Coolier - 新生・東方創想話

魔女vs傀儡師

2009/06/30 00:06:58
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 紅茶だけでなくサンドイッチを用意したせいだろうか。
 世界をぽかぽかと抱擁するこの陽気のせいだろうか。
 それとも、昨夜の夢見が最悪だったせいだろうか。
 ただの散歩のつもりが、なんの気なしに森を抜け、気が向いて川を辿り、気が付けば――
「へぇ。幻想郷にこんな大きな水溜りがあったのね」
 感嘆に値するほどの水溜り――広大な湖が、彼女の眼前に広がっていた。
 周囲を林に覆われ、はるか前方には――遠すぎて境界が分からないが――湖の上に緩やかな傾斜の尾根が走る。蒼昊をそのままに映し出す湖の水は、まるで海辺のように波を生んでは繰り返し湖畔を湿している。かすかに二つの方向から水の流れる音が聞こえてくる。どうやらここは川の中流に位置しているらしい。
 遠くでアイガモの家族が列を成して水面を横切っている――同じ幻想郷とはいえ、彼女の住む、陰気で多湿でキノコの多い魔法の森とはまったく別世界のように思われるほど、心穏やかな光景だ。
 彼女は頭上に手をかざすようにして陽の位置を窺う。
「ちょうどいい頃合ね。ここでお昼にしましょうか、上海」
 彼女は、そのすぐ隣でふよふよと宙に浮いているお手製の人形である上海に言いかけると、手近な木陰に腰を下ろした。

    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 それはある幼い日の、雨の降りしきる夜のことだった。
 一人の人間が、わたしの家を訪れた。
――雨宿りをさせていただけないか。
 と、その人間は言った。
 その人間がわたしの家を雨宿り先に選んだことに対して、わたしも母も、別段勘繰ることはなかった。わたしはまだ小さかったから、母は人間に対して友好的で優しかったから。

    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 久しぶりに、あの夢を見た。幻想郷に来る前、魔界にいた最初の頃はそれこそ毎晩のように見ていたが。
 食べかけのサンドイッチをランチボックスに戻し、彼女は頭上を見上げた。
 木の葉の合間からちらちらと見え隠れする陽光――こんなにいい天気なのに、どうしてあの夢を見たのだろうか。
 彼女が目を閉じると、少なからず湿気を帯びた微風が、彼女の頬を撫でる。
 と、
「ちょっとあんたっ! あたいのナワバリでなにしてんのよっ!」
 唐突に耳に入った、お世辞にもあまり教養があるとは思えない声に、 彼女は閉じていた目をゆっくりと開いた。
「…………」
 彼女は無言で、数歩離れた先の空に浮いている青っぽい少女を見やる。
 青を基調としたワンピース。青い髪。青いリボン。向こう側が透けて見える、言うなれば氷のような三対の羽。そして手にしている塊は、蛙の氷漬けだろうか。
「妖精?」
「そう。あたいはさいきょーの氷精よっ」
 彼女の呟きに、あんたわかってるじゃないと言わんばかりに、そのさいきょーの氷精とやらは胸を張った。
 正直、面倒くさそうなので、あまり関わり合いになりたくなかった。が、暇つぶしくらいにはなるかと、彼女は気紛れに口を開く。
「ここはあなたの縄張りなの?」
 言うと、さいきょーの氷精は思い出したように表情を変えた。
「そおよ、そおだったわっ。ここはあたいの遊び場なんだから、勝手に入って来ないでよっ」
「ここが自分の場所だって主張するくらいなら、簡素な結界の一つでも張っておきなさいよ」
「ふん。あたいはさいきょーだからそんなの必要ないのよっ」
「…………」
 なんだか話が堂々巡りに陥りかけている気がして、彼女は早々に話題を変えることにする。
「ところで、さいきょーの氷精さん。さいきょーの氷精って呼ぶの面倒ね。別の呼び名はないの?」
「そおねぇ……」
 話題の変化に対する順応性は意外と高いらしく、さいきょーの氷精は腕組などして、考える素振りを始めた。
――……なんで考えるのよ。
 単純に名前を訊いたつもりだったのに。もしかして名前がないのだろうか。妖精っていうのはそういうものなのだろうか。
「白黒の奴には、たまに⑨って呼ばれたりするけど」
「⑨?」
 なんなのだろうか。幻想郷ではそういった呼び方が流行っているのだろうか。⑨がいるってことは①から⑧までもいるってわけで、そうするとこんなのがあと八種類もいるということなのか。いやもしかすると、この氷精は九人姉妹なのかもしれない。氷精に姉妹がいることについては、甚だ疑問だが。
「あだ名とかじゃなくて、あなたの名前を教えてもらいたいのだけど?」
 もう考えるのが嫌になって、彼女は単刀直入に訊いた。
「あたいはチルノよ。えへん」
 何故名乗るだけなのにえへんか。
「って、あたいの場所に勝手に入ってきたあんたの方から名乗りなさいよっ」
 もう何度目になるだろうか、ころっと表情を変え、さいきょーの氷精ことチルノは咎める。
「そうね。わたしはアリスよ。アリス・マーガトロイド」
 彼女――アリスは素直に答えると、まだ半分ほど残っているランチボックスを手に取る。
「勝手に入ってきて悪かったわね。お詫びにあげるわ。まだ半分くらい残ってるから」
「えっ、いいのっ!?」
 チルノはぱっと瞳を輝かせる。彼女はすぐさま地に降りると、とてとてとアリスの側まで駆け寄ってくる。チルノが側に来ると、ひんやりとしてそこはかとなく心地よかった。
「じゃあお返しにこれあげるっ」
 チルノは言うなりアリスの手を取ると、その手のひらに彼女がずっと持っていた蛙の氷漬けを無造作に置いた。
「あ、ありがとう……」
 普通の氷ほどに冷たいその氷漬けと入れ換えに、アリスはランチボックスをチルノに手渡した。
「わーいっ」
 チルノはアリスが腰掛けていた木陰に腰を下ろすと、すぐさまランチボックスを開く。
 しゃりしゃりしゃり。
 チルノの口から、決してサンドイッチを噛むときの音ではない、言うなればシャーベットでも食べる際のそれが聞こえてくる。氷精だからなのだろうが、そんなんで味が分かるのかとアリスは思ったが、チルノは美味しそうにサンドイッチを頬張る。
 一つ目を食べ終わったところで、チルノはアリスの隣にいる上海に目を向けた。
「……なんで人形が空飛んでるの?」
 チルノはここで初めて気づいたようだ。
もし誰かと戦闘になったら、この子はすぐにやられるなと思いつつ、アリスは上海をチルノの側まで移動させた。そしてチルノの目の前でくるくると動かしつつ、言う。
「この子は上海。お遊びで動かしてるだけよ」
 知らない者に対して、わたしは人形遣いです、などと公言するほどアリスは愚かではない。魔法遣いならば、誰でもこれくらいの芸当はできる。が、
「すげぇ! アリスはすげぇなっ」
「え……」
 人形を動かして、それを褒められたことなど、アリスは経験したことがなかった。それもそのはず、外界にいた頃は人形をほとんど動かせなかったし、魔界にいた頃は、技術の優劣を除いて、人形を動かすなどということ自体は誰にでもできたからだ。
 褒められるということは、きっと嬉しいことなんだろうなとアリスはそれまで考えていたが、
――なんでだろう。
 嬉しくなかった。

    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 わたしはその人間と入れ違いに、自分の部屋に向かった。だが、ベッドの前に立ったところで、母からもらった人形をリビングに忘れてきたことを思い出した。
 わたしはその人形を取りに、リビングへと足早に引き返した。その人形がないと、わたしは眠れなかったのだ。
 リビングへの戸を開くと、扉のすぐ向こうにさっきの人間が立っていた。
――君も人形を動かせるのか?
 その人間が訊いた。
――?
 わたしは首を傾げた。
 その頃のわたしは、母が何体もの人形を動かすところを見ているだけで、実際に人形を動かすことはできなかった。
――君も、君のお母さんのように人形を動かせるのか?
 改めて、その人間は訊ねてきた。その人間が何故そんなことをわたしに訊くのか、それは分からなかった。だが、
――ちょっとだけ、動かせるよ。
 わたしは見栄を張って、そう答えた。だって、母のことをすごく格好いいと思っていたから。
――そうか……。
 その人間は、すごく遺憾な顔をしていた。
 わたしはその人間に構わず、目的の人形を探そうとその人間の横を通り抜けた。
――……お母さん?
 母が、テーブルに突っ伏していた。その机と周りの床が、真っ赤に染まっていることが、母が単に寝ているだけではないことをわたしに報せた。
 わたしは咄嗟に、人間の方を振り向いた。
 その人間は、右手を振り上げていた。その手には、赤く染まったナイフが逆手に握られていた。

    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

「そういえば、アリスはケッカイに詳しいの?」
 サンドイッチを食べ終えたチルノが、開口一番に訊いてきた。
「え?」
「だからぁ、アリスはケッカイに詳しいのかって」
「まあ……人並みにはね」
 どうしてチルノが急にそんなことを訊くのかは判然としないが、アリスは無難に答えておいた。
 アリスの返答を受けてから、チルノは立ち上がると木陰を出て、水際まで走っていった。
 少し遅れて、アリスと上海もチルノに続く。
「あそこに島があるの見える?」
 チルノは湖の中心あたりを指し示し、言った。
 アリスは、チルノの小さな指が示す先を見つめた。そこには確かに、湖の対岸ではない、湖の中心に孤立する島がある。
「あの島がどうかしたの?」
「あそこにはケッカイが張られてるのよ。そのケッカイの強さときたら、あたいがここらで蛙をイジめて遊ぶくらいしかできないほどなのよっ」
 チルノを基準にすると、その結界とやらの強さの程度はかなり不明瞭になった。だからこそか、アリスには少し興味が湧いた。
「へぇ……それで、わたしにどうしろと?」
「サンドイッチのお礼に、あたいの代わりにあの島に乗り込ませてあげるわ」
「……」
 サンドイッチのお礼なら、アリスの手の中で既に溶け始めているのだが。それに代わりにと言っても、チルノではその結界を破れないと彼女自身がたった今そう言ったばかりなのだが。
 色々と思うところはあったが、なんにせよ、
「それじゃあ、お言葉に甘えて先行させてもらうわ」
 あくまで魔法遣いとして、一度湧いた興味はそう簡単に引っ込められそうになかった。

