正しいチルノの入手法
「うー……」
博麗神社のとある夏の昼下がり。
日陰になった縁側に腰掛け、素足をぶらぶらさせながら霊夢はげんなりした表情を隠さないでいた。
さっきまで部屋の中で寝転がり暑さから身を守ろうとしていたのだけど、昼を迎えてとうとう神社内の温度も外とたいして変わらないくらいにまで蒸しあがってきた。そんなわけで少しくらい風があって涼しかろうということで縁側に座ったのだけども、あいにく本日はそよ風も感じられないほどの完璧な晴天だった。
境内に生える樹木の葉っぱはかさりとも動かず、天蓋をぐるりどこを見渡してみても雲の切れ端も見えはしない。
灼熱の太陽から、幻想郷は逃れる術はなく焼かれ焦がされひたすら蒸しあげられていた。
境内に耳を傾けると、そう多くもない散発的な蝉の鳴き声が小さく聞こえてくる。本来であれば耳が痛くなるくらいの大合唱を繰り広げているというのに、この暑さに夏の風物詩の蝉ですらもやられているのだろうか。
「山火事でもおきそうな気温ね……」
ちらりと妖怪の山の方角を見やると、いつもは天狗らしき黒い影がぽつりぽつりと見えるものだけど、今日ばかりは天狗どころか普通の鳥一匹見えはしない。皆巣の中にでも篭っているのだろう。
「巣かあ……」
土の中というのは涼しいものなのだろうか。いっそのこと地底に行くことも考えたけど、無闇やたらと博麗の巫女が地底に踏み入ると何事かと地底の住人達は色めき立ち事が大きくなる、ということを紫から忠告されて以来、仕方なく地底への関わりは極力避けているのだった。
とはいえ禁止されなくてもこっちから赴く予定は無かったのだけど。あそこはこの前行った時、結構暑かったような気がする。灼熱地獄跡の印象が強い所為かもしれないけれど。
「うー……」
霊夢は深くため息をつく。
暑いとこう、何もやる気がおきなくなる。境内の掃除も暑さの所為で昨日からやっていないし、暇な時に適当にそこらの妖怪を退治して回る仕事も休業中だ。
「これじゃあお賽銭が減っちゃうじゃないのもう……」
いらない心配をしつつ眉を寄せ、霊夢は頬を膨らませる。
さっきから汗がじっとりどころかべったりだらだら流れ続け、巫女装束は肌にぴったりと張り付いてしまっている。
普段付けている袖はとてもではないがやってられないので今は取り外してしまい、見た目はノースリーブの変な巫女装束だ。変なのは元からだが。
「あーあ、退屈ね」
この暑さを嫌ったのか、最近は妖怪達も神社に足を運んでは来ない。霊夢としても熱帯夜続きの中で酒はあまり飲みたくないのだが、せめて誰かと話して暑さをやわらげたいものである。毎日のようにやってくる魔理沙もここ数日は顔を見せない。
一番最近やって来たのは、昨日の紫か。
あんまり暑いので、紫は外の世界の棒アイスなるものを霊夢に与えた。
幻想郷にアイスは無い。初めて見る妙な食べ物。
そして半信半疑で口に入れた途端、その口の中でとろける冷たく甘い食感に霊夢は戦慄し、感激の余り紫相手に深く感謝をした。自分がここまで他人を褒めるのは初めてかもしれなかった。その時霊夢の中で小さくもないカルチャーショックが起きていたのだ。
だが一方、そんな泣いて感謝する霊夢にドン引きした紫は引きつった笑みを浮かべ、早々に帰ってしまったという。
「アイス……」
物欲しそうに霊夢は呟く。あの冷たく甘美な味を思い出すだけで口の中では止め処なく唾液が溢れてくる。
昨日の去り際の紫曰く、「あなたは癖になる人種みたいだから当分あげないわ」とのこと。霊夢としては訳が分からない。
「あのスキマ妖怪いつか退治してやる……」
味だけ覚えさせて後はお預けとは。なんと性質の悪い妖怪だろう。自分はただこれから一日五個はアイスを食べたいと言っただけなのに。妖怪八雲紫を討伐すればアイスが手に入るのだろうか。ならばやってみる価値はあるけれど。
「あつい……」
そんなことを考えていても暑さが和らいだりはしなかった。いつになっても夕方はやって来ない。昼が去ったところでこの暑さが和らぐかは分からないのだが。
ちなみに現在の紫はエアコン付きの自室で式神達と昼寝中なのだが、そのことを霊夢が知ったらどうなるかは想像するのも恐ろしい。
「うう……」
そうして霊夢が見えない暑さと分の悪い格闘をしていた時のことであった。
「あたい来た」
