Coolier - 新生・東方創想話

10^-15の旅人 -後編-

2009/07/14 06:58:52
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――それから一月の間、私はひたすら護衛と防衛網の強化に勤しんだ。

彼女が臨月を迎えて本格的に動けなくなるまでに、近辺の地理を全て頭に叩き込み、八意とともにあらゆる状況に対応する為のシミュレーションも実施した。
未だ万全とは言えないが、それでも万が一の事が無い様には努めたつもりだ。

今日も定時の見回りを終え、彼女の診療室で一人カフェオレと口付けを交わしている所だった。
一口毎に出る溜め息が幸せな物である事を噛み締めながら、次の一口を口に含む。

それを数回繰り返し、ティーカップの中身が半分程になった頃、ドアの開く音が背中越しに聞こえた。
振り向くまでもない。 誰かは決まっているのだ。





「お待たせ。 どう? 様子は」

「今日はお客様2匹、兎1匹。
 お客様の兎はいつも通りの所に。 兎1匹は綿月姉妹のお使いで来たんだってさ」

「そう。 ”レイセン”にはお土産でも持たせておくわ」

「あの子大丈夫なの? 何か凄いおどおどしてたけど」

「そうなのよねぇ、あの子達も戦闘用兎の癖にとびきり臆病で困ってるって」

「でしょうねえ。 なんだったら貴女の弟子にしてあげたら?」

「馬鹿言わないで頂戴。 そんなの拾う余裕があるなら貴女でも使った方がマシよ」

「うわ、酷い言い草」





私達は、こうして見回りの最後には珈琲を片手に短い歓談を交わす事が日課になっていた。
最近はすっかり襲撃も無く、比較的穏やかな日々が続いた事も要因の一つかもしれない。

とりあえず、彼女と話せば話すほど分かった事があった。
やはり彼女はどこまでいっても八意永琳なのだ。

その事実に安心しながら、今日も私は自分の部屋へと戻り、一日を終えようとしていた。
しかし、これが永い夜の始まりになるとは、この時は露程も思ってはいなかった。





自室に戻り、私は一人書物を読み耽っていた。
永琳が書いた医学書の一冊であるが、これが驚く程に睡魔を誘ってくれるのである。

今日も頁を3枚も捲らぬ内に、意識が心地良く遠のいていく。
散々動き回って疲れた。 ゆっくりと眠らせて貰おう。

目を瞑り、夢の世界へと旅立とうとした私を、不快な破裂音が呼び戻す。

しかし、私はすぐに飛び起きる事ができた。
それが何か、寝ぼけた脳味噌よりも先に体が理解したからである。

着の身着のまま飛び出し、上空へ昇った私の視界に移ったものは、既に見飽きた紅い眼光だった。

だが、今回は数が違う。
今までの様な様子見で送られる1匹2匹どころではない、数えきれぬ程の眼光、そして気配が屋敷の付近に蠢いていた。





「……っ!」





流石に今回ばかりは手加減などと悠長な事は言っていられなかった。
懐から数本のナイフを取り出し、兎達へ投げつける。

だが、狙うは心臓でも、ましてや頭でもない。
私が狙うのはただ一カ所、兎達の”足”だった。





「きゃっ!?」

「痛っ!?」





狙い通り、兎達の足にナイフが命中する。
こうなると兎達は脆いのだ。

溢れ出た血に怯え、既に何匹かは戦線を離脱している。
そうでなくても、その光景を目撃した兎達の半数程は怯み、足を止めていた。

痛みに泣き叫ぶ兎が、彼女達の恐怖心を更に煽り立てる。
かわいそうだが、兎達を止めるにはこれが一番効果的なのだ。





「っ!?」





刹那、私の頬を一発の銃弾が掠める。
銀色の髪の束が宙に舞い、夜の光を反射させて消えていった。
その事実を認識したとき、私は自分の愚かさに気付かされた。

兎達に気を取られて油断していた。
いや、寧ろもっと早めに気付くべきだったのだ。

何故、こうなると分かっていながら彼等は兎達を差し向けていたのだろうか。

全てはこの日の為だった。
再び兎ばかりの軍勢を見せて、油断させる為に。





「っ普通に考えてみれば、今までがおかしかったのよね!」





兎達が慌てふためく中、正確にこちらに向けて照準を構える黒服達。
そう、今回こそ総力戦なのだろう。

兎達に混じり、多くの”人間”が今回の襲撃に加担しているのだ。






「くっ、ああもう! 面倒臭いわね!」





彼らの様子を見て士気を取り戻したのか、兎達が態勢を立て直し、援護射撃に加わっている。
私はひたすら、地上から向けられる対空砲火の嵐をかいくぐっていた。
八意の張った結界は大したもので、こちらからの攻撃は貫通しても相手からの攻撃は殆ど通す事が無かった。

地上に居る”客”達もそれは同じである。
一生懸命にこじ開けようとしているが、力量の差だろう。
中々結界を突破する事が出来ずに居た。

だが、これも時間の問題だろう。
いくらあの八意が張った結界とて、いずれ限界は来る。
そうしたら、少々骨が折れる事になる。

その前に、いくらかでも彼らの戦力を削る必要があった。





「ほら、もうじき今日と明日が入れ替わるわ。
 良い子は寝ないと、時間の隙間に置いてかれるわよ?」





軽口を叩きながら、余っているナイフを地上目掛けてバラまいた。
その内の殆どは、地上から送り込まれる弾丸にたたき落とされた。
しかし確実に、しかし少しずつ相手の戦力を減らす事には成功していた。

人数さえ減らせば、少しはマシになる。
その事を支えに、私は終わりなき防衛戦を繰り広げていた。
だがそれも、やがて終わりを迎える事になる。





「っ! よし! こっちだ!」

「あ、くそっ!」





結界越しの戦いの中、遂に結界の一カ所が破られてしまった。
黒服達はここぞとばかりに兎達を先導し、目的達成への橋頭堡を築き上げていた。

その様に思わず舌打ちし、高度を下げてゆく。
こうなったもう少し直接的なモーションを仕掛けてやる必要があるだろう。

多少手荒になるが仕方が無い。
今までが優し過ぎたのだ。





「この屋敷の何処かに居る筈だ! 探しだせ!」





恐らく一番乗りしたらしい黒服の男が、不快な濁声を響かせて兎達を先導している。
仕方が無い。 多少可哀想だが、彼に見せしめとなってもらおうか。





「仕留めた奴には褒美を―― っ!? うわぁ! あ、熱、熱いぃ!」





男に向け、掌大の火球を打ち込んだ。
直ぐさま火だるまになり、男は慌てて地面に転がり、火を消しだした。

何、多少、いや重度の火傷でも平気だ。
月の技術ならばその位跡も分からず修正できる。

息も絶え絶えと言った男を横目に、私は兎達の目の前へと降り立った。
案の定、怯えた表情で私を見詰めてくる。

嗚呼、やはり兎は可愛い。
人間等とは比べるべくも無い。





「貴女達。 もしも私達の方に付くなら、ご飯がお腹いっぱい食べれて、自由が保証された素敵な場所へ連れてってあげるわ。
 ちょっと訓練がキツいみたいだけどね。 勿論、こんな酷い事もしないで済むのよ? どう? いらっしゃいな」





少しだけ嘘を含んでしまったが、この際しょうがない。
背に腹は変えられないのだ。

兎達はと言えば、期待半分、怯え半分と言った表情で私を見ている。
だが、彼女達の答えは殆ど決まっているだろう。

圧倒的な差を見せつけた後の、甘い誘惑。
それを断れるほど、月の兎は飼い主に忠実ではないのだから。





「……あ、わ、私、行く!」

「あ、私もー!」

「私も私も!」





案の定、兎達は私の元へと付いてきた。
実質的に戦力的な変化は微々たるものだが、面に広がっていた敵が点へと変わった点では、大きな好転と言えるだろう。
私と兎達が睨み付ける中、黒服達の会話が耳に入る。





