The moon takes up the wondrous tale,
独り、生暖かい晩夏の夜の空気にあっても、木々を吹き渡る優しい風が確かな涼しさを運んで来てくれる。魔法の森に嫋々と響く虫達の鳴き声を聞きながら、アリス・マーガトロイドは月を見上げていた。全ての光が姿を消してしまうかのような深い夜にも、月光という素晴らしい明かりが与えられているのだ。我が家のすぐ傍、自分で丁寧に手入れした椅子代わりの切り株に腰掛け、時折思い出したかのように分厚い本のページをめくって文字を追う。初めは読書をするために家の外に出て来た筈であったけれども、アリスは次第に夜の森の不思議な雰囲気に魅せられていた。いつも見慣れた景色と言ってしまえばそれまでなのだが、熱帯夜の寝苦しさに倦んだアリスには、身体の奥底にまで冷たく染み入って来るような自然の深みというものが殊更に新鮮なものに感じられるのだ。空を見上げれば木々の枝葉の向こう、薄霧にぼんやりと光る三日月が一つ、ゆるゆると流れていく雲に出たり隠されたりしながら夜の闇を照らしていた。黒く蠢く頭上の大海には無数の星達が浮かび、南の空にはまるで火星と競うように強く輝くアンタレスが見える。
「ああ、こんな夜には――」
思わず独りごち掛けた時、ひゅう、と一瞬涼しげな風を感じた。闇夜に揺れるアリスの金髪は、まるで青白い月光と溶け合うかのように踊る。ブーツの上を危うげに這っていた小蟻は、不意にその足を速めて落ち葉と雑草の影の奥へと消えていく。すぐ近くで鳴いていたコオロギの声も、何かの気配を察知したのかぴたりと止んだ。
「新鮮な血液が欲しくなるのよねえ」
「は?」
突然背後から鈴の音のように凛とした声が聞こえる。アリスの言葉を遮って響いたそれは、確かにどこかで聞いたことのあるものだ。間の抜けた声をあげて、咄嗟に後ろの暗闇を振り返るアリス。
「貴方は……」
ざわ…、と辺りの大気が揺らめいたかと思うと、無数の蝙蝠がどこからともなく現れ、キイキイという鳴き声と共に前方の空間へと集束していく。視界は一瞬蝙蝠の黒で覆い隠され、それまで目の前にしていた家の白壁も見えなくなる程だ。渦を描くような動きで規則正しく、蝙蝠の群れは次第に人の形を取り始めた。初めは手足の指先から徐々に、続いて胴体、そして顔、さらには服までもが形成され、完全な人型に組み上がったところでようやく、その表面に鮮やかな色が浮かび上がってくる。洗練されたその動きは、まるで一篇の映像作品を見ているかのごとくに思わせるのだ。アリスはそれを憮然とした表情で見つめている。
「ご機嫌良う、人形師さん。みんなお待ち兼ねのレミリア・スカーレット、ただいま参上よ」
現れたのは一人の少女。異様なまでに目立つ紅色の瞳を光らせながら、あくまで優雅に、それでいて大層わざとらしくスカートの端を摘んで頭を下げる。銀月のような美しい髪に薄桃色の帽子を被り、小柄な身体も同じ色のゆったりした衣服に覆われていた。そしてその背中には飛膜を持った蝙蝠の翼が生えていて、彼女が人ならぬ存在であることをはっきりと示している。
「……誰も呼んでないんだけどね」
アリスはジト目でレミリアを睨み、力抜けた様子で本に視線を戻す。取り付く島も無し、と言った感じである。
「つれないわねえ。久々に、こんなに綺麗な夜の底で、再び出会ったというのに」
八重歯が覗く口の端には白々しい笑みを浮かべ、レミリアは浮くような足取りでアリスの方へ近付いて来た。足元では踏みしだかれた落ち葉が、身をちぎりながらかさかさと跳ねる。
「だから私は嬉しくもないんだってば」
「あらあら、良いお酒もおつまみも持って来たのに」
よっこいせ、とレミリアは図々しくもアリスの隣に腰を下ろす。切り株は三四人は楽に座れそうなくらい大きいものだったので、吸血鬼が一匹増えたところで特に狭いということもなかったが、アリスは露骨に迷惑そうな顔をレミリアに向けるのだった。
「……本当に血なんてことはないんでしょうね」
「まさか、ただの冗談だよ、冗談。おーい、咲夜ぁ!」
「は、お嬢さま」
レミリアが指を虚空にパチンと鳴らすと、その隣に音も無く一人の少女が現れた。紅魔館にてレミリアに仕える人間のメイド、彼女は名前を十六夜咲夜という。使用人然とした藍色のエプロンドレスに身を包み、主の傍の闇に溶け込むように立っている。手に提げた大きな籠には幾本かの酒やつまみが入れてあるようだ。切れ長の瞳に理知的な光を点し、物腰柔らかにアリスへと会釈する。
「貴方もいたのね……今まで何処にいたのよ」
「木の上、ですわ」
「はあ……意味が分からないわ」
顔を上げたものの先程にも増して気抜けした表情のアリスだった。本を膝の上に閉じ、溜息をついて雑草に両の脚を投げ出す。咲夜は切り株には座ろうとせず、レミリアに酒瓶入りの籠を手渡していた。
「貴方も座ったら?よいせ、と!」
身体を起こしたアリスが片腕を上げるのとほぼ同時に家の扉が静かに開き、黒檀の椅子を両手に吊り下げた西洋人形がふよふよと出て来た。その浮遊感からは想像もつかない程の高速で流れるように移動し、そのまま咲夜の前に椅子を置いて家の中へ再び帰っていく。僅かに数秒の間の、全く無駄の無い動きだった。
