、全部飲んだらねえ」
「お師匠様。一つお聞きしたいことがあるのですが……」
「何かしら?」
「以前、お師匠様は薬の支払いはいつでも良いと仰っていました。それについて、現時点で回収できていないお金がけっこうあるのです。どうしてその場で回収しようとしないのですか?」
「その理由が知りたいの?」
「はい」

 鈴仙の肯定に、永琳は微笑んで答えた。

「鈴仙。理由は教えてあげないわ。それは自分で見つけなさい。でも、これだけは守りなさい。対価の提示はすること、お金が無いといわれたら、支払いはいつでもいいと言いなさい。でも、支払わなくていい、とは絶対に言ってはいけません。それで充分です」

 やはり、永琳の意図は鈴仙にはよく分からなかった。
 報告を終えた鈴仙は永琳の部屋を退室した。
 縁側まで戻ってきたところでてゐの姿を見つける。
 相変わらず、地上の兎同士で戯れて適当に楽しんでいるようだった。
 薬売りとして二人で人里に行っても勝手に何処かに行ってしまうし、結局のところ、永琳にお叱りを受けるのは自分一人だけだ。釈然としない思いが鈴仙にはあった。

 視界の端に臙脂色が映る。回廊の奥から現れたのは、鈴仙の主である、蓬莱山輝夜だった。鈴仙に目を留めた輝夜は、ゆっくりした足取りで近づいてくる。

「永琳は部屋かしら?」
「はい。ですが、今は薬売りの収益を帳簿につけていると思いますよ」
「そう。せっかく遊ぼうと思っていたのに」輝夜は残念そうに目を閉じる。その後に鈴仙に目を向けた。「貴方は暇?」
「はい。今のところ、特別やることはありません」
「四季の間に行っていなさい。あぁ、そう、えぇと、イナバも連れてきてね」
「てゐのことですか?」
「そうね。私は永琳を連れてくるから。覚悟して待ってなさい?」

 輝夜は裾から取り出したカードのようなものを鈴仙に見せ、「分かっているわよね?」と言いたげな目線を差し向けた。それはいつだったか、今は支払いが出来ないから、その代わりに、と森の人形師から譲り受けた品物だった。
 基本的に、薬の販売に物々交換は行っていない。だが、つい珍しそうだったので、鈴仙の独断で了承してしまったのだ。永琳に報告したところ、咳止めの薬なら在庫が豊富だから問題ないとのことだった。

 輝夜が立ち去った後、鈴仙はしばらく立ち尽くした。
 何を覚悟して待っていればいいのか、それはここ数日の経験から身にしみて分かっている。
 最近の輝夜のお気に入りに、今日もとことん付き合わされることになるのだ。

「てゐ、聞こえてた?」鈴仙はぶっきらぼうに言葉を出す。
「聞こえてなかったよ」
「つまり聞こえてたわけね」鈴仙は振り返る。てゐが後ろ手にして立っていた。「そういうわけで、四季の間に行くわよ。姫様、どうしても勝ちたいみたいね」
「くすくす、また長い勝負になりそうだねえ」てゐは口元を隠して笑う。
「そういうわけで、さっさと行くわよ」

 二人は並んで四季の間に向かった。



3.

 紅魔館。吸血鬼の根城とされた館に、昼下がりの陽光が掛かっていた。
 門前には紅美鈴が一人、腕を組んで立ち尽くしている。

 直立不動、左右対称の姿勢。紅く染まった髪。薄く閉じられた眼。緑色のチャイナ服。
 活動性能を引き上げるため、裾に長いスリットが入っている。漏れ出る肢体を気に留めることはない。
 そよぐ風が、彼女の腰元につけられた鈴を小さく揺らした。

 紅美鈴は、紅魔館の門番である。
 門番は二十四時間体制で行う仕事であり、彼女はその役割を基本的に一人で担っていた。
 紅美鈴は人間ではなく、妖怪に分類される存在だった。しかし、睡眠などの休息をとらない生命体は存在しない。それは、彼女も、彼女の主である吸血鬼ですら、例外ではない。
 簡単に休息を取ることは出来ないが、いつでも十分な実力を発揮するため、美鈴は気の抜いた時間を意図して設けていた。
 主が眠る昼間の時間帯を選別した、恒例の昼下がりのシェスタである。もちろん、外敵に備えてではなく、夜間に居眠りして怒られないためだった。夜間は、主の活動時間となるので気を抜くことが出来ない。

 瞬間的な突風。
 美鈴は身体をかがませることなく、風を正面から受け据える。エネルギィ消費を極端を抑えている彼女は、風を風とも感じていない。
 起きているのか、寝ているのか、彼女自身にも判別が付かない。それは自分の状態を掴めないからではなく、言葉の定義の問題だった。
 起きているようであるが、彼女のほとんどの部分は休息に入っている状態であるし、寝ているかと言えば、半透明のフィルタが張られた思考をするぐらいの余地は残されている。
 半覚醒、半睡眠のスリープ・モードと言えるのかもしれない。

 穏やかな陽気に、全てが浄化されてしまいそうな心地よさを感じる。
 美鈴は無意識のうちに、イメージトレーニングを開始した。
 イメージの中で、彼女はあらゆる難敵を打ち倒し、無類の強さを知らしめる。
 主も彼女の存在を認める。
 全てが上手くいっている。
 そのような感覚は、身体に良い影響を与えることを美鈴は知っているのだ。

 しかし、そのような思惑の中、どのような攻撃を繰り出しても、いとも容易く避けられる敵が割り込んで現れた。
 ひらり、ひらりと舞う姿には何処となく既視感を感じる。
 イメージなのに勝てないなんて、どういう了見だろう。
 そんな相手が何処にいるのだろうか。

 目を離さなくても、視界から逃げられてしまう、不思議な振る舞い。
 やはり何処かで見たことがある。
 この感覚は何だろう。

 ……瀟洒?

 その単語を連想した瞬間、空気を裂くような一線に、彼女は急激に現実に引き戻された。

「目が、覚めたかしら?」

 呆れた顔の咲夜が前に立っている。
 距離が近い。

「あ、あはは、咲夜さん」一瞬で現状を悟る美鈴。「いい天気ですね、今日は」冷や汗を笑いでごまかす。
「ええ、本当に。ぐっすりと眠り込んでしまうぐらい、良い陽気ですわ」咲夜は首を傾げ、笑みを作る。「十メートルの距離で気付かないなんて、門番として問題があるかもね」

 美鈴は、眼前のナイフを指先だけで掴んでいた。
 手が動いていなければ、眉間を貫通していただろう。

「私、もう、何度か死の淵をさまよっているかもしれませんね」美鈴はナイフの刃の部分を裏返し、握る部分を咲夜に向けて返す。
「ええ。身内に殺人者を出させないで欲しいですわ」咲夜は受け取ったナイフを仕舞う。
「うう、私、死傷者になっちゃいますよ?」
「今のままだと、近い将来、そうなるかもしれませんわね」
「咲夜さん!」叫ぶ美鈴。
「でも、今までそうならなかったのが不思議だわ。貴方、何だかんだと回避行動を取るんですもの」
「そりゃ、天性の才能というやつですよ」
「次からは、ナイフを二倍ずつにしてみようかしら」
「あははは、勘弁してくださいよ」苦笑いを浮かべる美鈴。
「余裕がありそうね。十六倍ぐらいにしてみようかしら?」子どものように笑う咲夜。
「すみませんでした! もう無理ですからぁ!」

 許しを請おうとした美鈴の胸に何かが投げて寄越される。
 あやうく落としてしまいそうになるが、中空でしっかりと掴んだ。
 咲夜は「じゃあね」と言い残し、片手を上げて門を通過する。
 美鈴は受け取った小瓶のような物を眺めた。軟膏、と書いてあるように見える。

「あれ。これ、何ですか?」

 美鈴の言葉を受けて、咲夜は立ち止まる。

「自分用に買ったのだけど、残念なことに妖怪用らしいですわ。私には使えませんし、他に入り用なのは貴方ぐらいしかいないでしょう?」

 咲夜は言い終わると、手をひらひらと振り、一度も振り返らずに玄関まで歩いていった。

「咲夜さん……」美鈴は軟膏を握り締める。「格好良いです……」



4.

 永遠亭。四季の間に、トランプが並べられている。
 輝夜、永琳、鈴仙、てゐの四人は、それぞれ、自身の手札と場に置かれたカードを見比べている。
 彼女たちが行っている競技は、シンプルに七並べである。鈴仙はカードゲームについて詳しくなかったのだが、今ではある程度ついていけるようになった。

 最初の頃は、トランプという言葉すら知らない状態から始まっていたので、理解するまでに長い時間を費やした。トランプについて既知だった輝夜、永琳、てゐの3人にアドバンテージをとられていた鈴仙は、置いていかれまいと必死に一人でカードゲームをしていた夜がある。架空の二人の人格を用意し、三人分のカードを配分し、一人でそれを回す。それぞれのターンでは、それぞれの立場に自分を置き換えて、それぞれの必勝の手を考えてカードを切るのだ。
 もちろん、誰もが寝静まる夜を見計らっているので、誰にも見つかったことはない。
 そんな涙ぐましい隠れた努力の結果が、最近は少しずつ表層に現れている。

 レベルが拮抗してくると、ちょっとしたことで勝敗は分かれてくる。
 トランプのカードには、局所的に輝夜の永遠の術が施されている。カードを見分けるための傷や汚れ、破損を回避させるためだ。
 永遠の術の効果範囲にあれば、その物質は歴史の進行を止める。カードはどんなに時が過ぎても劣化することはなく、折り目も、傷もつけることも不可能となる。
 この施しは、勝利にこだわるてゐの姑息な作戦に対抗するために作られたルールでもある。勝負数回目にして、てゐを除く、満場一致の賛成で決議されたものだ。
 なお、このトランプ大戦に勝利した暁には、当日晩御飯に指定のおかずが用意されるという小さなご褒美があった。
 輝夜と永琳は食に大した執着はなく、普段の食事で満足しているようだが、耳の垂れた兎は目を輝かせて勝利にこだわった。

「ええと、スペードのキング。これでエースからも出せますね」鈴仙はカードを畳に置く。
「やっと繋がったわね。まったく、スペードの6は誰が持ってるのかしら?」輝夜はカードを切る。「こっちのほうを出して欲しいのよね」
「自分のカードで防げるときは塞ぐ。これは一般的な戦術よ」永琳がカードを選んでいる。
「永琳、あなたが持っているの?」
「さぁ、どうかしら」永琳は輝夜に笑いかけ、カードを切る。

 ここへきて、先ほどから唸っているのはてゐだった。

「うーん、これを出せば、でも、ああなるし、こっちにすると……」
「十秒ルールでも作ったほうがいいかしら?」輝夜が笑う。
「いい案ね、次からそうしましょうか?」永琳は輝夜を見て微笑んだ。「時間が過ぎたらパスと同等の扱いってことで」
「うわ、十秒じゃ足りないよ! もうちょっとないと困る!」

 てゐは苦し紛れに叫んだ後、スペードの6を渋々と場に出した。
 輝夜がそれを見て、にこにこと満面の笑みを浮かべた。
 永琳は輝夜を見て微笑んでいる。
 今日のところは肉団子かしら、と鈴仙は考えた。

 料理番長の彼女にとってみれば、晩御飯のおかずの指定権利に特別な価値はなかった。どちらにしろ、自分が作ることになるからである。
 自分が食べたいものは、その時に晩御飯に混ぜ込むことが出来る。それに、今や好きなメニューを作るというよりは、どのメニューがいいか考えるのが面倒になっている。自然と決まっていれば、それに合わせて作るだけでいいのに、と鈴仙は思っていた。
 いずれにせよ、料理が決まれば何でもいい。それぐらいの考えで鈴仙はゲームに参加していた。



5.

 紅魔館は大図書館。
 書庫の主はいつものように椅子に深く腰掛け、書物を紐解いていた。

「この幻想郷にも色々な妖怪がいるのね……」
「パチュリー様、何を読んでらっしゃるんですか?」小悪魔が尋ねる。
「以前に人里の者が訪れたことがあったでしょう。そのときに色々と取材を受けたじゃない」
「ああ、あの、か弱い人間の女の子ですね」

 小悪魔が書物を抱えながら行ったり来たりしている。
 パチュリーの読んでいる本のことが気になっているようだった。

「幻想郷縁起という本ね。私のことも紹介されているわ」パチュリーが項を捲る。
「うはぁ。何て書かれているんですか?」
「別に。紅魔館に住む魔法使いというだけね。トラブルメイカーみたいな書かれ方をしているのが気に食わないけど……」
「あは。パチュリー様は気がついてないんですよぉ。いつも何かやるたんびに騒ぎになるんですから」
「大したことじゃないわ。些細なことを大げさに騒いでいるだけでしょう?」
「私のこと、私のことは書いてませんか?」
「ええと……、残念ながらないわね」
「がっかりですぅ……」
「貴方、取材を受けていなかったじゃない」

 図書館の扉が開かれる。
 そこに居たのは十六夜咲夜だった。

「パチュリー様はいらっしゃいますか?」
「何か用?」パチュリーは目線だけを向けて答える。
「ふふ、人里で良い物を手に入れたんですの」

 咲夜はパチュリーのいるテーブルまで近づくと、手に持った籠から幾つかの小瓶を取り出した。
 ラベルが張っていないのが何処となく怪しい。

「何それ。毒薬?」パチュリーは眉をひそめる。
「違いますわ。人里で喘息に効く薬を販売していたので、買ってみましたの。良かったらどうですか?」
「良くないわよ」パチュリーは溜息を吐く。「人間や妖怪、魔法使いとでは、それぞれ薬の扱い方が違うのだから。その薬が人間用の物だったらまったく効果がないよ」
「魔法使い用に見繕ってもらいましたわ」
「咲夜様、喘息に効くお薬なのですか?」小悪魔が話しかける。
「ええ。そこそこ名の知れた薬屋の品物ですのよ」咲夜は笑って答えた。

 パチュリーは小瓶を手に取り、しげしげと眺める。

「私の喘息をそこらへんの喘息と一緒にしないで欲しいわね」
「自慢するようなことじゃないです……」小悪魔が口を挟む。
「黙りなさい。余計なことを言ったら、仕事を増やすわよ」
「うう……、しくしく」

 パチュリーは小瓶の蓋をはずし、少し匂いを嗅いでいるようだったが、何の気なしにそのまま喉に流した。

「別に効かないと思うけどね」パチュリーは咲夜に小瓶を返す。
「信じれば真実になることもありますわ」咲夜は小瓶を籠にしまう。
「偽薬効果に期待しても意味はないわ。私の喘息は精神的なものが原因ではないのだから」
「これを機に、生活改善もいいのではないかと……」
「私はこれが最上の生活なの。これより他に何があればいいというの?」
「それは、私にはわかりませんが……」
「そういうこと。ところで、残りの小瓶は何なのかしら」パチュリーは人差し指で突いて小瓶を鳴らした。
「ただの栄養剤ですわ。お疲れのときにご利用ください」
「ふぅん。これはありがたく貰っておくわね」

 パチュリーが指を鳴らすと三本の小瓶が浮かび上がった。
 本棚と同様に並ばれた備品用の棚に配置される。うっすらと小瓶に「栄養剤」というメッセージが浮かび上がった。

「今日は何を読まれているのですか?」
「幻想郷縁起。お前のことも書かれているわ」
「あの人里の娘が記したものですわね」
「とても興味深いわ。新しい魔術の参考になるかも……」

 パチュリーが読書に集中した気配を感じ、咲夜は図書館を後にした。
 小悪魔はやはり仕事を増やされていたので、咲夜を見送ることは出来なかった。



6.