にわかに境内にチルノが降り立った。
この神社にこうして突然妖怪がやって来るのはなんら珍しいものでもないので、霊夢としては驚くこともなかった。
見ると、チルノは自身の放つ冷気が勝っているのか、この暑さの中でも汗一つかかずにぴんぴんしている。霊夢の前方五メートルほどのところに偉そうにふんぞり返って立ち尽くし、意味もなくブイサインを突き出している。
「…………」
そんな氷の妖精を力の抜けた表情で見て、霊夢は脇に置いてあったぬるいお茶を一口含んだ。そして一口のつもりが全部飲み切ってしまった。盆の上にコップを戻すと、カタンと軽妙に音が鳴る。
ああこの妖精相手にするのは面倒だ、と霊夢は半目になって呆れる。霊夢はいつも妖怪相手には面倒そうに対応するのだが。
そして前方へと目を戻すと、何やら様子がおかしい、チルノはポーズを崩し霊夢のことを凝視して細かく震えていた。まるで怯えるように、恐怖するように、霊夢をじっと見つめたまま動かないでいる。
「……?」
一体どうしたとうのか。分からず、霊夢はかくんと首をかしげる。
自分から来といてそんな怖がるようなことはあるまい。
それともなんだろうか、とうとう自分から博麗の巫女としての惜しげもなく溢れる壮絶な威厳を感じるに至ったのだろうか感心ねえ、などと回らない頭で考えていると、チルノはやがて目を見開いたままで愕然と口を開いた。
「れーむの脇が、取れてる……」
「…………」
取ったのは脇じゃなくて袖ねと一応訂正しておいた。
それにしてもなんだろう。自分が袖を外しているのはそんなにおかしいことだろうか。この暑い中たまにやって来る妖怪達も、袖を外した自分を見て一様にまるで珍獣を目撃したかのようにぎょっと目を見張るのだ。
冬のどうしても寒い時に袖をくっつけて脇を隠していたら妖怪達は口々に変だ変だと言ってくるし、どうやら自分の与り知らない所で妙なこだわりができているらしい。まあそれは置いておいて。
「この暑いのに袖なんて着けてらんないわよ」
「れーむなのに?」
「霊夢なのに、って……袖が私の存在意義じゃないし」
「そんざいいぎ……」
視線を斜め上に向け、顎に手を当て呟くチルノ。少し難しい言葉を使ってしまっただろうか。英吉利牛とか知ってるくせに、どうやら知識に偏りがあるらしい。
そうして考え込んだチルノに対し、霊夢はいいからさっさと話を進めることにした。
「何の用?」
するとチルノは憮然とした様子で頬を膨らませた。
「それはさっき言ったじゃないの」
「……いや聞いてないわよ」
チルノは「う?」と頭の上に疑問符を浮かべて首をかしげる。やはり話が進まない。
「いいから。それで? 何しに来たの?」
細かい事を考えるのを放棄したのか、チルノは疑問符を投げ捨てながら頷いた。
「お菓子をもらいに来た」
「…………」
正直というか無謀というか馬鹿というか。泣く子も捨て置く霊夢相手に堂々と菓子をよこせなどと上手いやり方とは言えない。
案の定、霊夢はすぐに首を横に振った。
「駄目よ。私は今どうやったらこの暑さを乗り越えられるかで忙しいの。邪魔をしないで頂戴」
要するにこの暑い中立って色々するのが億劫なのである。
だがそんなことでチルノが納得するはずもなかった。ずかずか大股で近づきながら不満で口を尖らせる。
「何よう。霊夢のケチ、脇巫女」
「ケチでも脇巫女でもなんでもいいから帰った帰った」
そうして追い払おうとした時のことである。
霊夢のほぼ眼前にまで迫ったチルノ。その身から溢れる冷気が、霊夢の体をすうっと通り抜ける。
その瞬間、霊夢は総毛立ち、本能的に全身の感覚を総動員し、その冷気の残りかすを快感に変えて味わおうとしていた。
地獄の暑さの中の冷気の源。灼熱地獄に降り立ったオアシス。
「チルノ……」
氷の妖精チルノ。
そうだった。なぜ自分はこんなことを忘れていたのだろうか。
冷気を操る程度の能力。
そうだ、この妖精は氷の妖精だったのだ。暑さの所為で簡単なことを失念していた。
チルノの側にいると寒い。涼しい。気持ちいい。
「チルノ……あんた……」
ゆらりと亡霊のように立ち上がり、肩の力を抜いて両手をだらんと下に垂れ伸ばしていたと思ったら、霊夢は目の前の妖精に向かって寝起きのゾンビのごとく手を伸ばす。
「れ、れーむ……!?」
