秋風が揺らすものは稲穂だけではない。
流れる風は速く、通り過ぎたものに秋の祝福を与える。
わさわさわさ。
「んー……。気持ちいい」
犬走椛の尻尾は、まるでそれ自体が意識を持っているかのように嬉しそうに揺れた。
空気が澄んでいる。椛は胸いっぱいに空気を吸い込み、季節の移り変わりを体の中から感じた。
空が高い。澄み切った空気はその色を鮮やかに映し出し、遠くの雲をくっきりと描いた。
「ふわぁー…………。ふふ。千里眼いらずね」
空を見上げながら歩いていたら、石につまづいて転びそうになった。
「わっと! うー……」
椛は石を睨んだが、空しくなってやめた。
ぼーっとしていたのは自分だ。八つ当たりは良くない。
「……顔でも洗お」
椛の行く道のすぐ横には川が流れていて、そのせせらぎは彼女の耳を優しくくすぐる。
椛は両手で水を掬って驚く。
「つめたっ」
水を顔にかけると冷たさが針のように突き刺さる。
耳の奥がキンキンする。
「あー目が覚めた」
椛は再び歩き出し、数歩行ったところで後ろの滝を振り返り――
「もう秋ねえ」
――そう呟いた。
椛は哨戒部隊に所属している。基本的に平和な幻想郷に於いて、哨戒部隊の存在は無きに等しい。
しかし椛も目的もなくぶらぶらと歩いているわけではなく、友人宅へ向かうという立派な目的があって山を下っていた。(仕事中の行動として、立派かどうかは疑問ではあるが)
しばらく歩くと目的地である友人の家が見えてきた。
木で造られた簡素な住居。開発一筋である彼女にとって、住まいに特にこだわりはないのだろう。
椛はドアをノックした。
「にとりー。私だよ。将棋しよー?」
程なくして家主である河城にとりが顔を出した。全体を水色で彩った衣服に緑の帽子。涼を感じさせる色合いに少し不釣合いな人懐っこい笑顔が椛を迎える。
「おー椛ー! あがってあがって!」
椛はその笑顔に心がほわりと暖かくなるのを感じた。
「おじゃましまーす」
水は冷たいのに、にとりはなんだか逆な感じね。
椛は心の中でそう呟き、中へ入っていった。
パチパチと将棋を指す音が木霊する。
対局も半ば頃になると、次第に次の一手を考える時間が長くなる。
にとりは将棋がかなり強い。野生の勘で勝負所を嗅ぎ分ける椛とは違い、にとりは綿密な計算をして勝負してくる。
言っている意味はよくわからないが、十五×十五、二二五の将棋盤の中に潜れるらしい。流石は河童、と言ったところなのだろうか。
にとりの長考中、手持ち無沙汰になった椛はにとりに訊ねた。
「ねー。にとり。最近あまり家にいないじゃない? 何してるの?」
「んー? あ、もしかして無駄足させちゃってた?」
「沢山お散歩ができて楽しかったわ」
椛の軽い嫌味に、にとりは笑って謝る。
「ごめんごめん。最近立て込んでてさあ。山の神様の所に行ったり、地底に行ったり」
「上へ下へ大忙しね。やっぱり開発関係?」
「まあねー。でもこれで幻想郷はもっと豊かになるよ!」
「ふーん」
椛は興味なさげに相槌を打った。
「何にしても、せめてにとりがいるかいないか、来る前に確認できればなあ」
何の気なしにぽつりと口にした椛だったが、意外な返事が返ってきた。
「作ろうか?」
「ほえ?」
「交信機。あったら便利でしょ?」
聞いたことのない単語だったが、交信機というからには交信ができる機械なのだろうか。
そう思い、椛は少し興奮気味に訊ねた。
椛の耳がぴこぴこと動く。
「え、え、それって、遠くにいてもお話しができるってこと?」
「そりゃまあ。交信機だからね」
椛の尻尾が喜びを表すように、わさわさと動いた。
「すごーい! 作って作って!」
「あい。何日か待ってねー」
「うん、楽しみにしてる!」
椛はその日、一日中ふわふわしたような状態で、将棋では一度もにとりに勝てなかった。
◆
にとりは、にとりの家と椛の家までの電波を通す中継点を設置するために、妖怪の山道を駆け巡っていた。
「よし。これで最後、と」
一通りの設置を終えたにとりは山を下っていった。
しばらく歩くと川の流れる音が聞こえてきた。
川原には大小様々な石が転がっており、その中には人一人が横になれるほどの大きさの岩もあった。
にとりは岩に座り込んだ。腰を下ろすと疲労感が体中を覆う。にとりは自分が思ってた以上に疲れていることに驚いた。
夢中になると周りが見えなくなっちゃうのは悪い癖だな。
にとりは苦笑をしつつ、体を横にした。
「ふい~。ちかれた」
にとりはそう言って、目を閉じた。
目を開いている時より川の流れる音がはっきりと聞こえる。頬を撫でる風がどこから来てどこへ行くのかがわかる。
ふわりと、何やら嗅ぎ慣れない匂いを感じ、にとりは顔を上げた。しかし視線の先では、つむじ風が木の葉をかすかに揺らしているだけだった。
「気のせいかあ」
にとりは再び目を閉じ、秋の風を堪能した。
山の中に中継点を設置し終えたにとりは、交信機を渡すために椛の家の前まで来ていた。
諸々のチェックは済んだので、あとは椛に使い方を教えるだけ。