「見事なものね。さすがは人形遣い、といったところかしら?」
「別に、大した事じゃないわ。ただ、あまり立ってられても面倒だっただけよ」
「だそうよ、咲夜。座るといいわ」
椅子をさらに自分の隣へ引き寄せ、レミリアはその座面をぽんぽんと叩いて咲夜を誘う。
「分かりました。では遠慮無く」
半分くらい姿を隠した月を背に、咲夜は軽くアリスに目礼をして席についた。深くは腰掛けずにぴんと背筋を張り、その身体は正確にレミリアの方へ向ける。きぃ…とほんの少しだけ軋んだ椅子の音は、近くの草むらから響くクサキリの鳴き声に消えていく。
「……で、本当は何をしに来たの?」
「貴方と月を見ながら楽しくお喋りする為に決まってるわ。当たり前じゃない」
「何が当たり前なんだか。大体、月を見て話すだけなら貴方のところの知識人さんとか門番さんとか、暇そうな奴らは一杯いるじゃないの。わざわざここまで来る理由が分からないわ」
胸元のリボンを弄りながらアリスは言う。レミリアは既に割と嬉しそうな顔をしてワインを選んでいるようだった。
「理由?そうねー、それは、あの……まあ、私の勘みたいなものかしら。そもそもパチェは新しく手に入れた魔術書だかに夢中だし、美鈴は……門番だし、それに他の奴らはたいてい眠っているわ……あ、これが良いかも。ほい、咲夜」
「はい、お嬢さま……って、本当に飲むんですか?コレ」
「気にしない気にしない。飲むべき時に飲まなくちゃあ、一体いつ空けると言うの。さっさと開けちゃいなさいな……あ、勿論貴方も飲むのよ」
レミリアは掴み出したワインの一本を咲夜に手渡す。古めかしいラベルはほぼ剥がれ落ちていてその銘柄は分からないが、月光の下では真っ黒に見える程の赤ワインだった。肩の張ったようなボトルの形状から、もしかしてボルドーのワインかな、とアリスは思う。それを受け取った咲夜はボロボロのコルク栓を見て苦笑いを浮かべながらも、ポケットから銀色のソムリエナイフを取り出して平らな切り株の上にボトルを立てた。
「はあ、もう好きにすれば良いわ。でも、だからと言ってどうしてピンポイントで私なのよ」
「だから言ってるじゃない、私の勘よ、勘。それよりこいつでも食べたら?ほら、咲夜の手作りサンド」
そう言ってアリスに手の平サイズのサンドイッチを押し付ける。見た目に心地良い焦げ目がついていて、なぜだかまだほんのりとした温かみが残っているのを感じる。トマトの赤とレタスの緑は僅かな光の下でも鮮やかにアリスの目に飛び込んで来た。くぅ、とひとりでに腹が鳴ってしまいそうになるのを、アリスは必死に我慢する。
「私が食べても良いの?」
「勿論!その為に持って来たのに」
「……じゃ、遠慮無く頂くわ」
額に汗してコルクと格闘する咲夜を横目に見つめながら、初めは少し控え目にかじってみた。瞬間、サクッと子気味良い音が響いて、新鮮な野菜の瑞々しさが香ばしいトーストの香と共にアリスの口内を満たしていく。程好い塩味のベーコンは量も適度で、レタスの食感やトマトの酸味に対して素晴らしいアクセントになっていた。調理技術や見た目云々以前に、素材自体の質の高さもはっきり窺える。じっくり味わうように普段より時間を掛けて咀嚼した後、感慨を込めてゆっくりと嚥下する。そこからは時を置かず二口目、三口目と続けながら、アリスは自らの腹がえも言われぬ暖かみに満たされていくのを感じていた。
「……美味しい」
そう、述べる他に術を持たない。空きっ腹にコイツは強烈に――効いた。
「でしょー、咲夜のサンドイッチは世界一なのよ。ねえ、咲夜」
レミリアはふごふご言いながら既に二個目を頬張っている。バスケットの中にはまだまだ大量のサンドイッチがひしめいていて、とてもではないが三人で食べ切れるものではない。
「ありがとうございます……とは言っても、野菜の方は美鈴が育てたものですが」
「へえ、意外ね……ただの門番かと思っていたけど」
アリスは紅魔館の門番、紅美鈴の事を頭に浮かべてみた。彼女とは何度か話をした事もあったが、正直農家顔負けの才能があるなどとは考えてもみない。今度何か育ててもらおうかしら、と苦笑混じりに思うアリスだった。
「まあ、美鈴は結構多才ですよ。この間は妹様に1/1サイズの木彫り熊を作っていましたしね。その迫力と言ったらそりゃもう凄いのなんの、お嬢さまもあれには大分」
「咲夜!私が、何ですって?そんな事を話すのはちゃっちゃとその栓を抜いてしまってからになさい」
「いえ、お嬢さま、別に何でも……コルクの方はそろそろですよ……よし!……ふぅ」
二人と話しをながらも慎重にソムリエナイフを操り、今にも壊れてしまいそうなコルクを無事に抜き取る咲夜。ぽん、とリズミカルな音が響き、たちまち瓶内から懐かしい空気が流れ出す。咲夜が抜いたコルクは外気に触れてすぐに崩れ落ち、木屑と化して落ち葉に爆ぜた。これは一体何十年前のものだろう、と訝るアリス。見ている間にも咲夜は慣れた手つきでデカンタにワインを移していく。切り株の上に三本のグラスを並べ、まずは一本目に音も無く静かにワインを注ぐ。その一連の動きは実に見事なもので、ワインには割と五月蝿いアリスも思わず嘆息を漏らしてしまう程だ。泡一つ起っていないグラスには真紅――そう称するには些か年月を感じさせる茜色が縁に現れているが――の液体が美しく月に透き通るようにたゆたっている。