「任務失敗だ。
 撤退するぞ」

「しかし、それでは私達の面子が……!」

「命と面子、どっちが大事だ?」

「……クッ!」





この様な状況も予め想定されていたのだろう。
撤退決断から数秒も立たずに、黒服達はこの場を立ち去って行く。





……どうやら、なんとか守り切れたらしい。


緊張の糸が緩むとともに、一挙に疲れの波が押し寄せてくる。
その場に座り込んだ私は、心配そうな顔をした兎達に囲まれる中、静かに溜め息を吐いた。





「っはぁ、つっかれたぁ~……それにしても、何してんのよ八意の奴……。
 明日会ったら思いっきり嫌みを言ってやるんだから」





さんざん怨嗟の念を吐き終えた私は、ふと自分の全周囲を囲った兎達の姿が目に入る。
皆して真っ赤な瞳をクリクリと輝かせ、私の事を見ていた。
そして彼女達は、矢継ぎ早に私に声をかけてきたのだ。





「大丈夫~?」

「ありがと~!」

「ねえねえ、さっき言ってたのって何処~?」





心配する声、感謝の言葉。 そんなのそっちのけで新しい住処を尋ねる者。
様々だったが、内容はどれも兎らしい平和な、暢気なものだった。

だが、こういう言葉も今はありがたかった。
最近は彼女の護衛で緊張しっぱなしだったのだ。
可愛い兎達と戯れて心の洗濯でもしようじゃないか。

しかし、事件というものは起きる時は一挙に訪れるものである。
兎達と会話をしていた私の耳に、徐々に大きくなってゆく廊下の音が聞こえてくる。

私の記憶する限り、八意が人前でそんなはしたない真似をする所を見た事が無い。
あの男もそう言うタイプだろう。 あの姫様は言わずもがなである。

とすれば。
この家に今日訪れているのは、後一匹しか居ない。

廊下の向こうからやってきたのは、スミレ色の長髪を伸ばした、特徴的なへたれた耳を持つ一匹の玉兎だった。





「大変大変! 大変なんです!」

「五月蝿いわよ、”レイセン”。
 廊下は静かに」

「そんな事言ってる場合じゃないんですって!」





レイセンは肩で息をしながら、ありったけの声量で私に叫び掛けてくる。
恐らく、八意から言伝でも預かってきたのだろう。

彼女の見開かれた目から、これから告げられる内容が芳しいものではない事を覚悟し、彼女の言葉を待った。





「姫様の陣痛が始まりました!」





レイセンの言葉は、幸いにも想定の範疇に納まってくれる物だった。
だが、如何せんタイミングが悪い。

心の中で舌打ちをしながら縁側へと上がり込み、狼狽しているレイセンの肩へと手を当てる。





「レイセン、貴女は此処で兎達と一緒に外を見張ってて。
 私が来るまで動くんじゃないわよ」

「え!? そ、そんなの無理ですって……」

「大丈夫、貴女ならできるわ。 ”鈴仙”」          

「え……う、うぅ~……分かりましたぁ」





頼りない返事だが、しょうがない。
確かに彼女は臆病だが、その潜在能力は決して低くはない。

少なくとも、先程来た人間達位なら追い返せるだろう。
この場を彼女達に任せ、私は八意の診療室へと向かった。





「っ!?」





だが、どうやら事態は思っていたよりも深刻化していたようだ。

胸に訪れる灼熱感。
それが腹部を貫かれた物による痛みだと気付いたのは、腹から生えた光の刃を視界に留めた為であった。





「ふんっ、別に何て事無いじゃないか」

「兎達はどうします?」

「ほっとけ。 あいつ等にゃ何もできないさ。
 それより目標を探すぞ」





男達の声がした後、背中に衝撃が訪れる。
恐らく蹴飛ばされたのだろう。

俯せに倒れた私をそのままに、男達は廊下を走り去って行く。
光の刃を携えた黒装束の男達が傾いた視界に入り込む。

しかし、何もできない。
いっそ殺してくれた方が幾分かましだったろうに。

あの時逃げた兎にカメラか盗聴器でも仕込んでいたのだろうか。
私が不死の身だと知り、その上でこの対応を選んだようだ。

生かさず殺さず。
瀕死の状態で捨て置く事が、何よりの時間稼ぎになると。

成る程考えた物だ。
愚昧な輩でも、少しはマシな事を思い付く。

あの黒服達すらもが囮だったのだろう。
本命はこいつらだ。
装備、練度、どれを取っても先程の奴らとは比べ物にならない。

二重三重と張られた、彼女を……いや、二人の命を屠る為に立てられた綿密な計画。
反吐が出る。 といっても、今のままではそこに赤い物が混ぜられてしまうが。

しかし。
ギリギリの所で意識を残したのが、奴らの誤算だった。

いくら時間をかけた計画だとしても、所詮は盤上の空想に過ぎない。
奴らが気付くべきだったのは、”私が死を微塵も恐れていない”事だった。





「ぐっ……あぁっ……!」

「んっ? 待て、様子がおかしいぞ……っ! な!?」





私の嗚咽に、最後尾に付いていた男が気が付いたようだ。
ははっ、言葉を失っているじゃないか。

そりゃあそうだろう。
この世界の誰も、例え自殺願望がある奴だって、”自分の心臓を握り潰す”なんて事は出来っこない。

意識が暗転し、そして現世へと黄泉返る。
幾度となく経験したそれに久しい感謝の念を覚えながら、私は此処に還ってきた。





「……嗚呼、痛かった」

「ッ! 化け物め……!」

「放っておけ! きりがないぞ! 数名が此処に残り足止めをしろ!
 後は目標へ迎え!」

「残念だけど貴方達の冒険は此処で終わってしまうのよ。
 分かる? GAMEOVER」

「何だと……!?」

「構うな! 先に行け!」





リーダー格の男は流石に冷静で、私の挑発に苛立つ仲間を上手く宥め、先へと走って行く。
どうやら私の言葉は耳に届かなかったらしい。

残念だ。
ここで引き返せばコンティニューの機会が得られたというのに。





「人の忠告は聞く物よ。 お兄さん」

「な……何!?」






走り去った男達の前に立ち、優しい口調で話しかけてやる。
私の顔を、男達は驚愕といった表情で見やっていた。

蝋燭の灯りが仄かに灯る廊下は、真っ直ぐ伸びた一本道だ。
にも拘らず、後ろに居た人間が今、自分達の目の前に立っているのである。

驚くなと言う方が無理だろう。





「何してる。 すぐに排除しろ」

「は……ハッ!」





だがやはり相手も慣れたもので、直ぐさま冷静さを取り戻すと、私の動きを再び封じる為に走り寄ってくる。
気付いた時には懐に潜り込まれ、光の刃が私の体を貫かんと迫っていた。





その一瞬。
思わず、笑みが零れた。






「――――なっ」





私の懐に居た男の体が、一条の光に貫かれる。
直線に伸びた閃光は男の体を貫通し、この廊下の果て、屋敷の外壁へと突き刺さる。
数多の暗殺者達を串刺しにしながら。






「――ふぅ。 ちょっと……やりすぎちゃった」





今度こそ侵入者達を蹴散らした私はその場に座り込み、溜め息を吐いた。
今日の事件だけではない、自分が引き起こした惨状に、である。

辺り一面には血の海が広がり、私の放ったレーザー光は廊下を何処かのチーズの様に穴だらけにしていた。
そこに、男達の亡骸である。 これを掃除するのは骨が折れるだろう。