椛の喜ぶ顔が目に浮かぶ。もしかしたら尻尾も振るかもしれない。
にとりは期待に胸を膨らませてドアのノックした。
「おーい、もみ――」
「にとり!?」
ゴン。
鈍い音が辺りに響いた。
急に開いたドアに、にとりの頭がぶつかったのだ。
「ぐおお……」
「あ、ご、ごめんにとり! 大丈夫!?」
「ひどいよ椛ぃ……」
「ほんとにごめん! ドアの前で待ってて、誰か来た音がしたら興奮しちゃって……」
「え、ずっとドアの前にいたの?」
「あはは。まさか。ご飯とお風呂以外の時だけだよ」
それほとんどずっとじゃん。
にとりは痛む額を押さえながら心の中で突っ込んだ。
というか何日って言ったのにその日から待ってるとは……。急いで作ってよかった。
「まあ。そこまで楽しみにしてくれてたってのは嬉しいけどね」
仕事はどうしたの。とは言えなかった。
「えへへ。あ、そうそう。お詫びと言ってはなんだけど……本当はお礼のつもりだったんだけど……」
「お、なになに?」
「じゃーん!」
「おお! これは!」
にとりの顔に喜びの表情が広がる。
椛の手には、何やら緑色の液体が入っている容器が握られていた。
「店主が言うにはね、恐らく外の世界で人気が出なかったから幻想入りしたんだろう、だってさ。ちなみに店主は吐いたって言ってたけど、にとりなら気に入るかなーって」
「テンション上がってきたよー!」
突然にとりの顔がぶれる。それほど嬉しかったのだろう。
「じゃあそれをおいしく飲むために、張り切って仕事に取り掛かりますかね!」
「おー! 私もなんか手伝うことある?」
「とは言っても、やることは全部やっちゃったからあとは椛に説明するだけなんだけどね」
「あ、そうなんだ。難しくないかなあ」
「わかりやすく説明するために今から要点まとめるから、お客さんは気楽に待っててよ」
「にとりがお客さんじゃない?」
「あれ?」
「あれ?」
…………。
「「プッ」」
どちらからというわけでもなく、笑いが零れる。
「あはははは! 何よ今の間!」
「知らないよ! 椛が変なこと言うからじゃん!」
「えー。変じゃないよー! にとりが私んちに来たんだからお客さんじゃない!
「エンジニアとしてきたんだから椛がお客さんだよお! 報酬ももらってるし!」
「あはははは! あれだけでいいんかい! きゅうり好きにも程があるよ!」
箸が転がってもおかしい年頃なのか、二人はしばらくの間、笑い転げていた。
しかし二人なのに姦しいとはどういうことだろうか。
「あー笑った。なんだかわからないけどよく笑った」
「ふふ。おっかし。それにしても、にとりのきゅうり好きは、もはや異変だね」
「それを言うなら椛だって、夜通し待ってたんでしょ? こんな格好のつかない永夜異変なんて他にないよ」
「いいの。待つのは得意だもん」
「待て! てやつだね」
「犬じゃない!」
「あはは。じゃあいい加減取り掛かるね」
「はーい。お願いね。私は夕飯の支度してるから。食べてくでしょ?」
「うん。ご馳走になろっかな。最近忙しくて生ばっかりだったから、久々に味噌で食べたいな」
「きゅ、きゅうりが食卓に出ること前提で話を進められている……。ま、いいけどね」
そんなこんなで、一日が過ぎていった。
前日、椛の家で交信機の説明を終えたにとりは、今度は自宅での最終チェックを行っていた。山の中には中継地点も設置した。
準備は万端だ。
にとりはスイッチを入れた。
「あーあー。テステス。こちらにとり。椛ー。聞こえるー?」
「あ、は、はい! 椛です! 聞こえてます!」
椛は初めて使う交信機を前に緊張しているようだ。
にとりは思わず笑ってしまった。
「もー。何かしこまっちゃってんの。普通にしゃべんなよー」
「う……。だ、だって。な、なんか恥ずかしい!」
「これから毎日使うんだから、早く慣れてよねー」
「ま、毎日?」
「あ、さすがに毎日は多い? 実際に会ってるしねー」
「ううん! そんなことない! 嬉しいよ! いっぱいおしゃべりしよう!」
椛の尻尾がぶんぶんと風を切る。にとりはそんな音が聞こえたような気がした。
(さ、さすがにここまで喜ばれると照れるね)
にとりは頬をかきながら頷き返事をした。
「まあ。最近は落ち着いてきたし、家にいることが多いと思うから、いつでも連絡してよ。こっちからもかけるしね」
「うん!」
その日から、にとりと椛の他愛のない交信生活が始まった。
◆
椛は交信機を前に正座をし(椅子の上で)、交信機をじーっと見つめていた。
荒い息遣いが部屋中に響く。
「はあ……はあ……はあ……」
椛は、かっと目を見開き――
「ああっ、やっぱだめ!」
――やっぱりだめだった。
「はあぁ、やっぱり緊張するぅ……」
先刻から何度も交信機のスイッチを入れようとする椛だったが、今一歩決心しきれず、二の足を踏んでいた。
「うーん。とりあえず今日は直接行こうっと」
椛は今日のところは交信機で連絡することを諦め、にとりの家へと向かった。
◆
「まーだっかなー。まーだっかなー?」
にとりはわくわくしながら交信機の目の前で、椛からの連絡を待っていた。
