吸血鬼とは永遠の若さと美貌を持つ。つまり、吸血鬼とは美しくなくてはならない。世界中のなによりも――
赤い館。
この館には窓が無い。日の光など邪魔でしかないからで、程よい月明かりを享受するのには無粋な大窓など必要ない。
この館には鏡が無い。髪を梳くのは使用人に任せればよい。それが彼女たちの仕事なのだから。
この館には窓が無い。雨が吹き込んだら、大変でしょう?
この館には鏡が無い。吸血鬼は、その美貌を、確かめる必要がない。
――そんな赤い館のどこか一室。小悪魔は少女に本を読み聞かせていた。その少女はというといつの間にか目を瞑り、小悪魔に寄りかかるようにして穏やかな寝息をたてていた。
しばらく経ち、読み聞かせに夢中になっていた小悪魔がそれに気が付く。
「……あら。フラン様、眠っちゃったんですね」
ふふ、と笑みを浮かべると小悪魔は母親が我が子にするように頭をそっと撫でてから、フランドールをベッドに寝かしつける。もう一度その寝顔を眺めて、小悪魔は部屋を後にした。
数冊の本を片手に大図書館へ帰ってきた小悪魔に、唐突に声がかかる。
「……飽きないのね」
「パチュリー様……はい。飽きたりなんてしないです。パチュリー様が、本を読み飽きる事が無いように」
「随分ね」
「フラン様も、今では立派な文学少女です」
「でしょうね。気が付いたら、随分な数の本がなくなっているんだもの。ちゃんと管理するのよ。魔導書以外なら、好きにしていいから――」
「ありがとうございます」
一礼をして小悪魔は自室へと歩を進める。そうして取りとめもない日常を思い返す。
小悪魔には陽が昇り始めるこの一時が堪らなく愛おしかった。フランドールの元へ行き、本を読み聞かせる。それだけだったが、それでもフランドールと共にいる時間が心から愛おしい。何の因果かと小悪魔が記憶の綱を手繰り寄せてみると、大まかな成り行きが思い出せた。確か、フランドールがなかなか寝付かない、と心配したレミリアがパチュリーに相談したところ、厄介払いのような形で小悪魔の元へ仕事が転がりこんできたはずであった。妙な話だった。
今でこそフランドールを好意的に思っているが、当初は小悪魔もフランドール・スカーレットに怯える一人であった。おっかなびっくりと読み聞かせを続けていると、いつからか寝付くまでの時間がそれまで以上に遅くなっていた。フランドールは本に、そしてそれを読み聞かせる小悪魔に興味を抱いていった。その好奇心に反比例するように、小悪魔の中の恐怖心はなりを潜めた。その代わりに暖かい感情が募る。眠りに就く前にフランドールに読み聞かせをするという行動は、小悪魔自身がその暖かな心地に包まれて眠りに就きたい、という意志も含む。その暖かい心地とは、どんな高級なムートンクッションよりも柔らかく優しい。
本来の役目としては失格であるが寝付く時間が遅くなって遅くなって、時には夜を迎えた事もあった。そんな時は小悪魔とフランドールは二人して、てへへと笑って居眠りに興じるのだ。そういう時の小悪魔は大抵、フランドールの夢を見た。夢の中のフランドールは、現実のフランドールよりも活発で快活で、それでもそれが本当のフランドールなのだと小悪魔は思う。
そしてそこに朧月のように、こんな感情が浮かび上がるのだ。
(どうしてこの子に怯える必要がある?)
その感情はやはり、月のように姿を変えていった。
(フラン様。私にとっての、愛おしい、大切な存在)
小悪魔自身、それにどのような意味があるのかは分からなかった。それは母性なのか? それとも――
廊下を歩いていた彼女は、気が付いたらもう自分の部屋にいた。小悪魔は眼鏡を外して寝るではなしにベッドに寝転がった。想いが強くなれば、ここにいてもフランドールの夢を見られるのだろうか。天井をボーっと見つめる。そして、朗らかなフランドールの笑みを思い浮かべた。
しばらくして小悪魔は起き上がり、その体を机へ向けた。ポケットから小さな日記帳を取り出して、今日の出来事をそこに書き記す。今日のというべきなのか、昨日のというべきなのかは微妙であるが、とにかく先程の事である。小悪魔はフランドールの子守を命ぜられてからというもの、少しでもフランドールの事を知りたいと、その足掛かりにこうやって交流を日記に記す事を日課にしていた。その日記は痛みが目立ち、表紙にも折れ目がある。小悪魔が日記を片時も離さずに身につけている証拠である。
自然と笑みが浮かぶ。それは、そこに暖かな時間が存在した証なのだ。
・
フランドールは駆け回っていた。夢の中で駆けまわっていた。なぜフランドールがそれは夢であると気が付いたのかというと、空から小悪魔の声が聞こえたからだ。もちろん、視界を見回しても小悪魔の姿はない。それでは、これは夢であると、そう考える事にした。
(――それからまもなく、日がくれて、七人の小人たちが、家にかえってきましたが、かわいがっていた白雪姫が、地べたの上にたおれているのを見たときには、小人たちのおどろきようといったらありませんでした。)
「あーあ。だからあのリンゴは食べちゃ駄目だって言ったのに」
誰に言うでもなく、夢の中でフランドールが口を開く。フランドールの目にはその情景が鮮明に浮かんでいた。小悪魔の語りが、耳に心地よかった。これはいつか小悪魔が語り聞かせてくれた童話だ。夢の中では、心まで、童話の中。フランドールは、妙にこの童話の七人の小人が好きだった。何故かは分からなかったが、好きだった。
(――鏡の前にいって、たずねました。「鏡や、鏡、壁にかかっている鏡よ。国じゅうで、だれがいちばんうつくしいか、いっておくれ。」)
