※ このお話は百合です。すなわち女性が女性に対して恋愛感情を抱く事について、作中で何ら特別な説明がなされていない事をご了承ください。
「――でさあ、……ねぇパルスィ、聞いてる?」
「うんうん、聞いてるから。だから、もうちょっとテンション落としてくれると嬉しい。頭に響くのよ」
地上と地底を結ぶ縦穴は構造的に声を乱反射させるらしく、目の前でくっちゃべり続ける土蜘蛛の声はやたらめったら喧しく響き渡り、私の鼓膜を容赦なく叩いていた。
「あー、ごめんごめん。……えーと、どこまで話したっけ、ああそうそう、それでさぁ……」
しかめられた私の眉間に、彼女はほんの少し声のトーンを落として会話を再開する。刺激が柔らかくなって、私のとんがった耳が安心したようにほんの少し垂れた。話の内容はほんの取り留めもない雑談だ。
結構な時間喋り続けているというのに、よく話題が尽きないものだと思う。彼女は根っからの話好きなのだ。
そういや昔からこいつはそうだったなぁと、そんな事を思い出しつつ、話せることなんてない私は適当にうんうん相槌を打って聞き役に徹していた。
時折風が吹く。快活に響く彼女の声には、どこまでも似合っていない冷たく寂しい風だ。
あくまで上と下を結ぶ通過点に過ぎないのがここだから、一帯の景色は酷く殺風景で、人影なんて私と彼女の二人だけ。
いつも思うのだけど、わざわざこんな詰まらない所に足を運ぶなんて、こいつは全く以って物好きだなぁ。
黒谷ヤマメ。私の数少ないというか、唯一の友人である。
昔を振り返ると、物心付いた頃には、すでにこいつと何やら喋ってた気がする。
出会いの記憶は昔過ぎて曖昧だけど、多分、私たちが地底に潜るもっと昔というのは、土蜘蛛にしろ橋姫にしろ周りからの扱いが本当に苛烈だったから、こうやって嫌われ者同士つるむしかなかったのだろう。
とは言え、そんな嫌われ者の妖怪たちが集まり、地底に新たな文化を築いた頃になると、私と彼女の日常というのはまったく別のものになってしまう。
元々社交性に溢れていたヤマメは地底の生活にすぐ馴染んだ。交友関係も広い。人気者ってやつだ。
一方の私は、あいつみたいに器用には振舞えなかった。地底に下りてからも捻くれた生来の性格のままずっと通してきたものだから、必然一人でいる時間が多くなる。
思えば、この縦穴の番人なんて役職は殆ど押し付けられたようなものだ。
守護神なんて肩書きの響きはいいけど、実際は誰もやりたがらない閑職である。
だから、地底の人々に溶け込めず、浮いていた私にこの仕事が回ってきたのだろう。
……まあ、別に構いはしないんだけど。納得はしている。どこでも好かれない捻くれ者の橋姫にはお似合いの仕事だ。
都の賑やかな空気は苦手だし、こういう殆ど誰も来ない静かな場所で、一人毎日を送るほうが私の性には合っている。
そんな事を色々考えていると、腹の中で何か黒いものがふつふつと沸き出すのだけど、いつもの事だ。特段気にするほどのことじゃない。
目の前でヤマメは相変わらず楽しそうに舌をフル回転させていた。
あー、幸せそうな顔してるなぁ。妬ましい。どうせこいつにとっちゃ、私の事は可哀想な奴なんだろうなぁ。
「ん? パルスィ? 何か難しい顔してるけど、どうかした?」
「あ……いや。なんでもない」
無意識に舌打ちしそうになったのを押し止め、私は改めてヤマメの表情を窺う。
純粋に心配してくれている。そんな顔だった。
……分かってるよ。長い付き合いだから私が一番よく分かってる。こいつは私と違って単純に性格がいいんだ。
明るくて、笑顔が素敵で。ちょっと言葉を交わせば誰だって友達になりたくなる、そんな女。
人気者とか呼ばれるのはそれ相応の理由があるわけだ。
まったく、それに比べて私はどうだ。こんな寂しいところの番人なんかに甘んじている私は。
まあ、原因なら分かってる。口を開けば棘が吐き出され、心の中でも常に毒づいていて、目を合わせれば敵意に満ちた瞳が睨み返す。
誰がそんな話していて不快にしかならない相手と付き合いたいと思うだろう。私なら勘弁だ。
そう考えるとこのヤマメって女は本当に人がいい。昔契った友情を律儀にも履行して、私なんかに話しかけてくれるのだから。ありがたいことなんだろう。
たとえそれが本来の目的までの時間つぶしであってもだ。
「……ねえヤマメ。そろそろ行かなくていいの?」
「ん? ああ、もうそういう時間か」
ポケットより懐中時計を取り出し覗き込む彼女の頬で、うっすらと乗せられた化粧が艶めきを放っている。
「今日は? この前とおんなじ相手?」
「いんや、私は恋多き女だからねぇ」
くすくすと笑うヤマメを、私は胡乱な瞳で見つめていた。
こいつに何か欠点があるとすれば、それはきっと手が早いことだろう。
とっかえとっかえ、しょっちゅう誰かとデートしている。
しかし、それも裏を返せばこいつが人気者である証明なんだと思う。基本的に土蜘蛛はもてる種族じゃない。病気移されると困るし。
一見能天気そうな外観だけど、その実こいつは凄く人目に気を使っている事を私は知っている。
好かれるよう好かれるよう、服装やら言葉使いやら身振りを繕っているのだ。それこそ涙ぐましいまでに。
それがこいつにとって価値あることだって事は理解している。そして、その結果こいつの今の充実がある事も知っている。
でも正直私からすれば馬鹿らしい努力に見えてしまうのも確かなのだ。魅力的なこいつを素直に認められない我が捻くれ者の心根のせいである。
それが、ポロリと私の口をこじ開けた。
「飽きないわねぇ。そんなに楽しいの? デートって? 時間の無駄でしょ?
