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さくら さくら やよいのそらは……
そんな風に思わず口ずさんでしまう程に庭に溢れかえっていた桜の海も、今はもう波が引いて久しい。
季節は初夏、すでに庭木には青葉が目に痛いほどに茂っている。
そんな緑を透かしながら、この冥界でも陽は傾いていく。広大な庭を囲う屋敷、白玉楼を朱に染めて。
そうして、その日暮れの庭を静かに歩む影一つ。
そこだけ未だ散ることのない桜が緩やかな風に流れる、薄青い召し物も風流に。
少し背景が透かして見えるような雰囲気が、何処かこの世のものでないことを感じさせる、その少女。
西行寺 幽々子は、一人幽雅に散歩を楽しんでいた。
●
ゆっくりと歩きながら、幽々子は取りとめもなく考える。果たして己が今歩いている庭のなんと広いことだろうか。
目に見える先の先まで、少し前までは己の髪色と同じ花弁一色であった。それが全て散った今でも、瑞々しい緑の波は相当な迫力を持って迫る。
そんな広大さを抱く白玉楼にはそれはもう優秀な庭師がいるので、そこに、放置された野放図な自然というものは存在しない。
加えるところには加え、放っておくところは放っておいて、整然とした中にもありのままを残した、何とも理想的な庭園の仕上がりになっている。
そして、そう、その庭師がおっしゃることには、この庭の幅は二百由旬にも及ぶとか。
少女は思い出し、くすりと笑う。
「そんなこと、あるわけないじゃないの」
普段は真面目一辺倒な庭師が、これまた真面目にそんな冗談を言ってくれたのだった。
その意図が果たしてどんなところにあったのか、幽々子には見当がつかなかった。
自分を笑わせようとしてくれたのだろうか、それとも庭師にも正確なところがわからないので、適当に誤魔化そうとしたのだろうか。
それでも、日が完全に落ちきるまでには半分も歩き切れないであろうこの庭にあっては、あながち冗談とも思えなくもない。
不器用なあの庭師が、自分の為に考えた距離。
「二百由旬、二百由旬……」
ああ、何と立派な文句だろう。本当に嬉しそうに少女は笑いながら、唄うように呟いた。
濃紺へと移りかける空、渡されていくその下で、まだ涼やかな風が一陣、吹き抜けるその中で、少女はそう呟きながら、舞うようにくるりと一度回り、
「そんなもの」
そこへ少女の呟きに重なるように、異質な誰かの音が混ざる。
幽々子がもう一度、半分だけ回ったその視界の先で、空間がぬるりと歪んで、
「嘘よ、嘘っぱちだわ。 ねえ?」
ぱくりと、割れるように開き、濃紫が景色に混ざる。濃紫の中の無数の目がぎょろぎょろと動く。
そこから手だ、手が出てきた。次に足が見えて、そう思うと一気にするりと、全身が降り立っていた。
鮮やかな、最も明るい暮れの色がたなびく。真白い、ゆったりとした一繋ぎの全身衣に、目を引く、香るような紫の掛け。
手に持つ扇を開いて、口元を隠す、その女。
「紫……!」
八雲 紫。少女のただ一人の友人の名が、その口から驚きと嬉しさを混ぜてこぼれ出た。
●
「二百由旬もございましたら」
金色の髪は扇をばちんと閉じて、
「そりゃもう、庭を整えるどころじゃないわよ、ね。 くだらない」
閉じたそれを、ふわ、と、手から落とす。すると、その真下に急に開いた濃紫の空間に扇は飲み込まれ、閉じた。
「そんなこと、わかってるわよ。 でも、この庭には素敵な宣伝文句でしょう?」
しゃら、と、美しく顔を崩して笑む少女に、女もつられて、仕方のなさそうに顔を笑ませる。
「久しぶり、紫」
「ええ、お久しぶり、幽々子」
そう再会の挨拶を交わし、向かい合う二人。
幽々子は幅にして三歩ほど、互いの物理的な距離をちょっと縮める。
「本当に、久しぶりだわ。 本当に。 何をしてたの? 寂しかったのよ?」
悪戯っぽく、咎めるような目を。
紫は幽々子より頭半分ほど背が高い。見上げるようなその視線に、紫もそれを下げて合わせる。
「ごめんなさいね。 私も、幽々子が望むなら、それこそ毎日でも、毎時間でも、毎分でも、毎秒でも、ああ、会いに来たいのだけど」
大袈裟に、悲しそうな声と表情を作って、
「私も忙しいのよ、式は未熟で、妖怪は未熟で、人も未熟で。 ああ、世界全体が未熟すぎて、私を離してくれないの」
ごめんなさいね、ごめんなさいね、と、即興で悲劇の舞台を作り上げながら、女優は幽々子の前に跪かんばかりに。
そんな相変わらずの友人の言動に、幽々子はこらきれずに、さらに明るい笑みをこぼして、
「いいのよ、こうして寂しくなる頃に会いに来てくれれば。 我慢しきれなくなったら、私からも会いに行くから」
悲劇は終わった。首を垂れる哀れな子羊は許されたのだ。天上へと救い上げられたような表情で紫も笑む。
「ええ、是非。 是非いらっしゃいな。 一人でね、一人でね。 式はどっかに追い出しておくわ」
そうして二人見つめあって、はしたなくない程度にころころと声を上げて笑う。
「ねえ、紫、夕飯も食べていくでしょう? ね? ちょうど妖忌が今作っているわ、今晩は天ぷらなのよ」
見つめあったまま、そう尋ねる幽々子の口から出た人名を耳にして、
「……っ」
紫は一気に込みあげてきた苦味を表層に出さないように心中で格闘する。
「え、ええ、もちろんよ。 ご一緒させてもらいますとも。 そうだ、後で藍も呼びましょう、引っ張り出しましょう」
わあ、と、手を小さく叩いて喜ぶ幽々子。
「……」
そして、なおも思い出せば心を包む苦々しさと戦いながら、紫は少し再会の興奮の冷めた心でそれを見つめる。
見つめて。
「……!?」
見つめて、唐突に。本当に唐突に、ここに来て紫は気づいた。
「……ねえ、幽々子」
「ん?」
突然の真顔で呼びかける友人を、幽々子は不思議そうな顔で見上げる。
その顔をまじまじと、紫は舐め回すようにじっくりと見つめる。見つめる。見つめる。
……おかしい。
己の記憶の幽々子と、目の前の姿を、悟られぬように脳裏で必死に照会する。
「ゆかりー?」
黙り込んだままの友人に、少し首を傾げる幽々子。
それからややあって。
「……ちょっと、ごめんなさいね」
そう前置いてから、紫は手を伸ばして、
「ひゃん!?」
目の前の、真白いその頬に触れた。体温の差に驚いた幽々子のトーンの高い鳴き声があがる。
しかし、紫は意に介さない。真剣な目で、触れた友人の柔らかな、餅のような頬を、軽く押しこみ、軽く引っ張り、思う存分に何かを確かめるようにこねくり回す。
「も、も、もう! なによ、いきなりー」
いきなりの友人の奇行によるショックの硬直から解けた幽々子が、少し強く力を込めて頬の手を引き剥がし、離れる。
しかし、その手から幽々子が離れても、紫はまだ頬に触れた姿勢のまま何か考え込んだ目で空を揉んだり掴んだり。
「……幽々子……もしかして……」
それからようやくして、紫は重々しく口を開いた。受ける幽々子はわけがわからない。声も出せずにただ訝しげな顔をするばかり。
「もしかして、ふ……」
そんな幽々子へ紫はさらに言葉を続けようとして、
「――ッ」
しかし、紫は唐突にそれを飲み込むと、かぶりを振った。
まさか、まさかそんなわけがない。自分の勘違いだ。
そして、少し引き攣り気味の笑顔を作ると、
「ご、ごめんなさいね。 なんかちょっと、久しぶりだから、幽々子に触りたくなっちゃって」
そんないつもの友人の言葉に、幽々子は安心した顔に戻る。
「なんだー、もう。 変な紫。 触りたいなら、後でいくらでも、ね」
「え!?」
聞き捨てならぬ言葉にぎらりと妖しく瞳を光らせて、はっ、と、紫は幽々子を見る。
「ほっぺの触りあいっこぐらい、後で存分にできるでしょ? さ、戻りましょ」
それから、ぴしっ、と何か期待に満ちた表情のまま固まった紫を置いて、幽々子はゆっくり歩き出した。
離れていく背中に盛大にため息をつくと、紫は少し顔を曇らせて、
「……まあ、気のせいよね」
自分に言い聞かせるようにそう呟いて、幽々子を追って歩き出す。
●
吹き出すかと思った。
「――ッ!?」
すんでの所で、唇をぎゅっと固く固く結ぶ。我慢できた自分を褒めてあげたい。
だってそうだろう。
「妖忌ー」
玄関を経ずに、裏の勝手口へ回った二人。台所へ直結のそこで、名を呼びながらとてとてと幽々子が歩み寄るその先には、
「またそんな所から……お嬢様、仕度ならもう、すぐに出来上がりますので、少しだけ待っていて――」
振り向きながらの言葉が止まる。
「――っ!?」
行動の主は、銀の総髪を後ろで束ね、精悍さを含んだ年若い端正な顔の青年。背丈は傍に近づく幽々子の頭が胸の辺りに来るほどの、引き締まった体の偉丈夫。
そして、着物と袴、その上へ、
「……っ」
取り落としそうになった菜箸を常人には知覚出来ぬ速度でまた中空で掴み直せたのは、日頃の鍛錬の賜物であろう。
嬉しそうに見上げる幽々子と、引き攣りながら真顔を維持しようとする紫の視線の先。
襷を掛けた上への白い割烹着が異質なように見えて、いや、何ともぴたりと似合っているようにも思える、その男。
白玉楼庭師、魂魄 妖忌。一番見せたくなかった姿を、一番見せたくなかった相手に見事に目撃された瞬間であった。
●
「あ、新しい飯炊き女が入っていたとは、し、知らなかったわ」
小刻みに堪えるような呼吸を混ぜて紫は何とか言葉を紡ぐ。出来るならば今、すぐにでもこの場に転がり倒れて、爆発したかった。
しかし、そんなことをすれば一気に刃傷沙汰に発展しかねない空気であった。まさか友人の目の前で友人の従者が主の友人を斬り殺す。
そんなショッキングな情事を見せるのは忍びない。でも、このまま引き下がるのも惜しいので、せめてもの皮肉を、との紫であった
「……客人がお見えになられたのなら、猶のこと、こんな所から出入りされては困るのですが」
そんな紫の言を受けて、しかし妖忌は常の無表情を崩さず静かにそう幽々子に告げる。いや、違う。額の辺りにびき、と、筋が一本立っている。相当キている。
「ごめんなさい。 でも、久しぶりでしょう、紫が来るの。 だから早く妖忌にも会わせたいなぁ、って」
会わせて欲しいなどと本人はこれっぽっちも思っていなかっただろう。
えへへ、と、妖忌の静かな怒りになど気づかぬように、微笑みながら幽々子はそう告げる。
「しかし、このような所、客人にお見せするのは失礼にあたりましょう。 それくらい、わかっておいでのはず」
客人へ向けられぬ以上、収まりのつかぬ妖忌の腹は幽々子への諫言へと矛先を変える。今度はわかりやすいように少し語気を強めて。
妖忌の微かな苛立ちに、流石にここにきて幽々子も気づいた。しかし実際、幽々子の思惑は、純粋に妖忌を紫と会わせたかっただけだし、今の格好も似合ってるから見せてあげればいいのにと思っていただけなのだ。
真の悪意とは、まさしく純粋な善意そのものであろう。
(妖忌ったら、私がまた勝手口から出入りしたものだから怒ってるんだわ……しかも、人様の目の前で)
幽々子は怒りの真意に気づかぬままに、とりあえず妖忌に怒られたことを反省した。かくも純粋で幸せな少女であった。
「ごめんなさい……」
しゅん、と、俯いて、震える声でそう告げる。愁いを帯びて伏せられた瞳は、それを見かければ誰もがその曇りを、如何な死力を尽くそうが晴らしたいと思わせるものだった。
無論、それはこの場の二人にとっても例外ではなく。
「……次から気をつけてくださればよいのです。さあ、そろそろ夕餉が出来ますから」
まともにその尊顔を目にすること能わず、妖忌は視線を逸らし、己に出来得る限り優しい声音を作り出してそう言った。
(甘ッ!)