身の危険を感じたチルノが一歩退こうとすると、途端に霊夢は手の動きをグワッ! と早めてチルノの両肩をがっちりと押さえ込んだ。博麗の巫女による奇行にチルノの顔がにわかに恐怖でひきつり歪む。
「は、え、れ、れーむ、何、を……?」
「ふふふ……」
やはり。
非常に冷やっこい。
両手から伝わる冷涼な感覚に霊夢は狂喜した。
「冷たくて気持ちいい……」
気づいたら抱きしめていた。自分の胸にチルノの頭を押し付けるような格好で、氷の妖精の頭にしきりに頬ずりをする。
霊夢の全身を冷気が貫き、あまりの快感に顔を緩め惚けていたという。
「れ、れーむう」
チルノが身をよじり不満そうにしているが知ったことではない。そしてこういう時の霊夢の強引さをチルノ含む妖怪達は知っていたので、やがて仕方なく力を抜き、されるがままにすることにした。
炎天下で抱き合う二人。
傍目には暑苦しそうに見えるが、霊夢にとっては天国に等しい、いやあの馬鹿天人のいる天界などとは比べ物にならないほどの快感を味わっていた。
ふと周囲に耳を傾けると、遠くで鳴いている蝉が少し増えてきたようだ、一斉に鳴いては途切れてを繰り返している。
夏もこれから本番に入る。どんなに暑くともこれから蝉は増えてくるのだろう。
「ふう」
しばらく冷気を堪能し、すっかり涼み気が済んだのか、離れると、そこには膨れっ面をしたチルノが上目遣いで睨んできていた。まあいきなり抱きしめれば怒られるのも仕方ないというものだ。
そんな敵対的な視線の中を悠々と逆走するように、霊夢はにこりと微笑み口を開いた。
「お茶にしよっか」
チルノはすうっと目を細める。
「お茶あ?…………………………うん!」
ちりーん
風鈴が鳴る。縁側にチルノと並んで腰掛け、煎餅片手に冷たい麦茶を飲む霊夢はしみじみと感じ入った様子で目を閉じた。
「ああ、やっと風鈴が鳴ったわ」
二週間ほど前から縁側に吊るしていたのだが、今日この音を聞くのは初めてかもしれない。それくらい風が無い日だった。
この風鈴の音を聞いているだけで涼しくなる気がする。これもまた夏の風物詩か。
しかし何故いきなり風が吹き始めたのだろうか? 気温の変化も無かろうに。と、疑問が浮かんだ霊夢はそこで隣のチルノを見る。
すぐ隣に座っている氷の妖精は、随分とご機嫌な様子で煎餅をばりばり齧っている。
彼女から放たれる冷気が渦を巻き、周囲の猛烈な熱気とせめぎ合い、弾け、温度差によって風の通り道を開け放つ。熱波の中ににわかに入り込んだ冷涼な異質。
全てが赤の中でぽつんと青い点が浮かび、いつしかそれが台風の目のように周囲を巻き込みかき乱している。
風が出てきたのは彼女のおかげか。低気圧チルノによって神社を中心にところにより強風が発生しているらしい。
それはまるで、夏がチルノという存在に驚き慌てて不恰好に踊っているようだ。
「……ふふ」
それが可笑しくて穏やかに笑うと、ひどく優しげに笑ったつもりだったのだが、チルノは顔を引きつらせて冷や汗を浮かべ、霊夢からずりずり身を引いた。
「…………」
何故引かれるのだろうか。霊夢は額を引くつかせながら半目になる。
自分はそんなに薄ら寒い笑みを浮かべていたというのか。今とても温和に笑ったつもりだったのに、今から博麗の巫女に狩られる恐怖に囚われた妖怪のような引きつった顔をチルノはするのだろうか。
納得いかなかったが深く追求するのは不良みたいなのでやめておいた。
暇だったからとか何となくとか、むしゃくしゃしていたからやったとか、意味もなく気に喰わないからといって危害を加えるような理不尽な人間になったつもりはない。巫女たるもの心を広く持たなければならないのだから。
「今年の夏が始まってから二週間くらい経つけど」
話題を変えると、危機は去ったと判断したのか、チルノは霊夢の隣に小さな尻をずらしながら戻ってきた。
「あんたって今まで何してたの? 相変わらず湖上で妖精たちと遊んでるとか?」
実のところ、チルノが幻想郷中を遊びまわるのは暖かい間くらいで、それ以外は、特に冬の間は比較的大人しく湖周辺で遊んでいるようだ。
唯一湖に近い紅魔館にはたびたび出没しては美鈴とだべっているみたいで、そのことをこの間なんともなくやって来た咲夜と世間話をしている時にぼやかれた。居眠りをしていない分まだマシとのことだが、その事を話す時の咲夜は困ったような、どこか苦笑いを浮かべていた。
