Coolier - 新生・東方創想話

恋路の行方―後篇―

2009/07/24 00:38:23
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「人間は何時も物語の主人公になりたがるわね。小説の中に羨望の念が湧き上がるほどの事件があるのは当然の事だけど、それがいざ自分の元に訪れるとなれば恐れてしまうに決まっているのに。巧妙な殺人事件も然り、未知の怪物が出て来るものも然り、――浪漫的な恋愛の物語もまた然り。小説を読んでいてどれだけ魅力的であっても、人間はきっと現実にそういう場面に直面すれば恐れるに決まってるわ」

 妖しい微笑を一つ落としては、女は茶を啜る。

「そんな事はないと貴方は云うけれど、実際はそんなものよ。幾ら心躍る物語でも、それは飽くまで空想の中に広がる世界、現実には決してならない幻想の光景。だからこそ人はそれを羨むのよ。そういう刺激的な物語を頭の中で体験して、自分が送っている生活がさもつまらないもののように思えて来る。平和ほど尊重すべきものは無いのにも関わらず、敢えてそれを放擲したくなる。可笑しいと思わない? 私達妖怪に恐れを抱く人間が、そんな風に思うなんて」

 扇子を広げ、隠れる口元。

「何が云いたいのか判らないって顔をしているけど、何も貴方を困らせたくてこんな話を唐突に始めた訳じゃないのよ。――つまり、こういう事ね。何事も平和的なのが一番よ。巧妙な殺人事件に出会う事もなく、未知の怪物と戦う事もなく、劇的と云えるほど熾烈な恋愛をする事もなく。折角人生という物語の主人公なのだもの、わざわざ他の物語に介入する必要も無いでしょう。――ふふ、だから貴方って大変な境遇だわ」

 ぱちんと閉じる扇子と共に立つ女。

「あら、今度は口に出したわね。私が何を云いたいのか本当に判らないのであれば、貴方って余程鈍感な人よ。でなければ呑気なのね。こういうと変だけれど、平和を尊重しようと奮闘するのも、何だか妙な在り方だわ。――それじゃ御機嫌よう。また会う日には私が祝言を送れるような事になっていれば好いわね」

 裂けた空間に消える黄金の髪。
 ――男、嘆息。



1.現今



 霖之助は傍に置いてある招き猫を自身の手に取った。程よい重量が馴染むようにして感じられる。窓から差す仄かな月光を受けて、猫の表情は穏やかな笑みを象っているように思われた。昔日に作られた祝いの証、或いは今は亡き大切な人が遺した寂寞の造形。霖之助は招き猫を郷愁の秘められたる瞳で眺めると、そんな事を思った。
 既に夜は更け、小さな窓から見える夜空は煌めく宝石の如き輝きを、地上に向けて放っている。そうして彼は、初めて自分が長い間を呆けて過ごしていた事に気付くのであった。霖之助が過去を思い返してから経った時間は、既に数えるのが億劫になるほどである。
 過去の在り様は現在の当人によって如何なる形へも変貌する可能性を持つ。或いは悲壮に塗れ、或いは頬を染める羞恥の塊でもあるかも知れない。霖之助にとって、過去とはその招き猫へ全てが集約されていた。愚かしい自身の面影も、大切な人の思い出も、その全ての記憶が拙い彫刻品の中に存在しているのである。そうしてそれを目にする度に、彼は言葉に出来ぬ言葉を心中に蟠らせては、得体の知れぬ感情に心苦しくなるのであった。

「神の涙、か」

 夜空に浮かぶ満月に雲が懸かる。今宵は空気の冴え渡る天気の好い夜だが、明日の天気は好くないだろうと、霖之助は思う。神が彼の心境を労わって涙を流してくれるのなら、自分はそれを有り難く思って然るべきなのだろうか、と霖之助は一人自問して、返らぬ答えに自嘲気味な笑みを浮かべては、そろそろ床に就こうと安楽椅子に預けていた身体をおもむろに持ち上げる。誰一人として居なくなった店内に、夜を彩る微茫たる光が徒に差していた。

 柔らかな布団の上へ身体を横たえると、睡魔はそれを待っていたと云わんばかりに襲い掛かって来る。瞼の裏に広がる闇は、次第に深く濃くなって行き、微睡の世界が身を包み始め、夢心地の感覚が意識を手放して行くのを、霖之助は明確に認める事が出来た。彼はそんな間際になると、今日の夢見は好いだろうか、と考える事を常としている。が、近頃は毎夜同じ夢を見るようになった。何かを気に病んでいる訳でもないのにも関わらず、霖之助を苦悩させようという謀略が存在しているかの如く、眠りに就けば同じ夢が浮かび上がって来るのである。
 今日もそんな夢を見る事になるのだろうか、と微かな好奇を胸に抱いた時には、彼の意識は既に深き眠りの淵へと誘われていた。そうして何処か覚束ない足取りで、夢路を辿って行くのである。



 ――金色が目の前を過ぎる。金塊とは違った素朴な輝き、財宝とは違った美を放つ輝き、そうして風に靡く柔らかな糸のような繊細さを以て、目の前に揺れている。視界は朧で、まるで酷い眩暈がしている中、無理をして歩き続けているかの如く不安定なのにも関わらず、夢の中にいる彼は必死にその金糸を追い掛ける。手を伸ばせば触れられそうだけれども、幾ら触れようとする努力をしても、磁石の関係の如く離れて行く、近く遠い矛盾の距離。彼はそれを知っていながら、触れたいという一心で朧げなる視界の中を、走り続ける。
 物の怪の類か或いは人間か、それすら判然としない。何もかもが霞の膜に包まれているかの如く、薄ぼんやりとしている。走り続けても豪も疲れぬのは夢の中に居る証左に他ならない。なればこそ追い求める金糸が掴めぬのもまた道理である。彼はそれを悟っていながら尚走り続ける。それは脚本に沿って演技を進める役者のような滑稽さを内に秘めた、純朴なる者の信条の道であった。――が、そんな彼を嘲笑うかのように銀河を駆ける箒星が一際明るく輝きながら、遠く聳える山稜の向こうへ消えて行く。そうしてそれを初めとして、世界は溶けて、崩壊して行った。
 男の声は遂に無く。
 夢の世界は終焉を迎え、消える。





2.



 目が覚めると朝焼けの光が差し込んでいる。随分と早い時刻に起きてしまったものだと不思議に思いながら、霖之助は倦怠感の残る身体を持ち上げて、身震いのする寒さに耐えながら布団を仕舞った。何処からか聞こえて来る雀の鳴き声が、朝の訪れを皆に報せるように忙しく鳴く心地好い時分、窓から覗く空は未だ朝と夜の境界にある曖昧な色をしている。平生これほど早くに目が覚める体験を霖之助はしていなかったから、彼は気紛れか何かに身体を動かされるようにして、上着を一枚羽織ると薄暗い店の中を通って外に出た。

 冴え冴えしい空気は呼吸をする度に肺腑の中に染み渡る。そうしてそれが、寝起きに火照った血肉を内から冷やすようにして行く感覚が、彼は嫌いではなかった。けれどもやはり、初春の空気は身に堪えると見えて、霖之助は両腕を擦り擦り白霧の広がる道を何とも無しに歩んで行くのであった。
 毎朝散歩をする習慣がある訳でもなければ、別段こうして早朝に出歩く趣味を持ち合わせている訳でも無かったが、何もする事がない、という事を理由に置いた、全く気紛れから起こる所作である。そこに如何なる解釈が広がるべくもなく、彼はただ陰湿な森が横手に広がる道を、歩き続けるのであった。

 が、ただ歩いているというだけで無心に至る事はなく、霖之助の頭の中には常々何らかの思考が巡っている。時にそれは読み終えた書物に関する事であったり、全くどうでも好い事だったりする。しかし今朝に限っては頭の中を巡る思考はただ一つしか存在し得なかった。それが毎夜見る夢の事である。近来の彼の興味は、専らそればかりに向けられていた。同じ夢にうなされるのは疾しい出来事を抱える者へ生じる現象だと霖之助は解釈している。けれども同じ夢を見ていながらうなされる事もなく、ただ何かを追い求める霞んだ欲求が日に日に膨らんでいる自分は、果たしてどんな理由の元にその夢を見続けているのだか、彼には甚だ疑問だったのである。

「……」

 金色の面影が脳裏を過ぎる。果たして過去に頓着しているが故に見る夢なのか、霖之助にはとんと見当が付かない。過去に囚われている者は等しく現実に於いて前を見る事を忘れている。それ故に外界の刺激に対して脆弱であり、過去という手枷足枷から逃れる術を知り得ない。それは時に錠の掛けられている扉を開こうとして、不毛な努力に四苦八苦している滑稽にも見えれば、呪いの釘を胸に打ち付けられているかの如く、辛辣な光景にも見えるのである。
 それだからこそ、霖之助は余計に判らなくなる。日々を安穏と過ごしている自分が、昔日の――愚かしい自分が愚行を重ねた日々に縛られているとは到底思えない。まるで深みに嵌った足が底なしの沼へ沈んで行くように、思考が闇の中へ消えて行く心持ちである。

 やがて彼はそれについて考える事を止した。幾ら難題を証明する為の過程を書き連ねて行けども到底終わりが見えぬ。無駄な過程ばかりが広がって、乱雑になった紙面の上が黒く塗り潰されて行く。そうなれば元より考える事に意義は無い。答えのない問題を解き明かそうとする事で、何等の利益が得られるでもなく、なればまた、自らの考えに満足が行く事も有り得ぬ事である。
 気付けば後ろを顧みても香霖堂の看板は見えなかった。考え込みながら歩いていた所為か、前を見ていなかったのかも知れないと考えて、霖之助はそれではまるで、自分が過去に囚われている者のようではないかと一人自嘲気味な笑みを零した。太陽は薄い雲の向こうに輝いている。今少しの時が経てば暖かくなるであろう。遠く聞こえる鶏鳴が人々を起こさんと空に響いている。霖之助は帰って朝餉を取ろうと決めて、元来た道を歩き始めた。



3.



 元より霖之助は余りに余った膨大な時間を有効に使う術を心得ていない。毎日客が頻りに訪れるほど本業である道具屋が繁盛している訳でもないので、そういう暇な時間を見付けると、彼は度々書見に没頭するのだった。無論書見が嫌いで、仕方なしにそうしている訳でもなく、霖之助は書物の中に広がる世界へと自身の姿を投影する事が好きな性質だったので、寿命の長い彼にとって書見という時間は切り捨てる事の出来ぬ重要なものである。
 それだから、彼が書見を始めようと安楽椅子に背を預け、読みかけの書に手を伸ばそうとしたところに聞こえた来客の声は、何だか行動を妨げられた感の起こるものであった。聞き慣れた明るくも淑やかな声音は「ごめん下さい」と云った時には既に店内へと入っている。金色の髪の毛が流れる美しい出で立ちに、両手を身体の前で組み合わせた女は、霖之助を目に留めると徒に微笑む。彼はその女の微笑を認める度に、頻りにこの店を訪れては霖之助が浸ろうとしていた静の世界を打ち壊されるのかと、何だか判然としない感情に悩まされるのである。

「君は挨拶の意味を知らないと見える」
「私の存在を知らせるには充分だと思ったのだけれど、何かお気に召さない事でもありましたか?」
「それが判らないなら、大分君は子供だね。容姿ばかり大人になって、内面が成長していない」
「お褒め頂けて光栄です。多少の無邪気があった方が可愛いでしょう」

 女はそう云ってまた微笑んだ。妖艶という形容の似付かぬ無邪気な笑みである。自身の言葉を肯定する所作を認めて、霖之助は降参とばかりに溜息を吐いた。店の入り口の付近に楚々として立つ女に返す言葉など、既に見付からない。彼はそんな諦念めいた様相を呈しながら、「今日は何用で」と尋ねた。が、これも毎度のやり取りであるので、そこに如何なる意味を見出そうと努めても、霖之助には確たる女の動機を掴む事など到底出来なかった。

「用が無ければ来てはなりませんか。お店のお客様でなくとも、霖之助さんのお客さんなんですよ」
「つまり香霖堂に利益を与える気は毛頭ないという事かい。全く迷惑なお客様だ」
「またそんな慳貪な態度を取って。女性には優しくするのが道理じゃありませんか」
「君がそう云うと何だか可笑しいようだ。女性とは名ばかりの、そういう地点から懸け離れた子供だったじゃないか」
「成長すればどうとでも変わります。私とて、今や立派な女性を誇れる程度になったと自負していますから」
「そういう所は変わらないな。昂然としていて、翳りを他人に見せない」

 霖之助はそう云いながらもう一度女の顔を見た。雅に微笑む様は一向に変わらない。ともすれば如何なる影響を受けてもその表情は崩すまいとしているかの如く見える。そんな努力の片鱗を、霖之助はこの女の微笑を見る度に垣間見る心持ちがする。若く幼かった昔の記憶を掘り返せば、目の前にて立っている女が同一の人間とは思われないからである。もしや自分の知らぬ所で真に限りなく近い偽を表せるほど大人に成長したのだろうかとも思うが、それも彼の中では現実味を伴わなかった。――霖之助にとって、目の前の女は昔とは外見を異にする別人物の霧雨魔理沙なのである。

「そうするように努めている訳じゃありません」
「判っているさ。君は元来自分の努力が他者に知れる事を拒んだろう」
「からかわないで下さい。本当に、霖之助さんの云うような努力はしていないんですから」
「ああ、判ったよ。虐めるのはこれで終いにしよう。淑やかになったついでに泣かれては敵わない」

 霖之助がそんな天邪鬼な事を云って、意地悪く笑って見せると、女は不満を隠す事なく膨らんだ頬で表した。綺麗に揃えられた金色の眉が眉間に寄って、美しい顔立ちが心持ち幼くなったように思われる。女は一つ嘆息を落として、霖之助を批判するような視線を上目使いに送った。けれども、それすら愛嬌を滲み出すばかりで、霖之助には毫も効果が無かった。魔理沙は呆れるより他にない。憤慨という術は成長するに連れて消え去った。

「霖之助さんも大概変わってませんね」
「どういう所がだい」
「そういう意地悪な所とか、頭の堅そうな所とか」
「君が僕の何を知っているのだか。外面で全てを判断するのは代表されるべき愚行の一つだよ」
「ほら、そういう所が、です」

 そう云って、魔理沙は口元に手を当てて静かに笑った。霖之助も気が抜けたものだと見えて、苦笑を一つ浮かべると、安楽椅子に座り直した。

「それで、君が本当に何の用もなしにこんな話に興じる為に来たのなら、僕は甚だ弱るんだが」
「何か不都合でもあるんですか」
「そういう訳でもないが、――君からすれば退屈な話しか出来ない男だからね」
「退屈な話で結構です。元よりそのつもりで来ましたから」
「全く、君もとんだ物好きだね。昔は退屈を誰より嫌っていたようだった」

 霖之助の言葉を受けて、魔理沙は居間の方へ勝手に歩を進めた。そうして霖之助の横を通り過ぎた時、一寸彼の事を顧みて「人は時が経てば」とだけ云った。霖之助は再び苦笑して「どうとでも変わる、かい」と途切れた言を代りに紡ぐ。二人は互いに笑い合って、居間へと話の場所を移した。窓から差す陽光が心地好い時分である。先刻とは打って変わって、霖之助の内心に書見の欲求は然程の勢力を持っていなかった。



4.