私には理解できないわ。相手と自分の相容れない部分がはっきり見えちゃって、妬ましくなっちゃうだけじゃないの?」
ついつい悪意のこもった声色になってしまう。きっと表情も相当嫌味ったらしくなってるはずだ。
でもヤマメはむっとすることもなく、笑顔のままで静かに答えた。
「パルスィもやってみなよ。そしたら、きっと分かるわ。恋愛してみるっていい事なのよ」
私の悪意はさらりと受け流されてしまった。分かってる。経験が違う。口じゃあ絶対に勝てないのだ、こいつには。
「ほら、パルスィもさ、たまにはお洒落して街にでも繰り出しなよ。素材はいいんだし、絶対もてるって。
こんなところでずっと座ってても、出会いなんてないよ」
ほら、逆襲された。押し付けがましい笑みは絶対わざとだ。
ちょっぴりイラっとしたけど、でも、こいつが色恋がらみで何か言うと、それには何だか不思議な説得力と迫力が伴っていて、だから私は何も言い返せなくて、むーと唸るしかないのだ。
「おっ、もう行かないと待ち合わせに遅れちゃう。
じゃあ行ってくるね。パルスィも次会うときまでに恋人の一人でも作っときなよ」
随分な捨て台詞だと思う。るんるんと足取り軽く逢瀬の場へ向かうヤマメの後姿を眺めつつ、私は一つ溜め息をついたのだった。
◆ ◆ ◆
その日の午後、私は久方ぶりに旧都の繁華街へ足を踏み入れた。
ヤマメの言葉に感化された訳じゃない。そのつもりでいる。そうだとしたなら何だか癪だし。
大通りの雑踏を俯き加減でゆっくり歩いていく。
分かりきっていたことだけど、旧都は今日も賑やかさで満ちていた。少しがっかりする。
私は最高に冴えない表情でひとりごちった。
「……やっぱり、来るのやめとけばよかったかも」
行きかう沢山の人々。店先に並ぶ商品の色んな色彩。すれ違ったカップルの幸せそうな笑顔。
全部不愉快だ。
あんまり人が多い場所は好きじゃない。五月蠅いし、渦巻く正の感情が目の毒で、酷く妬ましい。
逃げるように大通りから脇道に入った。途端ざわめきが消え失せる。
大通りの華やかさとは打って変わった、埃っぽく寂れた空気。でも妙に安心した心持ちになった。
何か目的があって入ったこの道じゃないけど、でも私にとっては大通りよりもこんな寂しい道のほうがずっと落ち着けるのだ。
野良猫ですら滅多に通らないような灰色の小道を、かつかつと靴を鳴らして突き進んでみる。
道路の脇にちょこんと置かれた何かが、ふと視界の端に入ったのは丁度そんな時だった。顔を向ける。
錆くれ、煤けたブリキの看板。
記されてあったであろう店名は、すっかりかすれてしまって碌に読めやしない。辛うじて認識できたのは『BAR』のアルファベットだけだ。
視線を正面に向けると、やはりおんぼろで装飾の欠片もない片開きの扉。そのノブに『OPEN』と書かれた小さな札が架けられているのを見つけて、私はようやくここが飲み屋であるらしい事に気付いたのだ。
客に入ってもらおうって意欲が全然感じられない店先。
でも、それがかえって私にとっては魅力的に思えた。
このままブラブラしても楽しい事なんてきっとないし、ならこういう寂れて誰も来ないような飲み屋で静かにアルコールを嗜む方がいい。
ノブを捻りドアを開ける。来客を知らせる鐘の音がカランカランと静寂な店内に響いた。
「いらっしゃいませ」
思っていたより中は綺麗だった。地味な事は地味だが貧乏臭いわけではない。時代を感じる趣味のいい落ち着いたつくりだ。シックなランプシェードが仄明るく店内をオレンジ色に照らしていた。
予想通りというべきか、カウンターに客は一人もいない。そんな中で、店主らしい老バーテンダーがこちらに向かって静かに頭を下げている。
堂に入ったお辞儀だった。手の甲の深い皺は、きっとこの店の歴史と共に一本一本刻まれてきたものなんだろうと、何と無くそんな感慨を覚えながら適当な席に座る。
「なんでもいい。強いのロックで頂戴」
「畏まりました」
老店主は慣れた手つきで棚にずらりと並んだ酒瓶より一本を手に取ると、中の琥珀色の液体をグラスに注いだ。浮かんだアイスボールがひび割れてカキンと音を立てた。
「お待たせしました」
「ん……どうも」
年季を感じさせる木製のカウンターの上に置かれたそれを、私はこくりと一口含む。
甘いのか苦いのか。ウィスキー独特の風味と言うしかないのだろうけど、私はこの味が好きだ。
特別アルコールに強い私じゃないけど、好きなのは度数の高い酒だった。
あんまり幸せを感じた事のない生涯だから、すぐに酔っ払えるのが好都合だったのかもしれない。そんな事を考えながら、チビチビとグラスを傾ける。
聞こえるのはガラスと氷が当たる硬質な音だけだ。老店主は穏やかな笑みを浮かべ静かに畏まっている。余計な事を聞いてこないのは、好感を持った。
ゆったりと時間が流れ、体の隅々にアルコールが行き渡る。
ぽかぽかとなんだか体があったかくて、思考がトロンとしてくる。グラスに映った私の顔を覗き込むと、力の抜けた気持ちよさそうな顔をしていた。
なるほど、上機嫌らしい。
随分と久しぶりに見た表情な気がする。ふむ、どうやら今日は珍しく満足できる一日になりそうだ。
くいっと何杯目かのグラスを空にする。タイミングを同じくして、カランカランと鈴が鳴った。扉が開いたのが分かった。
「お、珍しいねぇ。私の他に客がいるなんて」
貸切状態で気持ちよく飲んでいたのを邪魔されて、思わず舌打ちが出る。苛立ちが生じるのを感じつつ、私は老店主がぺこりと頭を下げたその先を横目で窺った。
背の高い女だった。長く伸ばした金髪。堂々と胸を張り立つその肉体は、服の上からでも十分分かるほどの生命力に溢れている。
頭には紅く輝く立派な一本角。それで私は悟る。ああ、なるほど、こいつは鬼か。
傲慢で乱痴気騒ぎが大好きな種族だ。正直好きじゃない。
不機嫌のせいで細められた瞳が彼女の顔を視界が捉える。力強く自信に満ちた彼女の目と私の目が合った。彼女がにやりと笑った。
「どうだい? いい店だろ?」
彼女は私に向かってそんな言葉を溌剌と言い放つと、躊躇う事もなく、私の隣の席の椅子を引き、そこに座った。
席は他にもあるのだから、わざわざこの席を選ぶ事も無いと思うのだけれど……ああ、しまったなぁ。どうやら絡まれてしまったらしい。
「マスター。いつものくれ」
老店主に注文を伝えた彼女の視線は、まっすぐ私に向けられている。それにしてもこいつの声、大きいな。
にっかり笑う彼女の口が開く。
「同族よ、名前は?」
「同族って……私と貴方は同じじゃないわ」
「あんた橋姫だろ、なら大体同じだ」
「まあ、図鑑的な分類ならそうなるんだろうけどね」
どうも気に喰わない感じがする。敵意を含んだ私の瞳に果たして彼女は気付いているだろうか?