彼女も本気で怒ってはいないのだろう。美鈴の居眠りが治る見込みは無さそうだ。
「…………」
問いかけられたチルノは途端、ぶすっと不機嫌そうに頬を膨らませた。
何か怒らせるようなことを言ったのだろうか? などと疑問に思ったが、どうやら怒っているのは別のものに対してらしい。ぷんすか湯気を上げながら口を開く。
「あのね、あたいさっきまで魔理沙のとこにいたの」
「魔理沙の?」
ここ数日見ないと思っていたらそういうことか。動くエアコンチルノを独り占めしこっそり涼んでいたのだ。
後で見てらっしゃい、と霊夢は目を細める。チルノは夏の博麗神社にこそ相応しい。他の場所にいる必要はないというのに独占するなどと魔理沙はなんて馬鹿なことをするのだ。
「魔理沙はあんたと何してたの?」
怒りを募らせるために問いかけると、チルノは憮然とした様子で腕を組み、蝉に負けないくらい大きな声で高らかに言い放った。
「抱かれてた」
ちりーん
風鈴が揺れる。
霊夢が顔を引きつらせる途中の変な表情のまま固まっていると、チルノはそんな霊夢にお構いなく、というより見ていない、そのまま言い続けた。
「あたいは嫌だって言ったのに、魔理沙に無理やり捕まえられて家に連れ込まれて、そこで毎日毎日抱かれたのよ」
「は……はあ……それはまた……」
実際には無理やり捕まえられたのではなく、魔理沙から「お菓子をあげるからうちにおいで」と言われてのこのこついて行ったのだが、妖精の記憶は往々にして曖昧である。
チルノは膨れっ面のまま続ける。
「それだけじゃないのよ」
「はあ……次に何が?」
「魔理沙の家に来たアリスにも抱かれた」
「アリスにも!?………………って違う違う」
もう少し聞いていたい気もしたが、いい加減訂正してやることにした。抱かれると抱きしめられるの違いが分かっていないだけなのだ。
「あのねチルノ、それは要するに“抱きしめられてた”ってことよね?」
するとチルノは何当然のこと言ってるの? といった風に眉を寄せた。
「どっちだって同じじゃないの」
少し安心する霊夢。気を取り直し人差し指をぴんと立てて言った。
「違うわ、違う。全然違う。その場合抱きしめられる、と言うのが正しいのよ」
「……?」
チルノは首をかしげ、即座に言い放つ。
「どう違うの?」
え、と霊夢は言葉を詰まらせる。どう違うのかと聞かれても困る。
「ねえねえれーむ。それじゃあ、抱かれる、ってどういう意味があるのっていうのよ」
「え、いやえーと……」
途端にしどろもどろになった霊夢は、一体どう言ったものかと思いあぐねていた。こういった事を聞かれることくらい予測できるだろうに、迂闊だった。
「あの、それは、ね。こう、日本語的なニュアンスの違いがあるっていうか……」
「にゅあんす……」
「日本語的な意味合いの違いがあるっていうか」
言い直してやると、何が嬉しいのかチルノは顔を輝かせて口を開いた。
「意味合いの違い!」
「そう、違うのよ」
「どう違うの?」
「ぐ……」
まずい。避けられない。
言いあぐねていると、チルノの機嫌が次第に怪しくなってくる。霊夢が意図的に黙っているのを感じ取ったのだろう。袖が無いので霊夢の腕を引っ張り揺さぶってくる。
「ねえねえれーむ。抱かれる、って何よう。教えなさいよお」
「い、いやええとその……」
「むうう。隠してるわね。絶対に教えてもらうわよ。教えてもらうまで帰らないんだから!」
「うう……だから、その、大変に遺憾であるというか……」
「いかん、って。どうしていけないのよ。もう、じゃあ他の人に聞いてみるわよ!」
「だ、駄目よ」
良い子は大人に聞いてはいけません。しかしそんな理屈が妖精相手に通じるはずもなかった。しかも霊夢が焦れば焦るほど、「何かある」とチルノの興味は高まっていくのだ。
これはそう簡単に誤魔化せるものではなさそうだ。
掴まれた腕は非常に冷やっこくて気持ちがいいのだが、今はそれどころではない。
「ねえねえ抱かれる、って何? 抱かれる、ってなんなのよう。れーむ教えてよお。…………むうう、もう、なんなのよう。れーむがどうしても教えないっていうならいいわよ、あたいにも考えがあるわ」
「うう……」
「れーむが教えてくれないならねえ……教えないならねえ……………………………………」