 翌日、一枚の手紙が霖之助の元に届けられた。大きな新聞紙を丸めた中に、ついでとばかり挟まれていた手紙は綺麗に封を施されて、これもまた綺麗な書体で宛て名と差出名が刻まれていた。霖之助にも見覚えがある。「森近霖之助様」と宛て名には書かれ、対する差出名には「博麗霊夢」とあった。彼女が手紙を出すなどと珍しい事もあるものだと、霖之助は怪訝な視線を手紙に向けながらも、丁寧に中身の手紙を取り出すと、その内容を読み進めて行った。
 手紙の中に綴られているのは、霖之助の知る霊夢には似付かぬ丁寧な文章である。彼はそれを読み進める度に、一つ一つの言葉に呻吟しながら執筆する霊夢の姿を連想して吹き出しそうになったが、その内容が頭の中に入り込んで来る度に、そんな余裕はなくなって行った。気付けば白い紙面の上に点々と続く文字に魅入られたように、彼の掛ける眼鏡には霊夢の手紙が映っていた。予想の範疇にないその手紙は、彼にとって事件として数えられて然るべき代物だったのである。

「拝啓 淡雪が名残惜しくも消え、桜花爛漫たる桜を見るのが待ち遠しく思われるこの時節、皆様もご清祥の事と存じます。
 この度は突然の手紙をお許し下さい。しかしこれを執筆するに当たって私が大変苦労した事と、その書き上げた手紙を親切にも皆様の元へ届けて下さる役目を請け負って下さった射命丸文様のお手間を労い、最後までお目通しして下さるようお願い申し上げます。

 さて、私がこうして皆様に宛てて手紙を差し出した事を、さぞ驚かれる事だとは自負しておりますが、此度入籍する事をお世話になった方々へ伝えたく思い、こうして手紙を差し出した次第です。何を突然と思われるかも知れませんが、冗談を弄している訳でもなければ、皆様を驚かそうという下心からの言葉でもありません。私の意思で決定したこの出来事を、私の言葉でお伝えしたかったのです。

 私ですら自分で驚いたこの出来事を、果たして手紙を受け取って律儀に目を通している皆様は平然としながら読んでいるのでしょうか? 「もうそんな年だろう」と云って納得している様が私には容易に想像する事が出来ません。誰しもが驚きに目を見開き、時に失笑し、そういう過程を経て漸く「もうそんな年だろう」という考えに至る事だと思っています。私はその一言がこの手紙を読んでから瞬時に皆様の中に浮かんで来ただろう、と自信を持って云えるほど淑やかに過ごして来た訳ではない事を自覚しているつもりです。何よりその本人がこうして申し上げているのですから、もしも皆様が「もうそんな年だろう」の一言で納得出来てしまうのなら、私の見解は甚だ見当違いになってしまいます。

 ――と、無駄話が過ぎたようです。お暇を持て余している方が殆どであろう事は私の妄想かも知れませんが、この手紙で皆様の貴重なお時間を頂くのも何だか申し訳ありませんので、一番大事な事をお伝えします。
 挙式は今より一、二ヶ月後と考えていますが、詳しい日程は未だ決まっていませんので、日を追って再度連絡します。挙式の日には多くの方々にご臨席賜りますよう願っています。幸い私の夫となる男性には妖怪を恐れ、忌み嫌う性質はなく、妖怪の方が来訪を憚る理由はありませんので、遠慮なしにどうぞからかい言葉や祝い言葉などを仰りに参られて下さい。それを楽しみに待つと同時に、自分が変わり行く事を見定めたいと思っています。

 では、病に罹りやすいこの季節、充分にご自愛されますよう、お祈り申し上げます。



 追伸
 森近様にのみ、追伸を付け加えさせて頂きました。
 何故と問われればこれと云って返す言葉を持ち得ないのですが、近々香霖堂へ訪れようと思っています。今になって改まる事は無いと思われるかも知れませんが、私の立場も大きく変貌を遂げてしまったので、そう簡単に霖之助さんに会いに行く訳にもいかないのです。近々夫となる彼が嫉妬深い訳ではありませんが、私の中でも区切りは付けねばならないと考えていますので、どうぞお許し下さい。それとも森近様はそんな私を笑うのでしょうか? 大人になった振りをしているだけだと、君には似合わないと、昔のように私をからかうのでしょうか。

 それを思うと、それならそれで構わないと思われて来るから不思議です。私にとって森近様は特別な男性だったので、殊更そうなのかも知れません。それでは長々と綴ってしまい、ご面倒をお掛けしてしまったのでしょうが、これにて失礼致します。もしもこの手紙の文面に危惧を覚えるようならば、ご安心ください。この手紙を書く時、私は誰も居ない部屋の中、月光を頼りに慣れない筆を必死に動かしていたのですから。
                              敬具
                             ――博麗霊夢」

 手紙を読み終えた後、霖之助は言葉を失った。感激の余りにそうなった訳でもなければ、まして悲しみに暮れた訳でもなく、ただ純粋に、霊夢が結婚するという事実が彼を驚かせたのである。その驚嘆に値する経験など未だかつて体験した事がないほどのように思われる。それほどまでに霊夢が自分の知らぬ者と結婚するという事実は、霖之助を驚かせた。手紙の中にあるように、「もうそんな年だろう」という一言で納得するはずがなかった。

「そうか」

 霖之助はただ一人安楽椅子に腰かけたままそう呟いた。自然に出た言葉である。大した思慮の余地があった訳ではない。色々な衝撃を受けて導き出された全く自然の言葉である。見知った烏天狗が新聞を手渡した際に浮かべた意味深長な笑みが漸く合致した。如何様に霖之助の心境を勘ぐっていたのかは露知らぬ所ではあるが、彼が驚きの境地に追いやられたのは事実である。今になってあのしたり顔が恨めしく思われて来た。

「――これは、天狗の新聞よりも余程凄い記事だ」

 霖之助は手紙を机の上に置き、何ともなしに天井を見上げると、何だか微妙な面持ちでそう呟いた。窓の外を見ると、新春の陽射しが徐々に近付いている。木々の連なりは未だ寂しげな色をしているけれども、それが色付くのはそう遠い未来ではあるまい。時が進むのがこれほどまでに早かった事を、今一度彼は痛感しない訳には行かなかった。
 それだから、胸に小さな楔が打ち込まれた心持ちがする。追伸を読み終えた時の妙な感じがしこりを残している。霖之助は深く溜息を吐くと、正体の判らぬその感情を胸の奥底に沈ませて、何故だか頭の中に浮かぶ、近来好く見る夢の映像を思い出し始めた。――あの金色の糸が何を意味しているのか、この時霖之助は初めて真剣に考えた。



5.



 翌日には朝早くから魔理沙が訪れて来た。未だ目覚めてからそう多くの時間が経っていなかったので、霖之助は寝惚け眼を擦りながら彼女を出迎えたのだが、魔理沙の表情には何処か陰気な影が差していて、冬の枯れ木のような哀愁が漂っていた。これは中途半端な理由からの来訪ではないと霖之助はすぐに気が付き、平生ならば嫌味の一つ二つを与えてから店へと招き入れる所を、黙って行った。魔理沙は堅く噤んだ唇を、しばらく閉ざしていたままだったが、霖之助が暖かい茶を用意して、彼女の前に座った頃に、漸く重たそうな顔を上げて、心なしか弱弱しい光を湛えた瞳を霖之助へ向けた。

「何だか神妙な面持ちだが、何かあったかい」

 そう尋ねると、魔理沙は一寸押し黙った。すぐに話し出そうとは思っていない気色で、再び俯いて卓袱台の上に置かれた湯呑の中を揺蕩う緑茶を見詰めている。霖之助もそれを見て無理な詮索はすまいと心に決めて、一口渋い味のする茶を喉に通すと、彼女の前で黙していた。――やがて魔理沙は少しばかり躊躇を加えた口振りで、話し始めた。

「霖之助さんの元にも、お手紙が来たでしょう」
「来たね。まさか霊夢が、と思わずには居られなかった」
「私も同じです。同じだけれど……」

 薄桃色の差す唇はそれで結ばれた。霖之助にはそれが今にも泣き出しそうな幼子の様にも見えて、これ以上この話を続けるのは忍びないと思ったが、露骨にそれをすれば状況は悪化するばかりであろうと考え直して、先刻と同様に黙していた。魔理沙は重々しい口振りのまま、次ぐ言葉を紡ぎ出す。

「何だか、遠くに置いて行かれたような心持ちがして」

 そう云った魔理沙の表情は、霖之助が面食らうほどに切なげであった。悲しみの影を投じる長い睫毛が徒に揺れている。震える頬が、喉の奥で引っ掛かっている泣き声を押し隠そうとしている。金色の前髪に覆われた彼女の姿は、度重なる弾幕ごっこに負け続けた幼き日の魔理沙に酷似しているように思われた。誰よりも気丈に振る舞う事を得意とした彼女が、その実誰よりも脆い心を携えていたように、それが時間という枠組みを逸した心持ちがした。

「君は誰よりも霊夢に近しい存在だったから、無理もないだろう」
「そういう、訳ではありません。ただ、ただ、何故だか突き離されたような……」

 魔理沙はそこまで云い切ると、隠れた表情を霖之助の前に表した。涙の零れる目尻は赤く色付き、その軌跡が頬に続いている。彼女は手を口に押し当てたまま、必死に泣く事を堪えるようにして咽び泣いた。朝方の冷たい空気に熱い吐息が混じり、暗澹たる空の下に蔓延る湿った空気が、居間の中に広がっていた。しかし霖之助には掛けるべき言葉がまるで見付からず、ただ泣き続ける彼女を哀憐を秘めた眼差しで、ただ見詰め続けていた。

 居間には暫し魔理沙の泣き声が響き続けた。涙を堪えようと悲痛な努力をしている悲しげな旋律が、場違いな朝方の強い陽射しの中で響いている。そんな中で霖之助は考える。きっと置いて行かれてしまったという表現は、霊夢という存在が初めて容易に届かぬ地点にまで遠ざかってしまったからなのだろう、幼少の頃より近しくも遠く在った霊夢が、自分を置き去りにして自らが踏み出せぬ道へと歩を進めてしまったからなのだろう、そうして何よりも辛かったのは、きっと霊夢が魔理沙に婚約の件に関して何をも伝えなかったからに違いない。……

「すみません、張り詰めていたものが、一気に弾けてしまったようで」
「構わないよ。君は、霊夢から何も聞いていないんだろう」

 霖之助がそう云うと、魔理沙は再び涙ぐみながら震えた声で「はい」と答えた。金色の髪の毛がゆらゆらと揺れている。

「手紙を読んで、初めて知ったんです。あんなに丁寧な手紙を見て、初めて」
「君の心境を悟るのは僕じゃ無理だろうが、心中のほどは察するよ」
「……ありがとうございます。それで私、何故って何度も思ったんです。霊夢にとっての私はそんなに大仰な事をしなくては大切な事も話せない仲なのか、と。そしたら急に霊夢が遠い存在のように思われてしまったんです」
「君にとって、霊夢は一番近しくも、一番遠い目標だったからかい」
「はい。今では判然と頷けます。幼い頃の羞恥は、もう有りませんから」
「それじゃ辛いはずだ。実際僕も、こんな事を手紙で知らせて来るとは思っていなかった」

 沈黙の風が吹く。少しばかりの隙間を開けた窓から、冷たい風が二人の身を打った。卓袱台の上に乗る茶は既に冷えている。何処か冷然とした冷ややかな空気が、不安定な心の天秤を揺らして行った。魔理沙は唇に力を入れて、再び溢れ出そうとする涙を抑えている風体である。霖之助はそんな彼女を、先刻と同じ視線で見詰めている。
 彼は"変わった"と実感しない訳には行かなかった。それは痛感と表現した方が適切やも知れぬ。彼にとっての魔理沙とは、納得の行かない出来事があれば真先に問題に飛び込んで行く行動力に漲った少女であった。けれども今、目の前に座している成長した魔理沙は、必死に涙を堪えながら肩を張らせて震わせているか弱き女性であった。それだから成長した、という思いは僅かな落胆を孕んで彼の中に浮かび上がる。時はこれほどまでに、人へ影響を与えるものだったろうかと。

「……何にしても、霊夢の問題だ。彼女なりの意図があっての事だろう」

 霖之助はそう云って、空になった湯呑を盆に載せると立ち上がった。魔理沙は濡れた頬を拭いながら、そんな彼の様子を見上げている。霖之助は一寸黙ったまま、金色の髪の毛が掛かる濡れた瞳を見詰めたが、やがて「今日はゆっくりして行くと好い」と云って台所の方へ歩いて行った。「何だか不思議ですね」という震えた声が聞こえたのは、恐らく不意の優しさが彼女の心を打ったからに違いない。霖之助は平生通り嫌味の一つでも云えたなら、少しは彼女を元気付けられたろうかと考えて、小さな嘆息を落とした。曇り空の下に吹く新春の風が、窓を叩いては格子を揺らしている。



6.



 華やかな萌芽が芽吹き、春の色も濃くなって来た頃、霊夢は手紙に記した通り香霖堂へと遣って来た。まだ蕾しか見せていない桜の下で霖之助が書見をしていた時の事である。霊夢は何時もの紅白の巫女装束ではなく、彼女には似付かない白一色に染められた着物を着ていた。まるで死に装束のような出で立ちに、艶やかな黒髪が何に縛られる事も無く彼女の背中や胸を流れているので、一時は誰かと疑うくらいに、霖之助の目に霊夢の姿は以前とは違って見えた。

「久し振り」

 そう出逢い頭の挨拶を紡いだのは霊夢であった。中途半端に開いた書の項が吹く風に煽られて暴れている。霖之助は驚きか呆気に取られてしまったのか、間の抜けた顔をして霊夢の顔を見上げたまま、口を半開きにしていた。

「霖之助さんたら、今酷く変な顔をしているわ」

 霖之助の離れかけていた自らの意識は、霊夢のその言葉によって漸く現実へと引き戻された。我に返った彼は何とも間抜けな事に、今更になって「久し振り」という挨拶を返した。それが霊夢には面白可笑しく思われたようで、彼女は無邪気に笑い声を立てながら、腹を抱えて笑っている。霖之助は決まり悪そうにして、頬を掻いていた。

「久し振りに会ったと思えば、笑ってばかりじゃないか」
「だって、霖之助さんがあんまり面白い事をするから」
「僕には別段君を笑わせようとしたところはないよ」
「だから面白いんじゃない。霖之助さんが自分から他人を笑わせようとしてるところなんて想像出来ないわ」
「それならそろそろ笑うのはやめにしてくれ。何か用があって此処へ来たんじゃないのかい」

 霖之助がそう云って如何にも迷惑だという顔をしたので、霊夢は気を落ち着けると二三度の深呼吸の後に霖之助の隣へ腰掛けた。すると霊夢の匂いがする。座った拍子にふわりと揺れた髪の毛から、着物の袖から、彼女の匂いが香って来る。霖之助はそこに微かな違和を覚えずには居られなかった。以前の彼女はこれほどまでに大人の雰囲気を纏っていただろうか。――そうしてその疑問の答えは彼の唇に違和の残る笑みの曲線を描き出すのである。

「これと云って取り上げるほどの用があるって訳じゃないんだけどね」
「何だい、それは。それじゃ何の為にこんな所へ」
「理由が無ければ来ちゃ駄目かしら? それとも私が以前の私と違うから?」

 刹那、霖之助の背筋を何かが這い上がって行ったように思われた。或いは戦慄の類かも知れぬ。けれども恐怖とは明確に境界を分かつものである。彼にはその正体が判然としなかった。が、霖之助の瞳を真直ぐに射抜く霊夢の漆黒の瞳が、まるで何をも映さぬ鏡のように思われて、彼は何だか妙な心持ちになった。金色の糸が、目の前に揺れている心持ちがする。まるで煽情的な誘いを、目の前の霊夢が無意識の内に成しているような心持ちである。

「つい最近、同じ事を云われたよ」
「あら、私の他に此処へ来る物好きが居るのね」
「全く君は、変わったかと思えば変わっていないようにも見えて、何だか不思議な人間だよ」
「それって褒め言葉? それなら有り難く頂戴するけれど」
「どう捉えて貰っても結構さ。褒め言葉かどうかは君が判断する事だ」

 霖之助の言葉に、霊夢は微かな微笑を湛えると「霖之助さんは相変わらずなのね」と云った。

「それも、つい最近云われたような気がするね」

 二人はそうして笑い合った。桜の下に茶は用意されていない。二人は顔を見合わせて、意思が疎通したかの如く同時に居間へと引き返した。高き空に雲雀の鳴き声が響いている。閉じられた障子の隙間から、向かい合って座る二人の姿がある。挟まれた卓袱台には湯気の上る温かそうな湯呑と、申し訳程度に用意された茶菓子が並べられていた。

 くすりと、誰かが漏らした不敵な笑みに、気付く者は居ない。



7.