そしてもう一人、心中目の前の従者の甘やかしに苦言を吐きつつも、同時に落ち込む幽々子かわいいわ幽々子と腰の辺りで考える腐った妖怪である。
贔屓目に見ても、妖忌のそれは普段の無骨な物言いが少し穏やかになったようにしか聞こえなかったが、幽々子はその不器用な言葉から丁寧に優しさを汲み取って、
「うん!」
一瞬で晴れ間を取り戻す。穏やかな、枝葉の切れ間から差し込む陽光のような淑やかな笑顔。
それに照らされた妖忌も紫も、一旦は相手を笑うことを、面に出さぬ感情を静かな剣として突き付けることをお互いに止めて、休戦にしようじゃないかと、どちらともなく言葉を交わさずに思い合った。
●
そうして、この段になって紫はようやく気づく。
実は今までの一連の流れにおいて、妖忌は幽々子と紫の相手をする一方、手がまるで別の生き物であるかの如く淀みなく天ぷらを揚げ続けていた。
静かに怒りながら天ぷらを揚げ、紫と睨み合いながら天ぷらを揚げ、幽々子を戒めながら天ぷらを揚げていたのである。
精神の変調に身体が引きずられない。これぞまさしく日々の弛まぬ修行の成果。機械のように天ぷらを揚げ続けるその様は一種異様な気持ち悪さがあったことを紫は思いつつ。
「ねえ、妖忌。 あなたいくらなんでも揚げすぎじゃないの、それ」
指摘して紫が視線を送る先、和紙を上に敷いた笊の上に、小高い天ぷらで出来た山がそびえ立っていた。しかも、その笊山が一つでなく三つほどである。
「作り置きかしら? 割烹着は様になってても、まだまだ駄目ねぇ、天ぷらは揚げたてが一番おいしいっていうのに」
いやらしく微笑みながらの紫の言に妖忌は別段怒るわけでなく、むしろ心底呆れた目を向けて、
「……八雲の、何を言って……紫殿、何を仰られているのですか」
不機嫌そうな声で出かかったその言葉を、主の手前強引に修正して言い直す。
「何がよ」
不気味な敬語に背中のむず痒さを覚えつつ、紫も一気に不機嫌そうになって問い返すと、
「これは全部、一回でお嬢様がお召し上がりになるものですが」
何でもないことのように妖忌。ふむ、なんだ、そういうこと。紫は、感心したように頷いて。
「へー、これ幽々子が一回で全部ねぇ」
……すごいわねー。こんな量のを一気に……。
「は?」
余りの突飛な返答を紫の脳がようやく咀嚼し終えて、流されそうになっていた精神を引き戻す。
「ねえ、今何て……」
しかし、どうも私、お耳の具合がちょっとよろしくないらしいわ。冷静に、焦らず、落ち着いて、しかし素早く紫がもう一度聞き返そうと妖忌を見る。
そう、向けた視線の先、未だこの最中も不気味なほどの正確さでほどよく揚がった野菜達を油から箸で弾いていた妖忌の袖を、幽々子が遠慮がちにちょいちょいと引っ張って、
「どうしました?」
作業の手を緩めず幽々子の方を向いた妖忌。こちらを見つめるその顔に、幽々子はにこにこと笑みを浮かべながら、
「あーん」
小さく口を開いて、少し顔を上げて見上げるように。
「ッッ!?」
眼前で突如行われたその余りの愛くるしい仕草に、紫の脳内宇宙空間内の瑣末な疑問は一気に十億光年を走る隕石としてどっかに吹っ飛んでいった。
言葉は喉に堰をかけたようにストップし、網膜は縫い付けるように幽々子から離れぬようにする。
「お嬢様、もうすぐ出来ますから……」
熱量の上がった視界の中、外面は呆れ気味に妖忌はやんわりと幽々子の行動、つまりはつまみ食いの催促を押しとどめようとする。
「あーん」
しかし、幽々子は聞く耳持たず。さらにもう一度小さく声をあげ、目を薄くつぶったまま開いた口を妖忌に向け続ける。
「……」
妖忌は一旦、少し黙り込んで精神を集中させようとした。この時点で実際、催促された辺りから相当荒れ狂い始めていた妖忌の内面はいまや大嵐もかくやという様相になっていた。
一瞬で焼き切れた冷静という思考回路を、くどいようだが常の修行の効果で突貫作業で繋ぎ直す。
落ち着け、落ち着くのだ、妖忌。揺れるな、ときめくな。しかし、必死の努力にもかかわらず、ついにその内面の様は抑えきれずに外面にも飛び火する。
つまりは天ぷら揚げ機械と化していた身を一瞬止めると、鼻を含めた顔面下部を片手で覆い、頬を真っ赤に染めて向き合う顔を逸らしたのだ。
それを見て、
(三下め……)
しかし、紫は妖忌を笑う。何故なら紫は目を逸らさない、泰然とあって動かない。
動く理由はない、すでに鼻腔は両とも隙間を接続してあり、溢れ出す鼻血は空間経由でどこか知らない大地へ降り注いでいるだろう。
今は須臾の一節でも、この幽々子の姿を網膜、脳裏、全ての記憶機関に焼印で押しつけるのが何よりも優先すべきこと。
耐えられずに目を逸らすなど、愚の骨頂である。
「……これだけですよ」
ややあってから、何らかの邪悪な力に充ち溢れた表情の紫が視線を向ける中、妖忌はようやくそれだけを絞り出して、菜箸を天ぷら山の一角へ突っ込む。
口を開けて今かと待ち続けていた幽々子の笑みが、さらに少し濃くなったように見える。やっばい、脳内のフィルム足りないわよ。脳内カメラを弄繰り回しながら紫は考える。
そして妖忌はゆっくりと、菜箸で掴んだ天ぷらを幽々子へ近づける。無論、ほどよく冷めたものをだ。
その光景は何やら母親と幼い子供のようで、紫は思わず、いやらしくない方の頬笑みをこぼす。
……ああ、こればっかりは、私じゃ出来ないことかもしれないわね。
少し、感傷的にそう思って。
そう妖忌がさし出す先、ぐわっと箸の股が開く程の大量の天ぷらが今にも幽々子の口に、
「お母さ――――んッッ!!??」
思わず叫びながら、その愛らしい幽々子の口に収まりきらないであろう天ぷらをぶち込まんとする妖忌の膝裏に神速の下段蹴りを叩き込んでいた。
「うおっ!?」
完全に不意打ちの攻撃に、驚愕の表情で妖忌は膝を折る。バランスの崩れた全身、箸の先から天ぷらの塊が舞い、空中でバラける。
「あっ!」
何やら不穏な雰囲気と叫び声に気付いた幽々子も、薄く閉じていた目を開きそれを捉える。そう、何よりも先に宙を舞う天ぷら達を。
そしてそのままくず折れ、膝をついた妖忌は、さらに身体の支配を取り戻せずによろめいた上半身を油の煮立つ鉄鍋の側面に顔面を押し付ける感じで、
「――ッ!?」
肉の焼けるようなホットな音がした。同時に、バラバラに落下を始めた天ぷらを、幽々子が奇跡の身体動作で地面に落ちる前に口でキャッチする。
一個、二個、三個……。
さらにそのまま即座に顔を引き剥がし、床にうち倒れて妖忌が地面をのたうち出す頃、ようやく両指をギリギリオーバーする個数の天ぷらは見事全部幽々子の口に収まって、
「うーん、おいひー」
もぐもぐと口を動かす音と、暢気で本当に幸せそうな声が阿鼻叫喚の台所に響いた。
2
さて、すっかり空に黒の緞帳も降り切った頃、ようやく食卓を囲むこと相成った白玉楼。
机には一人増えて四人。膳は天ぷらと、付け合わせの副菜が二、三。吸い物が一つ。
いかにも普通の夕食である。真ん中にそびえ立つ天ぷらの山を除けば。
「妖忌……火傷、大丈夫? 辛かったら、休んでててもいいのよ? あ、それと、おかわり」
茶碗を差し出しながら、幽々子が心配そうな目で己の右前方に座る従者に尋ねかける。
「いえ、傷は大したことありません……お気になさらず」
顔面の半分に包帯を巻きつけた姿で、いつものように平坦な声で答える妖忌。受け取った茶碗に櫃からこれでもかと飯を詰め込み、小高い山を形成して幽々子へ渡し返す。
実際、傷は大したことなかった。二、三時間もすれば焼け爛れた皮膚ごと完全回復するだろう。しつこいようだが、この驚異の回復力も日々の修行の賜物である。多分。
「いいのよ、幽々子 。たまにこいつにはこれくらいの罰がなけりゃ駄目なんだから」
澄まし顔で汁椀を傾ける紫。事故を引き起こした張本人とは思えない面の皮である。
「……っ」
それを受けて、そうか何言ってんだお前といった憎しみの念を刻みつけんばかりに、妖忌が眼力だけで並の人間なら死に至らしめられそうな視線を向けてくるが、紫は明後日の方向を向いてそれを逸らした。
「もう! 言い過ぎよ、紫! そりゃあ、勝手にこけた妖忌がドジだけど……おかわり」
珍しく強い調子の幽々子の声。事故原因の情報の食い違いに、まさかあなた様の御友人に蹴り入れられてこうなったんですよとは言えない従者の苦悩があった。
「妖忌も、怪我したばかりで気が立ってるのもわかるけど、少し落ち着いてちょうだい 二人とも仲良くしてくれないと、私怒っちゃうから」
幽々子が頬をふくらまして二人を睨む。白米の山を受け取りながらではいささか迫力に欠けるが、この二人には効果があったようだ。
反目しあう二人は一度睨み合い、それから目を逸らして溜息を吐いた。少し張り詰めた雰囲気が和らいだような雰囲気が漂う。
「うん、二人ともいい子いい子」
押し黙って食事を再開した右の妖忌、左の紫を交互に見回して、幽々子は満足気に頷く。