教えないならどうするのか。実際のところ考えはなかったらしく、チルノはそのまま霊夢の腕を揺さぶり続けた。
一方の追い詰められた霊夢は苦しい表情で口を開く。
「ええと、チルノ?」
「何よう。誤魔化そうったってそうはいかないわ。言っとくけどねえ……」
「西瓜食べる?」
「うん!」
博麗神社の裏手には井戸がある。深く掘られた丸井戸で、夏でもそこそこ冷たい水を供給してくれる優れものであり、つるべに物を入れて中に垂らしておけば冷やすことも出来る。宴会で悪酔いした妖怪が「頭を冷やせ」とたまに放り込まれる所でもある。
先日お払いをした御礼に人間の里長から西瓜をおすそ分けされており、今日は後で食べようと冷たくしておいたのだ。
別に西瓜一個くらい自分一人で楽に平らげられるのだけど、まあ誰か来たら分けてやろうと思っていた。
そこにチルノが来たので丁度いい。元々後で出してやるつもりだったのだけど、話を逸らすためにも、昼飯からそう時間が経っていないけど今食べることにした。
「ここにスイカが……」
よいしょよいしょと霊夢がつるべを引き上げている横で、チルノは身を乗り出して暗い井戸の中をじっと覗き込んでいた。
「そうよ。冷たい野菜を食べたい時とかはここに保管してるわね」
するとチルノは感心した様子で息を吐く。
「はー……盲点だった」
「…………」
盲点、でこの場合は合っているのだろうか。細かいことには突っ込まないことにした。
そうして引き上げ続け、やがて大玉の西瓜が一つ、暗闇の中から姿を現した。チルノのテンションは嫌おうにも高まっていく。
「来た! れーむが来た!」
「来たのは西瓜ね私じゃなくて」
おそらく霊夢が引き上げたから来た、とかそういうような事を言いたいのだろうが。
「あんまり乗り出すと危険よ」
と言った後で、落ちるなどと羽持ち相手に無用なことだと気づいた。自分も面倒なときは井戸の底まで飛んで水を汲んでくる。
親代わりであった今は亡き先代の博麗の巫女からは、横着をして好き勝手に飛び回らないこと、などとよく言われていたが、周囲に飛行生物がこうも増えた今となっては今更感が漂う。これでも必要外の飛行は控えているのだ。
「よいしょっ……」
西瓜をつるべから取り出し持ち上げると、ひんやりした温度、ずしりとした重量感とすべすべの触感が心地よい。まさに夏だ。
そしてふと隣へ目をやると、チルノが目を輝かせて西瓜に視線を吸い込ませているところだった。
何かを期待しているような望んでいるような、そんな感じだ。
「……持ってみる?」
言うと、チルノは西瓜から視線を引き剥がして霊夢を見やった。その顔には満面の笑みが咲いていた。
「うん!」
「重いから気をつけるのよ」
「だいじょーぶ! あたいの名前をなんだと思ってるの!」
と言ってどんと薄い胸を叩く。
名前、はまあ、知っているのだけど。
「名前はチルノよね」
「違うわよ!」
「違ったの?」
するとチルノは、あれ? と首をかしげる。
「いや、違わない……あたいチルノ……」
あたいを誰だと思ってるの、と言うべきだったのだろう。とはいえそれはいいから西瓜を手渡すことにした。
「はい」
「むっ」
西瓜を受け取り、おっととと、とよろけたチルノだったが、体勢を立て直して無事抱えることに成功した。
「台所まで運んでね」
するとチルノは「ふふん」と鼻を高くする。
「これくらい楽勝ね。台所と言わずもっと遠くまで運べるわよ」
「台所までお願いね」
「うん」
よたよたした足取りのチルノを霊夢は少し心配そうに見つめながら歩き、二人はやがて神社の中へと入っていった。
蝉は数が増したのか鳴き声を高め、青空に輝くばかりの白い入道雲がもくもくと背を伸ばしてきた。
チルノとは別にいくらか冷涼な風が吹き始め、生物達も少しずつ活動を再開してきたようだった。
ちりーん
それから少し経ち、再び縁側に並んで座る二人。
両者の間には二枚の皿が並べられ、その上には適当に切られた西瓜がいくつも乗っていた。
そして最初のうち、二人は西瓜に夢中になり黙々と食べ続ける。
しゃくしゃくしゃく
ぼりばりぼり
しゃくしゃく
ぼりぼり
蝉の声に紛れて西瓜を食べる音が響く。
二人とも当然のごとく種まで噛み砕いて食べていた。
霊夢としては種まで無駄にしてはいけないという(少しでも腹を膨らませるための)先代からの教えがあるし、チルノに関してはおそらく何も考えてはいないのだろう。