「流石ね、咲夜。どう、飲めそうかしら?」
「はい、では……」
咲夜は緊張の面持ちで頷くと、軽く回してからグラスを持ち上げる。月明かりに透かして色を見、口元に運んで香を嗅ぐ。咲夜はしばらくワインの赤を見つめていたが特に問題は無かったらしく、ゆっくりと自らの口腔へ流し込んでいく。微量を口に含んで味を確かめる咲夜が目に見えて表情を変える事は無い。しかし、アリスは彼女の瞳が一瞬だけ、名状し難い至福に揺れたのを見逃さなかった。
「……ふう、大丈夫みたいです。いや、これはなかなかですよ」
咲夜は残る二本のグラスにも手早くワインを注ぎ終わり、一本ずつレミリアとアリスへと手渡す。ふふ、と笑いを漏らす咲夜の頬には一筋の汗の雫が伝っていた。
「ありがと、咲夜。じゃ、頂きましょうか」
「え、ええ」
手にした杯を顔の前まで上げて乾杯の姿勢をとるレミリア。ワインを注ぎ足した咲夜も後に続く。どうして今こんな事をしているのだろうと言う思いがふとアリスの脳裡を掠めたが、眼前に待つ美酒を拒む事は出来ず、結局はアリスもグラスを高く掲げた。月に透かしても紅紫の向こうは見えず、ただオレンジ色のエッジのみが透明なリングのように輝いている。
「かんぱーい!」
レミリアの掛け声が元気良く響く。同時に咲夜とレミリアは、待ち焦がれたとでも言わんばかりにくいっとグラスの中身を傾けた。
「んくっ……んくっ……ぷはあー、やっぱり美味しいわー」
「なんでそんなビールか何かみたいな飲み方するのよ……」
「普通の飲み方はそれこそ何千と繰り返しやってきたわ……だからたまにはこういう飲み方しても良いじゃない、美味しいんだから。景色も良いし、最高だと思うわ」
「ふふ、流石はお嬢さまですわ」
「ははは……」
安酒かビールでも飲むように喉を鳴らして豪快にワインを飲み干すレミリアに苦笑しつつ、アリスはゆっくりとグラスに口をつけた。グラス内に溜まったワインの香は、まるで薔薇の花束や苺、果ては杏の実でも嗅いでいるかのごとく蠱惑的で豊かな姿をもってアリスの鼻腔を優しく撫でる。気付けば半ば誘われるように自然と、真紅の液体を口に含んでいた。ごくごく滑らかにそのワインは口内の皮膚と馴染み、たちまち艶やかな香と円熟した果実味が、シルクのように甘くまろやかな酸味と共にアリスの感覚の中へ広がっていく。まるで飲んだその瞬間から不思議な安心感に身体を包まれているようだ。口の中で踊る幻想的な香と味を惜しみつつも、ワインを喉の奥へ緩やかに流し込めば、とても華やかで上品な暖かみが、舞うようなしなやかさをもって食道を通過していくのがしっかりと感じられる。
「はぁ……」
知らず官能的な吐息を漏らすアリス。舌の上には甘いタンニンの風味が揺るぎなく残り、しばらくはまだ口にワインを含んでいるような錯覚さえ覚えるのだ。最初から最後まで粗野な凹凸など欠片も見せず、豊かで深みのある女性的な味わいは、まさに優雅としか表現しようが無い。
「美味しいわ……」
そんな在り来りの言葉では陳腐に感じられる程に、そのワインは素晴らしいものだった。しかしアリスは、やはりそれ以外に語る言葉を持たないのだ。
「当ったり前よ、これは確か……マルゴーだったっけ。ねえ、咲夜?」
「はい、私の見立てではおそらく。これ程のものが地下のゴミ置場……いえ、倉庫に放置されているなんて予想だにしませんでしたわ。しかも他にも沢山」
「ああ、こっちに来る時に大分適当に放り込んだからね。確か半世紀は前のやつだと思うけど……ん?ちょっとアリス、どうして震えてるのよ?」
「どうしてって……こんなに凄いものを飲んだのは本当に久々だからに決まってるじゃない」
アリスはぶるぶると自分の身体が興奮に震えるのを感じていた。美味しいサンドイッチに舌鼓を打ち、このワインを飲んだ今となっては、先程に感じていた不安や空虚感みたいなものも、最早瑣末な感情でしかない。
「あはは、喜んで貰えたなら私も言う事無いわ。ま、ワインは他にも幾つかあるよ、ディケムとかコトナリとか」
籠の中からさらに何本かのワインを示すレミリアは喜色満面、心底嬉しそうな顔をしている。まるでそれが最初から当たり前であるかのように。
(吸血鬼の癖に不思議な奴。でも――)
――だったら私も楽しもうかな、とアリスは柄にもなく思うのだった。おもむろにグラスを持った片手を空に掲げて目を閉じる。
(Alu Mani Alu)
心の真ん中で唱える短い呪文は一度、風のようにアリスの脳裡に吹き荒れ、やがては小さな光となって空の暗黒に吸い込まれていく。アリスには次の映像がはっきり見えていた。レミリア、咲夜、そして何よりアリス自身の姿が。僅かな微笑みが口の端に浮かぶ。
「?……どうかされましたか?」
「まあまあ咲夜、黙って見てなさい。結構面白いものが見れるかもよ」