 二人は卓袱台を挟んで座り合った後、暫く黙り合ったままでいた。どちらにも話しかけようという気色は見られず、またそれを気まずく思う様子も見られない。ただ久しく享受した共に居る時間を楽しんでいるかの如く、お互いに何をも話さずに居るように思われる。二人の片頬にはその間中耐える事なく笑みが含まれていた。
 しかし程なくしてその沈黙は打ち破られた。静かに話し始めたのは霖之助の方である。彼は茶を一口喉へ流し込むと、霊夢の顔を見据えて云った。

「――そう云えば、何時もの巫女装束はどうしたんだい。君らしくもない恰好をしているが」
「失礼ね。私らしくないなんて、酷い侮辱だわ」

 そう云う霊夢に、本当に怒っている気色は見られず、むしろ自然と笑んでしまうような他愛のないやり取りが、二人を懐かしき過去の世界へと舞い戻らせたように思わせて、和やかな空気を生んだ。霖之助が言葉だけの謝罪をすると、霊夢は胸を張って「よろしい」と返す。すると急に険しい顔付になったので、霖之助は一寸驚いた。対面に座る彼女の表情は、とても楽しい事を話そうとしているようには見えなかったのである。ともすれば深刻な事情を抱えているようなものにも見受けられた。――必死に泣く事を堪えていた魔理沙の姿が、不意に彼の脳裏を横切った。

「霖之助さんなら、きっと察してくれるだろうと思っていたけど」

 重々しい口振りで霊夢は云う。表情とは裏腹に明るい声音である。霖之助にはそれが却って気の毒に思われた。蟠った負の感情を自身の中に溜め込んで、はち切れそうになるのを必死に耐えているように思われたのである。実際霊夢の瞳は今にも涙が零れ落ちそうなくらいに濡れていた。

「……巫女ではなくなった、と」
「その意味が判らない訳じゃないわよね。――だからあまり云いたくなかったのに」
「判ってはいるが、……君が望んだ事じゃないのかい」
「望んだ事よ。望んだ事だけど」

 霊夢はそこで言葉を区切った。そうしてそれからはどうしたって口を開こうとはせず、終いには「何でもないわ」と笑顔で云って霖之助を弱らせた。かと云ってそれ以上問い詰める事は霖之助には出来かねる。彼は彼女の云った意味は軽々しく扱って好いものではないと思っているし、博麗の巫女が結婚の告知をして、それから巫女でなくなるという事が何を意味しているのか、痛いほどに知っている。――即ちそれは、純潔を失ったという事であった。

「あの手紙を出してから、魔理沙には」
「会ってないわ。どんな顔をして会えば好いのか判らなくて」
「どうして。君達の間に隔たりなど似合わないだろう」
「魔理沙の前に居た私は、何時だって博麗の巫女だったのよ。そうでなくなった今、私はただの霊夢。魔理沙の望む私は、そんな姿じゃないわ。弾幕ごっこなんて、今は昔の話」

 霊夢の語った自らの心境は、霖之助からしてみれば何処までも単純な問題で、霊夢からすれば何よりも複雑な難題だった事であろう。霖之助の知る博麗霊夢という人間は入り組んだしがらみに囚われた、その年に不相応な少女とは称せぬ人間である。そんな霊夢が真なる大人となって、彼の心底に浮かび上がるものは、怒りにも似た同情ばかりであった。

「魔理沙はそんな事問題にしていないよ。ただ、君が何も話さずに一人で決断した事が悲しいと云っていた。何だか手の届かない所へ君が行ってしまったようだと。僕は会って話して欲しいと思っているが」

 そう云う霖之助の表情には辛酸を嘗め尽くされた憐れなる者のようであった。霊夢は何をも云わぬ。ただ黙ったまま、泣き出した魔理沙と同じように湯呑の中に揺蕩う緑茶を見詰めながら、黙し続けている。

「……すまない。今の君にこんな事を」

 霖之助はそう云って席を立った。手には盆が、その上には空になった湯呑が載せられている。台所に向かいながら彼は「今日はゆっくりして行くと好い」と云った。背後から聞こえる震えた声は、ただ一言だけ「ごめんなさい」とだけ伝え、それでも咽び泣く声が聞こえないのは、彼女故の強さだからなのだろうと、苦虫を噛み潰したような表情で霖之助は思う。春の訪れを告げる突風はこの日も窓を叩き格子を揺らしている。それはともすればとてつもない何かが侵入を試みようとしているかのような、不吉な音であった。

 ――その時不意に触れて来た温もりは、先刻霖之助が感じた背筋を這い上がる何かと同じ感覚がした。背中越しに小さく華奢な体躯だと判る儚い存在が、その手を彼の身体に回している。そうして耳を舐めるかの如き煽情的な声音が、耳元で紡がれると、一切の疑念が彼を取り囲む世界から吹き飛び、残ったのは確かな温もりと、彼女の存在感ばかりであった。

「今日此処へ訪れた本当の意味、霖之助さんなら判ってくれると信じているわ」

 どうして、と云おうとして振り返った時、そこには既に誰も居なかった。ただ未だ背に残る温もりが、先刻の出来事が夢でない事を明確に示し出している。混乱しているようで何処か冷静さを保つ霖之助の頭の中には、あの手紙の追伸に刻まれた「特別」という単語が繰り返されていた。その意味を確かめようとするかの如く何時までも繰り返していた。

 ――新春に起きた事件は、吹き荒ぶ春風の如く、刹那の出来事として去って行く。男の脳裏に金色の糸を刻み、黒き疾風が雨を降らしながら翔ける空を見せる事も無く、白き温もりばかりを残しながら。



8.



 翌日、朝方から強い雨の降る陰鬱な空が広がる下で、霖之助は香霖堂の居間に座りながら何をする事も無く天井を見上げていた。つくづく客が頻繁にやって来ないというのは、こういう時に限って便利なものだと彼は思う。元来思考が途中で遮られる事を好まない彼の性分からすれば、平生売り上げが伸びないなどとのたまっていても、その実その方が合っているという事を思い知らされるのである。ただ屋根を打つ雨音だけが、煩わしく思われた。
 やがて彼は何かを思い立ったのか、突然立ち上がると傘も持たぬままに店を飛び出て行った。如何なる計画が頭の中で練られていたのか、それは彼自身にも判らぬ事である。彼はただ心を急かす何かに押されて、唐突に湧きあがった衝動に身を任せたまま店を飛び出した。それは冷静な霖之助には甚だ似付かぬ姿である。けれども彼自身に懊悩や煩悶はありはしなかった。感情的に行動する事でそういう類のものを頭の中から一切排除出来たのは、彼にとって僥倖であったに違いない。

 身を打つ雨は決して温かなものではなかった。ざあと降り注ぐ水の飛礫に身を晒しながら、時に神の涙というものは人に厳しく当たるものだと頭の片隅で考えて、霖之助は一心不乱に走り続けた。傘を持って来れば好かったなどという後悔は起こり得ない。霖之助には既に目指している場所の一点しか目に入らぬ。遠方に見える長い石造りの階段が、彼を待ち受けるかのように、薄靄の中で姿を明らかにしていた。
 人里の真只中を横切り、人々に怪訝な眼差しを向けられながらも、彼の足を止める枷には成り得なかった。懐かしき光景を目にしながらも、想い出が頭の中に浮かび上がって来る事もなかった。まるで機械のように、一つの使命に囚われた存在として、彼は走り続けている。霖之助は心の奥底で自身を客観的に傍観する自分が、「これではまるで過去に囚われている者のようだ」と評している声を聞いたような心持ちがした。そうして確かに、と納得する自分が居る事に気が付いた。衣服を泥に塗れさせながら、髪先から雨水を滴らせている自分は、過去という水の中で溺れているようだ、と。

 やがて長く上へと続く階段の前に辿り着くと、霖之助は漸く足を止めて、膝に手を着きながら肩を上下させて疲労に喘いだ。常人に勝る体力を持っていても、この距離を走り抜けるのは並大抵の事ではないと、心中で自分の無謀さに呆れながら、それでも後悔はなく、ただ此処まで辿り着いたという充足感が疲労困憊の霖之助を慰めている。心頭に灯った焔は赫奕として激しく燃ゆる赤き焔から、静邃なる青き焔へと変化した。
 ――そうして、彼が顔を上げた時、そこには一人の女が傘を手に持ちながら立っていた。金色の髪色を薄暗い天下に靡かせる、美しき女の姿は、霖之助もよく知る姿であった。

「傘も差さず肩が上下するほど疲れ果て、一体こんな所で何をしているのかしら」

 雨が視界から消え失せる。見上げると、胡散臭い笑みを湛える紫が、霖之助の上に傘を翳していた。ざあと騒がしい音が世界を支配する中で、女の声は明らかに聞こえる。激しく脈打つ心臓は、鼓動を刻みながら内から霖之助の身体を熱しているかの如く思われる。彼は息を何とか整え終えると一気に背筋を伸ばして紫と向かい合った。大地を穿ち大きな水溜りを作るほどの豪雨の中で、彼女の身体には濡れた様子が微塵も見えない。つくづく便利な能力だ、と霖之助は冷然たる瞳で紫を見据えながら、心中で評した。

「君こそ何をしているのだか。先回りなんかして、僕に何か用でも?」
「いいえ、私は此処から見ていただけよ。決して先回りなんてしていないわ」
「先回りじゃなければ待ち伏せだ。全く趣味の悪い事をする」
「何だか知らないけど酷い云われようね。何時にも増して冷たいのではなくて?」
「何時にも増しては僕の台詞さ。全て知っているような顔をして、――胡散臭いのは相変わらずだ」

 云いながら霖之助は紫の隣を抜けて階段を上ろうと一段目の石段へ足を掛ける。彼自身、全て知っているような顔をしてと云っておきながら、自分が何故こうして行動しているかという明確な答えは判らない。飽くまで彼の行動は衝動によるものが多く、その判然たる理由などなかったのである。それだから紫の全てを見透かしているような態度が癪に障ったのかも知れない。自らの判らぬ疑問の答えを、何故他人が知っているのかと。

「――果たして、貴方がしている事を望んでいるのかしら」

 背後の声は冷ややかに、ざあという音が消え失せる。それは肺腑を抉る辛辣な言葉であった。意味が判らなくとも、その言葉の響きが既に、霖之助に答えを与えているように思われた。そうしてそれは恐らく間違いではないと、彼自身気付いている。誰に対してかなどと、知らぬと云えるはずがなかった。

「同情から来る親切なんて、迷惑なだけだわ」
「それならどうしろと云うんだ。大体君が何を知っている訳でもないだろう」
「知っているわ。博麗の巫女の事なら、何でも」

 霖之助は既に冷静さを欠いている事にすら気付いていない。図らずも振り向いた彼の瞳は刺々しい鋭さがあった。けれども紫は怯む事なくその瞳を真直ぐに見返している。男の鋭き視線に対抗するように、更に鋭い視線を以て、まるで刀の切先がぶつかりあって火花が散るかのような剣呑さと激しさを彷彿とさせる危うい交錯である。が、元より争い事を好まぬ霖之助は、その刀を鞘に戻すより他になかった。実際彼が感情的に行動を起こしている事は、傍目から見ても明白だったのである。それを自覚していながら、紫と対抗するのは惨めなばかりである事を、彼は知っていた。

「……あの子が、今にも死んでしまいそうに見えた」
「私にもそう見えるわ、結婚を決断した時から」
「それなのに、何故結婚など」
「あの子が望んだのよ。私が切欠を与えて、あの子が望んだ」
「切欠など与えなければ好かったじゃないか」
「必要な事なのよ。幻想郷が今の平和を維持する為にも。それには外聞も付き纏う。体裁は取り繕わなければならないわ。それが例え身を裂く苦しみと同義だとしても、博麗の巫女は代々そうして存続しているの」

 紫の説明は世の理不尽を表したかの如く霖之助には思われた。だからこそ遣り場のない怒りが波紋を広げて悠然と自己の中に広がって行くような心持ちがする。現状を把握するのにそれ以上の言葉はいらなかった。霖之助は賢しい。けれども賢しいからこそ、この悲しみはやって来る。霊夢が受けた苦しみも、判ってしまった。

「それでも我儘に走るのなら好きになさい。例え同情でも、優しさは感じられるかも知れない」

 食い縛った歯からは力が抜けた。まるで先刻の疲労が大挙して来たかのように心身が疲弊し切っている。霖之助は力なく石段の上に腰を落とした。頭を抱え、濡れる頭に通した指は、まだ温かい。

「今ほど君を憎らしく思う事は、きっともうないだろう」
「私は云ったはずよ。小説の中にあるような劇的な展開なんて、現実になってみれば恐れるだけだと。これは予言でも何でもないわ。貴方自身が招く結果でしかない。それをどう受け止めるかも、全て貴方次第だという事を決して忘れないようにすると好いわ。貴方みたような人は、穿った見方を捨てるべきね」

 そうして霖之助が顔を上げた時には紫の姿は無く、そこには遠く広がる景色の中に糸のような雨が降っているばかりである。春の彩りを増した光景に降る雨は残酷性の象徴のように思われた。けれども一番残酷な事を仕出かそうとしていたのは自分だと気付くなり、霖之助は己の滑稽を恨んだ。全く馬鹿な男だと自らを蔑まない訳には行かなかった。
 が、それでも彼の足取りは重くなりながら石段を登って行った。永久に続くかとも思われるほど長い階段を進むに連れて、背後に広がる風景が小さくなって行く。やがて足も棒切れのようになり、汗が雨にも負けぬように額を滲み出すようになった頃、彼の視界には見慣れた神社の境内が広がっていた。

「神の涙などと……これはあの子の涙だ」

 彼が立ち尽くす前にある鳥居の両柱には紐が結ばれて、境内を封鎖するようにして一枚の看板がぶら下げられていた。「立ち入りを禁ず」とだけ書かれたその看板が、霖之助の目に痛く焼き付く。灯りの点いていない母屋には圧し掛かるような分厚く暗い雲が懸かっている。金色の糸が――金色の糸が、彼を嘲るように揺れている。

「こんなに雨が酷いのに、傘も差さずに何をなさっているんですか」

 振り返れば、現実に金色の糸は確かに揺れていた。雨に濡れて滴る水が地面に波紋を広げている。無情な雨音がただひたすらに響いていた。遠い空に稲光が走り、大地を引き裂く雷鳴が世界に轟く。その光に照らされた下に、魔理沙の顔があった。幼き日から著しく変貌を遂げた、かつて霖之助と境遇を共にしていた人物に似た顔が、無表情に佇んでいる。霖之助の意識は不意に途切れ、耳にしつこく張り付いた雨音ばかりが彼を取り巻く世界を支配しているように思われた。……



9.