 天狗の記事に正の字が幾つも並ぶ。記事の内容として書かれたものではない。筆で上書きされたものだ。
 つまりは、勝敗表である。天狗の記事はただのチラシの裏として使われていた。

 永遠亭のトランプ対戦は、長らく続いていた。
 もう何度勝ち負けを繰り返しただろうか。
 てゐは先ほどから、ずっと座っていることに飽きたのか、それとも足が痺れているのか、頻繁に姿勢を変えていた。あぐらかと思えば正座をし、そこから少し崩して落ち着いたかと思えば小さくジャンプし、しゃがんだような姿勢に変わる。湧いて出る衝動的な感情を無意識に発散させているのだろうか。それとも、一定時間同じ体勢でいてはいけないというルールを自らに課しているのだろうか。物事に集中しているてゐは、見ていて飽きることがない。
 輝夜と永琳は対照的で、最初に座った姿勢から一つたりとも動いていなかった。
 輝夜は臙脂色の衣装が足元を隠しているため、どういう姿勢なのかよく分からないが、きっと正座を崩しているのだろう。永琳も同様の姿勢だったが、彼女は微笑みを携えたまま、否、挑発的な笑顔をてゐに向けたままカードを差し向けている。

「どれが、当たりでしょう?」

 永琳は手に持ったカードを左右に振ってみせた。
 てゐは、永琳のカードに指先を鋭角に差し向けた状態で固まっている。
 ニンジンと間違えて赤ピーマンを齧ってしまったような表情だ。

 現在の勝負は、シンプルなババ抜きである。
 てゐの持ち札は二枚。永琳の持ち札は三枚。ここでてゐがペアを引いたら、次は輝夜がてゐのカードを引くだけなので、必然的にゲームを勝ち上がることが出来る。
 確率は三分の一。いや、てゐの手札のペアは、全て輝夜が持っているのかもしれない。鈴仙の右斜め前に座る輝夜の手札が、残り二枚なのだ。
 鈴仙はそのように状況を考えていた。彼女は今回、運よく勝ち上がり、先ほどから勝負の行方を見守っている。

「あの、私、お茶を用意しましょうか」鈴仙が発言する。
「ええ、お願い。熱いやつね」輝夜が言う。
「私も同じのをお願い」永琳も輝夜に追随する。
「にんじんのジュース」てゐはそれだけを口にする。
「分かりました。てゐのそのジュース、けっこう面倒なのよねえ……」

 鈴仙は呟いて立ち上がる。

「よろしくね」

 永琳の言葉を尻目に、鈴仙は四季の間を後にした。

 薄暗い天気。
 もう夕暮れはとうに過ぎ、空が青く染まっていた。
 正直なところ、勝負が長く続きすぎて鈴仙は飽きていた。
 昼下がりから始めたはずの勝負は、未だに終わる気配がない。
 何時ごろ終わるのだろう? そろそろ一息吐いて休みたかった。

 暑い夏の日は嫌だが、この時間帯の、涼しげな見た目とは打って変わった温暖な気温が不思議と心地いい。
 このぐらいの体感温度が続けばいいのに。もしかして、視覚も体感温度に影響しているのだろうか?

 永遠亭の兎たちが縁側で遊んでいる。彼らは妖精のように、何も考えていないかのようで、昔と何ら変わりがない。
 そう、永遠亭が不変の時の中に居たあの頃と……。

 曲がり角で、耳の垂れた人型の妖怪兎とぶつかりそうになる。
 鈴仙は驚いて一歩引くだけだったが、その妖怪兎は驚いた上に尻餅をついてしまった。

「あ、あんた……」

 その妖怪兎は、てゐとは違って髪の長い妖怪兎だった。

「危ないところだったわね」

 危ないところも何も、尻餅を付いてしまったのだから大差ないのだが、鈴仙はそう言って手を差し伸べた。
 しかし妖怪兎は動かない。

「ほら、掴まって」
「あ、れいせんさま……」

 妖怪兎は頬を染めたまま、鈴仙を見て止まっていた。
 髪の一部が床に降りている。呆然としているようだった。
 彼女は感情的で反応の早い他の妖怪兎に比べて、わりとペースの遅いほうだった。
 鈴仙の印象では、彼女ほどペースの遅い兎はいないだろう。

「どうしたの?」
「あ……」

 妖怪兎は電流が走ったように震えると、すぐさま立ち上がり、そのまま走り去った。
 呆然と鈴仙は見送る。
 そういえば、あの妖怪兎は人見知りが激しいというか、誰もを避けるようなところがあった。
 あの妖怪兎も変わらない。てゐの連れた兎たちは、てゐを含めて昔から何ら変わっていない。
 自分や、主人である輝夜、永琳は、あの永い夜が明けてから少しずつ変化を伴ってきているというのに、あの地上の兎に変化がないのはどういうことなのだろう?

 鈴仙は首を傾げながらも、自分のやることを思い出して土間に向かった。


「お茶をお持ちいたしました」

 しばらく後。鈴仙は四季の間に戻った。
 お茶と一緒に団子も持って来た。小腹を満たすためである。
 輝夜と永琳にお茶を差し出し、盆は畳に置いた。
 てゐは一息でジュースを飲み干し、満足そうに鈴仙に返した。

 どうやら、先ほどの勝負はてゐが一矢報いたらしい。
 満足そうなてゐの笑顔。対して、不満気な輝夜。やはり笑っている永琳。一目見れば勝敗は分かるというものだ。
 輝夜は鈴仙に目を向けると、彼女の座布団を急かすように叩く。

「ほら、貴女も参加するのよ。次のゲームは何?」
「はぁい。ええと、次はですね……」

 それから何度かの勝負を繰り返し、結局のところ、ゲームは輝夜の勝負に終わった。てゐは悔しがっているようだったが、最終的には納得したようだった。

「あー、お腹が空いた。ねえ、今日は肉団子が食べたいわ」
「わかりました。肉団子ですね。これから夕飯ですから、お作りしますよ」

 鈴仙は案の定の提案に胸を撫で下ろした。先ほど飲み物の用意をした際に、肉団子の下ごしらえを済ませていたからだ。
 仮に輝夜が負けたとしても、それはそれで、明日の夕飯にすればいいだけの話だった。



7.

 咲夜は紅魔館の各所を動き回っていた。
 大広間、玄関、食堂、無数にある個室、地下室、廊下。
 彼女が通り過ぎた後には汚れが残らない。塵一つ残らず清掃されていた。
 紅魔館ではたくさんの妖精をメイドとして雇っているが、彼らは仕事という仕事をこなせない。せいぜい身の回りの雑用レベルがいいところだろう。そのため、日常における紅魔館の管理業務は全て咲夜が一人で担っていた。

 広い紅魔館を彼女一人で賄っているのは、一重に彼女の器量と能力に拠るものだろう。
 この業務には気の長い時間が必要なことと、それを続ける気概がなければならない。逆に言えば、咲夜にしか務まらないのかもしれない。

 ある程度清掃を終え、片付けをしているところで主の呼び声が聞こえた。
 瞬間、咲夜はその姿を消した。

「おりますわ、お嬢様」
「喉が渇いた。紅茶を入れて」
「紅茶ですわ」
「うん」

 豪奢なレミリアの自室。椅子に座るレミリアと、その背後に咲夜。レミリアの座るテーブルに淹れたての紅茶が置かれていた。もちろん咲夜が用意したものだった。
 レミリアは紅茶に口を付けると、怪訝な表情を浮かべる。

「あれ? いつもと違う?」
「珍しい紅茶が入りましたので」
「ふぅん」
「発汗作用をもたらして、お肌ぴちぴちになるそうですよ」
「咲夜。私の肌はいつでもぴちぴちよ。こういうのはね、不健康を地で行くパチェが飲めばいいのよ」
「パチュリー様には別のものをお渡ししましたよ」
「何を?」
「喘息の薬と栄養剤です」
「医薬品じゃない」
「でも美味しいらしいですよ」
「そう……まぁいいけど」

 レミリアは半分ほど紅茶を残し、一休みする、と咲夜に告げた。

 紅魔館の清掃を終え、咲夜はようやく自室に戻ってきた。
 少し、一休みしようか。
 レミリアは今日と同じような時間に睡眠をとり、だいたい三時間ほどで目覚める傾向にある。彼女が起きるまでは休息の時間に当てられるだろう。夕食は、それまでに作ればいい。

 咲夜は衣服を脱いで、自室に添えつけられたバスルームでシャワーを浴びる。
 とても気持ちがいい。
 冷たい水が、火照った身体を冷ましてくれる。
 真夏の暑さも夜は成りを潜める。
 今夜はもう、手間のかかる仕事はない。
 レミリアの傍に居て、青い月を涼しげに眺めることが出来るだろう。

 ふと、思い出したことがあった。
 昼間に会った、あの宇宙人に仕えた兎……。
 何度か、人里に訪れているのだろうか。
 薬を作っているのは、あの奇妙な衣服を着た銀髪の女なのだろう。
 何でも、あの竹林の屋敷に診療所を開いて診療しているらしい。
 その高度な医療技術が人里で悪くない評判を得ていることは知っている。
 そんなに評判の良い薬師の薬なら、紅魔館の備蓄に揃えるのも悪くはない。

 パチュリーの具合が良くなれば、紅魔館に取り入れてみよう。
 もっとも、紅魔館の面々に薬が必要になる機会は少ないだろうが……。
 そういえば、在庫の薬はどれだけあっただろう?
 少しだけ身体が熱い。
 そうだ……、熱冷ましの薬も一緒に買っていたはずだ。

 咲夜は薄く目を開いた。
 シャワーヘッドから冷水が噴き出している。
 視界が薄くぼやけているようだ。
 まさか……、
 熱に当てられてしまったのだろうか?

 しばらく水を浴び続けた後、咲夜はシャワーを止める。
 バスローブを纏って室内に戻った。
 さっぱりとした気分だが、何処となく身体が重い。
 今日は陽射しがとても強かったと思う。汗拭きのハンカチも多用した。
 身体が熱を持っているようだ。額が熱い。
 これでは……、業務に支障を来たすことになる。
 それは紅魔館の運営ではなく、もっと重みのあること。
 紅魔館の主である、レミリアの傍らに付くことだ。
 主が活動しているのに、従者が休んでいる訳にはいかない。

 昼間に薬売りから買った熱冷ましの薬を取り出す。これで合っていただろうか?
 ぼんやりと手にとって眺める。
 いや、これは風邪薬だ。
 確か、錠剤であったはず。
 咲夜は錠剤の入った瓶を見つけると、時を止めて厨房まで移動し、水を含んで丸い錠剤を胃に流し込む。
 すぐに部屋まで戻り、ベッドに腰掛ける。
 メイド服に着替えるのも億劫だ。

 少しだけ、寝てしまおう……。

 少しだけ……。

 時を止めていれば……。

 何も問題はないのだから……。

 ほんの少しだけ、休息を……。

 起きてから、やることをやればいい……。

 咲夜はうつらうつらと頭を揺らし、ベッドに腰を掛けたまま横に崩れた。
 少しだけ濡れている髪が彼女の頬に乗る。
 それを払いのけることもせず、咲夜は止まった時の中、誘われるように永い眠りに入った。



8.

 今日の晩は、久しぶりに四人で食事を取った。
 永遠亭の縁側で、空を仰ぎ見て団子を食べる。例月祭と違って満月ではなく半月だったが、それもそれで風流を感じさせた。
 団子と少しばかりのお酒を肴に、永遠亭の面々は月を仰いだ。
 いつもの兎たちの音頭がないので、竹林の梢の音が周囲に響き渡っていた。いつもと違う情景が、縁側に独特な空気感を醸し出していた。

「たまには、こういうのもいいわね」輝夜が呟く。
「ほんと。風が心地良いわ……」

 永琳は風に揺れる髪を手で押さえた。涼しげな顔をしている。
 てゐも今日ばかりは大人しくしているようだった。
 輝夜は勝負に勝ったのが嬉しいのか、にこにことしながら団子を食べている。

 永遠亭の涼とやらは、このような形で行われるのだろう。
 そこで、鈴仙はふと思い出したことがあった。

「あ、お師匠様。言い忘れていたことが……」
「ん? どうしたの」
「明日の夕刻より、人里で納涼祭があるようなのです。寺子屋の教師に、来ないかとお誘いを受けました」
「ふぅん。そういえばそんな時期よねえ。輝夜、あなたはどう?」
「納涼祭って、どんなことをやるのかしら?」輝夜は訊く。
「普通のお祭りと一緒だと思っていいわよ。涼を味わうのが目的なのだから。そこさえ満たせればいいの」
「ふぅん。面白そうね。行ってみようかしら」
「でも、輝夜。いいの?」
「ええ。見てみたいわ」

 輝夜が人里に行きたいと言ったことを、鈴仙は珍しいと思った。いつもなら、ふぅん、と頷くだけで済ませてしまっていることだろう。
 やはり、あの夜から少しずつ変わっているのだろうか。
 永い夜が終わり、新たな日々が始まることにより、永遠亭はその姿を変えてゆくのだ。
 てゐが爛々とした笑顔を見せている。お祭り騒ぎが好きなてゐのことだ。納涼祭のことを考えているのだろう。
 おかしな納涼祭にならなければいいのだけど。

「鈴仙。明日の夕刻ね? 永遠亭で行くことにしましょう。人目もあるし、あんまり長居もしたくないから、あくまで涼を味わうのが目的ですよ」
「はい、わかりました」

 永琳と輝夜は話がついたのか、二人して笑っていた。

 鈴仙はしばらくの間、ずっと月を仰ぎ見ていた。
 一人小さく溜息を吐く。
 蒸し暑いこの夏に、何をやったって蒸し暑さが変わるわけがない。
 要は心持ちの問題なのだ。
 ただの一時しのぎ。だから、あまり意味がない。
 それなのに、どうして人里に行かなければならないのだろうか?