 いったいどれほどの結界なのかとちょっとした興味本位で島に立ち入った頃には、アリスのそれは本格的な好奇心へと変貌していた。
「……何してるんだろう、わたし」
 手近な木に手を掛け、アリスはぼやいた。
 今アリスのいるこの島は、個々の間隔の広い木立をその全体に有している。昼食をとった場所からそんなに離れていないはずなのに、さっきの場所に比べこの林の気温は四、五度低いようにアリスには感じられた。風が吹けば、その冷たさにではなく、それが含んだ不気味さにアリスは身震いした。魔法の森でのそれとはまた別種の悪寒だった。
 チルノの言っていた結界は、そんな林を多い尽くすほど巨大なものだった。その結界がどういった代物かというと、入口と出口を繋ぐ――簡単に言うと、外から入ろうとしてもいつの間にか外に出てしまう、といった具合のものだった。さらにその結界が上海の進入を頑なに拒んだため、アリスは仕方なく上海を水際に置いてきている。
 結果として、アリスはその結界の解除に成功していた。それと同時に、己の中で膨れ上がった好奇心に負けてその結界に手を出したことに、アリスは悔恨の情を抱いていた。
 先刻、湖で出会ったチルノに対し、アリスはこう言っている。
「ここが自分の場所だって主張するくらいなら、簡素な結界の一つでも張っておきなさいよ」
 どうしてここに、並の術者の仕業ではない結界が張られていたのか。その結界に手を出すまで、アリスは考えてもいなかった。
「…………」
 今でこそ、少し離れた木々の頭の上から顔を出す赤い屋根を見られこそすれど、そんなものが現れるかもしれないと、どうして事前に考え至らなかったのか。
 図らずも自分は、他人の家の庭に土足で踏み込み、その領域を侵してしまったのだ。これまで、悪を為さず、求めるところは少なく、孤独に歩もうと考えていたのにもかかわらず、だ。
「……帰ろ」
 本心では、結界を消してしまったことについて、あの家の住人に謝罪するべきだと思っている。が、わざわざ相手方のところまで行って、わたしがあなたの結界を解いてしまいましたごめんなさい、と言ったのでは当て擦りもいいところであろう。魔界だろうとどこだろうと、大抵の魔法遣いは高い自尊心を持っている。ご多分に洩れず、アリスもそうであり、だからこそアリスはこのまま黙って帰ることに決めたのだ。
 踵を返し、アリスは島の外へ向けて足を踏み出した。が、
「ちょっと待ったぁ!」
 唐突に、よく通り、かつとてつもない声量の呼び掛けがアリスの耳朶に入り、アリスは反射的に足を止めていた。
 振り返ると、そこには一人の女が腰に手を当てた格好で仁王立ちしていた。
――人間……いや、妖怪か。
 微かに漂う妖気から、自分から二十歩ほど離れた位置に立つ女をアリスはそう判断した。もう一度、アリスはその女を観察する。
 緑を基調とした服。燃えるような真紅のロングヘア。やたらと自己主張の強い胸元のわりに、線は細い。が、ちょっとやそっとでは突き崩せそうもないどっしりとした物腰からは、彼女の自信が滲み出ている。
――それよりも……。
 なにより、この女がこの距離に接近しても、声を掛けられるまでアリスは彼女の存在に気づけていなかったということの方が重要か。
 とかく、この女が何者なのか、アリスにはすぐに見当がついていた。十中八九、向こうに見える赤い屋根の家の関係者なのだろう。
 黙していても仕方がないので、アリスはその女に声を掛けることにする。
「なに?」
「他人の屋敷の結界を勝手に壊して挨拶もないなんて、礼儀がなってないんじゃないですか?」
 果たして、彼女はあの家――彼女が言うには屋敷か――の関係者らしい。
「そうね。悪かったわ、ごめんなさい」謝りついでに、アリスは訊いておく。「ところで、あの結界はあなたが?」
「ふんっ。わたしが謝られる筋合いもなければ、答える義務もありませんね」
 アリスは、しっかり自分じゃないですって答えてるじゃない、と心中で呟きながら、その女から微かにチルノ臭を感じていた。
「……つまりあの結界はあなたが張ったものじゃないってことね。で、それじゃあいったい何用なの?」
「わたしと戦ってもらいます」
 早く本題に入ってくれという暗の訴えに、相手は単刀直入な対応を示してくれた。
「えっと……」
「紅魔館の敷地内に侵入した賊を見過ごすようなことがあれば、わたしは紅魔館の門番という、正直あんまり待遇のよくない立場から降ろされてしまうんですっ」
 どうやら、あの屋敷は紅魔館という名前らしい。
――紅い魔の館、ねぇ。吸血鬼でも住んでるのかしら。
 勝手に想像しつつ、アリスは女に言う。
「待遇悪いのならとっとと辞めればいいじゃない、そんな仕事」
「ほっといてくださいっ! ……とにかく、戦う前に名乗るのが礼儀ですね」
――別に名乗らなくていいから、とっとと帰してもらいたいんだけど……。
 アリスの願いも空しく、女は重心を下げた臨戦態勢に移行した。その際に彼女の足が鳴らした地響きは、アリスのところにまで届いていた。
 魔界の者が取る臨戦態勢とは明らかに違う構え。つまるところ未体験の構えに、距離は十分離れていても不明瞭な危険を感じ、アリスは後ろに軽く跳躍して構えを取る。構えと言っても、半身になり、右手を腰に添えるだけの簡単なものだ。
「わたしは紅魔館の門番、紅美鈴です」
 名乗る相手の構えに思うところがあり、アリスは質問する。
「……訊いてもいいかしら、くれないみすずさん」
「っ!? 違いますっ!」
 唐突に、くれないみすずは血相を変えて叫んだ。
「?」
「わたしの名前はホン メイリンですっ! 間違えてもくれないみすずとか中国とか呼ばないでくださいっ!」
 ホンメイリンの上げたその叫びに何やら悲痛なものを感じ、アリスは素直に頷いた。
「そんなことはどうでもいいんだけど――」
「どうでもよくありませんっ!」
 美鈴にとってはとても深刻なことであるようだが、アリスは無視する。
「――けど、あなた、素手で戦う気?」
「諸事情故、この身一つでお相手させていただくつもりです」
「…………」
 こちらが魔法遣いであるということは、結界の件から美鈴にも察しがついているだろうが、どういった魔法を遣うのかまでは分かっていないはずだ。にもかかわらず、その自分に対して丸腰で、おそらくは何かしらの能力も使わずかかってくると美鈴は言うのだ。それが真実ならば、どうやら自分はすごく嘗められているらしい。
「最後にもう一つ訊くわ。心して答えなさい」堪らない不愉快を背負い、アリスは構えを解いた。「わたしは武器も力も使うわよ」
「わたしは一向に構わんっ!」
 自信に満ちた返答の後、美鈴は、いきます、と一声掛けてきた。
 それに合わせ、弾幕ごっこではない久しぶりの戦闘に、アリスは呼吸を整えた。と、
「――っ!」
 油断していたわけではない。アリスは単に瞬きをしただけだ。が、そのたった一度の瞬きの時間で、美鈴はアリスの顔面に向けて右拳を突き出していた。

    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 彼女は、紅魔館の屋根の上から一部始終を観察していた。
 紅魔館の周囲に張った結界に何者かが触れ、そして破壊されたことに誰よりも先んじて気づくのは、その結界を張った張本人である彼女だ。
「くぁ……」
 久しぶりに日光を全身に浴びたせいか、急な立ちくらみに襲われ、彼女は屋根の上に座り込んだ。
「二四時間体制での屋内生活は、これほどの弱体化を招くのね……こほっ、こほっ」
 咳に呻きつつ、彼女は心中のメモにしっかりとそのことを書き記した。書き記したが、それを元に生活改善をするかと訊かれたら、それは彼女にとってまた別の話なのである。
 と、彼女の注目している先で、紅魔館の門番である――
「……なんて名前だったかしら?」
 とにかく門番が構えを取った。それに対峙している金髪の少女――彼女が紅魔館の結界を壊した人物なのだろう――は、門番の構えに合わせて後方へ跳躍した。そのバックステップが逃げるためでないことは、次いで金髪少女の取った構えによって明らかにされるが。
――無駄ね。
 あの門番にとって、その程度の距離はあってもなくても同じことなのだ。
 実際、門番は刹那の間に金髪少女に肉薄していた。文字通り、金髪少女が瞬く間に、だ。
――相変わらず、すごいわね。
 門番に対して感嘆する。
 あの門番は、どこかのメイドみたいに時を止めることもできなければ、空間転移のできる魔法遣いというわけでもない。ただ単純な身体能力だけを用い、ただ単に一瞬であの距離を跳躍したのだ。あの門番のシンプルな身体能力の高さは、紅魔館内での比較なら、紅魔館の主に次ぐ程だろう。が、
「なっ…………」
 彼女は絶句した。
 門番が一撃必殺の突きを放ってからわずか数瞬後、気が付くと、その門番は紅魔館正門前の地に伏していた。
 己が愛らしい双眸で確認した事実――記憶として頭に叩き込んだ映像を、彼女は即座に解析する。
 先手は門番だった。紅魔館の強固な外壁でさえ一撃で破壊しかねない最速の上段突き。対して金髪少女はまったく動かなかった。動けなかったのではなく、動く必要がなかったということだが。
「人形……?」
 二人の間に突如として現れた一体の人形が、門番の突きに合わせて門番の顔面を何らかの攻撃により射抜いたのだ。どういった攻撃をしたのか、ここからでは見えなかったが、その攻撃は門番に対し典型的な脳震盪の状態を作り出したようだった。
 しかし、人形による追撃の様子は正確に見ることができた。
 既に意識が朦朧となっているであろう門番の喉に対し、人形は、人間の親指大のその小さな拳を叩き込んだ。その正確無比な一撃は、門番の意識を繋ぎとめていた細い糸を問答無用で分断した。
 さらに、門番の崩れ落ちる体勢を利用した、小規模爆発――人形を介してか、もしくは金髪少女自身による何らかの魔法だろう――が門番の身体を紅魔館の正門まで弾き飛ばし、またその意識を更なる遠い世界へと連れ去り、全てを終わらせた。
 身震いするほど魔法遣い然とした戦い方をするあの金髪少女に、彼女は久しく見ていなかった魔法遣いの姿を見た気がした。
 自分の手の内を明かさず、手の内が明ける前に敵を倒す。門番はきっと、自分が何にどうやって負けたのかも覚えていないだろう。
 と。唐突に差した影に、彼女は振り返る。
「直射日光はお体に障りますよ、パチュリー様」
 彼女――パチュリー・ノーレッジの振り返った先には、彼女に日傘を翳してくれている一人のメイドの姿があった。
「いつからいたの、咲夜」
 紅魔館のメイド長であり五面ボスでもあるそのメイド――十六夜咲夜は、パチュリーに微笑みだけを返すと、紅魔館の正門に倒れる門番と、それに歩み寄る金髪少女に険しい眼光を向ける。
「……美鈴が負けたのですか」
 言いつつどこからか月時計を取り出した咲夜を、パチュリーは手で制す。
「わたしに免じて許してやって」
 パチュリーが横から門番を庇護すると、咲夜は驚いたように振り向いた。
「どういうことです?」
「交戦自体も含めて、わたしが門番に色々と注文をつけたのよ」
「そうですか」日ごろから洞察力の鋭い咲夜は、瞬時に慮り時計をしまった。「それで……七色の人形遣いですか」
 どういうつもりなのか門番の手当てを始めた金髪少女とその人形を見やって、咲夜はどこか得心がいったような表情でそう言った。咲夜の言った七色という表現に、パチュリーは眉をしかめた。が、咲夜は普段から紅白だの白黒だのと他人を色で表すことが多いため、パチュリーはすぐにその違和感を捨てる。
「ええ、そう。人形遣いよ。それも並の魔法遣いじゃないわ。手抜きとはいえわたしの結界をものの一時間もかけずに解除してみせたのだから」
 実際手など抜いてはいなかった。が、魔法遣いとしての矜持が、パチュリーを言い訳がましくしていた。
「そうでしょうね」
 普通の魔法遣いに美鈴が負けるわけないですもの、とぽそりとこぼされた咲夜の独白に、パチュリーは気づかない振りをしておいた。普段は門番――そういえば美鈴という名前だった――に対してとりわけ厳然とした態度を取る咲夜だが、その実、こと戦闘や単体の強さにおいては彼女が美鈴に対してある程度の信を置いていることをパチュリーは知っている。
「このことを、お嬢様には?」
 咲夜の言うお嬢様とは、ここ紅魔館の主のことである。この時間なら、彼女はまだベッドの中だろう。
「……わたしから話しておくわ。放っておいても勝手に知るだろうけど、侵入されたのはわたしのせいなんだし」
 門番に簡単な手当てを施し、林の中へと消えていく金髪少女の後ろ姿を眺めて、パチュリーは言った。
 パチュリーは、自身があの少女に対して少しずつ興味を持ち始めていることを自覚する。
 また一魔法遣いとして、一度湧いた興味をそう簡単に引っ込められそうになかった。
――あの娘は……。
 いったいどういった魔法を得意とするのだろう。
 魔法に対してどういった理論体系を構築しているのだろう。
 魔法の研究はしているのだろうか。もししていれば、わたしの研究に対する意見を聞いてみたい。共同研究なども面白いかもしれない。
 どうして魔法遣いになり、どうして魔法に人形を組み合わせたのだろう。
 それより、いつ幻想郷に来たのだろう。
 どこに住んでいるのだろう。
 どうしてここに来たのだろう。
 そんないくつもの疑問は、次第にたった一つのシンプルな疑問に集約される。
「どんな娘なのかしら……」
「? 今、何か言われました?」
 咲夜が訊いてくる。すぐ隣に彼女がいることも忘れてあの金髪少女のことで頭の中をいっぱいにしていた自分に気づき、パチュリーは頬に紅葉を散らす。
「べ、別に何も」
「そうですか」
 どうやら聞こえてはいなかったらしい。
 ほっと胸を撫で下ろしつつ、パチュリーは訝った――もしかしたら、咲夜も自分と同様に気づかない振りをしているだけかもしれない、と。

    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 気が付くと、わたしは床に尻餅をついていた。そしてわたしの眼前では、母が作り、わたしが母からもらった一体の人形――上海人形が、槍を手にして宙に浮いていた。
 その槍の先では、一人の人間が仰向けになって倒れていた。
――お母さん……。
 振り向くが、母は机に突っ伏したまま動いていなかった。
――わたしが上海を動かしたの?
 答えが欲しかった。
――わたしがあの人を殺したの?
 答えが欲しいのに、母は振り向いてもくれなかった。
 代わりに、わたしの意思で動いている上海の持つ槍から滴る真っ赤な血が、わたしにその答えを雄弁と語りかけてきていた。

    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

「ふぅ……」
 椅子に腰掛け、紅茶を啜る以外には特に何をするというわけでもなく、アリスは窓の外を眺めている。
 他の何か、例えば人形作りや魔法の研究といったことにあてられる時間に、わざわざ窓の外を眺めるほど家の外の景色が彼女にとって価値あるものというわけではない。
 アリスは、裏庭で自家栽培している茶葉で淹れた紅茶に口をつける。程よい苦味と優しい香りが口内に広がっていくのを楽しみつつ、彼女は窓の外に目を戻した。
 外は雨だった。
しとしとと限りなく降り続ける雨のためか、森の生物たちは静かになっている。
 いつもの森の煩さはないものの、代わりに雨が地面を叩く音が断続的にアリスの耳に入る。起きていようと、眠っていようと、食事をしていようと、彼女の事情にはお構いなく。
 何に取り掛かろうとも、その音にアリスは気を滅入らせられてしまう。だから、特に何をするというわけでもなく、ただ窓の外を眺めているのだ。
 この雨が全てを流してしまってくれたらいいのに、と思い耽る以外にすることなど、できることなどない。そんな状態で家に籠もり続けて、今日でもう六日目だろうか。最後に外出したのは、湖の湖畔まで散歩したとき。つまり、あの紅魔館という屋敷の前でその門番と戦ってから、ちょうど一週間ということだ。
「五月雨、か」
 東方の雨季に降る雨を、確かそう呼んだ。
「そうか、雨のせい……」
 ここ最近から、昔の夢を見始めた理由が分かった。どうやら、幻想郷が雨季に入ったためらしい。
 アリスは得心がいったように呟くと、傍にいた上海に紅茶のおかわりを淹れてもらった。
 本日何杯目かも分からない紅茶を啜りつつ、アリスは思う。
 雨の日には、時刻の感覚が鈍ってしまうものだ。今日はあと何時間、こうして雨を眺めていなければならないのだろうか。
――わたしはいつまで、この恐怖を抱いていないといけないの……?