そこへドアをノックする音が聞こえる。
「むい? 誰だろ。はーい?」
ドアを開けたら椛が気恥ずかしそうに立っていた。
「へ、へへ……。ご、ごめん。なんか緊張しちゃってスイッチ押せなかった」
がく。
そんな音が聞こえてきそうだった。
「もー。椛ったら。まあ、とりあえず上がりなよ」
「あはは。おじゃましまーす」
椛は慣れ親しんだ親友の家に上がりこむ。しかしその顔はほんのりと紅潮し、緊張しているように見える。
「あ、あの。にとり」
「ん?」
「あう……。な、なんでもない」
「どうしたの? 椛」
「へいっ? や、や、なんでもないですよっ?」
(怪しい……。けど、ま、いっか)
にとりは、椛のおかしな様子が気になったが、結局放っておくことにした。長年の付き合いから、椛のことはよ
くわかっている。椛は何か行動を起こそうとしている。今はその決心がついていない状態なのだ。だけど椛は決断する時は決断する。強い子なんだ。
そう思い、にとりは何も言わないことにした。
(んー。でも)
ちょっと背中を押すくらいなら、いいよね。
「もーみじっ」
にとりは後ろから椛にのしかかる。
「わっ、わっ。な、なぁに? にとり」
「なんだか肩に力が入ってるよ。気楽に、きらーくに、ね」
「……あ」
椛は、ほっとしたように笑い、言う。
「……ありがと」
「ん。将棋でもしよっか?」
「うん!」
◆
滝の裏――
次の日、椛は落ち着き無くあっちへこっちへ動き回っていた。
同じ哨戒部隊の仲間は何事かと思ったが、何話そうかなー突然迷惑じゃないかなーでもいつでも連絡してって言ってたし別に平気だよねにとりも暇してるかなーうんきっと暇だよねこれからはちょっとは落ち着くって言ってたし大丈夫だよね。などと一人でぶつぶつ言っているものだから、気味が悪くて訊ねられなかった。
突然、椛はぜんまいが切れたようにぴたりと止まり――
「見回りに行ってきまーす!」
――言うな否や、滝の外へと飛び出していった。
「ただいまー」
見回りと言っておきながらただいまという言葉が出る辺り、椛はもう仕事をする気はないようだった。
椛はさっそく交信機に向かった。
木製を主体とした椛の家の中に、ゴテゴテとした交信機が合っていない。交信機は机の上に置かれている。心に余裕がなくて先日は気づかなかったが、交信機には何やら四角い機械が合わさっている。そのせいで机を占領してしまっていた。
そう言えばにとりが何か説明していたことを思い出す。
にとりの説明によると、ベータマックスという、空間と時間を切り取り保存することができるすごい機械だそうだ。香霖堂で買ったらしい。
これはテレビという機械と一緒に使わないと効果がないみたいだが、二人の時間を大切に取っておきたいという想いから、願掛けとして付けたと言っていた。
「……どう考えてもこれいらないでしょ」
椛はそう呟いた。しかし本気で言っているわけではないことが、赤く染まった頬からわかる。にとりの気持ちが嬉しくて、なんだか気恥ずかしくて出た言葉だった。
椛は深呼吸をする。
「気楽に、気楽に……」
椛は意を決する。
「ポチっとな」
押せた!
椛は交信機のボタンを押してにとりが出るのを待つ。
程なくしてノイズが収まり、交信機から聞きなれた声が流れてきた。
「やっほー椛。ようやく使ってくれだね」
「あ、あ、椛です! い、今時間大丈夫ですか?」
「あはは、でもやっぱりまだ慣れないのね」
「う……頑張るよ」
「今日はどうする? これからうちに来る?」
「あ、うん。行くけど、ちょっと話したいことがあって」
「どうしたの? かしこまっちゃって」
「……えと、ね」
椛は顔を真っ赤にさせて、昨日は言えなかった、伝えたかった言葉を紡ぎ出す。
「……ありがとう」
「……へ?」
「私のために作ってくれて……ううん、交信機だけじゃない。いつも一緒にいてくれることがすごく嬉しい」
「ど、どうしたの急に。なんだか照れくさいよ」
この交信機の向こうでは、にとりが顔を真っ赤にさせてるのだろうか。
でも、言わせてほしい。いつもいつも思っていたこと、面と向かうと恥ずかしくて言えなかったこと。
交信機からにとりの匂いがする。自分のために一生懸命に作ってくれたことがわかる。
椛は自分の想いを大切に大切につめこんで、伝えた。
「私と友達でいてくれてありがとう。これからもずっと友達でいてください」
伝えた。今までずっと言いたかったことを全部言えた。
顔が熱い。
伸ばした糸がぷつんと切れたように緊張が解けた。
後に残ったのは、静寂。
にとりは何も言ってこない。
「……にとり?」
椛の胸に不安が募る。
(どうしよう。いきなりこんなこと言って、引かれちゃったかな……)
椛はその場の勢いで言ってしまったことを軽く後悔した。
「あの、にとり……」
今のは忘れて――そう言おうとした時、交信機の向こうから不規則にしゃくり上げるような音が聞こえてきた。
「う、うう……! なんでそういうこと言うのよお……!」
泣いてる!