もう一度溜め息を吐き、再び辺りの状況を確認する為、首を右から左へと動かしていく。
顔が真正面、私が来た廊下の向こうに視線が合わさった時、外の光に反射された何かがピクピクと動いているのが目に入った。





「……?」

「――あっ! えへへ……あの、大丈夫、でした、か?」





そう言いながら怖ず怖ずと現れたのは、ずっと様子を窺っていたのだろう、気まずそうな顔をしたレイセンだった。
彼女の性格は良く知っている。 怒る気にもなれず、私は彼女が近づいてくるのをずっと見詰めていた。

目の前まで来たレイセンはずっとモジモジとしながら、あの~だのええとだのと私に掛ける言葉を探っている。
それが10秒程続いた後、ようやく納得のいく言葉が見つかったのか、やや緊張の感じられる口調で声を放ってきた。





「あっ、あの! す、すいません援護出来なくって。
 ちょっと兎達を纏めようとしてたらこっちに気付かなくって……」

「ああ、その件なら大丈夫よ。
 ”貴女の能力を使えばあいつらが忍び込んでくるのも気付いたでしょうに”なんて全然思ってないから」

「あぅ!? す、すいません~……」





ジト目で睨み付けてやると、レイセンはシュンとした表情で、ただでさえへたれている耳を更に落としてうなだれてしまった。

全く、兎らしいというかなんと言うか。 流石にやりすぎただろうか。
でも私も一度は死んでいるんだし、この位やらせてもらっても罰は当たらないだろう。

私は苦笑いを浮かべながら彼女を励ます為に肩を叩く。
すると彼女は一瞬肩を跳ね上げさせた後、廊下の真正面、虚空を見詰めながら深紅の瞳を大きく見開いた。





「な、なによ、そんなにビックリする事でも無いでしょうに……」

「……どいて下さい」

「え……?」

「早く!」

「え、ええ」





聞いた事が無い様なレイセンの怒鳴り声に、思わず体を引っ込めてしまった。
何をするのかと見ていると、彼女は携えていた拳銃を取り出し、廊下の奥へとありったけの光弾を叩き込んでゆく。

レイセンが引き金を引く度に発せられる目映い閃光に、思わず目を閉じてしまう。
発射音が途切れたのは、バッテリーが切れたからだろうか。

閉じていた目を開けると、そこには肩で息をしたレイセンが銃を下ろし、廊下の奥を警戒の眼差しで見据えていた。





「ちょ、ちょっと、何やってるの!」

「……見て下さい、あれ」





レイセンの言葉に眉を顰めて廊下の奥を見やる。
そこに広がっていた光景は、私の背筋を先程以上に冷やす光景だった。

レイセンが指差した先。
薄暗い廊下の奥に、先程の男達と同じ格好をした者達が、風通りの良さそうな風体で横たわっていた。

小さく放電する音と共に、その姿が明滅を繰り返している。
光学迷彩――波長を操る彼女だからこそ、見破れた。





「…………嗚呼、怖かったぁ……」





その光景を呆然と見詰めていた私の隣から、気の抜けた声が聞こえてくる。
顔を向けてみれば、緊張の糸が切れたのか涙を目に浮かべたレイセンが廊下にペタリと座り込んでいた。
よく見れば体は震え、耳がびくびくと痙攣する様に動いている。

無我夢中だったのだろう。
後で待つ姉妹のお仕置きが恐かったのか、侵入者が自分の目の前に居る事が怖かったのか。

それは分からないが、とにかくこの臆病な兎は精一杯の勇気を振り絞って私を、姫を守ってくれたのだ。
八意と綿月姉妹には彼女に対するご褒美を用意させよう。


だが、それはこの事態が終息を迎えてからだ。

私は一つの仮定に思い至ったのだ。
恐らく当たっているであろう、最悪の仮定に。

あいつらが何故こんな目立つ場所から侵入しようとしたのか。
もしもあれが敵の全てなら、わざわざ私という護衛の居る場所から襲い来る筈が無いではないか。
複数の侵入経路を使っている筈だ。

結界は一度破る事が出来れば後は脆い。
何処からでも入り込む事が出来る。

もしそうならば、今頃どれだけの部隊が侵入していてもおかしくはない。
その上、そいつらは目に見えないのだ。
もう形振りなど構ってはいられない。

座り込むレイセンの肩に爪を食い込ませ、彼女の意識を連れ戻す様に怒鳴り付ける。





「レイセン、付いてらっしゃい!」

「はっ……えっ、え?」

「早く!」





訳が分からぬと言った表情の彼女の腕を掴み、私は自分の能力を行使する。
灯された蝋燭の炎が、コマ送りの様にぎこちない揺らぎへと変化していく。
それは徐々に進行し、やがて完世界が全に静止したかの様な、時が止まった様な奇妙な錯覚が誕生した。

”私の世界”に入り込んだレイセンは何が起きているのか理解出来ないようで、先程とは違う驚きを顔に浮かべながら立ち上がっていた。





「……え、あれ? な、なにが……」

「行くわよ、レイセン」

「ほぇ? あ、は、い?」





未だ混乱を残す彼女の手を引き、私は廊下を走った。

一つ目の廊下の角を曲がった先。
そこでレイセンはピクリと耳を持ち上げ、視線を鋭くした。





「居たのね。 何処?」

「……あそこです」





彼女の指差す先へと閃光を叩き込む。
恐らく彼らはまだ”自分が死んだ事”を認識していないだろう。

直ぐさま踵を返し、次の目標を探す為に、屋敷内を駆け巡る。
廊下で、裏庭で、室内で。

ありとあらゆる場所から侵入していた刺客を、レイセンと共に葬ってゆく。
彼らの視界には、確かに私の姿が映り込んでいるだろう。

しかし、例え私の出現に気付いたとしても、その時にはもはやどうする事も出来ない。
サブリミナルを回避出来る程、人間は器用ではないのだから。





「――どう? 他に気配は?」

「……いえ、完全に沈黙しました」





時間にすれば一秒にも満たないだろう。
私達が八意の診療室前に達する頃には、屋敷内に侵入した輩の始末は終わっていた。

そこで私は能力の終了を宣言する。
直ぐさま屋敷の方々より悲鳴の輪唱が響き渡った。

後片付けは誰がやるんだろうか。
相変わらず無為な思考に時間を費やしながら、私は溜め息と共に地べたへと座り込んだ。





「ふぅ……嗚呼、疲れちゃった。
 レイセン、肩揉んでくれない?」

「は、はい……」





納得がいかない、と言った表情のレイセンは私の肩を揉みながら、何かを言いたげな気配を纏い続ける。
それに応えてやるのも億劫で、私は静かに目を閉じ、肩から訪れる適度な快楽に身を委ねる。

だが、この兎は人、いや、兎一倍好奇心が旺盛なのだ。
直に自分を抑えきれなくなり、私に聞いてくるに違いない。





「……あのっ!」





果たして私の予想は当たり、レイセンはやや上擦った声で私に尋ねかける。

やれやれ、やっと来たか。
分かっていた事とは言え、飽き笑いが浮かんでくる。

振り返って彼女の顔を覗き込むと、彼女は気まずげな表情で私を見詰めていた。





「何? レイセン?」

「あ、いえ…………あの、貴女は、一体」

「私? 私は八意様の一番弟子よ?
 優曇華院とでも呼んでちょうだい」

「はえ? 変な名前……じゃなくて!
 はぐらかさない下さい!」

「ふふっ、冗談も分からないようじゃ一匹前の兎になれないわよ?」





そう言っておちょくってやると、レイセンは顔を真っ赤にして怒り出した。

全く、この子は本当に、何処に居ても変わらない。
それが嬉しいと同時に、少しだけ寂しかった。





「ちょっと、五月蝿いわよ貴女達」





その時、レイセンと戯れていた私達の背中から、随分と聞いてない様に思えた声が聞こえてくる。
振り向くと、手術を終えたのだろう八意が手袋とマスクを外しながらこちらを睨んでいた。