    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 今日も雨。
「ふぅ……」
 口の中に残ったクッキーの不快極まりない残骸を紅茶で流して、パチュリーは嘆息まじりに窓の外を見やった。
 パチュリーがいるのは、紅魔館の食堂。テーブルの隅っこにある指定席に陣とっている。
 パチュリーが席についているこのテーブル、その大きさを彼女は心底無駄に思っていた。
 一度に埋まるここの席は、大抵二席、多くても三席か四席といったところだろう。だというのに、このテーブルときたら二、三十人くらいなら余裕をもって食事に招待できそうな長さなのだ。確かに紅魔館内で生活をしている者の数は全体でそれを超えるくらいである。が、その大多数がメイドで構成されており、彼女らは基本ここで食事をとったりしない。だからといって紅魔館の主であるレミリア・スカーレットが夜な夜なパーティを開いて客人を大勢招いたりすることもない。
「……無駄ね」
 などと声に出してこのテーブルの存在を否定してはみるものの、パチュリーは実のところこのテーブルが好きだった。
 レミリアと、時には咲夜やレミリアの妹のフランドール・スカーレット、そしてレミリアや咲夜の気紛れでごく稀に食堂に姿を見せる門番。独りきりで食卓につく日常の寂しさと孤独を知っているパチュリーにとって、彼女らと囲む食卓の、なんと楽しく、暖かいことか。
 今のように一人で席について、外の雨に憂鬱としている気分も、その情景を思い出すだけで晴れてしまう。
 だから、パチュリーは一人でいても、皆と食事をしていても、この食堂が、このテーブルが好きなのである。
「それにしても」パチュリーは本日何度目かの気晴らしをしてから、再び窓の外を見やり、うんざりしてぼやく。「いくら梅雨だからといって、いつまで降り続ける気なのかしら」
 パチュリーは、もう一週間も太陽を隠し続けている雨雲を半眼で睨んだ。
 こう雨が続くと酷くなるものがある。それは、湿気だ。
 パチュリーがいくらこの場所が好きだといっても、彼女としてはやはり図書館の方が落ち着くのである。が、その図書館は地下に建造されており、三日も雨が続くと大量の湿気のせいで、正直生息していられなくなる。ということで、雨が続くとパチュリーはこうして食堂に避難してくるのだ。
 しかし、確かに湿気も嫌だが、今パチュリーがうんざりしている理由は、外出ができないということである。
 好き好んで二四時間紅魔館に引き篭もっているパチュリーではあるが、今は外に出たくて仕方がなかった。
 雨が降っているなら傘でも差して行けばいいんじゃないですか、と彼女の使い魔である小悪魔には言われもした。しかし、それはあくまで地上を歩いて行ける範囲に限定される。紅魔館は湖のど真ん中の島にあるのだ。湖を超えた場所に行こうと思えば否応なく空を飛ばねばならない。空の上で傘を差したとして、微風だけで腰から下が確実に被弾するのは目に見えている。
――雨以上に避けにくい弾幕もないわよね。
 どこぞの紅白巫女でも、全ての雨弾を避けることなど能わないだろう。
 服が濡れても構わない緊急を要する用件ならば、パチュリーは雨の中空を飛ぶことを厭わない。が、今回の外出の目的を考えると、ずぶ濡れで行くわけにもいかなければそれほど緊急というわけでもない。
 これらの理由により、パチュリーはここ数日、雨雲とのいつ終わるかも分からない睨めっこを続けてきたのだ。
「はぁ…………」
 そろそろ雨雲の顔も見飽きてきて、パチュリーは立ち上がると、何の気なしに窓辺へと歩み寄った。
 紅魔館の食堂の窓からは、紅魔館の正面が見渡せる。
 正面玄関の屋根、そこから正門へと続く石畳、巨大な正門、暗い林、湖の断片、そして向こう岸に広がる世界。
 パチュリーがふと正門の方を見やると、緑色の雨合羽姿で気の毒なほど健気に門番をしている門番に、紅い傘を差した咲夜がちょうど差し入れを持って行っているところだった。
「あら、珍しい」
 呟き、差し入れというよりもその心遣いに感激した門番が咲夜に抱きつこうとして一瞬で叩き伏せられるところまでを眺めてから、パチュリーは向こう岸を見やる。
――そこにいるの?
 向こう岸の世界を見つめ、パチュリーはそっと呟きかけた。名も知れぬ、どこにいるのかも分からない、あの少女へ向けて。
「随分と執心のようね、パチェ」
 突然声をかけられ、パチュリーが振り向くと、それまで閉じていたはずの食堂の扉が少しだけ開いていた。先刻の稚い声はそこから流れて来たのだろう。扉はそのままに、声は続ける。
「とりあえずカーテンを閉めてもらえる?」
 言われた通りにパチュリーが魔法を遣って食堂の窓枠全てのカーテンを閉めるのと同時に、扉が完全に開き、そこから声の主が入ってきた。
「珍しいわね、あなたがこんな時間に起きてるなんて」
 変な形状の帽子――人のことは言えないのだろうが――、真紅の瞳、蝙蝠然とした両翼、そして幼学と見間違えてしまう容貌風姿。そこに現れたのは、正しく吸血鬼であり、紅魔館の主であり、パチュリーの友人であるレミリア・スカーレットだった。
 レミリアは自分の指定席に座りつつ、言う。
「あら、今日はちょっと早起きなだけよ。そろそろ夕間暮れだしね」
「え?」
 言われてから、パチュリーは時計に目をやった。確かに、もう一時間もせずにカーテンが要らなくなる時間だった。
「この前ここに遊びに来た娘のことで頭が一杯だった?」
「なっ――」
 レミリアのおどけた言葉に、パチュリーは頬に紅葉を散らした。レミリアから顔を背けたまま、パチュリーは言う。
「た、ただ雨雲のせいで時間が分かりづらかっただけよ」
「あらそう?」
 吸血鬼みたいにクスクスと笑うレミリアに、パチュリーはようやく落ち着いた顔を向ける。
「……で、案の定、勝手に知ったわけね」
 パチュリーが示したのはもちろん、あの金髪少女のことである。
「二度も自分家の結界を突破されたっていうのに、何も言ってこない結界委員がいるからよ」
 レミリアの言う『二度』の一度目とは、今では『紅霧異変』と呼ばれている、かつてレミリアが太陽光を遮断するために紅魔館を中心に張った紅霧を発端とした騒動の際、博霊神社の巫女である博霊霊夢と、それに同行する魔法使いの霧雨魔理沙が紅魔館に侵入したときのことである。
 そして二度目の今回、パチュリーは、自分からレミリアに話すと咲夜には告げつつも、未だにレミリアには金髪少女と結界のことを話していなかった。が、予想通りレミリアは勝手に知ったらしいので、そのことはもうパチュリーの中では瑣末なことだった。それよりも、
「って、結界委員ってなによ」
「結界係の方がよかったかしら」
 机に頬杖をついて、レミリアは微笑を浮かべて言い直した。
「……はぁ、分かったわよ。ごめんなさい、すぐに報せなくて」
 既に無駄な睨めっこに飽き飽きしていたパチュリーは、素直に負けを認めた。というより、すぐに報せなかった自分の非を認めただけであるが。
「よろしい」
 レミリアは満足気に小生意気であどけない笑顔を見せるが、すぐに頬杖を解いて表情を変えた。少しばかり深刻な話をするときに見せるレミリアのその表情に、パチュリーは居住まいを正すようにしてレミリアの次の言葉を待つ。
 レミリアはすぐに続ける。
「で、アリス・マーガトロイド――あ、これ件の娘の名前ね――のこと……パチェ、あの娘のところに行くつもりなら、知っておいて欲しいことがあるのだけど」
「要らないわ」
 パチュリーは即答した。
 確かに、パチュリーは常に知識を追い求めている。しかし、彼女の求める知識というものはあくまで独力で手に入れるものであり、何も行動せず安易に得るようなものではない。何もせずに転がり込んでくる情報を天啓と呼ぶ者もいるだろうが、パチュリーの考えでは状況に依ってそれは不正行為と紙一重になるものなのである。
 今パチュリーがレミリアに対して即答した理由は、それに対し何らかの不正染みたものを感じ取ったためである。
――理屈じゃないのよね。
 これは理屈ではなかった。言うなればパチュリーの、魔法遣いとしてではない彼女自身の矜持からくるものだ。
 パチュリーの返答を、レミリアは予期していたらしく特に反応を見せない。
「そう言うだろうと思っていたけれど、あなたは知っておいた方がいいわ」
「…………」
 今日に限ってくどいレミリアを、パチュリーは黙って見返す。
「友人からのお願いよ」
「ぐっ……」
 レミリアの一言に、パチュリーは折れてしまった。だって、彼女がそんな単語を口にすることなんて、滅多にないから。
「……結末は視ていないのでしょうね?」
「もちろん」
 十年や二十年の付き合いではないのだ。パチュリーの性格を重々心得ているらしいレミリアは頷くと、すぐに本題へと移った。

    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 とても怖かった。
 闇夜の帳よりも。
 どこからか届く啼鳥よりも。
 獣の哭声の響きよりも。
 とても怖かった。だから、わたしは雨うち注ぐ夜嵐の中に躍り出た。
 夜の林の中を、わたしはひたすらに駆けた。
 足を踏み出す度に泥が跳ね、突き出した植物の枝に打たれ、お母さんに作ってもらった服が刻々無残な姿へと近づいていった。
 届かない永遠の距離とも錯覚するほど、いつまで走っても林の出口は見えなかった。
 息が切れ、手足が重くなり、涙と雨との区別さえつかなくなっても、わたしは走り続けた。
 この林はどこまで続くのか、本当に出口などあるのか。
 恐怖と疑心によって出口が遠ざかりはしても、結局永遠なんてものはこの世になくて、わたしはとうとう夜の林を抜けた。
 目指す場所は、林を抜けてすぐのところにあった。
 闇の中にぽつぽつといくつかの灯りが集まっているのを確認して、わたしは最後の力を振り絞った。
 いつもお母さんと一緒に来ていた街。独りで、それも夜中に来るのは初めてだった。けれど、わたしは道を間違ったりはしなかった。
 まったく無駄なく通りを抜けて行き、わたしは一軒の家の前に立つ。
 その家のドアをノックする。両方の手で、全力で、何度も何度もドアを叩くことをノックというのなら、それはまさしくノックだった。
 ノックの音はすぐに住人に届いたようだった。ドアの向こうから物音と声がし、ドアはわたしを押しのけるようにして開いた。
――おかえりなさ……え?
 ドアを開けてくれた女の人が、わたしの姿を見て凍りついた。
――おかえ……ひっ!?
 女の人のすぐ後ろに立つわたしと同い年の女の子――わたしの友達が、わたしの姿を見て悲鳴を上げた。
――助けてっ。
 そんな二人に構わず、わたしは求めた。この恐怖を振り払う救いの手を。
――こっ、来ないでっ!
 女の人――わたしの友達のお母さんが、引きつった声で叫ぶと、傍にあった傘を引っ掴んで振り上げる。
――っ!
 咄嗟に、わたしは両手で頭を庇うようにしゃがみこんだ。が、身体が反射的に予想した衝撃は、襲ってこなかった。
 恐る恐る顔を上げると、おばさんが振り下ろした傘は、血の付いた槍によって止められていた。
――しゃん、はい……?
 どこからか現れた上海が、自分の何倍もの大きさの槍を巧みに振りおばさんの傘を弾き飛ばすと、おばさんはその場に尻餅をついた。
――っ! やめてっ、上海!
 先刻の光景が脳裏をよぎり、わたしは叫んだ。
 果たして、目にも留まらぬ速さで突き出された上海の槍が、おばさんの喉元に到達する直前で止まった。
――お願い、助けて……。
 おばさんは泣きながら、絞り出すように言った。
――……。
 助けてほしいのはわたしの方なのに。
 わたしは再度助けを求めるようにして、おばさんの背にしがみつくようにして立っている友達に目を向けた。が、
――魔女っ!
 友達が叫んだ。
――なんでこんなことするのよっ!? なんで生きてるのよっ!? わたしのパパをどうしたのっ!?
――……え?
 今の友達の一言で、合点がいった。
 ドアを開けたとき、この二人が誰に対しておかえりを言おうとしていたのか。
 何故、わたしの姿を見て悲鳴を上げたのか。
 この二人の中で、わたしは死んだことになっていたんだ。
 そのことに気づいたときには、わたしはおばさんに突き飛ばされ、真っ暗な石畳の上に投げ出された後だった。
 降り続ける雨粒が、わたしの小さな体を容赦なく打つ。
――裏切ったのね……。
 既に限界まで濡れている髪も服も、これ以上の水分を受け付けず、雨粒はわたしの体に当たってそのまま地面へと落ちてゆく。
――……友達だと思ってたのに。
 今の騒ぎを聞きつけたのか、それとも二人が隣人に告げたのか、周囲の家からぞろぞろと人間が出てきた。
――……ともだち……。
 距離を取って、人間たちがわたしを取り囲む。その距離が、わたしと人間たちとの距離だった。
――トモ、ダチ……。
 人間たちが、出て行けだの、この魔女めだのと騒ぎ立てた。
――お母さんを…………殺したくせにっ!!
 わたしはこのやるせなさに、絶叫した。
 わたしの慟哭のためか、わたしを守るようにして浮いていた上海が槍を構えたせいか、人間たちはそれまで成していた群れをすぐに崩し、蜘蛛の子を散らすように各々の家に駆け込んでいった。
 このときようやく、わたしは気づいた。
今夜、力を手に入れた代わりに、大事なもの全てを一度に失って、わたしは独りになったんだ。
――お母さんに作ってもらった服……汚れちゃった。
 大勢の中で感じる孤独は、独りでいるときに感じる孤独より、一段と孤独だった。
――……行こ、上海。
 新たな恐怖を胸に抱き、わたしは歩き始めた。
 雨と涙は、いつまでたっても区別できなかった。