椛は慌てた。まさか泣かせてしまうとは。
「ご、ごめん! いきなりで引かせちゃったよね! 本当にごめん! 忘れて!」
「違うよお! 嬉しいんだよお! ふええええ……」
「にとり……」
椛は、胸が温かくなるのを感じた。自分の想いがちゃんと届いたことが嬉しかった。
にとりはしばらくの間、泣き続けた。
「いやはや、お恥ずかしい」
にとりは照れたように言った。
冷静さを取り戻したにとりは、自分の失態を恥じているようだった。
「ふふ。にとり、全然水を操れてないよね」
「う、うるさいなあ! 椛がいけないんだよお!」
「えー? 私はただ思ってることを言っただけだもん。感謝してるよ? にとり」
「も、もー! そういうの禁止!」
「ふふふ。はいはい」
「もー……。ところで、紅葉を加工して栞を作ってみたんだ。椛の分もあるから、おいでよ」
「あ、うん! 行く行く!」
ああ、なんて楽しいのだろう。こんな時間がいつまでもいつまでも続けばいい。
その想いはきっと二人とも同じに違いなかった。
それぞれの家の外では、二人のやりとりに顔を紅く染めた秋の葉がやってられませんとばかりに、はらはらとこぼれていった。
◆
にとりの家で、椛はにとりが作った栞を並べてどれをもらおうか悩んだり、一緒にお茶をしたり、にとりが香霖堂で買った機械のことを聞いたりした。(そして騙されてるなあなどと思ったりした)
そんな、いつも通りの日常を過ごしていると、いつの間にか日は暮れていた。
途中まで送っていくというにとりの申し出に、椛はにとりが帰る頃には真っ暗になって危ないからいいと断った。しかしにとりは、それでもいく! と言って聞かなかったので、結局は椛が折れた。
「ちょっとでも一緒にいたいじゃんか。……気づけバカ」
にとりのその呟きは、帰り支度をする椛の剣やら盾やらの音にかき消された。
楽しい時間はあっという間に過ぎていくものなんだよ。
秋の空気は、そう二人に優しく諭すように流れていた。
暮れる空には、はしゃいで赤くなった子供の顔みたいな雲がぷかぷかと泳いでいる。
少し肌寒いけど、まだ沈むまいと首を伸ばす太陽の温もりも残っている。
そんな秋の空気は暖かくて、けれどもちょっぴり切なくて、にとりと椛は、特に会話をするでもなく歩いていく。自然に生まれた、心地いい無言だった。
風が流れる音。集まる鳥の声。そして落ちる滝の音。三つの音から成る協奏曲は二人の耳に『秋は夕暮れ』を届けた。
「ん。ここでいいよ」
「そ? じゃあ、気をつけてね」
「にとりもね。もう真っ暗だあ」
「じゃあ……」
「うん……」
きゅっ。
どちらからというわけでもなく、二人の小指と小指が絡み合った。
昼間、少し恥ずかしいことがあったからか、なんとなくもうちょっと、いつもと違うことしてもいいよね、とそんな気分になっていた。
「……また、明日ね」
「……うん、また明日」
明日という言葉を当たり前のように使うことができる。それが何よりも嬉しい。
にとりと椛は、まるで宝物を見つけた子供のように、へへっと笑った。
これからもずっと二人で、こんな日々を過ごすことができる。
そう、思っていた。
◆
起きがけに告げられたことは、にとりの目を覚ませるに十分な内容だった。
「山の中に設置した機械を撤去しろ」
鞍馬と名乗った天狗は、高圧的に言った。
「え……な、なん……」
いきなりの出来事に、にとりは動揺した。
圧倒的な力を誇る大天狗に高圧的に出られたら普通は萎縮する。しかしにとりは、動揺しながらも、はっきりと訊ねた。
「り、理由は何ですか。納得のいく理由がないと撤去はできません」
鞍馬はにとりのことを見下ろし、睨み付ける。並みの妖怪ならそれだけで竦みあがるほどの威圧感がある。
「この山は誰のものだ?」
「……天狗様のものです」
「そうだ。お前たちは間借りしているに過ぎん。その山を好き勝手に使うとは何事か」
「で、でも天狗様に迷惑はかけていません!」
「調子に乗るな河童風情が!!」
「ひぅ!」
鞍馬の恫喝ににとりは竦む。
「日々貴様等の安全を保障してやってる我々に恩義は感じないのか?」
「……天狗様には常日頃からお世話になっており、感謝しております」
にとりは頭を下げ、言った。しかし今日の平和な幻想郷に於いて、鞍馬の言うことは見当違いであった。鞍馬もそのことをわかっていながら、事を優位に運ぶために無理矢理言わせたようなものだった。
「まあしかし、せっかく作ったものを使わないというのも鶏肋というものだ。よし、その機械は我が使ってやろう」
(結局はそれかよ……!)
つまりは、それらしい文句をつけて交信機を自分のものにしようという魂胆らしい。
確かに、交信機があれば新聞を作るのに有用といえる。
「近日中に我の下へ持って来い。あの哨戒天狗の分もだ。いいな」
絶対に嫌だ。渡したくない。でも力では敵わない。向かっていくことのできない自分が悔しい。
「わかっていると思うが、断れば下っ端の分際で山を好き勝手に使ったあの哨戒天狗に罰を与える」
にとりは俯き、唇を噛んだ。
鞍馬はそれを了承したと受け取ったのか、にやりと笑い、言った。
「いい記事ができたら、貴様にもくれてやるぞ。一割引でな! ハハハ!」
そう言って鞍馬は葉巻を投げ捨て、飛び去っていった。
あとに残ったものは、静寂。つむじ風。なぜか覚えのある、きつい葉巻の匂い――
「ちくしょう……」
――そして、にとりの悲痛な呟きだった。
家に入ったにとりは、沈んだ面持ちで交信機のスイッチを入れた。
「あ、にとりー! やっほー! へへ、いい加減交信機でしゃべるのも慣れたよ!」
交信機の向こうから、椛の明るい声が聞こえる。
……今はそれが辛い。
「椛……。あのね……」
にとりは先の出来事を椛に伝えた。
「な、何それ……。そんな、そんな勝手なことってないよ!」
話を聞いた椛は怒りを露わにした。
「天狗って勝手だよね……。あ、もちろん椛とか文さんは別だけど。せっかく作ったのに……」
「何言ってんの! 渡さなくていいよ!」
「でも……渡さないと何をされるかわからないんだよ」
天狗は上下の関係に厳しい。ましてや大天狗と哨戒天狗とでは天と地ほどの隔たりがある。単なる脅し文句だったとしても、交信機を渡さなかったら、椛には実際に罰が与えられるだろう。
「そんなの構わない! 私が罰を受けるだけで交信機が守れるならいくらでも受けるよ!」
「椛……」
椛はそう言ったが、にとりは合意できなかった。
相手はあの鞍馬だ。鞍馬の新聞はそよ風を台風と書くような代物で、下手したら零から事件を作り上げるようなこともある。
鞍馬を敵に回したら、椛は天狗社会では生きていけなくなるだろう。
「やっぱり……ダメだよ。危なすぎる」
にとりには椛にそんな危険なことをさせることはできなかった。
それに、交信機はまた作ればいい。
「にとりは交信機がなくなってもいいの!?」
「嫌だよ! だけど、また作ればいいじゃない」
「だめだよ! この交信機じゃなきゃだめなんだよ!」
椛は、にとりが自分のために作ってくれたこの交信機を奪われるのは我慢ならなかった。
「私、鞍馬様と掛け合ってくる」
「だめだってば! 椛!」
「私にとってこの交信機は大事な絆なんだもん! なんでわかってくれないのよ、にとりのばか!」
椛はそう言うなり、交信を切った。
「待って! 椛!」
交信機から聞こえてくるのは、まるで二人の距離を遠ざけるようなノイズだけだった。
「椛……」
◆
「はあ……」
椛は通信を切り、陰鬱な面持ちの溜め息を吐いた。
(にとりにとって、この交信機はただの発明の一つでしかないのかな)
二人で作った砂のお城が次の日になったら崩れていて、悲しんでいたのは自分だけだった。そんな感覚を椛は感じていた。
「ううん。そんなことないよね。それより今は鞍馬様に会いに行ってお願いしなきゃ」
椛は頭を振って、自分の中の悪い考えを追い出し、山道へと駆け出した。
「ここが……鞍馬様の……」
鞍馬の仕事場へとやってきた椛は、緊張の面持ちでドアの前に立っていた。
大天狗と哨戒天狗。その身分の差は天と地ほど隔たっている。普通ならば大天狗を訪ねるなんてことはありえない。ましてや意見するなどもってのほかだった。
(交信機のため……! ええい!)