「酷いわねえ。 さっきまで私達、死ぬ様な目に遭ってたのよ。
 っていうか、死んだのよ?」

「あら、成仏してくれれば良かったのに」

「残念だけど、閻魔には見限られてるのよね、私」

「今度嘆願書でも提出しておくわ。 貴女の人権に関して、ね」

「そんな事を言いにわざわざ出てきたんじゃないでしょう?
 どうだったの?」

「あはは、貴女って思ったよりお莫迦さんだったのね。
 私を誰だと思ってるの?」





彼女が自信満々にそう告げた後、彼女の背後から鳴き声が聞こえてくる。
癇に障る、自分は此処に居ると告げる、新たな命の精一杯の自己主張に、私は口の端を吊り上げた。





「そう、お疲れ様」

「ええ、貴女も」

「もう入っても?」

「大丈夫よ。 さ、行ってらっしゃい」





八意の差し出した手を握りしめる。
持ち上げられる反動で体を起こした私は、赤ん坊の鳴き声が響き渡る、見慣れた室内へと入って行った。

中に入ってすぐ、私の鼻腔に消毒液の香りが飛び込んでくる。
だが今日は其処に、甘いと言うには微妙な、何処か母性を誘う香りが混ざり込んだ。

香りと泣声が入り交じった部屋の奥へと目を向ければ、八意が普段座っている椅子に座り、背を向けた少女――いや、女性が居た。

泣き喚く赤ん坊をあやしているのか、こちらまで落ち着かされる様な甘い声音で、手に抱いているだろう赤ん坊に話しかけている。
果たして彼女は、こちらに気付いているのだろうか。

その疑問を解消したのは、彼女から向けられた不機嫌な言葉だった。





「……何しに来たの?」





あからさまに敵意を含んだ物言いに、私の体は石にでもなったかの様に動きを止めてしまう。
暫く彼女に視線を送っていると、彼女は再び赤ん坊をあやし始めた。

衣擦れの音がしたすぐ後に、あれだけ泣き叫んでいた赤ん坊の悲鳴が止まる。
お乳をあげているのだと、すぐに分かった。

そのまま数分、私は身動き一つ取る事無く、彼女の行動を見続けていた。
どうやら授乳は終わったのか、彼女の手元辺りから小さくケフッと音が聞こえる。

満足したのだろう。
何故か、こちらまで安堵を覚えてしまう。


あれが、彼女と伴侶の縁によって受け継がれた、新しい命――――





「お待たせ……って、ちょっと何その格好。
 うちの子に血の臭いを覚えさせないでくれる?」





感慨に耽っていた私の耳に、彼女の不機嫌そうな声が響き渡った。
顔を上げると、彼女は文句を言いながらこちらに向き直っていた。
彼女の腕の中では、彼女に良く似た目鼻立ちの赤ん坊が満足そうな顔で寝息を立てている。





「あ、ご、ごめん……なさい」

「じゃ、もうそろそろ出て行ってくれないかしら?
 まだ色々とやる事があるから。 旦那も呼ばないと行けないし」

「え、ええ……」





予想はしていたが、やはりそう簡単には許して貰えないらしい。

それはそうだ。
彼女の人生を散々に引っ掻き回した張本人が、今更どんな顔で出て来れると言うのだ。
胸を張って彼女に挨拶出来る程、私の面の皮は厚くないつもりだった。

彼女の責める様な視線を背中に受けながら、私はドアノブに手を掛けた。





「ちょっと待ちなさい」





その動作を、彼女が止めさせた。
振り向く事はせず、全神経を背中越しに居る彼女に向けながら、私は彼女の言葉を待ち続けた。





「明日、その全身に付いた穢れを落としてからいらっしゃいな。
 そうしたらこの子、抱かせてあげる」





その言葉に、思わず振り向く。
反転した視線の先には、母親の貫禄と少女の幼稚さ、二つを兼ね備えた女性が悪戯っぽい笑みを浮かべて私を見詰めていた。





「血は穢れの象徴よ?
 早く落とさないと、寿命が縮まるわ」

「…………」





やられた。
もう言葉も無かった。

いつの間に、こんな強かさを身に付けたのだろうか。
母は強しと言った格言を、まさかこんなところで実感させられるとは思ってもみなかった。

軽く溜め息を吐くと、彼女は笑みを一層深くさせる。

駄目だ。
このまま此処に居ても彼女の良い玩具にされてしまうだろう。


それになにより。
罪の無い赤ん坊に、これ以上の”穢れ”を近づけさせる訳には行かなかった。





「……ええ、そうね。 私も流石に死に疲れたわ。


 ――”またね”」



「ええ、”またね”」





互いに手を振り、別れを告げる。
別離の為じゃない、再会する為の挨拶は、自分でも分からぬ内に心の奥底が満たされる。
だがその事実は、却って私の心を締め付ける。





――いけない。
  これ以上余計な感情を抱いては、私の役割を果たす事が出来なくなる。


感情と目的の板挟みにあいながら、診療室と廊下の境界を潜り抜ける。
すると扉の横にはいつから居たのか、八意とレイセンが廊下に背中を預けて並んでいるのが目に入った。





「――あら、もう終わり?」





こちらに気付いた八意が顔を向け、心底楽しいと言った表情で私に話しかけてくる。
その表情から、大方の事情を理解した上で私を此処に招いたのだろう。
全く、頭が良いという事が必ずしも万人に幸せを齎す訳ではないという事を、彼女はいつも身を以て教えてくれる。





「ええ、おかげさまで。
 門前払いじゃなかっただけマシかしらね」

「まあ、これから祓うんだけどね」

「人を悪鬼悪霊みたいに言わないでよ」

「似た様なもんじゃない。
 ほら、今夜くらいは泊めてあげるから、とっとと風呂にでも入ってらっしゃい」

「あら、太っ腹ね。 じゃあお言葉に甘えて失礼しますわ。
 それじゃあ…………。

 あっと、そうだ!」





肝心な事を忘れていた。
私は不思議そうな顔をした八意と、居心地悪そうに私と八意を交互に見返していたレイセンの眼前へと歩き、二人を抱きしめる。

姿勢を崩した二人の顔は、自然と私の顔の傍へ近づいた。





「――――っ」





一言囁きを残して、私は今度こそ浴場へと向かう。
きっと今頃二人とも間抜けな顔をしているだろう。

その姿を想像するだけで、今夜の報酬とするには十分な物だった。










――










「――――全く、ああ素直に返されちゃあ却ってリアクションに困るわ……」

「ええっと、感謝されてる……んですよね?」

「そうとっても構わないわね。 ちょっと背筋が寒くなったけど」

「あはは、八意様でもそういう事があるんですねぇー」

「貴女も大概失礼よ、レイセン。 ま、良いわ。 それよりも……」

「はい……まさかまだ居たなんて、全然思いませんでした……すいません」

「全く、詰めが甘いわねぇ彼女も。
 ま、あれだけ捕まえれば、一人くらいは吐いてくれるでしょ」

「ご、拷問ですか!? 自白剤ですか!?」

「ん? フフッ、貴女も手伝ってくれる?」

「わ、私は、兎達を綿月様達の所に連れてかなきゃ行けないんで、し、失礼しまーす!」



「あら、行っちゃった……ま、良いわ。
 さて……


 貴方達には聞きたい事が山程あるわ。
 全部吐かないと……死にたくなってからじゃ遅いわよ?」


「――――ッ!!」










――










あの永い夜から、それなりの月日が経過した。
次の日に彼女の元を訪れた時に見た赤ん坊は、彼女の面影を色濃く残していた。
それが私に逡巡の心に逡巡を生んだ。

人として、女として生き抜いた彼女がやっと手に入れた幸せ。
果たして私にはそれを無碍にする権利があると言うのだろうか。

思い悩むも、答えは出ない。
いや、きっと出ているのだろう。

心の内を覆い隠したまま、私は何とか彼女と和解し、今までと変わらぬ日々を過ごしている。

いや、一つ変わった事は、私と彼女達の間に新たな人物が加わった事だろう。
彼女の子供はすくすくと育ち、両親の手を焼かせている。


あの後聞いた話だが、八意はあの夜の襲撃を計画した犯人を突き止め、告発する事に成功したらしい。
やはり彼女達の権力が大きくなる事を恐れた人物の犯行だったらしく、直ぐさま地上送りにされたわ、と八意が笑いながら話してくれた。