    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 運命を操る程度の能力。それは他者を含める全ての運命を支配するということ。
 認識し――
 理解を経て――
 支配に至る。
 つまるところレミリアの真紅の双眸は、他者の過去を視、現在を視、未来を視る。
 運命を操る程度の能力。それは生物そのものの中身を覗き視るということ。
 尊大で、わがままで、融通無碍なレミリアだからこそ持ち得る能力なのだろう。
 蝋燭の火を隔てたレミリアのその小さな口から紡がれたものは、あの少女――アリス・マーガトロイドの過去と少しの現在だった。
「魔女狩り、か……」
 この世で最も嫌いな単語の一つを、パチュリーは口にした。
 レミリアが語ったアリスの昔話。それは、外の世界の魔女狩りそのものだった。
 唐突に、雨足が激しくなった。
 カーテンの向こうから、雨粒がまるで意思を持ったかのように窓を叩いてくる。
 開けて欲しいのか。
 助けて欲しいのか。
 その音が、パチュリーにはまるで少女の悲痛な叫びに聞こえて仕方がなかった。
 だがパチュリーは、少女に憐憫の情を抱いたりはしなかった。哀れだとか、不憫だとか、その少女はそんな世界にすら届かない場所にいる。
――だから。
 パチュリーは席を立ち、手近なカーテンを開け放つ。
――迎えにいってあげないと、ね。
 カーテンの向こう側では、夜嵐がその重たい腰を下ろしている。
 レミリアのせいでこの雨の中を飛ばなければならない緊急の用事ができてしまったことに、パチュリーは小さく笑みを浮かべた。
――わたしは、良い友人を持ったわね。
 パチュリーの決心を感じ取ったのか、レミリアはパチュリーの隣に立ち同じ方を見つつ、言う。
「もう一つ教えておくと、この間の春の騒ぎ、そのとき咲夜はアリスと戦ってるわよ」
「えっ?」
 初耳だった。だが、一週間前紅魔館の屋根の上での、アリスを見た咲夜の妙に納得したような素振りに、パチュリーは合点がいった。
「それで、どうだったの?」
 これはどちらが勝ったのか、というよりも、どういった手合いだったのかといった質問に近かった。
「もちろん咲夜が勝ったわよ。ま、相手が実力を出し切っていれば、分からなかったでしょうけどね」
 レミリアはパチュリーの思考を汲み取ったのか、両方答えてくれた。だが、
「……どういうこと?」
 もし咲夜が、実力を発揮できない状況にアリスを追い込んだのであれば、それは明らかに咲夜の勝利であろう。が、わざわざレミリアがそんなことを言ってくるということは、ことはそう単純なものではないのだろう。
「アリスは本気を出せなかったんじゃなくて、出さなかったの。でもまあ、その真意さえ理解すれば、前者の方が近くなるんでしょうけどね」
「全く意味がわからないんだけど……」
「シンプルかつコンプレックスな問題ね」レミリアは、先刻までパチュリーが座っていた椅子に腰を下ろす。「それは裏切りの代償なのか……誰も信じられないから、何も――自分の力さえも信じられないから、誰にも何にも全力でぶつかっていくことができない」
「じゃあ、どうしてアリスは、今も人形を遣っているの……」
 自分の力を信じられない者は、普通その力を使おうとはしない。なぜなら、制御できず暴走を引き起こしてしまうからだ。
だがアリスは人形を、魔法を遣う。それは無意識に制御している、言い換えると、信じられないと思っている力をどこかで信じているということなのではないか。
 全力を出さない。それは自らを制御するということ。
 全力を出せない。それは全力を出したくても出せない、無意識下で踏みとどまってしまうということ。
 そんな多重に入り組んだアリスの結界を掻い潜り、彼女の本気と本音を導くことが――
――……わたしにできるかしら?
 かつてレミリアがパチュリーにしたように、今度はそれをパチュリーがアリスにする。
 パチュリーの中に逡巡が芽生える。
 もし、失敗したら?
 もし、アリスの心を掻き回しただけの結果が残ったとしたら?
 そんなパチュリーの足踏みを見て、彼女の背中を押すのは、やはりレミリアだった。
「やらずに後悔するとか、やって後悔するとか、そんな考えを持ってはいけないわ。誰にもリアルな結末なんて分からない。ただ彼女を救いたいという気持ちだけで、十分なはず」
「レミィ……」
「受け取りなさい、パチェ」
 レミリアがバトンを差し出す。それに、パチュリーは答えを見た。
 ふっと笑い、パチュリーは手を伸ばす。
「ありがとう、レミィ」
「すぐ行くの?」
「行くわ。雨が止む前に」
「そうね。でも違うわよ、パチェ」
「?」
「こういうときは、行ってきます、と言うものよ」
「そう……そうね。行ってきます、レミィ」
「行ってらっしゃい、パチェ。お土産を期待しているわ」
 友人から受け取ったバトンを懐にしまい、パチュリーはようやく足を踏み出した。

    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

「ん……」
 ふと感じたのは、雨が地面を叩く微弱な振動ではなかった。
「あれ……今、何時……」
 ぼんやりとした頭を傾かせながら、不明瞭な視界の中に、アリスは時計を探す。
目を擦って時計を確認すると、もう九時を回っていた。
「寝てた……」
 いつの間にか、テーブルで寝てしまっていたらしい。変な体勢で寝ていたためか、首筋がずきずきと文句を言ってくる。
もういっそのことベッドに入ってしまおうと考え、アリスは寝ぼけたまま上海の姿を探す。
そのとき――
 こんこん。
「――っ!」
 眠気は瞬時に弾けた。
 アリスは椅子を蹴って立ち上がる。
 雨がまだ降り続いているというのは、外から勝手に入ってくる雨音で分かる。しかし、たった今聞こえてきた音は、それとはまったく別物だった。言うなれば、誰かが玄関の扉をノックするような――
 こんこん。
 再び聞こえたその音に、アリスは慄然とする。焦燥に駆られ、首を仰々しく左右に振って上海を探す。
――上海っ!
 ずっとテーブルの上にいた上海の姿をようやく見つけた瞬間、アリスは大きな安堵に胸中で上海を呼んだ。
 上海はアリスの呼びかけにすぐさま反応した。
 上海が傍まで来たところで、アリスはもう一度事態を確認する。
 アリスは先刻まで寝ていた。起きたのは雨音のせいではなく、ノックの音のせいだったのだろう。つまり、アリスがうたた寝をしている間に、敵はもうすぐそこまで来ていたのだ。
――油断したっ!
 こんなど辺鄙なところにある家のドアをノックするなど、とてもではないが普通の用事とは思えない。そもそも普通の用件で訪ねてくる知り合いをアリスは持ち合わせていない。アリスの中で、ドアの向こうの何者かは自然に敵と判断されていた。
――結界は……破られていない?
 アリスが家の周囲に張っていた結界を確認するが、結界は壊されてもいなければ、何者かの侵入の形跡さえ窺えない。
 ノックは人間程度に知能を有した生物のする行為であり、そんな者が結界に触れたならアリスにはすぐに感知できるはずだった。
「……」
 ではさっきのノックは幻聴だったとでもいうのだろうか。
 こんこん。
 アリスの疑心、というより願望を打ち砕くかのように、三度のノック。
 ノックの回数に比例して、次第に動悸が激しくなるのをアリスは自覚する。
――落ち着いて……落ち着くのよ、アリス。
 駆け上がってくる血をどうにか鎮めようと、アリスは自身に言い聞かせる。
 雨と夜。これらだけでもアリスにとっては厄介だったが、そこに招かれざる客とくれば、普段こそ冷静なアリスでも今ばかりは落ち着いていられない。
 こんこんこん。
 一度のノックの回数が増えた。
「くっ……」
 アリスは歯噛みする。
 ノックの度に追い詰められそうになる自分に気づいて、どうしてたかがノックなんかに畏怖しなければならないのか、と。
 アリスはとうとう結論を出す。半ば自棄気味になって。
――なんでわたしが怖がんなきゃいけないのよっ!
 開けてやろうではないか。いったいどんな奴かこの目で確かめてやる。
 アリスの結界を透過してくる程の相手だ。どうせ直に視認するしか確認のしようがないわけであるが。
 こんこんこんこん。
 それが最後のノックとなる。
 アリスは上海をテーブルに座らせると、敢然と扉へと向かった。

    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 ひどく寒かった。
 傘を飛ばされ、頭の天辺から足の先までずぶ濡れの状態で、パチュリーはアリスの家の前に立っていた。
――何年経っても、相変わらず薄気味悪いところ。
 魔法の森には過去に何度か来たことがある。こんなところに住むのは、隠遁した者か、変わり者の魔法使いくらいなものだろう。
 こんこん。
 寒さと不気味さにパチュリーは身震いしながら、ドアを叩く。
 予想通り、アリスは家の周囲に結界を張っていた。
 確かにその結界は並の術者の張れるようなものではなかった。だが、先日の、パチュリーの結界を破り、制限付きとはいえ門番を秒殺したアリスを見てパチュリーが得た印象ほどのインパクトが、その結界にはなかった。
――やっぱり、無意識に手を抜いているのかしら。
 時間さえかければ透過さえできてしまうほどに、その結界はやわだった。
――でも、全力を出さない出せないといったこととは、ちょっと違う気がするのよね。
 結界を張るのにも、アリスは全力を出していなかった。しかしそれは、無意識に全力を注がなかったということとは少し違うように、パチュリーは感じていた。
 そもそも結界というものは、大別して二種類だ。篩のような役割を果たすものと、頑なに他者を拒むためのもの。パチュリーが紅魔館に張っていたものは後者であり、アリスの張っているものも間違いなく後者であろう。その上で手を抜くということは……
――もしかして、誰かが来るのを待って……いや、期待していた?
 そうだとすると、先刻の違和感にも筋が通るのだが。
 と、ノックを続けつつ、パチュリーはそんなことを考えていた。というより、いつまで経ってもアリスが出てきてくれる気配がないため、考え事をして寒さを紛らわせようとしていたのだが。
「さむっ」
 思い出した途端に寒くなる。パチュリーは再び身震いする。
 何度ノックをしたことだろう。そろそろ自分から扉を開けてやろうかとパチュリーが考え始めたときだった。
 湿った音を立てて、扉が開いた。
 扉の向こうから現れた、一週間ぶりの彼女の顔を真っ直ぐに見つめ、パチュリーは言う。
「雨宿りをさせていただけないかしら」

    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

「雨宿りをさせていただけないかしら」
 テーブルの向かいに腰を下ろし、タオルで髪を拭いている、パチュリー・ノーレッジと名乗った女は、そう言った。
 本を読む振りなどしつつ、アリスはちらちらとパチュリーを窺う。
――きれいな髪……。
 群青色と言えばよいのだろうか、湿り気を帯びて一層艶やかな、また完全に乾かすにはかなりの時間を要するだろう彼女の長い髪を見て、アリスは素直にそう思った。
 ドアを開け、そこに立っていた見知らぬ女の発した『雨宿り』という単語を聞いた瞬間こそ戦慄しはしたものの、今のアリスはそのときほど彼女のことを恐懼してはいない。ただし警戒を解いてはいないが。
 彼女が何者で、どうしてここに来たのかは訊かないでおいた。嘘を吐かれても仕方ないし、こんな招かれざる客に近寄るような真似はしたくなかったからだ。
 アリスは本のページをめくった。が、前のページの内容を頭に入れきれていなかったことに気づき、すぐにページを戻す。
 と、
「あ……」
思わず声を上げてしまった。パチュリーの怪訝そうな視線を避けつつ、アリスは言いなおす。
「あ、と……そろそろ乾く頃だろうから取ってくるわ、服」
 それだけ言ってから、パチュリーの返事も待たずに、アリスは本を置いてそそくさと浴室に向かう。
 アリスは人形たちに、濡れそぼったパチュリーの服を洗濯し乾かしてもらっていた。パチュリーはどう考えても魔法使いだ、さすがに素性も知れぬ魔法遣いの前で人形は使いたくないという理由から、浴室を選んだのだ。
 浴室に入ると、ハンガーにかけられたパチュリーのワンピースを人形たちが用意してくれていた。
「ありがと」
 受け取り、人形たちは人形部屋に戻らせ、アリスは居間に向かった。