空気が変わり、肌を触る風は動きを止めた。突然黙り込んで目を閉じたアリスに心配そうな視線を送る咲夜を片手で遮るレミリア。アリスの挙動を愉快げに注視しながら、早くも十個目のサンドイッチをひょいと摘む。何も考えず口の中に放り込み、その上噛まないで飲み込もうとした揚句、喉に詰まらせてごほごほやっている。そんなレミリアが口直しの為にと新たな白ワインに手を伸ばした時――
しゃらり。月の下、紅い光の粒子が輝き満ちる。
「おお……」
渇きも忘れて動きを止め、レミリアは目の前の光景に嘆息する。手にしたグラスを優雅に回転させ、アリスが残ったワインを辺りに舞い散らせたのだ。そしてその滴はほとばしる鮮血の飛沫のごとく目の前の空中を満たし、地に落下することもなく銀光の中を浮遊する。それはさながら自ら発光するルビーの欠片のようで、冷たく透き通る鮮やかな赤――それも一色ではなく、丹、朱、紅、緋、紫、菫、藤や唐棣まで、見る角度、方向、距離、月や星の僅かな光の加減で多種多様様々にその色を変えていく――が魔術的な美しさを伴って辺りの空間を満たしていた。やがてそれらはブラックホールに吸引される星々のごとく徐々に一点に集束し、最後には紅色の球状となって、空を、月を、星を、雲を、鳥を、地を、木を、草を、虫を、そしてその場に座る三人の姿を死角の無い鏡のように映し出す。
「綺麗ですね……」
そう咲夜が呟き、レミリアが再度溜息を漏らした時、不意にアリスの閉じられた碧眼がゆっくりと見開かれた。次の瞬間、何の前触れも無く一陣の風が吹き、かつてワインだったものを一瞬きの内に攫っていく。じゅっと何かが蒸発するような音がして、それは深紅の煙と共に暗黒の空気の中に溶けていった。後に残るものは何一つ無く、素知らぬ様子で再び時は流れ始める。どこかの樹上では松虫が鳴き、遠くからは星空へ飛ぶ夜鷹の声が聞こえてきた。
「……ふう」
「いや、凄いね。久し振りに貴方が魔女に見えたわ」
ぱちぱちと拍手するレミリアは上機嫌で、やっぱり嬉しそうな顔をしてアリスにワインを薦めてくるのだった。少し緊張させていた頬が自然と緩む。
「特に何かした訳じゃあないけどね。ま、ちょろっと宴会芸の一つでもやろうかと思っただけよ。たまには、ね」
「宴会芸ねー、私はネタなんて持ってないから羨ましいわー……あ、そうだ、咲夜、貴方何か芸やってよ。アリスに紅魔館の芸レベルの高さを教えて差し上げて」
「はぁ、構いませんが」
「あ、因みにナイフと時間止めるのは禁止ね」
「え?」
固まる咲夜。レミリアはそれを見てニヤニヤしながら空になったアリスのグラスに白ワインを注ぎ入れる。それは言うまでもなく月光に透けて、薄い黄金色の液体がぽっかりと闇夜に浮かんだ。
「ふふ」
アリスは手にしたグラスを見つめる。綺麗な色。液面で揺れる月をぼんやりと見ながら、ゆっくりと口に運ぶ。これもきっと美味しい筈だ。いや、今飲んで美味しく感じない訳が無いか、とアリスは思う。
「ごきゅ……ごきゅ……ぷは、やっぱり美味しいわね」
今度は香も、味も、大して考えずに、ただ一気に飲み干した。熱いアルコールが喉を通過し、胃に落ちて行くのが分かる。味わって飲むよりも得られる情報は少ないけれど、アリスは今、はっきりとその美味しさを噛み締めていた。身体が暖かくて、心地良いのだ。これが酔いかな、と苦笑して、アリスは頭を掻く。
「見事な飲みっぷりだわ。ね、たまにはそんなのも良いでしょう?」
「ふふ、確かに」
グラスを置いて、立ち上がる。かたんと乾いた音が響く。
「あら、どこへ?」
サンドイッチをかじっていた顔を上げて咲夜が尋ねる。
「ああ、うちにも幾つか良いワインがあるから出そうと思って。あとスコーンでも持って来てあげるわ。あ、貴方の隠し芸はそれからね」
「……」
「ははっ、期待してるわよ~」
バンバンと咲夜の背中を叩くレミリアを尻目に、アリスは自分の足で家の扉まで歩いていく。ドアノブに手が触れたところで少し立ち止まり、髪を靡かせてアリスは振り向いた。
「おーい、レミリア!もう一度聞くけど、どうして私のところに来たの?」
「ああ、だから勘だって!私には分かってたもの、貴方となら愉しく月が見れるって。貴方にもちゃんと見えてたでしょう」
ニヤリと笑って月を見上げるレミリア。瞳には相変わらずの陽気な光が揺れている。つられてアリスも視線を月に遣る。三日月はまるで死神の大鎌のように、夜空の上で冷たく美しく輝いていた。気付けば既に霧は晴れ、月にかかっていたちぎれ雲もどこかへ消えている。
「そうね」
呟いて、笑い返す。くるりと身を翻し、アリスは急ぎ足で家の中へ入って行く。顔を綻ばせながら懐の銀時計を見て思う。月夜はまだ終わらないな、と。
――こんな夜には、誰かとお酒でも飲みたいわねえ
~END~