そして、ここにきてようやく紫の隣で地味に気配を消して食事をしていた人物が舞台に上がる。
ピンと頭の上に伸びた狐の耳。明るい、体毛と同じ色の髪を短く揃え、主と同じ風の服。
「あら、藍? どうしたの、何か……沈んでる? それに、鉄みたいな匂いが……あ、妖忌、おかわり」
紫の左側に座り、どんよりとテンション低くもそもそ口を動かしていたその姿に、幽々子が気づいて声をかける。
「あ、いえ……その」
藍は自分にかけられた声に顔を向けると、沈んだ調子で語り始めた。
「はあ、すみません、匂いの元は言うまでもなく私ですが。何故だか、一時ほど前のことでしょうか、いきなり空から、桶をひっくり返したような量の血液が頭上に降り注いできまして……」
「まあ……」
あんまりに不可解かつ不運な話に、再装填された茶碗を受け取りながら思わず幽々子は眉根を寄せる。
「急いで洗い清めはしてみたのですが、どうもまだ匂いが残っていて……」
「それは、災難だったわねぇ……一体何でまた、血なんか降り注いで来たのかしら。ねえ、紫?」
本当に不思議そうな問いかけと共に己を見つめる幽々子に、紫はあっけらかんとした顔で。
「さあ? でもまあ、下の世界ではよくあることよ」
その物言いに、目を引ん剥いて眼力で穴でも開けてやろうかとばかりに己を見つめる式の視線をものともしない主である。
「そうなの……ここ以外は、最近物騒なのね……おかわり」
頬に手を当てて沈痛な顔をしながら、幽々子は従者に椀を差し出す。
「そんなことより、ねえ、幽々子……」
そして何事もなかったかのように会話を別の方向へ転換する紫。主にとっちゃあそんなことであった。藍はもう何かを諦めたような顔で食事に戻る。
「そろそろつっこんでいいわよね? それ、新しい語尾とかじゃなかったんだって」
真面目な顔で幽々子の目を見つめながら紫。
一応、目の前の現実を認めたくない紫の心中最後の抵抗で、それとなく気づかせようという配慮の遠回しな物言いであったが、幽々子には見当もつかない。
「? 何が? もう、いっつも思うのだけど、筋道立てて話してくれないとわからないわよ。おかわり」
「……私の周りには、筋道立てて話す奴の方が少ないのだけどね……あなたも含めて」
紫は箸と茶碗を置くと、考えこむような表情で眉間を親指と人差し指でつまむように押さえる。
「……幽々子、ごめん、もう逃げないわ。筋道立ててきっちり、今から、今すぐ、大事な話をしたいと思うのだけど」
少し経ってからそう切り出して、真っ直ぐ幽々子を見つめる。幽々子は不思議そうな顔で、ご飯をかきこみながら視線を合わせてくる。
「本当に大事な話だから、少しだけ、手、止めてもらっていいかしら」
本気の声音で。しかし、幽々子は一瞬泣きそうな顔になると、
「え……そんな、無理よ……」
ばっさりと切り捨てた。受けて紫は、一度目をつぶって深く息をする。
「ねえ、幽々子、少しで済むから。ね? せめて、人として最低限の礼儀くらい思い出してちょうだい」
頼み込まんばかりの勢いで、紫は言葉を紡ぐ。
「でも……ねえ、食べながらじゃ駄目なの? 私、ちゃんと、真剣に聞いているから……」
「聞いてる、聞いていないの問題じゃないでしょう? 私と、食べること、どっちがあなたにとって大事なの?」
その剣幕に、幽々子はおろおろと、まず我関せずといった態度で黙々と食事を続けている妖忌を見て、次に私に聞かれても困りますといった表情の藍を見て、また真剣な紫に戻って、
「……そ、そんなの決められないわ……」
「決められないほどに同位置なの!?」
思わず声を荒げてしまう紫。幽々子はほとんど半泣きで体を震わせた。
「……ごめん、ごめんなさい幽々子。怒っているわけじゃないのよ、愕然としただけで」
「う、ううん、いいのよ」
優しい、許しを乞うような調子に戻して、紫は顔を両手で覆い、深く息を吐く。それを見た幽々子も幾分ほっとしたような顔に戻った。
とりあえず場の雰囲気は和らいだ。平和の戻りかけた食卓、さあ食事に戻ろう、と、見せかける。
が、しかし、紫はおもむろに空間を開いて両手を突っ込み、
「えい」
「あ!?」
幽々子の先程の会話の際も全く淀みなく動作を続けていた手の前に繋げると、茶碗と箸を奪い去った。
「か、返して!」
隙間空間から手を抜いて、両に持った茶碗と箸をすぐさま自分の斜め上へ持ち上げる紫。そこへ一拍遅れて幽々子が追いすがり、
「ねえ、返してー!」
「ちょっとだけ、ちょっとだけ手を止めて話を聞いてちょうだい! ね?」
必死に紫の体を掴んで、登らんばかりの勢いで持ち上げた茶碗と箸を取り返そうとする幽々子。
「返して! 返して!」
「ちょ、幽々子、話を」
ぴょんぴょんと跳ねるようにしながら手を伸ばす。しかし紫も意地がある。話を聞いてもらうまで返すまいと、実にタイミングよく距離を取って守り続ける。
「返してぇー!」
「ゆ、ゆこ……いい加減に……」
最早体を全部預けるように紫に縋る幽々子。のしかかるようなそれに、ついに紫が耐えきれなくなり、二人は床にごろんと寝転ぶように倒れ。
「返してよぉー!」
「返、さ、ない、わ!」
組み伏せるような体勢のまま、紫の体の上で幽々子は必死に手を伸ばす。しかし紫もくねくねと奇妙に体を動かして、微妙なところで幽々子の手を未だ避け続けている。
「ゆ、幽々子様、流石にもう我が主に失礼ですよ! 話を聞いてあげてください!」
そして、そろそろ主の微妙な危機を見過ごせなくなった藍が立ち上がり、後ろから幽々子を引き剥がそうと手をかけた。
「いやぁー!」
瞬間、幽々子は制止するように己の腕に触れた手を強引に後ろに振り払い、その勢いは、取り押さえようとした藍を、
「ッッ!?」
何か、毬でも弾いて飛ばすように、後ろへと、容易く放り飛ばした。
「――!」
そのままぐるんぐるんと藍の体は風車のように回転し、地面と全く平行に飛びながら、
「――ッッ!?」
庭に面した障子を突き抜け、木におぞましい音を立てて激突して、ようやく藍の体はどさりと着地した。
あまりのことに動きを止めた紫が視線を向け、妖忌が漬物をかじる音が響き、幽々子が尚も取り返さんと手を伸ばす。
そんな最中、そこから少し離れた庭に伏せる藍の体は、ぴくりとも動いていなかった。
「…………う、うーそ、嘘、嘘、冗談よ、幽々子。はい、返すわ」
「あ!」
しばらくの間を置いて、紫が唐突に、明るい声を精一杯作りながら、体を起こし、幽々子へ取り上げていた茶碗と箸を手渡す。
「ちょっとからかいたくなっちゃったのよ、本気にした? ごめんごめん」
「なぁんだ……なによ、もー! 紫の意地悪ー」
笑い合う二人。一人は純粋に、もう一人は少し引き攣り気味で。
ぎこちなく元の食卓が再開される中、星明かりだけが夜の庭とようやく息を吹き返しぴくぴくと痙攣する藍を照らしていた。
3
生活感のない部屋だった。家具は出来る限り少なく、実用性のあるものだけを置き、飾り気という言葉が存在しない。
目の前に座る、実直すぎる馬鹿男そのまんまの空間だ。
「いつからよ、気づいていないわけがないでしょう」
対面で座る二人、紫と妖忌。紫は正座で睨みつけながら、静かな、それでいて怒気に溢れた声を出す。
「何がだ」
妖忌も正座で、しかし少しだけ目を床へ伏せるようにしてその視線を逸らしている。主の前でない今、先のようなへつらいの言葉づかいはなかった。
「すっとぼけてんじゃないわよ。ていうか、お前が原因の半分みたいなものじゃないの」
苛立ちを声に混ぜながら紫は腕を組む。お互いに幽々子の前では見せられない態度。
その幽々子は今、藍に相手を任せて二人で遊んでいるので、この互いに仮面を外した険悪な密談を見られる心配はないだろう。
ちなみに回復した藍は、都合よく投げ飛ばされた記憶を失っていた。二人仲良く貝覆いでも頑張っている頃だ。
「……」
紫の詰問に妖忌は押し黙って、とりあえず二人分入れておいた茶の一つを啜った。
そして、そのままこちらを射抜くような眼光に向き合って、自分のそれを合わせる。
そこに言葉を込めるように。
「……直接口に出して言うのが、怖かったのだけどね わかった、はっきり言ってやろうじゃない」
妖忌のその視線を受けた紫は一度目を逸らし、夜明かりを受けて透くように輝く金をぐしゃぐしゃとかく。
しばらくして手を止めると、また妖忌に向き直り、
「……太ったでしょう、幽々子」
そう、重々しく吐き出して。真っ直ぐに、ガンつけあって数秒。
「……」
それからおもむろに妖忌は静かに立ち上がると、二、三歩、開いたままの障子の先へ歩いて行き、庭と夜空を見上げながら、
「なあ、八雲の……冷静に考えてみろ、幽霊が太るわけがないだろう」
「現に太ってんじゃないのよぉぉ!? そもそも、なんかもう、それ以前の問題の絵面だったじゃないの!!」
だん、と、畳を叩いて、こちらに背を向けたままの妖忌に向かって紫は叫ぶ。