    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

「ありがとう……それと、あの」
 おずおずと差し出された洋服を受け取り、パチュリーは言った。
「な、なにっ」
「えっと、できれば向こうを向いていて欲しいんだけど……」
「あっ! ご、ごめんなさいっ!」
 もしかして自分の着替えをずっと見ているつもりだったのだろうか、アリスは頬に紅葉を散らして背を向けた。
 くすりと微笑んでから、パチュリーは体に巻いていた毛布を椅子の背に掛け、ワンピースに袖を通す。洗濯してくれたようだが、微かに魔法の森の不気味な香りがした。
「もういいわ――くちゅんっ」
 最初のくしゃみの後、咳が少しばかり続く。
「あっ、あの、もしかして具合悪いの……?」
 膝をついて咳き込むパチュリーに、しかしアリスは近寄ってくることはせずに言ってきた。
――これが、この娘の距離か……。
 咳に思考を苛まれながらも、パチュリーは視界の上方に霞んで見えるアリスの靴を見つめた。
 しばらくしてから咳が治まると、パチュリーは先程の椅子に腰を下ろす。
「あの、大丈夫……」
 項垂れるパチュリーに、アリスがテーブルの向こう側から訊いてくる。
 招かれざる客に近寄りたくないのなら、最初から家に入れなければいいのに。服やら何やらと面倒を見てくれなくていいのに。そんなアリスの矛盾が具現化したものが、先程パチュリーが透過した結界なのだろう。
「あんまり大丈夫じゃないかも……持病の喘息に加えて、熱も少しあるみたい」
「そ、それじゃ、何か温かいものでも」
「ありがとう。お願いするわ」
 アリスが再び扉の向こうに姿を消したのを見計らって、パチュリーはすっと立ち上がった。そして先のアリスの言動を反芻する。
 あのような過去を持ちながら厳戒と表現するには警戒心に欠けるアリスに眉根を寄せずにはいられなかったが、それよりもパチュリーの状態に対するアリスの対応の方が、パチュリーにとっては訝しすぎる。
 熱があるなんていうのは嘘だ。喘息は本当に持病だが、今のところ奴の機嫌は良い。まんま演技に対するアリスの反応は、とても一般的なものだった。つまるところ、セオリー過ぎて面白くもなんともない、ということだ。
――警戒しつつも見ず知らずの他者を気に掛け、心配する素振りを見せながらも距離を取り続ける……矛盾、ね。
 傘を失くして濡鼠よろしくな姿にまでなってこんな薄気味悪いところまで足を運んだと言うのに、このまま、はぐらかされたまま帰されるわけにはいかない。
――……何かしないと。
 アリスが戻ってくるまでに何かをしなければ、紅茶を頂いてはいさよならという事態にもなりかねない。
 パチュリーは内心焦りつつ、部屋の中を物色することにする。
 本棚、食器棚、植物、暖炉。居間を見渡して目に付いたのは、そんなところか。
――やっぱり、これか……。
 パチュリーは椅子に座りなおすと、彼女がこの家に入った時からテーブルに置いてある、というより座っている人形に手を伸ばす。
 アリスと同じ金髪に、赤いリボン。紅魔館のメイドと似通った衣装。
 手に取ってみても、外見同様どこにでもありそうな人形の一つだった。しかし、パチュリーの手に腰を掴まれて体をくの字に曲げているその人形は、
――間違いない。
 あの日、紅魔館の門番に二発も入れたアリスの人形だ。
 パチュリーはアリスの入っていった扉を肩越しに睥睨する。
 常に操作して、傍に置いているものかと思っていたのだが。
 ゆっくりと人形に視線を戻した瞬間――

「――――っ!?」

パチュリーは声なき悲鳴を上げた。
 動いていないはずの人形と、目が合った。
 偶然ではない。
 人形が、魂や血液を持たぬはずの人形が、首をもたげてまでパチュリーの顔を覗きこんできたのだ。
 全身の汗腺という汗腺から、決して心地よいものではない汗が噴出してくる。
 そもそもどうして人形が人の形を模して作られる必要があったのか。その答えの一つが、パチュリーの脳裏をよぎった。
恐怖。
 常識的に『動かないもの』としての人形しか目の当たりにしたことのない者にとって、常識的に動かないはずの人形が目の前で動いた瞬間の恐怖は想像を絶するものだ。
 パチュリーはその人形が動くことは知っていた。もしアリスがこの場にいた上でこの人形が動いていたならば、なんら問題はなかっただろう。だが、今この場にアリスがいない上、パチュリーは瞬時にアリスの遠隔操作と考え至ることができなかった。
 実のところパチュリー自身、アリスの警戒心の薄さに当てられ油断していたのだ。そのために湧いた恐怖だった。
 パチュリーはすぐにでもその人形を投げ捨ててしまいたかった。が、できなかった。だって、それではあの人間たちとまるで同じになってしまうから。
 人形は未だこちらを見続けている。
 パチュリーもまた人形から目が離せないでいる。
「返してっ!」
 瞬間、再び予想もしていなかった衝撃に、パチュリーの肺から強制的に空気が搾り出された。
「かはっ――」
 唐突に現れたアリスに突き飛ばされ、背中を壁に強打したことにパチュリーが気づいたときには、彼女の手から先の人形は姿を消していた。
 涙を滲ませたパチュリーの双眸が、人形を庇うようにして立つアリスを捉える。
――……やられたわね。
 パチュリーはアリスにバレないように立ち上がろうとし、アリスにバレないように失敗する。回復するまでには少し時間が要るようだ。
 パチュリーはただ魔法遣いというだけで、長いことインドア生活を送っている彼女の肉体は人間並みに脆くなっていたらしかった。
「……すぐにお茶が入るから。それ飲んだら、出て行って」
 パチュリーは再び感じた。アリスの矛盾を。
 人形を抱いたまま、踵を返して再び扉の向こうに消えようとするアリスに、パチュリーは言いかける。
「うちの門番との戦いを見させてもらったわ。貴女、人形を動かすのが上手ね」
 閉じかけていた扉がぴたりと止まった。
「…………」
 アリスからの返答はない。
 返答のないまま、扉は再び動き出し、完全に締め切られた。
 アリスの気配が扉から離れたことを確かめてから、パチュリーは嘆息する。
「ふぅ……」
 魔女が悪者だと、いったい誰が決めたのだろう。
「ふふ。言い得て妙、ね」
 今自分のしたこと、これからすること。それらが悪行でなくなんだというのか。
 今夜に限って、パチュリーは魔女呼ばわりを甘んじて受け入れることにした。
「よっ……と」
 ようやく呼吸が整い、パチュリーはゆっくりと起き上がった。そして、先刻のアリスを思い出す。
――それにしても……疾い。
 少しは体力をつけようかと冗談混じりに思う一方で、パチュリーは近づいた気がしていた。
 アリスの本質に。
 だが――
――まだね……まだ足りないわ、アリス。

    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

「はぁ……はぁ……」
 片腕に上海を抱き、もう一方をシンクにつき、アリスは激しく上下する自分の両肩をどうにか抑えようとしていた。
 気持ちを静めようとするとき、アリスはいつもその原因を遡り、一つずつ処理していく。人はそれを自己完結と呼ぶが、十分な時間があるならばそれが最も有効だろう。
 とかく、あのパチュリーとかいう女によって与えられた度重なる恐怖を、アリスは一つずつ処理し始める。
 しかし途中で、火にかけていたケトルから蒸気が噴出しているのにアリスは気づき、とりあえずは紅茶の用意を済ませることにした。
 上海にも手伝ってもらいつつ用意を終えると、ポットとカップを二つ盆に載せ、キッチンを出る。
 そして再び先程の作業に戻る。茶葉の蒸らしが充分でないこともあり、キッチンからリビングまでの廊下をゆっくりと進んでいく。
「すー……」
 リビングへの扉の前で、アリスは大きく深呼吸した。
 パチュリーがあの紅魔館から来た者であることが分かった時点で、アリスは家と森に持ち得る全ての人形を配置させていた。そこからくる安心感と今の深呼吸のおかげで、アリスはどうにか平生を保てた。
 パチュリーが何をしにきたのか知る由はないが、復讐が目的ならばわざわざ扉の前でノックなどしないであろう。
どうせこれを飲んでもらったら、すぐに帰ってもらう。
 でも先の通り仕返しが目的でなく単に興味で訪ねてきたのなら、飲んでいる間くらいお話をしてもいいかもしれない。
 そんな余裕を持てるほど、アリスは落ち着いていた。少なくとも、彼女自身そう思っていた。
「おまたせ」
 言いつつ、アリスは扉を開けた。

「……………………え?」

 アリスの両手から盆が滑り落ち、床に転がった抽出用のポットからこぼれた紅茶が絨毯を湿していく。
 しかしアリスの視界からも頭からも、もはや紅茶などというものは消え去っていた。
 彼女の瞳に映るもの、頭にあるものは唯一、テーブルの上に突っ伏した一人の女だけ。
「お、かあ……さん?」
 しっかりと判別はできなかった。その倒れた女のやたらと薄い存在感のせいもあるが、視界が何かで滲んでまともに視力が働いてくれない。
 判別はできなくとも、アリスの頭は彼女が自分の母であると認識していた。
 今のままでは何も見えないのに、目を擦ることもせず、アリスは滲んだままの世界を凝視する。
「貴女も人形を動かせるのね……」
 アリスの耳に、別の女の声が届いた。それまで動けないでいたアリスは、すぐに目を拭い、声のした方を振り向く。
 が、振り向くまでもなく、声の主――パチュリー・ノーレッジはアリスの目の前に立っていた。そして彼女の手では――
「……」
 どこか見覚えのあるナイフが、部屋の明かりに鈍く応えている。
「残念だわ。貴女も殺さないと」
 無造作に振り上げられていくパチュリーのナイフを、アリスはただ呆然と目で追う。
 現実感がなかった。自分は悪夢の中にいるのかもしれない、そう思えるほどに。
 危機感がなかった。逆手に握られているナイフの切っ先が明らかに首筋に狙いを定めているにもかかわらず。
「貴女のお母さんのように」
 瞬間、アリスはずっと昔に殺したはずの男を眼前に見た。


 アリスは絶叫する。

 叫びは魔力となって――

 魔力は物理力となって――

 視界にあるもの全てを薙ぎ払った。

    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 止むことなく降り続ける雨の中。不気味な気配漂う森の中。
 雨と森に包まれて、パチュリーは考える。
 別に、本当にナイフを突き刺す気があったわけではない。パチュリーが光を利用して作り上げた幻覚の母親を見せられてもまだ呆けたままでいるアリスに対する、最後の駄目出しだったのだ。
 鬼が出るか蛇が出るか、それとも何も出ないのか。
 それで駄目ならもう諦めるつもりでいた――いや、それでもたぶん自分は諦められなかっただろうが。
「突かなくていい藪を突いて出てきたものは、鬼か、蛇か、それとも……」
 気色の悪い泥の感触が背中を覆っている。それから抜け出すように、パチュリーは身を起こした。
 パチュリーの転がっている場所から目視で二十メートルほど離れたアリスの家まで続く、おそらくは彼女自身の体が掘ったであろう溝――正直途中にそこそこな樹木でもあれば戦闘不能は免れなかったろう。その溝を足下から目で辿っていき、リビングの壁面を失ったアリスの家を見つけて、パチュリーは呟いた。
「ふっ……出るものが出たわね」
 どうあれ、パチュリーに余裕などなかった。
 事前に防御の陣を用意しておいてもなお、アリスの魔力の放出にここまで飛ばされたのだ。あの人形と目が合ったときに自戒したはずなのに、傍に人形を置いていない状態のアリスを、心のどこかで甘く見ていたのかもしれない。
「っ!」
 唐突に、パチュリーは前方に身を投げ出した。
 周囲から瞬間的に集中した危機に対し、別に逃げられればどこでもよかったのだが、唯一安全の確立された方向がそちらだっただけのことだ。
 空中で体を丸め、強いて背後を見やる。反転した世界の中で、パチュリーは叫んだ。
「水木符『ウォーターエルフ』っ!」
 パチュリーの転がっていた場所を、自身の何倍もの大きさの槍でもって貫いた四体の人形が、周囲の木の葉と雨粒を利用して作り上げたパチュリーの弾幕に被弾して粉々になる。
 だがパチュリーのスペルは、たった四体の人形を圧倒するためだけに放ったものではなかった。パチュリーには、粉砕した人形たちの後ろから迫っていたナイフが見えていた。どこぞのメイド長を思わせるそのナイフの雨、それを相殺するためだったのだが、
――多すぎるっ!
 パチュリーの放ったスペルは、闇の中から放たれたナイフを数で圧倒してはいる。しかし、弾数が勝っていたところでナイフを全て撃ち落とせるわけではない。弾幕とは数ではなく、密度だ。いくら逃げ場がないように見せた弾幕も隙間があれば通される。
 弾数こそ多いものの、密度という観点から見ればパチュリーの放ったランダム弾は隙間だらけだった。
「くっ――」
 パチュリーは自身の貧相な運動神経を駆使し、空中でどうにか体を捻った。
 うつ伏せに地面へと落ちるや、すぐさま立ち上がる。そのときには、ナイフの雨が眼前にまで迫っていた。
 咄嗟に上空への退避も浮かぶが、そちらが人形に包囲されているのは確認済みだ。背後――アリスの家の方角――は確認している時間が無い。
 逃げる選択肢は、なし。
――こんな序盤から……っ!
 もう考えている時間も迷っている時間もなかった。
 たとえどれだけの負担になろうと、反動は己が技術で最小限に抑えてみせる。完全に制御してみせる。それが――
「魔法遣いってものでしょうっ! 月符『サイレントセレナ』!」
 先の『ウォーターエルフ』を解くこともできるが、パチュリーはそれをしなかった。それでは一手遅れるということもあるが、なにより現状は少しでも密度を稼ぎたい。よって『ウォーターエルフ』続行という状態にもう一つのスペルを追加するかたちの、多重スペル。
 理論的には不可能なことではない。現に先の『ウォーターエルフ』は二つの属性に同時作用するスペルだ。内容を分解してみれば、二つの属性が三つに増えただけのこと。だが、
――きつっ……!
 一つ増えただけなのに、制御に要する集中力と、肉体への負担は比べ物にならないほど増加していた。
 結果的に、パチュリーの多重スペルはナイフと、頭上の人形の全てを撃ち落とすことに成功する。
 ぶっつけ本番の多重スペルが成功したまでは良かったが、たった数秒間のスペル展開が請求してきた肉体への負担は予想を遥かに凌駕していた。
 パチュリーの視界は一瞬真っ白になる。
 そのために、打ち落としたナイフの雨のさらに奥から迫ってきたアリスへの反応が遅れてしまう。
 彼女の手に細身のナイフが握られ、あまつさえその切っ先が自分の胸部を絶命が目的ならばこれ以上ない角度で狙っていることに気づいたときには、魔力を展開し介在させるための時間は残されていなかった。
「っ――あああああああああああっ!?」
 ここ百年の間は弾幕ごっこ以外の戦闘をしていなかった。かといって弾幕ごっこの数もこなしていたわけではなく屋内に引き篭もっていた。魔法の知識と技術こそ身についていったが、代わりに戦闘において大事なものが抜け落ちていっていたようだ。
「くっ……あ……」
 痛みを始めとする、あらゆる肉体的苦痛に対する精神的耐力。
 心臓を庇うために差し出した右手をナイフで貫かれて初めて、自分がそれを大幅に失っていたことをパチュリーは自覚した。
 片手に何かの本を抱いたまま、アリスはもう一方の手に全膂力を注いでナイフを押してくる。が、それ以上ナイフを進ませるわけにはいかず、右手にナイフを貫かせたまま、パチュリーは必死にアリスに抗う。
 何の迷いも持たない、というより一切の歪みの見えないアリスの無情な双眸を、パチュリーは真っ直ぐと見返す。
――そう、それが貴女の歪みなのね、アリス……。
 数秒の激痛の末にパチュリーが獲得したものは、集中力だった。
 どういうわけか本を手放さず片手でナイフを扱うアリスを押し返すのは比較的容易だった。ある程度体勢を立て直せたところで、獲得した集中力をもって、パチュリーは唱える。
「日符『ロイヤルフレ――」
 パチュリーがアリスを引き剥がすためにスペルを発動させようとした瞬間、それまでの痛みにさらなる痛みが上書きされ、パチュリーは二度目の絶叫を上げる。
 痛みに意識が散り、パチュリーの手に集結していた魔力は物理力に変換される前に霧散する。
 アリスはパチュリーがスペルを唱えようとするや否や、突き刺していたナイフをぐるりと反転させ、パチュリーの右手を指先に向かって切り裂いたのだ。
 たまらず、パチュリーは右手を庇うようにして両膝をつく。
「あ……ああっ……」
 顔を滴る雨に涙が混じる。
 痛みに背を丸め、顔を伏せたパチュリー。
 無傷の相手を前に両膝をつく――よもやこんな醜態をさらすことになるとは思いもしなかった。
 終了。
 パチュリーの中の理はそう告げてきた。が、パチュリーの意志はそれを唾棄する。
――諦めて、たまるか……。
 気力で痛みを押さえつけつつ、パチュリーはなんとか顔を上げた。
――…………はは……どうしたものかしらね……。
 諦観したように呟くパチュリーの目に映るものは、先刻と同様のナイフの雨だった。