椛は、むん、と胸を張り、ドアをノックした。
「し、失礼します。哨戒天狗の犬走椛といいます」
鞍馬は新聞を作っている最中らしい。振り向きもせずに言った。
「何用だ。例の装置を持ってきたのか?」
「い、いえ。そのことで少しお話が……」
「早く持って来い。もうじき大会の季節だ。あの装置は新聞を作る上で何かと役に立ちそうだからな」
椛は意を決して言う。
「こ、交信機は渡せません」
「……何?」
「あの交信機は、にとりが私のために作ってくれた、大切なものなんです。あれだけは、許してください」
椛は、極度の緊張のせいか、捲くし立てるように言い切った。
返事は返ってこない。
わかってもらえたのかな?
椛は一瞬そう思ったが、次の瞬間それは淡い幻想だということを知る。
鞍馬が団扇を手に取り、一振りする様が見えた。
――瞬間、椛の体が後方に勢いよく吹き飛ばされる。
「わうっ!?」
大天狗が巻き起こす旋風に椛は抗う術もなく、外へ転がった。
「あたた……」
近づいてきた鞍馬が転がった椛を見下ろして言う。
「哨戒天狗の分際で、この鞍馬に対してよく吼えたもんだな」
怒気を孕んだ声が響く。
鞍馬は団扇を振り上げ、叫ぶ。
「我にたてつくことの愚かさを知るがいい!!」
「――ッ!!」
椛は目をつぶり、身を強張らせた。
しかし、いくら待ってもなんの衝撃も襲ってこない。
「……?」
椛は恐る恐る目を開けた。
目の前の鞍馬は呆然と遠くを見つめている。椛は鞍馬の視線の先を追った。
「ッ!?」
山が……燃えている。
「もしや……いやまさか……」
隣にいる鞍馬が何やら呟いていたが、今はそんなことはどうでもいい。なぜなら――
「私のうちの方だ……」
そう、炎は下流の方から上がってきて、椛の家があるところまで達していた。
「――ッ! こ、交信機が!」
家には交信機が置いてある。にとりが私のために作ってくれた交信機。私と、にとりを繋いでくれる交信機――
椛は弾けたように走り出した。体の痛みなんて今は無視する。
「――間に合って!!」
◆
交信が途絶えた後、にとりは一人悶々としていた。
「椛……」
椛は大丈夫だろうか? ひどい目にあってないだろうか? 今からでも大天狗のところに行った方がいいだろうか? しかし場所がわからない。
にとりの頭の中では、色々ん考えがぐるぐると回っていた。
しかし、にとりの思考はパチパチと何かが爆ぜるような音、そして山に住む者にとって一番嫌な匂いによって中断された。
「ッ!?」
にとりは慌てて外を見やった。
「か、火事!?」
にとりが外へ飛び出ると、辺りは既に炎に包まれていた。
「くッ――!」
にとりは瞬時に行動した。妖気を高め、そして叫ぶ。
「河童のポロロッカ!!」
にとりの宣言に呼応して、少し離れた川から大量の水が押し寄せてくる。
水はみるみる炎を飲み込んでいき、やがて炎は消えていった。しかし――
「く……上までいった火は消せなかった」
炎は上っていき、水は下っていくもの。
さしもの水を操る河童と言えども、自然の法則には逆らえず、炎は山の上方へと燃え広がっていった。
――ドクン。
まずい。あっちは、椛の家の方向だ。
いや、椛は今、大天狗のところにいる。家にはいないはずだ。
にとりはそう自分に言い聞かせるが、どうしても嫌な予感が振り切れない。
にとりは椛の家へと急いだ。
空から見ると、炎がまるで一本の道のように延々と続いている。
椛の家があるはずの場所は、既に辺り一面炎に包まれていた。
「椛ぃーッ!!」
そこに椛はいないと自分に言い聞かせても不安は募る。
「あッ……!」
まだ炎の回っていない山の上部から、ものすごい勢いで走ってくる影が見える。遠目すぎてはっきりは見えないが、白い髪、大きな剣と盾、ふわふわな尻尾、間違いなく椛だ。
「よ、よかった……。巻き込まれてなかったんだ」
にとりの安堵も束の間、椛はそのままの勢いで炎の中に突っ込んだ。
「なんで!?」
煙でよく見えないが、どうやら椛は自分の家がある方へ向かっているように思える。
何のため……? 決まっている。交信機のためだ。
「――ッ! 椛の、ばか!」
にとりはそう言って、急いで椛の後を追った。
◆
――ハッ――ハッ――ハッ。
どれくらい走っただろう。わからない。ただ息が苦しい。
間隔の狭い木々を通り抜ける度に、服と髪の先端がチリチリと焼ける。
それでも足は止めない。止めたくない。だって、交信機が待っているんだから!