独り、生暖かい晩夏の夜の空気にあっても、木々を吹き渡る優しい風が確かな涼しさを運んで来てくれる。魔法の森に嫋々と響く虫達の鳴き声を聞きながら、アリス・マーガトロイドは月を見上げていた。全ての光が姿を消してしまうかのような深い夜にも、月光という素晴らしい明かりが与えられているのだ。我が家のすぐ傍、自分で丁寧に手入れした椅子代わりの切り株に腰掛け、時折思い出したかのように分厚い本のページをめくって文字を追う。初めは読書をするために家の外に出て来た筈であったけれども、アリスは次第に夜の森の不思議な雰囲気に魅せられていた。いつも見慣れた景色と言ってしまえばそれまでなのだが、熱帯夜の寝苦しさに倦んだアリスには、身体の奥底にまで冷たく染み入って来るような自然の深みというものが殊更に新鮮なものに感じられるのだ。空を見上げれば木々の枝葉の向こう、薄霧にぼんやりと光る三日月が一つ、ゆるゆると流れていく雲に出たり隠されたりしながら夜の闇を照らしていた。黒く蠢く頭上の大海には無数の星達が浮かび、南の空にはまるで火星と競うように強く輝くアンタレスが見える。
「ああ、こんな夜には――」
思わず独りごち掛けた時、ひゅう、と一瞬涼しげな風を感じた。闇夜に揺れるアリスの金髪は、まるで青白い月光と溶け合うかのように踊る。ブーツの上を危うげに這っていた小蟻は、不意にその足を速めて落ち葉と雑草の影の奥へと消えていく。すぐ近くで鳴いていたコオロギの声も、何かの気配を察知したのかぴたりと止んだ。
「新鮮な血液が欲しくなるのよねえ」
「は?」
突然背後から鈴の音のように凛とした声が聞こえる。アリスの言葉を遮って響いたそれは、確かにどこかで聞いたことのあるものだ。間の抜けた声をあげて、咄嗟に後ろの暗闇を振り返るアリス。
「貴方は……」
ざわ…、と辺りの大気が揺らめいたかと思うと、無数の蝙蝠がどこからともなく現れ、キイキイという鳴き声と共に前方の空間へと集束していく。視界は一瞬蝙蝠の黒で覆い隠され、それまで目の前にしていた家の白壁も見えなくなる程だ。渦を描くような動きで規則正しく、蝙蝠の群れは次第に人の形を取り始めた。初めは手足の指先から徐々に、続いて胴体、そして顔、さらには服までもが形成され、完全な人型に組み上がったところでようやく、その表面に鮮やかな色が浮かび上がってくる。洗練されたその動きは、まるで一篇の映像作品を見ているかのごとくに思わせるのだ。アリスはそれを憮然とした表情で見つめている。
「ご機嫌良う、人形師さん。みんなお待ち兼ねのレミリア・スカーレット、ただいま参上よ」
現れたのは一人の少女。異様なまでに目立つ紅色の瞳を光らせながら、あくまで優雅に、それでいて大層わざとらしくスカートの端を摘んで頭を下げる。銀月のような美しい髪に薄桃色の帽子を被り、小柄な身体も同じ色のゆったりした衣服に覆われていた。そしてその背中には飛膜を持った蝙蝠の翼が生えていて、彼女が人ならぬ存在であることをはっきりと示している。
「……誰も呼んでないんだけどね」
アリスはジト目でレミリアを睨み、力抜けた様子で本に視線を戻す。取り付く島も無し、と言った感じである。
「つれないわねえ。久々に、こんなに綺麗な夜の底で、再び出会ったというのに」
八重歯が覗く口の端には白々しい笑みを浮かべ、レミリアは浮くような足取りでアリスの方へ近付いて来た。足元では踏みしだかれた落ち葉が、身をちぎりながらかさかさと跳ねる。
「だから私は嬉しくもないんだってば」
「あらあら、良いお酒もおつまみも持って来たのに」
よっこいせ、とレミリアは図々しくもアリスの隣に腰を下ろす。切り株は三四人は楽に座れそうなくらい大きいものだったので、吸血鬼が一匹増えたところで特に狭いということもなかったが、アリスは露骨に迷惑そうな顔をレミリアに向けるのだった。
「……本当に血なんてことはないんでしょうね」
「まさか、ただの冗談だよ、冗談。おーい、咲夜ぁ!」
「は、お嬢さま」
レミリアが指を虚空にパチンと鳴らすと、その隣に音も無く一人の少女が現れた。紅魔館にてレミリアに仕える人間のメイド、彼女は名前を十六夜咲夜という。使用人然とした藍色のエプロンドレスに身を包み、主の傍の闇に溶け込むように立っている。手に提げた大きな籠には幾本かの酒やつまみが入れてあるようだ。切れ長の瞳に理知的な光を点し、物腰柔らかにアリスへと会釈する。
「貴方もいたのね……今まで何処にいたのよ」
「木の上、ですわ」
「はあ……意味が分からないわ」
顔を上げたものの先程にも増して気抜けした表情のアリスだった。本を膝の上に閉じ、溜息をついて雑草に両の脚を投げ出す。咲夜は切り株には座ろうとせず、レミリアに酒瓶入りの籠を手渡していた。
「貴方も座ったら?よいせ、と!」
身体を起こしたアリスが片腕を上げるのとほぼ同時に家の扉が静かに開き、黒檀の椅子を両手に吊り下げた西洋人形がふよふよと出て来た。その浮遊感からは想像もつかない程の高速で流れるように移動し、そのまま咲夜の前に椅子を置いて家の中へ再び帰っていく。僅かに数秒の間の、全く無駄の無い動きだった。
「見事なものね。さすがは人形遣い、といったところかしら?」
「別に、大した事じゃないわ。ただ、あまり立ってられても面倒だっただけよ」
「だそうよ、咲夜。座るといいわ」
椅子をさらに自分の隣へ引き寄せ、レミリアはその座面をぽんぽんと叩いて咲夜を誘う。
「分かりました。では遠慮無く」
半分くらい姿を隠した月を背に、咲夜は軽くアリスに目礼をして席についた。深くは腰掛けずにぴんと背筋を張り、その身体は正確にレミリアの方へ向ける。きぃ…とほんの少しだけ軋んだ椅子の音は、近くの草むらから響くクサキリの鳴き声に消えていく。