 目が覚めると見慣れた天井が視界に入り、霖之助は次いで自分が暖かな布団の中で横になっているという事に気が付いた。額には濡れた布巾が載せられて、心地好い冷たさがある。しかし着ている衣服は汗に塗れているようで、殊に濡れた肌に張り付く衣服の感触が不快に思われた。窓の外を見れば漆黒の闇が帳を下して世界は暗黒に染まっている。どれ程の間寝ていたのだろうか、と考えて、霖之助は唐突に自分の意識が途切れる直前の映像を思い出した。
 ――濡れた髪から雨水を滴らせ、若かりし日の時分に見慣れた顔が無表情に佇みながらこちらを見据えていた。徒に輝く金色の明眸は何をも伝えぬ無機質なもので、肌の白さは触れてしまえば砕けそうなほどに儚く見えた。果たして彼女が何故あの場にいて、あのような表情をしていたのか、霖之助には考えてみても判らなかった。ただ紫の言葉が引っ掛かる。そうして胸の中で解けない蟠りが生まれる。霖之助は深く深呼吸をすると、上体を起こして辺りを見回した。

 雑然とした店の様子も窺えれば、ある程度片付けられた居間は尚明らかに窺える。けれども霖之助を此処まで運んで来たと思われる人物が一向に見付からない。もしや帰ったのかも知れなかったが、その内台所から物音がしたのでそちらを顧みると案の定件の人物は湯気の上がる土鍋を手に持ちながら案外な顔をして霖之助と目を合わせた。金色の双眸が灯りを受けて煌々と輝いている。湿った髪の毛が、彼女を何処か大人びて見せた。

「お身体は如何ですか? 一時は凄い熱で大変だったんですよ」
「大分楽になった。……君が僕を此処へ?」
「ええ、突然倒れられたので、ただ事じゃないと思ったんです」
「それはすまなかった。全く自分でも不思議だよ、あの雨の中何をしていたのだか」

 魔理沙は土鍋を卓袱台の上に置くと、霖之助の隣に腰を落ち着けた。そうして何処か物憂い気に視線を畳の上に落とすと「きっと何かあったんでしょう」とだけ云って小皿に雑炊をよそった。

「君が僕を看病とは、時が経つのも早いものだね」
「こんな時ぐらい嫌味は止して下さい。折角霖之助さんが元気になる為のお手伝いをしているのに」

 困った風に微笑む魔理沙に、霖之助はあははと笑った。魔理沙の幼き頃――未だ弾幕ごっこに情熱を燃やし、遠い目標である霊夢を追い掛けていた時分では、生傷を付けては霖之助の元にやって来る魔理沙をその都度治療してやっていたものだから、こうして逆の立場になってみると、甚だ不思議な気分がするのである。霖之助は魔理沙に気が付かれないように微笑むと、手渡された小皿を受け取って、雑炊を口へ運んだ。

「霊夢に会いに行こうとしたんですよね」

 それは不意に霖之助の胸に突き刺さる矢となって、彼の動きをことごとく封じてしまった。諧謔を弄する声音ではない。偽を偽と認めさせる為の脅迫の声音である。魔理沙らしからぬその声に、霖之助は一時彼女の真直ぐな瞳を見返しながら、空洞になった頭の中でぼんやりと過去の単純な光に満ちていた魔理沙の元気な瞳を思い出していた。――目の前の瞳には、冥々たる闇を彷彿とさせる光が、金色の影に隠れて潜んでいるように思われた。
 雨は尚も頻りに降っている。一寸先も見えぬ闇の中より聞こえるのは雨が大地を穿つ音、屋根を貫かんとして猛然と襲い来る音である。霖之助はそんな閉塞された空間に閉じ込められたような心持ちがした。逃れようと思えども、決して逃れられぬ運命の中に身を置いて、安穏と暮らしていた自分に憎悪の念を抱いた。こうなる事が判らなかった訳ではない。この状況こそが、紫の云う結果なのだろうと、霖之助は思わない訳には行かなかった。

「行ってみたのは好いが、結局会えなかったのだから滑稽極まりない」
「何故、あの酷い雨の中、傘も差さずに」
「さあ、それは僕にも判らない。ただ気付いたらあそこに向かってたんだ」
「恍けないで下さい。貴方は何時も……」

 ざあと雨音が一層強くなる。遠くに降る雨が全て一つ所に集まったかのように、煩わしい音が世界を包み込む。それでも尚、魔理沙の声だけが明瞭である。稲妻の音よりも、熾烈な雨音よりも、魔理沙の声が霖之助にとって一番大きいものに思われた。その震えた声色は、もう幼い彼女のものではなく、大人として熟した女性のものである。時計の針は決して戻る事が無い。霖之助は努めて現今に生きねばならぬ。故に身を差す千針の痛みに耐えねばならぬ。

「貴方は何時も、私を遠ざける」

 近くに落ちた雷は雷神の怒りか気紛れか、泣きながらにして怒りを露わにする彼女の姿は印象的であった。見れば見るほどに、昔日の面影がそこにある。あながち間違いではないのかも知れない。霖之助は心の奥深くでそんな事を思った。無意識の内に彼女を遠ざけていたのかも知れないと、そうしてその理由すら自己の中に判然として在るという事を。

 金色の糸が目の前に揺れる。
 遠ざかって行ったのはその糸ではなかったか、自問する彼に返答は無い。
 なれば濡れた瞳が向くのは罪の証左に他ならぬ。

 恋は罪悪とは誰の言葉か――霖之助は魔理沙の言葉に、何をも返し得なかった。



10.



 雲の晴れた空に雲雀は高く、清廉なる蒼穹が広がる下で、霖之助は酷く憂鬱な気分であった。上がったばかりの雨が木々の葉から滴り落ちる度に、その下にある水溜りに波紋を広げる。まるで彼のざわつく心を表しているかのようなその様子に意味も無く腹が立ち、霖之助は足元にあった小石を蹴り飛ばした。
 近来の霖之助の精神状態は安定しているとは云い難かった。様々な事柄が錯綜して、事の問題は隠蔽されたまま浮き彫りにならない。それを暴いてみようとしても不毛な努力である。霖之助は今になって認めざるを得なくなった。何時か紫が云った通り、小説のような熾烈な展開に身を置けば誰であれそれを恐れると、痛感せざるを得なかった。

 ――昨日の晩、魔理沙は何も云わずに黙ったままでいる霖之助を、涙の零れる鋭い眼差しで睥睨したかと思うと、一目散に店を飛び出して行った。未だ雨嵐の激しい時分であったが、そんな事には頓着する様子すら見せなかった。後には場違いに温かな湯気を昇らしている雑炊の入った土鍋が卓袱台の上に載っているばかりである。
 霖之助には追いかけようという気さえ起らなかった。或いは追い掛けた方が好かったのかも知れぬ。けれども彼には、本当に今の自分が彼女を追い掛けても好いのだろうかという確証をどうしても得る事が出来なかった。人知れず霖之助の懊悩煩悶は強く、決断を下すにはあの時の時間はあまりに短か過ぎたのである。

「……」

 そう云えば、と思い出す。それは彼自身が引き起こした罪因の一つでもあったのかも知れない。そうしてそれを思い出すという事は、罪垢に塗れし者が受ける罪苦に等しい行いである。彼は覚えずして贖罪へと流れ着いた。彷徨い悩乱する咎人が辿り着く安息の地である。霖之助は最早知らぬ存ぜぬで通せる地点から遥か離れた地に立っている。……



 それは魔理沙にしては珍しい問いであった。霖之助とて魔理沙の口からその言葉を聞いた時は目を見開いたほどである。――彼女は自分の母についてこんな事を尋ねた。

「なあ香霖、私の母ってどんな人だったんだ?」

 初夏の陽が眩しく暑い昼下がり、香霖堂の縁側に隣り合って座りながら風鈴の音を聞いて涼んでいた二人は、暑さに茹だるのを漸く止めにした。が、霖之助の表情は何処か間が抜けている。余程魔理沙の質問が案外なものだったと見えて、彼自身質問の人物について思い出すのに苦心したのかも知れない。そうして返した言葉も、やはり見当違いのものだった。

「どうしてそんな事を急に」
「好いじゃないか。私が生まれてすぐに亡くなったんだろ、娘として知りたいと思うのは当然じゃないか」
「まあそうだが、それにしたっていきなりだよ。大体そういうのは親父さんに聞いた方が早いと思うが」
「意地悪い事を云うな」

 茶化す霖之助に強く云い放ち、魔理沙は憮然とした表情になって腕を組んだ。縁側から下ろした足が頻りに揺れている。霖之助は妙な事を聞かれた所為か、そういう所は母親に似ていないと心中で思った。顔を見てみれば確かにその面影は残っている。けれども性格を見ていると驚くほど懸け離れている。尤も魔理沙の母親の過去について、霖之助は深くは知らないので何とも云えないが、こんなにお転婆な少女もそうは居ないだろうと思った。

「そうだね、何と云えば好いのか……とにかく不思議な人だった」
「何が不思議だったんだ?」
「当時の僕からしてみれば、って事だがね。あの人の在り方はどう考えたって不思議だったよ」
「だから、何が不思議だったか聞いてるんだよ」

 彼の前で涙を流した沙耶という女性の姿が、頭の中に現れる。
 初めて二人で人里の道具屋に云った時の周囲の差別の視線、産婆の侮蔑の眼差し、残酷な人の情。死に行く彼女の青白い頬に浮かんだ、微かな笑み。遺された拙い招き猫と、彼女の面影を残す魔理沙という少女。――思い出すのは辛い想い出ばかりであった。

「自分より他人を大切にする人だった。何せ、何処の誰かも判らない行き倒れを向かえ入れて、その上世話までしてくれた人だからね。――だが、自分の苦しみを決して他人に明かそうとしない人だった」

 霖之助の前で何をも云わず、涙を零した美しき女性の立ち姿。謝る彼女を見て胸が締め付けられるように痛んだのは、自分が愚かだという事に気が付いたからに違いない。彼女は霖之助が耐え続けていた心ない無情な視線や言葉を、彼以上に受け続けていたのである。霖之助の眉根は僅かに下がった。哀愁の漂うその姿を、魔理沙は神妙な面持ちで眺めている。

「だからこそ強い人だったのかも知れない。彼女は、君の母親は今際の際でも君の事を案じていた。自分の身が既に死へと近付いているにも関わらず、君だけは生きていてくれと。――少々元気に成長し過ぎたようだけど」

 そう云って軽く笑って見せた霖之助に、魔理沙は「一言多いぜ」と返した。そうして被っている帽子を深く被り直し、一寸黙った。初夏の生温かな風が二人の髪を撫でる。風鈴がちりんと音を立てた。大きな入道雲が遠い空に広がっている。天を支配しようと蠢く恐ろしき白の塊である。霖之助は薄ぼんやりとした思考でそんな事を考えながら空を見上げていた。目深に帽子を被る魔理沙は未だに言葉を発さない。珍しい事もあるものだと、霖之助は心中に呟いた。

「なあ」

 そんな時、魔理沙が不意に云った言葉が、熱せられた鉄を押し付けられたように、劇烈な印象を以て焼き付いている。霖之助は彼女の言葉を、何ら警戒する事なく聞こうとしていた。それが失策だったと彼が気付くには、時の流れはあまりにも無情で容赦がない。魔理沙は普段と同じ声色で、不自然なほどに普段通りの声色で尋ねた。

「香霖はその人の事が好きだったのか」

 初夏の生温かな風が吹く。それは先刻よりも心持ち冷ややかに思われた。
 霖之助は魔理沙の問いに、如何なる答えも返さない。肯定とも否定とも付かぬ曖昧な沈黙という手段ばかりを行使している。ただその顔には悲しみの影が落ちていた。燦と煌めきながら空界に浮かぶ太陽による影ではない。恐らくそれは、彼の内より湧き出る闇の一端であったのかも知れぬ。確認する手立ては無い。けれども雰囲気が語っている。それだから魔理沙も、それ以上追及するような事はしなかった。

 夏の強い陽射しは、二人の影を振り払う事は出来なかった。大地を焦がすような陽射しの中で生まれた陽炎に、過去の残滓が揺らめいている。霖之助はそこに金色の髪を腰まで垂らす女性を垣間見たような心持ちがした。




 霖之助が再び魔理沙と相対した時、魔理沙は既に彼が前に会った魔理沙とは確かな違和が見て取れた。彼女はかつての無鉄砲さを失い、魔理沙を知る者が見れば驚くしかないほどに清楚な人間へと変化していたのである。言葉使いは現在のそれと同じであり、何時も被っていた帽子は頭から消えていた。未だ少女として稚気を残す彼女が、大人の女性へと背伸びをしているように見受けられるその姿に驚いたのは霖之助ばかりではない。誰もが魔理沙の変貌振りに目を見開いた。
 そんな折に霖之助は尋ねてみた事がある。どうして突然変わったのか、その理由について聞いてみると、魔理沙は何処か遠くを見るような表情で、そうして何処か寂しげな眼差しで「母のようになりたかったんです」と云った。霖之助は今でもその時の魔理沙の様子を覚えている。その身体に纏う雰囲気が物凄く剣呑なものに見え、色鮮やかに残る昔日の記憶の中で、華やかに微笑んでいた沙耶の姿と見紛う程に似ていたからである。

 兄妹のような関係が瓦解し、一人の男と一人の女という関係へと変化した二人は今も尚同じ立ち位置から離れてはいなかった。が、それも既になく、二人は疾うに動いている。元の位置には決して戻れぬ所へと、静かに新たな歩を踏み出し始めていたのである。例え当人がそれを望んでいなくとも、運命とは人から見えず、聞こえず、感じる事の出来ぬ所で常に厳かな静謐さを以て動いている。二人はその歯車の中へと、遂に巻き込まれてしまった。

 先の見えぬ恋の路に差す光は闇の如く、決して行く末を見渡す事を許さない。




 紅白の蝶の褥より 聞こえ来るのは 啜り泣き。
 黒白の疾風に 渦巻く颯声 其れに喚ばれし大嵐。
 悩む男に一輪花 輝く花弁は黄金色 零るる雫は神涙の一滴。



11.