 かといって、永琳と輝夜だけ出かけて、自分が残っている訳にはいかない。そんなことは許されないし、鈴仙自身も考えられない。だから、ここは付き添うしかないのだ。

 あの永遠の屋敷にまだ居ることが出来たら、自分はどうしているだろう?
 あの人間たちがやってこなければ、輝夜は永遠の術を解くことはなかったのだ。
 でも、それによって月の民が幻想郷に訪れない、という真実を知ることが出来たのもまた事実。知ることがなければ、いつまでも月の追っ手に怯えていただろう。

「考え事?」
「え?」

 知らずのうちに、永琳が鈴仙の隣に座っていた。
 距離が近い。
 よく見ると、酒がずいぶんと減っている。てゐが陽気に酔っ払っている。輝夜も同じく、陽気に笑っているようだった。

「お前は考え事をしていたわね?」
「あ、いえ、まぁ、そうですが……」
「はっきりしないわね」

 永琳は不機嫌そうな表情を浮かべる。けっこう、酔っているのかもしれない。
 その指で鈴仙の頬を何度も突いた。

「ん? お前は、今更、何を悩むと言うの? そら、お前の師匠に話してみなさい」
「いえ、そんな話すような大層なことではないですから……」
「話すようでもなく、大層でもないというお前の悩みは何かしら? 隠されると、逆に気になるのよね。自白剤って何処にあったっけ?」
「私に聞かれても……」
「よし、今から作ってくるから。それまでそこを動いては駄目よ」
「うわ! ちょっと待ってください! 言いますから!」

 鈴仙は永琳の袖を引っ張って行動を止める。
 永琳なら本当に作りかねない。
 彼女は思い立ったらの行動が早すぎて、止めるのなら早めに対応しないと何をしでかすかわからない。

「悩みっていうわけでもないんですが……、お師匠様は気にならないのでしょうか? あの夜から、私たちは不変だった日常から変わることを余儀なくされました。今でもたまに思うんです。月の都から手紙が来なくて、あの夜が訪れなかったら、私はどうしていたのだろう、って……」
「そんなの……決まっているでしょう?」永琳は容易いというような顔をして言った。「ずっとあのままで居たに決まっているじゃない」
「それはまぁ、そうなのですが……」
「……そうか。お前は変化を恐れているのね?」
「……変化を、でしょうか」
「そうよ。鈴仙。過ぎたことを考えても仕様がありません。起きたことを覆すことは不可能なのですから。お前が変えられるのは、今と、これから先の事だけ。起きたことは覆すのではなく、全て受け入れなさい。以前に言ったでしょう? 私たちは地上の民として暮らすと。地上の民は、時の流れと共に変わってゆく生き物なのです。私たちはあの夜から、時の流れと共に、小さな流動と変遷を繰り返して生きていくのです。変わりゆく自分を受け入れなさい。それだけで、お前の悩みはずいぶんとなくなるでしょうよ」

 鈴仙は渋い顔をして永琳の言葉を聴いていた。
 永琳の背後にそっと置かれる竹酒の大瓶。
 あの悪戯兎の所業だ。にんまりと笑っている。
 せっかくいい話を聞いたと思ったのに、暗雲が立ち込めているような気がする。
 永琳は背中にあたる大瓶に気づいて振り返る。
 満面の笑みで大瓶をとると、杯に注いで鈴仙に差し向けた。

「ほら、飲みなさい。お前もたまにはゆっくりと休むといいわ。ずっと永遠亭を維持するために身を割いてくれたのだから。今日ばかりは無礼講よ。しっかり飲みなさい?」
「あ、いえ、私はお酒はあんまり……」
「お前は何を言っているの。せっかくお前の師匠がお酒を注いであげたのよ?」
「うう、お師匠様……」
「どうするのかしら?」
「はぁい。分かりましたよぉ!」

 とうとう根負けして鈴仙は杯を受け取る。
 少しぐらいなら問題はない。
 お酒は苦手だけど……、ほんの少しなら……。



9.

 咲夜……。

 咲夜……居るでしょう?

 何処にいる……?

 私が呼んでいるんだ……。

 早く来なさい……。


 咲夜……。

 咲夜……、咲夜……?

 何処にいるの……?


 声が……届いていない……?


 どうして……。


 私の力が疼いている……。


 これは……、


 運命が……断たれようとしている……?



 どういうこと……?




 咲夜が……消失する……。




 このままでは……この世から居なくなってしまう……。





 何故……。





 咲夜……お前に危機が迫っている……。




 助けられるのは……私だけだ……。




 お前のいる場所は……私にしか分からない……。






 私の力を疼かせる原因こそが……お前に迫る危機そのものなのだから……。








 そう……私には分かる……。










 そう遠くないところにいる……。















 お前は時を止めて……、




















 永い夢を……。



10.

 むせ返るような空気が通り過ぎた。
 おどろおどろとした月が煌びやかに輝いている。
 衣服が肌に張り付くほど汗を掻いているようだ。
 湿度が高い。
 でも、風がずっと吹いているので気にはならなかった。

 ひときわ強い風が下方から風が吹き上げた。
 塵を嫌って目元を隠す。
 ざわざわと、幾多もの竹が煽られるように揺れている。

 先ほどから、鬱蒼とした竹林の中を飛び続けていた。
 狂ったように周囲の妖精や妖怪が暴れている。
 攻撃を浴びせ続けて彼らを黙らせる。
 こうして少しずつ、咲夜は時の流れを抑制しているのだ。

 隣にはレミリアがいた。
 大きな羽を広げ、夜の王が力を解放している。
 その前方を飛んでいるのは博麗霊夢だった。

「あんたらを結界のすきまに落とし込む!」

 そう言って、霊夢は大量の符を飛ばした。
 符と符の隙間を飛び回り、レミリアが容易く攻撃を返す。
 今のレミリアに敵はいない。彼女の力が増幅しているのが、傍にいて肌身に感じられるからだ。

 レミリアが動き出してから、そう長くかからないうちに霊夢は敗北した。

「明日になっても夜のままだったら嫌だなぁ」

 霊夢はぼろぼろの服でそう言った。
 夜のまま……。
 明日になっても、ずっと夜のままで……?

 月が……おかしい?
 あれは満月ではない?
 どうしてだろう、いつそんなことを知ったのだろうか?
 何者かが満月を隠したのだ。
 だから満月を取り戻すために、レミリアは紅魔館を飛び出した。
 咲夜はレミリアが外出したから、仕方なく着いてきたのだ。
 そう、それだけのこと。

 でも……満月が欠けている。
 そうだ。だからこそ、こうしてその原因を探してここまでやってきたのだ。
 この封印された屋敷の中に、その元凶がいるから。

 ……何故それを知っているのだろう?
 よく、分からない。
 何かを覚えていない。そのような印象がうっすらと残っている。

 だが、不思議と気分は悪くない。
 それは……わだかまりが一切ないからだ。
 胸のすくような気分がずっと続いている。
 このような時間が、ずっと続けばいい。咲夜はそう感じていた。

 屋敷の中で現れた紅い目をした兎と会話をしていると、銀髪の女性が現れた。

「お迎えかと思ったら、ただの迷い妖怪? まぁ、お迎えが来れるはずも無いけど」
「咲夜、悪いのはこいつよ。一発で分かったわ。この悪党面で」

 レミリアが強気に返す。
 そのとき、銀髪の女と目が合った。
 少しだけ自分を注視しているような気がした。
 驚いていたというか、彼女が少し目を見開いたような気がしたのだ。

 だけどそれも一瞬のこと。
 すぐに彼女は去り、ウドンゲと呼ばれた紅い目をした月の兎とやらを相手に戦うことになった。

 ほどなくして兎を撃退する。

「私に勝ったからって、師匠に敵うと思っているの?」
「圧倒的に」レミリアが返す。
「さぁ、夜が明ける前に決着を付けましょう」咲夜は言う。

 早くしないと、夜が明けてしまう。
 そうなったら……。
 そうなったら……?

「そうか、夜を延ばしていたのはあなた達だったのね。私はてっきり……」

 咲夜は兎の言葉を不思議に思った。
 てっきり……、何と思ったのだろう?
 だが、咲夜の思考をよそに、レミリアはお構いなしに真っ直ぐ飛んでいく。

 あの兎は、消えたり現れたりする弾幕を使う、おかしな兎だった。
 自分の技と似ているところがある。
 あの紅い、狂気を映した瞳……。
 あの兎には、幻想郷がどのように見えているのだろうか。
 少しだけ、興味を覚えた。

「咲夜。近いよ。ゴールはすぐそこだ」
「そうですわね、お嬢様」

 ずっと長く続く廊下を、気が遠くなるぐらいの時間を掛けて飛んでいるような気がする。
 終わりがないのではないだろうか? そのように思えた。
 レミリアは不思議と楽しんでいるようで、笑顔を覗かせている。
 外の景色は、見覚えのない風景に変わっていた。

 これは、夜空……。
 いや、星が近い。
 屋敷の回廊を飛んでいたような気がしたが、いつの間に上空に昇ったのだろう?

 前方に、あの銀髪の女の姿が見えた。

「ふふふ。無事に着いて来てるようね」
「ほらほら。もう後が無いんじゃないのか?」

 レミリアはからかうように速度を上げた。
 銀髪の女は余裕の笑みを崩さない。
 そこで、またしても銀髪の女と目が合った。やはり自分を注視している、と咲夜は感じた。
 しかし、それも瞬間的なこと。
 彼女は微笑みを絶やさず、二人を偽の月の前まで誘い出していたのだ。

 その後、何が起こったのか、よく覚えていない。
 大銀河の輝きと、膨大なエネルギーの奔流が頭の隅に残っている。
 圧倒されるような光の中、何をしていただろう?
 得も知れぬような充足を感じていたような気がする。その強い余韻が、咲夜を包み込んでいた。

 しかし、誰も傍にいない。
 星の散りばめられた夜空。
 大きな月を見上げる咲夜が一人だけ。
 レミリアは何処に……?



11.

 世界がとぐろを巻いているようだった。
 地面がシーソーのようにあちらこちらに傾いて、さっきから、身体が引き摺られていくような感覚が続いていた。

 ここは何処……?

「冷たい水を持ってきたわ。あと酔い覚まし」

 近くから声が聞こえた。
 そのすぐ後、背中に手が添えられ、ゆっくりと起き上がらせられる。そこで初めて布団で寝ていたことに気が付いた。

「うーん。まさかあんなに飲むとは思わなかったなぁ」
「ふふ。たまには良いんじゃない?」

 唇に冷たい感覚。

「ほら、鈴仙。口を開けて。飲めるかしら?」
「そしてお酒が注がれるのであったー」
「注がない」

 口を開く。
 冷たい水が口中に入ってきた。酒ではないようだった。
 ひんやりとした水が身体中に浸透していくようだ。

「起きた? ほら、薬よ。飲める? 寝るなら、飲んでからにしなさい」
「んあ……お師匠様?」
「粉末にしたから、飲みやすいわよ」

 声が近い。
 うっすらと目を開く。隣に永琳が居た。背中を支えているのは彼女だった。
 少し離れたところでは、てゐが似合わない正座をしている。よく分からない合いの手を入れていたのは奴だろう。

「ほら、口を開けて」

 永琳の言うとおりに口を開けた。粉末状の薬が注ぎ込まれる。
 次いで水が注がれる。喉を鳴らして全てを飲み込んだ。

「まぁ、寝ていれば良くなるでしょう。飲みすぎに気をつけないから、倒れる羽目になるのよ」
「お師匠様が一番飲ませていたような気がするけどなぁ」てゐが笑う。
「てゐが大瓶持ってくるからじゃない」

 鈴仙はゆっくりと布団に寝かされる。
 永琳の匂いが離れた。
 あの後に何があったのか、じんわりと脳裏に映し出される。

 あの後……、何杯飲んだだろう?
 ずいぶんとてゐに絡んだような気がする。
 いや、それだけじゃない。永琳と輝夜にも絡んでしまったような……。
 日ごろの鬱憤が溜まっていたのだろうか。
 何か、良くないことを言ってしまっただろうか。
 頭痛がする。
 あまり……物事を考えられない。

「鈴仙はけっこうてゐに絡んでいたわねえ。あれは面白かったわ」
「むー。大変だったよ。私は絡むのは好きだけど、絡まれるのは好きじゃないんだから」
「ふぅん。絡まれるのが好きなのね」
「違うというのに」

 むくれたてゐの表情が浮かぶ。きっと、そんな顔をしているだろう。
 しばらく、漫才のような小話が続いているようだった。
 それは子守唄のように鈴仙の耳に入ってくる。
 少しだけ面白いと思ったが、鈴仙はすぐに緩やかな眠りに落ちてしまったので、話の続きを聞くことはなかった。



12.