「……で、本当は何をしに来たの?」
「貴方と月を見ながら楽しくお喋りする為に決まってるわ。当たり前じゃない」
「何が当たり前なんだか。大体、月を見て話すだけなら貴方のところの知識人さんとか門番さんとか、暇そうな奴らは一杯いるじゃないの。わざわざここまで来る理由が分からないわ」
胸元のリボンを弄りながらアリスは言う。レミリアは既に割と嬉しそうな顔をしてワインを選んでいるようだった。
「理由?そうねー、それは、あの……まあ、私の勘みたいなものかしら。そもそもパチェは新しく手に入れた魔術書だかに夢中だし、美鈴は……門番だし、それに他の奴らはたいてい眠っているわ……あ、これが良いかも。ほい、咲夜」
「はい、お嬢さま……って、本当に飲むんですか?コレ」
「気にしない気にしない。飲むべき時に飲まなくちゃあ、一体いつ空けると言うの。さっさと開けちゃいなさいな……あ、勿論貴方も飲むのよ」
レミリアは掴み出したワインの一本を咲夜に手渡す。古めかしいラベルはほぼ剥がれ落ちていてその銘柄は分からないが、月光の下では真っ黒に見える程の赤ワインだった。肩の張ったようなボトルの形状から、もしかしてボルドーのワインかな、とアリスは思う。それを受け取った咲夜はボロボロのコルク栓を見て苦笑いを浮かべながらも、ポケットから銀色のソムリエナイフを取り出して平らな切り株の上にボトルを立てた。
「はあ、もう好きにすれば良いわ。でも、だからと言ってどうしてピンポイントで私なのよ」
「だから言ってるじゃない、私の勘よ、勘。それよりこいつでも食べたら?ほら、咲夜の手作りサンド」
そう言ってアリスに手の平サイズのサンドイッチを押し付ける。見た目に心地良い焦げ目がついていて、なぜだかまだほんのりとした温かみが残っているのを感じる。トマトの赤とレタスの緑は僅かな光の下でも鮮やかにアリスの目に飛び込んで来た。くぅ、とひとりでに腹が鳴ってしまいそうになるのを、アリスは必死に我慢する。
「私が食べても良いの?」
「勿論!その為に持って来たのに」
「……じゃ、遠慮無く頂くわ」
額に汗してコルクと格闘する咲夜を横目に見つめながら、初めは少し控え目にかじってみた。瞬間、サクッと子気味良い音が響いて、新鮮な野菜の瑞々しさが香ばしいトーストの香と共にアリスの口内を満たしていく。程好い塩味のベーコンは量も適度で、レタスの食感やトマトの酸味に対して素晴らしいアクセントになっていた。調理技術や見た目云々以前に、素材自体の質の高さもはっきり窺える。じっくり味わうように普段より時間を掛けて咀嚼した後、感慨を込めてゆっくりと嚥下する。そこからは時を置かず二口目、三口目と続けながら、アリスは自らの腹がえも言われぬ暖かみに満たされていくのを感じていた。
「……美味しい」
そう、述べる他に術を持たない。空きっ腹にコイツは強烈に――効いた。
「でしょー、咲夜のサンドイッチは世界一なのよ。ねえ、咲夜」
レミリアはふごふご言いながら既に二個目を頬張っている。バスケットの中にはまだまだ大量のサンドイッチがひしめいていて、とてもではないが三人で食べ切れるものではない。
「ありがとうございます……とは言っても、野菜の方は美鈴が育てたものですが」
「へえ、意外ね……ただの門番かと思っていたけど」
アリスは紅魔館の門番、紅美鈴の事を頭に浮かべてみた。彼女とは何度か話をした事もあったが、正直農家顔負けの才能があるなどとは考えてもみない。今度何か育ててもらおうかしら、と苦笑混じりに思うアリスだった。
「まあ、美鈴は結構多才ですよ。この間は妹様に1/1サイズの木彫り熊を作っていましたしね。その迫力と言ったらそりゃもう凄いのなんの、お嬢さまもあれには大分」
「咲夜!私が、何ですって?そんな事を話すのはちゃっちゃとその栓を抜いてしまってからになさい」
「いえ、お嬢さま、別に何でも……コルクの方はそろそろですよ……よし!……ふぅ」
二人と話しをながらも慎重にソムリエナイフを操り、今にも壊れてしまいそうなコルクを無事に抜き取る咲夜。ぽん、とリズミカルな音が響き、たちまち瓶内から懐かしい空気が流れ出す。咲夜が抜いたコルクは外気に触れてすぐに崩れ落ち、木屑と化して落ち葉に爆ぜた。これは一体何十年前のものだろう、と訝るアリス。見ている間にも咲夜は慣れた手つきでデカンタにワインを移していく。切り株の上に三本のグラスを並べ、まずは一本目に音も無く静かにワインを注ぐ。その一連の動きは実に見事なもので、ワインには割と五月蝿いアリスも思わず嘆息を漏らしてしまう程だ。泡一つ起っていないグラスには真紅――そう称するには些か年月を感じさせる茜色が縁に現れているが――の液体が美しく月に透き通るようにたゆたっている。
「流石ね、咲夜。どう、飲めそうかしら?」
「はい、では……」
咲夜は緊張の面持ちで頷くと、軽く回してからグラスを持ち上げる。月明かりに透かして色を見、口元に運んで香を嗅ぐ。咲夜はしばらくワインの赤を見つめていたが特に問題は無かったらしく、ゆっくりと自らの口腔へ流し込んでいく。微量を口に含んで味を確かめる咲夜が目に見えて表情を変える事は無い。しかし、アリスは彼女の瞳が一瞬だけ、名状し難い至福に揺れたのを見逃さなかった。