熱気に耐え、行く手を炎に阻まれても懸命に走り抜いた椛だったが、炎上している自分の家を見たときは、さすがに泣きたくなった。
「ううう……なんでこんなことに……」
しかし今は泣き言を言っている場合ではない。
椛は燃え盛っているドアを剣で吹き飛ばし、中へと入っていった。
「くぅッ……!」
中に入った途端、ごう、と襲ってくる熱風に怯む。家の中まですっかり火の手が回っている。
しかし負けてはいられない。
椛は一直線に交信機の元へと向かった。
交信機が置いてある部屋に着き、その姿を確認し安堵する。
「よかった……壊れてない……」
椛は交信機を両手いっぱいに抱え込んだ。
「お、重い……」
両手にずしりとのしかかる重量感に心が折れそうになる。
「な、なんのこれしき……」
椛は自分を奮起させ、歩き始める。
――その時。
「きゃあッ!」
ばきばきと音を立て柱が椛の行く手を塞ぐ。
「み、道が……」
熱気が充満し、煙が立ち込める部屋の中で、椛は立ち尽くす。
そしてついには膝をつく。
朦朧とする意識の中で思い描くのは、友人の笑顔。
「にとり……」
ぽつりと――
「ごめん……守れなかったよ……」
そう呟き、椛は意識を失った。
◆
空気が乾いているからか、火の回りが早い。
椛の家は今にも崩れ落ちそうだった。椛は家から出てこない……。
ぐずぐずしてはいられない。
にとりは焦る気持ちを押さえ込み、全ての妖気をかき集める。
ここまで侵攻した火を全部消すには、にとりの持つ全ての力を使い切るしかない。
にとりは集中し、大切な友人の顔を思い描く。
――椛。
人見知りな私に笑顔を向けてくれた。
つまらない発明にも驚いてくれた。
私の大切な、大切な、友達。
あの子は、あの子の笑顔は私が守ってみせる。
今日も、明日も、ずっとずっといつまでも!!
にとりの目に光が宿る。
秋、山、そして川に流れる自然の力がにとりに集まる。
――椛を助けてッ!!
「お願い――私の、ポロロッカぁ!!」
――――。
宣言をしたにとりだったが、辺りに変化は見られない。
「くッ……重い……!」
それもそのはず、にとりが現在いる場所から、川はだいぶ離れていた。その分大量の妖気も必要とするし、時間もかかる。
しかし今は一刻を争う。
急げ急げ急げ急げ急げッ!!
椛、椛、椛ッ……!
「くぅぅ……ぁああああああああああッ!!」
にとりは、自分の出せる全ての力を出し切る。
――遠くから、交信機のノイズのような音が近づいてくる。その音は段々と大きくなって、やがては耳を塞ぎたくなるような大音量となってやってくる。
川からきた水は、大きな大きな津波となって山を覆い尽くしていった。
◆
「ん……」
「椛!」
椛は、にとりの腕の中、目を覚ました。
「よかった……。目を覚まさなかったらどうしようかと……」
「にとり……? 私……」
煙を吸い込んだためか、頭がはっきりしない。
椛は状況を把握しようと、辺りを見回した。そして、次第に意識もはっきりしてきたのか、合点がいったように頷いた。
「そっか。にとりが助けてくれたんだ」
ありがとう。椛はその言葉を大切に呟いた。
にとりに感謝できる日々を続けられる。それが嬉しい。
「うぅ! 怖かったよぉ……!」
緊張の糸が切れたのか、椛はぽろぽろと涙をこぼした。
にとりは椛の背中をぽんぽんと叩き、優しくあやす。
「よしよし。もう大丈夫だよ……」
泣きじゃくっていた椛だったが、突然何かを思い出したらしく、慌てて訊ねた。
「そ、そうだ! 交信機、交信機は!?」
「交信機は……」
にとりは気まずそうに目を逸らし、ちらりと交信機のある方を見やった。
椛はにとりの視線の先に、熱で融かされ、恐らく使い物にならなくなっているであろう交信機を見つけた。
「あ……ああ……」
椛は今度こそ堰を切ったように泣き出した。
「うぁあああああああああ!!」
椛の胸の中で、交信機を使ってにとりと話した日々の思い出が去来する。
楽しかったこと、悲しかったこと、他愛のないことばかりだったけれど、椛の中ではそれが宝石のように輝いている。その宝石を共に作った交信機が今ではもう動かない。
椛は己の無力さに涙が止まらなかった。
「椛……」
「う……うう……ごめんっ、ねえ。守って……んっく……あげられなくて」
「椛、聞いて」
にとりはゆっくりと話し始めた。
「形あるモノは、いつか壊れるの。これはどんなに科学が進歩しても変えられないこと。それは、作られたモノにもわかってる」
「モノ、にも?」
「そう。よく人は、機械に心はないって言うけど、私はこの子には心が宿っていると思う」
にとりは、まるで我が子を慈しむような優しい眼差しで交信機を見た。
「だって、私が一生懸命作ったものを、椛がこんなにも大切に想ってくれてるんだもん。心が宿らないわけないよ」
だから――
「この子たちが眠る、最後の瞬間は、涙でもなく、謝罪でもなく、笑顔でありがとうと言って見送ってあげて」
それが、この世に生を受けたこの子たちの、たった一つの矜持になるから――
にとりはそう呟いて目を閉じる。
涙がにとりの頬を伝う。
「にとり……」
椛は先刻の自分を恥じた。