「お前の気のせいだろう、お嬢様の外見には何も変わったところもないし」
「いいや、私にはわかるし、もう確信したわ! 明らかに私の知る以前の幽々子よりふっくらしてる! なんかふくよかになってる!」
つーか、と、紫は声を荒げて続けながら、
「そもそもあの食事量が何よ!? いつからあんなことになってんの!? むしろ、あんだけ食って増量があの程度で済んでるのが何かもう奇跡だわよ!!」
ヒートアップする紫の口撃に、妖忌は何だかばつの悪そうに二、三回咳込むと、
「健康的でいいじゃないか。それに、女子は多少ふっくらしていた方が美しいとされるのが一般的だ」
「限度ぉぉ!! 象飼ってるわけじゃないのよ!? ていうか、妖忌、あなたわかってて飯作って……」
「……」
「こっち向けぇぇ!!」
ばつの悪そうな態度の妖忌に、やおら紫も立ち上がると、庭を向いていたその体を強引に回転させて胸倉を掴む。妖忌の方が背が高いので見上げる形になり、
「だって、仕方がないだろう……お嬢様が足りないって仰られるのだし、それに」
「それに!?」
掴まれる妖忌は紫の視線から顔を背けながら、
「元気にものを食べる姿はいいものだろう」
「そんな理由で他人様の娘ぶくぶく太らせてんじゃないわよぉぉ!! この駄目保護者!!」
「!?」
流石に長いこと陰に日向にと仕えて甲斐甲斐しく幽々子の世話をしてきた己の従者人生を否定されて、妖忌もかちんときた。
紫の手を引き剥がすと、その手首を掴んだまま睨み合う。
「ああ!? なんださっきから黙って聞いてれば偉そうに、お前に何がわかるというんだ!?」
「少なくとも昔の幽々子のことくらいはわかるわよ! 儚げで、食はどっちかというと細い方で――」
「それでも今の方が、何というか、ふっくらと丸っこくて愛らしいだろう!」
「てめえの好みなんて知るかぁぁ!!」
最早子供の口喧嘩の様相を呈してきた二人。互いに息を荒げて、憎悪の視線をつき合わせ、
「幽々子はねぇ、もっとほっそりとして、触れたら折れてしまいそうな、そんな線の細い女の子で、でも出てるところは出てる感じがとてもよろしくて……」
興奮の余り、うっすらと目の端に涙を滲ませながらも、紫は必死に幽々子の昔の姿の良さを力説する。
「……っ」
妖怪とはいえ、女の姿に半泣きになられると怯む妖忌だった。かっとなった心を少し鎮めて、とくとくと語る紫を、
「ぽっちゃりなんてマイノリティ目指してどうするのよ。細いのがいいの、私は細っこい方が好きなの。華奢なのがいいの。幽々子のくびれを撫で回したいの」
呆れた目で見つめるのであった。舌が乗ってきたのか、紫がうっとりとしながらべらべらといらんことまで語り出した辺りで、
「二人とも、何やってるんですか。いい加減静かにしてくれないと、幽々子様が――本当に何やってんのぉぉ!?」
廊下の奥から文句を垂れながら藍が現れ、夜明かりに照らされる二人の姿をようやく視認出来ると同時に素っ頓狂な声を上げた。
何せ藍の目に映る光景は、妖忌が己に詰め寄る紫の手首をがっちりと掴んで向き合い、紫はそのまま目に涙を浮かべて妖忌を見上げているというものなのである。
「はっ!? え!? 何、どういう状況ですか!?」
「何でもないわよ。それで、何?」
何せ藍が叫んでも当人達にとっては全くそういうことではなく、むしろ喧嘩の真っ最中であったので、二人とも何ら恥じることなくその姿勢のまま藍へ顔を向けた。そして紫は問い返す。
「幽々子がどうかしたの?」
しばらく訝しげな顔をしていた藍だったが、主の問いに思い出したような表情で、
「そうそう、そうでした。ちょっと、二人ともこちらへいらっしゃってくださいな」
紫と妖忌は、互いに疑問を浮かべた顔でまた見つめ合った。
●
「あらまぁ……」
藍に連れられて戻った居間、その光景を見た紫が何やら妖しげな熱を帯びた声をあげ、
「……」
妖忌は顔を押さえて溜息を吐いた。二人の視線の向う先、
「……すぅ……んん……」
床にごろんと寝転がり、静かな寝息をたてる、幸せそうな寝顔の幽々子の姿があった。
「私が相手をしていたのですが、疲れていたのでしょうか、急にこてんと寝転がられると、まあこの有様でして……起こした方がよかったでしょうか」
「いや……いや、藍、むしろナイスよ。よく起こさずに知らせてくれたわ」
舐め回すようにアングルを変えながら、愛くるしい童女のような幽々子の寝姿を熱視する紫。
ほどなくして、溜息もつき飽きた妖忌が妖しく動き回るその変態をどっせいと突き飛ばし、
「ほら、どけ。よいしょ……」
「いやん、何すんのよ――ちょっと待てい!? 何しようとしてるの!?」
しゃがみ込んで、幽々子の頭と膝裏の辺りに下から手を入れようとしている妖忌を、紫が叫んで制止する。
「何、って……仕方がないだろう、このまま寝所に運ぼうかと……」
「甘やかし過ぎ! お母さん、あなた甘やかし過ぎなのよ、いっつもこんなことやってるの?」
紫が立ち上がり、妖忌も渋々立ち上がる。そして、またも紫は妖忌に詰め寄る。
「お母さん……? まあ、いつもではないが、珍しいことでもない。ここ最近はなかったが。まあ、奔放なお方だからな」
「違う! お前がそうやって何でもやるから、甘えてるだけなのよ。……いや、別にそれもいいけどもね……」
何か一瞬考え込むように、額を押さえて息を吐く紫。しかし、思い出したように目を吊り上げて、
「それでも、あの食事は別。 絶対どうにかしてもらうわよ、その気ある?」
「またそれか。別にいいだろう、今のところ少し、その……ふくよかになった以外は何も問題はないし」
「大問題! 何とかして、お前にも危機感と管理意識を持ってもらわなきゃならないわね……」
またも口論になりかける二人に、かなわんとばかりに藍が取り押さえるように割って入り、
「あのー、横からすみませんが、幽々子様はどうしましょう? 私がお運びしましょうか?」
起こさないように、静かな声で提案する。思わず紫も妖忌も口を手で覆った。
「そんなおいしいとこ、横取りさせるわけないでしょ、あなたにも妖忌にもね。私が運ぶわ」
紫は二人を見回してぼそぼそと、しかし最後の響きにはこらきれない愉悦を混じらせてそう言った。
妖忌と藍が呆れた目を向ける中、ぐへへと笑いながら紫はぐねぐねと指を動かしつつ幽々子の体の下へ潜り込ませ、
「さー、お姉さんと一緒にお布団行きましょうねー……っと」
その体を、仰向けに横たえた姿勢のまま、一気に抱き上げて、
「――ッ!?」
そのまま、凍ったように動きを止めた。
数秒ほど止まったままの紫を見て、妖忌と藍が何をしとるんだと不思議そうな顔になる頃、紫は幽々子を抱いたままくるりと二人に向き直る。
「妖忌……あなた、これちょっと抱いてみなさい」
至極真面目な顔で、ぼそぼそとそう語る紫。
「これとは何だ、無礼な……」
「いいから、構えて」
いつになく真剣なその言葉に、憮然と妖忌が同じように抱き上げる姿勢を作ると、紫はそっと幽々子の肢体をそれに乗せるように手渡した。
「――ッ!?」
それを抱いた瞬間、妖忌の中に最初に浮かんだイメージは『岩』であった。巨大な、圧倒的な質量を持ったその塊を抱いたような感覚が腕から伝わる。
よろめかなかったのは鍛え抜いた下半身のおかげであろう。この、己の膂力をもってしても膝をつかせんばかりの重量感。
一体己は何を渡されたのだ、何を抱いているのだ、と視線を落としたところで、
「あ……!?」
今度こそ本当に膝をつきそうになった。そうだ、己が今抱いているのは――。
「事の重大さが、ようやくわかったかしら」
中腰で踏ん張るような姿勢の妖忌を、紫は見下ろしながら、
「外見にほとんど表れないこれが、内でどうなってるのかはよくわからないし、想像したくもないことだけど……まあ、このまんまでいいわけは、ないわよね」
打ちひしがれたように顔を伏せる妖忌に、さらに鞭打つように紫はそう言葉を紡いだ。
「……どうすればいい……」
それからしばらくして、ぼそりと妖忌が呟いた。
「どうすればいいというのだ……こんな……」
数多の嘆きを凝縮して、絞り出すようなその震える声。
流石にいじめすぎたか、と、紫は深く息を吐いて、
「まあ、その気があるなら、どうにかするしかないでしょう――私と、お前で」
4
明けて翌日。
「つきました」
「はぁ……?」
午前の昇りきらない日差し照りつける居間にて、向かい合う幽々子と紫、妖忌。
大事な話がある、取り乱さないで落ち着いて聞いて欲しい、と、散々前置きで脅されてから、妖忌が幽々子へ切り出した一言はそれだった。
理解できない……、幽々子は首を傾げるばかり。
しばらく間を置いて、妖忌はもう一度、今度はわかりやすく、端的に言ってのけた。
「ですから、食糧の備蓄が底を突きました」
「あぁ、なぁんだ、そんなこと……えええっ!?」
いまいち気の抜けた声で驚愕の叫びをあげながら、幽々子はかわいく目を剥いて二人を見つめる。