確かに彼女が言ったように橋姫も鬼の一種ではあるのだろうけど、私の感覚では全く違う生物だ。一緒にして欲しくない。
だいたい、名乗らなくても、己が種が鬼だって事を私が理解してるだろうって口ぶり。その驕りが気に入らない。
まあ、ともかく彼女には私がこれ以上の言葉を交わす事を拒絶していると悟ってもらって、別の席でひとり飲んでもらうのがいい。
そのせいで、私が偏屈な奴だと嫌われても、どうでもいい事だ。
表情を窺うと、彼女はきょとんとした様な色を瞳に浮かべていた。
「ああ、なるほど……」
思案が終わったらしい彼女が静かに口を開く。このままサヨナラの言葉を続けてくれればいい。
「……そうか分かった! そういえば人に名前を訊ねるときは自分から名乗るのが礼儀だったな。
これはうっかりしてた。すまなかったね。私は星熊勇儀。種族はこの角を見て分かる通り鬼だ」
テンションとボリュームが一気に跳ね上がった声が店内に響いた。
私を辟易させるのに十分な声量である。しかし、返ってきた言葉があんまりにも私の予想の斜め上を行くものだったので、私はついつい拍子抜けしてしまったようだ。
どうもこの女は何かずれている。でもひたすらに善良だ、私の敵意を碌にそれと認識できないほどに。
その潔いまでの善良さにつられて、思わず私は口を開いてしまう。
「……水橋パルスィ」
「パルスィって言うのか、いい名前だな」
私より自己紹介を引き出して、彼女は満足そうににっかり笑った。なんとなく子供みたいな笑顔だと思った。
老店主が彼女の前にウィスキーの注がれたグラスを置く。彼の手によって私の前にも新しいグラスが置かれた。
訝しげにそれを見つめる私に、勇儀が楽しげに笑いながら言う。
「奢るよ。さっきの非礼を詫びるのと、お近づきの印だ」
「そんなのいいって、見ず知らずの相手に酒を驕る金があるなら、その分自分自身で楽しむべきだわ」
「ははは、遠慮することはない。こう見えて私の懐は結構あったかいんだぞ。
よし、じゃあこうしよう。今日パルスィが飲んだ分は全部私が持つ。さあ好きなだけ飲むといい」
何だか色々と調子がずれる。
私は体全体であっち行けってオーラを振り撒いてるはずなのに、この女ときたら、そんな空気を一切読まず、善意の押し付けをしてくるのだ。
ああ、そうだよなぁ。納得する。だって彼女は鬼だもん。
まっすぐ過ぎるのと、生来の強引さのせいで、自分の行動をちょっと振り返って疑問を持つ事とかが出来ないのだろう。
その瞳は期待しているのか、やたらとキラキラ輝いていた。
どうやら解放はしてくれそうにないと、私は仕方なく彼女の奢るウィスキーに口をつけてやる。いくらか上等な酒の味がした。
「よかった。気に入ってくれたみたいだな」
まだ私が何も言わないというのに、彼女は溢れ出しそうな嬉しさを顔に貼り付けている。
果たして私のどこを見て、さっきみたいな台詞が飛び出したのか。
いや、確かに内心好きな感じの味だと思ったりはした。でもこいつは覚りみたく心を読む能力なんて持っているはずないし、ずっと不機嫌を保っていた私の表情から感情を読み取るなんて芸当も出来るとは思えない。
つまり、こいつは私がこれを手に付けたその瞬間より、必ず気に入ると決め付けてかかっているわけだ。
ああ。鬼らしい思い上がりだなぁ。
釈然としない思いは大きい。でもその事をこいつに伝えても、きっと伝わることはないんだろう。だって彼女は鬼だもん。世界でもっとも独りよがりな生物だ。
仕方ないから諦める事にしよう。一々気にしたら疲れきってしまう。
だから今は不本意ではあるけど、こいつの押し付けてくる善意に甘えてたっぷり奢って貰う事にする。
ごくごくと一気にグラスを空けた私は、それをぐっと前に突き出した。もう一杯よこせという催促だ。
「おー、いい飲みっぷりだ。マスター注いでやってくれ」
勇儀は感心したように手を叩いている。
いつの間にか彼女のグラスも空になっていた。老店主が二つ並ぶグラスへ瓶を傾けた。
「しっかし、よく見つけたねぇ」
今度はじっくりと味わいつつ私と彼女はウィスキーをチビチビやる。
「見てのとおり、ここが酒場なんて見当もつかないような店構えだっただろ。
今日はどういう訳か看板なんか出てたが、基本的にはいつも商売っ気なんてゼロだ。殆ど趣味でやっているのさ」
勇儀が話しかけてくる。私は適当に相槌を打つ。老店主は穏やかに微笑んでいた。
「私とマスターは古い付き合いでね。だからこっそり場所を教えてもらったんだ。
騒がしいのもいいが、たまには静かにチビチビやりたい時もある。そんな時に最高の店だね」
気分よく一方的に喋りかけてくる彼女の声を左耳に、私は星熊勇儀という名前について思考をめぐらせていた。
聞き覚えはあるのだけど果たして何だったか……ああ、そうだ、四天王だっけ。記憶の端っこに放置されていた単語を拾い上げる。
詳しくは知らないけど、確か鬼という種族の中でも相当な大物だったはず。
……あんまりそうは見えないなぁ。
傲慢さなところは大物らしいといえばそうなんだろうけど、大物ならもっと思慮深さとかが立ち振る舞いから醸し出されていいと思う。
こんなのが大物なんて呼ばれるんだから、どうやら旧都って場所はその実相当のんびりしているのだろう。
そんな事を考えてる内にグラスには三杯目のウィスキーが注がれていた。
「そういや乾杯してなかったねぇ。パルスィ、君の瞳に乾杯だ」
「適当な事を言うのは止しなさい」
「ははは、ごめんごめん」
豪快に笑いつつ彼女はグラスをこちらに突き出している。悪気のない表情だ。
私は一つ溜め息をつくと、そのへりに軽く自分のグラスを触れさせた。固いものと固いものが当たる高い音が小さく響く。彼女は満足そうにグラスの中身を一口含んだ。
私も同じようにする。彼女が白い歯をこちらへ向かって覗かせた。妙に馴れ馴れしい笑顔に感じた。
「パルスィ。なんだか気に入ったよ。もっと話したいな」
「は?」
唐突に彼女が言い放った言葉に、私は困惑してしまう。
あれ? 今気に入ったって言った? こいつ?