にとりにとって、交信機がただの発明の一つだなんて、そんなことを一瞬でも考えた自分が恥ずかしい。にとりにとって発明は我が子同然なんだ。
「うん……。わかった」
椛は涙を拭い、交信機に向かい、言った。
「短い間だったけど、ありがとう。とっても楽しかったよ」
それと――
「ごめんね。にとり」
「ふえ? 何が?」
「ううん。なんでもない」
発明家としてのにとりを侮辱するようなことを思ってしまった。真っ直ぐな性格の椛は、そのことはどうしても
謝りたかったが、その胸を内を吐露するには、椛はまだまだ子供だった。
「なんだよー。教えてよー」
「もー。なんでもないってばー」
いつもの調子を取り戻しつつあった二人は、そんな風にじゃれ合っていた。
しかしそこに突風が巻き起こり、それを中断させた。
「きゃっ」
「わぷっ!」
突風が収まり目を開くと、そこには鞍馬がいた。
「ふん。河童もたまには役に立つものだな」
鞍馬は飽くまでも偉そうに言った。
「いや待てよ? そもそも、なぜ山火事など起こったのか? 河童、貴様の火の元の不始末が原因ではないのか?」
「なっ!?」
「そ、そんなはずはないです! いつもしっかりと始末はしてます!」
「ならばなぜ火事は起きた?」
「そ、それは……」
「貴様は自分の仕事がいつも完璧であるとでも思っているのか? 一度も誤ったことがないとでも言うのか? え? どうなんだ?」
「……」
もちろんそんなことはない。誰しも失敗はするし、挫折を味わうことだってあるが、ここでそのことを持ち出すことは全くの無意味である。
しかし鞍馬は立場の強さに飽かして、勝手なことを並び立てた。
「何も言えまい! そうだ! この火事は貴様が起こしたのだ! ハハ、次の新聞の見出しは決まりだな! 見出しは『河童、火を操り山を燃やす』だ! 見ていろ、貴様の悪行を世に知らしめてやる!」
「そこまでですッ!!」
――高く、澄んだ声が響いた。
それと同時に、突風などという言葉では生ぬるい、肌を切り裂くような風と共に、射命丸文はやってきた。
「真実はいつも一つ! 射命丸参上!」
「あ、文さん!」
「文さまぁ!」
文はその類まれな身体能力から、大天狗の間でも一目置かれている。
ともすれば自分の立場を危ぶませるかもしれない存在の登場に、鞍馬はいい顔はしなかった。
「何の用だ。我は今『取材中』だ。山火事の犯人のな」
犯人という言葉に椛は反発する。
「にとりはやってな――!」
文は椛を片手で制し、鞍馬に向き合う。
「あやや、それは失礼しました。ですが、もっと面白いネタを仕入れてきたんです。ここだけの独占情報ですよ。知りたくありませんか?」
独占情報という言葉に鞍馬がぴくりと反応する。
「ほう、なんだそれは?」
「山火事の――真犯人です」
「――ッ」
「火災発生地をくまなく調べてみました。そしたらこんなものを見つけましてね」
そう言うと、文はあるモノを取り出した。
「文さまそれは……葉巻?」
「ええ、そうです。だいぶ崩れてるから運ぶのに苦労しました」
にとりはその葉巻を見て何かを思い出したのか、慌てたように言った。
「あ、そ、それ! その葉巻、大天狗さまが吸ってたやつ!」
「えッ!?」
「……そういうことです。鞍馬様――」
椛とにとり、二人が文の一挙手一投足に注視する。
「あなたが、この山火事の犯人です」
文は鞍馬を指差し、言い放った。
犯人と断言された鞍馬は俯いて顔を上げない。鞍馬の肩が震えている。そして次第にその震えは大きくなり、鞍
馬は大声で笑い出した。
「ハハハハハ! 何を言い出すかと思えば! たったそれだけのことで犯人にされてなたまったものではないわ!
」
「では、山火事の犯人は鞍馬さまではないと?」
「当たり前だ! 確かにその葉巻は我が捨てたものだ。火を消してからな!」
「……」
文は鞍馬の顔をじっと見つめる。そして確信めいた表情で言う。
「……嘘、ですね」
「貴様……大天狗である我を、天狗の頂点である我を疑う気かッ!!」
「承知の上で疑っています。いえ、確信しています。天狗に共通するある事柄を発見しました。それは、天狗は嘘をつくと鼻の頭に血管が浮き出るんです」
椛が驚いた表情で訊ねる。
「嘘でしょ文さま!?」
「ええ、嘘です。ですが、マヌケは見つかったようですね」
――アッ!
鞍馬は、自分の鼻の頭を押さえていた。
「これで決まりですね。もう一度言います。鞍馬さま、あなたが犯人です」
鞍馬は応えない。不気味な沈黙が漂う。
沈黙を破ったのは、鞍馬の笑い声。
「ククク……。ああ、そうだ。我が犯人だ」
「認めましたね」
「ああ」
――だが。
「だからなんだと言うのだ?」
「は?」
「だからなんだと言うのだ。我を弾劾するか? 記事にするか? 大天狗である我を? 天狗社会に混乱が訪れるぞ。貴様はそれを覚悟しているのか?」
「……」
今まで我慢していた椛が口を挟んだ。
「に、にとりに謝ってください! 自分の過失を他人の所為にしようとするなんて、最低です!」
「も、椛! 私はいいから!」
「よくないよ! それから、にとりに感謝してください! あなたの不始末をにとりが後始末してくれたんです!