「流石に博麗の巫女の目を騙す事は出来ないようですね。元よりそれは承知の上ですが――"元"を付け足した方がよろしいでしょうか? ……そう睨まないで下さい、何も害意があってやって来た訳ではありませんので。そうですね、何故来たかと問われれば、記者故の好奇心とお答えするより他にないのですが、一体全体どうしてこれほど急に結婚などという行動に踏み切ったのでしょうか? 私にはそれが甚だ不思議に思われるのですけれど」

 寂しき神社の片隅に、邂逅果たすは天狗と人間。

「関係ないと、そう来ましたか。確かに私と貴方に内密な事情を話す仲があるとは思いませんが、幻想郷に名高いあの博麗の巫女が結婚するという事は、私達にとって紛れもない大事件なんですよ。その理由を聞いて皆に報じるのは記者の務め、例えそれが貴方の個人的領域に踏み込む性質の悪い行いでも、もうそんな年なのかで納得出来るほど頭が柔らかくはないのです。どうか此処はお聞かせ願えませんか? 無論それなりの謝礼はするつもりです」

 八手の団扇に隠れる天狗の微笑み。

「そんな怖い事を云わないで下さい。それに貴方としても勘繰られる材料になる発言は控えた方がよろしいのでは? それでは何か断腸の思いで決断したと思わせてしまいますよ。――と、危ない危ない。巫女を引退した身なれど、その力が衰えるには時間が足りないようですね。私としてもそこまで強く拒絶されたからと云って強硬手段に転じる事は出来ません。記者として最低限の秩序というものが私にもあるので、今日はこれにて失礼したいと思います」

 砂塵舞う大地より飛び立つ黒き翼、白い歯が怪しげな微笑と共に光る。

「――ああそう云えば。与太話で甚だ恐縮ですが、前に貴方と話していた事を覚えていらっしゃいますか。ええ、その事です。あれからも度々様子を窺っているんですが、どうにも私が云った事の方が正しいようですよ。詳しい事情は外から覗く私には知り得ない所ですが、先日あの店の付近から彼女が飛び出して行く所を目撃しましたから。あれは何かあったと見て間違いありませんね。それは貴方も好くお判りでしょう、何せその原因が貴方に無いとは云えませんから。一体何を仕出かしたんです、私の目から見ると、あれはただ事じゃない様子のように見受けられましたが」

 晴れる砂塵、飛び出すは針玉札数多。

「気に障ってしまったのなら申し訳ありません。ただ、この様子じゃ前に云った新聞は出せそうにありませんね。誰に殺されるか判ったものじゃないですし。今までに起こった一連の出来事は私の胸の中に仕舞っておく事にします。ええ、判っていますとも、今後この件に関しては無暗に首を突っ込まないと約束します。――あははは、あの方と似ているって、私はあの方と比べればまだまだ可愛いものだと思います。それではこれにて。祝言は式の日まで残しておく事にしますので、その時にまたお会いしましょう」

 天より舞う黒き羽、大地に立つは白き人。
 ――残され浮かぶは顰め面。




「御機嫌よう、会うのは久し振りではないけれど、名目上は久し振り、の方が都合がよろしいかしら。だってそうでしょう、あの子は私みたような女が貴方の近くに居る事を不愉快に思う事でしょうから。――ふふふ、そう怒らないで頂戴、何も貴方を怒らせる為に此処に来た訳じゃないのよ、私はただ貴方の"結果"を耳に入れようと思って来たんだから。貴方も痛感しない訳には行かなかったでしょう、あの時はよもや自分がこんな立場になるとは思っていなかったのでしょうけど、実際小説のような熾烈な恋の中に身を置いてみて、私の云った事が正しいと思ったのではなくて?」

 闇より乗り出す半身に、扇子に隠された美しき貌。

「あらあら、今更知らないで通ると思ったら大間違いだわ。此処に来て白を切るつもりなら、貴方ってとんだ馬鹿者ね。判っているのなら好いのだけれど……その様子だとどうしたら好いのか判らないってところかしら。ええ、貴方の仰る通り。私は全て知っている。知っている振りなんてしてないわ、私は何時だって全てを知っている。だからこそ胡散臭いって云われるのね。それはそれで悪い気はしないけど、今の貴方からすればそれが一番腹立たしい私の態度なのかしら。そんな事云ったって顔を見れば判るわ。一度鏡を見て来て御覧なさい、酷く怖い顔をしていますわ」

 男は諦念、女は微笑、両者の間に和気は無し。

「まあ、そうは云っても私から貴方に与えられる助言など有りはしないのよ。私があれこれこうしてどうこうしろと云った事に貴方が従って、そこから導き出される結果が望ましいとは到底云えないでしょう。だからと云って、ずっと手を拱きながら此処で傍観している振りをしていても耐えられたものじゃないと思うけど。それは貴方も重々承知している事よね? 理不尽な事かも知れないけれど、貴方の行動の一つ一つが誰かの心を傷付けるのだから。逃れようと思えば簡単よ、それでも複雑な心を持つ生き物には酷な話だわ」

 扇子が閉じて露わになる女の貌に、微笑無し。

「一つだけ教えてあげる。あの子が急に結婚を決断したのは、私の所為と表現しても過言ではないわ。……落ち着いて聞いて。何も此処で云い争う事が建設的な事でない事は貴方でも判るはずでしょう。――決して望んでした事ではなかったけれど、それが必要な事である限りあの子は決断しなければならなかった。それは貴方も御存知の通り、あの表情を見ながらにしてそれを真と定めるのはあまりに安直だわ。これを話したからと云って、貴方の心境が好い方向に向くとは思えないけど、恐らくこれはあの子が貴方に話したくなかったと同時に、話したくもあった事でしょうから」

 交錯する怪訝な眼差しと真摯な眼差し。

「――悩むだけ悩むと好いわ。貴方が行動を起こせばそれが直接結果に繋がる。誰であれそれに異議を申し立てる事なんて出来ないんだから、貴方は好きに行動すれば好い。一つ云って置きたいのは、今も店の入り口で立ち止まっているあの子の事に関してね。あの子の心はあの子にしか判らないわ、貴方の行動があの子にどう思われるのかは誰にも判らない。だとすれば慎重になるのも一つの手ね、誰も傷付けないようにしたいなら。尤も、それが最善なのかどうかを判断するのも貴方よ、運命はどんな方向にも転ぶ可能性を秘めている。書きかけの小説の展開に数多の分岐点があるのと同じように。それじゃ、私はそろそろ。次こそは私が祝言を贈れるよう、祈っていますわ」

 闇に消えた女の姿、店の入り口に駆ける男。
 ――風の余韻が残る扉の前、立つ男に顰め面。



12.



 頭を抱えて過ぎ行く事実をただ眺めるだけの日々が、一体どれほど続いた事か、霖之助はそんな事を考えながら己の情けなさやら憤りやらで結局如何なる行動にも踏み出せずにいた。傍らに置いた読みかけの書を手に取る余裕は、数日前には失くしてしまった。今は何時もの安楽椅子に腰掛けながら思慮に耽るばかりである。が、だからと云って自体が好い方向や悪い方向に進む事もなかった。何もしない事こそが、彼が唯一安穏で居れる一時となっていた。
 窓より外には絢爛豪華な桜吹雪が舞っている。淡紅色の花弁が吹き荒れる風雪の如く乱れ飛ぶ様は実に明美に思われたが、霖之助の情操は元より特別な感情を喚起しなかった。彼はただ次第に移ろう外界の景色を見遣りながら、無為に過ぎて行く時を見詰め続けるばかりである。そうしてそんな自分に嫌悪を感じ、遣り場のない怒りに身を震わせている。近来好く見る夢は、既に睡眠時だけでなく現実の世界でも彼の脳内を支配するようになった。気付けば霖之助の目前には、彼を嘲笑うが如くあの金色の糸がちらちらと揺れているのである。

「こんにちは。皆さんお待ちかねの文々。新聞の配達です」

 そんな折、不意に店の扉を開けて入って来た者がある。霖之助が顔を上げて見てみると、そこには微笑を湛えた射命丸文が紙の束を抱えて立っていた。歩き難そうな靴を履いているのに大荷物を抱えて立っている様は何処となく不似合いのように思われる。霖之助は「ご苦労様」と彼女を労ったばかりであった。

「こんなに気持ち好い小春日和、そう陰湿な顔をしていると運気も下がりますよ」
「余計なお世話だよ。生憎君の新聞を読んで失笑している余裕がないのでね」
「失礼な。私の発行する新聞は皆様に笑顔をお約束しているんです」
「決して晴れ晴れしい笑顔ではないと思うが。――新聞ならそこに置いてくれ」
「了解です。――ああそれと。今回は思わぬ朗報も一緒ですよ。きっと驚きになる事だと思います」
「君の云う朗報は碌な記事であった試しがないじゃないか」
「本当に失礼な方ですね。まあ好いのですけれど、朗報というのは記事じゃなくて手紙です」

 文は不満げに顔を歪めて見せると、折り畳まれた新聞紙を手近に置いて、それに挟まれていたと思われる封筒を出して霖之助の前で振って見せた。すると霖之助は甚だ驚いた気味で、目を見開きながら「誰からだい」と云って立ち上がった。それで文の唇は意味深長に吊り上がる。まるで前回と同じだと、霖之助は心中に胸騒ぎのような感じを覚えた。

「わざわざ聞かなくともお判りでしょう。博麗の巫女から挙式の日程の知らせです」

 店の外で木々がざわつく音がする。霖之助は来るべき時が、遂に訪れたのかと思わない訳には行かなかった。元より想定の範疇である。が、驚愕する事は無いにしても、先日の事件が少なからず彼に動揺を与えていた。

「それでは私は配達が残っていますので。博麗の巫女からはくれぐれも目を通して下さいますように、と」
「ああ、判っている。御苦労だった。――ところで、その傷は一体どうしたんだい」
「あはは、そう気にしないで下さい。私としてもお恥ずかしい傷なので。まあ好奇心猫をも殺すと云いますか」
「まあそんな所だろうとは思ったが、虎穴に入らずんば虎児を得ずとも云うよ。記者としての務めじゃないか」
「そう云われると救われます。結局私は親の虎に殺されかけましたけど」
「好奇心が旺盛過ぎても困りものだ。例え記者であっても分別を怠るなという事だろう」
「肝に銘じておきます。それでは」

 そう云って文は店を出て行った。大方あの傷は手紙を届けて欲しいと頼まれた時に、霊夢に余計な事を云って怒らせた為に付けられたものであろうと霖之助は推断すると、先刻文が置いて行った新聞と封筒を手に取ると、再び安楽椅子に背中を預けて、先に新聞紙を広げた。真先に目に入った見出しには「経験者の語る結婚」とある。相変わらず眉唾な記事ばかりを載せるものだと思いながら、霖之助は見るともなしに記事を読み始めた。

「人里に住まい、何度も結婚を経験している上白沢慧音さん(年齢不詳)にお話を伺ったところ、年頃の女性、或いは男性には実に耳寄りな情報を提供して下さった。今回は慧音さんが語った「結婚」について報道する。」

 そんな文頭で始まった記事は、あまりにも胡散臭いものである。そもそも人里に住まう半獣が結婚した事があるなどとは一度として聞いた事が無かったし、この記事も事実を捻じ曲げて作られたものだと判断するのに時間は要さない。次に文が人里に訪れた時には酷い折檻を受ける事だろうと、怒り狂った半獣の姿を想像して霖之助は図らずも背筋に寒気を感じた。虎穴に入って虎児を奪ったどころか棲み処を荒らして回った者には容赦のない打擲が待っているに違いない。

「慧音さんが語ったところによると、結婚とは一概に云えるものでなく、それには多数の種類があって、決して絵物語のような華やかなものではないのだと云う。愛情あっての結婚とは万人が考える理想かも知れないが、時には政略結婚など、夢を破壊するような結婚を強いる者もいる。幸いこの幻想郷ではそういう事はあまり見られないが、結婚したからと云って幸福が約束される訳ではなく、結婚を考える人はその相手をしっかりと見定めなければならない。でなければ後々後悔しても文句は云えないのである。婚約してから即刻離婚しては、周囲の視線も少なからず冷たくなる事であろう。」

 初めは如何にも胡散臭い記事であったが、内容は割と濃く、人里まで取材に云った事は確かであろう事は見て取れた。ただ問題なのは記事の説得力を増す為に、上白沢慧音が結婚の熟練者などと仄めかしている事である。そういう事を止めれば真っ当な記事になったろうに、と彼女の身を案じながら霖之助は更に記事を読み進めて行く。

「が、だからと云って此処で好い結婚をする方法などは教えられない。元よりそんな方法がないのだから致し方ないのである。――慧音さんはこう語ると苦々しい顔をして続けた。先日、博麗の巫女が結婚するという報せを受けて、誰もが驚いた事であろうが、彼女の結婚は正に理想通りと云えよう。尤もそれを理想と取る万人が居ればの話だが、大概の人々がそうだと思っている。彼女は結婚に至るまでに、その相手との関係を深く密接にして行き、そうして一つの分岐点として結婚という道へ進んだ。そういう地道な愛の育みが真の幸福を産み出すと、若人は自覚するべきである。」

 その文面が綴られた傍らに写真が掲載されている。見ると上白沢慧音の顔を大きく写したもので、そこには彼女らしくもない悄然とした面持ちがあった。胸を刺す痛みを必死で耐えているような、そんな事を彷彿させる表情である。霖之助がその表情の真意を汲み取るのは難しい事ではなかった。恐らくこれも、望まれずして、だが望まれて行われた報道なのであろうと霖之助は判じた。でなければ彼女がこのような取材に応じるとは思われなかった。

「以上から、覚えていて欲しいのは結婚が決して幸福を得る為に行われるものではないという事、結婚したからと云って必ずしも幸福や安寧が得られる訳ではないという事、一般的に好いと思われる結婚をするには、その相手との地道な愛情の育みが肝要である事である。若人には多くの時間が残されている。いずれ結婚をと考えている者、若しくは今まさに結婚を考えている者、皆よく考えてから事を運んで欲しい。願わくば、皆が幸福な結婚を出来ますよう。

 ――以上が今回の取材で得られた情報である。上白沢慧音さんが話してくれた貴重な情報を無駄にする事なく、誤った選択をする者が出ないように、当新聞記者は願っている。(射命丸 文)」

 そう締め括られた新聞を閉じて、霖之助はまずよく出来ていると思った。けれども決して真実を書いた記事ではないと思った。だが真実でなくとも真実である事には変わりがない。彼女は、――博麗霊夢は自らこの記事が皆へ読まれる事を望んだのであろう。自らが望んで幸せな道へ進んだと思わせる為に、決して心配をさせない為に、自らの内で暴れる激情を抑えながら、涙を呑む想いをしながらも依頼したのであろう。
 霖之助はそれを思うと、結婚というめでたい行事が途端に残酷で恐ろしいもののように思われて来た。そうして霊夢がその恐ろしいものに喰われてしまったように思われた。――霖之助は次いで丁寧に封をされた手紙を手に取った。



13.



「拝啓 待ちかねたように桜の木々が次々と鮮やかに色付いて行く今日、皆様もご清祥の事と存じます。
 前回私が差し出した手紙を読んで下さっているのならば、こうして続く手紙の内容にも一通りの見当が付いているのではないでしょうか。此度漸くにして挙式の日程が決定致しましたので、その旨をお伝えしたいと思ったのです。

 挙式は今より一週間後、子の刻九つ半より博麗神社の境内にて開催します。無論祝いの席を設けておりますので、宴会気分でご臨席賜って下さればそれだけで嬉しく思います。加えて多くの方が祝福してくれる事を期待していますので、どうか式に訪れた際には私に一声かけて頂きたく思っています。何を厚かましいと思われる事は重々承知しておりますが、元来こういう性格なのでご容赦下さい。私は結婚する事によって自らの人格すら変わってしまうのがどうしようもなく嫌なのです。

 思えば私が結婚するとは、本当に長い時日が経過したように思われます。私が博麗の巫女として数々の異変に立ち向かっていた頃には全く予想出来ない事で、今こうしている事が既に不思議なのは私ばかりの話ではないと存じます。しかし、人外の者と対峙していた私も、結局は一人の女だったのだと認めざるを得ません。所詮私も――こうして文にして書き起こすのは真に恥ずかしいのですが、恋には勝てなかったのです。
 時折思う事があります。恋とはなんて恐ろしいものなのか、と。淑やかで大人寂びた女性とは程遠い私でさえ陥落し、幸せな生活へと追い立てる妖怪の類ではないのかと。全く馬鹿げた事を云っているのは自覚していますが、時折本当にそう思うのです。皆様とて私の今の事態に驚かれた事でしょう。一昔前まではそういう事から最も離れた人間なのだと自負していただけに、今感じている驚きもとてつもなく大きく感じられます。

 ――昔日を顧みると、私の生活は甚だ人間の範疇を超越していたように思います。本来ならばそういう関係に落ち着かないはずの妖怪と交流を持ち、度々宴会を行っては嫌味を云われて、そのお返しとばかりに小突き、常人では到底しない事を平然としていました。けれども、今ではそんな思い出が愛おしいほどに懐かしく思われます。あの日々を送っていた私は悪態を吐けど皮肉を云えど、正直に申し上げればそんな些細な事を存分に楽しんでいたのですから。
 そんな私が今では一人の男性の元に寄り添って落ち着きました。落ち着いたなどと、あの博麗霊夢が、と思われても仕方がありません。何より結婚へと一番先に進んだのが私だという事に私が一番驚きました。文々。新聞の発行者、そして記者をも務める射命丸文様が編集なさった新聞の記事にも私が例として取り上げられていましたが、そこに書かれていた事もとても嬉しく思いました。新聞を発行して下さった射命丸文様、そしてその取材を受けて下さった上白沢慧音様に
、この場を借りて御礼申し上げたく思います。真に有難う御座いました。

 それでは挙式の日、多くの方々と相見える事を楽しみにしております。それでは油断ならぬこの時節、皆様が充分にご自愛なされますよう、お祈り申し上げます。
                    敬具
                       ――博麗霊夢」

 手紙に書かれた文を全て読み終えると、霖之助はその手紙を机に置いて溜息を吐いた。窓から見える桜の木が独り寂しげに風に揺られている。その梢から舞い散る花弁は何処へともなく飛び去って行く。行く宛てのない桜の花は何処で朽ち果てるのだろうかと、彼は一寸妙な事を考えた。けれども考えても切りがない。桜の花は何処かで地に落ちて寂しく枯れて行くのだという答え以外は見付からぬ。世の中はそうして誰も知らない所で動いているのであろう。

 置いた手紙を見遣ると、何処で手に入れたのか、高価そうな羊皮紙が幾つか重ねられている。再度それを手に持って文に目を通して見ても先刻と文章が変わる事はなかった。幾度見返せども、そこに追伸は見当たらなかった。……



14.