「……ふう、大丈夫みたいです。いや、これはなかなかですよ」
咲夜は残る二本のグラスにも手早くワインを注ぎ終わり、一本ずつレミリアとアリスへと手渡す。ふふ、と笑いを漏らす咲夜の頬には一筋の汗の雫が伝っていた。
「ありがと、咲夜。じゃ、頂きましょうか」
「え、ええ」
手にした杯を顔の前まで上げて乾杯の姿勢をとるレミリア。ワインを注ぎ足した咲夜も後に続く。どうして今こんな事をしているのだろうと言う思いがふとアリスの脳裡を掠めたが、眼前に待つ美酒を拒む事は出来ず、結局はアリスもグラスを高く掲げた。月に透かしても紅紫の向こうは見えず、ただオレンジ色のエッジのみが透明なリングのように輝いている。
「かんぱーい!」
レミリアの掛け声が元気良く響く。同時に咲夜とレミリアは、待ち焦がれたとでも言わんばかりにくいっとグラスの中身を傾けた。
「んくっ……んくっ……ぷはあー、やっぱり美味しいわー」
「なんでそんなビールか何かみたいな飲み方するのよ……」
「普通の飲み方はそれこそ何千と繰り返しやってきたわ……だからたまにはこういう飲み方しても良いじゃない、美味しいんだから。景色も良いし、最高だと思うわ」
「ふふ、流石はお嬢さまですわ」
「ははは……」
安酒かビールでも飲むように喉を鳴らして豪快にワインを飲み干すレミリアに苦笑しつつ、アリスはゆっくりとグラスに口をつけた。グラス内に溜まったワインの香は、まるで薔薇の花束や苺、果ては杏の実でも嗅いでいるかのごとく蠱惑的で豊かな姿をもってアリスの鼻腔を優しく撫でる。気付けば半ば誘われるように自然と、真紅の液体を口に含んでいた。ごくごく滑らかにそのワインは口内の皮膚と馴染み、たちまち艶やかな香と円熟した果実味が、シルクのように甘くまろやかな酸味と共にアリスの感覚の中へ広がっていく。まるで飲んだその瞬間から不思議な安心感に身体を包まれているようだ。口の中で踊る幻想的な香と味を惜しみつつも、ワインを喉の奥へ緩やかに流し込めば、とても華やかで上品な暖かみが、舞うようなしなやかさをもって食道を通過していくのがしっかりと感じられる。
「はぁ……」
知らず官能的な吐息を漏らすアリス。舌の上には甘いタンニンの風味が揺るぎなく残り、しばらくはまだ口にワインを含んでいるような錯覚さえ覚えるのだ。最初から最後まで粗野な凹凸など欠片も見せず、豊かで深みのある女性的な味わいは、まさに優雅としか表現しようが無い。
「美味しいわ……」
そんな在り来りの言葉では陳腐に感じられる程に、そのワインは素晴らしいものだった。しかしアリスは、やはりそれ以外に語る言葉を持たないのだ。
「当ったり前よ、これは確か……マルゴーだったっけ。ねえ、咲夜?」
「はい、私の見立てではおそらく。これ程のものが地下のゴミ置場……いえ、倉庫に放置されているなんて予想だにしませんでしたわ。しかも他にも沢山」
「ああ、こっちに来る時に大分適当に放り込んだからね。確か半世紀は前のやつだと思うけど……ん?ちょっとアリス、どうして震えてるのよ?」
「どうしてって……こんなに凄いものを飲んだのは本当に久々だからに決まってるじゃない」
アリスはぶるぶると自分の身体が興奮に震えるのを感じていた。美味しいサンドイッチに舌鼓を打ち、このワインを飲んだ今となっては、先程に感じていた不安や空虚感みたいなものも、最早瑣末な感情でしかない。
「あはは、喜んで貰えたなら私も言う事無いわ。ま、ワインは他にも幾つかあるよ、ディケムとかコトナリとか」
籠の中からさらに何本かのワインを示すレミリアは喜色満面、心底嬉しそうな顔をしている。まるでそれが最初から当たり前であるかのように。
(吸血鬼の癖に不思議な奴。でも――)
――だったら私も楽しもうかな、とアリスは柄にもなく思うのだった。おもむろにグラスを持った片手を空に掲げて目を閉じる。
(Alu Mani Alu)
心の真ん中で唱える短い呪文は一度、風のようにアリスの脳裡に吹き荒れ、やがては小さな光となって空の暗黒に吸い込まれていく。アリスには次の映像がはっきり見えていた。レミリア、咲夜、そして何よりアリス自身の姿が。僅かな微笑みが口の端に浮かぶ。
「?……どうかされましたか?」
「まあまあ咲夜、黙って見てなさい。結構面白いものが見れるかもよ」
空気が変わり、肌を触る風は動きを止めた。突然黙り込んで目を閉じたアリスに心配そうな視線を送る咲夜を片手で遮るレミリア。アリスの挙動を愉快げに注視しながら、早くも十個目のサンドイッチをひょいと摘む。何も考えず口の中に放り込み、その上噛まないで飲み込もうとした揚句、喉に詰まらせてごほごほやっている。そんなレミリアが口直しの為にと新たな白ワインに手を伸ばした時――
しゃらり。月の下、紅い光の粒子が輝き満ちる。
「おお……」