私が何か彼女の琴線に触れるような行動をとっただろうか? まさか。私がしたのはいい加減に相槌を打ちつつ、図々しくもアルコールを奢らせた。それだけだ。
話を聞いてくれる相手が今までいなかったって訳じゃないだろうし。
何にしろ人を見る目がないなぁ、こいつ。
「いいだろ?」
例の善良の塊みたいな笑みが、期待でキラキラ輝いていた。
五月蠅いのは苦手だ。でもここで嫌だって言ってもこいつは気にせず話しかけてくるんだろうなぁ。
友人の顔を思い浮かべる。あの土蜘蛛もそうだった。話好きな連中ってのは大体がそうだ。
だから私は半分諦めを交えた口調で答えたのだった。
「……好きにすればいいわ」
後になって思えば、この時の私は何だかんだで相当機嫌が良かったのだろう。でなければ、こんなに鬱陶しく構ってくる彼女に対してもっと悪辣な言葉を返したはずだ。
アルコールのせいに違いない。そうしておく。
まあ、ともかく、あの後すっかり酔いつぶれてカウンターに突っ伏した私は、何だか久々に心地よく眠れた気がするのだ。
あの日以来、私は寂れたあの店をしばしば訪れるようになった。
何度行っても、店内に人影がないのは相変わらずで、でも不思議と私が行く日には、あの鬼は先に来てたり、私がほろ酔いになった頃に入り口の鈴を鳴らしたりする。
その度に、私はあいつの話を聞かされる事になるのだ。
声がうるさいのは頭に響くから正直どうにかして欲しいのだけど、我慢しよう。
お酒もつまみも美味しくて、しかも客が常に二人しかいない店なんて旧都中を探してもきっとここだけだ。これ以上人の多い飲み屋はきっと妬ましすぎて、まともに酒なんて飲めない。
それに、悔しい事にあいつの話は面白いのだ。
色んな体験をしていて、それを面白おかしく人に伝える術を知っている。
楽しそうに喋りかけてくるあいつを前に、大抵は無表情を装う私だけど、心の奥では確かにワクワクがきらめいたりしていた。
通う回数が多くなると、たまには、あいつが来ない日もある。いや、よく考えればむしろそれが普通のはずだと思うのだけど。
あいつは私と違って色々仕事もあるだろうし、付き合いだって多いはずだから。今までみたいに鉢合わせするなんてこと本来はあんまり無い事のはずなのだ。そう考えると不思議ではある。
まあ、ともかく、そんな日の私は、老店主曰く冴えない顔をしているらしい。
普段は寡黙な彼が、ちょっぴりの茶目っ気を目に滲ませて訊ねてくる。
「勇儀さんがいなくて、がっかりしましたか?」
「……強いの頂戴」
私はその質問には答えず、カウンターに座り、いつもと同じ注文をするのだ。
「畏まりました」
いつもと同じしゃがれた声が返ってくる。でも彼のしわくちゃな顔はいつもと同じじゃない気がした。
いや、背中を向けているから見えないんだけど。でも、何と無くにやけてるような気がして、愉快じゃないから、私は顔を俯けた。
いつもなら、私がこんな顔をすれば、あいつがその大きな手で「どうした?」っと無遠慮に背中でも叩いてくるんだろうけど……。
そんな想像をして私はふるふると首を横に振る。
違うんだ。あいつが気になって仕方ないとか、そんなんじゃない。会えなくてがっかりしてるとか、そんなのじゃないんだ。
唐突に胸に生まれた妙なモヤモヤを洗い流すように、グラスに注がれた琥珀色の液体を一気にあおる。喉が焼ける痛烈な刺激。
こんな日はどういうわけか、アルコールが酷く恋しくなってしまう。
酔っ払うと私は眠たくなるのだ。そうすればこの妙なモヤモヤを忘れてしまえるからなのかもしれない。
そんな事があった数日後に店を訪れると勇儀は先に来ていて、老店主と談笑しつつグラスを傾けている。
にかぁとした笑いがこっちを向いた。
「聞いたよ。私と会えなくて寂しかったんだって?」
「……強いの頂戴」
「ごめんごめん。謝るから無視しないで。
あー、マスター。あれだ、確かバランタインのいいやつがあっただろう。あれ開けてくれ」
彼女がそう言う事が分かっていたように、老店主は既に瓶の封を切っている。
とくりとくりと注がれるスコッチ。芳醇でえらく高級そうな香りが漂う。
「奢るよ」
「そんないいわよ。高そうだしそれ」
「なぁに、気にする事はない。仲直りの乾杯だ。ならいい物を使わないとな」
半ば強引に握らされたグラス。勇儀もまた同じようにグラスを握り、くっと私に向けて突き出した。仕方ないので応えてやる。
コチンと響いた高音。
乾杯に満足したように彼女はグラスをあおると、一気に空にする。それを横目に私は中身を一口含む。
うん、高いだけあってそれに見合う味わいだ。鯨みたいに飲み下したこいつの真似をするのは勿体ない。
舐めるようにして少しずつ飲んでいくのがいいだろう。
「ふむふむ、これはいい酒だ。ほらパルスィ、遠慮しなくていい、どんどん飲みなよ」
「……急かさないでよ。味わって飲みたいの」
「そうかそうか、うん、酒は味わって飲まないとな。で、どうだ、旨い?」
「まあ、そうね美味しいと思う」
「機嫌直してくれた?」
白い歯を覗かせ、勇儀が訊ねてくる。
まったく、こいつはよっぽど私に構いたいらしい。どれだけ物好きなんだか。
四天王なんて大層な肩書きを持っているんだから、もっと傲慢になればいいのに。無理して私みたいな奴と付き合う事ないのになぁ。
はぁと一つ溜め息をつき、私はぐいっとグラスの残りを飲み干す。
「……ぷはっ。……最初っから怒ってなんてないって」
私がそう言った途端、こいつはぱぁっと顔を輝かせた。
「そうか、よかった。仲直りだな」
なんて悪意のない笑顔だろう。こいつはどうしてこんなにも単純に喜ぶ事ができるのか。私にはよく分からない。
しかし、こいつの真っ直ぐな善良さに触れている間、私は何と無く胸がほわんと温かい。
ただ、それを認めてしまうのも癪なように思えたので、私は冷めた表情は崩さずに、カラッポのグラスをこいつに突き出す。
「お代わり頂戴」
「お、いいねぇ。そうだ。思う存分飲んでくれ」
再びスコッチの注がれた琥珀色のグラスを手に、私とこいつは二回目の乾杯をした。
小気味良い音。口を付けると、何と無くさっきよりも美味しく感じた。
老店主は何やらしたり顔で微笑んでいる。気に喰わないけど、今日は許してやる事にしよう。
そんな風にして過ぎて行った時間。いくつかの月日を跨ぎ。気が付けば一年で最も暑さが猛威を振るう季節が、ここ地底にも訪れていた。
私はというと、相変わらずいつもの酒場で勇儀と二人アルコールを傾けている。
彼女の口から、予想もしていない一言が放たれたのはそんな時期だった。
「なあ、パルスィ。すっかり夏だな。楽しい季節だ。パルスィは何をしたい?」
「夏……やたら滅多ら暑くて、汗で張り付いた服が気持ち悪いだけの季節よ。楽しくなんてないわ」
「ははは、そんな事はないさ。よし、じゃあ私が楽しいって事を教えてあげようじゃないか。
近く夏祭りがあるんだ。一緒に行こう」
夏祭り。その単語が私の眉間に皺を入れた。そもそも私には相当縁の遠い言葉だ。
「は? 夏祭り? いいわよそんなの。人が一杯いて不愉快になるだけだわ。