 妖精たちが騒がしい。
 この竹林にはこんなに妖精が潜んでいたのか、と驚きもする。

 咲夜とレミリアは、夜風を浴びながら竹林を飛び続けた。
 奥深くにあるという屋敷を目指す。あそこに、この夜をいじくったやつがいるのだ。

 長時間に渡って夜を止めているが、こんな使用方法は精神的に疲れる。精緻なコントロールが必要であり、時を止めている間、咲夜だけが動ければ良いという訳ではないのだから。
 レミリアが無類の力を発揮しているから道中は楽だった。
 咲夜は夜を止めるのに意識の大半を持っていかれていた。弾幕もわりとおざなりになっている。

 竹林で博麗霊夢が現れた。
 霊夢はこの月の異常さに気付かず、ただ夜が明けないことに苛立っているのだ。

 人の話を聞かない霊夢は、力任せに符を使う。ただやみくもに放っているだけだ。彼女の性格を表しているようで、その点は微笑ましいのだが、やはり面白味に欠ける。

 咲夜はレミリアの背後に隠れていた。
 その辺を飛んでいる妖精レベルなら何ら問題はないが、夜を止めている間は、霊夢相手では手こずってしまうだろう。レミリアはそれと解釈しているのか知らないが、強敵相手には率先して咲夜の前に出て攻撃を仕掛けた。

 それにしても、気持ちがとても晴れやかだ。
 レミリアが傍にいることも、とても頼もしく感じられる。

「永遠の満月の復元」レミリアがぽつりと話す。

 この分だと、そう時を待たせずに月を解放できるのではないか、とさえ思った。

 だが、少しだけ気にかかることがあった。
 何度か既視感が続いている。この永い夜に慣れた感覚すらある。
 この先に何がある?
 欠けた月はいつ戻る?
 元凶は誰だった? その正体は?

 答えなど最初から知っているのに、という感覚が浮上と同時に消失する。
 だから、気に留めることはない。
 考えてはいけないことなのだと、何かが囁いているような気もする。
 問題は……ないだろう。
 むしろ安らいだ気分でいられるぐらいなのだから。



13.

 翌朝。
 鈴仙は大きなあくびと共に目を覚ました。
 少しだけ、頭がずきずきする。すぐに昨晩の酒会を思い出した。
 酒がまだ残っているようで、何処か熱っぽい。

 寝ぼけ眼の目を擦り、布団から起き上がる。
 襖を開くと、外は大粒の雨が降っていた。

「雨か……」

 昨晩、酒に酔い始めたあたりから少しずつ降り出してきたような気がする。
 そうして、屋敷の中で飲みなおしたのだ。

 確か、永琳に看病してもらっていたような気がする。
 彼女の手で薬を飲んで、ぐっすりと寝てしまったのだ。
 何処かの白兎も居たような気がしたが、今は忘れておこう。
 鈴仙はその足で永琳の部屋に赴いた。
 だが永琳は自室におらず、倉庫で作業をしているところをようやっと見つけだした。

「帳簿と在庫が合わないのよ」

 開口一番に永琳はそう言った。

「先日の薬売りですか? 何が合わないのですか?」
「栄養剤の在庫。帳簿を見ると、もう少し減っているはずなんだけど」

 栄養剤……。

 人里に行ったとき、栄養剤を販売したのは誰にだっただろう。
 幾人かの家の薬箱に補充した覚えはある。あとは幻想郷の変遷を残しているという娘と、あの十六夜咲夜という人間だけだ。

「三本ほど在庫が多いわ」永琳が腕を組んで言う。
「三本ですか……。では、逆に三本足りなくなっているものはあるのでしょうか?」
「ないわね。他の薬は、全て量は一致しています」
「とすると……、私が勘定を間違えていたのかもしれません。他に原因は考えられませんし……」
「うーん、お前に覚えがないのなら仕方ないわね。まぁ栄養剤なら危険な代物じゃないし、次から気をつけなさい。それと、次に人里に行くときに、栄養剤を販売した家を訪ねて、不備がないか確認しなさい」
「はい。すみませんでした」
「あ、そういえば今日は納涼祭で人里に行くんだったわね。そのときに訪問しなさい」
「あぁ、そうでしたね。うっかり忘れていましたよ」鈴仙は頭を掻いた。「でも、一人だけ人里に住んでない者が居ました」
「誰?」
「十六夜咲夜という人間です。人里には住んでいないようなのですが」
「そう……。彼女には人里で会ったのよね? 次に会ったときに聞いてみればいいわ」
「はい、分かりました」
「お願いね」

 永琳は頷き、大きく伸びをすると、さらに大きなあくびをした。

「お師匠様、ひょっとして、寝ていないのですか? まさか私が……」
「ちょっと研究に集中しすぎて。倉庫に来たのは気晴らしよ。在庫を確認しに来ただけ。すぐに差異の分が見つかると思ったら、ないんだもの」
「あぁ、すみませんでした。昨晩も酒にやられて、お師匠様に診てもらったと思います。この間、私はずっと寝こけてしまっていたのですね」
「ふふ、気にしなくていいわ。こういうのは、気になってるうちにやってしまうのがいいのよ」
「はい……」

 鈴仙は耳を垂らしてうなだれた。
 やはり悪いことをしてしまったという気持ちは拭えない。

「そうそう、あとね、もう一つあるんだけど。こちらのほうが重要だわ。先日、熱冷ましの薬を売ったでしょう?」
「はい、売りましたが……」
「あれは熱冷ましではないよ」
「違うのですか? 確かにあれは……」
「小瓶の形状は合っています。でもね、中身が違ったの」
「中身ですか」
「そう。熱冷ましはカプセル型でしょう? 丸薬が入っていたわよ。それが何か分かる?」
「丸薬というと……、胡蝶夢丸ですか?」
「そうよ。それも、ただの胡蝶夢丸ではないわ。それは誰に売ったの?」
「それも彼女、十六夜咲夜です。購入したのは彼女だけです」
「一人だけね……。それは助かったわ」永琳は息を吐く。
「あの、お師匠様。ただの胡蝶夢丸ではないとは、どういうことなのでしょうか?」
「一般の胡蝶夢丸とは、効能が少々異なるのです。それは、自然に目覚めることが出来なくなるのよ」
「自然にですか? すみません、よく分からないのですが……」
「つまりね、目覚めるには誰かに起こされる必要があるの。外部からの呼びかけにだけ反応する。そこに特徴があるわ」
「というと……。呼びかけられなかったら、どうなるのですか?」
「眠り続けるよ。十年でも、百年でも、千年でもね。数日の間、何もなく過ぎれば、体内の代謝活動が停止して、冷凍睡眠に入ったようになるわね。呼び掛けがない限り、そのまま永遠に目を覚まさないわよ」

 永琳は、何ということはない口調でそう言った。
 鈴仙は呆気にとられて言葉を忘れ、文字通り絶句していた。



14.

 夜の竹林は鬱蒼としていて、何が現れるか分かったものではない。
 大きすぎる月が、全てを見透かすように輝いているような気がする。
 咲夜は月を眺めながらレミリアの後ろを飛び続けていた。
 この夜を止めて、月を元に戻さなければならない。

 竹林の鬱蒼とした空気の中、そこに紅い霧が発生していることに咲夜は気付いていなかった。
 重たい空気のように、大地に根付くようにそれは広がる。
 普段は見かけない無数の蝙蝠が竹林を飛び回っていた。
 暴れ狂う妖精たちも、その霧には近づかない。危険であることを本能が察知しているのだろう。

 中空に無数の蝙蝠が集まり、そこに人型が形を成しす。
 青い夜に映える紅い姿、レミリア・スカーレットが大きな羽を伸ばした。
 彼女は周囲を見回すと、笑みを漏らす。

「ふん、月の欠けたあの夜か。ここの何処かに咲夜がいる……」

 レミリアは周囲に目を配り、宇宙人の住んでいる屋敷を目指して移動した。
 もしこの世界があの夜を再現しているというのなら、誰もがあの屋敷を目指しているはず。すなわち、そこに咲夜も含まれる。
 咲夜の運命を握る者の力を感じる。やはり、その力も宇宙人の屋敷に向かっているようだ。

 あの屋敷に全ての要素が集まると考えて、まず、問題ないだろう。
 宇宙人の屋敷へ。そこで咲夜の運命を解放するのだ。

 レミリアは羽を広げると、紅い光を纏って永遠亭を目指した。



15.

「永遠に、眠り続ける……」

 鈴仙は呆然としたまま呟いた。
 先ほどの永琳の説明を聞いて、しばらく言葉が出なかったが、ふと思いついたように口が動き始めた。

「そんな薬、いったい誰が使うというのですか?」
「月の都では研究者が」永琳は即答する。「一例だけどね。穢れた地上を眺めて、文明の変遷を研究するために使っているわ。永い時を待つことになるから、繁栄と衰退の時期を見越して眠りに着くのよ」
「それは……。ずっと、起きていればいいのではないでしょうか? その時間にも研究は出来ると思います」
「さぁ。他のことには興味がないんじゃないの?」永琳は素知らぬ顔で両手を広げて見せた。
「すごく……勿体無い気がするのですが」鈴仙は首を振る。
「時間なんていくらでもあるでしょう? 時間を気にしている者は月にはいませんよ」
「まぁ、そうですが……」

 鈴仙は、とんでもないことをしたのではないかと焦っていた。
 永遠に眠り続ける?
 そんなことが……あるのだろうか。

「あとね、他にも使う者はいるわよ」永琳は補足する。「この世にはね、永い眠りを必要とする生き物がいるのよ。例えば何処かの大妖怪が手ひどい傷を負って、自ら用意した地下室で眠りに着くとしましょう。その時にこれを使うとね、精神を糧として生きる妖怪には非常に高い回復効果が見込めるわ。普通であれば完全な回復まで百年が必要だとしても、二、三年で全快するケースもある。ただ眠っているだけでは、削られた山が大地の脈動で再び隆起するのを待っているようなもの。気の遠くなるほどの時間を眠りに着かなければならなくなるわ。ですが胡蝶夢丸の場合、最短で最高の効能を提供することが出来るわけ。使用者は回復期間を計測して、全快の期日を見越して服用するのね。起きる時は、あらかじめ使い魔に命じておくのよ。決められた時間に自分を起こすように、ってね」
「……その使い魔が、命令を聞かなかったりしたらどうなるのですか?」
「普通は聞くわよ。使い魔とはそういうものなのだから。でもまぁ、ちゃらんぽらんな使い魔も居るわね。そういうやつには、決まった時間に起こさなかったときは魔力の供給を断ち切ってしまうわけ。そうすれば魔力の消失と共に使い魔も消えるから。使用者は、目覚めることが出来るように、最低限の措置は施すのよ。もちろん使い魔が裏切る可能性もあるから……、他者の魔術で強制的に主人を切り替えさせられる場合などね。そういった危険を察知したらすぐに主を起こすように命じておくか、はたまた使い魔を複数用意して、どれか一体が異常を察知したら残りの使い魔が即座に主人を起こすとか、色々と策を講じる必要があるのよ。とにかく、起こされないと起きることが出来ないから。まぁ、そこらへんのセキュアの構築には、使う者の技術の結晶が詰め込まれてると思ったほうがいいわね。この丸薬を使うものは、人目につかなくて、かつ、強力な結界の中に身を置くケースが多いわ。そこまでして始めて眠りに付くの。まぁ、楽しい夢に呑まれすぎて、夢と現実がごっちゃになってしまう妖怪も稀に居るけどね。あとはまぁ、それとは逆に、その妖怪を封じたい、という場合にも使えるわ。その場合はね、その妖怪を眠りに着かせて、誰の手も届かないところに隠してしまう。そうすると、その妖怪は目覚めることが出来ない。誰も呼びかける者が居ない。つまり、封印することが出来るわけ」

 鈴仙はぽかんとして永琳の話を聞いていた。
 いきなり範囲が広がったような気がする。

「はぁ……。何といいますか、開いた口が塞がりませんよ。スケールが大きい薬ですね」
「そりゃそうよ」永琳は笑う。「これは一般に販売しているような、楽しい一夜の夢を見せるというものではないのだから。もっと永続的な効能を目的としているの。まぁ、禁薬か魔薬に近いわね。迂闊に使われるべきものではない。これは、名だたる実力者が、効果を充分に理解して初めて使用を検討できる薬なのよ。これを使っているのは、大妖怪レベルの力の持ち主でも数えるほどかしらね、私も大っぴらには売ってないし、売る相手も選ぶのよ。そういうわけで、今夜は良い夢を、というぐらいの感覚で使うと危ないことになるわ。……ねえ鈴仙、さっきから口が開いてるよ」

 鈴仙ははっと驚くと、慌てて口を閉じる。

「失礼しました。やはり呆気に取られまして……」鈴仙は苦い顔をする。「でも……起こされれば大丈夫なのですよね?」
「まぁね。そうすれば普通に起きるよ。ただ、それには個人差があるから」
「個人差ですか?」
「起きる為のスイッチがあるの」
「暗号とか……」
「いいえ。それはね、当人が起こされている、と感じること」
「起こされていると感じる?」
「そう。それをトリガーとして胡蝶夢丸は役目を終えるの。例えばねえ、寝ている傍で騒がれたら、貴方はどう思う?」
「寝ているのでしたら、何も思えないのでは……」
「そうね。でもね、無意識の内に反応しているのです。うるさいなぁ、とか、誰かが呼んでいる、とかね。そのとき、もし自分を誘うような印象を覚えたら、意識は覚醒に向かう。そうでなければ変わりはなしね」
「なるほど。分かったような、分からないような気がします」
「ふふ。まぁ、少し話しすぎたわね。結局のところ、起こされればいいわけよ。普通、誰かが起きてこなかったら起こしに行くでしょう。一人きりで住んでるっていうんなら別だけど」
「あの人間は一人ではないのでしょうか?」
「ほら、一緒に吸血鬼がいたじゃない。たぶん、あいつの根城に一緒にいるでしょう。従者として使えているなら、その吸血鬼が寝ている彼女を怒って起こしにいくはずよ。吸血鬼が寝ているなら、従者が呼びかけるはず。まぁ、だから問題ないと思うけどね」
「ああ、なるほど……そういうことですか」
「今日の納涼祭には、熱冷ましの薬を持っていきなさい。もしそこで見つけたら、事情を話して交換してもらうのですよ」
「はい、分かりました」