渇きも忘れて動きを止め、レミリアは目の前の光景に嘆息する。手にしたグラスを優雅に回転させ、アリスが残ったワインを辺りに舞い散らせたのだ。そしてその滴はほとばしる鮮血の飛沫のごとく目の前の空中を満たし、地に落下することもなく銀光の中を浮遊する。それはさながら自ら発光するルビーの欠片のようで、冷たく透き通る鮮やかな赤――それも一色ではなく、丹、朱、紅、緋、紫、菫、藤や唐棣まで、見る角度、方向、距離、月や星の僅かな光の加減で多種多様様々にその色を変えていく――が魔術的な美しさを伴って辺りの空間を満たしていた。やがてそれらはブラックホールに吸引される星々のごとく徐々に一点に集束し、最後には紅色の球状となって、空を、月を、星を、雲を、鳥を、地を、木を、草を、虫を、そしてその場に座る三人の姿を死角の無い鏡のように映し出す。
「綺麗ですね……」
そう咲夜が呟き、レミリアが再度溜息を漏らした時、不意にアリスの閉じられた碧眼がゆっくりと見開かれた。次の瞬間、何の前触れも無く一陣の風が吹き、かつてワインだったものを一瞬きの内に攫っていく。じゅっと何かが蒸発するような音がして、それは深紅の煙と共に暗黒の空気の中に溶けていった。後に残るものは何一つ無く、素知らぬ様子で再び時は流れ始める。どこかの樹上では松虫が鳴き、遠くからは星空へ飛ぶ夜鷹の声が聞こえてきた。
「……ふう」
「いや、凄いね。久し振りに貴方が魔女に見えたわ」
ぱちぱちと拍手するレミリアは上機嫌で、やっぱり嬉しそうな顔をしてアリスにワインを薦めてくるのだった。少し緊張させていた頬が自然と緩む。
「特に何かした訳じゃあないけどね。ま、ちょろっと宴会芸の一つでもやろうかと思っただけよ。たまには、ね」
「宴会芸ねー、私はネタなんて持ってないから羨ましいわー……あ、そうだ、咲夜、貴方何か芸やってよ。アリスに紅魔館の芸レベルの高さを教えて差し上げて」
「はぁ、構いませんが」
「あ、因みにナイフと時間止めるのは禁止ね」
「え?」
固まる咲夜。レミリアはそれを見てニヤニヤしながら空になったアリスのグラスに白ワインを注ぎ入れる。それは言うまでもなく月光に透けて、薄い黄金色の液体がぽっかりと闇夜に浮かんだ。
「ふふ」
アリスは手にしたグラスを見つめる。綺麗な色。液面で揺れる月をぼんやりと見ながら、ゆっくりと口に運ぶ。これもきっと美味しい筈だ。いや、今飲んで美味しく感じない訳が無いか、とアリスは思う。
「ごきゅ……ごきゅ……ぷは、やっぱり美味しいわね」
今度は香も、味も、大して考えずに、ただ一気に飲み干した。熱いアルコールが喉を通過し、胃に落ちて行くのが分かる。味わって飲むよりも得られる情報は少ないけれど、アリスは今、はっきりとその美味しさを噛み締めていた。身体が暖かくて、心地良いのだ。これが酔いかな、と苦笑して、アリスは頭を掻く。
「見事な飲みっぷりだわ。ね、たまにはそんなのも良いでしょう?」
「ふふ、確かに」
グラスを置いて、立ち上がる。かたんと乾いた音が響く。
「あら、どこへ?」
サンドイッチをかじっていた顔を上げて咲夜が尋ねる。
「ああ、うちにも幾つか良いワインがあるから出そうと思って。あとスコーンでも持って来てあげるわ。あ、貴方の隠し芸はそれからね」
「……」
「ははっ、期待してるわよ~」
バンバンと咲夜の背中を叩くレミリアを尻目に、アリスは自分の足で家の扉まで歩いていく。ドアノブに手が触れたところで少し立ち止まり、髪を靡かせてアリスは振り向いた。
「おーい、レミリア!もう一度聞くけど、どうして私のところに来たの?」
「ああ、だから勘だって!私には分かってたもの、貴方となら愉しく月が見れるって。貴方にもちゃんと見えてたでしょう」
ニヤリと笑って月を見上げるレミリア。瞳には相変わらずの陽気な光が揺れている。つられてアリスも視線を月に遣る。三日月はまるで死神の大鎌のように、夜空の上で冷たく美しく輝いていた。気付けば既に霧は晴れ、月にかかっていたちぎれ雲もどこかへ消えている。
「そうね」
呟いて、笑い返す。くるりと身を翻し、アリスは急ぎ足で家の中へ入って行く。顔を綻ばせながら懐の銀時計を見て思う。月夜はまだ終わらないな、と。
――こんな夜には、誰かとお酒でも飲みたいわねえ
~END~
お月見でお酒の飲みたくなるようなお話でした。
実に見事で風流な作品だと思える作品でした。
これからも、頑張ってください!
なんだか良いですね。混ぜろ!というか、混ぜてください!というか。
子供っぽくて我侭だけれど相手にも利をもたらしてる辺りは流石は悪魔でしょうか
小食なイメージなものの、グビグビやってガツガツ食べるというのもワイルドさが出て面白い。
個人的には咲夜さんに茶目っ気というかもうひと捻りが欲しかったかも?
従者という観点では満点なんでしょうけれど。
断末魔の叫びが聞こえてくるようだぜw
やはり西洋風のキャラ達にワインはよく似合う。
大パニックになるアリストレミリアと、自分だけしっかり避難してる咲夜さんの姿が目に浮かぶようです。
でも本編は良かった~アリスは紅魔館メンバーと相性が良いと思うんだ。
そして誰もキャラ崩壊していないとは珍しい
好ましい作品です
楽しませて頂きました
これには参った。新しいカリスマをみた。
とてもきれいな描写で、なおかつ楽しそうな三人でした。