貴方ならお友達も沢山いるでしょうし、私なんかより、そっちを誘いなさいよ。そうした方が絶対楽しいわ」
「ははは、嫌だね。私はパルスィと行きたいんだ。今日は最初からその事を伝えるつもりでここに来た。
断っても力ずくで連れて行く。だって私は鬼だよ。人攫いは得意なのさ」
はははと可笑しそうに勇儀は笑っていた。何がそんなに楽しいんだろう、理解出来ない。
ああ、でもきっとこいつは言った通りの事をするんだろうなぁ。強引に私を捕まえて、祭りなんていう不愉快極まりないイベントへ引きずり出すんだろう。
こいつはいつだってそうだ。私に拒否っていう選択肢を与えてくれない。無神経に強引に自己中なのだ。しかも根っからの善意だから性質が悪い。
付き合うしかない事を悟って、私はむーと唸りながらアルコールをあおった。勇儀は相変わらず楽しそうに笑っていた。
◆ ◆ ◆
あっという間に数日が過ぎ去り、ついに夏祭りの日がやってきた。
待ち合わせの場所へ向かうべく、私は遊びに来ていた友人に行ってきますの言葉をかける。
「じゃ、行ってくるから」
ヤマメは、ニヤニヤした笑いを私に向けている。
「頑張ってきなよ」
「頑張るって……何をよ?」
「あはは、つまりそういう事をよ。さ、初デート楽しんでらっしゃい」
「デートとか、そんなのじゃない」
「はいはい、ほら早く行かないと遅刻しちゃうよ」
ヤマメが背中を押して私の出立を促す。
何だか釈然としないけど、あいつに「遅いぞ待ったよ」とか言われて笑われるのを想像するともっと腹が立ったから、私は黙って待ち合わせへ向かったのだった。
「……で、どういうことかしら?」
「どういうって、夏祭りだろう?」
「そうじゃなくて……。ええ、確かに祭囃子と色んな露店、見ての通り夏祭りだわ。
でも、言いたいのはそういう事じゃないの」
ガヤガヤと騒がしい人ごみの中を私と勇儀は歩いていた。
イカ焼きとか焼きそばとかとうもろこしが焼けるいい匂いに、金魚を掬いにしゃがみ込む浴衣姿の少女たち。その隣の露店では一等のくじを引くべく坊主頭の少年がなけなしのお小遣いをつぎ込んでいて。
なるほど。今の目の前にある光景は、私の知識にある祭りの縁日と完全に一致している。でも、勇儀に引っ張って連れてこられたここには私の予想と全く異なっていた部分があった。
空を見上げる。雲ひとつない闇空に三日月と星星が輝き、自己の存在を主張していた。
「ねえ、聞いてないわ。祭りっていうから、てっきり旧都のやつだと思ってたのよ。
なのにどうして貴方はわざわざ地上に出ようなんて事考えたのかしら。地底よりもずっと騒がしいっていうのに」
そうなのだ。こいつが私を連れてきたのは、よりによって地上の夏祭りだった。
そりゃ、昔みたいに完全に交流が断絶してるってわけじゃないから、私達地底の妖怪が地上に出る事もできる事はできるのだけど、それでも敢えてそれをしたいわけではない。
面倒になりそうなことは嫌いだ。
なのに、こいつときたら、私が不機嫌な理由が理解できないって顔をしている。
「ははは、地底だろうが地上だろうが夏祭りには変わりないさ。
ただ、こっちでないと見れないものもあるからさ。それをパルスィに見せたくて地上に来た」
豪快に笑う。こいつには私の心情なんて、絶対に汲めないんだろうなぁ。本当に大雑把な性格をしていると思う。
私は溜め息をついた。
「おっ、酒が売ってるじゃん。パルスィ、買ってくるからちょっと待っていてくれ」
「え? あ、ちょっと……」
急に駆け出す勇儀。私が止める間も無く彼女はその酒を売ってるっていう露店に走っていってしまう。
一人残されて、やれやれと私はもう一回溜め息をついた。あいつと付き合い始めてから、溜め息の数がぐっと増えた気がする。
ポツンと道の真ん中で立っていると、周りからの視線が気になった。皆が皆私の方を見て、ひそひそと噂話をしているような気がしたのだ。
ああ、嫌な気分だ。これだから人の多い場所は嫌なんだ。
逃げるように一番近くの露店に近寄る。そうすれば変な目で見られる事もないから。
ついつい、早く戻ってくれないかなと、そんな事を思ってしまった。
ぽっかりと胸に感じたこの感情が寂しさだって気付いて、首を振って否定しようとする。
「いらっしゃい!」
威勢のいい掛け声をかけられて、私はその露店の暖簾を見上げた。『りんご飴』。
なるほど、紅色の艶めきを放つ棒付きの大きな飴玉が台の上に並んでいた。
頭の禿げ上がった中年親父が露店の主だ。
テキ屋ってそういうものだと思うけど、何処かがらの悪そうな顔のつくりな感じがした。でも、にっこり笑いかけてくるその表情は人懐っこい。
それで、このまま立ち去るのも悪い気がして、私は持ってる小銭の数を確認する。
「一個頂戴、その真ん中に置いてあるやつ」
「あいよ。ありがとさん」
親父が飴の棒を掴み、私の手に握らせた。
しかし、小銭を渡そうとした私は掴んだ感触に違和感を覚える。
「……確か私は一個って言ったはずだけど」
私の手に大きな飴玉は二つ。これは困る。そんなに一杯お金を持ってるわけじゃない。
「ああ、一個はおまけさ。お金は一本の分だけでいい」
「そんなのいいわよ」
「お嬢ちゃん、あの背の高くてカッコイイ姉さんの連れだろ。片方はあの姉さんにあげなよ」
親父がにぃと笑いかけてくる。なんとなく意味深な笑いだった。
「……初対面の相手に、そんな気楽におまけを付けられるものなの? どうしてかしら? 貴方にそれをする理由があるように思えない」
「はは、怪しまなくて結構。さっきから見てたけど何だか初々しくてねぇ。応援したくなった。それだけだよ」
俺にもあんな時代があったんだよなぁとか、そんな事を親父は呟いている。
そんな彼の意図が私には、よく分からない。
「応援って……何よ?」
「ん、間違いないと思ったんだが。だってあんなにも素敵な姉さんだ。あんたが姉さんと話すとき、可愛らしい表情になってしまうのも仕方ないってもんだ」
その台詞が私の胸の奥をドクリと脈打たせた。ぎゅっと顔をしかめる。
この親父が何を言いたいか悟ってしまったからだ。
胸の中がふつふつと沸き立ち出す。真っ黒い嫌な感情で満ちていく。
私の感情の最も敏感な部分にメスを入れられた気分だ。
「あんなに分かりやすい顔してるとね、おじさんには分かるのさ」
駄目だ! そこは何があっても見ちゃいけない部分だっていうのに。赤の他人ごときが触れて場所じゃない!
なのに親父は私の心なんかに構う事無く、口を動かすのをやめない。
「ほら、あんた――」
苦しくて思わず、胸を抱える。
ああ、やめろ。それ以上言うな! そこから先は致命的になる!
「――片思い、してるんだろ?」
私の中で何かがぶち切れた音がした。
足元からばきりと破壊音。
私の右足が、怒りに任せて飴の置いてあった台を思いっきり蹴り上げたのだ。飛散するりんご飴が提灯の灯りを反射して輝いた。
近くの道路からどよめきが消え失せたのが分かる。空気が冷える。でも私は今更冷静になんてなれないのだ。
感情のまま私は声を荒らげ、叩きつける。
「何よ! 黙りなさいよ! 分かった風に勝手なこと言ってからかって!