    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 最初のときは暴走だった。二度目も暴走だった。だがそれからは、自分の意思――というより殺意か――で動かしていた。
 当初は復讐のつもりだった。だが、最後まで人間を好きだった母のことを考えるに連れ、復讐は次第にしなくなった。
 しかし、人間殺しは止められなかった。
 当初のアリスの復讐が産んだ人間たちからの復讐。それに対する防衛行動が、結果的に人間殺しになった。
 いつしか人形は、単なる殺しの道具に成り果てた。
 その人形のせいで殺されそうになり、その人形で殺しているのだから、世話もない話だ。
――やめてよ。
 殺しをするとき、いつも自分が自分にそう言いかけてきた。
「邪魔しないで」
 ナイフを振りかぶりつつ、アリスは言った。
――もうやめようよ、こんなこと。
 右手を抱えて肩を震わせているパチュリーを見つめて、アリスは言った。
「殺されてもいいっていうの」
――それは……。
「殺さなきゃ、こっちが殺されるわ」
――じゃあ、その後はどうするの。
「……また別の世界へ行くわ」
――それで、その世界でまた誰かを殺して、また別の世界へ行くの?
「っ! そ、そうよっ!」
――じゃあ、なんで魔界を出たの。
「それはっ……」
――あそこでは誰も襲ってこなかった。誰も殺さずに済んだ……なのにどうしてここに来たの。
「…………」
――わたしが別の世界に行こうとするのは、追い詰められたせいじゃない。最初の世界では、人間から嫌われてたから。魔界では友――
「うるさいっ! わたしは一人でも生きていけるのっ! 誰にも頼ったりなんかしないのっ!」
――わたしは友達が欲しかった!
「そんなの要らない!」
――あの人となら、魔界でのわたしを知らないだろうし、同じ魔法遣いだし友達になれたかもしれない!
「殺されそうになって友達になんかなれるわけない!」
――それはわたしがあの島に勝手に入って門番の人を傷つけたからっ! やっぱり仕返しに来たんだよっ!
「っ! わ……わたしは悪くないっ!」
――ちゃんと謝ればまだ許してくれるかもしれないじゃないっ!?
「あ、謝ることなんてないっ! あっちが先に攻撃してきたんだから!」
――そんなんだから友達ができないんだよっ! 今のままじゃあ、どこに行っても友達なんかできないよ!
「つ、次は必ずできるわ――」
――ほら! やっぱり友達が欲しいんじゃない!
「ち……違う違う違う違う違う! わたしには上海がいればいいの! 他には何も要らないの!」
――お母さんは人を殺すために上海を作ったんじゃないよ!
「…………もういい」
――え……ちょっとま――
「もういいっ! あいつを殺して全部終わりにしてやるっ!」
 もう歪みなんてうんざりだ。
 ジレンマを抱え続けて何になる。
 あいつを殺せばそれは消えてなくなる。いつもの自分に――友達のできないアリス・マーガトロイドに戻れる。
「あ……」
 気づくと、数多のナイフがパチュリーに降り注いでいた。
――バカぁ!!
 アリスは、自身に対して叫んだ。

    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 予想していたより、楽だった。
 死というものに、それほど痛みはないらしい。
 全身にナイフが刺さっているはずなのに、痛いのは右手だけ。
「……あれ」
 初めて死というものを体験するが、そのあまりの違和感に、パチュリーは間の抜けた声を上げ、いつの間にか閉じていた目をゆっくりと開いた。
「あれ……」
 眼前の地面に刺さっている大量のナイフを見て、パチュリーは再び間の抜けた声を上げた。
――移動、してる……?
 移動していた。今までの位置から数メートル後方に。
 ナイフの向こうに立っているアリスも、驚愕の――あるいは安堵とも取れそうな――表情を浮かべている。どうやら、アリスが外してくれたわけではないらしい。
――ふっ、そういうこと……まったくお節介な。
 パチュリーはアリスに先んじて事態を飲み込んだ。
 ゆっくりと立ち上がったパチュリーを見て、事態を把握したわけではないだろうが、アリスが合わせて動く。
 次の瞬間、視界の隅に映った、高速で接近してくる一体の丸腰の人形に、パチュリーは反射的に両腕を盾にする。
――体当たり……いえ違うっ!
 衝突の瞬間にパチュリーの脳裏をよぎったものは、紅魔館の門番に対してアリスの放った三手目。つまり――
 刹那、パチュリーの視界は真っ赤に染まった。
 瞬間的な大爆発に、パチュリーは簡単に吹き飛ばされ、その細い体は藪の中を転がった。
 先日門番を吹き飛ばした爆発とは規模がまるで違う。
 もし瞬間的に障壁を展開していなければ、両腕はおろか頭さえ失っていた。
 その事実を脳が認識するよりも早く、パチュリーは藪から飛び出す。
一瞬遅れで、パチュリーの転がっていた藪が爆裂した。
 視界の悪い森の中では勝負にならない。パチュリーは足下からの爆風を利用して瞬時に森の天井を超え――視界を遮るもののない空へと舞い上がる。
「つっ……」
 遮るものがないということは雨粒が直に傷口を叩くということだった。
 パチュリーは中指と薬指の間が裂けた右手を雨から庇いつつ、周囲を探る。
――やっぱりすぐには仕掛けてこない、か。
 森の中での奇襲ならばアリスに分が勝ちすぎているが、こう見晴らしがよければ不意打ちも仕掛けづらいのだろう。
 機先を制する必要があった。アリスが次手を考えつく前に。
 森の中ではまともに戦えない。けれどアリスは森の中から出てこないだろう。
「火符……」パチュリーは左腕を夜空に掲げ、叫ぶ。「『アグニレイディアンス』!」
 スペル発動直後、何も無い空間に突如として火が灯る。それも一つや二つではない、マッチ程度の大きさだった炎は、次の瞬間には巨大な火球へと成長する。
 パチュリーの周囲の気温がすさまじい速さで上昇していく。もはや雨粒が彼女を叩くことはない。
 雨粒の蒸発していく音が、火球が生み出す突風にかき消されていく。
 このままでは戦えないのならば、このままではアリスが出てこないのならば、やるべきことはただ一つ――
「森を消し飛ばすっ!」
 まるで後先考えずに行動する白黒魔法使いが思いつきそうな方法だった。彼女に感化されたのかもしれないという思いを、パチュリーは心中で必死に否定していた。
ともあれ、パチュリーの魔力に属性を付加して具現化された無数の火球は、彼女の左腕が振り下ろされるのと同時に足下の森へと向けて突き進んだ。
 
    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 一連の戦闘の中で、アリスはパチュリーの戦力のおおよそを把握していた。その、つもりだった。
――……強い。
 魔法の技術や知識という観点からしてみれば、二人の強さは拮抗している。だが、その強さはそのまま戦闘における強さに結びつかない。
 技術、知識、経験、そして環境。
 それらが総合して初めて戦闘的な強さとなりうる。
 後の二つについて、アリスは自身がパチュリーを圧倒しているとこれまでの流れで確信していた。環境――地の利については確かにそうだったかもしれないが、経験については誤算だった。
 既に勝敗を決していたはずのナイフの投擲をパチュリーが避けたことは置いておくとして、おそらく門番との戦いから察しをつけたのであろうが、先刻のアーティフルサクリファイスを二度も無傷で処理された事実が、パチュリーの経験値の高さを――アリスの攻撃に対してパチュリーが完全に対応してきていることを示唆している。
 当初はどうであれ、技術、知識、経験における差はなくなった。そして今、
――技術で勝負してきたあの人が、こんな力技に出るなんて。
 パチュリーが空から放った無数の火球により、最後に残っていた地の利すらも消え失せた。
 今や、魔法の森の一画と一緒に、アリスは持ち得る優位性の全てを失った。
 パチュリーの火球の範囲外に残った森の中で息を殺すアリスが見る中、もはや空に退避している必要もなくなったパチュリーが、更地となった台地に降り立つ。

    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 常に先手を取られるばかりだったアリスからの奇襲を奪った行動は間違いではない。これで、形勢はむしろパチュリーにとって有利になったといえる。
 右手に重症を負い、多重スペルと森を焼き払うためのスペルによってパチュリーの有する魔力も激減している。
 対してアリスは無傷。だが、質量こそ小さいもののあれほど多量の人形を長時間操り、それに加え先刻の二度――最初のも入れれば三度か――に渡る大規模爆発。
 知り合いの魔法使いが日に何度も高出力の魔砲を放ったりもするが、集中力を極端に消費しないそれはある程度の魔力と相応の媒介さえあれば誰にでもできる芸当ではある(それでも脅威なことに違いはないが)。魔力を魔法という物理力に変換する際には、変換後の物理力の種類に依った集中力を消費しなければならない。これは魔力と違うものの、本質的には同じものである。つまるところ、集中力を消費すれば疲労も溜まるということだ。
 アリスの人形は驚くほど精密な動きをするが、それにはかなりの集中力が犠牲になっているはずだ。練度によって抑えることはできるとしても、減るものはどうしようもなく減っていく。
 先の通り、アリスは恐ろしく大量の人形を操っている。これで大量の魔力と集中力を失わないというのはもはやインチキであるか、それとも――
 刹那、パチュリーの立っている地面が唐突に爆発した。
 おそらく地中に人形を忍ばせていたのだろうが、少なくともパチュリーに感づかれない程度の深さには埋まっていたはずの人形が起こした爆発にしては、あまりに威力がありすぎた。
 いくらもやしと呼ばれても差し支えないほどパチュリーの身体が軽量であっても、その深度からの爆発によって吹き飛ばすには、並みの爆発では足りないはずだ。
――インチキ!
 できないと思っていた奇襲に対してか、底を尽かないアリスの魔力に対してか、森のどこかにいるアリスに向けてパチュリーはとりあえず胸中で非難を浴びせた。