しかし、記憶が飛び飛びだからか、場面も飛び飛びで臨場感が無くてぎこちない。けれども、小悪魔が高飛車な王妃の真似をしているのを聞いて、無性におかしかった。
「ぷっ、小悪魔っておもしろーいのね……って、鏡、ってなんだろう?」
はじめて聞いた時は特に何も思わなかったのだが、今になってみると鏡という物が気になった。七人の小人と同じくらい、気になった。
「――そうか、きっと世界で一番うつくしい人が、わかるんだ」
世界中で一番美しい。美しい、うつくしい……。それはつまり吸血鬼の事で、それならきっと自分か姉か、どちらかの事だとフランドールは考える。では世界で一番美しいのは自分か姉か、どちらなのか。気になる。ひょっとしたら、普段はすまし顔の姉を悔しがらせられるかもしれない。そう思った。
すると、次第に好奇心が胸に湧き出てくる。フランドールの胸の小さな泉を、その好奇心が満たすのに時間はかからなかった。そのまま、高鳴る胸の動悸がとんとんと拍子を打つように、とんとん拍子で、夜が来た。目覚めの時刻だ。
・
「あら、フラン様。どうなさいました?」
「ねぇ、小悪魔! 『鏡』って持ってる?」
フランドールが大図書館に訪れるは決して珍しくはない。しかし、その様子が珍しかった。フランドールが自室で見せるような、そんな笑顔だった。小悪魔を前にしても、自室以外ではこんな表情をしなかった。驚いているのはパチュリーや、メイドたち。瀟洒な咲夜がサッと姿を消したが、角砂糖を一つ落としている。
つまりフランドールの爛漫な笑みとは、その瞬間までは小悪魔だけのものであった。
「鏡、ですか? コンパクトでよければ、お貸ししますよ」
小悪魔はフランドールの目線まで屈むと、ポケットから手のひら大の蝶の装飾の施された真紅の丸いコンパクトミラーを取り出した。それをフランドールの小さな手のひらにちょこんと乗せる。受け取ると、フランドールは興味津々にコンパクトミラーを眺める。
「へぇ……これが鏡、かぁ」
フランドールの頭の中では、悪そうな顔をした王妃が手のひら程の大きさの鏡に語りかけていた。鏡よ、鏡よ――と。
「何に使うんですか?」
「そんな、鏡、っていったら一つしかないじゃない!」
「……?」
小悪魔が首を傾げる。
「それじゃありがとね、小悪魔!」
フランドールは羽の煌めきをちょこちょこと揺らしながら、大図書館を出て行った。
場が元通りの空気を取り戻してから、パチュリーが本から顔を上げる事なく、口を開いた。
「……はぁ。小悪魔。貴方、何してるのよ」
「はい? 何って」
「妹様、さぞかしがっかりするでしょうね」
「?」
小悪魔は顎に人差し指をあてがって視線を巡らす。何か、何かあっただろうか。
「……分からないの?」
パチュリーの催促で思い出す。
「……あ! あぁ!!」
フランドール・スカーレットは、吸血鬼なのだ。
・
小悪魔にはフランドールの意図が分からなかったが、それでも、わくわくと鏡を持って行ったフランドールの姿を思うと、とてもではないがいい方向に事が転ぶとは思えなかった。フランドールは吸血鬼なのだから。――落胆に沈む姿が目に浮かぶ。そして、それが凄く申し訳なくて、悲しい。彼女になんて言うべきだろうか。そうだった。数百年と生きてきたフランドールが鏡の事を知らないのは、それも無理は無い。この館には鏡が無い。
だから走った。フランドールの部屋まで。魂が抜けそうになるくらいの速度で走った。
恐怖は無かった。フランドールの能力の事など、フランドールの笑顔ほどの価値はない。だから、フランドールの笑顔の為ならば、ありとあらゆるものを破壊する程度の能力、そんなものは怖くなかった。
走りに走って、思わず目的の扉を通り過ぎてしまう。
「おーっとっと……」
扉の前に戻って、ネクタイを、眼鏡を整える。こんな時なのだから、ちょっとくらいは、瀟洒に。
コンコン、とノックの音が響く。
「フラン様、小悪魔です。失礼します――」
胸を張って扉を開く。
「……鏡よ鏡よ……うーん。言い方が悪いのかな? 誰も映らないよ。って……あれ?」
小悪魔の目に映ったのは、フランドールの背中と、鏡に映った自分の姿だった。
「フラン、様……?」
小悪魔が恐る恐る口を開いた。
「小悪魔……?」
フランドールもまた、小悪魔の名を口にする。
「フラン様……?」
もう一度口を開く。
「って、えぇぇぇええ!?」
さらにもう一度、小悪魔はフランドールの叫びに負けない声量で口を開く。
「フラン様!?」
一瞬の間があって、フランドールが振り返った。
「小悪魔! 貴方って、
そう言うと、フランドールは小悪魔に駆け寄って、その腰に飛び付いた。その反動で、フランドールの帽子が飛んだ。ブロンドが透き通るように波打った。軽いその身体をしっかりと受け止めて、小悪魔はフランドールを抱きしめる。が、何が何だか、よく分からなかった。
「ふふふ……どうしたんですか? 私はしがない、
でも、どうしてだかほっとして、フランドールのその頭を撫でてみると、今日はどんな本を読み聞かせようかと、考えてみた。
フランドールの身体に押しつけられるように、ポケットの中の日記がごそりと動いた。
「――それでは今日は、
その話は未完である。完結の予定はまだない。
小悪魔が読み聞かせってしっくりきますね。
あとがきwww
話も綺麗にまとまっていて読みやすく、時々読み返したくなります。
言い回しもストレートではなく、話の内容に合った雰囲気だと感じました。