何はともあれ、これで当面の心配は無くなった。
再び刺客に襲われる事もあるだろうが、此処には私と八意が居るのだ。
恐れる物は何も無かった。

ただ一つ、いつかは訪れる瞬間を除いて。





「――あら、どうしたの? 元気ないわよ~スマイルスマイル!」

「……ええ、ちょっと、ね」





どうやら顔に出ていたらしい。
ベンチに座り込んだ私に、彼女は明るく話しかけてくる。





「あ、ほら! 人参入り抹茶アイスだって!
 食べに行きましょうよ! ほら立って!」

「はいはい……って、それ絶対止めた方が良いと思うわ……」





元気よく叫ぶ彼女にやや呆れながらも、私は彼女の後を付いて行く。
夫に赤ん坊を預けた彼女は、今日は久々の買い物を楽しんでいるのだ。

勿論、お忍びでの外出である。
私が護衛に付いて行く事を条件に、八意から許可が得られたのだ。

当然の事ながら彼女を閉じ込めておきたい輩からの反発はあったらしい。
だがそれを、八意が鶴の一声で制したというのだ。

ずっと一緒に居ると気が付かない物だが、やはり彼女はただ者ではない。
今回ばかりは、彼女に心からの感謝を捧げた。

しかし、その時に生じた違和感を拭う事が出来なかった。
そもそも、彼女は私の目的などはとうに気付いている筈なのだ。

なのに、彼女は私の付き添いを認めたのだ。
そこに私は、ある”予感”を感じていた。

八意の、何かを諦めた様な苦しげな表情。
あれは、決して私の事を認めた訳では無いだろう。


だとすれば。
彼女はきっと何かを知っている。
そしてそれは、私の”予感”に沿うものなのかもしれなかった。





「あっ、ほらもう! またボーッとして。
 逃げるんだったら今のうちかしら……?」

「こら、私の目が黒い内はそんなことさせないわよ」

「あら、バレちゃった……」

「全く……本当に、おてんばだこと」

「だって最近子育てで忙しくって、なかなか出掛けられなかったんだもの。
 たまの休みくらい羽目を外したって構わないでしょう?」

「限度があるわよ、限度が」





いひひ、と子供っぽい笑顔を浮かべた彼女の額にデコピンを喰らわせる。
全く、彼女は一体誰に似たのだろうか……などと、考えるまでもない。

……そう、私には、考える必要すらない事なのに。





「隙有りっ!」

「え? ぶぁっ!? ……ま、不味ッ!?
 ……っえほっえほ! ……もうっ! やっぱり不味いじゃないこれ!」

「えへへ~、後は貴方が食べて頂戴!」

「要らないわよ、全く!」





そう、この戯れも、たった一時の為の物に過ぎない。
彼女の無邪気な笑顔も、八意のも、あの新しい命すらも、私の目的が達成された時、その役目を終える。

いや、終えなければならない。
そうでなければ、きっと私は耐えられないだろう。

自覚はあった。
自分がこの世界に馴染み、彼女達の良き友人であるかの様な錯覚を覚えていた事を。

感情を殺せ。
でなければ、私は――――





「――もうっ、さっきからおかしいわよ貴女?」

「へっ!? あ、ああ、ごめんなさい……」

「全くもう、貴女って思ったより意外と暢気なのね。
 あ、そうだ、貴女にずっと聞こうと思ってた事があるのよ」

「何かしら?」





「――貴女の名前、なんて言うの?」





――ッ!

彼女の問いに、思わず言葉に詰まってしまった。
今まで散々はぐらかしてきたのだ。
その上でこの質問をするという事は、彼女は本気なのだろう。

どうする。
誤摩化す事は出来る。
しかし、本当にそうして良いのだろうか。

嫌な予感が拭えない中で、私は普段なら悩みもしない問題に葛藤していた。
目の前に居る彼女の顔色が、段々と陰を帯びてくる。

嗚呼、そんな顔をしないで欲しい。
そんな顔をされたら、本当の事を口走ってしまうじゃないか――――





「…………私の、名前は」

「! うんうん!」





「――――私の名前は……










     ”蓬莱山輝夜”よ」





言い終え、私は生唾を飲み込んだ。
彼女は大きな瞳を一際丸くさせ、私の事を凝視している。

彼女のリアクションを待つ間、私は生きた心地がしなかった。

もうどうにでもなれ。
だが、半ば自暴自棄になっていた私の耳に飛び込んできた彼女の言葉は、それこそ予想だにしていない物だった。





「――ア」

「あ?」

「アハハハハハハハハ!
 良かった、やっと名前を教えてくれたわね!
 あーすっきりした! それ本名よね!? ね!?」





突然の笑いに、私は面食らってしまう。
彼女は笑いながら私の肩を掴み、何度も確認をしてくる。
その勢いに気圧された私は、なんの捻りも無い肯定の言葉を返すのが精一杯だった。





「え、ええ……そうよ」

「アハハ! やったやったぁ! ……あ、ごめんなさい取り乱しちゃって、でも嬉しくて。
 でも、やっと名前を教えてくれたんだもの! 改めてよろしくね、輝夜!」

「……ええ、こちらこそ、よろしくね」





彼女が私の名を呼んだ。

それだけの事なのに、私は胸を締め付けられる感覚に陥ってしまう。

やっと気が付いた。
私はやはり、後悔しているのだ。

何と馬鹿馬鹿しい事だろう。
私が、私の為に、自分の欲を満たす為だけに彼女の人生を散々に弄くり回し、あまつさえ悔恨の情に駆られているのだ。

そしてそれはすでに後戻りの出来ない所まで行き着いてしまった。
もう後は、この結末を見届けるしか無いのだ。

私が背負った、あまりに深すぎる業。
それが齎した結末を、私は甘んじて耐えよう。
例えそれが、永劫残る傷痕となろうとも。





「さ、それじゃあ次は何処へ行きましょうか……あーほらまた、ボーッとしてる!」

「……あ、ごめんなさい……って、今日は誤ってばっかりね、私」

「たまにはそういう日もあるわよ。
 明日になればまた元通り不遜で不気味な貴女に戻ってるわよ、きっと」

「いっつも一言多いのよアンタは!」

「アハハ、ほーら、悔しかったら追いかけて――――」





私の怒鳴り声に、彼女は笑いながら逃げ去っていく。
その光景が、コマ送りの様に再現された。

違う。 これは私の能力ではない。

では何故?

簡単だ。 

心臓の脈打つ強さを見ろ。

アドレナリンが体内を駆け巡っているじゃないか。

口の中が渇きにかゆみを覚える。

さっき彼女と一緒にジュースを飲んだばかりなのに?

辺りからは一切の音が遮断され、世界から取り残された様な錯覚を抱いた。

近くに居た女性が悲鳴をあげたらしい。 口を醜く開き切り、倒れる彼女を指差していた。

五月蝿い。 軽々しく指を指すな。 彼女を誰だと思っている?