 鈴仙は、ふと疑問に思ったことを口にする。

「お師匠様。夢の中で、それが夢だと気付いてしまうことはあるのでしょうか?」
「明晰夢のこと? 通常の夢では、そういったケースもあるけど、胡蝶夢丸においてはないわ。さっき説明したほうの胡蝶夢丸ね」
「ないのですか? そこも何か仕掛けがあるのでしょうか?」
「ええ。夢の中において、それが夢だと気付くとき、脳は特徴的な波長を描くのです。それを抑える成分を配合しているだけ。だから気付くことはないわね」
「ああ、そうなのですね……」

 考えごとをするかのように鈴仙は中空を見ていた。
 永琳はふと笑みを漏らすと、鈴仙に話しかける。

「鈴仙。お前が見ている今、この現実が、実は夢だと思ったことはない?」
「今の私は、実は夢の中にいる、ということですか?」
「そう。この世界は、竹林の川で日なたぼっこをしているお前が見ている白昼夢かもしれないよ」
「日なたぼっこですか。ないとは言えません」難しい顔をする鈴仙。
「実は地上に降りておらず、月の都に居て、桃の木の傍らで昼寝しているときに見ている夢かもしれない。そこでお前は、輝夜に頬をつつかれているのよ」永琳は笑う。
「姫様はお茶目なところがありますから」鈴仙は苦笑する。
「あるいは、お前はある瞬間に命を得た蜉蝣で、生と死を繋ぐ短い時の間で、兎になった夢を見ているかもしれない」
「蜉蝣の、見ている夢……」鈴仙はぽつりと呟いた。
「昨晩に眠るとき、私が飲ませたものは胡蝶夢丸を粉末にしたもので、お前は未だ目覚めずに眠り続けているかもしれない」
「そんな! まさか、そんなことが……」

 鈴仙は焦って震えているようだったが、ふと思い立ったように顔を上げた。

「そういえば、昨晩に私は粉末の薬をお師匠様に飲まさせて頂きましたが、それは現実の出来事のはずです。だから、粉末の薬を飲ませたとお師匠様が仰るならば、今が夢であることはないのでは……」
「ふふ、そのとおり。お前は夢を見ているのではないよ。少しは胡蝶夢丸の危険性が分かったかしら? 薬剤を扱うということは、人の身体を扱うということ。そこには充分な配慮が必要なのです」

 永琳の言っていることが、おぼろげながらによく分かる。彼女は、鈴仙の不注意を指摘しているのだ。もし気をつけて薬剤を扱っていれば、事故は防げたかもしれない。
 今はまだ何が起こっているかは分からない。何も起きていないかもしれない。ただ、早く彼女、十六夜咲夜が見つかればいい、と思った。



16.

 宇宙人の屋敷は、さして遠くないところにあった。
 以前にも行った記憶があるので、道に迷わずに真っ直ぐ進めたのだ。

 屋敷の中では、やはり気が立った兎の群れに襲われた。
 しかしレミリアはそれらを軽くいなす。夜を統べる王を止められる者など居ないのだ。

 真っ直ぐに飛び続け、途中で封印されずに残った扉に飛び込む。
 その後は永い回廊。
 ずっと飛び続けていると、見知った顔が現れた。

「ああもう。こっちに来させちゃ駄目だって言ってるのに」
「ふん。下手な芝居はやめるのね。私と咲夜が通ったでしょう?」

 銀髪の女は少し目を丸くした後、くすりと微笑んだ。

「ええ、先ほど。どうやってここまで入ったのかしら」
「夜を統べる王に不可能なんてないよ」
「ふふ。では少しだけ遊んでいく?」

 幾つかの弾幕を繰り広げ、銀髪の女は撤退した。
 言葉通り、ほどほどに遊んで終わったような気分だった。

 回廊を抜けると、そこは屋外だった。
 竹林を見下ろすほどの高さまで上昇しているようだった。

 目前には……宇宙人たちの主と、レミリアの格好をした偽者、そして、咲夜の姿があった。
 レミリアは、その情景を見て激しい憤りを覚えた。
 自分の偽者を見つけたからではない。咲夜を永い夜に縛る原因が、己の姿をしていたからだ。あの偽者がこの夜を作り出している。そして、咲夜を縛り付けている。それがはっきりと分かる。
 レミリアは、しばらくその場所を動くことが出来なかった。どんなにか痛めつけやろうかと思っていた元凶が、まさか己の姿をしているとは思いもしなかったのだ。
 あの偽者は、不気味な力を感じさせる。まるで、この夜と一体化しているかのようだ。

 偽者が知ったような口調で咲夜に話しかけた。
 咲夜はいつもの表情で言葉を返す。

 許せない。
 あそこに居るのは偽者だ。
 このレミリア・スカーレットこそが咲夜を従え、咲夜の主はレミリア・スカーレットを置いて他に無い。
 何者か知らないが、その姿をとったこと、後悔させてやる。レミリアはそう決めた。

 偽者たちの会話を無視し、レミリアは大きく身体を捻らせる。身体の限界まで捻じりきるところで、右手に紅い魔槍が出現した。

「グングニル。偽者を貫け」

 激しい反動と共に、レミリアは魔槍を投擲した。
 魔槍は空気を貫いて疾走する。

「お嬢様……?」

 瞬間、咲夜の呟くような声が聞こえる。
 偽者は魔槍を容易く交わし、笑みを浮かべた。

「おやおや、私の偽者が現れた。いいシーンを邪魔してくれるね」
「この世界に必要ないのはお前だよ。とっとと消滅してくれない?」
「お嬢様が……二人?」咲夜が呆然としている。

 レミリアは毅然とした態度で偽者を指差した。

「咲夜、こいつに騙されるな。こいつは偽者だ!」
「あはは。何を言ってるの? 咲夜、どちらが本物かなんて、私が言うまでもないでしょう?」
「まさか、お嬢様……」咲夜は二人を交互に見返した後、思案げな顔を浮かべる。「分身の術を身に付けられたのですか?」
「んなわけない」レミリアは苦笑いして言葉を返す。

 いつもの咲夜だ。どうやら、精神がおかしくなったりしているわけではないようだ。ならば、この偽者を倒せばすべて収まるはず。

「ちょっと」別の声が響いた。「私を無視して話を進めないでよ」
「宇宙人代表。少し黙っていろよ。私のほうが先だ」レミリアは再度魔槍を作り出す。
「こんな茶番につき合わせておいて、黙って見ていろって? 何て我侭なのかしら」
「私がこいつを倒したら全て終わる。それまでの辛抱さ」
「まぁ、私も同じ遊びが続いていて、少し退屈していたところなんだけど。まぁいいわ。先に遊んでくれる? どちらか勝ったほうと、相手をしてあげる」

 そう言って、宇宙人代表は少し離れたところに移動した。
 どうやら観戦を決め込むつもりらしい。

「仕方ない。お前を先に倒さなくちゃならなくなった」偽者が言う。
「お嬢様、分身ではないのですか?」
「違うよ、偽者だ。あいつはね、咲夜、お前が所望らしい」
「私はお嬢様の傍におりますよ」
「独り占めにしたいんだそうだ」
「まぁ、お嬢様……」
「こらこら、勝手に話を進めるな!」レミリアが割って入る。
「咲夜、少し離れていろ。偽者は私が倒す」

 咲夜は少し離れたところに移動した。
 レミリアは偽者と相対する。
 如何にも自慢げで、見ているだけでイライラしてくる。

 レミリアは無言のまま、魔槍を放り投げた。
 偽者は目を見開くと、大きく回避行動をとった。

「そこだ!」

 すかさずレミリアは第二の魔槍を投擲する。
 偽者は羽を広げて回避しようとするが、その右腕に魔槍が大きく穿たれた。
 捻れ飛ぶ右腕。
 それと同じくして、世界そのものが揺らいだような気がした。

「これは……」咲夜が見回して呟く。「何が起こっているの?」

 やはり、偽者こそがこの世界を作り出している。あいつを倒せば全て解決するはずなのだ。
 偽者は、血に濡れたナイフと氷のようなナイフを無数に繰り出した。
 素早い動きでそれを交わして、もう一度魔槍を放り投げた。
 
 咲夜は、急に始まったレミリア同士の戦いに困惑していた。
 何故二人もいるのだろう。いや、どちらが本物なのだろうか。
 加勢をしたいところなのだが、離れていろと言われた手前、何もすることが出来ない。

 レミリアは無数の紅玉を飛ばしていた。偽者は避けることしか出来ないでいる。それでも、避けられるような量は飛ばしていない。確実に打ち倒す攻撃をしているのに、偽者は機敏に避け続けた。
 左右に動く反動で、偽者が魔槍を放り投げた。先ほどレミリアが投げたものと同じ形状だった。
 戦いのさなか、大きく動いていたので、これを避けたら方角的に咲夜に当たることがレミリアには分かった。
 レミリアは攻撃をやめ、素早い動きで咲夜に近づいて体当たりをした。
 吹き飛ぶ咲夜。
 何もない空間を魔槍が過ぎる。
 レミリアが偽者を見上げ、体勢を整えようとするが、偽者はすでに二度目の投擲を終えていたところだった。

 急速に迫りくる紅い魔槍。
 その先端は、正確にレミリアの心臓部を通過するだろう。それがすぐに分かった。
 まずい。咲夜に気を取られてしまい、今からではもう、避けられない。
 人の夢の中で大きな傷を負ったら、どうなるのだろう? レミリアがそんなことを考えたときだった。
 瞬間、咲夜がレミリアの前に姿を現した。
 両手を広げて、まるで、守ろうとしているかのような姿勢だった。

「咲夜……」

 呟いた言葉は届いただろうか。
 偽者の放った魔槍は、咲夜の胸を大きく貫いていた。
 血しぶきがレミリアに散った。顔や衣服が紅く染まる。

「お嬢、様……」咲夜が弱々しい声で振り返る。
「咲夜……どうして!」
「お嬢様は……お嬢様です。私には……どちらもお嬢様ですから……」

 そのまま、力無く落下していく咲夜。
 大きな笑い声が聞こえる。
 あの偽者だ。
 そのとき、レミリアは思考を忘れた。

 紅い残光を残してレミリアの姿が消える。
 偽者の頭部が破裂した。一瞬で偽者の頭部に蹴りを放っていたのだ。

 すぐに復活するかと思って待ったが、まるで役目を終えたかのように偽者は消失した。

「咲夜!」

 咲夜を追いかける。
 まだ、地に落ちてはいない。
 受け止める。
 必ず掴まえる。
 決して逃しはしない。
 こんなところで、消えるなんて許さない。
 咲夜の運命は、まだ終わっていないのだから。

 世界がおぼろげに変容しているようだった。
 全てが曖昧で、真っ白に染まっていく。

「これでおしまいね」

 遠くで誰かが喋ったような気がした。あの宇宙人だろうか。
 レミリアは、消え行く永夜の中で咲夜に手を伸ばしていた。



17.

 起きると同時、レミリアは部屋を飛び出した。
 間に合ったはず。
 何とかなったはず。
 あの元凶を叩き潰したのだから、何も問題はない。
 運命は、咲夜を呼び戻したのだ。

 だけど、この目で見るまでは安心できない。
 あのとき、咲夜は胸から……。

 使用人室の集まった廊下の中、咲夜の部屋に飛び込んだ。

 咲夜はベッドに座り、横たわるように眠っていた。
 レミリアは咲夜の眼前に行くと、口元に手をかざす。
 呼吸音が聞こえる。
 大丈夫だ、生きている。
 何故かバスローブ一枚の咲夜だったが、レミリアは強引にローブを破って胸元を開いた。
 何も身に付けていない。咲夜は、全裸のままバスローブを纏っていたのだ。
 その胸元には、傷跡一つ残っていなかった。
 あれはやはり、夢の中だけの出来事だったのだ。

 レミリアは指先で咲夜の胸元をなぞる。
 柔らかく、暖かい感触が伝わった。風呂上りなのか、身体は温まっていた。
 大丈夫だ、間に合ったのだ。咲夜は助かった。
 運命は、咲夜を見放さなかった。

 レミリアは大きく息を吐いたところで、咲夜にじっと見つめられていたことに気付いた。
 いつのまにか、咲夜は起きていたのだ。

「咲夜、怪我はない?」
「……はい。私に怪我はありません。ですが……」
「何?」

 咲夜は頬を染めて目をそらす。

「些か、強引ではないかと……」
「ん? 何が?」
「私はお嬢様の寵愛を受けたことはありません。いつか訪れるとは聞いていましたが、もっと段取りというものをですね……」
「咲夜、それ、誰に聞いたの?」レミリアは頬を染めながらも、会話の途中で割って訊いた。
「パチュリー様です」
「なるほど。パチェね」

 レミリアはしばらく咲夜の様子を窺っているようだったが、何かの結論に至ったのか、息を吐いて咲夜を離した。
 咲夜は起き上がり、レミリアの前に立つと、その姿が波紋のように揺れた。その瞬間、衣服がバスローブからメイド服に切り替わっていた。

「おはようございます、レミリアお嬢様」

 咲夜は恭しく一礼する。
 レミリアは頷いてそれに応えた。

「夕食を作る前に一眠りしようかと思っていたのですが……、寝すぎてしまったようですわね」
「いいえ咲夜。問題はそこではない。寝る前に何をしたの?」
「寝る前ですか? 少し熱っぽかったので、熱冷ましの薬を飲みましたが……」
「その後は?」
「少し休んだ後、夕食を作るつもりでしたよ」
「ふぅん。だとしたら、一体何でかしら……」
「何がですか?」
「ふん。やっぱり覚えてないのね。何でもないよ」レミリアは顔をそらす。

 咲夜は、レミリアが起こしに来たことを不思議に思っていた。
 何故なら、眠るときは時を止めていたからだ。
 いったいどうやって起こしに来たのだろう?
 でも、夜の王たる吸血鬼なら、それぐらいのことは出来るのかもしれない。と咲夜は軽く考えていた。

「そういえば、やけにすっきりした寝覚めですわ。新鮮というか……生まれ変わったような感じです」
「へえ。何か夢でも見ていたの?」レミリアはむくれた顔で訊く。
「夢ですか……。覚えていません。寝覚めがいいので、悪くない夢を見ていたと思うのですが……。熱も下がったようです。これもあの宇宙人のおかげなのでしょうか?」
「宇宙人? どうしてそこで宇宙人が出てくるの?」
「熱冷ましの薬は、宇宙人の連れた兎から買ったのですよ」
「何だって! じゃあ、寝る前に飲んだのはあいつらが作った薬だったのか!」
「はい、そうですが……」
「こうしちゃ居られない。咲夜、今すぐ行くぞ。準備をしなさい!」
「えっと、どちらへですか?」
「宇宙人の屋敷に決まっているでしょう!」
「分かりましたわ、と言いたいところですが……」
「何よ、どうしたの?」
「外をご覧ください」咲夜は窓を指差す。「雨が降っておりますわ」
「ああ、こんな時にもう!」レミリアは頭を抱える。
「夕食をお作りしますよ。ご一緒しましょう」
「いいえ、咲夜。必要ないわ!」

 咲夜が何かを言い掛ける前に、レミリアは部屋を飛び出していた。
 部屋に残された咲夜は呆然と立ち尽くしていた。



18.