「ど、ど、ど、どーいうことなの!?」
予想通りの取り乱しっぷりに、紫も妖忌も目を伏せ、同時に溜息をついた。
●
昨夜、幽々子が布団で幸せな寝息をたてている頃の話である。
「普通に考えて」
本日二度目、座して向かい合う紫と妖忌。
「食事を減らすべきですわ」
真っ直ぐ、互いの目を見て紫はそう切り出す。
「やはりか」
「やはりよ」
「どうしても、か」
「どうしても、よ」
妖忌はとりあえずやり切れない気持ちを何度目かわからない溜息で抑えた。
出来る事なら頭を抱えて唸りたい気分ではあるのだが。
「出来るだろうか……」
「やるのよ、心を鬼にして」
紫は言葉を強くする。
「甘やかし放題にしてきたツケだと思いなさいな。これからのためにも……多少はそういう態度を取れるようになってもらわないと、ね」
「そこまで甘えさせてきたつもりはないのだが……」
難しい顔をして弁明する妖忌に、紫は少しばかり表情を緩めて、
「まあ、お前にその気がなくて、傍から見てそうは思えなくても、あの子はどんなことからも優しさを汲み取れるから、ね……特に……」
遠くを見るようにしながら言いかけて、止めた。滞留しそうになる変な空気を入れ換えようと、紫は少し話題を逸らして、
「これからどう状況が変化するかもわからないのだし、あなたがいなけりゃ生きていけないような状態というのは好ましくはない、わかるでしょう?」
妖忌の表情に少しばかり翳りが見えた。紫は仕方なさそうに、
「それほど深刻なことではなしに、よ。 そんな顔しないでちょうだい たとえば……幽々子以上に手のかかるのが増えないとも限らないし」
「これ以上、誰が増えるというんだ」
「さあ? 未来はわからないわよ、私にも、ね」
くすりと笑って。
「さて、少し話が逸れたわね……とにもかくにも、そういう未来へ続く第一歩として、幽々子の食生活と、体型から取り組んでいこうじゃないの」
その言に思い出したように、妖忌は改めて苦い顔を作る。
「こんなこと言いたくはないが……どうにも自信はないぞ。 いきなり御飯を減らします、で、納得してくれるかどうか……」
「馬鹿正直にそんなこと言ってどうするのよ、理由を聞かれたらどう答えるっていうの? 無神経にも程がある」
「じゃあ、どうする」
「どうするも何も、ひどく簡単なことで、方法は一つしかないでしょう」
妖しくて胡散臭いその頬笑みが夜に映える。
「納得するしかないような理由をでっち上げれば、ようございますわ、ねえ?」
●
「う、嘘でしょう!? 妖忌、ねえ!」
ずざざ、と、近づいて、幽々子は妖忌の袖に縋りつく。
「事実です」
嘘である。妖忌は何かに耐えるような表情で、重苦しく言葉を紡ぐ。
「じゃ、じゃあ、買出しに行けばいいじゃない! そうだわ!そうしましょう! お願い、妖忌――」
名案を思いついたように、悲嘆に暮れかけた顔を若干晴らして幽々子は頼み込む。
しかし、妖忌は幽々子へ真っ直ぐ視線を合わせると、
「お嬢様、実は……この白玉楼の蓄財自体が底を突きかけているのです」
「ええ!?」
がびーん、と、間抜けな効果音を鳴らしながら、さらなる驚愕に顔を歪める幽々子。
「そ、そんなぁ……頑張って働いているのに……」
よ、よ、よ、と、幽々子は力を失くしたように、袖で押さえながら、床に顔を伏せてしまった。
「……」
妖忌は尚も耐える表情で押し黙る。無論、これも嘘である。
現在の幽々子の役職は冥界の管理人。難しい書類仕事なんかは妖忌も手伝いながら、幽霊達を見張り、この白玉楼で普段通り生活しているだけで是非曲直長から給金が支払われる夢のようなお仕事である。
とはいえ彼女が幽霊を操ることが出来るからこそ任された仕事であるのだが。とにかく、白玉楼に暮らす二人の収入源は現在これのみであった。
しかし実際、二人で暮らしていき、幽々子の現在の食事量に対する費用を支払い続けてもまだ貯金が出来てしまうほど、十二分に給金は支払われている。
現在の仕事が幽々子に宛がわれる前に紫が散々閻魔と色々な交渉をして、不自由をさせないくらいの金額を支払い続ける契約を取り付けたからである。諸々の手続きを終えた後、哀れな中間閻魔はあまりの無茶な交渉の結果に悔し泣きをしていたとかなんとか。
「ね、ねえ……妖忌ぃ、本当にどうにもならないの……」
目に涙を滲ませて、顔を上げた幽々子は真っ直ぐ見つめる。
「……なりませぬ」
全ての感情を押し殺した声で妖忌。
「ようきぃ……」
子犬の鳴くようなか細い声、玉のような瞳の潤み、目の端にたまった透き通るような滴が、幽々子の発する全ての輝きが、妖忌の後ろ暗い心を照らす。
「……ッ!!」
その全てを受けて、妖忌はやおら正座の上体を半分ほど背後に捻ると、懐から小刀を取り出し、
「――ッ!!」
ぶすり、と、己の片手の甲を畳まで貫通させて縫い付けるように突き刺した。己の体でその光景は隠していたので、幽々子には突如妖忌が後ろを振り向いたようにしか見えなかった。
それを目撃し、その想いまで汲み取れたのは隣に座る紫だけ。
(そこまでの覚悟か、妖忌……!)
巧妙に後ろに隠された片手、突き刺したそこから溢れ出る鮮血を見て、思わず紫は気圧されそうになる。
「……どうにも、ならぬのです。このままの食事で家計を圧迫し続ければ、いずれこの白玉楼は御取り潰しとなりましょう」
幽々子に向き直り、何もかもを押し殺した声で妖忌は語る。
「何卒、ご理解ください……食事の量を減らし、財政を立て直すのが今は何よりの大事……何卒……!!」
まさに鬼気迫るといった様相であった。理由は嘘であったが、食事の量を減らして欲しいのは本気なのだ。
「ようき……」
そうして真っ直ぐにぶれない妖忌の瞳を見て、幽々子は続けようとした泣き言を飲みこんだ。
そして目を伏せ、諦めの表情を、
「紫ぃー!」
するわけはなかった。こと食に関する幽々子の意識は、すでに妄執と呼んで然るべきほどであった。
頑として折れぬ従者に見切りをつけた幽々子は、その隣の友人へと対象を変更する。
……来た。
己に縋りつく友人の体を受け止めて、紫は密かに気合いを入れる。
隣で血を流すことも厭わないほどの覚悟を見せた男に、応えねばなるまい。
「紫ぃ……こんなこと、お願いするのは心苦しいのだけど……」
うるうると、濡れた瞳が紫を見上げる。気づかれないように、紫は奥歯を噛み締めた。
「何かしら?」
あくまで平静を装って、
「あのね……もう、さっきの会話は聞こえていたと思うけれどね……お金、貸してくれないかしら……」
少しだけ目を逸らし、羞恥に頬を染めて幽々子。
「お金じゃなくてもいいの、食糧をわけてくれるだけでも……ねえ、駄目かしら……?」
流すような視線でこちらを見上げる。それから逃げるように紫は一度目をつぶった。
……出来ることなら……
今すぐにでも、己にしなだれかかる幽々子の体を力一杯に抱き寄せて、了承の言葉を耳元で囁きたかった。
その憂いに曇る顔を、外の、今現在夏の訪れを予感させるような晴天へと戻してやりたかった。
「――ッ!!」
しかし、紫は踏み止まった。舌を噛み、幽々子の背後に回ろうとする手を爪が食い込む程に握り締め、思考の中で飛び出そうとする己を百辺殺す想像をして、現実のそれを押し止める。
「幽々子……大変に、残念なのだけど……」
そしてようやく、途切れ途切れに言葉を発する。拒絶しろ。ここで、揺れる自分を抑えられている内に。
しかし、言い終わらぬ内に、幽々子はその発言の意味するところに気づき、
「いや! お願い、紫……!」
紫に抱きつくと、その胸に顔を深く埋め、いやいやとばかりに首を振る。
「ゆかりぃ……」
惑わされるな八雲 紫。子供が見たら泣くような形相に顔を強張らせる。
……撥ね退けろ、この体を――。
「おねがいよぉ……」
引き離して、この体が、ああ、なんて柔らかい……あったかい……。いや、舌を、舌を噛んで耐えっ……。
「ゆかりぃ……」
口の端から、血が垂れているのがわかる。目から血も流せそうだ。いや、耐えろ。だが……それでも……。
……でも、ああ、ああもう。もう、無理。
「……」
紫は一度、虚空を見つめた。光のない、洞ろな瞳であった。その瞳のまま、ぼんやりと思う。
……切れた、決定的な何かが切れた……。
「幽々子ッ!!」
次の瞬間、声高に叫び、がば、と、紫は愛おしいその身体を抱き寄せた。
「何を、何を言っているの幽々子! お願いなんて言葉使わないでちょうだい、私がそれを行うのは、願われるからではなく、当然であるのだから!」
そうだ、己の服を微かに濡らす滴を感じて理解する。
「困っている友人を助けずして、何の友かしら、情かしら! ああ、財なら今渡せるだけ、食糧ならこの館を埋め尽くすばかりに、貸しましょう、運ばせましょう!」
この子を、自分の腕の中で震えて助けを求め続ける親友を、泣かせてまで強制させる節制の何処に正当性が、必要性があるというのだ!