    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 森がなくとも奇襲の手段はある。あんなものは二度通じるものでもないが、一度で十分なものでもある。
 予期していなかったであろう地中からの不意打ちにより飛ばされたパチュリーは宙を舞い、地に落ちて動かなくなった。
――……やったの?
 アリスは自問した。
 仰向けに転がるパチュリーを隠れたまま数分の間観察しつつ、アリスは乱れた呼吸を整える。前者よりもむしろ後者の方が重要であった。疲労、それを相手に悟られてはならない。
 呼吸を落ち着かせると、アリスはとうとう森から出た。
 確認する必要がある。
 罠の可能性も低いとはいえある。が、もし本当に戦闘不能になっているならば、人形を遣って追い打ちをしたりしたくない。
 アリスは最大限の注意を周囲に張り巡らせる。
 焼き払われたとはいえ降り続く雨に湿り気を取り戻しつつある土の上を、アリスはグリモワールをきゅっと抱きしめ、上空に残りの人形全てを待機させ、上海と共に徐々にパチュリーへと歩みを進めていった。
 パチュリーの数歩手前で止まり、そこからさらに数分かけてパチュリーを注意深く警戒する。
 ぴくりとも動かないパチュリーに、アリスが一歩を踏み出す――動かない。
 さらにもう一歩――やはり動かない。
 そしてもう一歩――
「っ!」
 弾かれたようにパチュリーの身体が跳ねた。
 アリスの頭がそれを認識した時には、パチュリーはアリスに向かって、ではなくアリスの抱くグリモワールに向かって飛びついてきた。
 そのまま何らかの強力な魔法を近距離で発動されていればただでは済まなかったかもしれない。呼吸を整えたことが、ここで生きた。
 敢えてほとんど相手に姿を見せず戦ってきたことは、奇襲のためもあるが、疲労を悟らせないために常に呼吸を整えるためもあった。そしてそれは、こちらの魔力や集中力があたかも無尽蔵であるかのように相手に印象付けさせるのが目的だった。
 この世の力は全て保存則によってその絶対量を文字通り保存されている。無尽蔵など望むべくもないのだ。が、そういった法則を破るインチキの手段が必ずしもないわけではない。
 マジックアイテム。
 どこぞの魔法使いが扱う八卦炉というものが、正しくそれだ。あれは術者の魔力を増幅する目的の道具。魔力を増幅するものがあれば、必要に応じて魔力を供給したり疲労を取り除いたりするようなマジックアイテムがあっても、不思議ではあるがその不思議――いわゆるインチキを可能にするのがマジックアイテムである。魔法使いや魔法遣いがそれを欲する理由は得てしてそこにある。
 実を言えば、アリスはそんなマジックアイテムの存在を知らない。だが実際に、パチュリーはアリスのグリモワールを奪おうと左腕を突き出している。単なる魔道書に、魔力供給・疲労回復などという能力を付加したものは、事実消費されている魔力と蓄積されている疲労に対してアリスが貫き通した『やせ我慢』、そして例え相手に肉薄し格闘戦を挑んだときでさえ片時も離さなかった『グリモワール』という罠に嵌ったパチュリー本人である。
 パチュリーの左手がグリモワールに到達する直前に、アリスはおもむろにそれを捨てる。
「っ!?」
 パチュリーの顔が一瞬ではあるが驚愕の色に染まる。
 アリスがこれまでの戦闘の中で作り上げた罠が作った一瞬の隙。それをもって、アリスはパチュリーの背後に回る。
 結果的にはパチュリーに避けられてしまった先のナイフの投擲。それがアリスにとっての境界だった。今や、アリスの中に殺意はない。あるのはただ、殺さずに、本気を見せずに、パチュリーを倒すことだけだ。
 至難なその行為も、隙だらけの背後を取ったならば容易なものとなる――はずだった。
 アリスがパチュリーの背に見たもの、それは――澄んだ緋色の輝きを放つ結晶。
「なっ!?」
 今度はアリスが驚愕する番だった。
 驚呼するアリスが耳にしたものは、背を向けたパチュリーの厳かな囁き。
「日符『ロイヤルフレア』」

    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 アリスの無尽蔵とも思える力、その正体として考えられたのは二つ。
 マジックアイテムによるものか、ただの演技か。
 今にして思えば簡単なことだった。
 もし本当にマジックアイテムを所持し使用しているのならば、相手にそれを悟られないようにするのが当然だろう。普段から他人にその所持を隠そうとしない霧雨魔理沙が特異なだけだ。パチュリーがその立場なら絶対に相手に見せないように使用するし、頭脳を駆使した戦術を立てるアリスについては言うまでもない。
 つまるところ、パチュリーが気付いてしまうほどに、アリスはあまりに隠そうとしなさすぎたのだ。
「騙してやろうと待ち構えている人ほど、騙し易い……といったところかしらね」
 裏の裏を画くために用いた、賢者の石。それ単体での用途は、魔力増幅と瞬間的な魔力展開の二つ。
 アリスに与えた一瞬の隙を突くため、先のロイヤルフレアでパチュリーはその後者だけを石から引き出していた。威力は要らなかった。逆に、通常でも直撃さえすれば十二分な威力を誇るロイヤルフレアを、少しばかり加減したというのが実情だった。
 倒すために放ったスペルではなかった。ただ、再び森に隠れられない程度のダメージをアリスに与えられればそれで十分だった。
 はたして実際にはかなりの魔力を消耗していたのだろう。威力を絞ったロイヤルフレアに二十メートル程離れたところまで飛ばされたアリス。立ち上がろうとするその足下は覚束ない。
「……なんで、手を抜いた」
 雨音に掻き消されそうなか細い声で、アリスが訊いてくる。それでも、上空に待機する十数体の人形たちの動きは弱々しくなっているにもかかわらず、やはり特別なのだろう、アリスの傍にいる上海人形だけは力を失っていない。
「確かに手加減したわ」
「ふざけるなっ!」パチュリーの言葉が魔法遣いとしての矜持に触れたのか、先の声音とは打って変わったアリスの怒号が夜空に木霊する。「わたしを殺そうとしたくせに!」
 パチュリーは、目に見えるはずのないアリスの声を追うように空を仰ぎ、言う。
「……わたしの目的は、貴女を倒すことではないわ」
「だったら――」
「貴女の本気を……本当の貴女に逢いたかった。ただ、それだけよ」
 犬歯を見せるアリスに、パチュリーは続ける。
「さっきの質問、そのまま貴女に返すわ。どうして、本気で戦わないの」
 パチュリーの問いに、アリスは目を背ける。そんな彼女に、パチュリーは追い打つ。
「それとも、本気で戦えないのかしら」
「そんなことっ……」
 アリスが言葉を切る。否定、しきれなかったのだ。
 降りしきる雨に言葉を浚われたのか。アリスはただ、再びパチュリーと視線を交える。
 パチュリーも、真っ向からそれに応えた。
 無言で対峙したまま、二人は見つめ合う。
 どのくらいそうしていたのだろう、しばらくして、パチュリーは不意に目元を緩めた。
「貴女が張っていた結界」
「え……」
 不意を突かれ、きょとんとした声をアリスは漏らした。
「あれに触れたとき、貴女がどういう想いであの結界を張ったのか、なんとなく分かった気がしたわ」
「…………」
 何を言い出しているのか、無言のアリスがそんな表情を浮かべる。
「そうね、あんなもの結界じゃないわ。子供が全てを跳ね除けようと振り回す小さな腕と一緒……魔女として友達に裏切られ、故郷を追われ、貴女はずっと人間のことを憎んでいたのかもしれない」
「………………」
 アリスの表情が変わった。その身に纏った空気も。
「人間への憎悪が、いつしか全てへの不信に変わったみたいね。けれど、そもそも貴女は人間のことを諦めきれていないから、物事に対して唖で聾でありきれない」
「…………くだすな」
 食い縛った歯の間から漏れるアリスの怒気が、雨に遮られることなくパチュリーの許まで届く。だが、パチュリーはやめない。
「他者を遠ざけるなら、ここで孤独に暮らしていればいい。けれど貴女は森を出て、湖で氷精と出会い、紅魔館の結界を破り、門番と戦闘までした。上辺では独りであろうとするのに、本心は他者との接点を求めてる」
「……みくだすな」
「過去を引きずることを責めることはできない。けれど、貴女は排斥される苦しみを知っているはずなのに、他者に対して排他的になろうとしてる貴女は、結局進んで他者から自分を排斥している。悪を為さず? 求めるところは少なく? 孤独に歩む? そんな生き方のどこが楽しいのよっ!」
 パチュリーは語気を荒らげた。
 もしかしたら自分は怒りを感じているのかもしれない。目の前のアリスに、昔の自分の姿を重ねて。
「わたしを見下すなぁ!」
 アリスもとうとう感情を剥き出した。言葉では頑なに拒もうとしても、彼女の持つ純粋な怒りや悲しみ、そして憎しみが彼女の全てから溢れ出している。
「貴女も分かっているはずでしょう!? 他者を遠ざけ、他者と笑い合うこともせず、陰から見つめる者にとって、この世界――この幻想郷は眩すぎる!」
「っ――上海っ!」
 それまでずっと身体から離れたところで操っていた人形を、アリスは自分の許へと呼び寄せた。それに合わせ、彼女が手にした上海人形以外の人形は、それこそ糸を断たれた操り人形のように地面へと落ちていく。それが何を意味するのか、パチュリーには咄嗟に予想がついた。
 それまで遠隔操作で魔力を送り続けていた人形に、今は直接魔力を注ぎ込んでいるのだ。それも、他の人形を捨て、たった一体の人形――彼女の中で最も大切な上海人形に。
 魔法遣いが媒介として用いる道具は、単なる無機質な物として片付かない。深浅あるにせよそこに思い入れがあるだけで、媒介としての機能は大きく変化する。
 アリスにとっての上海人形は、客観的に見ればそれ以上ないほどのマジックアイテムなのである。
 まさに渾身の一撃を放たんとばかりに上海に魔力を注ぐアリスを見て、パチュリーは小さく呟く。
「意地っ張り……でも、だからこそわたしは貴女と……」
 懐を手で探りつつ、パチュリーはレミリアの言葉を思い出す。
『やらずに後悔するとか、やって後悔するとか、そんな考えを持ってはいけないわ。誰にも、私にさえリアルな結末なんて分からない。ただ彼女を救いたいという気持ちだけで、十分なはず』
――ありがとう、レミィ。
 心中で親友に礼を言うと、パチュリーは右腕を高らかと天に掲げる。
――手は……動く。だったら撃てるっ!
 パチュリーの右腕――その手の先には、大切な友人から託された、夜の王だけが持ち得るカードが掲げられている。
 カードの使い方は至ってシンプルだ。そのカードの内容を認識し、力を込めるだけでいい。
 パチュリーの傷口から流れ出ている血が、彼女の右手に蒐まる。
 蒐められた血は、やがて一振りの真紅の槍へと姿を変えた。
 それに合わせ、パチュリーは残り少ない魔力が急激にその槍に吸われるのを、またこれが最後のスペルになることを自覚する。
――まあ、ベストコンディションだったとしても、二発も撃てるかどうか分からないし。この残りカスの魔力で一発撃てるだけでも僥倖ね。
 魔力の負担もさることながら、これほどの魔法ともなれば当然発動までに相応の時間もかかるわけで。
パチュリーの準備が整うより早く、アリスが上海をパチュリーに向けて突き出していた。
「消し飛べぇ!」
 上海を媒介として放たれた光の奔流は、威圧感も威烈も霧雨魔理沙の放つそれに似ていた。その光には、おそらくはアリスのありったけの魔力が注がれているはずだ。そうでなければ、本当にインチキだ。
 しかし、そんなことは関係ない。
 速いとか、強いとか、逃げられないとか、そんなものはもはや意味を為さない。
 今パチュリーの手にあるそれは、地上最強の種族である吸血鬼の力。
 パチュリーにとっては唯一無二の友達の力。
 孤独に歩もうとする今のアリスのどんな攻撃にも、屈するはずがない。
 血と魔力で形成されたその槍を、パチュリーは振りかぶった。
――これはバトンよ、アリス。レミィからわたしへ、わたしから貴女へ。
 魔力的にも肉体的にも、最後の力を振り絞り、パチュリーは宣言する。
「魔槍『スピア・ザ・グングニル』っ!」

    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 心なしか小降りになったように、アリスは全身で感じていた。
 視界が真紅に染まった次の瞬間、気付くと、アリスは夜空の雨雲と向き合っていた。
 こんなに見晴らしが良いのに、辺りは真っ暗で、光なんてどこにもない。
 頼りの月も、雲の向こうに姿を隠している。まるで、先刻までの自分のように。
「わたしの力を真っ向から否定してきて……さっきの、なに」
 身を隠す月のかわりに彼女を見つめているパチュリー・ノーレッジに、アリスは無感情に訊いた。
「あれはね」優しい声音で、パチュリーが答える。「吸血鬼の友達から借りたスペルよ。普通の魔法遣いには過ぎた代物ね……それはそうと、はい」
 言いつつ、彼女が差し出してきたもの、それは――
「……上海……」
 上海人形。アリスの、一番大切な人形だった。
「大切な人形なんでしょう?」
「…………」
 大切な、いつも傍にいて、片時も忘れたことのない人形。
 黙したまま、アリスは上海を受け取った。
 アリスは仰向けのまま、両手で上海を頭上にかざす。
「わたし、初めて本気で戦ったわ」
 自分の本気を見せたのだ。目的を遂げたパチュリーは自分を殺そうとするのか、それともこのまま立ち去ってしまうのか。
 そんなことを考える自分がひどく虚しく感じられて、アリスはもうどうでもよくなった。
「うん」
 パチュリーは予想外にも、アリスの投げやりな言葉に応えてくれた。だからだろうかアリスは、今度は本心をしっかりと言葉にしてみることにした。
「魔力を使い果たしたから、しばらくはこの子を動かしてあげられない」
「うん」
「この子を動かしたい。傷つけるためじゃなくて、誰かと楽しむために」
 言葉にして、アリスは気付く。その気持ちは、今初めて抱いたものではなかった。もっと昔、そう――
「……こんなこと思ったの、人形を動かせなかった子供の頃以来よ」
 目に涙が溜まり、次第にそれは頬を伝って零れ落ちてゆく。
「人形なんて、動かせなくてよかったのにって思ってた。そうすれば……そうすれば、魔女狩りになんて遭わなくてすんだのに、って。友達も、たくさんできたはずなのにって」
 肩を震わせ、声を震わせ。パチュリーの前で、アリスは流れ出る本心を止められなかった。彼女に聞いて欲しかった。
 長い間、アリスは独りで生きてきた。それは誰にも頼らなかったということ。誰にも頼れなかったということ。
 誰かに頼るのが怖かった。頼って、突き放されるのが怖かった。
 でも今日初めて出逢ったはずのこの人は、パチュリーは、アリスのそんな恐怖を払拭するように応えてくれる。
「人形を動かすこと、魔法遣いにとって簡単なことではあるけれど、貴女ほどの技術を手にしている者なんて、幻想郷に二人といないでしょうね。貴女は誇っていい。それが、貴女の母親から授かった力なら、なおさら」
 褒めて、くれている。
 チルノに言われたときには、違和感しかなかったはずなのに。
 初めての感覚だった。どこかむず痒い感覚を覚える。これが、嬉しいという気持ちなのだろうか。
「……そうかな」
「ええ、そうよ」
「お母さん……………………褒めて、くれるかな」
 褒めてもらいたい。
 決して褒められないことを上海にさせてきたのに。
 でも褒めてもらいたい。
 駄目かな。
 こんなわたしでも、お母さん、褒めてくるかな、パチュリー。
「ええ、きっとね」
 これまで区別できなかった、頬を伝う雨と涙とが、どういうわけか今ははっきりと区別できた。