 ――広大に広がる黄金の薄野の中心に、気付けば立っていた。かつてないほどに明瞭な風景、千里先すら見通せそうに思われるほど遮蔽物が皆無な寂然たる景観、霖之助は自分が夢の中に居るのだと理解した。透き通る青色の大海に浮かぶ雲が悠然と流れて行く下、颯々と吹く風が心地好い。彼は何ともなしに薄を掻き分けて歩き始めた。
 耳を澄ますと川の潺湲が何処からか聞こえて来る。しかし辺りを見渡す限り眺めても水場は見付けられなかった。その上自然の音が聞こえてもそこに生物の気配が全くないので、却ってこの風光明美な薄野は殊更不気味に見える。が、霖之助には不思議と恐怖が無かった。悪夢でないという確信が既に根付いている所為かも知れぬ。ともすればその身を包む得体の知れない安心感の所為かも知れぬ。けれども幾ら考えても明確な答えは出なかった。

 ふと前方を見ると金色の糸が現れている。どうやって存在しているのか、風に吹き飛ばされる事なく、霖之助を誘うように、或いは嘲笑するように揺れている。近付いてみると、近付いた分だけ離れる。霖之助はまたかと思いながらその金色の糸を歩いて追い掛けて行った。果てのない薄野の景色は寸毫変わらず永久に続いている。金糸もまた果てなく逃げ続ける。何時しか懐かしき匂いが漂っている。薄野には似付かぬ家庭の温かな匂いである。霖之助は少し追い掛ける足を速めた。すると糸もそれに呼応するように速く逃げる。距離は永劫縮まる事がないかのように、彼と糸との関係はいたちごこに落ち着いている。すると段々視界に小さな生物が映るようになって来た。色とりどりの蝶が霖之助の周囲を旋回している。決して触れる事がないように、彼を中心に回り続けている。金色の糸は尚も逃げ続ける。霖之助は遂に走り出した。そうして走り出した時には周りの風景の一切合財が消え、残るのは黒洞々たる闇ばかりになっていた。

 星空すら見えぬ闇、太陽の輝きを忘れそうになるほどの闇、自身の存在すら飲みかねない恐ろしき闇。霖之助はそんな中で独り立ち尽くしている。我も忘れて叫んでも声が出ない。正確には聞こえていないのかも知れぬ。音すら聞こえぬ世界の中で五感の感覚を失いながら霖之助は死に物狂いで叫び続けた。死地に突然対面した者の如き阿鼻叫喚を撒き散らした。――やがて微かな明りが彼の眼を刺す。その時には見慣れた天井がそこにはあった。



 またあの夢か、と思いながら重い身体を起こすと、既に窓の外は明るい。どう考えても昼過ぎである。少々眠り過ぎたと自身を諌めると霖之助は家の中に異変を覚えた。何やら台所から物音がする。寝惚け眼を擦って耳を澄ませると、やはり人の気配がする。不審に思って立ち上がると、今度は料理の匂いが漂って来る。そうして正体は誰だろうかと確認しようとした矢先、台所からは一人の人物が姿を現した。

「今日は遅いんですね」
「そんな事はどうでも好いんだが、一体僕の家の台所で何をしているんだい」
「幾ら起こしても目をお覚ましにならないものですから、お昼を作っていたんです」
「君には些か遠慮の無さに対する自覚が必要だと思うね」

 そんな事を云って、霖之助は布団を手際よく片付けると畳の上に座った。それを見て、魔理沙も霖之助の対面に座る。霖之助は何だか妙な気分であった。関係が綻ぶには十分な出来事があったのにも関わらず、目の前で平気な顔をしている魔理沙が何よりも不思議だったからである。けれどもそれに中てられて自分が落ち着きを失くすのもどうかと思い、黙ったままでいる。我ながら小賢しいと思わずには居られなかったが、そんな自嘲の声も押し込んでしまった。

「それで、今日の用件は」

 霖之助は例の如く尋ねた。そうして例と同じ答えが返って来るものだと勝手に確信していた。それが大きな隙だという事にはまるで気が付いた様子がない。彼は何も用意をしていない無防備な状態で、次ぐ魔理沙の言葉の矢を受けねばならなくなった。弦を限界に至るまで引き、全力を以て放った矢である。

「用が無くても、私は此処に来ます」

 驚いて前を見ると、真直ぐに霖之助を射抜く金色の瞳がある。一瞬我さえ失ってしまいそうになるほど強き光を秘めたる瞳が、彼を射抜かんとしているのである。無防備な霖之助は彼女が放った矢が身体の奥深くに沈むのを感じた。そうして自らの愚かしさを自覚しながら、何をも云えずにその場に座り続けていた。瞠目した目が無暗に驚愕を表現している。

「用が無いといけませんか。そうであるなら、大人しく帰ります」
「そういう訳じゃないが……」
「曖昧な答えを返さないで下さい!」

 怒声が耳を劈く。途端に物音が聞こえなくなり、意表を突かれた霖之助はただ黙したまま魔理沙の顔を見詰めている。静謐を好む霖之助が恐れた沈黙が、二人の間を包み込み、金色の前髪が風に揺れた。

「貴方は何時も、そうやって本心を私に明かさない。曖昧な答えで場を濁して」

 震えた声は怒りか涙を堪える為か、霖之助にはそれが判りかねる。真直ぐ霖之助を見る彼女の瞳に涙は無く、凛とした姿に弱所など見当たらず、ただ震える肩だけが幼き彼女の姿を想起させた。――その姿に共通点があったろうか、と霖之助は思う。決してないはずであるのに、今は亡き沙耶の姿が、彼女に重なって見えた。迫り来る死に耐えながら、尚も娘を気遣った強き女性の面影が、確かに今の魔理沙にはあったのである。

「……動きを封じる足枷を引き摺りながら走る痛みを、鎖に繋がれた手枷を嵌められながら尚触れようとする苦しみを、決して手の届かないものを追い掛ける不毛さを知っていますか」

 それが彼女の受けて来た筆舌に尽くし難い苦悩の表れならば、霖之助はそれらを一度に体感したようなものである。凛と前を見る瞳は涙で滲み、肩の震えは唇に転移し、今にも崩れ落ちてしまいそうな儚さを身に纏う魔理沙は、必死に自己を保とうと苦心する者の如く見える。そうしてその姿が初めて霖之助の記憶に残る強き印象と合致した。沙耶は彼女と同様の姿で、耐え難き苦痛の果てに彼の前で涙を流したのである。

「私にはもう、耐える事が出来ません……」

 何か声をかけなければならない、というのは何処からかやって来る使命感であった。けれどもそれに反して、彼女に掛けるべき言葉は一向に思い付かない。紫が残した言葉が鋭く胸に突き刺さる。そうなれば、彼女に掛ける言葉など見付かろうはずがなかった。沈黙に身を委ねる霖之助の前で、魔理沙は今まで必死に堪えて来たのであろう涙を惜し気も無く零し始めた。鼓膜を掠める泣き声が、小さな針に変化して身を突き刺して行く。
 幽玄なる人の心の奥はどうしたって見渡せぬ。打算的に生きて来た霖之助には如何なる答えも返す事が出来なかった。

「……台所にお昼が有ります。後にでもお食べになって下さい」

 そう云って魔理沙は出て行った。金糸の残り香が執拗に残る部屋の中、霖之助は薄ぼんやりした頭で台所まで歩む。出来て新しい料理が、湯気を立てていた。味噌汁を一口啜ると、酷く痛みの伴う味がする。……



15.



 それからの時日は刹那の如く過ぎ去った。霖之助は霊夢が手紙にて告げた結婚式の日まで自分が何をしていたのかを判然と思い出す事が出来ない。けれども、この日だけは忘れていなかったとみえて、時間になるなり香霖堂を出発して博麗神社へと出発した。雲一つない晴れやかな空が見渡す限りに広がる、実に天気の好い日の事である。一人の見知った女性の晴れ舞台を、霖之助は祝福しに行く。彼にはそうする以外に何も出来なかった。

 長い道のりを辿り、博麗神社へと続く長い階段の前に辿り着いた時、上の方からは既に誰かしらが騒ぎ立てる声が聞こえて来た。太陽の傾きを見遣ると、もうじきで正午である。霖之助は大して急ぎもせず、ゆっくりと階段を登って行った。一段一段と進む度に聞こえて来る喧騒は大きくなって行く。けれども誰の声かは判別出来ない。あまりに多い人の声が混じり合っている所為で、どれも同じに聞こえて来る。霖之助は時折休みながら石段を登った。
 やがて階段の途切れる端から神社の屋根が見えた。もう数段と無い。霖之助の動悸は何故だか早まった。足が震えている心持ちがする。何だか精神に落ち着きがない。どうしてと自問する間に彼の足は神社の境内へと踏み入っていた。

 ――結婚式らしく装飾が施された神社が正面にある。その前で顔見知りの妖怪達が何やら騒いでいた。境内にこれと云った席は設けておらず、まるで何時もの宴会と同じ趣がある。霊夢の事であるから、恐らく「結婚式兼花見よ」などと云うのかも知れない。成程境内に咲き誇る桜の数々はどれも満開で、花見をするにはまたとない機会であった。そうして会場の様子を見るのもそこそこに、霖之助は境内の人だかりの方へ寄って行った。

 「おめでとう」と頻りに叫ぶ声がする。誰もが興奮していて、霖之助の存在に気付く気色がない。何とかして中心に居るであろう霊夢の様子を見ようとして、霖之助は人の隙間を縫って奥を見ようとした。

「霖之助さん」

 不意に自らの名を呼ぶ声は、霖之助が今まさに見ようとしていた人だかりの中心から聞こえて来た。そうしてその時には、そこにいる人物の視線と、霖之助の視線とが交差していた。黒曜石の輝きが、そこにある。
 途端に人だかりは中心部から離れ始めた。引いて行く人波の向こうに立つのは、白を基調とした布地に赤い躑躅を模した花弁が舞っている様を写した着物を着て、同一の人物とは思われないほどに大人寂びた化粧を施した霊夢である。彼女は赤い口紅を塗った唇に緩やかな三日月を描いて見せると、着物の裾を汚さないように淑やかな足取りで霖之助の眼前に歩み寄って来た。ふわりと香る慎ましやかな花の香りが鼻腔を擽る。周囲の人々から注目を集める中で、霊夢は霖之助を見据えた。

「来てくれてありがとう」

 その一言が幻燈の焔の先に揺れた陽炎を消し去った。霖之助の知る博麗霊夢という人間が、全く別の人間になったように思われる。その言葉が決別の証だと思うのは彼の邪推故か。しかしその言葉が単なる感謝であったのならば、霖之助が暫しの間硬直する事も無かったに違いない。それだけの重量が、霊夢の発した言葉にはあったのである。――やがて霖之助が返答も碌に出来ないでいる内に、一時は霊夢から離れていた人だかりは再び元のように戻ってしまった。
 一番初めに彼女へと飛び付いたのは小さな鬼の姿である。その少し離れた所で日傘を差した吸血鬼が仏頂面をしている。更にその後ろでは微笑を湛えたその従者がいて、月の姫君とその従者は人だかりを遠くから見守っている。哀愁を漂わせる二人には、霊夢の晴れ姿を見て思う所があるのかも知れない。霖之助はそんな事を思った。他にも大勢の妖怪が集まっている。気付けば先刻は居なかった者まで何時の間にやら霊夢に飛び付いていた。

 これは宴会ではないのだと理解するにはそれで十分であった。早くも場は祝いの席の様相を呈し出し、境内には多くの料理や酒が並び始め、各々が適当な場所に席を取り、今か今かと式が始まるのを心待ちにしている。霊夢は早々に母屋の方へと引き返した。乱暴な歓迎を受けたので、色直しなどがあるのだという。この舞台の主役が居なくなった会場では、霊夢に関する話題が飛び交っていた。
 「もうそんな年か」「まさか霊夢が」「遅れを取った」などという声があちこちから聞こえて来る。祝いの場にはあるべき祝いの雰囲気が漂い始めていた。――霖之助はそれを霊夢の尽力の結果であろうと判じた。

 丁度境内を見渡す事の出来る母屋の縁側には人気がなく、馬鹿みたように騒ぐのが性に合わない霖之助には丁度よい場所であった。それだから彼は会場の喧騒から一人離脱し、色々な者が騒いでいる様を、此処から遠い目で眺めている。するとこういう行事には必ず参加しているはずの姿が一人だけ見えなかった。今になって気付いた訳ではなかったが、この時間になっても姿が見えないのは流石におかしいと思ったのである。――金糸の主は境内の何処にも居ない。

 そんな時、不意に後ろの障子が開けられた。見ると霊夢が一人で立っている。化粧やら着物の着付けやらが一人で出来るとは思えなかったので、霖之助は一寸怪訝な眼差しで霊夢を見た。が、彼女は穏やかに笑んでいるばかりである。化粧も着物も、直されたばかりのようで、先刻博麗神社へ訪れた時に感じた驚愕が再び霖之助の内に押し寄せて来た。大人の女性として濃密な色気を醸し出す彼女は、最早彼の記憶の内で笑う博麗霊夢の姿ではなかった。

「一人でこんな所に座っているなんて、何をしてるのかしら」
「僕にはあの喧騒と同調出来る自信がなくてね、此処に逃げて来た」
「まあ逃げるには丁度好い場所かもね。生憎此処にはお酒も料理も無いけど」
「あちらに居てもまだ飲み食いはしていないだろう。同じ事さ」

 そう云って霖之助は軽く笑った。艶を醸す香水の匂いが、隣から漂って来る。霊夢は霖之助の隣に腰を落ち着けると、彼女にしては礼儀正し過ぎる恰好になった。手を重ねて膝に置き、背筋を伸ばして前を見ている。そんな姿ですら霖之助には違和として感じられた。彼の知る霊夢とはそのまま後ろに倒れて、昼寝に移行してしまうような少女である。そんな記憶の中の彼女と今の彼女との差異が、どうしようもなく現実感を失くして行った。

「魔理沙は来ていないの」
「ああ、まだのようだ。まあ心配せずともその内来るさ」
「どうかしら。昔みたいに意地を張ってるかも知れないわよ」
「それは一体どういう事だい」
「さあね。ただの勘」
「君の勘はよく当たるから困る」
「もう巫女じゃないから、大丈夫じゃない?」

 霊夢はあっけらかんとそう云って、「そろそろ始まるし、霖之助さんも会場に行っておいて」とその場を後にした。まるで翳りの見えぬその姿は一種妙に思われる。しかしそれを指摘するだけの勇気を霖之助は持ち得なかった。今やそれは開けてはならない箱となったのであろう。霖之助にはそれくらい霊夢の姿が危うく見えた。

「裃を着る、とでも云えば好いのか……どちらにしろ肝胆を相照らすにはもう遠い」

 ――ふと境内の方を見遣ると、魔理沙が他の妖怪達と談笑しているのが見えた。霊夢の悪い冗談が当たってしまった。後ろを顧みても閉じられた障子があるばかりである。霖之助は得体の知れない不安の雲を胸に、境内の方へ歩いて行った。空を見上げれば雲一つない快晴が広がっている。この結婚を憂く霖之助には、甚だそれが場違いに思われた。が、霊夢の心中を察すれば、いっその事快晴で丁度好かったのかも知れない。



16.