」
「黙れッ!!」
「ひっ」
鞍馬の恫喝で椛は竦みあがる。
「大体その河童がもっと早く火を消し止めればこんな大事にはならなかったのだ! この役立たずめッ!!」
その言葉に、椛はキレた。
「があッ!!!」
椛は背中の巨大な刀に手をかけ、爆ぜる。椛の脚力に大地は弾け、小さな砂煙が巻き起こる。
椛の脳裏には鞍馬を切り伏せる明確な映像。
コンマ数秒の出来事。一秒にも満たないその時間の中で、椛は敵を倒す型を作り、初動にて加速を終える。
椛は勝利を確信する。
入るッ!!
刹那。しかし椛の脳は、自分の体が止まっていることに気づく。
――否。止められていた。
「なッ!!?」
自分の目の前に文がいることに気づく。
振り上げた右腕の肘、正中線を隠すように前に出した左肩。実に効果的に突進を止められている。
振り返ると、自分は数歩分しか移動していない。
白狼天狗の渾身の一撃。それを難なく、一瞬で制するパワーとスピード。
この一瞬の攻防は射命丸文の特異さを物語っていた。
文は落ち着いた声で言う。
「椛、落ち着きなさい」
「あ、文さま……でも……」
「いいから」
椛は文に言われ、しぶしぶ引き下がる。
椛を宥めたあと、文は鞍馬に向き直り、告げる。
「鞍馬さま。あなたのおっしゃる通りです。大天狗である鞍馬さまを弾劾しようものなら大きな混乱が訪れます。
ですから、私は記事にすることも世に知らしめることもしません」
「ふん。良い心がけだ」
だから――――
ゴキン。
「これでお終いにします」
「ぐぅおおおおおおおおおおおおッ!!?」
気が付いたら大天狗さまが転がって呻いていた。
後に二人はそう語る。
文の放った拳は誰の目にも留まることなく、精確に鞍馬の鼻を捉え、文字通り天狗の鼻を折った。
「あ、文さま過激……」
「覚えておれッ! 覚えておれッ!!」
そう言って鞍馬は自分の仕事場へと逃げ帰っていった。
「ふう……。終わりましたね」
文は軽く溜め息を吐き、二人に向かい合った。
「二人とも、お疲れ様でした。それから……すみませんでした」
「な、なんで文さまが謝るんですか?」
「そうですよ。文さん助けてくれたじゃないですか」
「いえ、鞍馬さまが不穏な動きをしていたことはわかっていたんです。ですけど、大天狗相手に表立って邪魔することはできなかった。私がもっと早く行動していればこんな大事にはならなかったかもしれない……」
「あ、文さんもしかして、今回の件で立場が危うくなったりするんじゃ……?」
「その可能性はありますね。あの鞍馬という男は蛇のような性格です。今後私に対してなんらかのアクションはあるでしょうね」
「そ、それなのに私たちのために……」
にとりは先ほどから気になっていた疑問をぶつけてみた。
「文さん。どうして私を信じてくれたんですか? さっきの時点では本当に私の不始末って可能性もあったじゃないですか。それなのに……」
にとりの疑問に、文は優しく微笑み、答える。
「ふふ。それに関しては確信していましたよ」
「な、なんでですか?」
文は椛の頭をくしゃっと撫で、笑いながら言う。
「この子、ドジだけど目だけはいいんですよ。なんせ千里先まで見通しますからね。その椛が選んだ友達なんです。信用できないはずありません」
「あ、文さまぁ……」
椛は、上司の暖かい言葉に思わず涙腺が緩んだ。
「ほらほら椛、泣かないの」
「ふぇぇぇぇぇん……泣いてませんー」
「思いっきり泣いてるじゃないですか」
「ふふ……」
こうして、にとりと椛の長く慌しい一日は終わった。
◆
川より程近いにとり宅。回りの木々は先の山火事でなくなってしまい、些か寂しい風景となっていた。
パチパチと将棋を指す音が木霊する。
にとりと椛は相も変わらず将棋に打ち込んでいた。
椛は自分の家ができるまでの間、にとりの家に住むことになった。椛はそれを申し訳なく思っている節があるようだが、にとりは嬉しそうにしている。
にとりは考える。
万物は全て一定ではない。
モノは壊れ、生命は朽ちる。
その流れは、水が上から下に行くように、決して変わらない。
けれどその中で、きらきらと輝く宝石のような時がある。
それは、未来への希望かもしれない。
その瞬間の感動かもしれない。
過去の思い出かもしれない。
そんな流れる時を、これから椛と二人で集めていきたい。にとりはそう思う。
この、秋めく滝で――――
終わり
読んでて安心できる展開でした
前半のほのぼのがすごくツボでした。
いやはやあれほどドキドキしながら「友達」っていうのが、うぶでよかったです。
今回は一種の王道を意識して作ってみました。それが安心できる展開となったのかもしれません。
次はそれプラス、ハラハラドキドキを盛り込めたらいいなと思ってます。
>5
何か鞍馬を嵌める方法はないか……そう考えていたらこれしか思いつきませんでした。
む、無理があったorz
>9
前回テンポが早過ぎるとのことで、前半のほのぼの、日常部分に力を入れてみました。
そう言っていただけると頑張った甲斐があります。
>11
まさしく。今回一番の反省点となります。
役どころもそうですし、どうも鞍馬が小悪党でしかないイメージ。
もっと強大で、もっと自己中心的で、自分で手を下さずに手下を使うような悪役にしたらもっと盛り上がったかも。そう思いました。
>12
地霊殿での姑息なにとりは一切排除。風神録のかわいいにとりを全面に出してみました。
気に入ってもらえたなら幸いです。
にとりと椛の二人は親友であって欲しいとです。
ありがとうございます!
にとりもいいし、椛もいい。
そしてなによりいいのは、二人の仲が良いってことですよね。
天魔だっけ、そんな感じのがいなかったっけ?
元は『煙草を吸うと鼻の血管が浮く』だったかな...? 忘れました。
とりあえずかっこいい文が見れたので満足です。