    ◇ ◆ ◇ ◆ ◇ ◆

 夜空を仰ぎ、パチュリーは静かに待った。
 薄情な月は雲の向こうに隠れてしまっている。
――けれど、わたしが貴女を視てるから。
 しばらくして、上海を抱くアリスの嗚咽が治まった。
 彼女を真っ直ぐに見つめ、パチュリーは言いかける。
「外がどうなのかは知らないけれど、ここは、幻想郷は、ここの者たちは、全てを受け入れる」
 今宵、自分がアリスにしたことを忘れたわけではない。
「……」
「けれど、わたしはここにいるからという理由じゃなく、貴女を受け入れる」
 先の戦闘で忘れかけていた罪悪感が、大挙してパチュリーの心を踏みつけていた。
「だから、貴女もわたしを受け入れて。本当はここに来るよりも前、わたしの結界を越えて門番と戦う貴女に出会ったときから、ずっと言いたかった」
「え……」
 けれど、これだけは言いたかった。
 これを言いたいがために、今自分はここにいるのだから。
 これを言うためだけに、アリスの心に土足で踏み込んだのだから。
 パチュリーはアリスにばれないように深呼吸してから、アリスに手を差し出し、ようやく口にする。
「お友達になりましょう、アリス」








 アリスは返事をくれなかった。
 当然と言えば当然だった。アリスの本心を引き出すためのきっかけがあれでは……
――単にあの子の心を掻き乱しただけの結果になった、か……。
 あれしか方法が思いつかなかった。結果を恐れていないわけではなかった。ただ考えないようにしていただけ。自分は無知の皮を被った無能だったということを、パチュリーは罪悪感と、数日前に受けた右手の傷の痛みの中で自認していた。
――御大層な言葉を並べて……結局、我慢できなかったのね。昔の、レミィと出逢う前の自分を見ているようで。
「こほっ……」
 塞ぎこむパチュリーを嘲笑うかのように、喘息の野郎が暴れ出す。
 図書館のいつもの席でパチュリーが咳き込んでいると、紅と金とで彩色されたサルバーを携えた咲夜が入ってきた。
「喘息のご機嫌はあまり麗しくないようですね、パチュリー様」
「こほっ、こほっ……嫌味ね」
 パチュリーは半眼で咲夜を睥睨した。
 彼女の淹れる紅茶は、いつでも大歓迎ではあるが。
「嫌味には、二種類あるのですよ、パチュリー様」ポットからカップへと、心持紅味がかった紅茶を注ぎつつ、咲夜は言う。「相手を困らせようとする嫌味と、相手を虐めようとする嫌味です」
「どっちも同じじゃない」
 パチュリーは両手で抱えるようにして開いていた分厚い本を閉じた。
「いいえ違います。前者は、困った相手の様子を見て悦ぶことを目的としたものです。と、それはそれとして、まずは喉の方を潤してください」
 言ってから、咲夜は白い陶器のカップをパチュリーの前へと静かに置いた。
「ありがと」何はともあれ、パチュリーはカップを手に取り、その縁を小さな唇へと運んだ。「……あら。いつもと違う葉なのね、さく――」
 咲夜を振り返ろうとして、パチュリーはふと気づいた。
 今の今までカップを持っていたはずの手には、小さな便箋が握られていた。
「再びそれはそれとして、その差出人不明パチュリー・ノーレッジ様宛のお手紙を読んでくださいますか」
 パチュリーの横から、咲夜が言う。
「……」
 まったくもって無駄無駄な演出と能力の使い方だ。
――ま、その能力とお節介な性格のおかげで、命拾いしたんだけどね。
 咲夜自身が知らん振りを決め込んでいるため、パチュリーはそのことに言及していなかった。それよりもこの手紙とやらが気になり、片手の使えないパチュリーは咲夜に封を切ってもらう。
 誰にも見られないように隠して見るその便箋には、流れるような字で記された数行の文があった。



 先日は、酷い怪我をさせてしまってごめんなさい。
 お詫び(といってもしきれないけれど)の印を、門番の人に預けておきます。
 ちゃんと貴女のところまで届けばいいのだけど……私の故郷で、咳によいと言われている茶葉です。わたしが育てていたものだから口には合わないかもしれないけれど、よかったらどうぞ。

    追伸:今度、雨宿りに立ち寄らせてもらってもいいかしら?
                                   』


 パチュリーは手紙を折り目どおりに綺麗に畳んで、咳に効くという紅茶をもう一口啜った。
「……なによ、美味しいじゃない」
 ふっと、頬の力が緩むのをパチュリーは感じていた。
「ええ、そのようですね。毒見のために門番に試飲させたのを悔やみます」
 今日に限って、あの門番は美味しい役に預かったらしい。こうして無事に彼女からの贈り物が自分の手元まで届いたことに、パチュリーは安堵し、再度頬を緩めた。
「そういえば、お嬢様から言伝があったのを思い出しましたわ」
 さも今思い出しましたわと言わんばかりに――というかそう言って、咲夜が嫌味な笑みを浮かべた。レミリアのそれを彷彿とさせる笑みで、咲夜は口を開く。
「『素敵なガールフレンドができた様ね。今度わたしにも紹介しなさい』とのことです。ちなみにこの場合のお嬢様のお言葉は、先刻の前者だと思いますわ」
「むきゅぅ……」
 緩んだ頬に、贈り物の紅茶よりも紅い紅葉を散らしたパチュリーの顔を、咲夜は面白そうに覗きこんでくる。
「…………咲夜」
「はい」
 小さな両手で顔を覆って、その隙間からパチュリーは言う。
「あなた、意地悪ね」
「はい――あ、いえ、さっきのはレミリアお嬢様のお言葉で――」
「罰として、ちょっとお使いに行ってきなさい」
「わたしは拠所ない用事がありますので、小悪魔に行かせてはどうですか?」
「なによ、用事って」
「お嬢様の命で、困ったパチュリー様のお顔をしかとこの目に焼き付けなければなりません」
「あんたが見たいだけでしょーう!?」
「冗談ですよ」
 ご満悦の様子でしれっと言う咲夜。どうしてこの娘はレミリア以外の人間にはサドっ気が激しいのだろうかと、なんの準備運動もせずに大声を出したためにこみ上げた咳に悶えつつパチュリーは考えた。
「それで、どんなお使いですか?」
 パチュリーが落ち着くのを待ってから、咲夜が聞いてきた。
 パチュリーはもう一呼吸置いてから、カップを手に取った。 
「魔法の森まで……彼女を迎えに行って頂戴」
「でも、外は雨が降ってますよ」
 雨の中お使いに出されることが嫌というわけではなく、わざわざこんな雨の日に客人を招くこともあるまいと、咲夜は言ってきたのだ。
「だからこそ行ってもらいたいのよ」
「はぁ……それでは、行って参ります」
 納得のいかない面持ちを残したまま、咲夜は図書館を後にした。 
「……」
 パチュリーは無言で頭上を見上げた。
 遥か頭上で本棚の整理のため飛び回っている小悪魔を視界に捕らえつつ、パチュリーは自分の頬に手を触れ、思う。
 アリスが雨宿りに来るまでに、この紅潮が治まればいいな、と。
初めまして、alfieriという者です。
こちらに投稿するのも、東方の二次創作を書くのも初めてだったりしますが、よろしくお願いいたします。

内容は、今ちょうど梅雨なので梅雨のお話に……なってませんね;
なんにせよ、嫁であるアリスのくらーいお話であることに違いはないかとw


全部読んで下さった方、お疲れ様でしたm(_ _)m
お疲れついでに感想など残して下されば、単純に嬉しいですww


***追記***
さすがに読みづらいので、文頭のスペースをチェックしました。漏らしがあったらすいません
alfieri
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コメント



0.2410簡易評価
1.80名前が無い程度の能力削除
おお いいパチュアリ。
途中オリジナル設定が混じりましたがいい話だったと思います
2.100りゅの人削除
初投稿とは思えない文体……

パルパルします……

パチュアリ仲間だ……、友人に「パチュアリは異端」って言われるけどそんなことないよね!?
ジャスティスだよね!?

美味しいパチュアリご馳走様です。。。
3.10名前が無い程度の能力削除
美鈴が声だけで(字ではなく)名乗っている時点で、アリスがくれないみすずさんって切り返している意味がよくわかりませんでした。
9.100名前が無い程度の能力削除
よかった、最高でした。
こういった話は逆のパターンが多いのですが、パチュリーが行動する側というのも
なかなか新鮮ですね。
そしてバトル描写。直接的な動きは少ないですが、心理描写とでもいうんでしょうか、
とても面白く、また熱かったです。

すごく個人的なことなんですが、グングニルを放った後の行間がもうちょっと欲しかったなーと思ったり。

くれないみすずは、ちょっと滑ったかなw
11.100名前が無い程度の能力削除
パチェさん可愛いよパチェさん
この後とんとん拍子に仲が進んで一緒にパジャマパーティーをするパチェさんとアリスが幻視出来る
12.70名前が無い程度の能力削除
とても良かったです。
パチュリーにグングニル使わせるのは凄まじく相性が悪いのでは、とか色々と思うところはありますけれど。
些事ですが、段落の頭は一文字分空けるか空けないかのどちらかに統一した方がいいと思います。
お疲れ様でした。
13.無評価alfieri削除
感想ありがとうございます~w

パチュアリ同士がいてこれほど嬉しいと思ったことはないwwwパチュアリは正義ですジャスティスですw

>グングニルの後の行間
考えなかったわけではないのですが、まあいっか、と;

>文頭のスペース
wordで書いたんですが、どういうわけかところどころ文頭のスペースがロマキャンされるんですよね……word2003の唯一の欠点です
14.無評価alfieri削除
すいません追記です

>美鈴が声だけで(字ではなく)名乗っている時点で、アリスがくれないみすずさんって切り返している意味
ドラマCDやアニメとは違う活字媒体特有の切り返しだとして深く考えないでください……
17.100名前が無い程度の能力削除
これは良いものだ
23.100名前が無い程度の能力削除
余りの感動の言葉がでない。
27.100名前が無い程度の能力削除
後半でパチュリーがアリスに拘る理由が明かされるとは言え、
前半のパチュリーの唐突な動きに少し違和感がありました
…が、オリジナルに富んだ設定にも関わらずここまで違和感なくさらりと読めたのが素晴らしかったです。
29.100名前が無い程度の能力削除
今私の書いてるものと少し似ていたのでちょっとドキッとしながらもワクワクしながら読ませていただきました。
アリスは何しろああいう考察がされてるキャラですからどうしても過去話になると暗く悲しいものになってしまうんですよね。
少し急ぎすぎたようにも感じましたが、とても良いパチュアリで素晴らしかったです。
次回作も楽しみにしていますね。
30.100名前が無い程度の能力削除
くれないみすずはアリスがわかっててからかってるようにすれば良いのではないかと
33.80名前が無い程度の能力削除
この文章にこれからさらに研きがかかるというのか
39.30名前が無い程度の能力削除
あれ、アリスってこんな設定だったっけ?

パチェがアリスを想う(執着する)過程が少し安直に感じた。
一目惚れレベルと言っても過言ではないぐらい。
たぶん作者氏の中でパチェはアリスを想ってるもの、との結論
有り気だったので、その辺り薄くなったのかもしれないけど。
その辺もう少し練り込んで欲しかったかな?
46.100奇声を発する程度の能力削除
凄い良かったです!!!!!

できれば続きをお願いします!!
55.100名前が無い程度の能力削除
こんな素敵なカリスマのあるお嬢様も珍しい気がします。
アリスも設定が曖昧不定な割に過去話は魔界ばかりで下界時代を含めたものは珍しいですね。
魔女組でこんな話も作れるんだなぁ、凄いです。パチュアリ、勿論大好きです。
続きやパチュリーにスポット当てたものとか読みたいなぁとか勝手に提案して失礼します。
58.20名前が無い程度の能力削除
ニコポの上にアリスtueeというのはさすがにちょっと……このパチュリー、自力じゃまるで相手になってませんしね。
いつの間にかナイフ使いになってるアリスや強さ云々で出てくる技術や知識についてもさっぱり解説がない。
パチュリーの心中の動きも多いわりにアリスにこだわる理由である過去描写がほぼない。
ストーリーにキャラを無理に押し込めたような印象を受けました。
63.70名前が無い程度の能力削除
↑つーか、ナイフ使っただけでナイフ使いとか言うお前の思考原理こそどうなのよ
つか東方については、強さ云々なんて人それぞれで考え方が違うだろうよ。他人にてめーの価値観押し付けんのはやめろ
65.100名前が無い程度の能力削除
パチュアリバチュ最高です!
70.70名前が無い程度の能力削除
アリスが損な役回りにされやしないかとビクビクしてましたが、手紙のところで安心しました。
74.90名前が無い程度の能力削除
みんないろいろ意見あるけどこれだけかければすごい
77.90名前が無い程度の能力削除
文章力がぱねぇ。他の方も言ってるけどパチェがアリスに惹かれてく
過程をもっと細かく描いてほしかったかも。
とはいえ、面白いものを読ませていただいて感謝。パチュアリ万歳!
80.90名前が無い程度の能力削除
ここからこの二人がどんな関係になるのか・・・このアリスは一度好意を抱いてしまったら後は深みにはまる一方な気がして妄想が捗ります。