この子は間違ってなどいない、異常などではない。この娘一人をして足らないと思わせる満腹感しか与えられない食事が罪なのだ、そのような体に作った世界こそが間違っているのだ。
「紫……! ありがとう! 紫、大好き!」
抱き締める紫をさらに抱き締め返すように力を込めて、幽々子は喜びと感謝の声を響かせる。
……うへへ……
その夢見心地の感触と想いに、紫はだらしなく鼻の下を伸ばそうとした。その時、
「お嬢様、善き友人をお持ちになられて幸いでございましたな……」
少しだけ顔を穏やかに微笑ませた能面のような表情をした妖忌が幽々子の肩を掴み、悟られぬ程度の力強さで紫から引き剥がした。主の着物からは遠ざけたもう片手から流れ出る血が何とも不気味である。
そして紫はその瞬間ようやく、ようやく幸福の泡沫から現実世界に戻って来て、その男のことを思い出して固まった。だらだらと嫌な汗が流れ出てくる。
「うん、私は幸せ者だわ、妖忌……」
紫から離されて元の正座に戻った幽々子は目を閉じ、しみじみと呟く。
それを見て、妖忌は貼り付けたような表情のまま同意するように頷き、
「あっ! 不如帰が鰹を銜えて木の上に!」
「ええ!? そんな縁起のよさすぎる光景が!?」
妖忌が突如声をあげて明後日の方向を指した。つられた幽々子がそちらを向いた瞬間、
「――ッ!!」
妖忌は紫をぶん殴っていた。刺した方の手で、握り締めた拳で。
「っ!?」
殴られた方は吹っ飛び、打ち倒れ、
「うっ……お、女に手をあげる!? しかも、グーで!」
慌てて紫が、殴られた頬を押さえながら起き上がった。
「貴様は妖怪変化だからな! 人間じゃない、女でもない! 手加減いらんだろうが!」
そこへなおも追撃を加えんとする妖忌。それに紫も応戦しながら、
「うるさい! 痛っ!? 何で私が殴られにゃならんのよ!」
「自分の胸に、聞けぇ! ぐっ!?」
掴み合い、畳の上を転がり回る。
「あー、聞こえんな!? 私は何も悪いことしてないもーん! ぐぅ!?」
「お前から、言い出した! ぐふっ!? こと、だろうがぁぁ!!」
互いにガスガスと顔面に拳をぶち込み合いながら、
「だって、幽々子が、あんな顔して、泣くんだもの! いたたっ!? 仕方ないじゃない! そもそもの作戦が間違ってたのよ!」
「うぐっ!? だったら、最初から、こんな策を講じるなぁ!!」
罵り合い、引っ叩き合いも佳境に入った辺りで、
「もう! 散々探したけど、そんなのどこにもないじゃないの!」
少しむくれた顔で幽々子が二人に振り向き、
「すみません、見間違いだったようです」
「あらあら、残念だったわねぇ」
組み合った状態から一瞬で元の正座に戻ると、二人は何食わぬ顔で答えていた。
「あれ? 二人とも何か……傷だらけじゃない……?」
しかし、互いの殴打に膨れ上がった顔は隠せなかったようであるが、
「気のせいでしょう」
「ええ、気のせいよ」
幽々子が不思議そうに目を細める中、二人はぎこちなく笑って何とか誤魔化しきった。
●
「子供ですか!」
腫れあがった紫の顔を手当しながら藍が叫ぶ。ツッコミに際して主にすら遠慮のない辺りがこの式の重用される所以である。
そして先の行動の実際レベル的には藍のツッコミと何ら変わらなかったので、言い返せずに紫は目を閉じて聞こえないふり。
現在、あれからまた場所を移して、再度の作戦会議である。
妖忌はといえば、二人に背を向けたまま、一人で自分の傷の処置をしていた。縫い付けたように口をつぐんで黙り込み、背中から怒気が立ち上っている錯覚すら見えそうな、声もかけづらい雰囲気であるが。
「悪かったわよ……」
その背中へ、ぼそり、と、仕方なさそうに紫がそう呟いた。
実際、冷静に考えれば紫が全面的に悪かったのだが、珍しく殊勝なその態度に妖忌は少し驚いて振り向く。
「これで手打ちにしてちょうだい。 今回は私の策が悪かったわ」
むすっとした表情で紫。それを受けて、そこまで引きずる性質でもない妖忌は、いつもの気難しい顔のまま雰囲気を少し緩めた。
「……まあ、構わん。お嬢様を泣かせてまですることではなかった、と思ったのは同じだ」
しかしこれから気づかれない程度には食事は減らそうと心中画策しつつ、
「それで、これからどうするんだ。もう打つ手はないのか?」
「いや、まだ次の策はあるわ。本来は最初のそれと同時に進めたかったのだけどね……」
紫は扇を取り出すと、ひらひらと自分を扇ぎながら、
「仕方ないわ。もうこれに全てを賭けましょう 。今のところ、その次は思いつかない」
諦めたような口調。妖忌は真面目な顔になってそれに向き合い、
「どういう策だ」
「これも至極簡単なことよ、運動させるの」
紫も見つめ返して、
「食べた分だけ体を動かせば、収支はゼロ。場合によっては、負へ向かわせることもできるでしょう」
しかし、妖忌は眉を顰める。
「それはまあ、何とも当然のことだな。しかし、大丈夫か? お嬢様が体をそこまで激しく動かすことを了承して、実行するかどうか……」
紫もしばし考えこむように目を伏せて、それから片方だけ開いて妖忌を見ながら、
「まあ、大丈夫にするしかないでしょう。特に、お前の手腕にかかっている方法でいくことにするから」
珍しく面食らったような表情で、妖忌は確かめるように己を指さした。
5
次は昼下がりの庭園にて。
「では、ここまでで何か質問のある者は?」
「はーい」
幽々子が元気よく手を上げる。
「何でしょう、お嬢様? 何かわかりにくかったでしょうか……」
常の気難しそうな顔で、妖忌が少しだけ声に心配の色を混ぜて訊ね返す。その先には、
「ええ、その、ごめんなさいね……ぶっちゃけ、何かもかもわからないわ」
心底混乱した表情の幽々子と、その隣に紫、さらに隣に藍が立っていた。
三人は三人とも袖を襷で捲りあげ、動きやすいようにして、手には木剣を握っている。
「そもそも、何でこんなことになってるの? いきなり、剣術指南だなんて……それも、紫と藍まで巻き込んで」
幽々子が困惑した顔で見据える先の妖忌も袖を括り、木剣を握って、まるで師範然とした態度で三人と相対していた。
「……」
アドリブでいい答えが浮かばず、思わず妖忌は黙り込んで空を見上げる。
そう、先ほど幽々子の口から出てきた『剣術指南』という言葉。それこそ、紫の巡らす第二の策であった。
見上げたまま、思い返す。
●
「剣術指南?」
「そう、剣術指南」
向かい合う紫は、なんとも真面目な表情で頷いた。
「体を激しく動かせて、お前の唯一無二の業で、お前に監督出来て、これから毎日続けさせるとしても不自然じゃない」
未だ目を丸くしたままの妖忌に、教え込むように、
「これほど理に適った運動もないわ、させる理由は何とでもでっち上げられるし」
しかし、妖忌はその説明を受けて尚、複雑な顔をする。
「だがな、女子のやるものではないぞ……やれるものでもないと思うが」
「やるもので、やれる程度にするのがお前の仕事でしょうが。この際、女子としての嗜みだとか、領分だとか、一切、一切よ、無視しましょう」
いまだ紫も複雑な思いを残しつつも、とりあえずは心を決めて、
「幽々子自身が、これを続けることで剣の腕が身について、更にはそれが洗練されてしまったとしても……まあ、それはそれで悪いことじゃない……今よりは、ね」
●
「まあまあ、まあまあ」
とりあえず天を仰いで固まってしまった妖忌をフォローするように、紫が幽々子の肩を抱いて後ろを向かせる。
「私も藍も、一度高名な魂魄先生に、剣術のご指導を受けたいと思っていたのよ。ね、それに幽々子も付き合ってくれると嬉しいのだけど」
「そ、そうなの? なら、別にいいけれど……」
顔を寄せて、ひそひそと話す二人。
「でも、こんなこと、私達みたいな女性がやるもので、やっていいものなのかしら……?」
「いいのよー……実は、妖忌が毎日毎日、休まず馬鹿みたいにこれを振り続けて、己の体を苛め続けているのはね、別にそういう趣味じゃなくて……」
会話は聞こえていないが何か第六感のようなもので不穏な気配を感じ取った妖忌が訝しげな目を二人に向ける。紫は背中に感じるそんな視線を意図的に無視しながら、
「それが楽しいことだからなのよ」
「ええっ!? そ、そうだったの!?」
「そうだったのよ。一般的に楽しいということよ、妖忌個人だけが楽しんでいるわけではないことを覚えておいてね」
「じゃ、じゃあ、紫も今までのは楽しかったのね?」
「とりあえずは」
すでに事ここに至るまでに、妖忌師範代による基本的な剣の持ち方から、振り方、型や足運びなどの説明と実践を終えていた。
ぶっちゃけて言うなら、紫と藍はすでに知識として知っていることなので、これっぽっちも楽しくなどなかったのだが。
「幽々子はどうだった? 楽しくて、続けたいなぁと思ったりした?」
「全然。地味で退屈で、疲れるし、面倒くさいし ずっと、何でこんなことさせられてるんだろうって考えながらやってたわ」
ばっさりと、きっぱりとそう言い放つ幽々子。正直な話、この指導に間接的な関わりしかない紫の心にすら結構ぐさりときた。
……こんなこと妖忌に聞かせたら自刃しかねない……。
紫は聞こえていないだろうなと少し後ろを気にする。
「わ、私ってば、どこか感性がおかしいのかしら……?」
と、おろおろと、幽々子が心配そうにそう問うてきた。心配いらない、あなたの感性は十分すぎるほどに一般的よ。思いながら紫は幽々子を宥めるように、
「大丈夫よ、大丈夫。まだまだ最初だからそう感じるだけで、徐々に気持ち良くなってくるわ」
「え、ええ? 気持ちいいの……!?」
混乱しきった顔で目を回す幽々子。それを紫は、大丈夫大丈夫と気づかれない程度に腰を撫でまわしながら、幽々子と一緒に元の正面に向き直る。
訝しげな目で自分達を見つめる、師範と式の視線を手ではらいながら、
「そうね、提案なんだけど、とりあえず休憩挟んで、次は軽く試合でもしましょうか?」
●
「どういうことだ? いきなりお前と試合だとか、勝手に……」
縁側に座って嬉しそうにお茶を飲んでいる幽々子と藍から少し遠ざかって、声をひそめて話し合う二人。
「……今みたいな感じじゃ、幽々子があんまり楽しくなさそうだと思ったからよ」
少々、手心を加えた事実を告げて、
「まあ、やっててあまり面白みのないことだというのはわかるがな、こういうのは基礎が大事で……」
「ええい、そりゃわからないでもないけどね、今重要なのはそこじゃないの!」
困った顔をする妖忌を、紫はきっと睨み上げ、
「要は、幽々子がこれを楽しいと思って、続けたいと思うかどうかなのよ! 大事なのはそこ!」
「う、うむ……」
「嫌々やらせるのは嫌なんでしょう? だったら、私の言う通りにしなさい。私だって、そう思っているのは確かなんだから」
紫の気迫に圧され、妖忌もとりあえず納得する。気合いを入れ直すように頷いて、
「……ああ、わかった。 それで何で試合になるのかは今一つよくわからんが……」
「とりあえずは、派手で楽しそうなところから見せて、やらせてみればいいんじゃないかと思ってね」
紫は木剣を持ち上げると、それで自分の肩を軽く叩きながら、
「人がこれを続けようと思う一番の理由は、とりあえず、強くなりたいからでしょう? だったら、お前と私の試合を見せて、幽々子の中のそういう気持ちを刺激出来れば……」
「……ふむ、なるほど。一理ある」
「そして、なるべく楽しそうに、ね。すごい、かっこよさそう、楽しそう、そう思わせることを心がけて」
しかしこの時、つらつらとそれらしき説得力に溢れた紫の弁論に流されていた妖忌は気づかなかった。
「正々堂々、殺り合おうじゃないの」
紫の歪んだ笑みが、またいつもの、災いを運びこむ胡散臭さを纏っていることに。
6
縁側を妖忌は左に、紫は右に見ながら、二人は距離を持って向かい合う。
「では、これより我が主、八雲 紫様と、白玉楼庭師、魂魄 妖忌殿の試合を執り行いたいと思います」
二人の丁度真ん中あたり、身体の交差する線から縁側方向に少し離れた藍が普段の声量より少しだけ声を張り上げる。
「双方、礼」
藍の隣には、少しばかり上気したような顔、静かな興奮に光らせる目で、礼をする二人を見る幽々子。
「妖忌ー、紫ー、どっちも頑張ってー!」
太刀の大きさを持つ木剣を構え、腰に脇差のようなもう一本を差した妖忌は、静かに黙ったまま。
対して木剣一本のみをだらんと構えもせずに持ったまま、微笑みながら応援に軽く手を振って応援に応える紫。
「では」
対照的な二人の体勢、藍の真面目な声が響く中、
「始め!」
その声と同時に、紫の体が一瞬揺らめいたように幽々子に映ると、はてなと思う思考も浮かばぬ内に、それがその場から消え去っていた。
●
見えていたのは藍と、
(縮地っ!?)