 ――華燭の典に華やかな燈火が赤々と靡く。
 百鬼夜行の群れの中、聖なる殿より姿を現す人の子の、げに美しきはその姿。
 躑躅の散る様紅く、白地の布に百花繚乱の趣凝らし、立つ女の桜唇に三日月曲。
 夫の瀬に立つ男、俄かに染めたる頬を掻くも、歓声湧かす者数多。

 祝辞の言葉を求める者あれば、挙がる手を数える事は至極至難。
 祝辞の言葉は要さぬと、答える花嫁続く言葉に飲み食い唄い、騒いで祝え。
 なれば花嫁の仰る通りにと云わんばかりに始まる馬鹿騒ぎ。
 始められたる儀式に桜雲が舞い、嬌羞に頬を染めたる嫁に微笑む男。

 それ誓いの儀式だ、誓いの接吻を交わすが好い。
 喧騒の中より一層轟いて、皆が其れに続かんとばかりに繰り返す。
 窮鼠に敵噛む余力なく、黒き明眸が隣に立つ男へと。
 穏やかな首肯を以て肯ずる男に、尚も湧き上がる魑魅魍魎。

 儀式の場にて、立ち並ぶ桜より花筏、躑躅の模様が陽光に煌めく。
 紅を差した唇が近寄るより先に、肩を掴まれ抱き寄せられては重なる二人の姿。
 刹那の沈黙は驚愕か、天下にて結ばれたる夫婦が互いに熟れた林檎の如き顔を観衆に。
 途端堰を切ったかの如く、興奮の坩堝が訪れて、華燭の焔が一層強く――。

 広き空に雲雀が高く、見上げる男に囀りの置き土産。
 斯くも玲瓏なる調べに泡沫の夢、嘆くとも付かぬ男に憂く瀬など有るまじき。
 時の流れは光陰流水の如く、顧みる暇すら与えられぬ生の儚きは如何程と、問うた所で答え無し。
 騙った道は恋の路、歩く先に一輪花、峻峭なる山岳に助けの杖も無く、男が独り歩き往く。

 桜舞う境内で、かつての名残が風に攫われる。……



 喧騒は途絶える事無く続く。用意された酒を片端から呷り、料理を摘まんで昔話に花を咲かす光景が色々なところで見られる中、霖之助は一人神社へと続く階段に腰を掛けていた。式は思ったよりも早く終わり、早くも場は宴会の様相を呈している。その方が幻想郷らしくもあったし、霊夢が望む所でもあったろうと思うと、何だか宴会を楽しむ気が起らなかったのだった。何処か遠くから聞こえている心持ちになる騒ぎ声は、絶えず彼の耳を苛める。

「黄昏時に一人佇む男が独り。写真に残せば好い画になると思いませんか?」

 そんな折、背後から声を掛ける者があった。後ろを振り返ってみると、そこには射命丸文が頬を仄かに赤く染めながら、酔眼を以て霖之助を見ている。霖之助は「さあ」と答えるなり、一寸彼女を見遣るとまた元の景色を眺め始めた。幻想郷一面を眺望出来る此処から見える太陽も、随分と西へ傾いている。夕焼け色に染まり始めた空からは他人を嘲るような鳴き声を上げながら烏が飛び回っていた。

「つれない人ですね。皆が楽しく騒いでる中、こんな所にいて楽しいですか」
「生憎酔っ払いの相手をしたくないのでね。君もこんなつまらない男と居るより、戻った方が好いんじゃないか」
「まあそうですが、せめて霊夢さんの意を汲み取った方が好いのではないのかと、忠告だけしに来たんです」

 霖之助はもう一度彼女を顧みた。屈託のないようで、無邪気とは思われない笑みを浮かべて立っている。いよいよ紫と似て来たのではないのかと霖之助は疑った。

「君は知っているのかい」
「詳しくは知りません。それでも捨て身の取材のお陰で、大方の事情は判ります」
「大層な事だ。たかが新聞に命を賭けるとは、君も物好きな天狗だよ。それでは九生を得ても到底足りない」
「それくらいしか享楽がありませんし、何より私の好奇心は一つ所に留まっていては満たされないんです」

 「好い心がけだ」と霖之助が返すと、文は「此処にいるままでよろしいので?」と尋ねた。霖之助は黙っている。そうして無言の内に構うなと圧力をかけていた。が、元より酔っている文には効き目がないようで、彼女は遠慮なしに霖之助へと話しかけて来る。鬱陶しいと思うより先に、文の言葉は霖之助の鼓膜を叩いた。

「魔理沙さんも待っていると思いますよ」

 突然のその言葉に、霖之助は思わず文を見た。その言葉にはある種の強制力がある。霖之助は彼女から目を離す訳には行かなくなった。怪訝な眼差しは睥睨と同義である。彼にしては攻撃的な視線が彼女を射抜いた。けれども文には動じる様子がない。それどころか事態を楽しんでいる気味で、妖しげな微笑を湛えている。その上掴み所がない。霖之助には彼女の第二の矢を待ち受ける以外に出来る事が無かった。

「今日得た取材の結果です。少しだけ霊夢さんと話している事を耳にしたもので」
「……分別を怠るな、という言葉を肝に銘じると君の口から聞いた気がするが、気の所為だったかな」
「あははは、どうも気になる事があると調べないと気が済まない性質でして」
「だからと云って君には関係のない話だよ」
「ことならば咲かずやはあらぬ桜花見る我さへにしづ心なし、とでも云いましょうかね。酷かも知れませんが、今の貴方の姿を見ているとそう思わずには居られません」

 詠った彼女の声色は、案外にも優しげな響きを秘めていた。記者の洞察力故か、彼女は推測を限りなく確信に近付けていたのかも知れない。一つ所に留まっているばかりであった霖之助には成し得ようがない事である。なればまた、文の詠った心境も判らないではなかった。尤も彼女の湛える笑みからは、その真偽を判断する事は出来ぬ。霖之助は歌声以外に彼女を判断する材料を持ち得なかった。

「君にまでそう云われてしまえば、行かなければ甚だ嫌な男になってしまう」
「強制はしていませんよ。貴方が決める事でしょうから」
「もう決めたよ。どちらにしろ、このまま打ち遣っておける問題でもない」
「そうですか。――それじゃ私は戻ります。まだまだ飲み足りませんしね」
「全く君は無謀というか、勇敢な記者だ。機会を与えてくれた事には感謝するよ」

 霖之助の言葉に笑みを返して文は境内の方へと戻って行った。その足取りが覚束なかったのは酒の所為であろう。ならば先刻自分と話していた時も、彼女は酔っていたのだろうか、と考えて霖之助はまさかと思う。このまま飲み続ければ先刻の出来事も忘れてしまうに違いない。大した天狗だと、霖之助は文に対する認識を改めない訳には行かなかった。

 太陽は西の峰巒に沈みかけている。赤い光が空を支配している中で、遠くより近寄る闇の勢力が、次第に夕陽を飲み込み始めていた。小さく光る星々も空に点在し始めている。冥漠たる夜の帳が大地へ下りるのも間近である。霖之助は境内の方へと歩き出した。喧しく思われるほどの騒ぎは、未だ衰える気配を見せてはいなかった。



17.



 霖之助が境内の上に立つと、思いの外目的の人物達はすぐに見付かった。境内を見渡す事の出来る母屋の縁側で、二人は立って話に興じている。――否、興じていると云えば語弊が生じる。二人の話している様子は決して懐かしき昔の話に花を咲かせているものではなく、何処か重々しい、黒々とした何かを彷彿とさせるものだったからである。霖之助はそれを不思議に思いながら、飲めや唄えやと好き放題に騒ぐ妖怪達を尻目に、二人の元へと近付いて行った。

 すると程なくして霊夢の視線が霖之助へ向く。彼女は儚げな眼差しを以て霖之助を一瞥すると、再び魔理沙に向き直って何事かを云った後、境内の方へと歩き出した。丁度霖之助とは擦れ違うであろう進路である。霊夢の後ろでは、魔理沙が不安げな眼差しで去り行く霊夢の背中と、近付く霖之助とを見詰めていた。

 やがて霖之助と霊夢が擦れ違おうとする時、彼は何事かを云おうか云うまいか迷った。云おうにしても適切と思われる言葉が浮かんで来ない。また云うまいにしても、無言のまま擦れ違うのは何だか違うような心持ちがした。ならばと簡単な挨拶でもすれば好いと思い立ち、努めて平静を装って彼女と擦れ違う時「おめでとう」と口にしようとしたが、それよりも早く霊夢が言葉を口にしたので、図らずも霖之助の口は封じられてしまった。

「――魔理沙を傷付けないで」

 ただ一言、それだけを云い残して霊夢は霖之助の後ろの方へと速足で歩いて行った。霊夢の登場に場が湧き上がる様子が背中越しにも判る。振り返れば、酔った妖怪達に早くも飛び付かれて苦笑している霊夢の姿があった。香水の匂いが残る。艶やかな黒髪の名残が尾を引いて流れて行った。紅の唇を動かした様子が頭から離れない。霊夢はこんな時にも他者を気遣った。哀れで強かな、自分に対して酷薄な彼女の姿は彼の女と似ているように思われた。
 が、そのまま引き返す臆病など霖之助は既に持ってはいない。元よりそれは許されないという根拠のない不思議な確信が胸中で渦巻いていた。それだから霖之助は霊夢の言葉を噛み締めながら、再び前を向く。不安げな眼差しは逸らされぬまま、真直ぐに霖之助を見据えていた。覚悟を決めたというような、大志の欠片を思わせる強き表情である。

「こんにちは」
「もうこんばんはの時分だろう」

 そんな挨拶をしつつ、霖之助は魔理沙の元へと辿り着く。彼女は心持ち俯きがちになりながら、ぎこちない挨拶の言葉を紡いだ。宵闇の帳が空より舞い降りて、彼女の金色の髪色も些か褪せて見える。小さな体躯は殊更小さく思われる。立ちながら話してみれば、彼女はこれほどまでに小さき存在であった事を、霖之助は今になって再認識した。

「今更、私に何か用ですか」

 噛み締められた唇が白く染まる。震える声は怒りの片鱗であり悲しみの影でもあった事であろう。霖之助は穏やかな笑みを浮かべた。魔理沙の瞳は地面ばかりを映していて、既に彼を映してはいない。突然発せられた慳貪な言葉は彼女の矜持であり最大の強がりである。彼女を追い詰めたのは自分なのだと思い知らされるには充分であった。

「用が無くては、来てはいけないのかい」

 そう云って、霖之助は自分の言葉の可笑しさに吹き出しそうになった。香霖堂へ訪れる度に行われる遣り取りがこんな場で行われるとは思ってもみなかったのである。けれども霖之助に反して魔理沙の姿は何も変わらなかった。俯いた顔からは表情は読み取れず、その上薄暗い場所であった為に、彼女がどんな様子で居るのかですら朧である。何も返さぬ魔理沙に霖之助は一歩近付いた。颯然と吹く風が二人の髪の毛を揺らす。彼の眼前には金色の糸が揺らめいた。

「まあ、そうは云っても用件はある。――話がしたいと思ってね」
「話はもう済みました。貴方は私を遠ざける、それが結論で間違いはないはずでしょう」
「僕の中ではまだ済んだと云えない。そして君も、それで納得出来るとは思っていないはずだ」

 魔理沙は答えに窮した気味で黙り込んでいる。図星とばかりの沈黙が、今の霖之助には懐かしく思われた。悟られたくないであろう事を容易く悟らせてしまうのは、魔理沙の生来の素直故である。それを隠すのが年を経て上手くなったとは云え、本質はそう簡単に変わらない。魔理沙は魔理沙で、口調が変われど姿が変われど、その事実は決して変わらないのだという事を、霖之助は今一度知った。何時でも彼女は、昔と同じように霖之助と接していたのだから。

「……立ち話も疲れるだろうし、座ろう」

 その提案に魔理沙は無言で応じた。縁側に腰掛けて、二人は一寸押し黙る。活き活きとした沈黙が辺りを領した。宴会の喧騒が遠くに聞こえる。まるで境内と此処とは別世界なのだと主張しているかのように、流れる雰囲気は異なっていた。既に空は漆黒に染まった。果てのない闇の中で星々が窮屈そうに光っている。二つに分かたれたかのような半月が、その中でも一際輝いている。大地に届くその光は縁側に座る二人の肌を、青白く染めていた。



18.



「君は何時からか、口調を突然変えた」

 決意したように霖之助が話し始める。魔理沙は未だ口を噤んだまま俯いている。ただ膝頭に置かれた手が僅かに震えた。隣に座る霖之助ですら気付かなかったその挙動は、一塊の動揺の表れであったのかも知れぬ。

「最初は妙に思ったよ。何せあれほど活発でお転婆だった君が、一転して淑やかな貴婦人の如くなったからね。そうしてそれに違和感を感じる事もなくなり、時が経って君が大人の女性へと成長して行くと、僕はどうしても昔の君と今の君とが同一の人間だと思われなくなった。僕達の時の流れの差には慣れているつもりだったが、それでもそんな事を思ったのは、きっと僕自身君から目を逸らそうと努めていたからかも知れない」

 霖之助は記憶の中に燻る想い出を一つ一つ引き出すように語る。見上げる先に夜空があるのは、自己を他人に見せたがらない彼の性質故に感じる愧赧の念があったからかも知れない。今まで一度として明かした事のない心中を吐露するのは、彼にしてみれば何にも勝る重労働と遜色が無かった。それだから魔理沙が余計な掣肘を加えず、黙って話を聞いているのは救いとなっても、気の引ける要素には成り得なかった。

「僕は過去に囚われ、今生きている現実を碌に見もせずに居る者の様子をこう例えた事がある。"開く事のない扉を開こうとして四苦八苦するが如く"或いは"呪いの釘を胸に打ち込まれているが如く"。どちらも憐れにしか思われないが、漸く僕自身がその例えに相応しいのだと気が付いた。僕は現実を見定めている振りをしながら、過去を忘れられずにいる。そうして紛れもなくその過去に身を拘泥されている。先刻云った例えが思い浮かんだのは、無意識の内に自分の様子を表していたのだろう。尤もその事に気が付いたのはつい最近の事だが」

 我ながら滑稽な話だ、霖之助はそう云って軽く笑った。すると、そこで魔理沙が初めて霖之助に顔を向けた。――霖之助はそれを見て少なからず驚いた。顔を上げ、霖之助を見る瞳は濡れて、目元が赤く色付いていたからである。それが先刻霖之助が此処に来る前に涙を流していたのだと理解するのに、時間は必要なかった。ただそれを見たからには、その涙に報いねばなるまいと思われた。自分の所為で流れた涙だという事は、単なる霖之助の自惚れではないからである。

「どうしてそんな事を今話すんですか」
「今までの僕を知って貰う為だ。僕は自分の事を話さず他人を遠ざけているようだから」

 つまらない話で恐縮だが、と云うと魔理沙はいいえと一言返した。そうして今に始まった事ではありませんと、少しだけ笑って云う。霖之助はご尤もと返して、再び話の続きを再開した。

「そしてその結果、君を遠ざけていたのだろう。今更謝ったとて、何が変わる訳でもないだろうが、――すまなかった」
「いえ、私も自分の事ばかり考えていて、失礼だったと反省しています」
「いや、結局全ての責は僕にある。身体に染み付いたものというのは、簡単に捨て切れないものらしい」

 すると大きな爆発音が突然轟いた。驚いて上空を見上げると、季節外れの花火が開いている。誰かしらがふざけて空に向けて弾幕を放ったとみえて、それに続くように色々な色形の花火が打ち上げられて行った。季節外れも甚だしいが、霊夢への祝福としてこれ以上のものはあるまいと思い、霖之助は僅かに頬を綻ばせた。どんと大地を揺るがす音が鳴り響く度に鮮やかな花が空に咲く。一時、二人はその光景に目を奪われた。

「君は何時か、僕に母親の事を尋ねた」
「はい。不思議な人だったと聞きました」

 霖之助は頷いた。次ぐ言葉を発するのに些かの躊躇がある。或いはその首肯も間を取る為の手段であったのかも知れぬ。――どん、と空に花が咲く。そうして瞬く間に散っては夜の静けさを取り戻し、かと思えば次の花が開く。その度に上がる歓声が境内を明るく染めていた。霖之助は赤一色の花が空に開き、散って行った時に口を開いた。

「そうしてその人の事が好きだったのかと尋ねた」
「……霖之助さんはお答えになりませんでしたね」

 ああと云って霖之助は頷いた。どん、どん、どん、と空に連続して花が咲いて行く。境内から聞こえる歓声もそれに比例して大きくなって行く。

「けれども今は云う事が出来る。――僕はその人に対して、紛れも無く恋情を抱いていた」

 開いた花が散る。神の涙がざあと降る。美しい金色の髪、金色の瞳、淡墨桜の着物、昔日の残影が幻となって浮かび上がる。幻影を払い幻怪を撥ね退け幻覚を見破れど記憶は幻相としてそこに在る。霖之助は空を見上げた。色鮮やかな弾幕が散って行く。音も無く、春宵の中に呑み込まれて行く。――神の涙がざあと降っている!