そんなんじゃない! 分かる!? そんなんじゃないのよ! あんたなんかに私の何が分かるもんか!」
地面に散乱するりんご飴と一緒に、親父は尻餅を付いていた。
「ほら、謝りなさいよ! 何にも知らないくせに、私の心をかき回して!」
彼は何も言わない、いや言えないのだろう。私の剣幕にすっかり縮こまってしまっているのだ。
でも、そんな哀れな様子を見せられても私の怒りは収まらない。勝手に足が一歩前へ進んだ。
悪いのは私じゃない! 適当な事を抜かしたこいつじゃないか! ぎゅっと下半身に力が入る。
彼の顔面目掛け、私のつま先が叩きつけられようとしていた。
「……お嬢さん。ちょっと待ちなせぇ」
ぽんと後から肩を叩かれた。振り返る。
そこには顔付きが悪くて腕っ節の強そうな十人ほどの男たち。りんご飴屋の親父のテキ屋仲間なのだろう。いつの間にか私はすっかり囲まれてしまっていた。
彼らの頭目らしい、私の肩を叩いた初老のテキ屋が低く呟いた。
「あっしの子分が無礼を働いたというなら謝りますが、しかしお嬢さん、これはちょっとやりすぎじゃあないですかね。
目出度い祭りの日だっていうのに、みんなガッカリしてますよ」
ああ、こいつらも相当怒ってるんだなぁ。少し冷静になってようやく気付く。
そりゃそうだ。何の前触れもなく突然仲間が襲われたんだから。誰だって怒る。
でも、謝るなんてこと、私の性格じゃできるはずもなかったのだ。
「ケジメ、取ってくだせぇ」
「弁償しろって事? 嫌よ、そんなお金ないし、私悪くないもん」
「仕方ありませんな。しかし俺たちも舐められたままってわけにはいかなんでさぁ。お嬢さんには無理やりでも取ってもらわないと。
……おい、てめぇら、やっちまえ」
頭目の号令によって、雰囲気が一気に剣呑なものになる。
私を囲み睨む男たちが一様に拳を握った。
……またやってしまったなぁ。
心の中で呟く。
自業自得。捻くれに捻くれた厄介な性格は、誰かとかかわるたびにこうやって相手を怒らせて、いらないトラブルを産んできたのだ。私の今までの生涯って全部そうだ。
私も拳を握り締める。
相手は所詮人間だ。数が多くても負けるとは思えない。
でも、彼らをのしてしまえば、私はきっと二度と地上には出られなくなってしまうのだろう。こんな騒ぎを起こした私の事を勇儀は見限ってしまうに違いないから。
そして私はあの縦穴でひとりぼっちに逆戻りだ。
でも、それでいい。それが私に似つかわしい。
今までが特別過ぎたんだ。彼女は私なんかに構うべきじゃない。そっちのほうが、ずっと有意義に生きていける。
握りすぎた拳が痛かった。噛みすぎた歯が軋んだ。
腕を振りかぶった。何にも考えず、感情のままそれを振り回そうとした。もしかしたら少し涙が滲んでいたかもしれない。
「ちょっと待ったぁ!」
大声が星空に高らかと響き渡ったのはその時だった。あんまりにも力強く凛とした声だったものだから、私も男たちもそれ以上動けなくて、思わず声の方向を向く。
「その喧嘩、私が預かろうじゃないか」
酒瓶を片手に自信満々な笑みを浮かべて、堂々と彼女は胸を張っていた。
ああ、どうしてこいつはやってきたんだ!
そして何故あんな表情をしているんだろう。何故あんな台詞が気楽に飛び出すんだろう。私の事なんて、このまま無視してしまえばよかったのに!
「……お姉さん、確かこのお嬢さんのつれでしたかな?
しかし、今はお姉さんが出しゃばる場面じゃあ、ないですぜ」
訝しげな視線を向けるテキ屋の頭目。
しかし勇儀は涼しげな表情を崩すことなく、右手に持った一升瓶を前に突き出す。
親指が瓶の口をぐっと押した。弾き飛ばされるようにして王冠が宙を舞った。
そのまま、彼女は直接瓶に口を付ける。ごくりと喉を鳴らして一口分のアルコールが嚥下された。
どうやら好みの味だったらしい。満足そうに口元を拭い勇儀が再び口を開く。
「そうだねぇ。蹴っ飛ばしたのはパルスィだ。責任って点じゃパルスィにある。もちろん知ってるさ。
まあ、でもあれだ。男だろ。なら細かいこと気にすんな。私が預かるって言ってるんだから、それでいいんだよ」
勇儀が懐から一つの杯を取り出す。そして一升瓶を傾けた。なみなみと注がれる。殆ど表面張力で日本酒が盛り上がってしまう程になみなみとだ。
瓶が地面に置かれる。杯が高く掲げられた。
「ハンデだ。この杯から一滴でも酒が零れたなら。私の負けでいい。
そうしたなら、壊した物を弁償して、そうだなぁ、それから私の体を自由にしていい。
ただし、私が勝ったならパルスィのやった事は全部チャラだ? どうだい?」
挑発というには、勇儀の態度はあまりも堂々としていて。
つまり彼女は、男気があるなら挑戦状を叩きつけて来いと宣言しているわけなのだ。
多分私は、この時馬鹿らしい事はやめなさいとか、そんな事を言おうとしたと思う。
でも、合ってしまった勇儀の瞳は、例によって強引で押し付けがましい善意に満ちていて、でもそれだけに力強く一本槍で、だから私が口を挟むのが何だか場違いに思えてしまったのだ。
言葉が最後まで、続かない。
「筋は違ってる気がしますが。俺らも男だ。そこまで言われちゃ受ける他ねぇですな」
頭目のテキ屋が勇儀の提案を受け入れた。男たちの視線が一斉に彼女を睨みつける。
「よーし、そうこなくちゃな。面白い喧嘩にしようじゃないか」
勇儀が牙を覗かせた。同時に拳が交錯した。
若いテキ屋の腕が勇儀の顎に伸びる。しかし拳一つ分くらいのリーチ差で目標を捉える事が出来なかった。
勇儀の右腕が、テキ屋の頬にまっすぐめり込む。そのまま勢いよく吹き飛び地面に落下する。
一番手の脱落に怯む事無く、眼帯を付けた筋肉質なテキ屋が殴りかかった。その丸太みたいな腕が確かに勇儀の鳩尾を捉えた。
しかし勇儀は動じない。笑顔すら浮かべている。喧嘩という行為が、殴ったり殴られたりする肉体の応酬が楽しくてしかたないという、そんな顔だ。
ぱきんと何かが壊れる音がした。勇儀の裏拳が眼帯を割ったのだ。二人目のテキ屋も吹き飛ばされ、バタンと仰向けに倒れ伏す。
今までの打撃の応酬で結構な体の動きがあったはずだけど、杯からは一滴たりとも酒はこぼれていない。
その後もテキ屋たちは気炎を上げつつ、勇儀に殴りかかっていくのだけど、彼らのぶっとい腕よりもずっと力強い勇儀の腕は、そんな彼らを悉く叩き伏せてしまうのだった。
愉快そうに白い歯が輝く。珠になった汗がきらめいていた。
ああ、なんだろう。
あんなに楽しそうに喧嘩している彼女をじっと見ていると、さっきまでの酷く苛ついた感情が、なんだかどうでもよく思えてきてしまうのだ。