 永琳と鈴仙の二人は、四季の間で向かい合って座っていた。
 鈴仙は先ほどから、胡蝶夢丸についての説明を受けている。
 眠っていないはずの永琳は、いざ説明に入ると生き生きとしてくるので、中断するわけにもいかない。逆にぐっすりと眠っていた鈴仙のほうが眠気を感じている状態だった。
 向かい合う二人の間には台があり、その上に一挺の蝋燭が置かれていた。

「蝋燭に例えましょう」

 永琳は右手をかざし、蝋燭の先端に火を灯した。
 紅い火が小さく揺れている。

「……火が点いているときが睡眠状態にあるとき。その火が青く染まるときが、胡蝶の夢を見ているときです。胡蝶夢丸は、蝋燭の火を青に染めるのです。つまり、蝋燭に青い火が灯っているとき、その者は胡蝶の夢を見ているということ。誰かが火を消してしまえば、夢から覚める。それが一般に販売している胡蝶夢丸の効能。単純に、寝ている間に夢を見せるだけ」

 永琳が蝋燭に手をかざす。何かを呟くと、火の色が青に変わった。

「青い火が胡蝶の夢なのですね」
「そういうこと。ではね、この火が誰にも吹き消すことが出来なかったとしたらどう?」
「そのときは、蝋燭が燃え尽きるまで……、自然に目が覚めるまで起きられません」
「そうよ、理解が早いわね。では、蝋がいつまでも無くならないとしたら?」
「……それは、ずっと起きられなくなるのではないでしょうか?」
「そのとおり。昔はそのような使い方をした者がいたわ。夢の世界から帰ってこれなくなるのね」
「はい。聞いているだけで恐ろしさを感じます」
「技術的にね、火を消さずにいさせる、蝋を残し続ける、というのは難しいことではないの。脳が夢を見る状態に固定化させてしまうこと、覚醒を促す働きを抑制し続けること、これが出来ればいいのだから」
「はい」
「さて、問題はね、その期間よ。脳だって、いつまでも夢を見ているわけにも行かないわ。そのうちに覚醒しようと活動を再開するのです。それを抑制する力を常に発し続けなければなりません。つまり、蝋燭の蝋の量ね」
「薬物の成分を強めることで対応する、ということでしょうか?」
「もちろんそれでも可能なのだけどね、限界があるわ。あまりに効力が強すぎると、脳そのものを汚染しかねない。そうすると夢から帰ってこれなくなるわ。いわゆる植物人間状態ね。だから適度に脳の活動を抑制し続けることが重要になるのです」
「それは、いったいどうやって……?」
「抑制し続ける、という効能はただの薬剤では見込めません。いつかは効果が切れるのですから。永続的に効果を発し続け、覚醒と同時にその役目を終える、という薬剤は存在しないのです。私だけの力では実現出来ません。そこには、輝夜の力を借りているのよ」
「姫様のですか?」
「そう。輝夜の永遠の術がこの胡蝶夢丸には内包されているわ。この丸薬は、輝夜の力なくして完成しえない物なのです」
「はぁ、そんな作られ方をしていたのですか……」
「ふふ、そういうこと。蝋の量を無制限に作り出すけれど、火を吹き消されればすぐに目覚める。それがあの胡蝶夢丸の正体。からくりが分かれば、容易いものでしょう?」
「はい。何というか……、言葉もありませんよ。さすがお師匠様だとしか……」
「あはは。そんなこと言っても、何も出ないわよ」
「しかし、分かりましたよ。大変な薬なのですね。早いとこ、あの十六夜咲夜を見つけて、熱冷ましと交換してもらわないといけないですね」
「まぁ、その辺はお前に任せるわ。私は少し、休みます。午後には起きるから」

 永琳は思い出したかのように大きなあくびをした。
 眠たげに目をごしごしと擦っている。滅多に見られないレアシーンである。

 永琳が退室した後、鈴仙も部屋を片付けて退室した。
 時間があれば、早めに十六夜咲夜を探したほうがいいかもしれない。
 鈴仙はそう考えながら自室に戻った。



19.

 あの宇宙人のところに殴り込みに行く。
 書庫に来て開口一番、レミリアはそう言った。

 パチュリーは溜息を吐いて本を眺めていた。小悪魔は相変わらず右へ左へと動き回っている。

「レミィ、話はよく分からないけど分かったわ。少し落ち着いたほうがいいわよ」
「思い立ったが吉日って言うじゃない。私は早いとこ出かけたいんだ」

 レミリアは、パチュリーを連れて出ようとしているようだった。
 理由は簡単である。外は雨が降っているからだ。
 雨が降っている間、レミリアは外に出られない。それでも出たいというのなら、雨のほうをどうにかするしかない。
 紅魔館の中で、雨をどうにか出来る人物がいるとすれば、それはパチュリーに他ならない。

 パチュリーはレミリアの言葉を話半分に聞いていた。
 何でも、宇宙人の薬で咲夜が夢の中に閉じ込められていたらしい。しかもその夢の中にいた咲夜を閉じ込めたという元凶に、自分の姿をとらせていたという。
 とくにレミリアは、その偽者が咲夜に付きっ切りだったことに憤っていた。自分の従者が取られたと思って、快く思ってないのだろう、とパチュリーは解釈していた。

 しかしパチュリーは新しい魔法の開発に勤しんでおり、出来れば外出はしたくなかった。それに、今日がダメなら明日でも明後日でもいいではないか。宇宙人は竹林にあるという屋敷から動かないだろうから、今すぐである必要はないだろう。
 そういった考えがあって、パチュリーはレミリアの要望を断っていた。

「あれ、わりと疲れるのよ。だから勘弁してよ。私は本を読むのに忙しいの。今、新しく浮かんだ魔術の研究をしているのよ。貴重な時間をあまり割きたくないわ」

 レミリアは羽をばさばさと揺らしてアピールするが、パチュリーはまったく意に介さなかった。

「本なんて何時でも読めるじゃない」負けじとレミリアが食いつく。
「私は今読みたいのよ。それにね、レミィ。貴方は本なんて、と簡単に言っているけれど、例えば自分のことが書いてある本なんて読んだことがあるの?」
「なんだって? 私のことが書いてある本があるのか?」
「いつだったか、人間の娘のインタビューに答えていたじゃない。あのときの内容が本になっているのよ」
「どれ?」
「そこにあるでしょう? 幻想郷縁起。あんまり汚さないでね」

 その後、レミリアはパチュリーの誘導に引っかかり、幻想郷縁起を読み始めた。レミリアは、幻想郷縁起の内容には文句はないようだったが、色々と気になるところがあったらしい。パチュリーに中身については色々と尋ね、結局パチュリーはゆっくり研究に打ち込むことが出来なかった。

 レミリアは幻想郷縁起を見ながら思う。
 雨が降っていなければ飛び出していただろうが、残念ながら大粒の雨は紅魔館に降りしきっている。
 パチュリーの様子を見たところ、今夜は難しいだろう。
 咲夜も目覚めたし、今晩は勘弁してやるか、とレミリアは心の中で考えていた。



20.

 時刻は夕暮れ。
 永遠亭の四人は納涼祭のため、人里に向かっていた。
 永琳は昼過ぎには目覚め、普段どおりの生活リズムに戻っているようだった。

 てゐは嬉しさを隠さずに周囲を飛び回っている。
 輝夜は永琳と並んで歩いているので、てゐが動き回っている今、鈴仙は輝夜たちの後ろを一人で歩いていた。
 二人の会話が聞こえてくる。

「ふぅん。胡蝶夢丸ね」輝夜が言う。
「輝夜の力を借りて作ったものよ。覚えているかしら?」
「もちろん。私は滅多に力を使わないから、逆に使ったことはよく覚えているのよ」
「ふふ、あれを使うときは大抵、大騒動になるのだけど、今回は無事で済んだようですよ」
「そうなの。しかし胡蝶夢丸ねえ。あいつに飲ませたらどうなるかしら?」
「あら、お遊びで使ってはいけませんよ」永琳がやんわりと嗜める。

 あいつ、とは稀に永遠亭を襲撃する竹林の人間のことだろう。
 輝夜を目の仇にしており、たまに乗り込んでくる。輝夜が戯れに外出することがあるが、それは彼女のところに行っているのだろう、と鈴仙は考えている。

「しかしねえ、鈴仙。良かったじゃない」永琳が振り向いて鈴仙に話しかける。
「あ、はい。何がでしょうか?」鈴仙は俯いた顔を上げる。
「胡蝶夢丸。人里で会えたのでしょう?」
「十六夜咲夜ですね。はい、無事に会えましたよ。どうやら問題もなかったようで、安心しました」

 鈴仙は、午前の出来事を思い出した。
 胡蝶夢丸について永琳から説明を受けた後、鈴仙は午前の仕事を終えてから人里に出かけることにした。偶然なりとも十六夜咲夜に会えれば、と思っただけのことだった。
 そして偶然にも、昼前ぐらいの時間だろうか、そこで十六夜咲夜を見つけることが出来たのだ。
 彼女は先日買い忘れた物があったらしく、偶然にも人里にやってきていた。

 結論から言うと、十六夜咲夜は熱冷ましの薬――胡蝶夢丸を服用してしまっていたらしい。だが、こうして人里にやってきていることが問題がないことの証左であると窺えた。

 鈴仙は熱冷ましの薬が実は胡蝶夢丸という別の薬の、さらに改良型であることを伝えた。
 十六夜咲夜は大変驚いているようだったが、どうやら永琳の予想したとおり、吸血鬼に起こされたらしい。
 出来れば通常の熱冷ましと交換したいと申し出たが、咲夜は「せっかくだから」と交換を拒否した。あと丸薬は二粒あるようだが、適切に利用させてもらうとのことだった。
 胡蝶夢丸の効能について、鈴仙は幾つか内容を説明した。
 その夢の内容に言及したところで、咲夜は首を傾げていた。

「といっても、夢の内容を覚えていないのよね」
「貴方が買った胡蝶夢丸は、夢の記憶を残さないの。起きたとき、すっきりしたというか、わだかまりのない解放感がなかった? それが胡蝶夢丸の効能なのよ」
「あぁ、それでしたら……覚えがありますわ」
「夢の中では、夢主を楽しい出来事に導くために、当人の心象風景から誰か……別に人でも何でもいいんだけど、案内人を作り出すんだって。その案内人がずっと傍にいて、夢見を安定させるらしいわ。たぶん心許せる者がその役割を担うでしょうね。まぁ、そこんとこは輝夜様の力添えがあるから実現できたそうよ」
「では、私の夢にも誰かが傍に居たのかしら?」
「たぶん、そうじゃないかしら? 私も見たことないから分からないけど。というか見ても覚えてないんだけど」

 その後、栄養剤についても確認をとった。
 永遠亭には三本の栄養剤が在庫として余っていたので、購入した際に商品を受け取らずに帰ってしまったのではないか、と咲夜に聞いたが、しっかりと栄養剤は持ち帰ったらしい。
 つまり、栄養剤についての差異の原因は、咲夜ではないようだった。

 咲夜と別れた後、鈴仙はついでにと栄養剤を購入した家を一軒一軒めぐったが、しっかりと栄養剤は行き渡っているようだった。
 唯一、栄養剤についてだけ謎が残る形になってしまったが、一番重く感じていた胡蝶夢丸の件が解決されたことにより、鈴仙は身が軽くなるのを感じていた。

「まぁ、つまり、今日の納涼祭はお前もゆっくり楽しめるわけね」永琳は笑って言う。
「はい。といっても、何をやるわけでもないんですが」鈴仙も笑って頭を掻いた。
「やることをやっておくと、後がすっきりするでしょう? 日常の在り方次第でも、精神に良い影響を与えられるのです。胡蝶夢丸など、薬に頼らずとも解決できることは多々あるのよ。薬を扱うお前は、そのことをよく覚えておきなさい。薬を服用せず、自然治癒による回復を行うのが一番なのですから。薬は自然治癒の補助という程度のものです。薬に頼るのは最後の最後、切り札のようなものなのですよ」
「仰るとおりです。さすがお師匠様」

 鈴仙は、いつかの夜に自白剤を作ろうとした永琳のことを思い出した。
 あれはあれで、酒に酔っていたことも一因としてあるのだろうが……。
 何故か鈴仙は、そのときの永琳の行動と、今の永琳の発言を考えて、心が楽しんでいるのを感じた。
 どうしてか、悪くはないと感じている。むしろ、好ましいとすら思っている。
 どちらの行動も、鈴仙にとっては嬉しいものだからだ、と瞬時に思い至った。
 変化を受け入れる、という永琳の言葉を思い出す。
 少しずつ、地上に慣れるために、地上の民として暮らすために、行動しなければならない。
 良く思っていなかったその言葉が、今では少しだけ好ましい。これが地上の感覚なのだろうか。
 綺麗な銀色の月を仰ぎ見る。
 月は、昔も今も変わらない輝きを称えていた。
 鈴仙は月を見ながら、少しずつ変化を受け入れていこう、と密かに思った。



21.