嗚呼、なんだ。 ちゃんと聞こえているじゃあないか。

鼓膜に訪れた痛みに、目の前の光景が夢ではない事を嫌でも認識させられた。

直ぐさま、彼女に近寄る。





良かった、脈はある。



こうしては居られない。
時は一刻を争っていた。

彼女を抱えた私はかつて無い程に神経を研ぎ澄まし、自分の能力を発現させた。

世界が動きを緩ませ、”私の世界”が誕生する。
須臾の間を縫い、私は空を駆け抜けた。

私が世界で最も信頼する天才医師、八意××の元へと――――





「――えっ!?」





しかしそれは為し得なかった。
周辺の時は徐々に早まり、やがては正常な時の流れを取り戻していた。

何をやっているんだ自分は。
緊張で能力を維持出来なくなったのか。

焦燥に駆られる中、再び私は能力を行使する。
しかし、結果は同じ。

何故だ。
かつて一度もこの様な事態に陥った事は無かった。
たった一人、八意と同じ髪色をした少女を前にしたとき以外は。

それが却って私の混乱を招き寄せる。
此処には彼女は居ない。

それならば、どうして――


そこまで考えた時、私は至極単純な答えに行き着いた。
はは、全く、自分で認めるのも腹が立つが、私はどうやら余程の莫迦者だったらしい。










その”答え”は、私が今、背負っているではないか。










「――アンタ、何してるのよ……自分が何やってるのか分かってるの!?」





背中から伝わる荒い息づかいも気にせず、私は声を荒げた。
しかし返ってきた答えは、虫の鳴く様な小さな呟きだった。





「……分かってる……わよ。 貴女の、事、だって……」

「ッ!」





彼女は話が終わると同時に、強く咳き込んだ。

肩から伝わる、温い液体が広がる感触。
あの夜、私がこの女性にさんざん怒られた物と同じ、赤い液体。

それが、私の焦りを加速させてゆく。





「貴女は……私で……」

「いいからちょっと黙ってなさい!
 永琳の所に着く前に死んだりしたら、許さないわよ!」

「永琳……ふふ、彼女、”そっち”じゃそう言う名前なのね……」

「黙れって言ってるのよ!」





こうしている間にも、彼女から伝わる熱が弱々しい物になっていく。

急げ。 急ぐんだ。 少しでも早く……!


彼女が既に力を行使する程の力が無い事を祈り、私は須臾の間にもう一度入り込んだ。
少なくとも、この時の流れに居る間は、彼女の命は永らえる筈だ。

後少し、後ほんの少しで、八意の待つ診療室に辿り着く……!


廊下を抜けた。

角を右に曲がった。

ああ、じれったい。

瞬きする時間すらも惜しいのだ。

早く。

刹那の間でも良い。

少しでも早く、彼女の所に――――!





呼吸も忘れ、無我夢中に廊下を進んだ。
実際には一秒の時すらも刻んではいないだろう。

それでも、扉を蹴り開けて八意の姿を確認するまでの時間は永遠にすら感じられた。
能力を解除する事無く、机に齧り付いた姿勢の八意に触れる。


これで彼女も、私達と同じ時を共有できる。





「――――おかえりなさい」





しかし、背中越しにかけられた声は何の事は無い、日常を彩る迎えの言葉だった。

ふざけるな。
今は冗談なんか言っている場合じゃないだろう。

相変わらず机に向かったままの八意の胸ぐらを掴み、こちらを向かせた。
いつぞやのお返しみたいな構図だ。 だが、今は笑いの欠片すらも姿を見せない。





「彼女を治して頂戴」

「無理よ」

「治しなさい!」





私の咆哮を、八意は冷めた視線で観察する。

何故、そんな目で私を見る?

そんな事は分かってるんだ。

後悔したってもう遅い。

それも理解している。

でももう私には、貴女に頼るしかないんだ!





「……私にもね。 一つだけ手の施しようが無いものがあるの」

「――――ッ……」

「分かっててやったんでしょう?
 ならせめて、結末を見届けなさい」





その通りだ。
全てを承知の上で、私はこの結末を選んだのだ。

天才、八意××にすらどうする事も出来ない、”穢れ”が齎す不治の病。





寿命。

地上ではその名で呼ばれていた。





「……それにしたって、早すぎるじゃない!」

「貴女、その為に姫の傍に仕えていたんでしょう?
 穢れを蓄積させる為に、わざわざストーカー紛いの事までしてるんだもの。
 恐れ入ったわ」

「茶化さないでッ――!?」





激昂し、八意に食って掛かろうとした私の頬に、冷たい感触が訪れる。
私の言葉を遮ったそれは、弱々しく私の目の前に伸ばされていく。

覚束無い動きを何とかと言った様子で維持しながら、真っ白い腕が八意の頬へと触れた。
彼女の顔色は蒼白く、額からは冷や汗が吹き出ていた。

満身創痍だろうに、何がそこまで彼女を動かすのだろうか。
私にそれを理解出来ない事が、何よりも苦しい。





「……ハァ……永……りッ……!」

「――ッ!」





既に耳元で囁かれる言葉も聞き取る事は困難だった。
しかし、彼女の伸ばした左腕は力強く固定され、八意の頬から離れようとはしない。

八意を見やれば、嗚呼、彼女も苦しいのだろう。
口がへの字に曲がり、皺を造りながら震えていた。

そんな事だと、老けて見えるわよ。
昔私が同じ様な目に遭った時、彼女が同じ顔をしていた事を思い出した。
その時に、私はそう言って笑ってやったのだ。

細い眉尻は情けなく垂れ下がり、黒い瞳は今にも雫を溢れさせんと波打っている。
あの日の出来事を思い出し、私は自責と悔恨、二つの念に苛まれる。
今私の目の前に居る彼女も後悔しているのだろうか。



私を、”穢れ”を甘んじて近づけた事を。





「……フフッ……永……たら、温……かい……」

「喋らないで頂戴……お願いだから……!」





彼女の喀血が頭に降り注ぐ。
髪が固まる感触も、温い物が滴る感触も、今はどうでも良い。





貴女は……私は……もっと、この世界で――――!





「ねえ……最後に、聞かせて頂戴……」

「喋るな!」





「輝夜……貴女……今、幸せ……暮ら……る?」





「――ッ!

 幸せよ! 永琳は薬屋を開いて好き勝手やってるし、鈴仙もおっちょこちょいだけど永琳と一緒に頑張ってるわ!
 貴女は知らないだろうけど、てゐって言う詐欺兎も一緒に居るのよ! 毎日兎に囲まれて、適当に暮らして、たまに妹紅って娘と遊んで!
 羨ましいでしょう!? 永遠を生きているとこんな事だってあるのよ! アンタだって子持ちでしょう!? まだあんなに小さいじゃない!
 だから――!?」