しかし境内に種を吐こうものなら霊夢に猛烈に怒られ掃除をやらされる羽目になるので、チルノが種まで食べているのはまあ正解だと言える。皿に出すと尚良いのかもしれないが。
「よく冷えてて美味しいわ」
「うん」
井戸の中に漬けていたのもそうだが、チルノが持っていた時に一層冷えたのかもしれない。
本当に夏場は有用な妖精ね、と霊夢は西瓜を齧りながら実感していた。
冷たい西瓜を食べた所為かそれともチルノの発する冷気のおかげか、うだるような暑さも和らぎ、汗も引いていて不快感もない。
この分なら外している袖をまた付けてもいいかもしれない。代えの袖を出してこようか。などと考えていた時のことだった。
「れーむ」
スイカの乗った自分の皿と霊夢の皿とを仕切りに見比べていたチルノが難しい顔をしながら言った。
「そっちの方が多い」
「…………」
呆れるというより怒るというより、チルノの余りの子供っぽさに霊夢は思わず笑ってしまった。
チルノの歳は分からないし聞いても知らないだろうが、子供として接するのになんら問題はない。本人は子供扱いされると反発するが、それも無理からぬというものだ。
そんな微笑む霊夢をチルノは怪訝な表情で見てきたが、自分について何かを笑われていることに気づいたのか、すぐに頬を薄っすらと赤く染めて食って掛かる。
「な、何よう。何笑ってるのよう」
「何でもないわよ。ほら西瓜ね? 交換してもいいわよ」
「むうう……」
ぷうっとここまで大きくなるのかというくらい頬を膨らませたチルノは、やがてぷいと勢いよく顔を背けた。どうやら機嫌を損ねてしまったらしい。
「もうっ、いいわよ」
「そう」
あっけらかんと言い捨て、何事も無かったかのようにまた西瓜を食べ始める霊夢。
それを見て、チルノは訝しげに眉を寄せていたが、やがて小さくため息をついて自分も西瓜に手を伸ばす。
霊夢相手に怒ったところで何にもならないことを思い出したのだろう。
博麗霊夢。
博麗の巫女にして幻想郷の守護者。
霊夢は元々チルノ達妖精やら妖怪やらを退治する側の人間だ。素っ気無く対応されても仕方ないことだし、実際に霊夢は魔理沙やら咲夜やら他の人間達に比べて妖怪への対処が厳しい。
雑な扱いをされて当然。それが博麗霊夢という人間だ。彼女と接するときの基本だ。
そして元々邪険にされるのだから変な期待をしなくて済む分、気兼ねなく付き合うことができるというものだ。
それが霊夢の好かれる要因の一つとなっているのだが、本人はそれにいまいち気づいてはいなかった。
「…………」
一方の霊夢。彼女には少し気になることがあった。
上機嫌に西瓜を齧るチルノの横顔を盗み見ながら、霊夢はぼんやりと考えていた。
というのも、チルノは今でこそこうして博麗神社に何気なく遊びに来ているが、冬の間はこうしてチルノがやってくることはない。春や秋にもたまに来るが頻度が少なく、やはり夏が一番多い。
一番最近チルノに会ったのは春先でのこと。紅魔館でホームパーティーが開かれるということで、呼ばれてもいないのに勝手に出席するため湖上を飛んでいたとき、たまたま湖上で遊ぶチルノと遭遇したのだ。
それくらいであり、冬の間などはろくに会いもしない。冬はこの妖精が一番活発になる季節のはずなのに。
何故か。
「…………」
チルノは西瓜の皮がぺらぺらになるまで念入りに食べ尽くし、また別の西瓜へと手を伸ばす。
そんなチルノを眺めながら、霊夢が推測するところ、もしかして、だが、この氷の妖精は遠慮しているのだろうか。
しゃくしゃく暢気に西瓜を齧るチルノを見てそんなことを考える。
自分の抑えようもなく発してしまう冷気の所為で誰かが寒い思いをするのを案じており、その存在を求められる暑い季節にしか現れないのだろうか。まさかこの馬鹿で子供っぽい氷精がそこまで他人に気を使うのだろうか。
そもそも妖怪というのは総じて自分勝手な生き物であり、他人が寒がっているかなど気にしないのがほとんどである。
しかし子供だからこそそういった他人が自分を嫌がっているといった気配に敏感なのかもしれない。冬に誰かの前に現れて邪険にされた経験があるのかもしれない。チルノは他人の目を気にしないでいられるほど達観してはいないのかもしれない。