 レミリアは自室のベッドで目を覚ました。
 
 昨晩は、パチュリーの書庫で朝を迎えてしまったようだ。書庫に差し掛かる朝焼けを覚えている。
 雑談を延々と続けていたことで朝が近くなり、眠気に襲われたのだ。夜通しなので、ずいぶんと長い時間を話し続けていたのだろう。
 そのぐらいの頃に咲夜が紅茶を持って書庫に現れたのだった。
 きっと、その時に咲夜がベッドまで運んだのだろう。

 レミリアは豪奢なベッドを降りる。
 窓から外を眺めると、既に陽は沈んでいるようだった。
 雨は降っていない。
 雲も何処かに流れたようだ。

 今なら行ける。
 あの宇宙人の屋敷まで、そう時間はかからないだろう。

 レミリアは咲夜を呼ぶが、現れない。レミリアの能力が疼いているわけではない。単純に、屋敷に居ないようだった。
 それならば、もう一人の候補を連れて行くことにしよう。
 この天気に文句はないが、仮に雲行きが怪しくなり、通り雨でも降られたら大変なことになる。出来れば誰かを連れていくことが望ましい。そうなると咲夜が屋敷に居ない今、心当たりは万能魔女しか居なかった。

 パチュリーは相変わらず書庫で本を読んでいた。
 レミリアを見つけて珍しそうな目を向ける。

「何よ、レミィ。珍しいわね。今夜も読書するの? 歓迎するわ」
「違うわよ。これからね、あの宇宙人の屋敷に行くの」
「またなの? 今晩は雨雲もないし、咲夜を連れて人里の納涼祭にでも行くかと思っていたのに」
「納涼祭? そんなのどうでもいいよ。それに咲夜は何処かに出かけてるじゃない。何処に出かけたか知ってるの?」
「さぁ……」パチュリーは呟くように話す。
「咲夜さんは、買い物に行っていますよ」書庫を動き回っていた小悪魔が声を掛ける。
「何処に?」
「骨董品のお店に行くとか何とか……」
「ふぅん。まぁ、いつ帰るか分からないわけよね」
「なら帰りを待ったら?」パチュリーはむくれた顔で言う。
「すぐ行きたいんだ」

 攻撃的な笑みを浮かべるレミリアだったが、パチュリーは神妙な顔で答えた。

「でもね、レミィ。私、今、すごく眠いのよ。どうしてか、久々に調子が良かったから研究に集中しすぎたのね」

 パチュリーは大きくあくびをした。
 目も閉じかけて細くなっており、すぐにでもベッドに入ってしまいそうな状態に見えた。

「レミリア様。どちらかにお出かけですか?」小悪魔が声を掛ける。「パチュリー様は昨晩から、徹夜をしていました」
「徹夜? いえ、徹昼かしら? あれからずっと起きていたの?」
「ええ、レミィ。新しい魔術を考えていると言ったでしょう? イメージがしっかりと浮かんでいるときに下地要素を構築しておきたかったの」
「ふぅん。目処はついたの?」
「ええ。だからね、レミィ。私をゆっくりと休ませてくれる?」

 そのとき、書庫の扉がゆっくりと開いた。
 渦中の人物、咲夜が紅茶を持ってそこに現れたのだ。

「紅茶をお持ちいたしましたわ」
「あ、咲夜が帰ってきた。じゃあパチェじゃなくていいか」レミリアは笑う。
「それはそれでむっとするわね」
「どうかしたのですか?」咲夜が声をかける。
「これから殴りこみを掛けに行くんだよ」
「あら、偶然ですね。私もお誘いしようと思っていたところなのですが」
「そうか! ふふん、咲夜も私の言うことがようやく分かってきたみたいだね」
「私はお嬢様のことはいつでも分かりますよ」咲夜は笑う。
「ふん。じゃあ紅茶を飲んだら行くとしようか」

 咲夜は書庫の面々に紅茶を振舞った。
 パチュリーはゆっくりと紅茶を口にする。荘厳な表情で天を仰いでいた、眠気に満ちた身体にじんわりと染み込んでいるようだった。
 そこへきて、様子を窺っていた小悪魔が二人に声をかけた。

「あのぅ、お二人で、どちらに行かれるのですか?」
「決まってるでしょう?」レミリアは鼻を鳴らす。「ねえ? 咲夜」
「はい。納涼祭ですわ」

 それを聞いたレミリアは思い切りずっこけた。

「何の話をしているのよ!」食いかかるレミリア。
「人里の納涼祭の話ですが……。ご存知なかったのですか?」
「知っているわ。でも、その話ではないでしょう?」
「といいますと……、他に何があったでしょうか」首を傾げる咲夜。
「宇宙人のところ! 他に何があるというの!」
「ああ、宇宙人ですか。それなら、連れの兎に昼ごろに会いましたよ」
「何ですって?」レミリアの動きが止まる。
「私を探していたようでした。何でも、先日私が買った熱冷ましの薬が、別の薬と間違えていたそうです。それについて謝っていましたよ」
「別の薬って……、何の薬よ」
「胡蝶夢丸という丸薬です。以前、天狗の記事にも載っていたことがありましたが……」

 レミリアは少しだけ記事の内容を思い出した。
 永遠亭の薬師が夢の新薬を発表した、などと書いてあったような気がする。

「当人の望んだ夢を見せて、精神を満たす薬だそうですよ」咲夜は説明する。
「咲夜は夕べ、それを飲んだの?」パチュリーが訊く。
「はい。ですが、その丸薬を飲んだ場合、本人は夢の内容を覚えていないのだそうです。実際のところ、私もどのような夢だったのか覚えていません。ただ、楽しい夢が見られるそうですよ」
「ふーん。精神を満たすような楽しい夢ねえ」パチュリーは少しだけ笑みを浮かべる。
「はい。目を覚ましたときは、何と例えていいか分かりませんが……、とても気分が良かったことを覚えています。きっと、私は夢の中でとても満たされていたのですね」
「へぇ。良さそうな薬ね。ねえ、レミィ。夢でとても満たされていたんだって」

 レミリアはパチュリーに返事を返さず、難しい顔で立ち尽くしていた。
 パチュリーは眠気が飛んだのか、先ほどからご機嫌だとでもいうかのような笑顔をしている。

「良い夢を見たようね、咲夜。貴方の夢の中では、何が起こっていたのかしらね?」パチュリーは興味深げに問いかける。
「引っかかるような感じはあるのですが……、やはり覚えていないですね」
「そんな夢が見れるなら、私も見てみたいです」小悪魔が口を挟む。
「残念ですが、熱冷ましの薬と交換してしまいましたよ。だから在庫はないんです」
「そうなんですかぁ」小悪魔は残念そうに頭をたれた。
「ほら、レミィ。どう思う? ねえ、レミィってば」
「うるさいな! 私は知らない!」

 レミリアは不機嫌そうに顔をそらした。
 先ほどから、パチュリーはレミリアに思わせぶりな言葉を掛け続けていた。
 いつもはレミリアの口撃を難なくいなしているパチュリーだったが、ここへきて立場が逆転したようにも見えた。
 パチュリーがご機嫌な様子で攻めに転じているのは、わりと珍しいほうである。

「あの、お嬢様」咲夜は声をかける。

 レミリアは羽をばさりと揺らせて咲夜に振り向いた。

「ふん。何かしら」
「宇宙人に用事があるのでしたら、すぐに準備をしますよ」
「宇宙人? ふん、そんなもの、どうでもいいわよ」
「いいのですか?」
「ええ。私は納涼祭に行く。だから咲夜、準備なさい。すぐに行くわよ!」
「分かりましたわ、お嬢様。でも、紅茶を味わってからにしましょうよ」

 咲夜が促すと、レミリアは大人しく席に付いて紅茶を飲み始めた。



22.

 人里では、納涼祭によるささやかな活気があった。
 鈴仙たちは先ほど到着したばかりで、人里の入り口付近にいる。
 里にはたくさんの飾りつけがされているのだが、鈴仙は先日もそうだし、昼ごろにも人里を訪れている。その頃には納涼祭の準備はほぼ終わっている状態だったので、今更飾りつけを施した光景を見ても特別な感慨はなかった。

 てゐは人里にたどり着く前から姿を消していた。てゐが知らぬ間に何処かに行ってしまうのはいつものことなので、鈴仙たちはそれを気にすることはなかった。帰る頃にひょっこりと現れるか、ないしは、戻ったら既に居たりするのだ。

 輝夜は興味ありげな顔であちらこちらを見回している。
 やはり、珍しいのだろう。
 ずっと永遠亭の中に居る輝夜は、外に出ることはほとんどない。戯れに竹林を散策をすることはあるが、遠くに出ることは極めて稀である。

 途中、寺子屋の教師である上白沢慧音に会った。
 慧音は鈴仙たちに挨拶を交わし、永琳に話しかける。そのまま彼女たちは長話を始めた。
 途中で永琳は両手を合わせて輝夜を見る。少し時間がかかるから、というメッセージだ。

 そういうわけで、納涼祭は鈴仙と輝夜の二人で楽しむことになった。

 流れるように屋台を見て回る。
 輝夜は全ての出し物に興味を示し、そこに立ち寄った。
 売り子の人間を見つけては質問攻めにする。売っている商品とは何ら関係のない質問が混ざっているにも関わらず、売り子たちは輝夜の質問に懇切丁寧に答えた。
 質問する輝夜には、男の場合は上気した顔で、女ならば気さくな笑顔でそれに対応していた。
 すれ違う面々の何人かは、輝夜に好奇の目を向けているようだった。
 当の輝夜はといえば、別段気にする様子もなく、にこにことした笑顔で次の屋台を探している。

 永遠亭にいる頃の輝夜は、鈴仙の印象で言えば、目立つことを嫌っているように思えた。人目に付くことを嫌がるのだ。
 だが今の輝夜にはそういった印象は微塵も抱かなかった。
 鈴仙だけの錯覚ではないかと疑いもした。
 輝夜はきょろきょろと周囲を見回し、何かを指差した。

「ねえ、射的場があるわ」

 言葉通り、そこには射的場があった。

「いいですね。姫様、やって行かれますか?」

 もちろんと輝夜は言って、先に歩き出す。鈴仙も後についていった。
 そこには店主が一人だけ居た。
 店主の容貌は、機嫌の良さそうな表情が顔面に張り付いているようで、一言で言うと好々爺だった。老齢に見えるが挙動はしっかりしており、慣れた口ぶりでゲームの説明した。声にも張りがある。まだ精神は若々しいのだろう。
 輝夜は説明をひとしきり聞いた後、人数を話した。二人でゲームをする、という意味である。好々爺はそれに応じて、砲身の長いお遊びの銃を持ち出した。輝夜はそれを受け取り、うち一丁を鈴仙に手渡す。

 好々爺の説明は簡単だった。弾は三発。倒した的は景品として貰える。ただそれだけのことである。
 鈴仙は的とやらを見回すが、特別興味を抱くようなものはなかった。
 だが、ただ一つだけ、どうしても目が行ってしまうものがある。真っ直ぐ耳の伸びた兎の人形だ。その顔つきや衣服、どう見ても己の姿にしか見えない。ただの野兎でなく、どうしてわざわざ妖怪兎を模しているのだろうか。それも、てゐのような垂れた耳でなく、ピンと立った耳である。
 その人形を作った人物に、心当たりがないわけではない。あの森の人形師ならば可能だろう。というより、他に思い当たる人物が居ない。

 輝夜は前傾姿勢で銃を構えていた。勢いは感じるが、まだ手つきが慣れていないようだった。もちろん、月の姫君として生活していたのだから、そもそも慣れた手つきの筈は無い。
 まもなく、輝夜は一発目を撃った。
 弾が見当違いの方向に飛んでいくのが見えた。的の乗った台にぶつかり、転がって止まる。

「けっこう難しいのね」

 輝夜は一度構えを解くと、その方向を変えて別の獲物に狙いを定めたようだった。

「輝夜様、頑張ってください」鈴仙は影ながら応援する。
「倒してみせるわ」

 輝夜はいつもの口調でそう言った。
 すぐに弾が飛び出す。目を見張る間もなく、それは的に当たった。
 倒れたのは黒くて四角い箱だった。原色を塗りたくったような色が混ざっている。
 好々爺はその顔の皺をさらに深く刻み、輝夜に笑いかけた。景品を取られることを喜びとしているかのようだった。

「おめでとう、お嬢さん」
「どうもありがとう」
「誰もそれを狙う人は居なかったんだがねえ。そのカードはうちの目玉の一つだよ」

 好々爺の言葉に輝夜は機嫌を良くしたようで、笑顔を向けて四角い箱を受け取った。それは小さな形だが、どうやらカードが入っているらしい。
 何のカードかは分からない。森の人形師に貰ったカードと同じぐらいの大きさのようだった。ひょっとしたら、似たようなものかもしれない。

 輝夜は景品を得たことで満足したようだった。
 まだ弾数が残っているにも関わらず、銃を好々爺に返してしまった。

「輝夜様、もう良いのですか? まだ一発残っていますよ」
「ええ。欲しいものは貰ったから、もういいわ。ほら、貴方の番よ」

 輝夜は鈴仙に場所を譲った。
 急に振られた鈴仙は、しかし何の準備もしていなかった。
 といっても、心の準備などは大して必要はない。射的ならば鈴仙の得意分野である。銃の性能も、先ほどの輝夜を見ていたのである程度は想定できる。この銃は威力はないが、弾がわりと重くて速度がある。山なりの放物線を大きく描かないだけ良質といえるだろう。

「狙いは何?」
「それが、別に欲しいのがないのよねえ」
「あの人形は?」
「あの兎のやつ? あんなの誰も欲しがらないわよ」
「ふぅん」

 無意識に言葉を返していたが、横にはてゐが立っていた。どうやら話しかけていたのはてゐらしい。そのまま何処かに行っていればよかったのだが、あの人形については見られたくなかった、と鈴仙は思う。

「そこの妖怪兎の人形もね、うちの目玉だよ。知り合いの人形使いが、そこの広場で人形劇をやったことがあってね、わしはそれを見て、あまりの完成度に腰を抜かしたよ。その場でその人形師に頼み込んで、何とか人形を譲ってもらったんだ。いや、ただでは譲ってくれんかったよ。何ヶ月も人形劇を見に行って頼み込んだし、いくらかの費用も出したからね」

 好々爺は尋ねてもいないことをつらつらと話した。
 人里で人形劇をやるような人物に、心当たりは一人しかない。やはり、あの森の人形師が兎の人形を作ったのだ。己を模した理由は分からない。何度か面識はあるが、それほど会話を交わした覚えもない。