19.



 空に散る弾幕の破片が消え去ったのを確認して、霖之助は静かに隣に座る魔理沙を見遣った。彼女は何処か寂しげな、けれども安堵した表情を浮かべながら座っている。頑なに俯かせていた顔は、既に地面を向いてはいなかった。境内では漸く花火の騒ぎが終わったとみえて、何だか違う騒ぎが始まっている。二人は黙したまま、その喧騒を聞くともなく聞いていた。誰の弾幕が一番綺麗であったかで、霊夢を問い詰めているらしい。

「……でも、その人は、お母様は私を生んで亡くなられたと」

 神妙な面持ちで金色の瞳が疑問を映す。霖之助は頷いて彼女の云った事を肯定した。

「だからこそかも知れない。僕が過去に囚われているのは」
「まだお母様の事が忘れられないという事ですか」
「そういう事だ。特に幻が現れたとなっては、尚更だよ」
「幻」
「そう。君が口調を変え、成長して行くにつれて姿は君の母親に近付いた。写真というものが無かった時に亡くなったから、今では頭の中にのみ僕が恋した人は存在する。するととても妙な事になる。君が香霖堂へやって来る度に、その人が来ているかのような錯覚を覚え、記憶の中に確かに存在したあの人の姿がどうしても思い出せなくなるんだ。……君はそれを馬鹿げていると思うかい、僕は君の姿に昔恋した君の母親の姿を重ねていたんだ」

 耳の奥から境内の喧騒が遠退いて行く。霖之助は自身が静けさの中に居るような心持ちがした。話そうと決めていた事を全て吐き出して、得られるものは爽快感かと思っていたけれども、終わってみればそんなものはなく、あるのは何だかよく判らない感情で、爽快するどころか心に靄が掛かったかの如く思われた。
 魔理沙は何も云わなかった。横目に眺めてみても、その表情にあるのは怒りでもなければ呆れでもない。ただ複雑そうに寄せられた眉が眉間に皺を作っている。霖之助は思慮の末に平手打ちでも喰らわしてくれれば好いと思った。

「話したい事はこれで終わりさ。君の想いには気が付いているつもりだが、答える事は出来ない。少なくとも僕の心の中で整理が付くまでは。それが何時になるかも判らない愚かな男の言訳だけれども」

 霖之助がそう云い終えると、魔理沙は突然立ち上がった。それがあまりにも唐突な所作だった為に、思わず霖之助は目を見開いて彼女の様子を見詰めたが、ただ事ならぬその雰囲気が、無鉄砲でお転婆だった昔の魔理沙に似ているようで、可笑しくも思われた。――魔理沙は勢いよく振り返り、霖之助を見詰める。背後では境内の騒ぎの様子が見渡せる。華燭の焔に照らされていても、やはりその光景は普段の宴会と変わりがなかった。

「香霖の云いたい事はよく判った。つまり、取り敢えず心の整理が付くまでは待っていろって事だな」
「……簡単に云えばそうだが、一体どうしたんだい」
「何だよ、今度はこの口調の方が不自然か?」
「それもあるが、何だか先刻とは雰囲気がまるで違うじゃないか」

 戸惑う霖之助を、魔理沙は今にも悪戯をしそうな笑みで見る。まるで昔の魔理沙のようだと思いながら、霖之助は目を見張るより他になかった。遠く輝く半月に照らされた顔は青白く染まり、金色の明眸は無暗に輝く。月光を受けて光る髪は煌めいて、黒衣に身を包む姿は妖艶なる魔女を思わせた。そうして無邪気な笑顔を浮かべているかと思えば、途端に儚げな表情になり、霖之助を真直ぐに見据えると、静かな、けれども力強い声音で言葉を紡いだ。

「だって、そうでもしなきゃ香霖は私を見ないだろ。私は私だ、他の誰でも無い。幾ら母親に似ていると云われたって、霧雨魔理沙は一人しか存在し得ない人間なんだぜ。――だからこれからもよろしくな、香霖!」

 差し出された白い手は小さく、だが確実に大きくなっている。霖之助は「本当に、僕は君に敵う気がしない」と漏らしてその手を取った。満足げに微笑む魔理沙は「当然」と云い放った。

「今度僕の店に来ると好い。君の母親の形見がある」
「ああ、見に行く。その後も行く。例え用が無くてもな。覚悟しておけよ」
「好きにしたら好いさ、僕は大体店の中に居るんだから」

 境内の喧騒の中へ駆けて行く黒衣を纏った疾風を眺め、霖之助は微笑した。ふと桜の木々を見る。篝火に照らされていない、他の桜に翳っているものが一本だけあった。宵闇の色に染められて、梢より花を散らすその様があの淡墨桜の散る様を描いた模様に思われて、霖之助は何だか不思議な心持ちになり、次いで夜空を見上げた。煌々と瞬く星々が精一杯輝いている様子が今は心地よい。その中心に懸かる半月は冷然としているようで優しげな光を放っているようでもあった。



20.



「おめでとう、と云うには気が早過ぎるかしら。それとも見当違いかも知れないわね。どちらにしろ私には図りかねる所だけれど。それで経過はどう? 貴方の小説は一応の完結を迎えたのでしょう、その感想を窺いたく思って今日は此処に来ましたのよ。素直に話してくれるとは思ってないわ、ただせめて面白い話は聞けると思って」

 春雷轟く曇天に危うき光が走る。

「貴方はそればかりね、私が訪れる度に同じ事を云っているわ。貴方の判らないは否定の延長にある。判らないと云う前に明確な答えがあるようだわ。本当は気付いているのではなくて? 戸惑う理由がなくなれば、以前と同じ関係に安堵してしまって、それ以上の進展を望む事など有りはしないと。貴方にとってのあの子は、どれ程変化しようとも変わらない。変わったとしても過去の面影に重なるばかり。――あの子からすれば八方塞がりだわ、酷い人ね」

 桜花の散る様見事、降り出す春雨がざあと鳴る。

「ふふふ、黙り込むのは初めてかしら。何だか珍しいものでも見た心地。それでも貴方の行動は間違っていないと思うわ、だって誰も傷付かないように尽力したのでしょう。尤もその尽力に望む結果が付いて来たのかは別として。そうしてそういう事を目指した者は誰もが思うのよ、とんだ理想論だったと。これが現実、幻想の郷で尚叶わぬ幻想が打ち砕かれて行く世界。そしてそれを知って初めて悟る。小説の主人公なんて碌なものじゃない」

 憂き顔した男が悟る。神の涙、其の意を悟る。

「それでは失礼するわ。貴方にお客様が来ているみたいだし、もうじきあの戸を開く者が現れる。貴方の境遇を慮れば気の毒だけれど、全ては貴方の行動に付いて来た結果、誰も文句は云えないわ。そうして貴方自身も後悔出来ない。全く難儀な世の中ね。私達は事件なくして生きられないのだから。――それじゃ御機嫌よう。次にお会いする時は、何と云うのが相応しいのか、楽しみに考えながら過ごして行く事に致しますわ」

 闇の狭間に消える女、がらりと現る濡れ鼠。

「特に用は無いが遊びに来たぜ、香霖!」

 ――門口見遣る男の顔に、げに優しき嫣然一笑。














――了
厳酷なる恋路に一輪花 風雨を身に受け散る花弁
歩む男に思索の余地なく 其の身憐れと翳すは優恤の傘

されど風雨を受けねばいずれ枯れ逝く運命なり
twin
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コメント



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2.100リペヤー削除
お見事、と一言をば。
4.100名前が無い程度の能力削除
何と言ってよいのかわからないが、やられた、としか。
過去作のせいか「霊夢はそれでいいのか」という気分が湧きあがっては来ましたが、
この話のそれは恋慕から来るものではなく、「博麗の巫女」という属性を失うことへの霊夢の恐れだったのでしょうか。
今までの自分を捨て去るということへの恐怖、というべきか。
紫の言う通り、全ての人を傷つけない結末などというものはないのかもしれません。
が、霊夢の行動を切っ掛けとして動いた霖之助が、少なくとも魔理沙だけは傷つけずに済むことを祈ります。
6.100名前が無い程度の能力削除
4ヶ月待たされた甲斐があったというものですね
7.100名前が無い程度の能力削除
雨降って地固まる
10.100名前が無い程度の能力削除
もう、ね、素晴らしかった。
16.100名前が無い程度の能力削除
素晴らしい。素晴らしすぎです。
23.100名前が無い程度の能力削除
やはり、魔理沙はこうでなくては!!
読んでいて心は痛いし、ハラハラするし。

最後の魔理沙の言葉が満面の笑みで言っているのがありありと想像できました。
いつかは香霖堂で過ごす三人の時間は消えるのでしょうね。
29.100名前が無い程度の能力削除
待っていたぜぇ、この瞬間をよぉ!!
39.100名前が無い程度の能力削除
恋には勝てなかった、かぁ…色んな意味に取れますね…
ほんとtwinさんのヒロイン達の七難八苦っぷりは沁みますね

魔理沙に関しては保留気味な結論でしたが、あまり悲観的な将来も思い浮かびませんで
今はこれぐらいで充分なのかもしれません
41.100名前が無い程度の能力削除
相変わらず幻想的な作品を拝見させて頂きました。
霊夢の心境を少しでも覗き込む事が出来るのならば、
きっとこの身は夜の帳へ駆け出して、泣き叫びながら御巡りさんのご厄介になることでしょう。
ハッピーエンドはウォルト・ディズニーの一手専売。
誰もが耳にし、誰もが望むその言葉は、幻想郷ですら淡い幻想となるのでしょうか。

「そうして皆はずっと幸せにに暮らしましたとさ」
42.100名前が無い程度の能力削除
理屈っぽい男は好かれないといいますが、彼にはまた別の何かがある。
総称して博麗組の近未来はドロドロになりつつも友情があるといったところでしょう。

やはり魔理沙には、だぜ口調があってますね。
45.100名前が無い程度の能力削除
待ってました。
とにかく素晴らしいの一言。
46.100名前が無い程度の能力削除
常にハラハラしながら読ませていただきました。
何ともままなりませんね…次回作も期待しています。
47.100名前が無い程度の能力削除
素晴らしい。
でも、切ないなぁ
48.100名前が無い程度の能力削除
\すげえ!/
50.100名前が無い程度の能力削除
素晴らしいの一言
でも霊夢が・・・切ない
51.100名前が無い程度の能力削除
前編からエンドの直前まで、読んでいる間ずっとみぞおちの所になにか重い物を載せられた気分でした。エンドについては、何というか一番収まりがいい感じ。
流れがとてもすばらしい。
60.100名前が無い程度の能力削除
う~ん、ちょっと霖之助がへたれのような・・・でもおもしろい。

文の構成と表現もすばらしいです。
65.100名前が無い程度の能力削除
素晴らしかったです!!
魔理沙の口調が戻るところは、鳥肌ものでした。
良い作品、ありがとうございました。
66.100名前が無い程度の能力削除
よくやったと霖之助に言うには何かが足りないけれど、
たぶん、お疲れ様でよいのだろう。
文の言うとおり、見ていられなかったし。
魔理沙なら、もうきっと大丈夫。
67.100名前が無い程度の能力削除
魔理沙の想いが報われますように。
そして霊夢が将来、霖之助を吹っ切って、心の底から結婚相手に思いを
向けられるように……なるといいなあ。
68.50名前が無い程度の能力削除
霊夢と魔理沙の二人が何故そこまで霖之助に惹かれるのかがあんまり伝わってこなかったなぁ
いや、理由なんてさして重要じゃなくて愚か者に心を許してしまった女性の苦悩を描いてるんだろうけど…
そこらへんが薄いせいか二人の切なさがいきすぎて哀れに見えてくる面もちょこっと
特に霊夢。一連の流れで生まれた負の要素すべての受け皿になってるように見える
魔理沙も優柔不断に問題を先送りされただけだし
読み終えて素直に良かったと言える作品ではないかなぁ
作品としてのレベルは凄い高いと思うんですけどね。単純に好みの問題です
77.100名前が無い程度の能力削除
今ある情景が変わってゆく、
素晴らしくも切ない、そして安心する作品でした。
これから三人の導く未来が個々の幸せな未来であるといいな
82.100名前が無い程度の能力削除
文中の季節が春だとすれば、小春日和の用法ってあってたっけ?

あぁ、なんか。
この三人の行く末に、幸有らんことを。
切ない良作品は後味残すから困る
86.100名前が無い程度の能力削除
素晴らしい。
87.100名前が無い程度の能力削除
濃厚に見えて、意外とすっきりまとまった感じ。
実にいい雰囲気の作品でした。
89.100名前が無い程度の能力削除
今まで通りの関係に戻ったとしても逆にそれがキツく感じられた作品ですね
バットエンド物より腹に重い物が残る感じでした
90.100名前が無い程度の能力削除
霊夢がどうなるか期待してたけど、この方が良かったです。
出てくるキャラの使い方が巧すぎて言葉になりません。
96.100名前って何?削除
こんなに長い文を見たのは久しぶりです。 すごいですね、いろんな意味で。 一人50点いれてる人いますが他100点なのは初めて見ました。
98.100名前が無い程度の能力削除
上のレスでもあるように、私もみぞおちに石でも乗っけているような錯覚を覚えました
でもそれが不思議と不快ではない。魔理沙が歩みゆく恋路に幸あらん事を祈るばかりです。
100.90名前が無い程度の能力削除
霊夢の婿にいままで味わったことのないほどの殺意が沸いた
101.100名前が無い程度の能力削除
ここまで美しい文章を見たのは久し振りだ・・・
引き込まれずにはいられませんでした
102.100名前が無い程度の能力削除
ふつくしい!
105.100名前が無い程度の能力削除
うーむ、何とも言えない読了感ですね
登場人物それぞれの心情を察するとまた切なく…
全体を通して美を感じる文章は流石です
108.100名前が無い程度の能力削除
twinさんの描く霖之助が大好きだーーーーーーーーー!!
116.100名前が無い程度の能力削除
文学みたような読了感

・・・すみません言ってみたかっただけです
用法間違ってたら本当にすみません

非常に面白かったです
とてもよかったです
119.100名前が無い程度の能力削除
はぁ、至福の一時だったな・・・
ここまでとは思わなかった。