今や凄く単純で子供染みた感慨だけが私を支配していた。
――あいつ……かっこいいな。
心奪われたように、彼女から目を離すことが出来ない。
握っていた拳が、いつの間にか緩んでいた。
そうこうしている内に、頭目のテキ屋の顎に豪快なアッパーが炸裂した。
ずどんと大きな音を立てて、地面に突っ伏す頭目。周りで立っているのは私と勇儀だけだ。
「終わり、かな。うん、いい喧嘩だった。久々にいい汗をかいたよ」
あっはっはと満足そうに笑った勇儀は、最後まで表面張力を保った杯を口に付け、くいっとやった。堪らない様な表情をしていた。
「ぷはぁ……。さて、この喧嘩、私の勝ちだねぇ。約束どおり全部チャラって事でいいね?」
地面に倒れたまま、頭目のテキ屋が声を返す。
「……ああ、約束は守りましょう。俺たちにも矜持ってもんがありますからな。
壊したものの弁済は結構です。しかし、こうも酷い騒ぎになってしまっては商売にも堪えるというものでしてな。よろしければ、ここから早々にお立ち去りくだせぇ」
「そうか、そりゃ済まんかったな。じゃあ私らは場所を移すか。商売がんばってな」
呻き声をあげながら地面に倒れこむテキ屋達に手を振りつつ、勇儀がこっちに向かってくる。
その姿を見て私は、さっきまでの、夢の中にでもいたようなぼんやりした状態から元に戻る。
勇儀が何か言ってくる前に、私は彼女に話しかけなければならなかった。
「……失望した?」
そうだ。今更になってしまったが、そもそもは私の捻くれた根性が引き起こした騒ぎなのだ。
勇儀は誇り高い鬼だ。顔に泥を塗られたと思うかもしれない。今は笑顔を浮かべているけど、実は内心怒っているに違いないのだ。
「ん? なにが?」
「いや、なにがって……」
勇儀はきょとんとした表情で疑問符を頭に浮かべている。本気で私が何を言ってるのか分かっていない顔だ。
しばらく少し思案顔になって、そしてようやく合点がいったようにぽんと手を叩いた。
「ん……ああ、さっきの騒ぎの原因ね。なんだそんな事か。えらく深刻な顔してるから、何か酷い悩みでもあるんだとでも思ってしまったよ。
まあ、確かにあれは先に手を出したのはパルスィだけどさ、もう済んだ事だし。
だって、正直不愉快な記憶なんだろ。なら振り返るほど価値ある事じゃないさ。
それより、見てただろ。久々にいい喧嘩だった。あいつら人間だが中々やるぞ。
杯を持った方の手は絶対に狙ってこなかった。ハンデを与えられたっていうのに、ここからは超えちゃ駄目だって一線を自ら引いたのさ。
なかなかできる事じゃない。うん、負けたときも言い訳しなかったし、潔くて気持ちのいい連中だったねぇ」
満足気に勇儀は頷き、拾い上げた一升瓶に口を付けた。
「ああ、そうそう、そういや私はパルスィに謝らないとな……」
勇儀の手が私の手を握る。紅いその瞳が、真っ直ぐ私を見つめていた。
「悪かった。怖い目に合わせちゃって。
連れて来たのは私だってのに、ほったらかしにして、無責任だったと思ってる」
「……え?」
今こいつは何と言った? 私に謝った? どうしてそんな発想ができる?
でも、見つめてくる瞳は裏表なんてなくてひたすら善良で、きゅっと握ってくるその大きな手はあったかくて。
分かってる。こいつは口先だけの言葉なんて吐けやしないのだ。
打算もなにもなく、ただただ心底からの気持ちだけで勇儀は頭を下げている。誰がどう見ても悪いのは私だっていうのに。
きゅっと唇を噛んだ。目を逸らす。
ああ、もうどうしてこいつは、こんなにも私を甘やかすんだろう。
思いっきり怒ってくれたなら、私は気が楽になれるっていうのに。
胸の中のモヤモヤか大きくなるのを感じた。すっかり張り詰めて、そのまま胸を破いてしまいそうな程に大きく。
「お!? いかんいかん時間だ。パルスィ行くぞ。急がないと始まってしまう」
「え? あ……」
唐突に勇儀が大きな声を上げる。同時に腕を引っ張られた。
私は引きずられるままに、走る勇儀に付いていく。急にざわめきが大きくなった。きょろきょろと私は周りを見渡す。
どうやらここは広場らしい。縁日の通りよりも、もっと沢山の人がここに集まっていた。
「よし、間に合ったみたいだな」
勇儀は何やら呟くと、空を指差した。私はそっちを見上げる。
丁度時を同じくして、どこからかヒュルルルルという高音が響き渡った。
そして、
――ドン!
炸裂音が黒い夜の世界を、一気に明るくした。
「たーまやー!」
嬉しそうに勇儀は空に向かって声を上げる。
「……花火」
目の前の華々しい輝きに私は呟く。酷く懐かしい感じがした。
しかし花火……か、そういえば一番最後に見たのは果たしていつのことだったか。
はっきりは思い出せないけど、そういえば地底に下りてからは一度も見ていなかった。
矢継ぎ早に新しい花火が打ちあがる。轟く炸裂音。
赤やら緑やら、めまぐるしく変わる様々な色が周りの景色を、そして勇儀の顔を彩っている。
「どうだい?」
勇儀が自慢げに微笑みかけてきた。
「これを見せたかった。地底の祭りもいいが、本物の花火は外に出ないと見れないからなぁ。
夏の空にドーンと弾けるのが好きなんだ。弾幕とはまた違った趣があって、なかなか悪くないだろう?」
「……まあ、貴方くらい大きいといいんだろうけどねぇ」
私は顔を俯ける。
三尺球が撃ちあがる音なら間近で聞こえるが、沢山の人の背中が邪魔して、花火そのものはちょっとしか見えなかったのだ。
人ごみの中、普通よりもずっと小柄な私は埋もれてしまう。
……いや、これは建前だろう。
見ようと思えば少し立ち位置をずらせばいい。
つまりは、私はさっきの事が少し恥ずかしくて、そして胸を覆いつくすモヤモヤのせいで素直になんかなれるはずもなくて、だから嫌味な事を言ってしまっただけなのだ。
こんな自分が嫌になって、俯けた顔が少し歪んだ。
でもそんな暗い顔した私に、こいつはやっぱり無遠慮に干渉してくるのだ。
「なるほど、ならこうしよう。ほうら、特等席だ!」
「え!? ってちょっと!」
ぎゅっと体を掴まれた。突然の事だし何の抵抗も出来ない。なす術も無く私の体が力強く持ち上げられる。
次の瞬間には、私の視界は随分と広くなっていて。
目線より下に群集の頭。そしてお尻の辺りに何か当たる感触。無意識に握っていたのは、彼女の立派な一本角で。つまり私はこいつに肩車されてしまったのだ。
そうと気付いて私は顔がカァっと赤くなるのを感じた。
沢山人目があるというのに、こんなに目立つ事、恥ずかしいのだ。
抗議しようとして、掴んでいた角を揺さぶってみる。
「ちょっと、は、恥ずかしいって! 下ろしなさ……」
――ドン!