そこまで叫んだ時、彼女の体重が一瞬、軽くなった様な感覚が訪れる。
八意の頬に当てられた手が、力無く崩れ落ちた。

それと同時に、カチリと小さな音が聞こえてきた。

時計を見やれば、細長い秒針が一つ、時を刻んでいた。










午後3時25分。










彼女は私の背中から、旅立っていった――










「――――ッ!」





その瞬間、理解の出来ぬ何かが私の胸の奥から込み上げ、視界を揺るがしてくる。

しかし、私が泣く事は許されない。
他でもない私が、この結末を望んだのだ。

それを悲しみ、あまつさえ彼女の死を悼むなど、傲慢にも程がある。



彼女は、私が殺したのだ。

私が、この手で。



俯き、目を堅く縛り付ける。
決して一雫すらも零さない。

そう誓っても、後から押し寄せてくる涙は止まってはくれない。





「――お疲れ様でした、姫様……」





目の前から聞こえる優しさを含んだ声音に、くしゃくしゃに歪んだ顔を持ち上げる。
嗚呼、こんな醜い顔、彼女の前で一度だって見せた事無いじゃないか。





「彼女は天寿を全うしたわ。
 貴女の望み通り、最後まで、人間として――」





既に染みだらけになっっている袖で目元を拭う。
紅色のレンズが床に落ちてしまった。

一瞬だけ晴れた視界には、私よりももっと酷い顔になった永琳が映り込んだ。
それも直ぐに波に飲まれて歪んでいく。





「姫――いえ……”輝夜”。
 最後に、一つだけ聞かせて欲しいの」





いやだ。
貴女まで最後だなんて言わないで欲しい。

掻きむしった髪に、銀色の塗料が付着する。
この感情をどう処理すれば良いのか、分からない。

もがく様に手を伸ばし、彼女の頬に重ねる。
先程まで彼女が触っていた所は、既にびしゃびしゃになっていた。





「”そっち”の私は――まだ、後悔しているの?」





そんな筈無いじゃないか。
彼女は今を精一杯楽しんで生きている。

私達と一緒に、穢れた地球の民として。


嗚咽混じりに伝えても、彼女は理解してくれたみたいだった。
小さく頷くと私を抱き寄せ、背中に眠る彼女ごと抱擁してくれた。





「――貴女の旅はもう終わったんでしょう?
   ほら、もう帰らないと……」





彼女の子供を慰める様な囁きに、首を縦に振りそうになる。
しかし私はそれを精一杯堪え、首を横に振った。

まだだだ。
まだ私は、全てを伝えていない。

永琳はずっと昔から、私の教育者だったのだ。
私が迷った時、躓いた時、彼女は私を導いてくれた。


今の私は道に迷ってる。
どうしたら良いのか分からないのだ。

お願いだから、永琳。
私を、導いて欲しい。

溢れる涙を必死に堪え、漸く涙腺に栓をする事に成功する。
それでも溢れてくる鼻水を啜りながら、少しずつ、時間をかけ、私は永琳に事の始まりから終わりまで、全てを話した。





彼女も気付いている通り、私は今私の背中に眠る彼女と同一の存在だった。
極めて近く、そして限りなく遠い世界からやってきた、異邦者。

それが、私。

そもそもの始まりは、私が永琳に造らせた蓬莱の薬を飲む前に起きた、とある葛藤だった。

この薬を飲めば不老不死になれる。
退屈なこの世界を跡形も無くぶち壊しにしてくれるこの薬は、私の目にはとても魅力的に映ったのだ。

しかしそれは人間としての生、人間としての死を捨て去ってしまうと言う事だ。
何が起ころうと、老いる事も、死ぬ事も出来ない。

それは下手をすると死よりも恐ろしい物だ。

そこで私は、自分の能力の一端に着目した。



”須臾を操る程度の能力”


この能力は時間帯を分断し、その狭間を伝う事で、瞬く間に行動出来るという便利な物だった。

使いようによっては、同一時間軸に於いて二つの歴史を産み出す事すら出来る。
しかしそれも、長くは持たない。

例え蓬莱の薬を飲んだ私と飲まなかった私が存在したとして、最終的には統合され、蓬莱の薬を飲んだ歴史に終着する。
そこで私は、もう一つの能力に着目したのだ。



”永遠を操る程度の能力”


これはその名の通り、時の流れを固定し、切り取っておくと言う物だ。
この能力を使えば、ありとあらゆる物の存在をそのままに残しておく事が出来る。

蓬莱の薬は、この能力を応用すれば格段に早く精製できる。
だから私は、あの男に蓬莱の薬を渡す事が出来たのだ。

この二つの能力を応用し、そして生まれたのがこの世界。
そう、この世界は私が産み出した”もしも自分が人間として生きていたら”という”IF”を検証する為のパラレルワールドだったのだ。
人間として生き、人間としての幸せを謳歌して死に逝く為の、実験室のフラスコだ。

薬を飲む前の私を須臾の内に切り取り、その時の流れを永遠に継続させていく。
本来有り得る筈の無いこの世界を、私は地上に行っても片時も忘れる事が無かった。

そして、全ての準備が整った私は、再び此処へ戻ってきた。
私の人としての人生を、その終わりを、この目で見届ける為に。


だが、それと同じ程に。
私は、もう一つの罪の重さを、この目に焼き付けたかったのである。

私の話を黙って聞いていた永琳は、赤く腫らした目を逸らす事無く、私を見詰めていた。
ここで私は、一つの覚悟をしなければならない。

この世界で背負った数多の罪。
それすらも包み込んでしまう程の後悔を背負い、これから永劫の時を生きていく覚悟を。





「――”永琳”。 私も一つだけ、聞かせて頂戴。
   嘘でも良い。 でも、出来れば、本当の事を言って欲しいの」

「何? 輝夜」





永琳は私を見詰めたまま、問い返す。





「私に……いえ、こっちの私に蓬莱の薬を飲ませなくって、良かったと思った?」

「…………」





そう。
彼女、八意永琳の事だ。

彼女は私の為に蓬莱の薬を作り、それが発端となって私は地上に落とされたのだ。
彼の地で彼女に再会した時に浮かべた、苦しみの表情。

きっと後悔していたのだろう。
自分の所為で、私の運命が狂ってしまったのだと。

そうではないと何度も言った。
だけど彼女は、心の底では今でも思い悩んでいる気がするのだ。


この世界を作ったもう一つの理由。





”私が人間として生き抜いた時、八意永琳は後悔をしないだろうか”





これを知る事が、私の最終目的だった。





私の質問に対する返事は得られない。
分かり切っていた事だ。

こんな問い、するまでもないじゃないか。
現につい先程まで、私の目の前で永琳は泣いていたのだ。

彼女が慕い、愛する姫君が、目の前で命の灯火を消した。
他でもない、その愛する姫の手に掛かって。

これほど甲斐の無い話があるだろうか。
しかし、それでも私は質問を続ける。

互いの心に、一切の蟠りを残さぬ様に。


ここは私の産み出した世界だ。
私がこの世界から立ち去れば、この世界を維持する力は無くなり、消えてしまうだろう。

つまり蟠りを解消出来なければ、一生苦しむ事になる。
そして彼女には、その蟠りを解消する機会無く消えてしまう事になるのだ。

それだけは、絶対に嫌だ。
エゴでも良い、彼女に誹られても良い。




私は、口を開いた。





「地上に来た貴女はずっと後悔していたわ。 もしかしたら、今でも心の片隅では思い悩んでるかも知れない。
 そして、その手を血に染めた。 私を永久に守り抜くと決意して――」

「…………」

「貴女はこうなって、後悔してる?」





「――後悔なんて、出来る訳無いじゃないの……!」





彼女の慟哭が、聞こえた。

さあ、覚悟を決めろ。

何を言われても、私は全てを受け入れる。

それが、亡くなった私と勝手に交わした、最初で最後の約束なのだから。





「輝夜が――姫が、望んでやったのよ……!
 私は関係無いもの。 後悔なんてある筈ないじゃない……!」





その時、初めて彼女が視線を逸らした。


嗚呼、貴女はやっぱり、完全な従者なのだ。
私の望む答えをくれた上で、それが嘘なのだとすぐに理解させてくれる。





「こっちを見て、永琳」

「……ッ! してるわよ、後悔ッ!
 それでも、貴女が姫だって分かってしまったんだものッ!
 どうしようも無いじゃないッ!」





嗚呼、彼女も限界なのだろう。
冷静さを欠いた彼女は、どこにでも居る普通の少女の様に泣き、喚き、私の心を揺さぶってくる。



室内に彼女の泣声が響く中、私は背中に眠る彼女を隣室のベッドに寝かせる為、ゆっくりと立ち上がった。

顔は真っ白で、月の光に焼けてしまったのでは無いかと思う程に美しさを保ったまま、瞼を閉じている。
体を揺すったら起きるんじゃないかと錯覚してしまう程、安らかな顔色だ。