目視と同時に藍が思う中、激しく木の打ち合う音が響き、
「――ッ!!」
「流石に止められる、わね」
現れた姿は、妖忌の背後、中腰で振り向くような姿勢で右に持った木剣を妖忌の胴に叩きつけている紫。
そして半身捻ってそれを追い、瞬時に左手で、腰に差していた脇差の木剣にてそれを防いでいる妖忌。
幽々子の目に再び映ったのはそこからで、一方藍の目にはその以前から一部始終が映っており、
「こ、こんなところで……」
呆然と呟く。見えた光景は、互いの地面を縮めたとでも錯覚するような速さで紫が走り、妖忌の背後に回り込んで神速の攻撃を叩きこむ姿。
「ぐうっ!」
そのまま数秒ほどが過ぎて、止まっていた動作は再開された。妖忌は受け止めた木脇差に力を込めて、紫の木剣を弾き、逸らす。
同時に二人は後ろに跳び、距離を取った。
「どういうつもりだ……!」
再び妖忌は構え直し、睨みつける。
「どういうつもりもなにも……ねえ?」
問われた方は、困ったような顔をして笑いながら、
「ただの試合よ、試合。でも、負けた方は、幽々子にどう思われちゃうのかしら?」
そう言って動かした視線の先、藍が幽々子を引っ張る様にしながら後ろへ下がろうとしている。
「幽々子様、危険です! 離れましょう!」
「え、ええ!? なに、なにが起こってるの?」
それを見て、優秀な式の仕事に安心しながら、また妖忌に向き直り、
「みっともない? かっこわるい? 勝った方はどうかしら? すごい? かっこいい? 少なくとも、私は」
こちらを睨んだままの妖忌の視線の温度が上げていくような感覚を覚えながら、紫は好戦的な笑みをこぼす。
「負ける方はごめんだわね。そっちはお前が、担当しなさいよ。なるべく私が映えるように、ね」
「貴様、最初から、そのつもりで……!?」
視線のその熱量は、怒りへと達する。妖忌は、地が震えるような静かな怒声を響かせた。
「まあ、それが嫌だって、本気で来られたところで、私が負けるはずもなし」
それに対して尚も笑いながら、ぶらんと下げていただけの木剣を初めて紫が片手で担ぐように構える。
「来なさいよ、小僧。お前が、何年だったかしら、一世紀の五倍くらい? 辛気臭く練り上げてきたその剣の腕」
ぎろりと、紫のその瞳が妖しく光り、妖忌は反射的に身を固くする。
「今日ここで、二度と立ち上がれないくらいにへし折ってやるわ……あの時みたいに!」
叫び、またも紫の姿がぶれるように揺れて、かき消える。
●
「一体何がどうなってるの!?」
二人からずいぶん離れたところまで来て、ようやく藍と幽々子は観戦の体勢に戻った。
視界の先、幽々子の眼には常にあまり動かない妖忌一人の姿しか映らず、突如音が響いたかと思うと、攻撃を受け止められている紫の姿が一瞬見えるくらいである。
「むぅ……あれは、幻想剣術!」
そして藍がその光景を見ながら呻くように呟いた。その目には、ぎりぎりで二人の一挙手一投足が見えてはいるが、それでも油断すれば見失いそうな程だった。
「知っているの、藍!?」
その言葉に幽々子が驚いて、藍の方を振り向く。
「ええ、一般的にあり得ないとされるような架空の剣の技術を、境界を弄って取り出して使ってるんです、あれは」
「……取り出す?」
「ええ、まあ、端的に言えばどこかの幻想を取り出すんです。そうとしか形容出来ませんで……だから幻想剣術」
「ふむふむ……」
幽々子は何となくもやもやとした想像をしながらとりあえず頷いた。その曖昧な声に、藍はもう少し状況を噛み砕くことにして、
「つまり、紫様は本気ということです」
「そうなの、紫は本気なのね……それって大丈夫なの?」
きょとんとした顔の幽々子と、藍は顔を見合せる。
「……まあ、大丈夫じゃないですかね」
そして、さっきより少しだけ気の抜けた声になってそう答えた。何せそう言いながらも、目の前の我が主と相対している庭師の方の主は、実際毛ほどの心配もしていないような顔なのだから。
●
……この出鱈目さ!
「くっ!」
なんせ担ぐように振りかぶった木剣が、その隙をつけないほどの速度で振られた。と思うと、その斬撃が、紙一重の距離でさらに三寸ほど伸び、
「うおっ!?」
妖忌は何とか首を捻って避ける。その目が捕えた紫の手元では、高速で柄尻まで持ち手を滑らせるようにして先の攻撃が行われていた。
……なんという……。
その技に呆れる間もなく、相手の振りきった上半身、二の撃が出せないところへ攻撃を加えんと妖忌は突っ込むも、
「甘くってよ!」
紫が叫び、あり得ないような体勢で振り抜いた刃を強引に返し戻した。慌てて突っ込んだ方は左から、己のそれより先に当たるであろう刃に二刀をかざす。
打音、響き。大木剣のみでそれをそこに止めて、妖忌はそのまま即座に紫に脇差を突き出す。
しかし、それは残った影にだけ突き刺さった。紫はすでに己の木剣を回転軸に跳び上がっている。
その途中、逆さまの紫の視線と、地に足をつけた妖忌の視線が一瞬の交錯。
そして着地、と、同時、紫の体はまた揺らいで、瞬きの間で距離を取った。
しかし、間合いを取った紫の姿がどこにも見えない。妖忌はそれを探そうともせずに、即座に己の半身だけ背後、下へ刃を向けた。
そして受ける。またも鍔迫り、横薙ぎの紫と、それに対して垂直で受ける妖忌。
「速度じゃとれない? どういう反射で捉えてるのかしら……」
「音、予測、それと、駄々漏れの殺気で、嫌でもわかるぞ!!」
ギリギリと剣と剣で押し合いながら、一瞬の言葉を交わし、
「あらら、なら攻め方、変えようかし、ら!」
紫は言って瞬時に、押し付け合う刃の角度を変える。
「っ!?」
妖忌のそれが、紫の刃の上を滑った。崩れる妖忌の体勢と、視界の先、紫の木剣が相手の剣を滑らせるその摩擦で燃え上がる。
●
「うっそ!? 何あれ!?」
遠くで主の叫びが聞こえる中、妖忌はほとんど身を倒すようにして、己の眼前に迫った文字通り燃え盛る刃を避けた。
そして、身体を倒した勢いのまま地に手を突き、転がる様にして紫の側面に回り込むと、中腰に起きてそちらを睨む。
「おほほ、どうかしらこれ」
その先、燃え盛る木の刀身を見せびらかすように構える紫。
……馬鹿だ、こいつ。
妖忌は割と冷静にそう思った。そして、
「なんちゃって」
紫が払うようにそれを振ると、その炎は一瞬で刃の上から消え去っていた。後には空気に散った炎の残滓が、妖忌の視界を焼くように舞う。
「っ!」
「それ!」
その目くらましと共に、紫が突っ込んできた。妖忌は受けの姿勢。そこへ走る、だらんと下げられた紫の木剣は振られる勢いで地を擦り、
「またか!」
また燃え上がった。下段から上ってくる炎の刃に、妖忌は打ち合わずに後ろに飛んで避ける。
謎の物体Xと化した紫の木剣はともかく、妖忌のそれはその炎が燃え移りでもしたら一発アウトなのだ。
(とりあえず距離を……!)
あんな頭を抱えたくなるような馬鹿みたいな攻撃をされる限り、妖忌がまともに打ち合うのは難しい。
距離を置いて対策を練る。その目的でさらにとんとんと、跳んで下がる妖忌へ、
「私の前じゃね、そんなみみっちい間合い取りなんぞ無意味よ!」
炎を払った紫の剣が、大上段に振りかぶられる。
……またあの移動法か!?
身構える妖忌。しかし、思うにあの速度、そして炎で来られても、読める以上は打ち合わずに避けるのは容易い。
そう考える視線の先、
「どっせい!」
しかしその場で動かずに紫が剣を振り下ろすと同時、真っ直ぐ妖忌に対して振った剣の軌道から光の奔流が向ってきた。
「なぁっ!?」
流石にこれには妖忌も間抜けな叫び声をあげた。声を残して、素早く地に伏せる。その上を肌を焼くような熱量が通り過ぎていく。
「ど、どこが剣術だ!!」
攻撃のほとぼりが冷めた辺りで膝をついたまま起き上がりながら、悲鳴じみた抗議を紫へ――する間に二発目がきた。
「――ッ!?」
転がる様に横に避ける。
「あらぁ、どっかの天界ではこれがスタンダードでございまして、よぉ!」
そう微笑みながら紫。それから振りかぶり、狙いを定め、払う。一発、二発、三発。
「うおおお!?」
叫び、とにかく走りだす妖忌。その一瞬後ろを何回も熱線が通り抜けていく。
「おほほほ! ブッ散れ!」
笑う紫、避ける妖忌。勝負は最早何処か取り返しのつかない何かを踏み外したような様相を呈してきていた。
●
……なんだ!
走りながら妖忌は思う。
……なんだ、これは!
逃げ惑う自分の後ろを通り過ぎていく光の帯。
……これが!こんなものが!
そして、ジリジリと背面を焦がすような熱。
走りながらも、攻撃の方へ首を向けて紫を見る。笑っている、笑っていやがる、あの女。
(あの、女が……!)
あの女が。
あの、妖怪が。
一体これまで。
(何回、真面目に剣を振ってきた!?)
百か!? 千か!?
畜生、こっちは。
「はっ、お前の言う通りだ……あぁっ、こっちは……」
正確なところは覚えてはいないが、ざっと五百年ほどだ。
……五百年、毎日、振ってきたんだ!!
足を止め、体をそちらへ向かせる。
そして構える、身体と覚悟と。それから寸分違わず、次の瞬間にはこちらへ奔ってくる光の線へ、
「剣術を、ナメるなぁぁ!!」
叫び、全気力をもっての一閃が走った。
●
紫の目にも、
「うそ!?」
藍の目にも、幽々子の目にも、
「えええ!?」
それは確かな現実として映っていた。妖忌の振るう刃の先、光の洪水が見事に一閃で断ち切られ、左右に割れて進み、
「おおおお!!」
次の瞬間、威力の拡散し始めたその真ん中を妖忌が雄叫びをあげながら走り抜ける。
「ちぃっ!」
不意をつかれた紫がペテンを用意する間もなく構えさせられ、
「――っ!」
二人の剣が打ち合いの音を響かせる。
一合。
「しぃっ!」
二合。
「こっ、のっ!」
三合。四合。五合。六合――――
その場にて互いに立ち止まり、数え切れない数を、捉えきれない速度で打ち合う二人。
展開はすでに佳境、決着は、
「ああ、もう、しつこいっ!」
一際高く苛立たしげにそう叫ぶと、紫は妖忌の剣をいなし、また揺らぎと共に後ろへ一気に距離を取る。
「いい加減、押し潰してやるわ!」
そう言って、やおら剣を逆手に持ちかえると、その場で妖忌へ向けて剣を、斜め下から切り上げるように振った。
「また飛び道具か!?」
飛んできたそれを避ける妖忌。その真横、今度は派手さもなく飛んできたそれは、逃げ遅れた妖忌の袴の裾を鋭利に切り飛ばす。
(斬撃まで飛ばすのか!?)