妖精というのは本来、全体として頭が弱い生き物である。そんな微妙な人間関係など考慮したりしないだろう。
しかしチルノは妖精の中ではかなり力の強い部類である。その分頭も回る方だ、と専門家である霊夢は感じていた。少なくとも、他の妖精のように一度覚えたことをそうすぐには忘れない。
比較的物覚えが良い分、余計な人間関係についての意識もあるのかもしれない。
チルノは普段は悩みも無く何も考えていないような様子だが、本当は寂しい思いをしていたりするのだろうか。そうして他人に気を使っているのだろうか。
分からない。
分からないが、霊夢はなんともなしに言ってみた。
「ねえチルノ」
ちりーん
風鈴が鳴る。
離れた所から喚き立てる蝉達の鳴き声の中、風鈴と人の声だけが空間にぽっかりと浮き上がるように耳に響く。
「なに?」
そうして振り向いたチルノの、西瓜でべたべたになった口周りを手拭いで拭いてやり、霊夢は普段の表情を保ったままに淡々と言った。
「冬になるとね、この境内には人が埋もれるくらいの雪が積もるのよ」
そうして境内を眺めると、チルノも釣られて視線を同じくした。
今はもちろん雪など見えず、太陽の強い日差しのおかげで焼肉ができるくらい熱せられた白い敷石が整然と並んでいる。陽炎がゆらめき、向こうに生えている樹木の若葉がちらちら点滅するように揺れ動いて見えた。
「それをいちいち雪かきするのが大変なのよ」
そう言うと、チルノは、そうなんだへえ、といった具合で気のない返事をした。
なぜ突然霊夢がそんなことを言い出すのか分からないようだ。構わず霊夢は本題に入る。
「あんた寒いの平気よね? それじゃあ冬に暇だったらここに来て雪かき手伝ってくれない? お菓子くらい出すわよ」
そう言うと、チルノはきょとんとした様子で霊夢を見つめてきた。
そのまま二人は視線を交わし、じわじわ蝉の声が空間に静かに反響する。
風が、止んだ。
夏にぽっかりと空いた冷涼な穴の中、じっと見詰め合う二人。
チルノが他人の迷惑を考えて寒い季節には現れないようにしてるとか、本当にそんなことを本人が考えているのかは分からない。実は他の事情があるのかもしれない。
しつこく確かめる気にもならないし、わざわざ気を揉んでなんとかしてやろうとも思わない。妖怪相手にそんな義理はない。
しかし境内に雪が積もるのは本当のことであり、いつも一人で雪かきをしているのも本当のこと。面倒なので誰かに手伝ってほしいと考えていたのも本当のこと。
だから冬に雪かきを手伝ってほしいというのも自然であり、博麗霊夢はおかしいことなど一つも言ってはいない。
ただ確かなことは、霊夢という人物はひどく自分の感情に正直であり、嫌いな者とわざわざ一緒にいたりはしないということだ。
そしてそんなことを、チルノもぼんやりとだが分かっているのもまた確かなことである。
そうして少しの間目を見開いていたチルノだったが、その後眉をひそめ、何かが口をついて出ようとし、しかし言いあぐねてまた口を閉じる。
霊夢がじっと見つめる中、顔を逸らして前方に視線を落とし、何やら難しい表情をしたと思ったら、小さく息を吐いてチルノは答えた。
「まあ、暇な時には雪かき手伝ってもいいわよ」
すると霊夢はどこか嬉しそうに穏やかな笑みを浮かべる。
「そう。よろしくね。他の妖怪共は手伝わないし、いつも一人で大変なのよ」
「あたいに任せなさい」
「頼りにしてるわよ」
と、そこでチルノは霊夢のことをじっと見つめる。
「ねえ、れーむ」
「なに?」
そしてチルノは見るからにうきうきした嬉しそうな様子で満面の笑みを浮かべた。
「冬に来たとき、雪かきの前に雪だるま作ってもいい?」
「雪だるま?」
霊夢はきょとんと目をしばたたかせた。
随分と懐かしい物だ。昔は冬になる度に雪玉を転がしていたけど、十年ほど前からだろうか、先代の博麗の巫女が死んでからは作った記憶はない。
そして今になって雪だるまが作られるという。この境内で再び。
そんな遊びがいずれ現実になるというのが何だか不思議で、唐突な既視感の中、霊夢はぽかんとしたまま少しの間ぼうっとしてしまった。
「…………?」
少しして、いけないのだろうか? とチルノがなんだか不安そうに眉を寄せ始めたのを見て、霊夢ははっと口を開く。
「別にいいわよ」
するとチルノは笑顔を戻し、興奮した様子で縁側から投げ出した素足をばたばたさせた。