彼女が……いや、私がこの部屋に来た時に、いつも使っていたベッドがある。
こちらの私はどうかは分からないが、きっと気に入ってくれるだろう、いつも永琳が仮眠に使用している粗末なベッド。

そこに横たわらせ、体中に着いた血を拭ってやる。

瑕一つ無い、人形の様に眠る彼女を抱きしめ、私は、私に、囁いた。





「――――お疲れ様」





長い時間を連れ添った友人に最後の別れを告げ、再び永琳の居る診療室へと戻った。
泣き疲れたのか、彼女は兎の様に充血した瞳をこちらに向け、静かの私の動向を見守っている。





私に出来る事は、もう全て終わった。

私は最後に永琳にお辞儀をして、精神を集中させる。


時の流れは線になり、やがて点へと集束していく。

須臾の究極、”時間の点と点”を行き来する為に。


視界に映っていた永琳はもはや朧げとなっており、もはや顔色すら窺えない。
しかし私は、ずっと彼女の姿を見続けた。

私が残した全ての結果を、最後の一瞬まで見届ける為に。






「――――ッ!」





その時、私の耳に何かが聞こえてくる。
視界の殆どが白と黒に支配された世界に、突如ノイズが入り交じったようだ。

しかし、おかしい。
そのノイズは明らかに指向性を持たせて発信されているようだった。

私はこの空間を維持しながらも、そのノイズが無性に気になって耳を傾けていた。
それは徐々に鮮明になり、最後には人の声の様な物に変化した。







それは私の事を最も良く知る、最も愛すべき家族の物だった。





「――ッ――――永―様! 繋が――したよ! 早く!」

「――ええ――りが―う――イセン――聞こ―る、輝―」





突然の出来事に、私は驚きのあまり声を失ってしまう。
しかし、これが正真正銘最後のチャンスだ。

こちらの声が向こうに届いているかは怪しい。
しかし、向こうの声は、確かにこちらに届いているのだ。
恐らく今頃は、レイセンが必死になってこの一点へと波長を合わせているのだろう。


何処までも優秀な従者の弟子に、私は心の底から感謝した。
それと同時に、私は張り裂けんばかりの大声で叫びかける。





「! 聞こえるわよ、永琳、鈴仙!」



「良か―た――いい、―夜――今か―言う事を――決して――すれないで――」



「分かったわ! 絶対忘れない!」



「も――私が―処に―ても――例―違―界の私―った――て―、も――度とあな―に―悔―――か―――」



「え!? 何よ、聞こえないわッ!
 ねえっ、ちょっと! 何て――――」









――――

――










――

――――





蝉の鳴き声が五月蝿く響き渡る、夏の幻想郷。
高く伸びた竹林の笹が作る天然の日傘から、木漏れ日が降り注いでいた。

竹林の空き地、その真ん中に、いつの間にか私は立ち尽くしていた。

この場所は知っている。
いつも兎達が遊び場に使う空き地だ。

私は自分の記憶を頼りに、永遠亭へと歩いた。
もう何年も帰っていないような感覚に襲われる。

竹薮を少し歩いた先、視界が開ける。
そこには苔が生していてもおかしくはない、古びたお屋敷が存在していた。

中からは兎達の喧噪が聞こえてくる。
それが私を何よりも安堵させた。





「あ、輝夜様だー! おかえりなさいー!」

「わーい、遊んで遊んでー!」





門を跨いですぐ、妖怪兎達が私に戯れついてきた。
普段は鬱陶しいそれも、今は私に笑顔をくれた。





「こーら、姫様は長旅で疲れてるんだから、後にしなさい。
 あ、姫様、おかえりなさい」





子兎達を蹴散らしながら現れたのは、へたれた耳をした”地上のイナバ”だった。
そうか、永琳からはそう告げられていたのか。

笑顔で頭を下げた彼女の事を、私は黙って抱きしめてやった。






「あら姫様、おかえりなさ~い。
 ほぉら、賭けは私の一人勝ちだよ~。
 人参よこしなあんた達~」





玄関を潜ってすぐ、詐欺兎が辺りの妖怪兎達から人参を巻き上げる姿が目に入った。
長らく姿を見ていなかった彼女に近寄り、お餅みたいな耳を撫でた。
最初はおどおどしていたが、次第に気持ち良くなったのか珍しく素直に懐いてきてくれた。



そして私は廊下を一人進み、とある部屋の前で足を止めた。

深呼吸を一回、二回。
高鳴る鼓動は納まらない。

それでも構わなかった。
扉を開くと同時、私の鼻腔には懐かしい香りが入り込んでくる。

消毒剤の香りと、私の大好きなカフェオレの香り。
丁度ティータイムだったのか、振り向いた彼女の手には可愛らしい兎柄のティーカップが握られていた。


あの時の光景がフラッシュバックする。
最後の瞬間、彼女は何を言おうとしたのだろうか。

今となってはそれも分からない。
もしかしたら、今私を不安げな表情を浮かべながらも、それでも笑顔で迎えてくれた彼女なら答えを知っているかも知れない。

でも、それは彼女の言葉であり、”彼女”の言葉では無いのだ。



さて、何から話すべきだろうか。

これから私が告げる内容は、きっと夢物語の様な物に聞こえるかも知れない。

そろそろ日が沈む。

今から話していたら、きっと夜が明けてしまうだろう。

だけど彼女は私の大好きなカフェオレでも一緒に飲みながら、私の話を聞いてくれるに違いない。





ただ、まあ。 それよりも先に、今は言わなければいけない事がある。


ずっと私の帰りを待ち続けていた、私の最愛の従者であり友人の胸目掛けて、私は目一杯の笑顔を浮かべて飛び込んでいった。










「――お帰りなさい」

「――ただいま」










   ~ 終 ~
何も無い、虚無のみが存在する空間。
そこに、銀色に輝く”音”のような何かが浮かんでいた。





  もしも私が何処に居ても、例え違う世界の私だったとしても、もう二度と貴女に後悔なんかさせないわ――






――


……こちらではどの位ぶりでしょう。
お久しぶりです。 毛玉おにぎりです。

6月11日 3時25分。
人工衛星「かぐや」がその役目を終えました。

それに合わせて七夕迄に書き上げようとしたのが、この作品の始まりです。
時間設定的には、永夜抄~儚月抄の間位でしょうか。

あまり見掛けない”須臾”を操る輝夜。 ならば自分で書いてしまおう。
そんな事を考える内に妄想が膨れ上がり、気が付けばありったけの物を詰め込んだ結果として、書いている最中に残されたのは多大な矛盾と違和感でした。

それらを一つ一つ潰していく内にとても間に合わなくなり、この日の投稿と相成りました。

長編のシリアスを書く、と言うのは初めての経験で、未だに作中に私の把握していないミスや矛盾を孕んでいるのではないかと少々不安を抱いております。

独自設定と独自解釈を趣味と共に織り交ぜ、さらにオリキャラを追加する。
不安な分だけ、やりたいことは全部詰め込みました。

そんな我が侭から生まれたこの物語を最後まで読まれた貴方に最大限の感謝を。
ここまでお読み下さり、本当にありがとうございました。
毛玉おにぎり
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コメント



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昔のそそわの気分漂う素敵な話だと思います
求聞史紀ではなく、永夜抄そのものから受けた霊感と幻想と胡散臭さを土台に話を作っておられるように感じ
(間違っていたら失礼!!)
とても共感を受けました

ましたが、特に前半についてはその場に人物が何人いて、誰が何を喋っているのかよくわからん
という点をもう少しなんとか
24.90名前が無い程度の能力削除
こういう、複線が一気に回収されて、それが感動と結びつくのはいいですね
27.100名前が無い程度の能力削除
とても面白かったです。