その時大空に一際大きな華が咲いた。鮮烈な色彩が闇に飛び散る。はっきりと網膜に焼きついた迫力に私はそれ以上の言葉を失う。
きゅっと唇を噛み締めた。
……なんてことだろう、図らずも私は感動していた。
さっき懐かしいだなんて思った理由を悟る。
そうだ、幼い頃の記憶だ。そこには遠くで空を彩る花火を一人見上げていた私がいた。
でも、その頃の私は、人の集まる所に近づくことなんて出来るはずなくて、だから遠くから妬ましげに眺めるしかなかったのだ。
「どうだい? よく見えるだろ? 他の誰にも邪魔されない、一番高いパルスィだけの特等席だ」
だから今。空で弾ける大輪が、轟く爆音が、そしてこいつの善意に塗れた言葉が酷く心を揺り動かす。
――ああ、そうだ、嬉しいのだ。幸せなのだ。
他人をひたすらに拒み続け、自らを頑迷な鎖で縛った、捻くれ者で誰からも好かれないはずの私が、今ここに立っている! それも一人だけの足でなく!
強引で、でもひたすら善良なこいつが、豪腕で以って私を引きずり上げてくれたからだ。
ああ、もちろん分かってる、こいつは私の幼い記憶とかに気を配って、祭りに連れて来たんじゃない。そんなに空気が読める女なはずない。
でも嬉しいのだ。
理由なんて何でも構わない。こいつが単純に花火を見たかったから。そんなのでいい。
こんな私にこうまで構ってくれる事に、善意を注いでくれる事に、私は何とも言えない充実と安心を覚えているのだ。噛み締める。
認めてしまおうか。
ああ、そうだ。私はこいつに惹かれている。
ずかずかと土足で私の心に入り込んでくるこいつに、どうしようもなく恋焦がれてしまっているのだ。
いくら意地っ張りに天邪鬼に否定しようとも、もはや焚き付けるこの感情を、胸を爛れさせるモヤモヤの正体を、誤魔化しきる事ができそうにない。
だから私は、声を絞り出した。上ずってもいい。上手く言えなくてもいい。私の純心がそう言えと命令しているのだから。
「……勇儀……ありがとう」
きっと今までの生涯で最も素直な一言だったと思う。
「……初めて名前で呼んでくれた。嬉しいよ」
ちょっと驚いたような勇儀の声色に、私は無意識に名前で呼んでしまった事に気づく。
顔が赤らむ、少し恥ずかしい。でも後悔はなかった。むしろ晴れ晴れしいくらいだった。
「いや、礼を言われるほどの事はしていないさ。
ほら、花火綺麗だろう? パルスィにも見てもらえたら、そして喜んでくれたら嬉しいと思ってな」
そして、私の大決心の後でも、こいつは何ら変わる事無くただただ善良だった。
本心のままに「私が喜んでくれたら嬉しい」なんて事をさらりと言ってしまう。
ああ、もう、どうしようか。
そりゃ花火は綺麗だけど、それよりも、今の台詞がずっと嬉しかったなんて、そんなこっ恥ずかしい事言えるはずない。
だから、この気持ちは私の胸にこっそりしまっておく事にする。
しかし、一度認めてしまうと、随分素直に嬉しいとか思えるものだなぁと、そんな事を考えながら空を見上げていた。ふと目の前が曇った。
突然の事に少し驚いた私であるけど、納得ならすぐにできた。
ああ、そっか。
私ったら、慣れない事したもんだから、きっと安心しちゃったんだなぁ。
でも、頬を熱い物が流れ落ちる感覚は不思議と心地よくて、だからこの涙を拭う気にはなれなかった。
なるほど。だってこれは、私が生まれて始めて素直になれた瞬間を証明してくれる涙なのだから。
ただ、ふと視線を下に向けて気付く。……こいつにはあんまり見られたい顔じゃないなぁ。恥ずかしい。絶対笑われる。
だから私は少し棘を含んだ口調で言っておいたのだ。
「勇儀、上見たら駄目だからね。絶対に。見たら殺す」
「いやいや、それじゃ花火が見えないじゃないか……ってパルスィもしかして泣いてる?
ははは、どうしたね? もしかしてドンって音が怖かったとか?」
「馬鹿! 見るなって言ったでしょうが!」
「うわっ!? パルスィ。そんな事されると前が見えない」
私の手に目隠しされてパタパタと勇儀が暴れている。
まったく、こいつにはデリカシーってものがない。
でも、そんな空気読めないところが、とってもこいつらしくて、そして私はそんなところが大好きなんだと思う。
涙をぽろんと零しながら、私は満足気に唇を歪めた。騒ぐ私達の上で、図ったようにハート型の大きな花火が開いた。
◆ ◆ ◆
「……ただいま」
勇儀と別れ、縦穴の住居に戻ると、ヤマメがベッドに寝そべってくつろいでいた。
好奇心を顔一杯に満たして訊ねてくる。
「おっかえりー。どうだった?」
「まあまあかな」
「へーなるほど。よかったじゃない」
私の一言だけでヤマメは全部を理解したような顔をして、クスクス笑っていた。
そりゃそうか。経験が違う。色恋沙汰に関して、こいつにとっちゃ私なんて子供みたいなものだ。本当に全部お見通しなのだろう。
ヤマメの隣に腰を下ろした私は勇儀の顔を思い出した。実にいい笑顔をしていた。
私があいつが好きなように、あいつも私の事を好いている。それは間違いないと思う。
でも、多分それは私があいつに抱いている好きとは全然違うものなのだ。
分かってる。自惚れるには私は不幸せを噛みすぎた。
友情と恋情。一字違うと随分意味が離れるものだ。それがなんだか悔しい。
でも、今の私は、この積りに積もった妬ましさを、前向きに使ってみようなんて、そんな昨日までならありえないような事を考えていた。
「……ねえヤマメ」
「ん? 何かな」
だから、ちょっぴりの勇気を振り絞ってみる。
「お化粧の仕方……教えてくれない?」
意地っ張りで捻くれた私から、魅力的な私へ。努力してみようと思う。
橋姫の本気の情念は怖いんだから。それを思い知らせてやるんだ。
そして絶対に、
「あいつの口から、好きって言わせてやる!」
想像が描く未来に頬をほころばせ、私は生まれて初めてだってほどに前向きな笑顔を、にかぁと浮かべてみせたのだった。
いや、好みの問題でしかないんですけどね。
特に前半が好き
是非また続きを書いて欲しいです。
あと、ヤマメの出番がさりげに効いていると感じました。
パルスィ可愛い
勇パルは俺のジェラシー!
キャラクターがみんな生き生きしていて、すごく面白かった。
凄く面白かった。ぜひ続きをお願いしたいです。
花火のシーンが素敵過ぎます。
「夏祭り+花火」って日本人の心の琴線に触れる何かがあると思う。
ただの淫乱な変態のようでそこだけひっかかりました。
とはいえ、とても面白かったです。
こうですか!?わかりません><
パルスィも存分に可愛かったです。