「れーむも一緒に作ろうね」
「私も?」
きょとんと目を見張った霊夢に対し、チルノは即座に「うん」と頷いた。
「私が雪だるま、ねえ……」
その上自分がまた雪だるまを作るという。もう随分と長い間雪玉を転がしたことなどなかったので、まさか今の自分が雪だるまを作るなどと思ってもいなかった。
いやそもそも、折角雪かきをやらせるのだから自分は神社の中で炬燵にでも入っていようかと思っていたのだけど、外に出ていては雪かきを頼む意味がないのでは、とも思ったけどまあ、なんだろう。昔を思い出しながら久しぶりに雪だるまを作ってみるのも悪くはない。
それに、チルノから発せられるこの熱烈な期待の込められた視線からは逃れられそうにない。
「いいわよ。作りましょう」
途端、チルノは今日見せたどの笑顔よりも素敵で朗らかで純粋な笑みを咲かせた。
興奮の余り氷の羽をばたばた激しく羽ばたかせ、それがしきりに霊夢の背中をばしばし叩いているのだが気にしないでおくことにした。
「やったあ! れーむ頭ね。あたい体作るから」
「はいはい。まったく気が早いわね」
「ふんふんふ~♪」
余程機嫌が良いのか、チルノは何やら音程の外れた、お世辞にも上手いとは言えない変な歌を歌い始めた。おそらく気分に合わせて紡ぐ即興の歌なのだろう、歌詞の思いつかない部分は鼻歌で誤魔化している。
それはますます勢いを強めた無秩序な蝉の鳴き声と良い具合に交じり合い、赤と橙の中に一筋の青が加えられたように心地よいコントラストを生み出していた。
そしてそんな上機嫌のチルノの横顔を、霊夢は温和な笑みを浮かべながらぼんやりと眺め、いずれ来る冬の日について思いを馳せていた。
チルノと共に童心に帰り雪玉を転がす。
この頭の弱い氷精は神社で雪かきをするという約束をちゃんと覚えているだろうか? 子供なチルノのことだ、もしかしたらその時にはもう忘れてしまっているかもしれない。十分ありうることだ。
そしてそうだとしても構わない。
その時には自ら呼びに行ってやろう。博麗霊夢は約束を破られてそのままにしておくような人間ではないのだ。
だがいつもであれば妖怪達が勝手に神社に集まってくるのであり、この博麗霊夢がわざわざ神社に妖怪を呼びに行くなどと普通ではあり得ないことである。
氷の妖精チルノは初めてそんな“偉業”を達成するかもしれないのだが、そんなことに本人が気付いているわけもなかった。
やがて霊夢は微笑み、隣のチルノから発せられる心地よい冷気を感じながら緩く目を閉じる。
そうして目をつぶっても強い日差しからは逃れられず、強く明るい赤色が目蓋を通して霊夢の視界を照射する。
聞こえるのは蝉の鳴き声。あとはチルノの変な歌声。そしてもう一つ。
ちりーん
目蓋の裏で感じる夏の強い日差しの赤色に、この時涼しげな青色が混じった気がした。
了
抱かれてたという言葉に霊夢が別の意味に捉えたりチルノに質問されて言葉を濁したり、
一緒にスイカを食べる姿が微笑ましいですね。
チルノと霊夢の仲のよさに和む良いお話でした。
まさに幻想郷の日常
相変わらずのほのぼのした雰囲気がホントに好きです。
楽しく読ませていただきました。
作品が集まる場所でひときわ惹かれるものを創り出す、というのは一貫した自分の価値観がないとできないことだからこそ、私はあなたの幻想郷が好きなのでしょう。
あとがきにもあるように、『流れに身を任せる』ことの難しさを乗り越えて描く作品だからこそこういう奥深さが生まれるのだと思います。自分も見習いたいものですがw
長文失礼しました。
相変わらずこの霊夢さんはチルノ(と紫)に弱いなぁ
チルノに対してはやさしいお姉さん(半分失敗)、紫に対しては手のかかる妹(大体成功)って感じ
素敵な御話有難うございました!
とか考えてしまった。
我が家にもチルノが欲しいんだZE!
五回ズキューンッした
夏の暑さで危ないおじさんと化したか魔理沙w
お見事です。
チルノ「魔理沙とアリスと、あとれーむに抱かれてた」
大妖精「!?」
yamamoさんの作品を読むと心がぽかぽかする。ぽかぽか。
>万遍の笑み
満面の笑み、かな?
いやいや何を言ってるんだ俺は
情景や空気が感じられる凄く良かった。
今行ったら幻想郷の住民達に*されそうだからやめときますぁ。
こんな幻想郷も良いものですね