「鈴仙に似てるよね。狙わないの?」
「何でよ。自分に似た人形なんて欲しくないわ」
「じゃあ、誰か別の人が撃ち落として、持って帰っちゃうんだなぁ」

 てゐはそれとなくぼやいた。
 それはお断りだ。
 鈴仙は急激に使命に目覚めた。欲しい品物もなかったので、単に撃ち落としやすい物を狙おうとしていたのだが、不吉な想像が過ぎったために集中力が高まった。何としても妖怪兎の人形を撃ち落とさねばならない。他の誰にも渡さないために。
 そこに誰かが近づいてきた。

「あら、こんなところにいたの」

 声を掛けたのは永琳だった。どうやら慧音との話は終わったらしい。
 永琳と目線を交わす。頑張りなさい、と返された気がした。
 永琳に気付いた輝夜は、取ったカードを見せびらかした。

「ねえ永琳。射的でカードを貰ったのよ」
「へえ、さすが輝夜ね」永琳はカードを受け取って眺め回している。
「トランプもいい加減飽きてきたわ。このカードを使って、新しいカードゲームがやりたいわ」
「これも同じカードじゃないの?」
「別よ。これはウノというのよ」
「ふぅん。同じように見えるけど……」

 鈴仙は銃を構える。狙いはあの妖怪兎の人形だ。
 前傾姿勢を維持して狙いをつける。すぐに発砲した。
 妖怪兎の人形はスリムな体型で、ぬいぐるみのように体積があるわけではない。的としては難易度が高いものだった。それでも、鈴仙の打ち出した弾は妖怪兎の人形に命中した。

「やった!」てゐが叫ぶ。

 妖怪兎の人形は、いとも容易く倒れた。好々爺が目を見張る。まさか、一発で倒されるとは思っても見なかったのだろう。
 鈴仙は銃を返した。目的の品が得られた今、ほかに欲しいものなどない。

「いやあ、お嬢さんたちは凄いね。こんな小さい的に当てられるなんてそうそうないよ。その人形もカードも残ると思ってたんだがねえ……」

 好々爺の悔しそうなぼやきを聞きながら鈴仙は人形を受け取った。
 少しだけ人形と鈴仙を見比べているようだったが、鈴仙はとくに何も言わなかった。

 四人は射的場を離れた。
 気がつかなかったが、てゐの頭の後ろにお面がついていた。やはり遊んでいたのだろう。

 それからしばらく、四人で人里をめぐった。
 輝夜とてゐは納涼祭に満足しているのか、笑顔が絶えることはなかった。永琳もそうだし、きっと、自分もそうしていただろう。
 色々な出し物に、時間を忘れて楽しんだ。
 嫌がるてゐを巻き込んで輪投げなどもした。

 夏の夜は、こうして過ぎてゆく。
 蒸し暑い夏だが、夜は気持ちがいい。それに、心の赴くままに楽しんでいる。
 これが涼というのだろうか。
 悪くない、と鈴仙は考えていた。

「ねえ、永琳。それはどうしたの?」
「これですか? 慧音にもらったのよ。家でどうぞって」
「花火ね。わりと量があるのねえ」
「あはは。慧音だけじゃなく、他の人たちにもたくさん渡されてしまったわ。私も診療所を開いて、少し人里で有名になっていたみたいね」
「ねえ、永遠亭に帰ったら、さっそく花火をしましょう」
「ふふ、分かったわ、輝夜」
「ひょっとしたら、火付け役も来るかもしれないし」

 永遠亭に戻ったら花火が始まるようだ。
 まだ、夏の夜は終わらないらしい。
 撃ち落とした人形は、いつしかてゐが持っていた。己の姿をした人形を手にぶら下げられているのはいい気がしない。
 でも、楽しんでいるようだから、今だけは見逃してやろう。永遠亭に戻ったら取り返して、何処かに隠してしまえばいいのだ。

 それから程なくして、四人は永遠亭に戻ることにした。



23.

 咲夜とレミリアは人里にいた。
 パチュリーも誘ってみたのだが、断固として拒否された。小悪魔はパチュリーの傍を離れるつもりはないらしい。美鈴には門番を任せっきりだったので、レミリアに進言し、今晩についてのみ、美鈴は暇を与えられた。
 喜んだ美鈴は、早速どこかに姿を消した。彼女なりに満喫したい何かがあったのだろう。
 咲夜は美鈴が昼下がりのシェスタをしていることを知っている。だから夜はわりと普通に起きている。
 だから、美鈴にとっては昼間より夜間の暇のほうが嬉しいのだろう。

 レミリアは納涼祭を楽しんでいるようだが、率先して屋台に入ることはない。
 あれが食べたい、これが欲しい、と咲夜に注文して、咲夜がそれを購入して持ってくるのだ。

 老齢の人間の営む射的場にレミリアは興味を示した。何度も挑み、大量の景品を手に入れようとしている。
 銃を構えるその姿を微笑ましく眺めていると、見知った顔の人形遣い、アリスが現れた。彼女は一人のようだった。

「あら、メイドさんじゃない」
「お久しぶりですわ」
「人里に来るなんて、珍しいのかしら?」
「そうでもありませんよ。よく買い物に来るの」
「ふぅん。この射的場に目をつけるなんて、なかなか目がいいわね」
「あら、どうして?」
「私の作ったアイテムがたくさん並んでいるはずよ。ここのお爺さんねえ、私の人形劇のファンなのよ。使っている人形を譲ってくれ、って何度もせがむのよね。もうしつこくて仕方ないから、少しだけ譲ったのよ」
「ふぅん。でも、どうしてせっかく貰った人形を並べてしまうのかしら?」
「見せびらかしたいだけよ。コレクターって、そういう人が多いでしょう?」

 アリスは店主の好々爺に声をかけ、挨拶を交わした。
 好々爺は残念そうな表情を浮かべているようだった。何でも、お気に入りの人形が当てられてしまったらしい。凄腕の一団だったようで、的を当てたら残りの弾数など気にせずに帰ったらしい。中でも気に入っていた兎の人形は一撃で倒されたのだそうだ。

「それを当てた娘っ子がねえ、その人形にやけにそっくりだったんだよ。わしは人形の精が人の姿をして現れて、自分を取り返しに来たんだと思ってしまったよ。だからまぁ、人形を愛するわしとしては本望というか……」

 咲夜には人形の精だとか魂だとかはよく分からないが、要するに人形に似た者が落としただけだろう、と思った。

 レミリアはたくさんの景品を手に入れ、満足しているようだった。
 その後もつつがなく出店をめぐり、お面を付けたり、ヨーヨーを買ったりして遊んだ。たくさんの道具を手に入れて、咲夜とほくほく顔のレミリアは紅魔館に戻った。

 さっそく図書館に向かったレミリアは、パチュリーに納涼祭の出来事を語り始めた。
 迷惑そうな顔でパチュリーは聞いていたが、それでも話の続きを促してしまうので、結局レミリアの話は止まらなくなる。

 咲夜は紅茶とケーキを用意して、レミリアの傍らに仕えた。
 楽しい声の中に時折混じっては、ゆっくりとした時の流れに思いを馳せる。
 この夏も、こうして過ぎていくのだろう。

 例によって話疲れたレミリアは、眠たそうな顔をして大きなあくびをした。
 パチュリーは限界を半ば超えているようで、半分寝ているようにしか見えない。

 咲夜はレミリアをおぶって寝室に運ぶと、眠る前に紅茶を出した。

「咲夜、今日は楽しかったわね」
「はい、お嬢様」
「また行ってもいいな、納涼祭というやつは」
「分かりましたわ。またご一緒しましょう」

 レミリアは紅茶を飲み、小さく伸びをする。おやすみの挨拶をすると、安らかな顔をして目を瞑った。
 誰も見ていない今、咲夜は小さなあくびを漏らす。この夏の一夜は、ようやく終わりを迎えるのだ。
 微笑ましいレミリアの寝顔を見続けながら、咲夜はそう思った。



24.

 竹林の奥深く、眠るように佇む永遠亭。
 そこに一人の人間が訪れた。
 勢いよく入って来たは良いものの、屋敷は静まり返っていた。

 縁側から母屋に入り、幾つかの部屋を覗き込むが、そこには誰もいない。
 回廊の柱に付けられた燭台に、火は灯されていなかった。

 今日は、誰もいないのだろうか。
 勢い勇んでやってきたのが少しだけ馬鹿らしい。

 息を吐いて夜空を見上げた。浮かんでいる月は、何年経ってもその姿を変えない。
 満ちて、欠けて、満ちて、欠けて、繁栄と衰退を繰り返す。まるで、人間の辿っている道をその姿で示しているようだった。
 それは自分とは離れたしまったものであり、すでに手に入れることの適わないものだ。

 月は何も語らない。
 ただ悠然とそこに在るだけなのだ。
 月は見る者により姿を変える。
 美の対象として捉える者もいれば、神として崇めるものも居るだろう。昔は憎しみの感情を持って睨み付けていたが、今では単なる自然の一部でしかない。

 月は何も変わらない。
 それを見る者だけが変わるのだ。
 何も考えずに空を見上げている。このような行為に、そもそも意味はないのだ。
 あいつが居たから、どうだって言うのだろう。
 憎しみの先にあるのは虚無でしかない。そのことは、とうの昔に気付いている。
 長すぎる時間は、憎しみの感情を忘れさせていた。だが自分でも気付かぬうちに、感情はある地点を維持したまま平坦な線を描き続け、目立たずに残り続けていたのだ。それはあの日にあいつを目撃した瞬間に刺激され、大きく膨れ上がった、そうしたら、後は少しずつ減少していくだけでしかない。
 そしていつしか、それは潰えてしまうのだろう。

 近頃、ふと思うことがある。
 あの日、あいつを目撃した際に膨れ上がった大きな感情。
 あれは、本当に憎しみだったのだろうか。
 答えは分からない。いや、本当は、答えを見つけたくないのかもしれない。

 永遠亭はやはり、眠るようにしんとしていた。
 主がいなければ、この広い屋敷もただの荒涼とした廃墟である。そこに用はない。 

 立ち去ろうと入り口の門に向かうと、何人かの話し声が聞こえた。楽しむような声である。妖怪が跋扈するような夜に、竹林を歩くやつは数少ないだろう。それは妖怪か、特殊な人間だけしかありえない。

 もし目的の人物ならば、あらぶる炎と共に受け入れてやろう。
 そして夏の一夜を始めるのだ。

 指先に炎を作り出す。それは生まれたばかりの雛鳥だ。
 これで、ささやかな挨拶をして出迎えてやろう。
 きっと驚くに違いない。

 彼女は、そこまで来ている足音の主を、いつも以上の笑顔で待ち望んでいた。




25.

 湖のほとりに建つ紅い屋敷。
 それは夜の闇に包まれたなかでも不気味に目立っている。
 屋敷の一室には、一人の主と一人の従者がいた。
 既に眠りに就いた主の顔を、従者はただただ静かに眺めている。
 
 きっと、夢を見ている。彼女は夢を見ているのだ。
 その夢は幸福で彩られたものに違いないだろう。

 あわよくば。
 あわよくば、その夢の中に飛び込んでいきたい。そして、彼女の傍で笑っていたい。
 叶うことではないけれど……。

 小さく、小さく微笑んだ。
 もう少しだけ、もう少しだけ寝顔を見ていよう。
 こんなときでないと、じっと見つめることなどできないのだから。
 今夜はずっと、そうしていたい。
 けど……、いつまでもそうしているわけにはいかない。
 せめて、せめてもう少し。もう少しだけ、眺めていよう。
 時にも余裕を持たせて。
 彼女の残した紅茶が、冷めてしまうぐらいまでは……。

 
 はじめまして、geneと申します。創想話に初投稿になります。というかこういった投稿サイトに投稿すること自体が初めてかも。
 短い尻切れトンボのSSはちょろちょろと書いていたんですが、長い文章を完成させたのは初めてだったりします。
 俺は何を書いているのだ?と苦悩すること数週間、何とか完成しました。

 当初は八意印の喘息の薬を得たパチュリーが無窮(むきゅー)の力を得て魔理沙をとっちめに行く話だったのですが、何か異常事態が発生してこんな感じになりました。国士無双の薬も仕込んでいたのですが……。
 タイトル負けしてるっぽいですが、これもこれで気に入ってます。

 たまに投稿することがあると思いますので、今後とも宜しくお願いします。


※いまさらレス
>SET・H氏
ありがとうございます~。
パチュリー無双らしき話は今年中にお見せできればと……。


2009/08/22 更新
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2010/06/23 更新
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gene
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コメント



0.1210簡易評価
7.90名前が無い程度の能力削除
紅魔勢の暖かい距離感が心地よく、面白かった。
公式資料準拠の鈴仙や姫の絡み方といい、これからの作品を期待してしまいます。

結局栄養剤3本余剰の謎はわからぬままでしたががが、読み解きが足りなかったのだろうか…うむむ。
12.100名前が無い程度の能力削除
心地よい文章だった

淡々とした文章と、必要以上に絡まない人物同士の掛け合いのおかげか
すらすらと読むことができた
14.無評価gene削除
感想と評価に感謝します。
永琳に優しさの成分が多いかな、とは思いますが、公式設定はかなり準拠しています。
あまり絡ませるのは好きではないので、いつもこんな感じです。

栄養剤3本については、鈴仙の手持ちの国士無双の薬を間違えて渡している設定です。
一応、トリックスターのてゐの策略であります。(悪戯で混ぜ込んでいたものが咲夜に行き渡った)

燃え上がるパチュリーがレミリア相手に魔法の実験をする展開も書いてたのですが、
尺があわずにお蔵入りしてしまいました。
舞台は月が半分の頃だし、レミリアを相手にするのは吸血鬼が一番力を持つ満月の頃で、
そうすると永遠亭は例月祭をやっていて人里には来ないと思うので……。
それの名残で回収できてません>栄養剤余剰

もちろん今はパチュリーの図書館に国士無双の薬が3本置いてありますよ。
24.100SET・H削除
イイヨイイヨー
激面白かったです~

しかし 無双薬による危機一髪パチュリー爆発1秒前な話もみたいなあw