驚き、一瞬固まる妖忌の眼前、
「どんぴしゃ!」
また同じように紫が振り降ろし、避けられない間で飛ぶ斬撃が迫る。
「その程度、避けずとも叩き落とせる!」
しかし、妖忌は怯まずに迎え撃つ構えを見せる。普通の攻撃と威力の変わらぬものを飛ばされたところで、何するものか。
そう考え、
(なら、何故こんな攻撃を……)
ふいにその脳裏をそんな疑問が掠めていく中、遠い間合い先にある紫の姿がまた揺らぎ、
「!?」
次の瞬間、己の眼前に迫る斬撃に追いつくと、ぴたりとその後ろにつけて剣を振り上げていた。
「今度こそ、終わりよ」
静かに紫が呟く。飛び道具と近接の同時二段攻撃。二つの斬撃の交差点の威力は通常の、
……何倍くらいだったかしら……?
ええい、考えてる場合じゃない。ど忘れした答えを取り合えず投げ捨てると、紫は刃を振り抜いた。とにかくこれこそが相手の意表をつき、同時に受け止めようのない、紫の奥の手であった。しかし、
「やらせるかぁぁ!!」
妖忌にも意地があった。最早、断じて、目の前の胡散臭さと人を馬鹿にした精神の塊みたいな存在に負けるわけにはいかなかった。
構え、交差するその二つの斬撃を妖忌は受け止める。
瞬間、木剣にあるまじき金属音のようなものが響いた。
●
その威力で、地に跡をつけながら一歩ほどの距離を後ろに押された妖忌だが、
「ぐぅ……っ!!」
「なんっ!?」
しかし、紫の斜め上から叩きつけるようなその剣を、見事に二刀で挟むように受け止めていた。
「がぁっ!!」
紫の驚愕と共に一瞬止まっていたその光景は、吼えるような声と共に再度動き出す。妖忌が木剣をそのまま跳ね上げ、
「ゆ、紫様のあれを受け止めるとは……しかし!」
「ああっ!」
観戦者二人のその呟きと視線の先、その猛攻を耐えきった妖忌の代償がそこにあった。
「はっ、そんな剣で、どうしようってのよ!」
そう、押し戻され、体勢を崩しながらも叫ぶ紫の指摘するそれは、受け止め、その剣を跳ね上げることを最後の仕事として、
「――!!」
弾けるように、二刀ともその半ばほどで砕け、折れていた。
しかし、妖忌はその二つを見切りをつけたように投げ捨てると、後ろに跳ばされ、いまだ反応の間に合わない紫の剣を持った手元を、
「――っ!?」
思いっきり蹴り上げた。不意の攻撃に、ダメージはないものの紫は剣を取り落とし、その妖忌の足で明後日の方向へと弾き飛ばされる。
「行儀の悪い!」
「どっちがだ!」
着地し、体勢を立て直す紫。追いすがる妖忌。
得物のなくなった二人の勝負は、
「ええ!? これで終わりなんじゃないの!?」
幽々子がそう叫ぶ中、藍はため息をついて顔を覆う。
「まだまだぁ!」
「応ッ!」
その勝負は、見事な拳と拳の互いの顔面への相打ちを皮切りに、本来の目的を忘却の彼方へ放り投げながら第二ラウンドへと突入した。
●
白玉楼が朱に染まる頃。
「ふぁ……あーあ……」
藍と幽々子が欠伸を噛み殺し、ぼんやり眺めるその先。
「ぜぇ、ぜぇっ……うあぁ」
「はぁっ、はぁ……うおぉ」
殴り合い、元の人相がわからなくなるほどに腫れ上がった二人の顔、切れ切れの呼吸。
しかし、ここまできても、己の何かに賭けて二人はまったく譲らない。
ぺちん、ぱちん、と、もはや腰の入らない殴り合いを繰り返し、繰り返し、
「あああ!」
「おおお!」
最後の力、精一杯の叫び声と共に、二人の拳は、
「――っ」
どぐしゃぁ、と、またもお互いの頬を、腕を交差させるように打ち抜いた。
「……!!」
そのまま言葉なく、ずりずりと互いの拳に顔を擦りつけるように、力も抜け果てたといった様子で同時に二人は倒れる。
仰向けになり、息切れと、途切れ途切れの言葉で、
「はぁっ……はぁっ……やるじゃないの……!」
「ぜえっ……ぜぃ……お、お前こそ……!」
そう言うと、ふいに笑いがこみ上げてきて、抑えられなくなった。赤く染まる空に、二人は吼えるように笑いだす。
「ふふ……あはははは!!」
「はっ……ははははは!!」
と、そんな二人の視界へ、
「あい、決着ついたところで、すみませんが」
覗き込むようにして藍が現れた。肩を叩いたり回したりして解しながら、疲れた様子で、
「お二人とも、本来の目的はよろしいので?」
……わ……
(忘れてた!!)
血相変えて素早く上半身だけ起き上がって捻り、二人は幽々子の方を見る。
視線の先の少女は、退屈そうに欠伸をしていた。
「ゆ……ゆゆこー」
そこへ、取り合えず紫が精一杯の猫なで声で尋ねかける。
「あ、ようやく終わったのね。もー、お腹空いちゃった」
その言葉に幽々子は微笑みながらそう答えた。よかった、怒ってはいないようだが……しかし、さらに確認しなければならないことがある。
「ええ、ええ、早く夕餉にしましょうね。その前に……」
そう答えて、さらに一応、といった感じで、恐る恐る紫は、
「今日の剣術指南と、私達の試合、どうだった? 楽しそう、やってみたい、とか……」
その問いかけに、幽々子は少し困ったような笑顔に変わる。
「う、うーん、えっとね、二人の試合はすごいと思ったし、楽しそうだったけど……」
それから、きっぱりと、
「でも、私には無理だわ……やれるとは思わないし、あんまりやろうとも思わないかも」
てへ、と、舌を見せる幽々子。その姿を見ながら二人は穏やかな顔で、
(やり過ぎた――)
また元の仰向けにごろんと戻ると、同時に意識を手放した。
7
「と、まあ、そういうお話だったのさ……ってね、あら?」
語り終えて、紫が茶を一口啜って正面を見やる。そこには、白に近い銀の髪を首筋で切り揃えた、どこかで見たような精悍さを纏った少女。
魂魄 妖夢が苦渋に満ちたといった風な、複雑な表情でこちらを見ていた。
「なによ、その顔」
紫は少し不機嫌な風を装いながら、
「あなたが話して欲しいって迫ってきたんでしょ。 妖忌も話していかなかった、「白玉楼庭師に何で剣術指南役の肩書までついているのか?」って理由」
「――いえ……いえ、すみません。 ありがとうございました……!」
それを見ると、妖夢は慌てて押し止めるように片手を前に出し、頭を下げる。
「まあ、所々脚色はあるけれど、概ねこんなところよ。これが原因にして、始まり」
「ええ、ええ、よくわかりましたとも。本っ当に……」
眼前、妖しく笑うその女を見て、妖夢は静かに祖父にして師匠の往時の苦労を思う。
……そりゃあ、何も話さずに出て行ったわけだ……
しみじみ頷きながら、妖夢はまた紫へ向き直り、
「それで、その後どうなったんですか?」
「何が?」
「昔の幽々子様ですよ」
ああ、と、紫は思い出すように笑いながら、
「まあ、その後も色々と、妖忌が食事を改良したり、制限したり。時には心を鬼にして、剣を振らせたりして……」
脳裏に思い描く、今でもあの頃から移り変わらぬ幽々子の姿。
「それで、まあ、問題なく今がありますわ。そして、あなたに託された」
そう言って、こちらを見つめる紫の視線。それが妖夢には妙に気恥かしく感じられて、
「精進致します……」
少し温度を上げた頬を悟られぬようにまた頭を下げた。そうしながら、思う。
……とりあえず、自分も太……ふっくらさせすぎないように気をつけよう……
剣の練習をさぼらせないようにしよう。おかわりは五回までにしよう。
そんな風に目をつぶって考え込む、苦悩の表情の妖夢。
そのいつもの顔が、本当に、あまりにそっくりなものだから、
「ねえ、妖夢」
「はい?」
「あなた、喧嘩友達はいるかしら?」
そう問いかけられて、きょとんとする少女は、色々とここへ問題を持ち込んだり、外で騒ぎを起こしたりする輩達を思い出しながら、
「ええ、それはまあ、おかげさまで、腐るほど」
「そう」
その答えに、女は微笑んで、
「大事にしなさいな。ある日突然、何も言わずにいなくなっちゃうこともあるんだから」
そう、ぽつりと溢す紫の顔が、なんだか何かを懐かしむような寂しさを纏っているように見えて、
……この人も、こんな顔をするのだなぁ……
と、失礼とはわかりつつ、妖夢は静かにそう思った。
●
本日二度目の藍からの手当てを受けながら、紫は顔を顰め、
「でもね、こればっかりは、本当の本当に」
いつもの気難しそうな表情で、耐えるように震える拳を握り締める妖忌の傷を、酒を含ませた布で消毒するように幽々子が拭きながら、
「楽しそうだって、思ったのよ? ね、喧嘩してる最中の二人とも、とっても楽しそうだったわ」
そう言って、本当に嬉しそうに笑いかける。
その笑顔の先で、どちらも互いに顔を背けたままうんざりした顔で溜息をつくと、仕方なさそうに少しだけ笑った。
以前抱っこしてからの短期間で超急増?
ゆゆさま、かわいさは罪ですww
殺る気満々な二人が若々しくて新鮮でニヤニヤしっぱなし。
楽しそうだなぁこのコンビw
妖忌と紫が争うのも納得できる(笑)。
熱い二人とかわいいゆゆさまがいいね
ロディーさんのゆゆ様が可愛すぎて生きてるのが辛いw
二人の争いも見てて最高でしたwテンポも良いねw
軽快なタッチで描かれる、幽々子をめぐる紫と妖忌の熱いお遊び(たたかい)。
ゆゆさまの可愛らしさを愛でる二人があまりにも真剣でシュールでした。
妖忌のダンディーさと紫のエロさも、最初っから最後まで魅力的。
……しかしッ……「あーん」するゆゆさまは本当に反則的な可愛らしさですねッ!!